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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

J.S.ミル資本蓄積論研究 : ミルにおける静態論と動 態論

諸泉, 俊介

九州大学経済学研究科経済学専攻

https://doi.org/10.11501/3088098

出版情報:Kyushu University, 1991, 博士(経済学), 課程博士 バージョン:

権利関係:

(2)
(3)

① 

学 位 請 求 論 文

J .   S .   ミル資本蓄積論研究

一一ミルにおける静態論と動態論一一

諸 泉 俊 介

1 9 9 1

3

(4)

J .  

S. ミ ル 資 本 蓄 積 論 研 究 一一ミルにおける静態論と動態論 一 一

目 次

第一章社会哲学と静態・動態峻別論 ー (一) はじめに

(二) 古典的自由資本主義の確立とミル経済学 一一 (三) 社会認識の方法と「社会静学

J

および「社会勤学

J

(四) むすびに代えて

第二章 ミル経済学の基本視角‑

(一) れ レ

(二) ミルの問題意識と方法一‑

(三)

i

遊休資本」の理論 ‑ (四) 恐慌と「一般的過剰」

(五) むすびに代えて

第三章 ミルの利潤論 ‑ (一) はじめに

(二) r経済学試論集』における利潤論 ‑ (三)

i

試論四」利潤論と利子論 ‑ (四) r経済学原理』における利潤論 一一 (五) むすびに代えて 一

第四章 ミルの信用理論と 「遊休資金」の理論 一ーー (一) はじめに

(二) ‑:通貨論争」の諸理論とミル ー

(三)

i

信用一般」の理論と「遊休資本

J

の理論

(四) ミルの信用論と 「信用の特殊な形態のもつ特殊性j

第五章 (一) (二)

(ニ)

1 1  

(四)

1 8  

(五)

2 6  

第六章

2 6  

(一)

2 7  

(二)

3 6   4 4   4 9   5 6   5 6   5 8   6 9   7 7   8 6   9 7   9 7   9 8   1 0 6   1 1 5  

(五) 信用論と通貨調節論 一一‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一一一一一一一一一一一一一一一

1 2 2  

(六) むすびに代えて

1 2 5  

ミルの「動態論」と資本蓄積論 一一一一一一一一一一一一一一一一一‑‑・‑e・‑‑‑

1 3 1  

はじめに 一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一

1 3 1  

動態論の位置と構造 一一一一一一一一一一一‑‑‑・E・‑ー一一一一.

1 3 2  

二つの利潤率低下論 一一一一一一一一一一一一一一一一一一

1 3 8

資本蓄積の理論と「停止状態」論 一一一一一一一一一一一一一一一一一

1 4 3  

むすびに代えて 一一一一一一一一一一一一一一一‑‑‑‑‑‑‑一一一.

1 4 7  

ミル経済学と共同組合論一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一̲.

1 5 7  

ミルの「静態論」と「動態論」 一‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一一一一一一一一一

1 5 7  

ミルの社会主義論 一一一一‑‑‑‑‑‑‑‑ー一一一一‑‑‑‑‑• ‑‑‑一一一一…

1 6 1  

(5)

第一章社会哲学と静態・動態峻別論

(一) はじめに

十九世紀中葉の欧州にあって.J. S.ミル (JohnStuartill,

1 8 0 6 ‑ ‑ ‑ 1 8 7 3

,以 下ミルと略す)ほど多様な諸分野に多くの発言をなした社会思想家はそう多くは ないと思われる。下院議員として,またその他多くの場所での彼の実践的諸活動 を措いても,ミルの著作活動は,論理学,倫理学,政治学など極めて多岐に亙っ ており,その思想の広汎さは吾々を驚嘆せしめて余りあるものがある。ミルは当 時の欧州に族生する諸思想、を遍ねく渉猟し,自らの思索の血肉とした鋭がある。

ミルに,彼は「生来,体系化し,総合化する人であった

J

1)という評価の与えら れる所以である。のみならず,ミルの残した思想の多くは今日なお生彩を失って はおらず,例えば彼の女性解放論や共同組合論あるいは社会主義論は,今日の吾 々が対時すべき諸課題に多くの論点を投げかけているようにも思われるのである。

ミルはマルクスと共に,十九世紀中葉に蛇立し,吾々が未踏破の巨峰であると言 えよう。

ミルの思索を多少狭く限って,経済学について見ればどうであろうか。かつて 社会思想史上のミルという観点から,

i

ジョン・ステュアー ト・ミルの思想を全 体としてみると,経済学の占める地位はそれほど大きくはない。ヨリ大きな部分 は,政治論と論理学にみとめるべきであろう

J

Z)という評価があった。ミルの多 彩な思想の重みからすれば,経済学の比重は相対的に軽くなる。あるいは逆に言 って,ミルの経済学は,政治学あるいは論理学を含めた社会思想に裏打ちされ,

そこに足場を固めて存立するという意味で,上の評価は正鵠を射ていよう。しか しそれ故にこそ, ミルの経済学体系をそれ自体として眺めても,当時の経済諸学 説の中に異色を放っており,また経済学説史上においても大きな特色を有してい ることも事実である。

i

十九世紀の中頃,資本主義の体制に内在しながら,資本 主義の展開過程の中から生起した重要な問題,すなわち労働問題ないし社会主義 の問題と周期的恐慌という問題に,真剣に取り組んだ,イギリスの知識人》その 人がミルであった

J

3)という評価は,今日誰もが受容しうる常識と化している。

しかし上の評価にある諸問題に対し,現代の吾々が十分に答えているとは言い難

(6)

い。今日まで,ミルの思索を経済理論の側面から掘り起こす数多くの研究が積み 重ねられて来ているが,それにも拘わらず過去の諸労作が見落とした論点を拾い 出す必要のある所以である。

さて, ミル経済学の有する特色の一つに,ミルが経済学の体系を静態論と動態 論とに峻別して論ずる点がある。彼の経済学体系は一方に,資本制生産における 経済的諸現象の相互依存関係を,それらが同時的に存在する状態、を想定して均衡 論的に分析する静態論を設定するが3 他方においては,資本制生産の歴史的傾向 性を,不断に運動する状態を想定して分析する動態論を設定するという二重の論 理構造を有していると言われる。この経済学における静態と動態との意識的な区 別はミルに端緒を持つのである。かかる経済把握の方法が,その後精級化され変 容され体系化されて行くことはs 例えばA.マーシャルやJ.A.シュムベーターの著 作において吾々が見る処である針。しかし更に,静態論と動態論との区別が,マ ルクスの経済学においても決して無縁でないことは衆知のことである。マルクス は『資本論』の目的を3 一方では「近代社会の経済的運動法則を明らかにするこ と

J

5)であると規定するが,他方では「資本主義的生産様式の内的編成を,いわ ばその理想的平均において示す」 ωとも言っている。何れにしても3 ミルが提唱 する動態論と静態論との峻別の理論は,同時代人たるマルクスをはじめ,後世の 多くの経済理論に多大の彫響を及ぼしたと言うことができるであろう。

されば,そもそもミルの静態論あるいは動態論とは如何なる性格のものであっ たのであろうか。これが本論文の解明すべき課題である。しかし,先にも述べた ように,ミルの経済学はその背後に重畳の社会思想、を有していた。社会哲学と静 態論および動態論との関連については,吾々はすでに多くの優れた諸研究の蓄積 を持っている。こうした諸研究に学びながら,静態論および動態論を社会哲学と の関連で考察して見ょう。

(二) 古典的自由資本主義の確立とミル経済学

(  1 

)ミルは

1 8 0 6

年, J.べンサムや

D .

リカードとの交友関係を以て高名なジェイ ムズ・ミル (JamesMill , 1773~1830。以下父ミルと略す)の長子としてロンドン に生まれた。ミルの生涯については,彼自身による rミル自伝J7)に詳しいが,

彼は一生正規の学校教育を受けることなく,父ミルの英才教育を受けて育つ。こ のことは, ミルの思想形成に大きな意味を賦与したものとして興味深い。すなわ ちミルは,若い頃より父ミルを介してーベンサムの功利主義思想、あるいはリカー ドの経済学による薫陶を受けているが,父ミル自身の思想的影響も極めて強く受 けることになるのである。 rミル自伝』に依れば,ミルは八歳(1

8 1 4

年)からギ リシャ語およびラテン語を学び始め,またローマ時代の古典的思想、や伝記に触れ,

さらに数学や力学,天文学や論理学にも手を染めている。彼はソクラテスやプラ トンに示される高い道徳律に深い感化を受けているが

8 ¥

同時に父ミルの言動と も相俊って,

r

正義,節制(これを父は非常に広い範聞に応用した) ,真実,忍 耐,苦痛,特に労働を進んで受け入れる精神,公共のために考える気持ち,人は その真価により,物はその内包する有用性によって評価すること,放縦な安棄で 怠惰にふける生活と反対の意味での努力の生活

J

9)がミルの道徳律として固まっ て行ったのである。

こうした道徳面での感化と共にs ミルは父ミルから経済学を教え込まれる。ミ ルが経済学の学習を始めるのは十三歳

0819

年)である。彼は父ミルとの朝の散 歩の途上において,父ミルからリカード r経済学原理J10) の講義を聞き,それ を文章化して父ミルに呈示するという方法で経済学を学んで行く。このミルによ

って文章化されたリカード r経済学原理』の講義内容は,父ミルの添削を受け,

後日父ミルの r経済学綱要J1) に結実するものである。ミルの経済学吸収の早 さと早熟さとを窺わせるエピソードである。

しかしミルが, r経済学原理JZ) にまで体系化される経済学的思索を開始す るのはーいわゆる「精神の危機

J

13)  (1

8 2 6

年)以降であると言われている(4)

。この「精神的危機

J

を乗り越えたミルは,父ミルの彫響圏から綴れ思想的に大 きく展開して行く。彼は多岐に亙る諸思想を吸収し始めるのである。ベンサム哲 学とは反対の立場に立つコールリッジ派の哲学と接触し,またサン・シモン派の 社会主義思想、を批判的に吸収し,更にコントとの交流を通じて進歩思想、を体得し て行く 15) 。サン・シモン派およびコント社会学というフランスの斬新な学問に 触れ得たことは, ミルの経済学に図り知れない影響を及ぼしているが,殊に動態 論との関係では,後述するように,コントとの関係は重要である。

こうしたミルの多面的な思想の吸収と岨唱とは,四十年代において全面的に関

(7)

花することになる。すなわち

1 8 4 3

年には『論理学体系J16) を出版し,これに勢 いづけられて,翌年の

1 8 4 4

年には長年行李の底に温めていた r経済学試論集』を 出版し17} ,更に

1 8 4 8

年には r経済学原理』が出版されることになる。ことミル の経済学に関して言えば,三十年代から四十年代にかけては,彼の思索が経済学 を含んで凝縮され集大成される時期と捉えることができょう。ではこうしてミル 経済学が展開する三十年代 四十年代とは如何なる時代であったのか。この面に 目を転じて概観してみることにしよう。

〔二〕三十年代 四十年代のイギリス経済における歴史的諸変化を端的に表現す れば,それは「古典的自由資本主義の確立

J

ということになろう。おなじ古典的 自由資本主義でも,五十年代以降に現れるその成熟期+いわゆる「栄光のピクト リア期」とは様相を異にし区別さるべき歴史的発展段階である。この時代を通じ て3 産業革命を経るなかで力を蓄積してきた産業資本は,経済過程全体にその支 配力を確立して行くと共に,それに照応した諸条件あるいは諸制度を整備して行

くのである。こうした過程は具体的には次のような諸特質を示しているo

この時代のリーディング・インダストリーは綿工業である。この綿工業の発展 を中心に関連諸産業が次第に整備・伸長して行く。綿工業における機械化は紡績 部門から開始される。すなわち

1 8 2 5

年には,それまで一般に普及し,機械打ち壊 し運動(ラダイト運動)の引金にもなった普通ミュール紡績機に代わって,自動 ミュール紡績機が発明され, これによって紡績工程完全自動化の技術的基礎が置 かれることになる。この自動ミュール紡績機は漸次経営的な実現をみて行くが,

これはまさに「鉄製人間

J

(ユア), 1"鋳鉄製紡績工

J

(シーニア)として自動 化体系を拓くものであり, 1"マニュファクチュア時代以来の労働の不従順に対す る資本の闘争が完了し,後者による賃労働者の機構的把握の技術的基礎が定置」

18)  した点に意義をもつものであった。また織布部門においては

1 8 4 1

年に自動力 織機が発明され,それが一般化される。ここに到って綿工業の機械化は一応の完 成をみるのである。綿工業の生産性は三十年代以降飛躍的な上昇を見せるが,

「労働生産性の発展と労賃コストの低下はとりわけ 30~40年代において著しい」

q)  ものであった。

綿工業の発展と共に3 その機械の素材となる鉄鋼の生産もまた量的な拡大を果 たして行った。更に綿工業の動力たる蒸気機関や製鋼のエネルギー資源である石

炭の採掘量も,飛躍的な拡大を示した。鉱工業の発展に比例して運輸業の展開が 行われるが,運河時代は既に過ぎており,この面では道路の整備・改良を経て鉄 道の発展期に差し捌かる。鉄道は元来産業革命期のエネルギー源である石炭を効 果的に輸送する目的で考案されたものであるが,三十年代に入ると貨物輸送だけ ではなく一般旅客の輸送も行われようになり,

1 8 3 0

年には蒸気機関の牽引による 初めての普通営業線がリパプールとマンチェスターの間で開通している。以降

1 8 3 6

‑ ‑ 3 7

年,

1 8 4 4

‑ ‑ 4 8

年に二回に亙って鉄道建設ブーム期が訪れ,イギリスの 鉄道網はこの間大きく発展するのである。この鉄道がー五十年代以降の重工業の 発展に大きな刺戟を与えることになるのである20) 。また海運での大西洋行路の 開設および電信網の発展も忘れられではならないであろう。かくしてイギリスに おけるこの時代は,工業化と都市化が進み, 1"イギリスが農業国から工業国ヘ転 換しはじめる時期

J

1) であった。

しかし農業における変革も見逃すことはできない。この時代の始めの時期にお いては,農業変革は大きな技術革新によるものではなく, "1耕作地域の拡大や大 農業の能率の増大や,作物の変化や一一一 輪作や家音飼育法や道具などの一層の 広がり

J

ZZ) を中心とするものであったが,その後産業革命の彫響が徐々に現れ はじめ,土地改良や化学肥料の普及も開始され, 三十年代後半になると穀物収穫 量の増大が目立つようになってくる。この過程で土地制度の変革も進んでくる。

いわゆる第二次回い込みが完了するのもこの段階である。その結果中小農が没落 し,資本主義的大農経営が形成されてくるo 農業における諸変革は農民層の分解 を促進し,そこから過剰人口を排出する。この農村過剰人口は都市に流れ込み,

都市の工業化を推進して行った。しかし都市の工業化は,農村における家内工業 の駆逐を意味し,これがまた農村の分解に拍車をかける。かくして,都市と農村 における相互交流が総体として資本・賃労働関係を普及せしめ,産業資本の社会 的支配権を確立せしめていったのである。

(三〕産業資本の確立過程において特に注目したいのは,銀行業の発展である。

工業化の過程においては資本の集積・集中が次第に進展し,生産力が高まり,そ れと共に経営規模はますます大きくなって行く。同時に資本の獲得する利潤も,

産業革命以前とは比較にならない大きさとなっているが,それと共にこの時代に 到って利潤の取得権限を巡る議論が数多く生みだされてくるZ3) 。しかし経営規

(8)

模の拡大は往々にして不lJj聞からの蓄積では賄えない状態、を生みだし,自己資金の 限界を越えて多額の資本を必要とする事態を惹起せしめる。この時代は確かに個 人企業形態、がまだまだ支配的ではあるが,銀行業や運輸業といった業種では株式 組織の企業形態も見られるようになってくる。銀行がこうした金融市場に不可分 に係わって行くのはまだ先のことであるが, しかしこうした方向に向かう萌芽を 字みつつ,短期資金信用や商業信用の分野では銀行業の位置が大きなものとなっ ていったのである24)

十九世紀初頭においては,小規模の地方発券銀行が,地域における産業革命の 強力な推進を背景に群生しており,その数は数百を数えたと言われる。こうした 地方発券銀行の発行する小額の銀行券は,賃銀支払い,農民への貸付などに用い られ,金を産出しないイギリスにおけるネックとして産業革命期に見られた鋳貨 不足を補いつつ機能していた。他方で,金匠銀行家から発展したロンドンの預金 銀行も,当時形成されて来た割引金融市場と相候って活動の場を拡大していた。

これにイングランド銀行が加わり,十九世紀初頭においてはこれら三系統の金融 機関が,割引市場を媒介にして機能的に分化した組織的銀行構造を形成し,都市 業地域と地方農村地域との資金の需給不均衡の調整を行いつつ,産業革命を支 えながら成長していたのである。

しかし地方発券銀行は,そもそも規模の小さいものであり,群生という仕方ム 発券銀行取引を通じて相互に緊密に結び付くことで,その活動の制限性と局地性

とを補ってきたのであるが)

1 8 1 0

年代には限界が現れはじめ,

1 8 2 5

年恐慌におい て,その発券銀行取引の限界性は完全に露呈した。それ故以降

1 8 4 4

年のピール条 例に至るまで,銀行制度改革の論議と実行とが繰り返し行われることになる。こ うした中で生みだされてくる銀行制度の発展は,株式銀行化とイングランド銀行 への発券集中化であった。

1 8 2 6

年以降に設立される地方銀行は次第に預金銀行化 の方向に向かい, 三十年代にはロンドンにも専業の株式預金銀行が設立されて行 ったのである。

こうした地方株式銀行の設立とロンドンの株式預金銀行の形成・発展によって,

三十年代 四十年代においては大きな諸変化が生まれてくる。第一に為替手形流 通の増大と地方銀行券流通の減少である。またイングラン ド銀行券がこの頃から 地方銀行の第二次準備金として滞留する傾向にあり,代わって小切手流通が普及

しはじめる。第二に金融機関相互間の機能の変化である。三十年代以降地方銀行 の数は減少しその活動は預金銀行業務に重点を変えて行く。それに伴って金融 機関の問の機能連関は次のように変化して行くのである。すなわち,地方株式銀 行で割り引かれた手形は仲買人を介してロンドンに持ち込まれ,割引商会で再割 引されるが,この資金はロンドンの預金銀行によりコールの形で提供されるよう になるのである。またロンドン預金銀行のイングランド銀行預け金は増大して行 った。第三にイングランド銀行の中央銀行化の進展であり,

1 8 2 5

年恐慌を契機と してこの動きが本格化する。イングランド銀行の地方支庖開設に伴ってイングラ ンド銀行券の流通は地方ヘ展開して行くと共に,地方銀行の発券業務が制限され て行った。これによってイングランド銀行券は預金通貨の支払い準備に転化し,

圏内流通に関する限り現金と看倣されるようになって行く。この傾向は更に進み,

i 1 8 3 3

年の条例」においては五ポンド券以上のイングランド銀行券に法貨なる資 格が賦与されるまでに到るのである。イングランド銀行は四十年代までには中央 銀行としての体制を整備しs預金銀行に対しては上位に立ちこれを管理・統制す

る機能を有するようになるのである。

以上の銀行制度の発展は,端的に言えば,

i

地方発券銀行の胎内に未分化に統 ーされていた発券銀行取引と預金銀行取引とが,産業革命の進展による産業構造 のファクトリ化への飛躍を背景に分化し自立化し,そして外化され,前者はイン グランド銀行に吸収され,後者は株式銀行に摂取されるという方向で発展し,近 代銀行制度の体系が完成されて

J

25) 行くものであろうが, 三十年代から四十年 代は,こうした動きの創期を示すものである。かかる銀行制度の発展・整備に伴 って,廃大な貸付資本が形成され,それらは産業資本との一層緊密な結びつきを 要求して行く。しかしこの近代的銀行制度の形成は,その発織が

1 8 2 5

年恕慌にあ ることからも判るように,産業資本の経済過程支配の手段として利用される反面,

激しい循環性の過剰生産恐慌ともますます深い関連を有しつつ発展して行ったの である。次に周期的恐慌について概観してみよう。

(四

J 1 8 2 5

年の一般的過剰生産恐慌は,それ以前のいわゆる「過渡的恐慌」とは 異なり,まさに 「近代的恐慌」の名に相応しく,その影響は深刻でありまた広汎 であった。それは資本市j生産に内在し,それから縦れることのできない固有の体 制的な根拠に基づく,自然かつ必然的な恐慌であった。実際この近代的恐慌は資

(9)

本制生産の発展に不可分であり,

1 8 2 5

年の後,

1 8 3 6

年,

1 8 4 7

年,

1 8 5 7

年,

1 8 6 6

年 と,ほぽ十年の周期を以て,また凶暴さと広汎さとをますます拡大させっつ,資 本制社会を襲ったのである。恐慌はまず銀行の破産に始まり,商業および産業資 本を破局に追い込み,企業は倒産するか生産規模を極端に縮小しまた労働条件を 悪化せしめ,そして街頭に大量の失業者の群を放出するのである。それは労働者 にとっては,貧困と奴隷状態、そして道徳的墜落を必然的に惹起せしめるものであ った。しかし恐慌は同時に新たな生産力段階への飛躍でもあり,より大規模な機 繊化と人間的労働の単純化の進展である。機械制大工業の発展とともに進む労働 の単純化は,男子の熟練労働を単純労働に置き換え3 更に男子労働に代えて婦人 労働および児童労働の採用に向かつて行く。労働条件および生存条件の悪化と共 に2 組織され訓練された労働者の大軍が生みだされ,近代的な階級対立が芽生え て来る。工業化の急速な進展である三十年代 四十年代を他面で特徴づけるのは,

階級闘争の激化である。

三十年代以前にも労働者の反抗運動は,例えば機械打ち壊し運動のような形で 現れていた。しかしそれらは決して組織的ではなく局地的であり,またー撲主義 的な線相を呈していた。階級的自覚に基づいた組織的な労働運動は,

1 8 3 2

年の

「第一次選挙法改正」の不徹底さへの抗議を契機として大きく盛り上がって行っ た。この法案は「ブルジョア階級を含む中産階級にまで選挙権を拡大することに よって彼等を国制の枠組に取り込み,かくすることで新しい工業化社会に向かつ て従来からの地主階級の政治的支配を維持・強化していくことを意図したもの」

b) であったが,法案成立は上院の反対により危機に陥った。これに対し,ブル ジョア階級は,

T .

アトウッドにより領導されるバーミンガム政治同盟を中心に,

労働者階級をも糾合して,法案支持の広汎な運動を展開して行った。他方労働者 の急進的部分は,全国労働者階級同盟を組織し普通選挙と秘密投票とを要求し て激しい闘争に入って行ったのである。こうした二極に分裂した運動は,

1 8 3 8

年 には3 パーミンカoム集会において,ロンドン労働者協会とパーミンガムの中産階 級急進派の合同をみる。人民憲章こそ人民に彼等の劣悪な状態からの救済手段を 与えるものである,という立場から全国的な運動に発展する,いわゆるチャーテ

イスト運動の成立であるZ7) 。チャーテイスト運動はその後,

1 8 3 9

年および

1 8 4 2

年にはゼ、ネラル・ストライキを含む大衆的運動にまで発展するが,欧州大陸に革

命の波が広がる

1 8 4 8

年を転期として急速に衰退して行くのである。

このように,三十年代 四十年代における急速な工業化と周期的恐慌,および それに付随する労働者階級の貧困の激化によって,労働者階級の史上初めての大 規模な政治闘争が昂揚したのである。こうした階級闘争の激化は,イギリスに限 らず大陸においてもまた発生した。マルクスが三十年におけるイギリスおよび大 陸の状態を表現した次の文章はあまりにも有名である。

r

労働者から取り上げた 獲物を産業資本家となまけ者の土地所有者との問にどのように分配すれば,蓄積 のためにいちばん役立つか,という学者仲間の議論ふ七月革命の前では鳴りを ひそめた。それからまもなく,都市プロレタリアートはリヨンで警鐘を打ち鳴ら し,農村のプロレタリアートはイギリスで焼き打ちをした。海峡のこちら側はオ ーエン主義が,あちら側ではサン・シモン主義やフーリエ主義がはびこった

J

8) 

1 8 3 0

年の七月革命から

1 8 4 8

年の二月革命に到る時期は,大陸における革命 気運が昂揚する時期である。しかしこうしたイギリスおよび大陸における労働者 階級の政治闘争ふ産業資本の支配確立の前に敗退し,工業化の波に呑み込まれ て行ったのである。

しかしかかる時期にフランスにおいて発展する社会主義思想については,ミル との関係で見逃し得ない点である。ミルは

1 8 2 0

年,十四歳の時にフランスヘ旅行 し,その際,父ミルの親友であったJ.B.セイを訪ね,そこでサン・シモンと遡返 している。この時以来ミルは大陸の思想に深い興味を持っていたと恩われるので あるが, しかしこの時にはまだサン・シモンの思想、には触れていない。その後

1 8 2 6

年にサン・シモン主義者のギュスタブ・ダイタクールと知り合い3 彼を介して サン・シモン派の影響を受けて行くのであるが,ミルはそこからフランスにおけ る社会主義の諸思想に触れ,それを批判しながら将来の社会組微についての思想 を形成して行くのであるZ町。

かくしてミルが眺めた三十年代 四十年代は,産業資本の支配の確立に伴って 噴出した資本制生産の内的諸矛盾が,極めて鮮明な姿で現象した時期であったと 言うことができょう。それは古典派経済学が頭に怖いていた予定調和的世界の破 綻を意味するものである。イギリスにおいて支配的地位を占めていたリカード派 経済学においてもまた,資本制生産の内的矛盾が生みだす景気循環,失業と貧困,

社会主義といった諸問題に答えるための武器は余りにも貧弱なものであった。こ

(10)

うした新しい時代にョ新しい問題に,新しい諸見地を取り入れて対処し,世の信 頼を失った経済学を再建すること, これがミルに課せられた仕事となったのであ る。しかし新しき酒は新しき革袋に盛られなければならない。この新しき酒を,

吾々はミルの静態論と動態論との峻別に見たいと思う。それを盛る新しき革袋と は如何なるものであったのか。ここに目を転じてみよう。

〈三) 社会認識の方法と「社会静学」および「社会動学」

(ー)ミルの『経済学原理』が「社会哲学に対するそれらの若干の応用 (wi

t h   s  o m e  o f   t h a t  a p p l i c a t i o n s   t o   S o c i a l   P h i l o s o p h y ) J

なる副題を有していること

は衆知の通りである。ミルの経済学の特徴である,経済学は静態論と動態論とを 区別して論ずべしという主張が,この社会哲学と深く絡められてのものであるこ とは,従来よりの諸研究が充分明らかにしてきた処である。例えば荒牧正憲教授 は次のように言われている。

i

経済学を r社会哲学』とからめて位置づけ,また 経済的諸現象を静態と動態、に分けて論ずる必要があるというミルの主張のなかに,

経済学ないし資本蓄積論にたいするかれの基本視角が表明されていることにな る

J

30) 。何故ミルは社会哲学をかくも重視するのであろうか。また社会哲学に よってミルの静態・動態、峻別論は如何なる性格を以て位置づけられるに到るので あろうか。まずは r経済学原理』の中に訊ねてみよう。

ミルが『経済学原理』を書く必要を感じた理由は,当時支配的であったリカー ド派経済学に対する世間からの信頼の喪失にあったことは想像に難くない。彼ら の理論装置は,周期的怒慌および失業と貧困という問題に対処するには余りに旧 く,それ故将来社会への展望も何等打ち出しえないものであった。こうした経済 学の現状に対し,ミルは『経済学原理』の「序文」において極めて興味ある叙述 を行っているo ミルは従来公刊されている経済学の諸著書には,近年論じられて きた諸問題,すなわち通貨問題,外国貿易の問題および植民問題についての論争 が生みだした新たな思想およびその思想の応用が,何等反映されていないと批判 しつつ, しかしにも拘わらず, 『経済学原理』の主たる目的はこうした不備を補 うことにはないと断言する31) 。ミルの指摘する,現状の経済学に欠如する諸論 点が3 信用および金融問題と貿易および植民の問題である点は興味深いが,それ は措くとしても,ミルが現状の経済学の限界を明確に認め,彼等とは異なる新し い経済学の確立を構想、している点は注目に値しよう。後述するように3 ミルもま た現状の経済学と同様, リカード経済学の深い薫陶を受けている。ではミルは彼 等の出自たるリカード経済学にまで立ち戻り,再出発を企図するのであろうか。

そうではないとミルは言う。

I

この著書(ミル r経済学原理』 一 一 引用者)の 構想、は,アダム・スミスの著作の後にイギリスに現れた経済学に関する著作の何

(11)

れとも異なるものである

J

32) 。ミルが立ち戻るのはアダム・スミスである33)

。ではミルが評価するスミスの方法論的特質は何であろうか。ミルによれば,そ れが「常に原理とその応用とを組み合わせていること」でありt

i

経済学は社会 哲学の他の多くの部門と密接にからみ合って」論じられている点である34)

ミルがスミス方法論の持つ社会哲学に注目するのは,次のような理由による。

すなわち経済学が応用さるべき実際的諸問題を経済学的前提だけから解決するこ とは不可能であり,

i

経済学の応用に当たっては,純粋の経済学が与える考察と は異なる考察,それよりも遥かに広大な考察に訴え

J

35) る必要がある,何故な らそれなくしては,経済の諸原理を実地の目的に対して駆使するに,世間に対す る説得力を持ちえないと考えるからである。この方法を用いるのがスミスであり,

それ故 r国富論』は一般の読者に親しまれ得たし,また今日こそまさに,こうし た種類の経済学が要求されているのだ, とミルは主張するのである。ただ,スミ スの時代に比較して,経済学も,またスミスが決して切り縦さなかった社会哲学 も大いに進歩を遂げているのであり,その意味でスミスは旧くなったのである。

それ故ミルは r経済学原理』において, 『恰も彼(スミス 一 一 引用者)が社会 の経済現象をその当時の哲学に関連させて見事になし遂げたように,それを現代 の最良の社会思想、に照らして説明するという試み

J

3b) をなそうとするのである。

ミルは当代のスミスたらんと志したのである。

さて,以上のミルの発言から,社会現象を捕捉するミルの視角が重層構造を持 つことは明らかであろう。ミルはいわゆる経済学的分析の視角を軽視するのでは ない。しかし彼は同時に経済学的分析の不充分性を指摘しそれを評価すべき更 に広大な考察視角を,社会哲学の視角として呈示し強調するのである。社会現象 を捉えるこの重層的構造は果たして如何なる関連性を有しつつ存在するのであろ うか。また両視角の如何なる絡み合いが静態・動態、峻別論の視角を浮き上がらせ ているのであろうか。ミルは『経済学原理』に先立って r論理学体系』を執筆し,

社会認識の方法一般を中心に考察していた。実は社会現象を捕捉するこの重層構 造は,この r論理学体系』において与えられているのである。

(二) r論理学体系』に関しては,既に多くの研究が累積されている37) 。こう した諸研究の教える処に依れば, ミルの社会認識における中心的問題は 「帰納と 演鐸の方法の解明と統一

J

38) である。ミルがその方法論を考えるに当たって,

自然科学の方法に学び,それを社会科学に援用せんとしたことはよく知られてい る3'n。しかしそれ故にこそ3 そこには自然科学の方法にはない社会科学固有の 問題を折り込む必要もまた出てきたのである。すなわち彼は,社会認識に当たっ て経験的認識を重視するのではあるが, しかしこれの有する個別的断片的経験か ら普遍的な法則を導出する場合に存在する経験主義的陥穿を虞れ,他方において は,ある種の前提から演鐸的に結論を導出する機械論的決定論の方法的欠陥をも 認識する。それ故彼は, この帰納と演縛との高次的統一の方法に腐心したのであ

る。

衆知のようにミルの社会現象把握視角の定立は,父ミルとマコーレイとの閣で 展開された「帰納・演鐸論争」を批判的に摂取することに端を発するものである。

この論争は,政治学が演線的科学であるか帰納的科学であるかという点を巡って 関わされたものであるが,要は社会や政治の法男!とその社会を構成する人間との 関連を巡ってのものであるということができょう40) 。マコーレイの方法は, ミ ルによって「化学的ないし実験的方法」と呼ばれるものである。例えば水素と酸 素とによって水が出来るとしても,水はその合成要素とは全く異質のものであり,

水の法則自体は得ることが出来ないのであり,それは水それ自体を直接帰納的に 観察する方法によってしか得られない, と考えるのであるo この場合水は社会ま たは政治であり,合成要素は個々の人間である。すなわちマコーレイは,人間個 人の法則は社会や政治の法則とは異質であり,社会や政治の法則把握は直接政治 の現象を帰納的に考察する方法によってのみ可能であると考えるのである。

ミルはこうしたマコーレイの方法に対し,ベンサム的な原子論的社会把握の方 法に立脚して反駁を加えている。すなわち彼は社会体制あるいは政治制度を,個 々の人聞によって構成され,そうした個々人の複合的作用として制度化されたも のとして捉えるのである。従ってミルは,社会現象を個々の人間の諸行為の合成 的現象にほかならないと見るのである。

i

社会における人間は,個人の本性の諸 法則から導かれ,またそれに分解されうる特性以外の特性を持っていない

J

1) 

。彼は社会現象の基本要因に人間的現象を置き,

i

その人間現象の基底にあるも のが人間性の法則で あるとしている

J

のである4Z) 。ミルがベンサム的功利主義 に基本的に依拠していることと共に,それ畝ミルが社会認識の根抵に人闘をおい ていることに注目しておこう。しかし注意すべきは, ミルはマコーレイの発想を

(12)

完全に否定しているのではないということである。ここにミルの社会把握の独自 的発忽がある。すなわちミルは,社会現象が個々の人聞を要妻とする合成である とはいっても,その合成は個々の要素の単純な加算結果と同ーのものとして現象 するのでは決してないと考える。何故なら個々の要素の現実的合成は,それらの 諸要素が作用し反作用しつつ形成される合成であり,それ故原因の結合された結 果と,個々の原因を単純加算した結果とは,全く異質ではないが全く同質でもな

いということになるからである。

ミルはこの認識点に立脚して,かかる複合的性格をもっ社会的現象の解明には,

「まず,基本要表(現象)を観察と実験という帰納的方法によってそこに見られ る法則を把握しそれらの法則を演鐸しながら複合的現象の法則を把握

J

43) す るという方法を採るのである。従ってミルの方法は一方でマコーレイの「化学的 ないし実験的方法」を批判的に摂取しつつ,他方ではベンサムあるいは父ミルの,

一つの原理すなわち快・不快を人間行動の唯一の原理として,そこから社会現象 を導出するいわゆる「幾何学ないし抽象的方法」をも批判的に摂取しているので ある。この両方法の高次的統ーとして打ち立てられたのが上の方法,すなわちミ ルが「物理的方法」ないしは「具体的演綴法

( c o n c r e t ed e d u c t i v e  m e t h o d ) J

と 名付ける方法である。

i

具体的演鐸法」は整理して一般的に,

i

(l)まず基本的現 象についての法則を帰納的方法によって把握する。 (2)ついで, これらの法則につ いて,物理学的方法によって演録的推理を働かせ,複合的現象の法則を把握するo

(3)そしてこの法則と経験的事実との照合を試みることによって,科学的法則の定 立につとめる

J

(番号は引用者)44) ものであると言われている。

(三〕さて,かかるミル独自の社会現象把握の方法論とミルの 「社会哲学」との 関連を考えて見ょう。まず注意すべきは, ミルが社会現象考察の基底に人闘をお いていたことであり,それが,ベンサム功利主義に根抵的に依拠するものであっ たことである。周知のようにベンサム功利主義は,ス ミスの,自然人を経済人と 捉え社会を 「自然的」な経済社会と把握する,いわゆる「自然法

J

思想を,功利 の原理のもとに純化し理念化したものである。しかし ミルは,ベンサム功利主義 を批判的に継承しつつも,それとは異なる新たな認、議方法を創出せざるを得なか ったのである。けだし, ミルがかかる複雑な方法論を呈示せざるを得なかった理 由の一つは,彼が基本的にはベンサム的な原子論的世界観の上に立脚しながらも,

しかし 「人間と言うこの最も複雑な存在は,彼(ベンサム 一 一 引用者)の目か ら見ると実に単純極まりないもの

J

4S} というべンサム批判の認識を有し,その ディレンマの超克にあったのであるo ミルはべンサムの 「哲学の第一原理」すな わち「功利の原理

( P r i n c i p l eo f   u t i l i t y )   J

について次のような評価を下して いるo

「適当な解釈を施す限りはー吾々はその原理については完全にベンサムと意見 を同じくするものである。しかしながら,倫理の細目に関する正しい思索は,す べてこの原理を明確に主張しさえすれば出来るものであると考える点については,

彼と意見を異にするものである。吾々は,功利または幸福が余りに複雑なまたは 不確定な目的であって,各種の第二次的目的の媒介を備えない限りは,決して目 指すことの出来ないものであると考える。このような第二次的目的に関しては,

究極の標準について意見を異にする人々の聞にも一致が有りえるし,また一致が あるのである。 一一一彼等は,その第一次的原理についてよりも,ベーコンの言

うように,中間的諸原理ーすなわちかの正しい媒介的諸原理

( V e r ai l l a  e t   m e d  i a   a x i o m a t a )

について一層容易に一致するようになる。 一一… 要するに,功 利を基準として採用する人々は,諸々の第二次的原理に拠らない限りは,正しく それを適用することはできない 一一一‑

46)

ミルは功利主義の「第一次的原理

J

~こ対して 「第二次的原理J あるいは 「媒介 の原理」ないしは「中間的諸原理」の必要性を説いている。

i

第一次的原理」は

「第二次的原理」によって始めて適用することが可能となるというのである。 ミ ルが社会現象把握の根抵におくのが, この「第一次的原理」たる 「人間性の法 則」であるが, しかしそれはベンサム的な意味での 「第一次的原理」とは事縦し, 単なる人間の快苦を以て現象の判断基準とするものでは既になくなっているので ある。ではこの 「人間性の法則

J

は如何に認識されているのであろうか。

ミルによれば, この「人間性の法則」は観察と実験とによって帰納的に把握さ れるものであり,この把握に導くものは 「心理学

( P s y c h o l o g y ) J

である。 ミル はこの 「心理学」によって孤立的人間の心理的現象をまず把握せんとする。しか しこの人間の心理的現象把握には困難性が存在する。何故なら,人聞は一定の歴 史的時点において捉えても それぞれに固有の環境条件を持ち,また多 くの観念 の中に存在しているからである。そこでミルはこの困難性の打開のために,今度

(13)

は 「性格学

( E t h o l o g y )J

を持ち出すのである。ミルは言う。

「人間の精神の各状態精神の諸能力ないしは感受性は,人生過程のなかで遭 遇するすべてのものによって,一時的にせよ,永久的にせよ,変化せしめられる ものである」。しかし「各個人は,他の個人の環境とは異なった環境にあり,ま た各国民もしくは各世代は,他の国民もしくは他の世代とは異なった環境にあ

る」。従って「こうした相違は,いずれも異なった型の性格を形成するのに影響 を及ぼしている」のであり,それ故そこにおける多様な環境にある人間の思考や 行動は実験や経験的考察だけでは把握しえない。しかし「人聞は一つの普遍的な 性格を持つてはいないが,性格の形成に関する普遍的な法則は存在する

J

47)

ではこの「心理学」と「性格学」とは如何なる関連にあるのであろうか。ミル は「性格学」の性格を次のように述べている。

「性格形成の法則は,簡単に言えば,精神の一般的法則から結果した誘導的法 則である。ある一組の事情を想定し,この事情が性格形成に与える影響は,精神 の法則に従うとき,如何なるものであるかを考察することによって,右の精神の 一般的法則から,この性格形成の法則を演縛するのである

J

48)

ミルは「性格学」を「誘導的法則jと言っている。また別の箇所では,それは

「精神の科学の中間の原理,すなわち媒介原理J4'H であるとも言っている。す なわちここでミルの言う「性格学Jとは,精神の科学に対して,その一般化を指 向するものではなく,あくまで「媒介原理」に過ぎないのである。ミルは「最低 の一般化は,それを帰納している中間原理に分解され,それによって解明される までは,経験法則特有の不完全な性格しか持たない

J

50) と観るのである。

この 「中間原理」あるいは「第二次的原理」が3 ミルにあっては「性格の形成 に関する普遍的法則」として把握されるものであることは,既にミルの文言に確 認したところであるが, これこそ,現実的社会において,個別的・特殊的諸個人 の具体的行動を社会的な判断の可能性にまでもたらすものであるにほかならない。

ミルが 「性格の形成に関する普遍的法則」の存在を確証する根拠は,彼がコント から学んだ二つの種類の社会的経験的法則である。すなわち一つは 「共存の費一 性」であり,いま一つは 「継起の膏ー性」である。 ミルは前者を力学のおける均 衡の条件ないし生物学における有機的組織の法則に相当するものであり,また後 者は力学における運動の条件ないし生物学における生命の法則に相当するのもと

している。この二種類の法則の区別は,オーギュスト・コントに依拠するもので あり, ミルはコントに倣って前者を「社会静学

( S o c i a lS t a t i c s )   J 

,後者を

「社会動学

( S o c i a lD y n a m i c )   J

と名付けている。ではこうした 「媒介原理」に よって, ミルの「人間性の法則」は如何なる性格を賦与されるのであろうか。

(四)上の二つの社会的経験法則に照らせば,

r

具体的演鐸法」は「社会静学」

に相応したものであると言うことが出来る。ミルは「社会静学」を 「社会統合に おける安定条件を確かめるもので

J

r

社会有機体の種々異なる部分の間に存在 する共感

( c o n s e n s u s )

の理論であるJ51)と言っているからである。彼は基本的 にはベンサム的な原子論的世界観に立つのであるから,そもそも社会を有機的存 在として固体に優先させる考えを採らないのであり,従って社会的有機体把握に は,個々人間の共感が必要とされるのである。従ってこの「社会静学」において 機能する「媒介原理」は,一定の同時的な歴史的時点において存在する共感を前 提にしており,それ故それは特殊的・歴史的な性格を有するものと考えられてい るのである。ミルのいう「人間性の法則」は,この特殊歴史的な「媒介原理」を 以て始めて確認しうるものとなるのである。

かくしてこの「共存の費一性」において,社会現象は一定の共感のもとに普遍 化され「人間性の法則」に還元され,社会現象の科学的把握のための判断基準が 形成されることになる。それ故,こうして「媒介の原理」によって認識にまでも たらされる「人間性の原理jは,媒介する「多元的な『第二次的原理』のなかに 具体化され,そうした多元的な r第二次的原理』を包含する内容にまで拡充され,

そこから抽象化された理念的なものとなっている

J

5Z> のである。

では「社会静学」に対する「社会動学」とは如何なる認識方法を要請するもの であろうか。ミルは言う。

「要因の結果であるところの諸現象問に見られる共存の費一性は,これらの現 象が現実に決定される因果関係の法則から推論されなければならない。それ故に,

社会の各状態の異なった要素問の相互関係は3 社会のー状態から他の状態との聞 の継起関係を規制する法則から導かれる誘導法則である。何となれば3 社会のあ らゆる状態の近接原因は,その状態に直接に先行している社会状態だからである。

それ故に,社会科学の根本問題は3 社会のある状態、が,それに継起してそれにと って代わる状態を生ずるための法則を発見することである

J

53>

(14)

ミルは,ここでは,先行する諸世代やそれらの環境条件の多様な影響を問題に し 「社会静学」すなわち「斉一性の法則」はョ 「社会動学」すなわち「継起の 要一性Jの「誘導法則Jであると言う。

I

社会静学」を「誘導法則」として導出 されるこの「社会勤学」の方法を,ミルは「具体的演鐸法」に対して「逆の演綴 法

( i n v e r s ed e d u c t i v e  m e t h o d )   J

と名付けている。

さて1

I

具体的演鐸法」に対する「逆の演鐸法」の関係はどつなっているので あろか。ミルは「歴史は社会の経験法則を示す

J

ものであるから,それらの法則 は,

I

人間性の法則と結合

J

されなければならないと言う。何故なら,歴史的継 起の法則は極めて多種多様な諸部分により構成されている故に,人知により算定 することが不可能であるからである。ここに「具体的演鐸法」が適用できない分 野があり,

I

逆の演鐸法」が呈示されねばならない理由がある。ミルは歴史的時 間的な変化を,

I

社会的環境が一一一人間という存在者を形成し

J

,また「人間 という存在者が環境を一一一一一形成するJという作用・反作用の相互性を以て捉 え,そこに「循環

( ac y c l e ) J

と「進歩

( ap r o g r e s s )   J

というこ面性を認める

54) 。注意したいのは,ミルがここで「人間性の法則と結合」するという場合に,

この「進歩」を強調していることである。すなわち

I

r人間性の法則』は,ここ では『進歩

( ap r O g r e s s )  

Jと結びつき,人間性の成長という性格をもたされる

ことになっている

J

55) 点である。荒牧教授が指摘されるように「ミルのいつ

『人間性の法則』は,一方では経験的歴史的な法則である第二次原理のなかにそ の具体的な存在理由をもち,他方では人間的進歩の見地から導かれたる誘導法則 によって r第二次原理』として維持され, さらに人間的進歩の見地によって止揚 される内容をもたされる

J

b) 性格のものである。

(四)むすびに代えて

以上見てきたように, ミルがべンサム功利主義を批判的に摂取し,更にコント の歴史主義をも批判的に継承して打ち出した社会科学の方法論こそ, I具体的演 緩法」と「逆の演鐸法」であった。それは特殊歴史的な 「第二次的法則」によっ て具体化される「人間性の法則」を価値判断の基準としてもち, さらにそれを人 間的進歩の観点から歴史的な発展の位相にもたらされるものであった。彼はこれ

らを学的に区別し前者を「社会静学」後者を「社会動学」に位置づけた。

I

社会 認識の視座に『具体的演鐸法』をくみ込むことによって,ベンサム的功利主義の 狭い視野が拡大され,社会現象を捕捉する多面的なミルの認識分野が開け ー

,また『逆演鐸法』の活用によって,そうして獲得された経験的諸知識は.人間 的進歩という未来展望との関連において歴史的規定性をあたえられ,背景を越え である種の活力をもっ分析視角を提供した

J

57) のである。ではこうした新しい 方法の下に経済学は如何に位置づけられ,如何なる構成が構想されるのであろう か。

ミルは『経済学原理J

I

緒論」において,経済学の対象および方法について次 のように言っている。まずその対象について日く,

「人類の種々なる部分の状態には,富の生産および分配において著しい差異が あるのであるが, これらの差異には,他のあらゆる現象と同じように,必ずいく つかの原因があるに違いない。そしてその原因として, 自然法則および物理的技 術に関する知識の程度が時と所の異なるに従って異なるということのみを挙げる のは,十分な説明となるものではない。このほかになお幾多の原因が働いている のである。しかも物理的知識の進歩やその不平等な配分そのものも,富の生産お よび分配の状態の原因であるとともに,一部はまたその結果でもあるのである。

/諸国民の経済状態が,物理的知識の状態によるものである限り,それは物理的 諸科学およびそれに基づく技術上の問題である。しかしその原因が道徳的ないし 心理的原因にして,制度および社会関係または人性の原理に依存する限りにおい ては,それの探究は物理的科学に属しないで,道徳的科学ないし社会科学に属し,

いわゆる経済学の対象をなすのである

J

58) 

ミルは,富の生産および分配における国民的差異を問題としその原因に自然 科学的知識および技術の発展程度と並んで「制度および社会関係または人性の原 理」を挙げる。勿論3 経済学の対象は後者であり,物理的条件についての根拠は

「物理的科学または一般的経験に譲るということを断って,これを仮定する

J

9) のであるが, しかし注意すべきは,この物理的条件が,富の生産・分配状態、

の原因であるだけでなく 「またその結果でもある」ことが指摘されており,その 意味では経済学の対象から除外されるものではないと考えられていることである。

すなわち,自然科学的な知識それ自体は経済学の対象たりえないのではあるが,

(15)

そうした知識を生みだす環境は,これを経済学的探究の一部として取り込んでい るのであり,それ故,自然科学的進歩の,社会的諸制度に基づく相対性を明確に 認識しているのである。

それ故,経済学の方法については次のように言うのである。

「経済学は,このような外的自然の諸事実と人性に関する諸真理とを組み合わ せ,以て第二次的法則を,または富の生産を決定しまたその中に過去ー現在の 貧富の差の説明と,将来用うべき富の増加の根拠とを蔵しているところの法則を,

尋ねようとするものである」 ω}

経済学の方法は,自然科学的対象と「人牲に関する諸真理

J

すなわち「人間性 の法則

J

とを組み合わせてー生産の法則および,過去および現在の貧富の差すな わち分配の法則を探究し,更に将来における富の増加の根拠を考察するものであ ると言っている。生産の法則を自然科学と絡めて,客観的に補足する姿勢である。

しかし同時のこれが「第二次的法則」であるとも言っている。ミルが「第二次的 法則」という意味については,既に多言を要すまい。すなわちミルが社会現象の 根抵に認め,同時にそうした社会現象の判断基準として置く「人間性の法則」を,

具体的に措定する多様な諸分野の一つがこの経済学であるというのである。

しかし吾々は, ミルが「人間性の法則」と絡めて問題とする「第二次的法則」

が,

i

社会静学」と「社会動学」とに二重に位置づけられる性格のものであるこ とを既に見てきた。ミルの社会認識の方法は過去および現在に止まることを得ず,

その考察は将来にまでむ向かわざるを得ないものであった。吾々が目下問題とす べき静態・動態、峻別論が,かかるミル固有の社会認識の方法と 「社会哲学」とに 規定されてのものであることは容易に理解しうるところであろう。ミルの経済学 に対する基本的姿勢と,静態・動態峻別の方法論的意味は一応了解しえた。いよ いよその内容に分け入る段取りである。

1 )門auriceDobb

Theories of  Value and Distribution since Adam Smith

, 

Ideo  rogy and Econimic Theory,Cambridge University Press,1973,p.122.邦訳 rf面 植と価格の理論』新評論, 1976年,146頁。

)出口勇蔵「社会思想史上のジョン・ステュアート・ミル

J

(rミル研究』未 来社, 1976年所収), 105頁。

3 )溝川喜一

i

J. 

S .  

ミル

J

(r経済学史講座 1J有斐閣p 1964年所収),257 頁。

)シュムベーターは『経済学発展の理論』において,彼の経済学方法論をミル との異同を意識しつつ叙述している (J.A.Schmupeter,Theorieder制irtshaftl i  chen Entwicklung,2.Aufl.,1926,p.86.邦訳 r経済発展の理論』岩波書庖, 1937  年,132‑‑133頁)。また『経済分析の歴史』においては更に詳しくミルの静態論

と動態論との関連について説き及び,次のように言っている。

I

アダム スミス 以来,イギリスの r古典学派』の大部分は静態的状態 (Sta t i onary S ta te)とい う用語を周いた。しかし彼らのいう静態的状態とは,経済過程の一つの現実的事 態を指しているもので,彼らは将来のいつかはこれが具体化すると予期していた。

‑ここでわれわれが関心を寄せているのは, これとは異なる種類の静態的状 態である。すなわち将来において現実化するような静態的状態ではなくて,ただ 単に準備的研究の目的のために,変化をしない経済過程において観察されるであ ろうような経済現象のグループを孤立化するのに役立つ・ 一個の概念上の構想な いし分析用具たるに過ぎないものである。こうすることの方法論的重要さを明示 的に認識した最初の人は,ジョン・スチュアート・ミルであった

J

(J.A.Schmup  eter,History of  Economic Analysis,1954,pp.562 ‑‑563.邦訳 r経済分析の歴 史』岩波書庖, 1957年,1183頁)。

5 )Karl  Marx,Das  Kapital 1 ,Marx‑Engels‑Werke,Bd.23,S.15 ‑‑16.邦訳 r資本 論』第一巻,大月全集版,23巻,10頁。

6 門)arx,DasKapital ill, Marx‑Engels‑Werke, Bd.25,S.25.邦訳 r資本論』第三巻, 大月全集版,25巻,1064頁。

7 )J.S.Mill,Autobiography,Collected Works of  John Stuart門i1 ,1Vol. 1 ,Uni  ers i ty  of  Tron to  Press, 198 ,1 (以下 Ab.と略).邦訳 rミル自伝』岩波書庖,

(16)

1960年。尚, ミルの思想、形成過程の優れた研究として,山下重一 rJ. 

S .  

ミル の思想形成』小峰害応, 1971年,同 rJ.  S.  ミルの政治思想』木鐸社, 1976年 カくある。

8 )J.S.Mill,Ab.,op.cit.,p.49.邦訳,49頁。

19)吉岡,向上書,133頁。

20)村岡健次・川北稔編著『イギリス近代史』ミネルヴァ書房, 1986年,121頁以 降参照。

21)村岡・川北,同上書,133頁。

9 )ibid.,同上。 22)E.J.ホブズボーム r産業と帝国』未来社, 1984年,127頁。

10)David Ricardo,On  the Principle of  Political  Economy,and Taxation, 1817, 23)杉原四郎『イギリス経済思想史』未来社, 1973年。殊に第二章を参照。

The Works and Correspondence of  David Ricardo,Cambridge University Pres  24)銀行制度の発展については,高木暢哉編『銀行論』有斐閣, 1975年,殊に第 s, 1951‑55, Vol.  1 .邦訳『経済学および課税の原理J,リカード全集 1,雄松堂 5章に依った。

害応,1972年。 25)高木編,同上書, 78頁。

11)J.Mill,Elements of  Political  Economy,1820.邦訳 r経済学綱要』春秋社, 26)村岡・

J

Il北『イギリス近代史』前掲書,136頁。

19:何年。 27)チャーテイスト運動については,古賀秀男『チャーテイスト運動の研究』

12)J.S.Mill,Principle of  Political  Economy,Collected Works of  John Stuar  (ミネルヴァ書房, 1975年)に詳しい。またホブズボーム rイギリス労働史研 t M i 1 ,1Vo 1.  II, 

m

, 1965, (以下 Pr.と略). 邦訳『経済学原理J(1)‑‑(5)岩波文 究J (ミネルヴァ書房, 1968年)も参照されたい。

庫, 1959年。 28)Marx, Das  Kapi tal  1, a. a. 0,・S. 622"'623.  r資本論』第一巻,777頁。 13)J.S.Mill,Ab.  op.cit.,p.137ff..邦訳,119頁。 29)四野宮 rJ.  S.  ミル体系序説』前掲書, 23頁。

14)ただし, ミルが1844年に刊行する r経済学試論集』は, 1825年に発足し,後 30)荒牧正憲「ジョン・ステュアート・ミルの資本蓄積論J(高木暢哉編 r経済 に「哲学急進派Jへと成長してゆく,グロート邸での勉強会で発表されたもので 学史の方法と問題』ミネルヴァ書房, 1978年所収), 272頁。

あり,経済理論に対する,ミルの優れた直観はすでに「精神の危機」以前に抱懐 31)J.S.Mill,Pr.,op.cit.,p.xci.邦訳(1)‑23頁。 されていたのである。 32)ibid. ,向上。

15)詳しくは四野宮三郎 rJ.  S.  ミル体系序説J (ミネルヴァ書房, 1974年) 33)四野宮教授は次のように言われている。

に依られたい。

I

そうした方法がとられた背景には,当時における産業革命の完成とともに,

16)J.S.ill,ASystem of  Logic,Collected Works of  John Stuart Mill,Vol.Vll,一方で生産力の高度の発展に景気変動が随伴してきたこと,他方で市場経済が労 彊,1973, (以下 Lg.と略).邦訳『論理学体系J(1)‑‑(6)春秋社, 1949‑‑59年。 働力や土地をも物象化してようやく自己完結体をっくりあげてきたこと, ここか 17) J. S川ill,Essayson  Some Unsettled Questions of  Political  Economy,Coll  らそつした市場経済のいちぢるしい特殊性と抽象性と変動性とが, ミルにおいて ec ted  Works of  John Stuart l1i 1 

Vo 1. N, 1967, (以下 Es.と略). 邦訳『経済 注目されたためといえる。とりわけ,市場経済において,人間として労働者が抽 学試論集』岩波文庫, 1926年。これは1829"'30年に警かれたものである。そのう 象化された労働力の担い手として組み込まれている矛盾性が, ミルにおける人間 ち 「試論五

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経済学の定義について,およびこれに固有なる研究方法につい 的ビヘイビアについての理解の変革をもたらさざるをえなかったといえるし,そ て」だけは, 1836年 「ウエストミンスター評論 CWestminsterReview) Jに発表 してまたこの認識が,まさに経済学の論理装置の変革を必然化したものといえる されたが,他の部分は1844年まで未発表であった。 であろう。ここに実は, ミルをして, リカードを超えてスミスの学問的姿勢を称 18)吉岡昭彦『イギリス資本主義の確立』御茶の水害房, 1868年,27"'28頁。 揚せしめた最大の理由がある, とわたしは考えるJ CIJ.  S.  ミル経済学の若

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