• 検索結果がありません。

『宗教研究』第5年第18号(*18号)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『宗教研究』第5年第18号(*18号)"

Copied!
127
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

――目次―― 1,人文主義と仏教,シルヷン・レヴィ,pp.1-22. 2,トルコ族と仏教,羽田亨,Tōru HADA,pp.23-54. 3,旧約における倫理心進展のあと,石橋智信,Tomonobu ISHIBASHI,pp.55-73. 4,聖フランシスコ・サヴィエーの日本宣教,桜井匡,Masashi SAKURAI,pp.75-99. 5,ヨブの信仰と宗教の悲壮美,春海玉江,Tamae HARUMI,pp.100-114. 6,学会彙報,シルヷン・レヸ氏講演-逝けるトレルチ-リス・デヴィズ翁逝く-村上・前田・荻原三博士の 辞職-東京印度哲学宗教学会-原始宗教研究会の創設と会合-労働者の思想に関する調査,pp.115-125. Posted in 1923(大正12)年

(2)

人 糞 主 義 と 沸 教

二 フランスに於ける人文主義と東洋研究

第一に由すべき事は、東京相国大聖が、此の帝都に私ぉ招き、こ∼でフランスの致育と東洋

研究との活きた標本として、私に此の講演を托せられた大き︰仏名容に勤して戚謝の意を表する

にある。此の漁期しなかった名馨を澹ひ得るのは、畢友同僚陀る人々の好意、特に高橋、姉崎

二敷皮に負ふことで、弦に公に謝意を表したい。三年前、柿崎教授は、ゴレジ.ド。フランスの

招きに應じて、メリで日本宗教史の講義を鋳け、多数の忠賃な聴講者に封して深く印象を超さ

れた。コレジの孝長たるモⅥノス・クワアゼは、私にこの事を諸君に停へる楼に托せられた。そ

こで、コレジ●ド●フランスから東京帝国大学にその返飽をするに、幸に私がその任に普ること

となつた。諸君、此の如き交換は、遠く隔った二間民の間に単に鰻儀を交換するだけでなく、

相互の間に赦妙な好意を刺激し、互に知わ合ひ、深く相接し、科聾の認達の為に典同して働か

人文主義と係数

シルヴン・レギ

■ ユ・−

(3)

読八十第 年五節 究軒数宗 うといふ相互の意思を増進するものである。而してこ∼で、私が科挙と呼ぶのは、通常一般に 叉日本でもフランスでも大草なぞで、所謂る﹁文撃﹂︵ILettreエに勤して呼ぶ特別知誠︵即ち理科 車︶のみを指すのでない。勿論、此の如き﹁科螢﹂研究に、偉大で高備で又有益なものゝあるの

を等ふのではない。科嬰の額域が無限大から無限小に及び、その間に亙って貿に登呂なものが

あむ、叉その探究の方法や結果に光彩あることも勿論であるが、如何なる科聾も結局は、人間そ

のもの、内なる人を知るといふ埼外には出でない。担わ、蔭桓膀睡贋幣h

又最も埋骨し易い筈であち、宇宙は複雑ではあるが、その事宙を知るのは、やはら人間がその

媒介となる外ない。而して人間に関する観念が異なるに従って、文明の種類も違ひ、場合によ

っては、人戦が別圃に分れて、互に散成するといふのも、此の観念の蓮ひから氷ることである。

そこで、酷な横でも、眞理の鰯には、下の事を承観せざるを得ない。如ち人間はまだ人間を

能く知らない。︼定の歴史、国土、人辟、宗教等に基いて出家た八開の圃鮭が、まだ互に能く

他を理督するに至らぬ。絶て他の人民を野欒人と呼ぶ風習は少くなつたが、偏見は備ほ存し、

多くの人は、その腹の底に強く僻見を持って居て、自分の屈する狭い範囲たけで、通有に行は

れて居る風習や信念のみが正しいものの如く息ひ、それに背くのを犯罪の如くに心得てゐる。

− g・−・

(4)

人 文 主 義 と 彿 敦

漁らば、人間は情意と等閻をするものだといふ盲目の運命に縛られ、﹁人間同志は猥と猿だ﹂と

いふ恐ろしい言ひ草の通りに、失望して了ふべきか。

此の如き荒涼の考に封する考が、西洋では﹁人文復興︼といふ雄大な名のある時代に起って

乗た。帥ちそれが人文主義であつて、人文主義とは、人間そのもいを研究すムニこ丁とで、人間の

個人や圃鰭には、無限の色分けがあつて、互に分れては居るが、その間に、時間にも容閲にも、

又艶性や情操の領域で共通の要素がゐ\人間の精神、人間の心情といふものがあらはしない

かといふ見地に立って、人間を研究することである。凡そ四百年前に、コレジ・ド・フランスが

生まれたのは、此の精神から出たことで、私はそれを今日此虞で代表し、諸君の好意に應じて

その教授の一人として、その大挙設立の使命に忠貸なるものとして、或にお話しする。。レジ

創立以来、教育年、嬰輯や革命を経ても、元来の精細を一貫して、結えヰ之を追求して雅たの

である。そこで、今此からこの極束の帝都で、一束浮華者として講演するに昏って、このコレ

ジ●ド●フランスの起源と凝蓬とを、特に束洋研究といふ特別の見地から述べて見たいと思ふ。 抜に暫く、西洋で十六世紀JJ始に身をおいて考へていたゞき詑い。昔時のヨーロッパは、現 * ー ∫・・・−

(5)

溌八十多 年五鼻 先軒数余 代に比べて見得る様な動揺状態にあつた。ギリシャとロマとの異数文化が滅亡して以凍、千飴 年の間、ヨー甘ツバは狭い天地に生息し、紙での異端を征服し得た教官の外にキリスト教はな いものだとし、而してそれに敵封するものは、ユダヤ人と回教徒とのニッしかなかつた。ユダ ヤ人は、軽蔑を受け、恨まれ、迫害せられても、常にそれに屈せずに居托が、彼等ほ眞埋に勤 して誤謬の標本だとして故はれるの外に、位置はなかった。彼等は沓約蕃のみを固く奉じ、ど ぅしても新約琴青書を受け納れなかった。その聖書の言語たるヘブライ語は、彼等の宗教と拳 闘との言語であつたから、敦曾は、之を膿んで禁摩するのを以て足れりとした。同数は、その 始めて現れて凍た時には、一骨危険に見え花が、時の経過と典に段々平静に蹄し もう甚しく侵入して凍ない状態になつた。長い間の十字軍は、結局、キリスト教には、アジア やアフリカに固く地歩を占めるカのない事空不し、同時に回教はヨーロッパの片隅に止ヰナウ、 一旦イスメェアを征服したモール人も漸次撃退せられ、トルコ人がボスポラスを占領してビザ ソテン帝因が没落して後閏十年で、グラナダの最後のスルタンも終にアフリカヘ退くに至っ た。 此の如くにして、西洋思想の活動を軍吏し又は更新すべきものは、内にも外からも一つも加 一 々 ーーー

(6)

人 文 主 義 と 彿 故 はらや、ギ,シヤの俸統は忘れられ、ラテン文の書物の葛字生は、ギリシャ文の引用ある顔に

は、﹁ギリシャ語だ、凄むに及ばぬ﹂と書いて、それで満足して層化。そこでギり′シヤ文鱒の破

船に獲ったものほ、奇妙の運命で、アラビア人とユダヤ人とに助けて貰ふ外なかった。アリス

トートルとトレミーとは、同数の初期にシリア語に辞したものから、アラビア語に辞せられ、

而しで昔時アラビア語とラテン語とに通じて居たのは、ユダヤ人のみであつ陀ので、それから

ユダヤ人の手でラテン語に辞せられた。此の如くにして、アラビアでも西洋でも、此の如く翻

繹になつたものは、著しく教訓的で又乾燥掟もの、又はいかがはしいも似であつたが、その様

にして、元の思想と線の薄い種々の手を経て出家た翻謬が、如何にギリシャの原文をか柁わに

したかといふことは、いふまでもない。

又ロマ散骨はラテン語を保存したはしたが、その古文の中で最も平凡又低級のものしか保存

しなかった。十三世紀以後、イタリアやフランスで、即ちボロエアやバリで段々に出家て建た

大草は、神学を教授するのを中心とし、法律、文法、論理なぞは、普時の言葉でいふ﹁両壁の

附厩﹂補助に過ぎなかった。その中でも論理は執芯に研究されたが、乾堤無味な形式に立てこ

もつて、観察や賓厳にはふれなかった。スコラ哲聾は蔑むで字の如く学院の草間で、人生の撃

− 5 −−・・・・嶋

(7)

読八十新 年玉串 究軒数 余

に縁遠く、叉之を敵視して、それが最大の梯威となつて、惰眠の赴骨を支配した。

然るに、十五世紀に至って、突然の雷鳴が起って、西洋人智の新覚醒を告げしらせ柁。歴史

にはよく起ることであるが、一見してパラドクスの揆に、一文明の最後皇且督する様な打撃が、

それに勤して一骨弘く叉生気ある生命を開く源を開いセ。帥ち勝ち跨るトルコ人の侵入から遁

げ出したぎリシヤ畢者は、大切な葛本をか∼へてイタリアへ避難して凍た。古:の精細を遺

俸はして居るが、今はキクでト致の源泉となつて居るイタリアは、喜んで此等の避難者を迎へ

てその致を乞ふに至った。今まで全く敗滅して居たと思って棄てておいた過去は嘉に復活し、

世は再び古典の傑作に接して、その形式の整って居るに加へて、思想にも戚備にもカと共に傲

妙の実のあるぉ味ふ様に汁アり、それに好奇心が加はつて、古典を知り、叉それを占有せんとす

る慾が燃えて凍た。そこで熱心にギタシヤやラーアンの寓本を捜り求め、それを凌見すれば、喜び

勇み、又勝利の聾を揚げ托。

それと比例して散骨の借用は減退して家た。郎ち大部分はキリスト以前に生まれ、沓約書を

すら読むだことのない異数者、古人が、此の如く、やはら眞理たるを失はぬ道徳を説き又鷺わ

して居たこと、彼等が全く自分のカで、紳や人間や天地について理論を組立てたといふことも

∴ β ニ

(8)

人 文 主 義 と 沸 教 知れて凍た。ギリシャ語や古典ラテy語に次いでヘブライ語も知れてくるに従って、キリスト 堺前に表はれた紳の言葉む記した書物をその蝶文で譲む様になつては、異端が芽を出し始め る。▲そこで信仰訊問で正統敦を維持せうとし、異端焚殺の灸が燃え出すが、世界に法って黍た 熱をさます繹には行かない。そこへもつて凍て、ワスコ◎ダ。ガマはアフリカを過って印度の逸 を開き、マゼランは世界一週をし遂げる。聖書にも書いてない大陸が現れて求る、而してそこ らの国々にほ、各々法律制度もあれば、道徳や信仰も存在して居る。 イヌバエアは信仰訊問で騒ぐ、それにつゞいて、イギリスやドイツを宗教的政治的革命の昏 乱に陥れたジュズイトの圃鰹が現はれた。此の良心の危機が、フランスではコレジ・しド●フランス の創設をしるしとして現れた。即ち一五一五年に即位した国王ブラ∴′ツア一世は、除か政治に は熱中しなかったが、寛油宏畳の蟄術家として、フランスの王位よりも寧ろイタリアの小宮廷 に通した人物であつた。彼は、文整復輿の人々に勤して殆と信心ともいふべき尊敬を表し、紳 畢なぞには関心しないが、又放て宗教改革に反封を表明しないで、法王をあやh仏して居た。自 分の周囲に峯術家や聾者を集めることを夢み、レオナルド・ダ・ヰyチをフランスへ招いたが、 彼はアンガアズの故に凍て、間もなくそこで死んだ。フランリノアは又オランダ人たるエラス ・・−− 7・−■■■■■

(9)

班八十欝 年五節 究軒数宗

ムスをメサへ招かうとし咋。ユラスムスは昔時ヨーロッパの聾者が馨って泰斗と仰いだ人物

で、昔時随一の博識者、ギリシャ、ラテンの孟ハに辟適し、容想に富み、又錠利の諷刺家とし

て知られ、信仰については寧ろ懐疑の人であつたが、又必し基数改革には左祖し患った。

その頃のバリ大草は、致骨の教義を群護する位置に立つで、ギリシャ語もへブラ晶も教科

に加へない位であつたから、エラヌム芸大畢へ呼ぶことは問題になら慕つ花。そこでフラ

ンジアは、一つ特別のコレ冨亨、それを大学につけすにー国王の直儀として、そこへ言

スムスを入れることにし佗。常時大学所属のコレジといふのは、そこに滞在する畢生の故郷に

應じて、外国又は国内諸州の名を冠して、四囲民コレジとか、スコーランド人コyジとか、ア

イルラソ一人コレジとかいふ挿類のものであつたが、今度薪に出衰るコレジは、その例に傲は

す、特典を表するために、フラン呈国コレジと僻することに掌り、言スム還その教科を

定め又教授を詮考する委任を受けた。此事に謝して国王とエラスムスとS間に交換した文通

に、フランツアー世は只一億件を附し、それで自雷名巷は足芸として居るが、それは石で

建てたゴレジでなく、人間で建てたコレジを望む主いふにあつた。

長い間の交渉の後、エラスムスは、健康の虜に自分ではその任に嘗り得わuいことと箸、此 ・・・・・・・・・・・− β 一・−−

(10)

人 文 主 我 ヽと 俳 敦

のニジ・ド・フランス品警るの任に、その発雷フランスの聾者たるギイヨーム・ビュ

デ︵B=dか︶を推薦した。ミデはそこへ多くの聾者を集め得宗、それ実学遠投と区別す る為に、王嘉師と稀した。此等講師の中で最も秀でたのはギリシャ語のルロア︵LerOy︶と共

に、フラン言於ける東洋学の開祖たるギイヨー

ム・ポスタル︵冨21︶が居た。ボステルほ、

東方へ探検麓行に行った間に、アラビア語、ヘプープイ語、シリア語等に通じ完で、その著書

﹁語草の門戸﹂︵POrtニingua−um︶は今日貴賓約著作になつてゐる。

然るに、コレジが開ける頃にフランス園は、財政の困難、政治の紛擾、宗教の芸の為に滅亡

牢瀕するまでになつた。コレジ。ド。フランスが創立岩それ等の危磯姦て、今日に至るまで

の慧については、今こゝでお話しする暇はないが、只、墓復興が生むだ古典人文主義り灸

によつて興ったこの畢院が、段々に、弘い意味の人文嘉に慧して凍た跡を語れば宜しい。

ブスコ・ダ・ガマが十五芸の終に、雲の資質晶いで岩、キクスト警の宣数師は、植民

者や商人にも増し蒜情を以て、極東へ孟んで行つた。今姜はきい誓ともだそれ等の

国々へキクての言葉晶へる熱情;で、武虎に逢ひ、危険昌し、殉致の二些智も敢てし

て、彼等はその方へ出かけたが、その畠の心を信仰に収入れる為には、勇警熱心とだけで

− β・−

(11)

既八十第 年五夢 死軒数余

は足ちす、どうしでも、感化せらるべき異教徒の言語、風俗、道徳、宗教等を知る必要に迫ま

れた。彼等が、印度、後印度、支部、日本等でしとげた事業や、叉その間に節々の圏鰹が互に競

争したことなぞについて、一々諸君に語る除裕はないが、彼等の事業は、彼等自らの漁期しな

かった寧ろ反封の結果を生するに至った。即ち今まで知らなかつた、又は誤ら停へられて居た

諸の文明が、世間の注目を惹く様になか、探求者の研究は宏漠な過去を眼前に組展して凍た。

文整復奥と共に起って寒た葛藤は、こゝで新天地に進んで密た。

ルイ十四世の時代は、反勤した傾向が一時平均を得た時代として著しい。文学は、成就しで

居る権力に勤して特別の敬意を表し、教育と国家とは、共に人間天性の最も逼迫な方面を尊重

し螢揮するにカを注いだ。それに十八世紀には反動が凍て、古典的俸放と絶縁はしないが、而

かも挿々の国と信仰と文明との特色となるものに重きを置くに至つた。グォル一7−ルや、特に

ほモソテスキクのカで、歴史的梓紳が現れ、ダランベールやデデ甘が率ひた首科辞典聾者の一陶

のカで、此史的精神は散骨に封して攻撃的態度に出るに躊躇しない様になつて密た。印度と支

部と、井にその附属の国とは、固らすも此の戟の兵器供給所になつて、その中に、世界長初の

天啓といふことを立てるか倒すかの兵器を求めうとし陀。

ー・・・・・ J〃 _−_

(12)

人 文 主 義 と 彿 数 異埋鱗明の途には障害になるまでの偉勲は、東洋研究最初の勇者、十七歳の青年フ一フソス人ア シクテル●デュペロン︵Anのかueti−Dpu2rrOn︶を騙って、その研究に身を委ねしめるに至った。 彼はゾpアスターの大名につられ、その人についても何も知らないながらに、古代ペルシャの モセスともいふべき彼の立法者の事業を開明して之を世界に知らせる為に身をさゝげた。即ち 印度骨鹿の事業に志願者として働く様になつで、そフト地方のペルシャ人仲間とその宗教に接 触することを務めて、忍耐擁ます、ぜyドアゴスタをその昔語に同復する串に成功した。此の 古典はペルシャ八白身の間にも死文となつて居て、間接にその経典を知るので満足してゐたの であるが、デュベロンはそれを回復したのである。但し、それを解繹し研究するのは、もー人の フランス人の天才、クーゼヌ・ビュルヌフ︵出仁コ10uこを待たざるを租近かった。アンクテルが永い 間印度に滞在した問に、侍一つ貴重軍資を待托、それほ婆躍門の古典柁るウ.ご一シャドで、原 本ではないが、アクメル帝の官庭でペルシャ語に詳したものから、之を辞したのである。此の 如くにして、ペルシャと印度とを研究する途が開け、それにつゞいて一顧之を結け、漬げ、叉 深くする様になつた。 アンクテルが、十九世紀の始に、その宏大な著作を公刊した時には、フランスも世界も面目 ・・・・・・・_Jユ ー・・−

(13)

溌八十夢 年五多 党軒数宗 を一新して罵に。モ者はなくなら、革命は鋳み亀ナポレオンはがナ.ニト朝を樹立し、印度ほ

結局イギリスの勢力範囲に蹄してゐた。ベルゴルのアジア聾曾の出家たのは一七人九年でぁる

が、ヰルキンスやク#リアム・ジョーyスやコルブルークは、既に梵語及梵文学の平和の勝利を占 めた。但し梵語研究埠.主として印度に在留するイギリス官吏の手にあつた。その間に、バリで

国立園審館の静かな蘭書室内で身をそれに委ねた一属官、名はアントアヌ。レオナール○シュジ

ー︵Chかzy︶といふ人があつて、何人にも語らずに、梵語を学ぶといふよゎは、之を螢見するに苦

心惨澹した。而してその学習には印度バンダトの助もなく、字典一冊もなしに仕事を進めた。

彼は又、文蟄復興に於ける人文研究者にも似た堅賓と寛宏を以て、ギリシャ語やラテン語をも

研究した。シ†クソタラーや、ギークーを嗣繹で凄むで、殆どこれに心酔し、詩的感動の一つ

の新な源泉に遭遇した威を抱き、それらを原本で蔑む様にもなつセ。そこで十八世紀の間に国

立園書館へ俸はつて凍た葛本の中からカータダーサの傑作や、ラーマーヤナをも譲疲するに至

った。その報酬として彼はコレジ・ド。フランスの一講座を得た。これがヨーロッパで梵語の致

課が一撃校の畢科に組み入れられた最初である。斯くの如′、にして、フランツアー世の創立し

た古いコレヅジは、この新しい語草文撃に門戸を開き、過去の人間思想を知るに放て漁期しな

−−− ユゴ ー

(14)

人 文 主 義 と 併 敦 かった箕を得ることになつた。 この梵語講座設立の勅令と共に、コリrジ・ド・フランスは、伺ほ一つ0講座一軍得た、即ちそれ は支部語草文畢井に﹁鞋担清洲語﹂の致授に進むべき講座であつた。そしてその最初り担任者 は、寮母着であつたアペル・レミサザ︵R㌢三Sat︶であつて、彼はシェジーと同じく、全く碗拳 の人であつた。勿論シェジーよqも便宜を得た黙は、研究に仲間のあつたことで、支邦に居た ジュズイトは、印度に居る仲間よりも多く仕事をして、十八世紀の間に、歴史家、翻繹者、地理 聾者、天変聾者等を多く出した。フランスにある彼等の撃枚では、俗人であつたフルモソ、ドキ ーニュ等が直様に、支部の原書をも研究した。熱し支部語の研究に勤して、古典語撃の厳格な 方法を用ひたのはアペル。レミゥザであつた。そして人間知識の垂腔の内で沸教の重要なことを 初めて認め陀のも彼であつた。五世紀の初め印度に巡遊しわ化法顕の・紀行を彼は飼辞したが、そ の裾謬は百年後の今日、錦ほ精密と学識との一驚異として堵つで居る。 コレジ・ド・フランスで、印度と支部とに関して研究の進んだ跡−ぜ、記すのは無益でなから う。ナポレオンが位を退き、その後エルメの島から還って凍るまで、短日月の間王位を占めた ルイ十八世の記名ある一八一四の勅令は、その重要なものである。常時フランスは敗頻の除b .−Jβ −・

(15)

貌入十集 年五解 党 折 敦来 ヨーぜツ.ハの聯合に厘迫せられて、.政府い一鼻蓮甚しい時であつたに拘らす、人間文化に封する 珊想に忠賓に、悲惨な国運の中にも、そい思想い明鏡を掲げて、そり光りを全世界に反射し、 いづれの時代、いづれの庭にも、港㌃−で居る人間の智龍を凝揚するに勉めた。 その後八年、コレジ・ド・フランスに出来た新講座は、過去人類の隠れた光輝を螢揮するに就 て、一つの新たな光粂ある階段を劃する。如ち数千年の秘驚に蔽はれたエジプトの形象文字を シャンポイヨン︵CニaヨpOiH011︶が初めて諒破した。ナポレオン山エジブト遠征は海陸共に敗戦 に終ったが、後世に封するその意義は別の方面に現はれた。師ちピラミッドの遠征者について行 った聾者等がその研究の扱備・ざ整へ、シャンポイヨンの忍耐と天才とで、今まで判らなかった ものを一審にして明かにした。この蚤見の結審に凝る戯曲的のものがあるから、それを述べず にに過したくハ仏い。シャンポイヨンは数年の間立て籠って碑文を研究し、謎の様な文字を︼つ ︼つ葡摸して、時代の担化にさへられす、碑文に残って居たコブトの言語を籠み侍る接にな む、舌代エジプトS言葉を明かにしてその結果が躍鷺であると云ふ自信を似て、 に知らせた。そして突然疲弊のため、叉戚勒のために昏倒し、その後数日にして自分の身をミ イラに包むペき人となつた。 ー′− J定 一

(16)

人 文 主 裁 と 俳 敦 嚢に述べたぜソド・アべスダを蔑むだクジェヌ・ビュルヌフは、叉印度偶数史に掬する材粁 むこ二レジ・ド・フランスに蒐めた。さきに話したシュジーは、l八三二年コレラで死んだ後、その 梵語講座を担任したビュルヌフは、その天才に依って梵語放課の範囲を瑛げた。帥ち彼は研究 の初めからして、儒教に注目し、その塵史的、哲撃的、宗教的債値を謎めて、係数が人類の生 活に偉大なる位遣を占めて居ることに威付ご誓その頃、彼はまだ有年畢生として、シェジー の聾科に出て居る時であつ柁が、自分の同輩友人であるクリスチャン!フッセン・と共同して、バ ーリ語に関する論文を公にした。斯くの如くセイ∇ソ倍数の聖語たるパーク語▼甘研究するにつ れて、それと同じく偶数の行はれて居る他の諸国、帥ちビルマ、シャム、カンボジア等に注目 を同持した。彼は叉レミサザに封して尊敬讃款の情ぉもつて交わを結び、レミゥザの研究によ って、俄致が支部のみならす、支部文明の及んだ国々に於て廉く行はれて居ることを知るに至 つた。 その頃一入三〇年前後に、メリのアジヤ拳骨は、今まで見も聞きもしなかった梵語葛本を得 た、そして、それは絶て係数の典籍であつた。ネパールに於けるイギリスの駐在官吏ホデブy が、雪山の高地には梵語を依って居る係数の魂つで居ることを螢見し、そこには彿数台文畢の ■・・−−Jニ ー

(17)

吸入十節 年五節 究研敦桑

存在することを知った。そこで彼は鏡敏な着眼の結果、それらの馬本を蒐め、それかニーンドン

とパリとのアジヤ拳骨へ寄贈しセ。そこでこれらの寓本が重要であることに初めて着眼した

のはビュルヌフであつた。そして彼の勉強は、その研究の準備になつたじ鼓に於て異常な智能

の豊富な源泉を注いて、さきにシュジーが現はした努力を一層進め。薪空白菓の内から、ま化

蔑み難い葛本の内に散在してゐる数理や文章に、濁得の組織あわことを明にした。ホデブソは

ネ・ハールに居て土地の聾者の助けを得たが、ビュルヌフにはその便宜もなく、際書一冊の陀よ

らもなく、研究を進めたが、その結果は七十五年彼の今日も伺ほ確かで、且つ標準的になつて

居る。彼の著した印度偶数史緒論と、フラン三詣に銅鐸した法聾経、並に伺ほ一巻をもなすペ

き附鈷とは、今日伺ほ明断、的確、秩序を供へ琵学識の大紀念として獲って居る。

ビュルヌフに封して敬意を表すと共に見近してならぬは、彼の門人で、同じくコレジの致授

であゎ、十九世紀の思想界に消すべからざる跡を留めたエルネスト。ルナン ︵Re。a。︶である。

一入四九年、ルナンが始めて著した書物、﹁科畢の勝家﹂の中に、彼はそれをビュルヌフに捧げて

述べて居るJ日く﹃.自分の科畢的理想が畳む、心が沈鬱する時にも君のことを恩へば、絶て雲霧

の敬するのを覚え、わセしの疑ひに封して、君は絶て同答を輿へて下さる。人生に脱する高い

....._.Jβ −

(18)

人 文 主 義 ヽと 沸 教 理想を解辞しやうと勉める時には、叉策略でなく、具面目に、眞賓なる事柄としで、人生を考 へる時、常に眼前に浮んで凍るのは、君の婁である。舌代世界の言語や文畢の内で、最も麗は しいものに関する君の講義を聞くことによつて、今までは夢に見る外なかった事が、現賓にな ることを凝見する。そこには、科畢は哲撃となら、叉綿密な材料の最も細心な研究から、最も 轟い結果が現はれて凍る。﹄ ビュルヌフは此の研究でも其の天才の偉大な力量を消磨しないで、同しカと回し成功とを、 他の方面に凝揚した。即ち前に述べたゼンド・アべスタは、飼閑明君を待って居る婁であつた が、ビュルヌ7は研究をその方面に進めた。その材料は、ゼンド。アべスタの梵語繹であつたが、 それはペルシャ人の避難者が印度で謬出し佗もので、平凡の繹であら、且随分列む難いもので あつた。それに基いて出家たヤスナの註繹はビュルヌフと典に人文主義の勝利であつた。弦に 於て舌代のペルシャは、その聖語、その聖典、その紳畢、その儀式、その道徳の秘密を位に公 にせざるを得ざるに至った。 此の認見は、倍一層重要な螢見に途を開いた。即ちペルシャ方言の一つであるアべスタ語の 嶺破がそれで、それからして、普ダブクスやセルクセスの名を聯想した楔形文字の碑文の研究 ■−・− ヱ㌻−

(19)

♯八十夢 年五箱 究餌敦宗 にも進んだ。ビュルヌフほこの方面にはカは毒さなかったが、その道開きをして他の人々がこ れを鹿承㌻るやうになつた。兎に角、方法か偏ってペルシャ語の碑文が諌めるやうにな空曹符 の意味原則が一且判るやうになつたので、研究は他方面の文寄に進み得るに至った。アヅシ, ヤ語はセム系統の一言語であることが判るやうになつたので、それをヘブライ藩ヤアラビア語、 その他同系統の言語と比べて見て、一骨解樺が染になつて家た。曹yドンのアジア拳骨が発起 して、楔形文字の研究に進み、その結果、その文字の秘密が明かになつて家た。こゝに於て、コ レジ・ド・フランスはアッシリヤ語の講座を新設Lて、オブペール︵Oppert︶がその担任者となつ た。彼は元は唯だドイツ語の教師であつセが、青年時代からアッシリヤ碑文の研究に身を委 ね、先にフランス政府がニネビの療墟探険の食めに派遣した一隊に加はち、遂にアッシリア畢 の第一ページにその名を止める機にぢつたノ︺ 東洋単に関する講座二つが近頃出凍て、その担任者は初めの人が今に之を担任して居るが、 人文主義の倭域に二つ薪らしい方面を加へた謬である。その一つは印度支部考古畢の講座で、 フィノ︵Fぎこ氏、備一つは中央アジア考古撃に関するもので致授はべリオ︵PeニiOt︶氏である。 この二講座の択凍た所以は、敢て説明を要しないことで、現在の吾々はこれら研究の起って凍 ・・−・・jβ・■−・・・

(20)

人 文 立 我 と 沸 教 ものを喝腸常に見花のであ&。歴史の同樽は、フランスを騙って、十九世紀の後事には印度支

部に進入せしひるに至った。そしてその方面に学術附探求を始めて見ると、方面の異つ佗種々

の記念物が諸方に存在することを示し、それは印度の戚化で出家陀ものだと云ふことが判って

衣た。そこらにある膠多の遺物を研究して見ると、蟄術上程々の興味があると共に、碑文は梵語

であることが判って凍た。即ち紀元一位紀の頃から、今日老槌、束蒲塞、交址、安南等の地方

には、印度人が植民をし、その土八であつ花モンクメル人種とマラヨポリネシヤ種とは印度の

文明を享け容れ、文嘩、言語、宗教、萄術に於てその影響誓っけた。カムブデヤ、チャンバl

など云ふ名辞も、印度から得セものである。そこでこれら古代の遺物を研究して、それと支部

ハノイ 文明との接触を辿る食めに、十九倣紀の未に河内のフランス東洋学扱が出家佗。これはアテナイ

や三にあるフランス考古学梗と同じ型で出家たもので、その趣意は、古典研究の人文主義を

極東にも輸入するに在も。その後、河内聾枚の放逸をコレジ・ド・フランスに招にいてその研究

の結果を報告して貰つほが、その功績の大部分は枚長自らの仕事であつ陀。

今日地理畢で支部領トルキスクソと稀して居る中央アジアは、鹿浜な沙漠でぁるが、その間、

虔虎にオアシスがあつて、支部と印度やイランとり交通の連鎖になつて居る。その昔、トルコ

− Jβ・・・−・

(21)

読八十第 年五弟 究軒数乗 人の汗等と東ロマ帝国の皇帝と交通した時代に、その使臣が蘭らした記録に基いて、束帝国の歴 史家はこの地方を解しで、セリンディア︵Se−india︶と解して居るが、この名稀は印度支部と云 ふ名稀と似て、印度とセリブク即ち支部と二文明の接鰯を表はした名である。十九世紀の末に、 ワシアの放行家はトルファンやコークンの此等の地方には係数のポンペイと解すべきものがい くつもあることを知らせた。その後、スウェンヘデソがその地方に行き、清いて一九〇〇年に は、スタイyがコークンの束で組織的探険を初め陀。その発見の重要なことを見て、フランス もドイツも日本もーシヤも、これに倣って、古物探険隊を派遣するに至った。その結果この地 方にはアジアのあらゆる文明、言語、宗教が集まつて、一つ豊富な文明を有して居たことが列 つセ。叉その地方の言語は、古くに乗ったものであるが、偶数と摩尼致との文化を併せたもの である。ペリオ氏はこの中央アジアのフランス遠征隊を率ゐて行ったのであるが、複雑な研究 に就いて、驚くべき技量を示し、その結果コレジード・フランスに設けられた中央アジア考古畢 の講座を塘任する様になつたのである。 今立に大略述べて雄花概見は、勿論フランスに於ける東洋畢の長い歴史を毒すには足hェはい が、東洋聾者の中でその開拓者殊にコレジ・ド・フランスに陥係ある人のみに就いて述べたので ・・・−βα−

(22)

人 文 主 義 と 彿 敦 ぁる。その他多′∼の研究者或は畢攻撃曾などで同方面に働い托向も少なからずあか、例せば個 人としては、メルト︵謬rth︶や、セナール︵S小n呈の如きは、何等公職はないが、慮洋研究の大功

尊者である。かくの如く、コレジ・ド・フランスで、段々に出家た東洋講座の歴史を語盲のは、

フランスに於ける東洋学の生命となつで居る精神を語るためであつて、それは思想の出まかせ

から出花ことでなく、流行を追ふ麓でもなく、或は畢を荷ひ知識を弄ぶ食めのものでなく、政

治に利用する虜でもない。それらの研究には一定の哲畢的観念が基礎となつて居るので、その

精神はコレジで敦へて居る他の渚撃科、ギクシヤやラ一アンの古典撃、又は磯城撃、化撃、生物学

等と一聯の観念に基いで、それ等を一貫した精神がある。この精神観念といふのは、如何なる方

面に於ても眞理には人間的債値があると云ふ信仰に外ならぬ。

それ故。レジの教授は、講義、秤目試脇、論文審査など、その他義務は一切なく、空つの義

務あるのみ。即ち眞理の新方面を探求して、費見し待たと信する魔を公表するのみである。但

し研究には多方面あるが、コレジの停統は常に人生の革質と云ふことを念頭に置くにあり、斯

の如き意味で、何等書き記した命令や規則はなく、

コレジの人文研究家の中で・その代表的人

物を選んで、学長とすることになつて居る。私自身が学長として知った人だけでも、ルナン、

▲■■■● βJ−

(23)

♯八十弟 年五節 究新教宋 ボアシエ、ガストソバグ、ルノツリール等の人がある。要するに、コリrジ・ド・ブラツスがその 名稗に背かぬ功凍あらとすれば、科聾の焉、即ち人間﹁隔する知識の進歩の陀めに働き、益々 深く人間そのものを知り、総ての方面に於て、確かな、永遠な、又逼迫の婁素蟹登見し、斯く の如くにして人類と云ふ︼大家族のものが、諸虞に散在して居るが、その−間に眞り接近を遂げ やうとするにある。 ■−きタT

(24)

■ト一 ル コ 族 と 彿 敦 トルコ族で備致・ぎ奉じ㍍らうかと息はるゝ故も古いも山は、漠代から支那に知られて居る康 居である。後漢時代以後其の園の彿滑である庚互︵掘削謂︶庚孟詳巌膠骨壷博鎧農道和の如き が支部に凍て、偶数の宣俸、経典の停謬に従事したことは、梁の慧餃の高野停を始め、諸種の 経線にち記さるゝ有名な奉賛である。康居い民が如何なる人種であつたかについては諸説必ず しも一致しないが、自分はそのトルコ種であつたといふ詭を信じ︹疑はない。後に南北朝時代 から旗国し1いふ名が、サマルカソド ︵SPm讐k書d︶を中心にしたソダブイアナ ︵SOgdi岩p︶ 地 方を呼ぶ名稀として漠史に現はれ、而して隋昏北史魂昏などの西域停に、﹁康固着康居之後也L と記して居るので、其の前身㌔る康居も廃園同様イラン種族の囲でぁるといふ見解が、西洋の 東洋畢者の間に行はれて居るけれども賛成し難い一。尤も自分は此い雨個の名稀の間には相関す

ト ル

コ 族 と 儒 教

羽 田

−■βg′■

(25)

讃入十弟 年五弟 究軒数浣

る研があるだらうと恩ふし、まだ南北朝以後廃園と稀せらるゝ地が、骨て廉居の髄する所であ

ったらうとも考へるから、﹁康固着康居之後也︼の記事を、必しも何等根接なき一時の思付きと

のみ見るものではないが、併し漠代の史書に見ゆる康居の一記事を熟議して、其の生活状態≡一日

語などを考察すると、昔時ソグディアナ地方に操って所謂イラン文化の所有者であつた人民と

の間には著しい相違があつて、到底之をイラン種族とは考へ難い。

既に其の人民がトルコ種であつたことを認むる以上は、其の国人で支部に凍て彿致望且停、彿

典の停繹に徒事した滑侶のあつたことから推して、康居といふトルコ族の間には、遅くも後漠

時代に倍数が行はれて居ったものであらうと見るのは、一鷹重曹の見解と言ひ得るであらう。

︵1︶

併しながら骨て白鳥博士の論じられたやうに、康居の民は遊牧を業とする勇惇の民族であつ

て、かゝる民族の問よら商人膠侶を出すことは疑はしく、或は此等の貯侶は庭園の人であつた

のを、南北朝時代からは鹿居と凍園とを同一親して居るから、此の時代に出家た此等の高野停

以下の書には、遂に之を庚居の人と書くに空つたのではないかとも疑って見なければならぬ。

こゝには此の問題に深く入ることを避ける。

・・−・g丘・・・−い

(26)

lP ル コ 族 Lし 沸 教 トルコ族として一大飛躍の時期を史上に劃するに至つ花のは、浅見に謂ふ所の突魔の興起で ある、.一此の部族と備教との閲係は鬼籍の上に記されて居る併から見ると、極めて線故の薄いも のゝやうでぁる0 突靡は其の興起の初頃から既に束西の両部に分けて見ることが出家るが、その東部のもの即 ち漠史に束突靡といふものについては、陪審突屈辱に次の記事がある∵即ちその佗鉢可汗に関 する記事の中に﹁賓有沙門恵琳、被掠入突蕨中、因謂佗鉢日、寮国富強者、盛有備法耳、遊説以 因縁果報之事、佗鉢聞而信之、建一伽藍、遣使碑寮氏、求浮名捏磐華厳等経井十議律、佗鉢亦 窮脅威、逮塔行造、恨不生内地﹂と見える。此の可汗は西紀五七三年頃から十年間在位したの であるから、此の時代に於て支部の彿致が其の部に停へられた二とは疑無いが、然も之が其の 後如何なる螢達を遂げたかは全く不明であつて、恐ら′、一時的の現象に過ぎなかったらうと息 ふ。昔時支部ほ局番の分辱時代で、互に苧フて突頗−こ婚姻を結び、餞輿を厚くして其の援助お 得やうとし、蓬に可汗をして遍在南璃兄、常孝頓、何患貧也﹂︵鵬僻突︶と豪語せしめた有様で あつたから、停へらるゝが如き理由は兎も角もとLて、白からを紛持する所以からも、昔時支 部に行はれた儒教を己の部にも導入れたことは、極めて自然のこと∼思はれるが、然も其の後 ・−・β5−

(27)

記入十多 年五第 究 祈 改 宗

何等の発展を見なかったらうと恩ふのは、唐の開元年問に普ってその部の獣練達可汗がまた膚

に倣って僻老の廟を起さうとした時に、臣†の敦欲谷が之を拒んで、備老は人をして仁錫なら

しむるもので武咤の術に非すといひ、可拝も遂に之に従ったことが記されて居る扁階乗︶。され

ば佗鉢吋汗の時の併数崇拝は恐らく一時的のもので、まだ流布の勢を作る程のものでほなかつ

詑らうと見るのが、通常の解繹であると息ふ。

西方に居った突靡についてもまた其の流行の記事は存しない。玄弊三寂は印度に向ふ途次、

素案城︵今野︼持㍍鰯3で西実験の某誌可汗に逢ふ雪が、其の際突腰の信仰の有様を記して、﹁突

厭事欠、不施林、以木含火、放散而不居、但地敷蚤菌而巳、伍乗法師設一撃父林、敷棒請坐﹂

︵議撃こいうて居るが、何等彼等が儒教を信奉したことには言及んでゐない。 キルギス 突厳についで漠北の地には同髄即ち□igF弓といふールコ族が勢一ど振つ托が、後に黙養新都 の虜に破られて諸方に散じ、其の一枝は唐も終に近き酪宗の威通七年︵霊00︶頃から、高畠餌ち ツルフアン 今の吐魯番にちかきカタ・ホジヤ︵内弓p 内l岩音︶ の地に撮ることに成った。宋の太平典圃七年 ︵冨田︶高昌国の同厳に使を奉じた王延徳の紀行に掠ると.高昌には彿寺五十鎗琶あつたこと −・・・・・・gβ −・・・・・・・・−・−

(28)

レ コ 放 と 彿 ・章へ 八れ寸 】r

か記され、また唐朝給ふ併の寺額及び歳経脛昔等のぁつたことも見えて居る。此の記事哲籠む

ものは、之を以て此の地に住んだ同鶴部に唐代から既に偶数の流行した教護と見るかも知れな

いが、然も高昌の地はその名が漠の高昌壁に基いて居ることからも察知せらるゝ通り、古くか

ら漢人の住んだものも少︵無く、其の後漢文化を有卜沸教にも掬係洩からぬ社務損祖先氏の未 が移り住み、ついで閲氏が初めて高昌王と解して以挙1∼に王たむしものほ皆漢人で、殊に魂 の太聖一十一年頃︵畠可頃︶からは麹氏の家が繚いて、唐の太宗の時に及んだものであ㌔太宗 S時代麹氏女中心にしでの此の地の沸教信奉の有様は、慈恩終によつて推知することが出家

る。無論こゝには漢人以外トルコ族も屈む、をの他にも亀弦焉者地方に住んだのと同種の人民

も住んでゐ化に連ひないと恩はれるが、王娃徳の書いて居る唐代給ふ所の寺報や頗経医官等を

有する寺院は、主として漢人の寺院曽指したものと見て過らないであらう。然しながらこゝに

述べた所は只王延徳の記事を如何に見るぺきかについての考を述べたに止ら、督時回鶴に傲敦

の信仰が行はれなかったと云はうとするのではない。延徳の蹄観−こ同時であらうと息ふが、苑 脛元年︵冨三回鶴の可汗は婆牒門衛山永世といふものを、汲薪の外道阿里延と共に田鶴の使と して宋に入貢せしめて居る︵断阻同︶■U婆鹿門衛といふのは未見天竺停に、其の国営婆旗門ともい ・・・−−・乏7−

(29)

読凡十多 年五節 究 軒数京 ふと記して居ることから考へても、彿敦僧侶と見るべきである。更に之より少しく以前、郎ち 乾徳三年︵芸ひ︶には西州如ち高昌の田鶴可汗が滑法淵を宋に達して、彿牙琉璃器或由蓋を献じ ハ2︶ たことがあるり凡そ唐代の同鶴では、次にも述べるが如く二元致なる摩尼致が盛に行はれたも ので、従って其の固からの使には、常に此の致の紆侶が従事したものであることは周知の事箕 である。然るに宋の時代になつて、係数の貯侶もか∼る役目に任せられて居ることは、昔時併 肝が漸次其の園に重んせられ、備致の宿せらるゝに至った一諾と考へられる。 西方の史料にも此の間の消息を語るものが無いではない。即ち一〇三一年に書かれたと認め ︵3 られるA−bir冒iの書には、印度や支部や﹁r義h声色−岩︵如ち普時高昌に接った田鶴︶に、昔時Sp m書の残らが居り、クフラサン ︵空lur註−・︶ の住民は之を撃=巨岩岩と呼ぶと見える。︵語尾の 琶は改新語の複数語尾である︶ 回鶴が高昌を奪った頃から、別に甘粛省の諸地、帥ち甘州。沙州等にも其の一部のものは撮っ て屠つたが、此等の語部でも宋代には係数の信仰が行はれ、大中群符の末︵−〇−βには沙州の同 ︵4︶ 鶴が表して金字戴経を請うた事があゎノ、景徳四年︵−書ごには甘州同鶴が尼法仙等をして家朝せ しめ、宋では法仙に五重山に遊ぶことを許した。叉伶笹を達して入朝せしめ、京城に於て彿寺 ー・ gβ・・・■

(30)

tr ル コ 放 と 沸 教 ︵5︶ を建てて軍書を祝せんとし、名額を賜はらんことを求めたが許されなかった。鷹寧元年︵−○の3 ︵6︶

にも入貢し、金字大般若経を買はんことを求めたが、墨本を賜ふたことも見える。遼の成薙三

︵7︶ 年︵−○雪︶に西夏の李諒麻が使を遼に達して同鶴膠を進めたことが見えるが、此の滑侶は此審甘

州沙州地方の同鶴滑であつたらうと思はれる。

此等の記事は記録の上から見て同鶴に遅くも宋代の初頃からは併数の行はれたものであつ光

らうと推察せしめるものであるが、一方に其の賓苦として、所謂同鶴文の彿典なるものが今世

紀の初以凍薪彊の沙の中や寺院や敦塩の儒洞から繹山見出され、花。併しながら此等の彿典には

其の年代を記載して居るものが極めて稀であつて、従って閻魔の係数に関する歴史的の研究を

施すに嘗っては、非常に困難を威せしめる。

前に述べた通わ、記録の上から見ても宋代には同鶴の問に儒教の行はれて居ったものと認め 得らるゝが、唐代に於てはかゝる徴謹は見食らないやうに思ふ。現存史料の示す所では、周鶴 では牟羽可汗の時代︵宗¢−ヨ¢︶に唐から容息以下四人の摩尼数貯侶を伴って蹄つたのを、その ︵8︶ 囲に於る同数停凍の初として、以後湊北時代を通じて盛にその信仰が上下に行はれ、其の貯侶 ーー・・・・・ゴ9・・・・一一

(31)

朝八十多 年玉串 究 軒 数 宋 は常に組故に輿\唐との交渉再審にも徒ひ、遂には昔時同鶴S唐に封して有した勢力の下に、 ︵9︶ 唐にも幾多の摩尼寺を建立して七其の教皇且侍するに至ったものである。従って係数がまた其 の間に流行したものとは考へられないし、勿論また記録の之を記するものも存しない。かゝる 熱心なる摩尼教徒であつた同鶴人が一度其の地を去って高昌の地隼移るに及んで、直に番傘の 信仰を棄てゝ係数を奉するに至つ佗ものとは考へられす。其の後も摩尼教徒として存在したで ︵10︶ あらうと恩はれるが、社家屡々聾者によつて引用せられた記蝕は、賓に此の事を憲明する屈強 の材料である。その最も的撃仏る一例を奉げると、西紀九百八十人年頃にバググッドで書かれ ︵11︶ たアブルファラージユのフィーリスト︵Ab。l千F⋮き句ihrist︶の中に﹁第十世紀の初に五首人の 摩尼教徒がサ†ルカソドに挙り、其の宗義を公望且侍したので︵サマソ朝の︶、ホラプサン侯は 之を殺さうとした。此の報を聞いてCbi完の王I−1・べ一義空車岩の君主の苧。考へるが −はホ ︵12︺ ラブサン侯に使を法り、自分の囲には汝の闊に居る摩尼教徒よらも温に多数の回教徒が居 モ る。若L吾が同宗徒の一人でも汝が殺したならば、白身はすべて国内の回数徒を殺し、其の寺 スタ 院一軍硬壊するだらうといはせた。そこでホラヅサン侯は摩尼致徒の生命を赦し、たゞ人頭稔を 課するに止めねばならなかった﹂と見えて居る。此の記事は十世紀の初、餌ち唐末五代の初頃 −β∂・−・

(32)

ト ル コ 去 と 彿 教 には、T品−−p長一︼監二即ち高昌の同鶴は錦固く摩尼数を信仰してゐた事を誰明するに足るものであ る。されば同鶴は高畠に移てから後三。四十年、少くとも唐の時代を終る頃迄は偶数を信じた ものでは無かったと冨ひ得やう。勿論自分はか\る記事に操って、直に同鶴人には常時彿敦を信 するものが少しも無かったといふ如き見方をするものではない。かゝる問題については、多数 の中には或一ヤ之を信するものもあつ佗らうと想像すべき飴地は充分に訟めるが、それにしても 概して言はヾ、彼等の摩尼教徒にして彿致徒で無かったことに毛頭疑ひh甘いと恩ふ。玄に於て か擾問は白から所謂同能文の儒典と科せらるゝものに向けられねばならぬ。 同儀人の係数に鋸依した形跡が少くとも唐代の未、第十世紀望別に存しないとすれば、薪嚢 や敦焼から出た多′∼の所謂同鶴文節典へ与るものは、自然の結果として唐代を終って以後のもの と見なければなるまい。併しながらか∼る見解は一般に聾者が此の彿典に封して認めて屠る所 と相容れない。勿論此等の彿典中、敦蛙の彿洞から出たもの∼一部分、ま托は薪重から出たも のにも、沙中より発掘≠られ化ので無くて、特別の状態の下に保存せられたもの、例へば露酉 並のマロフ氏が発見した金光明経の如き、邁に後世の寄寓に成るものは論外で問題にはならぬ

−∫J−

(33)

既八十第 年五第 究軒数宗

が、亀鑑吐魯番の近傍諸地の抄中よゎ、他の唐代の年次を有する、またはその時代のもの持てる

こ▼′虚無き漢文菩を始め、其の他の言語を用ひた文書や遺物と共に現はれて凍る同鶴文節典に

ついては、何人も之を唐代のもの、七世紀八世紀のもの七るを認めて疑ふものはない。精密に

年月を附し花岡髄文彿典と解せらる∼もの∼出ないことは遺憾ではあるが、常識から考へて見

ても、二百年も三百年も時代の異った文記が、一ブやニッの例ならば兎も角も、陸産に同時に

同様の状態に於て見出され得べき筈は無くも考古聾者の所謂共存︵苧e軋賢nee︶の踊係上、此等

の文書に七八世紀負からの年月を謎めるのは至皆の事である。しかし之が重曹の事である丈け

一方には反動に同鶴文彿典を七Å詮紀頃迄上らせる事の矛盾を威せねばなるまい。九世紀の後

年に於て始めて高昌に操り、而してこ∼に撮った後にも伺摩尼敷い信仰を固持して居つ陀と記

さるゝ同鶴人が、其の名を冠する備典を既に七。八世紀頃から高昌及び其の附近一帯の地に残し

て居るといふh甘らぼ、何人もその嘉盾に驚かざるを得まい。史上の革質に頓着な・く、而して一

園に同鴨文偶典といふ稗呼軍書重して疑はぎる人々をして此の矛盾を解辞せしむるならば、恐

らくは田鶴人の一部は九世紀の後年、委しく言へば成通七年以前、既に早くより高昌に住み、ま

た早くよh係数を信奉してゐ佗もので、此等の人々の残したものが即ち此の彿典であるといふ ー ♂β ■・−

(34)

tr ル ヨ 衣 と 沸 教 露西亜のラド∇フ︵Rpd−03氏は一九一〇年所謂同能文の偽典づ㌢肋tく11註kの詔鐸を出刊し たが、その前序第五貫に於て、﹁弦に刊行する経典s言語は何であるかといふと、同鶴文字で書

いてあるから之を同鶴譜と解することが出家るばかゎだ﹂というてゐる。即ち同鶴文の経典と

いふのは将に同鶴訟と名附け得らるゝ言語によつて書かれて居るが為に解せらるゝ名では無く

しで、単に同鶴文字を以て書かれて居るによるのである。これは狗竺フドロブ氏のみならず、

其の他の人の考ふる併も同様と見うける。革質国儀文と解せらる∼ものは昔時の他のトル三語

の文語との何に著しい琶別の存するものはないので、漠北に存する有名な闘特勤や敦欲谷の碑

文に見ゆる実験の言語と、音韻も語法もほゞ同一である。それでラドpフ氏は前に述べた併に

績て、﹁これは必ず天山の北方及び南方に、舌代北方トルコの文語と共に同時に硬達し允もので、

種々の口語を用ひて居つたトルコ族によつて、共通の文語として用ひられたものである﹂と論

いて居る。既に同鶴文といふものと、他のトルn族の文語との問に相異れる熱が存せす、たゞ

るものゝ群呼について考察して見やう。

に帝するであらう。自分は此の常識的見解に封して兎角の言叢を費す前に、先づ同鶴文彿典な

−・・・・・・・・・ 慮∫ −

(35)

零八十第 年五夢 先軒数素 同鶴文字で書かれて居る故に此の名稀が生じたものであるとすれば、笈に進んで同鶴文字とい ふものゝ性質を攻究して見なければならぬ。 所謂回鶴文字が同鶴人によつて用ひられたのが何時でぁるかを諭するものは、以前には必ず 外蒙古オルホン河畔の第三碑として知らる∼もの、帥ち此の河谷のカブ・パルガタスyに在る困 鶴の愛登里囁渦没蜜施合枇伽可汗聖文紳武碑といふものを引き、此の碑には漢字突軟字の外、 更にその一面に同鶴文字が見えるから、此の碑の建設せられた時には、既に閻魔文字は製作せ られ、使用せられたものと考へた。一例学トムセン ︵Thこm謁n︶氏の読に求めると、氏は漠北 ︵13︶ に於て同能事以前に行波れた突願文字と、此の薪しく生じた同鶴文字との交替期を論じて、﹁突 r14︶ 靡の囲が西紀七四五年に田鶴に覆された後も、実額り文字は駁に新しき繊巧な形で存在し、か の由鶴時代西紀七八四年に建設せられ佗と考へられるオルホンの第三樺山上にも認められる。 然も此の碑文は突顔文字で記された最後のものらしく、そ仰い碑には後に亜刺比並文字の宥はれ る時迄盛に用ひられた同鶴文字の既に存するのを諷める﹂と説き、八牡紀の未近い頃には、同 ︵16︶ ︵摘し 鶴字が浜北の同鶴人の間に用ひられたものと見た。其の他シュレーダル ︵芝号琶︶、ラド甘フ 氏等も、これが同鶴八の間に用ひられた時代については、皆同様の考を発表して居る。しかし ・・−・疇 g.;−−

(36)

lr ル ’ 族 と 俄 敦 ながら此等の人々が一様に同鶴文字同鶴文と認めた箪二碑の文字及び言語は、騒ご度々自分も 紹介した通む、賓はソグディアナの文字で、ま陀リグディアナの言語でぁること、一九〇九年に ︵17︶ 伯林のミュラー︵句・華不買整eユ氏の論述した所で、爾凍︼股に忍められで居る。た竺フド ︵旭︶ 甘フ氏のみは一旦之を承範したけれ典後更に之を否んで、用語はジグド語であるが、文字は矢 ︵19︶ 張同鶴字であaと主張し、此の碑文は九世紀の初に嘗ら、トルコ人のみならサブグド人も、遠 来に於てその固有の言語を寓す虜に回顧字を用ひたものであることを澄明するものだと見た。 自分は今こゝで深く此の問題を諭することを避け、単に必要な程度に止めなければならぬが、 要するにラドロフ氏の議論は偏見たるに過ぎないもので、この文字がソグド字たることは疑を 容れぬ。︵たゞ念の食に記して置かねばならぬ事は、ラドロブ氏は其著 Al註﹁kisOlle ln邑一ri浄 雷der寓言g01ei の附国中に、此の碑のソグド文の部の断片をも牧めだがち磨滅甚Lくして蔑 み難いので、別に氏の考によつて字劃を填補したものをも載せて居るが、之は此の文字を同 鶴文字と見陀氏の試みた填補でぁるから、全く信用に伍しないことである。其の原形智見やう とするものは、磨滅しては居っても必ず碑か仁直接に撮った拓本に操らねばならぬ︶。ゴーチオ ︵勤︶ ︵¢書家旦氏の如きも之を以て甚だ信じ難い詭として、一顧をも輿へなかつ佗が、虹壷もない _ 【′ぅ

(37)

讃八一十第 年玉多 発軒数崇

ことゝ息ふ。

かゝる次第であるから、今日に於ては此の第三碑は同鶴人の間に同鶴字の行はれた音撮とし

ては何等の債庇を有しない。それでは其の外に漠北時代に同髄人が此の文字を使用した場合が

あるかといへば、少くとも今日知られて居る所では、一としてその例詮は存しな㌔然も反

射に彼等が後家の突原文字を用ひて居た謹接は現れて凍て居・る。即ちラムスタッド︵R昌S邑エ ︵21︶ 氏がぎei爵弓i乳訂R呂eniロ邑旨eロinder穿r干害品。−eiとして番表したものはそれで、 キルギス 其の中の一は回鶴人の作った突願文字の墓誌で、紫養斯人の子にして回鶴に在つセ J。g㌻訂r k買 邑p の食にしたものでぁる。時代は明らかではないが、文中記載の革質から見れば、摩

尼敦の田鶴に輸入されてより後のものであることは疑無い。また夢一のものは唐書に葛勒可汗

磨娃吸と記され、天資六載︵q3よら乾元二年︵宗¢︶まで同鶴可汗の位に在った人の墓碑で、

やはり突傲文字を以て記されて居る。若し浜北時代の同鶴人の問に同鶴字が存在して居ったな

らば、勿論か∼る碑文や墓誌には之が用ひらるべき筈であるのに、たゞ突蕨文字のみが用ひら

れて居るのを見れば、いまだ彼等の間に作製せられ、使用せられては居なかったものと見ぎるを

得ない。然るに田鶴が成通七年︵00霊︶之が高昌を取って其虔に撮ってから後は、何時からの事か −・− gβ・・−・・・・・−・・・・−

(38)

ト ル コ 族 と 俳 駄 かく論じて凍ると、所謂田鶴文字な妄?ものは九世紀の後半以後に、高昌地方で同鶴人が作b 出したものと見ねばならぬことになる。︵同鶴字といふ名から、仮に同鶴人が之財製作したと考 へて︶。しかしながiらそれでは此の文字で書かれた同鶴文傭典と稀せらる∼もの∼中に、七世紀 八世紀頃のもの∼あることを認め得られぬことになる。そこで吾々はか∼る彿典を離れて、別

に此の文字が九世紀の後年以前に高昌附近の地に行はれ花篭接がないかを尋ねて見なければな

らぬ。言ひ換ゆれば同鶴人は高昌に凍て後、既に此の附近に行はれて居た文字を習って使用す

るに至ったものでないかを尋ねて見なければならぬ。

に外ならぬと見るべきこと之でぁる。

九世紀の後牢以後の事で、湊北に在った時代には、絶家此の地方に行はれた突厭文字む用ひた

結論は.回鶴人が同鶴文字を使用することに成ったのは曹目地方に移ってから彼の時代・即ち

も之を用ひたものであることは、吏めていふまでもない事である。法に於てか自然に導かれる

掛難いが、所謂同儀女字を使用して彿典も書けば摩尼鮭典も昏き.まだ日用文書に ー ∫7・一・・・・−

(39)

軒 数京 年玉串 究 漉八十第 ︵盟︶ ラドpフ氏は﹁同鶴文字が何時出寒たかについては澄渡の存するものほ無い。けれども吐魯 番の寮掘物が示す如く、八世紀の後半に於ては既に書籍用の文字として使用せらいて居る。叉 カシュガルでラグログ ︵T、弓r等︶ 氏の購うた貨幣に支部風s銅貨があつて、其の一面には同鶴 ︵霊︶

文字で Tiirg祭さ竃ごbiニハ若山 帥ちei−ニヘ許eb dem岩rg賢︼l舞叫色≡lと記してある。それで此

の貨幣は瀾に八牡紀の初年に躊造されたもので、これまた常時嘉トルキスタンの北方で此の文 字が公用文字として用ひられたるを示すものである﹂と述べた︶吐魯番妓掘の文番に八世紀の 後年の日附を有するもの∼有無は、自分の知識では保定しかねるが.巧守gi乳−餌ち突騎施の貨幣 に同鶴字を記せることほ椎茸なる事茸であつて、これは既にミュラー氏もー九二年に解説し ︵24︶ た。自分は明治由十五年初めで京都で羅振玉氏の所減の此の貨幣を鬼、其の後露西並べテリダ ラードのエルミタージュ博物館所庶のものについて模型を作わ㌧更に近頃同種のもの三四を見 たが、文字は金′ゝ同鶴文字と解せらるゝものである。成文一部の蔑み方については両氏の考の 何れにもー致することば出来ないが、然もT賢gish K品︼−呂と︰■ふ文字は明かで一難の疑も無 い。従ってラドロフ氏の考の通り、之が突騎施可汗の鋳造した貨幣なることは明白の事貰であ る。さて両唐書に掠ると、突騎施は西突靡い・別部で、部長烏質勒といふものが西突靡の滅後代 ・・・・−βざ −

(40)

ト ル ゴ 族 と 彿 敦 ︵訪︶ したものである。鳥質勒の勢の盛になつたのは聖勝二圭一年頃︵霊¢−さ○︶からの事である。其 の死後内争がぁつたが葛選録が勢を得て、至徳大暦の頃、砕東川地方に渡り、突騎施一宮臣威せ しめた主で、餌ち七音大七十年頃迄は、突騎施の勢力を有した時代であるから、此の貨幣もま托 此の間∵即ち七青年−?〇七首六七十年頃迄の間の躊造に係ると見られる。一方之を其の賃の上 から考へると、羅振玉氏は金に告げて、其の銅質、形式の上などよむ見て、開元時代︵ご㌣・可A −︶のものなること全く疑哲容れぬという詑。此の如く此の貨幣の時代が八世紀、殊にその前年 のものなる事が定め得られたとすれば、其の上に刻し空所諸国能文字も、固臨が高昌に接るに 至った九世紀の後平時代より以前、既に高畠と接した突騎施には通用の文字として行はれ泥も のであることを明白に認め得る。 後家回能文字といふものゝ停統については、之を一斗ストル教徒の用ひたシタヤ文字 と見るのが普通で、此の事は既は一二四五年に羅馬法王の使命を奉じて蒙古に使し柁カルビニ ︵句i呂dのC弓pine︶の放行記の中にも見え、一七三二年にはポアイエー︵ロ○︶塵こ一武が早くもそ に、西はノダデーアナ地方に、東南は高昌及び座州卸ち漆木藤地方と接する地を額 無碍費城跡甘今臥トク†ク︵吟詠㌢k∵階近を中心として伊肇の各席から、 − ββ ■・−

(41)

年五節 究軒数 余 読八十夢 のシリヤ文字との字形の類似急速し宗、クラブ了ト︵眉巨︶氏に至って更に浸し欝 ︵野︶ せられ、﹁中世紀に於て蒙古地方を訪うた基督敦滑侶び†ル壱・ポーⅤ︵試買8句○︼0︶等の記す

る併に撮ると、此の地方特に回雅人の間に、ネストル汲の基督教の行はれたことが解る。息ふ

に之を停へたのはシタヤの紆侶であらう。此の伶侶等によつてシタヤ文字も停へられ、而して

之よb更に同鴇文字が発達したものであることほ明かであるtというて、其の次に同館字ム需

スとフソグ∇字、シタヤ字、ネストル教徒の用ひたシタヤ字鰹等との比較封盛の真一・で禍げた。

これよゎ、此の文字の系統を諭ずるものは多くは此の説に従ったのであつたが、更に前に述べ

︵餌︺

たオルホン河畔の第三碑が欧人に知られ、シュレーダル氏は一入九大年に其の碑の漢文を解辞

し、其の中に牟羽に相督する可汗の時、初めて同鶴■し噂へられたと記されてある宗教一曾、ネ

ストル派の基督敦と考へ、而して碑の一面の文字を富時ラrサブ、トムセソの諸氏が同鶴文字

と見て居にので、此の碑文は同鶴文字がシタヤ文字に馨し、ネストル教徒が作製し花ものであ

るといふ社家から行はれ花詭を益々確質ならしめ、且つ其の上に一歩を進めしむるものである

と論じた。しかし此の詭の娘嬢は上述の如く、第一には閻魔女手とシリヤ文字、特にネストル

教徒の用ひたシソヤ文字との字腔が形の上に於て串似せること。琴一にはシリヤ文字を用ひた

−・4ク ー・

(42)

ヽト ル コ 放 と 沸 教 ネストル教徒が、オルホン第三硝に見ゆる如く卒研可汗の時た同鶴に入り、而して其の敦と共 に碑の一面に認めらるゝ文字をも停へたものと見ることにある−されば第︼の理由は、若し回 鶴人が所謂国儀文字を使用した緻琵の存する時より以前に行はれた文字で、ネストル教徒の用 ひたシタヤ文字よちも一骨好く田鶴字に似たるもの∼ある場合には自然に支へ難く、第二一の理 由は著七碑文に記さるゝ新宗教がネストル沢の基督致を指すもので無くして、他の宗教に閲す ろものであることの明になつた場合、及び碑文の文字が同館字と解すべきものでないことが澄 明せらるゝ場合には、また支持することの出水ないのは無論でぁる。 さて回癖字とシタヤ字との類似せることは言ふまでもないが、然も更に著しい類似は同鶴人 が同鶴字を用ひた時より以前から行はれたブグド文字との間に之を認めることが出家、かの第 三碑のソグド文字の如きは、仮令それが磨滅して判然蔑み難い満とはいへ、最後までラド甘7 氏をして、舌鰹の同鴇文字だと主張せしめた避である。尤も今日では好く知らるゝソグド文字 なるものが、今世紀の初から屡行はれた藷幽の中亜探検によつて初めて知るを得陀新事貸であ るから、此の事貿の知られる以前に第三碑の文字を同鴇文字と解し、また同じ時代に同鶴・又字 とシタヤ文字との類似を似て、両者の問に於る最も近い鴎係を示せるものと見たに無理はない ■▼ 一々j −

参照

関連したドキュメント

子どもたちは、全5回のプログラムで学習したこと を思い出しながら、 「昔の人は霧ヶ峰に何をしにきてい

2 学校法人は、前項の書類及び第三十七条第三項第三号の監査報告書(第六十六条第四号において「財

 第1楽章は、春を迎えたボヘミアの人々の幸福感に満ちあふれています。木管で提示される第

❸今年も『エコノフォーラム 21』第 23 号が発行されました。つまり 23 年 間の長きにわって、みなさん方の多く

いてもらう権利﹂に関するものである︒また︑多数意見は本件の争点を歪曲した︒というのは︑第一に︑多数意見は

ぎり︑第三文の効力について疑問を唱えるものは見当たらないのは︑実質的には右のような理由によるものと思われ

い︑商人たる顧客の営業範囲に属する取引によるものについては︑それが利息の損失に限定されることになった︒商人たる顧客は

第一五条 か︑と思われる︒ もとづいて適用される場合と異なり︑