イギリス革命期の東部沼沢地に恥ける農民運動
ω
武
暢
夫
前稿では︑市民革命前の東部沼沢地において農民経済のプ戸ジョア化と領主経済のプ
‑ Y ジョア化がそれぞれ特有 の形態で相互に対立しつつ発展し︑さらに︑領主経済のプルジョア化の発展は一七世紀前半の大規模な干拓に帰着 し︑農民経済の存立基盤そのものを脅していたことが明らかにされた︒本稿では︑これにたいする農民の抵抗運動
の具体的な経過を検討し︑その意義を明らかにしようと思うじ
注
第一
・二
号︑
一
t二
九ペ
拙稿﹁イギリス革命期の東部沼沢地における農民運動ω﹂
ll
s
﹃富
大経
済論
集﹄
1ジ
(以
下︑
﹁前
稿﹂
と略
称﹀
︒
第十六巻
一︑市民革命前の時期における農民運動
η﹄
前稿でのべたように︑当地域での領主経済のプ戸︑ジョア化は領主放牧権の復活という形で始まりそればすでに 生じていた共同地不足を深刻化させ︑農民経営を圧迫し記
oそれゆえ︑領︑王と農民の対立はまず領主放牧権の問題
をめぐって表面化する︒表一は放牧権をめぐる領主と農民の紛争の事例を示すものである︒それによれば︑この段 階での農民運動の特徴はほぼ次のように要約されよう︒
ω農民の主要な要求は領主放牧権の排除と共同権の確保にあったと思われるが︑大ていの場合︑農民の闘争は財務裁判所︒
220
同宮島25
吋への提訴等の形で合法的に行な析が︑いずれも領主の部分的囲込とその代償としての領主放牧権の廃棄という形で落着した︒それは領主による共同地の部分的収奪とその領主私有地への︐転化を意味する︒
‑ 72
一
ω '
しか
し︑
c z
ロg
E ‑ E
の場合に農民の共同権が保証され︑マナl法廷ないしは領主の意志にたいする村法の独立性と優越
性が確認されたこと︑また︑日
g p m w
g
の場合に謄本保有農と小屋住農の保有権が保証され︑保有容認料の固定と村法作成の
自由が確認されたととは︑領主権の後退と農民の共同権および土地保有権の強化を意味するものである︒山一
仙 川 印 可E V
E H
M
の場合に農民の共同地分割の要求を領主が認めるべきことが確認されたととは︑農民の共同権擁護の要求がすでに単なる共同権の維持それ自体にとどまるものでなく︑共同地の分割H私有化︑すなわち農民的土地所有確立の要求に発展し
山つつあったこと︑いいかえれば︑沼沢地という特殊な環境にあっても︑農民層のブルジョア的発展の進行はやがて個別経営の
要 求 と 農 民 的 土 地 所 有 確 立 の 志 向 を 生 ぜ じ め る こ と を 示 す も の で あ る
︒ 一
ωすでに農民経済のブルジョア化の発展そのものが農民層内部に利害の対立を生ぜしめるのであるが︑領主放牧権の復活もそ
の代償としての領主の囲込も富農にこれを賃借するととによって農業経営を拡大する機会を与えるものであり︑領主と一部の
借地農が共通の利害関係を結ぶとともありうる︒しかし︑領主放牧権をめぐる紛争においては︑殆ん
E
の農民が一致して領主n h
部の大借地農と共同権を有する農民層一般の間にあったといえよ勺 ‑に対抗しているのであり・農民層内部に利害の対立をはらみながらも︑乙乙での主要な対立は領主およびそれに結びついた一
引か
くι τ
︑領︑宝放一枚権の復活をめぐる紛争の結末は領主経済のブルジョア化と農民経済の
.7 1W
ジョ
ーア
化の
いド
ずれ
にも応︑じる面をもっており︑このような形で一応の落着をみたことは領主と農民の対立がなお決定ー化︑するまで陀い
たらず︑両者の力関係がほぼ桔抗していたことを示している︒
しかし︑王権に依拠した大規模な干拓が進められるとともに農民運動の様相はかなりちがつでくる︒表二は三
O
一六
0二
年代までの時期においては 年代までの時期における干拓反対の農民運動の経過を示すものである︒まず︑
沼沢地住民と干拓業者の聞の紛争の事例が若干みいだされるものの干拓をめぐる紛争は部分的・散発的であり︑農 民の抵抗も主として合法的な形態で行なわれ︑公然かつ全面的な反乱に発展するにいたらなかった︒それは︑おそ らく︑この時期り干拓事業の進行テンポがなお緩慢であっ灯ことによるものと思かれる︒しかし︑一六二九年︑ヂ
‑73 ‑
場
所│時期
1表1. 領主放牧権をめぐる紛争の事例
経 過 Cottonham
〈ケィンプリジ州〉
Stretham (ケィンプリジ州〉
Wmfngham 1
(ケィンデリジ州)1
n
1け eNH ‑ノ
山 カ 山 ン bリt
TP'ar
︐ ︑
︑
n e v
i ‑ F V
出' 小
J
A m u
ン
民 K mン カ
円 ノ
C
︐ ︐ ︑
戸UH
Wildmore .F en (リンカシナ卜1)
1580‑96 I共同権者,財務裁判所 (Courtof Exchequer) ヘ領主を提訴
〔調停案要旨)
1. 領 主 (SirW. Hinde等)に対し,共同地の 1部を囲い込み,領主の専用地とすることを認
め,領主放牧権を禁止.
2. 共同権者の確定と共同地等にたいする彼等の
i 権利の確認.
I 3. 共同沼沢地等の運営のための村法の制定に参
│ 加する各マナ{の謄本保有農の代表は領主の指
│ 名により選出される.
!A. マナー法廷にたいする村法の独立性,領主の
│ 意志にたいする村法の優越性の確認.
1597‑ I共同権者,領主を財務裁判所に提訴.
1607 I • C調停案要旨〕
11. 謄本保有農と小屋住農の保有権の保証(当該 保有地が旧直営地であるときも,領主の請求権
を否認す1る).
2. 保有容認料 (fine)の引き上げを禁止.
3. 領 主(SirM. Sandys)に対じて100αを固い 込み領主専用地とすることを認め,残り1600α の共同地での放牧を禁止する.
4. StrethamおよびSetford村の共同権者が前 記共同地の分割を願うならば,領主はこれに同 意すべきである.
5. "共同権者に対して,共同地運営のための村法 作成の自由を確認.
l前記2教区とほぼ同様の経過を経て領主が専用地 として囲込を認められ,代りに領主放牧権を放棄.
17世紀初 t~i~~!?g郡の諸村落民,領主を共同権侵害の件で財
r
.
務裁判所に提訴4〔判決3
.Swine.sheβdの領主(H.Pelham), 480αの囲込 を専用地として獲得し,代りに領主放牧権を放棄・
1620‑':;30年代,領主と農民の聞に紛争.
1635年,領主,'SwinesheadのLadyLocktonと Bu'rtorr Pedwa:dineの村民の放牧権を買収,共 同地?p.oαの囲込を条件に,領主放牧権を放棄.
共同地は2330αから'H33αに減少.
1630年伐│領主および領主放牧潅の賃借入による過剰放牧 1;をめそ切領主と農民の対立激佑.
'"農民,領主の家畜を放逐.
I領主の1入,領主放牧権の代償に180αを囲込む 乙どを提案し,農民の反対により実現せず.
i 時
,Cunninghaffi
, '
w~ ed. • CommiJiI, Rights a,t, Cottonhamαnd Stretham in cα的bridgshire.Thirsk. J., English Peαsαnt Farming, PP.115‑h16より 作成.‑ 74‑
表
2. 1630年代の干拓をめぐる紛争の経過概要
1 606年 │1 Cambrid:感g西を部の住民,外国の干拓業者が干拓事業に加わる
ことに反 表明.
1 6 1 6年 │160一 般 的 干 拓 条 令 の 施 行 以 り 沼 問 民 と 干 拓
者の聞に紛争.
1620年2月
I
水路官会議, Ouse) 1ら!と除G外raさntれa)る11沿よ岸うの住民のために,彼等の土地が前記条令か 請願.
I
~向叫刊の水路官加川刷南部雌民の
ために上記と同様の請願.
│Gra叩n… 岸 ωridgμω山と比川E町I吋 の 住 民 大 法 官 Verulumに同様の請願.
162 9年 │ ノ ー フ ォ 川K叫 y一 合 に お い てV
…
ydenとの契約を提案.沼沢地住民の反対により放棄.
1 632年 ハンチンドン州のHolmFenに反乱.農民,武装し,カンパ
ニー〈特にTh.Treise)の立ち入りを妨害,その家畜を追
放.治安判事Mr.Castle of Gla tton,反乱に向調.
iケインプリジ州o… 農 民 助MilesSa… 干 拓 に
反対してPrivy Councilに請願.
1 633年lルガムリト│の7教 区 の 間 V… den州 事 業 に よ │
る損害を年f.1500と訴える.
lヨーク州のF山 と …eの住民 V
…
ydenの干拓による窮迫を訴える.
163 7年 lケ ィ 川 ジ 川icken同
を妨害.Peter Jarvis (Constable)反乱に同調.
1 638年 ケィンプリジ州のElyに反乱.干拓地の垣,溝うちこわさ
れ, rConstableをたすける任務にある数人のものまで」反
乱に同調.
1639‑40年 リンカンナ卜
i
のリンゼイ伯の領地に反乱.垣がこわされ,伯の層人民夫・代理人の立入妨害される.r数人の悪意ある人々が下
を煽動し,自らもJ参加(リンゼイ伯の言).
1630年 代 │ ル ガ ム ケ イ ン フ リ ジ リ ン カ ン ヨ { ク ん フ ォ ク
の51↑│において沼沢地住民の実力行動20を数える.
Darby. The Drain初,g01 the Fens, pp.39, 50‑51, 55‑56, 61‑‑62.
アノレハンゲリスキ ‑W17世紀の40‑50年代のイギリスにおける農民運動』
53‑55ペ{ジより作成.
四
ャ l‑
Wズ一世が自ら干拓事業に介入することを宣言し︑以後︑干拓事業が本格的に進められるとともに事態は変化
していった︒すでに一六二九年︑チャールズ一世の命令によって干拓事業遂行のために新たに設置された委員会が
ノ l
フ寸クの阿古
m . ω F
U 1 H M
H H に会合し︑オランダ人︿角田口可品︒ロに事業を請負わせることを提案したとき︑沼沢地住
民は直ちに反撃し︑この提案を放棄せしめた︒そして︑三0年代に入って干拓に反対する農民の闘争は激しい実力
行使を伴う公然たる反乱に発展していったのであ
r o
他方︑二ハ三五年の船舶税印
F e
冨
0
8
可の復活を始めとする絶対王制の反動的諸政策はイギリス全土にわたって広汎な階層の反援をよび起し︑旬︒官阿国内
W H H 6
ロの指導した船舶a o
税支払拒否闘争は沼沢地にも広まってい的︒このような革命的情勢の発展が沼沢地の農民運動をさらに高揚せしめ
たことは容易に推察されよう︒当時の沼沢地の情勢について︑一六三八年六月︑ケィンプリジ州の
ZZO
同盟吋の
治安判事はこの地域の反乱に関する報告の中で﹁各村落は相互に秘密に連絡をとり合っている﹂とのベ︑項目ロ
R l
g D
の
ω
町富山富ω∞
R H
門 口 ︑ωは﹁秩序が回復されなければ全般的な反乱に発展するだろう﹂とのべている︒干拓反対の
農民運動が全般的な反乱に発展しつつあったことを示すものであろう︒
このように︑三0年代の運動はその闘争形態の激しさと規模の拡大という点で以前よりも発展したことは明らか
であるが︑運動の目標は領主による共同権の収奪を排除して︑共同権を奪還することにあり︑その点では領主放牧
権をめぐる紛争の場合と本質的に異なるものではない︒しかし︑領主放牧権をめぐる紛争では主要な対立は領主と
FHU
円
1・ 同旦 における階級関係が変化している︒最も顕著な例をあげると︑ケィンプリジ州の何回吋およびハンチンドン州の 農民層の間にあったのにたいし︑ここでは中・小領主層の中に反乱を支持する者が現われるというように農民運動
S
吋ODの干拓に際して︑独立派の指導者オリグア・クロムウェルは干拓者のマンチェスタl伯等に対抗して農民の共同権擁護の訴‑訟を引き受け︑これを勝訴に導いたJまた︑前記の問︒
H B
司︒ロで二ハ三二年に住民の反乱が
五
......... 1¥
‑ 76ー 生 じ た と き
︑ 治 安 判 事 の 職 に あ る 昌 三u
g2
0 え
のE
ロは公然と反乱を支持g
h r o
そして︑同様な事例は表二の 中にも幾つかみいだされよう︒前稿でのべたように︑三
0
年代における干拓事業の部分的完成とともに︑干拓地の 分聞をめぐって国王ならびにこれに結びついた特権的大地主層と中・小領主層との聞に利害の対立が生じていたの であるが︑先の事例は干拓の利益町分にもれた中・小領主層の不満の強さを端的に示すものであろう︒かくして︑
三0
年代の干拓事業に反対する農民運動においては本質的には対立関係にある農民層と中・小領主層の聞に一時的 な利害の共通性に結ぼれた同盟関係が成立し︑農民運動の主要な攻撃目標は王権につながる特権的大地主層におか
れることになったのである︒
注ω﹁前稿﹂︑一三︑一七
t
一八
ペー
ジ参
照︒
ω表一にあげた事例のうち巧己仏EOHO司σロの場合は領︑王放牧権による家畜が農民によっで放逐されるといった実力行使の例がみられる︒おそらく︑それはここでは領主放牧権が特に顕著に行使され・共同放牧地の不足を深刻佑せしめたからであ
ろう
︿叶
EaFF
・M ‑ r
同 名 目
U P M u
ミ
g s
﹃号
室古
宇一
∞勾
・︒
HY
‑‑
一 一
ωt
一 一
ω参
照)
︒
ω
同様
の事
例は
表一
にあ
げた
問︒
ロ︒E
m g
ロの場合にもみられる︒すなわち︑ここでは一六三五年財務裁判所の判決が下され
たとき︑裁判所の調停委員は
ωZ
え
o
E
の住民に面接試問して︑沼沢地の分割が保有者の一般的利益であることに意見一致し︑耕地一エーカーにつき一エーカーの沼沢地︑および一農家につき五エーカーの沼沢地を割当てるべきものとした(包民
‑ b p
t二 印一gy
当地域の農民経済の発展の中から共同地分割︑私有化の志向が生じつつあったことを一示すものであろうaω例えば︑前記注ωの事例において四
O
人の下層農民が反対したといわれ︿HE
P‑
H こ一己︑農民層分解の進行とともに農
民層内部に利害の対立が生じてきたことを示している︒しかしx農民は少なくとも領主放牧権の復活に反対するかぎ弘でJ一致しえたことが忘れられではならないρ
同領主放牧権の借地については︑
巳L E
・℃
P
二ω t
一玉参照Q領主放牧権の代償として囲いこまれた土地がどのように利用されたかについて具体的な事例を示しえないが︑かかる囲込の貸出は大いにありうることである︒表一にあげたの
020
口
EB
の場合︑紛争は一五八
O
年こ
の教
区の
領︑
王国
山口
宏と
一部
の借
地農
に有
利な
ー協
定が
結ば
れだ
こと
が発
端と
なっ
てお
り︑
放牧
権
一 羽 一
や囲込の賃貸借という形をとったか否かは別として︑領主と一部借地農の聞に或程度
C
結びつきのあったことを一玖じてW
る10倒 的 可o
PR
HH
の場合︑一六
O
七年の判決において﹁過半数の共同権者﹂の同意によって村法が成立しうるζとを認めちれたのにたいじて︑一六
O
九年︑一部の共同権者が損害を蒙ったとして財務裁判所に提訴し︑先の判決に芋直しがなされている︒これら共同権者の不満が﹁十分な数の労役用の牡牛・牡馬を飼うことが不可能となった﹂点にあることからみて︑彼等は富
農層に属するものと推察される︒このことは領主放牧権に反対する共同権者H農民層がすでに?プルジョア化しつつあャる農民
層であり︑彼等は内部に利害の対立をはらみながらも領主・借地農にたいしてはなお一致して対抗したことを示している︒
このような関係は沼沢地域のみならず他の地域においても共同権をめそる領︑互と農民の聞の紛争の中で広くみられるところ
であ る︒
間﹁前稿﹂?一
Ot
一 一 一 ペ ー ジ 参 照
︒ 一 :
州開口号
Uu
p
国‑
・ c
・
3
司bE
吉宮 崎︒
1 d H b
句 ︑
S F
同y ω
∞ ・
間このような反乱は︑一六三
0
年代︑ノチンガム︑ケィンプリジ︑リンカン・ヨlク︑ノ1フォクの五州において二O
を数ぇ︑反乱の大多数は一六三六
t
三八年に生じたといわれる(エス・ィ・7 Yハングリスキl﹃一七世紀の四
Ot
五0
年代のイギリスにおける農民運動﹄
ll
﹀百
Mg
zh
FR
忌・の
‑ s ‑ ‑
︑
R
語h尚之内言︑v
Eh
詩h
Sh
hぬ
お込ミゐ
h H h h
a k 芭
l g
N N
O
凡w h
判 決
同 高 認 さ
‑h ho SS Em p‑
‑五 五ペ ージ )︒ 側例えば︑一六三九年︑ケィンプリジ州の
FZO同国守ではこ
0
ポンドの徴収が不可能であったといわれる(ロR U M J g一 回
b s z z
一 向 ︒
¥H
b向
2﹃ g‑ MY
∞ω )
︒ ω u m w
円ぴ ア同 ヨ炉 内
b s
宮
z
崎︒
L可
HV
由 旬 刊
ω ・・FMME誌
包弘
子・
冨
y
・
g
8 t
m
ム ・ω i S E
‑ ‑ p g '
ω
﹂﹁ 前稿
﹂二 二t
一一 三ペ ージ 参照
︒
七
八
二︑市民革命期における農民運動
一六
回
0
年代の農民運動(共和制の成立まで﹀まず︑市民革命の時期における農民運動の経過を示すと︑表三のごとくである︒それによって︑市民革命の勃発 とともに沼沢地における干拓反対の農民運動が一段と高揚したであろうことが推察されよう︒地域的にみると︑反 乱はリンカン︑ケィンプリジ︑ノチンガムの諸州にひろがっているハンチンドン︑ノl
フォ
ク︑
ノlサンプトン︑
が︑これをさらに細かく検討すると︑四0年代の反乱の主要な舞台となったのは次の諸地域であった︒すなわち︑
ω t 国王領(リンカン州東部の回
O出 口
問 σ
BW
近くの沼沢地︑リンカン州北部の伺也君︒O
M 1 5
宮 内
wロ
ミ)
ω王妃領︑
(ハンチンドン州の国巳ロ毛色﹁
z g a E
阿君
︒片
付
Y
ω
け‑
r g
の聞の土地および印︒
B 2 ω
﹃
ω
5
︑ノチンガム州の回︒日iι 2 ω
ぢロ
O )
︑ωリンぜイ伯領(リンカン州の同ヨ出︒川と回︒ロロH
川の問︑ピ
2E
出色
︒司
o p
出 ︒
M 1
σ H E m
‑ ω l
図 ︒窓口・およびF
u宮 内
aF 2巳といわれる低地)︑ωベドフォド伯領とポ1トランド伯領(ケィンプリジ州の若宮件1
22
﹀8
︑ 紛 ナ イ ト の
尽
E
m E O
の領地(リンカン州の何々
50
川と図︒ミロ川の間﹀︑紛オランダ人干拓業者
しす
﹃ロ
︿
m w 口
出︒
ロ品
︒ Dmの領地(ノIフォクの図︒
‑ B
と叶
g p
F m
E )
等である︒これらの領地はいずれも国王︑王妃 ならびに王権に結びついて干拓事業を主導してきた特権的大地主に属するものであり︑それゆえ︑かかる階層が四
0
年代の農民運動の主要な攻撃目標であったことが明らかである︒次に︑反乱者側の事情についてやや立ち入って検討しよう
o
当時の記鈍は︑多くの場合︑反乱者を共同権者
8 l
﹁種々の人民﹂︑
BE
︒ 出
‑ O H 1 ω と称し︑また︑﹁反乱を起した不穏な人民﹂︑﹁村落の住民﹂︑
﹁マ
ナ
l
の住
民﹂
︑
﹁若干の人々﹂等々さまざまの名称で表現しているが︑そこから︑農民層を中心として種々の階層が反乱に参加し
ていたことが推察される︒また︑表三に示された闘争形態および反乱参加者の人数からも四
0年代の農民運動が激
烈であり︑かっ︑かなりの規模に達していたことがうかがわれよう︒さらに︑これらの反乱は地域毎に一定の中心
地と指導者を有して入がoこれらのことは四
0
年代の農民運動がかなりのエネルギーと一定の組織性をもってたたかわれたことを示すものであろう︒
農民運動の要求の性格についていえば︑個々の反乱における農民の主張を詳細に知りえないという不十分さは残
るが︑農民の意図するところは運動の経過からおおよそ推察することができる︒すなわち︑反乱の生じた場所では
殆んどどこでも干拓施設や干拓地を固い込んだ垣の破壊︑干拓地内の家屋︑作物︑農具等の破壊が行なわれ︑干拓
地内で放牧が復活されるに及んで農民の行動はいちおう終結しており︑農民は共同地の奪還︑放牧の復活をもって
反乱の目標を達成したと考えていたものと思われる︒この点について︑リンカン州北部における反乱の中心地であ
った
何回
3 3
2
伊豆包ミでは一六回二年六月︑四三年三月︑四七年二月の反乱においていずれも開放された干拓地で放牧が復活されたが︑反乱の指導者の一人である同・∞仲
R M
q
は﹁われわれは法律によってわれわれの共同地を回復することができないのなら︑それを力の捉によって獲得するまで︑出として︑明確に彼等の意図をのべている︒
かくして︑四0年代の農民運動の目標は以前に農民層が共同権を有していた土地を奪還し︑共同地を基盤とする牧
畜経営を復活・発展せしめることであり︑それ以上の要求は見いだされない︒それゆえ︑四0年代の農民運動は三
0
年代の運動と基本的には同じ次元に立つものといえよう︒それだけでなく︑四0年代の農民運動においてジエントリの一部が積極的に反乱に参加していたのもコ一0年代の
‑79 ‑
農民運動にみられたのと同じ特色である︒例えば︑リンカン州北部の反乱の中心地であった何回)君︒立伊豆
g 2
の
闘争を指導したのは治安判事の旬︒
E H
﹀口
︒ロ
︿後
に弁
護士
Z o
a
仏旦)であり︑当州東部の反乱の中心であったリンゼイ伯領(同ヨロ
o
川と回OロB ‑
川の間)の反乱において︑治安判事のF︒︒のさロはこれを支持していた︒このように九
昭総け;:;a
農民運動ぬ経過め概要
料 改 チ ン ド ン 丹I
I
ゲ す シ プ リ ジ 州 1)'ヂ シ ガ い ム 州 41. 4 .16 I 41. 4 .22. . 1. i I 4? ,..~ .4.s鉛b刷T制d酌:色e訂訂rs曲ha加a剖叩n瓜I
wo町r白組1.S銑t.1 ves j Halli ‑¥伯とポート学::J:.';p'伯領) ¥ (王妃領〉で.',:r南分ゐ共il
wellの諸:マナー〈王妃│で, i反乱を起した不穏│同権をもっBolderstone 領 ) に 反 乱 な 九 民J"垣ど堤をとわ│の住昂J~垣の破壊,囲 堤と垣の破壊 Iし,放牧. い , I込地への侵入, '放牧,地 41. 5 .5 上院?下平穏な領有Jを│代支払を拒否.
「蜂起者」破壊を続行. I命 令 上 院 .i平穏な領有ゴをい 上院,主たる蜂起責任者 I43: 5 .15. 命 令
の喚問者命令. 1 11. Boyse.その他Wh‑
41. 5 .17 I ittleseyおよびそれに接
「これらマナ{の多くの│する村落の約1.000人J.
住民J.上院命令を拒否1.領地,家屋γ垣,水門の 使 者 に 暴 行 . 一 │破壊,穀物の奪取.
62年4月 │議会軍の派遣.
Somersl).amに反乱,囲 I53.4.20.
込破壊 1Swefghamと:Sotsgham 63.3 .13. 、 │に 150人の集会,干拓労 Somershamに新たな反 1働者を追放.
乱.
l、t l
ノ ー フ ? オ ク .;¥卜│
42.6.13
Holm (オランダ人J:.V. Hendongの領地}に反乱.
穀物奪取,垣の破壊.
上院命令の侵犯.
上院,命令を軽蔑する者e
を喚問.
43~ 3 . 7 .
HolmとT,oe;nham(上 記Hendong領)に反乱,
垣の破壊 53.5.2.
Stoke. Wirgham, Bre""l
0
ttonに反乱お農民運動Jl: 11 d~ 1l6 , 254^‑'266, 293‑‑'298ページより作成.
口 ︒
リ ン カ ン 州 南 部
4
1. 2 .22Stamford, (エクゼタ伯領) で「種々の人民」蜂起,干 拓施設を破壊
,:41. 4‑. 6、
Kyme
I t l と
Bournの間〈リ ンゼイ伯領〉で「若干の人 々J,垣と堤をとわじ,放1 牧,地代支払拒否.上院「平穏かつ平和的領有」
を命令.
41.4.19
蜂起者,上院命令拒否.
41. 8 .25
蜂起者,責任者の喚問に関 する上院命令を拒否.
41. 6 .8
OuseJI[の北東岸で.1若干 の人々J,水門,建物,垣,
溝渠等をこわじ,放牧し,
地代支払を拒否.
41.11.8
ナイトのKilligrueの領地 で反乱,穀物奪取される.
蜂起者投獄されi責任者処 刑される.
42年3月
HorbIing(リンぜイ伯領) で,下共同権者」ゲ領地に 侵入,垣をとわす宇土t
Litt1e Hale,Fen{リシゼイ 伯領〉でィ rc~ Aquiw.(')ll と 共 同 権 者 と 称 す る 他 の 者J,垣や領地をこわす.
45.12.10
Sutton(王領地)で;IStit‑
七on;t'ut加n.'村lこ住む種々
の人々j,垣と堤の破壊を 脅迫.
59:'3.2
州南部の11村からの請願.
59.6.29
7同様の請願.
63.5. 1
Wildmore Fenlこ反乱.
表
3.'吋:ギリス革命期の東部沼沢地
│ リ ン カ ン 州 東 部 │ リ ン カ ン 州 北 部 41. 4 .17 I 42年6月
East
,
West & North, I Epworth Manor (王領〉FeIl ,c王領地). ," Iで,
n .
Allen他16人J, 41. 7 .3 垣,干拓地,家屋を乙わ τhomas卿夫人の領地で│し,強行放牧.反乱.
I
43. 4 .11.上院,責任者の喚問を命 IIEpworth Manorの住
令.
I
民J"作付地の破壊,抵蜂起者,上記上院命令に│抗者を傷害.
服 従 せ ぬ む ね 言 明 上 院 , 民 兵 と 議 会 軍 の 援 41.12
、
3' 人 I助を要請.Bolingbroj{e (王領地) I 47.11. 8 .
でJ
r
共同権者J,囲込 I1若干の人々 j ,垣をこ を破壊針。穀物,乾草等を│わし,放牧し,乾草を奪 奪取,家屋焼却を脅迫" I取.土地を奪還 I4‑9.6'.25..
上院v奪われた物品の返 IHatfield Chaseの 農 民
却を命令ーリ 1の請願,干拓の再開を攻
上院「犯罪者j市所罰を命│撃.
令 150年
42年4月 1 Epworth Manorに反乱,
n. Percy他300人J, I垣の破壊,平等派の参加.
水路,作付地を破壊 I51年
上院指令を明笑. 1上記の蜂起者,財務府と
IJ. Per:cy他1,000人J
I
議会への服従を拒否,新 Bostonに蜂起者を逮捕│議会を要求.した州知事,治安判事の 156.12. 1 .
住 居 を 攻 撃 フ ラ ン ス , オ ラ ン ダ の 新 42.5 . 9 ‑‑‑42.5.13. ,1教 徒 の 教 会 う ち こ わ さ Lindsey Levell (リンゼ│れ,脅迫される.
イ伯領〉で, 1民 衆j,1 56年12月
蜂起,集会,干拓者の追 IHatfield Chaseからの2 放,施設と住居の破壊. Iつの請願(農民側と干拓 42.5 .23. 1者側と).
11.000人以上の蜂起大 I60年12月
衆J.干拓施設の破壊, 1 Hatfield Chaseの 農 民 家屋に放火,破壊,抵抗!の請願.
する者を川に投げこむ. 1 61年5月
若干の蜂起者逮捕される1.Hatfield Chaseに反乱.
62:年3月
Hatfield Chaseに反乱.
t 時四
エス・イ九ズルムンダリ不キマJ17世紀の40‑50年代のイギリ罪広掛け
‑ 82‑
公然と反乱に参加しないまでも︑多くのジエントリは少なくとも動揺していた︒例えば︑一六四七年六月の四季裁
判所
で司
司君
︒ュ
F冨
83
の反乱に参加したこ四人が裁かれたとき︑法廷は干拓者の側に立ったが︑同じ年の一
O
月には法廷は一転して反乱の指導者
Z E
室を支持し︑干拓者の土地所有を不法と判定するという状態であっ勺干
拓の利益配分をめぐる中・小領主層の根強い不満に加うるに︑後に詳述するところであるが︑内戦の時期におけるリ
特殊な政治状況を考え合わせてみれば︑中・小ジエントリがこのような行動に出たのもうな︐つけることである︒か
くし
て︑
四0年代の農民運動における主要な対立は︑コ一0年代と同じように︑国王およびそれに連なる特権的大地
主層と農民層およびこれと一時的同盟関係に立つ中・小ジエントリの間にあったといえよ!う︒
ところで︑以上にのべたのは沼沢地農民運動のそれ自体としての特徴づけであった︒だが︑この農民運動の攻撃
目標が国王およびそれに結びついた特権的大地主層にあり︑さらに︑沼沢地が特殊な戦略的重要性を有していたと
いう事情によって︑沼沢地における農民運動はイギリス市民革命の展開過程においてかなり重要な意味をもつこと
になる︒そこで︑この運動がイギリス革命においてどのように位置づけられ︑いかなる役割を果たしたのかが問題
にされねばならない︒この問題はイギリス革命における全体としての階級関係をほぼ代表すると思われる諸党派な
いし諸勢力と農民運動との関係を検討することによって或程度まで明らかにされよう︒イギリス市民革命における
全体的な階級関係を大づかみにいうと︑それはまず第一に議会派と国王ならびに王党派の対立として現われ︑革命
の進行するとともに議会派内部に対立が生じてくる︒それは︑ω上院と下院との対立︑ω下院における上層部
議会軍内部における上層部(独立派)と下層部(平等(長老派)と下層部︿独立派)ないし議会軍との対立︑ω
派)との対立として現われる︒以下︑これら諸党派ないし諸勢力と沼沢地における農民運動との関係を検討するこ
ι
にし
よう
︒
まず︑国王ならびに王党派と農民運動との関係は明らかである︒農民運動の当面の攻撃対象となった特権的大地
主層はその殆んどが王党派に属し︑あるいは少なくとも王権に結びついて干拓を主導してきたのであり︑したがっ
でかかる特権的大地主層を攻撃することは国王ならびに王党派と決定的な敵対関係に立つことを意味する︒かかる
意味において沼沢地における農民運動は︑農民層がそのことを明確に意識すると否とを間わず︑市民革命期におけ
る絶対王制打倒の闘争の一環を成し︑議会派の同盟軍としての役割を果たすものであったといえよう︒
上院は旧秩序のもとでの支配階級の上層部を代表し︑革命の初期の段階においては国王にたいして批判的な立場
をとったが︑基本的には変革を好まず︑国王との闘争においては最も妥協的であった︒しかも︑農民闘争の主要な
攻撃対象となった特権的大地主層はまさに上院が代表する階層に属するものであり︑時には上院のメンバーそのも
のであったから︑表三にみるように︑全政府機構をあげて農民闘争を弾圧し︑干拓者の利益を擁護しようとし︑こ
れにたいして︑農民層は公然と上院の命令に従うことを拒否し︑実力をもってこれに対決したのであった︒しかし︑
革命が発展し︑主導権が下層部に移っていくとともに︑保守的な上院の権威は失墜し︑上院の命によって農民闘争
の鎮圧に当るべき政府諸機関の中にも動揺が生ω︑上院の命令はしばしば無視され︑ついには︑絶対主制の打倒と
ともに上院そのものが廃止され︿四九年三月﹀︑王政復古によって復活するまで姿を消すことになった︒かくして︑
四0年代の農民闘争において沼沢地農民層と上院とが決定的な敵対関係にあったことは明らかである︒
下院はジエントリが圧倒的部分をしめ︑貴族︑法律家︑商工業者の階層が若干の比率をしめていたが︑大まかに
いうと︑下院の中で最も保守的・反動的な部分は国王派に投じ︑議会派にとどまった議員の中では長老派に代表さ
‑83~
れる上層部(大ジエントリ︑大商人︑金融業者﹀は内戦の過程でも常に国王との妥協を求めていたのに対し︑独立
派に代表される下層部︿中・小ジェントリ﹀はより非妥協的であっ向︒下院内部区おけるかかる対立は干拓をめぐ
一一‑‑:...'
四
る領︑王階級内部の対立︑見すなわちもハ干拓を︑玉導した特権的大地主層と干拓の利益町分に恵まれなかった中・小ジーぷ
シトリの聞の対立にまrさに照応するものであっーた
oh
それは︑長老派色独立派のそれぞれを代表するマシチヰ﹃不タ伯
とクロムウェルの対﹄立に典型的に現われているといえよう
J O J
併の
エ︑
人が
すで
に一
‑一
O
年伐
にお
いて
守ィ
ン
プリ
ジ︐
州め
ι
開守およびハンチンドン州の出
o ‑ B
町内
出の
干拓
をあ
マい
σて対立したのは前述のとおりであるが︑革命期にお︐いて
も内戦の進め方をめぐって両者は再び対立することにな押たむすJなわち︑マンチェヌタは一六四こ年一ぃ二月に議会
軍再編の第一段階として組織されたへ東部連合軍司令となりながら︑ー常に日和見的で︑和平広走ろうとじたのにたい
して︑クロムウェルは自らニュ!・モずル軍を編成して内戦の勝利を求めたrのである︒この対立の当初は下院府で
はマンチェスターを始めとする妥協的な長老t派が優勢であ々たが︑四五年二月の下院で﹁辞退条令
H
が成立するに及んで︑軍隊に依拠するクロムウェルおよび独立派が優位をしめるようになった︒そして︑内戦における議会軍の軍
事的優位が増大するととも
ι
︑革命の主導権ば下院から軍隊にx長老派から独立派に移っていったのである︒ともかく︑干拓者の利害を代表する下院上層部・長老派
ι
対立するという点では独立派と沼沢地農民層の立場は↓J致L
ていた︒しかも︑この地域は議会派の最も重要な地盤であった東部諸州の前面にひろがり︑ぃ軍事的民重要な位置に
あっただけでなく︑独立派の指導者であったクロムウェルは突にこの地域を基盤として勢力を拡大したのであり︑日
したがってまた︑
ニ ュ
l・モデ戸軍の中核となった彼の鉄騎兵可︒ロω50もこの地域を基盤としで形成されたという
特殊な重要性をもっていた︒このよう︐な事情を考えてみれば︑J独立派がこの地域の農民運動には特広慎重に対処せ
ねばならない立場にあったことは容易に推察されよう︒これにたい
L
て︑下院上層部︑特に︑干拓事業時関係した者は沼沢地農民層と直接的に対立する関係にあったわけであるが︑前述のような情勢のもとで彼等の個別利害を貫
徹することはできたかったといってよいであろう︒