バートルビーの身体のゆくえ : 『バートルビー』
の語り手の詐術
著者 佐保 直美
雑誌名 主流
号 58
ページ 81‑96
発行年 1997‑03‑10
権利 同志社大学英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015131
ノf
ートルビーの身体のゆくえ
一一『パートルビー
J
の語り手の詐術佐 保 直 美 I はじめに
81
ノtートルビー (Barlleby)の沈黙と孤独.エイハブ(Ahab)が白鯨に魅 入られるように人々は,その謎を重大視し,時に神聖視してきた.その沈黙 はカフカ(Kafka)の作品に,その孤独はデイツケンズ (Dickens)の人物 達に結びつけながらとりわけ,パートルビーの拘置所での沈黙と孤独か
らはソロー(官l0reau)の「市民の抵抗」を連想しながら 2
しかし,パートルビーが孤独を選ぴ自らについて語らないことを選んでい るからといって,パートルビーは本当に謎であり,パートルビーについては 何も分からないのだろうか.白鯨のように巨大な白い「壁」であり,
I
ボー ル紙の仮面」であり (Moby‑Dick144),ピラミッドの表面の象形文字なのだ ろうか (Moby‑Dick292・93).パートルビーは「謎であるJ
(650, 652)とい っているのは語り手本人であるが,パートルビーについて一つの解釈を結末 で下すのも語り手である.だが,人々は,たとえ語り手の「謎である」との 慨嘆は共有しでも,語り手の解釈には不信の念を抱く.近年の『パートルビ ーj批評がそのターゲットにしてきたのは,語り手の自己中心性と語り手の 鏡舌であり,マルクス主義批評以降ことに,不幸なパートjレピーに対して,彼を迫害する語り手という図式が一般化してきた.多いのは,キリスト教倫 理から見て語り手がそれにかなっていないとする批判から,最近では語り手 の階級意識,資本主義社会に生きるビジネスマンとしての利益主体の思考が
ノtートルビーに対するイデオロギー的な独善であるとする見方である
82 j,'ートルピーの身体のゆくえ
だが,この読みは,パートルピー自身の言説やイデオロギー性については 空白化する傾向をも作り出してきた.パートルピーがたとえられるソロー像 もそれ自体その正しさが自明のものとされてきたため,イデオロジカルなも のとして積極的にとらえられることはなかった.ソローの孤高と個人主義が
1 9世紀アメリカの国家的イデオロギーと重複し,ソローの被った無理解の 悲劇性がその個人主義を一層美化しているかもしれないにもかかわらず 4
ただし,この小論は,ソローのイデオロギー性に焦点を当ててパートルビー のそれとともに論証しようとするものではない.
パートルピーの沈黙と孤独.それは相互に切り離せないものであるが,こ の二つのものが彼のイデオロギー性を稀薄にしているとすれば,つまり,
「そうしたくはないんで、すが
J
(643) 5以外に殆ど語らないがゆえにパート ルビーの言説というものは抵抗以外になく,他人との関わりを拒絶するがゆ えに彼に浸透しているイデオロギーは皆無だとする見方をつくりだしている とすれば,読み手はパートルビーに脱イデオロギー化された,イデオロギー の存在しない状態を読み込んできたことになる。孤高の抵抗というソローの 政治性は,明らかにイデオロジカルなものとしてではなく普遍的善としてと らえられている.語り手の悪玉論は,殆どここに端を発している.そこで,不当にも語り過ぎる語り手の言説によって,語らないパートルビーの言説は 抑圧されている,という見方がこうした批評傾向の暗黙の前提となってきた のも無理はない.つまり,語り手の言説がイデオロジカルであるのに対して パートルビーの沈黙がイデオロギーと無関係であるという読みは支配的 言説に対するパートルビーの沈黙による抵抗がヒロイックで神聖なものであ るという読みによって支えられている.パートルビーは,自ら苦痛を引き受 け苦痛の中で死ぬ,そこに現代のヒーローを読み込んで、きたわけである.
だが,ここで一歩踏み込んで,この読みそのものがすでにイデオロジカル なのではないか,別言すれば,イデオロギーの存在しない状態なるものがあ りうるのか,という聞いを我々はもつことができる.つまり,イデオロギ」
パートルビーの身体のゆくえ 『パートルビー』の語り手の詐術'‑ 83 問題に対するナイーブさという点では,たとえ,パートルビーをマイノリテ イの沈黙の表象と読んでマルチカルチュラリズムの立場をとりこんだとして も,
r
パートルビー』批評の進歩にはあまり貢献しないことになる.そこで,我々は,まず,パートルピーをヒーロー視する読みがどこからでてきたのか を関わねばなるまい.
E パートルビーの身体
ノfートルビーの奇行が精神病のどの病態を表すかが大まじめに論じられた 時代もあったほどパートルビーの奇行は語り手だけではなく批評家諸氏 をも戸惑わせてきた。実際,パートルビーの行動はメルヴイル (Herman Melville)の同時代人だけではなく我々の常識をも逸脱している.彼の行動 が活動を拒否し生ではなく死に向かおうとする意思に,あるいは生を望まな い意思に基づいているかに見えるからだ.ある日突然,何の前触れもなく弁 護士である語り手の事務所に現れたパートルビーは,雇われるために来たの に,やがて雇主である語り手の指示を拒み,仕事全般を拒否するようになる。
そもそも,語り手にそれまでの経歴や出自を聞かれでも答えないだけでなく,
普段からほとんど誰とも口を聞かない。こうして厄介者となったパートルビ ーのもとを語り手は去り,事務所の持ち主が,ピルに住み着いて動こうとも しないパートルビーを拘置所に送り込み,そこでパートルビーは語り手が差 し入れる食べ物を拒んで孤独と沈黙の内に餓死する.
さて,このようなパートルビーは,果たして表象 (represent)されてい るのだろうか.パートルピーが沈黙している以上,パートルビー自身の言葉 を通してパートルピーについて知ることはできない.たとえば,パートル ピ}の経歴や沈黙,奇行の理由について.パートルビーの奇行が病気のせい なのか語り手に対するヒロイックな抵抗のためなのか,それさえ,実はパー トルピーの口からは知ることができない.そこで,当然のようにしてパート ルピーについてあれこれ推測する語り手の語りに対する疑いが浮上する.語
84 ;"{ートルビーの身体のゆくえ
り手の語りが信頼に足るのかどうか,パートルビー自身の語りが無い以上決 定することはできない.これまでの批評の最大のポイントはここにある.す ると,パートルピーについて語る語り手の語りをイデオロジカルとして信用 しない時,語らないパートルビーが自らを表象していないように見えること は,語らないパートルビーのイデオロギー・フリー性を保証することになる.
だから,先に触れた<語り手=支配的言説>説が語らないパートルビーは表 象されていないとみなす時,それはそれで、説得力をもつことができる.なに
しろパートルビーは自分のことを語らないのである.
しかし,パートルビーは言葉によらなくとも,その身体において確かに表 象されている.換言すれば,身体のイデオロギーを考えることで我々は,
『パートルビー』におけるイデオロギー問題のジレンマを解き明かすことが できる.フーコー (MichelFoucault)は,権力の現れる場を身体とし,い かなる身体も権力からは逃れられないことを次のように指摘する:
だが,身体は政治的領域にも直接関係する.権力の諸関係が直接身体を 支配するからである.これらの諸関係は身体を固い込んでこれに熔印を 押し,訓練し,拷問し,重労働の実行,儀式への参加,記号の発信を強 制するのである.(Foucault, 25)
具体的には,狂人,犯罪者については,彼等に見えない形で働く権力が身体 を決定する.在人は精神病院に拘束され,犯罪者は刑務所に収監されるが,
この時,<理性一非理性>という二分法に基づく知の権力が機能しているこ とは,たとえ彼等が語らなくとも彼等の身体の拘留状態において明らかなの だ.この理屈に従えば,奇行の理由や実態がいかなるものであれ最終的に拘 置所に閉じこめられる( theprison" 669)パートルビーの身体に権力は働い ていて,パートルビーの身体が彼自身について明かしているとみなすことが できる.裁判の結果犯罪人として刑務所で受刑するのではなく,仮に拘置さ
ノ¥‑トルビーの身体のゆくえ 85
れるだけのパートルビー8に対しでもパートルビーに対する支配の権力はそ の身体に刻まれる.このように,パートルビーは身体があるから表象されて いることが分かるし,身体がある以上イデオロギーと無関係とは言えないの ではないだろうか.
にもかかわらず,パートルピーが言葉を通して自らを表象していないが故 にその抵抗の身振りからイデオロギーと無関係であるかにみなしそれによ って我々はパートルピーをヒーロー視してきた.それはなぜ、か.語り手の語 りを懐疑しつつ,結末のパートルビーの噂について語り手を通して事実関係 を確認し,語り手の解釈を多少なりとも取り込むからだ.
パートルビーの死後暫くして,語り手は,事務所に姿を現す前のパートル ピ」の来歴について,ある噂を耳にする.パートルビーは,かつて,ワシン トンの郵便局の「配達還付不能郵便取扱課 (theDead Le枕erOffice )Jで働 いていたが,突然解雇されたという.これを聞いた語り手は,言葉に尽くせ ない感情を措きたてられて次のように慨嘆する:
「配達還付不能郵便物
J
(Dead letters") !まるで死人( deadmen円) みたいじゃないか.もともとそうなのと運が悪かったりで青白い絶望に かられやすい人間のことを思い浮かべて欲しい.こういう死の手紙をい つも扱い焼却処分のために選別する仕事ほど,この種の絶望を深めやす いものはない.<中略>ひどい災難に苦しんで、亡くなった人達にはよい 知らせだ、ったかもしれないのに.これらの手紙は,生の使命をうけて,死へと急ぐのだ.
ああ,パートルビー!ああ,人間( humru:吐ty")! (672)
語り手は嘆く, deadletters"を焼くパートルビーは,まるで deadmen"で はないかと,絶望のあまり生気を失い死へと急ぐパ}トルビー。しかしこの 解説を待つまでもなく,語り手が deadletters"を deadmen"と言い換え
86 パートルビーの身体のゆくえ
る時,すで、にパートルビーの身体のゆくえは宣告され,それゆえに彼の絶望 も決定される.語り手にとってパートルビーは, deadletters円を焼却する 時 deadmen"を処分するのだ.つまり,自らの身体を絶え間なく消尽し最 後に永遠に消失する,パートルビーの絶望はここにしか起因しない.意味を 伝えたかもしれない宛て先・差出人不明の手紙が意味を伝えずに消失する悲 劇は,パートルビーの身体とともにその意味作用が永遠に失われることにあ るのだ.こうして.
r
パートルビー』の結末で,パートルビーは身体の消失 を表象することになる,と語り手はみなす.換言すれば,語り手がパートルピーをこのように見る時にこそ,語り手は パートルピーにイデオロギーの存在しない状態を見る.身体のあるパ」トル ビーがイデオロギーと無関係であるわけはないにもかかわらず。身体を否定 することで,語り手は,自ら目にしたパートルビーの奇行の原因を彼の職業 が担う絶望の象徴性に見ることによって,これまで語ってきた生前のパート ルビーについての物語を一挙に脱イデオロギー化する.パートルピーを身体 の消失と同一視することによって.パートルビーはイデオロギーから自由で ある,と宣言するのは語り手自身に他ならない.
こうして,語り手の見るパートルビーが脱イデオロギー化された状態に反 転するとき,パートルピーの絶望は実は語り手の絶望として現れる.なぜか.
ノTートルピーの身体の消失・欠如に彼の脱イデオロギー化された状態を見る とき,語り手は唯一の超越的な決定点としての身体を失うからだ.ここで語 り手は,語らないパートルビーに対していかなる決定的な判断基準ももたな いことを暴露する.彼にできる唯一のこと,それは,パートルビーの絶望を 人類のそれに敷桁し,身体の欠如がイデオロギーと無関係な普遍的絶望であ る,と宣言することだけである.事実,語り手の解釈を通してパ}トルビー の身体を失う人類は,決定点を失った語り手の絶望を共有する.確かにパー トルピーの身体は決定されていたにもかかわらず.最後に結局,パートルビ ーにはいかなる決定的な意味作用もなかったのだという結論を,噂の解釈か
パートルビーの身体のゆくえ 87 ら導き出すことによって.身体を焼却するこの噂は,浮遊する言説でしかな いのに,あるいは浮遊する言説でしかないからこそ,それに触れる者に対し て deadletters"として身体なき権力そのものとなるのだ.
パートルビーのヒーロー性は,こうして,語り手が結末部でパートルビー について何等かの決定的真理にたどり着き決定的解釈を下しているかにみえ て実はいかなる決定的真理にもたどりついていないことから現れる.パ ートルピーは,イデオロギーからの自由という絶望の悲劇を担う人物として,
適切なのだ.しかし読み手は,語り手が繰り出すパートルビーの奇行の原 因についての解釈に対してこれまで通り疑いを抱きつつ,パートルビーの身 体欠如の絶望という語り手の論理に,その絶望の解釈を受け取らないことで かえってまんまとひっかかつてしまう。語り手の「ああ,パートルピー
! J
という嘆きを語り手の自己満足的なセンチメンタリズムの表れなのではない かと疑いつつもパートルビーの悲劇性について認識を同じくする.つま り,語り手とともに,パートルピーの身体を見ないことによって,その沈黙 を言説の欠如したイデオロギーの存在しない状態とみなしパートルビーを ヒーロー視する.このように,パートルピーは,現代のヒーローはいかなる イデオロギーにもまみれない無垢を体現せねばならない,という現代の読者 のイデオロジカルな理想をそのまま引き受けてきた.
だが,読み手がイデオロギーの存在しない状態を神聖視し,イデオロギー の存在しない状態をイデオロジカルな言説から救い取ろうとするのに対し て,語り手はそのような状態を絶望視する.語り手は,パートルビーに身体 の消失を見るとき,パートルビーに対していかなる決定点ももたないことへ の,即ちパートルピーがイデオロギーと無関係であることへの絶望をあらわ にするからである.こうして,語り子治宝パートルピ}に対していかなる決定 点ももたないがゆえに,読み手はパートルピーに脱イデオロギー化された状 態を読み込むのである.
88 パートルビーの身体のゆくえ
E 語り手の絶望
それでは,語り手がパートルビーに身体という決定点の欠如を見るとき,
なぜそれがあらゆる決定点の欠如となり,語り手の癒し難い絶望としてあら われるのか.いや,そもそもなぜパ}トルビーの身体のみが唯一の超越的決 定点だ、ったのか.
語り手は,弁護士のかたわら,衡平裁判所主事の仕事もしている.法と人 との対立や法のもとでの人と人との利害の対立を扱い,双方の利害の不公平 を是正,平衡化し,対立関係を解消する仕事である.だが,語り手にとって 対立関係の解消は決定点,すなわち絶対的な判断基準の喪失を意味し,それ が語り手を狂気の寸前にまで追いやる 10なぜ、なら,対立関係の解消は日常 的に絶え間なく起こり,そのプロセスが作品のプロットを成すからだ.たと えば,パートルピーの来る前から事務所にいるターキー(Turkey)とニツ
ノtーズ (Nippers).この二人の書記に,語り手は,自らにとっての肯定的要 素と否定的要素という相対立する要素を見る.ターキーは,午前中仕事熱心 なのに対して,午後ははしゃぎ過ぎて落ち着きがなく,その「奇行
J
(eccentricities" 637)のために仕事の能率が著しく落ちる.ニッパーズはそ の逆で,午前中は摘痛持ちで落ち着きがないが,午後にはこの「奇行」が収 まってよく働く.そこで,ターキーの仕事ぶりの午前と午後のコントラスト はニッパーズのそれによって相対化され,午前中しか真面目に働かないこと が,欠点としての絶対的基準でなくなる.たとえば語り手は次のような感想 をのべる:
運よく,<中略>私は一度に二人の奇行に対応しなくてもいい.二人の 発作はお互いの番人みたいに交替する.ニッパーズ、の発作が当番の時は
ターキーのは非番で,その逆もある. (640・641)
ノfートルビーの身体のゆくえ 89 だから,むしろ二人の聞に「奇行」の現れる時間や様相の対比がある,とい うことになる.
ところが,パートルビーの出現は,二人の対比をあまり意味のないものに してしまう.パートルビーの最大の特徴は,
I
普通の人間らしさJ
(643)が 欠けているという点だからだ.初めのうち午前も午後も猛烈に働くパートル ビーの仕事ぶりは「機械的J
で,人間的な「楽しさJ
(642)や喜びといった 感情的な要素が欠けている@語り手は,こうしたパートルビーの非人間的な 雰囲気に,先のタ}キーやニッパーズ、の「奇行jという欠点、を相対化してか えってそれを人間的な生き生きした態度や癖のように見せてしまう要素を見 る.語り手は,ターキー,ニッパーズ,それに使い走りの少年ジンジ、ャー・ナット (GingerNut)を指して,
I
この面白い人達の仲間入りをするようパ ートルピーに呼びかけJ
(644)たりするのだ。つまり,I
奇行」と熱心な仕 事ぶりというターキー,ニッパーズの二人に共通する対比も二人の性格の聞 の対比も,彼等の「奇行」がパートルピーの「奇行J
によって相対化される ことによって,対比としての意味を失ってしまう.分かり易く言うと,語り 手にとって,パートルビーとは,二項対立に新たな二項対立をぶつけて止揚 する存在に他ならない.パートルビーがもたらす全く新しい対比.それはまず,パートルピーの
「 奇 行 」 自 体 が 内 包 す る 自 己 撞 着 的 特 徴 と し て 現 れ る . こ れ が,パートルピーの「消極的抵抗 (passiveresistance)
J
(646)である.パ ートルビーは語り手に頼まれた仕事を「そうしたくはないんですが (1 would prefer not to.)J
と言って断る.パートルピ}のこの振舞いは語り手 の揺りを掻きたて,同時に和らげる.断る行為自体はぶしつけで無礼である のに,断るときの彼の口振りには「不安,怒り,苛立ち」といった「普通の 人間らしさ」がなく(脳3),極めて紳士的に冷静だからである.語り手は思つ
90 パートルビーの身体のゆくえ
消極的抵抗ほど真面目な人聞がいらいらするものはない.<中略>たい ていの場合,私はパートルビーとその振舞いをこんな風に見ていた.可 哀そうな奴だ!別に悪意があってあんなことをするわけじゃない.<中 略>あいつは役にたっし,なんとかうまくやっていけるさ.だが,いつ も 変 わ ら ず こ ん な 気 分 で い ら れ た わ け で は な い . 時 に パ ートルビーの消極性にいらいらせず、にはおれなかった.奇妙にも無性に 彼とべつのやりかたで衝突し,慈りの火花を手応え十分なほど散らせて やりたい気になった. (646‑47)
このように語り手は,はじめ<怒り>と<怒れない心情>の聞で葛藤する.
パートルビーの一つの態度カ古語り手の中にそれに対する二つの意味付けを生 じさせ,それが葛藤を作り出すのである.ところが,パートルビーがほとん ど何も食べないことに気付いてからは,それは<怒り>と<哀れみ>という 別の対立的感情聞の葛藤に変わる.こうして,語り手が経験する対立的な感 情は,次にあらわれる対立的感情によって相互の正当性が相対化され,次々 に現れる対比は,行動や思考を決定する確実な手掛かりを語り手から常に奪 ってゆく.もっと正確に言えば,ある感情は別の感情によって否定され,そ れ に よ っ て 生 じ る 対 比 も 別 の 感 情 の 対 比 に よ っ て 否 定 さ れ る . たとえば,パートルビーが貧相な身なりでろくに何も食べずに語り手の事務 所に住み込んでいることを知った時,
初めのうちは純粋な憂欝と真撃な憐懸の情で、あったのが<中略>閉じ憂 欝が恐怖に変わり,憐惑は嫌悪に変わっていった.<中略>翌朝になっ た.<中略>
r
今のところ答える気になれないのですが.J
と,彼は言 った.<中略>もう一度私は<中略>どうしたらいいか考えた.彼の振 舞いに屈辱を感じていた私は,事務所に入る時には解雇しようと強く決 心していた.それなのに不思議と迷信的な何かが私の心に訴えかけて,ノτートルピーの身体のゆくえ 91 目的を実行に移すのを禁じるのだ、った. (653‑54)
と,語り手は,このように順序だてて,自らの体験が対比の否定の繰り返し を成すさまを語ってゆく.
しかし,対立的感情の葛藤状態がめまぐるしく転変し,語り手がパートル ビーとの関係に見切りをつけたくなるほど追いこまれてゆくのは,やはり,
相手がパートルビーだからである.ターキーとニッパーズに関しては,語り 手はその長所のゆえに欠点を大目に見ることで帳尻を合わせ心の平衡を保つ ことができる.何しろこの二人は,午前と午後の性格の変化以外,きしたる 奇行はない.だが,パートルピ」は違う.パートルビーの役割は,語り手の 想像を超越した奇行を次から次へと引き起こし,パートルビーに関する新発 見が常にパートルビーについての語り手の解釈,感情をがらりと変えてしま
うことである.その頂点となるのが,パートルビーが「書くのをやめる
J
(657)と宣言する事件である.語り手は動転するが,その後,目を痛めたか らに違いないと思い込んで同情心を揺さぶられる.ところが,今後一切仕事 はしない,と言う上になかなか立ち退かないことが分かるとパートルピーを 殺しかねないほどの激昂にとらえられるのだ (661)•
語り手は,パートルビーが引き起こす対立的感情を解消するために解決策 を考え出す.しかし,それらは全て新たに起る心情,事件,思考によって否 定され,相対化されるので,語り手は,パートルビーに関しては,感情,思 考の対立が次々と生まれては解消されるさまに対して全くなすすべもない.
こうして語り手は,皮肉にも二項対立を永久に保持する決定点をもたないが ゆえに心の平衡を失い,パートルビーを事務所に残したまま,逃げるように して事務所を引き払うことになる.語り手は,パートルビーについての決定 点を永久にもつことができない.そして,最終的にパートルピーにイデオロ ギーの存在しない状態を見る語り手は,決定点、の決定的消失を追認し,それ ゆえに絶望というゆきづまりに行き着くほかないのである.
92 ノtートルビーの身体のゆくえ
語り手の絶望.それは,全てが二項対立のなしくずしであり,果てなき否 定と相対化の過程に過ぎず,世界はめくるめく二項対立の渦から成り立つこ とへの絶望である.現代の我々は,このめくるめく二項対立の渦を, ドゥル ーズ (Deleuze)の思想に照らしてニーチェ (Niet四che)の敵対した弁証法 的世界観として考えることができる(ドゥルーズ 22‑25) .対立的なものを 否定によって超越しようとするヘーゲル (Hegel)の弁証法.ただし,語り 手は自ら超越を意図するのではなく,語り手をとりまく事象とそれに対する 語り手の解釈が弁証法的な止揚の連続になる.たとえば,語り手は,自分の 事務所に働かずに住み着いてしまうパートルビーに対する激しい懇りを,
「互いに愛し合いなさい」という聖書の言葉によって何とか緩和し,パ}ト ルピーが不条理な存在であることに困惑しつつも書物の助けを借りてその必 然性を納得しようとする.が,ここで平衡状態を保つ対立的な解釈は,弁護 士仲間の聞でパートルビーの奇妙な存在が噂になることで,その対立が崩さ れる.語り手は,こうまでなると,自分の商売にとっての不利益の方が多く なると解釈し,パートルビーに対する否定的な解釈が,二項対立をぶち壊 す.
だが,ヘーゲルが弁証法によって進歩する歴史観をもったのに対して,語 り手は永遠に解決なく真理なき世界観のゆえに発狂す前に追い込まれるだけ である.彼は,パートルビーを挺でも動かせないと分かると,パートルピー を置き去りにしたピルの持ち主や借家人の苦情を恐れ,数日間馬車で逃げ回 るという気違いじみた行為をとらざるをえなくなる.なんとか自己正当化し ようとしても,
i
思ったほどうまくゆかないJ
(船8).語り手をとりまく事象 やその解釈は,語り手自身を常に否定してゆくだけだからである.まさしく,パートルビーがなんども deadletters"を焼くのを繰り返すように.そして,
このように,語り手の言説の全体を支配するのは,まさに二項対立の消費自 体に他ならない.
語り手が見る世界は,<偶然の生成としての世界>というドゥルーズの理
パートルビーの身体のゆくえ 93 解したニーチェの世界観にゆきっかない.語り手にとって対立的にみえるも
の,先の事象を否定するかに見えるものは,ニーチェにとっては差異に他な らない.語り手が自らのパートルビーに対する相対立する解釈の転変によっ て苦悩するのに対して,
r
解釈の技術」によって「一つの事象は幾つかの意 味をもっ」と考えるニーチェは(ドゥルーズ 16)肯定についての独特の思 想を立脚点として差異の観点を生みだす.r
否定は肯定と対立するが,肯定 は否定と異なる」だけだから(ドゥルーズ 270),弁証法の否定に対して肯 定は,単なる否定の非対称として差異を示すだけなのだ¥つまり,r
肯定は 自己に固有な差異の享楽であり,戯れであり,否定は自己に固有な対立の苦 痛であり,苦役」なのである(ドゥルーズ 270).こうして,弁証法の根底 にある二項対立に対してニーチェは「本質的多元論」を提出する(ドゥルー ズ 15).語り手は肯定による否定の肯定にゆきっかず,否定による二項対立の脱構 築のくり返しは語り手をニヒリズムに導くしかない。語り手のパートルビー に対する憐れみの慨嘆に見えるものが,パ}トルビーの癒しがたい絶望への 心からの共感であり,
r
ああ,人間!J
という叫ぴの対象に彼自身も含まれ ていないとはいえないのは,このためである.語り手にとって,パ}トルビ ーの「そうしたくはないんで、すがjは単なる差異ではなく,語り手がよしと してきたものすべて,r
慎重さ」ゃ「段取りの良さJ
(636),安全を至上のも のとする生活信条までを「否定」するものに他ならなかったのである.N 結論
こうして,いみじくも Grenbergが言い当てているように,パートルビー の運命と語り手の運命はわかちがたく,パートルビーの世界と語り手の世界 は連続している(169)。それは,もちろん,語り手の解釈によって.
語り手はパートルビーの中に,意識化しない自己の運命を正しく読み取るの である.だから,パートルピーの謎はパートルビーの沈黙に帰すべき,それ
94 ノTートルビーの身体のゆくえ
に固有のものではなく, McCallが指摘するように語り手の言葉を通して以 外なにもパートルビーについては分からない以上 (133),語り手のパートル ビー解釈の帰結であり,語り手がパートルビーにイデオロギーの存在しない 状態を見る結果確認される超越的決定点としての身体の喪失なのである.そ れは彼を出口なき絶望 (deadend)へ追い込む.
他方でパートルビーの沈黙と孤独を謎としながらも,その空白のなかに一 見イデオロジカルな普遍的善を読んできた我々.しかしパートルビーの身 体に刻まれた権力の言説は,パートルビーが社会から単に孤立しているとい う印象を取り払い,彼が「契約を破り社会全体を敵にまわしている,にもか か わ ら ず 自 ら に 加 え ら れ る 罰 に 参 加 し て い る 」 事 実 を あ ら わ に す る (Foucault 90) .語り手にイデオロギ}性を見るのであれば,それは,パー トルピーに対する憐れみと感慨を通して自らに対する憐れみと感慨を吐露 し,パートルビーを脱イデオロギー化することによって自らの否定の世界観 を脱イデオロギー化しようとする姿勢であろう.語り手がはじめに紹介する 自己像,自己を維持してきた方便は最終的に全て瓦解する.そのように世界 は無である,という観念がイデオロギーと無関係であるかに見せようとする 姿勢そのものがポリテイカルであることは,この観念を差異化したメルヴイ ルの同時代人,ニーチェの思想が明らかにしてくれた通りである.語り手が 最後の詠嘆によってパートルビーを,人類を表象する悲劇のヒーローとみな すとき,語り手はパートルビーの「青白い絶望」の中に内面化された苦を見 出だした.パートルビーが手紙の中にみたものを想像し,パートルビーに手 紙の運命の不幸に対する責任をおわせることによって.
r
存在の意味J
(ドゥルーズ 38)を懐疑させることによって.しかし,意味作用なき手紙に対す るパートルビーの絶望は,意味作用無きパートルピーに対する語り手の絶望 のすりかえであり,パートルビーの「存在の意味jへの懐疑が語り手のそれ への懐疑のすりかえであることを知るとき,語り手はまさに自らを悲劇のヒ ーローとして演出したがっていることを,我々は知るだろう.こうして,
ノtートルビーの身体のゆくえ 95
我 々 は , 語 り 手 の 最 後 の 嘆 き を 彼 の セ ン チ メ ン タ リ ズ ム と し て , ど の 道 糾 弾 せ ず に お れ な く な る の で あ る .
主
1 Borges, 2: Newman, 67参照.
2 代表的なものは, Rogin, 195, 200.他に, Kirby, 139. McCallが,これについては 'A Passive Resistance"として,この批評の流れを整理している.59‑77参照.但 し, Rogin氏がイデオロギー批評の立場からパートルビーをソローに結びつけた のは,その後の『パートルビー』のイデオロギー批評に少なからぬ影響を与えた.
3 前者の例として, McWi11iams Jr.は,語り手のビジネスマン精神が,自らのキ リスト教倫理を自己本位に歪めているとして批判している.180‑81参照.他に,
Fr紅虫lin,l28.後者の代表的な例として, Jay, 25‑26.
4 D泊lOckは,ジャクソン主義的個人主義の物語はジャクソン主義的帝国主義の物 語と形の上で同一だと考えている.20参照.
5 Bartleby, the Scrivener: A Story of Wall‑Street"の百│用は全て,
τ
'heLibrary of America版により,頁数を括弧内に示す.なお,訳出に当たっては,杉浦銀策氏 の翻訳を参考にさせていただいた.6 Jayは, Introduction"(1‑27)でパートルビーの抵抗が,ソローのそれと異な ることを論じている.しかし,パートルビーをイデ、オロジカルな表象として見て いるわけではない固 Cf.注3.
7 McCallが, Chapter 2 (33・58)で,おおまかに整理している.
8 しかし,パートルビーは明らかに,単に浮浪者の一時的拘置のためだけではな く,たとえそういう罪状が後で与えられるにせよ,裁判前の拘置のために拘置所 に拘束される.このことは,語り手が,拘置所のことを,通称の「墓場」と呼び ながら, Iもっと正確に言えば『裁きの館jJと言い直すことから分かる(伺8).
9 たとえば, Dillinghamはこれを, 'self‑pi句1"と呼ぶ.54参照.
10 Clarkは, Iパートルビーの未知の力に対する語り手の懐疑は,単なるパラノイ ア以上のものである」と言っている (142)•
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