著者 桐山 節子
雑誌名 社会科学
巻 47
号 4
ページ 67‑99
発行年 2018‑02‑28
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000017
沖縄の基地と地域
─ 軍用地料問題と女性運動 ─
桐 山 節 子
本稿は,沖縄県国頭郡金武町の米軍基地にかかわる軍用地料の配分をめぐる女性運 動を,フィールド・ワークと資料調査から戦後沖縄の女性史に位置づけるものである。
字金武の軍用地料をめぐる女性運動は,男性の世帯主のみにその配分資格を定めてい たことが問題となってきた。この差別的配分に対するこれまでの研究は,共同体と古 い家父長制による女性差別として議論され,基地問題1)における軍用地料問題との接 点は検討されていない。しかし,軍用地料の獲得を目指した女性たちは,地域でたた かわれた基地被害抗議運動2)にもかかわっていた。本稿の問題意識は,女性たちが女 性差別解消と基地問題を併行してたたかう行動の根はなにかにある。その議論のため に,女性運動が地域社会を内部から変えようとするものではないかという視点を設定 した。このことから基地の町の女性問題は,地域に密接にかかわる生活の問題として あることが明らかになると思われる。
は じ め に
本稿のテーマは,戦後沖縄における女性運動の歴史の一端をたどるものである。基地 の町の女性問題が,地域が受け取る軍用地料と密接にかかわり,基地維持を支える軍用 地料の利権が,日米関係や地域運動と相互に関係しつつ,どのように地域を再構成し続 けているかを検討する。
本稿における問題設定の背景には,沖縄県の歴史と戦後約 70 年間日本全体の約 74%に 当たる米軍基地が集中している問題がある。基地周辺では,女性たちが頻発する性暴力 被害に黙さざるを得なかっただけでなく,沖縄固有の家父長制や貧困にくわえて軍用地 料の利権から締め出されてきた問題がある。だが,1995 年の沖縄米兵少女暴行事件3)で 性による人権侵害が問われた後,沖縄の女性運動は日常的なグループ活動4)を通じて,基 地周辺の生活の問題,例えば,基地被害,性暴力事件を問い直すという,本土では見ら れない特徴が際立つ。
沖縄の軍用地は,沖縄戦の最中に米軍に接収されその後拡大した。軍用地の所有形態 をみると,本土では約 88%が国有地であるのに対し,沖縄では約 34%で,公有地と民有 地が各々約 33%である5)。軍用地料は基地の賃貸料である。地料は米軍占領の開始から 1952 年まで支払われなかった。1952 年から復帰前は米軍政により極めて少額の地料が支 払われ,復帰時に上積みされ,その後日本政府により支払われている。
本稿で問題とするのは,民有地部分の杣山・山林原野における軍用地料の配分にかか わる女性差別である。具体的には,戦後基地の町となった国頭郡金武町字金武(金武区 と並里区)で 1990 年代から 2000 年代中頃にたたかわれた軍用地料をめぐる女性差別解 消運動を検討する(図 1)。
この運動は,並里区では運動目標が地域団体の協議で達成されたが,金武区では裁判 に持ち込まれ 2006 年 3 月に最高裁判決が出た。裁判の結果は敗訴におわったが,2 人の 原告のみ和解を勧告され福岡高裁に差し戻された。この裁判は金武杣山訴訟といわれる もので,提訴に際し「人権を考えるウナイの会」(略称:ウナイの会6))が結成された。
ウナイの会は軍用地料をめぐる女性差別解消を目的とし,金武区の女子孫7)約 70 人で結 成された個人参加のグループであ る。金武杣山訴訟は,ウナイの会が 2002 年に金武入会団体を相手取っ て,軍用地料の配分における女性差 別を告発した裁判である。なお,並 里区の運動は金武区だけでなく伊芸 区にも拡がった。伊芸区では区行政 委員会を中心に議論され,2002 年に 並里区と同様に女子孫差別が解消さ れた8)。本稿は区の境界が曖昧で,主 に入会団体との関係で運動が進めら れた並里区と金武区の女性運動を字 金武の軍用地料問題と称し検討す る。
金武杣山訴訟は憲法,民法と女性 差別撤廃条約にかかわり,地料受領 の権利は男女の別なくあるとする原
出典: 金武町役場企画課「第 5 次金武町総合計画[基本構想]」
金武町役場,2016 年,4 頁。
図 1 沖縄県と金武町
告と,入会権で扱う財産権は,慣習として世帯主である男性の子孫に限られるとする被 告の争いとなった。字金武の運動で特徴的なことは,軍用地料の獲得を目指した女性た ちが地域でたたかわれた基地被害抗議運動にも参加していたことである。
論旨を先取りするとこの問題では,金武区と並里区の区外出身者比率や地域有力者の 方針などが論点となる。この論点を設定することにより女性を差別する地域とその家父 長的な慣習自体が,高額な軍用地料によって再編されてきたものであること,同時にこ の再編された地域が単に女性差別というだけでなく,金武区外出身者に排他的な論理を もっていることを浮き上がらせた9)。このことを踏まえ,本稿では軍用地料配分のあり方 を問う運動が,地域社会を内部から問う運動としてあることを明らかにしようと思う。
あらかじめ述べておくと,並里区が地域内の協議で入会団体会則の女性差別を解消し た詳細は,金武杣山訴訟や軍用地料問題にかかわる女性運動の研究者らにも知られてい ない。訴訟や軍用地料問題は研究者の専門分野ごとに分析される傾向があるためである。
この問題に関連する先行研究の第 1 は,女性差別と慣習の研究である。原田史緒10)は
「慣習が女性差別の温床であることはすでに国際社会の常識」とし,司法におけるジェン ダー・バイヤスについて論じている。筆者はこの点に同意する。比嘉道子11)は女性差別 に加え,原告たちが「『不労所得漬け』になり勤労意欲が減退しつつある金武区の現状を 変えようとしない男性への怒りを語り,(中略)金武区を変え金武町を変えたいのである」
という視点を提示している。しかし,地域社会が軍用地料という利権を堅持するために 女性差別を継続してきたことが,区外出身者(=よそ者)への排他性を強めながら地域 を再構成してきたという側面に言及していない。
よそ者への排他的な対応は金武杣山訴訟以前12)にもみられた。その排他性は地域の活 性化を停滞させたばかりでなく,融和的な立場にも影響を及ぼした。それゆえ字金武の 女性運動を検討する際に,軍用地料の利権構造がどのように地域を再構成し続けている かという視点を持たない限り,問題の全容を明らかにするには不十分と思われる。
第 2 は,軍用地料にかかわる研究である。来間泰男13)は,金武杣山訴訟と軍用地料に ついて「マスメディアでは,ほとんどもっぱら『女性差別』問題として取り上げられた。
(中略)勤労に基づかない,棚ぼたのカネがそこら中にばらまかれていると言うことを異 常と感じていない。(中略)しかもこのカネは,ひたすら軍事基地を維持したいという『積 極意思』を育てている」と論じる。彼は入会団体の軍用地料の使途や,入会団体が基地 維持の利権構造を形成していることに注意喚起する。この指摘に筆者は同意する。しか し,ウナイの会が基地の利権構造に入ろうする一方,基地被害抗議運動に参加し地域を
変えようとしていたことを来間は言及していない。
上記の 2 分野における先行研究は,戦後に基地の町となった地域が基地維持にかかわ る軍用地料によって女性差別を再編・強化したばかりでなく,地域をいかに再構成して きたかを分析できていない。本稿は,基地維持によって地域が再構成される問題にかか わらざるを得なかったウナイの会は,地域をどのように変えようとしたかを検討するも のである。論点を明確にするため粟屋利江によるインドの近現代研究を参照する。
粟屋は冷戦終結後のインドで激化した慣習と宗教対立について,「1990 年代に本格化し た経済自由化の波は,貧富の差の拡大をもたらしつつあるだけでなく,インドの各層の 人々の価値観を大きく揺さぶろうとしている。(中略)今日のインドがかかえるさまざま な問題は,イギリス植民地支配の歴史を抜きにして理解できない。(中略)イギリス支配 の思想と政策,および,それらに対するインド側からの抵抗の思想と運動が,相互に作 用した結果として捉えるべき」14)と論じている。ところで字金武の女性運動の考察から,
金武入会団体が軍用地料の増額に伴い会則改正を度々行ったことによって,女性差別だ けでなく戦後金武町金武区へ転入してきた区外出身者への排他性をも強めるという地域 再編を浮かび上がらせたのである。このことは家父長的な慣習が,地域の中で自然的・確 定的に存在しているのでなく,地域内の経済的利益をも検討し再編されるといえるだろ う。ところが軍用地料の増額は,米軍基地を維持するという日米政府の政策と沖縄側の 抵抗と運動が「相互に作用した結果と捉えられるべき」ものと思われる。そのため軍用 地料問題は日米と沖縄の歴史的な関係を抜きにしては考えられず,軍用地料によって「再 構成されつつある」15)地域社会という視点が重要であり,それゆえに粟屋の論点は参照 に価する。
以上の先行研究から,本稿の目的は①金武杣山訴訟はなにを問題としていたかを考察 し,女性が軍用地料の配分から締め出されてきたメカニズムを検討する。それは,地域 における軍用地料の利権の問題点を明らかにすると思われる。②女性らが軍用地料問題 と基地問題を併行してたたかう大本はなにかを検討する。そのため,戦争直後から 2000 年代中頃までを対象に金武杣山訴訟原告グループ16)や新開地周辺でのインタビュー,沖 縄県・金武町関係の資料と新聞資料などをもとに考察する。
最後に,本稿の構成の概略を述べよう。「1 基地の町と軍用地」では,金武町の基地受 入と軍用地の形成を整理し,「2 再編される女性差別」では,字金武の女性運動から浮き ぼりになる女性差別のメカニズムを考察する。「3 地域を内部から問う女性運動」では,
女性と基地・軍隊の関係を検討し,ウナイの会がなにを問題としたかを考察する。おわ
りにでは,再構成され続ける地域を整理し今後の展望を記述する。これらの検討によっ て,字金武の女性運動が沖縄の女性史に位置づけられ,地域社会が受け取る軍用地料が,
地域を再構成しつづけていることを浮き彫りにすると思われる。
1 基地の町と軍用地
1.1 金武町の変容と基地受け入れ
金武町は沖縄本島のほぼ中央部東海岸に位置し,2015 年の町人口は 11264 人,世帯数 は 4649 戸,1 世帯当たりの人口 2.4 人,米駐留軍人は 6000-6500 人である17)。軍用地は 金武町の 60%,字金武の 80%,伊芸区の 80%を占める。なお,キャンプ・ハンセンは 2007 年から,陸上自衛隊の共同使用が開始されている。金武町予算の約 30%は軍用地料 で賄われ,行政区は金武区,並里区,屋嘉区,伊芸区,中川区である(図 2)。金武町(当 時金武村)の軍用地は,沖縄戦の最中に飛行場用地などが接収されたことにはじまる。朝 鮮戦争後には,海兵隊の基地キャンプ・ハンセン建設計画が持ち上がった。基地受入は 村会18)を中心に議論され,金武村と宜野座村の村会議員と有志は辺野古も視察している。
出典:①と②から 筆者作成。①金武町地図は, 金武町HP金武町の地図と交通 (http://www.town.kin.okinawa.jp/site/view/index.jsp最終閲覧日 2014/05/20)。
②区の境界は,「人口統計ラボ」を参照(http://toukei-labo.com/2010/?tdfk=47&city=47314&id=6 最終閲覧日 2014 年 4 月 8 日)。
注: 金武区と並里区の区界は, 曖昧なため点線とした。キャンプ・ハンセン内の金武区と並里区の区界は,資料が入 手出来ず字金武として記した。
図 2 金武町の略図
その後金武町は「<苦渋の選択>をし,金武・宜野座における本格的な米軍基地(キャ ンプ・ハンセン)建設となった」19)。
『金武町と基地』は,基地受入決定の複雑な経過について以下のように記す。「金武に 弾は落ちるけど,ドルは落ちない,(中略)演習は金武でやり,遊興は辺野古とコザ。軍 用トラックの往来で子どもたちの通学も危険だ。(中略)土地を守る四原則はどうする。
激しい議論はつきなかった。実態として演習場となっている山林の利用もできない状態 にあり,危険にさらされているばかりで,経済的には何のメリットもない現実に人々は 苦悩した。(中略)議をつくした上での結論は,新規接収を受入れ基地を誘致すること,
苦渋の選択であった」20)。基地受入の議論では主に次の 3 点に注目する。
第 1 は,島ぐるみ闘争の最中に旧久志村辺野古は基地の受け入れを行い,商業が繁栄 していたこと。しかし海兵隊の駐留については「2,3 年前から約 6000 人のマリン部隊の 金武駐留が予定されていたのが,辺野古に駐屯するようになった」21)とある。このこと からマリン部隊駐留にかかわる打診は,順序は不明だが金武町にもあったことが覗われ る。結局辺野古の駐留が決まり,演習は金武町で頻繁に行われていた。基地の受入が議 論されていた頃村長であった宜野座達雄は,「思い出」を語る22)。
金武村では一部有志の間で民政府土地課のアップル土地課長の説得に動かされ軍 用地連合会脱退,新規接収を認める,軍用地料の一括払いを認めることを承諾し基 地の建設を訴えていました。我々反対闘争を進めている者は,一部村民の希望にそっ て基地の建設がなされる筈はない,アメリカの軍事上,もっとも必要との認定によっ てしかできない,焦ることはないと静観いたしておりました。その頃,旧久志村字 辺野古では民政府土地課のアップル課長に通じ色々の建設資材を有志の方々が貰い 受けていた。金武村の一部有志の方々も,これを夢見ていたようだが,(中略)その 夢は実現しなかった。ブルドーザー二台を貰っただけで終わっている。(中略)その 他枚挙にいとまがないほど,いろいろなことがありました。闘争の連続でした。
宜野座達雄の「思い出」からは,一部の積極的な動きをした有志の人々によって,金 武村は基地受入の端緒がつくられ,すすめられていったと推測される。その推進力は『金 武町と基地』の「頼りにならない政治 欲しい基地の経済的恩恵」や下記が示唆的であ る23)。
他の軍用地と違って金武は演習のみに使用されている。(中略)演習による山林24), 原野及び農耕地に及ぼす被害は大きなもので,それだけ犠牲を強いながら,経済的 には何らの恩恵もなく住民の不満は,大きなものがある。(中略)とくに水源地が軍 用地域にあるため,水不足は極度のものがあるようで,ここ数年来水道施設を訴え ているが,未だにその実現を見ない。
水問題とは演習場内に水源地があるため,村は十分な水を確保できないというものだ。
それにかかわり宜野座村長は「政府の力では一向に実現を見ない水道に,このような動 きの原因の 1 つがある」25)と政治不信を口にする。“ このような動き ” とは,主に基地の 誘致に踏み切ろうとする行動を指すのだろう。水問題は 1955 年に米軍政に陳情書を提出 し,1957 年には住民の意向が一部受け入れられ解決を見た。水問題が解決したことから,
米軍政へ積極的に要望を出すと一定問題が解決できると判断されたのではないか。
第 2 は,当時の村経済の逼迫した状況である。「村人口 6770 人のうち軍用地地主が 1374 人そのほとんどが林産場(主として薪)に頼り,僅かに残された耕地で農業は,ほそぼ そとしたもの。村経済の逼迫は著しく,何とか軍用地域を利用しての生活建直しをした いというのが村民全体の考え方といわれる。その点駐留部隊誘致の空気は村全体の空気 といえ,問題は分担金拒否によって土地連を脱退すべきかが大きな焦点となっている」26)。 1957 年 9 月時点の金武村では土地連を脱退するかどうかを議論していたのである。
第 3 は,米軍駐留に伴い起こり得るトラブルの問題である。特に女性・子供にかかわ る性暴力事件・事故の問題だ。ところが『金武町と基地』は,この問題にかかわる金武 町住民の議論を記載していない。だが,先述したように金武村の村会議員らは辺野古を 視察している。辺野古では「古くからの集落の中に入り込んできた歓楽街で起こる様々 な治安の問題に,村当局は,住宅地と歓楽街を分離する方針で新たな町づくりの構想」27)
を進めていた。
この構想を聞き知ったため,金武町では性暴力事件・事故を一定地区に封じ込めよう と居住区から離れた松林を造成し,新開地としたのではないかと推測される。
金武町の基地誘致問題を振り返ると,沖縄が「帰属する国家はなく,住民はいかなる 主権の保護からも外され,いわばむき出しで軍事支配下に置かれていた」28)ことから,伊 佐浜や伊江島の土地収用にかかわる強権的な執行は,地域が恐怖とともに諦め感も漂わ せていたことが推測される。しかし,軍隊のもつ経済効果への期待は,大きかったとい えよう。
それは基地が完成する頃に,ドル稼ぎと性暴力被害を町内に拡散させないためとして,
キャンプ・ハンセン第 1 ゲート前に新開地という米軍人専用の遊興地を造成したことに も現れている。ところが米軍駐留にかかわる事件・事故は,新開地だけでなく基地周辺 の生活圏でも多発した。
また金武町では 1960 年前後の基地建設で急激な人口増加が起こり,金武区には多くの 区外出身者(=よそ者)が転入した。この「よそ者」として扱われた人々こそ,隣接す るキャンプ・ハンセンにかかわって登場した新開地と呼ばれる歓楽街でありそこで働く 人々だったのである。この地域の営業利益は,ベトナム戦時期がピークであった。同地 で働く女性たちは,復帰前に沖縄における離島,あるいは奄美諸島から流入した人々が 多く,またその後外国籍の出稼ぎ労働者たちも流入した。軍用地料により再編され続け る地域社会は,こうした女性たちが米軍相手の歓楽街において日常的に曝される暴力を,
隠微する役割を果たしていたのではないか。
基地維持は地域経済の振興となったが,地域に軍用地料と性暴力にかかわる複雑な緊 張をもたらし,その問題は長らく口に出さないこととされてきた。そうした中で 1995 年 に,沖縄米兵少女暴行事件が起こり,性暴力による女性の人権侵害が告発された。沖縄 女性らの抗議県民集会は世界に発信され,日米政府に留まらず,米軍基地を抱える各国 に大きな衝撃を与えた。
1.2 問題となった軍用地
沖縄県は 1899 年に沖縄県土地整理事業法が公布され,杣山の処分が行われた。金武村 では杣山・山林原野の多くが官有(=国有)となった。その後県内では,杣山の処分を めぐる政策で議論が起こり,金武村では 1903 年の時点で官有となっていた杣山を 1906 年 から 30 年年賦で県から買い取ることになった。杣山が国有地から市町村有地になったの である。このような経緯で金武町の軍用地は,多くが部落所有の杣山と山林原野である。
金武区で軍用地となった土地は,上記の支払いが行われた杣山と,金武村の公有地,区 有地(=部落有地)として登録されていた場所の 2 種類である。
前者は,1937 年に公有地として金武村に編入された地域である。その地域は 1937 年頃 公有地として金武村に編入された。そこは 1945 年に軍用地として接収された。
後者は,1930 年代に部落有地のうち公有地とならなかった杣山と里山である。その杣 山と里山は旧金武区民が沖縄県杣山特別処分規則によって,1906 年から 1935 年の 30 カ 年年賦で 8328 円を支払い29),1908 年に所有権が金武区に移転された。所有権が移転され
た杣山と里山は旧金武区民によって使用され,1945 年に米軍占領後接収された。1952 年 から少額ではあるが軍用地料が配分されてきた。旧金武区民の男・女子孫は,県への支 払いに参加した人々の子孫である。この杣山の管理・処分の権限は,米軍基地の拡大の 話が持ち上がった 1956 年に,旧金武部落民会が金武入会団体を設立し,金武区事務所か ら移管した。
並里区で現在軍用地料を扱う団体は,並里区事務所と並里財産管理会である。並里区 事務所が管理する軍用地は,杣山ではなく並里区の共有地であり,土地収用法の対象に なっていない。ただし,名義は個人である。その地区は 1945 年米軍に接収され軍用地に なった。並里財産管理会は 1982 年に設立され,上記の部落有地のうち公有地とならなかっ た区有地(=部落有地)を管理する。
上記から字金武の軍用地は,金武区では県からの買い取りに際し支払いが生じたが,並 里区の大部分は所有の変更が生ずることなく区有地として存していた。多額の軍用地料 を背景に金武入会団体と並里区事務所は,地域に大きな影響力を持ち,それゆえに両者 の軍用地料の使途は,注目される。
軍用地料は「島ぐるみ闘争」30),復帰と 1995 年の沖縄米兵少女暴行事件後に大幅に値 上がりし,毎年の軍用地料値上げ交渉もされている。そのことは軍用地料が,冷戦や冷 戦終結後もアジア太平洋・中東地域における米軍の前線基地を沖縄が担うことに支障が 出ないように支払われ,地料の金額決定が市場要因ではなく政治的要因を含むと言われ るゆえんである。
以上をまとめると,金武町が基地を受け入れた経緯は,地域経済の復興を基地に託し ていく過程に思えるがじつは複雑である。その経緯には戦前からの地域有力者が大きく かかわり,彼らが積極的に動いた様子が窺われる。基地受入は沖縄戦後全島が,軍事基 地化へと進む米軍の方針を前に,米国の巨大な軍事資本に魅せられていく様相にもみえ る。
その背景には米軍占領下に置かれたことから,地域が自力で復興を目指さざる得ない 意識が存在したのではないか。軍用地料が支払われるようになると,金武区の地域有力 者らは積極的に入会団体を設立し,基地維持を支える軍用地料の利権構造を形成してい く。基地完成頃になると,彼らは金武村役場の協力のもとに基地門前に新開地という米 軍人専用の遊興地を造成した。戦後の米軍占領と基地受け入れは,地域が基地経済と基 地維持の利権構造を形成する契機となり,再構成されていく出発点と考えられる。
2 再編される女性差別
2.1 女性たちの運動(表 1)
字金武の女性たちの運動が行われた頃,日本は好景気後の長い不況に陥った時期で,金 武町の 1 人当たりの年間所得は,全国の中で常に最下位グループに属する沖縄県の平均 を下回り,周辺の恩納村,宜野座村よりも低額であった31)。米軍再編にかかわる「象の オリ」移転や「都市型」戦闘訓練施設建設に反対する抗議32)が行われる一方,軍用地料 裁判がたたかわれた。さらに女性は婦人会などの支援を受けて,積極的に区行政委員会 などへ政治参画が進められた。この背景を踏まえ,運動に参加した女性たちの概略をみ よう。
中心となったのは 3 名である。並里区のYY(1934 年生)は高卒後基地キャンプ・ハン センで就労し,復帰後賃金が減額されたことから退職し夫と農業・花卉栽培に従事して いる。居住地は長年並里区で女子孫である。話題は豊かで,各地の文化後援会などに積 極的に参加する区婦人会会長経験者である。NM②(1936 年生)は金武区生まれで,婚 姻により並里区に転居した。彼女は長年琉球政府立病院33)に勤務し,町・区婦人会会長
表 1 金武町の軍用地料をめぐる女性運動の経過
年 入会団体会則改正の運動経過(金武・並里・伊芸区)
1990 年 並里区で世帯主でない女子孫のYYが中心となったグループは,部落の有力者と協議・指導を受け署 名活動を行い,入会団体へ請願。
1991 年 並里区で世帯主でない女子孫へ軍用地料の配分を決定。YYが中心となったグループは,部落の有力 者と協議・指導を受け署名活動を行い,入会団体へ請願, その後総会で決定。
1996 年 並里区のNM②を中心にしたグループは,軍用地料の配分を受けていた男・女子孫が死亡した後,そ の配偶者が権利を引き継ぐことを請願した。
1998 年 金武区のNM①を中心としたグループは,女子孫の軍用地料の配分を求める賛同署名を入会団体会 員へ実施。その際YYと相談した。しかし,数日で入会団体の妨害に遭い挫折。
1999 年 並里区のNM②らのグループの請願が入会団体で決定された。3 回目の申し入れで達成された。
2002 年 12 月:金武区のNM①を会長にウナイの会は金武杣山訴訟を開始。その際,NM②と相談した。伊 芸区の入会団体会則が改正され,女子孫差別が解消された。
2003 年 11 月:那覇地裁で「ウナイの会」勝訴。
2004 年 9 月:福岡高裁でウナイの会逆転敗訴 2006 年 金武杣山訴訟敗訴,一部和解(2 名)。
出典: (1)入会団体会則改正の運動経過は以下の聞き取りと資料:並里区・並里財産管理会『配分金等請求訴訟事件
−杣山・区有地裁判記録集』 2012 年から筆者作成。聞き取りは,金武区がNM①(2012 年 11 月 25 日,2013 年 2 月 3 日・5 月 18 日),並里区ではYY(2013 年 8 月 29 日)とNM②(2013 年 8 月 10 日),伊芸区はYM
(2017 年 9 月 11 日)とIY②(2017 年 10 月 8 日)。(2)沖縄県・金武町は「広報金武」と『沖縄タイムス』2005 年 7 月 12 日。 伊 芸 区 の「 都 市 型 」 戦 闘 訓 練 施 設 反 対 に 関 わ る 記 述 は,http://02.hannya1954.net/
tosigatakunren-050712 からの抜粋(最終閲覧 2017 年 8 月 5 日)。
経験者で後に区議会議員も勤めた。金武区のNM①(1933 年生)34)は,ウナイの会会長 となった。彼女はフィリピンで長女として生まれ,高卒後琉球政府立病院に就職し,戦 死した父と兄の代わりに家計を支えた。彼女は婚姻後も働き続け,幾度も転勤したが自 動車通勤で乗り切った。夫は並里区出身の元町長である。
裁判の原告グループは,戦中・占領期を経験し男性と同じように働き続けてきた人々 であった。彼女らの力は,地域を守るというより移動経験や働き続けた経験が深く関わ り,それが女性差別を許さないという運動につながったと思われる。また,彼女らの多 くは,共働きを続けてもなお経済的なゆとりが得られにくかった人びとであった35)。担 当弁護士は「彼女たちは最初から元気だったが,裁判が進む中で益々生き生きしてきた」36)
と回想した。
並里区では,入会団体会則改正に対する請願運動が 2 回行われた。第 1 は,1989 年頃 YYが中心となり,1991 年に会則改正された。内容は区外出身者を配偶者に持つ女子孫も 入会団体の正会員とし,軍用地料の配分をすることであった。これは金武杣山訴訟の主 目的であった。
請願運動の発端は 1980 年代後半に並里区で離婚した女子孫が,世帯主という理由で軍 用地料を貰っていたことであった。入会団体が女子孫差別する理由が,世帯主かどうか であったことに異議を申し立てたのである。YYらは当時並里区で長老と呼ばれていた GYに相談し,「運動をやった方が良いと言われ,どのようにするといいか指導を受け た」37)。その結果,入会団体への請願は間もなく受理された。
第 2 は,1996 年にNM②38)を中心とする請願で 3 回目の申し入れ後 1999 年に達成さ れた。正会員資格を持つ世帯主が死亡した時に,配偶者がその資格を遺族として受け継 ぐことであった。これは金武入会団体では 1956 年の設立当時から実施されている。
この請願運動でもGYが背後から尽力した。1990 年代後半並里区出身の町会議員であっ たGSは,「GYから電話で夫を亡くした人たちが生活に困っている。力になってやって くれと頼まれた。彼から頼まれて断ることは難しいからね。町議会で発言後,相談して 解決できた」39)。なお,並里入会団体の会員数は,2 件の会則改正によって急激に増加せ ず 90 年代を通じ並里区全世帯の 80%前後を維持してきた。
一方,金武区では並里区で請願運動が行われていることを聞き知った。区外出身者の 男性と婚姻した一部の女子孫は,1998 年に入会団体会則の女性差別解消を求め署名運動 に取り組んだ。しかし,それは入会団体の妨害に遭い数日で挫折した。
署名運動に失敗した女性らは,2002 年夏裁判を決意した。提訴した直接の契機は,2000
年代に入って団体の会則改正が 2 回行われ,地料配分が 18 万円(1992 年)から 30 万円
(2000 年の改正),さらに 60 万円(2002 年の改正)と,男子孫の受取額が一気に 3 倍へ 増額されたことにあった(表 2)。原告らはこの 2 回の会則改正を男子孫優位に固執する 入会団体の象徴的な姿勢と判断し,1998 年以来くすぶっていた不満が一気に高まり,裁 判を決意した。ウナイの会は当時 90 歳から 51 歳の戦争未亡人を含む 26 人が原告となり 提訴した。2006 年の最高裁判決では,入会団体会則の男子孫要件を違法としたが,会則 における慣習の正当性を認め世帯主要件を合法とし,ウナイの会は敗訴した。
判決を受け翌年会則改正が行われた。申請により世帯主である女子孫も正会員となり,
軍用地料の配分を受け取れることになった。しかし原告 26 人中 3 人が対象から外れた。
またその改正は,2006 年 5 月までの会員数が 640 人だったのに対し,2007 年は 899 人,
女性会員として 123 人の新規加入(正会員と準会員)をもたらした40)。宜野座村など近 隣の入会団体は,会則から男子孫を削除し子孫に改正した。しかし金武入会団体では,現 在も世帯主でない女子孫の加入は認められず,軍用地料の配分もない。
2.2 会員資格をめぐる争いと慣習
裁判の争点は,世帯主の男子孫という入会団体の会員資格であった。訴訟が始まった 頃,金武入会団体会則における正会員の主な資格要件は,① 1906 年杣山払い下げ当時の
表 2 金武入会団体会員数と軍用地料の推移
年 補償金金額 会員数
金武区世帯数にお ける入会団体会員 数の割合 %
事 項
1956 456 金武共有権者会設立
1961 $50 456 54 ①金武入会権者会に改名
1972 5 万円 415 37 復帰
1982 7 万円 480 33 ②「金武町条例」による金武部落民会設立 1992 18 万円 525 33
2000 30 万円 587 32.7 ①と②合併, 名称を金武部落民会とする 2002 60 万円 608 32 金武杣山訴訟はじまる
2007 50 万円 899 40 2006 年 3 月最高裁判決言い渡し。同年 5 月会則改 正。成人の男・女子孫の世帯主に軍用地料を配分。
2012 50 万円 1086 47
出典: 「共有権者会沿革誌」と金武入会権者会の聞き取りから作成(於:金武町,2013 年 2 月 5-7 日,8 月 9 日・29 日)
注 1)1961 年の会員数は 1962 年確認調査後の数 2)補償金額は会員の額 3)補償金額と会員数は「共有権者会沿 革誌」と上記金武入会権者会からの聞き取りによる。
4)金武区世帯数における入会団体会員数の割合:1956 年から 1972 年の数値は金武町役場「統計きん」の人口と 世帯数を参照した推定値。復帰以前の金武区世帯数は公表されていないため。
部落民の子孫で,かつ②世帯主である男子孫であった。ウナイの会は,1906 年杣山払い 下げの支払いに参加した旧金武部落民で,杣山等の使用収益権(入会権41)・民 263 条)を 有していた者の女子孫であり,区外出身者男性と婚姻した女性たちであった。彼女らは,
区全世帯の約 6%にあたる42)。彼女らは①に該当したが,②の要件に当てはまらず,正会 員になれなかった43)。
一方,1982 年に制定された「旧慣による金武町公有財産の管理等に関する条例」(略 称:旧慣条例)により設立された並里入会団体会則の会員資格要件は,① 1946 年 4 月 1 日以前に旧並里区に本籍を有した者の血族たる子孫で,②旧並里区に本籍を有し,かつ,
並里区に居住している世帯主であった。1991 年には会員資格を有しない世帯主の配偶者 で①の条件を充たす者が追加された44)。
金武入会団体の会則は,1956 年入会団体設立と同時に作成された45)。裁判の争点は上 記の会員資格要件に加え,ウナイの会は③女性差別撤廃条約の視点から,女性が入会団 体に加入する正当性を主張した。以上の 3 点は,憲法 14 条(法の下の平等),29 条(財 産権),民法 90 条,民法 263 条・294 条,女性差別撤廃条約にかかわるもので,入会団体 正会員の権利は男女の別なくあるとするウナイの会と,入会権で扱う財産権は慣習とし て世帯主である男子孫に限られるとする入会団体の争いとなった。判決を見よう。
第 1 の会員資格が男子孫限定であることは,那覇地裁と最高裁46)で無効とされた。第 2 の世帯主要件は,福岡高裁判決が「地方の慣習に根ざした権利であるから,そのような 慣習がその内容を徐々に変化させつつもなお存続している時は,これを最大限尊重すべ き,(中略)世帯の代表者にのみ入会権者の地位を認めてきた慣習は,不合理とはいえな い」47)とした。第 3 の女性の政治参画にかかわることは,日本が女性差別撤廃条約を批 准しているにも関わらず,最高裁は言及しなかった。なおウナイの会は,「金武部落の住 民の先祖が獲得した杣山は(中略),先祖伝来の財産による果実を,男性だけで会を結成 し,男性だけで会則を決め,そして男性だけでこの果実による利益を享受することが果 たして公序として許されるのかという問題である」48)と記した。
また離婚した女性は,旧姓に服した場合のみ会員資格を得られるという条項は違法と されたが,ウナイの会は世帯主要件を覆せず敗訴した。
次に,入会団体の会則をみよう。金武入会団体会則の最大の特徴は,地縁・血縁関係 を重視していることにある。金武入会団体は設立後,名称変更や会則改正を何度も繰り 返しその経過は複雑だ49)。2013 年現在,金武区で軍用地料を扱う入会団体は金武入会権 者会である。金武入会団体の会則改正では以下の 3 点に注目しよう。
第 1 は,会員資格要件は一貫して世帯主の男子孫で変更されなかった。
第 2 は,徐々に厳しくした居住開始要件と居住範囲の変遷である。入会団体の発足時 には「本来の土着民」で,次の改正時には「明治以前からの金武部落民」とし,1982 年 から正会員は,「1906 年杣山払い下げ当時の部落民で杣山等の使用収益権(入会権・263 条)を有していた者」で世帯主とした50)。
また最初の団体は 1961 年から会員確認作業を行ったが,居住範囲を金武区に限ってお らず,区の境界が曖昧な並里区居住者も会員としていた51)。しかしウナイの会会員によ ると,1982 年以降金武区以外の世帯主は,並里区であっても資格対象ではなかった。そ のことから原告団には,並里区出身者を優先的に選んだ。その選択が功を奏し,裁判後 の会則改正では,並里区出身者が全員金武入会団体の正会員となった。
金武入会団体が会員確認作業を行った理由はなにか。表 2 の「金武区世帯数における 入会団体会員数の割合」をみると,1961 年以降の 10 年間で金武区の区外出身者世帯比率 は 6 割を超えている。この時期は基地完成直後でベトナム戦争が激しくなった時期にあ たり,金武町に駐留する米軍人・軍属が約 8000 人規模に増加していた。金武区の区外出 身者は,新開地の自営業や基地関連労働者として転入し,増加の一途を辿り,入会権を 持つ旧区民と区別する必要があったと推測される。
第 3 は,1982 年から 2000 年までの会則改正と位牌継承52)の関係である。養子には 1956 年から軍用料が支払われていたが,1982 年に削除された。女子孫に関係する事項は,代 行権53)と特例である。代行権は 1956 年から 2000 年まで設けられた。会員の死亡時同居 していた女子孫が一代に限り,満 33 年間代行権をもつとされ,それには位牌継承が必要 であった。位牌を他に移した場合,代行権は消滅した。特例は 1961 年から 2002 年まで 効力を持ち,その内容は「女子孫で 50 才を越え,金武区域内で世帯を構え独立生計にあ る者,(中略)一代に限り会員同等の入会補償金を支給する」54)ものであった。子どもの 有無は問わない。
この時期の改正は,門中制55)を支える父系嫡男相続制にかかわる「世帯主の男子孫」
と位牌継承はそのまま残し,区外出身者となる養子のみ削除した。養子が会則から削除 された理由について入会団体では,「旧慣条例に記載がなかったためだろう」56)とする。
しかし旧慣条例は養子だけでなく,男子孫と位牌継承にかかわる事項も記載されていな い。入会団体会則改正の経過を振り返ると,軍用地料が高額になって来たことや区外出 身者の増加につれ,入会団体が居住開始時期を 1906 年まで遡り居住地区を狭め,慣習の うちなにを採用するかを検討したと考えられる。そこには,頑なに軍用地料の配分先を
拡大しないという意思が読み取れる。
沖縄女性の財産相続を振り返ると,明治民法施行後女性は財産相続から排除されてい た。そこには位牌継承など沖縄固有の慣習も組み込まれていた。新民法が施行された後 にも,時代に逆行するような慣習の強まりが行われた。それは軍用地料の支払いや,戦 傷病者戦没者遺族等援護法により女性に遺族年金が支給されるようになった頃からとい われる。それは『なは・女のあしあと』57)や比嘉政夫58)も指摘している。軍用地料をめ ぐる女性差別はこの一例といえる。
ところで既述したように,この地域の女性差別は男性対女性というだけでなく,ウナ イの会の配偶者である区外出身者,頻繁に移動する新開地の女性従業者などいわゆるよ そ者を含んでいる。入会団体では,戦前はよそ者への差別は少なく,軍用地料が発生し てからの傾向という。
金武杣山訴訟は,新興住宅地を含む新開地周辺の人々に大きな衝撃を与え話題となっ た。「金武区に住む自分たちにも権利があるのではないか」59)といわれ,金武町議会・金 武区行政委員会でも取り上げられた。その中で区外出身者には個人配分がないが,町役 場・区事務所の予算にかかわり軍用地料の恩恵を受けていることなどが確認された。
一方,1966 年に新開地地区へ転入した元女性経営者GK①は,「50 年もここで生活し ている。いつになったらこの地域の住民と認められるのだろう」と問う60)。この問いは 全ての住民が,基地被害を受ける可能性があるにもかかわらず,入会団体の居住開始条 件により,地料配分の対象に該当しないという不公平感を主張するものだろう。裁判は,
区外出身者への排他性を逆に浮き彫りにしたといえる。さらにその排他性は,後述する ように,新開地地区の性産業に従事した女性従業者などへの差別や性暴力問題をも浮き 上がらせた。
2.3 男性たちの存在
軍用地料問題は県内だけでなく金武町内でも,地域を変えようとする問題と受け取ら れず,もっぱら旧区民男女間の争い,「養豚団地建設問題と似ている」61)といわれていた。
ウナイの会は地域で絶大な力を持つ入会団体や区事務所の規範からはみ出る運動である ため,軍用地料の使途などを変更し,地域を変えようとすることが度外視され,個人の 利害にかかわる地料獲得のみが表面化したと考えられる。そのため彼女らは村八分的な 状況に陥った。ところが字金武の女性運動では,重要な 3 人の男性が存在していた。
第 1 は,先述した並里区のGY(1922-2006)である。GYは 1954 年から 25 年間 7 期,
町議会議員を務めるとともに 1978 年から 1989 年まで町議会議長の職にあった。また,
1990 年代中頃まで国政・県知事選挙では,「戦後沖縄の保守政界の中心に位置した西銘順 治(1921-2001 生)の選挙対策を担う一員となり,金武町とその周辺地域で参謀となっ た」62)。彼は 1989 年の養豚団地建設問題以後議員職を退いたが,地方自治分野では金武 町だけでなく沖縄県でも著名な人物である。その生涯は戦後,基地受け入れをはじめ金 武村・町役場の様々な局面,例えば金武町の旧慣条例制定に立ち会っただけでなく,並 里区入会団体の設立,並里区の地域づくりに深く関わった。また彼は町議会議員を退い た後も,並里区の女性たちによる 1990 年代の並里入会団体会則改正の請願運動で区の「長 老」として力添えをした。
第 2 は,金武区のNK(1933-2015)である。NKの出身は並里区で,ウナイの会会長 の夫である。彼は大卒後教員となったが,1980 年から金武町助役を 2 期務め,1988 年か ら 1994 年まで金武町長を務めた。2 期目にはリゾート開発問題63)にかかわり辞任した。
GY とは懇意の間柄である。NKは金武杣山訴訟で表に出ることはなかったが,署名運動 頃から裁判まで事務的な部面をはじめとしてNM①を支えた。彼が裁判について証言す る64)。
裁判中は裁判を中心に生活が動いていた。でも,あの運動そのものが正論だ,い ろいろ言われても気にしなかった。入会団体の役員には女子孫にはやらないという 意志があったのだろう,既得権を失いたくない人たちだった。嫌がらせや邪魔する 人がいたねえ。当事者に対する直接の応援は表に出てこなかったけど,裏では応援 してくれていた。それと,裁判後には軍用地料問題を話さない。軍用地料の配分が 平等でないので話はしないね。もらう人ともらわない人がいるので。
夫の語りは軍用地料の不公正性と地域の軋轢が示され,女性問題が男性問題であるこ ともわかる。ウナイの会はNM①にとって,パートナーと共に行動した運動であった。
第 3 は,NS③(1939 年生)である。彼は入会団体の役職者として尽力した。NS③は 大卒後金武町で教員となった。NKとは大学の同窓生で懇意である。彼は少し早めに退職 し,1990 年代後半から金武入会団体の理事,2003 年から 2009 年まで会長を勤めた。金 武区で取り組まれた 1998 年の署名運動では,女性たちに助言をした。金武杣山訴訟当時 は被告団体の会長として,裁判にかかわる新聞投稿やインタビューに答えてきた。
結審後の新聞インタビューでは,個人的意見とした上で「女性の地位や結婚の形態は
変化していて,時代の流れは肌で感じて行かなければならないと思う。会則の変更に抵 抗のある年配会員もいるが,最高裁の判決は厳粛に受け止める。会則のあり方を考える きっかけになる」 65)と述べ,その後会則改正の準備に奔走した。NS③は理事会を取り仕 切り,被告弁護団とともに会則から沖縄固有の慣習の要素を払拭し,民法に則したもの に改正した。
その会則は金武町内外の入会団体にも影響を及ぼした。さらに彼は入会団体の情報公 開を進め,持ち越されていた課題解決を進めた。NS③は裁判を振り返り,「裁判は入会 権に存する問題が,変化していく途中経過に位置するものと考えている」66)と述べる。
NS③の裁判の見解は入会権と軍用地の関係が,地域の中で今後も変化していくことを推 測させる。
3 者に共通していることは,地域で様々な役職に就き,生活相談や世話役活動を行って きた人々だったことである。そのことから彼らは,人の話を聞く懐の深さを持つ一方,公 的場面で意見の違いがあった時も自身の信念は貫く,という強さを持ち合わせていたと 思われる。また彼らは,町の公職者や教員としてのつながりを持っていた。彼らの母や 妻は,占領期・復帰後も働き続けてきた人々であった。
まとめると,軍用地料をめぐる裁判は米軍基地の集中という日本と沖縄の複雑な関係 が錯綜するもとで,地域で絶大な力を持つ入会団体が会則改正を度々行い,沖縄固有の 慣習を巧みに維持し女性差別を再編・強化してきたことを明らかにした。その差別の再 編は,地域に区外出身者への排他性が根強くあることを浮かび上がらせた。基地維持の 利権構造から締め出される女性は,利権構造が維持されていることによる弊害(女性差 別,軍用地料配分の不公平性等)を変質させようとしたものと位置づけられる。
ところがウナイの会は,基地維持の利権構造に異議を申し立て,女性の人権の拡大や,
日常生活における反基地への抵抗の意志を示す運動という要素を持っていたにも関わら ず,運動が家父長制や入会権の問題に限定するかたちで理解され,県内ばかりでなく,町 内の全女性の問題とならず,原告の孤立さえ招いた。このような運動の限界性が生じた 背景には,軍用地が「銃剣とブルドーザー」によって強制的に収用された歴史があり,「軍 用地」地権者の既得権を認めるという沖縄県内の了解があるためと思われる。しかしそ の了解は,軍用地料問題を軍用地の利権に関わるものの問題に矮小化させ,基地維持が はらむ利権構造の問題点から目をそらすことになり,全県的な関心を呼び起こしにくく させたと思われる。女性の権利獲得が,いかに困難であるかが改めてわかる。
3 地域を内部から問う女性運動
3.1 女性と基地被害抗議
沖縄米兵少女暴行事件に抗議する県民集会は,米兵による「女性への性犯罪が “ 基地問 題 ” として正面からとらえられ」67),「日米同盟を揺り動かすほどの運動」68)となった。
ところが,「基地・軍隊によって侵害される女性の人権の確立を訴える女性たちの発言は,
米軍基地反対運動の中で,基地問題,安全保障問題の矮小化だ,と男性から批判された という」69)。上記から 3 つの問題が浮かび上がる。
1 点目は,性暴力事件から日米安保体制の中で,日米地位協定が不平等条約であること が改めて問われたことである。その後の日米政府の動きは,国がさらに沖縄へ従属的な 関係を押しつけていることを確認させるものであった。
2 点目は,それまで米兵の性犯罪は「『個人的な問題』として,反基地闘争のテーマに はなりえなかった」70)ことに関係している。しかし米兵による性犯罪は人権侵害であり,
特に女性の生活上の安全問題と主張したことだ。そこには女性たちの怒り,「戦後 50 年 たってまだ苦しまなければならないのか」71)や,権利は黙っていてはつかめないと異議 申し立てする立場を見ることができる。秋林こずえは下記のように城間貴子の批判を紹 介している。
城間貴子は,日米安全保障は沖縄では,とくに女性にとっては,日々生きるか死 ぬかの問いであることを強調する。その上で日本「本土」研究者,運動家による安 全保障の言説,また女性学の取り組みが不十分であった,と批判している。「女性が,
安保,法,国家,国際法等にいなかった,というのが,安保条約と女性という視点 をもてなかったということになるのかもしれない。(中略)1995 年以降,安保そのも のが,女性に関係している,ということ,私たちには生死を分けるほどのこと,よ り深く,女性を,子供を傷つけるものなんだ,ということを沖縄の中では,付きつ けられた。沖縄の中では,95 年以降,変わらざるをえなかった,大転換だった」72)。
当時沖縄では,女性の政治参画が重要な課題となっていた。それは政治,安保条約と 女性の関係が日々の生活に直結していることを付きつけられ,女性は黙ってはいられな い,前面に出ざるを得ないと確信したといえよう。ここに本土の女性と異なる位置がみ える。なお,県民集会後に高里鈴代らは「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」73)
を結成した。
3 点目は,安保の問題を女の問題として矮小化するなという主張の背後には,安保の問 題という政治問題に比べ,女の問題は二次的なものという前提が透けて見えることにあ る。それは女性にかかわる性暴力,DV問題が,政治問題の下位に位置づけられるばかり でなく,人権問題とさえ認識されていないことを窺わせる。性暴力被害を黙する中には,
被害者の人権を無視し,被害を個人的なことにすり替えてきたことが考えられる。その すり替えが地域の中で被害を語らないという,暗黙の圧力になってきたと思われる。そ の圧力は性暴力が犯罪であることを隠すばかりでなく,逆に助長してきたのではないか。
1995 年 9 月 4 日の沖縄米兵少女暴行事件は 9 月 6 日に新聞報道され,金武町議会は 9 月 22 日に「米兵による少女暴行事件に対する抗議」74)決議を採択した。那覇市在住のIM は,決議・県民集会までの金武町は「事件が新聞報道された後,おしよせるマスコミの 対応,主に個人情報が漏れないように,被害者が自身で告発を決めたのだから,あの子 を守らなくてはいけないと町中が冷静に行動したと聞く」75)と証言する。
ところが字金武の女性運動参加者は,1995 年の事件にかかわる質問に一言も返答しな い。ただし,1996 年以後,金武町では女性の区行政委員,農業委員,区議会議員が主に 婦人会の支援を受けて誕生していった。女性が地域の役職者に参画していったことは,
「女性の権利は黙っていては掴めない」76)と言う確信を持つ女性たちが,1995 年を境に増 加したといえる。
また,原告たちは新開地女性従業者にかかわることも語らない。先述したように新開 地は,米軍人用遊興地である。新開地地区女性従業者と原告グループは,日常的なつき あいが見えず,女性従業者は別の世界に生き,地域社会と隔絶した位置にいた人々とい える。
男性であるGSは,「軍人の暴力・暴行事件は聞くに聞けないことが多かった。本当に かわいそうなことがいくつもあった。戦後,町内ではその種の事件が,1000 件を超えて いるのではないだろうか。公表されているのは氷山の一角で,当事者や地域の人々は隠 し通すことに懸命だった」77)と述べた。またMOは,「皮膚の色から出産の経緯がわかる 子供もいるが,地域の人はなにも聞かないし,なにも言わない」78)という。GSも同様に
「地域で黙ってやってきた,なにもかも足りない状況の中で自活していくため,地域の中 で見守ってきた,そうやってきたんだ」79)と証言している。
こうしたことから,地域社会が性暴力被害を拡大させないようにと新開地地区を形成 したが,性暴力事件は新開地だけでなく,基地周辺の生活圏で多数発生したといえるだ
ろう。それは裁判の原告たちが,新開地地区への差別を意識する一方,自らの経験を含 め町内全ての性暴力事件を押し隠してきたことに表れているのではないか。被害に巻き 込まれる可能性は,男女を問わず全住民にあった。性暴力事件からみると,地域の女性 間の関係は家父長的な重層構造と言い表せず,逆に語らないことが複雑な女性間のつな がりを現していると思われる。
以上から,基地・軍隊は女性に対する暴力を産み出し続ける位置にあるため,女性た ちは基地・軍隊からの被害を生活の問題として問うことにならざるをえない。安全で安 心な地域で住み続けるには,自分自身で行動し掴み取らねばならない,他人任せでは女 性の人権は守れないということに帰着したと思われる。1990 年代はこれまで地域で口に 出さないこととされてきたことに女性たちが異議を申し立て,男性主導で運営されてき た地域社会を告発した時期であった。
3.2 新たな基地機能強化に抗する−金武町の事例
1990 年代後半はSACO交渉 80)の一方,金武町では米軍再編に関連した新たな基地機能 の受け入れに反対・抗議していた。はじめに金武町の基地問題は,町内でどのように抗 議運動が進められてきたかを振り返る。1980 年代頃から運動の動き方は主に 3 種類ある。
まず,①町議会が抗議決議を採択し,町議会資料を各戸配布する,②実行委員会形式の 町民抗議集会を行う,③金武町長が抗議とその集会参加を決意するというものである。動 き方は①,②,①+②,①+②+③のほぼ 4 種類で,それぞれの通知は,区事務所を通 じ町内へ回覧などで周知されてきたようである。町内では賛同署名と多くの場合カンパ も募る81)。金武町では 1980 年代から基地被害が急増し,町議会決議をはじめとする抗議 を度々行ってきた。基地問題が長年地域の重要問題であることが,このことからもわか る。字金武の女性運動参加者は,このような地域運動の中で暮らしてきた人々であった。
1996 年以降を見よう。
第 1 は,「象のオリ」受け入れ問題である。政府は 1990 年代後半に,基地返還(ギン バル訓練場)・跡地利用計画と引き替えに,新たに機能強化する「象のオリ」の受け入れ を持ち出した。町議会はその反対決議を数回行ってきたが,結局金武町長は 1999 年に受 け入れを決定した82)。抗議運動では,前記した町内の動き方のうち①と②が行われた。当 時並里区婦人会長を担っていたNM②は,「あれは,金武町で反対表明をしなかったの で,婦人会として抗議集会は出来なかった。でも,女性たちを含むいくつかグループで 1998 年に町民抗議集会をやった。結局,金武町は受け入れを決めてしまったけど」83)と
証言している。軍用地料問題をたたかったNM①・IHなども抗議集会に参加している。
現職の婦人会役員が,町行政に反対する行動を起こすことは,やむにやまれぬものであっ たろう。その背景には町役場の軍用地料収入と基地関連収入が大きな割合を占めている ことにかかわるのだろう。
第 2 は,米軍の対テロ用「都市型」戦闘訓練施設が,基地キャンプ・ハンセン内に新 設されることに対する反対・抗議運動である。伊芸区では戦後から長年流弾,実弾によ る事件・事故が発生してきた。さらに新たな基地機能は受け入れられないとして 2003 年 11 月に伊芸区行政委員会が建設反対表明を行ったのである。運動は足掛け 3 年に及んだ。
当時金武杣山訴訟はウナイの会が一審で勝訴し,被告入会団体が控訴するかどうか,そ の上原告・被告ともに弁護人の増員を検討し,白熱した議論がされていた。当初この計 画に対する県側の動きは鈍く,計画内容の説明は曖昧で反対運動は盛り上がらなかっ た84)。
しかし,伊芸区では「沖縄の実弾被害はこの小さな区に集中してきた」85)と抗議を続 けた。金武町では伊芸区を中心に 2004 年 2 月,5 月に反対抗議集会。9 月から婦人会・沖 縄女性団体連絡協議会(略称:女団協)などを中心に伊芸区で 100 日集会。12 月には 200 日集会へ突入。2005 年 5 月 26 日「反対行動 1 年」の地元集会では,「戦場にするな」な どのプラカードが林立した86)。2005 年 7 月には金武町伊芸区で,1 万人の緊急抗議県民 集会が成功した。「都市型」戦闘訓練施設建設反対運動は既述した町内の基地問題にかか わる動き方からすると,①・②と③だけでなく県民集会も開催された。しかし,2005 年 7 月 12,13 日には基地キャンプ・ハンセン内で米陸軍特殊部隊が人型を標的に実弾射撃 を行った。
ところで沖縄では,度々基地問題にかかわる大規模な県民抗議集会が繰り返されてい る87)。伊芸区の県民集会では,県内の与党の一部が「この集会が一施設に限定されたも ので,むしろ反基地的世論の盛り上がりを防ぐガス抜き的意図を持つもの」と語ってい る88)。それは足掛け 3 年におよぶ住民の抗議運動が,「ガス抜き」の役割を持ち県民集会 の開催で,沈静化されると言われていたことになる。伊芸区住民がたたかいを継続でき た要因はなにか。県民集会の参加者の声からみてみよう。
NY(金武町)は,「若い頃,米軍にジープで追いかけられたことがあり,その恐 怖は今でも忘れられない。子どもたちが部活で夜遅くなったときはとても不安にな る」89)と,生活には常に緊張感があり,米軍人に遭遇すると身構えるだろうことが
推測される。
YK(61)(金武町)は,「町内には基地がらみの収入(例えば,軍用地料・軍雇用 員)がある人も多いし,大きな声で基地反対とは言いにくい。それでも都市型の訓 練も始まり,危機感は高まる。おばあの体験を繰り返してはいけない。自分たちの 身を守るために立ち上がらないと」90)と軍用地料を貰っているから,基地被害を受 け入れることにはならないと決意を述べる。
UM(24)は「『軍用地料を上げるためか』という人もいるが,間近に施設がある 現場を見れば,そんなことは言えないはずだ」91)と,反基地運動の高まりの中で軍 用地料が値上げされてきたことを知りつつ,基地周辺の生活の危険に黙ってはいら れないとする。
上記の証言は,基地の町の生活が緊張に満ちたものであり,軍用地料を貰っているか ら基地を容認していると判断できないことを示唆している。しかし基地被害抗議集会が
「ガス抜き」であり,一定期間抗議運動を行うと被害への不満が沈静化される側面をもつ と思われ,軍用地料を貰っているなら基地被害を許容する,むしろ許容すべきと考えら れている面があることを推測させる。
このような論は地域の反対運動を分断し,沈静化させようとする政府の思惑が功を奏 していると思わせるものである。地域では米軍の実弾演習や駐留する軍人数の増加によ る事件・事故が増加し,それに巻き込まれる確率が高くなると考えられている。特に女 性はそれへの恐れが強いと思われ,このままではいけないと行動する一方,軍用地料を 受け取っていることからの葛藤が見て取れる。軍用地料の受領には,地料が賃貸料だか ら貰えば良いというだけでは,すまないことがあるのではないか。むしろ,そこには,地 料を受け取り基地を容認できない中に,痛みともいえる心持ちを抱え込む側面が見て取 れる。そして基地の町の基地被害抗議・反対運動は,危険のない安心してくらせる生活 を求めることから発しているといえる。
当時町内の運動の中で金武杣山訴訟は,どのように語られていたのだろうか。伊芸区 のIYは,「第 1 ゲート前の早朝抗議集会は,朝 5 〜 6 時頃からはじまった。私も友人を 誘って,連日グループで出かけた。金武区や並里区の女性は早朝集会にはこなかった,町 民集会へは来ていたが。金武杣山訴訟をたたかっていたNM①やIHは同じ職場にいた こともあり,よく知っている。彼女らは裁判をやっていて,とても忙しかったと思う。町 内で時々出会った。伊芸区の動き,裁判の目的・進捗状況,入会団体のことや県内の大