聖人の思索
高田派手
話
垣
不
麿
一
、
かつて、ある会合で、﹁聖人の著作を拝読していると、 そこに常に新しいものが感じられる。古さが感じられな し》。
一方、後世にかかれたもの、聖人について語られたものの中に古さが感じられるごとがある。それはどうした ことであろうか。どうしてそのようなことが起るのであろうか。そうしたことについて考えてみたい﹂という旨の ことを発言したことがある。それは相当以前のことであるが、 そ の 想 い は 、 それ以来、私の中で生き続けている。 今回、そのことについて、改めてとりあげてみたい。 聖人の内には、人を引きつけるものがあった。 ﹃善信聖人鵬伝絵﹄は、山伏と聖人との出会いを の聖人に謁せんとおもふ心付て、禅室に行て尋申に、聖人左右なく出会たまひにけり。すなわち尊顔にむかふ に、害心忽ニ消滅して、剰後悔の涙禁がたし。良重ありて、有のま﹀に日者の宿欝を述すといへども、聖人ま たおどろけるいろなし。立どころに弓箭を切、 万杖を捨、頭巾を取、柿衣を改て仏教に帰しつ﹀終に素懐を遂き。不思議なりし事也。すなわち明法房是也、聖人つ気給き。 と記している。︵﹃親驚聖人全集・言行篇 2 ﹄ ︵ 同 刊 行 会 ︶ 、 八三頁以下。以下、この全集を親全と略記する。なお ﹃ 教 行 証 文 類 ﹂ に つ い て は 、 文 類 名 の み を 示 す 。 ︶ 山伏を迎えられた聖人のところには、﹁聖人ためらふところなくいであひたまふけしき﹂と註記されている。 ﹁ 伝 絵 ﹄ のこの場面を拝していると、山伏にとって聖人はどういう人であったか、 また、聖人にとって山伏はど う で あ っ た か 、 ということが想われる。 また﹃蓮位添状﹄には、門弟覚信のことが記されている。 ︵ 一 日 市 カ ︶ ︵ 病 ︶ ひといちとまふししときやみいだして候しかども、同行たちはかへれなむど のぽり候しに、くにをたちて、 まふし候しかども、死するほどのことならば、 か へ る と も 死 し 、 とどまるとも死し候はむず。またやまひはや ︵ 御 許 ︶ おなじくばみもとにてこそおはり候は y 、おわり候は み 候 ば 、 か へ る と も や み 、 とどまるともやみ候はむず。 め、とぞんじてまいりて候也と、御ものがたり候し也。この御信心まことにめでたくおぽへ候。善導和尚の稗 の二河の警輸におもひあはせられて、 ょにめでたくぞんじ、うらやましく候也。︵親全・書簡篇、二
O
頁 以 下 ︶ 聖 人 に は 、 そのように人のこころを深くうつ何ものかがあったのである。それは、聖人が人間の存在を見つめ、 その深い層から捉えておられたからであろう。その聖人の内に動いているものを聖人の思索と呼び、以下そのこと について尋ねていきたい。一
一
、
聖人は、﹁それ、真実の教を顕さば、則ち﹃大無量寿経﹄これなり﹂と言われ、この経の大意を次のように述べ 聖人の思索 七 九聖人の思索 }\
。
て お ら れ る 。 この経の大意は、弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を聞きて、凡小を哀れみて、選ぴて功徳の宝を施するこ とをいたす。釈迦、世に出興して、道教を光闘して、群蘭を控ひ、恵むに真実の利をもってせむと欲すなり。 ここをもって、如来の本願を説きて、経の宗致とす。即ち、仏の名号をもって、経の体とするなり。 ︵ 教 文 類 、 九 頁 ︶ 弗、目連といった釈尊の上足の弟子達も多くおられた。 この経が、阿難に向って説かれていることに注目したい。﹁大無量寿経﹄が説かれた会座には、摩詞迦葉、舎利 そうした尊者達の中にあって、﹃大無量寿経﹂の説法を始 めようとされる釈尊のお姿が常とは違っていることに気づかれたのが、阿難尊者であられた。聖人は次のように詠 っ て お ら れ る 。 ︵ 親 全 ・ 和 讃 篇 、 コ 一 四 頁 以 下 ︶ 尊者阿難座よりたち 世尊の威光を謄仰し 生希有心とおどろかし 未曽見とぞあやしみし 如来の光瑞希有にして阿難はなはだこ﹀ろよく 如是之義ととえりしに 出世の本意あらはせり 大寂定にいりたまひ如来の光顔たえにして 阿難の慧見をみそなはし問斯慧義とほめたまふ 如来出世の本意には 本願真実ひらきてぞ難値難見とときたまい 猶霊瑞華としめしける ﹁大寂定﹂には﹁静かに静かにましますこと、殊に日頃に勝れましまし給ふ故は、唯、阿弥陀の名号を説き給は むとて世に出でましますこと、殊に勝れ、 めでたくまします御かたちなり﹂︵原文は片カナ。書きかえは筆者によ る 。 以 下 同 様 ︶ という左訓が施されている。釈尊のそのお姿に気づかれたのが阿難尊者であられた。﹁阿難の慧見﹂ と 讃 え ら れ で あ る 。 ﹁ 阿 難 の 慧 見 ﹂ と は 、 どのようなものであろうか。党本の﹁大無量寿経﹄ で は 、 その会座に居られた仏弟子たち の名を挙げ、﹁これらの人々と、その他の人々とは 一人だけを除いて、すなわち修行の道においてなすべきとこ ろが残っていたア l ナ ン ダ を 除 い て 、 みな長老であり、直々の大弟子であった﹂と述べられている ︵ 岩 波 文 庫 、 ﹃ 浄 土 三 部 経 ﹄ 上 、 二頁︶。阿難尊者は、 そ の 時 、 いまだ倍りを聞いておられなかったのである。 阿難尊者は、二十有余年、常随の侍者として釈尊に仕えられた。釈尊の最期をみとられたのも阿難尊者であられ た。おそらく心を尽してお仕えされたであろう。そのお世話は、 ひとり釈尊に対してだけでなく、釈尊を訪ねてこ られた人びとに対しても、 わけへだでなく向けられたことであろう。自らのために働くことよりも、 ひとのために 働くことを先にされた方であられたのであろう。釈尊の養母が出家を願い出られた時、釈尊はなかなかそれを認め ょうとされなかった。それをとりなされたのが阿難尊者であられた。阿難尊者が悟りを聞かれたのは、釈尊がなく なられた後であった。 聖者と凡夫ということで言えば、 その時の阿難尊者は凡夫であられた。﹃大無量寿経﹄ の会座において、多く居 られた尊者たちの中で、阿難尊者がたちあがられたことのもっている意味、 さらには、﹃大無量寿経﹄が阿難尊者 に向って説かれていることの意味をよくよく尋ねていくべきであると思う。優秀な者、才能のある者が重んじられ ている今日のあり方を省みる時、 いっそうその思いを強くする。 聖人の思索 }\
聖人の思索 }\
一
、 次に、聖人が阿弥陀仏を無碍光如来と受けとめておられることをとりあげてみたい。 聖人は、﹁教行証文類﹄の﹁行文類﹂の始めで、大行を定義して、 大行とは、則ち無碍光知来の名を称するなり。 また﹁真仏土文類﹂の結びのところで、 と 述 べ 、 真仏と言ふは、﹃大経﹄には﹁無辺光仏・無碍光仏﹂と言へり。 と述べておられる。重要なところで﹁無碍光如来﹂と言われているのである。 ﹁ 浄 土 和 讃 ﹄ の ﹁ 大 経 意 ﹂ 七 に は 、 清浄歓喜智慧光 十方諸有を利益せり と詠われている。﹁大経﹄では、十二光仏が説かれ、無碍光仏は、その中の一つとして説かれている。﹁正信念仏 偏﹂はそれに従っている。しかし、ここでは、阿弥陀仏が無碍光仏と讃えられ、清浄光・歓喜光・智慧光がその中 に収まるもの、あるいはその働きをあらわすものとして詠われている。無碍光は、十二光の中でもっとも根底的な 無碍光仏のひかりには その徳不可思議にして ものとして詠われているのである。 ま た 、 ﹁ 諸 経 意 弥 陀 仏 和 讃 ﹂ 一 に は 、 無 明 の 大 夜 を あ わ れ み て 無碍光仏としめしてぞ 法身の光輪きわもなく 安養界に影現すると詠われている。その他、﹁現世利益和讃﹂十二、﹁天親菩薩﹂六・七、﹁曇驚和尚﹂十八・十九・廿二・廿七、﹁正 像末法和讃﹂三一で﹁無碍光仏﹂、あるいは﹁無碍光如来﹂と詠われている。他の光で呼ばれている場合をはるか に 超 え て い る 。 書簡においても、唯信坊にあてた書簡の中で、聖人は、 ひと戸\のおほせられてさふらふ十二光仏の御ことのやう、 かきしるしてくだしまひらせきふらふ。くわし くかきまひらせさふらふべきゃうもさふらはず。 おろ/\かきしるしてさふらふ。詮ずるところは、無碍光仏 とまふしまひらせさふらふことを本とせさせたまふべくさふらふ。 と 述 べ て お ら れ る 。 ︵ 親 全 ・ 書 簡 篇 、 一 五 四 頁 ︶ 聖人は、﹁無碍光仏﹂ということの中に深い感銘をもっておられたようである。 そ れ で は 、 そこにどのような憶いがおありであったのであろうか。先の書簡は、上の文章に続いて 無 碍 光 仏 は 、 よろづのもの﹀あきましきわるきことにさはりなくたすけさせたまはん料に、無碍光仏とまふす としらせたまふべくさふらふ。あなかしこノ\。 と 述 べ て い る 。 ﹁ 教 行 証 文 類 ﹄ は 、 構かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の閣を破する恵日なり。 という文章で書き始められている。 ﹁ 念 仏 正 信 偏 ﹂ に は 普く難思無碍の光を放ちて、 よく無明大夜の閣を破す。 と 詠 わ れ て い る 。 ︵ 親 全 ・ 漢 文 篇 、 一 四
O
頁 ︶ 聖人の思索 /¥聖人の思索 !\ 四 如来の光明は、無明の聞に碍えられることなく、よくこれを破するが故に無碍なのである。 上に引用した和讃︵﹁大経意﹂七︶の﹁無碍光﹂には、 碍ることなき光の如来なり。悪業煩悩に碍えられぬによりて無碍と申すなり。 という左訓が施されている。﹁悪業煩悩に碍えられぬ﹂とは、衆生の悪業煩悩に碍えられることがないということ である。それは、衆生の悪業煩悩がいかに深くあろうとも、 それに碍えられることなく、救けとげようとする如来 の働きの極まりなきありさまをあらわしている。 ま た 、 その﹁清浄歓喜智慧光﹂には、 貧欲の煩悩を救け、貧欲の罪を消さむれうにして清浄歓喜と名づく。膜柔の煩悩を救けむれうに歓喜と名づく なり。愚療の煩悩を救けむれうに智慧と名づく。 という左訓が施されている。責欲・膜芸・愚療は、﹁三毒﹂と言われ、煩悩の中のもっとも根底的なものである。 衆生の迷いの根本をなしているものである。如来の明は、衆生の闇と深く関わっている。 四 聖人はしばしば﹁無明煩悩﹂という言い方をされる。それは、無明が﹁煩悩の王﹂︵﹁諸経意弥陀和讃﹂ 明の大夜﹂に施された左訓︶であり、諸々の煩悩が無明をよりどころとして生ずることを言おうとしているのであ 一 の ﹁ 錘 小 ろ ﹀ つ 。 ﹁正像末法和讃﹂七には 無明煩悩しげくして 塵数のごとく偏満す
無 憎 違 順 す る こ と は と詠われている。聖人は、末法という時代とそこに生きている人びとに想いを深め、 高峯岳山にことならず そして詠い出されたのであろ う。無明から煩悩が起り、その数は塵の数のように多く、凡夫の身に満ちている。それ故に愛憎違順することが断 ることがなく、そこから高峯岳山のような険しいあり方が展開されてくる。ここに、末法に生きる凡夫のあり方が よく詠いだされている。 ﹁無明煩悩﹂という言い方がされているもう一つの例をあげておきたい。 凡夫といふは、無明煩悩われらがみにみちノ\て、欲もおほく、いかり・はらたち・そねみ・ねたむこ﹀ろ おほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず。 これは、﹁正像末法和讃﹂とほぼ同じ頃に書かれた﹃一念多念文意﹄に出ているものである ︵親全和文篇、 四九頁︶。この文の中に、聖人が凡夫というものをどのように捉えておられたかということがよくうかがわれる。 無明煩悩を断ちきろうとして断ち切ることができず、従って、欲も多く、 いかり・はらだち・そねみ・ねたむ心が 多 く 、 しかも絶えることがない。そういうあり方を続けており、 そこから離れることができない。それが凡夫であ る。そのことにおいて、 われもひともかわるところがなく、 ともに﹁われら﹂なのである。われもひともかわるこ となく、共にそのようなあり方を続けていくほかないところに、凡夫であることの悲しみがある。聖人は、凡夫の 内にある煩悩の閣を深くみつめるとともに、 その聞を徹照する如来の無碍の光明を仰いでおられたのであろう。 本 報 告 の 始 め で 、 ﹃ 伝 絵 ﹄ の山伏教化の段をとりあげ、山伏にとって聖人はどういう人であったか、 また、聖人 にとって山伏はどうであったか、 ということが想われる、 と述べた。そのことをここでとりあげてみたい。 山伏にとって聖人は全く予想を越えていた人ではなかったであろうか。山伏は板敷山で聖人を殺害しようとして 待ち伏せていたのであるが、 どうしてもその機会を得ることができず、 ついに聖人の草庵を直接に訪れて行ったの 聖人の思索 八 五
聖人の思索 八 六 である。面会を断られるとか、腕のたつ人を従えて出て来られるとかということは、山伏も充分に予想していたで あろう。しかし、現実にそこに現われたのは、﹁ためらふところなくいであひたまふ﹂た聖人であった。 そのよう な聖人は、弁円の予想をはるかに越えていた人であったであろう。 一方、聖人にとって山伏はそのありょうが熟知されていた人ではなかったであろうか。ここでは面識の有無を言 っているのではない。聖人と山伏とはあるいは面識はなかったかもしれない Q 聖人は、面識の有無を越えて、山伏 のうえに凡夫というものの赤裸々な姿を見ておられたのではないであろうか。自らを煩悩具足の凡夫と悲歎される 聖人にとって、山伏のことは他人事としてすますことはできなかったのであろう。そうであるからこそ聖人は﹁た めらふところなくいであひたまふ﹂たのであろう。そこには、共に凡夫として生きているという深い共生感がある。 その中で、山伏は、明法房へと生まれかわっていったのである。