――目次―― 1,原始仏教縁起観の特徴,手島文倉,Humikura TEJIMA,pp.1-14. 2,唐の善導大師に関する問題,常盤大定,Daizyō TOKIWA,pp.15-36. 3,宗教心理学の研究法について,関寛之,Hiroyuki SEKI,pp.37-60. 4,倶舎論上実有思想に対する世親の態度,西義雄,Yoshio NISHI,pp.61-80. 5,宗教現象の社会形態学的説明,デュルケム学派の研究方法について,田辺寿利,Sumitoshi TANABE,pp.81-100. 6,仏教興起の政治的背景,羽溪了諦,Ryōtai HATANI,pp.101-124. 7,預言者ホセアの罪罰観,大畠清,Kiyoshi ŌHATA,pp.125-131. 8,回心の問題,上野隆誠,Ryūzyō UENO,pp.132-138.
9,姉崎博士の『Japanese Mythology』を読む,松村武雄,Takeo MATSUMURA,pp.139-142.
10,新刊紹介,pp.1-8.
ヽ/ l ′ LV し
二
彿陀の縁起観は質に原始沸教の暫畢的組織に於ける基調たるものでぁる。彿陀が成正大長の後自
費法楽の三昧に幾日かを費した時の軌照も此のぼ起の賓相を順路無亜に軌察することであったと言
はれてゐる。それほど重要な畢詑であり乍ら彿陀自身は此に対して詳細な解秤を輿へられたことが
骨てない。縁起の詮明に関する経文の類必らすしも二三を以て止らないが、多くは後世彿弟子の解
繹になるものか、又は彿陀嘗時の彿弟子の解帝と倣されてゐるものかで、俳陀自身の繰起改は極め
て簡単に記されてゐるに過ぎない。此は抑々如何なる理由に依るのであらうか。思うに俳陀大泉の
内容を成すと見らるイき縁取軌は彼が菩提樹下の止︵S岩邑一p︶上り待たる奴︵ま㌣彗急︶.の紡果に外ならぬ。何人も彿陀と同じ辞定三昧に入って分別観照するに非る限り、その縁起軌の質相一里情操
することは不可能である。彿弟子たるものは彿陀が自ら無師狗悟して≡界優苦㌻と自信したる所
以の本領は此の観照に由凍することを知る以上、敢て彿陀の詭明以上に此の枢機に堂々と容殊する
の借越を作し能はなかったでぁらう。蓋し一は彿陀の人格の偉大に感化されし焉めと、且つは又彼
販飴沸教繰越救の特徴原始彿教練起観の特徴
・手 島 文 倉
○ ■■ 二 原始沸教繰越叔の特徴 が六年若修の大泉たる止軌に無限の敬意を表した虐めとであらうか。之が彿陀の操起解詭経文の稀 なえ二の理由であると思ふ。今一つは普時の彿弟子が如何なる教養を持ってゐたかを考・へて見る必 要がある。教養の卦より観れば普時の彿弟子空一類に分って見ることが出来る。婆羅門、王者、武士、 貴族階級より傭門に入れる者は昔時の知識階級を代表する。彼等は彿陀の敷設に接する以前、既に 優政局沙土の哲畢を畢修してゐたことは疑ない。然るに彿陀の縁起軌に現はれし縁起支なるものを 見るに一として彿陀特有のものほなく、皆従妹の哲畢中に説かれた嘗套語である。左れば彼等彿弟 子が初めて併設の縁起軌に接した際には容易にその真意を理解し得るはどの隷備智識があつたに蓮 ■ ′ ひない。孜備智識があつた上に加ふるに説法者の偉大な人格のカに魅せられしと、説法者の雄群能 く何人にも徹底せLめすんば止まざるの巧妙さを駿揮されたであらうとの虐めに併読の縁起軌は比 較的簡潔に完了されたものと想はれる。彿弟子卜して直接縁起に閲す争質問を敢て彿陀に呈する者 の稀〃アりし理由も.阿難が之を許して至浅至浅と稀へし所以も蓋し弦に存する。更に又、傭弟子中 東に教養なき下層階放より出家入門せる者に在っては、斯る重要な哲畢上の問題は容易に任耳に入 り難かったに違ひない。障って敢て質問するの能力もなく、 してゐたであらうと思ふ。斯の如くして昔時の彿弟子は暇使翻って自ら工夫観察する時若干の疑念 無き能はすと雄も敢て之を傭陀に叩かんとする者なく、その虐めに縁起の併設が簡短に記されて凍 たことも大に有り得る理由である。即ち昔時の彿弟子上足は何れも智識教養ある着で.一面には容
3 易に併談の眞意を理解し待たであらうし−他面には同時に彼等が伶囲の牛耳を取ってゐ北開係上. 之一どその値畢純な形を以て優世に侍へ の地位に在らざるが虐め自然時の経過と倶に消滅して従ったとも考ふべきでゐ㌃。之が廃館傭典中 彿詮の割合に簡短なるに反し、後世の彿弟子説の之に関するもの複雑を残すに至った所以であら・つ。 以上は彿陀の繰起軌について先.っ味ふべき第一の特徴である。 〓 傭陀は自ら無師濁悟と言ふ。何等の舌法に則らす、何等の親師に待たす、 依てこそ彼の大壁の愈々三界濁令たる所以を語明するものである。其庭土彼の自信をして一骨牢乎. 披く可らぎるものあらしめたのに相違ない。その大魔の根本基調たる操起覿が全く彼自身の創意に 出で∼従来の世界観と根本的に相違する何物か超然たるものがめつたに蓮ひないと首肯されるので 宇宙開開設︵︼ハr︶讐。g。nie︶でもなべ、若干の時周的纏起を預想するに非れば詭明し難き心理寮生的 解でぁる。彿陀の縁起軌は創造主や第一原因や根本物素や最初の動力囚や質料囚等を想定する所の 述するものと催し、唯その縁起支の組織整然たる所にのみ特畢のらと決する琴の宣ば之れ大なる誤 ある。単著若し傭陀の縁起軌を以て梨倶吠陀以凍の世界観たる開展説︵苫r首m守≦.dp︶の系統を紹 ︵雰yc㌻了gelleti邑一︶の関係を示す唯心論的世界観にも非す、此等の見解こ全く異った所に特徴がある。 三一口にして遺せば傭陀の縁起軌は即ち妹起︵P苦学夢2卓p抑dp︶であつて徒起︵.、r監m抑垂−誓pp監p︶で 原始悌秋鮭起軋の特徹
4
原始儒教妹親裁の特徴
四 万
はないといふのが最も留意すべき所である。甲といふ物理的原因より乙といふ結果が生れ出づる場
合は徒起である。恰も母の胎内よ♭子供が生れる如き母子の関係である。之に反して縁起といふの
は何等物甜的原因を濠想するのではなく、甲といふ.現象によつて乙といふ現象現はれ、甲によつセ 現はれし乙といふ現象偽る1よつて丙といふ現象も亦現はれて凍ざるを待ぬといふ関係を縁起といふのである。徒起は物理的因果関係であるが縁起は論理的必然関係である。前者は寧ろ物理的必然
︵岩野給。︶でぁるが鎮者は寧ろ諭翠的必然︵哲巨eヒ︶である。前者は時間的前後の関係によつて世界の生成卑化を根本原因から詭き下らんとするものでぁるが、後者は客間的彼此の牌係によつて単に人
間世間の曹而の事質を説明せんとするものである。傭陀以前の世界観はその詭明の上に明暗の程度
こそ多少相違あれ、何れも徒起的籠明の傾向があつた。優汲屈沙土の唯心論に入ってさへ何ほ往々・
に七て若干の時間的経過を隷想せしむるやうな心理螢垂的説明牒傾打を全然鹿却することが出奔な
かつたのである。此等の徒起的世界観は皐克第一原因たる根本貰在を無限に追求することになゎ、
巳むを得すして一の仮想︵Pgmエを立てー此虎から説き下らんとす右傾向に陥らぎるを得ないのである。技に傭陀は大に見る所ゐ♭、或る侶想約本位より詭き凍って次第に世界の生成展開する叔
を説かんとする如きは単に思弁の虐めの思器に階下弊あ♭・解脱を求心ベき宗教信仰の嘗面の目的
々遮ること甚だ温かた了りと催し﹁要は現賓の世界の異相豊還して∵漸る貰相の如何にして現欄し
居るやの理由々さへ明瞭ならしめば以て正賓見を得て革の世界を混線することが出水ると観せら
6 れのである。此の鮎よりすると俳陀の世界観は仮想的凄展︵gm息骨g諸逐ほ瑠氾∵茂澄骨志学. ▼J﹁いサニフート ▼− 貰的直観︵Pr乱。g邑i胃heAn筈訂≡g︶によつた牒のと許するこ.とが出水るつ人漂竃事蔓協チ ることは事斉的直観である。考埠死、憂.悲哀、嘩曹之れ苦戚の富相で透る。事賓は事草てしで 之を説明することは出水ない。如何に説明せんとしても同一卒面上にその周類語︵S召牒qje︶と異∴ 類語︵A−1tU−一り貞e︶とを羅列して肯定否定を反復するの外殻明の仕方のな小藩のであそ彿陀の苦蜜 諦︵Dlニ彗≡i⋮−・iy琶e芭F︶は則ち此の事賓の直観を記したものである。 とするには此と他との関係を説くことに依るべきである。之れに依て初めて苦諦の茸和が明瞭列然 ︵︼八一焉ll已de邑ic−ことなるのである。之が即ち彿陀の苦集撃諦︵せ鼓kF監声ml一d蔓乙=芦︶たる縁起 軌に外ならぬ。故に俳陀の世界観は上より︵ぎー⋮訂一1︶説き下るのでなく、下より︵ぎーl宣en︶詭 き上るのである、恰も今日の所謂宗教現象畢的研究の精細と脈絡相通するの慨ありヰ許して宜加ち ぅ。之れ蓋し徒起でなくして縁起と名けし所以である。 斯の如く彿陀の縁起軌は物理的でもなく心理的でもなく全く論理的関係を縁起支の間に詮胡し.て. 以て現賓の人生観、世界観を明かにしたものとすれば彿陀の世界観は畢寛何うい一ムーぺとに月る郁。 夫れは言ふ迄もなく、我々の認識ま軌を離れては世界も以て存すべからや、怒識ま軌あるにユつて 一切諸法有形無形の現象世界も現はれ存することを待と催す所の無事笛諭︵Akつ鼠∽且jな逐ねば 、− ならぬ。一切の世界の差別的舜化は我々の無智無明によつて中等の絶封を見誤る所から現はれ凍つ 五・い一 原始沸教繰越観の件数
β 原始彿教練進級り特散 大 化 た結果に外ならぬから、畢克、人間世間嘗之れ如幻如化の幻影に過ぎすと催す世界幻影論︵H−1u乳? ︼−訂日︶とならざる一ぜ待ないのである。三界唯一心、心外無別法といふ大乗沸教の詞が此の意味を詮 はしたとすれば賓によく彿陀の世界観を穿った句と稿すべきでめらう。之も優波屈沙土以乗の、無 明によつて差別の現象界現はれ、眞智によつて現象差別の蛭枯より超脱することを待と設ける鼻智 解脱ま議の思潮・で汲んで、更に大に之を徹底せしめた世界観たるに外ならぬ。彿陀の世界観が斯の 如く純然たる遜議論的唯心論︵Erkelll旨訂・t−1eOret訂−一e ld邑is−望1¢︶であるといふことは縁起観の最 も著しい特徴の一で、彿陀が自ら三界燭食の自信を堅持してゐセ所以も此に看守るのではあるまい かと想はれる。此一ざ第二の特徴と耕してをく。 三 彿陀の縁起観は普通に十二縁起︵ヲ到d蔓・呈ie藍昌ゴpp監p︶といふ。又十二田操︵守則d蔓ユlidぎエ といふこともある。此の因縁といふ詞は後世の偶数で因︵謬tエと妹︵Pr首ギp︶とを分って説明す る如き意味ではない。縁起することJで因縁圭一一口つた迄である。十二といふのは縁起支︵A厨£の十 二に依て苦の現賓から推究して最後にその必然的存在健件たる無明︵A見守︶にまで到達し、組計し て十二支となるからである。時としては古い経文の中で無明と夫れに操って起る行︵溜巨ぎ︶と の二支を説明せすに行に線って起る所の識︵5鎧首p︶以下の十支を設阻する十縁起と倣すこともあ る。識とは自我の意識である。認識主観である。此の分別事誠に練って客軌の世界も成♭立つし、 J■■■■■1‖. ■
■▼ 生︵J聖Cや老死︵・r弓ヂ≡弓。互の苦戚も現はれて来る澤でぁるかむ讃を第一條件に儀起針説イこ とも大に意味があると思ふ。識に繰つで名色︵宅昌l P旨pP︶あり、名色に縁って識ありとは繰起が時 間的前後の関係でへ仏いことを最も善く詮はしてゐる説明である。若し論理的に言へば名色の客観あ って識のま軌も成卜立っ道理でぁるが、若し認識論的に諭すれば認識ま軌の識あつて客観も客観元 り得る道理となる。故に識と名と色との三者相互に依存すること室二度を垂地に結び立つる場合の 如しと苦へてゐるのである。縁起支相互の関係の如何にあるべきかは此の一例が最も明かに示して ゐる。尖れは時胎から子供の出る如き徒起関係でなく、甲男と乙女とが結婚することによつて一 夫と呼ばれ他は妻と呼ばれる夫婦関係の現はれると同じやうである。夫と婦は同時併立の現象でゐ ㌃。識と名色とも亦斯の如く同時併立の現象に外ならない。左れば名色に繰って六入︵S貴y已M〓︼P︶ ふ∵りとも言はれるが同時に復た誠に繰って六人中りとも耕し得る。主観と客観とが同時に併立する と倶に限、耳、考古、身、意の六成官の共存すべきことを必要とするからである。斯くて讃と境と放 と併荒する所に触︵⊇箋一︶が皆然現はれぎる一ぜ得ない。簡とは根に観れることではなく、心に観れ ろことである。心に触れるとは認識する作用に外ならぬ。巳に認識の作用あれば受︵つed呂P.︶の戚 螢あり、威壁ゐ一っと惧に愛子Qも軋を追求して恨むものを速けんとする心が現はれる。之が即ち愛 ︵、−﹂ユ己−ヱ である。已に愛あれば執著の念即ち取︵已盲d賢一l︶が現はれ、取によつて客観一里貫在化す る右︵︼宴MlノJl︶の作用ふγり・、物ぁり賓在すとは之れ即ち生で、生に即して老、病、死、苦が包合されるこ 原始沸教繰越成の特徴 七
8 とにぢる。然・ゃば誠以下の十縁起は苦戚の賞租を説明すべき必要催件の同時併立関係を他の詞を以 て明示したるに外ならぬこと毛頭疑ひはない。或る彿典では、毎に練って識めり、誠に繰って観あ り.偶に繰って受ふ∵り.受に繰って変あらといふ五縁起を説き、更に循環して愛に繰って行あ♭、 術に繰って識あらといふ如く循環線起を説くものもある。傭陀が縁起を順逆無適に観察したといふ その一部分は斯の如き循環線起の法であつたかも知れない。未だ具標的の考病、死に言及してゐな いけれども.愛によつて行あり、毎によつて誠ありと倣す所、既に明に差別的現象舜化の苦情に逼 迫せらるべき心理を充分認めてゐるとm心ふ。五盛陰苦は弦に明らかに個髄孤立観念の悲哀を物語っ てゐると‖心ふ。斯る術環線起の説から考へても彿陀の縁起軌が苦戚の賓相を認識論的にか論理的に か説明したまでゞ、決して物理的因果関係からではぢく、心理発生的前後の脚係でもないことを容 易に常山‖出凍るであらうと附心ふ。十縁起文相互の帆係は斯の如しとして、借て十二縁起支としての ∼ 無明と術とは誠以下と如何に闘係するか。術は屡々身、ロ、意の三村に説明されてゐ一匂如く.絶ての 賓行に出乙根源た一三所のもの、個髄をして夫れ特和の差別性を負はしめる所の資性傾向一ざ指すので ある。之は人の認識主観の働きがその人特有の資性傾向によつて特殊化さるべきことを詮は心たに 過ぎない。触⋮明は行の由って凍る併、眞知の故知よりして特殊化されて認識が働︿ことを尭⋮明に縁 って如ゐ♭、行に繰って讃ありと言ったのである。故に線起観の中心は要す一心に誠に在り、若くば 議と名色とり㈲係に在卜 之によつて発し如賓に苦戚の賓粕を説明せんとしたものと許して可なら 原始沸教姓起軋の持徽
9 と信する。藻起支相互の必然的関係とは斯の如き同時併立の意味であることを以て正に彿陀の縁起 軌の箪二特徴と名けたいのである。彼の大衆部の思想の中に.一別那の現貌蓮智を以て速く四諦の 諸相差別を知るとか、縁起支性と翌道支性とを以て無名法の中に列する思想等は明かに此の特徴を 詮はしたものでぁる。絶じて四諦も十二縁起も八正道も唯一の事賓を説明せん食めの分別訣であつ て,何人もその中の︰に徹底すれば他は自ら渾然すべき関係のものである。苦諦に徹底すれば集諦 も滅諦も準椰も自ら判明する。葵城、道に徹底しなければ苦諦の貰和一ぜ完全に捕へることは出水ハ︺ い。斯の如く触⋮明の∴ 識の一、正見︵SPm日裟写i︶の一に根底し1−しも申.り四諦.十二縁起、八正 道に精通す一り▼﹂とになる。彿陀大盤の内容としては唯山の彿智般若︵冒ンヱの大光明でぁつ れを分別観照Lて説明されたから一見して時間的過程を預想せる説明であるかの如く誤解され易く なつたが、賓は全く超時間的な、何ほ言ひ得るならば超串間的写.全く無制約な彿智の皆相を詮は したに外ならぬのである。華厳繹が傭陀大兜の内容を詮はさんとし、単著之を呼んで法界縁起観と 催す.元より所以ありと言ふべし,法界繰起は要するに彿俄の縁起詭の拡充に過ぎぢいのである。 四 更に繰起支の中で最も誤解され易い二三のものに就いて縁起軌の賓和を味って見与フじらば、無 明や、行や、識と名色とい閥係二ど度々悶過となる所でJの・る。無明lを以て盲目意志であるとか、根 本意欲で今匂とか、春在の最終根元の生きんとする意志にあることを明にせんとしたのが無明で、 原始悌赦繰越覿ら特徴
10 一〇 原始沸教縁起載の特徴 無明は夫れ自身としては白目的たるを免れぬけれども賛すれば所謂五麓たるの可能性一ど有する.もの であるとか諭する単著があるが、無明を斯の如く動的宣、積極的な作用をなすものと見るのは誤解 である。之は抑々縁起の眞意を知らず、心理螢生的に見んとする斯から衆た謬見である。彿陀の縁 起軌が如何にもま意説︵く○︼⋮−︷≒ぎー︶であるかの如く誤解してゐるが、賓はま智詭であつてま意詮 とは言ひ難い。白目意志とか根本意欲とか見倣したいとすれば夫は無明でなくして寧ろ行である。 奥の個別原理となるものは行である。無明は畢に中等の中から差別の現はれんとする何等かの理由 が必要であるから.換言すれば絶対の眞智が働いて差別の現象世界を現はすには何等かの第一備仲 が必要であるから、此の第一要件を眞智の映如せる欺憩に名けて巳むなく無明と名けたに過ぎない。 後世の異如来習l 無明悪習の説の如き暫単に於てはいざ知らず、彿陀の縁起覿に詮かれた無明は全 く静的な、消極的ハ仏、畢なる眞智故知の欺に命名したるものに外ならぬと侶する。恰も教諭に於て 耐我︵Pllru嘲エが自性︵Prpkrti︶と結合する研から大︵巳已1旨︶、我慢︵Al一己i−k旨P︶等の一切世界を現 出すると催す際に、紳我が何故に自性に手を出すかと尋ねて、夫は要するに醐我が自性の本性を見 誤ること、無智なること、即ち無分別︵Aまノ■ekp︶による虐めであると傾す、此の無分別なるものを 想定したと同棲であらねば写らぬ。顛分別に積極的の一カがあるのではへ仏い。唯無分別によつて醐我 が自性に作用するのである。旨目的に活動せんとする自性に紳我が一定の方向を輿へる.その方向 を輿へるのは無明にエつて輿へなくとも可いものに奥へること∼なるとい■ム迄である。之が世界願
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現ゎ最初の状態であると説く。恰も無明に繰って行ふ丁りとは教諭に所謂尭明によつて自性が一定の
活動を始めるといふと同棲である。行り活動が世界顕現の第蒜件であ㌢﹂と沸教も教諭も全く同
じい。世界は行によつて在り、行の如く世界は在りとは優汲尼沙土にも説く所で彿陀も同棲詭く所
である。その意味の主意詮なら少しも差支ないが無明を論じて主意詮の由凍と倣すが如きは甚だし
き謬見であらねばへ†っぬと言ふのである。無明は恰も色限寮の如きものであるっ色眼鏡を通じて見
ろが故に世界に色が附くのである。眼鏡そのものに見るカのあらう筈がない。大衆部が心性本渾. 客農l抱煩悩に灘染せらる∼を説いて不浄となすと言ったのも同義である。灘染せらろ∼とは限鋸のために色が附けられ声といふので、眼鏡自身が暮色のカを持ってゐる理ではない。眼鏡を通じて見
るものは教諭の所謂紳我であるが、彿陀は紳我の如きものを説明しへ甘い。強ひて求むれば彼の無明
韮きて明現はれるといふ明︵.≦菅︶である。明は無差別中等の絶射である。若し彿陀折線起を説く場合に此の朋より説き起して生、老死に及んだならば一見如何にも従来の世界観と彷彿たるものに
なったであらう。然し彿陀は孝和死は何に繰ってあるか.それは生によつてあり、生は何に上ってあるか∵それは有によつてふ∵り、乃専行は無明によつてあ㌻りと下から説かれ、無明以上に原因な
きやとの質問に封しては無しと答へられてゐる所、之れ彿陀の縁起軌の特徴と言ふ.べきであらう。又彿陀の教詭わ中にはよく世界一で分って名と色との二つに顕したら、有馬の諸法は常五鹿より成
ると説いたりしてゐるが、此の名色とか五虚とかいふものは畢に輿へられたものとして少しも説明
虎始沸教壕也観の特認12 原始沸教綴起動の特徴 一二 せられたことがないと諭する学者がある。之も誤解でぁる。名色と五盈とは同じことである。﹁所謂 名君、賄、喝念、吏紫、思惟、是属名。彼云何男色、所謂四大身、及四大身所造色、是謂名馬色。L ︵チ声きこ註厨¢旨卓二意舞−2書誌訂rO−idam≦CC小鼓−−抑n室r二星野i c芦m已l夢−1畑野︼山−C旨l≡l註 C⋮亡旨さl■己呂12−=一p己阜P−・茸a2∵d巴FヨCC註r壱、已i一︶とあるによつても自ら明かである。即ち識 に繰って名色あり、名色に繰って讃ありとの相互関係を縦に見れば縁起となり、様に眺むれば五麓 とも名色ともなる。常之れ熱誠ま軌を乾れて超然と存し得べきものではない。彿陀は斯の如き素嘆 的賓在論者では決してハ仏かったのである。此等縁起支の二三についても著しい特徴が窺はれること を注意せねばならぬ。 五 以上姿述する所によつて彿陀の縁起軌に就いて種々の誤解のあること一で瞥見し待たと思ふが、此 の誤解も元凍由凍する朗甚だ青いのであ乙へ︶嬰抄冷や倶合諭を見ると彿陀の縁起軌について苦から 四種の異見が毎はれてゐたことが判る。各々嫁起の解滞に特色があケて面白い。第一は剃郵に約す ろ詭で.一別耶に十二縁起支を具足すと撤すのである。り即ち時間的経過を預想せす、何れも客間的 同時併立関係の必然を示したものと催すのである。正に認識論的唯心論であつて本僅諭的唯心論で へ仏いことを言ったもので今匂。之が恐らく彿陀の豊息に近いもので、正菅沢の傭弟子は斯く言ひ停 へ凍ったに違ひない。大衆布い餌辞もよく此の滑息を表はしてゐる。第二は遭搭設である。前波枝
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生と若干の時間的経過を預想する詭である。先つ心理螢生的世界観と許して宜からう。第三は分位詮
である。所謂三世両重囲果説として有名な樽承で、無明と行を過去世のこと1し、識以下有までを現世のことゝし、生、老死を凍世のことゝして輪廻の説明と催す見解である。第四の遠積読は更に
遼遠な輪廻軌に過ぎない。此の三、四の雨読が縁起を胎生畢的︵望。︼。gi汚F︶に説くので、恰も物理的因果閲係の徒起訟たるが如き軌を呈してゐる。寧ろ彿陀の真意を速かろ甚だしいものと倣さねばな
らぬ。然し此の誤解は漉し経文の誤解から由雄すると思ふ。﹁彼愚痴無間凡夫、無明所覆、愛縁所琴
得識身、彼無明不断、愛繰不華身壊命終−道後受身、温受身故不得解脱、生老病死憂悲苦備﹂とか、﹁共有衆彗不解十二繰法、洗樽生死無有出期、皆悉迷或、不識行本、於今低空後世∵従後世至今世、
泳在五臓之中、求出甚難﹂とか言へば、之が縁起を如賓に知り得ざるが食めに永く生死に洗輯する
といふことを誤解して、生死洗樽の状を説いた縁起であると撤し勝ちである。今少し進んでは識を
六識身と言ひ、生を恋、喝翠で得て命根出現すること∼し、老死を解して老とは諸根篭熟其形腐敗のことなりとし、死とは拾薄給煤命根謝滅のことゝし光り、或は又識を解して﹁最初受年居母胎
減、依粕避藍、讃法具已難所増減、識日放故両生諸避.如是名色固浦具足﹂など∼説くと、全く胎 生畢的解滞に外ならぎるかの如く軌へる。後世の三世因果詭は玄に由雄したのであるが−之は決し て彿陀のとれ一り極めて通俗的方面一で捕へたものと言Åべきではなく−重く彿陀縁起軌の精神を誤解したものと許すべきである。以上四見の中で刺邪説は超時間的の解澤でめるから全く認識論的な諭
原始彿教権趨親¢特徴14 原始俳秋鮭起蔽毎睡虚
一団
理的な必然関係を述べたといふことになるから正しく傭陀の縁起軌を眞解したものであるが、他の 三見は何れも誤解であると億さねばならぬ。斬る誤解が何故に瞥から存したか。それは彿陀時代の 彿弟子に二類あつたことから想像して推論すべきことである。誤解の由て凍る所亦肯しといふこと も縁起軌の特徴の一であると謂って宜い。 要するに彿陀の縁起貌は上述の如き諸種の特徴を持ってゐるものであるから.之を以で梨倶吠陀 の無有歌以凍の所謂螢展詭と気脈を通するもので、印度に於ける妹超勤の模型に依った考へ方であ ると撤すの不都合なる所以は、此等の特徴を吟味することに依て充分明かとなると思ふ。15 蕃填大師は、浮土敦の大成者でめつて、沸教史上に大なる地位を取る串は、錬りに明白ぢ革質で ある。支那にあつては、蓮鹿念彿の剋師として、之を産山の慧速の次に置いて、第二剋と点して居 る。支那の全般からいへば、偶数の現勢力は∵左程に隆盛では熱いけれど.蓮放念彿は、現に上海 や普陀山を中心として、大なる勢力を有するので、随って善導の名が是等合併者の間に、支那沸教 史上の明星として輝いて居る。普陀山法雨寺の印光法師は、屈指の畢徳であつて、恐らくは.後世 に至りて念彿の租師中に加へられる人であらうと思ふが、その文集中に、大に善導を渇仰して居る。 一 日本に於ては、法然ほ、偏依善導の彿敦を開き、親鸞は善導鴻明彿正意と讃嘆して居る。斯︿重要 な位置を取るに関らす、その史侍に至っては、頗る不明であるのみならす、大なろ誤謬さへも加へ られて、而もそれが最近に至るまで明了にせられて居なんだ。これについて、予は西安碑林の隆陶 碑及び寵門威令那蝕銘文の研究によつて、社務畢者の目に観れなんだ新車質を知ら待て、之を大正 暦¢善尊大師に陶†る問癒
唐の善導大師に閲する問題
常 盤 大 定
】6 暦の準尊大師に閻†ろ問題 〓ハ 十四年十二月の帝国率土院に報告したび其後、絵本文三郎氏や望月信亨氏の如き興者の・善導に閲 す一り研究を見るに、隆問碑及び度合邦傭銘文を基礎として居るから、この意見が、畢界に普ねく認 識せられたものと言ってよい。四回に亘って支那を踏査した研究の一端がこ∼に酬いられた事を、 予は衷心より喜ぶのでラQ。度々.知人から之について誌上に書けと勧められたが、多くの人が既 に言ひ逓Lて居るので、雪上の霜までもめるまいと差し接へて居たが、今回.某氏より長安香積寺 の大棚塔について、言ひ越された事を経として、俄にこの一文を草する事にした。 或はこの塔を以て.薄学風接の造址と見て居る人もあるが、これについては、聯か意見があるの で.此際昔時畢士院に報告した事をも、押せて一應叙述する事とする。之を叙述せねば、意味が徹 底せぬからである。
古 来 の 記 侍
善導に就ては種々の問題が雪。H天なりや.二人ならや。曾壷と善道とは・厳密に囁別せ ︶ ︶ らるべきむの打㌻りや。三捨身往生の串跡ありしや。個入寂の年代如何。丑その某所はいづこたrりや。 ′■、︵...:...′〃卜し 基仙.光明寺に閲すろ問題−悟眞寺に関する問題、字浮業に閲する問題、等等、それからそれと・ 長年月に亘って、一つとして決定せられて居なんだのである。若し多数決によるへ仏らば・之要一人 とするのが、或は定論であつたらう。よし三人の間に十一同三異を教へて、同の多きより、之一竺 入牢らんとしても、推定に過ぎなんだ。決定的な根本資料が無い限りは、舌凍の詮を取捨し合離す】7 る外は無いから、如何へ仏る聴明て隼着でも、別に設の立てやうが無いのである。近世に至って一人 説を主張したものに、薗田完慧、佐々木月樵の二君がある、其中に於て、薗田君は捨身往生を否定 し、佐々木君は之を是認して居るの舶違はあるが、一人と焉したのは大によい。然しまだ根本資料 がないので.これも畢寛は推定詭に過ぎぬのである。 古猟の善導に関する記頒を一々叙述する事は、繁甫に堪へぬが、順序上.之を見て行く′ン最初訂 記儲は,唐の道宣の﹁績高帰侍﹂第l一十七の記事であるが、これは造身篇の食通博に附記せられた ︶ ヽ.■■′ もので、それには、一近ごろ山帰善導なるものあり。二西河に至って渡瀬帥に遇ひ、たゞ念彿阿弼 ︵ ︵ ヽ−/ ︶ ︶ 陀の渾業を行す。三昧に京師に入り、虞く此化一軍行す。期﹁阿弼陀繹﹂教萬軍官軍㌔伍時に光明 ︵ ′l ︶ 寺にあつて説法す。六人みり導に告げていふ、今、偽名を念じて、定んで浄土に生れんや不や。噂 ′■一lヽ いふ、念併せば往生せん。その人藤井し託って、HUに南無阿珊陀彿を諦L寒々相次いで光明寺の門 を出で、柳樹の未に上う、合掌西望し倒しまに身を投じ.下って地に至って遂に死す、とぁる。先 づ これによつて、吾人は善導の念彿せる口より.光明を放った研から、光明寺の名が起ったLいふ 樽説と、善導自身が捨身往生したといふ侍設の起った縁起を知る事が出水る。﹁阿弼陀経﹂教萬巷ぉ 寒したといふ事は、薪暖地方より螢推せられたも臥∼中に、願往生比丘善導の焉経のある事によつ て、確たる澄跡を得たのである。道宣の此記傲は、いふまでもなく一人設である。 ︶︶ 次に唐の文詮と少康との共戯せる﹁往仕西方将士萄應侍﹂には、一.酒州の人。ヒ具戒を妙開梓帥 ′l 暦の善導大師に関守ろ問毯 一七
18 唐の巷尊大師に掛†る問拉 一八 ■l/ に受くるに及び、共に脱経を恵る。三遂に締繹師に至り、念備によつて賓に往生を得るや否やを問 ′llヽ ︶ ふ。他年生常に乞食を禦む。㈲﹁摘陀紅﹂を焉す、十萬巻。浄土の菱和を重く、≡育舗。見る所の ︶ 塔廟、惨苦せざるなし。六彿法東に行はれてより、未だ稀師の旛徳あらす、といつて居る。少鹿は ︵ けで、其他は頗る平易なもので、如何にも善導に似つかはしい。けれども、進藤倦の中に、善導が 古二十四年を隔つのである。その記事針見るに、浄土憂相を塞いたといふ事が、薪に豊息すべきだ 彼善導といはれ、卓空一十一年、郎永貞元年︵西暦八〇五︶を以て入寂したから、善導の寂後、正に 入定して、紳帥の≡邦を知った事を記して居るのは、除トに善導を揚げんとして.却って大なる失 を導入したと見ねばならね。 唐代のものにては,獅、道家と善道との共庚の﹁念彿領﹂といふものがぁる。この中には.或は 西京善導閤梨といひ、善導闊梨、在西京寺内といひ、或は善道聞梨といひ、律師西京善道閑梨とい ふ。他の記事は之を措いて、善導と善道とを一人に通用して居るのは、大に注意すべき事である。 これは後に言はんとする所でぁるが、導と追との相違より、二人設を立てる事の浅薄なるを見るに は大なる資料とすべきを、克明に語るものである。 斯くて唐代に於ては、後世の異説の起り得べき除地が、頗る乏しいのであるが、然らば如何にし て典詮が起卜一、最近に至るまで博覧なる畢着までをも、困戒せしめたのであるかといふに、そは賓 に宋代の記銘からである。これには渾山の記事があ一りが、然し今は異説の起りた根原だけを奉げれ
19 ば事足ると思ふから、たゞ二つだけを奉げて置く。 ヽ/ 一は戒珠の1浄土往生博﹂である。これには一何許の人たるを悉しくせす。コ貞軌中に、面河の ︵ ′■tlヽ ︶ 綽席師を見る。ニ轟いて京師に至り,四部の弟子を筆者す。抑草し﹁蒲陀経﹂を葛す、数十萬驚 ︵ ︵ ︶ 散施し受拝す。五或は問ふ、念彿の善、浄土に生る1や、導乃はち自ら阿滞陀彿を念す。是の如く ︵ ︶ 一考すれば、則ちl道の光明あつて、その口より出づ。高宗その寺に額して光明といふ。六導この ′l■l ︶ 身を厭ひ、所属の寺前の柳樹に登りて西に向って願ひ、身を投じて自ら絡ゆ。七京師の士丈夫、城 ︵ を傾けで綜信し、成くその骨を収めて以て葬る、といふのである。衝一人詭ではぁるが、この中に、 早や三偶の誤謬を加へて凍た。光明寺の板と、投身自絶と、士大夫の牧葬とである。その誤謬であ るといふ串は、後に説く所によつて明白となるが、今は唯結論のみを奉げて置くのである。 ‡音の﹁新修浄土往生侍﹂に凍って、初めて二人設があらはれた。第一の箪笥は、戒殊に徒ひ、 たゞ渾土壁舶三富鎗培を書き、象れたる伽藍及び故停滞等を見れば.留悉く魔道すといふ卦に於い ︶ ヽl/ て、少康のを塵酌して居るのみである。琴一の善導について、一臨消の人。二物にして密州の明勝 ︵ ヽl/ ︶ 法師に投す。∈大蔵経に投じ、手に委せて之を揺り、﹁無量書経﹂を待たり。個志違法帥の勝瑞を欣 び、蓬に鹿山に往く。功倣にして理深きは、未だ般舟三昧に出るものにあらすとて、斯の造に畢命す。 ㈲後に迩を終前の悟眞寺に過れ、既にして勝定を得、方に障って物を刊せり。快初・綽輝師の晋陽 ヽlノ に開馳せるを聞き、千里を逢しとせすして、従って問はんと欲す。綽公印ち﹁無量苛粧﹂一ぎ授く。綽 横の蕃尊大師lニ脚†る間庵
コ0 二〇 唐の善導大師lこ開†ろ間組 ヽt■一′ 公その深詣を歎す。入定して綽師の三罪を知る。七導化.京輩に沿ねし。刃浄土の鼻相を塞く。㈲ ︵′一ll, 忽然徴庚あト、長逝す。春秋六十九。時に永隆二年三月十四日な♭、と記して居る。この記事には、 幾多の問題を含んで凍る。少鹿が池州の人としたのを.これは山東臨滴の人とし、従って同じく山 東密州の明勝に徒へりとし.而して叉、慮山恵速の跡を訪へる事、終南山悟眞寺に障れたる雫﹁瑞應 侍﹂に凍って.入定によつて綽師の三罪を知った事を加へて居る。そのいづれも、之・ピ成立せしめ んとして、多大の努力を要しても、檜希望の乏しいと思はれるもの∼みである。たゞ投身白紙のな い事と、入寂わ暗が永隆二年であるといふ事のみが、偶然にも正しいのでぁるけれど.然しこの記 事を根墟として諭せんには、除りに薄弱な史料でぁる。斯くて末代の二人設のいづれにも大なる欠 鮎一で合む。第一の善導には、光明寺と、投身自絶と士大夫の収骨の三失があり、第二の善導には、 臨瀾の人と、終南悟異苛と、綽師三罪の三失がある。長所もまた両方に散在して居るが、然し随意 に之・で取捨して、都合のよいもの∼みを牧草する澤には行かね。しかせんには、■それに細管する基 礎材料がなけねばなら頂。 その以後のものは、煩はしく列奪するに及ばぬが、宋の志磐は﹁彿租統記﹂の第二十六巻には、善 導を出し、第二十七巻には善道を出して居るから.明に二人詭に従ったものでこ∼に凍♭て、導と造 とを区別して居る。清の彰希沫の﹁浄土貿聖像﹂、瑞嘩の﹁丙折畳征﹂はーその後を襲うて.同じく二 人説一ギ取って居ろ。我が法然は、善導の十徳中に、追身入滅の徳を怒げ.良忠は﹁粗鍾玄養分博通
3l 記﹂の中に、二人の書導の問に十〓刷三異を敦へて、耗局一人尤らんと論じ、西本願寺の智客は.﹁連 環集講粁﹂の中に、長安の善導一ぎ造命とし、匪溜の善導を正念牲生として居るから、また明に二人 詭に従って居る。斯く、王古の﹁新修往生侍﹂以後.二人設は牢として抜き難い重要の諒となり、 特に二人を善導と善道とによつて、芯別するは、志解の﹁彿剋統記﹂以後の事である。濁り元の普 度の﹁逆宗賓鑑﹂は、一人詭で、戒殊の詮、又は王者の第一善導詭に従ったのであるが、之一で一人 とするならば、何故に唐代に遡らぢんだかを造舷と思はぎるを得ぬ。 玄中寺、瀬林寺の諸碑について 以上は、これまでの諸説を分別したものに外ならぬ。さて、これより、自分が如何なる経過によ ∼ って、善導僧を薪な材料の上に基礎つけるに至ったかといふ事を、述べて見る。長安碑林中に、﹁大 店質際専政苛ま懐惇奉勅滑降同大法師碑銘井序﹂なるものが保存せ㌻れて居る。この碑は・筆法閻 倣にして、稀途良必至敢序碑の輩意ぁりとて、金石家の間に、音凍重要成せられたものであつたが、 これが賓に善導樽を基礎つける無二の珠算であるとは、何人も気付かなんだものである。−み碑文 の研究は、﹁支郵傭致史蹟許解﹂第﹁の中に、既に螢表して居るが、その文を誤讃して居る単著もあ つ〇︵一〇 るから.今甘夏に委しく之一で諭する必要を威する。碑文中に.浄土念沸点関して.﹁若不乗彿願力. 託貿挿方・別恐論溺長征・清昇永隔﹂といひ、﹁於是言論之際、藤樹時衆−四儀之中
〇〇CO
⊃〇〇〇 つ〇〇 陀彿願、乗此勝因.新年浮城﹂といひ、﹁珊陀俳名、亦望楼超要趣﹂といひ二.又請蒲陀眞偶、十萬鎗 磨り善導大師lこ関†る問粗lヽf) ▲■■■ これについて、先つ言エペき串があろ。支那の金石文小、斯くまでに、深く且つ多く、適切に、 又別白に、浮上念彿に閲し三.‖つて罵るものが簸い。否/ての︰部分〃﹂にも∵∵ロひ衷はして居るも のが無い。念彿・り融曇驚の開基せる、山西石壁玄小寺の﹁俄痛勒像頗碑.tは、道綽緯帥が店の太宗 の柾偲致敬を受けた事を記して屠るけ汀ども、碑帥の念備につひては山言も触れて互い。同じく玄 UC﹀ 中寺め﹁甘茶鶉的砕﹂山小には、追雑犬上が踵覿一ど精修して、渾界に頻れる高風一で、文徳先后山嘉 一、ノ ふせる事を言って屑乙。念偶の片影を伺はせ一?やりは、唯渾界の∴字の一けで.あつて、而もこれとて も弊し禰陀の念備に限る内容を甘するものでないから、追紳の偽教空木すものとしては、頗る物足 らぬ。同‡山千彿閲の壁碑には、恩鸞の開基せる事を言って居る㌧こ正は別に曇鸞の沸教を宗きん としたものでもないから、その碑に何も無いから与し、本川心読もないが.迫紳に牌係あ・り二砕い中 には、少しは念彿に閲す・る文字がぁつても琴Qベしと思はれるが、革質無いのである。元の−時代に 、J、 速く二組の後を嗣ぎて、道友より﹁莫道龍山無風巽、縛他驚神格揃風﹂と賀せられ居る徒寛言え人 が、この玄中寺に居た。予は、大正九年の秋、こ\二ざ訪へ一〇折に、この費を見て、大に苛び、さて碑 文を見るに、別に念備に関係が無いので、そのま∼にして、去ったが、後に碑文の無いのが遺憾に 堪へすして、特に慶大生寧超武君を額はして、其拓本を取り寄せて、之を研究して見たが、矢張合彿 の弔は無くて、力:寛公の膵を習ひ、結蜘聖堂す,︺十有除年にして、一旦恍然として悟るあ弓・、平に 糟ゆ溝噂左肺l二閲†・り問題 逼、即衝和知、齢か加齢敏和動齢就∴∵毛隼卯肺批評得∴と言コ′し管〇 二二
■いt 一−リ 向上直衣飾を偵へた蒋一ぎ言ふに過ぎ氾。支那の猫立念彿の周剋曇鸞が開基し,念備ゎ大成者善導の 帥塀せる道綽の任せる、玄中寺の内外を普ねく探って得た材料は.賓に以上の四碑に過ぎぬ。念備 に掬する材料は、皆無といつて.よいにも閉らす、枠と藤とに関する材料は∵質に豊富であるが、今 は之に嘲れぬ。勿論、蜃鸞も、道綽も、苦境も、日本の偶数着では無いから、梓と描とに於ても.共 に衆の師たるべき程の完成者であつた畢は.我が法然を見ても.想像せられ・て、然しその群が念彿、 軌傲であつた事について.少しは手が∼りのある材料が有りさうなものでは無いかと思ふが∵韓宵 背理号のでぁる。囲碑の全文は、﹁支那彿措辞解﹂第三の中に載せてある。 山西玄中寺でさへも、然︰とすれば、他は之一ざ奉げ一言ムでも無いのであ一〇けれど、念の焉に耕一 っ鹿山の﹁束林寺碑﹂一ピ見る事とする。これは言ふまでも如く▼ 支邪念彿の開祖慧速法師の遺址で ある。碑文は、焙の李監のものであ乙から.東晋レJ慧速の年代一で、邁に下つて屠ろけれど、速赴合体 の根本道場であ.るから、何か之に開設しさうに思はれる。然るにその序の中に、﹁宿根果於福頃 火 00 事前於浄土﹂といふのみで、慧速に閲すろ部分王は注目すべき文字が見えす、基彼の畏碓帥につ.い ノ・ 00〇〇 て、﹁安心堂術﹂といひ、李邑時代の寺キ佳祐等を叙する中に、﹁沐浴廊河、棲北洋華一といひ、飾 r〓 の最優に﹁敢憑挿華永紀席林﹂と言って居るに過ぎぬ。然しこの東埜Tr碑の巾に、浄土、坪牒、安 心柴術の文字の見える山は、玄中寺〇四碑に比すれば、まだ′1材料が多いとせねばならぬが、舶 ィ小物足らぬではないか。この■碑は、﹁支邪傭蹟﹂第二の中に成せてある。山西玄中寺や、江酉束林寺 糖の葦淳大師lこ抑†一ん問題
ご1 中は、念件の道場とLて無類のものである。然るにそこにある稗史の中に、念俄に関する材料の乏
しきは、賓に是の如きものである。汲んや他の碑に堅しをやである。予は渡支踏衷の際に、幾官の
碑を讃んだか分らぬ。又、﹁金石準塩﹂や、﹁山右金石志﹂や、﹁泰山志﹂や等に於て、幾許の金石文に
捜したか政へられぬ。けれども、その′中に於て、食傷に関する文字に接した事が、殆んど絶無であ
る。然るに碑林の﹁懐怖碑Lに至っては、全く異数である。初めからあの碑・ど見るものには、恐ら くは左程に成せぬだらうが、支那踏査の目的の中に於て、少からぬ部分を占めて居る,玄中寺や廃 山に於て.言ふべか′りぎ・り程の寂琴で戚じて潜る自分は、質に懐怖砕に托して、所謂畢肇り思がせられたぃであつた。二れが為に、西京質際寺は、自分に束大の問題となつて居たの′ヾ、龍門の大傭
飾文の、西京賓際寺善道踵帥といふに対して、直に我が善導大師写Qに気付き、賓に名状しがたき 望外の華鱒を戚じたのであ乙。若し滞支の日時さへもあるならば.予は大正十年に於て.龍門の度合郵備前庭に、建碑したのであつたが、何にせよ僅少の昨日を割いて、辛くも踏査するのであるか
ら.その意を通せすして、今‖に及んで堪るのである。大官賓際寺‡懐悌碑について
先つ、正直にこの碑を研究して行′、粥にする。懐怖は紙筆冗載︵西暦六六人︶を以て﹁勅により て両州寺に剃落し.勉動愈々積んで.宜分の造ならぎる一ざ思ひ、三舐の退からぎる・で想ふ祥であつ たが、暗に親鱒二昧大穂末導筐l梨の盛烈を聞いて、雅に帥発を締び、解脱の規一で斬り、.芋掟の願を 研の暮尊大師l二醍l†ろ聞及雲3 督し.一たび妙旨を承けて、十有験齢.秘偶鼻薬.親しく伸展を蒙った﹂のであつた。善導の親許
三昧といふのは、所謂三昧蚤得の事であるに相違ない。懐惇は、之に徒ふ†有除齢といふから、西
暦六六八よ♭、西暦六人一頃まで、即ち璽早元年より永隆二年頃までと見て、何等の矛鳳がない。
これは、王舌の第二善導の寂年に、一致するちのでぁる。王舌は何の畠料によりて之を永隆二年と
したか分らぬが、それが妬かも串賓の異に観れるのである。
懐怖はー‡導より秘偶鼻薬の親授付威を蒙ったが、津南にして、師資早﹁喪ったので、邁烈を想
って崩心し、飴恩を腐りて両面し、安に宅兆を思ひ、式に墳些を建てんとて、遂に鳳城の南紳和原
に於て、憲塔一票軍フしたのであつた。遺烈と云ふの・は、帥善導の何の事蹟を指すものか分らぬが、
むの槍校せる龍門の大底介耶偶像の完成は、上足二年即ち西暦六七五であるから、この事蹟を指示
して居るのでは無いかと思ふ。懐怖は、帥の造烈一で想ひ、除息を願うて、﹁紳和原に憲塔を経てL.之を嘉峨した。これによつて、耳舌の記事中にある。京師の士大夫が、善導の骨一ぎ牧めて葬ったとい
ふの事賓ならぬを知るべきである。
懐惇は、﹁塔側に煩く伽藍を梼へ、それが、堂殿嘩燦、速く仰利を模し.樟季及琴直に砿囲を焉す﹂程の大工事であつた。こ山寺が、後に何といふ名・で有するに至ったのであるか、それが問題となる。
﹁女、寺院に於て、大寒堵妓女造った。塔り周廻二面尭、底上i三級﹂であつた。この塔は、現存 す一りや否や。ニれがまた賓に問題とハ与つて来今りである。﹁.永昌−Ⅶ年︵西暦六九〇︶、勅して法師を徴 磨の昔導火帥l二闘†る同塵26 ノ 三ハ 唐の善導大師に関する問題 して‡まと点したので、懐愕は斐旨む樽へ、用って衆望に酬いん一で巽q毎に軌絆・資護・粥陀等々譲 する、各々数十鱒二じあった。碑文は∵−・れか∴憤仰の信仰問題に触れて、次の如くに叙して居る。 1夫れ我域は、風火を易激し、結滞一で嬰抱す。井︵死り字を脱すムなÅん︶に系れば、無常の知 つ〇〇〇〇〇 期に止まるも事眞を研かば、不轟の虚脱を肇ぢん。若し彿の願力に乗じて.貿を渾方に託せすん ば、則ち恐ら︿は倫溺長く往き、清戎永く隔たん。﹂ 旗の文字与につけ品は、襲彿願力云云は則天皇后の語となるが、この一字は髪㌣義すべき であらうから、以上の文は懐仰の信念を表ほしたのである。そこで懐愕は、﹁言論の際に、懇に峠衆に 〇 00C︵︶︵︶つ〇〇〇〇⊃○、 勤め、四儀の中に、︰心た阿癒陀彿願を専念し、この勝因に乗じて、掛像に生れん一で斬った。﹂新の J 文字を、蕾初は紳と讃んだが、之を熟親するに、前の字で一項るらしい。﹁又、般若の紳児′で以て.能 Oe〇ここ︵㌧ 〇〇〇〇〇 く速に菩提を記せしめ、哺陀の傭名もて、亦簡に悪趣を超えんを苧け、諸除の鮮典を.井上心轟に 梢むと娃も、此の勝繰に於て、戯る智府に遊び、甘て火般若光一笠叩†乙井高に盈んとし、又.蒲陀 000000COつ・い⊃○︵一〇〇C00:ノ︺つ00つ s衰偶を諭する、十試験邁なら、埋ま克精兵ならしめば、版の想念徴と雅もー必す銃㌢、行か土三 つ〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇︵.︶ にすれば、功唐掲にして得るなけん。Lであつた。この懐件の信念と、之に藍ふ貰わとを見る時は、 懐仰が如何に善導の専修念彿の祖述着であつたかゞ分る。巾に般若細川几が・のつた㌧﹁腎護紅Lがあ ったらするので、或はその∵心専念の他力念備に対して、疑問を抱く人もあるかと〓仙ふが、そは‖ 本の円によつて支那を見る上の疑である。一セび支部の大まかな融通的な夙に接†るものには、こ
り ̄ ■_l れがあつても㌻小串念に′イ.盾せぬ準左目得せ、・りれろ。‖木の特に成徳〃絶対他力故山服′で以て見る
■
咋は、茸導くれ口々JJ音感に.於て寸∴.稲々力問題が起乙だ▲lり・うJ 憶陣は、自他の専念を守らんが眉に・良縁として.底く有線に勧めて、九重高率円生六趣の焉に. 一所を造った。﹂この堂は非常な立準・竃■りであつたと記されてJりるごり押上堂は.必す臆両洋上偉
に番郁せる迎軋念彿の道場でJのらう。こ、には高二十三人の串は記されて二いが、北ハ後支那彿教史上 に腔々復興せられた折から推寸ればごれも腹山念偶の復興であ∴うと寮せ−しれるりこの﹁堂内には、阿浦陀彿及び観せ勢至む潰・り、ヌ織成像を造り。﹂又、慈氏の像もあゎ一、憂填像即ち群迦像もあつた一
俵仰は、大足元年d西暦七〇一ノ六十二歳を以て入寂し、神都元年︵再婚七〇空に、次の様な勅 一宝蒙った。才の勅文のま∼が.碑文中に掲げられて居乞 勅。貫際♯ま憶仲。ホ居三界、追撃ハ塵。等心境於鹿賀混発粘於物琴棟梁紺†,徹袖紺徒。 包杖勉之規模・踊乗拓之磨燭。錐已録雇滅、価⋮待於褒揚.然満治友子、触州忘於楯。満吋−幣原偶人法帥。正邪施市。
この生柴死贈を永久に紀念せんとて・天琴一年Jで以一し.弟子大温閣尊詰心圧等の建てたのが、この怯揮脾であろ。
さて、この賓際葦といふぃは、京帥太牛坊にあるそれであらうか、或は華里の巷側に∵懐仰の規
糟の普尊大師・ト醜†ろ間塩 》28
二八
唐の善導大師に鰐†ろ問痙
模したそれでぁらうか−予は必す後者であらうと思ふ。懐惇は、永昌元年に勅して墓例の寺まとせられた。そこには頚名′で奉げてないが、紳龍元年の勅に、賞際寄主とぁる。これは必す同一の寺宝
を指すのもので無くては乍らぬ。前のが墓側苛までぁつて、彼の紳離元年のが京師の賓際寺まに対
する勅であるとしては、二等の寄主となつて、頗る舜なものである。紳龍元年の勅は、賓際苛ま懐
悍に対して、隆闘犬法師を贈る鰯のも砂であるから、この貰際寺まといふは、即ち永昌元年に勅に
よりてせられた苛まに外ならぬ。さて﹁長安志﹂によれば、京帥
元年︵西暦七〇七︶l=温固寺と改められたとあるが、この景寵は.或は紳龍の誤で無からうかと思ふ。誤とすれば、紳龍元年を以て、京師の賞際寺の名が、墓側の寺に移さ如た事となる。京帥の貰
際寺が、温国寺と改められた串は、懐惇碑を建てた弟子の思注が、大混同寺まであるといふ串によ ′
って、歴然と澄明せられる。温観音の名荊は、賓に京帥の賓際寺と、墓例の賓際寺との連絡交渉を語
る有力な材料であつて、予は管轄之を知り得て、心窃に壱んだのでぁつた。細部元年又は景龍元年
に、京師の賓際寺が、改められて温囲寺となつたのに、長龍二年に、豊泉が西京貰際寺に於て、茸壊
受具したのは如何といふ問題が起るが、これは大問題で無い。何にせよ、賓際寺は、隋の時代に建
てられて後、恐らくは梓寺として相普の名刺であつた。玄英三戎が、十七年の印度留学ど卒へて錨朝
し、一新時期を劃せしめた大詔謬を初めた時/√、の謬場に列せる音義大徳十二人の・中に、弘福寺り憲 潤と共に貰際寺の明瑛といふ畢者があつたG今やま宝島由梨が任した。薪な名義に改められても、l「† この碑は、甲に史伯山土に於て重要宣椚構七有守るのみでは撫い。常にその中に善導の念伸一で知 らしめ卑屈強の蕾料、而も空前絶後ともいふべきJ小で号.尊修念件の敢為を織卜込んで居一っが礪で れて居らい■は憲隠の名を以て呼ばれて居る。それが別に間違では無′、て、却って便宜へ㌧のでぁる。 れて居る。西湖の憲隠寺は、これまた勅によつて雲林幸と改め・㍉れたが、基線滑侍巾に多くぁらは 以黎の名刺であるので.よし勅によつて臍雲薄と改められても.今日矢張鮨宗ヰの部名に随って呼ば 他人多′、は知られた蕃名によつて呼んだに而違ない。斯る例はいくらもあ一q。腹山山鉛宗寺は⊥ハ朝 暫際薄の名義について、や∼頼班へう事吏∵=つたりは、莱唾棄−11uの寺が質際守であつて、諒帥太中 坤の増際守よゎ移され化名である・で知らんが秀であ一り。それは、やがて京榔・三筋際寺が、善導の所 作でtbつたといふ串を知らんが眉に外ならね。黄塵と賓際寺との連絡一で、畢界は今や普然のものと して承詣守一〇に至ったのセ.n分は大に善ふが、常時にあつては、少からぬ手数一ぜかけたものであ った。兎に角、この一砕こそは、善噂む知らしひる唯一の根本資料であつて/−のい砕が無くては、 苦境の史他の確暦な鹿痛ポ得られぬ程の聞係′ュ.汀寸′リ。然るにこ・の懐膵について、従祇畢老は殆ん ど厘⋮知で■椚つにいは、イm心講な車である。憎仰について﹂・・︰つて居ろのは.僕に憎戚の﹁群疑諭序﹂の 、 小〓ふ銑が、仰輿戚叫 焉導公紳晃といふ、簡畢∵二旬のみに過ぎぬ。この文句も、憶怖碑 ■で研究したものにあ・し†んば、令得の出水ぬものでJのる。 Iガの首尊大柵に閑J・ろ問濁 鶉
30 ● 三〇 唐の善導大師に鍾†ろ間超 ある。その乗彿願力といひ、一心専念阿浦陀彿願といひ、蒲陀偽名、亦望桔超要趣といふは.善導 が、﹁散華義﹂の中に、或は、一心専念輔陀名歌.︵乃至.順彼彿願放といひ、或は一心専念浦指名琴 定待往生といひ、まだ﹁定善義﹂の中に、専念浦陀名競得生といひ、﹁観念法門﹂の中に、二心専念阿 蒲陀彿願往生老といひ、又、一心専念浦陀俳名⋮⋮・得往生といへるものと符節を合するものである。 また碑文の中に、理復使精兵、廠想念錐徴而必就、二三子行、功根椙而廊待といふは、∵心専念と 雑行雑修との相違一ど説いたもので、﹁往生鹿讃﹂の但使尊意作考 十帥十年 修難不至心考 千中勲 一といひ、若能如上念々相績、畢命名期者、十郎十生、官印石生、輿傭本願.得祁應故、⋮⋮:若欲捨 専修難業考 古時希得山二、千時希得三五、輿彿本願、不和應放といふのと.また符節を合する如 くである。懐伴は懐戚と共に、善導の上足であつた。その念彿は、やがて善導の念彿でぁらねばぢ らぬ。吾人は、懐悌碑を通して、善導の念偶の如何なるものであつたか、またその戚化の如何に甚 大であつたか東 通切に知る事が出水るのである。 龍門の虞合邦併銘について 斯の如き準備を調へて後に、洛陽龍門の度合郵大傭の銘に対する昨は、その奉勅瞼校倍西京賓際寺 善道種師といふは、即ち我が渾土数剋の莞連なるを、異に知る事が出来るのである。この大傭姦は、 高宗皇帝の建つる所、皇后武氏之を助′、るに、脂粉健二萬貫を以てし、成享三年、至上一光二年︵西 暦六七二−六七五︶聖二年竿以上に五って成った。五年の後に、大彿の両に二大奉先寺一で立て、.解析
31 兼備の高修二七人・ぜ簡召して、住持せしめたのでぁつた。この大彿は、銘文にしよれば、徒廣十二丈・ 上下百四十尺あ∵りで、﹁正数束洗、七盲除歳、傭嘉功徳.唯此焉最Lと率Q如く、如何にも支那偶像の最 も輪閻具足したもので、之に対して敬腹の念に打たれぬもりは無いのである。之が建造の任に普っ たものは、書道藤師一ど努預とする諸人であつた。道と導との舶違はあるが、−︼れが善導に相違ない といふ事は、賓際寺の媒介によつて、関係づけられ乙のである。・而も年代上に於て、少しも矛盾が 寒い。又、賓際寺碑の媒介をたどつて、信仰の上から見て、泥団寺の上から見て、どこにも矛盾が無 いのみならす、却ってますく我が善導なるペきを確定せしめ二心。こゝに至れば、道と埠との粕退 ぢどは、問題とならぬのみならす、却ってその通用の例一で、容易に他に見出す事が出来島のである。 善導が蕗術上に於て豊富な天分を有って居た事は、除りに明白な事嘗である。その﹁法事讃L.の 中には、西方の石窟塞術を知って居たと思はれる明文さへもJ吋る。善導は、﹁経を造って何庭に致す
と、
自ら問ひて、之に答へて、造って摩周賓殿中に至れ。造って龍宮大蔵中に至れ。造って西方石 窟幽中に至れ﹂と言って居る。摩尼賓殿や、龍宮と細井べてある西方の石窟とは、小さぢもの七は 無い。大規模のもので無くてはならゐ。涼州のそれか、粉塵のそれか.明白でないが、恐くは熔煙 の石窟で無からうか。この石窟の知識があつたから、寵門の大俄禽の如き大作を焉したに相違ない。 範子の懐仰が、造烈を想うて崩心すと今川って居るのは、斯の如き功業を指すものであらう。支那の 彿像小、前後無比の完備鳳痛な大作を成し得た善導の名萄は、皆時京洛を登城したと⋮心ふ。↓でのス 庸の菩強大帥に閥†る同呟lヽ●I ■l− 唐の善導大師に閲†ろ間越 三二 滋レ..後に墓側に、立派ヘ一幸が出黎、及び塔の出家た串も、不思議では躯⋮い。この大偶の成った嘩 七十二年にして、我が東大寺の成合邪彿が出凍た−し両者の・問に聯絡があるに舶轟モいから、善導爪 大作は、遠︿我が国に影響一で及ばした事になる。此事は、﹁支那傭蹟許解﹂第二の中に言ってあるか らこ∼には省筆する。 専念浦陀の善導が、成合郵傭を建造したについて、その信仰との関係に於て心配をしごれは勅命 によつて検校したので、自分の信仰一で表現したので触⋮いから、差支は無いといふ人もあるがそれは‖ 本風の立場から見る可秀である。支邦の思想信仰一で見るには、立場・ど壁へてせぬルームヘ?LJぬ。懐仲碑 にも見られる如く、∵念専念の念傭と般若紳兄とが、付軍り矛盾へ㌧く融合せられて居′りハ、捕陀像と慈 氏像とが、同じ党内に安置せられて居一り。善導の著述を見ても成分邦彿と輔陀彿とは、矛盾なくそ の専念中に融合して居るのである。他を排せぬ、いはゞ二即一切の浦陀であるから、善導にあつては 威令那備に対しても、之を請陀備中に融即せし空し居たものと見れば何の心配も塵いのでJのる。 杏積寺大噂塔について 善噂の法嗣は、懐戚を以て最も知名とし、懐悌之に次ぐが、猶一人金石の上から知られるものに、 渾業といふのがある。1金石草編﹂巻七十五の中にぁぁ、大唐紙典夫徳香梢寺ま辞業法師走塔銘並仔 といふゎがそれで、門人忠類等が、開元十二年を以て立てたものでゃり.・文一で見ると.法師の諒は 象、ザは浮業。高まの忌辰に落彩L二.軌鱒一﹁疑諭﹂の・Ⅷ徴■で剖折し.念定隼田の理要を抑揚したと
3:; あり、延和元年︵西席七一二︶、念彿しっヽ滅ノで告げ、その年に紳和原の大書時間梨の域内に陪望し、 霞塔を草フしたとあるから、念彿着てあつた事は、明白である。﹁臨終要訣﹂に、善導の字一竺甲業と して居るのは、弟子の名を師に混じたもーりである。南山悟眞寺は、この浮業の創始せるものであつ た。これがまた薄噂′で怖異寺に㈲係せしめる因線でJ?っラかと田叫ふ。措銘によれば.渾業は、香積 ‡ヰで∴ろか・㌧ 抒情寺−二住縛したも再で、現有一い香稲守堵は、この人一ぜ記念したものであ・りうか と‖心ふ。明の蕎暦年問に長安城南の舌蹟・ぜ詳細に拾禿した通暁は、その遊城南記の中に、寺倍の語 として、渾業措雅が、措上より塚落した事一で記して居る。英文は次に出す。ニの有精寺が、﹁長安志﹂ に永隆二年に建てられたと記して居る所から.異に懐惇が善導の墓側に立てた大塔が、やがてこの 香梢寺塔であ一句と推定する設がある。頗る慧眼の見方で今匂とは思ふが、これは研究一で要するもの である。永隆二年雄といふ.は、香箱寺であつて、大塔の事では無い。香横寺の立ったのが、紳和原 の善導の域内であつた事は疑ないが、善導墓側の大塔が香積寺塔でJのるといふ澄跡は無い。これに っいては、子は今猶﹁支那彿鈷詳解﹂第一の中に記した通りに、適噛の﹁遊城南記﹂に依順Lて、 香梢寺と賓際事と一ぎ全︿別へ住ものと見るものでぁる。池場の記事一で今日の地図に合せて見ると、そ の里歎ヤ方角に於て.幾多の疑問が起って、賓地自ら之一で踏査するに非人ば、何虔が如何に誤って 居るか、之一で決定し難いが、然し香積寺、賓際寺.首塔寺に開寸る記備については、予は之を否定 する事が出来ぬと思ふ。今その部分を掲げて見やう。 賠の善導大師に間でろ問題
34 唐の睾尊大師に脚†る問題 三田 〇〇〇 ︵畢原より︶西南過耐禾嘩十軍馬香稽寺。焚川御宿之水交洗、其下謂之交水。酉合千澄、入千滑 っ〇〇〇〇〇 亦l勝地也。寺塔中裂、院字荒涼。寺前壁上、有畢定雄撰浮菜繹師塔銘。書乱健、有登書法。寺 000〇〇〇 付言、是塔上墜落者。・⋮⋮翌日渡交水、東南行十里。得胡村寺、励名著際寺︵賓際寺の誤ならん︶壁 〇〇〇〇〇 〇〇〇 〇〇〇〇〇〇 闘有進法師塔銘。是日小雨、少憩寺中。又東南五里、烏有塔寺。本信行雇師塔院。山畔唐兼行倹 00000 ト、日本里赦の壷強であるから−左程の距離では無いが、同一の毒で靡い事は見とめねばならぬ。 ′ 書庫秋氏葬塔椅存。除小嘩 記所謂尭桑相比、謂之盲塔者。今止存三五而巳。殿前石憺経、無可 ○ 書、殊絶。︵光緒十八年版﹁石墨礁華﹂︶ 斯くまでに、明白に香確守賓除草首塔寺を記して居るのを、直に否定する事は出家ぬ。質際 寺は香積寺の東南十里にあり、而して賓際寺の東南五里に百塔寺がぁつたのである。十里といつて 香積寺には渾業の塔銘のあつた事を記し、賓際寺には進法師の塔銘のあつた事を記し、首塔寺が信 行の塔院であつた事を記し.猶そこに所謂甫塔中の三五の存せる事と、無可書の経憧のぁつた革まで も記して居る。︵石塔寺や、無可の経憧の事は、﹁支部傭麓﹂第一の中に出してある。︶斯くまでの明細 な記銀、而も賓地踏査のものであるから、予は之に従って、貰際寺を、盲塔寺の西北僅かの距離に あつたものと断する。百塔寺は、関野兄の踏査に披れば、見る影もなく荒れてあつたといふから・ その隣♭の賓際寺は現存して居るまいが、然し踏査せば、何か得られやうと思ふ期待があるので− 予は一たび往訪したいといふ希望を懐抱すること、ニ∼に七年今狙其志を達せぬが、他日必ずの
35 意寛だけは寂して居る。 さて質醸寺にあつた進法師の塔銘は.﹁石墨鱗華﹂の第一の目餞の中に、唐大穂進法師塔銘陳光撰、 付智詳書、在温囲寺として、奉げられてあ 園苛政大徳進法師塔銘井序が、それである。大温国寺は、賓際寺の改稀である事は、既に之を述べ 、 た。大滝臨寺の大徳が居た寺名は、賓際で無くてはならぬ。これによつて﹂ 茸際が、貰際の誤なる ○ 事を、明了に知り得るのである。進法師の碑銘は、摩瀞多くして読む事が出奔ぬが、中に﹁始邁香 0 00 積□□、経口温固大徳﹂の語があり、﹁開元廿四年八月口日給口□十五日望在隊頑也﹂の語があるの で.香積寺にも任し温囲寺にも任し.開元廿四年を以て入寂し、こ∼に窒せられた寧曾知る事が出 射る。これまた香積寺と賓際寺郎温歯寺との相違を明白に語るものである。 こゝに更に起る薪問題は、京師の賓際寺の名が、軸禾原の薪寺に加へらる1に至って、景親元年