近江商人西川利右衛門家の奉公人
著者 上村 雅洋
雑誌名 同志社商学
巻 63
号 5
ページ 601‑624
発行年 2012‑03‑15
権利 同志社大学商学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012864
近江商人西川利右衛門家の奉公人
上 村 雅 洋
Ⅰ はじめに
Ⅱ 西川利右衛門家の概略
Ⅲ 店方奉公人と男奉公人
Ⅳ 店役割
Ⅴ おわりに
Ⅰ は じ め に
近江商人の雇用形態については,これまで近江出身者の雇用や在所登り制度などの特 質が指摘さ
1
れ,多くの事例研究が積み重ねられてき
2
た。そして,近江商人の雇用形態を 明らかにすることは,近江商人の再生産構造を解明する上
3
で,さらに近江商人の近代化 を考える
4
上で非常に重要な問題を含んでいる点が強調されてきた。また,商業活動のみ に従事してきた近江商人とは異なる日野商人にみられるような製薬業や醸造業などの製 造部門を抱えた近江商人についても,その雇用形態の実態がしだいに明らかにされてき
5
た。こうした奉公人に関する研究は,近江商人にとどまることなく,他の近世商家の奉 公人についても,近年詳細な分析が進められるようになってき
6
た。
────────────
1 拙稿「近江商人の雇用形態」(安岡重明・藤田貞一郎・石川健次郎編『近江商人の経営遺産』同文舘出 版,1992年),拙著『近江商人の経営史』清文堂出版,2000年。
2 ほかに,近江商人の雇用形態に関する事例研究としては,原田敏丸「徳川時代近江商人の店員組織−日 野の豪商中井源左衛門家の場合−」(堀江保蔵編『近世日本の経済と社会』有斐閣,1958年),末永國 紀「近江商人の店員組織−小林吟右エ門家の場合−」『経済経営論叢』(京都産業大学)第12巻第4号,
1978年,同「商家奉公人の給金制度と生活」同第21巻第1号,1986年,拙稿「近江商人塚本定右衛門 家の雇用形態」『同志社商学』第50巻第5・6号,1999年などがある。
3 近江出身者の雇用・在所登り制度・分別家制度などが結びついて,近江商人の再生産がなされ,近江商 人が地域的に集中して,しかも継続的に輩出したと考える。
4 拙稿「近江商人の近代化」(安岡重明編『近代日本の企業者と経営組織』同文舘出版,2005年)。近江 商人の近代化には,在地性・家制度・雇用形態の克服が課題とされた。
5 拙稿「近江商人正野玄三家の事業と奉公人」(徳永俊光・本多三郎編『経済史再考』思文閣出版,2003 年),同「近江商人正野玄三家の奉公人と給金」『大阪大学経済学』第54巻第3号,2004年,同「近代 における近江商人正野玄三家の雇用形態」『経済理論』(和歌山大学)第332号,2006年,同「近江商 人吉村儀兵衛家の雇用形態(1)(2)」同第353号,第354号,2010年,同「近江商人高井作右衛門家 の経営(2)」同第361号,2011年,宇佐美英機「近江日野商人山中兵右衛門家の奉公人請状」『彦根論 叢』第359号,2006年,同「明治期山中兵右衛門家の奉公人請状」同第365号,2007年,同「山中兵 右衛門家の奉公人」(松本宏編『近江日野商人の研究』日本評論社,2010年)などの研究がある。
6 西坂靖『三井越後屋奉公人の研究』東京大学出版会,2006年,藤田彰典「京都商人大黒屋杉浦家の奉 公人制度」『京都文化短期大学紀要』第18号,1992年,同「京都商人大黒屋杉浦家の奉公人制度」『中 京学院大学研究紀要』第3巻第1号,1995年,植田知子「商家の奉公人管理−杉浦大黒屋四代三郎兵 衛をめぐる商家経営と奉公人育成」『同志社商学』第50巻第5・6号,1999年,同「商家における奉!
(601)237
そこで,本稿では,これまでなされてきた奉公人の雇用形態の研究を踏まえ,近江商 人の商家における奉公人について,次のような点に留意して検討することにしたい。第
1
に,これまで主として取り上げられてきた店方奉公人だけでなく,商家の中で彼らの 周辺にいた男衆・下男や下女・乳母などの奉公人もできるだけ取り上げ,同じ奉公人で も店方奉公人とどのように異なるのか,その特徴,関係など商家を取り巻く奉公人の在 り方と合わせて考えてみることにした。そうすることによって,店方奉公人の特徴がよ り明確になると考えた。第2
に,これまで取り上げられることの少なかった店方奉公人 の本家および出店間での勤務の異動(転勤)の問題について目を向けた。これまでの研 究では,奉公人の支店間の異動はあまり行われなかったようにとらえられてきた。その 点を解明することによって,異動を通じて見た個々の出店による性格の相違についても 考えようとした。第3
に,店方奉公人の出店での役割分担,機能などを見ることによっ て,出店での店方奉公人の職務内容について検討しようとした。そのため,本稿ではとりわけ多数の奉公人請状と奉公人控などの史料分析を行うこと によって,これらの問題に接近し,また,店役割書などを用いて店方奉公人の役務分担 についても明らかにする。
なお,本稿では近江商人として著名な西川利右衛門家を取り上げ,具体的な奉公人の 在り方について分析を進める。西川利右衛門家については,これまで近江八幡市新町に 所在する建物が国の重要文化財に指定されるとともに,周辺の街並みも整備され,多く の見学者が訪れ,一般によく知られるようになった。しかし,西川利右衛門家の経営実 態に関わるような研究は,ほとんどなされてこなかった。『近江蒲生郡
7
志』『滋賀県八幡 町
8
史』にも簡単な創業に至る経緯や出店の設置などがわずかに触れられているだけであ った。唯一,西川利右衛門家について,叙述されているのは,『八幡商人人物
9
伝』と
『近江商人列
10
伝』だけである。ただし,そこにおいても歴代当主を中心とした西川利右 衛門家の概略的なことが述べられているだけであり,その経営実態をはじめ,本稿で取 り上げる奉公人の実態などについては,ほとんど述べられていない。そこで,本稿では 西川利右衛門家の奉公人を取り上げ,前述した点に留意しながら分析を進めることにし
────────────
! 公人管理の理念−杉浦大黒屋の事例検証から−」『社会科学』(同志社大学)第68号,2002年,同「京 都商人杉浦大黒屋京店の店員組織・職制・昇進−江戸後期の事例から−」同第72号,2004年,同「京 都商人杉浦大黒屋の雇用と昇進−江戸後期〜明治初期−」(安岡重明編前掲『近代日本の企業者と経営 組織』),同「幕末期の杉浦大黒屋−江戸後期との比較検討−」『同志社商学』第56巻第5・6号,2005 年,同「京都商人杉浦大黒屋の別家制度(1)」『社会科学』(同志社大学)第78号,2007年,同「京都 商人杉浦大黒屋の別家制度(2)−勤番に関する検討−」同第79号,2007年,同「杉浦大黒屋の別家制 度−明治期における変化とその要因−」同第41巻第1号,2011年などの研究がある。
7 『近江蒲生郡志』巻5,滋賀県蒲生郡役所,1922年,906ページ。
8 福尾猛市郎編『滋賀県八幡町史』上 通説,近江八幡市役所,1940年,556〜557ページ。
9 江南良三『近江八幡人物伝』近江八幡市郷土史会,1981年,45〜49ページ。
10 江南良三『近江商人列伝』サンライズ,1989年,190〜196ページ。内容的には,『近江商人人物伝』と ほとんど同じ叙述である。
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238(602)
た
11
い。
Ⅱ 西川利右衛門家の概略
ここでは,西川利右衛門家の奉公人の分析に入る前に,これまでの研究に依拠しなが ら,西川利右衛門家の概略について簡単に述べておくことにしよう。西川利右衛門家 は,「西川利右衛門
12
家」によれば,戦国武将朝倉氏の家臣であった木原氏が近江の西川 家の養子となり,西川勘右衛門数吉を名乗った。その数吉が八幡西川家の祖となり,蒲 生郡市村に居住し
13
た。そこでは,付近の村童を集め,教育を施し,生計を立てていたと いう。数吉には,四男二女がおり,寛永
21
年(1644)5
月25
日に没した。長男である
2
代目西川勘右衛門は,西川利右衛門数政と改め,最初は八幡魚屋町,次 に八幡池田町,そして八幡新町に移住し,初代利右衛門となった(第1表)。初代西川 利右衛門数政は,そこで畳表・縁地・蚊帳等の行商をはじめた。彼は,馬を求め,これ に荷物をつけて自ら乗って東海道を持ち下ったという逸話がある。こうした行商の後,大坂瓦町
1
丁目に支店を設け,店名前を近江屋八右衛門とした。さらに江戸日本橋通2
────────────
11 本稿では,取り上げられなかった西川利右衛門家の店則や奉公人の生活,別家と元手銀,不調法と退職 などについては,別稿を用意している。
12 「西川利右衛門」(西川庄六家文書)。
13 江南良三『近江八幡人物伝』近江八幡市郷土史会,1981年,45〜49ページ,同『近江商人列伝』サン ライズ,1989年,190〜196ページ。西川利右衛門家の概略については,主にこれらの文献に依拠して 叙述した。
第1表 西川利右衛門家の歴代当主
代 名前 法名 幼名など 誕生年 相続 死亡年月日(享年) 備考 初代
2代 3代 4代
5代 6代 7代 8代 9代 10代 11代
利右衛門数政
利右衛門重数 利右衛門数正 利右衛門数常
利右衛門治記 利右衛門数亮 利右衛門数孝 利右衛門数喜 利右衛門数繁 利右衛門数雅 利右衛門徳浄
浄向
浄貞 了泰 泰秀
泰念 泰定 郭山 了寿 了円 碩秀 徳浄
熊之助 長松,清三郎 十右衛門
四郎治郎,
四郎十郎 伝蔵 五郎蔵 常五郎 房蔵,延次郎 亀之助 徳治郎
天正18年
元和7年 寛文2年
延享4年10月〜
天明元年〜
文政2年〜
正保2年12月5日
(55歳)
寛文10年12月22日
(49歳)
寛保2年3月21日
(80歳)
安永2年5月5日
宝暦13年11月20日 天明元年11月10日 文政2年11月27日 天保12年7月27日
(59歳)
嘉永3年10月10日 明治2年4月27日 昭和5年8月30日
越前国朝倉氏に仕えた西川勘右衛門 数吉の長男,八幡町新町に移住,大 坂店・江戸店を開く
数政の長男,次男を庄六家,四男を 仁右衛門家として分家
重数の長男,扇屋伴兵衛家の子女を 嫁とする,宝永3年に本家を新築 次男数久を庄六家の3代目,三男秀 応を仁右衛門家の3代目とし,四男 浄泰を徳蔵家として分家
数常の長男
数常の五男,安永6年京都店を開設 3代目庄六数久の長男,三男を3代 目徳蔵とする
天保8年頃に備中早嶋店を開設
4代目庄六数居の三男 7代目庄六数富の次男 出所:江南良三『近江八幡人物伝』近江八幡市郷土史会,1981年,45〜49ページなどより作成。
近江商人西川利右衛門家の奉公人(上村) (603)239
丁目に支店を設け,店名前を大文字屋嘉兵衛とした。数政は,江戸へ向けて近江にある 本店の商品を輸送して販売する傍ら,江戸城の本丸・西の丸の畳表替えの御用を勤めた という。こうして初代西川利右衛門数政は,同家の基盤を築き,正保
2
年(1645)12
月5
日に55
歳で没した。2
代目西川利右衛門重数は,元和7
年(1621)に数政の長男として生まれ,初代の事 業を継ぎ,寛文10
年(1670)に49
歳で没したが,長男の数正に家督を譲り,同年3
月 に次男の庄六を分家させた。この庄六が初代西川庄六であり,大文字屋として蚊帳・繰 綿・真綿・砂糖問屋を営んだ。庄六家は,同じく八幡新町に居を構え,江戸日本橋通4
丁目に支店を設け,本家利右衛門家とともに代々近江商人として活躍することとな14
る。
重数は,さらに四男を分家させ,西川仁右衛門家とした。西川仁右衛門家は,近江屋と 称し,その後発展し,文化
13
年には大坂の今橋に出店を設け,木綿・紅染・呉服など を取り扱う近江商人となっ15
た。
3
代目西川利右衛門数正は,寛文2
年に重数の長男として生まれ,八幡の扇屋伴伝兵 衛の娘を嫁に迎えた。寛保2
年(1742)に80
歳の長寿で亡くなるまで,利右衛門家の 発展に尽力し,宝永3
年(1706)には,間口13
間,奥行24
間の広大な屋敷地に本宅を 新築し16
た。
4
代目西川利右衛門数常は,延享4
年(1747)10
月に,長男の治記へ5
代目西川利右 衛門の家督を譲り,早く隠居した。ところが,治記は,病弱であったため宝暦13
年(1763)に若くして亡くなった。そこで,数常の五男であった伝蔵が利右衛門家を引き 継ぎ,6代目西川利右衛門数亮となった。数亮は,天明元年(1781)に没するが,安永
6
年(1777)には京都店を開設した。4代目の数常には,他に3
人の男子がいたが,二 男の数久は西川庄六家の3
代目を継ぎ,三男の秀応は3
代目西川仁右衛門家を継ぎ,四 男の浄泰には西川徳蔵家を分家させた。西川徳蔵家は,大文字屋十右衛門と称し,新町2
丁目に薬種問屋を設け,その後大坂・京都に出店を構え,事業を営む近江商人となっ17
た。こうして,数常は西川利右衛門家の隆盛期を築き,安永
2
年に亡くなった。7
代目西川利右衛門数孝は,3代目西川庄六の長男であったが,天明元年に本家であ る利右衛門家の家督を継ぎ,文政2
年(1819)に没した。そこで,8代目西川利右衛門 数喜は,文政2
年に先代の死去によって家督を36
歳で相続した。そして,天保8
年(1837)頃には畳表の仕入れをするために備中の早嶋に出店を設け,同
12
年に死亡し た。9代目西川利右衛門数繁は,同年に家督を継いだが,嘉永3
年(1850)に没した。9 代目は子供に恵まれなかったため,没後に分家の西川庄六家から後継者を迎えることに────────────
14 江南良三前掲『近江八幡人物伝』124〜127ページ。同『近江商人列伝』30〜34ページ。
15 江南良三前掲『近江八幡人物伝』167〜168ページ。同『近江商人列伝』53〜54ページ。
16 これが,昭和58年に国の重要文化財に指定された現在の建物である。
17 江南良三前掲『近江八幡人物伝』165〜166ページ。同『近江商人列伝』51〜52ページ。
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
240(604)
した。
10
代目西川利右衛門数雅は,4代目西川庄六数居の三男であり,明治2
年(1869)に 死亡した。数雅にも子供がいなかったため,再度西川庄六家から養子を迎えなければな らなかった。11代目西川利右衛門徳浄は,7代目西川庄六数富の次男であったが,昭和5
年に没した。その後,西川利右衛門家は後継者に恵まれず,終焉を迎えることとなっ たのである。Ⅲ 店方奉公人と男奉公人
西川利右衛門家には,大文字屋利右衛門あるいは西川利右衛門宛の奉公人請状とし て,「請状之事」,「男請状之事」,「乳母請状之事」と記された
3
種類の奉公人請状が存 在する。「請状之事」は,ほぼ店方奉公人に対する請状であり,享保11
年(1726)の一 例をあげると次のような形式のものである。請状之
18
事
一此三之助と申もの当年十四才ニ罷成,切死丹ころひ又ハ外
!
構有之ものニ而も無 御座候,金銀何ニ而も御取扱セ可被成候,我等請人ニ罷立候御事一従御公儀様被仰出候御法度之義ハ不及申ニ御家之御作法少しも背セ申間敷候,尤 宗旨代々西本願寺小川弘誓寺旦那ニ紛無御座候,則寺請状別紙請人方へ取置申候 御事
一取逃欠落仕候ハ丶,其品々ヲ相弁,本人ヲ尋出し相渡し可申事,万一御家罷出候 共,御影ニて見申商場参,売買之妨成儀仕間敷候,勿論同商売之方へ奉公仕間敷 候御事
右之外如何様之悪敷事仕出し候共,其方様ニ居申内ハ我等請人ニ罷立候,然上ハ引 請急度埒明可申候,為後日仍如件
享保十一年午二月六日 江刕神崎郡福堂村長津
請人 六右衛門㊞
親主 六左衛門㊞
奉公人 三之助
八幡山新町
大文字屋利右衛門殿
────────────
18 享保11年2月「請状之事」(西川利右衛門家文書)。以下,特記しない限りすべて西川利右衛門家文書 による。
近江商人西川利右衛門家の奉公人(上村) (605)241
そこでは,奉公人の名前・年齢,宗旨,法度の遵守,出身地だけでなく,「金銀何ニ而
も御取扱セ可被成候」と金銀の取扱いを行うこと,西川家を離れても「御影ニて見申商 場参,売買之妨成儀仕間敷候,勿論同商売之方へ奉公仕間敷候」と同家の奉公した商圏 において,商売の妨げをしないこと,同様の商売をしている商家へ奉公しないことを約 束し,店方奉公人としての特徴を示す文言となっている。
一方,「男請状之事」は,「請状之事」とよく似ているが,次のようなものであった。
男請状之
19
事
一此善助と申者当年五十六才ニ罷成,切支丹ころび又者外
!
構イ有之者ニ而者無御 座候,我等請人ニ罷立御奉公ニ出申候,当卯年二月!
未二月迄五ケ年奉公出し 候,則為給銀壱ケ年ニ金弐両宛被下候極メ御座候,尤宗旨ハ代々東本願寺末寺当 村養因寺旦那ニ紛無御座候,則寺請状請人方江取置候御事一従御公儀様被仰出候御法度之義者不申及,御家之御作法少茂背キ申間敷事 一取逃欠落仕候ハ丶,其品ヲ相弁,本人ヲ尋出し急度相渡可申候御事,右之外如何
様之悪敷事仕出し候共,其方様ニ居申内ハ我等請人ニ罷立,然上ハ引請急度埒 明,其元様へ少茂御難儀掛ケ申間鋪候,為後日之仍而如件
文政二年卯二月 野洲郡西川原村
請人 小兵衛㊞
親 平右衛門㊞
奉公人 善助㊞
大文字屋利右衛門殿
すなわち,奉公人の名前・年齢,宗旨,法度の遵守,出身地などを記すのは店方奉公 人と同じであるが,雇用条件である雇用期間・給銀が明記されているのが,特徴となっ ている。また,店方奉公人とは異なり,金銀の取扱いや商業上の妨げなどの文言が入っ ておらず,商業に直接関与しない奉公内容であることがわかる。
したがって,本稿では雇用条件の明記,商業関係の文言が見られない請状は,たとえ 表題に「男請状之事」と表記されず,単に「請状之事」と表記されていても,「男請状 之事」であると解釈して分析をすすめることとした。
そこで,まず店方奉公人の請状について見てみよう。この請状は全部で
184
通残され ており,その年代別件数は,第2
表の通りである。最も古い請状は,宝永4
年3
月の草 津5
丁目の十兵衛のものであっ20
た。10年ごとの残存件数を見ると,寛政期と嘉永〜安
────────────
19 文政2年2月「男請状之事」。
20 享保3年2月にも同じ草津の重兵衛の「請状之事」があり,印判も同じものが押され,年齢も一致し! 同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
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政期には
20
件を超える請状が見られ,この時期には毎年少なくとも平均2
人以上の店 方奉公人が雇用されていたことになる。しかし,10年で4
件の期間もあり,隔年に一 人を雇用しているように見えるが,これはあくまで残存した請状の状態を示しているに────────────
! たため,10年後に再度交わされた同一人物の請状と判断し,重複するので享保3年分は分析対象から 外した。
第2表 西川利右衛門家の奉公人請状
年代 店方奉公人 男奉公人
〜元文4年(1739)
元文5年〜寛延2年(1740〜1749)
寛延3年〜宝暦9年(1750〜1759)
宝暦10年〜明和6年(1760〜1769)
明和7年〜安永8年(1770〜1779)
安永9年〜寛政元年(1780〜1789)
寛政2年〜寛政11年(1790〜1799)
寛政12年〜文化6年(1800〜1809)
文化7年〜文政2年(1810〜1819)
文政3年〜文政12年(1820〜1829)
天保元年〜天保10年(1830〜1839)
天保11年〜嘉永2年(1840〜1849)
嘉永3年〜安政6年(1850〜1859)
安政7年〜明治2年(1860〜1869)
明治3年(1870)〜
不明
4 4 8 4 7 21 20 4 11 17 15 19 23 16 10 1
0 3 6 1 0 6 10 3 4 3 4 3 2 3 0 0
184 48
出所:各「請状之事」(西川利右衛門家文書)より作成。
第3表 店方奉公人の出身地
地域 人数 町村
蒲生郡
神崎郡
犬上郡 愛知郡
野洲郡 坂田郡 浅井郡 栗太郡 大坂 美濃国
85
33
24 21
12 3 1 1 3 1
八幡町33,舟木村11,南津田村5,中野村4,大房村3,牧村3,浅小井村2,倉橋部村2,北
津田村2,土田村2,日野町2,千僧供村2,東川村1,奥之嶋村1,鋳物師村1,馬渕村1,大
森村1,西中小路村1,北脇村1,上豊浦村1,上畠村1,市井村1,川守村1,中村1,北之庄
村1,西大路村1
平坂3,石馬寺村3,乙女浜村3,福堂村2,御薗野村2,小幡村2,浜野村2,愛知川村2,躰
光寺村2,新海村1,北村1,河曲村1,甲崎村1,市田村1,佐目村1,簗瀬村1,普光寺村
1,神郷村1,新田村1,金堂村1,本庄村1
彦根6,藤瀬村3,在士村3,敏満寺村2,中川原村1,小川原村1,下之郷村1,川瀬村1,富
之尾村1,霜ケ原村1,尼子村1,平田村1,小原村1,早田村1
松尾寺村2,上蚊野村2,石寺村2,下一色村1,西川村1,長野村1,長野中村1,長村1,彦
富村1,枝村1,三ツ村1,薩摩村1,柳川村1,香之庄村1,安孫子村1,矢守村1,金田村
1,北菩提寺村1
田中村2,北桜村2,西川原村2,比留田村2,野洲村1,江頭村1,野田村1,堤村1
磯村2,長浜1 野村1 草津1
淡路町1,道修町1,北堀江1 沖村1
合計 184
出所:第2表に同じ。
近江商人西川利右衛門家の奉公人(上村) (607)243
過ぎず,実際には,これらの数値以上の店方 奉公人が毎年雇用されていたものと思われ る。
出身地は,第
3
表のように,蒲生郡85
人,神 崎 郡
33
人,犬 上 郡24
人,愛 知 郡21
人,野洲郡
12
人,坂田郡3
人,浅井郡1
人,栗 太郡1
人の合計180
人(98%)が近江出身者であった。近江国以外では大坂3
人,美濃 国1
人で,例外的なものであった。近江国の中でも,西川利右衛門家の本家が所在する 蒲生郡八幡町からは33
人(18%),蒲生郡全体では46% の店方奉公人を抱えており,
本家の周辺が重要な奉公人の供給地であったことがわかる。こうした本家に距離的にも 近い奉公人を雇用するという方法は,奉公人に関する情報が多く入手でき,毎年比較的 少ない人数で,信頼のおける人物を雇用するのには,適合的な方法であった。八幡町以 外の地では,八幡町に隣接する船木村の
11
人が比較的多く,他は6
人以下であった。1 人の場合も多く,特定の村に出身者が集中しているのではなく分散していた。店方奉公人の出仕年齢は,第
4
表によると,最も若いのは8
歳であり,最高齢者は44
歳であった。最も多いのが,12歳の33
人で,11歳の29
人,13歳の28
人,10歳の15
人,14歳の15
人と続き,10〜14歳で120
人(65%)を占め,ほとんどの店方奉公人は10
代の前半に出仕している。特に,30歳以上での出仕は6
人と例外的なものであった。店先での経験的な教育を行うには,こうした若い内からの出仕は必然的なものであっ た。もちろん,比較的高年齢の出仕者についても請状の切り替えや再出仕の可能性も否 定できない。
第4表 店方奉公人の出仕年齢 年齢(歳) 人数(人)
8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 30 34 37 42 44
1 5 15 29 33 28 15 10 8 2 6 8 1 3 3 3 2 6 1 1 1 2 1
合計 184
出所:第2表に同じ。
第5表 店方奉公人の出仕月
月 人数(人)
正月 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 不明
8 27 37 10 7 8 4 20 31 19 6 3 4
合計 184
出所:第2表に同じ。
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
244(608)
これらの店方奉公人は,定期的に採用されたのかどうか,月別出仕動向を第
5
表によ って見てみよう。この表によれば,2〜4月と8〜10
月に比較的多くの者を雇用してい るようであるが,それ以外の月でも多くはないがある程度の出仕が見られるし,出仕の 見られない月は存在しない。要するに,奉公人の出仕希望があれば,その都度いつでも 随時不定期に雇用している様子がうかがえる。宗旨については,第
6
表のように,浄土真宗114
人,浄土宗45
人,天台宗13
人,禅 宗9
人であり,6割以上が浄土真宗であるが,西川利右衛門家の宗旨である浄土宗も4
分の1
ほど見られた。以上の店方奉公人に対し,下男・男衆である男奉公人について見てみよう。ここで は,「男請状之事」と表題に明記されていなくとも,単に「請状之事」と記されている 場合でも,請状の文言から判断して,合計
48
通を男奉公人の請状として分析を進めた。年代別件数は,前掲した第
2
表に見られるように,寛政期にやや多いものの,ほぼ10
年間ごとに数件の請状が残存している。最も古い請状は延享4
年9
月のものであり,万 延2
年(1851)の請状まで見られる。店方奉公人ほど多くはないが,少なくとも数年に1
人以上が新たに雇用されていたようである。出身地は,第
7
表に見られるように,蒲生郡17
人,神崎郡10
人,犬上郡6
人,愛知 郡7
人,野洲郡8
人であり,すべて近江出身者で占められ,なかでも蒲生郡が35% を
占めている。八幡町は3
人で,店方奉公人ほど八幡町への偏りはないが,店方奉公人とほぼ同様の傾向を示している。
男奉公人の出仕年齢は,第
8
表のように,20代がや や多いものの,10代は全く見られず,30代,40代,50 代においてもかなりの人数を保持している。この点は,店方奉公人とは大きく異なる点であり,男奉公人は労働 力としての実効性が求められ,ある程度の経験を持つ人 物が,雇用されていたことがわかる。それゆえ,店方奉 公人のように
10
代前半から雇用し,経験的教育を施し,第6表 店方奉公人の宗旨 宗旨 人数(人)
浄土真宗 浄土宗 天台宗 禅宗 不明
114 45 13 9 3 合計 184 出所:第2表に同じ。
第7表 男奉公人の出身地
郡 人数 町村
蒲生郡 神崎郡 犬上郡 愛知郡 野洲郡
17 10 6 7 8
八幡町3,南津田村2,多賀村2,鋳物師村2,中之庄村1,舟木村1,長命寺門前1,西老蘇
村1,綾戸村,北之庄村1,津田村1,浅小井村1
本庄村2,市田村1,乙女浜村1,金堂村1,新堂村1,川並村1,甲崎村1,下野村1,小幡村1
太堂村2,尼子村1,在士村1,葛籠町村1,八丁村1
小倉村4,薩摩村2,南安孫子村1
西河原村4,比留田村2,野村1,乙窪村1
合計 48
出所:第2表に同じ。
近江商人西川利右衛門家の奉公人(上村) (609)245
一人前の専門経営者に育てて行くシステムにはなっていなかった。男奉公人は,即戦力 の実労に従事するのにふさわしい人物を必要としていたのであった。
男奉公人の出仕月を第
9
表によってみると,店方奉公人と同様に,正月〜2月と8〜9
月に5
人以上とやや多いものの,毎月ほぼ数人の出仕が見られ,店方奉公人と同様に随 時雇用されている様子がうかがえる。宗旨は,第10
表のように,浄土真宗27
人,浄土 宗18
人,天台宗3
人であり,店方奉公人に比べると浄土宗がやや多くなっているもの の,ほぼ同様の傾向を示している。男奉公人請状の特徴の一つは,雇用期間と給金の明記であった。そこで,この点につ いて見てよう。男奉公人は,請状にも見られたように,雇用期間(年
21
季)を限って雇用 されていた。その期間を第
11
表でみると,5年季19
人,7年季16
人とほぼこの期間に 集中するが,長いものでは12
年に及ぶものも見られる。それでも最低3
年季となって いたようであり,1年季のものは見られなかった。────────────
21 請状に記されている年季とそこで記されている期間とが,必ずしも一致しない場合も見られたが,年季 を優先して表に示した。例えば,5か年の年季が書かれているにもかかわらず,子の2月から辰の2月 までの実質4か年の場合でも5か年を優先した。
第8表 男奉公人の出仕年齢 年齢(歳) 人数(人)
20〜24 25〜29 30〜34 35〜39 40〜44 45〜49 50〜54 55〜56
10 12 7 6 2 4 3 4
合計 48
出所:第2表に同じ。
第9表 男奉公人の出仕月 月 人数(人)
正月 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 不明
6 8 2 4 4 3 1 6 5 2 2 3 2
合計 48
出所:第2表に同じ。
第10表 男奉公人の宗旨 宗旨 人数(人)
浄土真宗 浄土宗 天台宗
27 18 3
合計 48
出所:第2表に同じ。
第11表 男奉公人の年季 年季(年) 人数(人)
3 4 5 7 8 10 12 不明
2 1 19 16 1 1 1 7
合計 48
出所:第2表に同じ。
第12表 男奉公人の給金 金額 人数(人)
2両 3両 4両 5両 7両 10両 100匁 110匁 120匁 150匁 不明
12 3 2 1 2 1 2 2 12 7 3
合計 48
出所:第2表に同じ。
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
246(610)
さらに,男奉公人の場合は,年季とともに
1
か年の給金が請状に明記されていた。そ れを第12
表でみると,奉公人によって金で表示されている場合と銀で表示されている 場合の両方が見られた。金表示の場合は2
両が,銀表示の場合は120
匁が最も多く,中 には10
両にのぼる給金を得ていたものもい22
た。しかし,男奉公人の給金は,店方奉公 人とは異なり,年功型賃金ではなく,年齢にかかわらず,ほぼ
1
年に金2
両(銀では120 匁)が標準であり,あとは奉公人の能力等によって多少増減が考慮されていたようであ る。このように,男奉公人は,店方奉公人と出身地,宗旨,雇用時期などについては大き く違わなかったが,出仕年齢が高く,5〜7年の年季によって雇用され,給金も年齢に 関係なく,年間
2
両程度と定められていたようである。それは,男奉公人が店方奉公人 とは異なり,西川家で経験的な教育を施すのではなく,ある程度の経歴をもった信頼の おける人物を中心に雇用されていたことによるものと思われ23
る。
女奉公人については,乳母奉公人請状が
2
点残されており,そのうちの1
点を紹介す ると次のようなものである。乳母請状
24
事
一此ゆかと申もの当年弐拾五才罷成,切支丹ころひ又者外
!
構イ有之者ニて者無之 候,宗旨者代々一向旨,当町善住寺旦那ニ紛無之慥成者ニて,我等請人ニ罷立,当酉九月
!
来ル子ノ九月迄三ケ年之内御奉公ニ出し申候,則給銀壱ケ年ニ銀弐百 目つゝ并ニ二季麁物被下候事一従御公儀様被仰出候御法度之儀者不及申,御家之御作法少茂為背申間敷候事 一御子息常々大切ニ御養育為致可申候事
一年季之内如何様之儀有之候共,此方勝手ニ御暇貰ひ申間敷候,但し病気ニ候歟又 乳汁不足仕候ハヽ,何時ニ而茂御暇御出し可被成候,勿論日夜無差と仕候もの一 切為給申間敷候事
一取逃欠落仕候ハヽ,其品を相弁尋出し可申候,右之外如何様之悪事仕出し候共,
我等請人ニ罷立候上者,引請急度埒明,其元様へ少茂御難掛ケ申間敷候,為後日 請状仍而如件
文化十酉年十一月 板屋町
────────────
22 給金の高額な奉公人の中には,再勤の者や店方奉公人が含まれている可能性も排除できない。
23 三井呉服店の京本店においても,店表(子供・手代)と台所(下男)という2種類の奉公人は,その性 格を異にしていた。出身は,子供・手代が京都(洛中)の諸商人・諸職人の子弟が多かったのに対し,
下男の場合は日本海地域の村方の出身者であった。奉公開始の年齢も18〜36歳であり,平均して24.5 歳と年齢が高く,店内での処遇や居住空間まで店方奉公人とは,明確に区別されていたという(前掲西 坂靖『三井越後屋呉服店奉公人の研究』51〜64ページ)。
24 文化10年11月「乳母請状事」。
近江商人西川利右衛門家の奉公人(上村) (611)247
親主 篦屋林兵衛㊞
孫平町
請人 形屋利兵衛㊞
奉公人 ゆか 西川利右衛門殿
この請状は,八幡の板屋町の篦屋林兵衛の娘ゆか
25
歳が,西川利右衛門家へ乳母奉 公する時に提出されたものである。奉公期間は3
年間であり,年に200
目の給銀で,2 季には「麁物」も支給されることとなっていた。公儀の御法度はもちろん西川家の作法 にも従うこと,子息の養育には常に気をつけること,奉公期間内は勝手に暇を取らない こと,病気や乳の出が悪くなった場合には暇を出されても構わないことなどと記してお り,乳母奉公らしい内容が盛り込まれている。もう
1
点は,文化15
年(1818)正月の「乳母請状之25
事」で,野洲郡野洲村の又八の 娘りへ
21
歳の請状であり,大文字屋利右衛門宛となっている。書式はほとんど同じで,5
年間の奉公であり,1か年に銀180
匁となっている。男奉公人と同じように奉公期間 と給銀を定めており,店方奉公人とは異なった形式をとっていた。出身地は,店方奉公 人や男奉公人と同様に八幡周辺のようであったが,給銀額は乳母という特殊な役目であ ったためか,男奉公人よりもやや高くなっている。次に,文政
8
年2
月の「奉公人留26
帳」によって,西川利右衛門家に雇用された奉公人 について見てみることにしよう。この史料は,文政
8
年2
月から文久3
年(1863)4
月 までに雇用された奉公人について,配属店,出身地,名前,出仕年齢,その後の動向な どを雇用した順に継続して記していったものである。したがって,請状で見たように偶 然残存したものではなく,召抱えられて,まもなく解雇された奉公人も含め,その年度 に雇用された奉公人は原則すべて記されている。そこには,合計
339
人の奉公人が記されており,店方奉公人がその対象と思われる が,中には「下男」「男」「下女」などと記されたものも散見される。それを年代ごとに 集計したのが,第13
表である。この表によると,39年間に339
人が雇用されているの で,1年平均8.7
人が「下女」「下男」を含め,雇用されたことになる。最も多いのは天 保2
年の24
人であるが,文政12
年のように一人も雇用されていない年もあり,年度に より多少偏りが見られるが,年に数人から10
人前後が雇用されている様子がわかる。出身地については,請状で見たようにほとんどが近江出身者であり,近江国以外では 天保
2
年に美濃国安八郡神藤村の者が3
人と白鳥村の者2
人が見られるだけである。近────────────
25 文化15年正月「乳母請状之事」。
26 文政8年2月「奉公人留帳」。
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
248(612)
江国では,蒲生郡が最も多く,神崎郡・愛知郡・野洲郡・犬上郡の者が比較的多く見ら れた。蒲生郡では八幡町が多く,親が「舟屋」「馬淵屋」「田中屋」「松前屋」「近江屋」
などの屋号をもっているものが多く,八幡町の商人の子弟が雇用されていたようであ る。
出仕年齢は,257人について判明するが,10歳
65
人,11歳62
人,12歳60
人,9歳24
人,14歳14
人,15歳8
人などとなっており,ほとんどが10
代前半であり,最も若 い者では8
歳の者が2
人見られた。これらはほとんどが店方奉公人と思われる。最高の 出仕年齢は57
歳の下女であった。56歳の者は「下男奉公」と記され,他に28
歳の「下男」,55歳の「男」,14歳の「男」も見られ,男奉公人は出仕年齢が高いことが確認 できる。下女と思われる女性も
57
歳,41歳,32歳,28歳2
人,24歳2
人,22歳,16 歳,15歳2
人であり,比較的年齢が高かった。これらの奉公人は,その多くが墨で末梢され,「暇遣ス」とか「死去」「江戸店ニて病 死」「病気ニ付在所へ遣ス」「心得違之筋ニ而付登被下」「在所へ戻ス」「長之暇遣ス」な どと記されており,「暇遣ス」とあるのが
78
人,「病気」「病死」「死去」が8
人見られ た。「心得違い」も3
人見られたが,その多くは何も記されていなかった。それでは,西川利右衛門家の奉公人がどれほどいたのか,その全体像を見てみよう。
天保
16
年正月の「宗旨人別改下27
帳」によれば,当時八幡の本家,江戸出店,大坂出店,
────────────
27 天保16年正月の「宗旨人別改下帳」。
第13表 奉公人の召抱え年
年代 件数 内 年代 件数 内
文政8年(1825)
文政9年(1826)
文政10年(1827)
文政11年(1828)
文政12年(1829)
天保元年(1830)
天保2年(1831)
天保3年(1832)
天保4年(1833)
天保5年(1834)
天保6年(1835)
天保7年(1836)
天保8年(1837)
天保9年(1838)
天保10年(1839)
天保11年(1840)
天保12年(1841)
天保13年(1842)
天保14年(1843)
弘化元年(1844)
13 6 2 2 0 9 24 13 7 4 14 9 3 10 15 8 12 5 10 16
男1 男1 男2
弘化2年(1845)
弘化3年(1846)
弘化4年(1847)
嘉永元年(1848)
嘉永2年(1849)
嘉永3年(1850)
嘉永4年(1851)
嘉永5年(1852)
嘉永6年(1853)
安政元年(1854)
安政2年(1855)
安政3年(1856)
安政4年(1857)
安政5年(1858)
安政6年(1859)
万延元年(1860)
文久元年(1861)
文久2年(1862)
文久3年(1863)
11 5 11 17 11 7 9 3 4 5 9 12 14 9 8 6 8 6 2
女8 女2
女2 男1 男1
合計 339
出所:文政8年2月「奉公人留帳」より作成。
近江商人西川利右衛門家の奉公人(上村) (613)249
備中早嶋出店に在籍する奉公人などの人員が明らかになる。八幡の本家では,主人の西 川理右衛門(29歳),妻千枝(16歳),母まさ(43歳),祖母了薫(70歳),「厄介」丈之 助(54歳)の家族が居住していた。母は,天保
3
年に大文字屋徳蔵の養女となった後,本家へ入嫁し,祖母は,彦根魚屋町の古沢屋与惣右衛門の妹が,文化
11
年4
月に本家 へ入嫁したようである。これら
5
人の家族以外に,本家には10
人の店方奉公人と2
人の男奉公人,そして9
人の下女の合計26
人が本家屋敷に居住してい28
た。店方奉公人は,10代
7
人,20代1
人,30代2
人から構成されており,彼らはほとんど10
代前半に西川家へ出仕してい る。出身は,蒲生郡7
人(うち八幡町4人),犬上郡1
人,神崎郡1
人,野洲郡1
人と,本家に近い地域から雇用された。男奉公人は,53歳と
45
歳の者で,同家に雇用されて8
年と3
年目にあたり,46歳と43
歳の高齢で出仕している。出身は,蒲生郡船木村と 神崎郡本庄村であった。下女は,10代2
人,20代3
人,30代2
人,40代1
人,50代1
人からなっていた。59歳の下女は,37歳で出仕して以来22
年間も勤めているが,そ れ以外はいずれも高年齢の者でも2〜4
年間の短い勤務継続年数であった。出身は,蒲 生郡5
人(うち八幡町1人),野洲郡2
人,神崎郡1
人,愛知郡1
人であり,店方奉公人 などと同様であった。このように,本家には家族や下女・下男だけでなく,出店ほどで はないが多くの店方奉公人を抱えており,本部としての機能を有していたものと思われ る。江戸出店は,28人の奉公人が記されてい
29
る。支配人と思われるのは,野洲郡野田村 出身の大文字屋嘉兵衛であり,33歳であった。彼は,13歳で出仕し,21年間勤続して いた。店方奉公人は,26人で,10代
15
人,20代10
人,30代1
人であり,彼らは早────────────
28 本家の居住者については,新町2丁目の天明7年3月「宗旨人別扣」(西川庄六家文書)によれば,大 文字屋理右衛門(34歳),女房(22歳),悴常五郎(6歳),娘こと(4歳),母はな(39歳),妹なを
(15歳),同いつ(14歳),同わき(12歳),同むめ(9歳),下男作助(34歳),同太八(32歳),同忠 兵衛(28歳),同与助(22歳),同権太郎(17歳),同千次郎(19歳),同与三郎(16歳),同惣七(37 歳),下女たつ(34歳),同とよ(20歳),同すま(24歳),同しゅん(21歳)の男10人(内下男8人)
と女11人(内下女4人)の合計21人がいた。また,寛政3年2月「宗旨人別御改帳」(同)にも,大 文字屋利右衛門(38歳),女房(26歳),悴常五郎(10歳),娘こと(8歳),母はな(43歳),妹むめ
(13歳),下男弥兵衛(38歳),同忠兵衛(32歳),同忠蔵(23歳),同半兵衛(25歳),同常次郎(18 歳),同辰蔵(13歳),同三之助(12歳),同勘七(12歳),同八助(31歳),下女たつ(38歳),同す ま(28歳),同とよ(25歳),同きん(30歳),同ます(17歳)の男11人(内下男9人)と女9人(内 下女5人)の合計20人がいた。しかし,そこに添えられていた寛政4年2月の年寄惣助宛の「覚」に は,母品・利右衛門・女房・むめ・常五郎・ことの6人家族以外に,手代として弥兵衛(40歳)・忠兵 衛(33歳)・忠蔵(24歳)・半兵衛(26歳)・宇八(19歳),「子共」として鍋治郎(15歳)・三之助(15 歳)・乙吉(14歳),下男として八助(55歳),下女としてたつ(16歳)・すま(35歳)・きん(32歳)
・いさ(17歳)・りよ(16歳)・つよ(26歳)の男11人(内下男9人)と女11人(内下女7人)の合 計22人と記されており,本家で下男と記されていたのは,そのほとんどが手代や子供の店方奉公人で あったことがわかる。このことは,天保16年の家族5人,店方奉公人10人,男奉公人2人,下女9人 とも一致する。
29 天保3年正月「奉公人扣」によれば,文久元年3月には江戸店の店方奉公人として18人,「子供」9 人,「中働」1人,「下男」1人の合計29人が記されている。
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
250(614)
いもので
9
歳(2人)から,最も遅いもので14
歳から,ほとんどの者は11
歳前後で出 仕している。男奉公人と思われる者は,32歳で出仕し3
年間勤務している蒲生郡南津 田村出身の34
歳の者と25
歳で出仕し2
年間勤務している野洲郡荒見村出身の26
歳の 者であった。店方奉公人の出身は,蒲生郡19
人(うち八幡町6人),神崎郡4
人,野洲 郡1
人,愛知郡1
人,美濃国安八郡神戸村1
人であり,近江国以外に美濃国の者も1
人 見られたが,ほとんどが八幡・蒲生郡を中心とした地域から雇用された。もちろん,出 店は男だけの世界であるので,下女などは雇用されていない。大坂出店は,11人の奉公人が記されてい
30
る。江戸出店に比べると,半分以下の規模 であった。支配人と思われるのは,蒲生郡船木村出身の近江屋八左衛門であり,27歳 であった。彼は,12歳で出仕し,16年間勤続していた。店方奉公人は
10
人で,10代7
人,20代3
人であり,西川家への出仕年齢は10
歳4
人,11歳4
人,12歳1
人,14歳1
人であった。男奉公人と思われる者は,八幡玉屋町出身の者で,34歳で出仕し,3年 間奉公している36
歳の者が1
人であった。店方奉公人の出身は,蒲生郡4
人(うち八幡 町1人),愛知郡3
人,神崎郡2
人,野洲郡1
人であった。備中国都宇郡早嶋出店は,前述したように
8
代利右衛門によって天保8
年頃に畳表の 仕入れのために設けられた店であった。この店には,6人の奉公人しかおらず,比較的 小規模な店であったことがわかる。支配人と思われる者は,蒲生郡船木村出身の大文字 屋孫八郎であり,34歳であった。彼は25
歳で出仕し,10年間勤続している。店方奉公 人は5
人で,10代2
人,30代3
人であり,勤続年数も5
年から26
年の熟達者が多かっ た。西川家への出仕年齢は,支配人の25
歳を除くと10
歳2
人,13歳1
人,14歳1
人 であった。男奉公人と思われる者は,神崎郡下野村出身者で,45歳で出仕し,7年間奉 公している51
歳の者が1
人であった。店方奉公人の出身は,蒲生郡4
人(うち八幡町1 人),野洲郡1
人であった。このように,家族も含め本家には
26
人,江戸出店には28
人,大坂出店には11
人,早嶋出店には
6
人の奉公人がおり,総数71
人を数えた。また,これらの奉公人のうち 八幡町出身者は,下女を含め,すべて「大文字屋」「近江屋」「但馬屋」「鍛冶屋」「嶋 屋」「鍵屋」「松前屋」などの屋号をもつ親を出自としており,八幡の商家の子弟や蒲生 郡周辺地域の農村部の子弟が雇用されていたことがわかる。さらに,大文字屋弥兵衛な どの別家の子弟も見られた。そして,天保
15
年に解雇された者として,本家では4
年間勤めた18
歳の店方奉公人1
人,13〜29歳の下女7
人の合計8
人,江戸出店分として4〜6
年間勤めた16
歳の店方 奉公人2
人と2
年間勤めた49
歳の男奉公人の合計3
人,早嶋店分として8
年間勤めた────────────
30 前掲天保3年正月「奉公人扣」によれば,文久元年3月には大坂店の店方奉公人として9人と「子供」
4人,そして男奉公人と思われる者2人の合計15人が記されている。
近江商人西川利右衛門家の奉公人(上村) (615)251
18
歳の店方奉公人1
人が記されている。解雇理由としては,店方奉公人の場合は,家 風に合わないという場合3
人,親が老衰のために退店するという場合が1
人であった。本家の構成員については,弘化
3
年正月の「人別御改31
帳」によれば,西川利右衛門
(30歳)と女房,母,祖母,「懸り人」の家族
5
人の他に,下男13
人,下女7
人の合計26
人がいた。さらに,嘉永2
年正月の「人別御改32
帳」によれば,大文字屋利右衛門(33 歳),女房千恵(20歳),娘小藤(4歳),母まさ(47歳),「懸り人」丈之助(58歳)の家 族
5
人の他に,下男が5
人,子供が3
人,下女が5
人の合計18
人がいたことがわかる。本家の場合は,出店とは異なり,西川利右衛門の家族が居住しているため,多くの下女 が雇用されていたことが確認される。
また,天保
3
年正月の「奉公人33
扣」と天保
15
年11
月の「奉公人34
扣」は,本 家(本 店),江戸店,大坂店,早嶋出店に区分して,順次奉公人を書き加えていったものであ る。そこには,奉公人の配属年月日,出身地,名前,改名,出仕年齢などとともに,そ の後の経緯が多少記されている。前掲の文政
8
年2
月の「奉公人留帳」と同様に,これ らは完全なものではなく,抹消されたり,記述が省略されたりしており,男奉公人など も含まれている。もちろん,一番多い記述は「暇遣ス」であるが,特徴的なのは店ごと に区分して記されているため,次の店への異動が記されていることである。たとえば,文化
15
年2
月に13
歳で出仕した蒲生郡土田村の市太郎は,すぐに江戸店 に配属され,勤めていたが,八幡の本店が「無人」(人がいない)ということで,天保2
年の春から本店へ登り勤め,天保8
年に「暇差遣し申候」という。文政13
年9
月に10
歳で出仕した神崎郡躰光村の栄次郎は,最初本店に勤めていたが,天保11
年3
月から 大坂店へ異動した。蒲生郡船木村の文助は,天保9
年8
月から江戸店で勤めていたが,病気により同
10
年8
月から本店勤めとなった。神崎郡下石寺村の喜兵衛は,天保2
年 正月から同11
年2
月まで江戸店で勤めていたが,「本家無人故」同年3
月から本店で勤 め,また同12
年に江戸店へ戻り,最終的には嘉永6
年に「別宅」した。文政8
年2
月 に13
歳で出仕した犬上郡下ノ郷村の市之助は,最初江戸店に勤めていたが,天保12
年 から「本家」で勤めることとなり,最終的には弘化4
年(1847)に「暇遣ス」となって いる。天保6
年に13
歳で出仕した愛知郡家守村の多吉は,最初江戸店に勤めていたが,病気になったため本家勤めとなった。また,安政
6〜7
年(1839〜40)に出仕した9〜12
歳の3
人の奉公人は,文久元年3
月17
日に出立して江戸店へ向かっており,本店で1
〜1年半の経験をした上で,江戸店に配属されている様子がうかがえる。
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31 弘化3年正月「人別御改帳」。ここでの下男にも,店方奉公人が含まれていたものと思われる。
32 嘉永2年正月「人別御改帳」。
33 前掲天保3年正月「奉公人扣」。
34 天保15年11月の「奉公人扣」。この史料の冒頭には「天保三年辰正月帳面!此所へ写替候」とあり,
前掲の天保3年正月「奉公人扣」を天保15年で必要な部分を写し替えて,追記していったものである。
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
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