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真宗研究8号全

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真宗連合準曾研究紀要

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親驚教学のもつ菩薩道的理念の構造

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−|都市寺院の調査を中心として

初期真宗学の思想史的一考察・::

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親驚聖人の六角夢想の伺について:

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論註他利利他の深義に就いて−−

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江戸時代越前に於ける転宗派について

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慧 、.〆 明 ︵ 一 ニ ︶ 隆︵ニ一ニ︶ 車 ︵ 一 一 一 五 ︶ 融 ︵ 四 回 ︶ 山宗︵五六︶ ︵ 六 七 ︶ 明 ︵ 七 入 ︶

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親驚聖人の仏弟子観

慈鎮和尚と青蓮院

法然上人と吉水禅坊

覚信尼公と大谷廟堂

ム 一 A

会 計 報 正と 口 ﹁ 浄 土 三 経 往 生 文 類 ﹂ 解 説 ︵ 大 会 一 記 念 品 ︶ 学 会 役 員 名 簿 学 会 員 名 簿 学 会 規 約

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弘 ︵ 入 五 ︶ 呆 ︵ 一 Q 一 ︶

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道︵三

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親驚教学のもつ菩薩道的理念の構造

親驚聖人の教学は、その広汎な背景をなす浄土教形成の全体的な基盤よりながめても、又直接的に、その主著な る﹃教行信証﹄を中軸とする﹁和讃 L 、 ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹄ 、 ﹃ 自 然 法 爾 章 ﹄ 等 の 法 語 な ど に 顧 み る も 、 その基底に、大 乗仏教的ないわゆる菩薩道的な根本精神とも見なされるべき理念を、如何に、そのよってもって立つべき所として ① 基盤づけられているか容易に窺い得るであろう。 ﹃ 教 行 信 証 L の各巻に一旦って﹁往生論註﹄の釈丈を引用して、そ こに、生即無生因縁生・因果一異・二種法身・不一一小異・法性無相無知・生死即浬提・随順法性不話法本・海性平 等一味紘一寸のテクニックでもって端的に表示されるような大乗仏教的な理念の基底づけを与えて、龍樹・羅什系統の いわゆる空観哲学の介在までも予想せしめ、更に﹃担架経 L の如きをたびたび引用して、実諦・一道・一切衆生悉 有仏性・信心仏性・真解脱・不生不滅・不老不死・虚空無為・浬撰仏性等の理念の基底づけの如きもあることをも 明らかにし、その私釈の如きに至っては、その﹁行巻﹂の一乗海釈下に於て、念仏が真如一実の宝海であり誓願一 親驚教学のもつ菩薩道的理念の構造

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親驚教学のもつ菩薩道的理念の構造 仏乗の法なることを力説して、究寛法身・仏乗・大乗・第一義乗なることを説き、ぞれが、久遠より己来の凡聖所 義の雑修雑善の川水を転んじ、逆語圏提の恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実大宝海水と成ずるの道なる ことを明らかにして、しかも ﹁まことに知んぬ、経に説いて煩悩の氷解けて功徳の水と成ると言うが如し﹂ 原 漢 文 ︶ などと結ぼれる。その辺の所見の一端に顧みれば、如何に大乗仏教的な菩薩道としてくりひろげられてくる 如き基本的な理念が親驚教学の基底となっているかを、 より具体的に容易に推察し得るであろう。 かような基本的な理念の基底づけこそが、その最初の﹁教巻 L の 開 巻 男 頭 に 於 て 、 ﹁謹んで浄土真宗を按ずるに 二種の廻向あり一には往相、二には還相なり﹂ ︵ 原 漢 文 ﹀ 等 と 、 浄土真宗の教法が往相廻向の自利、還相廻向の利 他なる自利即ち上求菩提、利他即ち下化衆生の両者相待って完備される大乗菩薩道としての宗教なることを断言せ しめるに至っていることはいうまでもないことであろう。但だ、その菩薩道の理念内容が親驚教学特異のものを打 出されることは看過してならぬところである。 ﹃教行信証﹄に開顕されてくるような、 かような理念の内容は、更 に ﹁ 和 讃 ﹄ の如きに至れば ﹁ 本 願 円 頓 一 一 束 ハ 逆 悪 摂 ス ト 信 知 シ テ 煩 悩 主 口 提 体 無 二 ト ス ミ ヤ カ ニ ト ク サ ト ラ シ ム ﹂ と

﹁罪障功徳ノ体トナルコホリトミツノコトクニテコホリオホキでミツオホシサワリオホキニ徳オホシ﹂ 以 上 、 曇 闘 購 読 ︶ と 讃 ぜ ら れ る 一 端 に も 、 更 に ﹁ 唯 信 妙 文 青 山 L に ﹁マタ自ハヲノツカラトイフヲノツカラトイフハ自 然トイフ自然トイフハシカラシムトイフシカラシムトイフハ行者ノハシメテトモカクモハカラハサルニ過去今生未 来ノ一切ノツミヲ善一一転シカヘナストイフナリ 転ストイフハ ツミヲケシウシナハスシテ 世 音 ニ ナ ス ナ リ ヨ ロ ツ ノ ミ ツ 大 海 一 一 イ レ ハ スナハチウシホトナルカコトシ﹂などと、説明される如き理解に顧みるも、容易に具体的 に窺いうるところであろう。 然しながら、今問題とされてくることは、上に引用したような見解の一端によるも容易に想察されてくるように

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親驚教学に示される大乗菩薩道的な根本理念とも云うべきものは、そこに、親驚教学特兵の理念内容とでもいった も の を 、 その構造の内容としていると考えられてくることである。従って、その特兵の理念内容とも推測されてく るものは、如何なる内容の理念を構成するものと考えられ得るのか、又考えたらよろしいのか、以下その辺の課題 について若干の検討を試みてみることとしたい。 註 1 拙論﹁親驚聖人の浄土教学に於ける基本的な理念の形成について﹄︵真宗学部、

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昭 和 品 川 六 年 十 一 一 月 刊 ︶ 、 向 。 ロ

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百件。日︵印度学仏教学研究十巻一号 U 昭和市七年一月 刊 ︶ 、 拙 著 ﹁ 浄 土 教 教 理 史 ﹄ ︵ 昭 和 品 川 七 年 十 一 月 刊 ︶ 等 参 照 一般的にいって、大乗菩薩の実践は布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六度の行にあるとされるわけである が、親驚聖人の師法然上人は、 その遺著守大経釈﹄や﹃選択集﹄の本願章などによれば明らかなように、発菩提心 −観念・持戒等の自力的実践行を廃して、法蔵書薩の第十八願所誓一の他力称名念仏の一行を実践すべく主張せんと して、法蔵が布施・持戒・忍辱等の六度等の自力成仏行を選捨して、 勝目勿の二義ある他力称名念仏の一行を選取 し、しかも、法蔵は、その他力称名念仏一行を誓う第十八願を根本とし本体とする四十八願を成就すべく、 ﹃ 大 経 ﹄ に説くように、兆載永劫の自利利人・人我兼利なるジャ l タカ物語に出てくるような慈悲布施の極まれる布施・持 戒・忍辱等の六度円満し万行具足して、他力念仏一行救済の本願を成就されたことを力説されるのである。 か く し て 、 かような意味で、自力成仏道たる聖道門的な布施・持戒等の六度行を始めとする発菩提心・観念等の 自力成仏的実践行を捨てて、 阿弥陀仏それ自体に於て選取し救済の本願行として誓われたその本願の誓意に順じ 毅驚教学のもつ菩薩道的理念の構造

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親驚教学のもつ菩薩道的理念の構造 四 て、他力称名念仏の一一行を専修すベく主張されるのである。 従って、以上のような、親驚聖人の師法然上人の主張によれば、聖道門的な成仏道としての自力向上門的な菩薩 道的実践としての六度行に簡別される所のいわゆる浄土門的な往生成仏道としての他力向下門的な法蔵菩薩道的動 態・価値を内容とする他力念仏一行の実践が打出されるに至っていることを容易に理解せしめられ得るであろう。 そこには、自力向上門的な聖道門的菩薩道を廃して、他力向下門的な浄土門的法蔵菩薩道を立てていくといった如 き意味に於て、基本的には、自利即利他、上求書提下化衆生を実現すべき大乗仏教的な菩薩道的な根本理念が、共 通地盤として設定せしめられていることが予想されるが、果して、自力向上門的菩薩道の基本理念の構造内容と他 力向下門的菩薩道の基本理念とは、構造内容を具にしていないと考えてよろしいか、どうか、可なり問題が提起さ れ て く る 。 法然上人の弟子としての親驚聖人の場合、勿論、その他力念仏一行専修道をより徹底して主張されたわけで、 そ の実践の内容本質は他力向上門的な浄土門的法蔵菩薩道をもって内容づけられるわけである。従って、その場合、 上記のように大乗仏教共通的な煩悩菩提体無二・生死即浬繋等といったようなテクニックで表示される如き理念を その教学の基本理念とされてはいるが、 かような理念の構造内容は如何に理解されうべきものなのか。自力向上門 的菩薩道の大乗仏教的な理念構造と、その内容構造を同一的に理解してよろしいのかどうか、そこには、その教学 の基本構造如何の問題に拘って意味深く課題が提起されてくる。 然るに、以上のような親鷺教学のもつ他力向下門的な菩薩道の根本理念の内容の詮索に当って、その意義をより

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明確にする意味で考え合わされてくることは、同一法然門下として位置づけられる鎮西派祖聖光房弁長師や西山派 祖 千 五 官 慧 一 房 一 証 空 師 な ど の 、 かような点についての理解如何の問題である。大局的にいって、同一法然門下として位置 づけられる意味に於て、弁長師や証空師の場合も、親驚聖人の場合と同様に、自力向上門的な聖道門的菩薩道観音 廃して、他力向下門的な浄土門的菩薩道樹に立つものであることはいうまでもない。 かかる場合、自力向上門的な 菩薩道嗣というのは、自己の修行の力によって上求菩提下化衆生の自利即利他の実践を深めることによって仏覚を 獲得しうるとの理念に立つもので、仏完を求める修行者としての衆生は、自らの実践修行の力によって仏党を実現 し得るとの立場に立つものなる故、そこでは衆生より仏へと通ずる道が聞かれており、衆生と仏とは迷悟の差はあ れ共通性をもつものだ、との理念が極めて強く生仏相互の聞に介在せしめられていることを容易に理解せしめられ 得るであろう。然も、さらにより根本的には、衆生と仏、迷と悟、 との差はあれ、そこには、衆生は仏に依ってあ らしめられ、仏は衆生に依って存在せしめられ、又迷は悟に依ってあり、悟は迷によって存在せしめられるとの、 いわゆる生仏・迷悟相依相成といった如き、大乗仏教的な縁起的理念をもって基底づけられていることも容易に想 倒 せ し め ら れ 得 る 所 で あ ろ 、 っ 。 かような生仏・迷悟相依相成的な理念を基底として衆生より仏への自力実践的な向 上が可能であると認容される所に いわゆる自力向上門的な聖道門的菩薩道観の形成があることを、今は意味して い る の で あ っ て 、 かような意味からは自力向上門的菩薩道観は、衆生と仏、迷と悟との相違性には勿論深く注目す る が 、 ぞれ等の相違する個々存在の同一性といった場により強く注目するものとして、同一性的縁起とでもよばれ るべき理念を、その構造内容としているとでも見たらどうであろうかと考えられる。 然るに、法然を主軸として展開されてきた法然門下の他力向下門的菩薩道観ともみなされるものは、全般的にい って、衆症の自力修行力にのみよっては仏覚の実現は不可能であるほど、衆生の迷妄性は深く、衆生の修行の力で 親驚教学のもつ菩薩道的理念の構造 五

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親驚教学のもつ菩薩道的理念の構造 ム ノ、 は実現不可能なほど仏覚は高速なのである。極端に表現すれば、衆生は全く仏的存在でなく、仏は全く衆生的存在 で な い Q 迷と悟とは極めて深く隔たり断絶的に位置づけられる。然し、 それでは、生仏・迷悟全く断絶するかとい うに、然らずして、煩悩菩提体無二と説き、生死即浬撰と説く大乗仏教的な理念を許容するのである。従って、 力、 ような意味合いよりすれば、法然を中心に展開されてきた他力向下門的な菩薩道観は、今の場合、 一 応 、 生 と 仏 、 迷と悟などが、徹底的に相反せしめられつつ、然も同一性的に縁起し結合せしめられる理念構造に立つものといっ た意味で、相反性的縁起の理念に立つものであるとでも、 よんだなら如何がかと考えるのである。

と こ ろ で 、 かように法然を主軸とするものがいわゆる相反性的縁起とでもよばれるべき大乗菩薩道的理念の構造 内容をもつものと理解する場合、弁長師や証空師はその辺について如何なる見解を示されていると理解されうるか というに、大体次のように理解される。 ① 先ず、鎮西派祖弁長師の教学の一端を窺うに、勿論、法然を承けるものとして、今日の我々が末法鈍根無智なる ものであることを強調し︵徹選択集巻上等︶、その遺著の全体に亘って第十八願による称名念仏の一行専修を勧めら れ る わ け で あ る 。 しかし、聖道・浄土の二門はいずれも成仏の道であって本質的には一実相法より開かれた二門に すぎずとし︵浄土宗要集凶・王、徹選択集上巻、識知浄土論等︶、然も、称名念仏の一行とコ一福六度等の諸行万行とは総 別・開令の関係にもあると見なすべきで︵微選択集巻下等︶、法蔵並口薩も諸仏と同様に総別二願を起されて総阪中に 三福六度等の諸行を、別願四十八願の中に称名念仏一一行を往生行として特に誓い ︵ 浄 土 宗 要 集 一 、 識 知 浄 土 論 、 徹 選 択 集下巻等︶、両者総別難易の差はあれ いずれも浄土往生行であり成仏の実践行である、 との見解を終始一貫して打

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出 さ れ る の で あ る 。 かような所見によれば、それは、師法然伝灯の他力念仏一行専修といった実践理念を打出す基 底理念としての他力向下門的ないわゆる相反性的縁起の基盤に立つものであることは了解されるが、他力念仏一行 専修の内容性格に一分自力聖道門的な実践行としての三福六度行的実践性を許容してゆくといった傾向がみられて くるわけで、そこには、基本理念的には自力向上門的な同一性的縁起の場に若干同じてゆくといった趣きが窺われ る 。 従 っ て 、 かような弁長師の如き主張は相反性的縁起の立場には立つが同一性的縁起の場を一分許容するものとし て、基本理念的には、相反性的同一性的縁起の構造理念を、 その大乗菩薩道的構造理念の内容とするものであると でもいったならどうであろうかと思うのである。 次に、西山派一世証空師の教学の如き場合、その辺、如何に窺われるかというに、やはり、弁長師の場合と同様、 我々人間悪を強調して︵観念法門観門義、礼讃観門義等︶、その全遺著を通して、第十八願の他力念仏一行専修に徹底 すべく力説されることは一貫している。 しかし、その主張の特色として注目されることは、天台教学的な諸法開会 の理念を応用されたものと理解されるのであるが、誰ロ導諸疏の注釈書としての諸 τ観 門 義 ﹄ や ﹃ 観 経 疏 大 青 山 ﹄ な ど といったものを通して終始一貫主張されてくる所は、聖道門行門もその実践行とされる六度万行より始めて父母孝 養等の諸善に至るまでもそれ等のすべてを、本質的には浄土門観門弘願の一法以外のものでなく、弘願他力念仏一 行以外のものではないと 一切を浄土門他力念仏の一法に開会し、 か く し て 、 そこに、弥陀理性遍満法界身説とで もよばれるべき基本理念を確立し打出されてくることである 従 っ て 、 そこでは、聖道門は一応方便的に設けられた方便の仮説たるもの以外でなく、その実践行なる自力的な 六度万行等は他力弥陀弘願念仏一行の一分たるに外ならないのである。 で法蔵の因位発願より中間の兆載永劫の六 親 驚 教 学 の も つ 菩 薩 道 的 理 念 の 構 造 七

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親驚教学のもつ菩薩道的理念の構造 入 度万行の修行に当っては、孝養父母等より始めて一切の自力的定散諸善を他力弥陀念仏の一行に改変すべく修行し て、果上に於て他力念仏一行往生の誓願を成就されたと主張されるのである︵女院御書等︶。 かようにして、弥陀理性法界遍満の理念を強調されるわけであるが、このような主張が師法然の浄土一門他力念 仏一行主義を強力に展開してくるものであって、 かように今理解されるだけ、前記の弁長師の主張に比して、基本 理念的な場に於ては、 聖道門的な自力向上門的な同一性縁起の主張を許容せず、浄土門的な他力向下門的な相反性 縁起の主張を確立してゆこうとしておるものであることは容易に窺知しうるであろう︾ しかし、この証空師の主張 に於ては、弁長師の場合の如く、勿論聖道門諸行が許容はされないが、浄土門念仏一行へ同一体のものと本質的に 開会されていることが注目されるのである G いわゆる大乗仏教的な一切衆生悉有仏性・生死即担撰・一法身・一実 相といった如き基本的な理念の場を予想すれば、 かような念仏一行への同一体的な開会の主張が展開されても、 そ れは不思議ではなく、当然のことであるかも知れない。 しかし、法然上人の﹃選択集﹄の主張などを顧みると、 聖 道門諸行を廃捨して浄土門他力念仏一行を立ててゆこうとする志向が極めて強く、そこにこそ、自力向上門的な同 一性縁起的根本理念に簡別される他力向下門的な相反性的縁起的理念の場が考えられてきたわけであるが、 そ の 辺、今の証空師の主張の根本理念は如何に考えられ得るであろうか。 いずれにしても、以上のような証空師の弥陀 理性法界遍満説の根本理念は、上に述べたような内容よりして、弁長師のそれとは呉って、相反性的縁起の立場に 徹底せんとはするが、自力的諸善行の一切を他力念仏一行と同一体であると開会的にみてゆかんとする理念に立つ ものとして、相反性的同一体的縁起とでもよばれるべき大乗菩薩道的構造理念をもつものとでも考えたなら如何が かと思惟するのである。

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1註 拙著﹃日本浄土教の研究﹄第三篇第四章の下︵昭和廿七年十月刊︶、同﹃浄土教教理史﹄第十章第四節の下︵昭和品川七年 十 一 月 刊 ︶ 等 参 照 、 2 、拙著﹁日本浄土教の研究﹄等三篇第二章の下︵昭和廿七年十月刊︶、同﹃浄土教教理史﹄第十章第二節の下︵昭和品川七年 十 一 月 刊 ︶ 等 参 照 。

以上、法然上人の他力向下門的菩薩道観とも見なされるべきものの大乗仏教的根本的理念たる相反性的縁起構造 とでもよばれるべきものを承けて、鎮西派祖弁長師が相反性的同一性的縁起とでもみなされるべき理念を形成し、 西山派祖証空師が相反性的同一体的縁起とでもみなされるべき理念を形成されていると考えられ得ることを述べて ① それ等に比して、真宗宗祖親驚聖人の教学に於ては、その辺、如何なる大乗菩薩道的理念を構成 き た の で あ る が 、 されていると考えられ得るのか、最後に論及しておきたい。 結論的にいえば、親驚教学に於ては、前述したような聖道門一般の自力向上門的な菩薩道観のもつ同一性的縁起 とでも見なされるべき理念構造に全く対蹄する師法然伝統のいわゆる相反性的縁起とでもよばれるべき理念を徹底 化する構造理念を打出されてきているとも考えられ得るのである G 上記のように、親驚教学の根底は、悉有仏性・ 煩悩即菩提・生死即浬襲・一法身・法性・実相・一乗円融・転成などといった。大乗仏教的基本理念の基底づけな くしては出すことの不可能なる理念左もって充塞されているわけである。 し か し そ こ で は 、 その主著﹁教行信 証﹄などを中心に明示されるように、弁長教学にみた如く自力的聖道門的諸行の許容は全くなく、又更に証空教学 にみられた如き自力的諸善行の開会といったことも全くなくして、仏教を知らざるものが、我執に貧著する邪偽な 親驚教学のもつ菩薩道的理念の構造 九

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親驚教学の色つ菩薩道的理念の構造

るものとして退けられるのは勿論、自力聖道門も、更には浄土門の実践とされる第十九願要門の自力諸善行も、又 更に第二十願真門の自力念仏専修までも、徹底的に廃除されて司第十八願の他力廻向の念仏一行専修の実践のみが 所立とされ実践すべき所として打出されてくるのである︼ それは、確かに、師法然の﹃選択集﹄などに力説されよ うとした聖道門諸行を廃して浄土門念仏一行を立てようとした意図を、最も徹底化して打出したものといってもよ い で あ ろ う 。 従って、そこでは、自力向上門的菩薩道観構成の同一性的縁起の場が徹底的に排除されて、他力向下門的菩薩道 観確立の相反性的縁起の場が徹底的に打立てられてくることが考えられうるのである。上に言及した﹁教行信託﹄ の﹁行巻﹂の如きには ﹁久遠より己来、凡聖所修の雑修雑善の川水を転んじ、逆誇闇提の無明海水を転んじて、 本願大悲智慧真実大宝海水と成ずし ︵ 取 意 ︶ な ど と 述 べ て 、 一切の自力向上門的な雑修雑善の実践的場は云うまで も な く 、 五逆・語法・闇提といった極悪者的世界をも、真実大宝海水と転成する根源的理念の場が、親驚教学のも つ大乗的菩薩道の基本的理念の場であることを付度せしめ、又﹃唯信妙文青山 L の 如 き に 更 に 、 ハシカラシムトイフ過去今生未来ノ一切ノツミヲ善−一転シカヘナストイフナリ、転ストイフハ ﹁ 自 然 ト イ フ

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− − − ツミヲケシウシナ ハスシテ善ニナスナリ﹂等と述べて、上の﹁行巻しの転成の場が﹁ツミヲケシウシナハスシテ善−一ナス﹂といった 自然転成の場であることを明らかにされる如きに顧みれば、衆生と仏と、白と他と、又は生と死となどが相互に徹 底的に相反する如き迷妄的な場を、如何に根底的に越えて、自然法爾に生仏相依不二・自他相依不二にと他力向下 門的に徹底して縁起不二にならしめてゆく如き、 いわゆる相反性的縁起的理念の場を、その大乗芥薩道的理念構造 の基底的場として構成されるに至っているか、 その一端を推測しうるであろう。 かような基本的理念構造の場が堅 持されたればこそ、始めてよく、 ﹁謹んで浄土真宗を按ずるに二種の廻向あり﹂等と﹁教巻﹂の冒頭に語られるざ

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を得なかったことも容易に了解しうるであろう Q かような相反性的縁起的理念の場こそが、 ﹁ イ ロ モ ナ ク カ タ チ モ ナシしと説かれる如き、赤色を赤色の如く、黒色を黒色の如くみる大乗仏教的な縁起的理念に一閉店づけられる自然法 爾それ自体の場であり、 その躍動界が他力向下門的菩薩道としての法蔵持薩道の顕現態であって、 いわゆる﹁ツミ ヲケシウシナハスシテ善ニナス﹂自然転成の本願力救済界を成就し、他力往還二廻向をその内容木質とする絶対他 力念仏実践の場を現成してくることが考えられる いずれにせよ、親驚教学のもつ菩薩道的理念の構造の内容は、 理論的には、今の場合、 なお詳論する必要がある と考えるのであるが、紙数が迫ったのでこの辺で省略することとして、要するに、 それは聖道門仏教一般と共に釈 尊仏教の真髄としての大乗仏教的な縁起的理念の場にあらしめられるとはいえ、聖道門仏教の如く同一性的縁起的 理念の場にあるものでなく、相反性的縁起的理念の場に徹せんとするものであると考えられることを明らかにして 摘筆したい ︵ 一 九 六 三 、 六 記 、 文 部 省 科 学 研 究 費 に よ る 研 究 ︶ 註 −拙著﹁日本浄土教の研究﹂の結償問の下︵昭和廿七年十月刊︶、同 刊︶等参照 G ﹁浄土教教理史﹂第十一章の下 ︵ 昭 和 品 川 七 年 十 一 月 親驚教学のもつ菩薩道的理念の構造

(20)

独 立 者 の 誕 空

善導大師の﹁二河の警除﹂は、仏道としての人生における願生者の心理の展開と、人生が道であり、人生が道と さ れ る 根 源 の 道 理 を 、 一 間 宮 山 慨 を も っ て 巧 み に 表 現 し た も の で あ る じ 即 ち ﹁ 二 河 の 一 世 冒 険 ﹂ は 、 本 願 成 就 の 行 信 道 を 、 水 火の二河と白道をもって象徴したものであって、 いわば警聡の全体が、行信の仏道の象徴であるといえよう。 ところで﹁二河の警聡﹂は、願生の仏道の展開を叙述するにあたって、まず三定死における行者の、決断を表わし、 ついで、その決断の直下に聞えるものとして、釈迦発遣の教証と弥陀招喚の理一証とを述べるのであるが、その決断 と 発 遣 と 招 喚 の 一 二 者 の 次 第 は 、 我 々 の 、 探 く 注 意 す べ き と こ ろ で あ る 。 水火の二河と白道は、旅人として象徴される願生者自身を一部すものであるが、 し か も 、 その道が真に道であるこ とを成就するために、道は、願生者の決断、即ち道への廻心をまつのである。換言すれば、道への廻心において、 願生者にとっての本来の道が、願生者それ自身であることの意義在、願生者の上に自覚的に開示するのである。そ

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れが﹁既に此の道有り、必ず度すベし﹂という信境を内景とする、三定死の決断の意味するところである。 し か し な が ら 、 その決断が聞き一不す道は、東岸に応現する釈迦の教証が開顕する往相の行信道であり、本願成就 の 大 道 で あ る 。 したがって﹁既に此の道有り﹂という決断は﹁決定して此の道を尋ね行け﹂という釈迦の発遣に先 立つてなされると説かれてはあるが、 し か も 、 それは﹁必ず死の難無けんしという教証が、既にある行信道の歴史 において、必ず度すという自信の境を開くのであると理解することができよう υ その意味においては、道への決断 の内景として語られる救済の法の歴史こそ、むしろ旅人︵行者︶をして廻心せしめる直接的契機である ω 即ち、道への決断が、教の言をもって、真に自己への発遣とするのであり、同時に、それは教主の発遣が真に道 への廻心を成就せしめるのであるといわねばならない。それはあたかも﹁歎異抄﹄の第二章に述べられるところの ﹁ 親 鷲 に お き で は 、 ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、 よき人のおおせをこうむりて、信ずるほか に別の子細なきなり﹂という師教への信順が ﹁いずれの行もおよびがたき身﹂の地獄一定の自覚に成就するもの であることを想わしめられる。 ここに親驚聖人は、救済の教法を﹁ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべししという﹁よき人のおおせ﹂と して掲げながら、このように﹁信ずるほかに別の子細なき﹂所以を﹁いずれの行もおよびがたき身﹂と表白するこ とによって ﹁地獄一定﹂の身の自覚が っ た だ 念 仏 ﹂ の教法の歴史に統摂されてあることを示されるのである ﹁いずれの行もおよびがたき身﹂の深信は ﹁既に此の道有り﹂の深信と共に、廻心の内景を語るものであって、 それは共に道においである自己への決断の二面を表わすものである Q ところが親驚聖人は、この師教によって見出された自身を﹁とても地獄は一定すみかぞかし﹂と表白しつつ、 てコ いで一転して﹁弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず j i − − − ﹂ と 述 べ ら れ た 。 即 ち 、 独 立 者 の 誕 生

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独 立 者 の 誕 佳 四 親驚聖人にあっては、﹁いずれの行もおよびがたき身なれば﹂こそ﹁既に此の道有りしの道は、弥陀の本願の等流 する誓願一仏乗の大道であり、唯仏一道の道にほかならぬのである。 したがって﹁弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言したもうべからず j i − − − ﹂ と い う 一 一 一 一 口 葉 は 、 親 驚聖人の念仏の道への決断が、誓願一乗海に淵源するものであることを示しながら、 また釈尊の発遣が﹁唯、弥陀 の 本 願 海 を 説 か ん ﹂ ︵正信偏︶とする正意をもってなされることを語るものである。 これによって知られるように、白道への決断をなさしむる直接の契機は、一二定死における﹁いずれの行もおよび がたきし地獄一定の身の自覚に聞かれる東岸釈迦の発遣であり、 よき人・善知識の発遣である。その発遣を教証と して旅人は、改めて自覚的に、仏道の歴史に召される願生の行者となるのであるが、更に行者は、行者をして願生 せしめる根源のものとして、弥陀の本願、即ち﹁汝、 一心正念にして直ちに来れ、我、能く汝を護らん﹂という招 喚 を 聞 く の で あ る 。 即ち、二一刊と白道を距てた西岸上にありながら、常に ﹁ 直 ︵ 欲 ︶ 来 ︵ 生 ︶ ﹂ と招喚したもう弥陀の本願が、東岸 に成就して、行者をして﹁願生彼国﹂せしむる釈迦の発遣となり、釈迦の教法の歴史的事実が、白道への決断をし て真の決断たらしめるのである。ここに、 その決断の内景としての﹁いずれの行もおよびがたき身﹂に開顕される 大道が ﹁欲生我国﹂の本願招喚の勅命を根源とする誓願一乗海の大道にほかならぬということが明らかにされて い る の で あ る 。 さて、親驚聖人は、弥陀の招喚によって﹁汝﹂と喚ばれた旅人を釈して﹁汝の言は行者なり、斯れ則ち必定の菩

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薩 と 名 づ く ﹂ ︵ 愚 禿 紗 ︶ と い わ れ た 。 いま﹁汝﹂と呼ばれる旅人は、天親菩薩が﹃願生伺 L の男頭に、二尊への帰 敬の情を表わして﹁世尊よ、我れ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつり、安楽園に生れんと願ず﹂と表白す るところの﹁我﹂である。その﹁我﹂が、 いま弥陀によって﹁汝﹂と喚ばれ、親驚聖人によって﹁行者﹂即ち﹁必 定の菩薩﹂であるとされているのである。 願生の行者が、本願成就の願生彼国の信境に立つことが、そのまま﹁必定の菩薩﹂とされるということは、 し、 カ〉 なる意味を表わすものであろうか。 思うに、一二定死における旅人が、その決断において﹁既に此の道有り﹂と述べるように、旅人をして決断せしめ たものは、唯仏一道としての本願成就の大道であり、釈迦の発遣として現行する教法の歴史であった。そこでは、 決断せしめる道と、決断する旅人との相対が示されているかのようであるが、 し か し 、 い ま 旅 人 が 、 その決断にお いて﹁必定の菩薩﹂とされるということは、教法の歴史の流れの中に見出された自己が、教法の歴史の流れに召さ れ、更に新たに教法の歴史を創るものとなることを示すものであろう。 そ れ は ﹁いずれの行もおよびがたき身﹂ の 自 覚 を と お し て 、 誓願一仏乗の大道が開顕されたことそ語る﹃歎兵 抄﹄第二章に﹁ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、 よき人のおおせをこうむりて信ずるよりほかに 別の子細なきなり﹂と述べられたように、善導大師の言葉︵散善義・深心釈︶を依用していうならば、就人立信と就 行立信の一体なるものとしての信境を表白することを思わしめるものがあるのである。 親鷺聖人において、地獄一定の身の自覚が真に明らかになったのは、 よき人即ち法然上人の教えによってであっ た。しかし、だからといって、親驚聖人が法然上人の仰せのみを固執したのであれば、親驚聖人は、終生、法然上 人に対する声聞の位置を脱することはできなかったであろうし、そしてまた、殊に越後配流以後の生涯が語るよう 独 立 者 の 誕 生 一 五

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独 立 者 の 誕 坐 一 な、親驚聖人が真に親驚自身であることの道を歩むことは不可能であったにちがいない。 声聞的存在とは、更にいま一つの在り方としての縁覚 ︵ 独 覚 ︶ と共に、教えに生きようとするものの陥るまぬが れ 難 い 宿 命 で あ る 。 しかも、人聞が声聞的であるかぎり、彼は彼自身としての独立・独尊の境を生きることはでき ない。この求道の生に伴う運命的な﹁よき人﹂ への執着在断ち切って、就人立信をして真に就人立信の意義をあら しめるものが ﹁ただ念仏して:;・﹂と語られる就行立信の境である。即ち、この﹁ただ念仏﹂の道において、親 驚聖人にとって、法然上人は、真に﹁よき人﹂善知識としての意味をもつものとなるのである。 しかも、その﹁よき人﹂は、やがて歴史を超えた仏道を歴史として顕現せしめた無数の﹁よき人﹂を発見せしめ る 契 機 と な る の で あ る 。 したがって、われわれは、その無数の﹁よき人﹂の上に、自己自らが仏道の歴史となって ﹁ただ念仏﹂の道に勧める諸仏の発遣を聞くのである。 このように、親驚聖人にとっての﹁よき人﹂法然上人は、人法相対において考えられる単なる人ではなく、 阿 弥陀如来化してこそ本師源空としめしけれ、化縁すでにつきぬれば浄土へかへりたまひにきし ︵ 高 僧 和 議 ・ 源 空 章 ︶ と和讃されるような意味をもっ﹁よき人﹂であって、ここには就人立信における親驚聖人独自の心境が語られてあ る の で あ る 。 即ち、人とは ﹁法によって人によらざれ﹂ といわれるところの ﹁ 人 ﹂ で は な く 、 むしろ化仏として現行する ﹁法﹂の意義を完うじた﹁人﹂である Q だから、天親菩薩にあっても、この﹁人 L 即ち教主についての立信である からこそ﹁世尊﹂と呼んで、 その信の転閉する心境が﹁願生安楽園﹂と表白されつつ、それがそのまま本願成就の 内容としての﹁即得往生住不退転﹂の意義を与えられると示されるのである。 これによって知られるように、仏道の歴史としての自己とは、仏道において﹁不退転﹂であり、 ﹁ 入 必 定 ﹂ で あ

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るところの、菩薩としての意味を与えられた自己にほかならない。 ところで、この我々の自己に 真実の信として機の自覚を聞く就人と就行との次第は、 就人←就行ではなくし て、むしろ就行←就人であるというやへきであろう υ 即ち、就人立信は必ずしも就行立信を件わないが、就行立信は 必 ず 就 人 立 信 と し て 、 その意義を成就すると理解すべきである。 何故ならば、人︵教主︶について信を立てるということには、教主によって説かれる教理を信解し、 るという、所謂、信行次第の立信が苧まれであるのであって、 かつ行証す そ こ で は 教 ︵ 人 ︶ と 行 ︵ 法 ︶ との聞に 我々の信解 を介入せしめることによって、教と機との如実の相応は実現されえない。 ところが、就行立信を先とするということ、換言すれば、行をはじめとするということは、真実の教が﹁是を以 って、如来の本願を説くを経の宗致となし、即ち、仏の名号を以って経の体とするなり﹂ ︵ 教 巻 ︶ と 説 か れ る よ う に、行信と次第するところの行︵名号︶をもって、教の体とするのである。 しかも、ここにいう本願とは、 選択摂取の本願、即ち﹁ただ念仏﹂と示される名号の本願である υ し た が っ て 、 就行立信の内容としての﹁ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし﹂ということ、即ち、選択本願念仏の廻向 が ﹁ よ き 人 の お お せ ﹂ の 宗 と 体 ︵ 根 本 精 神 と 具 体 的 内 容 ︶ として実現されるのである。 つまり、就人立信の体は就行 立信であり、就行立信は就人立信として真に現実のものとして表現され、実現されるのである。 このように、我々の自己における立信が、大行仏法の等流としての立信であってこそ、歴史を超えた仏道が、歴 史としての仏道として開顕され、やがて我々の自己自身も、その歴史に召されて歴史となるという、仏道の歴史と 独 立 者 の 誕 生 七

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独 立 者 の 誕 生 /I

しての意義をもっ自己が、真に成就されることとなるのである。

既に述べたとおり﹁歎異抄﹄第二章の語る就人・就行の二種立信は、仏道の歴史との避遁によって明らかにされ た真にあるべき自己の、即ろ機の自覚の開顕を示すものであった。この機の自覚の成就について、更に第二章に即 し て 推 求 す る な ら ば 、 ﹁ た だ 念 仏 ﹂ の 本 願 を 内 縁 と し 、 ﹁よき人のおおせ﹂を外縁として、真実の信心は成就する と い う こ と が で き よ う 。 しかしながら、就行といい、就人というのも、容易に真信を開園するものではない。それを示すものが、 ﹁ 念 仏 は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんベるらん。 また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもて存 知せざるなり﹂という﹁行﹂即ち法についての妄執を破する言葉であり、更にまた﹁たとい、法然上人にすかされ まいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう﹂という﹁人﹂についての固執を離れ し め る 言 葉 で あ る 。 真信は、内外の因縁が和合しなければ成就することはないが、 しかし、だからといって、真信は、因縁に執する ところに成就するものでもない つまり﹁よき人のおおせ﹂とは、それによって﹁ただ念仏﹂の法を聞くのであっ 誰人でも信じうるかというならば、 て、それが﹁よき人のおおせ﹂であるから信ずるのではない。それでは﹁ただ念仏﹂を勧めるおおせであるならば そのおおせは、どこまでも﹁よき人﹂のものでなければならない。 ﹁ よ き 人 ﹂ とは、人にまで具体化した法の現働にほかならぬからである。そこに﹁よき人のおおせ﹂を超えて﹁よき人のおお せ L に聞く就人立信の意味があるのであり、その﹁よき人のおおせ﹂ への執着の否定をとおして顕われる﹁よき人

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のおおせ﹂の絶対肯定が﹁法然上人にすかされしでも後悔しないと表現されているのである。 こ の よ う に ﹁ 人 ﹂ 即 ち 教 主 の 一 一 一 一 口 茶 に よ っ て 、 信 と し て 開 顕 さ れ 成 就 さ れ る も の は ﹁ 行 ﹂ 即 ち 法 で あ る 。 ﹁ た だ 念 仏しの行︵法︶が衆生に成就されたものを信という。そこに﹁ただ念仏﹂ の行︵法︶が信の体となるという就行立 信の意味するものがあるのである。就人立信とは、行を体とするところの﹁よき人のおおせしについて立信するも のであり、それ故に、それはやがて就行立信にたちかえるのである ω しかしながら、我々の立信における難関は、この﹁人﹂についての執着よりも更に深く﹁ただ念仏﹂の行︵法︶ について執着するところにある υ その就行の固執、即ち一法執の般折された境地が﹁念仏は、 まことに浄土に生まる るたねにてやはんべるらん j i − − − ﹂ と い う 文 を も っ て 表 わ さ れ る の で あ ろ う 。 ﹁ 行 に 就 い て 信 を 立 て る し と は 、 その行即ち念仏が、本願であることによるのであって、 したがって、その念仏 の本願を領解しうるものは、木願念仏の心でなければならない。それは我々衆生の心に就行立信するのではなくし て、むしろ我々衆生の心の内奥に秘めた人法二執の否定をとおして、真実信は成就するのである。このように、念 仏の信心は、否定さるべき人法二執な内包するという自己の自覚、即ち﹁いずれの行もおよびがたき﹂宿業の身の 自覚として、ここにあらわにされているのである ﹁いずれの行もおよびがたし﹂とは ﹁自余の行もはげみて、仏になるべかりける身﹂に開かれる自覚、即ち行 行相対︵諸行と念仏の相対︶において明らかとなるところの自覚ではなく、 ﹁いずれの行もおよびがたき﹂絶対界の 自 覚 で あ り 、 いわば行行相対の根絶する世界に聞かれる絶対信にほかならない。 したがって、この絶対信は、求道 の立場の徹底的な批判と吟味、即ち就行と就人の二重の否定によってこそ、 はじめて開顕されるのであり、ここに 親驚聖人によって、信が難信であるとされる所以もあるのである。 独 立 者 の 誕 生 九

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独 立 者 の 誕 生

O この就人と就行の二重の否定は、我々衆生の求道が、 その究極においては、宗教的関心の名における自己関心を 出ぬものであることを指摘し破折するものであるといえよう。即ち、我々の所謂、宗教的関心とは、 やがては王逆 −語法・闘提という自覚に帰結される自己関心の領域に属するものである。このように、自己が、自己への深い関 心に縛られ繋がれてある自己、即ち無明においてある自己として自覚された心境を﹁いずれの行もおよびがたき身 なれば、とても地獄は一定すみかぞかし﹂と表白されたのである

さ て 、 以上において明らかなとおり、我々は、もし﹁よき人のおおせ﹂によるのでなければ信を聞くことは不可 能 で あ る が 、 しかし、ここに就人立信するということも、所謂﹁人﹂への執着の否定をとおして、 かえって真信を 成就するためのものであった G それが就行立信と一体不離であるところの就人立信の意味するものにほかならな し、 ところが、我々衆生には、更に否定さるべきものとしての供生の法障がある υ 即ち、就行の妄執が﹁ただ念仏﹂ の行︵法︶をも自己の領域に属せしめることによって 染汚された行︵法︶とするのである Q したがって、如実修 行相応の真実信は、この行に対する執着の破碇したところの白己、即ち﹁無有出離之縁﹂の機の自党として開顕さ れるのである υ このように﹁人﹂において示される行が機を成就することによって、 かえって﹁人﹂は、真に﹁よき人﹂として の意味をもつものとなるのであって、ここでは最早、就人と就行との相対を超える機教の如実の相応が実現する。 即ち、人は化仏としての意味をもっ教主であり、機とは二執そ離れた真信によって、成仏に必歪であり正定である

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ところの未来仏であって、この機教の相応が、 そのまま仏仏相念界のものとなるのである。 これを明示するものが ﹁弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず j i − − − 親 驚 が も う す む ね 、 またもてむなしかるべからずそうろうか﹂という一段の文意であろう Q これを詳細に読むならば、それが﹁弥陀の本願﹂即ち行についての信と、 ﹁仏説﹂より以下の文が語る教主、即 ち﹁よき人﹂についての信とを語るものであることが知られるが、それが同時に、誓願一乗海の等流として、自ら に一体であり不離であることを示しているのである この信が、やがて第二章を結ぶにあたって﹁愚身が信心﹂と表明される信であり、行を体として本願より等流す るところの金剛の真信であるからこそ、善導大師が語るような ﹁ 四 重 の 破 人 ﹂ ︵ 散 善 義 ・ 深 心 釈 ︶ の 難 を こ え て 、 ﹁四重の破人﹂の作りなす世界を包みつつ、 しかもその﹁四重の破人﹂に対して無碍であり、独立・独尊であると ころの絶対自信の境地であることができるのである だ か ら 、 その境地を、最後に﹁このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、 ま た す て ん と も 、 面々の御は からいなり﹂と結ぼれる親驚聖人の心も領解されるであろう。この簡潔な言葉には、この問答を聞く関東の向朋達 と親驚聖人自身との対応のなかで、念仏への決断を﹁面々の、御はからい﹂に委ねるというすがたにおいて、就人 と就行とが一体であるということと、就人・就行の絶対否定そのままが絶対肯定の全顕であるということが表わさ れ て い る の で あ る 。 こ の ﹁ 面 々 の 御 は か ら い な り ﹂ という各自の決断のうながしは ﹁弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひ とえに親驚一人がためなりけり﹂ ︵歎具抄・後序︶という本願信受の表現と呼応しつつ、真に独尊の境涯に生きる親 驚の言葉である。この独立者・親驚の宣言こそ、 限前にある関東の同朋の一人一人をして独立者たらしめた一句で 独 立 者 の 誕 生

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あ り 、 た の で あ る 。 し か も 、 独 立 者 の 誕 生 その独立者の誕生によって顕現されたものこそ、この地上の歴史として成就した如来の教団であっ ︵ 三 八 ・ 六 ・ 六 ︶

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||君坊から自庵へ||

真 宗 の 道 場 に は 、 その性格や形態によって、道場・惣道場・寄合︵立会︶ 道場・表一一立会道場・毛坊道場・辻本 道場・下道場・兼帯道場・内道場・自庵︵道場︶・看坊︵道場︶等の種々の呼称がある。 単に﹁道場﹂という場合は 一個人が建てた道場を指し ﹁ 惣 道 場 L は門徒の総意によって創設された道場をい ぅ。この惣道場に、二か寺以上の門徒が寄り合って建てた道場を﹁寄合道場﹂または﹁立合道場﹂といい、東西両 本願寺門徒が共同で設けたものをとくに﹁表裏立合道場﹂と称している。 ① ﹁下道場﹂とか﹁兼帯道場﹂と呼んでいるし また、ある寺︵道場︶に所属する道場を こうした惣道場・寄合道場・下道場・兼帯道場を、所属の寺又は門徒から委任されて管理する僧を﹁看坊 L 又 は ﹁看主﹂といい、看坊に管理されるこれら道場を﹁看坊道場しとも称する。個人建立の﹁道場﹂又は君坊道場が道 場主の私有化を認められた場合、これを自庵︵道場︶と称する。 真宗道場の形態

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真宗道場の形態 四 近世に入り、看坊が自庵化するケ l スが多くみられるが、京都金宝寺所属の西竹屋町・油小路兼帯道場、 お よ び 紀伊栂村惣道場の二例につき、 両者の自庵化がもたらした種々の問題をみていきたい。 看坊から自庵への京都・紀伊の二例のうち、前者は寛永年間︵一六三八

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四 二 ︶ 、 後 者 は 安 永 年 間 ︵ 一 七 七 六 ︶ の こ となので、まず京都金宝寺兼帯道場についてのべよう。 金宝寺は京都市内の西竹屋町と油小路三条の二か所に兼帯道場を有していたが、 まず西竹屋町兼帯道場において 自庵化の問題が生じた。これについては﹃紫雲殿由縁記 L にその間の事情が記されているので、それによって経過 をみることにする 西竹屋町道場は順加という僧が君坊となって管理していた Q 順加は金宝寺の伴僧の友人ということで、ここの道 場をあずかっていた。ところが て二年来不審の行動があり、同行を語らって、道場を寺とし、 かつ自庵として 自分の所有にしようと企てた。そして本山役人の下問民部卿と八木長門にたのみ、道円・次郎兵衛・喜右衛門とい ぅ、かつて法義不審の罪で宗門追放になった人たちが応援して、 ついに順加は道場を白庵であると称した。そこで 金宝寺は寛永十五年︵一六三入︶三月十四日、本山に訴え そ の 処 置 を 願 っ た 。 本山では三月十八日と二十五日の 二回にわたる評議の結果、西竹屋町道場は順加の白庵ではなく、金宝寺の兼帯道場であることを確認した。 ところが同年五月になって、順加はふたたび下問・八木両氏とはかり、本当は白庵であるが、金宝寺が無理に兼 帯道場といっているのである、 と申し立てて、本山から明善寺という寺号を請けた。これを知った金宝寺は、早速 本山に訴え、審理の結果、下問・八木両氏と順加の内通の事情が判明し、 両氏は閉門を命ぜられた。順加の処分に

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ついては、道場から追放しては妻子もあることだし不便であるから穏便のはからいをせよ、 という門主のとりなし によって、本山へ詫証文を入れることによって一応この事件はおさまった ο 二年後、寛永十八年、順加は本山から ③ 木仏許可をうけたが、それに﹁山城国愛宕郡京二条西竹屋町明善寺順加﹂としるされているので、 ついに自庵化に 成功し、本山の直参末寺となったようである。 し か し 、 その聞のくわしい経請は﹃紫雲殿由縁一記﹄には語られてい

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φ ι 旬 、 h v ’ 喧 令 書 ︼ 、 宇/ φ J のちの油小路道場君坊の宗珍の事件をのベた中に、 ﹁ 順 加 ハ 一 両 輩 ノ 取 持 強 ク 、 時 勢 不 レ 及 一 一 是 非 ﹁ 定 而後代子孫ノ存念辱敷、寺永代ノ現埋ナレバ笑レンハ実尤、種々心力ヲツカへトモ其甲斐漸々、年頭報思講ノ馳走 分ニテ事納得ス、全財利ヲ者惜ノ思一一非ス、当時後代ノ思兼帯所其古由失スルコト歎シ﹂とあり、順加は金宝寺に 年頭と報思講の志金をおくることによってついに自庵とし、年来の目的を達することができたようである。 同じく金宝寺の油小路兼帯道場は宗珍という僧が管理していたが、宗珍も順加に加担して白庵化の意図があり、 ③ すでに寛永十七年二月に木仏寺号の許可を得て仏現寺と名乗っていた。しかし、寛、水十六年七月に順加事件が一応 落着したので、宗珍も表面は金宝寺に帰順の態を示した。ところが寛永十九年五月にいたって金宝寺下から離脱し 本山直参になろうとした。 おそらくこれは前年九月に順加が白庵化に成功したのに刺激されたためであろう。宗珍 は兄弟の者が本山役人下問大進に奉公していた縁をたどり、大進の世話で本山下附の品を御礼銀を出さず御免にな り自庵化をすすめていた Q そこで金宝寺は同年五月六日と七月二十一日の二回、本山に訴えた。その結果か、下問 大進は七月二十三日から閉門を命ぜられた。そしてこの事件は本泉寺・西覚寺・正光寺・勝久寺の四か寺が取扱う ことになり、審理をすすめた。閏九月十一日宗珍は証文を書いて非を詫びたが、仏現寺という寺号は許されて事件 は 落 着 し た 。 真宗道場の形態 二 五

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真宗道場の形態 一 一 六 以上が金宝寺の西竹屋町・油小路兼帯道場の自庵化をめぐる事件の概略であるが、これは金宝寺側の一方的記録 によるものであるから、実際には多少事実と相違する点があるかも知れない。 ただ、順加・宗珍の両人がかなり無 理をして白庵化を図ったことは容易に想像される。とにかく両道場共に自庵化に成功し、 かつ寺院となった G こうした道場の自庵化・寺院化は当時の風潮であった。それを﹃紫雲殿由縁記﹄にはつぎのように伝えている Q 寛 永 ト 成 リ 、 京 並 − 一 田 舎 − 一 至 ル 迄 、 辻 本 君 主 、 寺 号 ヲ 望 申 、 一 ハ 世 上 静 誰 ヨ リ 事 結 構 一 一 ナ リ 、 坊 主 分 モ 威 儀 ヲ 取リ繕ヒ、他宗寺院ノ出会、近郷近旦同居等有之ハ寺号ヲ名乗、 サレハ他宗門ノ僧徒弥軽蔑ス、道場坊/\ト 申ヲ嫌ヒ、寺号ヲ名乗リ度ト望、本山ニモ内徳ナレパ其礼物ヲ定免セラル\近年ノ始初碇ト寛永年ノ時世、 都 部 共 − 一 寺 号 望 申 、 : : : ︵ 中 略 ︶ : : 国 々 ニ テ 建 立 ハ 多 ク 其 所 ノ 郷 土 格 或 ハ 大 キ ナ ル 百 姓 一 一 テ 、 其家頼、下百 姓等辻本トナリ、或ハ庵主道場、寺号ヲ望申テ、立日ニ聞ク寺院トナレリ。 寛永における真宗寺院の増加を、単に右に掲げられた理由によってのみ把握するのは妥当ではない。 寛永九年九月に発せられた幕命による末寺帳の作製が 看坊の白庵化の大きな理由の つであったと考えられ る 一 た ん 末 寺 帳 に 登 載 さ れ る と ﹁ 本 末 之 規 式 、 不 レ 可 レ 乱 レ 之 ﹂ ということになるので、本山の直参化の動きが強 く な る 。 しかも寛永の末寺帳は不備の点が多くあり、 いずれ再調査される可能性が多分に予想されたので、寛永か 小 院 ・ 下 寺 、 背 帰 甚 多 、 ら正保・慶安年聞にかけて本末の争いが多く生じている。加うるに東西両本願寺の分派問題がからみ合って﹁凡、 @ 不 レ 可 − 一 弾 紀 こ と い う 様 相 を 現 出 し た 。 末寺帳の作製とともに、道場の寺院化、新寺建立を促進せしめた原因に宗門改がある。寛永十四、 五年の島原の

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乱 以 後 、 キリシタン禁制に伴う宗門改が各地に普及することになったが、寺請制による檀那寺の需要は、当然寺院 数の増加を要請する このようにして道場の寺院化、看坊の白庵化、新寺創設は促進せしめられることになったが、 それでは実際にそ れはどのような数字をたどって上昇していったかというに、これを適確に示す数字を挙げることはできないが、そ の推移の概数をとらえることはできる υ 天 文 年 間 ︵ 一 五 五 四 ︶ ︵ ﹃ 天 分 日 記 ﹂ ︶ 二 五

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か 寺 一 五 和 九 年 三 六 二 一 二 ︶ ︵ ﹁ 木 仏 の 留 ﹄ ︶ 七 四 五 か 寺 ︵ 一

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か 寺 ︶ 元 禄 七 年 ︵ 一 六 九 四 ︶ ︵ ﹁ 本 願 寺 通 記 ﹂ ︶ 八 一 二 五 九 か 寺 天文年間二五

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寺という数字は本願寺第十世証如の﹃天文日記﹄にあらわれる寺数であるが、この日記は本願寺 と直接交渉を持った寺名のみ記されているので、当時すでに寺号を称していた寺で脱落したものもあるが、それは そう大きな数字ではないと考えられる。元和九年の七四五か寺というのは本願寺で本仏寺号の許可をはじめた慶長 二 年 ︵ 一 五 九 七 ︶ か ら 一 万 和 九 年 ︵ 一 六 二 一 二 ︶ に 至 る 聞 の 集 計 で あ る が 、 ⑤ 込んで約一千か寺前後と推定される。元禄七年の八三五九か寺は守本願寺通紀﹄に記載された数字で信癌度は高い その間七か年分欠冊しているのでこの分を見 ものとみられる。寛永八年︵一六三一︶と元禄五年︵一六九二︶に新寺建立禁止令が出ているので、 元和末年の一千 か寺とこの元禄七年八千三百余か寺の数字を考え合わすとき、 しかも元禄七年の統計は西本願寺の末寺のみである から、寛永初年以来如何に急激に寺院が増加したかということを如実に示すものといえよう。こうして寺院は増加、 道場は減少ということになったが 両者の数について﹃本願寺通紀﹄の延享元年︵一七四四︶ の統計によると、本 山 掛 所 三 八 、 末 寺 ︵ 寺 号 を 有 す る も の ︶ 七

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九 一 二 、 道 場 八 一

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となっている。これは築地御坊の配下十コ一州を除いた 真宗道場の形態 二 七

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真宗道場の形態 二 八 数字であるが、これによって当時の寺院と道場の比率を知ることができる。 なおここで注意しなければならないのは、道場の寺院化がすなわち道場の自庵化を意味するのではないというこ とである。惣道場としての形のまま寺号をもらったものもかなりある。 たとえば﹃木仏之留﹄に次のような記録が あ る 。 慶 釈 長 専 准 七 想 如 年 寺

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寅 壬 門 四 徒 月 豊 廿 後 入 国 日 戸 次 惣 道 場 妙 正 寺 常 住 物 右之木仏者専想寺門徒道場依望令免候者也取次頼廉 慶 長 七 年 三 六

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二︶に豊後の戸次惣道場に木仏寺号を許可し、 妙正寺という寺号をとなえたが 寺は戸次惣の 共有であって、住僧は看坊であり、 まだ自庵とはなっておらない こうした例は ﹃ 木 仏 之 留 L 中に他にも見られ る。したがって寺院化即自庵化とはいえないが、寺院化と同時に自庵化された数字

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統計的数をあげることは不可 能であるが!これが非常に多かったことも否定できない。とにかく、寛永年間における道場の寺院化の急増は、君 坊の自庵化に大いに影響したことは容易に想像される。 このような寺院化・自庵化の時代相を背景に、西竹屋町・油小路両道場の自庵化が遂行されたもので、金宝寺が いかにこれを阻止しようとしても、時代の流れには抗し得べくもなかったであろう。

@ 金宝寺兼帯道場とは全く対照的な行き方で看坊から自庵への道をたどったのが紀伊根村惣道場である G

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この道場はもと大北というところにあり、大北道場と呼ばれ、 永 正 年 間 ︵ 一 五

O

同 ︶ に円海という僧によって開 かれたと伝えられる u すなわち、所蔵の六字名号裏書に﹁当寺往古ぷ開基御名号と奉一一尊敬一御掛地裏書﹂とし、 六字尊号実如上人真翰 永正元甲子年春、紀州海士郡桝邑大北道場本尊−一頂裁、願主釈円海 と し る さ れ て い る 。 そ の 後 、 享 保 八 年 ︵ 一 七 三 一 一 ︶ に現在の中村に移ったといわれる ω 元 禄 四 年 ︵ 一 六 九 一 ︶ に 本 山 から木仏許可を得たが、その木仏札には左のようにしるされていた ο 釈 寂 如 ︵ 御 判 ︶ 一 元 禄 凹 稔 辛 未 二 月 廿 日 木仏尊像 輿正寺門徒真光寺下紀州海士郡 椴村惣道場 善福寺 木仏と寺号は同時に許されるのが普通であるから、 このときはじめて善福寺という寺号を名乗ったとみられる が、寺院化されたのちも栂村真宗門徒の惣の所有であった Q したがって寺は君坊によって管理されていた。安永年 間︵一七七六︶に了円という僧が善福寺の看坊となって管理していたが、 彼の時代に白庵化が行われた。その経緯 は同寺所蔵の﹃当寺自庵来由御影等頂戴井年中勤行之式惣控 L という記録にくわしくしるされているので、 こ れ に よって自庵化の有様をみていこう。 根村惣道場善福寺の看坊了円は安永五年︵一七七六︶ た。そのとき門徒の平兵衛と角重郎の二人が発起して白庵とすることになった。 の春から病気になり 中夏のころには遂に重態におちいっ 其比・同人物語ニ、当住此度者極大病、定而平生之御覚悟浄土の出テ立と昼夜称名御相続察入、兼而乍一一小庵一 真 宗 道 場 の 形 態 二 九

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真宗道場の形態

門徒中相談之上、自庵ユ可供と存処、時不レ至、是迄無一一与議一打過候、若し其佳寸志も不レ供命終しかば、門徒 之残念幾程ぞ、今般右之趣伺ひ、門徒中相談之上、自庵ニ供へば、幾久御教化を蒙りし報思の一方、御病気保 養之助にもや いさ是より道場へ参詣し、直に当住に伺可レ申と、中夏下旬第六日四ツ時、 両人老僧江対顔有 て右物語候処 住僧了円の日ごろの熱心な教化の御思に報い占うとの念より自庵化を思いたったもので、平兵衛・角重郎の両人 は了円の許諾を得て、早速門徒中に相談したところ、反対するもの一人もなく、 ただちに自庵の手続をとることに なった。そこで鷺森御坊役僧西光寺に願書の下書を作ってもらい、門徒中が捺印し、上寺西光寺の奥印そ得て、本 山および寺社奉行所へ願いでた。その願書はつぎのようなものであった。 一 当 村 善 福 寺 者 、 往 古 ぷ 看 坊 一 一 御 座 候 処 、 当 住 了 円 井 新 発 志 了 識 、 如 法 ニ 寺 役 被 一 一 相 勤 ﹁ 檀 中 一 統 − 一 帰 依 仕 候 付 、 此 度 当 住 へ 永 代 自 庵 一 一 譲 リ 申 度 奉 ニ 願 上 一 候 、 右 願 之 通 被 レ 為 ニ 仰 付 一 被 レ 下 候 ハ ハ 難 レ 有 奉 レ 存 候 、 依 レ 之 別 紙 印 形 帳 差 上 申 候 、 尤 寺 社 御 奉 行 所 ヘ モ 相 達 申 候 、 以 上 、 安永五年申六月 海土郡桝里村善福寺門徒 鷺森御坊御輪番所 惣 代 源 太 夫 ︵ 印 ︶ 同伊兵衛︵印︶ 右の願書に添附された惣門徒の寺譲状は左記の通りである。これは二通作製して本願寺と興正寺へ一通づっ、 ま た写しを鷺森御坊と寺社奉行所へ提出した。 定

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当 村 善 福 寺 者 、 数 年 看 坊 ニ 而 致 ニ 相 続 一 来 候 処 、 当 住 了 円 弁 実 子 了 識 、 寺 役 如 法 − 一 被 ニ 相 勤 ﹁ 惣 檀 中 一 統 ニ 致 一 一 帰 依 一 候 − 一 付 、 此 度 鷺 森 御 坊 井 寺 社 御 役 所 江 檀 中 惣 代 ヲ 以 テ 自 庵 譲 之 願 書 指 上 申 候 、 依 レ 之 我 々 一 一 統 ニ 致 一 一 人 別 印 形 一 当 住 江 永 代 自 庵 に 譲 申 処 実 正 也 、 為 一 一 後 証 一 依 而 如 レ 件 安永五年申六月 由右門・六兵衛・彦太夫・新三郎・善七・佐門・六蔵・門右門・源太夫・伝古・久七・半十郎・長太夫・伝 蔵・宇兵衛 合七十一軒 この白庵の願書を提出して間もなく六月十日了円はついに死去したので、後住了識は継職願を出した。同年十月 四日に公儀において白庵と継職の両願が聞届けられ、同月二十三日に本山の許可も下りた。公儀の自庵聞届状はつ ぎ の よ う で あ っ た 。 海土郡桝里村善福寺儀、是迄看坊ニテ有之候処、当住了円井新発意了識、 旦中一等︵統︶帰依−一付、此度永代 自 庵 譲 リ 申 度 旨 、 門徒惣代弁村役人願書・旦中連印帳一冊、 且 又 了 円 儀 一 一 譲 受 申 度 ト ノ 願 書 御 指 報 令 承 知 候 、 右 願 之 通 致 候 様 夫 々 御 申 聞 可 − 一 相 成 一 候 、 以 上 、 十月四日 井口源次右衛門 池永五郎右衛門様 青木三左衛門様

真宗道場の形態

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真宗道場の形態 自庵の願いが認められたので、御本尊の裏書を書き替えなければならない。ところがこれにはかなり多額の冥加 金が必要なので急に書き替えの手続をすることができない。そこで翌年の秋まで手続を延期してもらったが、 そ れ でもまだ金の調達ができず、翌々年の春、安永一七年三月になってようやく金の都合がついた。住職了識は長谷村最 勝寺の付添いで、門徒の平三郎・重郎兵衛・一二郎左衛門の一二人をつれ、御影を奉じて上京した。そしてようやく御 本尊御一泉の書き替えやその他の手続万端をすますことができた。書き替え後の裏書は、 たとえば前掲の木仏裏書は つ ぎ の よ う に 改 め ら れ た 。 釈 寂 如 ︵ 御 判 ︶ 一 元 禄 凹 稔 辛 末 二 月 廿 日 木仏尊像 椴 興 村消

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惣 寺 道 門

善~ 一日 τ十

回加事下

主主加紀

釈 一 一 州 了 海 識 士 郡 看坊時代に寂如から下附された木仏裏書の宛名は楓村惣道場となっていた。ところが今度白庵となったので、法 如の染筆で﹁惣道場﹂の三字を消して﹁之物﹂と﹁願主釈了識 L との住職名を書き加えた ω こうして木仏寺号をは じめとして、太子・七高僧・信暁院御影の裏書をそれぞれ書き改めてもらった。 童日き替え等白庵の手続の一切をすませたので、五月二日門徒中の者を招待して振舞った。この白庖の願書提出か ① ら慶讃にいたる聞に要した費用はくわしく記録に書きとめられているが、これを集計すると左の通りである。 一願書指出しのとき本山・輪番所・上寺・役僧へ付属、 銀四六匁二分五厘 一白庵・御影御裏申替の冥加・御礼金等、 銀一貫七三六匁九分五厘

参照

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