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生保事業に対する国家による保険政策の必要性に関する一考察

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生保事業に対する国家による保険政策の必要性に関する一考察

1.本研究の目的

日本において,第二次大戦前の生命保険業

(以下,生保業)は,競争の枠組みのあり方,

および経営目的などについては,同戦後とは 大いに異なっていた。戦前においては,あらゆ る意味での価格競争が生きており,また公的規 制も設立認可業務および不正企業や財政基盤の 脆弱な企業に対する監督に主眼が置かれていた ため,生命保険会社(以下,生保会社)は,自 由な企業戦略を展開できる環境にあった。たと えば,価格競争については,各社が保険料計算 の基礎となる死亡表について,統一性がなく異 なった表を採用していたため,全社同一価格で はなかった。さらに戦前の生保会社を,一段と

「資本主義的」に見せる事実は,主要会社の多 くが相互会社ではなく,株式会社であったこと である。株主のいなくなった戦後の主要生保会 社と比較すると,両者の相違は明白である。戦 前において,一般に大株主の所有意識が強く,

コーポレートガバナンスという観点から見ると

「アングロサクソン的資本主義」1)に近かったと いえる。このように「アングロサクソン型資 本主義」に近いイメージであった戦前の生保業 が,戦後になぜその姿を変身させたのであろう か。この疑問を解く鍵は戦時経済にあるといえ る。

歴史を振り返れば,第二次大戦後の保険シス

テムの変革は,生保業にとって内在的要因と外 在的要因が輻輳する際に生じてきた。戦時経済 期に源流を見出すことができる戦後保険システ ムは,戦争という外在的要因のもとで,官僚主 導による産業合理化の諸策によって形成されて きたと解釈できる(ただし,それが確立するの は,戦後再建期における官民協力体制によるも のである)。しかし,その一方で,当時の商工 省(その以前は農商務省)の保険行政のもと で,比較的自由な競争環境であった生命保険業 界(以下,生保業界)において,昭和恐慌を境 にして集中傾向が急激に強まり,また他方で金 融機関としての地位が急上昇するなど,内在的 な変質が生じていた。銀行による株式保有は 1920 年以降さほど変化はないものの,保険会 社による株式保有は顕著に拡大しており,1934 年には銀行の株式投資額を生保のそれが凌駕す るに至った2)。武田(2009)は,1930 年代に おいて,さまざまな業種で生保会社が金融機関 のうちでトップの株主になったことを確認して いる3),などから戦前から生保会社が金融機関

(あるいは機関投資家)として地位を確立して いたといえる。1941 年 12 月に保険監督官庁が,

商工省から大蔵省へ移管され,それを契機に戦 後保険システムが形成に向かった歴史的経緯に ついても,外在的要因と内在的要因を考慮する ことで,より理解を深めることができる。

日本の生保業界は,第二次大戦の敗戦によ

生保事業に対する国家による保険政策の必要性に関する一考察

―第二次大戦における戦時と戦後の連続性を中心として―

大 坪 英 二 郎

A study of the necessity of policy by government for life insurance business:

Focusing on continuity of wartime and postwar OTSUBO, Eijiro

〔レフリー論文 原 著〕

(2)

り,壊滅的な打撃を受けた。悪質な戦後インフ レによる新契約の不振,解約の増大と,政府に よる戦時補償の打ち切りは,業界再建に大きな 障害となっていた。戦後,生保業の再建・復興 は,国民経済の安定を確保していく上で重要な 課題であった。国民経済における資本不足の中 で,産業復興資金のために,政策的にも,生保 業に対する期待する部分は大きかった。この頃 の生命保険の主力商品は,貯蓄性の強い養老保 険であった。これには,貯蓄好きといわれる 日本人の性格は,生保会社の資本貯蓄と同時 に,国民経済の復興にも大きく貢献したといえ よう。生保業の再建・復興は,比較的順調では あったものの,実際に軌道に乗るのには 10 年 を要した。

そして,20 世紀末に金融システム改革が開 始される以前の日本の生命保険市場(以下,生 保市場)は,一貫して競争制限的であった。そ れは,第二次大戦後の保険政策が,市場の安定 性確保を第一義とする,いわゆる護送船団方式 からスタートしたという事実と深いかかわりが ある。生保会社の財務的堅実性を維持すること で,市場の安定性を確保してゆくという施策が 優先される中で,市場原理に立脚した競争によ る効率化の果実を保険契約者に配分するという 考え方が現実性を与えられることはなかったの である。換言すれば,保険料率算定においては,

互いに対立する政策目標である効率性と安定性 につき,後者に優先順位が与えられてきたとい うことである。生保市場の安定性が維持される 中で,各社が経営効率の向上に努め,そうした 有効競争を通じて,その果実を契約者に還元す ることが望ましい姿といえる。しかし,保険カ ルテル容認の結果として,半世紀にわたり,価 格競争による効率性の発揮と,その果実の消費 者への帰属を犠牲とする状態が続いたという歴 史的事実を記憶にとどめる必要がある。

ところで,日本がいわゆる高度経済成長に 入ったとされる 1955 年までの約 20 年間の日本 の経済構造が,1945 年 8 月 15 日の第二次大戦

終戦をもって断絶したのか,それとも連続した ものであったのかについて,長年の議論が交わ されている。

本稿では,戦後長く続いた生命保険事業(以 下,生保事業)への護送船団行政は,その本質 は戦後から始まったのではなく,戦時から戦後 への連続性の立場をとりながら,他の産業と違 い,金融事業とその中で生保事業がなぜ統制さ れてきたのかについて検証し,生保事業に対す る保険政策の必要性につき,考察していく。

2.第二次大戦をめぐる連続と断絶 日本は,1937 年以降の戦時統制経済の強化 による国内経済中心の閉鎖経済システムの移行 から,GHQ(連合国総司令部)による占領期 をへて経済復興を遂げ,新たな開放経済システ ムの下での高度成長の時代を迎えた。計画経済 による戦時経済の下で重化学工業化の急速な進 展につれて,日本は再び国際収支の危機に直面 することになった。特に重化学工業化にとって 資源問題は最大の課題で,対米貿易の縮小とと もに,日本は植民地(台湾・朝鮮・南樺太な ど)と満州(中国東北部)・中国・東南アジア を含む「大東亜共栄圏」の形成に進まざるをえ なかった。敗戦後,日本は GHQ による占領下 に置かれ,政治経済の非軍事化と民主化を目指 す諸改革,いわゆる戦後改革を受けることにな る。最終的に被占領状態は 1952 年のサンフラ ンシスコ講和条約発効まで続くことになる。戦 後経済の復興では,戦時経済からの物的・人 的・技術的ストックが重要な役割を果たしただ けでなく,戦時経済システムは払拭されること なく生き残った。

主権回復後の日本経済は,第二次大戦後の国 際情勢として立ち現れた冷戦構造の中で,不安 定な局面にさらされつつ,しばらくは復興の道 のりを辿ることになる。経済指標の多くが,戦 前水準に回復したのは,日本がいわゆる高度成 長期に入ったとされる 1955 年のことである。

この約 20 年間の日本の経済構造が,1945 年

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8 月 15 日の第二次大戦終戦をもって断絶した のか,それとも連続したものであったのかにつ いて,長年の議論が交わされている。また,論 争の性質自体も変化を遂げつつあり,かつては 明治期以来の「戦前」日本資本主義と,「戦後」

日本資本主義の連続・断絶の連続性を問うもの であった論争が,1990 年代になると,日中戦 争以降の戦時と戦後の連続・断絶を問うものへ と重心を移してきている。

「断絶」の主張として,鈴木他(2007)が,

「戦時体制期においては,企業金融を含む金融 システムにおいて大きな変化があったことは否 定し難いものの,それは必ずしも戦後の金融シ ステム形成に直接に連続するものではなかっ た」。また,経営史学会編(2004)でも戦後直 後の日本生命の相互会社化について,「これに よって新会社が旧会社とまったく異なった存在 であるということを消費者に印象づけ,新規契 約の獲得を容易にしようという意図が込められ ていた」などの見解がある。一方,「連続」に は,岡崎・奥野(1993)の戦時経済期から高度 経済期までの一貫した連続性を強調する戦時経 済システム源流論(以下,戦時源流論)のよう な見解がある。戦時源流論は,戦後日本の経済 システムを特徴づける日本的労使関係(労務管 理政策や家族主義的経営,終身雇用と年功序列 賃金,企業別労働組合),メインバンク制度と メインバンクによるモニタリング,企業グルー プ・系列化や下請制度などの企業間関係,行政 指導や窓口規制などの政府・企業間関係が戦時 経済期に形成されたことを重視する。戦時経済 と戦後の経済成長との連続性を強調する議論で は,当然のことながらアメリカによる戦後改革 の意義が相対的に低く評価されることになる。

そのほかにも,この岡崎・奥野の研究を参照し つつ戦後日本の経済・社会システムは戦時下に 作られたことを論じた野口(2010)や総力戦体 制による社会変動に着目しながら戦前・戦時・

戦後の政治と社会を論じた雨宮(1997)などが 挙げられる。

これら「連続」の研究の主張は決して同一で はないが,日本の近現代史を 1945 年の敗戦を 境に戦前と戦後に二分する歴史理解を批判し,

戦時と戦後の連続性・同質性(=戦前と戦時の 異質性・断絶性)を強調するという点では共通 していた。

そ し て, こ う し た 把 握 を 通 じ て, 山 之 内

(1995)によると「総力戦時代が推し進めた合 理化」が「公生活のみならず,私生活をも含め て,生活の全領域をシステム循環の中に包摂す る体制をもたらした」こと,それゆえ戦後の民 主主義も「国民国家による統合をより強化する という傾向から自由ではありえない」ことが指 摘され,「福祉国家は,実のところ,戦争国家 と等記号によって繋がっている」4)という歴史 像が提示されたのである5)

よって,本論では,戦後の生保事業における 護送船団行政の本質は戦時に誕生したという見 解を論じている等の理由から,連続性の立場に 立ちつつ,本論を進めていくこととする。

3.戦時統制経済と金融統制 3.1 戦時経済と金融政策

自由経済システムから計画経済システムへの 転換の契機となったのは,1936 年 2 月の 2.26 事件で,1937 年 7 月以降本格的な経済統制が 開始され,1949 年のドッジ・ラインまで,12 年間にわたり計画経済の時代が続いた。1920 年代のカルテルの組織化や石油業法(1934 年),

自動車製造事業法(1936 年)など政府による 特定産業の保護・育成政策がみられたものの,

基本的に政府が市場へ直接介入することはな く,欧米型の競争的な市場経済システムが機能 していた。経済活動の中心は民間企業で,企業 経営においても株主の権限が強く反映され,企 業の設立や増資・社債募集,市場への参入や退 出の決定は企業判断に基づいて行われた。

1931 年 9 月満州事変勃発で,満州占領とそ の後の満州国樹立となり,日本は準戦時体制に 移行し,さらに 1937 年 7 月盧溝橋事件で,日

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中戦争の勃発とその後の戦線の拡大により,戦 時体制に移行した。1941 年 12 月真珠湾攻撃に より太平洋戦争が勃発し,戦線が拡大したのに 伴い,戦時体制の拡大強化となる。このような 軍事行動の段階的拡大の中で,兵器・軍需品の 補給の増大は不可欠であり,その生産に向けて 日本帝国全体で支援する体制が構築される。そ れが戦時経済体制であり,生産要素の総動員体 制と換言することができよう。そのためには市 場の自立的調整に委ねることができず,強権 的・統制的手法が採用される。それが統制経済 であり,市場に対し法的規定を有した命令で介 入するシステムである。統制経済は戦時体制の 深化の中で拡大強化されていった。戦時統制経 済にも生産現場に介入する規制,企業が必要と する資金市場に介入する統制,企業が必要とす る労働者動員に介入する統制,経済活動で取引 される市場価格に介入する統制,財の移動等の 運輸サービスに介入する統制等がありうる。日 本の戦時経済では,そのいずれにおいても強力 な統制が導入された。

日中戦争・太平洋戦争は日本の経済システム に強いショックを与え,その不可逆的な変化の 原因となった。すなわち,軍需への大規模な資 源動員は既存の市場経済システムによっては困 難であったため,計画経済システムの構築に向 けて,相互に補完的なさまざまな制度改革が実 施され,その補完性が基礎となって戦時期に導 入された一連の諸制度が戦後も存続し,経済復 興と高度成長の制度的基礎を提供した。

戦時体制下の金融政策は,財政膨張を起点と する景気の過熱,国内資金需給・国際収支の逼 迫の中,軍備拡張や戦略物資の確保のため,財 政・金融の引締めができなかった。その中で重 点産業への低利資金供給,公債消化,物価安定 を目指すために,消費節約・貯蓄奨励,資金運 用統制,貿易・為替管理といった市場統制へと 進まざるを得なかった。一方で金融市場は急激 な拡大を遂げ,金融機関は統制に沿った新たな 事業を展開するとともに業態の再編が進んだ。

それは金融市場の動揺の恐れも生み出すもので あり,積極的資金動員と並行して市場安定化と いう政策課題も浮かび上がった。

3.2 戦時金融統制

戦時金融統制は,一般にまず,戦争遂行のた めの戦時経済運営の必要性に基づき,この政策 目的(必要)に適合するように,金融市場の資 金の流れを規制するとともに,その資金供給の 源である国民の資金の組織的な動員を図ろうと したものということができよう。

戦時金融統制は,1937 年 7 月の日中戦争の 勃発後,同年 9 月の臨時資金調整法の制定を もって始まり,戦争拡大・長期化とともに強化 され,統制強化の動きが加速していった。

(1)戦時金融統制の目的

この戦時金融統制においては,①国債の消化

(その消化資金の調達),②軍需生産の増進のた めの生産力拡充資金(産業資金)の調達,③前 述の①および②のための資金の動員対策として 国民貯蓄の増加の推進,の3つが目的とされた。

軍事費を主体とする財政支出の拡大は,国債 発行に大きく依存していたが,政府は,この国 債を主としてまず日銀引受けで発行して資金調 達を行い,次いで日銀がこの引受国債の市中売 却(銀行,保険会社などの市中金融機関による 買入れ)を図ることになり,こうしてこの国債 の消化の推進が,戦時金融統制における資金動 員対策の最重点となった。

この資金の担い手は市中金融機関であり,市 中金融機関の資金運用(融資)を上記の国債の 買入れと併行して,重点産業に対する資金供給 に集中させようとした。そして,この融資規制 は,長期・設備資金の融資に対する規制から始 まって,短期・運転資金を含む融資全体の規制 へと進んだ(さらに,この融資と国債消化の両 者の推進の要請によって市中金融機関の資金繰 りが逼迫すると,日銀貸出の増加が両者の推進 を支援した)。

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また,この生産力拡充資金の供給増加の推進 において,市中金融機関の融資活動を補強する ために各種の国策金融機関が設立され,政府な どの出資と政府保証債券の発行による資金調達 に基づいて「時局」産業・企業への資金供給を 進め,あるいは市中金融機関の融資活動を支援 した。

国債の消化と生産力拡充資金の増加のための 市中金融機関の資金運用に対する規制は,次い で,市中金融機関の資金調達の増加対策へと向 かい,国民からの資金動員の強化が図られるこ とになる。これは,国民貯蓄増強の推進であり,

国民保有資金の貯蓄奨励から始まり,個人収入 の貯蓄の強制へと進んだ。

そしてまた,このような資金動員の強化にお いては,戦時経済の運営に不可欠な物価・配給 統制を維持するために国民購買力を積極的に吸 い上げるという意図が加わり,消費物資の生 産・供給の減少が甚だしくなるにつれて,金融 統制におけるこの側面の重要性が増すことに なった。

(2)戦時金融統制の対象と運営

金融統制の対象は,専ら,資金の調達・運用 の担い手である市中金融機関に置かれ,市中金 融機関の金融活動,特にその資金運用(運用方 法・使途)を規制し,これを前項の①・②の政 策目的に従わせようとした。この融資規制の実 施はまた,長期・設備資金の融資を対象に始ま り,短期・運転資金を含む融資全体へと進ん だ。

融資規制の方法としては,まずは,市中金融 機関(あるいは団体)による資金運用の自主的 調整(自主的規制)の要請と,その運用方法に 対する政府の認可・許可制の導入(日銀がこの 実務を担当したとされる)との併用に始まり,

さらには,政府が直接,金融機関に対して融資 命令を発しうることとなった。そしてこれらの 政府の規制措置は,金融統制の法令の制定に よって,法的な裏付けを付与された。

なお,このような金融統制下での融資につい ては,市中金融機関の採算性の確保(資金調 達・運用における金利の設定を中心手段とす る)が認められるとともに,政府の要求に従う 市中金融機関の融資(資金供給)に対しては,

種々の方法で,その損失時の政府補償が付され ることとなった。

金融統制の運営においては,政府が,統制に 必要な各種の法令(臨時資金調整法,国家総動 員法,財政金融基本方策要綱,日本銀行法,金 融統制団体令等)を制定し,これを実施すると いう形で統制方針を指示し,日銀が自己の通貨 供給力に基づいて,戦時財政を支えるととも に,市中金融機関に対する金融統制の運営機関 となった。

なお,太平洋戦争期に入り,全国金融統制会 が設立されると,日銀が主宰するこの統制会が 金融統制の運営の表面に出て,市中金融機関の 資金運用の規制に当たった。

4.戦時の保険行政 4.1 保険会社の役割

戦時期の資金動員として,銀行等の預金金融 機関の貯蓄動員は,地域や職域に貯蓄組織を設 立し,政策的に貯蓄の必要性を訴求することで 比較的容易に成果を見出せるため,実際に多面 的に行われてきた。非預金金融機関(保険会社 などの預貯金を取り扱わない金融機関)におい ても貯蓄動員が可能な業態がある。それが保険 業であり,保険料として保険を販売した顧客か ら徴収することで,運用可能な資産を増大さ せ,保険事故に備え蓄積する。とりわけ長期保 険が中心の生命保険において,保険料率にも影 響を受けるが,保険を巧みに販売することで,

保険料を蓄えそれに見合う資産を蓄積し運用す ることができる。戦時における保険会社の資金 運用は有力な金融業務であり,その運用資産は 増大を続けた。特に生保業はすでに第一次大戦 期に有力な機関投資家としての役割を獲得し,

株式・債券の大口保有者として存在意義を高め

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ていた(表 1)。

金融新体制の課題の一つが,産業資金におけ る銀行の間接金融の形成であったが,生保会社 は,それを補完して国債の大量消化の受け皿の 一つとしての機能を発揮するとともに,軍需,

戦時関連事業の社債の割り当て先としても大き な役割を果たした6)

なお,戦前,戦時の保険商品の特徴として,

徴兵保険7)が挙げられる。これは,養老保険 の一種で大正終わりまで,日本の保険会社の 一番の稼ぎ頭だった商品に成長した。しかし,

1937 年の日中戦争勃発による契約高増大と入 営率上昇などで徴兵保険全体では支払い超過に 転じ,苦しい運営を迫られた。

4.2 戦時保険業対策

1941 年 7 月に,太平洋戦争開戦を見越して 商工省監理局は「戦時保険対策要綱」という戦 時対策方針をまとめている。この文書による と,民営保険では一般に戦争による損害を補填 することができないため,国民生活に脅威をも たらすことになる。この具体的な対策の要点の 一つは,以下のとおりである。

「戦時生命保険に対する対策として,出征者 や戦争被害者に対し保険金の支払を確保するた め,開戦と同時に低率で一律の戦時保険料を徴

収する。保険会社から死亡事故に対する保険金 を支払わせ,戦争保険料をプールした資金から 保険金を支払った責任準備金との差額を保険会 社に交付する,必要な場合には戦争事故の保険 金の支払に制限を加える,この対策を開戦と同 時に採用し勅令で対処する」8)

このように生命保険の一律戦時保険により戦 争死亡事故の保険金財源に充当し,不足につい ては政府が補填する。これを所管する行政組織 が再編され,1941 年 12 月に商工省から保険行 政は大蔵省に移管された(後述)。この行政機 構改革に対して,当時の大蔵大臣の談話によれ ば,「保険,取引所等に関する行政は,金融問 題に重点を置き金融統制実施の見地から,この 業態を他の金融行政と一元化することを適当と 認めたものであり,保険会社は近時その契約高 は著しく増加を示しており,その蓄積運用する 資金の総額は相当の巨額に上る。そのため,そ の金融機関としての重要性はきわめて大なるも のとなったのであり,国家の総資金の中で戦争 目的の達成のため最も有効利用することが要請 される」というものであった9)

すでに生保会社の運用資産が巨額化する中 で,政府の資金計画に組み込まれており,保険 は金融ではないという論理は到底通用しない時 代になっていた。

表 1 株式の所有構造

(単位:%)

日本銀行 銀行 農林水産

中小企業金融機関 保険 信託 財投部門 民間 海外 合計 1890 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 100.0 0.0 100.0 1895 0.0 5.6 0.0 0.2 0.0 0.0 94.3 0.0 100.0 1900 0.0 8.2 0.0 0.6 0.0 0.0 91.2 0.0 100.0 1905 0.0 6.5 0.0 1.0 0.0 0.0 92.0 0.6 100.0 1910 0.0 4.0 0.0 0.9 0.0 0.0 92.9 2.2 100.0 1915 0.0 4.6 0.0 1.4 0.0 0.0 92.5 1.5 100.0 1920 0.0 4.0 0.0 1.6 0.0 0.0 94.0 0.4 100.0 1925 0.0 5.0 0.0 2.1 0.3 0.0 92.3 0.2 100.0 1930 0.0 5.2 0.0 3.9 0.5 0.0 89.4 1.0 100.0 1935 0.0 4.4 0.0 5.5 0.5 0.0 89.5 0.0 100.0 1940 0.0 4.4 0.0 7.1 0.7 0.0 87.6 0.0 100.0

(出所)藤野・寺西(2000)。

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4.3 三省共管時代から大蔵省への移管 満州事変に始まったいわゆる準戦時経済体制 から,日中戦争の勃発によって戦時経済体制に 転換した頃には,生保会社の保有する巨額の資 産運用が注目を浴びるようになった。臨時資金 調整法(1937)による設備資金の統制に見られ るように,戦争遂行のために資金を効率的に融 通する金融システムの構築が模索されるととも に,郵便貯金と並んで生命保険資金(以下,生 保資金)が,このシステムに対して補完的な役 割を果たすことが期待され始めた。戦争遂行の ための資金調達として国債の発行が重要であっ たが,金融当局は,当初インフレを抑えながら 大量の国債発行を行う必要があり,国債の市中 消化に心を砕いていた。昭和恐慌を契機として 産業資金について直接金融から間接金融にウェ イトが移りつつあり,銀行の産業金融に果たす 役割が増大し,銀行に対して大量の国債消化を 期待できない状況にあったので,郵便貯金と生 保資金による戦時国債引受が強く要請された。

大蔵省は,商工省を通じてたびたび生保会社の 国債保有の増加について要請を行ってきていた が,商工省の方針として,最終的には生保会社 の自主性に任せてきた。

しかしながら,戦時国債の消化が重要な国家 的問題になるに及んで,商工省は生保業界に国 債保有の強制を命じることになった。その結 果,1937 年以降,資金増加分に対する一定の 比率で国債を割り当てる方式を採用して,国債 の増加を強制することになった。ただし,生保 会社の利潤を無視することはできないので,そ れと引き換えに「逆ざや」が生じていた一部商 品について予定利率を引き下げることに協力 し,また激烈な競争によって高めになっていた 契約者配当率についても業界の協調を導いて 2 回にわたって引き下げを実行させた。このよう に商工省による保険行政は,準戦時体制から戦 時体制にかけて統制傾向を強めたが,最終的に は業界の自主的な意思決定を尊重し,利潤動機 を否定するようなことはなかったことが特徴で

あった。

戦時経済下において,強い軍隊を育成すると いう期待から,国民の体位の向上と国民福祉の 増進に対する関心が高まっていた。1937 年 7 月に保健社会省を新設して,その目的をあたら せることを決定した。新省に生命保険監督業務 の移管も検討されたが,大蔵省が,金融政策上 の立場から生命保険の監督を,大蔵省を含めた 三省で共管することを主張した。このようなこ ともあって,1938 年 1 月に厚生省が設立され ると同時に,生命保険に関する監督が三省共管 となった。法令的には厚生省設立と同時に勅令

「生命保険会社の監督に関する件」が公布され た。これによって三省共管時代が始まったので ある。ただし,勅令は二か条の簡単なもので,

「1.生命保険会社の被保険者福利施設に関する 監督は商工,厚生両大臣の共管とすること。2.

生命保険会社の財産運用に関する基準的事項に ついては,商工大臣は大蔵,厚生両大臣に協議 して規定すること」ということだけのもので あった。こうして一つの産業に対して 3 つの官 庁が監督を行うという複雑な制度ができ上がっ たのであるが,勅令からも明白なように,商工 省が保険監督の要であることは変わらなかっ た。

三省共管といっても,実施的には商工省を主 体として,他の二省が随時加わるというもので あった。一方において大蔵省の保険資金統制の 意思は,新省設置問題による中断を見たが,戦 時経済の進展の下,ますます強いものとなっ た。

1941 年 12 月 8 日に日米開戦となり,保険行 政は,12 月 13 日に急転直下,大蔵省に全面的 に移管されることが決定された。また,この移 管交渉において,商工,大蔵両省の折衝の結果,

アルコール専売と貿易為替管理が商工省に見返 りとして移管された。当時の商工省側は,経済 新体制の中核的な官庁の一つとして,保険およ び証券行政にまで実務的に手が回らなかったと いう事情がある。こうして保険行政は,金融新

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体制の下で金融機関として日銀支配下のブロッ クに入るものとして位置づけられることになっ た。そのため 1942 年 1 月に金融統制団体に関 する勅令案要綱が決定されると,生保業界もそ の一環として組み込まれることになった。金融 統制団体令(1942 年 4 月)が公布され,同年 5 月には業態別統制会の一つとして生命保険統制 会が設立された。

4.4 生命保険統制会の設立と事業費規制 生命保険統制会の設立経緯とその事業に関し ては,大蔵省の管轄に変更される前後に,その 監督規制において特に目立った変化が生じたの は,生保会社の事業費に関する規制である。商 工省は,1942 年度分から新契約費予定支出に ついて当局の承認を必要とすることにしてい 10)。商工省は,かねてから過当な販売競争 を抑止するために「新契約制限法」を研究して いた11)。新契約費の承認制度は,この研究の 延長上にあると考えられ,その目的は,生保会 社の販売に関する無駄な事業費を抑制すること であった。

これを受けた大蔵省は,より洗練された手法 によって事業支出を規制する方法を模索した。

大蔵省は,1942 年 9 月に,生命保険統制会を 通して,事業費支出の制限について各社の意見 を腹蔵なく回答するように質問書を送った12) これに対する各社の回答を吟味した上で,1942 年 11 月に生命保険統制会に対して事業費科目 処理および新契約費賦課規定の作成を勧奨し た。これを受けて生命保険統制会は翌 2 月に上 記規定を作成し,会員各社に指示した。これに よって監督官庁は,各社の事業費について統一 的基準により把握することがはじめて可能と なったのである。このことは,戦後生保システ ムにおいて事業費枠の設定に活かされること になり,護送船団行政の中での規制された競争 ルールに継承されたものと考えられる。

5.戦後の保険行政―護送船団行政―

5.1 戦後の金融統制

1945 年 8 月 15 日無条件降伏後,降伏文書調 印で GHQ(連合国総司令部)が日本で間接統 治を開始し,以後,1952 年 4 月サンフランシ スコ講和条約の発効により独立が回復するまで の間は,GHQ の日本占領方針のもとで日本の 経済政策が実施されたため,戦時統制に続き,

新たな戦後統制経済が出現した。戦時統制法制 は大胆に廃止されたが,そのまま廃止されずに 改正を経て存続したものもある。

臨時資金調整法は,大蔵省金融局資金統制課 の所管で続けられ,戦後の資金割当制度として 持続した。戦後インフレに対処するには,戦時 と類似した統制手法を駆使せざるをえなかっ た。そのため臨時資金調整法の廃止は遅れ,戦 後金融統制でそのまま援用されていたが,1948 年 4 月で廃止された。軍需金融等特別措置法は 1946 年 5 月ポツダム勅令で銀行等特例法に改 称されて,そのまま融資規制の法律として高度 成長期後まで続いたが,1981 年 6 月の銀行法 の施行に伴い廃止された。保険業では,保険業 法がそのまま改正されつつ,生命保険業と損害 保険業を規定した。この法律は,1996 年施行 の新保険業法まで,長く日本の保険制度を規定 したものであった。金融機関については,1946 年 8 月公布の金融機関経理応急措置法と同年 10 月公布の金融機関再建整備法により,新旧 勘定分離を行い,旧勘定の不良債権が処理され た。これにより金融業 5 千社を超える企業財務 の処理がなされた。その企業財務統制の運用 も,所管省庁が大蔵省であり,従来の会社経理 統制の運用の蓄積が十分活用された。戦後経理 統制も戦時経理統制の経験を引き継いだもので あった。

5.2 戦時と戦後回復期の金融統制

戦時統制の目的は,軍需生産の増強,特に航 空機の増強とその効率化,品質維持であった。

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これに対して戦後統制の目的は生産全体の増強 とインフレの抑制であった。生産の効率と生産 物の品質にはさほど意を用いる必要はなく,ひ たすら量的拡大が目的とされた。物資の供給増 によるインフレ抑制が経済統制の最大かつ直接 の目的であった。資金動員における金融統制に ついては戦時と戦後のシステムでは,軍事生産 の拡大と経済復興のための生産拡大という目的 の違いはあるものの,その外観は極めて類似し ている。戦時の臨時資金調整法では,軍需生産 力増強のための生産力拡充と兵器(特に航空 機)生産に関連する諸産業への一定金額以上の 設備資金および有価証券の応募・引受・募集業 務を規制し,その後この規制は銀行等資産運用 令により,運転資金に拡充された。臨時資金調 整法に基づいて作成された事業資金調整標準は 全産業を甲乙丙に 3 分類し,詳細な資金配分 ルールを定めた。戦時金融金庫は政府保証のも とに戦争関連の国策会社に資本を供給し,日本 興業銀行(以下興銀)に対する命令融資にかか わる興銀債の大部分は日銀引受けとなった。

と こ ろ で, 興 銀 は, 設 立 そ の も の は 古 い

(1902 年)が,戦時中に政府の積極的な助成策 によって強力な国策遂行の金融機関となり,そ の後一部は独立して1947年に復興金融金庫(以 下復金)となり,それがやがて日本開発銀行か ら(株)日本政策投資銀行へと承継されている。

戦後回復期には,いわゆる傾斜生産方式が採 用された。それは,日本経済の基幹部門(=石 炭,鉄鋼)を超重点産業に選び,それらの相互 循環的な増産を図って,これを軸に日本経済の 立て直しを図ろうという窮余の復興策であっ た。戦争の物的被害は船舶と都市部住宅につい ては深刻であったが,企業の生産設備に対して はさほど大きいものではなく,それゆえ,生産 の低下の主たる原因は原材料・エネルギーの不 足にあった。傾斜生産方式は,このボトルネッ クを石炭と鉄鋼,その後肥料,電力,鉄道輸送 を対象に資材,人員の集中投入によって解消す ることを意図したのである。臨時物資需給調整

法ではこれらの産業への緊縮の物資割当がなさ れ,金融機関資金融通準則でも,全産業を甲乙 丙の 3 グループに分け,銀行などの預金増加の 50%を指定産業に運用させた。また,復金の資 金も集中的にこれらの産業に投入され,復金債 の日銀引受がインフレを加速させた。

5.3 戦後の護送船団行政の誕生

日本の生命保険産業(以下,生保産業)に とって,いわゆる「消費者志向路線」の必要が 説かれるようになったのは,1970 年代に入っ てからのことである。それまでの保険経営で は,純然たる企業経営の論理に立つ考え方が支 配的であり,契約者利益の尊重という理念が重 要な位置づけと与えられることはなかった。保 険行政においても,戦前の殖産興業・富国強 兵,戦後の経済復興ならびに高度成長という国 家的政策目標を達成する手段の一つとして保険 政策運営を位置づけるという姿勢がとられた。

そして,その場合,保険業本来の危険負担機能 とならんで,保険を通ずる資本形成機能が重視 されたのである。

敗戦直後の生保産業をいかに復興させるか は,保険経営者のみならず,行政当局者の最大 の関心事であった。行政当局は,占領政策に配 慮しながら,敗戦による金融システムの混乱を 極力抑え,かつ新たな金融システムの再構築を 模索せざるを得なかった。その結果として辿り 着いたのは,戦時期に構築した高度に統制的な システムの援用であったといえる。戦後の生命 保険行政の特徴として,価格の規制と行政裁量 権の大きさを指摘することができる。

戦争による壊滅的打撃や在外資産の喪失,悪 性インフレの進行などの悪条件の中で,新企業 の設立認可から保険商品の品質・価格,さらに は経営の諸局面に及ぶ実質的監督権をもつ当局 が行った選択は,比較的少数の 20 社13)から成 る協調体制を通じて各生保会社の体力回復を図 るというものであった。そしてそこでは,経営 効率の劣る限界企業を基準とした画一的な監督

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行政,いわゆる護送船団行政が,全部の生保会 社を対象に実施されたのである。

当時の為政者が保険事業の再建を急務と判断 し,生保会社間競争による共倒れを防ぐ措置を とったことは十分にうなずけるところである。

家計保険の生命保険は,国民の生活保障を通じ て防貧機能を果たすという点で,その消長は国 民経済運営に重要なかかわりをもつものといえ る。また,生命保険における長期資本形成機能 が戦後の復興期にいかに評価されたかは理解で きる。

ところで,その事業の存立は,保険加入者の 生保会社に対する信用に全面的に依存してい る。そして 1 社でも倒産が起こるような場合,

たとえそれが限界企業であっても国民の生保産 業に対する信頼感に計り知れないマイナスとな る。このように行政当局にとって,船団行政は 十分の存在意義とメリットをもつものであっ た。しかし,重要なのは船団行政下の画一的協 調路線を,生保業界がすんなりと受け入れるこ とによって,20 社体制の確立に積極的に協力 したという点である。それは当時の情勢の下の 生保業界のトップ層の利害状況が,保険監督当 局のそれと一致していたことを示唆する。すな わち,戦後の日本の生保業界は,政府の護送船 団的行政指導を抵抗なく受け入れたばかりでな く,業界内の意思決定においても全社の協調路 線の維持・強化が常に念頭におかれたというこ とができる。

5.4 護送船団行政の特徴とその問題点 ほぼ 20 世紀末までの日本の保険規制の内容 については,1940 年 1 月施行の旧保険業法に 集約され,それは統制経済に適合するように改 正された。それによれば,保険会社の自由参入 は認められず,免許取得が大前提になってい る。

死亡率などの統計的基礎としての保険会社統 一の全会社生命表が用いられるだけでなく,予 定利率,予定事業費率などの保険料率算定の基

礎については大蔵省の認可事項となっており,

事実上強制されていた。つまり,損害保険料率 と同様にカルテル体制にあったということがで きる。しかも,消費者ニーズに即した新たな保 険を販売しようとしても,国家による認可制が 立ちはだかり,全社一斉認可の傾向が強く,開 発利益を享受し得る状況にはなかった。した がって,ほぼ同様な保険が市場に出回るだけで なく,同種・同一の保険については,どの保険 会社と契約しようと,理論的にはその保険料率 は同じであった。つまり,各保険会社の経営効 率格差は何ら保険料率には反映されず,消費者 に対しても価格選択の余地を与えていなかっ た。このような保険規制に基づく日本の保険業 界のカルテル体制を護送船団行政といわれてい 14)。それは保険料率を決定する際に,最も 非効率な保険会社が経営可能な水準に料率を設 定し,これを全会社が遵守しながら,業界全体 として進んでいくことを表している。護送船団 体制を維持することによって,最も非効率な保 険会社であっても料率引下げ競争による支払不 能・倒産という経営危険にさらされることはな く,その結果として消費者保護も達成されるこ とになる。しかし,そこにおける消費者保護の 費用は消費者自身が負担しており,それが実質 的には保険会社・保険業界の保護を第一とし,

しかもその保護の費用が相対的大企業のレント

(超過利潤)につながっていた。この点に,日 本の保険規制・保険行政の最大の問題があった と考えられる。つまり,日本の保険行政は,消 費者保護を名目にしながら,「これまで一貫し て,国家経済的な視点から採られて来たので あって,(中略)保険企業の維持,財政体質の 強化ということもまた,国家の財政・金融政策 の一環として,保険会社を保護・育成するとい う機能の中でのみ果たされてきた」という鋭い 指摘を否定できない15)

(11)

6.生保事業の特殊性 6.1 金融事業の役割

戦時の資金動員対策として国民の貯蓄奨励運 動は,1938 年 4 月の閣議申合「国民貯蓄奨励 ニ関スル件」を機に本格的に実施された。これ は国民保有資金の貯蓄奨励から始まり,個人の 収入の貯蓄の強制に進んだ。銀行等の預金や保 険会社の保険料という形で資金動員された。

終戦を迎えたとき,金融システムは混乱状態 にあった。銀行は資金の最大供給源となってい たが,その貸出のすべては軍需会社に向けられ ており,信用価値を評価するという役割はまっ たく萎縮していた。持続的な経済回復のために は,投資資金が必要だった。そのためには,証 券市場が復活するか,あるいは銀行部門が強化 されなければならなかったが,この時点ではど ちらも難しかった。重大な問題として,戦時債 券の問題があった。軍需会社は軍事生産の代償 として政府から膨大な支払手形を受け取ってい たが,GHQ からの圧力に遭い,最終的には債 務の完全切り捨てを決定した。これは金融機関 のバランスシートを大きく損ねた。つまり,政 府は政府保証その他に通じる直接,間接の戦 時をすべて事実上踏み倒したのである。星他

(2006)によると,このことによる損失(918 億円)は膨大で,終戦の翌年(1946 年度)の 国民総支出(4,740 億円)の,実に約 5 分の 1 に達した16)。また,生保業界も壊滅的な打撃 を受けた。巨額に上る海外資産の喪失,悪質な 戦後インフレによる新契約の不振,解約の増大 と,政府による戦時補償の打ち切りは,業界再 建に大きな障害となっていた。戦時債務打ち切 りによりほとんどすべての企業が実質債務超過 に陥った。このことは,金融システムの機能不 全をもたらした。新しい資金は過去の負債の返 済に流用される危険にさらされるため,資金の 供給が激減した。株式取引所は 1945 年 8 月に 閉鎖され,GHQ により再開は 1949 年まで許可 されなかった。このような中で,資金調達手段

として頼ることができるのは,もはや銀行しか なかった。

戦時の補償打ち切りが,企業の営業継続を妨 げないための立法措置がとられた。一つは企業 向け,もう一つは金融機関向けの法律であり,

両者とも 1946 年 8 月に施行された。

この法律で金融機関を含む企業は,資産と負 債を事業の継続に不可欠な部分(新勘定)と不 必要な部分(旧勘定)に分割した。戦時補償の 打ち切りによって回収不能と予測された資産は 基本的に旧勘定に割り当てられた。企業は新勘 定を用いて事業を継続する一方で,旧勘定を整 理した。金融機関のバランスシートは他の企業 に先立って迅速に健全化された。これは,企業 債務の再編と戦後復興を主導するため,最初に 金融機関の財務状態を健全化すべきという日本 政府と占領当局の考えを反映していた。

戦後の復興のためには,石炭,鉄鋼等を生産 していかなければならず,戦時の軍需産業と同 様に国が統制しなければならない。そのための 資金を調達せざるを得ず,この集金システムを 作っていくときに,銀行と生保に護送船団行政 としての仕組みを構築していった。この極めて 特殊な計画経済の中で銀行と生保の制度が形成 されたといえる。そのゆえに,金融事業は政府 の規制を受けて,他の産業と違い,統制されて きたのである。

6.2 生保事業の特殊性

(1)戦後の相互会社化

第二次大戦の敗戦により,日本のすべての金 融機関が破綻状態となった。生保会社も 1946 年に指定時決算を行い,資産,負債を新・旧勘 定に分離し,翌年から翌々年にかけて,金融機 関再建整備法により第二会社を設立することで 20 社の生保会社が事業を開始した。

相互会社という会社形態は,保険業法で保険 会社のみに認められた独特のものであるが,第 二会社を設立した 14 社のうち,平和生命を除 く 13 社は,新会社創立の際,株式会社から相

(12)

互会社へ組織を変更した。戦前の生保会社は第 一,千代田,富国の 3 社を除き全部株式会社で あったが,第二会社は大部分相互会社となった 結果,株式会社は平和,日本団体,大正,協栄 と合わせて 4 社にとどまり,残る 16 社は相互 会社となった。

大部分の株式生保会社が再建にあたり,相互 会社化した理由としては,当時の財閥解体等 を指導していた GHQ が相互化に積極的であっ て,特に財閥系会社に対してはこれを推進した 事情があり,また経済民主化という当時のムー ドの影響のあったこと,などが挙げられよう。

相互化したことの最大の原因は,財閥解体等で 在来の大株主が弱体化して積極的に動けなかっ たことで,主として再建を推進していた旧会社 の幹部職員にとって相互化は新装開店を理由づ ける最良の手段であった。要するに,戦後にお ける生保会社の相互化は,両組織の利害得失を つぶさに検討した結果によるものではなく,敗 戦後占領下の特異の事情の然らしめたもので あった。そして,再建第一号の日本生命が相互 組織を採用したことは,この動きに拍車をかけ 17)

(2)生保事業の特殊性

生保事業の特殊性として認識せねばならない のは,生保事業の保険と金融の複合的な性格で ある。銀行と並ぶその金融機能において,生保 事業の主たる資金源は,契約準備金(保険金支 払いまでの蓄積資金である責任準備金)である が,その資力は大きく,すでに戦前において保 険会社は銀行・信託と並ぶ三大金融機関と称さ れるほどであった。

その金融的特徴のほかに社会保障と生命保険 との相互補完作用が挙げられる。戦前・戦時の 社会保障は,社会保障の形式だけは整えている が,実質的には戦時体制下の労働力の保全と戦 費調達という戦争遂行の役割を担ったものであ り,本格的な社会保障の発展は第二次大戦の終 了を待たざるを得なかった。そもそも社会保障

は,社会全体の手によって国民の最低限度の経 済生活を保障しようとするものであって,その 域を出るものではないし,またそれを出てはな らないものである。したがって,もしそれ以上 の経済生活の保障を確保しようとするならば,

各個人または企業の責任においてそれを準備し なければならない。社会による保障と企業に保 障と,個人の責任による保障という「三本立て の保障」によって,国民の経済生活の保障が全 きを得るといわれる理由はここにある。

このように,社会保障が最低限度の経済生活 の保障をはかる任務にとどまる以上,より高い 生活水準に対する準備をするためには社会保障 以外の方法によって,その確保を図らなければ ならないから,社会保障が民間生命保険の存在 を否定する理由がないのは当然のことである。

それどころかむしろ,生命保険は,最低限度の 経済生活の保障をはかる社会保障を補完する作 用を営むものであり,両者の併存はあきらかに 可能である。とりわけ,日本のように社会保障 が低位にあるところ18)では,生命保険が社会 保障に対する補完作用を営む余地は極めて大き いといえる。

日本において,社会保障が生命保険(年金保 険)の発達を促す契機を作った事例がある。第 二次大戦後,日本においては家族制度が崩壊し たり,食生活の改善,医学の進歩による人口の 老齢化現象が生じたりしてきたため,国民大衆 の老後生活に対する不安が募るようになってき た。このような情勢の中で,既存の公的年金制 度に加えて国民年金制度が創設(1959 年),い わゆる「国民皆年金」政策が展開されたことは,

老齢保障に対する国民の関心を高めるのに大い に役立った。しかも,これらの公的年金制度か らの老齢年金給付額は最低生活を保障するに はあまりにも低額であり,公的年金制度からの 老齢年金給付によっては,到底,老後生活を安 心して送ることはできないという認識が強まっ た。この認識は公的年金制度以外の老後生活の 保障手段を求める力となり,ここに私的年金制

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