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自明性と社会――社会的なるものはいかにして可能か―― 河野

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論文概要書

自明性と社会――社会的なるものはいかにして可能か――

河野 憲一

Ⅰ.本論文の問題意識

社会学とは、「社会」を研究対象とする学問である。自然事象を研究する諸科学と「社会」を 研究する学問とのあいだには、決定的な違いがある。自然事象の研究においては、研究対象で ある当の自然事象を構成する諸要素自体の観点を顧慮する必要はない。これに対して、「社会」

の研究においては、一面的あるいは表層的な社会(科)学的認識で満足することをよしとしな い限り、「社会」とは「人間」によって生み出されているものであるがゆえに、当の「社会」の 生成に関与する人びとに内属する観点に立った探究が要請されるのである。現象学的社会学の

「源泉」たる諸著作を生み出したA.シュッツが、社会(科)学の構成概念は、日常生活を生 きる人びとの常識的構成概念(一次的構成概念)についての、いわば「二次的構成概念」であ ることをひときわ強調し、それらの人びとにとっての主観的意味連関(意味現象)に照準した 社会学的研究を展開した根拠はここにある。

今日、社会(科)学の構成概念が「二次的構成概念」であることにまったく無自覚な社会学 者はいないだろう。それゆえ社会学者のほぼすべてが、「社会」について研究するうえで、当の

「社会」の生成に実際に関与している、日常生活を生きている人びと自身の観点を何らかのか たちで考慮に入れるべきであることを認めているはずである。しかしながら、他方で、いかな るかたちでそうした人びと自身の観点にアプローチすれば、「社会」をめぐる当の研究がより適 切で意義のあるものとなるのかという「問い」をめぐっては、いまだ各々の社会学者が「手探 り」の状態にある、というのが社会学の現状であろう。

社会学のこのような現状は決して望ましいものではない。その理由のひとつは、日常生活を 生きる人びと自身の観点にどのようにアプローチすべきかが不明瞭のままに研究を進める場合 には、個々の社会学的研究は、しばしば意図せずして「特権的観察者視点の陥穽」に嵌ってし まうからである。「特権的観察者視点の陥穽」とは、本論文第 1 章第2 節で述べるように、社 会学者が研究対象としての「社会」にアプローチするときに、その社会学者が抱いている「社 会」概念のイメージを「プロクルステスの寝台」として用い、人びとによって生きられている 社会的現実をその「社会」概念に合致するように切断、、

してしまう陥穽である。この陥穽を回避 しえない社会学的研究は、日常生活を生きる人びとを担い手として絶えず生成し変化し続けて いる「社会」から新たな発見・知見を見出すというよりも、当の研究において前提とされてい る「プロクルステスの寝台」に収まるような、既知の「社会」認識を再提示することしかでき なくなってしまう。かりに、多くの社会学的研究がこの水準にとどまることになれば、異論に 真摯に耳を傾け、「社会」をめぐる多様な見解に絶えず目を開いていくことを通じて新たな知見 や知恵を生み出していく、社会学本来の可能性は閉ざされてしまうことになる。

G.ジンメルの「社会はいかにして可能か」という問いは、社会学の根本問題だともいわれ てきた。だが、これまでのこの問いの社会学的探究においては、「社会」をめぐる或る位相が等

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閑視されている。ジンメルは、一方で、一般的な社会学が扱うような国家や経済制度、家族、

軍隊組織、地域共同体等を「統一体」としての「社会」とみなしながら、他方で、「自然」とは 異なり、「社会(的な結合)」には、「いかなる観察者をも必要とはしない」という独自の見解を 示している。ここに見出されるのは、彼が述べる「社会」には、一方で、社会学者を含む観察 者としての人びとが、あたかも「実在」するものとして実体的に認識している「社会」と、他 方、いかなる観察者も必要とはせず、当の「社会的な結合」の生成に関与する当事者たちがま さに紡ぎ出している「社会」とが、ともに含まれているということである。本論文では、ジン メルが差異を見出していたと思われるこれらの2つの「社会」について、私なりに捉え返した うえで、前者の「社会」を、観察者による「認識の位相」の「社会」と呼び、後者の「社会」

を、当事者による「生成の位相」の「社会」と呼んで明確に区別している。この区別を踏まえ ていえば、「社会はいかにして可能か」という問いの探究において忘却されてきたのは、この問 いの主題である「社会」に当然含まれているはずの、当事者による「生成の位相」の「社会」

が「いかにして可能か」を問うことなのである。この、当事者による「生成の位相」の「社会」

に真摯なまなざしを向けることを放棄し、この位相の「社会」が「いかにして可能か」という 問いを探究することを忘却した社会学的研究は、おそらくはその意図に反して、「特権的観察者 視点の陥穽」に陥ることになる。

当事者による「生成の位相」の「社会」とは、今日の社会学において共有されている概念を 用いて言い換えれば、「日常生活世界」において生み出されている「社会」である。より精確に いえば、いかなる観察者による認識をも必要とはせずに、日常生活世界において自然的態度に ある人びとが「生成」の位相で――別言すれば、「思考(Denken)」の位相というよりもむし ろ「生(Leben)」の位相で――体験・経験している「社会」が、当事者による「生成の位相」

の「社会」なのである。この意味での「社会」が「いかにして可能か」という問いを探究する ためには、日常生活を生きる人びと自身の体験・経験を適切に記述しうる「道具立て」が必要 となる。この「道具立て」としては、「現象学」において蓄積されてきた「道具立て」がもっと も相応しいだろう。しかしながら、これまでのところ、「社会はいかにして可能か」という問い 自体、、

を探究する試みのなかで、十分なかたちでそうした「現象学的道具立て」が活用された例 はほとんどみられないといってよい。

現在の社会学は、いかなるかたちで日常生活を生きる人びと自身の観点にアプローチすれば、

「社会」をめぐる当の研究がより適切で意義のあるものとなるのかについて、たしかな手がか りのないままに試行錯誤しているばかりでなく、最初からそうしたアプローチを断念している 場合さえあるように思われる。このことは、個々の社会学的研究が、意図せずして「特権的観 察者視点の陥穽」に陥ってしまいかねないことを意味する。もしそうであれば、当事者による

「生成の位相」の「社会」が「いかにして可能か」という問いについて、現象学の「道具立て」

を十分に活用し、日常生活を生きる人びと自身の体験・経験の適切な記述・分析を通じて探究 するならば、その探究の道筋と成果は、「特権的観察者視点の陥穽」を回避しうる社会学的探究 の方途を示すことにもつながりうる。もしこのことが実際に可能であれば、それは、およそす べての社会学的研究にとっての「躓きの石」を取り除くことにもなるだろう。

現象学の「道具立て」を活用して、当事者による「生成の位相」の「社会」が「いかにして 可能か」を探究するうえでは、必ず問うべき論点がある。それは、「社会」の「自明性」をめぐ る論点である。一方で、日常生活の自然的態度にあるわれわれは、「社会」の存在自体について

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とくに意識したり疑問視したりすることはほとんどなく、それを「自明のもの」とみなしてい る。「社会」は、その生成に関与する人間が誰もいない場合に存在することはありえない。しか しながら、当の「社会」の生成に関与しているはずの日常生活を生きる人びとの観点からみる と、「社会」は「自明のもの」であり、その生成の理路が自覚されることはないのである。他方、

社会学者が研究対象である「社会」に目を向けるときには、認識対象である「社会」の「実在」

は「自明のもの」とみなされることが多い。当の社会学的研究において、「社会」がいかにして 生成するのかといった社会学原理論レヴェルの問いを含む探究がなされない限り、当の「社会」

の「実在」は自明の前提として研究が進められることになる。

日常生活を生きる人びと自身にとって体験・経験されている「社会」とは、「生成の位相」の 社会であり、観察者による「認識の位相」の社会とは、いったん明確に区別して捉える必要が ある。この「生成の位相」の社会は、日常生活を生きる人びとにとっても、「社会」を研究する 社会学者にとっても、「自明のもの」とみなされてきた。社会学が今後も、異論に真摯に耳を傾 け、「社会」をめぐる多様な見解に絶えず目を開いていくことを通じて新たな知見や知恵を生み 出していくことのできる「魅力ある学問」として進展し続けるための試金石は、「自明性」の有 り様を主題的に考察したうえで、日常生活を生きる人びと自身が「生成の位相」で体験・経験 している「社会」に適切にアプローチするための「足場」を築くことができるかどうかにある、

というのが本論文の問題意識である。

Ⅱ.本論文の狙いと主題

以上の問題意識に基づく本論文の狙いは、社会学が、今後もさまざまな異論に絶えず目を開 きつつ新たな知見や知恵を生み出し続けていくためには、日常生活を生きる人びとによって生 み出され体験・経験されている「現象」としての社会(「社会的なるもの」)に真摯なまなざし を向け、適切な道具立てを用いつつこの「現象」にアプローチすることが不可欠である根拠を 示すことにある。現象学の知見に依拠すれば、「現象」とは、「何か」についての体験・経験を する者にとっての「現われ」である。社会(科)学の構成概念が「二次的構成概念」であるこ とを踏まえれば、「社会」とは、それを認識する社会学者にとっての「現われ」である以前に、

それを生み出し、体験・経験している日常生活を生きる人びとにとっての「現われ」として見 出されるはずである。この意味における、日常生活を生きる人びとにとっての「現象」として の社会(「社会的なるもの」)こそが、社会学的研究を進展させる手がかりの宝庫なのである。

上記の狙いは、「社会的なるものはいかにして可能か」という主題の探究を通じて、その達成 が目指される。ジンメルが、「相互作用」に「社会的な糸」という比喩的な表現を与えながら、

「相互作用としての社会」と「統一体としての社会」を区別したことは、社会学者によく知ら れている。本論文では、ジンメルのこの議論を私なりに捉え返したうえで、日常生活を生きる 人びとが「生成の位相」で体験・経験している、「相互作用」と呼ばれうる、、、、、

ような「何か」につ いて、「相互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」と呼び、また、「統一体」と呼ばれうる、、、、、

ような「何か」に ついて、「統一体と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」と呼んでいる。そして、「相互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」と

「統一体と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」の総体こそが、「社会的なるもの」(「社会と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」)で あるという見解を提示している。上述の「社会的なるものはいかにして可能か」という問いは、

「相互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

はいかにして可能か」という問いと「統一体と呼ばれうる、、、、、

もの、、

(4)

いかにして可能か」という問いからなるのである。

「相互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」と「統一体と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」は、その生成に関与する人び と(当事者)にとって、明確に輪郭づけられた「対象」としてではなく、あくまで「何か」と して体験・経験されている。本論文では、この「何か」の体験・経験が「いかにして可能か」

について、「当事者」たちにとっての「現われ」に照準しつつ、探究していく。

Ⅲ.本論文の全体構成と各章の議論の概要

本論文は、八つの章からなる。

第1章 「社会はいかにして可能か」の再定式化

第2章 行動をめぐる自明視――行為と行動の循環的関係――

第3章 対象の知覚と自明視作用 第4章 状況の知覚と自明視作用 第5章 社会的行為の分節化 第6章 相互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

はいかにして可能か 第7章 統一体と呼ばれうる、、、、、

もの、、

はいかにして可能か 第8章 社会的なるものと社会学

各章の本論文全体の構成における位置づけは、大まかにいえば、「問題設定」および「社会的 なるもの」をめぐる予備的考察にあたる第1章、いくつかの区別しうる「自明性」を主題的に 考察した第2・3・4章、「社会的行為」という社会学の基礎概念を彫琢しつつ整理し、「相互作 用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」および「統一体と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」は「いかにして可能か」という問い を探究した第5・6・7章、「結論」部分にあたる第8章に分類することができる。

第1章では、未解決の難問と化しているジンメルの「社会はいかにして可能か」という問い について、「社会」をめぐる当事者による「生成の位相」と観察者による「認識の位相」の区別 を導入することによって、その問いを、「生成の位相」の「社会」に照準する「社会的なるもの はいかにして可能か」という問いへと再定式化している。すべての社会学的研究は、「特権的観 察者視点の陥穽」に陥る可能性につねに晒されている。社会学にとっての「躓きの石」である この陥穽を回避するためには、社会学的研究は、当事者による「生成の位相」の社会である「社 会的なるもの」に真摯なまなざしを向け、それが「いかにして可能か」という問いを探究して おく必要がある。本論文全体の問題設定にあたる本章では、本論文を通じて、「自明性」を主題 的に考察する視点と「当事者に内属する観点」から探究する視点を自覚的に採りつつ、日常生 活を生きる人びとにとっての体験・経験についての記述・分析を活用することによって、「社会 的なるものはいかにして可能か」という問いを探究することを述べている。

第2・3・4章では、これまで明確に主題化されることがほとんどなかったといえる「自明性」

について、主題的に考察することを試みている。これらの3つの章で進める記述・分析は、「自 明性」の諸位相を解明する一方で、翻って、実際に「社会的なるもの」についての社会学的研 究を進める場合に有効たりうる、日常生活を生きる人びとが体験・経験する「何か」をめぐる 適切なアプローチ(構成分析)の具体的例示ともなっている。

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第2章では、「自明性」(自明視の有り様)を主題的に考察するために、まず、シュッツの行 為理論を参考にしながら、「自明視している作用」と「自明視していない作用」の区別について 論じている。シュッツは、「熟慮」あるいは「比較衡量」を通じて複数の企図から特定の企図が

「選択」されたうえでなされた行動を、行動一般から区別して「行為」と呼ぶ。これに対して、

「行動」は、複数の選択肢間の比較衡量なしに、当面の関心との相関関係でただひとつの選択 肢として行為者に「選定」される。この「行動の選定」は、「行動の自明視」とみなすことがで きるのである。それゆえ、「行動の選定」について分析することができれば、「自明視している 作用」の諸位相を解明する方途が拓ける。「行動」について、何の方策もなしに分析することは きわめて困難であるが、「行為と行動の循環的関係」を踏まえるならば、特定の「行動の自明視」

について、過去に類似の状況で行為者によってなされた「行為」の構成過程に遡って記述・分 析を行なうことが可能となる。この意味で、社会学的研究は、日常生活の自然的態度にある人 びとが自明視している「行動」に適切にアプローチすることができるのである。

第3章では、日常生活の自然的態度にある人びとが、外的世界の対象を知覚するなかで、知 覚する対象の「実在」を「自明のもの」とみなしている理路について明らかにした。この理路 を明らかにするうえでは、E.フッサールの現象学における「同一化作用」としての対象の知 覚の見方(知覚の「同一化作用」論)が参考になる。フッサール現象学の知覚の「同一化作用 論」においては、日常生活の自然的態度にある人びとによる対象の知覚作用の諸位相が解明さ れている。そして、この知覚の「同一化作用論」とシュッツの提示した「自然的態度のエポケ ー」とは、整合的に解釈することが可能である。本章では、これらの整合的解釈を提示するこ とによって、日常生活を生きている人びとにとって、対象の知覚が、対象の実在の自明視とほ とんど同義となっている理路を明らかにしている。この理路を踏まえれば、対象の「実在」の

「自明視」については、知覚の「同一化作用論」を援用することによって、その構成過程の記 述・分析を進めることができるのである。なお、本章での議論を通じて、「当事者に内属する観 点」からの記述・分析とはいかなるものであり、また、その意義はどこにあるのかについても 示している。

第 4 章では、状況の知覚と自明視作用の関係について論じている。フッサール現象学では、

「対象‐地平」構造をめぐる洞察をもとに、「対象」と「地平」の関係が論じられている。とこ ろが、日常生活世界における「状況」とは、「対象」とも「地平」とも言い切れない「何か」で あり、フッサール現象学の議論の枠を超えて記述・分析を進めなければ、その本質的特徴を捉 えることはできない。本章では、日常生活の自然的態度にある人びとによる「状況」の知覚に ついて、自然的態度の構成的現象学の立場から、具体例を用いた記述を通じて構成分析を進め たうえで、その根本的特徴のいくつかを明らかにしている。「状況」は、日常生活を生きている 人びとにとって、自然的態度において疑問の余地なく与えられている。だが、何らかの具体的 問題に直面したとき、そうした人びとは、その「状況」を「問題的状況」とみなしたうえで、

それに意識的に対向することになる。だとすれば、疑問の余地なく与えられている「状況」も、

そうした人びとによって、プラグマティックな関心に照らして「問題ない」ものとして知覚さ れているといえ、この意味で、状況の知覚も、対象の知覚ときわめて類似する意味において「同 一化作用」として成立しているのである。しかしながら、他方で、状況の知覚には、「対象志向 性」とも「地平志向性」とも言い切れない独特の(「状況志向性」と名づけたい)志向性が関係 しており、状況の知覚に見出される自明視作用は、「対象の知覚」の場合のような、「何か」の

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「実在」を自明のものとみなす作用とは、区別して捉える必要がある。

第5・6・7章では、第2・3・4章で行なった、「行動」「対象の知覚」「状況の知覚」をめぐ

る「自明視作用」の構成過程の記述・分析をさらに展開することで、日常生活を生きている人 びとにとって「自明のもの」として生成しているとみられる「相互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」お よび「統一体と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」が「いかにして可能か」という問いを探究している。

第 5 章では、「相互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」あるいは「統一体と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」がいかに して可能かを問ううえで、最重要の鍵概念のひとつとなる「社会的、、、

行為」概念について、シュ ッツの行為理論に依拠しつつ、本論文の主題の探究に活用すべく整理を行なった。シュッツは、

概念定義上、「他者定位」「社会的行動」「社会的行為」を入れ子式の関係で定義しているが、本 論文第 2 章で提示した「行為と行動の循環的関係」を援用すれば、「社会的行動」と「社会的 行為」もまた、「循環的関係」にあるという知見が得られる。この知見を礎石として、当事者た ちによる「相互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」あるいは「統一体と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」の体験・経験に ついて、その構成過程を記述・分析することが可能となる。

第 6 章では、「相互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」をめぐる当事者による体験・経験の構成過程の 記述・分析を通じて、「相互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

はいかにして可能か」という問いについて探 究した。「自身に対する働きかけ」に気づく存在としての人間は、原初的な「他者作用への気づ きの経験」のなかで原初的な「他者」(「他者と呼ばれうる、、、、、

存在」)を経験する。そしてそれにひ き続いて、「応答を行なう経験」「他者作用を行なう経験」「応答への気づきの経験」の順で、「相 互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」の生成のために必須となる経験を獲得していく。「自身に対する働き かけ」に気づく存在としての人間が、原初的な「他者」を経験し、上述の「他者作用」「自身に 対する他者作用への気づき」「応答」「応答への気づき」という4つの作用をめぐる経験を獲得 しているならば、それらの諸作用を通じて、観察者による認識を一切必要とすることなしに、

当事者たちによって、そして当事者たちにとって、「相互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」の生成は可能 となるのである。

第 7章では、第6 章での探究の成果に基づきながら、「統一体と呼ばれうる、、、、、

もの、、

はいかにし て可能か」という問いを探究した。「統一体と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」は、「当事者」たちによる複数 の「相互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」の生成と、「観察者」の立場からなされる、特定の「統一体」

概念を用いた「統一体」としての認識が両方とも揃う場合に可能となる。当事者に内属する観 点からみれば、当事者のひとりが、何らかの「相互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」の生成に関与する なかで、それを特定の「統一体」概念と関係づけているとき、その当事者にとって、「統一体と 呼ばれうる、、、、、

もの、、

」が生成しうる。しかしながら、同一のその「相互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」の 生成に関与しているべつの当事者が、それを何ら特定の「統一体」概念と関係づけていなけれ ば、その当事者にとっては、あくまで「相互作用と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」が生成しているのであり、

「統一体と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」は決して生み出されていない。「統一体」概念とは、日常生活の自 然的態度にある人びとがおのずから得ているというよりも、むしろ「観察者」の観点からの認 識という経験によってはじめて獲得されるものである。それゆえ、「統一体と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」 の生成は、観察者の観点からの認識を条件としてはじめて可能となる。この意味で、「相互作用 と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」の生成と「統一体と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」の生成のあいだには、等閑視できな い違いがある。「統一体と呼ばれうるもの、、、、、、、

」への社会学的研究のアプローチには、大別して、「当、 事者以外の、、、、、

観察者」の観点からのアプローチと「当事者=観察者」の観点からのアプローチが

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ある。

第8章では、本論文の主題として考察してきた「相互作用と呼ばれ、、、

うる、、

もの、、

」および「統一 体と呼ばれうる、、、、、

もの、、

」とは、日常生活を生きる人びとの体験・経験のなかに見出される、「現象」

としての相互作用(「相互作用現象」)および「現象」としての統一体(「統一体現象」)である ことを指摘している。そして、これらの総体が、「現象」としての社会(「社会的なるもの」)で ある。シュッツは、「〈現象〉としての社会」に適切にアプローチしうる社会学的研究のために、

「三つの公準」を提起しているとみなしうる。そして、「三つの公準」の要請を満たすべく生み 出された「社会的なるもの」(「〈現象〉としての社会」)をめぐる「社会学知」は、「見識ある市 民」という知の在り方を実践しうるすべての人に向けられた、「呼びかけ」となりうるのである。

社会学的研究は、「社会」が日常生活を生きる人びとによって生み出され体験・経験される「現 象」であることを自覚し、この「現象」の構成過程について、「自明のもの」を問いつつ、当事 者に内属する観点からの記述・分析を行なう限りにおいて、「特権的観察者視点の陥穽」を回避 して研究を進めることができる。社会学は、そうした研究に支えられることによってはじめて、

異論に真摯に耳を傾け、「社会」をめぐる多様な見解に絶えず目を開いていくことを通じて新た な知見や知恵を生み出していく、より魅力ある学問としての道を歩み続けることができるので ある。

参照

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