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北魏・北朝並行期の遺跡より出土した金属製頭部結束具と頸部飾

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北魏・北朝並行期の遺跡より出土した金属製頭部結束具と頸部飾

:ユーラシア東部草原地帯での広がりに着目して

大谷育恵

( 日本学術振興会特別研究員 PD)

Ⅰ . はじめに

 筆者はこれまで鮮卑との関連が指摘される遺跡から 出土した金属製の装身具を検討してきており、まずそ の型式変化を明らかにし、その上でその型式変遷の中 でみられる新たな要素の出現や断絶といった画期に着 目することでその背景を考察してきた。装身具はその 装飾する身体部位にもとづいて、頭飾、耳飾、頸部飾、

帯飾、手に関係する装飾(指輪、腕飾)に分類でき、

これに装飾部位を特定できない飾板の類である牌飾が 加わる。鮮卑慕容部の三燕についてはそのほぼその全 種類について報告しており[大谷2011; 2018]、拓跋部 に関連する遺跡については、先に耳飾についてのみ「中 国北辺を対象とした金属製装身具の研究(1)」の副題 で報告している[大谷2012]。本稿は前稿に続いて鮮 卑拓跋部に関連する金属製装身具のうち頭飾と頸部飾 を考察したもので、「中国北辺を対象とした金属製装 身具の研究(2)」にあたる。しかしながら、検討対象 のうち頭部結束具を“装身具”の語で呼ぶのははため らわれたためこの副題を付していない。頭部結束具と は死者の下顎骨が外れないように頭蓋骨と下顎骨とを 固定するためのもので、いわば「死に装束」として着 用された葬具である。これに対して、装身具とは日常 的あるいは特定時に身体を装飾したものである。金属 製装身具はいずれもその大半が埋葬遺構から出土した もので、死者が埋葬時に身に着けていたものが考察材 料となっているが、資料によってはこのような性格の 違いがある。本稿では死者が埋葬時に身に着けていた ものという広い定義でとらえ、頭部結束具についても 考察対象としている。

 対象とする年代の北魏は、文献資料においては、代 は内蒙古中南部で勢力をのばした拓たくばつ跋猗蘆が西晋に よって310年に大単于代公に封じられたことに始ま るが、376年に一度前秦によって滅ぼされる。しかし 前秦が東晋との淝ひ す い水の戦いで敗北して弱体化すると、

386年に賀蘭部に逃れていた拓跋珪が牛川で代王の位

について再興し、同年4月には魏王と改称、その後勢 力を拡大して天興元年(398)には盛楽から平城に遷都 し、正式に皇帝に即位する。考古学における鮮卑に 関連する年代区分は表2と表3にまとめたとおりであ り、確実に北魏墓といえるものは太延元年(435)の沙 嶺7号墓までしか遡ることができない。本稿は前稿と 同様に、北魏平城期を特徴づける頸部に暗文を施した 細頸壺と平沿罐・盤口罐をもって区分し、それらが出 現して以降の遺跡を対象に資料集成を行った。そして 対象とする年代の下限については北朝としたいが、同 型式の頭部結束具と頸部飾の使用はその後も継続して おり、その後の展開をみるために適宜唐代並行期まで の資料を含めている。

.

頭部結束具 1.研究史

 頭部結束具とは、死者の下顎骨が外れないように下 顎骨と頭蓋骨とを固定したものである。中国では頤おとがいを うけるこの装具を「下頜托」の名で呼んでいる1)。  顎を覆う金属片の存在は各発掘調査報告の中で報告 されていたが、改めて金属製の頭部結束具が注目され るきっかけとなったのは、大同南郊北魏墓群の調査で ある。同墓地の調査は167基という多数の北魏墓から なる墓群全体を発掘調査したため、北魏平城期の考古 学研究が活発化する多くの資料を提供した調査であっ た。同墓地では12点の頭部結束具が出土し2)、考察 編の「葬俗」で考察が加えられている[山西大学歴史

文化学院2016:490-491]。その後金属製の頭部結束具

に関する専論には、ミュラー(宋馨)[Müller2006]、馮 恩学[2011]、呉小平[2013]、王春燕[2014]、王飛峰[2015]

などがある。これら各論の考察内容については考察で 検討するので、まずは北魏期の頭部結束具とそれが出 土した遺跡について先に確認したい。

(2)

2. 北魏期の頭部結束具

 この時期の頭部結束具は、北魏平城期の資料が大同 市とその近郊の4墓地と内蒙古自治区の2墓地で出土 している。そして、洛陽遷都以降の時期の資料が陝西 省の1基の紀年墓から出土している。

大同南郊北魏墓群(電焊器材廠墓地)  大同南郊北 魏墓群は1988年に調査された墓地である。墓地には 167基の墓が密集しているものの、他の墓を破壊し切 り合う関係にあるものはほとんどない。構造からみた 墓の内訳は、盗掘を受けた117号墓1基のみが磚室墓、

17基が竪穴土坑墓、その他はすべて洞室墓であった。

[山西大学歴史文化学院ほか2006]。

 前述したように、この墓地では12基の墓で12点の 頭部結束具が出土している。このうち最も良好な保 存状態で出土した107号墓出土資料で構造を確認した い。頭部結束具M107:6(図1-2)は、鉢巻状の帯状金 片と、頤おとがいをうける顎托金具の2つのパーツから構成さ れている。鉢巻は長さ64cm、幅1.4cmで、一方の端 はやや幅広い方形になっており、その部分に縦長長 方形の穴が2つあけられている。この穴に末端から 10cmがやや細く加工された鉢巻反対側の端を差し込 んで額部分に固定していた。顎托金具は頤をうける部 分が舟底形のくぼみになっており、周囲には30個の 小孔が穿たれている。そして顎部分の両端からは、鉢 巻に巻き付けて固定するための帯状金片が伸びてい る。頬に沿うこの帯は、顎部分からやや上までは1本 だが、両頬の位置に円形に切り出された部分があり、

そこから二股に切り替わってY字形をしている。合 計4本のこの帯状金片は、鉢巻に横方向に切開された 切込みに挿しこみ、先を折り曲げて留めていた。出土 した際にはこの頭部結束具の内外面に絹織物が残留し ており、ある部分には綿状の絹が残っていたことか ら、クッションとなるものをあてていたと推測されて いる。青銅片外側では円形の図案を刺し刺繍した絹織 物が確認されている。

 109号墓の頭部結束具は図化されていないが、出土 状況写真から額部分に鉢巻状の帯状金片があり、顎を 包む顎托金具も確認できる(図1-1)。顎托金具の顎部 分からのびた帯状金片は途中で破損しているが、その 破損部が円形に幅広くなっているようにみえることか ら、M107:6と同様の形状の2つのパーツから構成さ れた頭部結束具であったと推測される。またこの埋葬

で注目されるのは、被葬者の額部分で三角形の青銅飾

金具M109:10が出土している点である。この金具は

三角形の両側縁が火炎状に切り込まれており、内側に は勝しょうを挟んで向き合う2羽の側視鳳凰文が透彫りで表 現されている。この金具の下辺には等間隔に小孔が穿 たれていることから、鉢巻等に縫い付けられていたも のと思われる。このような三角形の透彫り金具は金きんとう璫 とも異なり、現在のところ他に類例がない。しかし文 様は鳳凰と勝という中国的なモチーフであり、双鳳文 の金きんとう璫を意識して制作したものであろうか3)。被葬者 は人骨から20~25歳の女性と鑑定されている。

 同墓地出土の頭部結束具でこの他に図化して報告 されているのは24号墓と214号墓出土の2点のみで ある。M24:9(図1-4)は外周に小孔が穿たれていない。

表面には藍色の顔料が塗られており、絹織物の痕跡が みられたという。M214:1は顎托金具の顎部分の両側 縁に沿って10個の小孔が穿たれている(図1-3)。

斉家坡北魏墓  斉家坡北魏墓は大同市小南頭郷で発 見された土洞墓である。この墓からは副葬品195点が 出土し、また木棺1棺が良く残っていたが、人骨は大 部分腐朽していた。報告には頭蓋骨付近で2片の舟形 の金製品が出土したと記載されている[王銀田・韓生

存1995]。図面がないが、形状と出土状況から頭部結

束具を装着していたものと推測される。

迎賓大道 37 号墓  迎賓大道北魏墓群は大同市東郊外で 道路建設中に発見された北魏墓群で、75基の墓が調査され、

その一部資料が簡報で報告されている[大同市考古研究所

2006c]。掲載された墓葬平面図から、洞室墓である37号

墓では、被葬者の頭部付近で青銅製頭部結束具が出土し たことが確認できる。形状は不明。

う っ ち遅定州墓  2010年に大同市高陽県で発見された磚室

墓で、 墓室内に家屋形石槨を備えていた。墓門に尉遅 定州の買磚銘がある。石槨内の石せきとう榻上で確認された人骨は 成年女性1体で、頭部結束具を装着していた[大同市考古

研究所2011]。石榻と被葬者を写した写真が掲載されている

ものの、頭部結束具の形状は不明。

大同市博物館展示資料  詳細は不明であるが、大同 市博物館に銀製の顎托1点が展出されている(図1-7 右)。Y字形に分岐した帯状金片の先端には穿孔があ る。

イ フ ・ ノ ー ル

和淖爾墓地  内蒙古自治区錫シ リ ー ン ・ ゴ ル

林郭勒盟正鑲白旗に 所在し、2010年に盗掘によって発見された。6基の墓

(3)

2.大同南郊 M107:6 1. 大同南郊 109 号墓

3.大同南郊 M214:1 4.大同南郊 M24:9

図 1 頭部結束具①( 北魏 ) 9.Pierre Uldry collection [外部に付着した絹織

物上の刺し刺繍図案 ]

5.伊和淖爾 3 号墓

7.大同市出土

8.個人蔵 ( ベルギー )

6. 伊和淖爾 1 号墓 (①M1:184,②M1:182,③M1:190)

(4)

のうち、5基の洞室墓が北魏墓である4)。頭部結束具 は1号墓と3号墓で出土している。

 盗掘された1号墓からは頭部結束具が回収されて

いる(図1-6)。全体形は大同南郊M107:6と同じだが、

顎托金具の顎部分と両頬に沿うY字形金片が別作り になっており、3パーツは各2個のリベットで結合さ れていたらしい。鉢巻状金片には切込みがなく、Y字 金具の2本に分かれた先端に2つないしは4つの穴が ある。またこの頭部結束具は全面に文様があり、鉢巻 金片とY字形金片は列点文線によって構成された格 子目文様が打ち出されており、顎托金具の顎部分は外 周を忍冬文で囲みその内側に対峙するC字形に身を 翻す龍2匹と鸚鵡2羽を配置した文様が蹴彫りで表現 されている。

 そして速報で掲載された写真に基づくと、3号墓被 葬者もまた頭部結束具を装着していた(図1-5)。木棺 内に身体全体を黄色の絹織物で包んだ遺体が安置され ており、被葬者は頭に鉢巻状金片、頸部に金頸部飾、

腰部に金蹀躞帯を帯び、指には金の指輪をはめ、革靴 を履いていたという[陳永志ほか2016]。

邵眞墓(任家口229号墓)  邵眞墓は陝西省西安市

の西郊外で発見された未盗掘の墓である。甬道で墓誌 が出土し、被葬者の邵眞は正光元年(520)に下葬され たことが分かる[陝西省文物管理委員会1955]。頭部 結束具は銀製で5)、墓室奥の一段高く磚の積まれた棺 床床面で出土した。「1点。頭蓋骨に巻いて締めると 同時に下顎を包む何条かの銀片が連なっており、下顎 部分は杓子状をしている」と記述されている。

3. 北魏~北朝期の収蔵資料

 コレクション資料の中にこれまでみてきた北魏期の 頭部結束具に類似する資料が2点存在する。

個人蔵資料  ベルギーで収蔵されている個人蔵資料

である(図1-8)。鉢巻1点と3つのパーツからなる顎

托が全て揃っている。顎托金具の3点のパーツは蝶番 で連結されていた。鉢巻には忍冬文と両手をかかげた 蓮華化生人物像の連続する文様が打ち出されている。

顎托金具の顎のあたる部分は龍文や鳳凰文の打ち出し に加えて、貴石やガラスをフレーム内に嵌めた象嵌や 粒金で装飾されている。そしてその楕円形の外周には やはり小孔が穿たれている。

ピエール・ウルドゥリー コレクション資料  スイ

スのリートベルク美術館に収蔵されているピエール・

ウルドゥリー コレクションの中に1点の顎托金具が

ある(図1-9)。頬に沿うY字形金片には円形の切り出

しがあり、その下は顎部分金片と蝶番で連結されて いる[Müller1996:31-32]。3つのパーツのいずれにも 文様が打ち出されている。金片は外周と四分割線が 忍冬文で区切られ、四分割された区画内はライオン あるいはキメラと記載されているが[Museum Rietberg

Zürich1994]、判然としない。外周には60個の小孔が

穿たれている。

構造と分類  以上で北魏墓出土ならびに北魏~北朝 期と推定される金属製頭部結束具について集成した。

頭部結束具の構造について確認すると、ミュラーが3 種類に分類している[2006:42-44]。その分類は、Ⅰ型 (北魏平城期)は顎托金具とそれを止めるための鉢巻 からなるもの、Ⅱ型はより簡略化したもので、顎托金 具のつる両端を互いに結び合わせて結束したもの、Ⅲ 型は顎托金具のつるが退化して耳の高さまでしかな く、ヘッドギア6)でのみ固定されるものである7)。上 記で新たな出土資料を加えた集成でみても、ミュラー の分類視点は現在でも有効で、北魏の頭部結束具はい ずれもⅠ型のものである。改めて指摘すると、北魏期 の金属製結束具の特色としては、①結束方法との関 連から鉢巻と顎托金具という2つのパーツから構成さ れる、②顎托金具は頬部金帯がY字形のものが多い、

という2点があげられる。また顎托金具の構造につい ていうと、全面に文様のある顎托金具は、顎部分とY 字形の顎部金帯が別作りになった3パーツを連結した 構造になっている。

4. 金属製頭部結束具の出現と背景

 頭部結束具に関する専論には、前述のようにミュ ラ ー[2006]、 馮 恩 学[2011]、 呉 小 平[2013]、 王 春 燕

[2014]、王飛峰[2015]等がある。まずはこれら論考に

おいて、頭部結束具の出現と系譜関係、そしてその使 用の裏にある宗教的あるいは文化的背景についてどの ような意見が提出されているかを確認したい。

 ミュラー論考は、大同南郊北魏墓群の調査で新た に出土した金属製の頭部結束具に注目しつつ、布など その他材質を用いた事例も集成対象に含めて東西世界 の頭部結束事例を博捜している。そして頭部結束習俗 の起源と系譜関係については、ユーラシア大陸アジ

(5)

表 1 金属製頭部結束具出土遺跡一覧 ( 唐代まで )

No. 遺跡名 地名 紀年 形態 材質 文献 写・図 備考

1 大同南郊 M24:9

山西省大同市 北魏

- 青銅『 大 同 南 郊 北 魏 墓 群 』p.161

77b-4*,図版4-2,54-6 1/女性[50-55]/顎下で出土 2 大同南郊 M35:11 - 青銅 『同上』p.36記載 なし 3/女性[25-30]/頭部で出土 3 大同南郊 M53:8 - 鉛 『同上』p.13記載,図版1-1 なし 4/女性[50-55]/頭部で出土 4 大同南郊 M87 鉛 『同上』p.197記載 なし 4/子供[10-15]/既朽 5 大同南郊 M107:6 U/ 鉢 青銅 『同上』p.233105G*,図版75-4 写・図 3

6 大同南郊 M109:7 U/ 鉢 青銅 『同上』p.238107A,彩版1-1* ( 写 ) 3/女性[20-25]/頭部で出土 /出土状況写真に写る

7 大同南郊 M116:15 - 青銅 『同上』p.248記載 なし 3/ 頭部で出土 8 大同南郊 M208 - 青銅 『同上』p.293記載 なし 4

9 大同南郊 M211:7 - 青銅 『同上』p.25記載 なし 2/女性[15-20]/頭部で出土 10 大 同 南 郊 M214:1( 南

棺 ) - 青銅『 同 上 』p.300128d-5*,図 版

91-7 写・図 3/顎下で出土

11 大同南郊 M239:9 - 青銅 『同上』p.328記載 なし 5/頭部痕跡の場所で出土 12 斉家坡北魏墓 山西省大同市 北魏 - 金 『文物季刊』1995-1,p.16記載 なし

13 迎賓大道 M37 山西省大同市 北魏 - 青銅 『文物』2006-10,p.53記載 なし 女 性 / 墓 葬 平 面 図 ( 図 8) 内 に 明

14 大同市博物館 - 北魏 U 大同市博物館展出 * ( 写 ) 頸部飾と共に展示 15 尉遅定州墓 山 西 省 大 同 市

陽高県 北魏,太安3

[457] - 青銅 『文物』2011-129 装着人骨は成年女性

16 伊和淖爾 M1

内 蒙 古 錫 林 郭 勒盟正鑲白旗 北魏

U/ 鉢 『2015中国重要考古発現』p.94*、

『文物』2017-1,p.3153-4,6,11* 写・図 17 伊和淖爾 M3 U/ 鉢 不明『2015中国重要考古発現』p.93*、

The Silk Road,vol.14 ( 写 ) 出土状況写真

18 邵眞墓 ( 任家口 M229) 陝 西 省 西 安 市

蓮湖区 北魏,正光

元年[520] - 銀 ? 『文物参考資料』1955-12記載 - 記述では銀だが、墓平面図キャプ

ションでは「16. 錫口帯」/ 邵眞 [ 天 生 ] は阿陽令假安定太守 19 Pierre Uldry collection - 北魏~北朝 U/ 鉢 Chinesisches gold und silber,121* 5 世紀後半~ 6 世紀初 [ 左記出典] 20 個人蔵 ( ベルギー ) - 北朝? U/ 鉢 L'Asie des steppes, p.164,tab.153*

21 アクチー - カラス墓地 (Акчий-Карасу)

キルギスタン , ジ ャ ラ ラ バ ー

ド州 1-5 世紀 U Степная полоска~,таб.30-21、

Шедевры древнего искусства

Кыргызстана,с.13* 図・写 ケンコール文化 (1-5 世紀 ) 22 九龍山 M28:2,3 寧 夏 固 原 市 原

州区 隋末~初唐 U? 『固原九龍山漢唐墓葬』p.121

49-3,4*、図版44-3,4* 写・図

23 九龍山 M33:5 寧 夏 固 原 市 原

州区 (527

)~初唐 U/ 冠 『 同 上 』p.12852-4,5*、 図 版 46-1*、『 文 物 』2012-10,p.60 4-9

写・図 男性人骨に装着/ビザンチン金貨 (ユスティニアヌス1[527-565]) 共伴

24 固原県城 1998 年徴集 寧 夏 固 原 市 原

州区 ? U 金 『文物天地』2017-9,p.5319* 25 賀若厥墓 ( 咸陽国際機

場 ) 陝 西 省 咸 陽 市

渭城区 ,武徳4

[621] 『考古與文物』2000-4封表、『考

古與文物』1993-6 独狐羅合葬墓 26 史道徳墓 (M1) 寧 夏 固 原 市 原

州区 ,儀鳳3

[678] U/ 冠 『 文 物 』1985-11,p.23、『 固 原 歴

史文物』124 写・図 倣製ビザンチン金貨共伴/給仕郎 蘭池正監

27 李 徽 墓 ( 鄖 県 磚 瓦 廠

M5) 湖 北 省 鄖 県 城

関鎮 ,嗣聖元

[684] U 不明『文物』1987-8,p.311(墓葬図

№50) - 新安郡王 / 濮王李泰と閻婉(本表 30)の子

28 閻識微 [ 智 ]・裴氏墓

( 馬家溝 M1:115) 陝 西 省 西 安 市

㶚橋区 ,神龍2

[706] 銀 『文物』2014-10,p.3535 裴氏(691年卒)に伴う/冠飾も

出土 29 金郷県公主・于隠合葬

陝 西 省 西 安 市

㶚橋区 ,開元12

[724] 青銅『 文 物 』1997-1,p.1434、『 唐

金郷県主墓』 写・図 公主は高宗の孫/夫の于隠は689 卒、690

30 閻 婉 墓 ( 鄖 県 磚 瓦 廠

M6:7) 湖 北 省 十 堰 市

鄖陽区 ,開元12

[724] U 銀 『文物』1987-8,p.3816-1 青銅冠飾も共伴/閻婉は濮王李泰

妃、李徽 ( 本表 28) の母/690年卒、

695年葬、724年改葬 31 李淑嫺 [] 墓 陝西省西安市 ,開元24

[736] - Das grab der Li Chui,p.79,tab.9-3 図・写 32 雷君夫人宋氏墓 ( 功徳

山居長墓 ) 陝西省西安市 ,天宝4

[745] 『考古通訊』1957-5,p.60図 2、『考

古與文物』1991-5 内侍雷府君夫人/道教徒 33 鄭 夫 人 墓 ( 杏 園

M5109) 河南省偃師市 ,天宝13

[754] 不明 青銅『偃師杏園唐墓』p9984(墓葬

)、p.166出土遺物統計表 なし 夫の李全礼は遊撃将軍河南轅府折

冲都尉兼渤海副使上柱国 34 竇承家墓 ( 杏園 YHM3) 河南省偃師市 ,至徳元

[756] 不明 鉛 『同上』p.166出土遺物統計表 - 潤州丹陽主簿

35 鄭洵墓 ( 杏園 M5036) 河南省偃師市 ,大暦13

[778] - 青銅『同上』p.100図85(平面図)、p.135

記載 - 2/監察御史貶岳州沅江県尉

36 葦河墓 ( 杏園 M2003) 河南省偃師市 ,大和3

[829] - 青銅『 同 上 』p.170156(平 面 図)、

p.209記載 - 偃師県主簿

37 高秀峰・李氏墓 ( 東明

小区 C5M1542:15,28) 河南省洛陽市 ,大和3

[829] 銀 『文物』2004-7,p.3535 両人とも装着

38 崔防・鄭夫人墓 ( 杏園

M5013) 河南省偃師市 ,会昌2

[842] 不明 青銅『偃師杏園唐墓』p.252出土遺物

統計表 - 崔防は舒州懐寧県令/「銅頜」が

相当か 39 李郃墓 ( 杏園 M2443) 河南省偃師市 ,会昌3

[843] 不明 青銅 『同上』p.171157(墓葬図) - 賀州刺史

40 李帰厚・廬夫人墓 ( 杏

園 M1819) 河南省偃師市 ,大中12

[858] 不明 青銅 『同上』p175163(墓葬図) - 李帰厚は毫州鹿邑県主簿

41 田王二隊唐墓 陝 西 省 西 安 市

㶚橋区 『文博』1992-3図版3-6、『西安 文物精華・金銀器』135、『遥か

なる長安』3-49 1979年出土/『文博』掲載写真は 冠飾とおもわれる金条片も付着し た状態の写真

*は掲載図版出典

(6)

No. 遺跡名 地名 紀年 形態 材質 文献 写・図 備考 42 風雷儀表廠唐墓 陝西省西安市 青銅 『大唐皇帝陵』40 つる先端がフック状

43 杏園M0954 河南省偃師市 晩唐 不明 青銅『偃師杏園唐墓』p.185178、p.251出土遺物

統計表 - 開元通宝

44 雷家坪M1:4 湖北省恩施土家族苗

族自治州巴東県 銀 『湖北庫区考古報告集』4, p.9256-1

45 廟坪M38 湖北省宜正市稊帰県 不明 銀 『秭帰廟坪』p.192 - 開元通宝1/銀頭飾と記載 46 廟坪M90 湖北省宜正市稊帰県 唐宋 複雑 銀 『秭帰廟坪』p.212172 開元通宝1,天禧元宝2,

87/銀頭飾と記載 47 登天包M6:5 湖北省宜正市稊帰県 不明 呉・崔2010(呉小平によると呉春明教示) -

48 上関M34:2 重慶市奉節県 青銅 『重慶庫区考古報告集』1998p.2924

49 上関M44:2 重慶市奉節県 青銅 『同上』1998p.293記載 -

50 宝塔坪M1006 重慶市奉節県 晩唐 環 銀エロ )( ニ『宝節宝塔坪』『辺疆考古研究』7, p.3141 男性

51 宝塔坪M1010:8 重慶市奉節県 青銅 『重慶庫区考古報告集』2000巻上p.54219-3 開元通宝 1

52 江東嘴ⅡM5:6 重慶市巫山県 U 銀 『同上』2001巻上p.3134-6

53 皇帝崗木槨墓 広東省広州市 晩唐 銀 『考古』1959-12, p.6681(墓葬図) ( 図 ) 墓誌出土も読み取れず

ア地域の頭部結束習俗の初源は前8世紀のタリム盆 地(扎ザ ー グ ン ル ク

滾魯克遺跡)であり、これは西アジアと地中海 世界の最初期資料に並行するものと位置づける。頭 部結束習俗はその後も同地のオアシス国家で継続し (営インパン盤、尼雅、山 サ ン プ ラ普拉遺跡)、後5世紀になってその 習俗は鮮卑拓跋族によって平城に持ち込まれたことで 中国本土に伝わったとする[Müller2006:61-62]。

 次に唐墓で出土した頭部結束具に対して検討を加え た馮恩学は、ゾロアスター教文化に源流があるとし た。頭部結束具は聖なる火に息がかからないように祭 司の口を覆ったパダームが転化したもので、次第に漢 人にも受け入れられるようになった葬具であると述べ

ている[馮2011:63-66]。馮恩学と同じくゾロアスター

教の影響を指摘するのは王春燕で、吐爾基山遼墓 (10 世紀初)(図2)で出土した頭部結束具を中心に考察し ており、頭部結束具の出土から契丹人の生活の中に ゾロアスター教文化が及んでいると理解している[王 2014:27-28]。

 また異なる見解を提出したのは呉小平である。呉小 平は頭部結束具の起源については、ミュラー論文で示 された古代ギリシアの諸例を挙げ、新疆と大同出土の 頭部結束具は共にその東伝の結果であるとする。中央 アジアで唯一確認されているティリャ・テペ出土資料

については、被葬者は以前新疆に居住した大月氏であ るため、新疆より伝わったものと位置付けており、ギ リシャと新疆の間の広大な地帯では頭部結束具は出 土しておらず、その原因は不明とする[呉2013:101]。

そして馮恩学の説に対しては、頭部結束具の出現がゾ ロアスター教の出現より早いこと、新疆での頭部結束 具の出現がソグド人の中国域内居住よりも早いことか ら否定している[呉2013:102-103]。呉小平が頭部結束 具の使用背景として指摘したのは、頭部結束具の初期 の分布が基本的に草原遊牧地域であることから、同地 で流行したシャーマニズムの霊魂観との密接な関係で ある[呉2013:101-102]。

 そして上記のいずれに対しても否定的な見解もあ る。王飛峰は、まずゾロアスター教起源説に対しては、

多くのゾロアスター教を信奉する中国の中央アジア、

西アジア人墓地(安伽墓、史君墓、虞弘墓など)で頭 部結束具が出土していないことから、中国域内で出土 した金属製頭部結束具とゾロアスター教の間に直接 的な関係があることを考古資料から証明できないとす る。そしてシャーマニズムとの関連説についても、唐 代以降の金属製頭部結束具の分布状況と使用者の身分 からみて、シャーマニズムとの関係では説明できない とする。それでは頭部結束具の使用にはどのような背 景があるかというと、「死に事えること生に事えるが 如し」8)という観念と密接な関係があると指摘してい

る[王2015:789]。王飛峰はこの2つの説だけでなく、

ミュラーが示した古代ギリシャと新疆で出土した最初 期の頭部結束具についても、それぞれが独自に発生し た可能性を排除できないと両者を関係づけることに慎 重な立場を示している。ただしティリャ・テペの金製 頭部結束具については、新疆の布製頭部結束具の影響 図 2 吐爾基山遼墓出土頭部結束具

(7)

のもとで出現したものであり、その後北魏期に平城で 出現する頭部結束具はティリャ・テペの頭部結束具の 影響を受けた可能性があるとする[王2015:790]。

 以上各論で提出された意見をみてきたが、本論で検 討する北魏平城期の金属製頭部結束具の起源はどこか という問題について考えると、北魏平城期に出現する 金属製頭部結束具は非中国的な装具葬具であるという 認識には異論がないだろう。問題はその非中国的要素 の起源であり、ミュラーは新疆のオアシス地域からの 流入を想定しているが、新疆の出土例は絹製、北魏平 城の場合は金属製と素材が異なり、また結束方法と構 造も異なることから、両者を関係づける必要はないと 考える。そしてティリャ・テペ出土資料と関連づける 意見についても、北魏平城期の資料が4世紀末~5世 紀、ティリャ・テペ遺跡は紀元前後1世紀間という両 遺跡間の年代差、そして付論で後述する民族移動期の 観点からみて、両者の間に相互影響関係を想定するこ とはできないと考える9)

 また馮恩学の頭部結束具の使用とゾロアスター教を 関連づける意見に対しては、呉小平の反論に賛成す る。しかしながら、年代のやや下がった北朝から初唐 期の寧夏固原の遺跡で出土した金属製頭部結束具の一 群(北朝~初唐)については、後述するように中国域 内に居住したソグド人との関連が想定されるだろう。

そしてこの他にシャーマニズムの霊魂観、生前の状態 を保つという観念から使用されたという説が出ている が、それについては否定も肯定もできない。特に中唐 以降、その分布範囲は南に拡大すると同時に黄河より 北あるいは中国西北部での出土事例が確認できず、北 魏平城期の出現当初の使用背景とは変化している可能 性がある。例えば寧夏固原出土の一群は中国域内に居 住したソグド人との関係が想定されるが、雷君夫人宋 氏墓(745年)では出土墓誌の内容から宋氏は道教徒

とみられ[周錚1991]、被葬者の信仰と葬具の間の関

係は一概には言えないようである。

 それでは北魏平城期の頭部結束具について、その使 用と民族の関連性は指摘できるのかというと、不可能 である。表3のように墓誌が出土した場合には被葬者 の出自が判明し、また様々な出自をもつ集団が平城 に居住していたことが分かるが、出土資料の点では 基本的に北魏平城期の考古学文化に属しており、副葬 品から出自を識別することは不可能である。したがっ

て頭部結束具の使用と民族の関係については、平城で 出土したことから拓跋部に関連すると結論付けること もできない。近年新たに伊イ フ ・ ノ ー ル

和淖爾墓地の調査で平城以 外の地域での使用が明らかになったところであり、今 後の報告を待ってなお考察が必要である。また頭部 結束具の使用と社会階層の間の相関関係についても、

ミュラーの指摘するように結論付けることが難しい [Müller2006:56]。頭部結束具と使用者の性別について は、北魏に限ると女性が圧倒的に多いものの邵眞墓の ように男性の例もあり、一概に述べることはできない。

 以上が筆者の北魏期の頭部結束具の起源とその使用 背景に対する見方であるが、本論を通じて筆者が指摘 したいのは、ユーラシア東部草原地帯の類例を含めて 考察すべきという点である。ミュラー論考ではそれら 資料が含まれておらず、またミュラー論考以降に現中 国域外の資料を追加したものもない。そこで、以下で は前述した寧夏固原の頭部結束具の一群とユーラシア 東部草原地帯の2点について、出土資料を提示する。

5. 寧夏固原の装飾付額帯を伴う頭部結束具

 この頭部結束具の一群は、いずれも上辺に装飾が切 り出された額帯と顎托金具という2つのパーツからな る頭部結束具である(図3)。

九龍山墓地  寧夏回族自治区固原市原州区に所在 する。33号墓は長斜坡墓道を有する単室土洞墓で、

35~40歳代の男性と25~35歳代の女性の2体が埋葬さ

れていた。このうち男性人骨が金製の頭部結束具を装 着し、口中には金貨1枚を含んでいた(図3-1)[寧夏 文物考古研究所2012a:61]。頭部結束具M33:5の顎托 金具は頬に沿う帯が一本で、両端には穴を各1個あけ ている。金具の外周一周と中心ラインには一列の列点 文が打ち出されている。額帯の文様は、中央に日月文 とリボン、その両側に鳥翼、小さな日月文とリボン、

鳥(?)の順に並んでおり、三面日月鳥翼冠である10)。 33号墓の年代は口中に含んでいたビザンチン金貨が ユスティニアヌス1世治世(527-565年)のものである ことから、埋葬されたのは北魏孝昌2年(527)以降で あり、最終的には共伴する白磁から隋墓と考えられる。

 また同墓地28号墓からも顎托金具の一部かと思わ れる銀片2点が出土している(図3-2)。

寧夏固原県城1998年徴収資料  詳細は不明である が、装飾付額帯と顎托金具のそろう資料が回収されて

(8)

いる(図3-3)。

史道徳墓  寧夏回族自治区固 原市原州区の小馬庄郷に所在す る史氏墓地の中の1基である。

墓誌より被葬者の史道徳は給仕 郎蘭池正監となり、唐の儀鳳3

年(678)に死去し下葬されたこ

とが判明する[寧夏固原博物館 1985]。この墓で出土した顎托 金具は頤を受ける部分の中央が 柳葉形に切り抜かれており、こ の左右に各2枚の金片をリベッ ト接合して1本に形成している

(図3-4)。額帯は中央に日月装

飾、五角形状の装飾2点がつい ている。五角形状の金片は表面 に文様が打ち出されており、鉢 巻になる帯状金片に蝋付けされ ている。史道徳墓ではまた、眉、

目、鼻、唇形に切り抜いた青銅 鍍金板も共伴しており、これら のパーツを縫い付けたマスクで 顔面は覆われていたものと推測 される。

 以上が寧夏固原出土の装飾付 額帯をもつ頭部結束具の集成で ある。装飾付額帯には日月文を 持つものがあるが、同冠飾資 料については影山の論考[2007]

がある。影山は冠を三面日月 冠(正面と左右両側に三日月を つける冠)と鳥翼冠(鳥の翼を 両側に広げたタイプ)とに分類 し、前者はササン朝の王冠では なくエフタルのヒンギラ王の王 冠で、後者もまたエフタルの王 冠であったと推測され、それが ソグド人の間で好まれて定着し た冠であるとする。確かに王飛 峰が指摘するように、史君墓な ど多くの中央アジアに出自をも つ中国域内居住者の墓からは頭 1-2. 九龍山 M33:5

4. 史道徳墓 [678年 ]

図 3 頭部結束具②( 寧夏 , 北朝以降 )

3. 寧夏固原県城 1998 年徴集 2. 九龍山 M28:2,3

(1-2=1/5, 2=1/2) 1-1.九龍山 33 号墓被葬者頭部

図 4 頭部結束具③ アクチー・カラス墓地

(9)

部結束具が出土していないが、固原周辺では集中的に 装飾付額帯のある頭部結束具が出土しており、史道徳 はソグド人であることと影山の冠飾の考察結果をふま えると、この一群についてはソグド人の関連を想定で きると考える11)

6. 中央ユーラシアの出土例

 キルギスタンの遺跡で1点の資料が確認できる。

アクチー・カラス墓地  「トルケン墓地」の名で報 告されているものもあるが[Moshkova1992]、実際の 遺跡名はナリン川中流のケトメニ-トュベ盆地に位 置するカタコンベ墓の墓地のアクチー・カラス墓地 (Акчий-Карасу)出土[Isiralieva2014]と考えられる資料 である12)。墓地の報告は出されておらず、この頭部結 束具のみモシュコヴァ編概論中の章「ケトメニ-トュ ベ盆地、フェルガナ、アライの早期遊牧民」の「烏孫 期の遺跡」の項で例示されている(図4)。記載には「時 折裕福な墓葬では、金薄板で作ったいくつかのパーツ (口覆いと鼻覆い)から構成される埋葬マスクが発見 される」[Moshkova1992:90]とあり、図で公表されて いるのはこの1点でのみあるが、同地ではこの他にも 頭部結束具が確認されている可能性がある。アクチー・

カラス墓地はケンコール文化との関連が指摘されてお り、その年代は1~5世紀である。

Ⅲ . 頸部飾

 北魏墓からは、「翼状金片」あるいは中国語で三日月形 を意味する「月牙形金片」の名で呼ばれる板状の頸部飾が 報告されている13)。これらの資料が頸部飾であることは、

イ フ ・ ノ ー ル

和淖爾遺跡の出土状況から確かめられる(図1-5)。

 北魏墓出土の頸部飾の形状は3種類に分かれ、Ⅰ型は 三日月形のもの、Ⅱ型は三日月の外側の弧線中央に方形の 突出部があるもの、Ⅲ型は三日月外側の弧線が中央位置で 外に尖り出たものである。

1.北魏墓出土の頸部飾

 頸部飾は山西省大同市内の1遺跡と内蒙古自治区の3遺 跡で出土している。いずれも北魏平城期に並行する時期の 墓葬とみられる。

大同南郊北魏墓群  107号墓と208号墓の2基で出土し ている。M107:10はⅠ型である(図5-1)。 左右両端の先に は装着のためと思われる小孔がそれぞれ1つある。頸部飾 の背面には絹織物が付着していた。M208:10はⅡ型で、突 出部下よりの位置に孔1つがある(図5-2)。青銅板は外周 にそって凸線がめぐる。左側先端は欠失のため不明だが、

右側先端は内側に巻き込んで環を作っている。青銅板の外 側は藍色顔料で塗られており、背面には絹織物が付着して いた。

大同市博物館収蔵資料  Ⅲ型の頸部飾である(図1-7

2.大同南郊 M208:10 1. 大同南郊 M107:10

3. 陳武溝 M10:1

図 5 頸部飾①( 北魏 )

5. 伊和淖爾 3 号墓 4. 伊和淖爾 6 号墓

(1,2 S=3/10)

(10)

左)。

陳武溝墓地  陳武溝墓地は内蒙古烏ウ ラ ン ツ ァ ブ

蘭察布市化徳県に 位置し、集寧-通遼間の鉄道複線化工事に伴い2010年に 発掘調査された。竪穴土坑墓14基と偏洞室墓1基の合計 15基からなる[胡暁農2011]。10号墓出土の頸部飾M10:1 はⅡ型で、外周全体と三日月部分の中心ラインが凸線状に 打ち出されている(図5-3)。方形部も2個の円点文とその 間をつなぐ縦方向の凸線がある。

イ フ ・ ノ ー ル

和淖爾墓地  伊和淖爾墓地では2基の墓で出土して いる。6号墓の頸部飾はⅡ型で、陳武溝M10:1と同様の打 出し文様があるようである(図5-4)。両肩にくる左右先端部 分の処理は大同市博物館収蔵資料に近い。

 もう1点の3号墓の頸部飾はⅢ型で、突出部の下に半月 形の垂飾が付く(図1-5; 図5-5)。三日月部分は全面に忍冬 文を打出しており、3箇所に円形のガラスが嵌められていた。

頸部飾に伴うガラスは6点あり、蛍光X線分析の結果によ ると、円形ガラス4点のうち浅い藍色ガラス1点は植物灰 ガラス、深い藍色ガラス3点はソーダガラスであり、雫形の 垂飾深藍ガラス2点と垂飾透明ガラス1点もソーダガラスで あった14)[馬麗亜・艾海提ほか2017:55]。

2.北魏~北朝期に並行する時期の頸部飾

 以上で北魏平城期の頸部飾を確認したが、北魏平城期 に特徴的なⅡ型頸部飾と同様の資料がまた現中国域外で出 土している。これら中国域外出土の資料とコレクション資料 は北魏平城期に並行している可能性もあるが、該当地域の 編年確立の問題などで年代をそれほど絞り込むことができ ない。したがって、北魏~北朝期の頸部飾として、中国域 外出土の資料、コレクション資料、そして北朝期の中国域 内出土の資料、を例示する(図6)。

バヤンホンゴル県ガルート郡の古墓  1973年にモンゴ ル国のバヤンホンゴル県アイマクガルート郡ソム(Баянхонгор аймаг,

Галуут сум)の古墓から出土した資料である。この墓につ

いてその他情報はなく、頸部飾のみが公表されている(図 6-1)[ナバーン2004]15)。Ⅱ型で、全面に菱形の切り抜きが ある。外周と一部の箇所に小孔があり、何らかに縫い付け ていた可能性がある。

ク ラ ス ニ ー・ ス ト ロ イ ー チ ェ リ(курган «красный стороитель»)  1985年にビシケクの北東郊外で生徒ら によって偶然発見された遺物群で、破壊のため不明ではあ るが、元来は墓であった可能性がある。出土資料は一部 公表されていたが、Yu. S. フデャコフとK. Sh. タバルディエ

フらによって近年その出土遺物が報告ならびに考察された [khdyakov et al.2015]。頸部飾はⅡ型で、全面に斜格子文の 打出しがある。三日月部分の左右先端部分に1つ、方形部 の下端に3つの小孔がある(図6-2)。

畢克斉鎮古墓  呼フ フ ホ ト和浩特市畢克斉鎮で工事中に発見さ れた墓で、人骨1体と金製品が出土・回収されている[内 蒙古文物考古工作隊ほか1975]。頸部飾は変則的なⅡ型で、

方形部の張り出しが小さく外にひらく(図6-3)。全体は3部 分に区画され、左右区画の主文様はワニのような龍とS字 を十文字に交差させた文様、そして中央区画には獣面文(?) を打ち出している。穿孔が三日月先端部分と中央突出部の 両角にある。報告では頸部飾のみが記載されているが、同 遺物の写真には山形金片2点と長方形金片1点を加えた4 点で紹介されたものがある。付属金片は頸部飾に関連する のか不明であるが、その他にも共に報告された例があるた め、触れておく16)。畢克斉鎮古墓の年代は、レオⅠ世のビ ザンチン金貨(457-474)1枚が共伴していることから、少なく とも北魏文成帝の太安3年(457)以降でなければならない。

しかしその他の共伴遺物に杯身中央に一重の箍のある素文 の脚付き銀杯2点があり、同様の金杯と銀杯が隋大業4年

(608)に下葬された李静訓墓で出土していることからすると、

北朝期と考えるのが妥当であろう。

ピエール・ウルドゥリー コレクション  頸部飾の外側の 弧辺3箇所に短い突出部分があり、これを背面へ折り曲げ るものと考えるとⅠ型であるが、畢克斉鎮の例からⅡ型と思 われる頸部飾である(図6-4)。列点文で外周を囲むと共に 三区画されている。左右両区画には3頭の鹿(牡鹿1、角

のない鹿2)、中央区画には鬼面文を打ち出している。山形

金片1点と共に収蔵されており、外周は列点文でかこまれ、

内区文様は牡鹿である。外周に小孔が確認できる。

個人蔵資料  頭部結束具(図1-8)と共に収蔵されている。

Ⅲ型の頸部飾で、まず目立つのは5つのやや大きな円形象 嵌がある点で、その間に打出し文様がある(図6-5)。その 文様は写真では明瞭に判別できないが、外側から中心の順 に、龍1匹→複数頭の獣の闘争文様→騎馬人物を中心と した狩猟文、のようである。騎馬人物像は寧夏鹽地県で出 土した「白鳥2年方奇」(418年)[馬強2015]と比較考察さ れるべきだろう。

ブルホトゥイ文化の遺跡出土資料  ブルホトゥイ文化は ザバイカル東部の中世の文化である。頸部飾が出土した墓 に関する報告がないものの、6点の頸部飾が知られており、

Ⅱ型が3点、Ⅲ型が3点である(図6-6)。

(11)

図 6 頸部飾②( 北魏~北朝 ) 1. バヤンホンゴル県ガルート郡の古墓

2. クラスニー・ストロイーチェリ

3. 畢克斉鎮古墓

4.Pierre Uldry collection 7. テレズィン採集

5. 個人蔵 ( ベルギー )

6. ブルホトゥイ文化の遺跡

①ソルボイ湖付近

②ホルボイ・パジ

③ウラン‐サル 9 号墓

④ソツァル 8 号墓

⑤トクチン 3 号墓

⑥ウラン‐サル 5 号墓

(12)

テレズィン採集  2007年にトゥバ共和国チャー-ホリ 県コジューン 内にあるエニセイ川のサヤノ-シュシェンスコエダム南岸で テレズィン墓地が調査された。その調査の際に、ダム岸辺 で破壊された墓から出土したと思われる遺物が回収されて いる。テレズィン墓地とは年代の違う遺物として報告されて いる遺物の中の1点に、畢克斉鎮古墓の山形金片に似た五 角形の金片がある17)(図7-7)[Leus2011:524]。

Ⅳ . 結びにかえて 

 以上で北魏・北朝期の頭部結束具と頸部飾について資 料の集成を行った。頸部飾については集成資料と論考がな かったが、頭部結束具の方は近年注目されており、本稿の

Ⅱ章3項で触れたように様々な考察と意見が提出されてき た。それら先行研究の問題点は、ミュラーが集成した年代 幅も地理的位置も非常に違いのある資料の間で東西間の交 渉があったのではないかという何らかの関連を認めている 一方で、年代的に同時期の4~6世紀の現中国域外の出土 資料の方には言及がない点である。本稿において中国疆外 出土の資料を加えて集成した結果は以下の通りである。

 北魏平城期の遺跡で出土した頭部結束具はいずれもミュ ラー分類のⅠ型のものであり、鉢巻と顎托金具から構成さ れた頭部結束具である。この時期の顎托金具は、頬部金 帯が円形装飾をはさんで二股に分かれたY字形のものが 多いのも特徴である。また伊イ フ ・ ノ ー ル

和淖爾遺跡の出土資料から、

全面が打出し文様 等で装飾されている 資料も同時期に存 在していることが明 らかになった。 北 朝期以降も頭部結 束具の使用は中国 において継 続して ゆくが、注目される のは北朝~初唐期 の寧夏固原周辺の 出土資料群である。

固原周辺出土の資 料群は装飾付額帯 と顎托金具から構 成された頭部結束 具で、ソグド人の墓 から出土しているこ とや額帯上の装飾文様の点から、同地に居住したソグド人 との関連が想定される。そして中国域外出土の資料として は、アクチー・カラス墓地出土の資料1点の存在を指摘した。

鼻と眉を覆うマスクがある点が特徴的であるが、顎托金具 の形状の方は固原周辺の資料群に似ている。

 そして頸部飾については、北魏平城期の頸部飾は外 形から3型式に区分できる。頸部飾についても、新たに 伊イ フ ・ ノ ー ル

和淖爾遺跡の調査によってⅡ型とⅢ型は同時期に存在し ていることが明らかとなった。そして、このようなⅡ型とⅢ 型頸部飾に類似する資料は、モンゴル南部、ザバイカル東 部地域、キルギスタンでも出土していることを指摘した(図 7)。

 補足としてふれておくと、死者の面差しを保つという点で は、民族移動期の遺跡からは金属製仮面が出土している

(図8)。そして、その分布は現在のところ天山周辺に限られ

ている(図7)。一部の頭部結束具には金片で作った顔のパー ツを伴うものがあり、将来的には両者の間での比較検討も 必要であろうと思われる。

 以上のような頭部結束具と頸部飾の資料集成結果をみる と、北魏・北朝期の金属製装身具を考察するにあたっては、

ユーラシア東部草原地帯の出土資料にも注目し、それらを 含めて考察しなければならないことが分かる。北魏平城期 の遺跡からは、発掘の進展にともなって非中国的な文様を 持つ金銀器など様々な西方由来の文物が流入していること

チタ

ウラン・ウデ

ウランバートル

北京

大同 太原

哈蜜

武威 キジル

イルクーツク

吐魯番

和田 カシュガル

アルマトゥイ オムスク ノヴォシビルスク

ゴルノアルタイスク

ビシケク

フェルガナ カラガンダ

斉斉哈爾 クラスノヤルスク

ホブド

塔城

洛陽

西安 蘭州

アスタナ

包頭 二連浩特

固原 伊寧

トルファン ハ ミ

チ チ ハ ル

エレーン・ホト

2 1 3 4

5 6

7 8

10 9 11

1. 大同付近の墓地 2. 陳武溝墓地 3. 伊和淖爾墓地 4. 畢克斉鎮墓葬 5. 固原付近の墓地 6. ガ ルート郡 7. クラスニー・ストロイーチェリ 8. アクチー・カラス 9. テレズィン 10. ソルボイ 湖付近の墓 11. ブルホトゥイ文化の遺跡 (参考:a. 波馬古墓  b. シャムシ  c. ジャルパク - デュベ)

a b

c

図 7 金属製の頭部結束具と頸部飾が出土した遺跡

(13)

が明らかになってきている。その「西方」がどの地域を指 すのかは資料によっても様々であるが、その「西方」の中に は草原地帯は入っておらず、従ってユーラシア東部草原地 帯上にある遺跡としての類似性の方は注目されていないよう に思われる。草原地帯は単に西からの文物の通過点という だけの地域ではないのである。

 4~6世紀のユーラシア草原地帯の東西交渉というと、付 論で後述するとおり民族移動期の考古学というものが設定 されている。貴金属製品の面では伊イ フ ・ ノ ー ル

和淖爾墓地の発掘で 赤色ガラス(貴石)を象嵌した資料が出土したことにより、

民族移動期の特徴を持つ金工資料の東端は天山地域にと どまらず、内蒙古中南部の草原地帯へと達していると考え る必要が出てきた。ただし、本稿で扱った頭部結束具と 頸部飾は圧倒的に北魏平城期の遺跡での出土事例が多く、

また装飾文様の点からも民族移動期の特徴を示す金工資 料とはまた性格が異なっている。まずは本稿検討資料のよ うに、民族移動期金工資料についても今後個別資料の分 布を丁寧にみてゆくことにより、ユーラシア東部草原地帯上 でみられる交錯状況をあとづけ、その背景を考えてゆきた い。

( 付論 ) 伊イ フ ・ ノ ー ル

和淖爾墓地出土金工資料をいかにみるか:

ユーラシア東部の民族移動期金工資料としてのその重要 性

 北魏・北朝期に並行する4~6世紀のセミレチエや天山 周辺地域の考古学資料の公表は、遺跡単位でいうとあま り進んでいるとは言えない。該当地域の遺跡と遺物を概説 したものには、『ソ連考古学』叢書のM. G.モシュコヴァ [Moshkova 1992]とA. K.アンブロズ[Ambroz1981]があ る。前者はスキタイ-サルマタイ期、後者は中世を扱うが、

4~6世紀はその双方で言及されている。前者の年代区分で 図 8 仮面

1.波馬古墓 2.シャムシ 3.ジャルパク - デュベ

は1~5世紀は烏孫期(中・後期段階)であるが、後者では 4~5世紀を民族移動期としてとらえる視点が強調されてい る。セミレチエや天山周辺地域の個別考古学文化と民族、

そして編年の問題など地域限定的な問題については別稿に 譲るとして(ケンコール文化とフンの問題など)、広域的に ユーラシア草原地帯で同時代的特徴として指摘されている 民族移動期の方に着目すると、その指標となる特徴的な遺 物が指摘されている。それは鞍構造ならびに魚鱗文の打出 しのある金製鞍飾り、赤色の貴石・ガラスを象嵌した貴金 属製品、鍑ふくなどであり、このうち赤色の貴石・ガラスを象嵌 した貴金属製品は、前述のA. K.アンブロズやI. P.ザセツ カヤによって東西の出土資料が集められている。その分布 をみると、従来はキルギスタンの天山地域がほぼ東端であ り、カザフスタンのヴォロヴォエ湖(оз.Боровое)附近で出土 した短剣と類似資料が韓国慶州の鶏林路14号墳で出土し ていたものの、中国北疆地域での出土例が確認できず、飛 び地のようになっていた。その後、新疆の波馬古墓[安英

新1999]、吉林台遺跡[国家文物局2012]で赤色の貴石・

ガラスを象嵌した貴金属資料が出土したものの、共に伊薩克自治州に位置する遺跡であり、中国北疆地域は 依然として空白のままであった[大谷2016]。

 しかし新たに伊イ フ ・ ノ ー ル

和淖爾墓地が発見され、3号墓と6号 墓で赤色ガラスあるいは貴石を象嵌した帯金具一式が出土 したことによって、この認識を改める必要が出てきた。す なわち、資料の最も東の到達点として鶏林路14号墳の短 剣の例はあるが、草原地帯上にある遺跡としての民族移動 期という同時代的一体性が中国北疆地域へも及んでいたこ とを伊イ フ ・ ノ ー ル

和淖爾墓地が示したといえる。伊イ フ ・ ノ ー ル

和淖爾墓地は墓 の構造や出土遺物から明らかに北魏平城期の考古学文 化の中にあるが、ユーラシア草原地帯間で認められる 民族移動期の考古学の方にも目を向ける必要があるだろう。

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