道緯における人間観の展開
矢
田
了
章
は じ め に 中国に導入された初期の浄土教は、 慧遠(一三ニ四│四一六﹀等によって代表される が、それは般若空観の思想とその具体的実践道として、二世紀後半の翻訳である﹃般舟三昧艦﹄を原拠とした般舟三 昧による浄土教が中心となっていね。そうした中で、五世紀になると、﹃無量寿経﹄、﹃観無量寿経﹄等が相次いで 翻訳され、浄土教に新たな展開をもたらした。﹃無量寿経﹄、﹃観無量経﹄等に説く称名念仏による浄土教、それを 大乗仏教の中で位置づけしたのが曇驚(四七六│五四二?﹀であった。曇驚によって開顕された浄土教とは、龍樹の 羅 什 ( 三 四 四 ? l 四 一 コ 万 ・ ) 、 説く大乗空観の必然的展開としての、 浄土教であったといえる。 ﹃ 無 量 寿 経 ﹄ 、 ﹃観無量寿経﹄を主とした阿弥陀仏の浄土に往生しようとする この曇驚によって浄土教に帰入したのが道縛(五六二l六四五)である。当初浬蝶の学僧として活躍しながら、当 時学解よりも釈尊の仏道実践にこそ注力すべきと説き活動していた慧噴(五三五l六O
七)の仏教受容姿勢に共鳴し てその教団に参加し向。四十八歳の崎、曇驚所縁の石壁玄忠寺に詣でて曇驚を讃えた碑文を読み、浄土教に帰依する こととなった。即ち、面授ではないものの曇驚を師としての浄土教帰依である。その著﹃安楽集﹄は、後の迦才から 道縛における人間観の展開(矢田) - 1ーは﹁近代に締禅師有り。安楽集一巻を撰す。広く衆経を引きて略して道理を申すと離も、その文義参雑にして章品混 潜たり。後の之を読む者、亦鴎賭して未だ決せず﹂と批判されているように、教学的には問題点が指摘されるものの、 視点を変えれば道縛の仏教に対する実践的な姿勢がこの書の至る所に見受けられるのであり、この点に気づかなけれ ば、﹃安楽集﹄に対する浄土教理史上の正当な評価はできないであろう。 さて、この小論では、こうした道緯の教学において人間観がどのように展開しているのかを考察するとともに、道 縛の人間観が浄土教理史において如何なる役割を果たしたのかを論ずるものである。
道緯における教法表現
親鷲以前における浄土教の教法は、主として衆生が阿弥陀仏の浄土を願生し、行業を修して浄土往生を遂げるとい う向上的方向性をとって表現されるが、同時に真如より形を顕して衆生を摂取しようとする向下的方向性をとって表 現されるものとの二つの表現形態を認めるのである。しかし、それらは明確に区分されて表現されているのではなく、 両者が融合・一体化されて表現されることが多い。道縛の﹃安楽集﹄においても、この様な浄土教における教法表現 の 傾 向 を 受 け 継 い で い る 。 いま、道縛における人間観を論ずるに際して、その人間観の表現がどのような教法において表明されているかを明 らかにする必要がある。そこで、まず、向上的方向性を主とする表現の教法について述べたい。 ﹃安楽集﹄は﹃観無量寿経﹄の注釈書であることは道縛自らが述べるとおりであるが、その冒頭で、 経﹄注釈の基本的立場を﹁約時被機﹂として明かしている。具体的には次のようである。 教輿の所由を明かして、時に約し機に被らしめて勧めて浄土に帰せしむとは、若し教、時機に赴けば、修し易 く悟り易し。若し機と教と時と帯けば、修し難く入り難し。是の故に﹃正法念経﹄に云はく。﹁行者一心に道を ﹃ 観 無 量 寿 - 2ー 龍谷大学論集求むる時、常に当に時と方便とを観察すベし。若し時を得ず、方便無くは、是れを名づけて失と為し利と名づけ ず。何となれば、湿へる木を捜りて以て火を求めんに、火得べからず、時に非ざるが故なり。若し乾きたる薪を 折りて以て水を覚めんに、水得べからず、智無きが故なり﹂と。是の故に﹃大集月蔵経﹄に云はく、﹁仏滅度の 後の第一の五百年には、我が諸の弟子、慧を学ぶこと堅固なることを得ん。第二の五百年には、定を学ぶこと堅 固なることを得ん。第三の五百年には、多聞・読請を学ぶこと堅固なることを得ん。第四の五百年には、塔寺を 造立し福を修し機悔すること堅固なることを得ん。第五の五百年には、白法隠滞して多く諦訟あらん。徴しき善 ( 真 聖 全 一
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三七八) 法有りて堅固なることを得ん﹂と。 道縛は教法が説き明かされる拠り処について、時と機根に着目すべきと言明し、教法がその時代の在り方とそこに 生きる人間の資質に合致すれば、その教法は受け入れられ真に人々を倍りへと導くものとなると明かしている。そし て、﹃正法念経﹄(﹃坐禅三味経﹄と推定されている﹀を引用して、このことを経文により立証する。さらに、﹃大 集経﹄を取意して五箇の五百年説を示し、その時代に即応した教法が選び取られるべきであることを明らかにする。 道縛が五箇五百年説によって明かそうとしたことは、現在が末法の世であると言うことは勿論であるが、時と機根に 相応してこそ、はじめて衆生救済の教法となりうると領解したからであった。こうした時代とそこに生きる機根に合 致した教法の要請は、その機根の往生、成仏してゆく道の明確化を引き出すこととなるため、その教法は基本的には 向上的方向性をとって表現されるのである。それは、道縛が実践者の視点に立って教法を表現したと言うことでもあ る。この場合、浄土教を実践する者の視点からすれば、仏道実践を始めるにあたっては、自己自身そのものよりも自 己を取り巻く時代、環境がまず意識されるのが一般的であるが、道悼の場合それは末法であった。浄土教を実践し始 めた者にとって末法内存在として自己が認識されるとき、行業として﹁福を修し機悔すること﹂の提示は了解できる ことであろう。浄土教の実践を始めたばかりの者にとっては自らを律し慨悔し修善に赴くことは、世俗の道理と合致 道紳における人間観の展開(矢田〉 - 3ーし、それに従おうとすることは浄土教実践者においては自然の流れである。向上的教法表現は、こうした浄土往生行 実践者にとって、実践すべき道筋を明確に説示するという性格を、基本的には持つのである。 道縛はこの末法について述べた後、続いて、 若し衆典を披き尋ねんと欲せば勧る処弥々多し。遂に以て真言を採り集めて助けて往益を修せしむ。何となれ ば、前に生ずる者は後を導き、後に去かん者は前を訪ひ、連続無窮にして願はくは休止せざらしめんと欲す。無 辺の生死海を尽さんが為の故なり。:::﹃大集経﹄に云はく、﹁説法の者に於ては医王の想を作し、抜苦の想を 作せ。説く所の法には甘露の想を作し、醍醐の想を作せ。其れ法を聴く者は増長勝解の想を作し、愈病の想を作 せ 。 若 し 能 く 是 の 如 く 説 く 者 、 聴 く 者 は 、 皆 仏 法 を 紹 隆 す る に 堪 へ た り 。 常 に 仏 前 に 生 ず 。 ﹂ ( 真 聖 全 一 ー 一 一 一 七 加 ﹀ と述べている。時と機根に相応する教法に対して、その教法をすでに実践している者は、実践し始めたばかりの者を 教え導き、実践し始めたばかりの者はより深く実践している者を訪れて道を請うべきであると述ベ、さらに法を説く ものは医師が抱く思い、苦悩を解決しようとする思いをもつべきであり、法を聴く者は病気を治そうという思いをも つべきであると語っている。これは向上的方向性をとって表現された教法に対する浄土実践者のあり方を表現したも のと位置づけられる。道縛が約時被機において末法思想を取り上げるのは、末法内存在には行業実践力のないことを 示して、称名念仏行を選び取るべきことを明かすばかりでなく、向上的方向性を取って表現される浄土の教法に対し て、どのように対処すべきであるかを明かそうとしたからであると言える。 ﹃安楽集﹄における教法表現の中心は向上的方向性をとって表されるが、それは﹃観無量寿経﹄の宗旨を明 かすところでも確認できる。 さ て 、 今此の﹃観経﹄は観仏三昧を以て宗と為す。 と示しながら、その次下では、 ( 真 聖 全 一 │ 三 八 コ - 4ー 組谷大学論集
一切の諸障是の人を見ず。所詣の処に随ひて能く遮 若し能く菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪神、 障すること無き也。何が故ぞ能く爾るとならば、此の念仏三昧は即ち是れ一切の三味の中の王なるが故也。 M H ( 真 聖 全 一 │ 三 八 二 ﹀ と 述 べ る よ う に 、 ﹃観無量寿経﹄での宗は観仏三昧としながら、道縛においては念仏三昧にこそ浄土往生行としての 意義を認めるのであるが、このように衆生の往生行について問題にすることは、それが基本的には向上的方向性をと って表現される教法であることを意味する。 ﹃安楽集﹄第三大門では、こうした浄土往生行としての念仏行こそが時機相応であることを、第十八願と﹃観無量 寿経﹄下下品の文を合楳して次のように表している。 ﹁若し衆生有りて、縦令一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続して我が名字を称せ んに、若し生ぜずは正覚を取らじ﹂と。:::縦使一形悪を造れども、但能く意を繋けて専精に常に能く念仏すれ M H ( 真 聖 全 一 │ 四 一
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大 経 に 云 は く 、 ば 一切の諸障自然に消除して、定んで往生を得。何ぞ思量せずして都て去く心無きゃ。 ﹁ ﹃ 大 経 ﹄ に 云 は く ﹂ と第十八願を引用するに際して、 第十八願の﹁至心信楽欲生我国乃至十念﹂ をそっくり﹃観無 量寿経﹄下下品取意の文と入れ替えている。本来、第十八願では﹁十方衆生が心をこめて阿弥陀仏を信じ、浄土に生 まれたいと願ってその心を相続するなら、必ず浄土に迎えとる﹂と盟国われている。即ち、この第十八願は、衆生を救 済しようとする阿弥陀仏のはたらきに、衆生はうなずき、我が身をゆだねて信ずるばかりで救われることを明かして いるのである。このため、第十八願は基本的には教法の向下的表現であると言える。これに対してこの﹃安楽集﹄の 文ではご生涯悪を造り続けてきた衆生であっても、命終の時に浄土を願生しその心を相続しつつ称名するなら、必 ず往生させる﹂となっている。第十八願文とそれを改変したこの﹃安楽集﹄の文との相違点は次の二点に集約できる。 ﹃安楽集﹄では一生造悪者と機根を具体 ︿ 1 ﹀第十八願では対機がすべての衆生ハ十方衆生﹀であるのに対して、 道縛における人間観の展開(矢田〉 - 5ー的に限定して示す。
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﹀第十八願では機根の行業として阿弥陀仏を信じ願生心を相続することのみを説くのに対して、 はその願生心相続における称名念仏行を説く。 ﹃ 安 楽 集 ﹄ で このことから、道縛がここで何を明かそうとしていたかが理解できるであろう。即ち、向下的表現の第十八願が道梓 においての実践行の根底をなしており、この第十八願と浄土願生心の相続及びその具体的行為としての称名念仏との 融合・一体化に浄土教の真髄をみたと言うことである。換言すれば、向上的表現の称名念仏行と向下的表現の第十八 願における浄土願生心相続との融合・一体化をはかったということである。 末 法 内 存 在 と し て の 人 間 中国で末法を最初に自覚したのは、文献上では慧思(五一五│五七七﹀であるとされているが、この慧思をはじめ 当時の聖道諸師のほとんどは、末法を仏法が衰え悪時が盛行する時代であるから、この末法時を克服するため自ら信 ずる教法を弘通しなければならないと、仏教界に対する警鐘と受け取ってい刷。即ち、末法を自己をとりまく外部的 な環境悪として把握し、その外部的な環境悪の影響の中で生きざるを得ない自己をそこにみ、それ故に自らの行業実 践意識を高揚させるのである。 ところで、道締は先述した﹃大集経﹄五箇五百年説を引用して、次のように述べている。 今の時の衆生を計るに、即ち仏世を去りたまひて後の第四の五百年に当れり。正しく是れ機悔し福を修し、仏 の名号を称すべき時の者なり。若し一念阿弥陀仏を称すれば、即ち能く八十億劫の生死の罪を除却す。 品 開 ( 真 聖 全 一 │ 三 七 八 ) 一 念 既 に 爾なり。況や常念を修せんをや。即ち是れ恒に機悔する人也。 末法にはいった今時においては、機悔修福すべきであり称名行を実践すべきと説くのであるが、その次下に称名する - 6ー 龍谷大学論集者を機悔する人と述べることからすれば、末法時においては称名念仏こそが主たる行業であると考えていたと言える。 このことは、この文に続いて、 又若し聖を去ること近ければ、即ち前の者定を修し慧を修するは是れ其の正学なり。後の者は是れ兼なり。も し聖を去ること己に遠ければ、則ち後の者名を称するは是れ正にして、前の者は是れ兼なり。 M 明 ( 真 聖 全 一 │ 三 七 八 J 三 七 九 ) と述べて、末法時に最もふさわしい行業は称名念仏であることを再度強調する。その理由として、 何の意ぞ然るとならば、定に衆生、聖を去ること遥遠にして、機解浮浅暗鈍なるに由るが故也。 M W ( 真 聖 全 一 1 三七八│三七九) と、末法時の衆生は﹁聖を去ること遥遠﹂であり、 しかも﹁機解浮浅暗鈍なる﹂であることを挙げている。ここに道 縛の末法思想の受容態度が見える。末法を外部的な環境悪として捉えつつ、そこに機根の低下が引き起こされると考 えていたことが解る。さらに、﹃大集経﹄の原文では五箇五百年説のうち第四の五百年について、﹁次の五百年には 伺 我が法中において多く塔寺を造り、住むこと堅固を得ん﹂とあるのを、道縛の五箇五百年説では﹁第四の五百年には、 塔寺を造立し福を修し憤悔すること堅固なることを得ん﹂と﹁修福慨悔﹂を付加している。﹁修福﹂は﹃大集経﹄の 文意と特段の差異を認めないが、﹁機悔﹂は原典にその文は無く道縛が付け加えたものであろう。即ち、道縛の第四 の五百年説は﹃大集経﹄のそれと比較すると、道縛が末法の到来をより深刻に受けとめていたと言えるであろう。し かし、このような自己認識はあくまで外部的条件によって生じたものであり、後の親驚のように正法、像法時まで通 ずる人間の本質についての見解ではないことは言うまでもない。 -3 -
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4 1 J I 守安楽集﹄の末法説一示で注目すべき点がある。それはこの末法の説示が、 ﹃安楽集﹄冒頭の﹁約時被機﹂を 明かすために表されたものであると言うことである。道縛の関心は﹁今﹂を正確に深く認識すべきことを明かすこと 道縛における人間観の展開(矢田〉 - 7ーにあり、結果的にはそれが末法であったと言うことである。この約時被機を結ぶにあたって、 若し斯に於いて進趣せんと欲せば、勝果階ひがたし。唯浄土の一門のみ有りて、情を以て惜ひて趣入すベし。 若し衆典を披き尋ねんと欲せば、勧むる処弥々多し。遂に以て真言を採り集めて助けて往益を修せしむ。何とな れば、前に生ずる者は後を導き、後に去かん者は前を訪ひ、連続無窮にして願はくは休止せざらしめんと欲す。 (真聖全│三七割 無辺の生死海を尽さんが為の故なり。 と述べて、末法の今を救いうるのは浄土教のみであり、このことに深く気づいた者は後輩を導き、聞法しはじめた者 は先輩を訪れて、浄土の教法が連続無窮に活動されるようにとっとめるべきとし、そこに阿弥陀仏の心があることに まで言及しているのである。時を感じそれが末法と意識され、自己が省みられ、自らに相応しい称名念仏行を選択し て周辺にその法輸を広げてゆくことを、道縛はここで述べたかったのである。 四
聖者と凡夫
﹁弥陀の浄国は位上下を該ね凡聖通じて往く 道綿は当時の人聞を末法内存在と認識するが、第一大門第八では 市﹂と弥陀の浄土は凡夫と聖者に通往する土であることを述べ、末法内存在としての機類を凡夫と聖者に区分してい る。このような区分はすでに曇驚にみられることであるが、凡夫とは、 凡夫は智浅くして多く相に依りて求むるに、決して往生を得。然るに相善はカ徴なるを以て、但相土に生じて ( 真 聖 全 一 ー ー 一 一 一 八 ム び 唯 報 化 の 仏 を 観 る 。 と述べて、智慧が浅いために有相の浄土に往生するものであり、その行業実践力は微かであり高くは評価できないと 明かしている。この凡夫について、 自ずから中・下之輩有り。未だ相を破すること能はざれども、要らず信仏の因縁に依りて浄土に生ぜんと求む。 8 -龍谷大学論集彼の国に至ると難も、還りて相土に居す。 MH ( 真 聖 全 一
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三 九 四 ﹀ とあることからすれば、三輩中の中輩者・下輩者である。また、聖者とは、 若し無相離念を体と為すと知りて、而かも縁の中に往くことを求むる者は、多くは上輩の生なる也。 M W ︿ 真 聖 全 一 ! 三 八 七 ﹀ と無相を修すことのできる上輩の者としている。そして、 今之行者楢素を問ふこと無く、ω
︿ 真 聖 全 一 │ 三 八 七 J 三 八 八 ) 多く上輩の生に落在する也。 但能く生・無生を知りてこ諦に違せざる者は、 と説くように、当時の仏教者においても、この上輩者が存在しうると認めているのである。具体的には、寵樹、天親 M H 等が該当すると言う。しかし、 ﹃安楽集﹄ではこのような聖者についての記述はごく僅かであり、 しかもそれは凡夫 を説明する上で補助的に示す傾向が強く、道縛の関心は有相を修す凡夫に向けられているのである。五
三界流転の凡夫
道縛の凡夫についての見解は、主として第三大門第三門においてみられる。そこでは、 ま ず 、 無始世劫より己来、此の三界・五道に処して、善悪二業に乗じて苦楽の両報を受け、輪廻無窮にして生を受くω
る こ と 無 数 な る : : : ( 真 聖 全 一 1 l 四O
五 ) と把握している。この第三大門は五に分かれているが、その第一において無始より己来輪回無窮にして無数の身を受 ﹃浬繋経﹄を引用して説示する。第二において﹃浬操経﹄を引用して、 同 判 ( 真 聖 全 一 目 │ 四O
八 ) け る こ と を 述 べ 、 ﹃ 正 法 念 経 ﹄ 、 ﹃ 智 度 論 ﹄ 、 一劫の中に積むところの身骨毘富羅山の如し。 等と、三界流転の受身が無数であることを示し、 道鮮における人間観の展開(矢田〉 9-是の如く遠劫より己来、徒に生死を受くること今日に至りて、猶凡夫之身と作る。何ぞ曽って思量し傷歎して 伺 ( 真 聖 全 一 │ 四
O
八) 己 ま ざ ら ん や 。 と述べて、流転輪回する凡夫の身を深く内省し傷歎するのである。さらに第四において、凡夫は無始巳来三界を流転 輪回しているが、その三界の中でどこに最も多く生まれるかと設問して、 流転すと言ふも難も、然も三悪道の中に於いて身を受くること偏に多し。 と答え、これを証明するため、 ( 真 聖 全 一 │ 四O
M
﹀ 衆生は等しく是れ流転して恒に三悪道を常の家と為す。人天には暫く来りて即ち去る。名づけて客舎と為すが 伺 ハ 真 聖 全 一 │ 四O
九 ) 故 な り 。 という﹃五苦章句経﹄取意の文を引用している。これによると、衆生が流転輪回するのは三界の中でも特に三悪道に おいてであり、それは丁度三悪道を日常の住み家としているようなものであって、たとえ人・天に生まれるようなこ とがあっても、そこには居着かずすぐ去ってしまうので、この人・天はしばらく滞在する宿屋のようなものであると 述べている。三界とは欲界、色界、無色界であり、この中欲界は最も劣った境界である。欲界には地獄、餓鬼、畜生、 修羅、人間、天人の六があり、この中で最も劣る境界が地獄、餓鬼、畜生の三悪道である。今、道縛は三界の中で最 も劣る欲界、その欲界の中でも最低の地獄、餓鬼、畜生の三悪道を常の住み家としていると言うのである。また、第 十二大門の総結勧信において、 阿難復仏に白して言さく、世尊、世間の衆生若し是の如き正念解脱有らば、一切の地獄・餓鬼・畜生の三悪道 無かるべき也。仏、阿難に告げたまはく、世間の衆生解脱を得ず。何を以ての故に一切衆生は皆虚多く実少なき に由りて、一として正念なし。是の因縁を以ての故に地獄の者は多く、解脱の者は少し。響へば人有りて、自ら の父母及び師僧に於て、外には孝順を現じ内には不孝を懐くが如く、外には精進を現じ内には不実を懐く。是の -10ー 龍谷大学論集如き悪人、報未だ至らずと難も、三塗遠からず、正念有ること無し、解脱を得ず。 という﹃十往生経﹄を引用するのであるが、これによれば、凡夫は三悪道の中でも特に最低の地獄的存在であると受 ︿ 真 聖 全 一 1 四 三 九 ﹀ け取っていると言える。 道縛は凡夫を三悪道的存在、特に地獄的存在として把握するのであるが、このような造悪的存在としての凡夫のあ り 方 に つ い て 、 若し衆生有りて、縦令一生悪を造れども:::(真聖全一│四一仰 と か 、 縦使一形悪を造れども:::︿真聖全了四一併 ま た 、 ( 真 聖 全 一 1 四
O
匂 ) 衆生一形より己来、或いは百年、或いは十年、乃至今日まで、悪として造らざるはなし。 と明かすように、この世に生を受けて己来悪を造り続けている存在と表現するが、凡夫としてのあり方は、この現生 の み の こ と で お さ ま ら ず 、 と か 、 無始劫よりこのかた此に在りて、輪廻無窮にして身を受くること無数なる:::(真聖全一│四O
匂 ) 一切衆生噴大劫よりこのかた、備に有漏の業を造りて三界に繋属せり。 さ ら に 、 無始劫よりこのかた六道に輪廻して無際なりと云ふと難も、未だ知らず、 ( 真 聖 全 丁 目0
伊
流 転 と 言 ふ 。 等と述べるように、無始己来のこととしているのである。 M W ( 真 聖 全 一 │ 三 九 九 ) 一劫之中に幾ばくの身数を受くるを 道縛における人間観の展開(矢田〉 -11ー末法という時の認識が、往生の機根に聖者と凡夫の二種の区別を明確化し、凡夫を三悪道的存在、さらに地獄的存 在と把握して、ついに凡夫としての存在は無始己来のことであったとの自覚に到達した。こうした﹃安楽集﹄にみら れる凡夫の自覚深化は、基本的には滞土往生、成仏を目指す向上的教法表現において形成されたものと言えるが、し かしそれが無始巳来のこと、即ち凡夫の普遍的存在性の自覚という点に関しては、阿弥陀仏の無量性と、それを前提 とした衆生の有量性の認識がなければ成立しない事象であって、道緯における人間観は向上的表現の教法と向下的表 現の教法との融合において形成されていると言えるであろう。 ....L. /、 凡 夫 に お け る 善 と 悪 道縛は凡夫を三悪道的存在、地獄的存在として、換言すれば造悪的存在として把握するが、第三大門第三門で、凡 夫が無始己来輪回無窮の存在であることを明かして、﹃正法念経﹄を取意し、 凡そ人此の百千生を経て、楽に着し放逸にして道を修せず。往福ようやく巳り尽き、還りて三塗に堕して衆苦 柚 刊 ( 真 聖 全 一 │ 四
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八) を 受 く る こ と を 覚 ら ず 。 と、次いで﹃浬繋経﹄取意の文を、 夫れ放逸は是れ衆悪之本なり。不放逸は乃ち是れ衆善之源なり。日月光の諸明の中に最なるが如し。不放逸の 法も亦復是の如し。諸の善法に於いては最と為し-上と為す。亦須弥山王の諸山の中に於いて最と為し上と為すが 如し。不放逸の法も亦復是の如し。諸の善法の中に於いて最と為し上と為す。何を以ての故に。 伺 ( 真 聖 全 一 │ 四O
八 ﹀ 一 切 の 悪 法 は 猶 し 放 逸 よ り 生 ず 。 一切の善法は不放逸を本と為せばなり。 と示している。これによると、放逸が悪の根本となりそれによって輪回するのであり、その反対に不放逸であれば善 であると述べて、不放逸の実修を勧めている。即ち、凡夫の放逸または不放逸な身心の状態によって悪または善とな - 12ー 飽谷大学論集ると明かすのである。このことは凡夫を造罪的存在として捉えながら、不放逸の状態を保持することによって普とな る可能性を見出すのである。また、第九大門において、﹃浄度菩薩経﹄を引き、次のように示している。 人世聞に生じて凡そ一日一夜を経るに、八億四千万の念有り。一念悪を起せば一悪身を受け、十念悪を念へば 十生の悪身を得、百念悪を念へば一百の悪身を受く。一衆生の一形之中を計るに、百年悪を念へば悪即ち三千国 土に遍満して其の悪身を受く。悪法既に爾り。善法も亦然なり。一念善を起せば一善身を受け、百念善を念へば 一百の善身を受く。一衆生の一形之中を計るに、百年善を念へば、三千国土に善身亦満つ。若し十年・五年阿弥 陀仏を念じ或いは多年に至ることを得れば、後に無量寿国に生れ、即ち浄土の法身を受くること恒沙無尽にして 帥 開 ( 真 聖 全 一 │ 四 三 四 ) 不 可 思 議 な り 。 放逸、不放逸はそれぞれ悪念、善念にあたると言える。悪念を発すから悪身を受けるのであり、若し善念を発せば善 身を受けるのである。このように、道縛では凡夫に善悪二つが存在しうる可能性を認めるのであるが、それは念とい う心の状態によって定まると考えていたと言えるであろう。 道縛では、凡夫に悪の面のみではなく善の一面が存在しうると考えていたが、これについては第二大門の別時意を 料簡するところで明確に示している。摂論学派は﹃観無量寿経﹄の十念念仏を別時意だとするが、この主張の錯誤を ﹃ 浬 繋 経 ﹄ を 引 用 し て 述 べ て い る 。 若し人過去に巳に曽て半恒河沙の諸仏を供養し、復発心を経て市して能く悪世の中に於て大乗の経教を説くを 聞けば、但能く詩らざるのみ、未だ余の功有らず。若し一恒河沙の諸仏を供養することを経て及び発心を経て、
ω
ハ 真 聖 全 一 │ 一 一 一 九 八 ) 指摘し、十念念仏には過去の業因があることを、 然る後に大乗の経教を聞けば、直ちに諒らざるのみにあらず、復愛楽を加ふ。 過去世において多仏に出遇い多くの善業を積習した困により、今生で十念念仏しうると言うのであるが、ここに十念 念仏に出遇い得た凡夫に過去世の善業を認めるのである。こうした凡夫の放逸、不放逸、善と悪の説示は、基本的に 道縛における人間観の展開(矢田〉 - 13ーは向上的方向性をとる教法を根拠としての表現であると言える。
七
凡 夫 に お け る 悪 の 超 克 ﹃安楽集﹄では、先の善と悪に関して、第二大門で﹃十方随願往生経﹄を引用して、 帥 明 ( 真 聖 全 一 │ 三 九 七 ) 一切衆生、濁乱のものは多く、正念のものは少なし。 と示し、第三大門では、 悪道の身多し。何が故ぞ此の如しとならば、但悪法は起し易く、善心は生じ難きが故也。 帥 脚 ( 真 聖 全 一l
四O
九 ) ま た 第 九 大 門 で は 、 此の裟婆世界に在りては苦楽二報有りと睡も、恒に以て楽は少なく苦は多し。重きは則ち三塗に痛焼し、軽き と 述 べ 、 は則ち人天にして万兵・疾病相ひ続きて連なり注ぎ、遠劫より己来断ゆる時有ること無し。縦ひ人天に少楽有り とも、猶し泡沫・電光の速やかに起り速やかに滅するが如し。是の故に名づけて唯苦唯悪と為す。 川 開 ( 寛 ︿ 聖 全 一 1 四 三 二 ﹀ と述べているように、造罪的凡夫には悪心悪念はたやすく起きるが、それに引き替え善心善念は生起し難く、 た と え 善念が生じたとしても泡沫や電光のようにすぐ消滅するから、凡夫に善悪二つの可能性があっても、 ﹁ 唯 苦 唯 悪 ﹂ だ というのである。向上的方向性をとる教法に従って浄土教を実践しつつある者にとって、自己と自己の状態を唯苦唯 悪と認識することは、それまで積み上げてきた浄土教実践のすべてを否定することに等しく、容易には認めがたいこ とである。こうした教学状況に立ちながらも唯苦唯悪と領解することは、向上的表現の教法によってのみ果たし得た ものではなく、向下的表現の教法に触発されての自覚に依らねばならないと言える。 こ の よ う に 考 察 す る と き 、 ﹃安楽集﹄においての最大の関心事は、無始巳来の造罪的存在としての凡夫が、どうす - 14ー 龍谷大学論集れば善心善念を発し三界を出離できるかにあったと言えるであろう。このことについて論ずるのが、第三大門の聖浄 二門釈である。一切衆生には皆仏性があり遠劫より己来多仏に出遇っているのに、何故今まで輪回して三界を出離で きないかという聞を発し、それに対して、 大乗の聖教に依るに、良に二種の勝法を得て、以て生死を排はざるに由りてなり。 ( 真 聖 ゐ
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四 一ω
と示し、聖道教と浄土教即ち大乗仏教によらなかったからであると述べてはいるものの、その次下には、 其の聖道の一種は今の時証し難し。 一には大聖去ること蓬遠なるに出る。こには理深く解微なるに由る。 ︿真聖全了四一伊 と、末法時の今においては凡夫を三界流転輪回から救いうる教えは浄土教のみであることを明かし、 ﹃ 大 集 経 ﹄ を 取 意 し て 、 我が末法の時の中に億億の衆生、行を起こし道を修せんに未だ一人も得る者有らず。当今は末法にして現に是 ( 真 聖 全 了 四 一ω
れ五濁悪世なり。唯浄土の一門有りて通入すべき路なり。 と、末法時という状況下において、凡夫に善心善念をおこすことのできるのは、聖道教ではなくて浄土教のみである ことを明言するのである。 道綿の言う浄土教とは、観仏三昧、念仏三昧、称名等によって生ずる十念相続の浄土願生道を言うのであるが、こ の 十 念 と は 、 但、阿弥陀仏を憶念して、若しは総相若しは別相、所縁に随いて観じ、十の念を運て他の念想の間雑すること ( 真 聖 全 一 │ 四 0 1 ) 無きを、是れを十念と名づく。 と示すように、浄土に生まれたいと阿弥陀仏を一心に念じ、阿弥陀仏を念ずること以外の想を決して差し挟まないこ とである。十念相続においては心相無間雑であるから、他の想い即ち悪心悪念はまったく存在しないと明かしている。 道縛における人間観の展開(矢田〉 - 15ー前述したように、三悪道の身を受けるのは、悪心悪念を起こすからであり、 帥 開 ( 真 聖 全 一 │ 四
O
八 ) 此の身は苦の集まる所にして一切皆不浄なり。 というように、清浄ではないからである。ところが、十念相続においては、 ( 真 聖 全 一l
四O
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念 々 の 中 に 罪 滅 し 、 心浄くして即ち往生す。 と 述 べ る よ う に 、 たとえそれが凡夫であっても心は清浄である。そして、 ︿ 真 聖 全 一 │ 四O
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四0
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一 ﹀ 人善行を積まば、死するとも悪念なし。 と 言 い 、 衆生復数千巨億万劫愛欲の中に在りて、罪の為に覆わるると難も、若し仏経を聞きて、 ( 真 畑 全 一 │ 四O
O
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四O
一 ) ひとたび善を念ずれば 罪 即 ち 消 尽 す 。 と述べることからすれば、十念相続において悪念が消え善念が生じ、この相続によって浄土往生できると領解してい たと言えるであろう。しかも、この十念相続という浄土願生心の相続は、凡夫の阿弥陀仏に対する観念、憶念、称念 等の行業実践において生じるものであることは明らかであるが、さらに、衆生に十念が生起した根源について、 生論註﹄の文を基にして、次のように明かしている。 伺 ( 真 聖 全 一l
四O
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)
此の十念は、普知識の方便安慰して実相の法を聞かしむるに依りて生ず。 今此の十念は、無上の信心に依止し阿弥陀如来の真実清浄無量の功徳の名号によりて生ず。 ( 真 由 里 全 一 │ 四O
↓J ﹃往生論註﹄のコ一在釈の中、在心を明かす文である。在心とは十念を衆生の領受した心の上で論ずると言 うことであろ旬。善知識は阿弥陀仏の法に帰依し法の何たるかを信知しているが、その善知識が様々な手だてを講じ 前 の 文 は 、 て阿弥陀仏より団施される教法を聞信させようとすることによって衆生に十念が生ずると言う。後の文は、 ﹃ 往 生 論 - 16ー 龍谷大学論集 =自 往註﹄の在縁を明かす文を用いたものである。在縁とは十念が衆生に生起する縁に焦点を合わせて論ずることを明かし H 開 ている。十念は衆生に生じた無上・清浄の信心においてあらわになるのであるが、それは阿弥陀仏の清浄な名号が根 源となっていると述べている。 ところが、在決定を述べる箇所では、 彼の人罪を造る時は、自ら有後心・有間心に依止して生ず。今此の十念は無後心・無間心に依止して起す。是 ﹁一切衆生臨終の時、万風形を解き、死苦来り逼むるに、大怖畏を生 心々相続して十念すれば、即ち是れ増上の善根をもて便ち往生を れ を 決 定 と 為 す 。 又﹃智度論﹄に云はく。 ず。是の故に善知識に遇ひて大勇猛を発して、 若 し 人 臨 終 の 時 、 一形之力一時に尽く用いるが如し。其の十念之善も亦是の如し。又、 一念の邪見を生ずれば、増上の悪心即ち能く三界之福を傾けて即ち悪道に入る也﹂。 得。又、人有りて敵に対して陣を破るに、 品 刊 ( 真 聖 全 一 │ 四
O
一 乙 ﹀ 伺 とある。在決定とは衆生において十念がどのようにして決定成就するかを明かすと言うことである。道縛は﹃往生論 伺 註﹄を基にして、衆生の造罪は有後心(まだ後があると思う心﹀・有間心(様々な心が入りまじわっている心﹀によ"
って生じるが、この十念は無後心(後が全く無いというせっぱ詰まった心﹀・無間心(阿弥陀仏以外に向かない心﹀ によって生ずるという。このことを道綜はより詳しく説示して、﹃大智度論﹄を引用する。そこでは、衆生は臨終の かつて経験したことのない恐怖心を懐く。この時善知識に遇いその勧めによって、はじ 時に臨んで死苦に責められ、 めて衆生に十念が生ずるというのである。即ち、十念とは有後心・有間心の衆生が自らを問い詰め無後心・無間心を ﹁決定﹂の基になるのである。しかし、その根源は阿弥陀仏の名号法にあり、その名号法を善知 生 じ さ せ る こ と が 、 識により聞かされることが衆生に十念を生じさせることになると、道縛は曇驚に教導されて示すのである。ここに、 十念の説示は衆生が普段起こしている有後心・有間心から無後心・無関心を生じさせることを明かす向上的教法表現 道縛における人間観の展開(矢田〉 - 17ーを前提としながら、阿弥陀仏の名号を根源とし、その名号を善知識が勧めるという向下的教法表現が明瞭に説かれ、 ここに両教法表現の融合・一体化がみられるのである。 このように、道縛は造罪的存在としての凡夫が悪を超克しうるのは、十念相続においてであると説くのであるが、 この道縛の十念相続即ち願生心相続の強調は、凡夫の浄土往生行実践においていかに願生心が相続し難いかと言うこ とと表裏をなすものと受けとめられ、願生心相続の厳しさをそこにみるのである。 l'
、
お わ り に 道縛では、その著﹃安楽集﹄で﹃観無量寿経﹄注釈の基本的立場を﹁約時被機﹂と明かし、時代とそこに生きる機 根に合致した教法を開顕しようとして、その時代観としての末法を主張した。当時の仏教者が環境悪として自らの教 法に危機感を募らせ、強力に伝達させようと計ったこととは相違して、教法自体を問い直す契機とした。こうして、 道縛によって開顕された教法は、基本的には向上的に表現されたものであった。この教法表現を基にして、機狼とし て聖者と凡夫の二種の区分をより明確にする。凡夫について三悪道的存在、さらに地獄的存在という造罪的存在であ ることを鮮明にし、ついには﹁唯苦唯悪﹂との認識を表明するに至った。しかし、この﹁唯苦唯悪﹂の認識は、向上 的教法によっては到達し得ない意識であって、向下的教法の影響をその背後にみるのである。即ち、道締においては、 向上的方向性と向下的方向性をとるこつの教法表現を融合・一体化しようとしているが、具体的には第十八願と﹃観 無量寿経﹄下下品との合楳の文にみられる。 こうした造罪的存在というと言う意識は、願生心の相続である十念相続以前のことであり、十念相続においては造 罪意識を﹃安楽集﹄の文言からは見出すことはできない。道縛では、浄土往生の行実践での十念相続を強調するので あるが、十念相続即ち浄土願生心相続の強調は、文言からは確認できないものの、造罪的存在としての凡夫には自ら - 18ー 龍谷大学論集の力で造悪を超克することの困難性があることを表しているとも領解でき、この点は後の親鰭における人間論表現に 通ずるところと言えるであろう。 註
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﹃ 般 舟 三 味 経 ﹄ は 、 ﹃ 出 一 一 一 蔵 記 集 ﹄ に よ る と 西 暦 一 七 九 年 頃 支 婁 迦 識 に よ り 訳 出 。 石 田 充 之 著 ﹃ 浄 土 教 教 理 史 ﹄ 四 三 頁 参 照 。ω
石田充之著﹃浄土教教理史﹄四九頁以下参照。ω
﹃無量寿経﹄は西暦四二一年の訳出、﹃観無量寿経﹄は西暦四二四 J 四四二年に訳出とされている。藤田宏達著﹃原始浄土思 想 の 研 究 ﹄ の 所 説 に よ る 。ω
中国浄土教は曇鴛当時﹃般舟三味経﹄系と﹃無量寿経﹄・﹃観無量寿経﹄系の二つの学系が明瞭に存在していたわけではないも のの、曇鴛浄土教の特徴をこの様に表現しても差し支えないであろう。 制﹃続高僧伝﹄巻二O
。 同迦才の﹃浄土論﹄の所説。 M W ﹁ 近 代 有 縛 禅 師 。 撲 安 楽 集 一 巻 。 雄 広 引 衆 経 、 略 申 道 理 。 其 文 義 参 雑 、 章 ロ 聞 混 清 。 後 之 読 之 者 、 亦 跨 踏 未 決 。 ﹂ ハ 迦 才 ・ ﹃ 浄 土 論 ﹄ ・ 大 正 四 七 │ 八 一 一 一B
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以下本論中の引用文は、原典を筆者が読み下したものである。 仙 W ﹃安楽集﹄の序には﹁此の観経は:::﹂(真聖全一│三七七)とあり、﹃安楽集﹄が﹃観無量寿経﹄について明かす書である こ と を 示 し て い る 。 例この読み下し文は﹃真宗聖教全書第一巻三経七祖部﹄収録の﹃安楽集﹄を筆者が読み下したものである。以下原文を掲げ る 。 ﹁ 明 教 輿 所 由 約 時 被 機 勧 帰 浄 土 者 、 若 教 赴 時 機 易 修 易 悟 、 若 機 教 時 話 離 修 難 入 。 是 故 ﹃ 正 法 念 経 ﹄ 一 去 。 ﹁ 行 者 一 心 求 道 時 、 常当観察時方便。若不得時無方便。是名為失、不名利。何者如捜湿木以求火火不可得、非時故。若折乾薪以覚水水不可得、無智 故 。 ﹂ 是 故 ﹃ 大 集 月 蔵 経 ﹄ 云 。 ﹁ 仏 滅 度 後 第 一 五 百 年 、 我 諸 弟 子 学 慧 得 堅 固 。 第 二 五 百 年 、 学 定 得 堅 因 。 第 一 一 一 五 百 年 、 学 多 聞 読 諦得霊園。第四五百年、造立塔寺修福餓悔得堅因。第五五百年、白法隠滞多有誇訟、徴有善法得堅固。﹂(真聖全一│三七八)以 後、本文では筆者の読み下し文を掲載し、﹃註﹄において原文を白支で示すこととする。ω
﹁若欲披尋衆典勧処弥多。遂以採集真言助修往益。何者欲使前生者導後、後去者前、連続無窮願不休止。為尽無辺生死海故。 ・:・﹃大集経﹄云。︿於説法者作医王想、作抜若想、所説之法作甘露想、作醍醐想。其聴法者作増長勝解想、作愈病想。若能如 道縛における人間観の展開(矢田〉 -19ー是 説 者 ・ 聴 者 、 皆 犠 紹 隆 仏 法 。 常 生 仏 前 。 ﹀ ﹂ ︿ 真 聖 全 一
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一 一 一 七 九 ﹀ 帥﹁今此観経以観仏三味為宗。﹂(真聖全一ー l 三 八 一 ﹀ 同﹁若能菩提心中行念仏三昧者、一切悪神一切諸障不見是人。随所詣無能遮障也。何故能爾、此念仏三昧、即是一切三味中王故 也 。 ﹂ ︿ 真 聖 全 一 │ 三 八 二 ) 帥﹁﹃大経﹄云。︿若有衆生縦令一生造悪、臨命終時十念相続称我名字、若不生者、不取正覚 o v -: : 縦使一形造悪但能繋意、専 精常能念仏、一切誇障自然消除、定得往生。何不思量部無去心也。﹂(真聖全一│四一O
)
帥結城令聞稿﹁支那仏教に於ける末法思想の興起﹂(東方学報東京之部第六)、高雄義堅稿﹁末法思想と諸家の態度﹂︿支那仏 教史学一) 帥﹁計今時衆生、即当仏去世後第四五百年。正是俄悔修福応称仏名号時者。若一念称阿弥陀仏、即能除却八十億劫生死之罪。一 念既爾、況修常念。即是恒俄悔人也。﹂(真聖全一│三七八) 帥﹁文若去聖近即前者修定修慧是其正学、後者是兼。如去聖己遠則後者称名是正、前者是兼。﹂(真聖全一コ一七八 J 三 七 九 ﹀ 伺 ﹁ 何 青 山 然 者 、 寒 由 衆 生 聖 遼 遠 、 出 閥 解 浮 浅 晩 鈍 故 也 。 ﹂ ( 真 聖 全 一 ー ー 三 七 九 ﹀ 同 ﹁ 次 五 百 年 、 於 我 法 中 、 多 造 塔 寺 、 得 住 堅 固 。 ﹂ ( 大 正 一 一 一 一 │ 一 二 六 三 B ﹀ 帥﹁若欲於斯進趣勝果難階。唯有浄土一門可以情悌趣入。若欲按尋衆典勧処弥多。遂以採集真言助修往益。何者欲使前生者遵 後、後去者訪前、連続無窮願不休止。為尽無辺生死海故。 L ( 真 聖 全 一 │ 一 一 一 七 九 ) 帥﹁弥陀浄国位該上下、凡聖通往:::﹂(真聖全一l
三八五 o ) 帥 ﹁ 凡 夫 智 浅 多 依 相 求 決 得 往 生 。 然 以 相 善 力 徴 、 但 生 相 土 唯 観 報 仏 也 。 ﹂ ( 真 聖 全 一 │ 一 一 一 八 六 ﹀ 同﹁自有中下之輩。未能破相、要依信仏因縁求生浄土、雌至彼国還居相上。﹂(真聖全一│三九四) 帥﹁若知無相離念為体、而縁中求往者多応上輩生也。﹂︿真聖全了三八七) 帥﹁今之行者無間絡索、但能知生・無生不違二諦者、多応落在上輩生也。﹂(真聖全一l
三 八 七 J 三 八 八 ﹀ 帥﹁弥陀浄国位該上下凡聖通往者、今此無量寿国是其報浄土。由仏願故、乃該通上下致令凡夫之善波得往生。由試上故、天親・ 龍 樹 及 上 地 菩 薩 亦 皆 生 也 。 ﹂ ( 真 聖 全 一 ー ー 三 八 五 ) 同従無始世去己来、処此三界五道乗善悪二業、受苦楽両報、輪廻無窮受生無数。﹂ 伺三劫之中所積身骨、如昆富羅山。﹂(真聖全一│四O
八 ﹀ - 20ー 龍谷大学論集 ︿ 真 聖 全 一 │ 四O
五 )( 真 聖 全 一
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四O
八 ﹀ 伺﹁如是遠劫巴来、徒受生死至於今日、猶作九夫之身。何曽思量傷歎不日。﹂ 帥﹁雄言流転、然於三悪道中受身偏多。﹂︿真聖全一l
四O
九 ﹀ 同﹁衆生等是流転恒三悪道為常家。人天暫来即去、名為客舎故也。﹂ハ真聖全一l
四O
九) 帥﹁阿難復白仏言。世尊、世間衆生若有如是正念解脱、応無一切地獄・餓鬼・畜生三悪道也。仏告阿難。世間衆生不得解脱。何 以故、一切衆生皆由多虚少実無一正念、以是因縁地獄者多解脱者少。響如有人於自父母及以師僧、外現孝順内懐不孝、外現精進 内懐不実。如是悪人、報雄未至三塗不遠、無有正念、不得解脱。﹂(真聖全一│四三八﹀ 同﹁若有衆生、縦令一生造悪:::﹂(真聖全一│四一O
﹀ 帥﹁縦使一形造悪:::﹂︿真聖全一│四一O
﹀ 伺﹁衆生一形己来、或百年或十年乃至今日無悪不造。﹂(真聖全一│四OO
﹀ 伺﹁従無始劫来在此輪廻無窮受身無数:::﹂(真聖全一│四O
七 ﹀ 帥 ﹁ 一 切 衆 生 従 噴 大 劫 来 、 備 造 有 漏 之 業 繋 属 三 界 。 ﹂ ハ 真 聖 全 一 ー ー 一 一 一 九 九 ﹀ 伺﹁無始劫来、六道輪廻無際、而未知、一劫之中受幾身数、而言流転。﹂(真聖全一│四O
八 ) 伺﹁凡人経此百千生、着楽放逸不修道。不覚往福侵己尽、還堕三塗受衆苦。﹂(真聖全一l
四O
八 ﹀ 倒﹁夫放逸者是衆悪之本、不放逸者乃是衆善之源。如日月諸明中最。不放逸法亦復如是。於諸善法為最為上。亦如須弥山王於諸 山中為最為上。不放逸法亦復如是。於諸善法中為最為上。何以故、一切悪法猶放逸而生。一切善法不放逸為本。﹂︿真聖全一│四O
八 ) 制﹁人生世間凡経一日一夜有八億四千万念。一念起悪受一悪身、十念念悪得十生悪身、百念念悪受一日悪身。計一衆生一形之 中、百年念悪感即遍満三千国土受其悪身。悪法既爾、善法亦然。一念起善受一善身、百念今韮回受一百善身。計一衆生一形之中、 百年念善三千国土善身亦満。若得十年・五年念阿弥陀仏、或至多年後生無量寿園、即受浄土法身恒沙無尽不可思議也。﹂︿真聖全 一 │ 四 一 一 一 四 ) 帥﹁若人過去巳曽供養半恒河沙諸仏、復経発心而能於悪世中間説大乗経教、但能不誘、未有余功。若経供養一恒沙諸仏及経発心 然後聞大乗経教、非直不議、復加愛楽。﹂(真聖全一│三九八) 帥﹁一切衆生、濁乱者多正念者少。﹂(真聖全一│三九七) 帥﹁悪道身多、何故如此但悪法易起、善心難生故也。﹂(真聖全一l
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九 U 道縛における人間観の展開(矢田) - 21ー帥﹁在此裟婆世界雌有苦楽二報、恒以楽少苦多。重則三塗痛焼軽則人天万兵・疾病相続連注、遠劫己来無有断時。縦有人天少楽 猶如泡沫電光速起速滅。是故名為唯苦唯悪。﹂(真聖全一│四三二) 帥﹁依大乗聖教、良由不得二種勝法以排生死。﹂(真聖全一
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四 一O
)
帥﹁其聖道一種今時難証。一白去大聖護遠。二由理深解徴。 L ( 真 聖 全 一 l l 四 一O
﹀ 帥﹁我末法時中億億衆生、起行修道未有一人得者。当今末法、現是五濁悪世。唯有浄土一門可通入路。﹂(真聖全一!四一O
)
帥﹁但憶念阿弥陀仏、若総相若別相、随所縁観、淫於十念無他念想間雑、是名十念。 L ︿ 真 聖 全 一 │ 四O
一 ) 糊﹁此身苦所集、一切皆不浄。﹂(真聖全一ーー四O
八 ﹀ 帥﹁今忽必之中罪滅、心浄即便往生。﹂(真聖全一│四O
四 ) 帥﹁人積善行死無悪念。﹂(真聖全一ー l 四O
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三 ) 同﹁衆生雌復数千巨億万劫在愛欲中為罪所覆、若閲仏経一反念善罪即消尽也。﹂(真聖全一l
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四O
一 ) 同﹁比十念者、依善知識方便安慰問実相法生。﹂(真聖全一│四O
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﹃往生論註﹄では﹁此の十念は、普知識の方便安慰して 実 相 の 法 を 聞 く に 依 り て 生 ず 。 ﹂ ( 真 聖 全 一 i l a -一 -一 -一O
﹀と読んでおり、十念が衆生の開法により生ずることを明かしている。 倒﹁今此十今主音、依止無上信心、依阿弥陀如本真実清浄無量功徳名号生。﹂(真聖全一│四O
一 ) 伺香月院深励著﹃往生論註講義﹄(一ニ六O
頁)では、次のように述べている。﹁この在心の在の字はおいてみることなり、在の 字はすべおくことなり。今第一の在心の義は、五逆十悪等の罪業と念仏とをおこす心の上においてみて軽重を論ずるなり﹂。即 ち、在心とは衆生に生ずる心に焦点を合わせて論ずると言うことを意味している。 品開香月院深励著﹃往生論註講義﹄(一二六一頁﹀では、次のように述べている。﹁この縁と云うを古来みな所縁の境とす﹂ o ﹃ 往 生 論註﹄閣制求其本釈に、﹁五門の行を修して、自利利他成就するを以ての故なりと言えり。然るに穀に其の本を求むるに、阿弥陀 如 来 を 増 上 縁 と な す ﹂ ( 真 聖 全 一 ー ー コ 一 四 七 ) と あ る の と 同 様 、 阿 弥 陀 仏 の 救 済 を 縁 と し て 表 現 し て い る 。 制﹁彼人造罪時自依止有後心・有関心生。今此十念者依止無後心・無間心起。是為決定。文智度論云。一切衆生臨終之時、万風 解形、死苦来逗生大怖畏。是故遇善知識発大勇鑑、心心相続十念、即是増上善根便得往生。又如有人対敵破陣一形之力一時尽 用。其十念之善亦如是也。又若人臨終時生一念邪見、増上懇心即能傾三界之福即入悪道也 O L ( 真 聖 全 一 ー ー 四O
一 ﹀ 倒香月院深励著﹃往生論註講義﹄(一二六三頁﹀では、次のように述べている。﹁十念の念仏をおこす能起の心でたてた義なり。﹂ 伺香月院深励著﹃往生論註講義﹄(一二六四頁)では、次のように述べている。﹁有後心と云ふは後のある心と云ふこと、平生の - 22ー 龍谷大学論集時の心なるゆへに後起相続のある心なり。﹂、﹁有間心とは他想問雑のある心なり、五逆十悪のきっい悪を造る心なれども、平生 悠々の時の心じゃによりて必ず外の心がまじはるゆへ有間心と云ふなり﹂。 制香月院深励著﹃往生論註講義﹄︿三六四頁﹀では、次のように述べている。﹁臨終今はの心じゃによりて後念のつづかぬ命一 制利那にせまった心なるゆへに無後心と云ふ。﹂、﹁外のおもひのまじはらぬ心なり。臨終一利那にせまったと思ふたならば外の心 は な い 雄 一 口 な り 、 そ れ を 無 間 心 と 云 ふ な り 。 ﹂ キ ー ワ ー ド 道 綜 末法思想 教法表現 道縛における人間観の展開〈矢田〉 - 23ー