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世界の自己化は自己の世界化─視的一元性─

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1.物質・視覚・意識

ベルグソンは,人々が外的世界やそこでのものをどのような存在として常識的に視知覚し捉えてい るのかを問い,次のように答える。物質は「私が感官をひらけば知覚され,とざせば認められない」

存在であり,物質は眼を開けば現れ閉じれば消える。とはいえ,眼を閉じている間それらが実在しな くなるわけではなく,それらは自然の法則に従って作用と反作用を行っているいということも知って いる1。したがって,物質の存在を内的意識4 4や観念の表象として視知覚している(観念論)だけでなく,

その存在を外的物質4 4としても視知覚しており(実在論),「意識と物質,精神と身体は……知覚におい て接触し……延長をもつ物質は,全体として考察すれば意識のようなものだ2」とする。別様にいえ ば,〈物質 - 知覚 - 意識〉あるいは〈もの - 知覚 - 自己〉において,(視)知覚を媒介にした物質 から意識への内向的作用4 4 4 4 4(〈もの→自己〉)とともに,これまた視知覚を介した意識から物質への外向4 4 的反作用4 4 4 4(〈もの←自己〉)が同時並行的に生起しているということになる。

彼はこの〈物質 - 知覚 - 意識〉を空間4 4の関係だと捉え,これを〈物質 - 知覚 - 記憶〉といった 現在(物質)と過去(記憶)の時間4 4の関係として見直し,時間の流れの連続性(持続)の収縮と弛緩 といったリズムにより,現在と過去,物質と記憶との二つの相互透入的な統合を図っている3。ベル グソンのこの視知覚を介した物質と意識,ものと自己とに関する考えは,当時の心理学や神経学の見 解を踏まえ展開されているが,以下では,最近の脳に関連したとニューロ・サイエンスとニューロ・

フィロソフィーの知見を取り入れながら,〈もの - 視覚- 自己〉の関連,「視覚」と「自己」の関係 から「視覚」と「もの(世界)」の展開までの問題を扱ってゆくことにする。

2.脳内モジュールと挿エピソディック・セルフ

話的自己

指摘するまでもなく,現代社会は,視覚メディアによる視覚的なイメージに依存した社会であり,

視覚に訴えるスペクタクルな「視覚社会」である。映画,テレビ,ビデオ(DVD,BD)は言うに及 ばず,PS,ND,XBなどのゲーム,そしてパソコン,タブレット型コンピュータ,スマートフォン において,グーグルなどの検索エンジンを用いてある項目を検索する場合,「画像」の項目で検索を 行うことができるし,また「○○の画像検索結果」といった視覚的イメージが上位にランクされる。

さらに「ピンタレスト」(Pinterest)は画像に特化したウェブサイトもしくはブックマークであり,

世界の自己化は自己の世界化

─視的一元性─

北 澤   裕

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あらゆる項目を画像コレクショ ンにより管理(ピンおよびリピ ン)し,視覚イメージをクリック することで必要な他の様々なサ イトに移行することになる(図

1)。ピンタレストでは文字によ

る解説は二次的になり,画像と いった視覚的イメージが支配的 な位置を占め,視覚社会の構成 に拍車をかけることになる。

もちろん,以前の社会においても見ることは一定の役割を果たしてきたが,多種多様な視覚メディ アがこれまた多種多様な視覚的イメージを提供し,これほどまでに視覚的イメージが溢れかえって いる社会はいままで存在していなかった。このような見せ見られるスペクタクルな現代社会において は,見ることに特化することで特有な自己が形成される。ここではこの自己を「挿エピソディック・セルフ

話的自己」と呼ぶ ことにする。

挿話的自己の「挿話(エピソード)」とは,「話は変わるが」とか「ところで」などの句で始まる今 までの話とは異なる新たに差し込まれた話,もしくは物語の途中にはめ込まれた短い話,および眼に 付き注目に値する顕著な出来事といった二つの意味がある。両方を結びつければ,それまでの話とは かけ離れた話を差し込むことによって,「地」としてのこれまでの話からゲシュタルト的に区別され 浮き出てにわかに顕著になる「図」としての話ということになる。あるいはまた,物語全体はさまざ まな挿話を寄せ集め構成されているともいえる。このような挿話の意味を付与された「挿話的自己」

は,以下で挿入する挿話と係わり合いを持っている。

エピソード

話:ところで,見ることや視覚に独特な事柄は瞬時性や瞬間性であり「情報」に関連している。

眼は事の全容を瞬時に見て取ることに秀でており,情報は瞬間,すなわちものの即時的な全体性を要 求するからに他ならない。「情報は,この瞬間にのみ生きているのであり,自らのすべてを完全にこ

図 1 「ピンタレスト」(著者表示画像)。

図 2 脳における「並列分散処理」過程。

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の瞬間に引き渡し,時を失うことなく,自らをこの瞬間に説明し尽くさなければならない4」のだ。「一 目瞭然」であることが情報の価値である。したがって,視覚メディアが提供する視覚的イメージを 見ることが重きをなしているスペクタクルな「視覚社会」は,瞬時に情報を獲得する「情報社会」と 重なり合い,またその言い換えであるということにもなる。情報は,時間をかけゆっくりと読み解き 徐々に理解すること,物事の悠長な時間的推移や漸次的構成あるいは緩慢な直列的継起を,言い換え れば,線状的なシークエンス,シリアルであることをあまり望まない。そうではなく,情報とは,物 事の結びつきの全容,空間的多事,共時的並列,並置的形体を一気に望むこと,すなわち瞬時に全て を表すパラレル,一挙に総体を示すパターンを求めることであり,視覚と情報に関するこの瞬間的な 多事的形体性は,人の大脳のニューロン反応の並列的なパターン4 4 4 4 4 4 4 4として「 顕エピファニー現 」することになる。

脳科学に見られるこの過程を簡単にまとめて示せば次のようになる(図

2)。眼によって捉えられ

たリアルな外界は網膜の上に転倒した似像として映し出されるが,この像は後頭葉の大脳皮質であ る第一次視覚野(V1)に送られ,増幅,強調された像の姿が投影される。外界の対象がそのままの 形姿で受動的に捉えられているのはここまでであり,

この後に伝達される視覚連合野(腹側視覚路:V2か ら

V5

もしくは

MT

および紡錘状回)において,像 はその属性に従って選択的に特殊化され,像として の形を取らずばらばらに解体されることになる5

例えば,黄色と黒色で描かれたニコニコマーク が左から右に移動するのを見たとする。この場 合,視覚連合野では,丸○といった形や線の傾きと いった属性については

V2

および

V3

のニューロンが,

また,主に

V4

のある一部のニューロンが黄色■に,

これとは異なる別のニューロンが黒色■に,さらに 顔貌性(顔付きや表情)である に関しては紡錘 状回が,そして左から右方向の運動→に対しては

V5(MT)の一部というように(図 3

上),対象の属 性は分散4 4されそれぞれ別々のニューロンが選択的に 発火すなわち反応し処理4 4を行い,シナプスを介して ニューロンの結合が果たされる。つまり,脳は外界 の像をそれぞれの属性に従って「分散処理」を行い,

この結果,各属性に対してのみ反応を示すコラムあ るいはモジュールと呼ばれる一連のニューロン結合 が,視覚連合野に空間パターンを構成する。視覚連 合野(脳)は,このパターンとしてのそれぞれの「モ

図 3  上: 第 一 次 視 覚 野(V1) と 視 覚 連 合 野

(V2~紡錘状回)。下:脳のモジュール構 成:ニューロン・マップ(アダム・シリ トー/ヘレン・ジョーン,V5運動選択細 胞反応)。

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ジュール(部位)」が,同期的にパラレルに組み合わされ「並立」する「並立分散処理」の状態として,

いわゆる「ニューロン・マップ」を形成することになる(図

3

下)6:挿話終了。

以上の挿話により逸れてしまった話を,前述した本来の挿話的自己についての話に戻すことにす る。「挿話的自己」とは,視覚によってニューロン結合が構成する脳内の空間的で共時的なパターン である「並列モジュール」に他ならない。「挿話的自己」は「並列モジュール」である。なぜ「モジュー ル」が「自己」なのか。なぜ「自己」は「モジュール」なのか。それは,何も見ず何も感じず何も 意識していないのならば,このパターンやモジュールは形成されず現れることがなく,この並列モ ジュールが現れることが外的世界や物質を視知覚し,意識なり認識なりがあり観念を抱いていること を示していて,意識し認識し観念を持っている限り,それは自己以外の何ものでもないといえるから である。自己とは,クリストフ・コッホがいう「意n e u r a l c o r r e l a t e s o f c o n s c i o u s

識に相関した脳活動(NCC)」であるニューロン4 4 4 4 4 の集合4 4 4なのであり7,脳内で展開されるモジュール4 4 4 4 4の空間的多事,同時的並列,並置的形体の出現自 体が意識すなわち「自己」なのだ8

このようなモジュールの並置や布置の出現とは,人を含めた生命体(有機体)が,外界の物質が危 険なものであるのか好ましいものであるのか,ダニエル・デネットの表現を借りるならば,自らの境 界を越えそれに触れ捕食することができるのかどうなのかなどの「境界可かぎょう撓性」の可否を探ることで あり9,この境界可撓性の識別は,外界の対象と己とは異なっているといった現象を感知しているこ とを意味し,外界の対象とは違うものとして「自己」を措定していることに違いなく,「自己」の発 現そのものだといえる。

あるいは,アントニオ・ダマーシオによれば「捕まえるほうの認識可能な実在が,その捕獲プロセ スの話の中で生み出されている10」という。つまり対象を認識し捕まえる実在としての自己は,対象 を捉えているニューラル・パターンやモジュールの形成プロセスそのもとして「自己組織的」に生成 されているということである。したがって,自己とはモジュールの現出以外の何ものでもないという ことになる。また,セミール・ゼキは,このモジュールをライプニッツいうモナド内部の「微小表象」

に倣い,端的に「微小意識」として表している11。各モジュールは多少の時間差を持って現れるが,

モナドの中に生じる微小表象のように,たとえ如何ほどに微細であったとしても,ショウン・ギャラ ガーが示す「最ミニマル・セルフ小自己」として12,それぞれそれなりに寸時に発現する経験の直接的な主体としての 自意識を構成するといえる。

では,なぜこの自己は「挿話的」なのか。見ることによって脳内に形成されるモジュールはそのつ ど発現し,瞬時瞬時組み替えられ脳に挿入されるからである。何を見るのかによってあるいは見る対 象の属性によって,どの箇所のニューロンが発火しどのような結合を果たすのか,これによってどの ようなモジュールの組み合わせが同期的に発現するのかは刻々異なってくる。このモジュールの発現 と組み合わせは永続的なものではなく,眼を移し外界の対象をいまここで捉え直すたびに,新たに発 現し形態を変え明滅を間断なく繰り返し嵌入される。取り分け,普段見慣れないものを捉え「注目」

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がなされた場合などには,ニューロンの劇的な結合とモジュールの瞭然とした組み合わせや変容とが 一挙になされる。ニューロンの通常の結合形体を話や物語としての通時的なシークエンスあるいは平 坦でシリアルな地とするならば,一時的に顕現しては消え,消えてはまた突如来現するこのような 間欠的でダイナミックな結合形体は,話の途中に突如差し込まれた挿話,地から突出した共時的なパ ターンである図としての挿話に相当するといえる。

先のデネットは「多マルチプル・ドラフト元的草稿」という概念を用い,脳の中での意識や自己の形成について述べてい る13。この概念により彼がイメージしている内容は恐らく次のようなものだ。見ることにより脳には 様々な情報が入ってくる。この情報を脳は文章として書き留める。この場合,文章の繋がりがニュー ロン結合であり,この結合の総体(コラム)が一枚の草稿なり原稿であってここでのモジュールに相 当するといえる。ニュースが入るたびに原稿が書かれ脳の中は原稿が散乱した状態,つまりモジュー ルがあちこちで明滅する分散並列モジュール状態になる。原稿したがってモジュールはしばしば書き 直され編集を受けることになるが,ともあれデネットは,このような多様な原稿が一時に存在してい る状態が意識であり自己だと考えているといえる。

だが,多様な原稿が脳の中に散在しているのではあるが,注目すべき斬新なニュースによりニュー ロン結合が行われ,トピックとして書かれた幾つかの原稿=モジュールは,そのほかの原稿よりも明 確に意識され,格別に際だった自己の発現に結びつくといえる。多元的に存在している草稿の中に,

突然舞い込み挿入された話題性がある幾つかの草稿として「顕現」した自己がここでいう挿話的自 己である。各モジュールはパフォーマンスを行いそれぞれ競い合い対決し自ら顕然化しようとする。

「顕エピファニー現」と精神もしくは自己との関係についてライオネル・トリリングはこういう。自己はその大部

分において「しばしば日常生活によって摩滅され固定されて動きのとれなくなった哀れみじめな消耗 し尽くした精神でしかない。が,ときには突如現れ出ることによって,退屈な日常生活が変容し,意 味を一杯にみなぎらせる」ことがあり,時々現れ出るこのエピファニーが人としての「存在感」に他 ならないと14。顕現的な挿話としてその時その場で一瞬煌めく並列モジュールこそが,自己の存在を 明瞭に定立することになる。

このようにして,自己は外界の対象を見るたびにニューロン結合が構成する並列分散モジュールで あり,世界を見る視によってそのつど瞬時にシナプス統合を行いパラレルな多事的形体性を顕現させ ている挿話的自己として出来する。すなわち〈もの→自己〉である。視覚はこの並列分散的モジュー ルとしての挿話的自己を構成することにより,情報の瞬間性と親密な関係を結ぶことになるのであ る。脳の並列モジュールは見られた出来事に対する即時の対応,見ることで得られる情報に対する瞬 時の解読,それに即応した自己の存在構成であり,挿話的自己は今日の視覚情報社会が育んだせっか ちで「性急な自己」であるとともに,このようなスペクタクルな社会や文化により作られた自己でも あるといえる。

挿話的自己の以上のようなあり方は,見られる「世界」と見る「自己」は分けることのできない一 つの融解した現象であり,「もの」と「自己」とを視覚を介して同一の存在とみなす〈もの - 視覚-

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自己〉の「一元論」の観点に立つことになる。この観点のもとでは,経験をする主体がまずあって次 に経験がなされるというよりも,まず見る「経験があって初めて経験をする主体が存在しうる15」こ とが成り立つ。端的に,ものを見なければ主体としての自己は存在せず,ものを見るとは同時に自分4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 に気づくこと4 4 4 4 4 4だといえ,「人は環境を知覚し,同時に,自分自身を知覚する16」のであり,環境の利 用可能性や価値である「アフォーダンス」を視知覚することは,行為や身体を制御する以上に,自己 を意識することなのだ。

また,現象学の視点から 神ニューロフィロソフィー

経 哲 学 を説くトーマス・メッティンガーは,「自己モデル(メンタル な自己表象)は自己と世界の境界を措定することから明らかに出現するのだが,この自己モデルの境 界が世界モデルの境界と接合している限り,私とか自己とか自分といった現象的な特性は消滅してし まうだろう。また……自己モデルに統合されている現象的な出来事は,興味深いことに,世界の中と 自己の内部とで同時に起こっていると経験されるだろう17」と指摘する。「自己」と「世界」とは区 別できないのであって,自己は明確な実体としては存在していない。自己や主観的(現象的)な意識 はあくまで世界の視覚的な反映としての「ヴァーチャル・リアリティ」であり,視覚に係わるニュー ロンが受け止めた世界4 4を自己4 4として誤認4 4しているだけだというのである。

別様にいえば,自己と世界はコンピュータ・スクリーンのようなインターフェイスをなしていて,

外部のスクリーンに映し出されている現象が,内部の

CPU

やストレージにより処理されている出来 事であると理解されるのと同様に,眼で捉え見ている外部の世界の様子は内部のニューロンが行って いることに相違なく,これが意識であり自己であると考えたとしても別段不都合なことはない。「私」

といった意識はシナプス統合でありモジュールであるのだが,この意識や自己の具体的で実質的な内 容は何かと問われるなら,それは,これらによる処理の結果として立ち現れ見えている外的世界であ り対象でありものであるといえるからである。

3.アイオーンとアレゴリーとアイロニー

見ることによって構成される脳の対決的パターンとしてのニューロン結合や各モジュール,また,

それぞれの「微小意識」は次々に現れ消えてはいくものの,時間的に統合されいまここを越え,過去 にまた未来へと自らを結びつける「超越的意識」を構成する。あるいは,そのつど即時即座的に構成 される挿話的な自己は連続的に結びつけられ,全体として時間的な継続性を保った連結的な自己を生 成するとされる。このような自己を挿話的自己に対して自叙伝的な「物ナラティブ・セルフ語的自己」と規定することが できる。

物語的自己はアラスデア・マッキンタイアがいうように「私の誕生から死に至るまでを貫く一つの 物語を生き抜く過程で……私自身のもので他の誰でもない,それ自身の特殊な意味をもつ一つの歴史 の主体18」として,〈始め - 中間 - 終わり〉といった物語の筋のように時間的な順番順序に従って 統一的に語ることができ,また善き生を送るためにそのようなものとして作り出さなければならない 自己の概念である。同様に,認知心理学者のマリャ・サッチマンは,自己とは物語として語られるこ

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とで解釈され意味が与えられる「自己解釈的存在」であり,時系列的にあるいは横断的に自らを捉え 解釈することで初めて倫理的に責任が持てる自己となり得る,と解釈学的な立場から物語的自己の必 要性を説く19

さらに,チャールズ・テイラーもまた,人は自分がどのように歩んできたのか,どこへ進みつつあ るのかについて考えを持たねばならず,この意味で「自分の人生を物語の中で把握する20」のだと指 摘し,物語的自己による人格形成のための有用性を説いている21。いずれにせよ,これらはすべて,

自己は物語的自己としてシークエンシャルでシリアルな統一性と一貫性をもった存在として構成され ることが望ましいのだと指摘する。挿話的自己が「現在」においてものを「視覚」する「経験」によ りランダムな嵌入性によって顕現するのとは対称的に,物語的自己は主に「過去」と「未来」に対す る記憶や期待にかかわる「説話」といった準経験的な統一性に由来し到来する。したがって,挿話的 自己は〈現在 - 視覚 - 経験 - 嵌入〉であり物語的自己は〈過去・未来 - 説話 - 準経験 - 統一〉

だということになる。

しかしながら,過去の物語的自己は挿話的自己の時間的残存による重層化や地層化の結果であっ て,この限りにおいて,それはあの時4 4 4の語られる挿話的自己と,しかもまたいつも常にいまここの語 る挿話的自己なしには決して現れることはない。語りによる過去の物語的自己は,いまここの見る挿 話的自己を起点にしたかつてのあの時々の挿話的自己への立ち返りと後説的な解釈により,シークエ ンシャルな統一性を確保しているに過ぎない。また,未来の物語的自己もいまここの挿話的自己の反 復やその差異として先説的に語られ,挿話的自己の不断の書き換えと更新の継続によって逐次的に構 成されてゆくだけであり,この先の期待や不安などについての語りにもとづく物語的自己は,結果と しての挿話的自己の堆積や累代としてしか現れない。物語的自己がまずあるのではなく,始めに挿話 的自己あっての物語的自己なのである。

以上のような挿話的自己と物語的自己との関係を考えるならば,「私が自分自身と私の人生を気に している限りにおいて,私が気遣っていることはいま私がどうであるかということだ。いま私がどう であるかは私の過去によって明らかに形成されてはいるが,重要なことは過去の結果として現れてい る現在だけであって過去それ自体ではない22」と述べるガレン・ストローソンのように,過去や未来 を語ることで形成される物語的自己の存在を疑問視し,いまここの生身の身体をともなった見る経験 にもとづいて発現する挿話的自己に近い存在だけを認める見解もなされることになる。

ストローソンによれば,主体たるものは経験以外のなにものでもありえず,現在の状況に埋め込ま れた身体視覚による「経験の生きられた瞬間」とは別の要因によって自己を措定することは不可能で あり,この「経験以外のすべての事柄を取り除いた時に残されている主体」を「極ミニマル・サブジェクト

小 主 体」もしく は「経験・経験者アイデンティティ」と呼び23,視覚経験4 4と一体性を保ちこれと等価である極小主体 としての経験者4 4 4が自己そのものの姿であり彼のアイデンティティであると指摘する。

極小主体の概念はこれで終わりではない。ストローソンの極小主体4 4はゼキの微小意識4 4やギャラガー の最小自己4 4とは異なる。つまり極小主体は人間の意識や人間としての自己に限定されているのではな

(8)

く,ニューロンや脳モジュールに特有のものでもなく,ありとあらゆる現象に共通して存在している 普遍的な主体である。これは「意識が物理的なものに付随していることを説明づける24」という「精 神物理法則」を求め,物理学を改変した上での万物の理論や,物質的な脳と主観的で現象的な意識と の間に存在するギャップとしての「意識のハード・プロブレム」の解明を求めるディヴィッド・J・

チャーマーズの考えと一致する。極小主体はあらゆる現象の根源において共起している構成要素であ り,これ自体が経験性や意識性のもととなる何らかの性質を含んでいて,すべての現象がこのような 極小主体によって構成されている限り,自己やニューロンもまた経験と意識の根本的なエージェント としてのこの極小主体の元に置かれることになる25

したがって,「汎パンスイズム神論(pantheism)」ならぬこのような「汎パンサイキズム心論(panpsychism)」を唱えるストロー ソンにとっては26,いかなるものであれ極小主体の直接的なその時の視覚的な経験や意識以外の要 素,例えば,物語として語られる過去の自省や回想や悔悟,未来に関する投企や期待や不安など,ま た,上述したマッキンタイアやテイラーさらにはポール・リクールのように,人は物語的な媒介によ り人生の価値と意味を問い直す「想像的変更」を行い,自己に対する道徳的評価を下す必要があると いう当為や使命は27,心理的4 4 4ならびに倫理的4 4 4観点から作られ強要されたものであって,これらの要素 から構成される物語的自己は,善き人生や立派な個性および正しい内面的な精神の押しつけや教訓の 商品化であるということになる28。物語的自己は自己の画一化や硬直化をもたらすことになり,自由 な自己の構築や創造とは無縁のものなのだ。

この観点から,スティーヴン・J・グリーンブラッドは物語的自己を強迫だと感じ,「私が今では自 分で物語を語る時には,そのもの語りの内容にも向かう姿勢にも批判的な距離を保とうとする29」と 述べている。また,フランツ・カフカは,ある価値観や特定の意味合いを与えるような物語を一切書 こうとはしなかった。彼が著した『変身』や『審判』の物語に人生の一貫性や自らの意義を見出し,

これに自己を託そうとする者などどこにいようか。

物語的自己の是非はともかく,いまここの身体視覚的な経験をともなっている挿話的自己の存在を 否定することはできない。この自己の視覚経験に関 連している「現在」は,一時間,二十四時間,一日,

三百六十五日,一年など限定的な期間とその循環に 係わる「時間」つまり「クロノス(Χρο′νος)」とは 異なる時である。それは「時刻」すなわち「アイオー

ン(Αι

, ω′ν)」と呼ばれる時に属している。アイオー

ンとは一区切りの時ではなく文字通り「時を刻む」

ことである。大根を包丁で刻むとする。この場合,

包丁の刃を当て大根を刻むことが,あるいは大根に 当てられた刻む包丁の刃先がアイオーンであり,刻 まれた薄片の塊が過去といったクロノス,まだ刻ま 図 4  ホラポロ「πω′ς κο′οµου(世界は如何にある

か)」(『ヒエログリュフィカ』ギウリオ・フ ランセッセシーニ,1599年)。

(9)

れていない残りの大根の塊がクロノスとしての未来である。 

いま見ている現在は刻々と過去に成り行くその過程で常に未来を迎え,いまが現在だという時には その現在はすでに過去となり未来でしかなかった時が現在として訪れるが,この無限定的で非循環的 な現象がアイオーンなのだ。5世紀に『ヒエログリュフィカ』を著したホラポロは「世界は如何にあ るか」を説く中で,「アイオーン」を自分で自分の尻尾を咥えている蛇「ウロボロス(Ο

,′ϕις)」として

表しているが(図

4)

30,去りゆく過去(尾)をやって来る未来(頭)が捉え飲み込むその状態がい まこの現在としてのアイオーンだといえる。過ぎ去ることと到来することとが同時に起き,現在と いう時限は過去と未来とに侵食され止まることを知らずに持続し続ける。現在はこの過去と未来との

「持続で満たされた間隙」であり31,過去と未来の二つの時限の融合的4 4 4な「縮約」や「綜合」であり,

過去と未来の間の途切れることのない「瞬間」として,過ぎ去りつつやって来る束の間の時の流れと してのみ存在するだけなのだ。過去と未来とに同時に

組み込まれながら,常にいまでありながら常にいまで なくなる永遠に中断することなく現在進行的に続く瞬 間の時(現在)が「アイオーン」である32

この意味で,刻んで断片の塊(過去)を作りつつも 残りの塊(未来)を刻み続ける時刻が,アイオーンで あって見る「挿話的自己」の偶成素となり,一方,そ れぞれの「時の塊かい」としての過去と未来といった時間 がクロノスであり「物語的自己」の組成素となる。自 己は過去を巻イ ン プ リ カ チ オ

き込みながら未来にと展エックスプリカチオ開 し てゆき,過 去と未来を包コ ン プ リ カ チ オ

摂するこの縮約的なアイオーンと共にあ り,アイオーンの過去と未来の縮約的な持続(現在)

の中で刻々と生まれ出る。いま見るこの見回しは,直 前に見た過去を瞬間たるアイオーンにおいて未来にと 置き換え,そのたびごとに自己を転成してゆくからだ。

したがって,挿話的自己は閉じられてはいない。見る ことはいま見ているこの時点で停止するのではなく,

一つの視の状態から他の状態へと回送を行い,ある存 在から別の存在への送付を遂行し,以下で述べる「ア レゴリー(寓意)」といった言い換え4 4 4 4の生成と,「アイ ロニー(反語・反説)」としての言い換え4 4 4 4の作出とを繰 り返す。これら視の不断の言い換えに伴って,自己も 一つの状況や一つの意味に囚われることのない変転と 移管の中に置かれ,自らの形成を繰り返す存在となる

図 5  ジョット・ディ・ボンドーネ「慈愛」

(『悪徳と美徳の寓意』,スフレスコ画,

120×55 cm,1306年,クロヴェーニ 礼拝堂,パドヴァ)。

(10)

のである。自己の中心を

0

とす るなら,視はこれを基点に見回 し動き,この見回しによる視の スコープの移行がアイオーンの 刻みと重なり,アレゴリーやア イロニーとして自己を偶成し続 けることになる。

さて,アレゴリーやアイロニー は,通常,文4と文4(字義)に関 連したレトリックであるが,そ ればかりでなく文4 と視4の間にお いても見ることのアレゴリーお よび見ることのアイロニーが存 在する。この「視のアレゴリー」といった言い換えについて最も有名な事例はジョット・ディ・ボン ドーネのフレスコ画である。「慈カリタス愛」という概念がある。慈愛とは何か。この字義的意味は「情け深く,

好意を持って接し,思いやりがあり,いつくしむ心」だとされる。では,「情け深く,好意を持って 接し,云々……」とは何か。これをわかりやすく具体的に書き表し言い換えたのが,ジョットの『悪 徳と美徳の寓意』の中の一つ「慈愛」(図

5)というアレゴリー的絵画(寓意画)である。彼のこの

絵において,まず「慈愛」といった概念の抽象的で字義的な意味は女性の姿として擬人化され具体的 に示される。図右上の神は自らの慈しみの心(♡:ハート)を彼女(慈愛)に差し出す。彼女は欲望

(貨幣の入った袋)を足で踏みつけ,神のこの思いやりの気持ちを左手で受け取りながら,右手で人 間に慈愛のしるしである贈り物を差し出している。慈愛の「字義的意味」はそのアレゴリー的絵画に よって書き換えられた「視覚的意味」により,これこそが慈愛なのだと見た眼に明らかになる。視の アレゴリーとしての絵画は概念の婉曲的像であり,異なった角度から別様に説明し明確化する表象に 他ならない。

他方,「視のアイロニー」としての言い換えに関連した絵画としては,ピーテル・ブリューゲルの

『イカロスの墜落のある風景』(図

6)を挙げることができるだろう。「高く飛びすぎると羽を取り付

けた蝋が,太陽の熱で溶けてしまうから注意するように」との,父ダイダロスの忠告を忘れ夢中に なって高く飛んだがために,哀れにも墜落してしまったイカロスの神話を題材にブリューゲルはこの 絵を描いた。だが,主題である肝心のイカロスの姿はどこに……? 絵の右下,海面に逆さまに墜落 し足を突き出した惨めな状態で小さく描かれている。その一方で,画面の中央では,農夫は墜落とい うこの悲惨な出来事などどこ吹く風とばかりに一心に畑を耕し,羊飼いは何事もなかったかのように 漫然とあらぬ方向を見上げ,また漁夫は眼の前で溺れているイカロスには眼もくれず釣りにいそしん でいる。

図 6  ピーテル・ブリューゲル『イカロスの墜落のある風景』(キャンバ ス模写,油彩,73.5 cm×112 cm,1560年代,ベルギー王立美術館,

ブリュッセル)。

(11)

だとすれば,ブリューゲルは,墜落した哀れなイカロスに対して

「大変だ,気の毒に,可哀想,助けてあげなければ」と同情を示す言 葉が,時には「思慮に欠けた愚かなやつ,自業自得,我関せず」と いう,反転した批評や辛辣な批判,嘲笑や揶揄や無視を示すアイロ ニーとしての言い換でもあるといった点を,視覚的に言い換え表現 したアイロニー的絵画,つまり視のアイロニーを描いているという ことになる。ともあれ,アイロニーは,シニフィアンとシニフィエ,

表現と意味との通常の一義的で固定化された関係(墜落 - 大変・同 情など)を打ち砕き,これとは異なった逆説的な批判的(批評)関 係(墜落 - 愚か者・無視など)を両者の間に作り上げ,物事の一義 性を覆しその多義性を示す作用を果たす。

このような「見ることのアレゴリー」や「見ることのアイロニー」

は文4と視4との関係だけに留まるわけではない。これらはまた次の事 例のようなアイオーンにおける視4と視4のスコープのショット(挿話)

においても生起する(図

7)。ロードス島のリンドスおいて

33,聖ヨ ハネ騎士団が中世に構築した城壁を真下より見上げる視のショット

1)から,これを回り込み,内部にある古代ギリシアのアテネを祭っ

たアクロポリスにいたる入り口に登る城壁脇の階段を見るショット

2)への変移は,「視のアレゴリー」としての城壁の書き換えである。

しかしながら,この近景

1)から遠景 2)への見ることのアレゴリー

は,単に実在として見られている城壁の大小や遠近など,物事4 4の見 えのデノテーション的な変化としての書き換えを示しているだけで はない。

それは,物事4 4の見えと同時に自己4 4を別様に反復し代補する書き換 え作用を行うことになる。つまりこの視のアレゴリーは,不可入性 から可入性,隔意性から親近性,「へぇー」から「おっ」への性向4 4

「(^_^;)」から「(^。

^)」の内的な傾向性

4 4 4やこれらコノテーション的気44など,自己の強度的で内包的な意味や自らのそこでの存在感とし

ての 此ヘクシアティ性 の切り換えを遂行する。これはチャーマーズのいう固有

で主観的な「現象的意識34」の生成変化であって,自己4 4を多義的に 反復する「 拡アンタナクラシス縮 」や「 変ディアフォーラ義 」を引き起こすことであるといえ る35。あるいは,自己を拡縮,変義するショット

2)は,ショット 1)

についての付加的な視に他ならず,1)の自己のあり方を展開し,自 己をさらに説明する自己である「高メ タ ・ セ ル フ

次自己」となる。結果的に,2)

図 7  「見ることのアレゴリーとア イロニー」(スケッチ・アー ト修正,アクロポリス城塞,

リンドス,ロードス島)。

(12)

などの後続的なショットは,1)などの先行する各ショットを次々と説明してゆくので,これらはメ タ・セルフの連鎖である「メタ・セルフn」を構成すると同時に,説明される自己である「低ハ イ ポ ・ セ ル フ

次自己」

の連鎖「ハイポ・セルフn」をも生み出してゆくということになる(以下図

8

参照)。いずれにせよ,

ショットは見ている世界であり,前述したように,見ている世界は自己であるのだから,各ショット として世界を見ることのアレゴリーは逐次「自己のアレゴリー」となり,自らを拡縮し変議させ書き 換えてゆくことになる。

視覚はアイオーンと折り合いながら,視のアレゴリーとして上書きを繰り返すことで,見ている物 事の意味を消去と構築の間で相対化するとともに,モジュールの構成を常に組み替え書き改め,自セ ル フ己 の何たるかを次々と立ち現れる「メタ・セルフ」により累積的4 4 4に構成し続ける。ベンヤミンはアレ ゴリーを断片の積み重ね,散逸の経過,散乱した廃墟,細断の収集など事柄の乱雑な寄せ集めや意味 の取り替えとして捉えているが,それだけではなく,これら断片の「意味深い状コ ン ス テ ラ ツ イ オ ー ン

況布置〔星座〕」を 構成することもアレゴリーなのだと指摘しており36,アレゴリーはそれぞれの瞬間の煌めきである ショットとしての挿話を刻々と結びつけ,星座の如くに組み合わせることで意味を構築して行くこと になる。この点から,アレゴリーはアイオーンの友であり,挿話的自己の母しかも多産的にして星座 を編成する神話的な母である。この点は次に示す視のアイロニーについてもいえることである。

城壁の遠景

2)から城門の入り口の踊り場に達し,辿ってきた道のりや登ってきた階段を振り返り

見るショット

3)は,「視のアイロニー」となる。振り返ることはいままでの視のスコープの反転や

どんでん返しという「視の破格」であり,前を見詰めることで続けられてきた時系列的な見ることの アレゴリーの順当な文脈を中断してこれを批評,批判し,異説や反説の提示であるアイロニーといっ た書き換えを行うことである。しかも,この書き換えは,ものを見ることは自己であることの一層の 深化をともなっている。なぜなら,ものや世界を振り返り見直すこの反転は,アレゴリーとして書き 換えを続けてきた自己を見直すという「自己言及」的な反転に繫がり,自己の繰り延べや展開として の拡縮や変義ではなく,自己に対する批評や評価としての「自己のアイロニー」となるからだ。歩み 来た行程を振り返る

3)のショットとしての見ることのアイロニー,この反転は単に風景や世界を顧

みることではなく,ここへの到達をいま経験している自分自身4 4 4 4に視線を向け見つめ直し,「自己」そ れ自体を再認し批評を行うことになるのである。

ミシェル・フーコーの言葉を援用すれば,それは自己への立ち返り4 4 4 4 4 4 4 4,すなわち自分が「自己の主人 である,〔自分が〕自己を所有している,〔自分が〕自己を自己のものとして持っている……あるい は更に,〔自分が〕自己自身にたいして快楽や歓び,享楽を感ずる37」といった自らの存在に対して 自らが主体となる「自己主体化」により,自己を内在的に見直し確立する「自己のテクノロジー」と しての意義を持っていることになる。しかも,到達により振り返るこの

3)の視のアイロニーは,達

成による自己の快哉や爽快さをともなうので,モジュール構成を激変させ自己を鮮明に構築するエピ ファニーの機能を果たすといえる。

というのも,引用文後半部の自らに対する「快楽や歓び,享楽を感ずる」ことに関して,スピノザ

(13)

は,「喜び(歓び)」の感情とは身体そのも のの活動力を増大させる身体の変様4 4 4 4 4であり またそのような変様の観念4 4 4 4 4である38,と指 摘しているからである。つまり,視線の反 転という見ることのアイロニーがもたらす 自己への立ち返りが,自分自らのいま現在 の在り方に対する喜びを生み出すとするな らば,この「喜び」という情動状態こそ身 体すなわち脳やモジュールの 顕エピファニー現 的な変 様であって,新たな自己の出来と存在構成 とに大きな影響を及ぼすことを意味するか らに他ならない。

1873

年にロッキー山脈を踏破したイザ ベラ・バードは次のように語る。「ときど き後ろを振り返ってみる4 4 4 4 4 4 4 4 4 4と,蒼白い山頂が この世ならぬ美しさで私を見返し,東の方

の景色は刻々に変化を見せ,湖の水面は文字通り磨かれた黄金のシーツのよう。……私は忘我の境地 の内にあって,至上のほとんど苦痛とも思えるほどの歓喜4 4,名状しがたい思慕……を覚えました39」。

やってきた道を振り返る「視のアイロニー」は,自己が関わり成したことへの批評である「自己のア イロニー」として自己自らに対する喜びとなり,その喜びはシナプスの大いなる結合によるモジュー ル(身体)の劇的変様に違いなく,その時その場の自己の存在を強調することになるのである。もっ とも,オルフェウスとエウリュディケの神話のように,振り返ることが喜びに通じず,悲しみの感情 とこれによる身体の活動力の減少という変様をもたらすこともあるにはあるが。いずれにせよ,ここ に,世界を見ることは自己であるといった一元的で相互反射的な構成過程の存在を覗い知ることがで きる。

続いて,向き直り再び前を見ながら城門のトンネル内を進み見るショット

4)は, 2)のアイロニー

とされた状況

3)のさらなる見ることのアイロニーとしての書き換えになる。この反転の反転,アイ

ロニーのアイロニーは,1)から

3)までの過ぎ去った過去の出来事の失効であると同時に,これか

ら先の未来への連接の構成,以前の清算であるとともに以後の構築である。向き直り見るショット

4)

は,モジュールの白紙還元としての「フェード・アウト」と,新たな言い換えであるアレゴリーを書 き出す「フェード・イン」とが重なり合い,消えゆき現れる「ディゾルブ(クロス・フェード)」といっ た切り返しの状態である。ディゾルブでは過去と未来とが絡み合う「縮約」といういまこの現在とし て,自己がこれから作り替えられ発現を繰り返してゆく交点であるアイオーンの刻時性を空間性にお いて見ているといえる。

図 8 「メタ・セルフ」,「プレ・セルフ」,「ポスト・セルフ」。

(14)

しかもまた同時に,このディゾルブにおいて,フェード・アウトされるのは「自己」であり,フェー ド・インが行われるのはものと「世界」である。ここには,先の自己への立ち返りや自己主体化からの 離脱がある。ディゾルブでは,自己からものへの視の再回帰,自己から世界への見ることの再反転が 行われ,自己をフェード・アウトしてものと世界とにフェード・インを果たし,ものと世界を見ること による自己の書き換えであるアレゴリーに帰還しこれを再開することになる。それは,白紙還元され未 だ融解-消滅的で空虚な非人称的な自己である「プレ自 セ ル フ己」を埋め合わせ,ここのこの「私」として の一人称的な此性としての「ポスト自セ ル フ己」へと繋げて行くことを意味している。このように,アイオー ンにおいて各ショットとして示される視覚は,アレゴリーやアイロニーとして,モジュールを絶えず 書き換えその構成を不断に組み替えることにより挿話的自己の産出に励むことになる。(続く)

1)アンリ・ベルグソン『物質と記憶』田島節夫訳,白水社,1993年,19頁,〔 〕内著者付加。

2)同訳書,244~245頁,〔 〕内著者付加。

3)同訳書,37,76~82頁,169~189頁など。

4)ヴァルター・ベンヤミン「物語作者」『ベンヤミン・コレクション2 エッセイの思想』浅井健次郎編訳,三宅 晶子・久保哲司・内村博信・西村龍一訳,ちくま学芸文庫,1996年,297頁。

5)ニューロンの選択性を最初に指摘したのはダビッド・ヒューベルである。彼は傾きだけに反応する二種類の

「傾き選択細胞」の存在を捉えた。David H. Hhbel, Eye, Brain, and Vision, W. H. Freeman, 1995, pp.17−18. また,

第二視覚野でのニューロンの選択性や分散処理については,Semir Zeki, Inner Vision: An Exploration of Art and the Brain, Oxford University Press, 2000, pp.15−19, pp.58−69, pp.133−134.(セミール・ゼキ『脳は美をいか に感じるか』川内十郎監訳,日本経済新聞社,2002年,47~55頁,127~146頁,258~259頁)。

6) Adam M. Sillito and Helen E. Jones, ‘Feedback Systems in Visual Processing,’ Leo M. Chalupa & John S. Werner, (eds.), The Visual Neurosciences Vol.1, MIT Press, 2004, p.620, figure 37.8, color plate 22.

7) Christof Koch, The Quest for Consciousness: A Neurobiological Approach, Roberts & Company, 2004, pp.86−88.

(クリストフ・コッホ『意識の探求:神経科学からのアプローチ 上』土屋尚嗣・金井良太訳,岩波書店,

2006年,167~169頁)。

8)脳ホムンクルスやゾンビのような第二の意識や意識の過程生成など想定する必要はなく,脳に現れる「ブリッ プ(光点)」すなわち並列分散モジュールとしての第一の意識だけで,自己は十分に成立するとされている。

この説についてはダニエル・C・デネット『解明される意識』山口泰司訳,青土社,2006年,140~170頁,

490~510頁などを参照。ここでの「挿話的自己」の発出に関しては後者の説に従っている。

9)ダ ニ エ ル・C・ デ ネ ッ ト, 前 掲 訳 書,493頁。 ま た,M. R. Bennett and P. M. S. Hacker, Philosophical Foundations of Neuroscience, Blackwell, 2003, p.346参照。ベネットとハッカーは 「 意識 」 と「自己意識」や「自 己」とは別のものであると捉えているが,生物が個体性を意識し自他の区別をおこなう「境界可撓性」があ る限りそれは自己であるといえる。

10)アントニオ・R・ダマシオ『無意識の脳 自己意識の脳』田中三彦訳,講談社,2003年,215頁。

11) Semir Zeki, ‘Theory of Micro-consciousness,’ Max Velmans & Susan Schneider (eds.), The Blackwell Companion to Consciousness, Blackwell, 2007, p. 580. 

12) Shaun Gallagher, ‘Philosophical Conceptions of the Self: Implications for Cognitive Science,’ Trend, Cognitive Sciences, Vol.4, No.1, 2000, p. 15.

13)ダニエル・C・デネット,前掲訳書,140~170頁。彼は「物語」,「物語の断片」,「物語的連鎖」といった用 語を使用しているが,絶え間なく編集,改竄されるという「多元的草稿」の意味内容からすれば「挿話」の

(15)

方が相応しいといえる。

14)ライオネル・トリリング『<誠実>と<ほんもの>』野島秀勝訳,法政大学出版局,1989年,124頁および 128頁。

15)ニコラス・ハンフリー『赤を見る』柴田裕之訳,紀伊國屋書店,2006年,137頁。

16)ジェームス・ジェローム・ギブソン『生態学的視覚論』古崎啓・古崎愛子・辻敬一郎・村瀬旻訳,サイエン ス社,1997年,136頁,および126頁。

17) Thomas Metzinger, Being No One: The Self-Model Theory of Subjectivity, MIT Press, 2003, p.313.

18)アラスデア・マッキンタイア『美徳なき時代』篠崎榮訳,みすず書房,1998年,266頁。

19) Marya Schechtman, The Constitution of Selves, Cornell University Press, 1996, p.94. Marya Schechtman, Staying Alive: Personal Identity, Practical Concerns, and the Unity of a Life, Oxford University Press, 2014, pp.99−102.

20)チャールズ・テイラー『自我の起源』下川潔・桜井徹・田中智彦訳,名古屋大学出版局,2010年,55頁。

21)ニューロ・サイエンスの立場からの「物語的自己」についての言及は,ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン /サンドラ・ブレイクスリー『脳の中の幽霊』山下篤子役,角川書店,1999年,313~315頁を見よ。

22) Galen Strawson, ‘Against Narrativity,’ Ratio, Vol. XVII 4, December, 2004, p.438.

23) Galen Strawson, ‘Minimum Subject,’ Shaun Gallagher (ed.), The Oxford Handbook of the Self, Oxford University Press, 2013, p.254.

24)ディヴィッド・J・チャーマーズ『意識する心:脳と精神の根本理論を求めて』林一訳,白揚社,2006年,

269頁。また166頁も参照。

25)この問題は,脳の機能や意識には量子力学が係わっていると説く「量子意識論」と結びつく。この点に関し ては以下を参照。Quantum Approaches to Consciousness, Stanford Encyclopedia of Philosophy, Tue Jun 2, 2015, http://plato. stanford.edu/entries/qt-consciousness/

26) Galen Strawson, 2013, pp. 271−272.

27)ポール・リクール『他者のような自己自身』久米博訳,法政大学出版局,2003年,191頁以降,およびポール・

リクール『時間と物語 III』久米博訳,新曜社,2004年,453頁を見よ。

28) Galen Strawson, 2004, ibid., p.434.

29)スティーヴン・J・グリーンブラッド『悪口を習う』磯山甚一訳,法政大学出版局,1993年,12頁。

30) Horapollo, Giulio Francesschini, Horou Apollonos Neiloou Hieroglyphika Eklekta: Hori Apollinis Selecta Hieroglyphica : Imagines vero cum Priuilegio, 1599, Sumtibus Iulij Franceschini, Ex Typographia Aloysij Zannetti, pp.6-7, Getty Research Institute. https://archive.org/details/ apollonosneiloou00hora.

31)ジャック・デリダ『留まれ,アテネ:ジャン=フランソワ・ボノム 写真』矢橋透役,みすず書房,2009年,

30頁。

32)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』岡田広・宇野彰訳,法政大学出版局,1997年,80~81頁,207頁など。

33)ロードス島のリンドスにあるアクロポリスは,紀元前550年頃アテナ神殿が建設され,ヘレニズム期にはア レクサンダー大王もここを訪れた。また,ビザンチン時代の500年代には聖ヨハネ教会が建てられ,13世紀 には聖ヨハネ騎士団により城塞化された複合遺跡である。Vicky Dikou, Lindos: The Beauty that Outlasts Time, Marmatakis Bros, 2014, pp. 40−49.

34)ディヴィッド・J・チャーマーズ,前掲訳書,49~50頁。通常,現象的意識は客観的な掌握ではなく主観的 な感じや意味合い,いわゆる「クオリア」と同一視されている。

35)拡縮や変義は同一語を異なった意味で繰り返すレトリックのことである。したがって,ここでは,同じ城 壁の見え方の変化および自己であることの変様を示している。Gideon Burton, Silva Rhetoricae: The Forest of Rhetoric, Brigham Young University, 2007, http://rhetoric.byu.edu/default. htm. Richard A. Lanham, A Handlist of Rhetorical Terms, University of California Press, 2012, p.188.

36)ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源 下』浅井健二郎訳,ちくま学芸文庫,1999年,48~52頁,

71~74頁および178頁参照。

(16)

37)ミシェル・フーコー『主体の解釈学 ミシェル・フーコー講義集成11』廣瀬浩司・原和之訳,筑摩書房,2004 年,251頁,〔 〕内付加。

38)スピノザ「エチカ」『スピノザ・ライプニッツ 世界の名著30』工藤喜作・斎藤博訳,中央公論社,1980年,

186頁,定義3,98頁,定理11,注解。

39)イザベラ・バード『ロッキー山脈踏破行』小野崎晶裕訳,平凡社,1997年,38頁,傍点筆者。

参照

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