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近江商人西川利右衛門家奉公人の諸相

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(1)

近江商人西川利右衛門家奉公人の諸相

著者 上村 雅洋

雑誌名 經濟學論叢

巻 64

号 4

ページ 973‑1000

発行年 2013‑03‑20

権利 同志社大學經濟學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013763

(2)

【論 説】

近江商人西川利右衛門家奉公人の諸相

上 村 雅 洋  

は じ め に

 西川利右衛門家は,八幡の新町に本家(本店)を構えた近江商人であり,初 代が畳表・縁地・蚊帳等の行商を開始し,その後大坂瓦町1丁目(店名前:近 江屋八左衛門)と江戸日本橋通2丁目(店名前:大文字屋嘉兵衛)に出店を設け,

さらに京都や備中早嶋にも出店を設置して活躍した.西川利右衛門家につい ては,歴代当主を中心とした概略については,『近江八幡人物伝1)』『近江商 人列伝2)』による研究があり,最近では『近江八幡の歴史3)』に,新たな史料 を用いた成果の一部が掲載されている.西川利右衛門家の奉公人に関しては,

拙稿4)で,店方奉公人,男奉公人,下女・乳母奉公人について,その特徴を明 らかにするとともに,本家(本店)・出店における奉公人の人数・構成,本家

(本店)出店間の奉公人の移動,店方奉公人の役務分担などについて,実態を 明らかにしてきた.

 本稿では,引き続き西川利右衛門家の店方奉公人について分析を進め,店 則にみる奉公人生活の一端,別家に際して支給された元手銀,退店の理由,

* 本稿は,西川利右衛門家文書を用いて作成した.西川利右衛門家文書の一部は,西川庄六家 所蔵となっている.西川庄六家の当主である西川宗行氏および西川利右衛門家文書の閲覧など について便宜を図って頂いた近江八幡市史編纂室には,大変お世話になった.ここに感謝する しだいである.

1) 江南良三『近江八幡人物伝』近江八幡市郷土史会,1981年,45―49頁.

2) 江南良三『近江商人列伝』サンライズ印刷,1989年,190―196頁.

3) 近江八幡市史編集委員会編『近江八幡の歴史』第5巻,近江八幡市,2012年.

4) 拙稿「近江商人西川利右衛門家の奉公人」『同志社商学』第63巻第5号,2012年.

(3)

奉公人が引き起こした不調法とその処分方法などについて明らかにするとと もに,奉公人と西川利右衛門家との関係について考えてみようとした.

1 店則と奉公人の生活

 西川利右衛門家には,多くの店則5)が残されており,そのうちのいくつかを 見てみよう.残された最も古い店則は,宝暦9年(1759)正月の「掟書6)」で あり,西川利右衛門および中嶋藤助から大坂店中に宛てられたものである.

その概要を述べると,まず「近頃支配人を始」め,気の緩みがあり,「親兄弟

難儀をかけ,至我身を失ふ事,何分済不申事候」とあり,「依之此後為 相続之,此度左之通相改候事」として,8箇条の掟を定めた理由を述べる.1 条では,支配人・二番目は,入念に店や家内の取締りに気を付けること,2 条は,諸帳面は帳箱に片付けることとある.3条は,昼夜に限らず無断で外 出することを禁じ,仲間内や近所へ出かける時も断りを入れ,遠方の場合に は後見・支配人・二番目の3人の了解を得るようにとのことであった.4条は,

「夜入候ハヽ,堅ク他行致間敷候」とあり,万一用事がある場合でも断って 出かけるように,またどのようなことがあっても四ツ時までに帰るようにと ある.5条は,夜に用事がない場合には四ツ時には休み,翌朝は早く店を開 けるようにとしている.6条は,夜分売場に商品の畳表を置くと火の用心に 悪く,特に「急火」の場合には混雑するので,「暮方」には片付けるように指 示している.7条は,「着類之儀者,支配人無断我儘拵候義かたく相成り 不申候事」とあり,着類の規定であった.8条は,「仕入方売先キ之儀毎夜 互申談,次々も能々申聞せ,無油断相働キ可被申候事」とあり,商売上の 意思疎通を求めている.そして,「右之趣,銘々為相続之候間,急度相守可被 申候,万一不得心之者有之候ハヽ其断を立,江刕本店ニ而相勤メ可申候事」と あり,万一これを遵守しない者は,本店勤務にするというように,本店で勤

5) 西川利右衛門家の代表的な店則の史料紹介は,拙稿「近江商人西川利右衛門家の店則」『経済 理論』(和歌山大学)第370号,2012年,に全文示しておいたので合わせて参照されたい.

6) 宝暦9年正月「掟書」(西川利右衛門家文書).本稿では,特に断らない限り同文書によった.

(4)

務させることによって管理の徹底を促している.このことは,拙稿で述べた ように不心得な奉公人の出店から本店への転勤と結びつくものと思われる7).  以下,店則の中から注目される事項を拾い上げてみよう.天明2年(1782)

5月の「添掟書8)」では,「見世入銀鍵引請入金銀口々入帳を引合致合判請取 可申事」「後見支配人両印ニ而相勤可申事」「自筆ニ而〆くゝり可致候」「支配人 金銀入帳と掛帳引合消判可致候事」といったように金銀出納などでは,厳重 な管理が要求された.商品も,「帳箱役諸代呂物出入吟味可致候,尤帳面に付 不申内者,譬者一枚縁片すじニ而茂出し候儀堅無用之事」と,わずかな商品で も在庫管理には気を配っていた.また,「家内仕着物者勿論,其外切等にても 支配人差図を請拵可申事」とあり,着類に至るまで,店内では支配人の差配 を受けていた.

 さらに,「家内一統之事」として,「夜入他出無用之事候,無拠用事有 之節者,帳箱相断出勤可申候,尤四ツ時前に帰宅可致候」と,夜の外出は 原則禁じられており,必要な場合は断りを入れ,四ツ時までに帰宅するよう にされていた.就寝は,「毎夜四ツ時人数相揃相休候砌,着当之心にて帳箱 両人之衆挨拶いたし相休可申事」と,夜は四ツ時に皆揃って休み,責任者 である帳箱への挨拶も義務づけていた.店については,「平日用事無数節ニ而 ,見世無人甚見悪敷候間,随分見世出勤可申候,譬いか様之用事御座候共,

両人宛者急度相詰メ可申候」とあり,用事がなくても店に人がいないのは見 苦しいので,常に二人は詰めるようにとのことであった.注文についても,「諸 註文申来り候ハ者,早速註文帳に写し置,譬少分之事に候共,随分大切に相 勤可申候事」とあり,わずかな注文でも丁寧に記帳することを求めている.

 本店との関係では,「前々 いたし来り候商売之外,新規之儀不寄何に一切 相成不申候,譬利分目先きに見候儀有之候共,堅無用に候,此儀相互に吟 味いたし,万一聊之儀にて,左様之品有之躰に相見候ハ者,誰不限早速本

7) 拙稿,前掲「近江商人西川利右衛門家の奉公人」254頁.

8) 天明25月「添掟書」

(5)

文通いたすへく事」とあるように,新規事業は,たとえ利益が見込まれ そうでも禁止されており,もしそうした様子が少しでも見られたらすぐに本 店へ知らせるように申し渡している.所持金も,「先年相勤居候者有間敷筈之 金銀相貯所持いたし候類有之候,右躰之儀至不届に候,若向後訳相立候金 子有之候ハ者,帳箱両人相断預り所記置可申候,一分に所持いたし候儀,

私欲同前事」とあり,不要な所持金は不届きであるとする.さらに,これら の文書は,「本掟書と一所に毎月九日夜人数相揃,二番目之者読為聞可申候,

若九日夜無拠指支有之候ハ者,十日夜読為聞可申候」と,毎月9日夜に読み 聞かせることを大坂店中へ命じている.

 文化3年(1806)5月の「掟書9)」では,冒頭部分で「御公儀様御法度之儀 者不及申,第一火之用心之事」とあり,火の用心を述べている.「家内一統之 事」では,「毎夜見世之者壱人子供召連レ表裏家内しまり台所火之用心夜廻 り相勤可申事」「日々上下打揃イ食事可致事」とあり,火の用心夜回りと全員 揃っての食事を求めている.

 文化6年5月の「掟書10)」では,「毎日早朝 見世之者相揃,戸明帳箱等飾 り可申事」と,早朝から奉公人揃っての店の始まりを述べ,「御屋鋪方相勤候 儀,如何様之御用有之候共,七ツ時限り帰宅可致候事,町方用向迚も右同様 事,万一無拠用要有之刻限及延引候ハヽ,罷帰り帳箱役其断可申事」とあ り,屋敷廻りや町方用向きであっても,七ツ時までの帰宅を指示した.また,

「諸御屋鋪方御役人衆町方共,商ひ先キまいない致シ候事,亦者遊所同道致 候事,堅無用候」と,商い先での賄賂や遊所への同道は厳禁とした.奉公 人の諸芸の稽古については,「稽古之儀,不寄何一切無用候,尤手跡之義者 格別,碁将棋夜入手透之砌,手前ニ而者不苦,他所ニ而者無用候事」とあり,

原則禁止であるが,手習いは別扱いとし,碁・将棋については夜の暇なとき は店内で可能であるが,外では禁止としている.さらに,暇を遣わした奉公

9) 文化35月「掟書」 10) 文化65月「掟書」

(6)

人の取り扱いについて,「江戸相勤居候暇遣シ候者,自然江戸罷下り候共,

本店 指図無之者出入為致候義堅無用候,勿論江州大坂ニ而暇遣候者并ニ出入 筋之者ニ而も右同前之事」とあるように,江戸店に勤務していた奉公人が,江 戸店に立ち寄るのを禁じ,江州の本店や大坂店に勤務していた者も同様であ るとした.衣類は,「衣類之義者,此度相改メ,銘々相応相極メ置,則別紙 仕法書遣シ置候事」と,相応のものの着用が要求され,別に細かく規定された.

また,奉公人には,在所登り制度が見られたようで,「銘々登り之節在所土 産物之義江刕ニ而拵遣シ可申候」とあった.

 天保8年(1837)9月の江戸店宛ての「掟書11)」では,奉公人の習事につい て,「商内躰万事懸ケ引等之儀見習相覚算考第一肝要之事,夜分手透之砌ハ,

手習読書之儀ハ稽古可然存候,当人相望候ハヽ,相応之師範ヲ取寄セ為致 稽古可被申候,其外遊芸之儀ハ一切無用候,尤商売向修行大躰相調候上之 儀ハ可為格別,当人相望候儀在之,其元ニ而も不苦被存候ハヽ,本店へ可被申 越候,其節相考可及差図候事」とあり,商売上のことは見習い覚えることに よって習得し,夜には手習・読書を行い,本人が希望すればさらに上達する ことを支援するが,遊芸についてはむしろ否定的な立場をとっている.着類 などは,「平日着用之儀ハ,絹青梅之類ハ勿論,綿服ニ而も目立候品ハ不相成候,

猶平日絹帯〆候義ハ決無用候,下帯之儀ハ木綿限り可申候,きせる煙草 入之類も目立候品ハ不相成候,為他行之節共青梅嶋糸入嶋 宜敷品ハ無用

付,羽織之儀ハ,夏ハ絹小紋,冬ハ兜羅綿亦ハ染太織より宜敷品ハ不相成候事」

とあり,普段の着類は目立たないように心掛け,煙管や煙草入れなどについ ても規定していた.神仏信仰は,「朝夕仏神様信心ヲ以拝礼可在之候,御先祖 様方御忌日精進之儀ハ勿論,諸事大切相慎可申事」とあり,朝夕の拝礼や 先祖忌日の精進を指示している.養生については,「平日食事養生専一可在 之事,灸治月々両三度斗無懈怠相務可被申候,自然病気取敢候ハ,其身 不自由迷惑之上,其表ニ而も懸心配甚不都合千万之儀可在之候得ハ,常々自

11) 天保89月「掟書」

(7)

気ヲ付可致養生事」とあり,普段の食事や月に2〜3度の灸治療,病気 にならない心掛けを求めている.

 天保12年9月の「箇条書12)」では,「毎月壱度宛可致披露事」として10箇 条を定めている.1条では,「従御公儀様被為仰出候,御法度之儀者不及申,

家風急度相守大切相勤メ可申事」として,公儀法度とともに家風の遵守を 述べ,2条は,「火之元相互気を付可申事」と,火の用心を促した.3条は,「勤 役之銘々毎朝五ツ時無遅参出勤可申事,無拠要用有之候節者,其旨相断届ケ 可申出候,尤引取毎夜五ツ時泊り番之者入代り可申事」と,勤役の朝五ツ時 の出勤と,夜五ツ時の引取を指示した.4条は,「毎夜勤番之内壱人宛泊り番 相勤可申候,尤泊り当番之者無拠要用有之候共,操合せ無懈怠五ツ時急度出 勤可申事」とあり,勤番の泊り勤務を定めている.5条は,「支配人相勤候金 銭諸払帳面書記し,後見役衆 為見届其時々印形請置可申事」と金銭の取 り扱いを,6条は,「毎月五日迄之中,工面次第致月勘定〆くり,後見役之者 算当いたし有金銭立合之上,取しらへ改印致置可申」と勘定の確認を指示した.

7条は,「纑布表仕入諸事渡し金之後,甲之判取帳払帳面と引合,後見役之者 可致改印事」と仕入金,8条は,「諸品喰切勘定之節,残り有代呂もの名前人

後見役之者立合見改メ可申事」と商品勘定について規定している.9条は,「見 世若きもの下男至まて,昼夜不限他出之義無用之事,併無拠要用有之節者, 行先キ後見役之者相断可致他出事」とあり,外出の規定を行い,10条は,「毎 朝明六ツ時開店可申候,毎夜四ツ時限り見世一同為相休可申候,尤泊り番之 者着到之心持ニ而挨拶可申達事」と,毎朝六ツ時の開店,毎夜四ツ時の就寝 を定めている.

 このように,江戸店や大坂店における店則を細かく定めることによって,

奉公人の店での業務上の指針だけでなく,日常生活面での規律の遵守が図ら れた.また,指示を徹底させるために,毎月定期的に店則の読み聞かせが行 われ,指示の確認がなされた.しかも,こうした店則は,何度も改訂され,

12) 天保129月「箇条書」

(8)

その店の実情に合うように改善されていった.

2 別家と元手銀

 西川利右衛門家では,多くの別家を輩出し13),別家(別宅)に際しては,元 手銀が西川家から渡された.それを整理したのが第 1 表である.もちろん,

この表には西川利右衛門家のすべての別家が示されているわけでなく,元手 銀の譲渡や受取に関する残存史料をもとに示したものである.この表には杢 兵衛や早水五兵衛のように,元手銀の譲渡記載があり,他の別家の「覚」と

13) 西川利右衛門家文書には,別家に関するまとまった冊子・帳面は残存しておらず,ここでは,

別家に関する一紙文書を中心に分析した.

年代 名前 区分 元手銀 着類・諸道具代 年利 元文4年正月 杢兵衛   銀5貫目

寛延4年6月 武藤弥兵衛 別宅 銀100枚(4貫300目)

宝暦13年6月 大槻彦兵衛 別家 銀10貫目 宝暦13年6月 伊兵衛 別家 銀10貫目

明和3年8月 由岡平蔵 別家 銀10貫目 年500目 明和7年3月 奥武助 別家 銀10貫目

安永5年5月 久保吉次郎 別宅 銀6貫目

安永8年6月 麦野久兵衛 別宅 銀10貫目 金20両

天明2年9月 重高善助 別宅 銀6貫目 銀500目 年4朱 天明3年6月 岡田半兵衛 別宅 銀10貫目 金20両 年4朱 天明4年4月 高木彦七 別宅 金100両 金20両

天明7年正月 松岡卯兵衛 別宅 金200両 金10両 銀10両 寛政元年3月 村地勘助 別宅 銀10貫目 年4朱 文化11年12月 神崎弥兵衛 別宅 金100両 金20両 年4朱 文政4年4月 三浦弥十郎 別宅 銀10貫目 銀500目 年4朱 文政11年6月 大沢亦七 別宅 銀6貫400目 銀1貫300目 年5朱 天保5年3月 早水五兵衛 金100両 金20両 年5朱

(注)各「覚」(西川利右衛門家文書)より作成.

第 1 表 西川利右衛門家の別家

(9)

同様の形式を整えているものの,「別家」「別宅」の文言がないものも含まれ ている.「覚」の一例を示すと次のようになる.

       覚14)

  一文銀六貫目者   〆

  右者此度別宅申付候付,為元手銀差遣申候,以上

    安永五年申ノ五月八日 西川利右衛門   平井伊兵衛         久保吉次郎殿

   右元銀当申ノ六月 年四朱分厘遣し可申,勿論其許勝手次第此書付引替 相渡し可申候,以上

  右之内へ安永八亥二月迄銀四〆相渡し,残弐〆匁預り書付渡し置申候

       覚15)

  一文銀六貫目也   〆

   右者此度私儀別宅被仰付為元手銀被下置慥請取申候,尤結構被成下難 有仕合奉存候,然ル上者此末御家風永ク相守,勿論御見世御無人之節者,

随分御手伝可奉申上候,以上

    安永五申五月八日 久保吉治郎㊞ 

      西川利右衛門様         平井伊兵衛殿

 この2点の史料は,安永5年(1776)5月に久保吉次郎が別宅する際に作成 されたものである.前者は,西川利右衛門家から銀6貫目の元手銀が渡され,

14) 安永55月「覚」 15) 安永55月「覚」

(10)

それを年4朱で西川家が預かり,久保吉次郎が必要な時に引き換えるという ものであり,その後安永8年までに4貫目が渡されたことを追記している.

後者は,別宅に際して渡された6貫目の受取であり,お礼とともに本家の家 風を守り,人手不足の折には本家に駆けつけることを約束している.

 さてこの表によれば,「別家」と「別宅」の文言はどちらも使用されている が,寛延4年(1751)の武藤弥兵衛の「別宅」を除くと,明和7年(1770)の 奥武助以前は,「別家」としている.しかし,安永5年の久保吉次郎以降にな ると,すべて「別宅」となっている.これによって,事業体として独立する 別家から,別家格としての通勤別家となる別宅という呼称に変化していった ことがうかがえる.また,元手銀に利子を付して,そのまま本家で預かると いうのも,本来は別家の申し渡しと同時に事業資金である元手銀が支払われ たのが,すぐに独立して事業を営むことがなく,退店など必要とするまで預 かることとなったことを示している.たとえば,天明3年の岡田半兵衛の場 合には,「入用次第相渡」の文言がある16).その利率も年4朱であったものが,

最後には5朱に上昇している.元手銀額も,銀100枚(4貫300目),6貫目,

10貫目,金では100両,200両が一般的で,銀10貫目が最も多い.

 安永8年以降になると,元手銀とともに,ほぼ銀500目か金20両が「掟書 有之候通,衣類諸道具料」として渡されている.別宅に関する掟書が残存 しないのであるが,おそらくこうした規定が定められ,それに基づいて元手 銀以外に一家を構えるための費用が手渡されたのであろう.元文4年(1739)

の杢兵衛の場合にも,元手銀の5貫目以外に,「家代修覆入用共」として2 貫408匁7分と「外諸道具品々」を受け取っている17).三浦弥十郎の場合 には,文政4年4月に別宅のために,銀10貫目の元手銀と銀500目の「着 類諸道具料」を遣わされた18)が,その後も独立したわけでなく本家に勤務 していたらしく,文政5年(1822)4月には「出店納り方付,御太儀存候,

16) 天明36月「覚」 17) 元文4年正月「覚」 18) 文政44月「覚」

(11)

猶万事及熟談入情相勤可被給候,依之乍少方心附として19)」銀1貫目が遣わ され,同7年7月には「出勤役以実意入情相勤被申,大悦安気過分之至存候,

猶本店始メ店々治り方万端弥増以実意出精可給頼存候,依之右骨折太義心付

家普請祝儀として20)」銀2貫目が,同11年7月にも「骨折太義為心付」銀 2貫目が,さらに天保5年12月にも「骨折太義為心付」銀50枚,同9年12 月にも「骨折太義心付」銀3貫目が差し遣わされている21).これらも,「入用 之節相渡し可申候」として,年4朱あるいは5朱の利子で本家に預け置かれた.

 天明4年の高木彦七の場合も,元手銀100両と着類諸道具代金20両以外に,

「御用備後伊勢屋下部調候節,為御心祝被下置候」として金10両を受け取っ ている.文化11年の神崎弥兵衛の場合も,元手銀100両と着類諸道具料20 両以外に,「何角心附として」10両が渡されている.文政12年の大沢亦七の 場合も,元手銀6貫400目と着類道具代1貫300目以外に,「何角心付」とし て1貫300目が差し遣わされている22)

 また,安永7年2月の園田太郎七と同年4月の久保田作兵衛へ遣わされた それぞれ銀100枚については,「右者元手銀之内差遣申候,追別宅之砌年 四朱分銀ヲ差加へ相渡し可申候」とあり23),別宅する際に元手銀の一部とし て,4朱の利子を付して本家で預かるというものであった.こうした奉公人 の勤功に応じてまとまった心付を遣わし,それを本家で利子を付して預かり,

元手銀の一部としてあるいは元手銀とともに別宅の際に渡すことになってお り,奉公人に対するさまざまな手当が,利子を付して最終目標である別宅を するまで,本家で預かっていたのである.

 さらに,本家との関係では,たとえば「幾久御出入被仰付可被下候24)」「御

19) 文政54月「覚」 20) 文政77月「覚」

21) 文政117月「覚」.天保512月「覚」.天保912月「覚」 22) 天明44月「一札之事」.文化1112月「覚」.文政116月「覚」 23) 安永72月「覚」.安永74月「覚」

24) 元文4年正月「覚」

(12)

本家末代御相続之義相守可奉申上候25)」「永本家相続之義御大切相守可申 候26)」「此末御家風永ク相守27)」といった文言が見られ,別家となっても本家 の永続を支える姿が見出された.

 別家となるには,次のような手順が踏まれたようである.

       一札28)

  一 私義此度御別家近江屋半兵衛殿取次ヲ以御別家被成下度段御頼申上 候処,御承知被下難有奉存候,然ル上者此後不依何事,御本家之御差 図を請,万事御家風通り急度相守り可申候,且又御別家衆中ニ而,諸事 承合不念無之様可仕候,万一私不埒心得違等仕候ハヽ,御本家様思召 通り,如何様共御取斗被下,別家御取離相成り候共一切申分無御座候,

為後日一札仍如件

     文化十酉年 本人 亀屋 重兵衛㊞ 

銭屋 源兵衛㊞ 

近江屋半兵衛㊞ 

       大文字屋利右衛門様

 すなわち,亀屋重兵衛が別家を願い出るにあたっては,すでに別家衆となっ ていた近江屋半兵衛の仲介によって,本家に別家を願い出ていたようである.

別家が認められれば,本家の指示に従い,家風を維持するとともに,別家衆 仲間の規律を乱さず,もし不埒なことがあれば,本家の考えに従い,別家資 格が取り消されてもそれに従うことを誓っている.

 また,別家後の本家との関係についても,次のように再度本家の出店での 勤務を願い出る場合も見られた.

25) 宝暦136月「覚」 26) 安永86月「覚」 27) 天明29月「覚」 28) 文化10年「一札」

(13)

       一札之事29)

  一 私先祖先年御別家被為仰付,御蔭ヲ以累年大坂北浜壱丁目ニ而相続仕居 候所,近年時節柄悪敷打続損失多ク不相続相成,甚難渋仕候,然ル 所深ク御慈悲御憐愍ヲ以,当午年 十ケ年之内,江戸日本橋御店ニ而勤 役仕候様被為仰付,有難仕合奉存候,依之随分実意ヲ以出情相勤可 奉申上候,右無滞相勤候ハヽ,先規之通御思召ヲ以近江屋藤八家名相 続仕候様被為仰付被成下候御趣,此上之御憐愍有難奉存候,何卒御蔭 ヲ以末々目出度相続仕度奉存候,万一私心得違仕候御思召相叶不申 候ハヽ,其節如何様被為仰付被成下候而茂一言之申訳無御坐候,尤一 札依如件

    天保四年巳十一月 近江屋藤八  

同別家 近江屋利八   証人兄 納屋嘉兵衛         西川利右衛門様

      同 庄六様       同 徳蔵様        野田善六殿        三浦弥十郎殿

 すなわち,近江屋藤八は別家して大坂の北浜1丁目で事業を営んでいたが,

近年損失が多くなり,経営を維持できなくなったので,天保5年から10年間 西川利右衛門家の江戸店で勤務させてほしい旨の願いが認められ,本家への 忠勤を誓ったものである.そこには,別家である近江屋利八が連署しており,

宛先も本家以外に分家の西川庄六家・徳蔵家も連記されている.別家をして も本家の庇護のもとにあった様子がわかる.

 また,別家後の住居についても,次のように本家からの規制があった.

29) 天保411月「一札之事」

(14)

       一札之事30)

  一 私儀此度別宅被仰聞難有奉存候,然ル処於当八幡町住所可仕筈御座 候得共,勝手付大津町へ住宅仕候様押御願申候処,御聞済被成下難 有奉存候,其儀付此後不仕合相成候節,如何様之事被仰聞候とも申 分無御座候,為後日之証文仍如件

    文政十年亥正月 大西小兵衛㊞ 

      西川利右衛門様

 すなわち,大西小兵衛は別宅すると,本家から八幡町に居住することを求 められていたが,自分の都合で大津に居住することを願い出て許された.そ こで,このことに関して不都合が起こっても,自己責任であることを誓った ものである.そこには,本家とのつながりから別家をしても居住の自由は本 家によって制限されていたことがうかがえる.

 このように奉公人は,別家になったといえども,本家から全く自由になっ たわけではなく,いつまでも本家の支配・庇護下にあり,本家の永続を支え るように機能していたのであった.

3 退 店 理 由

 ここでは,西川利右衛門家の奉公人の中で,退店事情が明らかになる事例 を見てみることにする.第 2 表で示したのは,死去・病死・病気が6件,暇 4件,相続1件,心得違1件であった.死去・病死には弔料が渡されている.

元文3年の四郎兵衛の場合は,銀1貫目,慶応4年(1868)の常七は30両,

明治10年の政七は10円が弔料として渡された.また,宝暦5年の左兵衛は2両,

文化9年の孫兵衛は50両が,「御心附」として支給されている.それ以外に,

それぞれ奉公期間中に預かった着類・雑物(「着替品々」)が返却されている.

病気になった場合も,文化9年の孫兵衛のように「長々病気ニ而色々御養生被

30) 文政10年正月「一札之事」

(15)

成下候得共不相叶,去未年四月十四日命終仕候31)」と,店で養生が施された ようであり,奉公人に対する丁重な取扱いがうかがえる.

 死去以外で西川利右衛門家を去る場合には,たとえば次のように,西川家 と同商売への奉公の禁止を誓っている.

       一札之事32)

  一 悴弥兵衛儀,酉四月 亥三月迄御奉公相勤罷居申候所,一家之内へ無 拠相続為致申度候付,御隙御願申上候所,御聞済被成下候,然上者 右相続為致可申候,万一間違之義有之又々他へ奉公指出シ候儀有之 候共,御同商売之方へ奉公為致申間敷候,若左様之儀有之候ハヽ,此 書付何ケ様共御仰付被成下為其仍如件

    宝暦五亥年三月 番ノ庄村 親 八兵衛  

31) 文化95月「覚」 32) 宝暦53月「一札之事」

年代 名前 理由 備考

元文3年10月 四郎兵衛 死亡 銀1貫目吊料 宝暦3年正月 忠兵衛 休足 銀5貫目心付 宝暦5年3月 弥兵衛 相続

宝暦5年6月 左兵衛 暇 金2両心付 宝暦5年9月 忠介 病身 金2両心付 天明4年2月 忠兵衛 心得違い 金5両心付 天明4年5月 弥助 暇 金3両心付 寛政元年12月 善兵衛 暇 金3両志 寛政2年8月 小兵衛 病死 金20両心付 文化9年5月 孫兵衛 死亡 金50両心付 慶応4年正月 常七 病死 金30両吊料 明治10年5月 政七 死亡 金10円吊料

(注)各「覚」「一札之事」(西川利右衛門家文書)により作成.

第 2 表 西川利右衛門家奉公人の退店

(16)

      大文字屋利右衛門殿   一金弐両

  右者是迄相勤申候為心付被下置請取申候,以上

 すなわち,弥兵衛が宝暦3年から2年間西川家に奉公していたのであるが,

実家の家督相続のため退店することとなり,もし他家へ奉公するような場合 でも西川家と同じ商売をしている店へは奉公しないことを誓っている.退店 に際しては,2両を心付けとして受け取った.天明4年の忠兵衛の場合も,

心得違いで退店することになったのであるが,「此後同商売奉公為致申間敷候,

勿論御得意先之妨為致申間敷候」とあり,同商場への奉公と得意先への妨害 の禁止を誓っている33)

 また,病気で退店した忠介の場合も同じようなこととなっている.

  一 私儀五ケ年以前未之年御家へ奉公御召抱被下,尤幾年ても相勤メ申 御契約て参候所,何分病身御座候付,御暇被下候様御願申候所 御承引被下,此度御暇被下忝存候,然ル上者,御家て見覚へ候商売 躰堅ク仕間敷候,勿論御家之妨相成候義仕間敷候

  一御家之同商売之方へ者奉公仕間敷候

  一 此度御暇被下候為心付金子弐両被下置着類一式御渡し被下忝慥請取 申候,為後日一札仍如件

    宝暦五年乙亥九月 請人  紀伊国屋新右衛門 判 忠介親 今津屋兵介 判     奉公人 忠介 判              江州八幡新町

       大文字屋利右衛門殿34)

33) 天明45月「一札」

34) 宝暦59月「〔暇付心付着類請取覚〕」

(17)

 すなわち,忠介は宝暦元年に西川利右衛門家の奉公人として召抱えられ勤 めていたが,病身のため暇をもらうこととなった.退店に際しては,西川家 で経験した同じ商売を行わず,西川家の営業妨害をしないこと,同様の商売 をしている家への奉公をしないことを誓い,心付けとして金2両を受け取っ た.

 また,弘化4年(1847)の平兵衛の場合は,天保4年の幼少の頃から西川 利右衛門家へ奉公し,勤務してきたが,在所での親の年忌のため帰国した折,

暇を願い出て認められ,自分稼ぎを行い,細々と渡世を行うつもりであった.

ところが,「御家風相背,中途 我儘之御暇相願」ったため,うまく自分稼 ぎができず後悔し,心得違いを詫びて,親類からも再奉公を願い出てもらい,

許されることとなった35).このように,一旦退店したものの,後述するよう に再勤が認められる場合も多く見られた.

4 不 調 法

 近江商人をはじめとする近世商家において,奉公人の退店理由の大きな柱 として,前述した病死・病気と不埒があげられている36).西川利右衛門家にお いても,奉公人が解雇される理由としては,病死・病気以外に,不埒・引負・

心得違などの不正行為が多くを占めていた.ここでは,不調法によって奉公 人がどのように具体的に処分されたのか.奉公人が引き起こした不調法の内 容とは,どのようなものであったか.できるだけ多くの具体的な事例を振り 返ることによって,奉公人と本家とのあり方について考えてみる.

 まず,奉公人が勤務先である出店で不祥事を起こした場合,とりあえずど のような処置がなされたのか見てみよう.元文元年の蒲生郡弓削村の八郎兵 衛の場合には,彼の親と思われる鈴木久兵衛が江戸店での引負銀1貫419匁

35) 弘化43月「奉差上御侘一札之事」

36) 安岡重明『近世商家の経営理念・制度・雇用』晃洋書房,1998年,110―117頁.拙稿「近江

商人の雇用形態」安岡重明・藤田貞一郎・石川健次郎編『近江商人の経営遺産―その再評価』

同文舘出版,1992年,64―67頁.

(18)

を認め,八郎兵衛を親元である弓削村に引き取り,預かり謹慎していること を申し出た.そして,「何時成共被仰付可被下」と述べ,今後の西川家の処分 を見守っていた37).天保15年の犬上郡下之郷村の清兵衛の場合は,江戸店で

「心得違之筋」があり,親元の利兵衛のところへ戻され,「様子相分り申候迄」

預かり,その間は,「当人他行等被致申間敷候」とあり,西川家での調査・処 分などが下されるまで,親元で謹慎することとなっていた38)

 こうした親元での預かりの過程で,奉公人に対する処分が言い渡された.

天明4年の神崎郡乙女浜村の新助の場合には,心得違いにより親元である五 兵衛のところへ預けられたが,その後正式に「御暇被下」,金1両の「心付」

と奉公先へ持ち込んでいた「着替雑物」の返還を受けた.今後は「同商売奉 公為致間敷候,勿論御得意先之妨為致申間敷候」とあり,同じ商売を営む商 家への奉公や得意先への妨害などしないことを誓約した39).こうした着類の 受取りは,寛延3年の与八の場合にも見られた.与八は京都店で奉公をして いたところ,断りもなく抜け帰りをするという不届きを起こし,段々許しを 願い出たところ,聞き済みとなり,置いていた着替えを親の数珠屋弥兵衛が 受け取った40).天保11年の蒲生郡浅小井村の芳兵衛の場合も,「勤中不調法」

を行ったが,「御憐愍を以」って許され,善作が弟の着類を受取っている41).  西川利右衛門家にとって,奉公人の店への貢献度・不祥事の内容・度合い・

謝罪などに応じて,さまざまな処分がなされた.もっとも簡単なのは,その まま暇をとらせるものであった.寛政9年(1797)の弥三八の場合は,江戸店 において金39両2分の引負を行い,金10両で詫びを入れ,それが認められ た42).文化15年の蒲生郡南津田村の源兵衛の場合には,大坂店において心得 違いをして「御店御作法相背不埒之義」があり,在所の親元へ預けとなった.

37) 元文元年10月「覚」,卯12月「一札」 38) 天保12年正月「一札之事」

39) 天明45月「一札」 40) 寛延312月「請取証文」 41) 天保118月「一札之事」 42) 寛政912月「覚」

(19)

「日々難渋之至奉存候」ところ,南津田村の長右衛門を通じて,段々詫びを入れ,

それが聞き届けられ,「御憐愍」によって金45両が「合力」として下される こととなった43).このように詫びを入れることで,引負額が減額されたりした.

 もっとも多かったのは,再勤である.万延元年(1860)の犬上郡藤瀬村の為 七の場合は,安政2年(1855)2月に12歳で喜代松として奉公し,17歳で元 服し為七と改名したが,万延元年7月に「心得違不埒仕」,大坂表において店 を出た.浪々の後,在所の親元へ立帰り,後悔の上,詫を入れて再勤を願い 出た.「格別之御勘弁ヲ以」,その時の借用金8両を弁済しなければならなかっ たが,出精して返済するという趣意で,再勤を認めてもらった.そして,今 後改心の上,心得違いなく奉公することとなった44).慶応2年の蒲生郡舟木 村の清七の場合は,幼年より奉公をしていたが,「御家風」背くような態度 をとったため,親元へ預けとなった.再勤を願い出たところ,格別の「御勘弁」

で許されたが,また家風に背くような行為をしたため,暇を遣わされること となった.そこで,これまでの店からの借用金1分2朱を用捨してもらった上,

金30両を「心付」として渡され,「向後改心正路可仕」として,出入差し 止めとなった45)

 再勤を望む場合には,反省の度合いをいろいろと西川利右衛門家へ訴える 必要があった.そこで,本人・親・親類・請人だけでなく,有力な仲介者を 口添えに選んだりした.天保9年の与兵衛の場合には,大坂店において「過 分之引負仕,其上家出仕候」ところ,行方不明となっていたが,松兵衛方へ 立寄っていた.松兵衛方では,与兵衛に対し不埒の段を厳しく諭し,松兵衛 方からも,今一度帰参の願を西川家へ申し入れているので,聞き届けてもら いたいと与兵衛の親である大村八郎兵衛が願い出た46)

 さらに,再勤を何度も繰り返す場合も見られた.安政5年の蒲生郡舟木村

43) 文化152月「一札之事」 44) 万延元年10月「差入申一札之事」 45) 慶応27月「差入申一札之事」 46) 天保911月「乍恐書附ヲ以奉願上候」

(20)

の善助の場合は,幼年より奉公していたが,同3年に心得違いがあり,金3 両3分2朱を遣い込み,親である中村屋作兵衛の元へ預けとなったが,種々 詫びを入れ,聞き済みとなった.返金については,「当人出情致別宅被仰付候 節,元手金之内ニ而御差引可被成下候」として,心を改め奉公に精進すること で再勤が許された.ところが,また心得違いを行い,親元作兵衛へ預けとなっ た.しかし,再度再勤を願い出たところ,「格別之御仁憐ヲ以」って,「此後 急度改心仕,実意相勤可申候,若亦聊も不都合之事御座候ハヽ,如何様共 御取斗可被下候様,其節一言之申分毛頭無御座」として,3度目の再勤が認 められた47).文久3年(1863)の舟木村善助の場合は,弘化2年(1845)に9 歳の頃から奉公し,27歳となったが,「四ケ度目心得違仕」,後悔して「帰参 之義」を願い出た.改心をして,一同相談し,万一心得違い引負等があった ならば,銘々から弁金し,「御損難相懸ケ申間敷候」とした.そこには,4度 目ということでもあるのか,舟木村親の善右衛門・同村親類の万右衛門・同 村親類の六左衛門・南津田村親類の角屋清五郎・奉公人の善助が署名捺印を している48)

 一方,再勤によって再起をして幹部にまで上り詰めた者もいた.安政5年 の若井庄兵衛の場合は,奉公中に心得違いがあり,注意をしていたが,「先年 も親元へ御預ケ」となり,嘆願した結果,格別の「御憐愍」によって再勤となっ た.その後は出精し,お陰で成人して,この度支配役を仰せ付けられた49). 心得違いを起こして,親元へ帰されても,再勤によって支配役まで昇り詰め たのであった50)

 簡単な不埒,たとえば酒の上でのトラブルなどの場合には,禁酒など軽微 な処分で済まされた.嘉永5年(1852)の松兵衛の場合は,「是迄不埒之暮方

47) 安政39月「差入一札之事」.安政58月「差上申一札之事」 48) 文久38月「差入申一札之事」

49) 安政58月「差上申一札之事」

50) 三井家場合にも,奉公人の規律違反は,昇進にはあまり影響を与えなかったとされている(西

坂靖『三井呉服店奉公人の研究』東京大学出版会,2006年.300―302頁)

(21)

仕居候」について,格別の思召しによって,「向後急度改心仕候付者,暫禁 酒仕,家業大切相守,遊興ケ間敷義不仕,御本家へ聊御心労相懸申間敷」

とある51).文久元年の山野松兵衛の場合は,「御屋鋪廻役目相勤居候内,不都 合之儀仕,右付御差留被仰聞」ていたが,その後改心して再勤を願い出た ところ,「御勘弁」により御屋敷廻りの再勤を申し渡された.ついては,「右 勤中者急度禁酒仕御大切之役目聊心得違不仕候」と,禁酒をして役目を成し 遂げることとした52)

 また,店内融和を進めるために,奉公人の集団処分を行う場合もあった.

文政8年の北川平兵衛・浦部茂兵衛・田口兵助ならびに他2人に対する処分 である.江戸店の支配人が病身であり,二番目役の増兵衛が病死したため,

孫兵衛を二番目役として本家から派遣した.ところが,北川平兵衛をはじめ 彼らが孫兵衛との間に不和を生じ,心得違いをしたため,在所預けとなった.

そこで,彼らは詫びを入れたところ,再勤が許された.再勤にあたっては,「以 後孫兵衛ハ不申及,傍輩中睦敷実意を以心得違無御座候様,御奉公大切相勤」

「是迄之通江戸御店勤被仰付被下置候」と,奉公人間の融和を誓うこととなっ た53)

 引負は,店に相談なく,勝手に店の資金でもって,自分商いを行ったりして,

店に損失を与えるといういわゆる使い込みである.ある程度店内での奉公人 の地位が上昇すると,自分の判断で左右できる資金が増えたため,引負によ る不埒が目立つようになる.宝暦2年の小山崎村の平七の場合は,江戸店に おいて642匁の引負を起こし,親元へ預けとなっていたが,その後詫びを入 れたところ了承された.そして,もし他所へ奉公する場合でも,同商売方へ 勤めさせることはないと誓った54).天明4年の源兵衛の場合は,江戸店で勤 めていたが,「所々商内先キニ而」,1貫100目余の引負をして,その内金2両

51) 嘉永52月「改心之事」 52) 文久元年12月「差上申書付之事」 53) 文政810月「差上申一札之事」 54) 宝暦28月「覚」

(22)

で詫びたところ,聞き済みとなり,暇を遣わされた.「然ル上ハ同商売躰奉公 為致申間敷」として,金子5両が親元へ下されることとなった55)

 引負でも巨額の事例が見られた.明和2年の大坂店支配の庄兵衛の場合は,

幼少の頃から奉公に出て,大坂店の支配まで勤めたのであるが,銀61貫匁余 の引負を起こした.同年7月晦日に店を出たまま帰らず,行方を穿鑿してい たところ,在所である蒲生郡舟木村にいる親の百姓治郎兵衛方に戻っていた ことがわかった.そこで足止めをしていたが,そこからまた家出をして行方 不明であるという56).庄兵衛の場合は,大坂店の支配という高い地位にあっ たため,手元で差配する金額が大きく,このような巨額の引負金につながっ たようである.

 次に,引負の内容が少しわかる事例があるので見てみよう.天保11年の太 兵衛の場合は,文化14年3月に定次郎として11歳で奉公し,成人して太兵 衛と改名した.天保11年に34歳となったが,心得違いによって,同10年7 月から11年3月までに莫大の金子を引負い,請人からその引負金の弁償がな される筈であったが,容赦となり,「永之暇」が下された.その際,調査した ところ,引負金は330両(升屋用助40両,福嶋屋助五郎50両,升屋用助30両,福 嶋屋助五郎100両,升屋洋介50両,米屋保蔵60両)であった.これらの金子の使 い道は,「和泉屋治右衛門払」50両,「木本屋治郎吉払」27両2分,「きしや払」

13両2分2朱,「松の尾払」2両,「江戸上下路用」6両,「深川両度払」19両,

「小鶴女,亥七月 十二月迄囲仕切金」33両,「右同人,かんさし代」4両2分,

「右同人,正月着物代」10両などとあり,また「小鶴身請代金として,大坂 立花屋由兵衛へ相渡申置候」150両が記され,「立花屋由兵衛方へ預置候着物控」

として,丹前・袷・羽織・帯・羅紗紙入・煙草・煙管など16品が書き上げら れていた57).要するに,女性や着類などの遊興費に使い込んだようである.

 嘉永2年の甚兵衛の場合は,佐七を甚兵衛と改名し,弘化4年8月から備

55) 天明42月「覚」

56) 明和28年「引負申銀子事」.明和210月「乍恐奉願口上書」 57) 天保115月「差入申一札之事」.天保115月「覚」

(23)

中早嶋店へ奉公していたが,「何角不始末之趣」があり,暇願いを申し出たと ころ,金16両1分・251文借用のうち金1両大坂買物・2歩2朱箪笥代金・4 両が給分として下された.残金の10両2歩2朱・251文と早嶋店に勤めてい た時の買掛り14軒分の〆高1〆6匁9分8厘(金12両2分・6匁9分8厘)に ついては,すぐに調達できないので,才覚をもって近々の内に返済するとし た58)

 出世払いによって,支払うという場合も見られた.弘化4年の佐七の場 合,幼年より奉公に出て,28歳になり店支配方を仰せつけられていたところ,

190両の勘定不足となり,詫びを申し入れ,120両が用捨となったが,残りは 一時に支払うことができないので,「年限不拘佐七出世次第相立可申候」と いうように,出世払いとなった59)

 引負金を前述したように別家(別宅)に際して,支給される元手銀の内か ら相殺するということも行われた.文政6年の増兵衛の場合は,江戸店で心 得違いを起こし,3貫182匁余の引負をし,請人へ預けられた.引負金を調 達するようにとのことであったが,金子の工面ができず,引負金については,

無事奉公を遂げ,退役する際の元手銀のうちから差引いて弁済するというも のであった.「万一夫迄不奉公之筋合有之御暇被下候義有之候者,請人方 急度調達可仕」と,途中で不奉公となった場合には請人が責任をもって調達 するとしている60).文政7年の茂兵衛の場合は,江戸店で心得違をし,2貫 387匁9分5厘の引負となり,この引負金を調達するようにとのことであった.

しかし,金子の工面ができず,今後奉公を大切に勤め,「退役被仰付被下候節,

元手金被下候内ニ而御差引被成下候」とのことで,万一不奉公の場合は,請人 ならびに親類中からそれを調達するとのことであった61)

 天保12年の仁兵衛の場合は,文政6年2月に寅吉として11歳で奉公に召

58) 嘉永210月「差入申一札之事」 59) 弘化46月「差入申一札之事」 60) 文政610月「一札」 61) 文政7年正月「一札」

(24)

抱えられ,成人して仁兵衛と改名し,江戸店「弐番役」まで勤め29歳となっ たが,心得違いをして,暇を願い出た.そこで,引負金25両を親ならびに 親類が弁済しなければならなかったが,調えることができないので,「御奉公 出情仕,元手金被下候節,御差引被下度」願い出て,了承を得ることができ た62).嘉永7年の新七の場合は,幼少から奉公に出て,成人に達したが,心 得違いがあり,13両・3匁9分5厘の「遣込引負」となり,この春から親元 へ預けとなった.金子は早速弁済しなければならなかったが,難渋のため再 勤を願い出たところ,「厚御憐愍ヲ以御聞済被成下」,引負金については,当 人が出精して元手銀から差引されることとなった63)

 引負金については,元手銀による相殺ではなく,給銀等で追々返却する場 合も見られた.嘉永4年の伝七の場合は,幼年から奉公し,「追々成人相勤申 候」ところ,心得違いによって「金七拾両斗遣捨」て,引負となった.弁済 するようにとのことであったが,当時不都合により弁済することができない ので,「伝七出情之砌,追々弁銀可仕様御願申上候」ところ,聞き済みとなっ た64).文久元年の南清水村の幸七の場合は,幼名善蔵として奉公していたと ころ,心得違いにより,一旦店を出て,その後立ち帰った.相談の上,その 後,尻無村善八の出店である武州川越へ奉公に遣したが,勤め兼ねて3月中 に立帰ってきた.その後大坂や長崎へ行き,6月3日に立戻り,猫田村惣兵 衛の出店である武州熊谷十一屋方へ奉公に行った.奉公中の引負金100両と 他に借用銀とも,「奉公給分を以,年々銀百目ツヽ皆済迄無相違為相立可申候,

万一相滞候ハヽ,加印之者 急度相弁へ相立可申候」と,給銀で弁済するこ ととなった65)

 天明4年の長八の場合は,江戸店で勤めていた時に,金80両余の引負を起 こし,請人方へ預けられ,その金子を親・請人で弁済するようにとのことであっ

62) 天保129月「差入申一札之事」 63) 嘉永79月「差入一札之事」 64) 嘉永412月「引取申一札之事」 65) 文久元年12月「差入申一札之事」

(25)

たが,「私共義漸々世渡り仕罷在候得者,右金子相弁候義調不申候」というこ とで,当時金子5両を返金しなければならなかった.そこで,長八を奉公に 差し出し,その給銀で年々金1両ずつ,翌年の暮から5年間の間上納するこ とを願い出て,聞き済みとなった66).文政13年の佐兵衛の場合は,幼年から 大坂店にて勤めてきたが,心得違いをし,銀1貫600目余の引負ができ,親 元へ預けとなり謝罪した.今後心を改め,「重々入情相勤可申候」として,引 負金についても「小遣ひ被仰付之節ハ,成丈ケけん約仕,其内ニ而追々御返納 可仕候」とした67)

 最悪の場合には,引負金をめぐって,奉行所へ訴え出ることもあった.宝 暦7年の蒲生郡蓮花寺村の与市の場合は,手代に召抱えたが,江戸店におい て不埒を起こし,そのまま親元へ「ぬけ帰り」をして,引負金は74両であった.

与市は親元へ預け置き,その引負金の弁済を求めたところ,そのうち金8両 を渡し,残金の返済は見られなかったので,催促をした.ところが,不埒ば かり述べ「難義至極仕候」という状況であった.そこで,京都御番所へ訴え 出ることとなった68)

 その他にも,明和5年の八幡永原町の鍋屋与三兵衛の場合は,幼少から大 坂店へ奉公し,宝暦12年に不調法を起こし,同年11月に親・請人へ預けと なり,詫びを入れたところ,了解され,同13年7月に「永ク御暇被下置」た.

それから「職商売仕罷有候」ところ,不調法をして暇を下されたということで,

「御門へも恐,通路も難成様奉存,難渋至極奉存候」というような状態で あり,「何国居申候も難相済儀御座候所,別御同所居申儀御座候得 ハ」「立身仕候而茂,其かい無之儀御座候故」に,店へ参上できるように取 り計らってほしいと願い出ている69).このように,不調法は社会的な信用を 失墜させることとなり,それゆえ,雇用者であった西川利右衛門家の対応が

66) 天明44月「一札之事」 67) 文政13年閏3月「差上申一札之事」 68) 宝暦75月「乍恐書付を以御願奉申上候」 69) 明和512月「乍憚口上書ヲ以御願奉申上候」

(26)

奉公人にとって大きな意味をもつものであった.

 不埒・心得違い・引負などが生じた背景には,奉公人の置かれていた環境 があった.彼らは,近江から幼い頃に雇用され,江戸・大坂などの大都市の 店で勤務していた.そこは,住込みによる男だけの世界で,厳しく制限され た衣食住の生活を送っていった.それゆえ,都市の刺激的な世界に接し,さ まざまな誘惑にかられ,心得違いなどが引き起こされたのである.また,勤 務が長期にわたるに従い,しだいに多額の金銭と接触する機会が増え,それ にともない引負などの不祥事も発生し,引負額も増加していった.こうした 不調法に対する措置としては,まず店から親元に帰され,そこで謹慎して,

西川利右衛門家からの処分を待った.その間に西川家では,調査などを行い,

事実を確認し,処分を決めている.一方,不調法を起こした本人や親・親類・

請人は,西川家への謝罪を何度も行い,少しでも軽い処分で済むように努力 した.

 簡単な処分は,奉公人からの謝罪を受け入れた上で,そのまま暇を遣わし た.その場合には,奉公人の着類の引き渡しやこれまでの忠勤に対する「心付」

が遣わされたりした.最も多いのは,再勤が許される場合である.もちろん,

親元へ帰され,謝罪が受け入れられる必要があった.再勤が許されたのは,

西川家にとって,奉公人を幼少期から預かり,経験的な教育を施してきたため,

多少の不調法で有能な人材を失うのは合理的な選択ではないと判断したよう であり,なかには何度も再勤が許される場合も見られた.

 引負の場合は,本人はもちろん親・請人に対し,弁済が求められた.弁済 にあたっては,ある程度,金額が軽減される場合もあった.また,金額が大 きくなると,奉公人が別家(別宅)する際に支給される元手銀から差し引いて 弁済される場合が多かった.巨額なため,親・請人からも簡単には返済できず,

奉公人の再勤を認めた上で,退店時に一括返済させようとするものであった.

その意味でも,奉公人の再勤はある程度必要な措置としてとらえられていた.

元手銀以外にも,給銀から差し引く場合もあった.その場合も,再勤を前提

(27)

とした措置であった.最終的には,弁済を奉行所に訴えようとする場合も見 られたが,実際実行に移されたかどうかは不明である.奉公人を訴えること は,主従関係を放棄することとなり,訴えても奉公人の事情を考えると弁済 されるかどうか不確定であり,抑止効果を期待するだけで,よほどのことが なければ行い得なかった.それよりは,むしろ,謝罪を認め,再勤を促し,

奉公人の労働の成果である給銀や元手銀から弁済させる方法がより一般的で あった.また,引負を行うのは,金銭感覚に長けた奉公人である可能性が高く,

むしろその能力をうまく引き出し,活用する方が店にとって合理的な選択で もあった.

お わ り に

 以上,西川利右衛門家奉公人の諸相について述べてきたのであるが,そこ では次のようなことが明らかになった.

 第1に,西川家では,宝暦9年以降,江戸店・大坂店における数多くの店 則を作成し,火の用心,帳簿の取り扱い,蔵の管理,外出・着類・習い事の規制,

開店・就寝時刻,新規事業の禁止などを規定し,その時々の状況に応じて改 定を行い,細かな取り締まりがなされた.また,こうした店則は,毎月定期 的に読み聞かせを行うことによって,徹底化が図られた.

 第2に,長年西川家に勤めた奉公人は,本来は独立した事業体である別家 となるのが一般的であったが,しだいに通勤別家となる別宅という形態に変 化していった.その際に渡される元手銀は,その後必要となるまで店で利子 を付して本家が預かっていた.元手銀は,金では100両か200両,銀では10 貫目が多く,また元手銀のほかに諸道具料や心付けなども支給され,これら も元手銀と同様に本家が利子を付して預かっていた.

 第3に,退店理由は,死去・病死・病気が多く見られ,彼らには弔料が渡 された.また,暇などで退店する場合は,同商場への奉公と得意先への妨害 を禁止し,西川家で経験した同じ商売を行わないこと,同商売を行っている

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商家へ奉公しないことを求めた.

 第4に,奉公人が不埒・引負・心得違いなどの不祥事を起こした場合には,

とりあえず親元へ帰され,謹慎となった.その間に奉公人・親・請人などか ら謝罪が繰り返され,本家から処分が言い渡された.そのまま暇となる場合 も見られたが,多くの場合再勤が許された.引負の場合は,親・請人にまで 弁済が求められ,返済額が軽減される場合も見られた.金額が大きくなると,

再勤を認めた上で,元手銀での返済や給銀からの返済なども求められた.

(うえむら まさひろ・和歌山大学経済学部)

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The Doshisha University Economic Review Vol.64 No.4 Abstract

Masahiro UEMURA, Some Observations on the Employees of the Family of Riemon Nishikawa, an Omi Merchant

  Riemon Nishikawa was an Omi merchant who established in Shinmachi, in the Omi district, the head office of Hachiman-cho. The founder began to peddle tatami facing and mosquito netting there, and prepared to open shops in Osaka, Edo, and elsewhere thereafter. The purpose of this paper is to examine the lives of the employees who saw, first-hand, the store rules; capital money that was paid upon establishing independence; mistakes made by the employees; the company’s disposal methods, and various other characteristics.

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