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龍谷大學論集 474/475 - 006楠 淳證「貞慶撰『心要鈔』の撰述年に関する一考察」

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貞慶撰

の撰述年に関する一考察

j

解脱上人貞慶(一一五五│一二一三)には、唯識行者の菩薩道の体系を見事に示した﹃心要妙﹄一巻が存する。 本書は他に﹃心要門﹄とも﹃法相心要紗﹄とも﹃聖教八要﹄とも別称されるもので、普提門・二利門・三学門・一 心門・観心門・念仏門・発心門・覚母門の八門より構成されている。 年代の明確な現存最古の写本は、﹁小沙弥乗一 L が十七歳の折に書写した永和五年(一三七九)五月二十一日の 奥付を持つ金沢文庫所蔵の﹃心要門﹄である。ただし、これは上巻のみで、菩提門から念仏門までの六門しかない円。 次いで年代が明確なものは、文化十二年ご八一五)に刊行された版木本であり、龍谷大学・大谷大学等の諸大 学に収蔵されているものなど、複数冊を数え&。現在、筆者も﹁為法館丁子屋西村十次郎﹂名の版本と﹁為法館書 店 L 名の版本とを所持しているが、その他にも﹁京都書林著屋宗八﹂名(龍谷大学所蔵本)の版本等もあった。大 きさの違いが確認できるから、版木そのものは異なっていたと考えられるが、内容的にはまったく同じものである。 いずれも官頭に、﹁心要紗序﹂として﹁文化十二年洛東智積院権僧正慧獄﹂の識語を収録しており、本文の文字配 列や訓点の打ち方なども、まったく同じである。 貞慶撰『心要紗』の撰述年に関する一考察(楠) 。 。 n r “ 唱 目 晶

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次に、年代不詳ながらも古写本としての価値が認められている書に、法隆寺所蔵の﹃聖教八要﹄がある。本書は、 ﹃日本大蔵経﹄第六十三巻収録本の底本となっている。ちなみに、﹃日本大蔵経﹄収録本の対校本は文化十二年の版 本である。﹃日本大蔵経﹄以外に活字化された﹃心要紗﹄としては他に、﹃大正新惰大蔵経﹄第七十一巻収録本があ る。本書は、大谷大学所蔵の文化十二年版本を底本(原)とし、﹃日本大蔵経﹄収録本を校本(申)としてい乱。 したがって、活字化された﹃心要紗﹄は法隆寺所蔵﹃聖教八要﹄と文化十二年版本を用いたもののみであったこと が 知 ら れ る の で あ る 。 最後に、龍谷大学にはもう一点、﹃解脱上人心要紗﹄と称される写本一冊が現存している。残念なことに書写年 代は明らかではないが、しかし官頭に慧獄の識語がなく、訓点の打ち方の違いや別字の存在等々の相違点が見られ るので、別系統の姉妹本であったと考えられる。もっとも、明らかに誤字や脱字とわかる箇所もあり、信頼性は金 沢 本 や 版 本 ・ 活 字 本 に は 及 ば な い 門 。 以上のように、貞慶撰﹃心要紗﹄には大きくわけで、金沢本・版本・日蔵本(法隆寺古写本)・龍大本の四種類 が確認されるのであり、﹃心要紗﹄を研究するにあたっては、これら四本を比較研究していく必要があると考えて い る 。 では、﹃心要紗﹄の撰述年代はいつ噴であろうか。これが本稿のテ

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マとするところである。冒頭に寸笠置沙門 貞慶草 L との署名があるから、笠置時代であることは否定できない。そこで内容を吟味することになるが、筆者は 以前、これを笠置時代末期の作と見ていた。その理由は、

ω

弥勅信何が明確であること、

ω

法然浄土教への批判が 顕著に見られることの二点より判断したもので、元久二年(一二

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五)に上奏された﹃興福寺奏状﹄と同時期の笠 置時代末期の著作であろうと推定していた。しかし、近年の研究の進展や数々の新資料の発見によって、今は建久 六年(一九五)の成立ではないかと考えるに至った。そのポイントは、 -124-龍谷大学論集

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弥陀信仰と観音信何(﹃観世音普薩感臆抄﹄・﹃発心講式﹄等)

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臨終正念の思想(﹃尋思紗別要﹄﹁命終心相﹂・﹃観世音菩薩感臆抄﹄等) の以上二点にある。以下、これにもとづいて論証していきたい。 貞慶は前半生の一時期、熱心な弥勤信何者であった。そのことは、﹃弥勤講式﹄や﹃舎利講式﹄等に寸上生内院 L の願いが記されているほか、﹃心要紗﹄にも、 問う。いま何の仏を念ぜる。答う。弥勤仏を念じたてまつるべし。命終りて兜率の内院に生ずるを得。是れま さ し く 我 が 願 い な り 。 といい、引き続いて貞慶自ら

ω

弥勅が釈尊の補処菩薩であること、

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釈尊より末法の衆生を附属された当来の導師 で あ る こ と 、

ω

無著・世親・戒賢・玄突と師資相承した信仰であること等の計三点を示していることで明らかであ も。また、貞慶は建久四年(一一九一ニ)春に遁世して笠置山に居住し、翌建久五年秋からは同地に寸永塾居﹂する ようになる杭、この山には古くから山中の﹁奇異﹂とか﹁霊異﹂とか称される弥勅磨崖仏があり、寸目の当たりに 弥勤(磨崖仏)を見る﹂という見仏の願いに根ざした弥勅信仰のあったことが推測されるのである。したがって、 貞慶には前半生において間違いなく弥勅信仰が主流をなした時期があるのであるが、そのあり方は釈迦即弥勅の図 式をもった信何であった点に特色がある。また、順次生に弥勅のまします兜率浄土への上生を願う﹁浄土信仰﹂で あった点も、大きな特色の一つであったといってよいであろう。これらについてはすでに別稿で論じたとおりであ るが、重要なことはこの当時、釈尊の補処菩薩である弥勅のまします世界が菩瞳道の実践をめざす貞慶にとって、 最も往き易い資糧位菩薩所見の浄土と見なされていた点であふ。 貞慶撰「心要紗』の撰述年に関する一考察(楠) 炉h d q L

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その貞慶にも最初期に弥陀浄土信仰の存したことが、近年になって明白になってきた。もともと、貞 慶に弥陀信仰があったのではないかという指摘は、最晩年の﹃観心為清浄円明事﹄に﹁予深く西方を信ず﹂とある 点を最大の根拠に論じられてきたものであるが、近年になって﹃発心講式﹄を翻刻研究した山田昭全氏によって、 最初期にも弥陀信仰の存した可能性が指摘されるに至った。しかし、唯識教学の浄土思想および菩薩思想に照らし 合わせて考えるとき、貞慶に弥陀浄土への往生を願うあり方は考えがたい。なぜならば、阿弥陀仏の浄土には三界 出過の浄土(菩薩所見の報土)と三界化託の浄土(三乗同見の化土)の二土があるというのが貞慶の解釈であり、 菩薩道の実践をめざす貞慶にとっての弥陀浄土とは、一阿僧祇劫の修行を積んで始めて知見することのできる三界 出過の浄土と受けとめられていたことが貞慶撰述の﹃論第十巻唯識論尋思紗別要﹄等によって確認されたからであ る 。 と こ ろ が 、 そこで、﹃心要紗﹄においても貞慶は、 今、正念なからん。かくのごときの人、臨終に自ら仏号を唱う。さくさく十返を過ぐ。定んで三界を過ぎて浄 土に生ずべきや。否。他人は知らず、己においては信じ難し。 と述べたのであろう。ところが、この直前の文章を見ると、 すでに発心せる人は暫時の願と須奥の行とをもって必ず往生すべし。十念の心力は余に超えて広大なるが故に、 発心の成就は設い得がたかるべくとも、発起の後の願、臨終に成じ易し。何に況んや上生の因となして真実の 心を求む。みな是れ上生の因縁なり。何ぞ唐損ならん。況んやもし人あって、我れ深く弥陀弥勅に帰し、仏力 むなしからざれば必ず来迎を得んと思いて、この決定の意楽に住して能く念仏等を行ぜんの人、多くは是れす でに菩提心を発すなり。:・:::最後の臨終に始めて善知識の語を聞く者は、弥陀如来不可思議威神の功徳に於 いてたちまちに決定の信を生ず。もし十念を具すれば必ず浄土に生じ、必ず仏道を成、ず。かくのごとき一一の F n u n J U 龍谷大学論集

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所説に於いて、総じて疑惑なし。語に随いて信ずるが故にすなわち菩提心を発す。・: とも述べており、十念往生を信じ願うあり方が同時に示されている。その後に先程の文章が来るから、十念して往 生する阿弥陀仏の浄土が三界出過の浄土でないことは明白であるものの、弥陀の浄土に往生して仏道を成ずること についても深い関心を寄せていたことが知られるのである。 しかし、﹃心要紗﹄における信何の中心はあくまでも弥勅浄土信仰であり、弥陀浄土信何ではなかった。また、 興味深いことに臨末に示された貞慶の欣処は観音の補陀落諦土へと変容していふ。臨末の書とされる﹃観心為清浄 円明事﹄においても﹁予深く西方を信ず﹂としながらも﹁病席の雑談は多く観音補陀落にあり L といって、阿弥陀 仏に心を残しながらも、最期の最後に至っても弥陀浄土を欣求しえてはいないのであふ。これは貞慶が、阿弥陀仏 の浄土を三界出過の報土と認識していたこと、ならびに凡夫(資糧位の菩薩や異生)の往くべき浄土が一の四天下 (一小世界)に限られるということを深く理解していたからであろれ。凡夫である以上は分段身を受けるので、身 をわけで二つ三つの世界に生まれることは不可能である。そこで、承元三年(一二

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九)の﹃観音講式﹄にも、 釈迦・弥勤・観音を以て、何いで三尊となす。彼の三尊の所居ことに欣求する所なり。 といい、釈迦と弥勅と観音の三尊を尊仰するあり方は示したが、しかし結局、最期の最後のときには観音の補陀落 浄土があるとされる西南の方角に向かって端座し観音の宝号を唱えつつ入滅していふ。明らかに最期は観音一尊の 所居(浄土)のみを欣求しているのである。しかも注目すべきは、この晩年の三尊に最早、弥陀の名が見られない という点であろう。はたして貞慶にとって弥陀信仰とは、いかなる意味をもつものだったのか。これが筆者の長ら くの懸案であったのだが、近年、筆者の研究グループの新倉和文氏によって興味深い見解が示された。 貞慶撰『心要紗』の撰述年に関する一考察(楠) 丹 勾 白 t t η λ 噌 E 目 ム 4

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新倉氏は、貞慶には最初期に弥陀信何があり、寸発遣釈迦・来迎弥陀﹂として受容していたといい、また当初は 弥陀と書かれていた記述が後に弥勤に改変された書物があること、および釈迦・弥陀・弥勅の三尊信何が後には釈 迦・弥勅・観音の三尊信仰に変容したことなどを諸資料を駆使して論じている。非常に興味深い見解である。もし そうだとすれば、貞慶はなぜ最初期の弥陀信何を放棄したのであろうか。これについて新倉氏は、法然浄土教に対 する批判が最大の要因であったとしている。 近年、新倉和文・後藤康夫・楠の三名は東大寺図書館の収蔵書の中より﹃観世音菩躍感臆抄﹄という興味深い文 献を見い出した。この書は、観音へ帰依することを表明した貞慶の秘文といってよいものであり、弥陀・弥勤の本 願・浄土を讃嘆しながら、観音へと心の比重を移していくあり方が鮮明に示されている貴重な新資料である。その 中 に 、 そもそも弥陀如来は本願力の故に相好光明の色身を現ずること。:::十念日称の業因は易くして実に易し。六 方恒沙の証明は重くして甚だ重し。何ぞ強いて易を置きて難を修し、大を捨てて小に就かん。:::彼、実に望 むべし。これもまた是とす。およそ因果の道、大小の相は、浅より深に至る。:::菩薩の位を得て諸の仏身を 見るとき、初めに小化身を見、次いで大化身を見る。彼の蓋上の舎那、その報仏身に云くまた十重ありと。こ れをもってこれを案ずるに、菩薩に値遇することなお仏身より易し。:::本行なお見がたし。随類の一身、値 遇もっとも易し。ここを以て臨終の時、弥陀降臨し聖衆国携すとも、感得はなはだ難し。観音一身の沙門の形 相は、彼に対して以て易し。滅罪生善の利益、彼は大にして此れは小なれど、敬って静うべからず。もとより 仏子の自の分を量り、浅近の望みを係けるが故な川。 -128-龍谷大学論集

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といい、阿弥陀仏の本願力および十念口称の勝れたることを認めつつも、自らの﹁分﹂を量って随類身である観音 へ帰依するあり方を示している。また、貞慶の浄土思想に﹁浅より深に進む﹂考え方のあったことは、すでに﹃尋 思紗別要﹄や﹃法相宗初心略要﹄および﹃弥勤講式﹄等を引いて論証ずみである以内、それが右の文にも﹁小大化身 土と十重報土の浅深 L として示されている。随類身である観音は小化身に他ならないから、弥陀への思いは依然と して強いものの、自らの﹁分しを考えて、 より寸易 L なるものを取った。それが貞慶の観音信何であったことが示 されているのである。そしてさらに、 まさに知るべし。分を超えるのことは修して望むべからず。:::大師の釈をもってあかしとなすに、すべて安 ω 養を嫌わずして兜率を願う。ただ分を超えたる望みを遮するなり。 として、法相宗の開祖である慈思大師基(六

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六六四)が阿弥陀仏の浄土を嫌っていないのに兜率を願ったの は、分を超えた望みを否定するためであったと指摘している。さらにまた、 それ、諸教の讃ずる所は、弥陀の本願なり。衆賢の欣う所は西方の浄土なり。小僧、涯分を量らずして久しく ω 願 望 を 係 け る 。 e E 、 A 、 J 、 1 ︿ VVBV それまでの自分のあり方が﹁凡夫であるにもかかわらず弥陀の勝れた三界出過の浄土への往生を欣求する いわゆる﹁量り間違い﹂に対する反省の弁を明確に示しているのである。そして、 所居の器界は設い三界を出過せざる浄土なりとも、所感の身形は相好具足の身にあらずとも、出離に於いて妨 げなし。何ぞ必ずしも恨みとせん。先ずは観音の国土を以て我が住所とせん。大聖の一身を以て能化とせん。 といい、三界出過の浄土でもなく、相好を具足する尊者でもないが、観音への帰依は決して出離の妨げとなるもの ものであった L と い う 、 ではないと言い切り、まずは観音の国土を自分の住まう所としたいと述べているのである。もちろん、﹁先ずは﹂ とあるから高位の菩薩となったときには弥陀の浄土に生まれたいという願いが内在していたことは確かであろうが、 貞慶撰『心裏紗』の撰述年に関する一考察(楠) n w d n f “

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﹁涯分﹂を考えて弥陀浄土を欣求しなくなったことが、本書によって明らかとなったのである。 実は興味深いことに、このような変化は弥勅浄土に対しても見られた。すなわち、﹃心要紗﹄念仏門解疑の段に おいて、寸唯識三昧から念仏三昧へと実践を移せといっても無理ではないか﹂との聞いに対する答えとして、 念仏三昧はすなわち是れ唯識観なり。先ず彼の天の依報を観ずるに、四十九重の摩尼宝殿・五百億行の頗梨樹 王あり。一一の荘厳、歴然として心に在り。:::知足天宮は同じく此の界にあり。知るべし、本来、我が心中 に在りということを。もし彼に往きて身を持することを得べくんば、是れ同じく三界を出過する浄土な川。 と答えているのである。念仏三昧は唯識観そのものであり、念仏三昧を実践すれば兜率天宮の荘厳が現れるという。 要するに口称を専一にすれば禅定の境地に入ることができ、荘厳なる世界(浄土)を知見できるというのである。 そして何よりも重要なことは、兜率浄土に往生して、よく身を持つことができれば、そこがそのまま三界出過の浄 土となるとしている点である。ここでも寸先ずは﹂弥勅信何であり、修練して高位に登ればまた、兜率天も三界出 過の報土となることを示しているのである。そして、もう一つ注目すべきことは、この時点で観音がまったく現れ ていないということであろう。ここでは﹁弥陀念仏﹂から﹁弥勅念仏 L への移行が記されているのみなのある。 ﹁弥陀念仏﹂から﹁弥勅念仏﹂への移行を示す﹃心要紗﹄念仏門解疑段の記述は実に興味深い。まず、第一問答 において、諸行は同一のものでないのになぜ唯だ念仏なのかという聞いを設け、その答えとして龍樹の﹃十住毘婆 沙論﹄に示される阿弥陀仏の難易二道の説を挙げ、﹁念仏を易行とするのは海路を往くようなものだ﹂と述べる。 次いで、第二問答において、勝れたものはよいが末代の衆生にとって専注することは困難ではないかと聞い、その 答えとして浄土の人師である法照禅師の﹁本願力不思議﹂の逸話を出し、寸念仏三昧は心意散乱根機転劣の末世の -130一 飽谷大学論集

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衆生にふさわしい行である﹂と説く。そして、その後にくる第三問答において、どの仏を念ずるのかという聞いを 立て、﹁弥勅仏を念ず﹂と答え、以下、弥勅一色の論を展開していくのである。したがって、﹃心要紗﹄が撰述され た段階では弥陀信仰から弥勅信仰へと比重の移っていたことが、明らかに確認できるのである。 なお、﹃心要紗﹄覚母門には﹁当時の風潮﹂について、次のような興味深い記述が見られる。すなわち、 末代の多くは、仏には弥陀・弥勅と云い、経には法華・般若と云い、行には念仏・転経といい、生には安養・ 知足と云う。十の八九は相応すべしと雄も余は必ずしも知ら九。 と。貞慶自身にこのような認識があったのであるから、ごく初期に寸当時の風潮﹂を受けて弥陀信何を持ったとし ても不思議ではないことになる。この点では﹃観世音書薩感臆抄﹄も同様であり、第四の﹁当来値遇 L の 段 に お い て 貞 慶 は 、 およそ近代の習い、道俗賢愚の我れといい人といい後生を思う者は、極楽を欣い兜率を欣%。 舗 と述べている。このような記述は他にも認められるから、これが貞慶の認識する当時の風潮であったといってよい であろう。そこで、これはすでに引用した文ではあるが、第五の寸往生素意 L の 段 に お い て 、 それ、諸教の讃ずる所は、弥陀の本願なり。衆賢の欣う所は西方の樟土なり。小僧、涯分を量らずして久しく

ω

願 望 を 係 け る 。 といい、諸教も弥陀の本願を説き勧め、衆多の賢者たちも西方浄土を欣求している。﹁このような風潮の中で私も 分をわきまえず西方を欣求してきた﹂と述べるに至るわけである。すなわち、﹃心要紗﹄と﹃観世音菩薩感臆抄﹄ とを読むかぎり、世間の風潮の中で弥陀浄土を欣求してきた貞慶が、法相教学による弥陀浄土の解釈を進める中で、 いくら凡夫が望んでみても三界出過の阿弥陀仏の浄土には往生できないと考えるに至ったことが知られるのである。 そして、そこにまた新倉氏の指摘するように、法然との関係が加わる。早くから法然と接点のあった貞慶であっ 貞慶撰『心要紗』の撰述年に関する一考察(楠) -131一

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たが、﹁凡入報土﹂において見解が分かれることとなり、それが根強い法然浄土教批判の核となっていくのである。 そのことを端的に示すものに﹃心要紗﹄の他、﹃興福寺奏状﹄と﹃観心為清浄円明事﹄のニ書がある。前者は、貞 慶が元久二年(一二

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五)に八宗を代表して専修念仏の停止を求めた上奏文であるが、そこには、 しかるに近代の人、あまさえ本を忘れて末に付き、劣を癌みて勝を欺く。寧ぞ仏意に叶わんや。かの帝王、政 治を布くの庭に、天に代わって官を授くるの日、賢愚は品に随い、貴賎は家を尋ぬ。至愚の者、たとい夙夜の 功ありと睡も、非分の職に任ぜず。下賎の輩、たとい奉公の労を積むと雄も卿相の位に進み難し。大覚法主の 園、凡聖来朝の門、彼の九品の階級を授くるに、おのおの先世の徳行を守る。その理必然なり。しかるに偏に 側 仏力を想みて涯分を測らず。是れ則ち愚療の過なり。 といい、﹁至愚の者は非分の職に任ぜず﹂﹁下賎の輩は卿相の位に進み難し﹂という曹えをもって﹁近代の人﹂たる 法然の﹁涯分を測らざる凡入報土論﹂を批判していることがわかるのである。また、後者の﹃観心為清浄円明事﹄ は貞慶が建暦三年ご二二ニ)の臨末時に口述筆記させた書物であり、そこには、 聖衆すでに現ずれば往生、疑いなし。但し真実浄土の業の成就は、多くは彼の聖衆摂取暫時の間に在り。爾ら ざれば争か最下の凡夫、島浅の縁を以て忽ちに微妙の浄土に生じ、永く不退転の利を得んや。是れすなわち不 思議中の不思議なり。予、深く西方を信ずるが故に、嬬に此の案を廻らす。また、世の人の一向の信に同じか らず。おそらくは一期の所作において、以前の称念等は仏を感ずること大なりと睡も、多くは猶し疎因なり。 真実の正因正業は、瑞相を見てののち希有の心を発し、あるいは略法を聞き、あるいは所被によって暫時と離 も大乗心に住すべし。然れば正しく浄土に生ずるべきなり。:::病席の雑談は多く観音補陀落にあ川。 とあり、法相教学に基づく寸凡入報土﹂を模索している状況は窺えるものの、﹁世の人の一向の信と同じからず L といって、法然浄土教の凡入報土論とは一線を画していることが知られるのである。右の文によれば、貞慶は臨末 内 , “ 内 t u 龍谷大学論集

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のとき﹁多く観音補陀落のことを話した﹂とあるから、観音信何にあったことは歴然としている。しかし、なおか っコニ界出過﹂の難を会通し、﹁凡入報土﹂を模索しようとした。寸模索﹂は批判の裏返しであるとみてよい。貞慶 に、法然の凡入報土論を批判する意図が根強くあったからこそ、その理論を覆そうと試みたのであろう。したがっ て、かねてから述べてきたように、貞慶の法然浄土教批判の中核はまさしく、ここにあったといってよく、それが 鋼 生涯続き、貞慶自身の信仰のあり方そのものにも大きな影響を与えていったと考えられるのである。 このように検討してくると、﹃心要妙﹄は弥勅と弥陀を出しながらも、三界出過 ( M W凡入報土)の問題を認識す ることによって、弥勅浄土信仰に比重を移した噴の書であったということがわかる。しかし、同時にまた観音につ ω いては深くふれられていないことと、貞慶の最終的な信何が観音信何にあったこととを勘案すると、同じく三界出 過の問題を提示した書ではあるといっても、﹃心要紗﹄の方が﹃観世音菩薩感臆抄﹄より前に作成されたものであ ったことが明らかに知られるのである。 ここで、弥陀信仰に関する年代の明確な書物を一つの判断基準として示したい。それは一つに、建久三年(一一 九二)七月二十日に撰述された﹃発心講式﹄である。この書は山田昭全氏等によって翻刻紹介されたものであるが、 ω そこには明らかに弥陀信仰が示されている。これについて新倉和文氏は、﹁報釈迦恩﹂﹁仰弥勅化﹂﹁帰弥陀願﹂の 順に段が設けられ、釈迦・弥勤・弥陀の三尊信何が成立していることを指摘しつつ、貞慶が﹃発心講式﹄を撰述 闘 した﹁深意趣﹂として﹁法然浄土教への批判﹂があったとの見解を示している。ここで、あらためて﹃発心講式﹄ を熟読してみると、本書は阿弥陀仏に関する﹁文集﹂であったことがわかる。貞慶自身も奥書に、 日々の礼舗のために、この文を抄し畢んぬ。私の語を交えず、聖言を綴るの何。 と述べている。その書が法然批判を内在していたという新倉氏の指摘には興味深いものがあるが、今これを今回の 研究視点から見てみると、その奥書に、 貞慶撰『心要紗』の撰述年に関する一考察(楠) -133一

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間 但だ世尊の思に依りて慈氏の化を受け、知足天上の安養浄土院に於いて、しばらく弥陀に奉仕せん。 とある点に注目したい。文中の﹁知足天上の安養知足院﹂とは、明らかに三界内に仮託された化土を意味する。し たがって、この時点での貞慶の弥陀浄土信何は、三界を出過した報土ではなく、三界に化託された化土に対して向 げられたものであったことが知られるのである。とすれば、建久三年(一一九二)に成立した﹃発心講式﹄の時点 で、すでに弥陀報土への往生を願うあり方から弥陀化土への往生を願うあり方に変質していたことになるのである。 この変質は法相教学に基づく思想の深まりと法然浄土教への批判によるものと考えられるが、明らかに弥陀信何か ら弥勤信何へと比重を移していく過度期の著作であることがわかる。したがって、﹃心要紗﹄は少なくとも﹃発心 講式﹄が撰述された建久三年(一一九二)七月二十日以降の成立であったことが知られるのである。 次に注目したいのは、建久六年(一一九五)正月十日付の﹃子島記注﹄の奥書である。そこには、 建久六年正月十日、笠置山において子島二巻記を読み始め、同二十九日、粗ぽ上巻の功を終える。上は世尊の 恩徳に報い、中は弥勤の値過を得、下は春日大明神の加護を蒙る。臨終正念の大事を遂げんと欲し、暫く念仏 の単修を抑えて、再び稽古の広業を交える。是非の問、進退測り難凶。 とあり、それ以前は﹁念仏の単修 L のみを行なっていたが、この時点より本来の広い修行に切り換える意志(かっ 弥勤の値遇を求めていく意志)が明記されているのである。これに対応する文が実は、﹃発心講式﹄にある。すな わ ち 、 修行の門の広略は帰依の誠に随いて宿縁をば自ら感ずるなり。予が知き者は未だ専修の行を得ず。また、広学 側 の望みもなし。蒙々緩々として生涯、将に暮れなんとす。 といい、寸広学﹂を望むほどの力もなく、﹁専修の行 L の実践さえもできていないと嘆いていることが、建久三年七 月の﹃発心講式﹄には見られるのである。ここでいう﹁専修の行﹂が弥陀念仏であることは﹃心要紗﹄に、 s a 丹 、 u 龍谷大学論集

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問う。諸行は一ならず。何ぞ唯だ念仏のみなん。答う。﹃十住論﹄に難易の行を説くに、念仏をば易行となす こと海路を往くがごとしと。:::念仏三昧は専ら末世の心意散乱根機転劣のもののためなり。もし念仏にあら ずんば、仏を見ることを得ず。末法万年、余経ことごとく滅すれども、弥陀一教のみ利物ひとえに増す。況ん や像法のとき、聖教ことごとく存す。宣に成ずるを得ざらんや。:::もし十念を具すれば必ず浄土に生じ、必 ず 仏 道 を 成 、 ず 。 と述べていることで明らかである。およそ﹁専修の行 L というのは、﹁乃至十念﹂と誓う弥陀の本願がなければ成 り立たないといってよい。そこで、このような認識のあった貞慶は、それから二年余りにわたって弥陀念仏の専修 を心がけたわけであるが、それも建久六年には断念し、建久三年時点では﹁望みなし﹂といっていた﹁広学の行﹂ に再度、切り換えていったことが知られるのである。そして、注目すべきは﹃心要紗﹄が法相教学におげる﹁広学 の行﹂を体系化した書に他ならないという点である。このように見てくると﹃心要紗﹄は更に、貞慶が﹁広業﹂へ 心を転換させた建久六年正月十日以降の撰述であったということになるのである。 このことを裏付ける資料が今一つ存する。それは、貞慶の﹁遁世 L と﹁聾居﹂の記事を掲載した﹃讃仏乗抄﹄第 八 で あ る 。 そ こ に は 、 大功、将に終らんとするころ、一百日間、しばしば社壇に詣す。その年の春、漸く世累を遁れ、次の歳の秋、 永く塾居す。誠に法力を知るなり。神徳なり。末代の誰か空しと調うや。 と記されている。ここでいう寸大功﹂とは﹃般若経﹄の書写を意味する。﹃般若理趣分奥日記﹄によれば、 およそ去んぬる養和二年十一月二十七日より建久三年十一月二十七日に至るまで、首尾十一箇年、深重の大願 仰 を発し、この経一部六百巻を書し奉る。偏に上生内院、見仏間法のためなり。 とあり、貞慶は養和二年こ一八二)十一月二十七日より建久三年(一一九二)十一月二十七日までの十一年間、 貞慶撰『心要紗』の撰述年に関する一考察(楠) p h u 句 、 υ

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ひたすら上生内院・見仏閣法のために﹃般若経﹄六百巻を書写していたことが知られる。この書写の功が前掲の ﹃讃仏乗抄﹄にいう寸大功﹂にあたり、書写を終えようとする頃の十一月より百日間にわたって、貞慶は春日社に 参詣しているのである。したがって、遁世年を示す寸その年の春﹂とは翌年の建久四年二一九一ニ)の春をさし、 また塾居を示す寸次の歳の秋﹂とは建久五年ご一九四)の秋(七月

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九月)を意味していたことにな旬。このよ うに見てくると、貞慶の笠置塾居は建久五年秋であったということになる。そして、笠置寺への聾居が、弥陀を中 心とする釈迦・弥陀・弥勅の三尊複合型の信仰から、弥勅を中心とする釈迦・弥陀・弥勅の三尊複合型の信何への 変容を内在するものであったと見れば、﹃心要紗﹄は﹁単修を抑えて再び広業を交える﹂ようになった翌建久六年 正月以降に撰述されたものであったことが傍証されるのである。以上の点より、﹃心要紗﹄の撰述年を建久六年 (一一九五)正月以降と考えることにしたい。 四 ﹃大日本史料﹄所収の﹃大内文書﹄﹁解脱上人御形状記﹂ならびに﹃山城名勝誌﹄によれば、貞慶は命終に臨ん で西南の方角に向かって端座し、観音の宝号を唱えつつ入滅したと伝えられている。これは臨終正念の思想にもと づく臨終行儀といってよいが、このような事例が空也や永観・最澄・法然等に見られたことは、すでに別稿におい て指摘したとおりである。貞慶も早くから臨終正念の思想をもっていたようで、従来は笠置時代の﹃臨終之用意﹄ と海住山寺時代の﹃命終心事﹄の二書のみが広く知られているにすぎなかったが、筆者は近年、﹃唯識論尋思紗別 要﹄の中にも﹁命終心相 L という論義科文のあることに気づき、これを翻刻研究して世に広く紹介した。前二書に は撰述年代が記されていなかったため、貞慶がいつ噴から体系化された臨終正念の思想を有していたかは明らかで はなかったが、﹃別要﹄の﹁命終心相﹂の発見により、少なくとも建久八年ご一九七)には貞慶に体系的な臨終 n h υ q t u

' よ

龍谷大学論集

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正念の思想のあったことが明確となったのである。なぜならば、﹃尋思紗﹄の奥書に、 去んぬる建久八年丁酉閏六月二十八日、唯識論に就いて聯か愚抄を企つ。もとより微功なし。また廃亡して漸 くに四年を送る。何ぞ緩怠なからん。ただし同門の良公、常に来たりて臨するの問、粗ら余の愚を示して、こ とごとく本書の大意を抄せしむ。すなわち、摩尼抄一部三十二巻なり。去んぬる冬の末より今春の始めの五十 余日、両三人と巻々の大事を談じ、筆を馳せ、七十余条を記し了んぬ。六月一日より九月上旬に至る首尾百日 ばかり、重ねて先度の余残を継ぐ。:::・:時に建仁元年半酉秋九月十一日、笠置山般若肇の草蓄においてこれ を 記 す 。 沙 門 貞 慶 とあるように、﹃尋思紗﹄自体は建仁元年ご二

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こに成立したものであるものの、その構想はすでに建久八年 には出来あがっていたことが知られるからである。この﹁命終心相﹂という論義科文は、法相宗の他の文献には一 切見られないものであり、特に貞慶が立てたテ l マである。それほどに貞慶は臨終正念ということに深い関心を寄 せ て い た の で あ る 。 これで貞慶の臨終正念をテ l マとする書物は計三書となったわけであるが、この他に近年になって東大寺の図書 館より発見した﹃観世音菩薩感慮抄﹄にも、臨終正念に関する濃厚な記述のあることが明らかとなった。すなわち、 その﹁第三臨終加護﹂において貞慶は、 臨終の用意は、二世の大要なり。もし平生に深く錬磨せざれば、定んで最期に違乱あるべし。 ω 年の行に過ぐ。順次の昇沈はただ此の事に在るか。 一 念 の 善 悪 は 百 といい、最期の一念において順次生に浄土に生ずるか地獄に堕ちるかが決まるのであり、平生より臨終正念を心が け錬磨しなければ最期の時に違乱の生じる恐れがあると明確に述べているのである。そして、臨終の利益について は観音が特に勝れているとして、次のように述べるのである。 貞慶撰『心要紗』の撰述年に関する一考察(楠) 勾 , . 9 a

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愛に不空絹索経の中に、臨終の勝利に総じて八法ありと。すなわち文説に云く、︹略︺と。仏子、憲むところ 祇だこの事に在り。およそ諸仏菩薩の本誓悲願も、顕密聖教の勝利の巨益もみな衆徳を兼ねて取捨し難し。別 附 して臨終の利益を施す。未だ此の如き経を見ず。 と。そして、貞慶は﹃不空絹索経﹄の第一法をもって、次のように示すのである。すなわち、 命終に臨むとき、先ず観自在菩薩は芯舞の像となって、その前に来現したもう。歓喜踊躍す。行者の至要は専 らこの時にあり。病を慨げき老を兼ねる身心は短弱なれば、臨終大事なり。自力をば癌むべくの聞は、常の沙 門にあらず。また来意の中に、威な口口。愛に我に告げて云いつべし、﹁汝、我を知るやいなや。我は是れ観 自在菩薩なり。汝、深く仏語を信じ、久しく神呪を侍む。我、哀感するが故に、いま来たりて加護す。罪障漸 く滅ず。怖畏を懐くこと勿れ。宿縁たがいに深し。汝、我がところに来れ﹂と。時に仏子、参見して慈悲の質 を見る。正しく彼の慰誌の音を聞くを得て、渇何の思い、歓喜の涙あり。いま何ぞかく言うや。善悪の臨終、 知識と凡夫の一言もなお以て睦んとす。何に況んや大聖化身の眼前の教戒においてをや。時に、あるいは光明 を現じ、あいは香気を薫じ、精気を冥注し、その体の死をば減、ず。身心軽微なること禅定に入るが如し。広大 の得解、忽然として生起す。所作の善根、語りて後に増長す。大威徳あり。龍天善神、しばしば向かうことあ り。般若蓋所得の威徳の致すところの巨益、此の知し。況んや観自大士の応貌等覚深位の方便においてをや。 ω 何なる徳ぞ具せざらん。何なる力ぞ成ぜざらん。 と。講式の中の一部分にすぎないものの、まさしく観音の来迎を願う臨終正念思想が展開していたのである。この 中で貞慶は、自らのことを﹁行者﹂といい、﹁仏子﹂と述べている。しかも、病を得て老いてもきたので身心とも に弱くなったと嘆いている。かつては自らを侍む自力の思いもあったのであろう。しかし、そのような自力のあり 方をいつまでも保てるのは常の沙門ではないといいきっている。弱い身であるからこそ、観音の加護がありがたい。 。 民 U 9 0 龍谷大学論集

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その観音が﹁我が所に来れ﹂という。ここに深く貞慶は心を引かれた様子がありありと示されい旬。臨終の時には 枕元に善知識や知人(凡夫)が集まり、教戒してくれる。その一言でも大きな力を持つのだから、観音の教戒はな おさらであると貞慶はいう。いよいよ臨終という時になると、観音が光明を輝かせ香気を漂わせ、我が身に精気を 注ぎこみ、死をのばして、禅定に入った時のような軽やかな身心に整えてくれる。そして、その時、広大の得解が 忽然としておこるのであると貞慶は述べている。そして、今まで般若蓋において得てきた功徳の数々が、このよう な巨益をもたらすのであるといい、観音の徳と力とを讃歎しているのである。これを見るかぎり、笠置の般若壷に 住していた頃から観音信何が確立し、観音の臨終来迎を願っていたことが知られるのである。ただし、貞慶にまだ 弥陀への思いがあったのか、この段の末尾になると、 我もし最後のときに大聖化身を見れば、あらゆる求願をばみな満足するを得。就中、第七法の随願往生に、諸 仏の浄国はすなわち是れ化現なり。芯調、路を示して持呪の行者を引導すれば、後に随って往詣せるなり。も し西方の紫雲に乗ずれば直かに安養界の宝池に生ず。南海の蒼波を渡れば、しばらく補陀落山の石室に住す。 と述べているのである。これを見れば、貞慶の最も行きたいところは、やはり弥陀の諦土であった考えざるをえな い。しかし、前節でも示したように、貞慶には﹁三界出過﹂という大きな壁があった。そこで、﹁南海の蒼波を渡 れば、しばらく補陀落山の石室に住す﹂と述べたのであろう。ちなみに、観音の臨終来迎を求める前の文と今の文 との聞には、前節で引用した寸大を捨てて小に就かん﹂の文章や、コ﹂こを以て臨終の時、弥陀降臨し聖衆囲績す とも、感得はなはだ難し。観音一身の沙門の形相は、彼に対して以て易し。彼は大にして此れは小なれど、敬って 静うべからず。もとより仏子の自の分を量り、浅近の望みを係けるが故なり﹂等の文章があるのである。したがっ て、﹃観世音菩薩感鷹抄﹄は明らかに、弥陀信何から観音信仰へと比重の移ったときの書であったことがわかる。 と同時に、﹃観世音菩薩感臆抄﹄には前節ですでに指摘したように、﹁極楽を欣い兜率を欣う世間の風潮﹂を云々し 貞慶撰『心要紗』の撰述年に関する一考察(楠) -139一

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ているくだりがあるから、本書はまた弥動から観音へと比重の移ったときの書でもある。したがって、これらを勘 案すると﹃観世音菩薩感臆抄﹄はやはり、﹃心要紗﹄より後の撰述であるということになる。 いずれにせよ、貞慶にとって臨終正念の思想が重要な位置を占めていたことは明らかである。そこで次に、この ような臨終正念の思想が弥勅信何においても見られるのか否かを見ることによって、﹃心要妙﹄の撰述年代の特定 をさらに進めたいと思う。

ここでまず認識しておかなげればならないことは、貞慶が建久六年(一一九五)と正治元年(一一九九)に寸病 悩﹂しているという事実である。すなわち、﹃春日権現験記﹄に、 建久六年九月のころ、大和国宇陀郡にて、上人病悩のついでに、大明神託宣の事ありけるを、病者心の中にも し大明神まことにつかせ給はば、本心を失ふべきに、さもなきこそ疑はしけれと、柳不信に覚えける。きる程 に、やがて託宣ありて、:::汝は我にをきて宿縁ある者なり、臨終正念なりといふとも、何ぞ加護せざらむ。 正治元年の秋、解脱上人笠置の草庵にて重くなやみ給いげるほどに、八月廿日酉時ばかりより、常ならぬ気色 いできて、房中の人を集めて急ぎ居所をさうぢし、浄衣を著して大明神の御座とおほしくて、俄に堂の櫨盤の うへに錦の切を敷きて、同朋どもに麗水して香呂を取、威儀を整へて惣檀あり、:::念仏は一高反にでありな ん、四高反をばひとへに学問等にあてよ、:::臨終正念上生内院と称へよ、我兜率天にまうでて、よりより慈

ω

尊 を 拝 み 奉 る 。 と記されている。このとき貞慶は四十一歳および四十五歳である。いずれにも病を得て臨終を思うあり方が示され -140一 龍谷大学論集

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ついに命が終わると思ったのか、臨終の式を行なっていることが知られる。 人生五十年の時代であれば、たしかに寸死﹂を感じる年である。そして、このような諦観がまた﹃観世音菩薩感臆 抄﹄に見られる﹁病と老による身心の衰え﹂をもってする切実な臨終来迎の願いとなってあらわれたものと考えら れるのである。もちろん貞慶は最晩年にも病気をしている。﹃観心為清浄円明事﹄にも、 病の席の雑談は多く観音補陀落の事に在り。初心同法等の云く、此の事、廃亡あれば組ぽ記せしめんと欲す。 如何。答う。何事かあらん。よって始めて少々、先の言を思い出し、書き付けらるるの人あり。また云く、あ るいは失し、あるいは背く。ただ、この事は口筆を以てこれを記すべしと、云々。その後、臥せながら詞を出 ω す。首尾散散。また注付の後、自らこれを見ず。気力の衰えは日を遂い、微音の言語も分明ならず。 とあるように、病床の枕元で口述筆記された書が﹃観心為清浄円明事﹄であった。しかし、このとき貞慶は病と老 に勝てず没しているから、当然ながら﹃観世音菩薩感臆抄﹄を書くことができない。となると、話は本題からやや それるが﹃観世音菩薩感臆抄﹄もまた、建久六年から正治元年にかけての病悩の後に撰述されたものであったと考 えるのが妥当であろう。そして、これらの流れと符号するかのようにまた、最初の病悩の翌年にあたる建久七年 (一一九六)に著された﹃弥勅講式﹄に、濃厚な臨終正念の思想が現れてくるのである。 もともと臨終正念(臨終来迎)の思想は阿弥陀仏に関するものが一般的であり、貞慶も当初はこれを継承したよ うであるが、貞慶の場合の特色はそれが後に弥勅や観音においても顕著に示されたという点にある。ところが、 ﹃心要紗﹄には﹁命が終って後に兜率内院に生ずるのが自分の願いだ﹂といいながら、弥勤に関する濃厚な臨終正 念の思想はまったく見られない。ただ阿弥陀仏と並列的に次のように記す程度である。すなわち﹃心要紗﹄に、 すでに発心せる人は暫時の願と須奥の行とをもって必ず往生すべし。十念の心力は余に超えて広大なるが故に、 発心の成就は設い得がたかるべくとも、発起の後の願、臨終に成じ易し。何に況んや上生の因となして真実の ている。ことに正治元年のあり方は、 貞慶撰 r心要紗』の撰述年に関する一考察(楠) -141ー

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心を求む。みな是れ上生の因縁なり。何ぞ唐謂ならん。況んやもし人あって、我れ深く弥陀弥勤に帰し、仏力 むなしからざれば必ず来迎を得んと思いて、この決定の意楽に住して能く念仏等を行ぜんの人、多くは是れす ω でに普提心を発すなり。 とあるばかりであり、﹃観世音菩薩感臆抄﹄等の如上の四書に見られるような切々とした迫力ある臨終正念への情 意はまったく感じられないのであ旬。ところが、建久七年に撰述された﹃弥勅講式﹄になると、 第四に正しく上生を遂ぐとは、三国の風儀によって、すでに内院を欣求す。臨終正念にして、すべからく本懐 を遂ぐべし。それ生涯に終わりあり。一期、遂に窮まらんの時は、願わくは少病少悩にして、身心痛むことな く、天神擁護して速やかに魔障を離せんことを。あらかじめ、その期を知りて死を待つことは客の如くして、 善友の外に助けて一心に念仏せん。時に、寂箕たる窓の中に、香煙、細く昇り、碧落の空の外に、笠歌、風か に聞かん。弥勅菩薩、眉聞の白事大人相の光を放ちて、無数の天子とともに摩詞憂茶微妙の華を雨らし、安庫 雛々として漸くに眼の前に近づかん。:::そのとき諸の天子あって、華を散じ楽をなし、我を嘆めて言く、善 いかな善いかな善男子、汝、闇浮提に於いて、広く福業を修して、行願、空しからず。此の処に来生せり。此 処をぱ兜率陀天と名づく。今、此の天の主をば、名づけて弥勅と日す。汝、当然に帰依すベし。:::このとき 菩薩、其の宿縁に随って、ために妙法を説く。妙法、宣に他の教ならんや。知るべし、唯識中道の法門なり。 関 昔は扶桑の堺に在って、僅かに蹄闇五分の伝来を悦び、今は摩尼の蓋に親たりに昼夜六時の法輪を聞く。 といい、特に一段設けて、弥勅に関する濃厚な臨終正念の思想を明確に示しているのである。この貞慶撰﹃弥勅講 式﹄が収録されている宗性編纂の﹃弥勅如来感臆抄﹄第一は、平岡定海氏が寸笠置における貞慶の弥勅信仰の行状 聞 舗 を中心とするものである﹂と指摘しているように、いわば寸貞慶の遣事を継承・追慕する﹂意味で編纂されたもの であったといってよい。したがって、﹃弥勤如来感鹿抄﹄第一の前半の作品のほとんどは、署名の有無に関わらず -142一 龍谷大学論集

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貞慶の作品であったと見てよい。このことは無記名のものの奥付年代によっても推定できるのである。その中で、 臨終正念を明確に説くものは他に﹃別願講式﹄があり、また別の二編の﹃弥勤講式﹄にも、臨終正念の語句を見る ことができるのである。もっとも、後者の二編の﹃弥勅講式﹄(一つは建仁元年 H 一 一 一

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一年撰述)には濃厚な臨 終正念の記述は見られない。これに対して﹃別願講式﹄には、特に﹁願最後臨終之時殊蒙霊神加護﹂の段が設けら 倒 れており、濃厚な臨終正念の思想を窺うことができる。 実は貞慶は、前々節で引用した﹃子島記注﹄においてすでに﹁弥勅の値遇を得て臨終正念の大事を遂げんと欲 凶﹂と述べている。しかし、それが本格的な濃厚な思想として展開していくためには、﹁死 L を目の当たりにする という機縁が必要であった。それが建久六年の﹁病悩﹂であり、その直後の建久七年になると、ついに濃厚な臨終 正念の思想の示された﹃弥勤講式﹄が作成されることになるのである。ちなみに、貞慶は建久六年十一月に般若蓋 完成の敬白文を作成しており、これが﹃讃仏乗紗﹄第八に収録されている。すなわち、 敬って白さく、大般若一部六百巻を書写し奉る。:::黒漆の六角経蓋一基を造立し奉る。:::板葺の六角三聞 の精舎一宇を建立し奉る。:::右、正法をば久しくせんと欲し、利益をば遠くせんと欲するに、その基を堅め ず。宣にその事を全うせんや。伺って慈尊の霊帽をトい、当山に契り留まり住す。去んぬる年の八月、始めて 棟梁を上げ、土木の構、二年にして終る。査し善知識の力なり。これを般若蓋と号す。:::茅葺五聞の一面僧 坊一宇を起立し奉る。右、方丈の室なり。身を容るるに足るべし。:::願くは命終の時、決定して加護せられ、 :::兜率に上生せん。慈尊、加被して引摂・結縁したまえ。:::建久六年十一月沙門樺貞慶敬目。 と。これを見ると、貞慶は建久五年八月に上棟した茅葺の六角三間の精舎(般若蓋)と茅葺五聞の一面僧坊(貞慶 の住居)とを建久六年には完成させ、十一月になって上生兜率の願いを込めた敬白文を著していることが知られる。 したがって、九月に発病した貞慶の﹁病悩 L はひとまず十一月には回復していたことになる。ところが、その後も 貞慶撰『心要紗』の撰述年に関する一考察(楠) 9 0 a a τ 唱 E ム

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体調不良が続いたものか、本節の官頭に引用した﹃春日権現験記﹄によれば、正治元年(一一九九)の秋には重篤 となり、弥勅についての臨終の儀式を行ない、兜率内院への上生を欣求していることが知られるのである。したが って、この頃の信仰の中核は間違いなく弥勅信何であったといってよい。 以上のように、貞慶には建久七年から正治元年にかけて、顕著な弥勤についての臨終正念の思想が認められる。 ところが、﹃心要紗﹄には、このような弥勅に関する濃厚な臨終正念の思想はまったく見られないのである。した がって、﹃心要紗﹄は病悩以前の建久六年こ一九五)九月以前の作であったと判断することにしたい。

結語

今回の論考によって、﹃心要紗﹄は建久六年の正月から九月までの聞に撰述された書であるという結論を得た。 この年、貞慶は四十一歳であり、教学研鎖も充実してきた噴である。そして、この年はまた、すでに指摘したよう に笠置に遁世(建久五年)した頃でもある。この噴の信仰は釈迦・弥陀・弥勅の三尊信仰となるが、さらにいえば 弥陀信何(釈迦弥陀)から弥勅信何(釈迦弥勅)へと比重の移った時期であったといってよい。弥陀念仏の単修を やめて弥勅念仏 H 唯識観という﹁広業﹂に転じた貞慶の複雑な心境が、﹃心要紗﹄には隠すことなく赤裸々に記さ れ て い る 。 筆者は以前、手に入る資料を元に思想的検討を行い、これを基盤として貞慶の前半生の信仰を釈迦即弥勅信仰で あったと判じたが、その後の新資料の出現によってこのたび、﹃心要紗﹄の撰述年を確定するにあたり、右のよう な見解の修正を試みた。それにつ砂ても感慨深いのは、貞慶の信仰が法相学侶の信何であったため﹁三界出過﹂の 壁がどこまでも根強く影響したということ、および何もかも雑然と信何したのではなく、常に法相教学を根底に据 えて、本願を吟味して願生の浄土を選び取る姿勢があったという従来からの主張が裏づけられたことである。した -144一 龍谷大学論集

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がって、最初期にはまだ世間の風潮の影響を受付て﹁発遣の釈迦・来迎の弥陀﹂という釈迦弥陀信何を持ったもの の、それが﹁一ニ界出過﹂の難によって釈迦即弥勅の信仰へと変容し、ついには随類身(化身)である慈悲深重の観 音へと信何の比重が移っていくことになるのである。 このとき、信仰の中核が弥陀から弥勅に取って変わったのは決して偶然ではなく、すでに貞慶に複合的な形で弥 勤信仰が存したからに他ならない。そして、さらに﹁病悩﹂を経てからの心の動きが観音を選ぶ方向へと移ってい くのであるが、そのときも﹁三界出過﹂の難が大きな壁となったことが﹃観世音菩薩感臆抄﹄には記されていた。 このたび発見した﹃観世音菩薩感臆抄﹄は、実に興味深い書物である。本書は、第一帰依因縁・第二滅罪利益・ 第三臨終加護・第四当来値遇・第五往生素意・第六利他方便よりなるが、その官頭の帰依因縁において貞慶は、 唯識論に種姓は法爾に相を受け繋属す。あるいは多にして一に属し、あるいは一にして多に属す。能化所化の 機縁は皆、法爾種姓に依る。あるいは多(にして一に属し、あるいは一にして多に属す)。属には互いに甚深 の因縁あり。未だ知らず、仏子は誰に於いて縁あらん。ここに釈尊は(此界の教)主にして思徳すでに重し。 弥勅は当来の導師にして、付属をば疑わず。:::また阿弥陀知来の如きは知来の導師なれば、往昔の因縁、 此の土の衆生に契重なり。:::また旧くより裟婆に住する諸大菩薩の本願は他に勝れ、十悪の塵を承受し、大 悲重く、心は常に五濁の鱗を救う。その体は、いわゆる観音・地蔵・文殊なり。王土の口を案ずれば、そのな か是れ観音大士は裟婆世界の中、独り施無畏者と号す。:::まさに知るべし、此界に於いて、弘誓、他に超ゆ

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ということを c といい、多属一・一属多などの種々の形態がある中、貞慶は多尊繋属における一尊帰依のあり方(多属こを自ら 闘 のあり方として、明確に示しているのである。これは﹃成唯識論﹄に説かれる記述を拠り所としたものであり、自 己(仏子)がどの尊と縁あるかわからないと述べた上で、具体的に釈迦・弥勤・弥陀の三尊および観音・地蔵・文 貞慶撰『心要紗』の撰述年に関する一考察(楠) -145一

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殊の名を書きつらね、その中で観音こそ裟婆世界の施無畏者であると主張していくのである。このとき、貞慶は従 来の釈迦・弥陀・弥勅の三尊を中心とする複合型信何から、釈迦・弥陀・弥勤・観音の四尊を中心とする複合型信 仰へと変わっている。そして、その中でも特に観音一噂を選ぶ姿勢を顕著に示すのである。まさしく、寸多にして 一に属す﹂あり方であるといってよい。そして、なぜ自分が観音に帰依するに至ったのかという点についてはさら に、観音信何が玄突・慈思以来の伝統であるとして正当性を主張した上で、 中宗(法相宗)を学んでよりこのかた、深く三笠の神思を何ぐ。いま本寺を離れて当山に住すと睡も、真につ げ俗につげ、癌むところ他なし。是の故に垂迩より本地を得る。過現をもって未来を思うに、溜臨むべきはただ 脚 観 音 の 本 誓 な り 。 といって、﹁観音の本誓﹂に帰依したからであると明言している。要するに貞慶は、多数の尊者を信じ仰ぐものの 頼むべきは観音の本誓、取るべきは観音一尊であると論じているのである。その﹁本誓﹂について第二の滅罪利益 の段が示され、ついで臨終加護等の段へと貞慶の観音論は発展していくのである。 これを見ても明らかなように、貞慶には多仏繋属の思いはあったとしても、最終的には一尊を選ぶというあり方 のあったことが顕著に窺えるのである。貞慶の信何を語るとき、すべての尊を信仰したのが貞慶の特色であるかの ように言うむきもあるが、これを見るかぎりそれは誤りであり、法相教学に基づいて﹁多にして一に属す﹂あり方 闘 を取っていたことが確認できるのである。これはまた法相教学において、凡夫(行者)は一尊の所居しか知見しえ ないと見られていたからでもある。したがって、貞慶の前半生を彩る寸釈迦・弥陀・弥勅﹂を中心とする複合型信 何形態も、その中心は明らかに弥陀、次に弥勅(釈迦即弥勅)だったのであり、中期に示された寸釈迦・弥陀・弥 勅・観音﹂四尊の複合型形態や晩年に示された﹁釈迦・弥勤・観音﹂三尊の複合型形態においては、それが観音だ っ た と い っ て よ い の で あ る 。 -146-龍谷大学論集

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では、貞慶はいつ頃から観音信仰へ﹁転入﹂したのであろうか。残念ながら、﹃心要紗﹄から窺い知ることは不 可能である。これについては、新発見の﹃観世音菩薩感臆抄﹄を中心に、種々の典籍を交えて考証していく必要が あろう。それにつけても、承元三年ご二

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九 ) の 観 音 講 式 で は 、 釈迦・弥勅・観音を以て、仰いで三尊となす。彼の三尊の所居ことに欣求する所な川。 といい、﹁釈迦・弥勤・観音﹂の三尊を示し、弥陀の名を挙げなかった貞慶が、臨末の書である﹃観心為清浄円明 事﹄において再び、﹁予深く西方を信ず﹂と述べた意義は大きい。これは、﹁三界出過しの難があるために諦め続け ていた西方願生の思いが嬬り続けていたことを意味しており、﹁世の人の一向の信 L である法然の﹁凡入報土 L 論 は否定するものの、自らの案をなお模索している所に、貞慶の阿弥陀如来に対する﹁渇仰の念﹂を感じざるをえな い の で あ る 。 もっとも、すでに指摘したように貞慶は臨終のときに観音の補陀落浄土の方角に向かって端座し、観音の宝号を 唱えて亡くなっているから、観音に帰依してから以降は最期まで観音浄土を願生したと見てよい。しかし、それは 教学的壁を越えられないからこそのことで、その根底には阿弥陀仏に対する深い思いが脈々としであったとも推測 される。そして、それが臨末の不安感の中で、表に現れたものが﹃観心為清浄円明事﹄の記述ではなかったかとも 考えられるのである。この点を明らかにするには、筆者が平成年代の初めに薬師寺より発見した﹃安養報化﹄を再 研究する必要がある。ここにも大きな課題があるといってよいであろう。 ともあれ、今回は﹃心要紗﹄の撰述年代を﹁広業 L に転じた後の建久六年(一一九五)正月から九月までの聞と 確定し、﹃心要紗﹄が貞慶の行体系(広業)を理論化した書であったということを指摘して、稿を終えることにし た い 。 貞慶撰『心要紗』の撰述年に関する一考察(楠)

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-147-(1)註 奥 書 に 、 永和五年(一三七九)廿一日夜、宇都宮東勝寺長長坊書写了。小沙弥乗一。生年十七歳。 と あ る 。

ω

大谷大学・龍谷大学・高野山大学等にあり。

ω

﹃日本大蔵経﹄の寸会報五﹂によれば、法隆寺古写本﹃聖教八要﹄を底本として用いたこと、書名については文化十 二年刊の﹃心要紗﹄を用いたことが記されている。なお、対校本も文化十二年の刊本である。たとえば、﹃日蔵﹄六 三・三二九・下に﹁機堪︹異は感と作す︺相応・ : : : : L とある寸異本﹂の当該箇所は版本では指摘どおり﹁感﹂となっ ているし、同様に三三

0

・上の﹁自他利益︹異は楽と作す︺::::じゃ、三三二・上の﹁二利共︹異は二利共の三字を 故 の 一 字 と 作 す ︺ j i --﹂なども、すべて指摘どおりである。

ω

このことは﹃大正新情大蔵経﹄七一巻五

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頁 の 欄 外 に 、 原は文化十二年刊の大谷大学蔵本、甲は日本大蔵経本。 とあることで明らかである。

ω

本書は﹃大集経粋要集﹄と合冊されており、表紙の書名は﹃解脱上人心要抄﹄となっているが、内題は﹃解脱上人御 房心要抄﹄である。ちなみに、龍谷大学の請求番号は﹁ 215 ・ 2 1 1 l W ﹂ で あ る 。 附大正七一・五八・中。 明大正七一・五八・中。

ω

東大寺蔵﹃讃仏乗抄﹄第八巻に、 大功、将に終らんとするのころ(建久三年十一月)、一百日間しばしば社壇に詣ず。その年(建久四年)の春、漸 く世累を遁る。次の歳(建久五年)の秋、永く以て塾居す。 と出る。本論文十三頁を参照のこと。 川間寸霊異﹂﹁奇異﹂等の表現は、平岡定海著﹃日本弥勤浄土思想展開史の研究﹄所収﹃弥勅如来感膝抄﹄収録の﹃沙門貞 慶等敬白文﹄﹃龍華会願文﹄﹃貞慶笠置山詠歌之事﹄﹃沙門信長笠置寺弥勅殿仏供勧進状﹄﹃沙門観俊笠置寺念仏道場塔婆 寄進状﹄﹃笠置寺礼堂等修造勧進状﹄等に出る。なお、右の﹃沙門貞慶等敬白文﹄(﹃感臆抄﹄三八六頁)には、 -148一 龍谷大学論集

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それ笠置寺は古え先帝の代に草創せるところなり。それ人と化して彫を刻むの縁、慈尊感応の徳なり。然れば則ち、 一たびこの地を踏むの人、猶し内院の月を期し、常に我が山に住するの侶、誰か下生の春を隔てんや。 と い い 、 ﹃ 龍 華 会 顧 文 ﹄ ( 貞 慶 ) に も ( 感 雁 抄 三 八 七 頁 ) 、 ここに勝地あり。世に笠置と称す。奇異の瑞像あり。精霊、眼に彰かなり。 とあり、また﹃笠置寺礼堂等修造勧進状﹄(﹃感膝抄﹄三九五頁)にも、 当山は神仙の古跡にして慈尊の霊地なり。その草創の奇異たる石像の絶妙、聞いて疑うと雄も、見て信ずべし。 等々といい、貞慶が弥勤感応の寸勝地L寸霊地Lである笠置寺において弥勅(磨崖仏)を目の当たりにできる奇特に着 目していたことが知られるのである。 側拙稿﹁貞慶の浄土観とその信何│弥勅信仰から観音信何へ│﹂(龍谷大学大学院紀要第六集)を参照のこと。

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拙稿寸貞慶の浄土観とその信仰

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﹂(龍谷大学大学院紀要第七集)ならびに拙稿﹁貞慶の安養説に関する一考察L( 真 宗研究第四十一輯)・拙稿﹁貞慶の法然浄土教批判に関する一考察﹂(龍谷大学論集第四三四・四三五合併号)および拙 稿﹁貞慶の弥陀浄土信何の有無についての再検討﹂(仏教学研究第町号)等を参照のこと。なお、山田昭和全氏の論稿 は﹃貞慶講式集﹄に収録されている。

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大 正 七 一 ・ 六 三 ・ 上 。

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大正七一・六二・下と六三・上。 帥﹃大日本史料﹄四ノ十二所収の﹃大内文書﹄﹁解脱上人御形状記Lに、 ご臨終の式を示され、同月三日、西南の方に向かい奉って端座し入滅す。 と い い 、 ﹃ 山 城 名 勝 誌 ﹄ に 、 建暦元の三、海住山に在って、観音の宝号を唱えて入滅す。 とあるように、貞慶は西南の方角にある補陀落浄土に向かって端座し、観音の宝号を称えつつ入滅したことがわかる。 回日蔵六四・二四・上。 側﹃法相宗初心略要﹄(日蔵六三・三八五・下)に出る。詳しくは拙稿﹁貞慶の浄土観とその信仰│弥勅信何から観音信 何 へ │ L を 参 照 の こ と 。 間輿福寺本。手元にあった資料がコピーであったため、﹁彼三尊﹂とあるところが虫食いのため明確に出ず、﹁彼一尊﹂ 貞慶撰『心要紗』の撰述年に関する一考察(楠)

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-149-と読み間違えた。興福寺貫首多川俊映氏より、ご指摘いただいた。ここに謝意をこめて訂正し、この時点では観音を中 心とした三尊複合型信何の表明であった見ることにする。ただし、貞慶は後に述べるように寸多属繋属における一尊帰 依﹂の立場にあるとともに、一四天下論に立つので、入滅時には観音の補陀落浄土を欣求したことは間違いない。 側前掲の帥を参照のこと。 側新倉和文﹁貞慶の阿弥陀信何と﹃発心講式﹄﹂(岐阜聖徳学園大学仏教文化研究所紀要第 8 号*平成加年 3 月 ) 側抑弥陀如来本願力故、現相好光明之色身事。:::十念口称之業因易市実易。六方恒沙之謹明重市甚重。何強置易而修 難、捨大市就小 O i -彼実可望。此亦為是。凡因果之道大小之相、自浅至深。:::得菩薩位見諸仏身、初見小化身次大 化身。彼墓上舎那、其報仏身云又有十重。以之案之、値遇菩薩尚易仏身。:::本形尚難見。随類一身値遇尤易行。愛以 臨終之時、弥陀降臨聖衆国鏡、感得甚難。観音一身沙門形相、対彼以易。滅罪生善之利益、彼大此小、敬不可静。自元 量 仏 子 自 分 、 係 浅 近 之 望 故 也 。 ( 東 大 寺 蔵 ﹃ 観 世 音 菩 薩 感 麗 抄 ﹄ ﹁ 第 三 臨 終 加 護 ﹂ ) ※なお、今回筆者は右のように﹃観世音菩薩感膝抄﹄の一部翻刻の掲載を試みたが、本書の全翻刻については新倉和 文氏が﹃南都仏教﹄第四号(平成幻年刊行予定)に発表を予定しているので参照されたい(平成幻年 5 月に刊行さ れた)。一部翻刻の掲載は、以下の注記においても行なう。

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拙稿﹁貞慶の浄土観とその信何│弥勅信仰から観音信仰へ L ( 龍谷大学大学院紀要第六集)を参照のこと。なお、 ﹃ 心 要 紗 ﹄ ﹁ 覚 母 門 L ( 大正七一・六二・中

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下)にも、法然浄土教を批判しながら﹁浅より深へ﹂の理論が展開されて い ヲ 匂 。

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当知、越分之事修不可望 O i -以大師釈為護、不都嫌安養欣兜率失。只遮越分望也。 ( 東 大 寺 蔵 ﹃ 観 世 音 菩 薩 感 膝 抄 ﹄ ﹁ 第 四 当 来 値 遇 ﹂ ) 仰夫諸教所讃者弥陀之本願也。衆賢所欣者西方之浄土也。小僧不量涯分、久係願望。 ( 東 大 寺 蔵 ﹃ 観 世 音 菩 薩 感 膝 抄 ﹄ ﹁ 第 五 往 生 素 意 ﹂ ) 帥所居器界設不出過三界之浄土、所感身形設不相好具足之身、於出離無妨。何必為恨。先以観音之国土為我住所。以大 聖 之 一 身 為 能 化 。 ( 東 大 寺 蔵 ﹃ 観 世 音 菩 薩 感 臆 抄 ﹄ 寸 第 四 当 来 値 遇 ﹂ ) 仰大正七一・五八・下。 岡大正七一・六二・下。 A H V F h υ 龍谷大学論集

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凡近代之習、道俗賢愚云我云人思後生者、欣極楽、欣兜率。(東大寺蔵﹃観世音菩薩感臆抄﹄﹁第四当来値遇﹂) 平岡定海著﹃日本弥勤浄土思想展開史の研究﹄所収﹃弥勤如来感臆抄﹄﹁弥勅値遇奉唱敬白文﹂(三八一頁)に、 末代の行者、出離を思うに、人多く弥陀・弥勅に帰し、安養・知足を欣う。是れ皆、世尊の勧める所なり。おのお の機縁あり。是非すべからず。ただし、釈迦・弥勅の三仏は猶し父母君の如し。必ず帰依すぺし。互いに其の行を 助 く 。 と 出 る 。 ま た 、 同 所 収 ﹃ 弥 勤 講 式 ﹄ ( 三 六 回 頁 ) に 、 三国の風俗によって、すでに内院を欣求す。 と 出 る 。 側前掲の仰を参照のこと。 側﹃鎌倉旧仏教﹄三一四頁・上。 倒日蔵六四・二四・上。 側貞慶が﹃観心為清浄円明事﹄で模索した凡入報土の理論については、拙稿﹁貞慶の浄土教批判に関する一考察﹂(龍 谷大学論集第四三四・四三五合併号)を参照のこと。 側﹃心要紗﹄にお砂る観音に関するの記述は﹁念仏門解疑段﹂に、 もし実に兜率内院に列せば見仏開法し、発心得道し、万善成就すべし。文殊・普賢・観音・地蔵等の大智大悲の諸 菩穫も親あたりに礼拝すぺし。(大正七一・六

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・ 上 ) と あ る 程 度 で あ る 。 倒﹃発心講式﹄は、山田昭全了清水聖宥編﹃貞慶講式集﹄(山喜房仏書林*平成ロ年刊)に収録されている。山田昭全氏 は﹃発心講式﹄の翻刻研究によって、早くより初期の貞慶の弥陀信何に着目している。 側新倉和文﹁貞慶の阿弥陀信何と﹃発心講式﹄﹂(岐阜聖徳学園大学仏教文化研究所紀要第 8 号*平成初年 3 月 ) 側前掲﹃貞慶講式集﹄の六

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貰 。 側同右。 側﹃大日本史料﹄第四編之十二・三

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五 頁 。 側前掲﹃貞慶講式集﹄の五九

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頁 。 仰)仰 貞慶撰『心要紗』の撰述年に関する一考察(楠) 噌 E A E D 唱 E A

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