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周慶雲の琴学復興運動について

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(1)

周慶雲の琴学復興運動について二三 一︑はじめに

  二〇世紀初頭の上海では︑前世紀末より整え始められた銀行︑鉄

道︑電話などの近代設備が土壌となり︑映画︑舞踏︑音楽など西洋

から齎された娯楽文化の多くがこの時期に花開いた

︶1

︒しかし︑また

一方においてはそれだけでは掬い切れない動きがあった︒たとえば

﹁琴会﹂である︒古琴といえば︑中国伝統社会において君子の楽器

としての特別な地位を与えられ

︶2

︑一貫して文人必須の教養とされて

きた楽器である︒そのため︑西洋化の過程を主な叙述対象とする近

代中国文化史においては従来あまり採り上げられず︑都市文化の西

洋化との関わり方についての深い議論はなされていない︒

  本論文はこのような観点の下︑一九二〇年上海租界地域にて開催

された﹁晨風廬琴会﹂に光を当て︑その意義について考察すること

を目的とする︒具体的には︑まず第二節で清末から民初にかけての ﹁琴学﹂の定義を確認し︑そして第三節では清代末期の上海徐園琴

会の開催地が西洋娯楽の流入に迎合していった様子︑および民国初

期の蘇州怡園琴会が頑なに伝統文化行事として実践された様子を下

敷きにし︑上海晨風盧琴会の特異性について検討する︒そうするこ

とによって︑民国初期上海における東西文化交流の一端を窺うこと

ができるだろう︒

二︑﹁琴学絶響﹂のこと

  古琴には︑上古の帝王︵伏羲︑神農︑堯︶によって発明されたと

いう伝説や︑儒者︵孔子︑蔡邕︑韓愈︑蘇軾ら︶︑隠者︵許由︑䇏康︑

陶淵明ら︶︑そして仏僧︵潁師︑知白︑賢師︶に愛好されたという

逸話が多い

︶3

︒古琴はしばしば宴席や雅集の興趣に乗じて演奏され︑

また文人趣味あるいは教養として﹁琴書﹂︑﹁琴棋書画﹂︑﹁琴学﹂と

いう語が生み出された

︶4

︒古琴が単なる娯楽として演奏される楽器で

周慶雲の琴学復興運動について

││

 

晨風盧琴会を例として

 

││

石  井   

(2)

二四

はなく︑学芸の一種として考えられていたことが表れているといえ

るだろう︒

  本節ではこの﹁琴学﹂という語について︑明末︑清代同治期︑そ

して民国初期の用例を分析し︑その含意についての考察を行う︒時

代は異なるが︑王朝崩壊を目の当たりにした人士︑或いは正に滅亡

へと向かう時代に身を処した人士として︑共通する社会背景を彼ら

に見出すことができるからである︒

  まず︑明末の李長祥︵一六〇九〜一六七三︶は︑﹁琴棋書画﹂に

ついて述べた文章の中で﹁琴學の響きを絕つこと︑更に久しきなり︒

存する所の者は聲音のみ

︒聲音以外の琴を為すは

︑響きを

つな

︶5

︒﹂と述べている︒琴学が既に長らく断絶してしまっていると述

べられている点︑中でも特に﹁音声以外の要素﹂の断絶が特に問題

視されている点が興味深い︒

  ﹁音声以外の要素﹂とは一体何のことであるか︑それについては

続く部分で以下のように詳述されている︒

琴に至りては難きなり︒天地の化機︑萬物の理︑一身の精神意

氣︑其れ流變して形を著し︑皆此に在るなり︒世の乃ち以て奕︑

字︑畫と並べて論ずるは繆りなり︒蓋し琴は伎倆に非ざるなり

︶6

  ここでは︑古琴の音が︑天地万物の現象と人間の精神との関わり

によって形作られるものとして描かれている︒音声は天人感応の結 果であると言い換えてもいいだろう︒天人感応説は君主︵人︶の徳や行いが風雨︵天︶や虫害︵地︶に現れるというように︑政治思想との結びつきが非常に強いものである︒したがって︑﹁琴学の断絶﹂

とは︑単に器楽演奏技術の伝承断絶だけを指すものではなく︑清朝

に対する批判意識の込められたものと考えることができるだろう︒

  李長祥は︑言わば明朝の遺臣である︒崇禎十六年︵一六四三︶の

進士であった︒明朝滅亡後は魯王朱以海に従ったが︑魯王が鄭成功

に投降すると自身も清軍に捕えられた︒康熙元年︵一六六二︶には

拘留されていた南京から逃れ︑天下が定まった後には毘陵に移り住

み︑読易台を築き︑そこで文を作り詩を賦したという

︶7

  清代同治年間にも︑琴学の断絶が当時の政治状況と呼応するもの

として語られることがあった︒﹃申報﹄第七八四期︵同治十三年︶

に掲載された以下の文章はその一例である︒

古の聖皇より︑禮樂を以て天下を治む︒秦火に遭ふの後に及び

て︑﹃樂經﹄傳を失ふ︒然るに代よ人に乏しからず︑漢魏より

今に至りて︑賢人名士︑琴に精ならざる者無し︒皆琴の一道に

因りて︑樂の正音を為し︑以て情志を調和し︑神氣を導養すべ

きなり︒古より今に及びて此に精なる者︑指屈するに勝へず︒

⁝⁝咸豐の時より︑干戈四もに起こり︑海內幾ど絕響するに至

︶8

︒ ︵清 金仲豫﹁琴學眞傳﹂︶

(3)

周慶雲の琴学復興運動について二五   引用前半部分では︑礼楽の一翼を担うべき﹃楽経﹄が散逸した後にも︑漢魏以降の賢人名士が琴の音楽によって精神を涵養したことが述べられている︒  ところが︑続く後半部分では︑咸豐期の戦乱によって琴学の断絶が引き起こされたということが述べられている︒咸豊帝の治世には︑国内では即位直後に太平天国の乱が勃発し︑英仏とはアロー戦争およびそれに伴う不平等条約の締結によって︑列強諸国による半植民地化が決定的なものとなった︒つまりここで提示されているのは︑内憂外患による国力減退に随い︑琴学も断絶の一途を辿ったという構図である

︒ここでもやはり琴学は為政と結びつけられていると

言ってよいだろう︒

  当時の文化的状況を基に一歩踏み込んで考えてみれば︑ここでは

単に﹁干戈﹂︵戦乱︶による政治の混乱のことだけが指摘されてい

るわけではない︒清朝が露米英仏と締結した天津条約︵一八五八年︶

により︑キリスト教布教の自由が正式に認められた結果︑開港地周

辺の教会には多く教会学校が附設された︒そこでは中国人生徒がオ

ルガンの伴奏に合わせて讃美歌を歌い︑あるいはピアノの他に声楽

や弦楽器を学んだ︒ある学校では日ごろの成果を父兄や市民に発表

するための音楽会が開かれることもあった

︶9

︒この時期に琴学の絶響

があったとすれば︑それはむしろこのような音楽文化や学問・教養

の西洋化によって引き起こされたものであった筈である︒

  この後︑民国年間に入るとさらに娯楽の西洋化も進んだ︒そのこ とは本論文冒頭にも述べたとおりである︒かかる状況下において︑葉希明や周慶雲らによって琴会が開催され︑琴学の復興が試みられた︒そのことについては後で詳しく述べる︒ここではまず︑彼らの考える琴学が一体どのようなものであったのかを考えてみたい︒  琴学は君子の嗜むべき六芸の﹁楽﹂によって統制されるものとして掲げられる場合が多く︑民国初期も例外ではない︒葉希明がかつて﹁琴学﹂について語った言葉が以下のように記されている︒

嘗て璋伯の言を聞くを顧れば曰く︑今の琴學は︑理と藝とに分

けて兩塗と為す︒操縵に精たる者は固より多からず︑律呂に明

き者は尤も覯ふこと罕なり︒藝は其の外なり︑理は其の內なり︒

⁝⁝理を研ぐ者は舊聞を掇拾し︑未だ嘗て形器を以て攷證を為

さず︒藝を習ふ者は師法を墨守して︑幾ど授受の本源を知らず︒

⁝⁝夫れ理と埶とは︑本より分くる可きの塗無きなり

︶10

  ここでは琴学の主体が︑﹁藝﹂︵操縵実演技術︶に偏重する者と

﹁理﹂︵律呂音楽理論︶に偏重する者に大別されている︒言い換え

れば︑前者は師匠の教えに対してその根源を知らないまま盲従する

者︑後者は器楽的実証を蔑にして古典籍からの旧聞収集に徹する者

である︒葉希明にとっての琴学は︑芸理両道が渾然一体となったも

のであった︒

  また︑続く部分に﹁藝は博く涉りて範圍する所無き能ず︑則ち理

(4)

二六

は尤も重きたり︒樂に古今無く︑其の理は一揆なり

︶11

︒﹂とあるように︑

﹁理﹂の方により優位性が認められている︒それは︑﹁理﹂が古今を

通じて普遍的に存在する﹁楽﹂に由来するものであると考えられた

からである︒

周慶雲にとってもやはり琴学は

﹁楽﹂に統括されるべきもので

あった︒ただ彼の場合は︑﹁楽﹂をめぐる状況の変化に視点が置かれ︑

学術全体における﹁琴学﹂の位置づけの低下が問題にされている︒

一九〇四年の﹁奏定學堂章程﹂により学堂設立・普及の施案が発表

され︑新制度にもとづいて唱歌科が設置されることとなった周慶雲

はこれに対して

︶12

音楽が主要な学科として設置されたことについては

古代の六藝と合致するものとしての評価を与えつつも︑そこで模範

とされている楽曲が西洋のものばかりであったことについては批判

的であった

︶13

︒そこでは︑西洋音楽の流入が﹁吾が國四千年相ひ傳は

るの古樂︑益々放失して復た循ふ可からず

︶14

︒﹂という状況を招くも

のとして述べられている︒伏羲︑神農あるいは舜の発明と伝えられ

る古琴の音楽は︑四千年来伝承された古楽の代表格である︒

  周慶雲はまた別の文章で︑琴学の衰退現象を以下のように述べて

いる︒

琴は樂に統べらる︒﹃琴操﹄︑﹃琴譜﹄︑﹃琴經﹄︑﹃琴說﹄は︑﹃隋

書﹄經籍志均な經部に入るも︑﹃明史﹄より抑へて藝術等の諸

雑技を置き︑四庫其の例に沿い︑且つ著錄すること僅に四種の み︑琴學稍 ようやく衰へるなり

︶15

  これは︑本来﹁経﹂部に分類されるべき琴学が﹁芸術﹂に分類さ

れているという指摘であり︑琴学の学術における位置づけが問題に

されている︒古典の時代を最高点とし︑以後急速に衰退の道をたど

るという下降線が描かれているのが特徴である︒

三︑﹁琴会﹂のこと

  琴会とは︑第一義的には古琴を携えた同好の士たちによって行わ

れた会合のことである︒単に器楽の演奏鑑賞が行われただけでなく︑

書画や詩歌などの様々な伝統芸術が生みだされる場ともなった︒こ

れに先んずる現象として︑古くから権力者が宴席で配下の者に琴の

演奏を命じるということが屡々あった︒

  後漢期においては︑光武帝が桓譚に議郎の官を与えて宴席を開く

たびに琴を弾かせ︵﹃後漢書﹄﹁列傳第十六﹂︶︑董卓が蔡邕に左中郎

の職を与えて宴席のたびに琴を弾かせ︑政権に対する賞賛の辞を述

べさせた︵﹃後漢書﹄﹁蔡邕列傳﹂︶︒蔡邕はこれ以前にも︑桓帝の時

に琴の演奏者として召喚されたが病と称して断った経緯がある

︵﹁釋晦﹂︑﹁述行賦﹂︶︒

  六朝期においても︑南朝斉の高帝簫道成が華林で開いた宴席にて︑

琵琶

︑歌

︑舞とともに王僧虔と柳世隆による琴の演奏が命じられ

(5)

周慶雲の琴学復興運動について二七 ︵﹃南史﹄﹁王倹伝﹂︶︑南朝斉の竟陵王の宴席にて柳惲が丞相謝安の 名琴を与えられて演奏を命じられることがあった

︵﹃梁書﹄

﹁柳惲 傳

﹂ ︶ ︒

  唐代には薛易簡や賀若夷らが︑宋代には朱文済や趙裔らが待詔の

職に任じられ︑琴の演奏を司った︵段安節﹃樂府雜録﹄︑朱長文﹃琴

史﹄︶︒明代にも崇禎帝が玉熙宮での宴席にて田貴妃に琴を与えて演

奏させたことがある︵﹃翁山文鈔﹄﹁御琴記﹂︶︒

  民間でも古琴を用いた会合は盛んに行われ︑唐代には独孤及が友

人や同士を引き連れ︑琴を携えて黄神谷に集まり︵﹁華山黃神谷醼

臨汝裴明府序﹂︶︑明代には厳天池が琴会を開いて﹃松絃館琴譜﹄を

編纂した︵王應奎﹃柳南隨筆﹄卷六︶︒清代においても節日の折な

どには同好の士による雅集が開かれ︑そこでも古琴の演奏は行われ

た︒

三︲一︑上海徐園琴会

  上海に徐園︵現在の静安区康定路に位置する

︶16

︶という庭園があり︑

清代光緒年間には︑雅趣に富んだ主人により糸竹の会︑琴会︑棋会︑

書画の会が毎週交代で開催された

︶17

  徐園の環境について︑﹁徐園は老閘の北に在り︑地は甚だ寛敞な

らざると雖も︑而るに風亭︑月榭の位置は天然︑花木は扶疎︑水波

は明瑟にして︑游人此に到れば︑幾ど身の軟紅十丈中に在るを知ら

ず︑眞に城市なるも山林の勝有るなり

︶18

︒﹂とあるのによれば︑敷地 面積はそれほど広くはなかったが︑楼閣や庭園が素晴らしく︑訪れたものは繁華な都市にいることを忘れてしまうほどであったという︒  徐園琴会の開催にとって︑この庭園の佇まいは欠かせない条件であった︒﹃申報﹄掲載記事に﹁遊客寥寥たり︑述䋆子獨り水仙操一

䌜を撫し︑靜中に神を凝らし︑之を聽けば殊に泠然善也の致有り

︶19

︒ ﹂

とあるのによれば︑客人少なくもの寂しい様子の中︑記者は精神を

凝らして耳を傾け︑ようやく琴曲の奥深さを噛みしめたという︒

  また︑同年の七夕に開催された琴会は以下のように︑牽牛織女の

ために催された優美な雅会であった︒

徐園の主人乃ち余に造りて謀りて曰く︑今年の七夕は︑恰も星

期に値たれば︑敝園初六日に於ては乞巧の會を為し︑遙に雙星

を祭り︑而して七夕に於ては︑良辰能く為に七友を邀へ約し︑

琴を携て園に至り︑牽牛織女の為に︑靜好の章を賦さんか

︶20

  このような奥深い興趣を味わうようにして楽しまれるべき琴会は︑

閑静な庭園の佇まいがあってこそのものであったといえるだろう︒

ところが︑この四年後の七夕には︑園内の様子は一変している︒

徐園  七夕仍ほ文虎候數を設く︒初七日は乞巧の會︑爰に同好

の諸君を蒙り︑園内に在りて古玩︑異果︑奇花を陳べ設け︑兼

ねて清曲を叙ぶ︒是の夜奇巧の焰火を放つを准ふ︒又一村は並

(6)

二八

に西洋の影戲を演ず︒惟だ初八九の兩日は︑諸君の餘興方に濃

きに因りて︑故に再た古玩を陳べ設け︑兩天以て衆覽に供さん

こと︑特に白す

︶21

  これによれば︑園内には骨董とともに珍しい果物や花が並べられ︑

清らかな曲が奏でられ︑新奇な花火が打ち上げられた︒そして﹁又

一村﹂と名付けられた場所では西洋影戲︵西洋の映画︶が上映され

た︒翌日の七月八日︵日曜日︶も︑庭園は七夕の余興のために大衆

に解放されたため︑毎週日曜日に催されていた﹁琴棋書画﹂の会も︑

この週には行われなかったようである︒同じく七夕を彩るための行

事であったが︑会場となった庭園の用途が数年で大きく様変わりし

ていたことが知られる︒

  実は︑徐園は上海で初めて映画上映の行われた場所としての方が

よく知られている

︶22

︒一八九五年にフランスのリュミエール兄弟に

よってパリのグラン・カフェにて開かれた有料の試写会が世界にお

ける映画時代到来の標示と考えられており︑その翌年には既に上海

徐園にて映画上映が行われていた

︶23

︒西洋娯楽文化の流入を象徴する

ような庭園であったと言ってもよいだろう︒

  別の日の﹃申報﹄広告欄には﹁游資は仍ほ舊章に照らす︒廿三の

夜は︑外に烟火大戲を加へんと准ふ︑遊資は每位三角

︶24

︒﹂とあるので︑

四年前は雅会開催に相応しいほど閑静な環境であった徐園では

度々花火が打ち鳴らされ︑おまけに入場者からは一人あたり三角の 入場料を徴収するようになっていた︒西洋娯楽文化の流入により︑庭園の経営方針が大きく転換した様子を窺うことができる

︶25

三︲二︑蘇州怡園琴会のこと

  一九一九年蘇州怡園にて琴会が開催された︒これは周慶雲が翌年

に上海晨風廬琴会を開催するにあたり︑直接の契機となった琴会で

ある︒  この琴会の特徴は︑何と言っても古琴とならんで瑟や箜篌の演奏

が行われたことだろう︒葉璋伯が主催したのはあくまで﹁琴会﹂で

あったが︑以下の﹃申報﹄記事題目には﹁怡園琴瑟會﹂とあり︑冒

頭の書き出しも﹁中国の音楽は琴瑟を持って最古と為す﹂というよ

うに︑﹃詩経﹄以来の﹁琴瑟﹂併称で始まっている︒

中國音樂は琴瑟を以て最古と為す︒本月二十四︑五の二日︑武

林の葉君璋伯は蘇︑杭︑䭺︑湘︑蜀︑豫︑直︑魯各省の著名な

るの琴家︑並びに文藝の名流と聯合し︑顧鶴逸君の別墅に在り

て琴瑟の大會を開く

︶26

  参加者による詩にも﹁箜篌  悽絶たる音︑一たび擘すれば  涙出ん

と欲す︒聲を和ませて 頌瑟を調へ︑廼ち能く 餘力を鼓す

︶27

︒﹂とある︒

瑟や箜篌の演奏は聴く者に相当強い印象を残したようである︒

  他にも︑李子昭﹁怡園會琴図﹂や呉昌碩﹁怡園會琴記﹂など︑多

(7)

周慶雲の琴学復興運動について二九 種の伝統芸術が生まれる場ともなった︒清末から続く西洋娯楽文化の流入に左右されず︑あくまで伝統的な文化行事として実施された様子が窺える︒これは︑先に見た葉希明にとっての﹁琴学﹂が古今不変の﹁楽﹂によって支えられるものであったことと対応していると言える︒  会場となった﹁顧鶴逸君の別墅﹂とは︑蘇州怡園︵現在の蘇州市人民路に位置する︶のことである︒別の記事に﹁蘇州怡園は︑前甯紹台道顧子山觀察の創建し所たり︑花木幽深︑亭臺壯麗にして︑春秋の佳日︑游屐甚だ多し︒地方の官及び紳士︑每に之を借りて︑以て宴客する者有り

︶28

︒﹂とあるのによれば︑やはり文化人の宴席に相

応しい風雅な庭園であったようである︒

  怡園琴会の式次第は︑﹃會琴實紀﹄および﹃申報﹄﹁怡園琴瑟會紀﹂

によれば以下の通りである︒

暢敍琴話懇談会

輪流撫琴参加者による古琴演奏

單獨鼓瑟鄭覲文による瑟の演奏︵﹁鷗鷺忘機﹂︶

試擘箜篌鄭覲文による箜篌の演奏︵﹁秋風高﹂︶

研究學術琴学についての問答形式による議論

入座飛觴宴席

乘興双彈 余興︵李子昭と䬗浸䧈による古琴合奏﹁風雷引﹂︑

李子昭と鄭覲文による琴瑟合奏﹁良宵引﹂︶ 鴻雪留痕参加者︑演奏者︑琴︑瑟︑箜篌の写真撮影撰述会記呉昌碩﹁怡園會琴記﹂繪圖徵題李子昭﹁怡園會琴図﹂

  参加者ほぼ全員の活動地域は上海と蘇州であった

︶29

︒さらに詳しく

見れば︑連絡地点が﹁鹽公堂﹂となっている人物が多い︒これは次

節で採りあげる晨風盧琴会の主催者周慶雲がこの蘇州鹽公堂の総経

理を務めていたことと関係がある︒

三︲三︑上海晨風廬琴会

  蘇州怡園琴会に参加した周慶雲は︑その翌年︵一九二〇年︶に上

海で琴会を開催した︒﹃申報﹄に﹁晨風廬琴会﹂と題して報じられ

た記事から︑そのあらましが分かる部分を示せば以下のようである︒

晨風廬主周君夢坡は海內の琴侶を邀集し︑本月初一初二初三等

の日特に大會を開く︒先後して會に到りて曲を奏でおよび傍聴

する者を計すれば︑二百餘人有り︒頗る一時の盛を極む︒⁝⁝

琴事畢り︑黃漁仙︑邊境宏の兩女士各々西國の鋼琴を奏でる有

り︒余寶珊幼童は崑曲數齣を度らせ︑其の令尊笏堂は之が為に

笛を擫し︑以て餘興を作す︒八時宴飲散會す

︶30

  この晨風廬は︑﹁余は辛亥の歳に於ひて地を淞浜一廛に避く︑風

(8)

三〇

雪意境索寞たり

︶31

︒﹂と述べるように︑辛亥の政変から淞浜︵上海︶

に避けた周慶雲が新居と定めた場所であった︒年譜には以下のよう

に記されている︒

九月十五日杭州獨立す︒二十九日眷を挈して滬に遷り︑愛文義

路道達里に寓し︑額に﹁晨風廬﹂と曰ふ︒蓋し魏の桓範の﹁管

幼安に與ふるの書﹂の︑﹁蓬門の側に請見し︑訓誨を道德の門

に承く︒厥の途由無し︑思ひを晨風に託す﹂より取る︒意は﹁秦

風﹂の﹁欽欽思賢の心﹂に本づく︒故に以て廬に名づけて云ふ︒

府君の家を挈して滬に旅するは此に始まる

︶32

  これによれば︑﹁晨風廬﹂という名は︑﹃詩経﹄秦風﹁晨風﹂と三

国魏の桓範﹁與管幼安書﹂の典故を踏まえてつけられたものである

ことが知られる

︶33

︒﹁晨風﹂の﹁未だ君子に見えず︑憂心欽欽たり﹂

というフレーズからは︑清末民初における一連の政乱が連想される︒

﹁與管幼安書﹂では﹁鑿䐏﹂︵隠居して仕えないこと︶から始まり︑

それに続いて上古の隠者許由が登場する︒したがって︑周慶雲が上

海で始まる新生活に対して︑濁世に背を向けた隠逸を強く意識して

いたことが知られる︒

  会場となった晨風廬の詳しい場所については︑傍聴参加者であっ

た鄭孝胥が﹁周湘舲邀むれば道達裏に至り︑居る所の晨風廬新宅に

て琴會す﹂︵﹃鄭孝胥日記﹄︶と記している︒これをほぼ同年代発行 の﹃上海地名表﹄︵商務印書館︑一九一〇年出版︶で引いてみると︑

共同新租界の愛文義路北︑蔓盤路西に位置していたことが知られる︒

さらに﹃最近実測上海新地図﹄︵一九一八年︶で確認してみれば︑

これは愛文義路と梅白格路の交差点北側の蔓盤路沿いに位置してい

たことが知られる︒ここは共同租界の西部に属するものの︑ほとん

ど中心部に近い︒

  ﹃年譜﹄を見ても︑周慶雲はこれより後︑両浙塩業協会会長就任︑

単独資本による天章絲織廠の建設など︑近代的実業家として成功の

道を歩み始めたところであるので︑隠遁生活とはおよそかけ離れて

いるようにも思われる

︶34

  周慶雲によって発せられた招待状には︑晨風廬琴会が前年の蘇州

怡園琴会に引き続いて開催されるものであると明示されているため︑

会合の開催理念についてもある程度の継承関係を想定することがで

きるだろう︒

  たとえば同招待状は﹁元音作らず︑雅樂將に淪びんとす︒︵元音

不作︐雅樂將淪︶﹂で始まり︑﹁庶幾はくば⁝⁝其れ大雅の輪を扶け

んことを︒海水天風仙人の棹を待訪す︒︵庶幾⁝⁝其扶大雅之輪︐

海水天風待訪仙人之棹︒︶﹂で締めくくられている︒ここで﹁雅楽﹂

や﹁大雅﹂という語が用いられていることは︑周慶雲にとっての琴

学が先に見たように六芸の一つ﹁楽﹂に所属するべきものであった

ことと対応する︒

  蘇州怡園琴会は︑主に琴瑟合奏などの演出により︑結果的には古

(9)

周慶雲の琴学復興運動について三一 の﹁楽﹂を実際の演奏によって再現するものとなったが︑招待状はかえって非常に簡素であり︑そこには﹁楽﹂の復古を訴えかけるような文章は綴られていない︒上海晨風廬琴会の招待状には︑復古の理念が大きく打ち出さており︑そこから周慶雲の琴会開催にかける強い意気込みが窺える

︶35

  ﹃申報﹄に﹁計先後到會奏曲及旁聽者︒有二百餘人︒頗極一時之

盛︒﹂︵上揭︶と報じられているように︑傍聴者を含めて参加者は非

常に多かった︒その内訳について見てみれば︑蘇州怡園琴会の参加

者が上海︑蘇州︑揚州だけであったのに対し︑晨風廬琴會の演奏者

はそれに加えて北京︑南京︑杭州︑湖南︑安徽︑福建といった各地

からの参加者も増えている︒注記に﹁女士﹂︑誰々の﹁女 むすめ

﹂ ︑ ﹁

と見え︑何人か女性の参加者による古琴演奏があったことも︑蘇州

怡園琴会には無かったことである︒上海晨風廬琴会は︑このように

多数の参加者によって盛大に行われた︒

  加えて︑単に伝統芸術の振興に終始したわけではなく︑東西文化

の混在︑あるいは一種の国際性を見出すことができるのも︑上海晨

風廬琴会の一大特徴である︒傍聴参加者の日記に﹁来客数十人︑緇

俗の士女及び歐婦数人琴を彈じて坐を圍む︒︵来客数十人︐緇俗士

女 及 歐 婦 数 人 彈 琴 圍

坐 ︒ ︶

﹂ ︵ ﹃

鄭 孝 胥 日 記

﹄ ︶ と あ る よ う に

︑ 欧 米 人

女性が参加していた︒これについて﹃晨風廬琴會記錄﹄の﹁與會題

名﹂と題された参加者リストを見てみれば︑華治德︑宋好樂︑梅來

文海︑費納海文という人名の後ろにそれぞれ﹁美洲女士﹂という小 字注がある︒したがって︑参加していたのはおそらく租界地区在住のアメリカ人女性であったのだろう︒  また︑﹁琴事畢︒有黃漁仙︑邊境宏兩女士各奏西國鋼琴︒﹂︵上揭︶

とあるように︑琴会終了後には黃漁仙と邊境宏という人物による鋼

琴︵ピアノ︶演奏の披露が行われた︒上海に早くから映画や舞踏な

ど西洋の娯楽文化が流入し︑また租界地区の教会学校を中心に西洋

音楽の教学が行われていたことが︑ここにおいても顕現している︒

古楽︵古の﹁楽﹂︶の復興を標榜して開催する運びとなった晨風廬

琴會であったが︑蓋を開けてみれば近代上海における東西文化交流

の側面が色濃く現れるものとなったと言えるだろう︒

四︑おわりに

  清末民初︑﹁琴学﹂は伝統的に規範とされた六藝の﹁楽﹂を最高

点とし︑以来下降線を辿るものとして描かれていた︒その中でも周

慶雲による言説は学問としての衰退を問題視する点が特徴的であっ

た︒  琴会の開催に相応しい閑雅な環境を誇っていた清代末期の上海徐

園は︑ほどなくして西洋娯楽の流入に迎合するように︑庭園の姿を

変えてしまった︒民国初期の蘇州怡園琴会は︑頑なに伝統文化行事

として実践されたが︑参加者は江南一帯の都市に偏っていた︒それ

に対して︑上海晨風盧琴会は多くの地域からの参加者を集め︑その

(10)

三二

中には租界在住の欧米人の参加もあった︒琴学の振興という点にお

いて大きな意義が認められるだろう︒

︵1︶ たとえば一九一〇年代から既に増え始めていた映画館では無声映画の伴

奏を行う外国人楽士が急増し︑また当初はフィリピン人楽士を主要メン

バーとして結成された上海パブリックバンドも︑一九二二年には工部局交

響楽団と改称され︑ヨーロッパ人楽士多数を含む本格的なオーケストラと

なった︒

︵2︶ ﹃礼記﹄﹁楽記﹂に﹁士は故無くして琴瑟を撤らず︒︵士無故不撤琴瑟︒︶﹂

とあり︑応劭﹃風俗通義﹄に﹁雅琴は︑樂の統なり︑八音と並び行はれ︑

君子の常に御する所の者︑琴は最も親密たり︒︵雅琴者︑樂之統也︑與八

音並行︑君子所常御者︑琴最親密︒︶﹂と叙述されている

︵3︶ 朱長文﹃琴史﹄︵四庫全書本︶︑周慶雲﹃琴史補﹄﹃琴史続﹄︵一九一九年

出版︑上海図書館所蔵本︶による︒

︵4︶ 青木正児﹃琴棋書画﹄︵春秋社︑一九五八年︶に︑﹁琴書﹂と﹁琴棋書画﹂

の二語が熟してきた過程を論考するものがある︒

︵5︶ 李長祥﹃天問閣文集﹄卷三﹁伎倆﹂に﹁琴學之響更久矣︒所存者聲音

耳︒聲音以外之為琴︐響矣︒﹂とある︒

︵6︶ ﹃清史稿﹄巻三一六﹁遺逸伝 李長祥﹂

︵7︶ 原文に﹁蓋奕猶有傳之者︐畫則專之者多︒兩者故皆有存焉︒字則專之者

少也︒至於琴難哉︒天地之化機︐萬物之理︐一身之精神意氣︐其流變著形︐

皆在此矣︒世乃以與奕字畫並論繆哉︒蓋琴非伎倆也︒﹂とある︒

︵8︶ 原文に﹁自古聖皇︐以禮樂治天下︒及遭秦火之後︐樂經失傳;然而代不

乏人︐自漢魏至今︐賢人名士︐無不精於琴者︒皆因琴之一道︐為樂之正音︐

可以調和情志︐導養神氣也︒自古及今而精於此者︐指不勝屈︒如晋之稽康︑

阮籍⁝⁝自咸豐時︐干戈四起︐海內幾至響︒﹂とある︒ ︵

9︶ 説は榎本泰子﹃楽人の都・上海│近代中国における西洋音楽の受容﹄︵研

文出版︑一九九八年︶による︒

10︶ ﹃會琴實紀﹄呉隱序に﹁顧嘗聞璋伯之言曰︐今之琴學︐分理與藝為兩塗︒

精操縵者固不多︐明律呂者尤罕覯︒藝其外也︐理其内也︒⁝⁝研理者掇拾

舊聞︐未嘗以形器為攷證︒習藝者墨守師法︐幾不知授受之本源︒﹂とある︒

11︶ 原文に﹁藝不能博涉而無所範圍︐則理為尤重︒樂無古今︐其理一揆︒﹂

とある︒

12︶ 説は高﹃近代中国における音楽教育思想の成立│留日知識人と日本の

唱歌﹄︵慶應義塾大学出版会︑二〇一〇年︶による︒

13︶ 周慶雲﹁雅楽新編序﹂に﹁學堂興りて自り︑亦た音樂を列して一科と為

すは︑誠に六藝の旨と合ふ有り︒楷模する所を顧れば皆異域の曲譜にして︑

﹃白虎通﹄の謂ふ所の僸佅兜離は是なり︒而して吾が國四千年相ひ傳はる

の古樂︑益々放失して復た循ふ可からず︑亦た宮を移し羽を換ふるの痛き

かな!︵自學堂興︐亦列音樂為一科︐誠與六藝之旨有合︒顧所楷模皆異域

曲譜︐白虎通所謂僸佅兜離是也︒而吾國四千年相傳之古樂︐益放失而不可

復循︐亦移宮換羽之痛矣!︶﹂とある︒引用文中の﹁僸佅兜離﹂とは︑後

漢班固の﹃白虎通義﹄や﹃東都賦﹄に登場する語で︑周辺民族の音楽を表

す︒

14︶ 原文に﹁而吾國四千年相傳之古樂︐益放失而不可復循︒﹂とある︒

15︶ 周慶雲﹃夢坡室收藏琴譜提要﹄自序に﹁琴統於樂︒琴操︑琴譜︑琴經︑

琴說︐隋書經籍志均入經部︐自明史抑置藝術等諸雜技︐四庫沿其例︐且著

錄僅四種︐琴學稍稍衰矣︒﹂とある︒

16︶ ﹃最近実測上海新地図﹄︵至誠堂︑一九一八年︶による︒

17︶ ﹃申報﹄第五六七二期︵光緒十五年二月五日︶に﹁徐園の主人は雅人の

深致を具し︑諸同人と約して星期に値たる毎に一集を為す︒新正初四は第

一集たり︑曲局の諸君を邀へて︑東山絲竹の會を為す⁝⁝下一期は琴會た

り︑次は則ち棋會たり︑再び次は則ち書畫の會たりと聞く︵徐園主人具雅

人之深致︐與諸同人約毎値星期為一集︒新正初四為第一集︐邀曲局諸君︐

(11)

周慶雲の琴学復興運動について三三 為東山絲竹之會⁝⁝聞下一期為琴會︐次則為棋會︐再次則為書畫之會︒︶﹂

とある︒

181896‑1937︶ 胡霽榮﹃中国早期電影史︵︶﹄︵上海人民出版社︑二〇一〇年︶

によれば︑上海で最初に映画が上映された日時は︑一八九六年八月徐園が

通説となっているが︑他にも一八九六年六月徐園︑一八九七年五月礼査飯

店という説がある︒

19︶ 説は虞吉﹃中国電影史﹄︵重慶大学出版社︑二〇一一年︶による︒

20︶ 原文は﹃申報﹄︵一八九〇年九月十六日︶に﹁徐園在老閘之北︐地雖不

甚寛敞︐而風亭︑月榭位置天然︐花木扶疎︐水波明瑟︐游人到此︐幾不知

身在軟紅十丈中︐眞城市而有山林之勝焉︒﹂とある︒

21︶ 原文は﹃申報﹄第五七〇八期︵光緒十五年三月十三日︶﹁贈册誌謝﹂に﹁遊

客寥寥︐述子獨撫水仙操一︐靜中凝神︐聽之殊有泠然善也之致︒﹂と

ある︒

22︶ 原文は﹃申報﹄第六九五三期︵光緒十八年八月三十日︶﹁徐園七夕琴會記﹂

に﹁徐園主人乃造余而謀曰今年七夕︐恰星期︐敝園於初六日為乞巧之

會︐遙祭雙星︐而於七夕︐良辰能為邀約七友︐携琴至園︐為牽牛織女︐賦

靜好之章乎︒﹂とある︒

23  ︶ 原文は﹃申報﹄︵一八九六年八月十四日︶に﹁徐園七夕仍設文虎候數︒

初七日乞巧會︐爰蒙同好諸君︐在園內陳設古玩︑異果︐奇花︐兼叙清曲︒

是夜准放奇巧焰火︒又一村並演西洋影戲︒惟初八九兩日︐因諸君餘興方濃︐

故再陳設古玩︐兩天以供衆覽︐特白︒﹂とある︒

24︶ 原文は﹃申報﹄︵一八九六年六月二十九日︶に﹁游資仍照舊章︐准廿三夜︐

外加烟火大戲︐遊資每位三角︒﹂とある︒

25︶ 高福進﹃﹁洋娯楽﹂的流入│近代上海的文化娯楽業﹄︵上海人民出版社︑

二〇〇三年︶によれば︑他にも光緒二十三年十月初十︵一八九七年十一月

四日︶には︑上海静安寺路︵現在の南京西路︶上の洋涇局にて︑西大后の

還暦を祝う﹁聖宴﹂が行われ︑四十人の西洋楽隊の伴奏で西洋式のダンス

パーティが行われた︒また︑一八四八年には上海市内に二十箇所以上のダ ンスホールが営業されていた︒

26︶ 原文は﹃申報﹄︵西暦一九一九年十月二十二日︶﹁怡園琴瑟會紀﹂に﹁中

國音樂以琴瑟為最古︒本月二十四︑五︐二日︐武林葉君璋伯聯合蘇︑杭︑

湘︑蜀︑豫︑直︑魯各省著名琴家︐並文藝名流︐在顧鶴逸君別墅開琴瑟大

會︒﹂とある︒

27︶ 原文は周慶雲﹁八月二十五日葉君璋伯大集琴侶於怡園︐因賦五古一章以

紀之錄呈正和﹂に﹁箜篌悽絶音︐一擘涙欲出︒和聲調頌瑟︐廼能鼓餘力︒﹂

とある︒

28︶ 原文は﹃申報﹄︵西暦一八八八年三月十四日︶﹁名園宴客﹂に﹁蘇州怡園︐

為前甯紹台道顧子山觀察所創建︐花木幽深︐亭臺壯麗︐春秋佳日︐游屐甚

多︐地方官及紳士︐每有借之︐以宴客者︒﹂とある︒

29︶ ﹃会琴実紀﹄によれば︑参加者三十三名のうち九名が上海︑二十四名が

蘇州︑一名が楊州よりの参加であった︒

30︶ 原文は﹃申報﹄︵民国庚申九月初七日︑西暦一九一二年九年十月十八日︶

に﹁晨風廬主周君夢坡邀集海內琴侶︒於本月初一初二初三等日特開大會︒

計先後到會奏曲及旁聽者︒有二百餘人︒頗極一時之盛︒⁝⁝琴事畢︒有黃

漁仙︑邊境宏兩女士各奏西國鋼琴︒余寶珊幼童度崑曲數齣︒其令尊笏堂為

笛︒以作餘興︒八時宴飲散會︒﹂とある︒

31︶ 原文は﹃壬癸消寒集﹄自序に﹁余於辛亥歳避地淞浜一廛︐風雪意境索寞︒﹂

とある︒

32 ︶ 原文は﹃呉興周夢坡先生年譜﹄﹁宣統三年辛亥四十八歳﹂に﹁九月十五

日杭州獨立︒二十九日挈眷遷滬︐寓愛文義路道達里︐額曰晨風廬︐蓋取魏

桓範與管幼安書︐請見於蓬門之側︐承訓誨於道德之門︐厥途無由︐託思晨

風︐意本秦風欽欽思賢之心︐故以名廬云︒府君挈家旅滬始此︒﹂とある︒

33︶ ﹃詩経﹄秦風﹁晨風﹂には﹁たる彼の晨風︑郁たる彼の北林︒未だ君

子に見︵まみ︶えず︑憂心欽欽たり︒如何ぞ如何ぞ︑我を忘るること實に

多し︒︵彼晨風︐郁彼北林︒未見君子︐憂心欽欽︒如何如何︐忘我實多︒︶﹂

とあり︑桓範﹁與管幼安書﹂︵﹃藝門類聚﹄巻三十七所引︶には﹁鑿して

(12)

三四

処し︑德を養ひ仁を顕す︒堯舜上に在り︑許由下に在り︒箕山の志︑是に

于ひて復た顕る︒厳平︑鄭真︑未だ論じ比ぶるに足らず︒清声遠く播し︑

頑鄙として慕仰す︒請見を蓬廬の側に思ひ︑訓悔を道德の門に承く︒厥の

途に由无く︑思ひを晨風に托す︒︵鑿而処︐養德顕仁︒堯舜在上︐許由

在下︒箕山之志︐于是復顕︒厳平鄭真︐未足論比︒清声遠播︐頑鄙慕仰︒

思請見于蓬廬之側︐承訓悔于道德之門︒厥途无由︐托思晨風︒︶﹂とある︒

34︶ しかし︑周慶雲は若い時分既に科挙官僚への道に対する興味を失ってお

り︑その意味で︑実業家として身を立てることも︑官界に背を向ける行為

の一つであったと言える︒周慶雲が琴を始めたのと同じ時期に自己を隠者

と重ね合わせていたことはやはり無関係とは言えないだろう︒また︑周慶

雲はこの後も事ある毎に︑辛亥革命直後の自己を以下のように隠者と重ね

合わせて表現している︒たとえば﹃淞浜吟社集﹄自序には﹁後の人は隱逸

傳を讀み︑輙ち心は之を向慕して︑已む能はず︒︵後之人讀隱逸傳︐輙心

向慕之︐而不能已︒︶﹂︑﹁宋梅亭記﹂には﹁予辛亥の國變より︑髮を扁舟に

散じ︑俯仰して局脊し︑抑鬱しては誰とか語らん︒今是の梅を撫でれば︑

滄桑万感し︑迸りて中に集り︑烏ぞ自己を能くせんや︑亭の成るなり︒

⁝⁝大名堂の梅も亦た隱士の植うる所と相ひ傳ふ︒︵予自辛亥國變︐散髮

扁舟︐俯仰局脊︐抑鬱誰語︒今撫是梅︐滄桑万感︐迸集於中︐烏能自己︐

亭之成也︒⁝⁝相傳大名堂之梅亦隱士所植︒︶﹂とある︒

35︶ 周慶雲﹃晨風廬琴会記録﹄﹁徵集琴會﹂に﹁元音不作︐雅樂將淪︐深

識之士以為音律之盛衰繫乎人心之邪正︒近年以來︐海內名流研琴理︐以吳

中則有怡園之集︐宣南則有嶽雲別業之集︐竊不自揆︐擬步後鹿︒以聲氣之

應︐求為樂律之討論︐伏望同志諸君子及方外︑閨媛︐攜琴戾止︐各奏爾能︐

古調重彈︐賞音毋︐庶幾引觴刻羽︐其扶大雅之輪︐海水天風待訪仙人之

棹︐謹擬數約︐佇盼教言︒﹂とある︒

参照

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発生という事実を媒介としてはじめて結びつきうるものであ

3.3.2.1.3.1 設置許可基準規則第 43 条第 1 項への適合方針 (1) 環境条件及び荷重条件(設置許可基準規則第 43 条第 1 項一).

使用済自動車に搭載されているエアコンディショナーに冷媒としてフロン類が含まれている かどうかを確認する次の体制を記入してください。 (1又は2に○印をつけてください。 )

受理担当部門は、届出がされた依頼票等について必要事項等の記載の有無等を確認

■横置きタンクについては、H26.12を目処に撤去を実施予定。.. 対策

図 54 の通り,AM 用直流 125V 蓄電池~高圧代替注水系と AM 用直流 125V

SFP冷却停止の可能性との情報があるな か、この情報が最も重要な情報と考えて