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図 2-1「幼稚園 20 遊嬉」(明治 12 年ごろ) 図 2-2「恩物机」
第 2 章
幼児造形におけるずれの修正過程としての歴史的変遷
~明治期から平成期まで~
第2章では、幼児教育が行われ始めた明治期から大正期、昭和期(戦前・戦後)、平成期 に区分し、保育者と子どもの意識のずれに着目しながらこれまでの幼児の造形活動を概観 することにする。
明治34年に創刊された『幼児の教育』誌に掲載された造形活動の記事を研究対象として 取り上げる。この雑誌は、明治期から大正、昭和、平成と継続的に発刊されてきており、
我が国の幼児教育に大きな影響を与えたとされる研究者の論文や実践報告が掲載されてい る。この記事から、それぞれの時代に行われていた造形活動の実践を抽出することによっ て造形活動における保育者と子どもの意識のずれの様相がどのように変化していったのか について検討する。
第1節 明治期における保育者と子どもの意識のずれ
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『婦人と子ども』第1巻第1号が発行されたのは、明治34年1月であるが、当時は恩物中 心の保育活動が行われていた。恩物による保育方法については次のように述べられている。
幼稚園の草創期にあっては、小学校式の一斉保育が少なくなかった。恩物を使う机 は碁盤のように縦横に線が引かれており、幼児はこの線に合わせて積木のような恩物 を使って保姆から指示されたいろいろな製作を行った。このような線の引かれた机を
「恩物机」と呼んだ1)。
図2-1、2-2は、恩物が行われていた時の様子である。保育者の指導が行き届くような机
の配置になっており保育者が指示した内容を子どもたちがその通りに行うといった教師主 導による保育が行われていたと推測される。
しかし、『婦人と子ども』第1巻第1号が発行される頃は恩物を見直すべきだという風潮 が高まっていたと考えられる。『幼稚園百年史』には、恩物について次のように書かれてあ る。
これらのもの(恩物)を子どもに持たせて、色々作らせるのでありますが、積木など でも机の上の寸法と同じきっちりしたものを用いさせ、それを例の漆の線に幾何的に 組み立てる。又美麗式といって六色の艶紙の丸、四角三角の大中小のものを同じ寸法 の台紙に張って均斎の取れた美しいものを作り上げます。これらの作業は先生が一二 三・・・・・の号令をかけさせますので、子ども自身が独創的に、自由にという態度 にはなれないわけです。従って子どもたちは、お仕事が非常に楽しみではあるのです が、何か窮屈に感じるらしいのでした。今から考えますと、右、左もわからぬ子ども に無理な様に思われます2)。
後に恩物は明治32年に制定された「幼稚園保育及設備規程」で保育項目の中の手技の一 部として扱われるようになった。その原因としては、大きく分けて2点考えられる。
一つ目は恩物が決められた形にそって進めていくもので子どもにとって楽しいものでは ないという点である。この点については東基吉も『婦人と子ども』掲載の「幼児教育法に
43 つきて」の中で次のように述べている。
恩物はつまりこうなって居るでしやう、
一、積木を以て、吾々の観念を實體的に発表すること、即物を其形の儘に顕はすこ と。
二、板を以て、物を平たく上から見た所として平面上に画的に顕はすこと(彩色畫、
紙細工の一部も此中に含む。)
三、箸を以て、物体を、其輪割だけ即平面上に線的に顕はすこと(線書糸細工も此 中に含む。)
四、キシャゴ小石等を其輪割だけ即平面上に點的に顕はすこと。
大體恩物はそ云ふ具合に出来て居るのである、恩物を子どもに使用さすのには常 に此形式に従って居る。併しながら私はこれは断然宜しくないと考へる。吾々の観 念を発表する形式は前程の四でありましやう、さればと申して其材料を厳密に此四 の形式にあてはめて其使用を限いて仕舞ふというのは甚だ無理ではありませぬか。
即板は面的発表の材料であるからと云つてどうしても平面上に丼べさせねばならぬ 箸も環もキシャゴも皆其通り排べさせねばならぬ、之を立てたり、立てて種々積木 や何かと一所に交ぜて用いるのはいけないと云つて之を非常にやかましく制限する と申すことは甚だ判らぬ次第であります3)。
このように、恩物を用いて一斉に行われる教師主導の保育の形が子どもの意識にはそぐ わないのではないかと批判されはじめた。つまり、教師と子どもの意識のずれが意識され 始めた時期であると考えられる
二つ目は、恩物を扱う保育者が恩物を単なる手技としてしか考えなかった点にある。こ の点においては『保育の栞』の中で豊田芙雄が次のように述べている。
フレーベルの原則つまり二十恩物を完全に使いこなすのは美的かつよいことであ りますが、逆に、これらを使う人が生きたものとして活用していないために、往々
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にして難しいことが少なからずでてまいります4)。
『保育の栞』は、「昭和3年(一九二八)8月、倉橋惣三が水戸の豊田芙雄を訪問し、幼 稚園草創期の話を聞き、種々の資料を受けた際に、豊田芙雄が『當時少しばかり書き置き たるものあればいづれ浄書してお目にかけん』ということで、後日、豊田から倉橋に送付 された文書である」5)。この文書からは、豊田芙雄が恩物についての問題をあらかじめ予想 していたと読み取ることができる。つまり、恩物というのは内容が深く、容易には習得で きないものであったため、フレーベルの恩物を正しく理解しないまま保育の現場で扱われ てしまったと考えられる。草創期の幼児教育は、豊田を中心にフレーベル主義の保育を一 日でも早く理解し、定着させようと努力していたと考えられるが、フレーベル主義の保育 から日本独自の保育方法を確立していく道は始まったばかりで様々な苦難があったと推測 できる。当時の記述には、「実際に地方で幼稚園をつくった場合、恩物を使おうとすればわ からないことが多かった」6)とあるように、当時はフレーベル主義の方法を知ることが精一 杯であった様子が伺える。しかし、恩物の方法を学びそれを子どもたちにさせる保育には 保育者と子どもとの間に大きなずれが生じていたと考えられる。
このような恩物のあり方を見直そうとする中、最初に行われた実践が松村ひさの「箸と 板」の実践である。この実践が恩物解体の第一号であり、保育者と子どもとの間にずれが 生じているのではないかと気付き始めた時期であったともいえる。松村ひさの「箸と板」
の実践は次のようである。
私は、或時、私が世話をして居る幼児等に、恩物中の正方形の板一枚と、三寸の箸一 本とを、與へまして、これであそべ、といひつけました。そうすると、幼児等は左にある やうな、いろいろなものをこしらへて、これにさまざまな名をつけて、よろこんで居りま した7)。
この実践は、正方形の板一枚と三寸の箸一本を使って何ができるかというものである。
図2-3、2-4のように子どもたちは汽車、三味線、風船、傘、水道のネジなどを発想してい
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る。この実践は、「○○をしなさい」と指示されたことを決められた順番でその通りに作る といったものではなく、あるものとあるものを使って自
由に発想する、出来上がった作品に一人ずつ名前を付け たり、また今度は板を二枚にして立体にさせたりと、平 面から立体へと展開させていく。このような点が、それ までになかった画期的な実践であったといえる。
この実践の他にも変化がみられる。清水田鶴の「たたみ方」の実践である。図2-5は、子 どもに一枚の正方形の紙を与えて何ができるかを考えさせたも
のである。この実践は、折り方を教えるのではなく、折ることに よって紙がどのように変化していくのか折り方を工夫すること を目的としている。また、出来上がった作品に名前を付ける所も たたみ方にこだわらず、子どもたちが折り方を工夫した点を評価 するといった考えが伺える。この一枚の紙を工夫して折ることで 様々な形ができるといった経験を子どもたちにさせてから、室内
手遊「たたみ方」を展開していった点は、それまでにない新しい試みといえよう。
「箸と板」の実践に続いて松村ひさは『婦人と子ども』第五巻第三号「幼稚園の遊戯」
では、恩物と談話の領域を関連させ横断的に捉えることの重要性を 指摘している。その後『婦人と子ども』第六巻二号では和田實が「談 話と手技の結合」で図2-6、図2-7の実践を紹介している。これは、
お話に沿って積木を積んでいくというものである。
一、此家はメリーとトムの家です、二人は仲の良い、はき はきしたすなほなよい子であります、今夜は大晦日だか らいい子には福の神があしたいいお年玉をくれますよ。
茲に寝床が二つあります。是方がトム、是方メリーですよ。
図 2-5「たたみ方」
図 2-3「箸と板」
図 2-4「箸と板」
46 二、 それから二人のお父さんも、お母さ
んもあしたの支度が出来たので、寝 様と思って床に入りました。
三、 すると、窓の方にけたたましい音が しました、お父さんは何だろうと思 つて飛び起きて窓の所へ行きました、
是が窓でせう?。
四、 お父さんは窓をはねあげて、外を見 ましたら、一つの馬車に大勢、人が 乗って驅けて行きました、さー何が
乗つて居たでせう?是が馬車に是が馬ですよ、二匹居るでせう。
五、此の馬車に七福神が乗って居ましたよ、そして大きい聲で「オイ、今度は太 郎ダヨ、」「ソレカラ向フノ家ノ三郎サ」「其次ハ此處ノトムとメリーだ」ナン テ云ッて馬車は驅けて行きました、父さんは「何の事だ」と「云ひながら寝 てしまいました。あしたの朝早く起きましたらトムの枕の元に大きな凧、メ リーの枕元にはきれいな羽子板が「お年玉となつてありましたので二人は大 層喜びました。是が羽子板で是が奴だこですよ。」8)
この実践には、積木を家や人に見立て想像して楽しむといった要素が組み込まれている。
この頃から「想像すること」を重視し始めたといえる。『婦人と子ども』第3巻6号には松 本孝次郎が「幼児の想像に付いて」で次のように述べている。「想像作用に付いては今から 五十年前頃までは教育上そう重くないものとして記憶を重いものとして居つた。それが五 十年來想像を重んずるようになつた。昔は想像を養へば空想を抱くやうになるとして賤ん で居つたけれども今は教育家の考がちがつて來てできるだけ想像力を養ふがよいとなつて 來た」。9)
図 2-6「談話と手技の結合」
図 2-7「談話と手技の結合」
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ただ恩物をこなすだけの保育ではなく、恩物をどのようにすれば子どもたちが想像力を 養い、楽しめるのか、恩物に改良を加え、修正しながら日本独自の保育のあり方を模索し ている様子が伺える。それは『婦人と子ども』第6巻3号「幼稚園の保育と家庭に於ける 保育」和田實の次の言葉からも読み取ることができる。
殊にフレーベルの恩物は、何も是が確固不動のもの、決して變改す可らずと云ふも のではないので、我々さへも之に改良を施し不適當なるを省き、有益なるは加へて、
實行して居るので、決してフレーベル式其儘ではないのです10)。
このように、知識注入を目的にして行われてきた恩物であったが、和田實は『婦人と子 ども』第6巻第10号「幼児教育の特色」で、「第一には、凡べて幼児教育上の仕事は大き な子供に課業的に強いても行らせるのとは違つて全然游嬉的であることを第一の目的とし ている」11)と、幼児教育は強制して行うものではなく、子どもたちの遊びの中に学びがあ るといった考え方を述べている。
明治期はフレーベルの恩物を真似ることから出発し、日本独自のあり方を見出していこ うと模索していた時期である。そのため、決められた形がありそれをどのように保育者が 教え、子どもたちに身に付けさせていくかといった点が重視されており、いわば子どもた ちの気持ちに配慮するといったところまで考えられていなかったといえ、活動が始まった 段階からすでに保育者と子どもとのずれは生じていたのかもしれない。そのため、明治期 の造形活動はそれまでの教師主導の保育の考え方を転換させていくためにはどうすればよ いかと意見を出し合い、試行錯誤を重ね子どもを中心にした保育のあり方を模索していた 様子が伝わってくる。中でも、東基吉、和田實の保育観が大きく実践にも反映されていた ことがわかる。手探りで始まった日本の幼児教育も、明治後期になると、保育者と子ども との間のずれに気付き、そのずれを追及し、修正していくための方法を模索しようとし始 めたといえる。しかし、改革は始まったばかりで、この改革がどれだけ浸透していくのか、
大正期の実践を見てみることにする。
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第2節 大正期における保育者と子どもの意識のずれ
大正期に入ると、強制的にやらされる活動よりも子ども自身が楽しんで行う活動でなけ ればならないという考え方が強くなってくる。そのような考えのもと、幼稚園で様々な実 践を重ねた倉橋惣三は次の四つの原則を幼児教育の特質として挙げている。
(一)、自発的なるべし
(二)、相互的なるべし
(三)、具體的なるべし
(四)、習慣的なるべし 12)
「(一)、自発的なるべし」ということは、子どもたち自らが進んで「やりたい」と思い、
行動することであるが、その場合自らがやりたい気持ちになるまで待つのかという疑問が でてくる。倉橋の場合、「やりたい」気持ちを誘導していく考え方が次の文章からも伝わっ てくる。
幼児は其の「内なる自発性」を自ら存分に外に発揮し得ないことのあるものである。
謂はば有り餘る自分の力を如何に用ゆべきかを自ら知らざる状態にあることのあるも のである。是に於て幼児教育は之れを誘導してやらなければならない。幼児は豊なる 自発性を有するが故に、ただ打ちすてて自然に任せて置けばよいといふものではない。
引き出してやらなければならない。促してやらなければならない。誘つてやらなけれ ばならない。導いてやらなければならない。そうしなければ、折角の幼児の自発性は 其の一部しか発揮せられずに終わることがある。或は不當性な誤った発揮をすること がある。甚だ惜しいことと言はなければならない。實に幼稚園教育に於ける苦心の大 半は、此の自発性の誘導にありと言つても過言ではない。13)
このように、子どもたちの意欲を自然に任せておくのではなく、自らがやりたい気持ち に
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なるように保育者が誘っていくことで、子どもの持てる力を充分に発揮させることができ るという考え方が、倉橋の「自発的なるべし」の意味であると捉える。
「(二)、相互的なるべし」ということは、「幼児の生活は共同生活の強い欲求を有して居 るものである。幼児の教育はこれに適當の満足を與へなければならない。のみならず、此 の自然の欲求を利用することが最も自然にして、最も賢い教育の方法なのである」14)と、
幼児期の自然な欲求を上手く利用していき、その中で相互中心的生活の誘導をすることが 保母の役目であると倉橋は述べている。
「(三)、具体的なるべし」というのは、二つの意味がある。第一の意味は「幼児生活の 全體をその教育の、いつでもの対象するといふことである。換言すれば、知育とか徳育と か及至精神の教育とか身體の教育とか、全生活から或る一面を抽象して対象とするのでな くして、全生活が常々にそのままに、即ち具體的に、教育の対象とせらるるのである」15)。 これは、幼児の生活のある一場面をとらえて、この部分は知育あるいは徳育と、分けて考
え
るのではなく、幼児の全生活が教育の対象になるという意味である。
第二の意味は、「幼稚園の教材が、心理学上の所謂具體的経験を主にして、なるべく抽 象経験を用ゐないことである」16)。これは、幼稚園で扱う教材などもできるだけ幼児の生 活経験に沿ったものを用い、幼児が幼稚園の生活を改まったものとして捉えないようにす ることの大切さを述べている。これは、現在の幼稚園教育要領の「環境を通して行う教 育」17)につながっていく考え方であるといえる。
「(四)、習慣的なるべし」とは、基本的な生活習慣をイメージする。しかし、倉橋がい う習慣的とは、ご飯を食べる時のマナーであったり、挨拶の仕方であったといったマナー を習慣づけることはもちろんであるが、それよりも幼児期にしか養うことができない情緒 的基調こそをこの時期に幼稚園教育者が与えるようにしなければならないと述べている。
大正期は、倉橋の提唱する保育の四原則をもとに子どもを主体とした保育の考え方が広
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がりつつあり、造形活動においてもその影響がうかがえる。『婦人と子ども』誌上にも、
当時東京女子師範学校附属幼稚園の主事を務めていた倉橋のもとで実践された2つの事例 が扱われている。次に示す。
まず、一つ目は「動物園あそびの記」の実践である。「動物園あそびの記」の導入から展 開場面に入るまでの記述を抜粋する。
鳥や獣の標本が其丸い眼を見張つたきり、昨日も今日もおなじ様に硝子戸棚の中に立 ち並んでゐる。あれを利用して動物園を作つたらとの説が出て、さて作らうとはした が標本だけでは餘りに殺風景である。餘りに單調である。子供は象が好きである。獅 子も好きである。虎も、熊も大すきである。水族館も親しいものである。どうかして これ等も作りたいものである。切符や入場券を賣る事の好きな人に入場券賣もさせて 見たい。入口も賑はしく飾つて見たい。子供等の小さき弟妹が見物に来た時に動物園 みやげもやりたいと、考は其場所にと充てられた遊戯室の隅から隅へ、壁から壁へと 次第に拡がつて行く。次第に濃くなつていく。とうとう象、獅子、虎、熊、駝鳥の五 つは壁畫で補ふこととした。それで其五つと入口左右の壁裏表に貼るための森四枚と を教生にたのんで畫いて貰ふ事にした。頼まれた人々は紙を何枚も何枚も継いで部屋 一ぱいに拡げて書き始めた。殆ど實物大の象を描かうといふ、なかなか大變な事であ る。其の輪郭をとるだけでも大變である。大きな刷毛で思ひ切り大きく畫いてゐる。
細かい所が分らなければわざわざ動物園に見に行く。かく迄して一生懸命に畫いた。
其尊き本眞剣な努力。子供は之を見た。實に之を見た。單に絵の進行のみを見たので はなかつた。「象はまだかなあ」と毎日の様に待ち遠しがられながら、象は一日一日と 形と色とを成して行つた。「僕は早く象が剪りたいなあ、まだかなあ」と、とんでもな い時に鋏を握つて待ち詫びた子供もあつた18)。
ここでは、幼稚園教育者が子どもたちの提案を取り入れ、子どもたちの考えを実現して いく様子が記されている。その中で、動物園といえば虎、熊もいる、動物園も作ったら水
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族館も作ってはどうか、水族館を作ったら切符や入場券も必要、入口も飾っておみやげも 必要と、次々に刺激を与えながら子どもたちの意欲を持続させていったことがわかる。こ の後、子どもたちが入場券、水族館もつくり、「お茶の水どうぶつえん」が完成するのであ るが、動物園あそびがおしまいになった後、先生に自分がつくった作品が欲しいとお願い する姿もあり、自分たちで作った作品にも思い入れを持っている様子が伺える。
二つ目は、「八百屋遊び」の実践である。
「今日は八百屋さん遊びをしませう」といふと、大喜びで五六人の子供達は物置へは しりこみました。そして自分達の背よりも高い衝立をわいしよわいしよとお部屋へか つぎこみました。これが彼等の一つの愉快な遊びとなりました。四五人の女の児は八 百屋さんになりたいので、衝立の中にはいりました。そして野菜の箱からいろいろよ りわけて綺麗に賈壷の上にならべました。見ると、いちご、なつみかん、ばなな、り んご、めろん、すゐくわ、だいこん、にんじん、はす、かぶ、たけのこ、きうり、な す、さやえんどう、そらまめ、とまとう等、みどりやあかや、黄色の色どりも綺麗で ありますし、又一つ一つの形もなかなか上手であります。下手な大人のかいたのより もよつぽど味のあるものばかりであります尚ほならびきらないお野菜は箱の中に澤山 のこってゐて商品はなかなか豊富にあります。
銀行屋さんになる男の幼児たちも又せつせと別の衝立を物置からかついできて、八 百屋さんの反対の側へ店を出しました。そして茶色のお金をもつて衝立の中にはいり ました。
買手の人たちは先づ銀行へいつてお金をひき出しました。尤も一度に二十銭づつの 引き出しときめました。それは他の組の人たちにも大勢にうりたいためであります。
二十銭もつた人は八百屋へいつて澤山の野菜にまよつたすゑく十銭でいちごに、又 十銭で大根一本買ひました。次の人は二十銭だけばななを買ひましたそれから私には そらまめ、私にはきりうり、私にはにんじんと、つぎからつぎとつめかけてくるお客
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様で、お店は満員の盛況であります。衝立がおされて倒れそうなのでしつかりおさへ ねばならぬといふ有様であります。いちごなどはなかなかおいしそうなので、八百屋 さんはいく度も箱から出してゐるというふ有様であります。
お隣の組へもその次の組へも開店の披露をしたので小さい組の人たちがはづかしそ うに、そしてもの珍し顔して先生につれられ、銀行でお金を出してお店へ来ます。あ かいにんじんや、そらまめを買つてかへる。
入れかはりたちかはりする大勢のお客様がすつかりお野菜は賣切れとなりました。そ れで。銀行屋さんも八百屋さんも大繁昌だつたので大満足でやすんでゐます。お客さ んたちも澤山のお買物をお部屋の角で整理して紙につつんでポケットに入れました。
「先生またこんどね。」「わたしはこんど八百屋さんにしてね」「僕は銀行屋さんにね」。
「わたしはこんどはかせて下さいね」と、つぎつぎにこの次ぎの役わりを先生に承諾 をうけて安心してあとかたづけをいたしました19)。
この八百屋遊びの様子からは、まず、子どもたちが活動を待ち遠しく思う気持ち、次に 活動が始まると夢中になって取り組み、最後は商品を全部売り切って満足した気持ち、そ して、今度は「この役がやりたい」と次の活動に期待を寄せている気持ちなど、子どもの 意欲が連続的に高まっていき、活動の達成感が「明日も幼稚園に行きたい」気持ちに繋が っていることがわかる。
明治期の恩物中心の活動と大きく異なる点は、題材に「八百屋」という子どもたちの生 活経験に基づく身近なものをもってきたという点にある。これは、倉橋の「具体的なるべ し」の考えに基づいていると考えられる。活動内容をみてみると、「今日は八百屋遊びを しませう」という教師の発問から、子どもたちは衝立で店を設え、作った作品(野菜やく だもの)を並べる。そして反対側には銀行屋もでき、買い手は銀行屋に行ってお金をおろ してから八百屋で買い物を楽しむのである。他の組からの参加もあり、活動が発展してい く様子がうかがえる。全部の商品が売れてお店を閉めると、子どもたちからは「私は次銀
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行屋にして」「私は次八百屋にして」などと、次にしてみたい希望の役割を、口々に教師 に伝えている。この一連の活動では、友達とのかかわりや遊びのルールを知るという点で は「人間関係」、お金の使い方を学ぶという点では「環境」、また活動で使用するものを作 る「表現」などというように、現在の教育要領が示す5領域との関連がうかがえる。しか も、これらの活動は総合的・連続的に展開されており、今日の保育と比して遜色はない。
このような遊びながら学んでいくという倉橋の考え方は描き方の活動にも影響を与えて いる。
小学校の方では寫生が大體に於て目的になつて居りますが、幼稚園では自分の意志 を発表する爲めに畫き方を習はせます。案の始めに直線の練習、圓の練習などありま すが、實際やる時には直線練習だから直線をかかせるといふ事ではない、たとへば障 子をかかせるとか、鐵道路線をかかせるとか云ふ事にして子供に興味をもたせるやう にして居ります20)。
基礎的なトレーニングにおいても、ただ線を描かせるのではなく、子どもの興味関心に 合わせ、例えば電車を走らせるための線路を描くというように生活経験と関連づけた遊び の中に、線を描く練習を含ませている。
このように明治期の終わりごろより、教師主導の教育から子どもの学びを意識した教育 へと方向転換が始まったといえる。
この期の実践の中でも、特に子どもの好奇心やあそびに着目することの重要性が強調さ れている事例として「サンタクロスのあそび」を次に示す。
子供にはサンタクロスのおぢさんが出られたら皆さんお手を鳴らしてむかへて下さ いと注意して置いたのであるのに、サンタクロスが見えても誰一人手をたたく者はあ りません、身を引くやうにしてぢつと見つめて居るばかり、かたづを吞んで不思議の 眼を見はつてゐるのである、しばしそうした、沈黙があつたが、年長組の誰かが「あ あ、岡本先生やわ」といふ聲がしました。それでやや子供の幾分かわ不審が晴れたら
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しい動勢が見えたが、まだまじろぎもせず見つめてゐるものが少なくなかつた。サン タクロスは中央に出られて、「私はサンタクロスです、皆さんが餘り強くなつたので遠 いお国からわざわざ皆さんに上げようと思つておもちやをこんなにたくさんもつて来 ました、静かに番札と合せて取りに来て下さい」と云ひましたら、皆んなが「やつぱ り岡本先生やつた」とホッとしたやうにどよめいて来ました。そして順を追ふて袋の おもちやは皆出されてしまひました。封じた箱の中のおもちやは何であるかは分から ぬ丈それ丈子供は中が見たさに、「何やらか早う見たいな」とためつすがめつしてゐる 姿、「あんたのは小さいな私の大きな箱や」なんてあつちのすみこつちの角の方で三々 五々頭を集めて中をのぞき込むあどけなさ保母もみな其の境に引き入れられて笑みこ ぼれてゐた、こうして最終の日はさよならをつげた。
此の園の兒供達は常に三圓や五圓位の玩具を與られてゐる幸福な家庭の子女である が、かうした園の贈物は高の知れた二十三錢のつまらぬ玩具である。それがどれ丈幾 倍か子供のよろこびに價するであらうかを思はせ私共られる、其の品が子供の満足を かふに價値ないものであつても、其あそびの間其封じたものを開く迄での子供のよろ こびに満ちた好奇心それを持ち歸つて家庭に於ける語り草、其印象何れも私共の望ま しい事ではあるまいか、かうしたあそびの中に保姆と子供とは心の接近、互の心のよ ろこび共通など考へさせられるものではあるまいかと思ひました21)。
ここでは、サンタが大きな袋を持っていると中に何が入っているのか、興味津々の子ど もたちの様子が書かれてある。そして、恵まれた家庭の子どもたちにもかかわらず、安い おもちゃにとても喜ぶ子どもたちの姿がある。好奇心に根差した遊びは、家に帰ってから も持続するほどの大きな満足感や喜びを子どもたちに与えることができるということ、ま た「保姆と子どもの心の接近や互いの心のよろこびの共通など、考えさせられる」22)とい うように、上から教えこむのではなく、子どもとともに喜び合う存在としての保育者の在 り方にも言及されている。
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大正期における保育内容と指導の特徴をして言えば、このころに、小学校教育の分 野で台頭した新教育運動(自由教育運動)の影響を受けながら、自由保育・生活保育 などの新しい教育方法を更に発展させる努力が行われる一方、これらを無批判に取り 入れることに対する反対から、改めてフレーベルの恩物を見直そうとする機運も生ま れるなど、新旧様々な考え方に基づく保育内容や指導法が考案・実施されたことであ る23)。
このように、明治期では、一つの項目に一つの時間をかけるという形であったが、一つ の活動に談話や唱歌、手技などが展開されていくといった総合的な保育が日本でも取り入 れられた。また、ぬり絵あそびがはじまったこと、模擬工作から自由製作になっていった ことなど、大正期では保育の改良をしようという試みがされる一方で、モンテッソーリ法 などの新しい保育法も入ってきて、大正期は自由保育や生活に基づいた保育など新しい保 育の形が取り入れられていった。これには、新教育運動(自由教育運動)の影響が大きか ったといえる。しかし、新しい保育の考えが生まれ、新教育運動が広がりをみせてくると、
それらをよく吟味せずに取り入れることによって問題点も多く生じていたと考えられる。
例えば、モンテッソーリ法については「モンテッソーリの教具が、製品として出来過ぎ ていて幼児が飽きてしまう」24)といった批判も少なくなかった。この頃(大正十年二月現 在)に文部省が幼稚園はどのような保育主義をとっているのか調査を行っている。結果は、
「フレーベル主義を加味するものが第一位、フレーベル、モンテッソーリ両主義を加味す るものが第二位を占めており、フレーベル主義が相変わらず我が国の幼稚園教育の主流を なしていたことを物語っている」。25)
モンテッソーリ法という新しい方法が入ってきたことで「幼児たちに一斉に押しつける 傾向がある」26)フレーベルの恩物と「幼児の自発的な活動を伸ばす」27)モンテッソーリ法、
この対極の方法を上手く取り入れながら行うといった考え方も生まれ始めた。保育者と子 どもとの意識のずれの点からみると、遊びながら学んでいくこと、意欲を持続させていく
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こと、好奇心や達成感などに着目し、色々な模索を経ながらも子どもとの意識のずれを修 正していく実践は少しずつではあるが広がりをみせているといえる。
第3節 昭和期(戦前)における保育者と子どもの意識のずれ
大正期に倉橋惣三が行った子どもたちをやりたい気持ちに誘導していく保育実践は昭和 も期に入っても大きな影響を与えていたと考えられる。そしてこれが「誘導保育案」とな り、大きな影響を与えることになる。「誘導保育案」について倉橋は次のように述べている。
誘導保育案は、実際的に見れば何であるか。たとえば、ある組で水族館を以て誘導 保育案を立てております。ある組では汽車の遊びを以て誘導保育案を立てております。
ある組は八百屋、玩具屋、またある組は海底、釣遊びを以て誘導保育案を立てていま す。この他にも自動車でも誘導保育が出来ましょう。汽車でも出来ましょう。つまり、
何かしら子供の生活にまとまりを与えるようなものを用意していけばいいのでありま す28)。
このような「誘導保育案」からは、多様性をもった活動展開を計画することができる。
活動の主題選びは子どもたちの普段の様子をよく観察した上で選択される必要があるだろ う。「生活にまとまりを与えるようなもの」について具体的に八百屋や玩具屋などの「保育 案の立て方(主題選び)、保育の内容」が詳述されている箇所を次にあげる。
たとえば八百屋を誘導保育案の主題として立てたとします。何でもかんでも八百屋 にきめるわけじゃ無論ないのですけれども、幼稚園の子供には古道具屋よりは八百屋 に興味がありましょう。それで、八百屋が主題として選ばれたとしますと、それから 先は、店の物の選択になるのですが、これら、子供の興味の外に、どれだけの教育目 的を実現していく可能性を含んでいるかということを、別に考えなくてはなりません。
八百屋ですから、とにかく、果物を並べましょう。野菜を置きましょう。その果物、
野菜などを置きますならば、そこにそれぞれの保育内容が行われるのは当然です。あ
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るいはまたその八百屋に看板をかけたり、広告のビラを書いたり、いろいろと果物の 名前を札に書いたりしますと、ここに保育事項としての文字の問題が入ってきます。
あるいは品物なり、売り上げについて勘定をすることもあって、保育事項として数の 問題も入ってきましょう。あるいは店の品々を作るについて、製作の問題が入ってき ます。こういう意味で、いろいろな面に従ってどういう教育が出来るかということも、
その中に配当されるのであり、それが出来るだけ多い方が、誘導保育案としての価値 を多くするわけでしょう29)。
「八百屋遊び」の実践は前項でも取り上げたが、この一つの遊びの中に、文字、数、製 作と様々な教育的要素が含まれている。そして「一つの誘導保育案が立てられるとそれを 中心として幼児の生活が発展していく。つまり主題の誘導力によって生活が次々に生み出 される」30)、これが誘導保育案なのである。この誘導保育案として具体的な4つの実践を取 り上げて考えてみることにする。
まず一つ目は、「箱のお家」で、及川ふみによる実践である。この実践は、紙の空き箱を 家庭から持ってきてお家をつくるというものだが、なぜ紙の空き箱になったのかを及川ふ みは次のように述べている。
箱を基としてつくる事を思ひついたのは今まで度々ボール紙や其他の材料で家をつ くつて見ましたが大抵の場合は大體の形や構造は保姆の方で多くやる、時には幼児が 單にこれを手伝ふといふ位にとどまつた時も澤山ありました。それは幼児には少しむ づかしくて保姆の力でやる時もありました。それで「なるべく幼児の手だけで出来る」
といふ事を主として考へて空箱をつかふ事にしたのであります31)。
このように教師主導で強引に進めていく活動ではなく、子どもの主体性を尊重し、発 達段階に考慮した実践であるといえる。
次に、作業の様子が書かれてあるのだが、この活動には「五月六月七月九月十月となが い間つづけた仕事であります」32)とあるように、この家をつくる活動に 6 か月という歳月
58 を費やしている。その部分を抜粋する。
家の外部の方は先づ大體四角い形の箱を下向けにしてその四方には或は窓をこしら へたり入口をこしらへたり窓わくを色模造紙ではつたりくりとつた窓には硝子戸の様 にセロハンをはつたりしますが幼児が一つ一つの窓の紙から枠の紙など切つてはるの で一度にいくらも出来ません、入口には表札をつくつて各自幼児が片仮名で姓名をか いておきます。
室内の方は大きな窓丈けは保姆があらかじめ切出しできりとつておきます。その窓 にセロハンをはつたり窓わくを作り額をこしらへたり(額は茶色ボール紙などの上に きりがみで花や家や景色などを幼児が各自考へてつくります)テーブル(ボール紙の 薄いもので)や椅子や時計や本箱などいろいろすきな道具をボール紙でこしらへてお きます又クレームペーパーでカーテンをつくり天井から電燈などをつるします。自分 の家にあるものを見てきては窓に植木鉢に花を植ゑたのなどつくつた人もありました。
或る日は窓わくをはつただけでおはるときもあればある時は額一つだけのときもあり ますからなかなかながくかかります。それにこの仕事が毎日毎日つづくといふ事は保 姆も幼児もつかれますから間に外の作業もまぜてする事にしております33)。
このように、長い間かけて行う実践では子どもたちの「やりたい」という動機がなけれ ば続いていかないし、教師による「やりたい」意欲を喚起させる働きかけも必要になって くる。中でも子どもたちが家を作っていくことで、郵便局や幼稚園、おもちゃや、停車場 など大きな町ができあがるというように、子どもたちの生活経験の気付きから活動をさら にひろげていく形はまさに子どもたちのやりたい気持ちを持続させているといえるだろう。
次は初めて「動機」という言葉が使われた「八百屋遊び」の実践である。
「おとなのするやうに、自分でも買物の真似がしたい。それよりもなほ、売り手にな つて見たい。」そういふ心持を動機として、先ず八百屋の店が作り始められます。壜・
鑵詰・籠などから大根・白菜・慈姑、さては切り午蒡の細いのまで、その製作の一つ
59
一つには、厚紙や粘土を材料とする各種の手技工程がとり入れられてあります。一群 の幼児達は同じ厚紙で貨幣を用意致します。いづれも、練習とか稽古とかいふ練習意 識を全く離れて、自分達の仕事に専念没頭して居ります。-新保育法中の所謂「目的 保育」の軸であります34)。
この文章の中で「『おとなのするやうに、自分でも買物の真似がしたい。それよりもなほ、
売り手になつて見たい。』そういふ心持を動機として」35)とあるが、ここでは子どもの興味、
関心を活動への動機づけへとして活かしている。この場合、子どもにとっての目的は八百 屋ごっこをすることであるが、教師にとっては八百屋の店ができたら商品である野菜が必 要になり、野菜を買うにはお金も用意せねばならないなどと想定されていたと考えられる し、またそのなかに指先を使う手技の工程も組み込まれている。つまり、子どもたちは知 らず知らずのうちに様々なことを考え、社会体験もし、指先の技巧なども身についている、
これ自体が保育の目的になっている。これが倉橋の主張する目的保育といえるだろう。
次は共同製作である。共同製作には汽車遊びや商売遊び、動物園、デパート、雛祭り、
七夕祭などたくさんの遊びが紹介されているが、この題目には、どういった要素が含まれ ているかを説明している文章を以下に記す。
即ち共同製作とは幼児の生活発展性を尊重し、それより出発して製作の目的である 題目を決めます。
その題目を充分満たす爲に、次々へ製作を発展させて行く方法なのであります。例 へば子供の最も興味を感じるあの汽車遊びを製作の目的と定めます。汽車遊びから直 に浮かぶ物は、あの切符売り場。プラットフォームあの売子の聲。御菓子を買つた売 店等々そこにはおすしがあり、御餅當があり、牛乳があり、新聞もあつた。
そういつた次々に浮かんで来る品々を手技として取り扱つて行くのであります。
同じ箱を作るのでありましても、只譯もなく作らされる場合と、おすしを入れる折 がなくてはと言ふわけで作るのとではそこに生活的意義を持つ事に於て非常な差を
60 生じると思ひます36)。
「題目とは製作の目標である」37)と記されている。であるとすれば、題目を見れば何を するかがわかりまた、発展性もみえるものがよい題目の選択方法であるといえる。
四つ目は、大型の動物製作の実践である。この実践では、教師のねらいと活動の導入場 面での教師と子どものやりとりが記されている。以下に抜粋する。
大きい組になりましてから、動物園を作り度いとは、かねがねもくろんで居りまし た事で御座います。それも思ひ切つて大まかな力の仕事を主體として、大掛かりな動 物作り度いと、其の機会をねらつて居りました。
或る朝の事、前日の続いたお休みに、偶然にも数人の子供が動物園に行つたと、し きりに話をして居りました。如何にも親しみを持つて居る様子に、私も乗り出して、
「象さんに乗つて見たい?」
と切り出しました。みんなはニコニコ笑つて頷きます。
「何がお好き?」
「僕ライオンだよ」
「私兎ちやんだわ」
「象が好き」
「みんな好きだい」
「山の組でも動物園作らないこと?とてもいいものを」
「うん作らう」
と殊に力の溢れた正大君が、真先に力強く申しました。
他の子供達も目を輝して居ります。
「馬だの象だの、大きいの作りませうよ。皆さんの乗つかれる様なのね」
「先生何で作るの?」
「大きな木箱があるのでせう、あれで作つたらどう?頭と脚と尻尾をつけたら本
61 当に乗つかれますよ」
「いいね」
と皆んな大喜びで御座いました38)。
この動物製作にあたっては教師が以前からこれを計画しており、子どもたちの様子から 其の機会を待っていたことがわかる。そしてそれに子どもたちも「やりたい」と意欲に満 ち溢れ、この活動に一生懸命取り組もうとしている様子が伝わってくる。最終的には「ヤ マノクミノドウブツエンヘドウゾオイデクダサイ」39)と、入場券まで作り動物園の活動が 拡がっていったことがわかる。
昭和前期は、子どもの生活から一連の活動のまとまりを考えて主題が選定されている。
つまり動機づけを意識して題材設定が考えられており、そのことが子どもたちの「やりた い」意欲につながっていることから、子どもと保育者との間に生ずるずれは距離が縮小さ れているといえるだろう。保育者が子どもに教える直接的な関係ではなく、倉橋が主張し ている教育者と子どもとの間に物、人、事を介在させた「間接教育(教育者―(物、人、
事)―子ども)」がずれを修正する重要な要素となっている。
また、保育内容についても「手技は慰問袋をつくる。肩章、単刀、勲章、双眼鏡、軍帽、
タンク、高射砲、看護帽、などをつくる。材料には廃物を利用して物をむだにしないよう にする」40)などと、教育界に戦略国家による要請が強く反映されるようになり、幼児の頃 から技巧性が重視されていたと考えられるが、そのような中でも子どもを主体とした楽し い活動も行われていたといえる。
第4節 昭和期(戦後)における保育者と子どもの意識のずれ
戦後、幼稚園は急激に増加し、高度経済成長の時代を迎え幼児教育への関心は一層高ま っていった。昭和31年には幼稚園教育要領が刊行され、健康、社会、自然、言語、音楽リ ズム、絵画製作の6領域に区分された教育内容が示されている。
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図 2-8 「記念写真」
昭和期(戦後)になると林建造と久保貞次郎による記事が多く見られる。林は倉橋と親 交のあった坂本元太郎のもとで幼児教育の仕事に専念するようになり、しばしば倉橋の造 形教育観についても述べているほどである41)。このことから、林は倉橋の影響を大きく受け ていると考えられる。一方久保は、創造美育協会の旗頭であり民間美術運動の先駆でもあ った人物である。久保の美術教育理念は、「おとなたちによる外からの抑圧から解放し、自 由にしてやれば子どもたちは生き生きと創造力を発揮するという心の解放による創造活動 を主張する(中略)生来もっていると信ずる創造力を発揮させるために好きな絵(好きな テーマ)を好きな描き方で自由にのびのびと描かせる」42)というものであった。
林の造形活動の考え方は「倉橋先生と大変親交のあった坂本彦太郎先生のもとで幼児教 育の仕事に専念するようになり、しばしば倉橋先生の著書や教育思想や実際についてご指 導をうけたことで私の倉橋観の眼を大きくひらいていただくことになった」43)とあるよう に倉橋の影響を大きく受けているといえる。その一つが「記念写真」という実践である。
やや大形の鏡を用意し、その前方に速成の写真機を立ててやります。子どもたちは、
順に一人づつその写真機の前に立ち、箱をとおし てかがみにうつるじぶんのかおをながめます。じ ぶんのかおをみてよくわかったらごむまりをにぎ ってシャッターを切ります。あとからあとからお 客さんがやってきます。さて写しおえた子は、自 分の席に帰って与えられた画用紙に今よく見た自 分の顔を描きます44)。
倉橋は手技、図画の教育手段の要点を①子どもの自発性が基本であること②造形活動は技 巧の練習ではないと述べており、それをうけ林は図2-8のように写真機を覗いて写真を撮る といった演出をしながら子どもを遊びの中から自発的に絵を描きたいと思うように動機づ けているといえる。
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次は、動機づけ、導入の仕方の問題について着目し、子どもの活動を発展させる場合に、
どのようにして動機づけるか、また、どのような場合によい効果がみられるかを実践、考 察した記事があるので、紹介し、検討する。日々の保育活動における教師の動機づけを、5 つのパターンに分類し実践したものである。
「 A 子どもの提案をとりあげた場合」
・何らかの形で子どもたちの方から、何かに興味を感じて、させてほしいと要求した ものをとりあげて発展させたもの
「 B 提示によって子どもの興味をひいた場合」
・教師が子どもたちに経験させたら望ましいと思って計画した内容をそのまま押しつ けないで提示するという形をとることによって、子どもたちの興味をこちらの意図 にひきつけてゆき、子どもたちが自分の方からやりたいと思ったのと同じような気 持ちを起こさせたいと望んだもの。
「C楽しいことが目前に控えている場合」
・子どもたちみんなにとって楽しい行事やうれしいことが目前に控えている場合。
「D子どもの好きなものを選んで気分の転換をさせた場合」
・日常の観察、経験から、子どもたちの好きなものを幾つか準備していて、気分の転 換にうまく利用していって成功した例。
「その他」
・これらのいずれとも違い、子どもたちが最初あまり関心を示さなかったものに対し て無理に押しつけることなく、ある時間をおくことによって、子どもの興味が幾分 そちらに動き始めた時をとらえて、子どもたちの納得する方へもっていったもの。
これらの導入パターンから次の5つの点を述べている。
第一に、ある仕事(遊び)から次の仕事(遊び)へ移る場合、子どもたちの興味の 方向性を把握して、それを中心にしながら発展させていったとき、効果があげられる
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のではないか。ということが言える。(例えばAの場合は誘導の動機を子どもの発言を とりあげることによっているし、Bの場合は教師の側から示されたものでありながら、
子どもたちの心には、自分の好きなものをするのだという動機づけがなされている。)
第二に、その子どもの興味は自然に示されるのを待つばかりでなく、やはり好まし いものへの関心が持てるような環境をととのえておくことが必要であるという点にな ると思われる。(B、C、の例より)
第三に、子どもたちは、いつも自由にほおつておけばよいというのではなくて、そ の生活を細かに観察することによって、その場面場面により、どのような方向にもっ ていったらよいかを判断し、適当に気分の転換をしてゆくことも効果をあげるのに役 立つのではないだろうか。(Dの例)
第四に、教師が意図する方向へもってゆきたいと思ったとき、それをいかにして実 行に移すかの技術の研究が常になされていなければいけないと反省された。
第五に、かなり余裕のある保育案をしっかりたてておくことも大切であろう。その 日の状態を考慮することなしに今日はこれをしなければならないという気持ちばかり で強引に押しつけてゆくことは、かえって効果を削減するように思われた45)。 Aの例では、子どもの「人参やごうぼうをつくろう」という意見を拾い上げ、それを活動 に発展させている。Bの例は、子どもたちが好奇心をもって「これ何するの?」と聞いてく る子どもの欲求を上手く利用した事例である。Cの例は、七五三があり、飴のおみやげがあ るので、その入れ物を作らなければと、必要性をもたせている。Dの例は、他に興味があ るものに気持ちを向かせ、落ち着くまで一緒に遊ぶようにしている。これらの実践からは、
子どもたちの意欲は保育者の動機づけ方によって高められることがわかる。
一方、保育者が子どもたちにどう指導すべきかといった研究・実践に対し、もっと子ど もの自由な表現を尊重すべきで、保育者は子どもの絵を読み取る能力を高めるべきだと主 張する久保の考え方も広がってゆく。久保は以下のように述べている。
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文科省の保育要領では、「のびのびした気持ちで自由な表現」をすすめていながら、
実際の指導者である保母達が、その要領を無視し、従わないのはなぜであろうか。そ れとも「のびのびした気持ちで自由な表現」という意味が、幼児の繪の上に現れた時 それを、鑑賞する能力に不足しているのであろうか。あるいは、保育要領も読まず、
その幼児の繪の鑑賞もあまり勉強せず従来のありきたりの、繪の見方で幼児の繪を評 価しているのではなかろうか46)。
また久保は、幼稚園における絵の指導の原則についても述べている。
1、 子供が絵を描く興味を呼び起こしてやる。それにはその雰囲気をつくる必要がある。
そのために動物園につれて行つたり、遠足に行つたり、お話しをしてやつたり、室 を気持ちよくしてやる必要がある。
2、子供の絵を賞賛してやること。元気のない子供には、つまらない絵をかいても賞め てやる。
3、先生は子供のできた作品を賞める以外には批評してはならぬ。
4、 描いている時、又終つた後も教師は技術上の、表現上の暗示、さし圖、訂正、その 他の指導はいつさい避けるべきである47)。
指導はいっさい避けるべきとあるように、久保の考え方は保育者による指導は極限まで 抑え、子どもの自由な表現を尊重するとともに、その絵を保育者が読み取っていくことの 重要性を述べている。『幼児の教育』誌上でも、子どもの描いた絵を分析し、子どもの内面 を読み取る内容の記事が多くみられるようになった。
久保もアメリカの絵画教育に強く影響を受けていたが、アメリカでの教育を模した実践 も行われていたようである。アメリカから帰ってきた知人に、アメリカでは指絵が流行し ていると聞いた福島が「これこそ創作表現に最もふさわしい又自由保育に適当な保育内容 だ」48)と感銘を受けて紹介している実践が掲載されている。小麦粉を水で溶き、火にかけ、
水彩絵の具を少量加えて混ぜ、絵の具をつくり、それで絵を描くというものである。この
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後にも福島は、砂絵やおがぐず絵、貼り紙絵などを紹介し、「子どもにひろい経験をさせる という立場からぜひ実践して頂きたい。」49)と述べている。この他には、うどん粉を使った 粘土(ドーフ粘土)(第57巻第8号)や紙を使ったあそび(やぶく、さく、ちぎる、まるめ る、もむ、ひねる、よじる、よる、より合わせる、切る、断つなど(第64巻第2号)など も紹介されている。
戦後幼稚園教育要領が刊行され、その目標達成に向けてどのような指導方法が有効であ るか、様々な実践が重ねられていた様子が伺えるが、主に、子どもの意欲を高め活動の充 実を図るために子どもをの発達段階をふまえて創造力や造形性の慎重をはかろうとする林 に代表される考え方と、指導は加えずのびのびと自由に活動させることに価値を置く久保 等の考え方の、大きく二つの対照的な方向性が併存していたといえる。
これを子どもと保育者とのずれの観点からみると、林の考え方では保育者の刺激が強す ぎたり、誘導の仕方が強引になると子ども主体とはいえず、教師主導の一方的な授業にな ってしまう可能性も考えられる。一方で子どもの自主的な活動を重視する久保の考え方で は、テーマは決めず指導もしないということで「嫌ならしなくてもよい、したい時にすれ ばよい」という考え方も成立する。また、子どもによっては何をつくればよいか考えられ なかったり、ただ遊ばせておくだけの放任になってしまう可能性もはらんでいる。これら 二つの対照的な姿勢の中で、保育者はよりよき方向性を模索するということになるが、こ れは現在にも通じる問題であるともいえる。
第5節 平成期における保育者と子どもの意識のずれ
平成元年に幼稚園教育要領が改訂され、それまでの6 領域が5 領域になる。それと同時 に「環境を通して行う教育」や「主体的活動」といった文言が入ってきたことにより、そ れまで当たり前であった「指導」という言葉に「援助」といった言葉も加えられるように なった。幼稚園教育要領改訂とともに、もう一度保育を見直す必要があるという考えが広
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がってきた。その中で「行事の見直し」を課題に取り組んでいる園の実践を見てみる。「行 事の見直し」には、今までの作品展のためにたくさんの作品を作り、展示するという形の 作品展ではなく、活動をつくっていく過程をそのまま見てもらう形での作品展はできない ものだろうかというメッセージが込められている。次の事例は、「わくわく展への新たなア プローチ」と題し作品展への新たな試みを紹介しているが、新たな試みに至るまでの職員 の話し合いの様子が記されている。
「二学期になって子ども同士のつながりがすごく深まってきたよね。子ども達の遊び を見ていると、チームワークのよさが見えたり、けんかをしながらもお互いに納得で きるよう自分達で解決していたり、相手を認めながら自分を生かせるようになった り・・・・・、わくわく展で年長組のこういう姿を見せたいね。でも、今までみたい に当日までの子ども達の園での様子を写真展示するだけだと今の子ども達の成長の様 子は伝えにくいよね。何かいいやり方はないのかな?」来る日も来る日も二人でその 話をしていましたがなかなかこれだ!という案がでてこないようでした。
そんな時、職員の中から、「当日、子ども達の遊びをそのまま見せたらどうかしら?
そこからみんなに成長を感じてもらおうよ!」そんな声があがったのです。新しい発 想を取り入れてみたいと思いながらもその反面では親達の反応はどうなのだろうか?
子ども達はいつもの姿を見せてくれるのだろうか?そんな心配もあり答をだすまでに は何度も話し合いが必要となりました。
話し合いを重ねるうちに、年長の担任を中心に職員みんなの気持ちも次第に団結し ていき、こうしてわくわく展は子ども達の遊びをそのまま見せるやり方に決まりまし た50)。
わくわく展では「おすし屋さん」、「おばけやしき」、「クッキー屋さん」と活動を展開し ていった様子が紹介されている。お母さまからは「動く展覧会のようで子どもの様子がよ く見えた」51)との感想をいただいたとあるが、同時に「今まで保育の中で私達は子どもの
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遊びが見栄えよくなるように、形が残るようにとついついレールをひいてしまっていたよ うに思います。」52)と、それまでの保育をふりかえっている。
「今まで保育の中で私達は子どもの遊びが見栄えよくなるように、形が残るように」53)
とあるように、それまでは子どもたちが作った作品を飾り、それを見てもらう形での作品 展であったことがわかる。それが、子どもたちが遊んでいる姿そのままを見てもらうこと で、作品に至るまでの子どもたちのおもい、やりとりなどを見てもらうといった作品が完 成するまでの過程を重視する考え方が出てきた。
この時期の『幼児の教育』誌上には、作品として残すことよりも、活動の過程における 造形経験や子どもの気持ちを重視するという考え方により、粘土あそび、アクリル絵の具 あそび、ガラス絵あそびなどの、自由な造形あそびの活動が多く紹介されている。つまり、
子どもの主体的な表現活動を引き出し表現の喜びを味わわせるためには、興味・関心、発 達特性や造形性などに基づいた環境設定を行うとともに活動の過程自体を重視するといっ た考え方が広まっていったため、作品をつくらせるための「指導」という言葉が次第に敬 遠されるようになったのではないだろうか。
和久洋三が「子どもに秘められた力を信じ、指導は必要ない」という考えを述べた文章 が掲載されている。以下に引用する。
実は僕は、こういう作品を子どもがつくるようになって、指導はできないと思うよ うになりました。僕よりいいものをつくっている人間に、指導はできない。それなら、
どうすればいいのか。子どもが夢中になって取り組める環境を設定してあげることし かありません。何かを教えようとしないで、子どもが無我夢中になって、自分が答え を探しだせる環境を用意してあげる、それが我々の仕事ではないかと思っています。
だから、今、僕はアトリエに指導に入っても、ああしろ、こうしろとは一切言いませ ん。
最近は、日本中のいろいろな幼稚園や保育園に呼ばれますが、そこで、全く初めて
69 の子と出会います。
そこで何をするかというと、「こういう絵の具をそろえておいてください」「こうい うモチーフをそろえておいてください」と伝えておくだけです。最初の導入で、子ど もの気持ちをモチーフに引きつけることはしますが、こどもが製作を始めたら、一切 何も言いません。放っておきます。ちょっと緊張感が弛緩した子、集中力が途切れた ような子に、「おお、いいじゃないか、すごい!」と言うだけです。そうすると子ども はその気になって、またやり始めます。
これができるようになったのは、必ず子どもはやるということを信じられるように なったからです。
積み木遊びでも、導入が終わると放っておいて、好きにやらせて集中し出すと、そ れを見ているだけです。そこから生まれてくるものがすごい世界なのです54)。 子どもの自由でのびのびとした表現を尊重し、ありのままを認め、指導は必要ないとい った創造美育協会を中心とした考え方は戦後の幼児の造形活動に大きく影響を及ぼしたと いえる。
明治期における『幼児の教育』掲載記事では造形活動の多くが、作り方の紹介であった り指導の仕方などが主であった。それに比べると、平成期は記事の多くが実践活動の紹介 であったり、子どものありのままの姿が細かく記述されている。幼児教育の考え方は、教 師主導から子ども主体に考えられるようになり、子どもの姿を捉えた上で発達段階に応じ た環境を用意する活動の考え方が定着してきた。
しかし、一方で戦後の美術教育の問題点も浮き彫りになる。金子一夫は、「戦後の美術科 教育は、子どもの創造力解放という一種の精神主義をとり、なるべく教えないで意欲を掻 き立て励ます方向がとられた。しかし、戦前の指導を知らない教師が多くなるにつれて、
精神主義では具体的に何をすべきか戸惑うようになった。指導事項の明確な、これらの方 式が出現すると、歓迎されて広まった。」55)と述べている。小学校では、「キミ子方式」や