‑飢人地蔵祭 の成立背景と飢饉をめぐる信仰‑
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(2) す るた め に造 像 さ れ た 飢 人 地 蔵 が 有 名 で あ る ︒ こ の地 蔵 尊 の呼 び 名 は 主 に福 岡 県 福 岡 市 も の で︑ 他 の地 方 で は 聞 か. れ な い地 蔵 名 であ り ︑ 筆 者 が 調 べた と ころ ︑ 福 岡 藩 に お け る 飢 饉 と 地 蔵 信 仰 に 結 び つく 古 文 書 ・古 記 録 等 は 未 見 で あ る︒. し か し ︑ ﹃大 乗 大 集 地 蔵 十 輪 経 ﹄ や ﹃地 蔵 菩 薩 本 願 経 ﹄ な ど の 地 蔵 経 典 に 説 か れ て いる 地 蔵 菩 薩 に帰 依 す る こと. に よ り得 ら れ る 功 徳 か ら み れ ば ︑ 飢 人 地 蔵 が 飢 饉 や 疫 病 の流 行 な ど の情 勢 下 に お い て︑ そ の 恐 怖 と 苦 し み か ら 救 わ. れ た いと す る 現 世 利 益 の願 いと ︑ 飢 饉 ・疫 病 な ど に よ る 非 業 死者 に 対 す る哀 れ み の心 に加 え て︑ そ の死 者 が 怨 霊 と. 巻 之 二十 四﹄ (﹃新 訂 黒 田家. 第 一集 ﹄︑ 西 日 本 文 化 協 会 ︑ 一九 八 一年 )︑ 庄 屋 の史 料 と し て は︑ ﹃福 岡 藩 粕 屋 郡 大 庄 屋 留 書 ﹄ ( 九. 四 ﹄ ︿文 献 出 版 ︑ 一九 八 二年 ﹀) や ︑ 福 岡 藩 の右 筆 頭 取 を 勤 め た 長 野 源 太 夫 の 日記 ﹃長 野 日 記 ﹄ ( 秀 村 選 三編. 福 岡 藩 にお け る 享 保 の飢 饉 に 関 す る 史 料 と し て は ︑ 藩 の 正史 で あ る ﹃黒 田新 続 家 譜. な って崇 り を 起 こす こ と を 恐 れ ︑ そ の 霊 を 供 養 す る た め に造 像 さ れ た こと は 間 違 いな いと 思 わ れ る ︒. 譜 ﹃近 世博 多 史 料. 年 代 記 (一)﹄︑ 一九 九 〇 年 ) な ど が あ り ︑ 研 究 論. 福 岡 藩 (二)﹄ ( 財 団 法 人 西 日本 文 化協 会 ︑ 二 〇 〇 一年 )︑ 藤 野 達 善 氏 の ﹃飢 人 地. 近 世資料編. 州 大学 大 学 院 比 較 社 会 研 究 科 ︑ 九 州 文 化 史 料 研 究 所 史 料 集 刊 行 会 ︑ 二〇 〇 〇 年 )︑ 編 年 体 で 書 かれ た 年 代 記 であ る. 通史編. ﹃村 用 集 ﹄ ( 財 団 法 人 西 日本 文 化 協 会 ﹃福 岡 県 史 稿 と し ては ︑ ﹃ 福 岡県史. 蔵物 語﹄ ( 第 二版 ︑ 一九 八 五 年 )︑ 近 世 の飢 饉 全 体 に 関 し て は ︑ 菊 池 勇 夫 氏 の ﹃近 世 の飢 饉 ﹄ ( 吉 川 弘 文 館 ︑ 一九 九 七年 ) な ど が あ る ︒. な お ︑ 飢 饉 救 済 の信 仰 に 関 し て ︑本 稿 で は 地 蔵 信 仰 を 中 心 に 考 察 した の で ︑ そ の先 学 の 研 究 を 紹 介 す る と ︑ 真 鍋. 広 済 氏 の ﹃地 蔵 菩 薩 の 研 究 ﹄ (三密 堂 書 店 ︑ 一九 六 〇 年 )︑ 速 水 侑 氏 の ﹃地 蔵 信 仰 ﹄ ( 塙 書 房 ︿はな わ 新 書 ﹀ 一九 七. 五年 )︑ 石 川純 一郎 氏 の ﹃地 蔵 の世 界 ﹄ ( 時 事 通 信 社 ︑ 一九 九 五 年 )︑ 大 島 建 彦 氏編 ﹃民 間 の地 蔵 信 仰 ﹄ (渓 水 社 ︑ 一. 九 九 二年 )︑ 頼 富 本 宏 氏 の ﹃庶 民 の ほと け‑ 観 音 ・地 蔵 ・不 動‑ ﹄ (日本 放 送 出 版 協 会 ︑ 一九 八 四年 ) な ど が あ る ︒. 六三. 本 稿 で は ︑ 福 岡 藩 に お け る 享 保 の飢 饉 を 取 り 上 げ ︑ 飢 饉 を め ぐ る 諸 信 仰 を 地 蔵 信 仰 と 絡 め て考 察 し て いく も の で. 福岡藩における享保 の飢饉 と救済信仰.
(3) 六四. あ る が ︑ 論 を す す め る に あ た って は ︑ ま ず ︑ 飢 饉 に 関 す る 地 蔵 信 仰 の性 格 と 歴 史 に つい て論 じ ︑ 続 い て ︑ 福 岡 藩 関. 係 の史 料 ・文 献 な ど か ら 飢 饉 当 時 の信 仰 や ︑ 庶 民 の 生 活 の実 態 を あ き ら か に し て︑ 飢 人 地 蔵 信 仰 の成 立 背 景 を 浮 き 彫 り に し て いく ︒. 一 飢 人地蔵 と地蔵 信 仰. 咲 山 恭 三氏 は ﹃博 多 中 洲 も の が た り ( 前 編 )‑ 弥 生 よ り 明 治 末 年 ま で の変 遷‑ ﹄ (文 献 出 版 ︑ 一九 八 ○ 年 ) に て︑. 飢 人 地 蔵 の起 源 は ︑ ﹁ 飢 え 死 の遺 体 を 積 ん で焼 い て いた が ︑ 焼 き お う せ な く な って︑ こ の 場 所 に 大 き な 穴 を 掘 り ︑. ﹁由 緒 ﹂ に ︑ ﹁享 保 子 丑 両 年 飢 死 横 死 の群 霊 を 祭 り ︑ 天 明 元 年 中 藩 主 よ り 弔 あ り. 其 の後 は上新 川端 町及 び近 町. 遺 体 を 葬 った 跡 に無 縁 塚 が 出 来 ︑ 何 時 の時 代 か 一基 の地 蔵 尊 が 祀 ら れ た も の であ る﹂ と 論 じ ら れ ︑ ﹁ 仏寺 台帳﹂ の. 五ヶ 町 よ り毎 年 陰 暦 七 月 二 十 四 日を 大 祭 日 と 定 め 施 餓 鬼 供 養 せ り ﹂ と あ る こ と を 紹 介 さ れ て いる (七 三 頁 )︒ 右 の. こ と は 現 在 の福 岡 市 内 十 八 ヶ所 に 残 る 飢 人 地 蔵 ・供 養 塔 の内 ︑ 最 も 有 名 な 川端 の飢 人 地 蔵 に つい て述 べ ら れ た も の であ る ︒. (1能)古 の 一字 一石 法 華 塔 ︑(2 上)ノ原 の 六 地 蔵 ︑(3 今) 宿 横 町 ・徳 正 寺 の地 蔵 ︑(4 今)宿 上 町 の観 音 堂 ︑(5). ち な み に︑ 福 岡 市 内 十 八ヶ 所 に あ る 地 蔵 尊 及 び 供 養 塔 の所 在 地 と ︑ 現 在 行 わ れ て い る供 養 祭 は 次 ぎ の通 り であ る ︒ ︻西 区 ︼. ( 七 月 二 四 日 ︑ 供 養 祭 )︑(7 西)・神 の原 の飢 人 地 蔵 と 彫 って あ る 自 然 石 (四. ( 桜7坂)の供 養 塔 と 地 蔵 菩 薩 (四月 四 日 ︑ 供 養 祭 )(1 桜0坂)の味 噌 喰 い地 蔵 (八 月 二 四 日︑ 味 噌 喰 い地 蔵. 月 二四 日︑ 供 養 祭 )︑(8 野) 芥 ・円 応 院 の地 蔵 と 自 然 石. ( 祖6 原)・顕 乗 寺 の地 蔵 堂. 今 宿 東 松 原 の地 蔵 堂 ︻早 良 区 ︼. ︻中 央 区 ︼. 祭 り )︑(1 大1手)門 ・浄 念 寺 の供 養 塔 ︑(1 地2行) ・圓 徳 寺 の お に ぎ り 地 蔵 (八 月 二 四 日 ︑ 供 養 祭 )︑(1 今3).
(4) ( 祇1園4町 ) ・萬 行 寺 の供 養 塔 ︑(1 千5 代)町 の地 蔵 堂. 泉 ・長 圓 寺 の地 蔵 堂 (八月 二四 日 ︑ 地 蔵 尊 祭 り) ︻ 博 多 区︼. (八 月 二 四 日 ︑ 供 養 祭 )︑(1 中6洲)川 端 飢 人 地 蔵 尊. (八. 月 二 三︑ 二 四 日 ︑ 飢 人 地 蔵 夏 祭 り)︑(1 大7 博)町 の供 養 塔 (八 月 二 四 〜 二 六 日 ︑ 夏 祭 り ・大 浜 流 灌 頂 )︑. ) (西 18 月 隈 ・見 上 後 公 園 の自 然 石 これ か ら す る と 供 養 の 方 法 に は ︑ 一字 一石法 華 塔 ・供 養 塔 ・自 然 石 な ど も あ り ︑ 地 蔵 信 仰 だ け で はな か った こと が わかる︒. 序 品第 一﹄に︑. そ う な ると 地 蔵 信 仰 以 外 の信 仰 も 考 察 し な く ては な ら な いが ︑ ま ず ︑ 飢 饉 と 地 蔵 菩 薩 の関 係 か ら み て み る こと に す る︒. 地蔵 経典 にみる地蔵信仰 と飢饉 の関連 性とし ては︑玄奘 三蔵 の訳 によ る ﹃ 大乗 大集 地蔵十輪経. 若 諸有情飢 渇所逼︒有 能至心称名念 誦帰敬供養地蔵菩薩摩 詞薩者︒ 一切皆得如法 所求飲食充 足︒ ( 中略). 若 諸有情 以諸種 子殖 於荒 田或熟 田中 ︒若勤営務 或不営務 ︒有 能至心称 名念誦帰 敬供養地蔵菩薩摩詞薩者 ︒此善. 男子︒功徳 妙定威神 力故︒令彼 一切果実豊稔 ︒所以者何 ︒此善男 子︒ 曾過無量無 数大劫︒ 於過数量仏 世尊 所︒. 発大精進堅 固請願︒ 由此願力為諸有情成熟 欲故︒常普任持 一切大地︒ 常普任持 一切種 子︒常普令彼 一切有 情意. 随 受 用 ︒ 此 善 男 子威 神 力 故 ︒ 能 令 大 地 一切草 木 根 髪 芽 茎 枝 葉 花 果 皆 悉 生 長 薬 穀 苗 稼 花 果 茂 実成 熟 潤 沢香 潔 軟 美 ︒. と あ る よ う に ︑ も し ︑ 飢 渇 す る こと が あ っても ︑ 地 蔵 菩 薩 に 帰 依 す れ ば 飲 食 が 充 足す る よ う にな る こと や ︑ 果 実 そ. 巻下. 地 神 護 法 品第 十 一﹄ に は ︑. の 他 の大 地 の恵 み を 得 る こと が でき る と 説 か れ て いる ︒ ま た ︑ 実 叉 難 陀 訳 ﹃地 蔵 菩 薩 本 願 経. 是 地 蔵 菩 薩 教 化 六道 一切 衆 生 ︒ 所 発 請 願劫 数 如 千 百億 恒 河 沙 ︒ 世 尊 ︒ 我 観 未 未 来 及 現 在 衆 生 ︒於 所住 処 於 南 方. 清 潔 之 地 ︒ 以 土 石 竹 木 作 其龕 室 ︒ 是 中 能塑 書 乃 至金 銀 銅 鉄 ︒ 作 地 蔵 形 像 焼 香 供養 晦 礼 讃 歎 ︒ 是 人 居 処 即 得 十 種. 六五. 利 益 ︒ 何 等 為 十 ︒ 一者 土 地 豊 壌 ︒ 二者 家 宅 永 安 ︒ 三者 先 亡 生 天︒ 四 者 現 存 益 寿 ︒ 五 者 所 求 遂 意 ︑ 六者 無 水 火 災 ︒. 福 岡 藩 に お け る享保 の飢 饉 と救 済 信 仰.
(5) 七 者 虚 耗 辟 除 ︒ 八者 杜 絶 悪 夢 ︒ 九 者 出 入 神 護 ︒ 十者 多 遇 聖 因 ︒. 六六. と あ り ︑ 地 蔵 菩 薩 を 信 仰 す る と 得 ら れ る ﹁十 種 の利 益 ﹂ の中 に ﹁土 地 豊 壌 ﹂ が 説 か れ て い る こと から も ︑ 飢 饉 対 策. と し て の信 仰 の下 地 が あ る こと が わ か る (も つと も ︑ 我 国 の近 世 庶 民 に 地 蔵 経 典 と ‑ 饉 の関 連 性 に つい て の知 識 が あ った か ど う か は 別 問 題 で あ る )︒. さ て ︑ 日本 への地 蔵 信 仰 の伝 来 に つい て で あ る が ︑ これ は 六 世 紀 の敏 達 天 皇 の時 代 も しく は 聖 徳 太 子 の時 代 な ど 諸 説 が あ る も の の︑ ﹃日 本 書 紀 ﹄ な ど の文 献 に 記載 は な い︒. 飛鳥 仏 教 は 百済 ・新 羅 ・高 句 麗 な ど の朝 鮮 仏 教 の影 響 が 強 く ︑ 弥 勒 ・阿 弥 陀 ・観音 信 仰 は北 魏 ← 朝 鮮 ← 日本 と い. う 経 路 で伝 わ った よ う であ る ︒ し か し ︑ 朝 鮮 に 地 蔵 信 仰 が 伝 来 した のは 地 蔵 像 の 最 も 古 い遺 品 の例 が 八 世紀 中 頃 の. 慶 州 石窟 庵 の声 聞 形 地 蔵 坐 像 であ る か ら ︑ 日 本 へ飛 鳥 時 代 に 伝 来 し た 可 能 性 は ほ と ん ど な い と いわ れ ︑ 奈 良 時 代 に ︑. 入唐 僧 な ど に よ り唐 か ら 経 典 や 仏 像 が 伝 来 さ れ ︑ そ れ と と も に当 時 中 国 で盛 ん に な って いた 地 蔵 信 仰 も伝 来 し た と. な お ︑ 正 倉 院 に あ る 地 蔵 経 典 に は 次 ぎ の も のが あ り ︑ いず れ も 天 平 年 間 に 写 さ れ た ︒. 考 えら れ て い る ︒. ) (1﹃十 輪 経 ﹄︑(2)﹃占 察 善 悪 業 報 経 ﹄︑(3)﹃大 方 広 十 輪 経 ﹄︑(4)﹃地 蔵 菩 薩 経 ﹄︑(5)﹃地 蔵 経 ﹄︑(6)﹃地 蔵 菩 薩 陀 羅 尼 経 ﹄︑(7)﹃大 乗 十 輪 経 疏 ﹄︑(8)﹃十 輪 経 抄 ﹄. そ し て︑ 平 安 期 に な る と ︑ ﹃霊 験 記 ﹄ や ﹃今 昔 物 語 集 ﹄ に 地 蔵 説 話 が あ ら わ れ る よ う にな り ︑ や が て︑ 天 台浄 土. 教 の 発達 に と も な い︑ 地 蔵 の利 益 は 天 台 宗 の僧 侶 や 貴 族 の間 で注 目 さ れ は じ め る ので あ る が ︑ 当 時 ︑ 天 台浄 土 教 で. は ︑ 地 蔵 は 多 く の場 合 ︑ 弥 陀 五 尊 ( 阿 弥 陀 を 本 尊 と し て観 音 ・勢 至 ・地 蔵 ・竜 樹 を 配 す る形 式 ) の造 像 形式 の中 で︑. 阿弥 陀 を と り 囲 む 聖 衆 の 一員 と し て礼 拝 さ れ る にと ど ま り ︑ 単 独 で造 像 崇 拝 さ れ る 専 修 的 信 仰 は ま だ 発達 し て いな か った ︒. そ れ が 平 安 時 代 後 期 に 至 り ︑ 民 間 に も 仏 教 が 広 く 浸 透 す る に つれ て︑ 地 蔵 信 仰 も 発 達 した ︒ 十 一世 紀 の中 頃 に ︑.
(6) 巻 十 七 ﹄ の地 蔵 説 話 三 十 二編 の中 に 再 録 さ れ ︑ そ こ に. 三井 寺 の僧 実容 が 民 間 地 蔵 説 話 を 集 成 し た ﹃地 蔵 菩 薩 霊 験 記 ﹄ は︑ 地 蔵 信 仰 の発 達 を 証 明 す る も の であ る︒ こ の 説 話 集 は 後 に 散 逸 し た が ︑ そ の多 く は ﹃今 昔 物 語集. は(1 地) 獄 か ら 蘇 生 し た ︑(2 戦)場 で矢 を 拾 っ てく れ た ︑(3 山)火 事 か ら 助 け ても ら った ︑(4 疫)病 から 救 わ れ た ︑(5 貧). 困 ・病 か ら 救 わ れ た ︑(6 水) 銀 を 採 掘 し て いた お り に 土 砂 崩 れ が 起 き ︑ 閉 じ 込 めら れ て いた と ころ を 救 わ れ た ︑(7 地). 巻 十 七 ﹄ の ﹁僧 浄 源 祈 地 蔵 絹 与 老 母 語 第 九 ﹂ に は ︑. 獄 に て 代 わ り に 苦 し み を 受 け て く れ た ︑(8 飢) 饉 か ら 救済 さ れ た ︑ な ど の 話 が あ り ︑ 当 時 の 民 間 地 蔵 信 仰 の特 色 を 窺 う こと が でき る ︒ そ し て︑ ﹃今 昔 物 語 集. (上 略 ) 而 ル間 ︑ 世 二飢 渇 発 テ ︑ 飢 死 ヌ ル者 多 ク シテ ︑ 死 人路 頭 二隙 無 シ ︒ 而 ル ニ︑ 浄 源 聖 人 老 タ ル母井 二妹. 一人 身 貧 ク シ テ京 ノ家 二有 リ ︒ 敢 テ食 物 無 ク シテ ︑ 殆 死 二可 及 シ ︒ 其 ノ時 二︑ 浄 源 地 蔵 ノ本 誓 ヲ深 ク憑 テ ︑ 蜜. 二共 ノ法 ヲ行 テ ︑ ﹁老 母 ヲ助 ケ 給 へ﹂ ト祈 ル ニ︑ 其 ノ 行 法 一七 日 二満 ズ ル夜 ︑ 京 二有 ル老 母 ノ夢 二︑ 一人 ノ 小. 僧 ノ形 チ端 正 ナ ル︑ 手 二美 絹 三 疋 ヲ 捧 テ来 テ ︑ 老 母 二云 ク ︑ ﹁此 ノ絹 ハ上 ノ 中 ノ 上 品 也 ︒ 横 川 ノ 供 奉 ノ御 房 ノ. 遣 ス所 也 ︒ 速 二此 レヲ 米 二交 易 シ テ︑ 御 要 二可 被 宛 シ﹂ ト 云 テ ︑ 絹 ヲ令 得 ム ︑ ト 見 テ ︑ 夢 覚 ヌ︒ 傍 二寝 タ ル人. 二此 ノ夢 ヲ 語 ル︒ 而 ル間 ︑ 夜差 ヌ︒ 見 レ バ ︑ 此 ノ令 得 ツ ル絹 現 二傍 二有 リ ︒ 美 絹 三 疋也 ︒ ( 中 略)従者 ノ女 ヲ. 以 テ此 レ ヲ令 交 易 ル ニ︑ 或 ル富 家 二呼 ビ 入 レ テ︑ 此 ノ絹 ヲ 見 テ 感 ジ 喜 テ ︑ 直 ノ米 三 十 石 二買 □︒ 然 レバ ︑ 此 ヲ 運 ビ寄 セ テ仕 フ ニ︑ 一家 富 テ食 物 二飽 満 ヌ︒ (下略 ). と いう よう に︑ 比叡 山 横 川 の僧 浄 源 が ︑飢 饉 に 苦 し む 老 いた 母 を 助 け る た め に 地 蔵 菩 薩 に 祈 願 を す る と ︑ そ の七 日. 後 に 浄 源 の 母 の夢 に 絹 を 持 った 地 蔵 菩 薩 が あ ら わ れ ︑ 米 と交 換 す る た め の絹 を 与 え て飢 饉 か ら 浄 源 の 母 を 救 った と いう 説 話 があ り ︑ 当 時 の地 蔵 信 仰 と 飢 饉 か ら の救 済 が 関 係 し て いる こと が わ か る ︒. 六七. 平 安 末 期 にな る と ︑ 貴 族 社 会 と 比較 し て ︑ 民 間 に お い て は ︑ 地 蔵 は 地 獄 抜 苦 の菩 薩 と し て阿 弥 陀 と 対 等 の地 位. ( 併 修 ) とな った ︒ 庶 民 に と って地 獄 は 貴 族 よ りも 深刻 な 問 題 であ った か ら であ る︒. 福岡藩における享保 の飢饉と救済信仰.
(7) 六八. 速 水 侑 氏 は ﹃地 蔵 信 仰 ﹄ に て︑ 貴 族 社 会 の浄 土 教 に つ い て︑ ﹃往 生 要集 ﹄ を 例 と し て︑ ﹁六道 地 獄 の 苦 を 救 う も の. と し て︑ 阿弥 陀 を 頂 点 に ︑ 文 殊 ・弥 勒 ・観 音 ・勢 至 ・地 蔵 が 列 記 さ れ ︑ 地 蔵 の功 徳 だ け が 重 視 さ れ て いる わ け で は. な いが ︑ これ にた いし て︑ ﹃今 昔 物 語 ﹄ な ど 民 間 地 蔵 説 話 では ︑ 地 獄 抜 苦 の菩 薩 は ︑ 地 蔵 だ け であ る ︒ 阿 弥 陀 と 地. 蔵 の併 修 説 話 で も ︑ 実 際 に 地 獄 の衆 生 を 救 ってく れ る のは ︑ 例 外 な く 地 蔵 で あ る ﹂ と 論 じ ら れ ︑ ﹁﹁ 地獄 は必定﹂ と. いう 意 識 の強 い民 間 で︑ こ のよ う に 地 蔵 が 重 ん じ ら れ た ﹂ 理 由 に つ い て︑ ﹃往 生 要 集 ﹄ な ど で︑ 地 蔵 以 外 の信 仰 の. 功 徳は ﹁ 人 び と を 地 獄 に お と さ ぬ 功 徳 ﹂ であ り ︑ 現 世 で阿 弥 陀 ・文 殊 ・弥 勒 ・観 音 ・勢 至 の諸 尊 を 信 仰 し て いれ ば ︑. そ の功 徳 に よ り 死 後 は 極 楽 に 往 生 でき る と さ れ て いる のに 対 し ︑ 民 間 地 蔵 説 話 の場 合 は 地 蔵 が 地 獄 に 入 り ︑ 地 獄 に. 落 ち た 人 々 の苦 を救 う と い う 信 仰 で︑ 地 獄 に 落 ち る こ と を 前 提 と し て いる 点 で 他 尊 の信 仰 と は 異 な る こ と を 指 摘 さ. れ て い る︒ そ し て︑ 地 蔵 信 仰 の専 修 的 信 仰 に つい て ︑ ﹁ 地 獄 に 対 す る 恐 怖 が あ って も ﹁ 現 世 で功 徳 を 積 め ば 地 獄 に. 堕 ち ぬ ﹂ と いう 意 識 が あ る 以 上 は ︑ 専 修 的 地 蔵 信 仰 は 発 達 しな いが ︑ ﹁ 地 獄 は 必定 ﹂ と いう 意 識 が 成 立 す る と き ︑. 地 獄 に 入 って人 々 の 苦 を 救 う と いう 地 蔵 の本 願 に す が る ほ かな い﹂ と いう 観 点 か ら ︑ ﹁ 平安 末期 の民間地蔵 信仰 の. 発 達 ﹂ は ︑ ﹁た ん に 貴 族 社 会 仏 教 が内 蔵 し て いた 地 蔵 信 仰 が ︑ 民 間 に 下降 定 着 し た と い う だ け で はな く ︑ ﹁地 獄 は 必. 定 ﹂ と いう 民 衆 の意 識 のも と で ︑ 質 的 に変 化 し た も の で あ った と い え る ﹂ と 論 じ ら れ て い る︒ (五条 ). さ て︑ 室 町時 代 の飢 饉 と 地 蔵 信 仰 の か か わ り に つ いて は ︑ 伏 見宮 貞 成 が ﹃看 聞 御 記 ﹄ 応 永 二 十 九 年 (一四 二 二). 九 月 六 日 の条 に て︑ ﹁ 於 河原今 日大施餓鬼 依 風雨延引 云々︒此事去 年飢饉︒ 病悩 万人死亡之 間︑為追 善有勧 進僧︒. ︿ 往 来 羅 斉 僧 相 集 ﹀ 以 死骸 之 骨 造 地 蔵 六 躰 ﹂ と ︑ 前 年 の飢 饉 と 病 に よ る 死 者 供 養 のた め ︑ 死骸 の骨 で六 体 の地 蔵 菩. 薩 像 を 造 った こ と を 記 録 し て いる こと か ら ︑ 飢 饉 の 死者 供 養 と 地 蔵 信 仰 が 関 連 し て いる こと が わ か る ︒. 速 水 氏 は前 出 の ﹃地 蔵 信 仰 ﹄ に て︑ ﹁ 南 北 朝 内 乱 期 か ら 室 町 時 代 に 入 り ︑ 地 蔵 菩 薩 の 現 世 利 益 への民 衆 の期 待 は ︑. ほ と ん ど 無 際 限 と い って よ いほ ど 高 ま った が ︑ こう し た 傾 向 は︑ こ と に 京 都 に て いち じ る し く ︑ 地 蔵 の治 病 神 化 や ︑ 新 興 地 蔵 霊 場 の 形成 ︑ と い った 現 象 が お こ ってく る ︒.
(8) 平安 時 代 以来 日 本 最 大 の都 市 であ る 京 都 は ︑ 湿 潤 な 風土 と 人 口集 中 が あ いま って︑ しば しば 疫 病 が 流 行 し ︑ そ の. 結 果 ︑ 早 く か ら 住 民 のあ いだ に御 霊 信 仰 を 発 生 さ せ ︑ 祇 園 ・北 野 を は じ め と す る 多 く の疫 神 祭 祠 の信 仰 を 生 ん だ ︒. こ の よ う な ︑ 明 確 な 機 能 を も つ疫 神 の崇 拝 は ︑ 従 来 の 氏 神 な ど の ︑ 共 同 体 的 ・非 個 性 的 ・閉 鎖 的 な 信 仰 形 態 と 異. な った ︑ 個 性 的 ・個 人 的 な 信 仰 を 成 立さ せ る ︒ い った い に都 市 住 民 は ︑ 共 同 体 的 規 制 か ら 比 較 的 自 由 であ る か ら ︑. 農 村 社 会 にく ら べれ ば ︑ 個 性 的 ・個 人 的 な 信 仰 を う け いれ や す く ︑ 霊 験 あ り と う わ さ が 一度 た てば ︑ そ の寺 社 に ひ. と び と が 雲 集 す る と いう 結 果 にな る ︒ いわ ゆ る 流 行 神 が 生 ま れ や す い環 境 な の であ る ﹂ と 論 じ ら れ (一三九 頁 )︑. ま た ︑ 石 川 純 一郎 氏 は 著 書 ﹃地 蔵 の世 界 ﹄ に て ︑ ﹁江 戸 期 に は 都 市 を 中 心 に庶 民 信 仰 が ま す ま す 盛 行 を 見 る よ う に. な った ﹂ こと や ︑ ﹁ 地 蔵 に か ぎ ら ず ︑ あ ら ゆ る 神 仏 や 変 哲 も な い木 石 の類 ま で も 不 思 議 な 感 応 が あ った と 誰 か が 語. れ ば ︑ た ち ま ち 信 仰 対 象 と し て 祀 り 上 げ ら れ ︑ 善 男 善 女 が娟 集 と いう 現 象 さ え ひ き 起 こ し た ︒ いわ ゆ る 流 行 神 の. 出 現 で あ る ﹂ と 論 じ ら れ ︑ さ ら に ﹁江 戸 期 に お け る 庶 民 信 仰 の特 色 は 願 掛 け に見 ら れ る 現 世 利 益 への傾 斜 と 呪 的 信. 仰 行 為 ﹂ に あ り︑ こ の よう な 中 で 地 蔵 信 仰 も 盛 況 を み せ る こ と に な って︑ ﹁ 各 地 の地 蔵 霊 場 が 庶 民 の群 参 を 招 き ︑. 辻 や 境 界 に 祀 ら れ た 石地 蔵 が ︑ 身 近 で親 し みや す い神 仏 と し て祈 願 が 寄 せ ら れ る よう にな った ﹂ と 近 世 の地 蔵 信 仰 の広 が り に つ い て論 じ ら れ て い る (二 三 三〜 二 三 四頁 )︒. ま た ︑ 近 世 に お け る 飢 饉 と 地 蔵 信 仰 の関 連 性 を 示す 事 例 と し て ︑ 山 形 県 新 庄 市 金 沢接 引 寺 の石 地 蔵 を あ げ ら れ ︑. こ の 地 蔵 は ︑ も と も と 島 越 村 に 近 い街 道 にあ った のを ︑ 宝 暦 五年 (一七 五 五) の飢 饉 に よ る 餓 死 者 回向 のた め に こ. の 場 所 に遷 祀 さ れ た と いわ れ て いる こと や ︑ ま と も な 食 料 が な く 餓 死者 を 出 し て い る上 に ︑ 食 料 を 求 め て他 国 か ら. 流れ て来 た 人 々も ︑ 飢 餓 と疫 病 か ら 行 き 発 れ て い った と いう 惨 状 と ︑ 藩 ( 新 庄 藩 ) が ︑ これ ら の 死体 を 同 寺 境 内 に. 埋葬 し ︑ 入 り き ら な け れ ば 他 所 に 大 穴 を 掘 って投 げ 込 ん だ と いう こ と か ら ︑ 餓 死者 の怨 念 が ウ ン カと な った と し て︑. 地 蔵 を 祀 り ︑ 今 日も 春 秋 彼 岸 に は 牡 丹 餅 を 備 え て供 養 を し て いる と いう こと ︑ 宝 暦 の飢 饉 か ら 六 十 一回 忌 にあ た る. 六九. 文 化 十 三 年 (一八 一六 ) に城 下 観 音 寺 住 職 宥 巷 が 願 主 ︑ 講 中 が 施 主 と な って︑ か つて餓 死者 を 葬 った 場 所 に ︑ ﹁餓. 福 岡藩 に おけ る享保 の飢饉 と 救済 信 仰.
(9) 福 岡藩 にお け る享 保 の飢饉 に対す る祈 祷 と諸 信仰. 死 聖 霊 位 ﹂ と いう 銘 文 を 刻 ん だ 丸 石 を 建 立 し た こと な ど を 紹 介 さ れ て いる (二 九 三 〜 二九 四 頁 )︒. 二. 七〇. 福 岡 藩 な ど 西 日本 を襲 った こ の飢 饉 は︑ 長 期 に わ た る 大 雨 と蝗 災 (ウ ンカ な ど の稲 の害 虫 の大 発 生 ) に よ り 稲 が 腐 って し ま った た め に お き た ︒. ち な み に 池 内 長 良 氏 の論 文 ﹁ 享 保 十 七 (一七 三 二) の稲 作 にお け る 水 損 ・蝗 害 と 注 油 情 報 の伝 播 ﹂ (﹃人 文 地 理 ﹄. 四 四‑ 一︑ 一九 九 二 年 ) に よれ ば ︑ 被 害 を も た ら し た 害 虫 に つい て︑ ま ず 六 月 初 め に セジ ロウ ンカ が 九 州 に 大 発 生. し︑ 同 中 旬 に は 諌 早 ・佐 伯 領 等 の水 田内 に は 株 絶 え と いう 現 象 が 現 わ れ ︑ 続 い て︑ 七 月 半 ば か ら は ト ビ イ ロウ ン カ と いう 別 種 が 異 常 発 生 し ︑ 西 日 本 全 体 を 襲 った と 論 じ ら れ て い る ︒. 当 時 の稲 の害 虫 駆除 の方 法 と し ては ︑ 鯨 油 を 水 田 に 注 油 し ︑ そ の 油 膜 に て害 虫 を 窒 息 さ せ て 駆 除 す る 方 法 が あ っ. (下. 総). 第八篇﹄享保 十七年十月 二十八 日の条 には ﹁ 西国蝗 災をも て︑ 日光准后 に高家 長澤壱岐守 資親し て. た が ︑ こ の大 飢 饉 で は 効 果 を あ げ る こと は 出 来 な か った ︒. ﹃ 徳 川実記. 御 い のり の 事 仰 進 る︒ (中 略 ) こ の外 伊 勢 を は じ め ︑ 山 城 の 石清 水 ︑ 出 雲 の大 社 ︑ 豊 前 の宇 佐 ︑ 常 陸 の鹿 島 ︑ 香 取. 巻 之 二十 四﹄ (﹃新 訂 黒 田 家 譜 四 ﹄) に は ︑ 享 保 十 七 年 の春 ご ろ よ り 雨 が多 く ︑ 初 夏 に い. 等 に も い のり の 事 仰 下 さ る﹂ と あ り ︑ 幕 府 は 全 国 的 に 蝗 災 に 対 す る祈 祷 を 命 じ て いる ︒ ま た ︑ ﹃黒 田新 続 家 譜. (﹁ 枯﹂か) れしもあ. た って 大 麦 ・小 麦 が と も に半 ば 腐 って熟 し な か った こと や ︑ 稲 も 閏 五 月 の時 点 で は ︑ 出 来 が よ か った も の の︑ 六 月. 以降 も 雨 が 止 ま な い上 に 洪 水 も し ば しば お こり ︑ ﹁挿 た る苗 も 流 れ ︑ 或 ハ水 に ひた り て腐 り捨. り し か ﹂ と いう 状 態 と な り ︑ さ ら に 六 月 半 ば か ら は ﹁葉蟲 ・茎蟲 ﹂ が 発 生 し ︑ ﹁ 次 第 に国 中 の 田悉 く蟲 付 け る ﹂ と. いう 事 態 に 陥 った こと や ︑ こ の蝗 害 は ︑ 西 国 ・四 国 ・中 国 地 方 も 同 様 であ った こと が 記 さ れ て いる ︒.
(10) そ の他 ︑ 同 史 料 に は ︑ ﹁ 地 病 犬 ﹂ が 人 に噛 み 付 き 死 に 至 ら し め た こと や ︑ 秋 に は牛 馬 に 悪 病 が 流 行 し︑ 多 く の牛 馬 が 死 ん で し ま った こ と な ど が 記 さ れ て お り ︑ 被 害 の深 刻 さ が 窺 わ れ る ︒. 七 月 十 七 日 ︑ 福 岡 藩 主 黒 田継 高 は当 職 の家 老 吉 田六 郎 太 夫 栄 年 を 中 心 と し て飢 饉 対 策 に 着 手 した ︒ そ れ は ︑ 家 中. に 対 す る倹 約 ︑ 農 民 に ﹁何 品 に よ ら す 作 り 物 ﹂ を さ せ て 飢 饉 に 備 え さ せ る こ と ︑ 米 ・大 豆 ・雑 穀 類 の ﹁穀 留 ﹂︑ 領. 内 の酒 屋 に 対 し て製 造 を 減 少 さ せ︑ 士 民 共 に 無 用 の食 物 を 省 略 す る こと を 命 じ た も の であ った ︒. 一 当 年 国 中 都 而 田方蟲 気 大 分 二付 ︑ 所務 米 余 計 可減 候 ︒ 兼 而 家 中 之 者 ︑ 其 心 得 仕 ︑ 弥 倹 約 可 相 用 事. 一 当 春 麦 不作 ︑ 其 上蟲 気 二付 ︑ 百 姓 共 可 及 難 儀 候 ︒ 無據 及 飢 候 者 可 相 救 候 ︒ 余 分 力 二も難 及 事 候 条 ︑ 何 品 二. 一. 一. 市 民 共 二無 用 之 食 物 可 相 省 事. 両市 中 在 々 酒 屋 ︑ 当 年 酒造 過 半 減 少 可 仕 候 事. 両 市 中 在 々 共 二︑ 米 ・大 豆 ハ言 二不 及 ︑ 雑 穀 迄 先 稠 敷 穀 留 可 申 付 候 事. よ ら す 作 り物 等 仕 ︑ 又 ハ相 か せ き 候 而 ︑ 飢 を 凌 候 様 可 相 働 事. 一 子七 月十七 日. そ し て︑ そ の実 行 に あ た っては ︑ ﹁貯 あ る 輩 は 米 ・銀 の員 数 を 書 出 す へし ︒ 借 用 ひら るゝ 事 も あ る へし ﹂ と 郡 .. 町 ・浦 の 三奉 行 に 達 し ︑ 二 十 五 日 に は ﹁ 中 老 諸 役 人 を 呼 出 し ︑ 老 臣 列 座 ﹂ す る 中 ︑ 飢 饉 と いう 情 勢 下 に お い て︑ 藩. 主 が ﹁御 心 を 労 ﹂ し て い る こと か ら ︑ ﹁ 諸 士 知 行 ・切扶 持 共 に ︑ 国中 に 出 来 の米 ・大 豆 を 以 て︑ 大 身 ・小 身 に 配 当. 教令﹂ が下され た ことに対 し て ﹁ 仕 官 の輩 ハ各 其 職 に 心 を盡 し ︑ 勤 に 身 を 労. せ ら る へし ︒ さ れ 共 中 々 事 足 へき に あ ら さ れ は ︑ 銘 々勝 手 次 第 に 覚 悟 し ︑ 衣 服 を 疎 に し ︑ 従 者 を も 省 く へき 由 を 命 ﹂ じ た ︒ そ し て ︑ ﹁其 後 も し は く. す る 事 を いと ハす ︒ 諸 所 の費 用 を 省 て︑ 君 上 の御 心 を 安 ん し 奉 ら ん と の み ︑ 心力 を 蓋 し ﹂︑吉 田 竹 翁 ( 家 老 ︿当 職 ﹀. ︒. 七 一. 六 郎 太 夫 栄 年 の 父 ) は ﹁拝 受 の倉 米 ﹂ を 辞 退 し ︑ ﹁諸 士 の内 ﹂ に も ﹁ 今 年 賜 る 所 の 米 銀 ﹂ を 辞 退 し た 者 が いた と い う. 福岡藩における享保の飢饉と救済信仰.
(11) 七二. こう し た 藩 内 の飢 饉 対 策 も 当 然 な が ら 農 民階 層 に は 効 果 は な く ︑ 事 態 は悪 化 し て い った ︒ ﹃黒 田 新 続 家 譜. 巻之. 二十 四﹄ に は ﹁ 去 程 に 早 田実 のり ︑ 晩 田や ︾穂 に出 な ん と す る頃 よ り ︑ 土 中 に蟲 生 し て 根 を 喰 ひ︑ 葉 茎 の轟 も 弥 増. に な り て 稲 を 喰 ふ ︒ 其蟲 水 に浮 て川 に流 れ 出 る に水 の色 も 変 る程 な り ︒ 稲 の腐 て 田 の 面 に枯 臥 た る ハ︑ 古 き 藁 屋 の. 朽 た る に ひ と し﹂ と あ り ︑ こ の事 態 に 藩 は ﹁有 司 の輩 委 く 検 見 し て ︑ 免 極 め﹂ をさ せ た が ︑ そ の結 果 に つい て同 史 料 に は︑. 新 古 の 田 地 四 拾貳 萬 六 千 六 百 石余 損 毛 し ︑ 残 る 高纔 に 四萬 三 千 武 百 石 余 ︿俵 に し て 六 萬 四 千 五 拾 俵 程 な り ︒﹀. の貢 あ り ︒ さ れ 共 其 米 悪 く ︑ 磨 れ ハ砕 て粒 を な さ す ︒ 其 上 農 家 に 翌 年 の 種穀 な か ら ん 事 を 慮 り ︑ 凡 国 中 種 を 蒔. へき 分 量 を 積 り て︑ 四萬 七 百 七 十 俵 余 を 除 け 置 ︑ 猶 其 外 に も農 民 を 救 ひ ︑ 麦作 に力 を 添 し め ら る︒ 十 五 郡 の内. に て も ︑ 上 座 ・下 座 ハ畠 多 く 作 る所 な れ ハ︑ 他 の 郡 に 比 す れ ハ飢 人 少 し ︒ 那 珂 ・席 田 ・早 良 ・表 粕 屋 の 四郡 も ︑. 山 に 添 た る村 々 ハ︑ 畠 多 く 人 柄 質 朴 な れ ハ︑ 痛 ミ も軽 く 見 へけ る ︒ 恰 土 ・志 摩 の 二 郡 ハ︑ 近 年 打 続 て損 毛 せ し. 故 ︑飢 人 多 か り し ︒ 其 外 城 下 近 き 村 々 ハ︑ 平 日 風俗 怠 惰 に し て ︑ 耕 作 を 勤 め す ︒ 又 ハ商 貼 ( 売)を 事とし︑遊 民 多 け れ は︑ 磯 餓 殊 更 に多 か り き ︒. と いう よ う に ︑ 事 態 を 重 く 見 る 一方 で︑ 畠 のあ る 村 々 は耕 作 を し て いる 上 に 人 柄 も 質 朴 な ので 飢 饉 の被 害 は 少 な い. が ︑ 城 下 近 く の村 々 は 風 俗 怠 惰 で耕 作 を しな いか ら 飢 饉 の被 害 が 大 き いと い った ︑ 被 害 の 大 小 は 民 衆 の責 任 に あ る. 付腐捨 り. よ う に 記さ れ て いる ︒ そ し て ︑福 岡 藩 は 九 月 二十 九 日 に 飛 脚 を 江 戸 に 遣 し ︑ 損 毛高 を 老 中 に 届 け 出 た ︒. 覚 一 田方 四拾武萬 六千 六百石余蟲 残高 四萬 三千貳 百石余 以上.
(12) 一斃 牛馬 四千 百六拾 五疋 内 貳 千百拾 三疋 ハ馬 貳 千五拾貳 疋 ハ牛 右 ハ領 内 当 秋 以 来 ︑ 悪 病 時 行 追 々斃 申 候 ︒. さ ら に 福 岡 藩 は飢 人 救 済 のた め に 役 人 を 京 ・大 坂 に 派 遣 す る と と も に ︑ 江 戸 の 銀 主 達 か ら も 米 銀 を 借 用 す る こと. を 計 画 し ︑ 領 内 の ﹁町 人 ・百 姓 ・浦 人 等 ﹂ に も ︑ 各 々が 貯 め て いる ﹁米 銀 ﹂ を 藩 が窮 民 に 分 け 与 え る た め に借 用 し. た いと いう こと を ﹁ 財 主 に 説 示 ﹂ し ︑ ﹁相 共 に 磯 餓 の輩 を 救 ﹂ い ︑ そ の ﹁ 米 金 ﹂ を も って し ても 救 助 に 足 ら な いと. き は ︑ 他 領 から 借 り求 め て でも ﹁諸 民 の飢 を 助 く へし ﹂ と 呼 び か け ︑ 借 り た 米 ・銀 は 必 ず 返済 す る こと を 約 束 し た ︒. こ の藩 の呼 び か け に 対 し ︑ ﹁ 身 分 相 応 に ︑ 米 銀 銭 を 差 出 ﹂ す 者 ︑ ﹁私 に 相 救 ひ し 輩 ﹂ な ど 多 く の人 々が こ の呼 び か. け に 応 じ︑ 粥 を施 行 し た 人 々 も いた ︒ 例 え ば 博 多 の人 々 は十 月 二十 四日 か ら 協 力 し て西 町 浜 に て津 内 の ﹁ 飢 民﹂ に. 粥 を 施 し た ︒ ま た ︑ そ の他 の ﹁郡 々﹂ に も 穀 物 ・銀 銭 ・粥 を 与 え て救 済 にあ た った 人 々 ︑ ﹁牛 馬 の食 を も 施 し ﹂ た. 巻. 人 ︑ 衣 服 な ど を質 に 取 って いた 人達 が ︑ そ れ ら を 返 し与 え て ﹁寒 苦 ﹂ を 助 け た と い った 朗 報 が ︑ 次 々 に 町 ・郡 ・浦 奉 行から藩 主継高に報告された ︒. こ の飢 饉 に よ る餓 死 者 は 享 保 十 七 年 七 ・八 月 か ら 出 は じ め ︑ 冬 に 入 って急 増 す る ︒ し か し︑ ﹃黒 田 新 続 家 譜. 之 二十 四﹄ に は ︑ ﹁ 此 度 の飢 饉 に ︑ 乞 食 の類 餓 死 せ し 事 ︑ 大 凡 千 人 は か り 也 ︑ 飢 に 及 へる 民 ハ︑ 九萬 人 に余 れ り ﹂. 通史編. 福 岡 藩 (二)﹄ ( 第 三章 ﹁享 保 期 の福 岡 藩 政 ﹂ 第 二節 ﹁享 保 の飢 饉 ﹂ ︿執. と あ り ︑ 被 害 を 少 し でも 軽 く 見 せ よ う と し て い る よう に感 じ ら れ る ︒ こ の こ と に つ い て︑ ﹃ 福 岡県史. 七三. 筆 担 当 柴 多 一雄 氏 ﹀)で は ︑ 餓 死者 の人 数 が ︑ 同 史 料 に は 千 人 と 記 さ れ て い る が ︑ 遠 賀 郡 下 上 津 役 村 の庄 屋 の記 録. 福 岡藩 に おけ る享 保 の飢饉 と 救 済信 仰.
(13) 七四. ﹃村 用 集 ﹄ に は ︑ 飢 饉 に よ る 福 岡 藩 内 の 死 者 の数 が 一五 〜 一六 万 人 と 記 さ れ て い る こ と や ︑ ﹃御 年 譜 集 要 抄 ﹄ や. ﹃岡 郡 宗 社 志 ﹄ に は 一〇 万 人余 と 記 さ れ て いる こと な ど を 例 と し て あ げ ら れ ︑ 宗 像 郡 ・糟 屋 郡 の過 去 帳 の分 析 によ. り ︑ こ の飢 饉 に よ る 死 亡 率 は 二〇 % 以上 で 地 域 に よ っては そ れ 以 上 で あ る こと か ら ︑ 福 岡 藩 の人 口 三 二 万 二 一五 人. の内 の 二〇 % の 死 亡 率 で計 算 す る と 六 万 四 〇 〇 〇 人 が 死 亡 し た こ と に な り ︑ 享 保 十 一年 当 時 三 二 万 二 一五 人 だ った. 三 六 三 人 が 死 亡 し ︑ 人 口が 二〇 ・七 % も 減 少 し た こ と に な る と 論 じ ら れ た 上 で︑ な ぜ ﹃黒 田新 続 家 譜 ﹄ が 死者 の数. 福 岡 藩 の人 口 が ︑ 同 十 九 年 三 月 の宗 旨 改 め で は ︑ 二 五 万 三 八 五 二 人 と な って いた と いわ れ て いる こと か ら ︑ 六 万 六. を 少 な く 記 した のか と いう こ と に つい て ﹁飢 饉 の最 中 の 享 保 十 七 年 十 二月 に 伊 予 松 山 藩 主 松 平 定 英 が 他 藩 よ り 餓 死. 六 一八 頁 )︑ 諸 藩 は こう し た 事 態 を 避 け るた め に︑ 飢 饉 に よ る 被 害 ︑ と く に餓 死 者 の 数 を で き る だ け 少な く. 者 が 多 い の は 仕 置 が 悪 い から であ る と し て︑ 幕 府 か ら 出 仕 を 止 め ら れ る と いう 事 件 が 発 生 し て お り (﹃徳 川実 記 八﹄. 幕 府 に 報 告 した の で は な い か と 考 え ら れ る の であ る ︒ 福 岡 藩 の正 史 で あ る ﹁黒 田新 続 家 譜 ﹂ も ︑ お そ ら く こ のよ う. な 経 緯 を 踏 ま え た う え で︑ 餓 死 者 の数 を 実 際 よ り 少 な く 記 し て い る の で あ ろ う ﹂ と推 測 さ れ て いる ︒. こ の ﹃黒 田新 続 家 譜 ﹄ の享 保 の飢 饉 の 記 事 が 幕 府 を 意 識 し て記 さ れ て いる 証 拠 と し て︑ 例 え ば 福 岡 藩 が飢 饉 に 対 す る祈 祷 を 行 った こと に つ いて ︑. 今 度 非 常 の飢 饉 な れ ハ︑ 台 聴 に も 達 し ︑ 大 い に憂 さ せ ら れ ︑ 十 一月 六 日 よ り 上 野 中 堂 に て ︑ 人 民 安 全 の祷 あ り ︒. 其 余 比 叡 山 ・伊 勢 大 社 ・宇 佐 ・鹿 嶋 ・香 取 ・石清 水 ・護 持 院 に て も ︑祈 祷 を な さ し め 給 ふ ︒ 将 軍 す ら か く 御 心. を 労 し 給 へは ︑ 継 高 ハ眠食 を も 快 く し 給 ハす ︒ 日夜 心 を 痛 め 給 ひ︑ 十 一月 廿 六 日 有 司 に 命 し て︑ 東 照 宮 ・宰. 府 ・箱 崎 ・鳥 飼 ・寳 満 ・田 嶋 ・大 嶋 ・沖 嶋 ・警 固社 に て︑ 国 民 の た め祷禳 を な さ し め 給 ふ ︒ ( 巻 之 二十 四). ( 飢 餓 に 苦 し ん で災 いを な す 鬼 衆 や 無 縁 の亡 者 の 霊 に飲 食. と い う よ う に︑ 将 軍 と 同 様 に継 高 も 飢 饉 に よ る 領 民 の被 害 を 気 に か け て いた と い う こと が 強 調さ れ て い る ことや ︑ 享 保 十 八 年 に飢 饉 ・疫 病 の犠 牲 者 に 対 し て祈 祷 や 施 餓 鬼 を 施 す 法会 ) を 行 った こと に つ い て︑.
(14) し ︑ 死 没 す る者夥 し ︑ 継 高 是 を 憂 給 ひ ︑ 四 月 朔 日 よ り 箱 崎 八 幡 宮 ・紅 葉 八幡 宮 に て︑ 士 庶 人 の為 に 祈 祷 を な さ. 飢 饉 に て餓 死 の 人多 き の ミな ら す ︑ 時 気 不 順 な る う へ︑ 食 物 宜 し か ら さ る に よ り ︑ 春 の半 よ り 国 中 悪 病 愈 流 行. し め 給 ひ︑ 同月 十 五 日よ り 宰 府 天満 宮 に ても 同 く 祈 祷 せ し め 給 ふ ︑ 家 中 諸 士 の札 守 ハ︑ 神 前 に納 め ︑ 両 市 中 ハ︑. 一町 に札壹 枚 ︑ 郡浦 ハ 一村 一浦 に ︑ 札壹 枚 宛 渡 さ し め 給 ふ ︒ 継 高 かく ま て に士 庶 人 を 憐 ま せ給 ふ 御 恵 の 深 け れ. は ︑ ま つ君 上 の御 安 全 を こ そ祈 り奉 る へし と て ︑ 老 臣 の輩 宰 府 天満 宮 に て祈 祷 を 修 せ し め ︑札 守 を 奉 り け る ︒. か 様 に飢 寒 疫 痛 に て死 没 す る 者 多 け れ 共 ︑ 貧 き 者 ハ葬 祭 の いと な み も成 かた き者 多 か り し を ︑ 不 便 な る 事 に 思. ひた ま ひ ︑ 化者 の冥 福 を 助 け ︑ 且 ハ五 穀 豊 饒 し ︑ 国 民 安 穏 の為 にも あ れ ハ︑祖 宗 の御 寺 に て法 会 を 修 行 し ︑ 施. 餓 鬼 を 行 ハる へし ︒ 四 日 ハ長 政 (福 岡 藩 初 代 藩 主 ) の忌 日 な れ は︑ 此 日然 る へし と 仰 ら れ ︑ 七 月 四 日崇 福 寺 ・. 東 長 寺 に て ︑作 善 を な さ しめ 給 ふ ︒ さ れ ハ国 中 の人 民 ︑ 尊 き も賎 き もを しな へて︑ 継 高 の仁 心 深 く お ハし ま す. 恩 徳 ︑ 生 る者 の ミ にあ ら す ︑ 死 せ し 者 迄 に 及 へる を 仰 き 尊 さ る ハな か り き︒ ( 巻之 二十四). と いう よ う に︑ 継 高 が 飢 饉 と 疫 病 の流 行 に 心 を 痛 め て祈 祷 を 命 じ ︑ ﹁札 守 ﹂ を 家 中 の分 は 神 前 に お さ め ︑ 福 ・博 両. 市 の分 は 一町 に 札 一枚 ︑ 郡 ・浦 に は 一村 ・ 一浦 に 一枚 を 配 布 し た こ とや ︑施 餓 鬼 を 行 った こと に 対 し て ﹁生 る 者 の. ミ に あ ら す ︑ 死 せ し 者 迄 ﹂ も が 継 高 に 感 謝 を した と 大 げ さ に 藩 主 の事跡 を 記 し て いる こと が あ げ ら れ る ︒. こ の ﹁札 守 ﹂ に つ い て︑ ﹃岡 郡 宗 社 志 ﹄ で は ︑ ﹁貧 民 餓 死 ﹂ と ︑ 享 保 十 八 年 四 月 か ら ︑ ﹁風病 流 行 ﹂ に よ る 死 者 が. 多 い こと か ら ︑ ﹁御 国内 ﹂ の ﹁ 安 穏 ﹂ のた め に 宗 像 宮 ・箱 崎 宮 ・雷 宮 の 三社 に継 高 が 祈 祷 を 命 じ ︑ ﹁在 々所 々 ﹂ に出. さ れ た ﹁御 札 守 ﹂ の他 に︑ ﹁京 都 吉 田殿 江 も 御 祈 祷 ﹂ を 依 頼 し ︑ ﹁ 疫 神 斎 ﹂ の札 十 五 枚 を 貰 った こと が 記さ れ て いる ︒. ち な み に︑ こ の疫 病 に対 す る 地 蔵 の利 益 も 飢 饉 と 同 様 に経 典 に 説 か れ て いる こと で あ る ︒ ﹃大 乗 大 集 地 蔵 十 輪 経. 序 品 第 一﹄ に は ︑ ﹁ 或 有 世 界 疫 病 劫 起 害 諸有 情 此 善 男 子 見 是 事 已 ︒ 於晨 朝 時 以 諸 定 力 除 疫 病 劫 ︒ 令 諸 有 情 皆 得 安. 七五. 楽 ︒ 或 有 世 界 飢 饉 劫 起 害 諸 有 情 ︒ 此 善 男 子 見 是 事 已︒ 於晨 朝 時 以 諸 定 力 除 飢 饉 劫 ︒ 令 諸 有 情 皆 得 飽 満 ﹂ と あ り ︑ 地 蔵 菩 薩 が 疫 病 や 飢 饉 から 人 々を 救 済 す る こ と が 説 か れ て いる ︒. 福岡藩 における享保 の飢饉と救済信仰.
(15) 七六. な お ︑ 近 世 に お け る 病 気 平癒 の地 蔵 信 仰 の中 で有 名 な も の と し て ﹁地蔵 流 し ﹂ が あ る ︒ 真 鍋 広 済 氏 の ﹃地 蔵 菩 薩. の研究﹄ によれば︑ ﹁ 地 蔵 流 し﹂ は ︑ 江 戸時 代 ︑ 正徳 三年 (一七 一三 ) 五 月 に 江 戸 両 国橋 で は じ ま り ︑ これ が ﹁加. 賀 ・山 城 ・摂 津 ・出 雲 ・豊 後 の国 国 ﹂ に ま で に 広 ま った も の で ︑ そ の作 法 は ︑ ﹁一寸 二 分 ば か り の地 蔵 尊 像 ﹂ を 印. 刷 し ︑ 吉 目を 占 って読 経 の 後 に 河 海 に奉 流 し て ︑追 善 供 養 ︑ あ る い は 預 修 と す る も の で ︑ そ の起 原 は ︑ 江 戸 小 石 川. の 田付 氏 夫 人 が 地 蔵 の霊 夢 に し た が い︑ 一万体 の地 蔵 御 影 を 印 し て 両 国橋 上 か ら 奉 流 し て病 気 が 平癒 し た と いう 霊 験 に 由 来 す る ︑ と論 じ ら れ て い る ︒. 福 岡 藩 に お け る疫 病 退 散 の信 仰 に は 山 笠 も 関 係 が あ る︒ 山 笠 は 寛 元 元年 (一二 四 三) に博 多 に疫 病 が 流 行 し た と. き ︑ 承 天 寺 開 山 聖 一国 師 が 施 餓 鬼 棚 の上 に乗 って津 中 を か つぎ 聖 水 を 撒 いて 病 魔 退 散 を 祈 請 し た こ と が 起 源 と いわ. れ てお り ︑ 佐 々木 哲 哉 氏 は こ の山 笠 の起 原 に 対 し て︑ ﹁攘災 祈 願 の 山 笠 の発 想 を ︑ 疫 病 退 散 の施 餓 鬼 棚 に 結 び 付 け. た 伝 承 と す る ほう が 自 然 であ ろ う ﹂ と 論 じ ら れ ︑ こ の伝 承 に 基 づ い て︑ ﹁古 来 ︑ 博 多 祇 園 山 笠 に は 承 天 寺 の護 符 を. 取 り付 け ︑ 同 寺 の授 与 す る 守 札 を 山 笠 の昇 き 手 が身 に 付 け て災 難 除 け とす る 風 習 が あ り ︑ 山 笠 の外 題 は 承 天寺 で つ け て も ら う し き た り が あ った ﹂ と 論 じ ら れ て い る ︒. さ て ︑論 点 を 飢 饉 に 戻 す と ︑飢 饉 か ら の救 済 信 仰 に 関 す る史 料 に︑ 保 食 神 社 が 安 永 二年 (一七 七 三 ) の火 災 で 全. 焼 し た社 殿 を 再 興 す る た め に ︑ 文 政 六 年 (一八 二 三 ) に︑ 福 岡 藩 に そ の嘆 願 を す る にあ た って︑ 享 保 十 七 年 に 保 食. 神 社 が 五穀 成 就 の祈 祷 を 行 う 惣 郡 鎮 守 社 と な った と いう 由 緒 な ど を 書 き 記 し た ﹃岡 郡 宗 社 志 ﹄ と い う も のが あ る ︒ そ の史 料 中 に は次 の こ と が 記 さ れ て いる ︒. 人 民 田畠 作 候 得 共 ︑ 御 当 国 二而 拾 万余 人 餓 死仕 候 由 ︿ 御 当 国 の ミ ニあ ら ず 西 国 一統 二て 中 国 ・筑 後 辺 に て も多. ク 死た る よ し聞 け り ﹀︑ 当 村 ( 遠 賀 郡 立 屋 敷 村 ) 二而惣 人 数 百 二十 六 人 之 内 ︑ 当 十 月 よ り翌 十 八 年 三 月 二掛 ケ ︑. 四拾 弐 人 餓 死致 シ ︑ 誠 二可 恐 ハ飢 饉 也 ︑ 然 二御 当 社 御 神 田 分 当 子 秋聊 蝗 気 無 之 ︑ 畝 を 隔 ︑ 格 別 実 のり 能 ク ︑ 諸. 人 是 を 見 而 感 称 二不 堪 ︑ 此 時 二当 り ︻五穀 な き 時 ハ常 闇 も 同 し 事 也 ︑ こ れ は 保 食 神 の恩 を 忘 る ま し き 也 ︼ 保 食.
(16) 大神 之御恩沢之恭 キ御事を承知仕 ︑偏 二御神慮難有 御事と稲穂 を戴 キ奉 り︑五穀成就御祈祷 之儀 ハ御当社 二限. り執 行可仕御事と 世上噂 二及︑御 神徳之儀様 々謳歌をも仕候 処︑右之御次第 御郡奉行 ・御 郡代始︑其外御 出郡. 之御 役人衆何 レも御 聞及︑御見分有 之︑誠 二御奇 特之御事と御 沙汰 二及︑若 松御代官梶原 源兵衛殿を以 ︑御宮. 柄御 由緒 御尋等被仰付 候儘︑無程右 之趣御上聞 二達 シ︑御国家 御繁栄 ・五穀 成就御祈願所 と御定被仰付候 二付︑ 竹中 彦太夫殿御出 郡之折柄松本掃 部被召出︑御 書を以︑左 之通被仰達候事 広渡村神主 松 本掃部. 郡宗社 立屋敷村保食 大神宮 ハ︑長 政公御代当 郡之御祈願所 二被 仰付置 ︑殊 二当社 ハ五穀神 之儀 二候得者 ︑格別. 之御 思召寄を 以︑御 国家安全之御祈 願所 二被仰付 候︑右 二付 ︑永 々御社麁 抹無之様郡 より可取斗之旨六郎 太夫 子十 一月. 竹中彦太夫. 在判. 殿被 仰聞候条被得其 意︑来 丑年 より御国中 五穀成 就御祈祷 可抽 丹誠候事. 以 上 ︑ こ の史 料 に は ︑享 保 の飢 饉 に て 福 岡 領 内 で 十 万 人 ︑ 立 屋敷 村 で は享 保 十 七 年 の十 月 か ら 十 八 年 の 三月 に か け. て 一二 六 人 中 ︑ 四 十 二人 が 餓 死 した こと を 記 しな が ら ︑ 保 食 神 社 は 保 食 神 (五 穀 を 司 る神 ) のお か げ で神 田 (神 社. に 付 属 し てそ の収 穫 を祭 祀 ・造 営 な ど の諸 費 にあ てる 不 輸 租 田) に は虫 の害 が な か った こ と や ︑ こ の こと に よ り 世. 間 に 五穀 成 就 の祈 祷 は保 食 神 社 に て執 行 す べき と の評 判 と な って ︑ 国 家 繁 栄 ・五 穀 成 就 の祈 願 所 に定 め ら れ た こと. 七七. 巻 之 二十 四﹄ に は ︑ 飢 饉 か ら の救 済 のた め に 祈 祷 ・施 餓 鬼 な ど を行 った こと を 強 調す る 一方 で︑. 享保 の飢 饉 と民衆. な ど が 主 張 さ れ て お り ︑ 社 殿 復 興 と いう 目 論 み に飢 饉 が 利 用さ れ て い る点 で 興 味 深 いも ので あ る と いえ よう ︒. 三. ﹃黒 田 新 続 家 譜. 福岡藩 における享保の飢饉と救済信仰.
(17) 七八. 現 実 問 題 と し て の救 済 に関 し て︑ 幕 府 か ら の救 援 米な ど を あ わ せ た 十 三 万 六 〇 〇 〇 石 の内 ︑ 飢 人 に分 配 さ れ た の は. 五 万 三 〇 〇 〇 石 で ︑ あ と は領 内 家 中 や 江 戸 屋 敷 の家 中 に 分 配 さ れ た こと が 記 さ れ て い る ︒. 覚. 一 松 平 筑 前 守 領 分 ︑ 為 御 救 大 坂 表 よ り 被 指 廻 候 御 米 ︑去 子極 月 廿 四 日 よ り 当 丑 四 月 廿 六 日迄 ︑追 々受 取 申 候 高. 米貳萬 三千六 百貳 拾七石 三升 八合 五勺 代銀貳 千百九拾 五貫六百 四拾 三匁 七分余 金 二〆三萬六千 五百九拾 四両余 米壹 石 二付︑並 九拾貳 匁九分余 二当 ル. 右之 廻米を以︑領内 貧窮 之飢 人︑凡九萬 五千人余之内 ︑三歩通り程之救 二相成候事. 一 領内 去秋所務蔵 入 二罷成候米高 ︑ 凡三千石程 二而︑其 外 ハ種籾井救 等 二割当 テ申候事 一 領内 え救与 へ申 分 米五萬 三千石余 在 々浦 々町 々︑至極 貧窮 之飢 人 二当麦作出来迄 之救 二追 々割 与 へ候︒ 米 六萬 石余 家 中諸士︑去 物成皆無 二付 ︑当秋迄之扶 助 二追 々割 与 へ候︒.
(18) 米貳萬 三千石余 江戸屋敷 右同断 合 米十三萬 六千 石余 此外渡 世方入方之 分除之. 享 保 の飢饉 に つい て 記さ れ て い る史 料 に は ︑ 前 述 の藩 の正 史 であ る ﹃黒 田家 新 続 譜 ﹄ の他 に ︑ 藩 士 の日 記 や 大 庄 屋 の書 留 ︑ そ し て︑ 編 年 体 で記 さ れ て いる ﹁ 年 代記﹂な どがある︒. 近 世資料編. 年 代 記 (一)﹄ の ﹁ 解 説﹂ にて︑ ﹁ 年代 記は古今東. こ の ﹁年代 記 ﹂ に つ い て は︑ 福 岡 藩 に お い て は ﹃御 年 譜 集 要 抄 ﹄・﹃岡 郡宗 社 志 ﹄・﹃村 用 集 ﹄ な ど があ り ︑ これ ら の史 料 の価 値 に つい て ︑ 秀 村 選 三 氏 は ﹃福 岡 県 史. 西を 問 わ ず 国家 や 支 配 者 ︑ 寺 社 ︑ 教 会 ︑ 修 道 院 ︑ 或 は領 域 ︑ 村 落 ︑ 都 市 等 の歴 史 的 事 件 ︑ 歴 史 事 象 を編 年 的 に 記述. した も の で︑ 歴 史 書 の 一類 型 と し て 広 く 認 め ら れ て いる ︒ 近 世 の我 が 国 で も各 地 域 ︑ 村 落 ︑ 都 市 或 は 寺 社 等 に お い. て著 述 ︑ 編集 さ れ ︑ 書 写 さ れ ︑ 或 はさ ら に自 己 の生 ま れ 育 った 地 域 に ふさ わ し く 補 足 ︑ 削 除 し て新 た に 編 集 さ れ る. こ と も あ った し ︑ ま た ︑ 長 い年 月 に わ た って 書 き 継 が れ る こと も あ って︑ 多 く のも のが 名 称 を 異 に し な が ら 多 様な. かた ち で残 って いる ︒ 最 近 西 洋 中 世 史 で は年 代 記 等 の記 述 史 料 によ って新 し い視 野 が 開 か れ た と 云 わ れ て い る が ︑. 我 が 国 近 世 の各 地 域 ︑ こと に村 や 町 で作 成 さ れ た 年 代 記 は ︑ 史 料 と し て 必ず し も 高 い評 価 は 受 け て いな い よう であ. る﹂ と 論 じ ら れ た 上 で ︑ そ の史 料 価 値 に つ いて ﹁ 少 な く と も 我 が 国 近 世 の武 家 ︑ 寺 社 家 は勿 論 ︑ 農 家 や 網 元 ︑商 家. 等 の系 譜 ︑ 系 図 は︑ た と え そ の出 自 を 名 家 に求 め ︑ ま た 何 ら か の作 為 が な さ れ て い ても ︑ 信 慧 度 の薄 い の は 戦 国 期. 以前 であ って︑ 近 世 以 降 は 予想 以 上 に 正確 で あ り ︑ 領 主 支 配 ︑ 村 落 ︑ 都 市 の 諸 史 料 と も 正 確 に噛 み あ って い て︑ 民. 衆 の記 録 と し て充 分 に信 頼 し得 る も の であ る こ と を 度 々筆 者 は 確 認 した ﹂ と そ の価 値 を 認 め ら れ ︑ さ ら に 近 世 の村. 七九. や 町 の年 代 記 に 関 し て ﹁自 己 の 生 活 基 盤 であ る 地 域 に 即 し て︑ 年 代 的 に歴 史 事 件 ︑ 事 象 を追 う こ と に よ って 自 己 が. 福 岡藩におけ る享保の飢饉と救済信仰.
(19) 八○. 拠 って立 つ地 域 の成 立 ︑ 発 展 を 大 観 し ︑ 現 在 の自 己 を 見 つめ る と と も に ︑ 将 来 のた め の心 覚 え で あ り ︑ さ ら に は 子. 孫 へ伝 う べき 大 切 な 知 慧 で あ った と 思 わ れ と く に そ れ が 村 落 ︑ 都 市 や 家 の文 書 ︑ 或 は自 己 ︑ 近親 者 の体 験 や 見 聞 ︑. 伝 承 に 基 づ い て記 述 さ れ て いる 場 合 ︑ 支 配 者 の統 治 史 料 と 重 な り 合 いな が ら も 正 史 と は 一味 も 二味 も 異 な る 素 顔 の. 歴 史 を 窺 う こと が でき る よ う に思 わ れ る﹂ と 史 料 価 値 と し て の評 価 を す る 一方 で ︑ ﹁ 史 料 と し て多 面 的 性 格 を も つ. て いる の で︑ 厳 密 な 史 料 批 判 を 要 す る も の であ る ﹂ こと に も 注 意 を 促 さ れ て いる (七 六 九 〜 七 七 一頁 )︒. さ て︑ 話 を 飢 饉 と 民 衆 に 戻 す と ︑ 幕 府 は こ のよ う な 飢 饉 の救 済 措 置 と し て︑ 七 月 二 十 二 目 に 西 国 に米 を 売 却 す る. こ と を 大 坂 町奉 行 ( 稲 垣 淡 路 守 種 信 ・松 平 日向 守 勘 敬 ) に 検 討 さ せ ︑ 八 月 二十 三 日 に 大 坂 城 代 土 岐 丹 波 守 頼 稔 に 西. 国 や 中 国 地 方 の被 害 状 況 の調 査 を 命 じ ︑ 二十 五 日 に 西 国 ・四 国 ・中 国 地 方 への米 の売 却 を 決 定 し た ︒. ( 米 の引 渡 し 期 間 と 配 分 に つい て は 本 章 冒 頭 の史 料参 照 )︒. こう し て九 月 二十 三 日 よ り 米 の積 み 出 し が 始 ま った が ︑ 暴 風 のた め に船 が 遅 れ て︑ 米 が 引 渡 さ れ た の は十 二月 二 十 四 目 に な っ てし ま った. 救 援 米 到 着 ま で の間 ︑飢 人 救 済 の 対 応 と し て ︑ 前 述 のよ う に 博 多 市 中 に お い ては ︑ 市 中 の有 志 に よ る 粥 の施 し が. 巻 之 二十 四﹄ に ︑ 福 岡 で は そ の米 を 飢 人 救 済 の有 志 に 渡. 二 十 八 日か ら 穂 波 郡 が ︑ 十 二月 朔 日 か ら は 鞍 手 郡 が そ れ ぞ れ 施 粥 を 行 って いる ︒. 十 月 二十 四 日 か ら 西 町 浜 で 行 わ れ ︑ そ の他 の地 方 では ︑ 十 一月 二十 七 日 か ら 十 二月 二十 二 日ま で遠 賀 郡 が ︑ 十 一月. 幕 府 か ら の救 援 米 到 着 後 に つ い ては ︑ ﹃黒 田新 続 家 譜. し ︑ 魚 町 浜 に て救 小 屋 を 建 て粥 を 施 し ︑ ﹁一日 一人壹 合 の積 り に て︑ 福 岡 ・博 多 両 所 に て︑ 救 ふ 所 の飢 民 一萬 千余. 恒 義 あ る い は常 言 ) の ﹃長 野 日記 ﹄ に ︑. 人な り と そ﹂ と あ り ︑ そ の他 の 郡 ・浦 では ︑ ﹁ 大 庄 屋 ・触 口等 に 米 若 干 を 渡 し て ︑飢 餓 の者 を救 し め た ま ふ ﹂ (一六 二頁 ) と あ る ︒ 一方 ︑ 飢 人 の凄 惨 な 情 況 に つい て は ︑福 岡 藩 右 筆 頭 取 長 野 源 太 夫 ( 字 そ の具 体 的 な 様 子 が 記 録 さ れ て い る ︒. 一 稲 作 惣 而 腐 候 付 ︑ 子 七 月 十 六 日 よ り ︑ 在 々 の民 女 五 人 十 人 同 伴 し て ︑福 岡 屋 敷 二︑ 又市 中 俳 徊 を し て袖 乞.
(20) す る ︑今 年 皆 損 二相 見 候 上 ハ︑ 外 二命 を つく へき いと な ミ も 見 付 す 候 間 ︑ 皆 々覚 悟 致 候 様 二︑村 庄 屋 よ り. 申 触 候 故 ︑身 上 よ ろ しき 者 の妻 子 杯 も ︑ 打 つれ て出 け り ︑ 貧 し き 者 ハ実 か ら 心 ま と ひ ︑ 驚 き 騒 き て ︑ 幼 き. よ り 出 て︑ 又舊 里 に帰 る も 叶 ハす ︑ 半 分 ハ爰 か し こ の門 前 ︑或 ハ橋 の 上な と に 夜. 子 の 手 を 引 ︑ よ う ほ ひた る ︑ う は の 腰 を 押 へ︑ 彩 敷 事 ︑ 只 祇 園 ・放 生会 の 比︑ 通筋 に 人 多 き に 異な ら す ︑ 二里三里四里も在郷 く. ハ臥 け り ︑ か く 日 々 に俳 徊 し け れ ハ︑ 町 家 の人 も 飢 饉 を 恐 れ て︑ 施 す 事 も な け れ ハ︑ い つと な く 袖 乞 ハ減. し て ︑ 三 分 一も 辻 々 に 残 り て︑ 霜 ・雪 ・雨 露 に煩 ひ て︑ 眼 前 にあ は れ を 見 る もあ り ︑ 田 舎 よ り薪 杯 持 は こ. ひ ︑ 少 の代 に も せ んと て ︑ 賎 の男 ︑ 賎 の女 の 町 々歩 行 せ る も ︑ 食 う す く し て急 に精 力 労 れ ︑ 行倒 れ て死 す. る 人す く な か ら す ︑ 是 を 助 け ん と す る 者 も あ ら す ︑ 即 寒 空 に 成 ま Nに ︑ 飢 寒 に 及 ふ 人 多 し ︑ 惣 て 男 ハ死 す. る事 早 し ︑ 婦 ハ幼 子を 連 てな か ら ふ 様 な れ と も ︑ 限 り な き 日 数 な れ ハ︑ い つ迄 か 生 へき ︑ 漸 に飢 お と ろ へ. 路 次 に 死 す る 者 ︑ 一日 の内 ︑ 十 人 廿 人 ︑ 両 市 中 に か そ ふ る に い と ま な し ︑ 孤 町 々 に 臥 倒 て︑ 嘆 く 声 ︑ 昼 夜. 聞 へぬ 所 も な し ︑ と て も 飢 死 す へき と お も ひ は か り て︑ 夜 中 に 子 を 捨 置 候 も の多 し ︑ 役 人 に命 て 其 語 の 通. す る 程 の幼 子 ハ︑ 其 村 郷 に 返 し ︑ 其 町 々 へ返 し 預 け て︑ 一日 に 米 壹 合 宛 ︑ 飯 米 下 さ る ︑ 在 郷 も 知 れ さ る 子. ハ︑ 方 角 の町 々 に預 置 ︑ 米 を 下 さ る ︑ 御 城 に往 来 す る に ︑ 二 人 三 人 行 倒 れ 見 ぬ 日 ハな し ︑ 或 ハ目 前 に 倒 れ. 死 す る も 有 け れ と も ︑ 力 及 ハね ハ︑ 皆 人 是 を 見な か ら ︑ 哀 か り て行 過 ぬ ︑ 行 倒 の死 人 ︑ 又 死 も き ら す 道 路. に伏 て妨 と な る 故 に︑ 非 人 に 申 付 ︑ 西 浜 に飢 人 木 屋 と 云 ふ て︑ 木 屋 に 運 ひや り つゝ ︑ 死 た る 人 の上 に寝 せ. に 浜 に 埋 ミ け る ︑ 其 あ た り の穢. し さ ︑ 近 あ た り へ住 人 々 う き 事 の第 一也 ︑鴈 鳶 肉 むら を争 ひ︑ 里 の 犬 と も 手 足杯 喰. 置 ︑ 苦 し く う め く 声 す る も の︑ 幾 人 と も な く 重 ね 置 ぬ ︑ 死 た る ハや う く ハし き 臭 気 ︑ いま く. ひ ︑ 持 来 り ︑ 市 中 に 不 思 議 を 見 る 事 多 し ︑冬 よ り 正 二 一 二月 に ︑ か ンる う き 事 も あ り し に︑ 麦 作 よ か り け れ ハ︑ 田舎 のも の ハ助 か る 者 多 か り し に︑ 市 中 の貧 人 ハ大 形 死 け る よ し︒. 八一. こ のよ う に ︑ ﹃長 野 日 記 ﹄ に は ︑ 七 月 十 六 日 よ り ︑ 福 岡 屋 敷 や 市 中 を 俳 徊 し て袖 乞 す る 人 数 が ︑ 祇 園会 や 放 生 会. 福岡藩における享保 の飢饉と救済信仰.
(21) 八二. ( 祇 園 会= 祇 園 山 笠 ︒ 博 多 総 鎮 守 社 の櫛 田 神 社 の夏 祭 り ︒ 放 生 会= 筥 崎 宮 で お こ な わ れ る 万物 の生 命 を 慈 し み 殺 生. を 戒 め る 神 事 ) のよ う だ と 記 し ︑ 遠 く か ら 出 てき て旧 里 に 帰 る こ と も でき な い 人 々が ︑ 門 前 や 橋 の上 な ど に 臥 し て. いる 様 子や ︑ 田舎 か ら 薪 な ど を 持 って き て︑ 食 料 と 交換 し よ う と 歩 き 回 る 人 々 が ︑ 空 腹 のた め 疲 れ 果 て ﹁行 倒 れ て. 死 す る 人﹂ が 多 か った こ と ︑ 行 倒 れ て 死 亡 し た 人 々 ︑ ま た は 飢 餓 に よ る 瀕 死 の 人 達 に 対 し て ︑ 通 行 の妨 げ に な る と. いう 理 由 で ︑ 西 浜 に 建 てた 飢 人 木 (小) 屋 に 運 び ︑ 死 人 の上 に寝 せ ︑ 苦 し く う め い て いる 人 々 を 幾 人 も 重 ね ︑ 死 ん. だ 者 か ら 順 次 浜 に 埋 め て いく と い った 藩 の対 応 や ︑鴈 や 鳶 が 死 体 の肉 を 争 って 啄ば み ︑ 里 の犬 も 死 体 の 手 足 な ど を 喰 い︑ ﹁持 来 ﹂ る ︑ と い った 惨 状 が 記 さ れ て いる ︒. そ の他 に も ﹃享 保 十 七 年 壬 子 大 変 記 ( 志 摩 郡 元岡 村 大 庄 屋 浜 地 利 兵 衛 手 記 抄 出 )﹄ に︑ ﹁ 其 餓 死多 き と き は ︑ 墓 所. の葬 送 の義 も 成 か た く ︑ 薦 莚 等 に 包 て ︑ 屋 敷 々 々 の角 な と に 堀 埋 め ︑ 又 取 納 も 成 が た き 者 は ︑ 一村 中 に て取 仕 廻 申. の であ った こと が わ か る ︒. .. 候 ︑ 或 は行 倒 ︑道 に 骸 骨 を さ ら し ︑ 哀 成 事筆 に も し る し か た き 有 様 な り ﹂ と あ り ︑ 飢 饉 に よ る 死者 供 養 が粗 末 な も. そ し て︑ こ のよ う な ︑ 非 業 死者 に 対 す る粗 末 な 扱 い は ︑ 人 々 に哀 れ み の心 と 死者 が サ ネ モ リ とな って現 世 の人 々. 飢 饉 ・疫病 によ る死者 供養 と 民衆. に 崇 る こ と を 恐 れ る 信 仰 を 生 み 出 し た と いえ る ︒. 四. 後 に 福 岡 藩 は ︑ 享 保 の飢 饉 の餓 死 者 に 対 し て︑ 明 和 元 年 (一七 六 四) に 三十 三 回 忌 ・天 明 元年 (一七 八 一) に 五 十 回 忌 を 行 った ︒. こ の内 ︑ 五 十 回 忌 に関 し て︑ ﹃年 代 記 ﹄ (原 本 不 明 ︑ 中 村 伝 五 郎 ︿元 本 木 村 大 庄 屋﹀ 編 ・本 木 村 庄 屋 桑 野 孫 四 郎 筆. 写 ) の 天 明 元年 の条 に ︑ ﹁享 保 十 七 壬 子 之 凶 年 よ り 五 十 年 忌 二相 当 り ︑ 餓 死御 供 養 と し て従 御 上 禅 ・浄 土 ・真 宗 之.
(22) (﹁万 ﹂). 寺 々 え 銀 壱 枚 充 ︑ 御 国 中 二而 五 十 一ヶ寺 え 御 渡 被 下 ︑ 法 事 供 養 被 仰 付 ︑ 当 郡 (宗 像 郡 ) は 大 穂 村 宗 生 寺 ・陵 厳 寺 村 正法 寺 ・赤 間 宿 浄 満 寺 二而 執 行 有 之 ﹂ と 記 さ れ て いる ︒. 飢 饉 に よ る 死 者 に 対 す る 供 養 は ︑ 福 岡 以外 の地 方 でも 行 わ れ て お り ︑ 多 く の餓 死 者 を 供 養 す るた め に 建 立さ れ た. 供 養 塔 が み ら れ る が ︑ 変 った 例 と し て は︑ 福 島 県 伊 達 郡 川 俣 町 の東 円 寺 境 内 に あ る ﹁ 水 陸 斎 感 応 記 の碑 ﹂ があ る ︒. これ は ︑ 天 明 三 年 (一七 八 三) の飢 饉 か ら 三 十 三年 後 の文 化 十 二年 (一八 一五 ) に ︑ 天候 不 順 に よ り 凶 作 の兆 候 が. あ ら わ れ た こと に 対 し て︑ 川 俣 代 官 所 の 代 官 山 本 大 膳 の補 佐 役 河 野 猛 寛 ら が 頭 陀 寺 の僧 に は か り ︑ 七 月 二十 九 日. (旧 暦 ) に 水 陸 斎 (水 陸 会 ︑ 施 餓 鬼 ) を 行 な い天 明 の飢 饉 に よ る 餓 死 者 の ﹁ 冤 魂 ﹂ を 供 養 し た こと に よ り ︑ 天候 が. 回復 し ︑ 虫 害 も 少 な く てす んだ と いう こ と を 記念 し て︑ 翌 十 三 年 六 月 に 建 立 さ れ た も の で あ る ︒. 右 は 供 養 塔 と は異 な る が ︑ こ の こと は ︑飢 饉 が 供 養 を 粗 末 に し た 非 業 死 者 の崇 り であ る と 信 じら れ て いた 証拠 に な る と いえ よ う ︒. また︑福岡県 の飢 饉に関す る供養祭 に︑筑紫 野市山家圓通院 の大施餓鬼供養会 ( 毎年 八月十 八日開催)がある︒. 82﹂ に は ︑ こ の施 餓 鬼. こ の大施餓鬼供養会 では観音経 や阿弥陀経 が読 まれ︑参詣者 は︑事前に虫 よけ の札と 一緒 に配られ た大施餓鬼 供養 袋 に ︑ 米 ・麦 ・大 豆 な ど を 詰 め て本 尊 に お 供 え を す る︒. な お ︑ 筑 紫 野 市 歴 史 博 物 館 (ふ る さ と 館 ち く し の) の ホー ム ペ ー ジ 内 の ﹁ち く し の散 歩. 供 養 の起 原 に つ い て︑ 慶 長 十 三 年 (一六 〇 八) の虫 害 によ る 大 飢 饉 に よ り︑ 彩 し い数 の餓 死 者 が 出 た こと に 対 し ︑. これ は ︑ 天 正 (一五 七 三) 以来 の大 戦 ( 筑 紫 氏 と 島 津 氏 の戦 い) に よ る 戦 死者 を 供 養 せ ず に 埋葬 し た た め に ︑ そ の. 亡者 が 災 いを な し た と さ れ ︑ こ の霊 を 鎮 め る た め に開 基 以来 ︑ 毎 年 供 養 が 行 わ れ て い る と あ る︒. こ のよ う に考 え る と ︑ 飢 人 地 蔵 も また ︑ 享 保 の飢 饉 に よ る 餓 死 ・病 死 者 を 手 厚 く 葬 ら な か った こと に 対 す る 哀 れ. み の心 だ け で は な く ︑ そ の霊 の崇 りを 恐 れ て地 蔵 を 造 像 し︑ 供 養 祭 を 行 う よ う にな った と 考 え ら れ な く も な い︒. 八三. 石 川 氏 は前 出 の ﹃地 蔵 の世 界 ﹄ に て ︑ ﹁尋常 な 生 涯 を 全 う し た 人 と は 対 象 的 に ︑ あ る い は艱 難 辛 苦 の生 涯 を 送 り ︑. 福岡藩 における享保 の飢饉 と救済信仰.
(23) 八四. あ る いは 非 業 の最 期 を とげ た 人 は 執 念 や 遺 恨 を 死 後 に留 め て い る と こ ろ か ら ︑ それ が 仇 を な し て災 禍 を 発 現 す る と. いう信 仰 のも と に ︑ そ の 霊 が 人 神 に ︑ そ し て 後 世 に は しば し ば 地 蔵 に 祀 ら れ る こ と と な った ︒ そ の信 仰 基 盤 を な し. て いる の は 御 霊 信 仰 であ る ﹂ (二八 九 頁 ) と 論 じ ら れ て い る ︒ そ し て︑ 怨 み を 抱 き ︑ 非 業 の 死 を と げ た 者 の 霊 魂 は. ﹁しば し ば 怨 霊 ・御 霊 と な って︑ 崇 り をす る ﹂ と 論 じ ら れ ︑ そ の例 と し て︑ 落 雷 ・疫 病 ・旱 越 ・洪 水 ・害 虫 の発 生. な ど を あ げ ら れ て お り ︑ ﹁こ れ ら の障 碍 を 除 去 し て息 災 た ら し め る た め に︑ 念 仏 を 始 め ︑ 風 流 踊 り ︑ 疫 神 送 り ︑ 虫. 送 り な ど のさ ま ざ ま な 鎮 魂 呪 術 や 祭 祀 が実 修 さ れ て来 た ︒ そ の ほ か ︑崇 り を 鎮 め る 目 的 で︑ 荒 魂 を 神 と し て 祀 り 上. げ る ︑ 地 蔵 を も って供 養 す る な ど の祭 祀 が お こな わ れ て 来 た ﹂ と 論 じ ら れ (二九 〇 頁 )︑ ﹁ 怨 霊 ・御 霊 は疫 病 を 流 行. ら せ た り ︑ ブ ト ・ツ ツガ ム シと い った 虫 と 化 し て 人獣 に 仇 を し た り ︑ あ る い はウ ンカ と 化 し て作 物 に被 害 を も た ら し た り す る と し て衆 人 に 恐 れ ら れ た ﹂ と 論 じ ら れ て いる (二九 四 頁)︒. ま た ︑ 菊 池 勇 夫 氏 は 著 書 ﹃近 世 の飢 饉 ﹄ ( 吉 川 弘 文 館 ︑ 一九 九 七 年 ︑ 八 四 頁 ) に て ︑ ウ ンカ に関 し ︑ こ の 害 虫 に. は 源 平 の合 戦 に て︑ 斉 藤 別 当 実 盛 が 加 賀 国 篠 原 で稲 の株 に つま つ い て討 た れ て し ま った 恨 み か ら 稲 虫 とな って作 物. を 食 い荒 ら し て いる と いう 伝 説 が あ り ︑ 西 日 本 で は ﹁サ ネ モリ サ ン﹂ と 呼 ば れ る藁 人 形 な ど を 作 って ︑村 境 や 海 に. 送 り 出 す 民 俗 行 事 が 各 地 に 伝 存 し て いる こと や ︑ そ れ ら は 享 保 十 七 年 のウ ン カ の被 害 地 域 と お お む ね 重 な って い る. 59 ﹄︑ 一九 八 五 年 ) や ︑ 柳 田 國 男 の ﹁実 盛 塚 ﹂ (﹃柳 田. 柳 田 國 男集 ﹄ ︿一九 六 二年 ﹀ では 第 九 巻 ) な ど から 論 じ ら れ て いる ︒. こと な ど を ︑ 神 野 善 治 氏 の ﹁ 実 盛 人 形 の分 布 ﹂ (﹃民 具 研 究 國 男 全 集 ﹄ 第 十 一巻 ︑ 筑 摩 書 房 刊 行 の ﹃定 本. な お ︑ サ ネ モリ の名 称 の起 原 に つ い て柳 田 の ﹁ 実盛 塚﹂によれば ︑中国 の ﹁ 蝗 者 戦 死 之 士寃 魂 所 化 ( 鶴 林玉露). と 云 ふ 思 想 が ︑ 我 邦 の 民 間 にも 近 い頃 ま で存 し て 居 た の であ る ︒ 此 が 兵 革 の続 いた 戦 国 時 代 な ら ば ︑ 其 原 因 を 求 む. る に 格 別 の 骨 も 折 れ な か つた であ ら う が ︑ 世 の中 太 平 と な る と 些 細 な 引 掛 り から 話 が 妙 な 方 向 に 変 つ て行 つて︑ 時. 世 相 応 な 解 説 を 下さ う と す る の であ る ︒ 自 分 は 必ず し も 断 定 は せ ぬ が ︑ 先 づ は 反 証 の出 て こぬ 限 は実 盛 の名 は 此 享 保 度 の大蟲 害 の時 に始 ま つた ﹂ と 推 測 し て いる ︒.
(24) これ ら のウ ン カ の 発 生 に よ る 被 害 が ︑ 御 霊 信 仰 と 関連 す る こと は︑ これ ま で論 じ て き た こと か ら も 明 ら か であ る. が ︑ こ の御 霊 信 仰 に つ い て︑ ﹃国 史 大 辞 典 ﹄ で は ﹁ 非 業 の 死 を 遂 げ た も の の霊 を 畏 怖 し ︑ これ を 慰 和 し てそ の崇 を. 免 れ 安 穏 を 確 保 し よ う と す る 信 仰 ︒ 原 始 的 な 信 仰 心意 に あ っては 死 霊 はす べ て畏 怖 の 対 象 と な った が ︑ わ け ても 怨. を のん で死 ん だ も の の霊 ︑ そ の子 孫 に よ っ て祀 ら れ る こ と のな い霊 は 人 び と に 崇 を な す と 信 ぜ ら れ ︑ 疫 病 や 飢 饉 そ. こ の こ と に 関 連 し て ︑ 次 の史 料 ﹃村 用 集 ﹄ (北 九 州 市 八 幡 西 区 下 上津 役 ︿旧遠 賀 郡 下 上 津 役 村 ﹀ 大 和 兵 庫 家 に伝. の他 の 天災 が あ る と ︑ そ の原 因 は多 く そ れ ら 怨 霊 や 祀 ら れざ る 亡 霊 の崇 と さ れ た ﹂ と あ る ( 執 筆 担 当 柴 田実 氏 )︒. 来 ︑ 島 津 金 四郎 著 ・大 和 儀 蔵 補 筆 ︒ 享 保 二十 一年 に 成 立 す る が そ の後 の追 記 あ り ) に は ︑. 享 保 十 七 子 ノ秋 末 よ り 同 十 八 年 四 月 末 ︑ 同 八 月 迄 ︑ 当 郡 中 ( 遠 賀 郡‑ 引 用 者 ) 之 飢 死 の人 数 凡 八 千 人 に及 ︑ 御. 国 中 ︑ 両 市 中 ・浦 々に か け 拾 五 万 人 程 死 失 た る と 相 聞 ル︑ 夫 故 有 縁 ・無 縁 の輩 跡 と ふ も の を 持 さ る 者 供 養 の た. め ︑ 福 岡 ・博 多 寺 々仏 事 有 り ︑ 此 郡 中 へも 多 か り し ︑ あ ら か な しや 口惜 や と お も ふ 霊 魂 とゝ ま る ま じき 者 に て. し︑ 此 身 息 災 ・延 命 を い のる へし. な し︑ 風病 ・ぎ や く な と 煩 出 せ ば ︑ 世 の人 は 死 失 た る も のゝ わ さ わ ひ に て は有 間敷 哉 と い ふ も のも 有 ︑ す いふ ん神 明 ・ぶ つた し ん ぐ. と あ り︑ 飢 饉 に よ る 死 者 の霊 の崇 り を 恐 れ ︑ 神 仏 の加 護 を 求 め る 民 衆 の姿 が 記 さ れ て いる ︒. 以 上 ︑ これ ま で 見 てき た 史 料 か ら は ︑ 地 蔵 信 仰 に 直 結 す る 事 柄 は みら れ な いが ︑ そ の信 仰 と 結 び つく 土 壌 は想 像 でき ると いえ よ う ︒. 現 在 (二〇 〇 五年 八 月 二 十 三 ・二 十 四 日 調 査 )︑ 博 多 区 中 洲 二 丁 目 博 多 川 水 車 橋 畔 に お い て川 端 地 蔵 組 合 が 行 っ. ている ﹁ 飢 人 地 蔵 尊 夏 祭 ﹂ で は ︑ ま ず ︑ 祭 り の 数 日前 に ﹁ 供 米 袋 (お賽 銭 袋 )﹂ が 博 多 の 町 へ配 ら れ る ︒. こ の供 米 袋 の中 に は 由 緒 書 と 供 養 札 が 同 封 さ れ てお り ︑ 由 緒 書 に は こ の地 蔵 祭 り の由 来 が わ か り や す く 記さ れ て. 八五. いる ︒ そ し て 供 養 札 には ﹁) (空 (家 ) 欄 先 祖 代 々之 霊 ﹂ と 印 刷 さ れ てあ り︑ 空 欄 箇 所 に は 供 養 者 名 を 書 き 入れ る ︒ こ の供 養 札 は ︑ 八 月 二十 四 日 の夜 に 浄 土 宗 妙 円 寺 の住 職 が ︑ 飢 人地 蔵 堂 の手 前 に て読 経 の際 に 札 に 記さ れ て い る. 福 岡 藩 にお け る享 保 の飢饉 と 救 済 信 仰.
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