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「なんでもいい」から,自分をみつめ直して 新しい自分を発見すること

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私にとって言語文化教育とは何か

「なんでもいい」から,自分をみつめ直して 新しい自分を発見すること

実践研究「総合活動型日本語教育」から

和田晃子 

はじめに

早稲田大学大学院日本語教育研究科の「日本語教育実践研究(9)」は,関連したク ラスが二つある。一つは,早稲田大学日本語教育センター別科日本語専修課程日本 語講座(以下,別科)の留学生の日本語クラスであり,「総合3-6クラス(以下,「総 合」)」と呼ばれている。他方,「日本語教育実践研究(9)(以下,「実践」)」は,「総 合」に参加している大学院生のためのクラスである。2004年秋学期では,別科生は 17名,大学院生は9名,サポーターが3名参加した。開始時に特にサポーターの存 在に関して説明は受けていなかったが,言語文化教育研究室の院生で,「総合」経 験者が参加しているようである。サポーターが,世話人として存在しているのか個 人的な研究のために参加しているのかは最後までわからなかった。サポーターがい ないグループもあったが,私のグループには一人いて,話し合いの展開に困るとい つも助け舟を出してくれた。

「総合」では,別科生や院生やサポーターが数名のグループを作る。そして,別 科生が「私にとって……は○○である」をレポートとしてまとめていく。「実践」

では,「総合」の理念を学びながら,院生自身も「私にとって総合活動型日本語教 育とは何か」というテーマでレポートを書いていく。これら二つのレポートは書き 方が似ていて,まず,テーマに沿った動機文を書き,全員で検討してわかりにくい 箇所,筋の通ってない部分などを指摘し合って書き直していく。次に,動機文の

「私にとって総合活動型日本語教育とは,○○である」を肉付けする理由や自分の 立場を表明した上で,他者と対話を行なってその中での話題についてさらに深めて いく。対話は,自分の考えの整理のために行う。まず,自分の立場を動機文で明ら かにして,それを対話相手に読んでもらい,必要であればさらに補足する。聞きた いことを絞り,それに対する対話相手と自分の考えをぶつけて,その過程をまとめ る。まとめたものをメンバーにあらかじめ送った上で,授業中にコメントをもらう。

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これを何回かくりかえす。そして,最終的に自分自身の変容,または,自分の目指 す日本語教育ということについて,総合型活動型日本語教育に関してレポートをま とめる。

当初私はレポートで何を書くのか決めていなかった。しかし,授業の受講理由と しての動機文を書く際に,かつて経験した「総合」に似た経験を再び味わいたいか ら,と記した。「総合」自体が日本語教育では珍しい授業であるが,過去の経験か ら私はそれをそれほど特殊なものだとは思わなかった。むしろ共通点を探せる楽し みがあって履修を決めた。

1.

動機文

これまでに様々な教育機関で,多様な学習者に出会い,多くの教室活動を体験し てきた。その場で求められているものは一様ではなく,日本語学習者よりも私の方 が多くを学ばせてもらったと思う。その一方で,日本語学習者ではない立場で,私 の考え方に影響を与えてくださった方もたくさんいるが,そのうちの一人に私の考 え方の原点となった人(Aさん)がいる。ずいぶん前のことになるが,当時私はあ る機関で日本語教育研修を受けており,Aさんは指導者であった。

Aさんからは,教室という場所で教えてもらったことと並行して一緒に行ってい た,ボランティア活動の場面からさらに多くを学んだ。

ある時,ある自治体から日本語教室開設に伴う講師への承諾依頼を受けて,Aさ んは私を含む協力チームを立ち上げて引き受けた。準備段階から内容に関して突拍 子もないやり方に,自治体職員は面食らって,当初はよく注文をつけたり,依頼を 拒否していたような記憶がある。だが,私自身には違和感はなかったように記憶し ている。Aさんは,よく「なんでもいいんじゃない。」と言った。一見無責任にも聞 こえるし,冷たくも感じる。「なんでもいい」ということは,ルールはない,とい うことである。当時の状況に当てはめて考えると,日本語学習者の望むことを優先 して,日本人がそれにあわせて支援する,いうことであったろう。しかし,「なん でもいい」の状態にしておくためには,準備が大変だということがすぐにわかった。

大変というのは,何かを買うとか勉強しておくことがたくさんある,ということで はない。時間がかかるのである。

学習者はやりたいことがわかっている人と,わかっていない人がいる。わかっ ていないというのは,何もわかっていないわけではなく,気づいていないのであ る。つまり,何かを期待して日本語教室に集まっては来るが,そこで行うことにつ

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いては,来た当初は無意志のままである。その日本語教室は,一斉に授業を行う学 校ではなく,寺子屋式(もしくはサロン)の場所を提供していた。やりたいことの ある人はそれをすればよい。よくわからないで来た人にはボランティアが向き合っ て,言葉を使って実際に何かすることを共に探していく。自信はないが何かしたい と思ってやってくるボランティアもいる。そんな人にはこんなことでも私にできる ことがあるんだ,という発見になる。日本語学習者には結果的に日本語学習になっ ていくのだが,プロセスを共有することで,日本語学習者にもボランティアにも達 成感が得られる。

しかし必ずしも成功するわけではないので,そこに知識を持った支援者や交通整 理が介入することで,よりよい結果になることが多い。「なんでもいい」は,そう いう第三者的な目を持った人の発言で,「なんでもやってごらん。ただし,よく考 えよう」という,勇気が出る言葉なのだと気づいてからは,この考え方が私にも根 付いたように思う。

カリキュラムの決まっている日本語クラスではなかなか実現できないが,「総合」

は,再び「なんでもいい」ができるような気がする。初日の自己紹介で「大変だ ろう。」と言ったのは,係わる時間に関してだけで,自分がその中に入っていくこ とについては,それが王道だと思ってもいいくらいに,このクラスに期待している。

ゆえに,私にとって総合活動型日本語教育とは,日本語を使ってやりたいことを探 し,それに係わる人全てが新たな自分を発見していくことである。

2. 対話の概要

2-1. 対話相手のSさん

「実践」では「総合」の実習と共に,「私にとって総合型日本語教育とは……」と いうレポートを作成していく。レポートは動機文と呼ばれる,「総合」クラス参加 への関心を持つにいたったきっかけを書くことから始まり,3ヶ月半で自分と深く 向き合うために対話をすることになっている。対話相手を選ぶ際には,細川先生や 研究室の人に聞いて推薦してもらったり,自分から希望してお願いする。私は,細 川先生の公開講座をお手伝いした際に,総合活動型日本語教育に関するお話を何の 違和感もなく受け止めて,かつて経験した日本語教育がここにもあるのだと安心感 も覚えていた。このように賛同こそすれ,なかなか総合活動型日本語教育に批判の 目を持てない自分の視点を変えたいと思っていた。細川先生の授業に出ている他の

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人を見ていると,先生の考えるような日本語教室はありえない,と考えている人も 多いようであった。私は,お話を伺っていても疑問が生じることがないので,本当 に理解しているのか,それともわかっているつもりでいるだけなのか,自分自身に 自信がなかったのである。ゆえに,対話相手は,考え方に変革をもたらしてくれる 可能性のある,自分に刺激になる人を希望し,言語文化教育研究室の人に何人か尋 ねて回った。その結果,現在は自らも「総合」のクラスを担当されていて,「総合」

の理念もよくわかっている,ということで,言語文化教育研究室2期生で博士課程 のSさんという方を紹介していただいた。

2-2. 対話の日程

対話は3回行った。日時と場所は以下の通りである。

第1回目

日時:2004年10月26日(火) 14:05~14:45 場所:22号館8階小自習室

第2回目

日時:2004年11月9日(火) 13:05~14:05 場所:22号館8階第1共同研究室

第3回目

日時:2004年11月29日(火) 13:00~14:10 場所:22号館8階第1共同研究室

第1回目は,私が対話自体に対する考えを整理できていず,ブレーンストーミン グにおつきあいいただいたような結果になってしまった。自分としては,細川先生 を批判できるようになるにはどうしたらよいのかということを聞いて,そのために はどうしたらよいのかを教えてほしいと思っていた。聞きたいことは明確ではあっ たが,何しろテーマがずれていた。Sさんはつきあってくださったが,やはりこれ ではレポートを書くための対話にはならなかった。第2回目から本当の対話になっ たと思う。そして,第2回目を終了した時点で,自分の設定したテーマに自分自身 が深まっていないことがよくわかり,次回までの宿題をもらったのだが,それをこ なせないまま第3回目の対話の日を迎えてしまった。お話はしたが,クリアできて いないものを再確認したに過ぎなかった。今度こそ自分で深めていかないと,対話 を重ねる意味がなくなると思い,これまでの対話で出てきていたいくつかの点につ いて,時間をかけて一人対話をすることにした。

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3. 「なんでもいい」の体験

3-1. 「なんでもいい」探し

動機文にも書いたが,以前関わっていた地域の日本語教室での経験と,「総合」

の間には,何か共通点があって,それは「なんでもいい」ということのような気が してならなかった。動機文を提出した際,細川先生から「なんでもいい,がキー ワードになりそうですね」と言われて初めて意識したのだが,Sさんからも同じこ とを言われて,今回は「なんでもいい」を追い求めることにした。

3-2.  「総合」での「なんでもいい」

Sさんに,「総合」とかつての体験の共通点が「なんでもいい」のであるなら,そ の共通点を表現してみるようにと言われた。感覚的に似ていると思うだけで,つき つめて考えていなかったので,漠然と感じている共通点の「思っていることが言え る」「参加者同士は対等である」と述べた。「思っていることが言える」とは,参加 する人が心の中の言いたいことを表現できることが共通点である,ということであ る。しかし,なんでも言えることが本当にいいのか,「総合」では本当になんでも 言えるのか,と問い返されてしまった。「参加者同士は対等である」とは,参加者 同士に上下がなく,友達のようにつきあえることである,と伝えた。しかし,対等 にも様々な質があって,ただ仲がよいのでは「総合」は成り立たない,と言われた。

確かにその通りだと思い,それ以上は明確に伝えられず,結局反論もできなかった。

その対話は以下の通りである。これ以降,対話の引用文中では,SさんをS,和田 をWで表すことにする。

【2回目対話から】

S:学習者は大人だから,考えていることをまず出してごらんと言う。言って わからないことはわかるように言わせる。言いたいことを言うために,準備 をしてくる。なんでもいいです,という一般的なやつともまた違って,例え ば,なんでもいいから日本人と話してこいとか,そういうのともまた違いま すよねえ。

W:うーん,そうですね。

S:あと,なんでもいいから好きなことやっていいよ,というのともちょっと 違いますよね。だからそう,次元が,どっちがいいとかわからないけど,教

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育的な次元が違うものって言うか,そんな気がしますね。

W:そうですね,その通りですね。私もそう思ってきました。先生があれだけ 積み重ねていらっしゃるというのはそういうことなんですよね。

S:でも学生はこうしなさい,私が言った通りにしなさいという方が楽だし,

ねえ,自分で考えなさいっていう方が辛いし,今までもやったことないし…。

W:はい。

S:学生にとっては大変なはずだけど,本当にそれができれば絶対言葉もうま くなるだろうし,言葉だけじゃなくて人の話もよく聞くこととか,人の考え を方にして自分の考えにするとか,他の人の言葉を糧にして自分の力をつけ るっていうこともできるだろうし…。

Sさんは,現在の日本語教育にも,これまでの教師中心を脱却した後に「なんで もいい」方式があると述べている。その例として挙げたのは,以下の2点であった。

(1) 日本人と話せればなんでもいい,という考え方がある。

(2) 学習者中心を履き違えて,完全に教師は何もしない,という考え方がある。

私自身も「総合」が始まって間もない頃であったので,「総合」もこの二つを含 んでいると思っていた。受講者にいかに自分で考えるようにさせるかが大変なこと か,経験的にわかっていなかったのである。Sさんは,「総合」はこのどちらでもな いということを説明してくださっている。さらに続けて,和田の「なんでもいい」

への反論が続く。

【2回目対話から】

S:私にとっては「総合」はなんでもいいとは逆に思っていなくて,学習者の ことを本当に考えさせられたりとか,他の人のことを聞いたりとか,考え ていることを発信したりとか,そういう風なことができるようになるように,

いっしょうけんめいに働きかけるって感じが「総合」のイメージ。で,そ ういう風に働きかけて,そういう方向性に教室活動がなってくるとある程度 ちょっとこう退いて,動いていくという。だから,さっき言ったように,何 にもしなければ学習者は自分の好きなことばっかりバーっと話して,嫌なこ とは聞かないでという感じになっちゃうから,それをちゃんと交わらせるっ ていうか。そういう風にもっていくっていうのが,教師の役割だと思うし,

考える方向性,そういう風なコミュニケーション活動をするっていう方向付

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けを意識的にやっているという感じですね。

W:他の日本語の科目を教えるのとは全く違う…。

S:他の日本語は,自分で考えなさいとか,他の人の意見をちゃんと聞きなさ いとか,そういう風に責任を持って,でも自由に考えなさいっていうのは 普通,さっき言ったように逆で,完全に許しちゃうか,なんでもいいよって なっちゃうか,それともこうしなさいって言うか,なっちゃうわけだから。

W:だから…。

S:今はなんでもやっていいよ,とかプロジェクトワークもあるし,でもそれ だと何やってるか全然わかんないっていうか,実際外に出て学習者が何し てるかって言ったら,わからないじゃないですか。好きなことだけバーっと しゃべって。しゃべった気になって。でも例えばしゃべっていることは本で 読んだこととか,でもそれでもいいんだけど,まあそれでも悪くはないと思 うんだけど,自分でよく考えてないかもしれないし。そうすると,そのなん でもいいは,何なのかな,って考えなくちゃならないし。で,なんでもいい は,最近はだんだん少なくなっているのかもしれないけど,なんでもいいを 全然許してないクラスがあるわけじゃないですか,一方で。

W:はい。

Sさんは,教師の働きかけがあってこその「総合」だということを力説している。

「なんでもいい」のなら,参加者は好きなことしかしない。「総合」は自分でよく考 え,それを責任を持って他者に伝える。この過程は大変重要であり,かつ難しいこ とであり,学習者だけではわざわざこのような面倒なことは絶対にしない。「総合」

では,教師からの働きかけで気づき,さらに学習者同士の働きかけも起こすように していることが重要である。私自身,同時並行的に「総合」のクラスで働きかけの 難しさに直面し始めた頃のお話だったので,かなり多様な方法で受講者の反応を探 るということに関して,身に沁みる話であった。そして次に,和田の「なんでもい い」がうまく伝えられないため,逆に「総合」における「なんでもいい」が本当に 存在するのかどうか,ということと,「総合」には「なんでもいい」はあまりない のだ,ということをいろいろな視点から教えてくださった。

一方で,「総合」の中に存在する「なんでもいい」もあると認めてもらった部分 もあった。以下は,最終的なSさんのまとめが現れている対話である。

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【2回目対話から】

S:なかなか自分でやってみないとね。わからないと思う。なかなかねこの活 動って,人に話すのが経験したことがない人とかに話すのが難しいんですけ ど。簡単にまとめると,たぶん,なんでもよくはない。だけど,ある程度の 所を過ぎると,なんでもよくはなる。だけど,いろんな働きかけをして,学 習者がそういうコミュニケーションを教室の中でできるようにして,態度が 芽生えていくように,いっしょうけんめいにやって,その方向で進んでいく ならば,なんでもいいんですよ,きっと。だけどこのなんでもいいっていう のを作るまでがものすっごく大変で。だから本当に真剣に考えて,真剣に話 して,他の人のことを聞いていけば,そういう方向性ができればなんでもい いんだけど,まずここを作るのがものすごぉい大変だから。ここを作るため にいろんなことをしてるし,それを維持するためにいろんなことしてるから,

だから,なんでもよくは,たぶんないんですね。ってわかります?

W:わかります。

S:それができればなんでもいいって感じなんだけどね。だから,どういうな んでもいいを,また和田さんが目指していくかですよねえ。

和田が,「総合」には絶対「なんでもいい」があるはずだ,という考え方をあき らめなかったために,Sさんは「総合」の中の「なんでもいい」部分を切り取って くれた。これはSさんの大きな譲歩であり,また私へのヒントでもあったのだろう。

Sさんの考える,「総合」での「なんでもいい」の定義が見えた瞬間であった。Sさ んは,「総合」の初めの段階には「なんでもいい」はない。やがて授業の担当者か らの働きかけが実って,受講者が自分で深く考えていけるようになった段階以降は 何を試みてもいいのだ,というのである。しかし,その段階に到達させ,維持させ るのは並大抵のことでは無理である。ゆえに「総合」は「なんでもよくない」とい うことになる。

2回目の対話後,「なんでもいい」とはどういうことかということを,さらに深く 考えてくるように言われたのだが,まだ感覚的なものだけで「なんでもいい」にこ だわり続けていたような気がする。Sさんはその目に見えないものを尊重してくれ て,そこを深く考えるように何度もくりかえしていた。

【3回目対話から】

W:自分の「なんでもいい」をまとめなさい,って最初から言ってくださって

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いるのに…(今は)自分の「なんでもいい」はなくなったような。

S:えー,なくなっちゃった? じゃあまた作らないと,一緒にまた作りましょ う。ははは。そんな感じで意識的に働きかけて,あるとこまでいくと,ホッ と芽が出てみんなでワッとできるようになってくるんだけど。その意味では なんでもいいんだけど。なんでもいいを作るまではねー,なんでもよくない。

W:はい。

S:でもきっとその前の「実践」と,何かは同じ所があると思う。だからそこ を考えてみると,何かが出てくると思う。

W:いや,違う所がわかってしまったー。ちゃんとした教育観がなかったんで すね。「総合」は日本語教育で,地域の方は,人間作り友達作りが主眼だっ たと思うんです。言葉,もちろん通してましたけど,日本語能力を伸ばすこ と自体,私やってなかったのかもしれない。今になって。でも,一皮向けた あとのなんでもいい状態に多少似ているところがあって,あと,細川先生の 話ってすごく広いと思うんですよね。あれはだめこれはだめっておっしゃる けれど,こういう文法だけのは,っておっしゃるけど,突き抜けたあとはな んでもいいっておっしゃるようなところ,やってごらんよ,それとか。そう いうところが。全てが似ているわけじゃないけれど。

S:和田さんのなんでもいい,を作れそうですか。

W:「総合」の影響を今すごく受けているので,「総合」のような,「総合」み たいな,私らしい「総合」みたいなものはできるかもしれないんですけど,

まだ醍醐味っていうのが…。

「以前の経験をした時には,自分に教育観がなかった」と言うことで,それがう まく「なんでもいい」を説明できない原因のように逃げている。確かに,かつて は信念が確立されないまま,「実践」から状況を理解していたことは確かであった。

しかし,対話を読んでいると,自分を深めていくことをせずに終わらせようとして いたり,言われたことにうなづくことしかできない自分がいることがわかる。卑怯 な自分を見るのは気持ちのいいことではなかった。

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4. 「総合」における教育観と,人生における人間関係作り

4-1. 教育観と教師像

2回目の対話後,「実践」の時間に簡単な報告を行った。その際,細川先生から,

Sさんの視点は「総合」をやりながら教師論を追っている,Sさんは教師の働きか けについて書いているから,論文を読んでみるように言われた。また,和田が細川 先生を批判するためには,クラス像について自分のオリジナリティを持つことが必 要ではないか,ともアドバイスをいただいたので,3回目の対話では,教育観や教 師像というものを伺うことにした。

【3回目対話から】

W:私がなんでもいい,ってこだわっているのを,(Sさんは)クリアにしてく

ださって,わかったと思うんです。なんでもいいんじゃないって。で,じゃ あ,徹底的に違いがあるのは何かっていったら,教育観みたいなものじゃな いかと。細川先生もSさんは教師像,教師観みたいなものを書かれているの で一度読ませてもらいなさいって。

S:へなちょこですよ。

W:「総合」をやりながら教育観が芽生えたのって,元から何かお持ちだった んですか。

S:うーん,私の場合は社会人をしていて,社会人経験の方がまだトータルで 見ても日本語教師より経験長いし,その時はやっぱり社会でよく生きていく にはみたいな,というよりも,人生観っていうか自分のバックグランドから 来てると思うんですけど。でもやっぱり言葉ってねえ,誰と人間関係を作る ときも必ず必要だし,やっぱり初めから教師じゃないから却ってそうなのか なあ。

W:教育観イコール人生観みたいなものだと。

S:と思いますけど。コミュニケーションとか,人に対する考え,とか,たぶ んそういうトータルしたものだと思うんですけど。

W:明らかに教育の場合は,職場のつきあいとは違いますよね。人間関係を作 る面では同じですけど。例えば「総合」の場合だったら働きかけをしなく ちゃいけなくて,学生はただ待っているだけじゃダメっていう。くるくるま わっている。

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S:私が会社で働いていた時も,そういう人間関係で回っている時が一番いい 感じだった。よくわかんないけど。教育観は今までの経験から来ているのは 間違いなくて,言語観というのも,私の場合は逆に社会で生きていくとかそ ういうところから言語観とかそういう。

W:教室を一つの社会と捉えるわけですか。

S:何で今の教育観を持ったか…。ちょっとまた家で考えるけど,そうやって 生きていくのがやっぱりどういうクラスを作りたいのかっていうイメージ があって,それがたぶん教師観なんですよね。それでどういうイメージかと いうと,自分が社会で生活していたイメージなんですよね。そういう風に動 いていくと,全てがうまくいくというか,完結的に生きるんじゃなくて,周 りの人と協力して,で,きちんと話をして自分だけがよくなっていくんじゃ なくて,周りの人もよくなっていく,というイメージが社会人の時にあって,

たぶんいい人に巡り合っていて,それのイメージがあってそれをそのまま教 室に持ってきているんだろうなあ。きちんと話をして,きちんと対話をする とか。

教育観の話を伺ったのだが,「総合」のクラスでの働きかけは,社会での人間関 係作りと同じことである,という話になった。「総合」は,自分の言いたいことに 責任を持って他者に伝えていくのだが,究極には人間としての共通点を話し合うこ とになっていく。これが,人間関係作りと同じだと言われて驚いた。「総合」でやっ ていることは,日本語教育というクラスでの活動ではなく,もっと広い世界で人と つきあっていくことにも関係がある。これは日本語教育という狭い世界での話では ない。しかし,だからこそ,形式を気にしたりせずに,互いに自己表現を尊重して いける…これは衝撃であった。もはや単なる言語学習ではない。「総合」は,その 後の人生の生き方をも示唆してくれる何かを含んでいるのである。

4-2. 学習者同士の働きかけ

「総合」が社会であるのなら,その構成員である学習者同士の働きかけについて はどうなのかお聞きした。

【3回目対話から】

S:あとだんだんね,他の学習者がわかってくると,他の学習者が言ってくれ るんです。だからこのクラスって,こういう人がいても,こういう人が邪魔

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な存在では決してなくて,人間なんて10人いれば全員思い通りのことを伝 えられるわけじゃないから,伝わらない人もいるんだけど,でも伝わらない 人もクラスの役に立つって言うと変だけど,その人に伝えるためにまた他の 学習者がいっしょうけんめいに働きかけをしたりとか,そういうふうにだん だんなってくるから,わかんない人もなんか無駄な存在ではないっていうか,

わかんない人の姿を見て,またわかる人も何か学んだりとかすることもあり うるし。

私のグループに,なかなか考え方を深めていけない受講者が一人いた。その受講 者を見て,いらいらしている他の受講生も目につくようになってきていた。その人 に考え方を深めてもらおうと努力したが,クラスでは時間に限界がある。同じ話を 言い方を変えて何度もくりかえして説明するしかできなかった私は,勘のいい受講 生からの働きかけも大きな影響があるのではないかと期待していたが,これについ てはそのような受講者同士の働きかけの存在に気づくのが遅く,あまりうまくいか なかった。そのため,残りの受講者にも申し訳なかったとさえ感じていた。だがS さんの,理解の早い受講生達が手のかかる学習者を見て,自分のできることを考え たりすることも最終的には自分のためにもなるという話には驚いた。

Sさんは,みんなでよくなっていくということを何回もくりかえしたので,これ についてさらに話を聞いた。

【3回目対話から】

W:つい個人指導みたいな方が簡単かなーって。

S:それは,簡単は簡単だと思いますよ。

W:えーっ。

S:そっちの方が効率的だし,これはこうでしょ,って言った方が,ま,話は 早いけど,こうでしょ,って言っちゃうと,学習者は考えなくなりますよね。

教えられると全部先生の言った通りにすればいいんだってやっぱ思っちゃう から,そうじゃなくてやっぱり,まあ,そういうクラスもあるから私は否定 しないけど,やっぱり自分のこと考えてみても人から教えてもらったことを そのままテストでやるとかの方が,楽だと思いますよ。やっぱり。教えられ たこととか覚えたことをテストするは,人にもよるけど,楽で,やっぱ自分 で考えなさいって言われるのが一番大変で,って言うか,辛くってー。うー ん。だと思いますね。一応,このクラスは言われたことを言われた通りにや

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るってクラスじゃないから,言われたことは聞かなくちゃいけないけど,言 われたことを聞いてまた自分で新しいことを考えるっていうクラスだから,

それが一番大切なポイントかな。

W:今のお話が教育観のようなものですか。

S:そうかもしれないですねー。だから,一人で学んでいるわけじゃないって 感じかな,もっと,こう,学びは連鎖するもの,他の人が学んでいるのを見 ると自分が学ぶし,自分が学んでいるのを見ると他の人も学ぶし,そうする と前も言ったけど,ボトムアップ式にみんながよくなっていくっていうこと がたぶんできて。

W:はい。

S:自己完結的に頭がいい人って世の中いっくらでもいると思うんですよ,頭 がいい人。でもものすごく頭がよくてその人が自己完結的に頭がよくなって いくことと,頭はいいけど他の人と一緒によくなっていける人がたぶんいる と思う。私の社会人経験でもいると思ってて,私はそんなに頭はよくないけ どやっぱり自分もよくなるし周りの人もよくなるっていうのが一番いいなと 思って,でそういうのも教師観の一部になっていて,一人のあったまいい先 生が,一人のあったまいい生徒にがんがん教えていって頭がよくなるってい う方法もあると思うけど,それよりは効率は悪くなっちゃうけど,もう少し 学びを開くっていうかみんなで言葉を作り出すとかみんなで考えるとか,ま,

どっちがいいってことはないと思うけど,でもみんなでよくなるっていうの が私のポイントかな。自分だけがよくなるんじゃなくて。

W:そのためには何をしなければいけないですか。

S:どこで,教室で?

W:はい。みんながよくなっていくために

S:それにはそういう教室作りをしなくっちゃいけなくって,たぶん「総合」

がそれに近いものだと私は自分のクラスを作っている。一応枠組み的にはそ ういうことができることになっているから,あとはそこに入る先生によって 全然たぶん違ってくるし,細川先生のように土壌ができていて,もう,要す るに,細川先生が元々そういう風に作っていて,一人でよくなっていこうっ ていうんじゃなくて,もっとみんなで,という枠組みで作ってあって,だけ ど枠組みで作ってあることと,教師が働きかけて中身を作っていくってこと

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はまた別問題で,たぶん二つうまくいかないといい枠組みにはならないから,

そういう土壌はできているから,あとは表現の芽っていうか,そういう潜在 能力は学習者の中にあると思って,対話の力なんか元々持っているものだと いう風に信じて,なかなかそんなうまくいかないものだけど,信じた上で水 やったりとか光当てたりとかして。

全員でよくなっていくということは細川先生の言語文化教育に関するお話にはな かったので,「Sさんの総合」の特徴である,と理解した。そして,「総合」は決まっ たことをその通りに行えばいいのではなく,そのクラスに入る人の持ち味を適度に 混合し,世界に一つしかない「総合」を「実践」するのだ,ということも再確認した。

【3回目対話から】

W:今日はSさんの教師観とか理想の教育観をお聞きしたかったんですが,あ

まり難しい言葉で説明なさらなかったですよね。

S:難しいこと何にも考えてないですもん。

W:もっと覚悟してたんです。

S:基本的にみんなでよくなっていくってことが基本なんでしょね。自己完結 的な学習者を育てるんじゃなくて。お互いがお互いの何かに貢献するってい うか。言葉がものすごいよくできる人はそういう,ま,基本は自分でちゃん と考えて人の話を聞くっていうのが基本で,その上で例えば,やりとりの中 で教えてあげたっていいし,論理とか追っていくのが得意な人はそういうの を教えてあげればいいし,いろんなかかわり方ができて全体的にボトムアッ プみたいな。っていうのがイメージかな。

「Sさんの総合」を再確認できた部分である。「総合」のクラスでは,どの人とグ ループになるのかは,初めから決められてはいない。クラス全体を見たり,他の院 生の話を聞いたりしていると,相互の働きかけが上手なグループもあって,(自分 の力不足を棚に上げて)非常に羨ましく感じてしまう。しかし,自分のグループに 焦りを感じるのではなく,与えられたその小さな社会の中で,全員が上を向いて進 むことができれば,なんらかの効果は生じていくというのだ。これは人生と同じで はないだろうか。かなり拡大解釈をするが,ある一時を共に過ごすようになった人 達の中には,どうしようもなく気の合わない人もいる。しかし,何かのきっかけで

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それが嘘のように親しくなることもある。そして当然その逆のこともある。それこ そが,Sさんが社会人の時に経験した人間関係作りから学んだ教育観なのであろう。

5.

再び「なんでもいい」

私の「なんでもいい」探し

5のSさんとの対話では,「総合」で「なんでもいい」状況になるのは,ある一 定の段階を経てから後である,ということを指摘されていた。これに対してどこか で腑に落ちない自分を認めながらも,「なんでもいい」ことに関する共通点を明確 に表せない私は,それ以上進めないでいた。「和田のなんでもいい」を考えるには,

どうしても以前の体験での「なんでもいい」を表さなければならないこともわかっ ていたが,対話の中でSさんが挙げられた数々の,「「総合」はなんでもいいわけで はない」ことへの反論ができなかった。まず,未決着の「なんでもいい」を解決し,

その後,和田の「総合」とは何かに触れたい。

5-1. かつての「なんでもいい」

かつて,なぜその地域の日本語教室で「なんでもいい」と感じたのかは,どうし てもつきつめたかったことである。以下に,表現化を試みた。

(1)学習者

勉強したい人は自分で教科書や問題集を持ってくる。何を勉強したらいいのかわ からない人は,まず自分のことを話したあと,その教室の小さな書棚をボランティ アと一緒に見て,そこから自分ができそうなものを選ぶ。とりあえず日本語を話し たい人は,話にだけ来る。言語の形式面の勉強をしたい人は,日本語学校のような 役割を求めに来る。例えば,日本語能力試験を受けたい人たちは少人数で集まり,

日本語学校で教え始めたボランティアが教えていた。そういう人であっても,「今 日は勉強したくないんだ,話したいんだ」という日は,そのグループを離れてお しゃべりに興じていた。初めからしなければならないことがあるのではなく,自由 な考えから出発できるのである。したいことが決まれば,できる範囲で何でも許さ れる場所であった。

ボランティアには,日本語だけしか理解しないという人もいて,その人と日本語 学習が進んでいない人がグループになる場合は,学習が進んでいる人が通訳をした り,日本語でよりやさしい言葉に置き換えて説明したりしていた。学習者同士がで

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きることの範囲で,助け合うことができた。また,助け合うことで,自分を頼って いる人がいることに気付き,さらに前向きになっていく人もいた。

(2)ボランティア

ボランティア側には,日本語教育の専門家(Aさん)からベテラン主婦,大学生,

会社員などが揃っていて,手に負えなければお互いに助け合って補っていく。「自 分も何かしたいが,何ができるかわからない」と不安を持ちながら通ってくるボラ ンティアもいたが,最終的にはその人にしかできない貴重なことをみつけていたよ うである。学習者との話の中から,自分でもできそうなことがあるのだ,という気 づきがあって,次にそれを実際にやってみて,そのくり返しが自信を深めていくよ うであった。「自分には誰かに役に立てる能力があったのだ」と嬉しそうに話して くれた人もいた。学習者の役に立つには,勉強だけではない,自分のできることな らなんでもいいのだ,と気付いた人を何人か知っている。

(3)私

補佐である私は,開催日には図書を公民館の倉庫から持ってきて部屋に並べ,学 習者とボランティアのグループを作る交通整理をし,人が足りない時にはボラン ティア役にもなった。資料が足りなければコピーもし,相談事がある人には話し相 手になり,子供を連れてくる人がいればお守り役にもなった。日本人配偶者が送迎 についてくる場合は,家庭の話を聞いたり,時にはにわかボランティアとして活躍 するように頼んだりもした。要するに何でも屋をしていた。自治体からの我々への 謝金のほとんどは,その公民館に保管してもらう書籍類(ダンボール3箱分の教科 書や辞書,本など)の購入費や,毎回部屋の隅に提供されるお菓子代に使われた。

(4)代表者と主催者

教室の代表者が「なんでもいい」という心構えなので,参加者(学習者およびボ ランティア)は責任さえ持てば,自由に行動できることの保証をされていた。代表 者としてのAさんの役目は,自治体からの活動費をもらい,毎回活動の場を開き,

あとは全体を見ていたようである。

主催者は,自治体の教育委員会であった。毎回やってくる担当者も,当初はAさ んのやり方が理解できず不安そうであった。そこで,初めのうちは日本語学校的な ものを要求したり,注文をつけたりし,私も愚痴を聞かされた。回を重ねるうちに

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徐々に納得し,独自性を持った教室であるという誇りと自信もついたようで,かな り自由度の高い地域の日本語教室になっていった。

(5)人間関係作り

教室開始前や開始後しばらくは,ボランティアを集めて会議を開いて,問題と なっていることを参加者で共有していたが,その後学習者も運営に参加し,その会 議に出席するようになっていった。また,休日のイベントを計画したり,活動の中 に各国の料理教室などを開くことによって,学習者とボランティアが互いに教え教 えられる関係を築き,教室を離れて個人的にも親しくなっていった。

5-2. 和田の考える,「総合」の「なんでもいい」

次に,「総合」を受講して実際に「なんでもいい」と思えることがあるかどうか,

考えてみる。「総合」では,日本語学習者を受講者と呼んでいたので,以下同様に 受講者と書くことにする。

(1)受講者の選択の幅

受講者はどんなテーマのレポートを書くことも可能である。ただし,その後のグ ループ内での話し合いでうまく動機を説明できなければ,納得した上で変更するこ ともできる。そして,積極的に何度も書き直してメンバーに見せるような自主性の ある受講者は,どんどん伸びていけるのである。その一方で手を抜く受講生はいく らでも抜けるが,それは見ていてすぐわかる。おそらく受講者同士でも見えている であろう。

(2)他の参加者の役割

グループの人全てが何らかの役割を持っている。役に立たない人などいない。何 をしても役に立つのである。別科のクラスで毎日総合型日本語教育を受け,その趣 旨がわかっている受講者は,何をしていいのかわからない他の受講者のモデルとな る。よく飲み込めないでいつまでも自分を深めていけない受講生は,うまくいかな い例として他の受講生が我が身を考える際に役立つ。最終的には,自分の得意なこ とやできることをできる範囲ですれば,それだけでも他の人が参考にできることな のだと気づくようになる。

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(3) 院生の役割

院生は状況に合わせていくつかの顔を持っている。方法を試行錯誤しながら,受 講者が自分を深くみつめて表現できるように手伝う。今回はいなかったが,受講 者の対話相手となることもできる。要望があればどんな媒体(メール,BBS,電話,

直接対面など)ででも,相談にのって方向性を与える。しかし院生やサポーターは 相談にはのるが,答は与えない。今回は途中から,毎回二人の院生がクラスの初め に今後の状況やお知らせの話をすることになり,単なるグループメンバーの日本人 から,他にも管理の役割を負うことになった。

(4)主催者の存在

細川先生は,クラスの初めには受講者をまとめてお話になるが,BBSでの講義が メインなので,実際のクラスではほとんど主導権をとられない。インターネットを 使った新しい講義の方法であり,受講者がちゃんと視聴してこないと授業の進度も わからないという問題もあるが,通常は黒子として,グループの様子を見たりして いらっしゃる。進め方はグループによってなんでも試みが許されるようである。

(5)対等な関係と人間関係作り

対等と言っても,一般的な友達のような関係ではない。しかし,あるテーマにつ いて話し合う上では,変にへりくだったり遠慮するのではなく,相互に自由に考え を述べる関係である。言葉に責任が持てれば,相手の考えを深くするために何を聞 いてもよい。言語形式に留意してしまうと,知っている人の発言がどうしても強く なってしまう。また,実のある対話を続けることができると,それが人間としての 成長につながり,協力し合った受講者達とはその後も長いつきあいができるようで ある。

5-3. 二つの教室の「なんでもいい」

二つの教室での「なんでもいい」を出してみたが,確かに重なり合う部分がある。

各項目に関して類似点を取り出してみる。

(1)学習者の自由

地域の日本語教室では,参加者がやりたいことを自由に決めることができる。こ れをしなければならないという規則がなく,参加者にとってやりたいことを自由に

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決めることができた。学習者にとっても,ボランティアにとっても,何をしてもい いと安心できる場であった。思い返すと,その当時ボランティア日本語教室が流行 り始めてきており,日本語学校のアマチュア版として日本語学校をそのまま持って きてもおかしくはなかった。実際そうしている教室もあった。しかし,その場所で は,やりたいことは参加者の自主性に任されていたのである。これは,当時は画期 的なことであった。

一方,「総合」では,受講者は対話を経てレポートを書くというゴールは与えら れているが,題材や方法は自由である。カリキュラムの中の日本語クラスとして成 果を出す必要があり,ゴールが決まっていることは学習者のためにもよいことであ る。受講者の自由としては,テーマの他に,対話相手,対話回数,対話方法とその 内容,報告の書き方などもある。そして,書くことに関して自由に相談もできる。

ゆえに,二つの教室では,学習者の活動の自由度が高いといえる。

(2)参加者の役割

地域の日本語教室では,参加者は大別して学習者,ボランティア,運営者の3種 類であった。学習者は,日本語の学習を目的に来るわけだが,人によっては通訳に なったり,先輩学習者となったり,時には運営の協力者になることもある。ボラン ティアは,特技がある人はそれを活かせる場であり,特に何かができなくても,自 分の力の及ぶ範囲でできることをすればよい。運営者は,他の参加者が気持ちよく 教室を利用できるために準備をし,改善の余地を探っていく。

「総合」の参加者は,別科の学生(受講者),「実践」の受講生(院生),「実践」

の経験者(サポーター),細川先生である。院生は前がよく見えずに手探りでグルー プ活動を展開していくので,サポーターの援助が必要な場面が多い。院生も,他の メンバーができることはその人に任せて,自然と自分は違う役割を担うように動い ていたようである。

両方の参加者は,特に誰の指示を受けなくても,自分でできることを考えて,そ の範囲で活動に従事している。

(3) 私の役割

地域の日本語教室では,私は一つに固定された仕事だけしていればよいのでは なく,いろいろな役割を持っていた。それは多角的な視点を持つには最適の役割で あったと思う。

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「総合」では,それほどまで多様な役割を負うことはなかったが,教師として学 生の上に立つようなことは避けようと努力した。受講生から教師としての発言を期 待されていることを感じもしたが,せめてお姉さん止まりでいられるように気をつ けていた。

決まった方法でだけ学習者に接することは,学習者の態度をも一つに留めてしま う恐れがある。柔軟な考え方を持たせるためにも,こちらからの態度で何を試して みてもいいのだな,と思わせることが重要である。

(4)代表者と主催者

地域の日本語教室では,私が何か困って代表者Aさんに相談すると,よく「な んでもいい」と言われた。また,迷った時に質問しても,Aさんは決して納得のい く答は教えてくれなかった。今になって思うと,Aさんが「なんでもいい」と言っ たのは,いろいろなことを試みている最中であったためで,正解はわからなかった ためなのかもしれないが,いずれにせよ私は自分で考えるしかなかった。 すなわち,

「なんでもいい」は「どうでもいい」ではなく,「自分で考えて結果を出すのであれ ば,どんな結果でもかまわないよ」ということであったのである。決して無責任な

「なんでもいい」ではなく,「なんでも自分で考えなさい」というメッセージが,今 も残っているのである。そこでの「なんでもいい」は,「自分で考えて結果を出す のであれば,どんな結果でもかまわないよ」ということであったのである。つまり,

私の「なんでもいい」の定義は,深く考えた結果であれば,何を試みてもかまわな いということである。

「総合」で細川先生が「なんでもいい」とおっしゃったことがあっただろうか。

特別な場面は思いつかないのだが,「自分で考えて結果を出すのであれば,レポー トに何を書いてもかまわない」という内容をお聞きしたことがある。また,私の先 入観かもしれないが,やはり細川先生は無言で「なんでもいい」とおっしゃってい るような気がしてならない。よく考えて,よく自分とみつめあって,よく自分と対 話して,その結果であればなんでもいいし,そもそも何のテーマを選ぼうかという ことも何でも良さそうである。

(5)人間関係作り

地域の日本語教室では,参加者は教室に来ることでいろいろな方法で日本語を学 んでいくのだが,それ以上に人間関係作りを目的に来ている人が多かった。教室の

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ことを職場で教えてもらって来たというような人は交友関係も広そうだが,日本人 の配偶者となって学習者の家族が連れてくるような場合は,唯一の社交場としての 機能もあったようである。つまり,勉強だけの場だけはなく,自分の環境整備の一 つの場であったのである。しかし,その場をどのように使ってもよいが,自分勝手 で無責任な態度などをとると,実社会と同じように非難されることもあった。

「総合」では,対等な関係と人間関係作りが,このクラスの魅力の一つだと言え るであろう。受講者同士は特に,日本語のレベルを超えた何でも言い合える関係 ができ,それが長く続くと聞いている。確証はないが,これを求めに来る受講者も 存在するかもしれない。知らずに受講したとしても,レポートを書くにあたっては,

真剣にメンバーが書いてきたものを読んでコメントするため,本音でのやりとりに なっていくのである。

結果として,二つの教室は,日本語を学ぶだけではなく,人間関係をも育てている。

ようやく感覚的だけではなく,共通点を指摘することができた。これらの類似点 をもって,ボランティア教室と「総合」の理念には「なんでもいい」という共通点 があったことを表現できたと思う。しかし同時に,異なる点についても気づいたこ とがあるので記しておく。

(1)対象者

地域の日本語教室に集うのは,その地域に住んでいる日本語非母語話者である。

仕事や日常生活で使う日本語を,独学に近い形で勉強しようとしている。また,交 友範囲を広げるために友達作りのために来る人も多い。一方,「総合」に来るのは 正規の留学生であって,日本語を勉強することが仕事であるとも言えよう。

(2)学習目標

地域の日本語教室では,確定されたものではないがグループごとの学習形態を取 るので,全体での学習目標というのは捉えにくい。「総合」は日本語科目の一つと して履修されるため,日本語能力の向上を目指している。最終的にレポートを書く までに何回も書き直していくので,書く技能が伸びることは間違いないが,対話や グループでの話し合いを考えると,総合的な運用能力がかなり鍛えられることになる。

(3)責任者の存在意義とその役割

責任者は二つの教室での呼称が違うだけでなく,存在意義も役割もかなり違う。

地域の日本語教室では,代表者のAさんは会をユニークな形で存続させていくこと

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への信念があり,さらにその人がいることで謝金が入って運営費がまかなえた。し かし,環境としての場を整えることが主眼で,学習者の活動そのものに指示はな かった。一方「総合」では,授業の責任者は細川先生であるが,受講者のグループ には院生やサポーターが直接組み込まれる。何より大きな違いは,このグループで の受講者に対する働きかけである。働きかけの有無と方法次第で,受講者の思考の 深まりも変化していく。単に「なんでもいい」活動と一線を大きく画すのはこのや りとりの部分である。

5-4. Tさんの原稿「日本語学校・地域の日本語教室から」

Sさんが一部書かれた『考えるための日本語』を最後まで読んだ際,Tさんが書 かれた「日本語学校・地域の日本語教室から」(p.245~257)も読み,その時ひらめ いたものがあった。少々長いが,説明に必要な部分を以下に引用する。

地域の日本語教室は自由自在 

ボランティアとしての活動が先行していた私は,日本語学校で日本語教師 として働くうちに,私が体験的に行ってきた地域での活動の方が,言葉の学習 の本質に近いのではないだろうかと考え始めました。伝えたいことがあり,理 解したいことがある。だからことばを学ぶのです。文法や語彙は一応テキスト を参考に勉強するけれど,その日に学習者が話したいことが優先されます。そ して,その言いたいことを表現するための語彙や文法を学習者はメモして自分 のものにしていきます。しかしそこに理論や理念が存在していたわけではなく,

ただそのようにしていくと,学習者も自分も楽しいし,習得もスムーズだとい う経験知から行っていたに過ぎませんでした。単純に比較することはできませ んが,日本語学校で知識をたくさん仕入れている学習者よりも,地域の日本語 教室に通ってくる学習者のほうが,文法の積み上げや語彙レベルはそれぞれの オリジナルでありながらコミュニケーション能力という点においては優れてい る人が多いと感じました。

おそらくこのことが「考えるための日本語」の問題発見解決教室活動と通じる ものがあるのだろうと思います。地域の日本語教室に来る学習者は,地域で暮 らす中で問題発見をして,私達ボランティアのところに解決のためにやってき ます。つまり,地域での日本語支援は問題発見解決学習になっているわけです。

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私が地域の日本語学習で無意識に行っていたことを,もっと意識的に行う活 動,具体的な目標を提示して学習者に達成感や満足感を持って自分自身で学ぶ 力をつけてもらおうという教室活動が「考えるための日本語」だと私は考えて います。

なぜこの部分にひらめきを感じたかというと,これこそが,私の言いたかったこ とであったためである。Tさんが書かれているように,ボランティア教室でも「総 合」のような活動は可能なのである。私が感覚的にしか話せなかったことは,問題 発見解決教室活動と呼ぶようである。学習者は話したいことがあるのでそれを知る ために教室へ集まってきて,日本語で何と言うのかを聞く。そのくりかえしが学習 になっていく。以前使っていた教科書の続きが勉強したくてやってくる。あるいは 仕事以外の知り合いがほしくて,やってくる。学習者同士でも話す場となり,多様 な背景を持つ日本人とも親しくなれる。ただし,やはり地域の日本語教室では,一 つのゴールを求めて全員が同じことをするというのは非現実的であろう。総合活動 型日本語教育との違いはこの点であろうか。

Sさんは「総合」に対する立場が明確で,入門者の私には「総合」の完全なる伝 道者のように感じられた。しかし,誰にも細川先生と全く同じ「総合」の授業は実 施できないし,そもそも考え方が完全に同じであることもありえない。「総合」は 考え方であり,各人が理解し解釈した上で担当者独特の「総合」が生まれていく ようである。よく「○○さんの総合」という言葉を聞いた。それならば「Sさんの 総合」も「Tさんの総合」も「和田の総合」もあってよいのだろう。Sさんは,そ の「和田の総合」への扉を開かせるために,様々な問いかけをしてくださった。そ して最終的に,「なんでもいい」は「総合」では最後の段階でならありえる,とヒ ントをくださった。和田の「総合」では,「なんでもいい」の定義をした上でなら,

初めから「なんでもいい」があってもよいのではないだろうか。これまでは自信が なく,「総合」に「なんでもいい」は禁物なのだと思ったこともあったが,そうで はなかった。いろいろな立場で「総合」を見てよいのだ,ということを悟った。

5-5. 結論―私の「なんでもいい」

最後に,和田の「総合」とはどんなものなのか考えていく。「総合」のような日 本語科目の一つとして実施することになるのか,ボランティア教室なのか,まだ全 く予測できない。しかし,「総合」で新しく学んだことを生かせるとしたら,と推 測して書いてみる。

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次回和田が関わる「総合」の教室では,やりたいことのある(書きたいテーマの ある)人はそれをすれば(書けば)よい。よくわからないで来た人には教師が向き 合って,言葉を使って共に探していく。学習者は,自分がやりたいことを教室のメ ンバーに説明する必要がある。自分でやりたいことを自分の言葉で言語化しなけれ ばならない。インターアクションの中で日本語でわからない言葉があれば,必要に 応じて他のメンバーやサポーターに尋ねる。他のメンバーも,ある学習者のテーマ を自分の問題として捉え,責任を持ってインターアクションを行い,共に活動して いく。結果的に積み重ねることで自然と日本語学習になっていくのだが,プロセス を共有することで,学習者側にも教師側にも達成感が得られるはずである。いつか 実現できる日が来るまで,もっとアイデアを温めておかねばならない。

私は「なんでもいい」を探すために対話をし,悩み続けてきた。感覚的ではあっ たが二つの教室は何かが似ているのだ,と最初に思ったことにこだわってきた。対 話をした後,何度も書き直して一人対話をする中で,やっとその共通点が見え,最 後に異なる点も整理できた。おそらく,そこまで妥協できなかった部分が,私に とっての日本語教育の基本になっているのであろう。「なんでもいい」段階までの 働きかけは相当厳しいことを覚悟した上での「和田の総合」であれば,その段階に 達した後の「なんでもいい」では,本当に「なんでもいい」状態にしてみたいと思 う。経験者の話ではもっとインプットに重きを置く人などもいるそうであり,実現 できた時はおそらく,体験した「総合」とはかなり形の違うものになるだろう。最 終的には,自分が持っている問題意識から日本語を学習していくような問題解決型 学習を目指していくことは間違いないが,その明確で具体的な方法はまだ思いつか ない。

6. おわりに

Sさんに指摘されてきた「総合はなんでもいいわけじゃない」ということは,わ ずか3ヶ月半の経験ながら実感できるようになった。まず教師の理念に対する深い 理解と強い信念が活動の根底にあって,状況を見据えた上でのあらゆる働きかけは,

一朝一夕には不可能である。実際に私が参加していた「総合」のグループは,うま く機能していたとは言えなかった。いいメンバーに恵まれたが,自分の未熟さに後 悔の念も残る。受講者に申し訳ないと思う。

受講者には,自分の立場をはっきりさせてから対話に行かなければ,聞きたいこ とがあいまいになってしまうよ,と言っていたのに,いざ自分の番になると,それ

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は非常に難しいことであった。自分の対話の経験が先行していれば,経験からのア ドバイスも伝えられたのであろうが,受講者の作業と同時並行での対話では,頭で わかっていることしか話せなかった。それと同時に,深く考える過程が自分には抜 けていることを実感した。そしてSさんからは,教師の対話力も鍛えていかなけれ ばならないと言われたが,まさに同感である。他人の対話力を問題にする前に,自 分自身がどれだけ他人の話に耳を傾け,寄り添い,さらに話を引き出していけるか どうか,そんなことにも考えが及んだ。また,一人対話というのも時間がかかるこ とだということがわかった。やっとなんとか一人対話ができたような気がしている が,それまで実際の対話に何回も何回も辛抱強くつきあってくださり,貴重な資料 もくださったSさんには,心から感謝している。私が他人にここまでできるかどう か,人間としての素質に関わる疑問である。おかげで,やっと自分の立場を明らか にできた。

レポートでは取りあげきれなかったものもたくさんあるが,人間の本質に迫る テーマであれば,教室内でも人間同士の本当のやりとりができることは新発見で あった。しばしば教室では,現実には使わない言葉や表現をいかにも本当の場面に 見せかけて練習するので,外の世界との格差が大きいと言われるが,教室という場 においても真実のやりとりができることを,受講者も気がついてくれたことを強く 祈っている。いつ,私の「総合」を実践できるかまだわからないし,その時の現場 は,職業としての教室になるか,ボランティアでの教室になるかも不明である。し かし,教室にあるものは全て偽りだ,と開き直ってそれを続けていくのではなく,

教室にも本物はあるのだ,と自信を持って教室へ帰っていけることは確かである。

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