和泉式部は平安時代の女流作家の中でも、特に
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山外放な恋愛歌 人として打名である。かの女の多伯な究性は、その恋愛遥駈を見る と明らかであるが、そうしたかの女の行動への道徳的評価はともか くとしても、その追瓶の中にあってはじめて、式部の千五百余 } I I の 歌は結実したのである。出 I J 木生子氏は式部の歌に対して﹁恋に身ぐ るみ生きた体験の序みや深さからくる辿其性﹂の存在を認め、それ I t l を﹁時代の中にあって時代を越えるものである﹂と評され、また泊 ー ・ . j ー 結 本r
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び 第 第 第 論 _,・;'.i::,・;1: : :序 式部の恋愛歌 式 部 の " ぃ 然 詠 歌 式部の挽歌目
次
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和泉式部の数多い恋党の小でも 第 .,ャ. 11 · I • 式 部 の 恋 炒 . 歌 •Aォ
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かの女の和歌の才能とr r
能とが 水文雄氏も﹁このよりな芸術の直の刑州h
は、はるかにくだって近 W2 代を符たねばならなかった﹂と評されているように、式部の歌に は、趣味恋愛の繁栄したt
刺肌の肋代的村屈を越えて、人間の木買 に姐ってくるものがあるのである U これが式部の和歌の文学性であ ることは紛れもないが、その辿‘具性の似点は、かの女の歌に内包さ れる﹁なげき﹂にあるように私は 1 1 1 心う。では、歌集全体を辿して窺 えるかの女の﹁なけき﹂は、一体、どのようなところから生じたの であろうか。このことを念頭に骰いて、和歌の中から私なりに和泉 式部の人間像を泊究してみたい。 そのための方法としては、 1 1 ペ休性をもたせるために、一応便宜的 に、式部の歌を恋愛歌 ‘ , 1 1 然詠歌、挽歌と分けて見てゆくことを試 人 ﹃ ︳ o 1 1 なお、引川した和歌の下につけた話孤内の数字は﹁和泉式部歌 机﹂︵岩波文州︶の歌の笛けである U名
子
最高潮に発仰されたのは﹁和泉式部 U 氾﹂として及わされた帥宮牧 適親玉との恋愛であった。この恋の経過を見ることは、式部の恋愛 に対する態度を知るのに爪要である。 橘 近 貞 を 夫 と し な が ら 、 冷 泉 院 の 第 一 ︱ ︱ 貞 ふ
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弾I E
窮為昨説土との恋 に落ち、それが貨の死によってはかなく終わってしまった式部にと って、為昨親t
のル宮である帥宮敦逍親王のさそいかけは、式部の 多俯な汽性に訴えかけるものが大きかったと息われる。 かをる呑によそふるよりはほととぎすきかばやおなじ戸やした る と ︵ ニ ニ 七 ︶ 為昨親玉の死後、炎に服していた式部のもとへ敦逍親王から屈け られた橘の枝に対してn
分からさそいかけるような歌を返した式部 である。この切の式部の 1 1 詣は﹁両宅よりもはかなき批の中をなげき I t 3 わびつつあかしくら﹂している状態であった、その折も折に届けら れた橘の花に対してのこの歌に、すでに恋なくしてはいられない式 部の多梢な一圃があらわれているといえよう。 帥宮との歌の.贈答が度爪なり、式部が次第に﹁つれづれもすこし a " 4 なぐさむ心ちしてすぐす﹂ようになった頃のある一夜の契りを契慨 に、恋愛は次の段附に行ってゆくのである。 待たましもかばかりこそはあらましか思ひもかけぬけふの夕作 れ ︵ 八 七 八 ︶ 恋にたゆたう式部のぃr "
しい心中が叫確に示された歌といえる。 宮の強い伯然によ部は終に身を委ね、宮の南院へと移り住むので あるが、この恋がかつてない程に燃えた理1 1 1
の一っに式部と貨との 梢 神 的 連 " 軍 が あ る U それは次の一述の附答に明らかである。 ︵宮︶昨雨にもんにもあてでねたる夜をあやしくぬるる手枕の袖 ︵式︶けさの間に今は梢ぬらん叩少ばかりぬるとみえつる手枕の袖 ︵ 九0
-︶ ︵心山︶夢ばかり況にぬるとみつらめど臥しぞわづらふ手枕の袖 ︵式︶道しばの淋におき心る人によりわがf
枕の袖もかはかず ︵ 九0
二 ︶ といったお互いの行化と歌オとが 1 1 心小に共呪したかけあい、また、 ︵式︶ふれば夜のいとどうさのみしらるるにけふのながめに水ま さらなん︵ふハ四几︶ ︵宜︶なにせんに身をさへすてんと 1 1 1 心ふらんあめのしたにはれの みやふる のような、生きることの辛さを詠んだものなどは、お互いをH
己 の 化だれ変わりにも感じさせる梢神面の述俯稔識が短える。 式部と宮との恋は、かの女のぶ m 院人りで一応の成就をみるのであ るが、このヤ川院人りの時点においてもかの女が﹁この宮づかへほい にもあらず、いはほのなかこそす士出ほしけれ﹂と言い、またさら に、﹁心うき身なればすくせに注かせてあらなん﹂と翌いっているこ とは、注I l
すべきことである。こうした式部の磋愁はかの女の恋 咲とどのようにかかわっているのだろうか。帥宮とのあり方を離れ て、その歌の中からみてかこうと 1 1 1 心 ・ り 。 式部は恋のさなかにありながらも、恋の“りぴを歌う女性ではなか ↓た。それは 1 1 品を見ても歌化を見ても叫らかである。 くろかみの乱れも知らずうち伏せば主,つかきやりし人ぞ恋しき ︵ 八 六 ︶ かく恋ひばたへず死ぬべしよそに人し人こそおのが命なりけれ ︵ 九 二 ︶-11-兌陀な 9 1 1 能とあふれる心栢とが︱つのものとなって打ち出された 央 1 心 的 な 心 の 歌 で あ る 。 心 心 の 9 1 1 能に桜り、求めてやまない式部の心 中が
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われているが、ここには、党欲に身を委ねつつ、その底には 式部の狐独と寂宮とがにじ入でている。そしてまた、これらの歌の 辿虹性は、かのなの外放な休あたりの恋によってしぽり出されてく る火感に支えられていることがわかるであろう。それは、 なげくことありとききて人のいかなることぞととひたるに ともかくもいはばなべてになりぬべしねになきてこそみせまほ し け れ ( ︱ . ハ 三 ︶ の歌によって、一府叫、 I l に な る 。 i . 1 2 犯さえも拾て、泣いて見せる式 部の飯は、おそらく恋の孤独と寂点がせきを切ってあふれ出てくる ものであったにちがいない。 式部の孤独は、それ故かえって恋うる心を大きくする。燃焼を顧 いつつかの女の心はあきらめ、あきらめながら燃えようとたゆたう の で あ る 。 「こ •J ろうきをみるみるたのむはわがこころにもあらぬに や ﹂ と い ふ を と こ に ・ 我もわれ心もしらぬものなればいかがつひにはなるとこそみめ ︵ 六 九 五 ︶ おもひかけずはかりてものいひたる人に 人とはばいかがこたへんおほかたはl t
も忘れね我もなげかじ . ( -︱ 七 六 ︶ ここには、恋のはかなさを認識した式部の姿が示されてはいない だろうか。このような恋のはかなさ、無常を自覚する歌は、これの みにとどまらない。次の つれづれと咆ぞ 1 1 9 ら を 3 1 1 1 心ふ人あ士くだりこんものならt C
く に ︵ 八 一 ︶ いくつづついくつかされて柏it
しかりのこの肌の人の心を ︵ じ 一 五 ︶ の歌には、恋党のはかなさを知りすぎるあ士り、その一方で永遠の 心 のf
安を顧う式部の心伯が極めて客観的なH
,
﹂布寮の熊度で示さ れているとはえるのではなかろうか。 ここで、私が想像することは、恋のはかなさと詞時にかの女は、n
己の性格にも認識が徹底していたのではなかろうかということで ある。次の歌から芳寮してゆきたい。 たらちめのいさめしものをつれ.づれと眺むるをだにとふ人もな し ︵ 二 八 七 ︶ 襄る人をおこすともなき︶人火を砧つつはかなくあかす夜な夜 な ︵ 六 九 ︶ これらはn
己のつれづれをもてあそぶ性船を認めていると考えら れよう。また やむごとな含りに 白浪のよるには府く脱き洲のl f r
かじとおもふ我ならなくに ︵ 四 四 一 ︶ の 歌 で は 、n
己の肉体のH
立 を 布 げ て い る . と . 1 いえよう。﹁な﹂と ﹁なび﹂を大胆に使いこなして女休の打船なこの上なく詑やかに詠 ん で い る 。n ,
﹂をこのようなものと"牝する式部は、﹁つれ . . つ れ ﹂ を 朔 く 一 方においては、その﹁つれづれ﹂故にかえって大胆に男をさそい、n
ら柏極的に行動したと 1 1 1 心われるのである U このことは、帥宮に返した最初の歌でも思い出されることである。さらに次の つらけれど忘れじとおもふ人に うしとても人を忘るるものならばおのが心にあらぬと 1 1 1 心 は ん ︵ 六 六 八 ︶ の歌になると、自茸というよりも自北しすぎる余り、ほとんど
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己 放梨している式部なのである。 さて、式部にとって﹁つれづれ﹂の深油にさらされることは恋愛 の渦中における孤独や寂完以上に耐えがたいことであった。従って 恋に溺れることは式部にとってはひとつの自分を慰めるための遊戯 として捉えられていたといえよう。﹁つれづれ﹂を慰めるための逝 戯としての対象が恋であったことは、式部の多情な沢性の故である ことはいうまでもなく、また、趣抹恋愛の盛んだった当時の時代i t
を反映していることも当然である。 しかし、式部を考える均合、このことのみで判断するのは却蛉所で あろう。多くの男性との交渉をもちながらも式部をして、とりわけ 帥宮との恋愛生活を あかざりしむかしのことをかきつくるすずりの水は枷なりけり ︵ 九 八 六 ︶ と、残そうとせしめたものは一体何であったか。それは粘神而にお ける連帯を求めて初徊する式部が、終にめぐり合った帥貨への判実 の愛惜の心であったのであろう。 恋の無常を知る式部であることは、すでに認め得たのであるが、 こうしたはかないものに佑熱を住ぎ、歌のオ能を喚起されること が、﹁つれづれ﹂にひそむ式部の生の姿勢であったと息うのであ る。こうした恋味でやはり、式部は永遠の恋の約他名であると i _ •• 1 1 え 式 部 の , 1 1 然観照の郎度について﹁索材を k m t して、それにあらわ れた内容梢神は﹃あはれ﹄に収点がおかれていて、その r あはれ j によって示される災の怖悦は限かなものに求められている n ︵ 中 陥 ︶ n 然視依は常にそれ •II 休 yJl,J して什在する I j となく、人事の旅姐と A6 して描かれている。﹂という見解がすでにあるが、この窪ではこの ことは、ひと主ず踏たえた上で、具休的に式部の人れとn
然現象と のかかわり合いを見てゆくことにする。第ごいで述ぺたように、式 部が永遠の恋の I J i 柏h
である以上、この島^ 1 1 、人れとは恋であるこ とセまず陪まえておかなければならない。従って厳密には目然詠と はいえない歌をも杓なの対匁にすることはやいを得ない。 まず、人部のH
然詠を言砒して叫確に牡徴づけられることは、天 餃に関すること、つだり風、太、霧、~昨‘嵐、空のようなものを多 <詠んでいることである。それらの歌は、 ﹁ 1 1 、風のいたう吹くにみだるる<t
を いつ生でかけぶりとならで風吹けばただよふ火をよそに眺めん ︵ 一 四 九 八 ︶ くれつかに霧のたたずまひ、そらのけしきなどあはれしられ ん と て ぃ生はとてたつきりさへぞあはれなるありしあしたの空ににた れ は こ 五 い 八 ︶ のように、死の.ナ感なも感じさせるようなn
己 の 無 霜 を 詠 ん だ も の 、 北 た 、゜
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.~ ~. ・,・;-;: 人 部 のH
然詠歌-13-七 1 1 、風のいとはけしきに ぷおきし木々のこの~れをふくよりはよにも嵐の身をこそは tctr ︵ 一 五 一 八 ︶ 八 l l 、おちつもりたるこのはを、風のさそふもうらやましく て 日をへつつ我なにれをおもはまし風のまへなるこのはなりせば ︵ 一 五 三 九 ︶ のように、風にさそわれる木の狛のごとく一定しない •Il 己の心を品 めたと思われるもの、さらに、 九 月 ば か り 、 . い 咄 翌 1 1 にそそのかされて人のいでぬるに 人はゆき霧はまがきに立ちどまりさも中空に眺めつるかな. ︵ 一 八 二 ︶ のごとく、どこにも焦点の定まらない﹁つれづれ﹂の息いを詠んだ ものなど、陪い沈んだ感じのものが多い。これらの歌は、第一ふ"ぶで 見た、自己省察、.
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立の歌と共通する静けさがある。恋多く一定し ない自己の査性を認めている式部が日然の内に自己を投入し得るも のは、やはり一定しない、 101 ら移ろい、はかなく消えてゆく鉗や松~ や雲などの天候であったのだろうか 0 • さて、私はここで、仙窮との場合における天候の歌に注泣してみ た い と 思 う 。 さゆる夜のかずかくしぎは我なれやいくあさしもをおきてみつ ら ん ︵ 四 一 ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ) しもがれはわびしかりけり秋風の吹くには荻の甜つれもしき ︵ 四 一 在 ︶ 秋のうちはくちはてぬべしことわりのしぐれにたれか袖はから 生 し ︵ 八I L
四 ︶ 1 1 " 山 中 の 心 9 への返歌である。寂屯とした秋の凪仙と、やはりM
じ ように孤独な式部の;心伯とが1
じ地点で捉えられた秀歌である。祁 一 ふ 9 小 で L I 品から引川ーた窮との贈答歌にも見られるような、こうし た枡かな、比較的客観的なn
己竹祭の姿努は、恋のはかなさもH
己 の無前も知っているえ人の梢神的辿叫軍が状盤となって、その心梢を やはり、はかなく移ろう天候というn
然視匁の中に結火させたとい え よ う 。 しかし、以じ述べてきたような・ 1 1 然現象と心伯との一致がなされ るのはかの女の恋心が古 1 拐した時だけに限られる。それは次の歌が 叫 ら か に す る 。 敦公しのびのこゑもきこえぬにまだきもこゆるあやめ耽かな ' ︵ 七0
四 ︶ ﹁ あ や め " 1 1 ャ ー9
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分にたとえて、訪れぬ帥貨を怨む歌である。守 I l l 透氏がこの歌の作られた時期をぃ川院入り後と拙走しておられるの に従うならば、この歌は式部のどんな心の様子を邸味するか、それ は 、 式 部 の i I i l 院 人 り に よ っ て 、 一 応 の 恋 の 成 就 が な さ れ た こ と は 、 今度は別離のが安の始まりであったと私は推測したい。そうした不 安のために、客観的に・ 1 1 然を受けとめられない式部の悩む姿が窺え る と 1 1 1 心 う の で あ る U さらに主た、人部は口あやめ雌﹂をn
己になぞらえることで何を 象徴しようと 1 たのか U 他の﹁あやめ雌﹂の歌を見てゆこう。 圧 J J 五 I I ある人に かくれ沼にドふるあやめののこらぬに人のふるねぞかなしかり ける︵一り八れ︶いかなる人にか ひく人もなくてきのふは過ぐしてきわが忘るるにおふるあやめ は︵五七四︶ 三 月 三 日 あやめ草さ月ならねどわが袖にひとしれぬねはいつかたえせん ︵ 六 一 五 ︶ これらの歌はいずれも宜能的な恋の心を歌わぬものはない。寺 1 1 1 透氏が﹁あやめ箪は抑制の臨志にもかかわらず生い有ち力を増して r7 くる瀾たされぬ欲梢の依徴﹂であると述べておられることに、すべ ては端的に示される。すなわち﹁あやめ背とは式部の肉体の梢念の 強さを表現しているのである。多梢な自己の狩性を知る式部にとっ て﹁あやめ草﹂とは蚊も的を得た自己の表現素材であったのである う 。 第一章で式部が
n
己認品は徹底して冷静であることを述べたが、 私はここで、かの女がそれでも幾度も恋に洒れようとする生き方は 肉体に規定された情念の弥さがあったからであろうと認めたい。 さらにまた、この{いで叫らかになつたことはヽH
らがぱかない恋 の遊びに移ろいつつ、おそらく無紅訊ではあったろうけれども、天 歓という移ろいやすいH
然現象にH
己を対象化しようとする式部の 美 意 識 で あ る 。 それは恋という感梢の閥揚時にしか発視されず、しかもついに完 全には対象化はなしえていない。これもまた、式部の梢念の弥さを 物 語 っ て い よ う 。 この紅では、式部の挽歌を見てゆくことを通じて、浙然そこから 連想される式部における死のイメージ、さらに宗教的なものに対す る態度に主で論をすすめたいと思う。 式部の設愛の恋人、牧泊親王の死後、かの女が詠む歌はそのいず れもが悲咬高愁の色漿いものである。 なき人のくる夜ときけど什もなしわがすむ肌や魂なきの里 ︵ 九 四 一 ︱ -︶ 物をの人 1 1 1 心ひ襄詑めの床の上に我がf
枕ぞ打りてかひなき.(10
四 一 4 -︶ ここに見られるのは、帥宮の死を悼む式部の姿ではあるが、宮の 死を悼みつつ、かの女が嘆いているのは、はかなく逝いた宜への I l l 心 いやりではなく`孤独と寂夕を抹わう式部n
身の身の上であること にi t
1 1
したいと 1 1 1 心 う 。 ' J ' J に、式部の弥烈な生への執心と、死に対 しての独特の感じ力が窺われるのではなかろうか。次の歌、 わが心駁の野ぺにもあらなくにしげくも亦心のなりまさるかな(
1
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帆けや帆けわがもらし︶に呼子いば呼ぺばこにへて帰り来ばかり(
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五 ︶ などに見えるはげしい恋心は喪中の歌とは 1 1 1 心えない利に、切実で布 しげてある。死という水地の別れは、巾実としてはあるけれども、 決して式部の恋うる心を、・1 1
らの死へ、さらに宋教的・1 1
宜へと移行 させるものではなかった︱ J とを示すのではなかろうか。このことは 次の歌に明らかであろう。 第 一 二 岱 小 式部の挽歌 - 15 --なほ尼にやなりな注しと 1 1 1 心 ひ た つ に も すてはてんとおもふさへこそ悲 L けれ村になれにし我が身と息 へば︵九五三︶ おもひきやありて忘れぬおのが身をきみがかたみになさむ物と は ︵ 九 五 四 ︶ 尼になろうとする気拌はあるけれども、我が身に泌みついた窃と の恋愛生活の刻印の方がどうしても自分から離れない式部の行悩す る姿がある。ここに、宗教に逃れることのできない式部の生への執 心を窺い見るのであるが、その執心が、恋の苦しみ故であるところ にかの女の恋の初後者としての其実を知る思いがするのである。 ま た 、 こ の 二 ︸ U に私は式部の独特の死の捉え方が表わされでいる よ う に 思 う 。 一 字 1 1 の揺は﹁我が身は帥宮の形見として残されている のである。精神的述術によって燃えた二人の恋であったーその恋の 証しは我が身にしかないのであるーそれならば、この身までがなく なることは、かえ`って悲しいことではないか﹂というような心梢で あり、物理的な死が、決して二人の決定的な別離を意味するもので はない事を示している。帥宮は式部の心の中に生きているのであ る。この心が第一邸で引川した、 あかざりしむかしのことをかきつくるすずりの水柱訳なりけり ︵ 九 八 六 ︶ と表現され、﹁和泉式部
u
記﹂として結実したのであると思える。 愛するものの死に遇遇して、宗教的自覚を完全には知らない式部 である。それは帥宮の死後にも、結局がの女が藤原保昌と結婚した ことでも衷付けられるかの女の生への執心があったからである。 が、それだけではない。今述べたように、愛人の死というものが肉 体の別離のムであ:て‘心主での別離ではないという式部独H
の 死 の捉え方があ↓たからでもあろう。 と も あ れ 、 " 収 呪 の 人 の 死 が 、 宗 教 的 " 北 ヘ ・ 1 1 らの死へと発展しな いことは、式部にとりて 1 、 大 き な 初 " し み で あ 7 た に ち が い な い 。 は か な し と だ さ し く 見 つ る 咄 生 の 枇 を お ど ・ り か で 哀 る 我 は 人 か は ︵ 九 ふ ハ 一 一 一 ︶ と 、 心 が 教 心 にH
邸めないn ,
﹂を孤独と戦きの中で此めるのである U そしてたゆたい求め得ず、結屈身と心はH
分にとって別例のもので あることを知るのである。この体だけの別離という稔識、それ故か の女の挽歌は、附々悲咬の梢を深めてゆくのではなかろうか。 絶えし咄 J こ ろ に か な ふ も の な ら ば 我 が じ 宝 り 紐 m により代へて中 し︵九じ八︶ と、窮の命をn
分の命と代えたいと願うけれども、それはすぐ 甲斐なくてさすがに絶えぬ命かな心を上の緒にしよらねば ︵ 九 荘 一 ︶ いとへども泊えぬ身ぞうきうらやまし風のまへなるよひのとも し び(
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ハ ︶ と、そうすることのできない殷きに変わってゆくのである。 さて、挽歌を通して式部を見てきたが、 •J こで私が認め得ること は、死という別離に際して、宗教に逃れることもできず、はげしい 泊布心の俯をあく主でもり々と歌いあげる式部の姿である。恋疫にお いて、式部の心が設も翡掲し、詐的才能が喚起されるのは、おそら く そ の 恋 が 、 決 ー ヤ 、 一 祗 と はH
分の手のうちに見ることのできな い、去りゆく時であったのだろうと私は I l l 心 う の で あ る 。伝説的なまでに