近江商人岡田弥三右衛門家の経営
上
村
雅
洋
は し が き近江商人の研究は、最近その経営実態を詳細に分析する研究が行なわれるようになり、一段と研究が前進したように思
われる。しかし、史料的制約・企業発展の時期的相違・研究者の問題意識などにもよるが、その経営分析は江戸期と明治
期以降とを切り離した形で、例えば江戸期を中心とする場合は明治期の経営はその付けたりとして、明治期の経営に重点
︵1︶を置く場合は江戸期はその前史としてのみ取り扱われてきた。本稿では、その弊害を極力少なくするために、江戸期から
明治期にかけての近江商人の経営を史料の存在する限り連続して究明してみようとするものである。特に事業の種類およ
び雇用形態に着目しながら、八幡の商人である岡田弥三右衛門家をとりあげてみたい。 ︵2︶岡田家については、すでに歴代当主の事跡をたどった近松文三郎氏の研究、岡田家の重要な場所請負地である古平場所
︵3︶を中心に松前での活躍ぶりを取りあげた﹃古平町史﹄に見られる研究、岡田家の事跡を八幡・松前・小樽にわたって簡潔
︵4︶ ︵5︶にまとめた江南良三氏の研究などがある。しかし、これらの研究も概略的であり、しかも江戸期に重点が置かれ、明治期
についてはまだ十分に研究が尽されたとは言いがたい。そこで本稿では、明治期の活動も重視し、もう少し岡田家の経営
近江商人岡田弥三右衛門家の経営 二五近江商人岡田弥三右衛門家の経営 二六 ︵6︶
実態を明らかにしょうとした。ただ用いた史料は、まとまったものではなく、断片的な史料であり、どこまで連続的に追
求できたか疑問であるが、紹介も兼ねできる限りその経営を明らかにしたい。特に、松前経営を中核とした岡田家とよく
似た近江商人である八幡商人の西川伝右衛門家の経営とも比較しながら検討を加えて行きたい。 ︵1︶ 例えば、江頭恒治﹃近江商人中井家の研究﹄ ︵雄山閣、﹁九六五年︶、拙稿﹁近江商人西川伝右衛門家の松前経営﹂ ︵滋賀大学経済学部附属史料 館﹃研究紀要﹄第一八号、 一九八五年一月︶などがあげられる。ただ詩吟研究会編﹃変革期の商人資本−近江商人丁吟の研究−﹄ ︵吉川弘文館、 一九八四年︶は、江戸期から明治期の小林吟右衛門家の経営を連続して分析しており注目される研究である。 ︵2︶ 近松文三郎﹁11印岡田弥三右衛門家﹂e∼⇔︵﹃太湖﹄第二四号∼第三四号、一九二八年一月九日∼=月九日︶。 ︵3︶ 古平町史編さん委員会編﹃古平町史﹄第一巻︵古平町役場、一九七三年︶。 ︵4︶ 江南良三﹃近江八幡人物伝﹄ ︵近江八幡市郷土史会、一九八一年︶。 ︵5︶ 他に、﹃滋賀県八幡町史﹄上︵八幡町、一九四〇年︶、﹃北海道漁業史﹄ ︵北海道水産部漁業調整課、一九五七年︶、﹃小樽市史﹄第一巻︵小樽市、 一九五八年︶、白山友正﹃増訂松前蝦夷地場所請負制度の研究﹄ ︵巌草堂書店、一九七一年︶などにも岡田家について触れられている。 ︵6︶ 岡田家の史料は、現在滋賀大学経済学部附属史料館に岡田家文書として所蔵され、一部は滋賀大学附属図書館に松前商人記録と七て所蔵されてい る。史料館所蔵の岡田家文書は、岡田弥三右衛門家蝿一四代当主の岡田正治氏より昭和五十九年に田園へ寄贈されたものである。快く御寄贈頂いた 同氏に感謝するしだいである。一 岡田家の概略
︵1︶ ︵歴︶ 岡田家は、明治二十年六月の﹁岡田八十次祖先書﹂によれぽ、 ﹁此弥三右衛門ナル人野洲郡加茂村旧農家一和躍薪源潜か矯燃 残云﹁二生レテ、齢十四五年ニシテ親ノ家ヲ辞シ、去テ織田信長公ノ居城安土市街こ永居住セントセシニ、幾多年ナラズシテ同城瓦解セルカ為、去テ八幡二尊リ為心町元二居ヲ下シ一筆佑トナル、此所も又商業ノ為スヘカラサルヲ知り﹂とある
ように、元来野洲郡加茂村に帰農した武家とされる。そして岡田家は、天正四年︵一五七六︶の織田信長による安土の築
城にともない安土へ移り住んだが、同十年の本能寺の変で信長が滅び安土は衰微した。そして同十四年に豊臣秀次が近江
八幡において築城するにともない、岡田家は再び八幡の為心血元に居を構え、商業を営んだ。しかし、同十八年には秀次
︵2︶ も没落したため、 ﹁北海道開業履歴﹂に﹁慶長年中奥州南部河内港下呉服太物ノ行商シ、其際松前城下エ品物ヲ回漕シ販売ス時草昧二属シ好逆旅ヲ得ス、同藩士工藤平右衛門ナル垂下寄宿開業ス、其後同所大松前町一儲ヲ構へ支店トス﹂とあ
るように、慶長年中︵︸五九六∼︼六︼四︶には東北地方へ呉服太物の行商に出かけ、南部の河内港を拠点に松前城下にま で品物を廻送して販売するようになった。その際松前藩士の工藤平右衛門と知り合い、それを契機に松前城下大松前町に 支店を構えることになったようである。一方、岡田家の系譜を第1表によってみてみると、高祖藤左衛門の生所が安土となっており、また藤左衛門の妻が安土
の次郎右衛門娘とあり、初代の妻も安土の次郎左衛門娘とあることから、高祖あるいは初代の時に安土から八幡為心慰元
︵3︶ ︵初代︶ へ移住したものと思われる。 ﹁北海道支店履歴書草稿﹂にも、 ﹁吾家元祖玄秀ナルモノ慶長年中南部津軽辺江行商ヲナシ、 同所ヨリ年々商品ヲ船二野ミ松前城下二回漕シ、初テ工藤平右衛門ト云フ藩士ノ家ヲ宿トシテ年々南部ヨリ通ヒ商ヲナス 也﹂とあり、初代になって東北へ行商に出かけ、松前城下にも松前藩士工藤平右衛門の支援を得て商品を廻送していた。 そして同表に見られるように弥三右衛門と呼称したのは、二ケ月からのようである。︵4︶
岡田家の場所請負については、宝暦十三年︵一七六三︶の五代弥三右衛門の弟の遺言状によれば、享保十四年︵一七二
九︶までは大松前に本店と荒物店を持っていたが、その年火災にあい、そのため小松前に出店を設けたが、当時場所請負
︵5︶ ︵6︶ はしていなかったとある。ところが、慶応二年︵﹁八六六︶八月の﹁場所請負継続二付願書﹂によれば、 ﹁私先代6是迄数年来立場所御請負被仰上里御蔭ヲ永年之内家業相続仕冥加至極難有仕合二奉存候、随而奉申上候茂謡講候得共、御場所
御請負之義ハ、私先代慶長年中フルヒラ御場所被仰付、其後ヲタルナヰ御場所者延享年間開業被仰付、其頃者両置場所
共漁業等茂相開ヶ不申、漸々漁場と申もの運上照影拾ヶ所位茂有之候処、先代之者差働キ追々軍士キ年々漁場出稼所説相
近江商人岡田弥三右衛門家の経営 二七第1表岡田弥三右衛門家歴代当主
代1名前法
名障年朋(享年)備
考 門 衛 左 藤 衛 兵 三 弥 門 衛 右 三 弥 門 衛 右 三 弥門門
回雪崎藁菰
弥弥 弥
治国 治治 治
三三臆三三働+
弥弥 弥弥 八
祖罪代妻代妻事妻妻代妻代詠妻代妻妻妻代
高 初 2 3 後4 5 後6 後後7
代妻代代妻代
O
18 91 1
妻代
12
さち
八 十 次次治
礎+芳
八正
妻代妻代
つ﹂ 41
1 日峯玄西居士 妙寿禅定足 逸山玄秀居士 弓懸信女 禅窓玄悦居士 三智信女 篤隠秀慶居士妙空
妙意
真参瞬発禅定門智玄
三峯秀悦居士 松屋妙貞 一同妙円 如漁礁意居士 肝脳信女 法林妙会尼清意
三厩秀遠居士 乾外秀山居士 節採薪寿大婦 戒雲誠定居士 松神居士 秀外寿考大士 正香香哲
妙真
久得芳
妙修妙
寛永2・2・8 慶安3・ 1・17 慶安3・5・25(66) 万治2・9・30(68) 貞享4・8・ユ9 元禄10・2・30 元禄6・8・29 明暦3・9・25 延宝6・12・ユユ 宝永7・3・22 享保6・7・25 明和2・ 7・26(71) 享保10・7・21 明和6・ユ0・5 天明元・12・5(57) 宝暦5・ユ2・5(20) 安永5・4・9(39) 文化3・5・29(60) 安永9・8・6(21) 天保12・9・8(78) 天保ユ4・8・3(72) 文化12・9・26(22) 文政4・9・12(28) 安政2・6・20(57) 明治40・9・13(87) 明治35・12・13(74) 大正2・10・3(65) 明治45・7・20 昭和15・5・21(63) 昭和49・4・1(90) 慶ル 、ラ レセ生称
ノト存亡
娘思死娘 門禄テ門心
癖
右 三 弥 テ メ士
信
正
玄
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挙不
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衛永二衛卸し搾出
右テ才左リ如松 、 土郎 安次家年次 所土生安岡安安2鞍下
才 15 西 三 男 男 ︵ 人 イ 供長グ子
、嗣、 男を娘 娘次家門衛正
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二ん村養ナ先実実清 、早長女村弥正清清人田2在監せ物代書慶正慶松広テ川、芸名、若松5
2実秀玄秀久正二西2謡言考久久男
雷 名 幼鉱
長 孝 広生
年 10八
清駄
目 孝 広生
年 元今
次 、血 清亡霊名死弥
幼テ名
へ房前
男号 次、 門期 衛正 三口二幼女仁改
、実平瓦広松男山大正
、、三秀村、生生ノ、川端
年年氏ま柳三
6U和い郡上
名称
幼ト
、六男十
ノ八
氏リ
梁入
大二村家
尻養
女森、
長薯郎
暦郎和広 政政三名知名猷往生一 廓治明常 寛寛須幼愛幼広松蒲弥スー1先和弥本
山
湊
北
町
島
男箕
長郡
女ノ田
ノ六有女牢十県三男
正八山郎長
代代歌寸刻
13 (註) 「it印岡田家系譜」 (滋賀大学経済学部附属史料館所蔵岡田家文書)より作成。 近江商人岡田弥三右衛門家の経営 八殖へ御場所表産物等茂出増二相成、家業向茂繁昌仕難有仕合之御義と一入出精相続罷在候しとあり、古平場所は慶長年中
︵一五九六∼一六一四︶、小樽内場所は延享年間︵一七四四∼一七四七︶に開業したとされているが、後述するように現存する史料で確認されるのは、幕末期のみである。ただ以前には、古平の場所請負証文が宝暦六年︵一七五六︶より、小樽内の
︵7︶場所請負証文が寛政八年︵︸七九五︶より存在していたようであり、岡田家が場所請負を開始したのは前述の遺言状から
も、古く遡っても享保年間︵一七一六∼一七三五︶ぐらいまでであろうと考えられる。要するに、岡田家が松前に渡って店舗を設けても、そこではこれまでの行商の場合と同じく、呉服・太物および荒物などの営業を長く行ない、場所請負を開
始するのは早くても享保年間であり、本格化するのは宝暦年間以降のことであろうと思われる。幕末期には、石狩・小樽
内・古宇・美国・岩内・磯谷・寿都・室蘭・幌別・浦川・ヲサツベ・宗谷・利尻・礼文・苫前・留萌など十か所以上に及
︵8︶ ぶ場所を請負っていたようであるが、古くからの有力場所は古平と小樽内であった。 ︵9︶ そして﹁北海道支店履歴書草稿﹂によれぽ、 ﹁函館在種田徳之丞江フルヒラ、モロラン、ホ巨ヘッノ三ヶ所ヲ譲り松前ノ本店ヲ廃止シ、ヲタルナイ江支店ヲ移サントセシニ事故アッテ早戸ヲ果サス時ノ至ルヲ待ケルニ、明治元年函館脱走士
ノ戦争アリ右兵火二罹リ焼失セリ、平定ナリテ后請負人︼同月セラレタリ﹂とあり、また﹁安政五年三世期支店巡視ノ時、聖上叢生ノ地ヲ開拓シテ新支店ヲ建築シ、松前ノ支店出張処トナシ里芋ル﹂とあり、幕末期に松前支店を縮少・廃止した
︵10︶ . ︵明治二年︶とされる。しかし、明治四年七月の﹁調書覚﹂によれぽ、﹁福山店小樽江引移し候儀者、一昨明年以来より心懸ヶ駐在夫
々手順之処、福山二者従来之家督も有之事ニテ一時引翠黛磁壁ク懸念之場合有之、且又御領主重点おみても他出之儀難相
成御趣意有之四二而、無余儀次第依善書七月6相星福山店名目算目立置、留主上番手代壱人下男壱人而二五テ御上用都響
万客為取扱推量事﹂とあり、明治四年七月には松前城下の衰退と小樽港の発展の見通しにともない支店を福山︵松前︶か
ら小樽へ移し、福山は名目のみ残そうとしたのが事実に近いであろう。 近江商人岡田弥三右衛門家の経営 二九近江商人岡田弥三右衛門家の経営 三〇 ︵11︶ ︵第十三代︶ ︵第十二代︶ その後﹁北海道開業履歴﹂によれば、 ﹁今主人八十次未鉱毒ニシテ負担二堪サルヲ以テ、父八十六諸般事務ヲ管理シ、
能ク祖先ノ遺業ヲ継キ、現今北海道小樽ノ支店ヲ補支シ、且時様ヲ看テ前代二常置タルサツ州鹿児島ナル支店ヲ廃シ、更
二日州南那珂郡福島郷二於テ田畑ヲ購求シテ、桑園ヲ精管シ楮圃ヲ開拓セントス、之レ目下ノ創業ニシテ皆祖先以来ノ功
蹟ノ余沢二日ル所ノモノナリ﹂とあり、小樽周辺の開発に従事し、北海道での土地経営や九州鹿児島にも支店を設け呉
服・太物類の販売を行ない、その後鹿児島支店を廃し、日向南那珂郡福島郷に田畑を求め、桑園を開設しようとした。 ︵12︶ しかしながら、これらの経営も順調には行かず、明治三十四年ついに岡田家は倒産するに至った。その際、債権者との間 で、次のような確認書が取り替わされた。 ︵13︶ 証 拙者義今回商業上一大挫折ヲ来シ、勢ヒ倒産ノ不幸ヲ見シ事ト相成心立付キ、債権者各位へ御救済ノ儀願上盤威、債権者御一 同御恩恵.御協議ヲ以テ御承諾二預リ難有了承仕度、就而者左転条件確守履行重工候、為後日一札如件 一地方債権同意者各位ノ債権中利子未払ノ分ハ、明治参拾四年六月末日迄ノ利子ヲ元金二積算可仕事 一地方債権同意者各位ノ信用債権惣額瀟薙融か別︶ノ五分ヲ左ノ割合ニテ償還可仕事 一本年九月弐拾五日限リ 弐分 一本年拾月弐拾五日限リ 壱分五厘 一本年拾弐月拾五日限リ 壱分五厘 一地方債権同意者各位ノ信用債権残額ノ五分ヲ、左ノ通りニテ償還可仕事 一明治参拾四年七月壱臼ヨリ明治参拾九年六月末日直満面ヶ年間据置キ、壱ヶ年弐分五厘︵百円二対スル弐円五拾銭ノ割合ノ 利子︶ノ利子ヲ毎年六月及ヒ十二月目弐期昌支払可申、元金ハ明治参拾九年六月中一時二償還可申事 一五ヶ年間据置キノ拙者債務残額二属シテハ日向所有田畑宅地悉皆ヲ三番抵当二差入可申事 但し登記手続ハ本年八月一日ヨリ十一月末日迄・一履行スルモノトス一本年中ノ償還全員ハ地方債権同意老総代ノ手ヲ経テ地方債権同意者各位へ御返事可申事 右之通リ定約仕山上ハ確二履行下仕候、若シ一項目チモ間違腿節ハ、如何様之御追分被成下候共毛頭答儀申上間敷下鞘 明治三十四年 債権者岡田八十次㊥
七月 日 岡田八十六㊥
岡田八十次地方債権同志者総代 喜多七右衛門 岡田伝左衛門 ・ 難波兵次郎殿 小西みね殿 古同木作丘ハ衝⋮殿その後明治三十八年六月には、岡田家に雇用されるなど同家に関係ある人々によって岡田報徳会が発足し、その発起主
旨を次のように述べている。 ︵14︶ 岡伍報徳会発起主旨 人生ノ栄枯盛衰ハ数ノ免カレサル庭、我敬慕スル岡田八十治一家ノ如キハ家系連綿三百有余年持続ノ旧家モ時勢ノ変遷家道悲 運二遭遇シ、其挽回ノ機ヲ失シ巨万ノ富モ蕩尽シ財産挙テ他昌移転ノ已ムナキニ至リ、今や洛京ノ僻村二遇塞一族群ヲナシ家 計頗フル苦境ノ報・一接ス、壼同情ノ涙掬スヘキナリ生等未成ト錐モ該家二奉仕スル年久シ、其間家訓・一反シ断縁セラレタルア リ、或ハ同僚ト意見ヲ異ニシ途中退身スルァリト錐モ、翻テ源ヲ追想スレハ主家ノ旧情忘ル不能、思フ・一翼家盛時当蛍草創ヨ リ公私二力ヲ尽シタル名声微蔭モ停メス、地二墜落シタルハ切情踏車ノ至りニ堪ヘス、隆昌縁故アル者及ヒ主従関係者ヲ糾合 シ倶二旧恩ノ徳昌報セソ為メ、岡田報徳会ヲ組織シ其名声ヲ千載引起ヘント欲ス、遠近ノ諸君生等ノ微意ヲ了シ快諾入会ノ栄 ヲ得。ハ幸甚 岡田報徳会発起人 柘植重助 近江商人岡田弥三右衛門家の経営 士二近江商人岡田弥三右衛門家の経営 三二 松林重太郎 明治晋八年六月 佐々木力太郎 成田八太郎 鵜飼彦造 早見弥吉 すなわち、岡田家の困窮状況に対し、従来の恩意に報いるため岡田家に関係のあった人々によって結成されたのである。 また同会の会則は次のように決められた。 ︵15︶ 岡田報徳会則 第一条本会ハ岡田報徳会ト称ス 第二条本会ノ事務所ヲ小樽区入舟町廿七番早見呉服店内二置ク 第三条本会ノ目的 一岡田家祖先ノ霊祭又ハ同家ノ事変一一際シ金品ヲ寄贈シ一族ヲ慰ムルコト ニ会費ヲ貯財シ小樽区住吉神社境内戦車標ヲ建設シ、其名声ヲ千載二表彰スルコト 三会名ヲ以テ慈善行為ヲナスコト 四遠近会員ヲ不問常二気脈ヲ通シ親善ヲ保ツコト 第四条本会員ハ昔時ヨリ岡田家一一縁故アルモノ又ハ主従ノ関係者ヲ会員ト称ス 第五条本会員タランニハ申込書二記名捺印ノ上入会スル事 第六条本会員日岡田家ノ関係者ヲ聞知シタルトキハ入会ヲ勧誘シ、常−鴨其居所ヲ明・一シ転居ノ場合ハ事務所へ通知スル事 第七条本会員ハ其位二二応シ毎月金十銭以上ノ会費ヲ負担スルモノトス、若シ会費負担二堪ヘサルモノアルトキ二重要二応シ 労務昌服スル義務ヲ有ス 第八条本会一一理事三農ヲ置キ諸般ノ事務ヲ処理シ、其会費ヲ領収シ確実ナル銀行昌預金シ、事機一一ヨリ合議ノ上本会ノ目的ヲ 遂行スル金品ヲ贈与スル権利ヲ有ス
第九条理事ハ小樽区附近在住会員中適任者ヲ選抜シテ之二委嘱スルモノトス、但シ無報酬ノ事 第十条本会員小樽区附近在住者ハ毎年一月十一日三岡田家帳簿祝日ヲ以テ集会ヲ催シ、本会事業経過報告及ビ収支決算報告ヲ ナシ、後チ懇親会ヲ開ク、実費出席者負担ノコト 第十一条地方会員ハ本会ノ主旨ヲ賛成シ便宜ノ方法ヲ以テ会費ヲ郵送スル事、但郵券代納妨ナシ 第十二条本会則ハ事業発展ト共呈必要二三シ毎年﹁月十一日集会席上二於テ修正スルコト 岡田報徳会 小樽区入舟町二拾七番地 理事呉服商 早見弥吉 小樽区港町壱番地 理事呉服商 鵜飼彦造 小樽区入舟町三十七番地 理事綿糸商 成田八太郎 すなわち、 ﹁艦首田家帳簿祝日ヲ以集会ヲ催シ﹂とあることから、岡田家の元店員と思われる小樽の呉服商早見弥吉・同
鵜飼彦造・綿糸商成田八太郎が中核となって組織し、岡田家の霊祭等に金品を寄贈し、物標を建て、善行を行ない、親睦
をはかることを目的としていた。 ︵16︶ 次に明治三十三年六月の﹁元祖玄秀大居士弐百五十遠忌之記﹂によって、岡田家の親族・別家等についてみておこう。 そこには、家持=一軒、借家人七軒、親族一九軒、交際家七軒、杢︵岡田小八郎家︶別家二﹁軒、市田別家七軒、一︵岡田 弥三右衛門家︶別家八軒が記されているが、そのうち親族と一別家についてみておくことにする。親族は、市田清兵衛、 村井金右衛門、西川喜六、西川伝右衛門、西川勝介、西川善六、梅村甚兵衛、大橋仁造、大梁金次郎、島田五十三郎、永田 彦四郎、益田可永、久松おつひ、松吉源三郎︵南山城加茂村︶、市田利介、正野玄三︵日野町︶、岡田小三郎︵同︶、岡田九兵 近江商人岡田弥三右衛門家の経営 三三近江商人岡田弥三右衛門家の経営 三四 ︵17︶ 衛︵京︶、北脇新右衛門︵丹生村︶というような著名な近江商人が含まれており、また別家としては、佐野松次郎、西堀紋 次郎、同玉造、同伊兵衛、同次郎兵衛、建部藤兵衛︵柳川村︶、徳右衛門︵須田村︶、吉川又兵衛があげられている。 ここで岡田家がどの程度資本を蓄積していたのか、その財産を通してみてみることにしよう。江戸期の財産については、 ︵18︶
帳簿が現存しないため不明であるが、文政二年︵一八一九︶九月の﹁大宝家督控﹂によって、岡田家所有の屋敷・納屋等
が判明する。この史料は、屋敷等売券一三点の写であり、元禄十六年目一七〇三︶∼文化二年︵一八〇五︶における松前城下及び奪取場での屋敷・納屋の売券が記されている。買主は、ほとんどが岡田家であり、そうでないものも転売されて岡
田家の所有となったものであろう。売主の中には、天明二年︵一七八二︶八月の﹁大松前町裏町屋敷売渡証文﹂に見られ
るように、松前進出当初より岡田家と関係の深かった工藤平右衛門の名も見える。また、澗納屋場の購入が見られるのは、寛保二年︵一七四二︶十一月以降であり、この頃から本格的に場所経営に乗り出していったものと思われる。漁業と直接
関係があると思われるのは、他に宝暦四年︵一七五四︶と同十年の澗納屋場の入手があげられる。次に、明治三十四年と同四十年頃の岡田家破産時点での財産状況をみてみたい。まず明治三十四年頃と思われる﹁無担
︵19︶保仕払金半額入用期日井収入金見積﹂によれば、小樽地所売上差金三万円、小樽石山一五〇〇円、支店其他迷物二一棟九
八○○円、支店用家具什器代二〇〇〇円、稚内方宅地三万三五六〇円、同支店貸家一二六〇円、同漁船漁具一七〇〇円、 サカレン島方漁具一式三八○○円、月寒風畑田〇〇円、炭山三五〇〇円、汽船一万円、東京支店二〇〇〇円、 ﹁京都支店 担保ニナリ居ル分売上差金及ヒ道具代﹂二〇〇〇円、八幡綿ネル工場五五〇円、同織上品二五〇円、 ﹁小南地所担保ニナ ︵20︶リ居ル分売上差金﹂六〇〇円、書画骨董墨差金三万二二〇〇円、為心町中宅地代七五〇円、八幡町畑地藪三筆売上代四〇
〇円、小樽支店商品代一万五〇〇〇円、日向地所収入金一万七五〇〇円の合計六万八八七〇円が岡田家の所有財産評価額
としてあげられており、北海道及び日向の地所売上代金が大きな比重を占めている。近江商人岡田弥三右衛門家の経営 五 第2表 岡田家資産状況(明治40年) 項 目
日向国南繍
i田地95町2反4畝7歩畑地 59町8反6畝2歩宅地 8反1畝16歩) 同支店建物納屋 4棟 北海道小樽区 宅地畑 30,892坪7合 同支店建物及び土蔵貸家 16棟 同支店家具備品 同呉服店商品 同呉服店売懸代金 サカレソト漁具 農場 成墾地120町、未開地200町、小作人50戸 石炭山 3鉱区 汽船淡海丸 北見国稚内 宅地海干場 漁場付属9,800坪 同支店貸家 8棟 東京支店建物 1棟 京都建物 3棟及び敷地4畝歩 綿ネル工場 1棟 綿ネル現品 275反 野洲郡小南村田畑山林原野 4町2反歩 為心町中建物共晶無 為心服元 本家土蔵井昌宅地 多賀村畑地 6畝10歩 為心町元 宅地75坪 宮内町 藪反別 6畝歩 本家書画骨董及び家具類 株式会社十二銀行株券50 商業銀行当座金時価釧比率
円 % 39,000 1,000 52,000 2,500100
7,500 1,000soe
2,500500
18,000 7,800550
900
3,500250
800
1,400550
4,000 40 25 30 15,000500
62.33646176563293622593500043040210400101400200002000900
2 3
1 合 ニコロ十t
160,307.31 100.0 (註) 明治40年3月「財産調書」 作成。 (滋賀大学経済学部附属史料館所蔵岡田家文書)より近江商人岡田弥三右衛門家の経営 三六 ︵21︶
さらに、明治四十年三月の﹁財産調書﹂によって岡田家の資産を示したのが、第2表である。この表には当座金の額ま
で示してあり、この時点での岡田家の全財産の評価額を示すものといえる。この表によれぽ、高い比率を占めているのは、 北海道小樽の宅地・畑の五万二〇〇〇円︵三二.四%︶、日向国南那珂郡の田畑宅地の三万九〇〇〇円︵二四・三%︶、汽船 淡海丸の一万八○○○円︵=・二%︶、本家書画骨董及び家具類の一警護〇〇〇円︵九・四%︶であり、他に土地・建物等も多く所有していたが、いずれも評価額は低かった。またこの表によって、破産時点での岡田家の事業内容もわかる。す
なわち、日向町南那珂郡には広大な田地と四棟の支店、小樽には支店の他に呉服店が設けられ、サカレン︵樺太︶には漁
︵22︶ 場、北見国稚内にも漁場と支店が設けられ、他に北海道には農場・石炭山があり、汽船も所有していた。東京にも支店、 京都にも建物があり、綿ネル工場も所有していた。他に八幡周辺に土地・建物を多数所有しているのがわかる。 ︵1︶ 明治二十年﹁岡田八十次祖先書﹂ ︵滋賀大学経済学部附属史料配所蔵岡田雄文書︶。 ︵2︶ ﹁北海道開業履歴﹂︵同右︶。西川伝右衛門家も、先祖は近江国蒲生郡津田村の出身であったが、信長の築城とともに安土城下に居を移し、その後 八幡城下へ移り住み為響町に居を構えて、越後方面へ呉服・太物類の行商に出かけた。のち松前へ渡り、支店を開き、場所請負に乗り出すという岡 田家と同じ道をたどった︵前掲拙稿四九∼五〇頁︶。 なお、このように八幡商人の中には、安土城下に呼び集められた人々が、のち八幡城下へ移り 住んだ例が数多くある︵福尾猛市郎﹁近世初頭における都市商業と商人の性格一主として近江安土・八幡城下町をめぐって一﹂広島大学﹃史学研 究﹄第九三号、一九六五年五月︶。 ︵3︶ ﹁北海道支店履歴書草稿﹂ ︵滋賀大学経済学部附属史料重葬蔵岡田家文書︶。 ︵4︶ 分家して岡田小八郎家となった。同家は、弥三右衛門家の11︵一膳ぼし︶印夫三︵だいさん︶印に対して奎︵だいに︶印と称せられた。小八郎家 については、近松文三郎﹁六二印岡田小八郎家﹂O∼⇔︵﹃太湖﹄第三六号∼第三九号・第四一号∼第四二号・第四四号∼第四八号・第五〇号∼第五 一号、一九二九年一月九日∼一九三〇年四月九日︶に詳しい。 ︵5︶ 前掲﹃古平町史﹄第一巻、一六六頁。その遺言状とは次のようなものである。﹁廿二歳の時︵享保四年︶三月廿一日松前大火折無人にて漸く本店 計片付荒物店売物其外庭廻り裏小屋諸色諸道具共不残焼失至って難渋に逢ひ申候、夫より向の工藤八郎右衛門殿空屋敷を借り則其屋に移る、店普請 九月迄に成就外藩申候。其時節黒は何れにも出店と申すことは無極候へ共小松前へ出店我等出し申候又白鳥宇兵衛を取立大阪登せ昆布等始め申候、 鳶口手前外電共に其節迄無隠事也。轍叉大守様御用末々は京大阪御用共に鳶足為仰付候条先々松前御用相募金様にと田中又十郎殿を以て勘定衆工藤八郎右衛門殿小林兵左衛門殿牧村崎右衛門三三人也内御役人衆より御題に付帯請申相勤候事。三十二歳にて︵享保十四年︶五月罷在煎海、捌け方且 村山壷草素謡春心見届長崎へ罷越七月帰郷八月より江戸へ向下り、武州浜相州上総黒々にて煎海、捲長崎へ下し其翌年︵享保十五年︶四月帰郷﹂ ︵前掲﹃太湖﹄第二八号、一九二八年五月九日︶。 ︵6︶ 慶応二年﹁場所請負継続昌付願書﹂ ︵滋賀大学経済学部附属史料館所蔵岡田家交書︶。 ︵7︶前掲﹃古平町史﹄第一巻、四六四頁。なお、寛延元年︵一七四八︶十二月の三崎氏より岡田九十郎宛の﹁金子借用証文﹂ ︵滋賀大学経済学部附属 史料館所蔵岡田異文書︶の中で、しくすし場所の運上金の内より返済する旨が述べられており、この頃より岡田家が場所請負と何らかのつながりを 持つようになったものと思われる。 ︵8︶ ﹁北海道立志編商業家岡田八十次氏原稿﹂ ︵滋賀大学経済学部附属史料館所蔵岡田家文書︶。 ︵9︶ 前掲﹁北海道支店履歴書草稿﹂。 ︵10︶ 明治四年﹁調書覚﹂ ︵滋賀大学経済学部附属史料館所蔵岡田家文書︶。 ︵11︶ 前掲﹁北海道開業履歴﹂。 ︵12︶ 岡田家の没落原因として、近松文三郎氏は、﹁明治後期に至り悲運に陥れるは実に時世より数歩を先んじ、無経験の新事業を発起したるに基因し たものである﹂とされている︵前掲﹃太湖﹄第三四号、一九二八年一一月九日︶。最終的に岡田家が八幡の地を離れたのは、屋敷を売却した昭和四 年である。 ︵13︶ 明治三十四年﹁倒産之儀二付債権者同意書﹂ ︵滋賀大学経済学部附属史料館所蔵岡田家交書︶。 ︵14︶ 明治三十八年﹁岡田報徳会発起主旨井会則﹂ ︵同右︶。 ︵15︶同右。 ︵16︶ 明治三十三年﹁元祖玄秀大居士弐百五十遠忌之記﹂ ︵滋賀大学都済学部附属史料館所蔵岡田家文書︶。 ︵17︶ 別家の史料としては、天保十三年︵一八四二︶九月の別家松前屋長兵衛より岡田弥三治宛の二〇〇両の﹁金子預り証文﹂ ︵同右︶が残されている だけである。 ︵18︶ 文政二年﹁大宝家督控﹂ ︵滋賀大学経済学部附属史料館所蔵岡田家文書︶。 ︵19︶ ﹁無担保仕払金半額入用期日井収入金見積﹂ ︵同右︶。 ︵20︶ 明治三十四年九月と思われる﹁岡田家所蔵屏風掛物書類道具入札売立表﹂ ︵同類︶によれば、﹁古書泥引歴史着色屏風﹂等屏風一五隻︵ほか一〇 余隻︶、﹁元信鯉墨画﹂等掛物一二三幅︵ほか六〇〇余幅︶、﹁淵軽羅鑑帳入﹂二〇〇昇等唐本九部、﹁詩経伝説彙纂﹂二四冊黒和刻上本六部、﹁紛 溜吉野山桜模様切金細工描金料紙硯箱﹂等﹁骨董数百種、刀剣数拾腰、茶器種々、中道具罪数百点﹂等を入札にかけている、 ︵21︶ 明治四十年﹁財産調査﹂ ︵滋賀大学経済学部附属史料館所蔵岡田家交書︶。 ︵22︶ 東京支店︵出張所︶については、次のような支配人に対する委任状が残されている。 近江商人岡田弥三右衛門家の経営 三七
近江商人岡田弥三右衛門家の経営 三八 委 任 状 一拙者儀東京市本町区緑町三丁目十四番地出張所支配人佐々木力太郎ヲ以テ左ノ権限ヲ代理為目上三 一東京出張所事務一切ヲ処弁スル事 一金銭貸借二軸拙者東京出張所支配人ノ名義ヲ以処弁シ、又ハ場合二寄り拙者ノ代理ト為り処弁スル事右委任状暮雪如件 滋賀県近江国蒲生郡八幡町 大字為心町第十八番屋敷 明治廿四年十二月五日 岡田八十次㊥ 一一
@江戸期の松前経営
1 場所 請負
︵1︶ 岡田家が場所請負を開始したと思われるのは、前述したように早くて享保年間︵一七一六∼一七三五︶、本格化するのは宝 暦年間︵一七五嚇∼ 七六三︶以降と考えられるが、ここでは史料が現存する幕末期の状況についてみてみることにする。 ︵2︶安政三年︵一八五六︶の﹁ヲタルナヰフルヒラ勘定帳﹂によって、小樽内と古平場所の収益状況を示したのが、第3表で
ある。この表によれぽ、古平場所は、﹁仕入座﹂として下し上代等一万二四三貫八三八文、それに支配人番人春給代・同
手宛・組方百代・引手宛・秋味給代・越年五代の人件費一六九九貫一八○文、﹁周年音信割合﹂・﹁十一日入用わり合﹂三一〇貫九三八文、場所仕向金三二六貫四〇〇文、運上金等二七〇〇貫二八○文の合計一回廊二七﹁貫六三六文の支出が
︵3︶あり、一方﹁請取座﹂として﹁荷物代諸懸リ引去リ正ミ〆高﹂等合計二万一八三七貫二三文の収入があり、正味三五二
貫六〇文の利益が計上されているQまた小樽内場所についてみると、 ﹁仕入座﹂として下し物代等九二五七貫九一二文、それに支配人番人自給代・女手宛・在方富鉱・差手宛・秋味給代・越年給代の人件費一八五六貫七〇文、運上金等三七九
〇貫二五三文、諸届け金四七六貫文、﹁辰年音信割合﹂・﹁十一日入用わり合﹂三一〇貫九三八文の合計一万五六九一貫
第3表古平・小樽内場所の収支状況(安政3年) 近江商人岡田弥三右衛門家の経営 古 平
場所 1 小樽内場所
下墨代〆高他 ll・・24・貫838文下・物恥〆馳 1・,257貫・・2文
支配人番人春給代5人分 x配人番人手宛 5入分 謨絜拒縺@ 14人分 ?緖闊カ 26人分 H味給代 5人分 z年給代 18人分ャ計
56貫800文 @319貫600文 @190貫400文 @953貫700文@23貫160文
@155貫520文 P.699貫180文 支配人番人春帖子7人分x配人番人手宛 8人分
メ方出代 13人分 マ方手宛 31人分 H味給代 10人分 z年給代 19人分ャ計
78貫400文@442貫
@176貫800文 @958貫800交@35貫910文
@164貫160文 P,856貫70文 辰年音信割合・十一日入p割合
烽S8両場所仕向金 ^上金・指三皇他 30工貫938文 @326貫400文 Q,700貫280文 辰年音信割合・十一日入p割合
C年金70両諸届ケ金 ^上金・指荷料他 310貫938文@476貫
R,790貫253文 仕入座〆高 d入座〆高二割増 15,271貫636文 P8,325貫963文 仕入座〆高 d入座〆高二割増 15,691貫173文 P8,829貫408文 請取座〆高[…837貫23畑腱〆高 13Q,・・7貫76文
差引正利 i・・…貫・・交1差引正利
lU,・77貫668文 (註)安政3年「ヲタルナヰフルヒラ勘定帳」 家文書)より作成。 (滋賀大学経済学部附属史料館所蔵岡田 一七三文の支出であり、一方﹁請取座﹂として ﹁荷物代諸懸り引去正ミ〆高﹂等の合計三万七貫七六文の収入があり、正味差引一万=七七
貫六六八文の利益が計上されている。この両場
所を比較すると、支出面では古平一万八三二五 貫九六三文と小樽内一万八八二九貫四〇八文と さほど違わないのであるが、収入面では古平二 万一八三七貫二三文に対し小樽内は三万七貫七 六文であり、小樽内の方が八一七〇貫五三文多 い。したがって差引利益額も古平が三五一一貫六〇文に対し、小樽内は一万=七七貫六六八
文であり、小樽内の方が七六六六貫六〇八文多
く、小樽内の方が良好な場所であったことがわ かる。このことは、運上金等の比較によっても言える。すなわち、古平は二七〇〇貫二八○文
であるのに対し、小樽内は三七九〇貫二五三文 であり、小樽内の方が一〇八九貫九七三文多く、小樽内が良好な場所であったため多くの負担が
三九
第4表岡田家請負場所一覧
場所即行主
請 負 期 間 備 考 小樽内古平
室蘭・幌別 氏家六郎左衛門 利尻・礼文尻・宗谷 苫前・留萌石狩
石狩ノ内カワト 石狩ノ内ユゥハリ美国
岩内・古宇磯谷
寿都
浦川
新井田喜内 松前 松前 松前 佐藤権右衛門 土屋左仲 松前鉄五郎 近藤兎毛 蠣崎佐七 下国舎人 松前 北川伊右衛門 享保年中∼慶応元年∼慶応2年
嘉永2年6月∼慶応2年
明和2年∼文政年中 享和2年7月∼文化10年明和5年∼安永6年
寛政3年3月∼寛政ユ2年 文化元年8月∼未詳 文化2年11月∼未詳 寛延3年10月∼明和年中 安永8年11月∼寛政12年 天明元年∼寛政5年 寛政3年∼寛政12年 慶応元年幕下箱館奉 行ヨリ請負廃止セラ レ村並ト改革アリ、 享保年中ヲコハナ・ クタルウス・アリホ ロ、明和・安永・天 明・寛政年中ノブカ ・アツトマリ・クマ ウス・アサリ・ハル ウス、天保年中セニ ハコ開拓 慶応2年種田徳之丞外2名へ譲りワタ
ス 無産物不毛地堺テ莫 太ノ損亡セリ 文政年中福山枝ヶ崎 藤野喜兵衛ナル者二 譲リワタス 運上金小判200両外 =差荷アリ 運上金小判47両 運上金小判220両外 =差荷アリ 運上金小判80両外二 差荷アリ 運上金小判75両外= 差荷アリ 運上金小判50両 運上金小判llO両 近江商人岡田弥三右衛門家の経営艦
昨
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文 家 田 岡 蔵 所 館 料 史 属 附 部 学 済 経 学 大 賀磁
劉
慧
淵
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四〇 かせられたことがわかる。 次に両場所の規模を比較し てみると、古平は支配人一 人、番人四人、稼方二七人 であり、一方小樽内は支配 人一人、番人六人、建方三 一人であり、小樽内の方が やや規模が大きいようであ る。支配人・番人・稼方の 給与は、古平・小樽内とも に職務によって等しく定め られていた。支配人の春給代は=二貫六〇〇文、手宛
は一〇二貫文、秋味三代は 一二貫九六〇文、番人の春給代は一〇貫八○○文、手
宛は五四貫四〇〇文、稼方
の給代は二二貫六〇〇文、秋味給代は二方・番人とも二貫五五〇文、越年給代も稼方・番人とも八貫六四〇文であるが、下方手宛は二〇貫四〇〇文
︵4︶ から四〇貫八○○文まで個人によって様々である。なお、小樽内・古平をはじめ岡田家が請負った場所を示すと第4表のようになる。小樽内・古平等の西蝦実地だけでな
く、室蘭・幌別等の東蝦夷地の請負も見られる。この表以外には、エトロフを近江商人の西川伝右衛門家と藤野四郎兵衛
家との三者共同で、天保八年︵一八三七︶から弘化元年︵一八四四︶まで請負っているが、この表の中でも古くから長期間 請負っていたのは、前述した小樽内と古平場所であった。ところが、慶応元年︵一八六五︶に小樽内が場所請負御免村並になったのに対し、岡田家から次のような願書が奉行所
へ提出された。 ︵5︶ 乍恐以書付奉願上候 私先代6是迄数年来切場所御昼負被仰付以御蔭ヲ永年之内家業相続仕冥加至極難有仕合一一尊皇候、奮励叢生上道茂奉恐笹野共、 御場所御請負之二胡私先代慶長年中フルヒラ御場所被仰付、其後ヲタルナヰ御場所者延享年間開業聖戦付、其頃者両場所共漁 業等茂相開ヶ不申漸々漁場と申もの運上家外拾ヶ所位茂有之候処、先代之老差働キ追々南開キ年々漁場出稼所茂相殖へ御場所 表産物等茂出増二相成、家業向茂繁昌下灘有仕合崩御義と一入出精相続罷在候、然ル所東蝦夷地エトモホロヘツ両御場所之義 者只今・一至リ候而茂産物出不足之土地柄故、度々御請負被虐付候もの茂兎角闘算勝二而何れ茂子分相住、ミ難渋仕候場所二目御 請負御免願上士者度々有之、御領主様二おみても御心配被為在恵山付、前書上申上候西地ヲタルナヰ御場所年々繁昌仕出恒等 茂相百出産物茂出高二相成候間、年玉・一寄リ私讐徳茂有之候一一付、為冥加東蝦夷地エトモホロヘツ両置場所附属曲面付、去ル 嘉永二酉年五月中6御受負仕居漁事之義二退軍者切者之もの相廻し漁業手配仕所得意、何分見込智歯事相貫キ不毒忌請負己来 年々損分二相成如何共難渋殻斗工匠、立地ヲタルナヰ之余力を以相償ひ罷在候爵、去ル丑年ヲタルナヰ御場所御仕法替二而私 御請負者御免二相成村並ト被仰付、同所御本陣井面向御用道義零種請負同様取扱可仕様被仰付奉畏入候、右昌付奉申上畳茂重 々恐多奉存候得共学実之所二尊者是迄ヲタルナヰ之三二を以東地エトモホロヘツ之損分相補ひ罷藩候処、右様御仕法替二相成 近江商人岡田弥三右衛門家の経営 四﹂近江商人岡田弥三右衛門家の経営 四二 候而者如何共仕切之手段無之必至と難渋至極之義二者御座候得共、フルビラ御場所二而精々相読ミ漁業出精仕候半瓦格別之迷 ︵ママ︶ 二相成雲間敷と奉存、御時節柄難渋筋等者可相成丈不蝦固渡世向相続仕度ト心配仕居候所、何分近年之諸色貴騰之折柄副脾如 何共仕埋難相成不容易諸入用相嵩ミ二上、当年6フルビラ御場所茂外並通之御割合又写増運上金被仰付益々諸仕込鼻聾ミ当節 二至リ手配方必至と困窮仕此末取続方二も差詰リ殆ト当惑仕候、依之御時節柄奉願上候茂恐入奉存南京共、格別之以御忌懸モ ロラン御場所之義者御請負方御免被仰付堂下置度天恩上候、尤モロラソ御璽下之義当節晶至リ候而茂漁業出直リ不申心得共、 逆蓮之御宝所柄二而格別之漁場仕込茂無之近年者御通行而百重昌取扱居申候、別而御通行御役人様井番人出稼之者共盛典海上 細編菜畑寄リ多分同所6砂原江渡海仕二一噛付風待等遅駆人数茂往来繁く、是か為二引越永住之者共も相殖へ賑々敷土地柄・︸相 成申雲間、私歪軸負方御免二相成候而茂山越内村同様村並二二茂被仰付候半富永住之者共・一出御継立井御止宿等面差支輪無之 永住之もの共之為二も可相成哉二藍存候、右様相成候上・一而漁業手配御継立方両用掛持昌層相働き候半玉外村並同様之姿一一者 成行可申幽間、書髭宜御憐察被下面願之器什被仰付里下置候上者、乍恐是迄仕込置候品々井会所付着道具者勿論漁具等張茂其 儘無代二而奉差上、右御仕法替二相成暴馬叢雲茂彼是御入用茂被風在候義と奉恐察候間、乍恐別段金千両相添奉上納度量間、 何卒格別詳論御憐慰私御請負之義者御免被仰付被虐置度盛願上候、左候上者南部様御領分エトモホロヘツ御場所茂御同所様江 奉願上返上仕度黒垂候間、何卒出格之以御沙汰願之通被仰付西蝦夷地フルヒラ御場所御請負井ヲタルナヰ御用向茂無晶相勤是 迄之通家業向永続仕度奉存候間、何卒願之通青星付被静置度乍恐此段以書付奉歎願候、以上 慶応二丙寅八月 松前 大松前町 唐比須屋 半兵衛
代民次郎
同 同町 親類 種倉屋治左衛門 御奉行所様
すなわち、東蝦夷地であるエトモ・幌別・室蘭場所は請負って以来損分続きであるのに対し、西蝦夷地である小樽内・古
平場所は非常に繁栄していた。しかし、従来東蝦夷地の損分を小樽内場所の利益によって補配していたのが、小樽内が慶
応元年︵一八六五︶より仕法替で村並となったため、岡田家の重要な利益の源泉が断たれることになり、それでは岡田家
が困窮するので従来通りにしてほしいと願い出た。また金一〇〇〇両を上納したいので、東蝦夷地のエトモ・幌別場所の
請負を免除してほしいというものであった。そこには、損分の多い東蝦夷地のエトモ・幌別・室蘭場所を返上するととも
に、前述したようにかなりの利益が得られる小樽内・古平、特に小樽内場所の村居への仕法替は、岡田家の場所経営の利
潤源を維持する上でも、どうしても阻止しなければならない事情があった。 そこで述べられている仕法替とは、具体的には次のようなものであった。 ︵6︶ 以口上書奉申上候 ︵慶応元年︶ 去丑年ヲタルナヰ御請負御免村並二被仰付御仕法向左・﹁奉申上下 一運上家之儀者御本陣と唱へ半兵衛へ御任二相成、御公辺御役二御通行軍取扱御用物継立都而在来垣通被仰付託 一土人井御備馬御預ヶ 一アツトマリ番家壱ヶ所 但漁場無御座候 右者請負中取締二建置申候 一御用所御売上品井御役二御日用品とも是迄之通御売上被仰付焼 一請負中番家守番人江頭取役被仰付候 一セソバコ通行家壱ヶ所御預ヶ 一御本陣前浜 建網四ヶ所 近江商人岡田弥三右衛門家の経営 四三近江商人岡田弥三右衛門家の経営 四四 潮懸請負国役荷物〆粕壱割圏割壱割六分之処村塾二相成長〆粕御役壱割早割書壱割弐分二被仰蝦反処、前四ヶ所漁場限諸向 御用茂相勤候廉を以〆粕八分早割烹壱割御役御用捨、正ミ〆粕弐分早割緋弐分御役上納仕候 一此外二漁場 クマウス 同壱ヶ所 アサリ 同壱ヶ所 ハルウス 同壱ヶ所 右三ヶ所者浜方同様御役上仕候 右之通リニ御座候、以上
すなわち、従来の場所請負の特権が否定され、以前からのつながりで公的機関の代役としての役目を負わされることにな
った。そして、慶応二年︵一八六六︶九月には東蝦夷地の返上が許可されないため、次のように東蝦夷地の室蘭・エトモ・ 幌別に古平を加えて有川村の種田屋徳之丞へ譲り渡し、小樽内も含め諸悪御用が御免となっただけで漁場出稼は許可され、 旧来の家業が曲りなりにも継続されることとなった。 ︵7︶ 手控 恵比須屋半兵衛 御請所 東地エトモ モロラン ホロヘツ 同西地 是迄御請負中在来之 フルヒラ 諸向御用相勤罷在候 同出稼 同ヲタルナヰ右四ヶ所之内ヲタルナヰエトモホロヘツ三ヶ所損金耳付、連も相続方差支心配之余り東道三ヶ所御返上坐願上製奉存候得共、 御時節柄御手数奉呈上候茂恐入候二付、内実前四ヶ所熟談之上蓋人江相譲国度精々申談事候得共、望之者も無御座当惑罷測候 折柄、御当所附有川村道田屋徳之丞6モロランエトモホロヘツ井フルヒラ右四ヶ所なれは譲受内熟可申趣申入候、且ヲタルナ ヰ之儀者諸臣御用御免被仰付漁場出稼蟹玉半兵衛江被仰付候様奉願上候、御同所之義者永住出稼人沢山入込賑々敷土地柄二候 間、御本陣御通行扱永住之者共被仰付候而も御差支有之間敷土人御備馬之儀者石狩御場所同様御為母御持被下置候処、御売上 場之儀も永住人諸番人之老も有之焼身可申上申、請負人兼而売上被仰尊墨在申候、右川付御差支無御座候前書鷹峯上候通ヲタ ルナヰ漁場半兵衛出稼而已被仰付候ハ・旧来之家業向取続徳之丞二も熟談相調半兵衛二おみても官有安心里居、何卒右之御含 ニテ可然様内々御伺被下度奉願上候、以上 ︵慶応こ年︶ 九月五日 恵比須屋 民治郎 山崎藤四郎様
2 奉
公 人 岡田家には、現在松前店の店則と思われる定書が三点残されている。 十三年︵一八〇一︶のものである。以下順に紹介してみよう。 ︵端裏書︶ ﹁宝暦五年﹂ ︵8︶ 掟之事 ︵一︶ 一商売躰申合出情之事 但シ見世江随分相詰メ候事第一二候 ︵二︶ 一御法度第一之博変之事 ︵三︶ 一大酒身持不行跡之事 但シ夜遊二出候ハ・頭分へ断出候事 ︵四︶ 一自分昌商売致私欲事 近江商人岡田弥三右衛門家の経営 宝暦五年︵一七五五︶、明和二年︵一七六五︶、寛政 四五近江商人岡田弥三右衛門家の経営 四六 ︵五︶ 一倹約ヲ相守物入無之事 ︵六︶ 一頭分之者共6申付候事、相背申間敷候 但シ我出盤二相勤申間動泌事 ︵七︶ 一勘定帳面立合相改メ候事 但シ頭分三人椙違無之之印形致可申事 右七ヶ条之表急度相守可申候、敵背而異見致候而聞入不申候ハ・三度迄ハ得と百雷致、弥相止ミ不申候者為楽可被申事、右之 已見之儀三人相談上可被成候、若又上たる者不行跡候ハ・下モ々6申可逆立案、扱又倹約相守物入無下様昌可被致事、首尾好 相調至上二而元手銀申渡シ可申事、且又登リ候節軽物少々相朝事儀宥恕可申事、右配当金二而外題申事、猶又戸当金一所一一致 相応之預ヶ所有之候ハ・名前ハ貸シ可申事、手代名前二而三両五両ツ々貸シ申事堅ク無用二候、年々支配人6相渡し可被申候、 相渡候後見世へ預候而も利足ハ遣シ翌朝候、将又仕入船手或ハ士爵軽物石松ハ・相山登リ候事、極上之熊ノゐ三ツ計ハ例年調 登リ候,事、右配当金者一円元手金二指構不申候銘々相慎擬革立様一一可致候事、右割合年々此方より乗船之節二可致遺候間、冬 登リ之方高書付持参可致候割合書別紙二申遣候、兎角申合商売事出鼻第=一と存候、激増与謝候、以上 宝暦五年 岡田弥三右衛門㊥
亥ノ四月日 同弥三治㊥
頭分三人 太兵衛殿 岡田宜周丘ハ衛⋮殿 理八殿 店中 右一割之配当之儀利潤無之年者相渡シ生間嘉言、其段可得相心事、割合残リ金ハ年々喰多き或ハ下モ男給金遣シ可融三皇、其 余者見世預リ致少々之日量掛重恩被灘南、猶又喰多き下モ男高給金二而為二相成申物相遣可申事、且是迄惣躰元結油類不寄何 殊之外過分遣捨リ有之候問、年々見世二而遣候爵一別二曲置被申候様可然候、一々気ヲ付万事物入無豊玉二相計可被申候、以 上宝暦五年 弥三右衛門㊥ 弥三治㊥ 太兵衛殿 喜兵衛殿 理八殿
ここで注目されるのは、太兵衛・喜兵衛・理八の頭分三人によって岡田家松前店の経営が一任されていることである。す
なわち、 ﹁頭分之者共6申付候事、相背申間漸漸﹂とあり、頭分の者がかなりの権限を有しており、また﹁右一割之配当之儀利潤無之年者相渡シ申問敷候﹂とあり、彼らには利益のない年以外は利潤の一割の配当が充当されたようである。し
かし、頭分はそれぞれ絶対的な権限を有していたのではなく、勘定帳面の立会や店則に背いた者をたしなめる場合におい
ても、 ﹁三人相違無畜﹂とか﹁三人相談上﹂とあるように、三人の合議によって事が進められたようである。そして、 ﹁血相止ミ不申宝亀重訂可被申事﹂とか、 ﹁若又上たる者不行跡候ハ・下モ々6申可為山事﹂とあるように、最終的決定 は岡田家の本家でなされたようである。 次に、明和二年︵一七六五︶の店則をみてみよう。 ︵端裏書︶ ﹁明和二年酉﹂ ︵9︶ 定 ︵一︶ 一御公儀様御法度之趣急度相慎可申事 ︵二︶ 一火之用心毎夜支配人其次6急度可申付事 ︵三︶ 一博変大酒夜遊急度被申合相慎可申事 ︵四︶ 一悪事有之我儘相働異見山上度聞入不申不勤二候ハ・早速為書可張工候、勿論驕リケ間敷面第一申合相慎漏壷申事 ︵五︶ 一支配人帳元6末々申附候儀共違背有間敷事 近江商人岡田弥三右衛門家の経営 四七近江商人岡田弥三右衛門家の経営 四八 ︵六︶ 一商売一一付取組之事、支配人帳元相談之上末々江も為申聞熟談之上取組可被申事 ︵七︶ 一支配人老商売筋工面又者御公用相勤帳面者其次々駐車附為業可申事 ︵八︶ 一上方江書状支配人昌不限夷地登リ船何角委細申為登可被申事 ︵九︶ ﹁為登物帳残リ物帳註文帳者是迄全通皆々打寄可地墨候、為難物帳者江指行之入帳元立合省筆申事 ︵一〇︶ ︸支配請取三四ヶ年首尾能相勤候ハ・休足可申付候、夫共人欠候学者次々用立候迄可被相勤順々二参候得ハ三四ヶ年相勤候上 ハ休足可申付候 ︵二︶ 一手代前之者共子供目糞迄年始状手前方江壱通ツ・為登可致申事、勿論認置華船登リ之節為登可被申候 ︵一二﹀ 一勘定帳立合支配人帳元三老得心之上塗形致為登可被申候、得心中之事者急度印形被致間堆黒 ︵=二︶ 一惣躰夜二入見世之用事相仕舞候ハ・算術手習随分出情致優様二可被申附事 ︵一四︶ 一為登物買物之儀者随分何れ茂江申付相調出情可在事 ︵一五︶ 一支配人其次々江指南致候事、支配人役・一候間随分買物等も申付教へ候而為致可被申事 ︵一六︶ 一自分商事物論仕欲ケ間鋪儀有間鋪事 ︵︷七︶ 一衣服之儀者青梅嶋支配人帳元二可準率、振舞礼式ニハ両人ハ紬迄用捨可致事、末々不相応之服密室候ハ・吟味之上急度取上 可申事 (一 ェ︶ ︸配当之儀算用過金之上人々働相応二可遣候、右人々働三二・一而毎年秋虫リ之節前附ヲ蛸脚申越弔事 (一 縺j 一親類店方へ者何角疎遠・一被致間鋪及相談可被申候事 ︵二〇︶ ︵戴︶ 一毎月朔日十六日御酒指上夜・一入頂裁致打寄商事相談人々勤方評儀可致事、悪百事ハ其座・一而急度可申付事 ︵二﹁︶ 一店先一一而碁将棋致申間鋪候、尤正月之爾者勝手二丁者用捨可曲事、青墨金銭相懸勝負致間盛事 右之趣申合急度相慎可被申候、若違背之者有之候ハ・早速申薦被登候、以上 明和二年乙酉三月 岡田弥三右衛門㊥ 恵美須屋 支配人
の 惣店中 ︵10︶
この店則では、宝暦の店則で頭分と記されていたのが支配人と帳分になっており、その職制が整えられたようであり、さ
らに条目が七か条から二一か条に増え、松前店の経営が堅実に行なわれているようすがよくおかる。その規定は非常に細
かく、 ﹁火之用心﹂にはじまり、支配人の任務、三∼四年に一度千重を与える在所登り制度とみられる慣行、夜閉店後の 算術・手習の励行、衣服之規定、月二回の評議会の開催、店先での碁や将棋の禁止など詳細に規定されていた。 最後に寛政十三年︵一八〇一︶の店則を見ておくことにしよう。 ︵端裏書︶ ﹁寛政十三年﹂ ︵11︶ 定 ︵一︶ 一御公儀様御法度之趣急度相守可申事 ︵二︶ 一火之用心大切二相守大風等量節者、見世之者付添二而蔵々二至迄も気を付相廻り相慎可融嘉 ︵三︶ 一博変大酒夜遊急度申合相慎可被申事 ︵四︶ 一悪事有之我儘相働異見三度目及聞入不申不勤候ハ・早速為事登可被申候、勿論驕リケ間猛禽第一申合相蝦蟹被申候 ︵五︶ 一支配人井支配脇之者より末々江申付候儀とも違背有間鋪事 ︵六︶ 一商売一一付取組之事、支配人支配脇三老相談之上末々江茂為申聞熟談之上二而取組可三聖事 ︵七︶ 一支配人者商売筋工面又者御公用相勤帳面者其次江申付為中皿申事 ︵八︶ 一帳面者支配脇之者致候得者支配人何角気を付折々吟味壷中被申事 ︵九︶ 一上方江書状支配人二不限夷地登リ船何角委細為申登可申事 ︵一〇︶ 一為登物帳残リ物帳註文帳者是迄之通皆々打寄可為致候 ︵=︶ 一勘定帳立会支配人井支配脇三老得心之上印形致為登可被申候、尤得心無慰事白下度印形被三間慰事 ︵一二︶ 一為登買物之儀者随分何れ茂江申付相調出情可有之候 近江商人岡田弥三右衛門家の経営 四九近江商人岡田弥三右衛門家の経営 五〇 ︵一三︶ 一支配人其次々江随分指南致車中、支配人役一一候間随分買物等も申付教江候而為致可被申事 ︵一四︶ 一手代分之者共子ともに至迄年始状本家江原通ツ・為登電車申事、勿論認メ置壱番船登リ曲節為登可被土候 ︵一五︶ 一惣躰夜・一入見世之用事相仕舞候ハ・算術手習随分出情いたし候様胆管被申付候 ︵一六︶ 一自分二商事勿論私欲ケ間鋪儀致間鋪事 ︵一七︶ 一衣服之義青梅嶋支配人支配脇二可限事、振舞礼式二者両人者紬早老用捨可怪事、末々不相応之服着軍帽ハ・吟味之上急度取 あけ可申事 ︵一八︶ ︵戴︶ 一毎月朔日十六日御神酒差上夜一翻入頂裁量打寄商事相談人々勤方無帽可致事、悪事者其座にて急度可申付事 ︵一九︶ 一支配人たりとも贔屓之取計無之様何事にても真直二取計可被申事 ︵二〇︶ 一支配人身持不堵不勤等有之候ハ・支配三老より早速可申掻暮、垂頚一一百事外方6相聞候ハ・両人とも可為越度事 ︵二一︶ 一子供あがり之者共初登リ相済不申内二きせるたはこ入掘立不相応之手道具等隠持扱見付候ハ・急度申付取あけ可申事 ︵二二︶ 一店先き二而碁将棋致間敷候、尤正月之御勝手戸隠ゑ用捨鄭重事、一銭にてもかけ勝負半間敷事 ︵こ三︶ 一親類店方へは何角疎遠二致間敷相談可被申事 ︵二四︶ 一支配請取五ヶ年首尾能相勤候ハ・休足可申付候、夫農人欠ヶ候時事次用立中豊可被相勤候、順々二見リ候得者五ヶ年相勤候 上二者休足可申付候 右ヶ条書之趣申合急度相慎可被申候、若違背之老有之候ハ・早速可被申楽候、以上
寛政十二年 江州八幡
申四月 本 家 恵美須屋 店 中この店則を前述した明和の店則と比較してみると、条目数では明和の二一か条に対し二四か条とほぼ同様の条目数であ
る。しかし細かく内容を吟味すると、二四か条のうち二〇か条が明和の店則とほぼ同内容であるが、一か条が削減され、四か条が新たに付加されたため、結局三か条が増加したことになる。寛政の店則で削減されたのは第一八条の配当金に関
する規定であり、一方新たに加えられたのは第八・一九・二〇・二一条の支配人および奉公人に対する規定であり、この
店則によって被雇者に対する規制が一層強化されることになった。 次に、岡田家に雇い入れられた奉公人について、奉公人請状を中心にみてみよう。まず一例として天保十年︵一八三九︶ 二月の虎吉奉公人請状を示すと次のようになる。 ︵12︶ 請状之事 ︵田脱力︶ 一私埣虎吉と馴者貴殿江奉公二進申候、此者書成者一一御座候、宗旨者代々浄土真宗南津村真念寺旦那二重、則寺請証文取遣申 候、此踏石付如何様成六ヶ讐敵出来申候共私共罷出貴殿江少シ茂御難相懸申問鋪候、御公儀御法度之義堅ク相書肺申候、御 奉公相勤之内金分引負百出取逃欠落者不及申博変遊色鯉二而不勘定仕候ハ・親請負之者共罷出早速相鎚浦里可仕組、御気昌 入御猿遣被成魚内此方従障願野間敷候、御家法相背不奉公辻堂ハ・何時二而茂障御出シ可被爆候、其節貴殿商売悪難罷越同 商売致妨等仕間男候、若理不尽二障ヲ蓮歩奉公仕候ハ・勤来候間之仕着セ小遣等致算用急度相弁江可豊肥、其時一言之子細 申間鋪候、尤給銀之儀為御休翼成御節誉者働相応二御とらせ可被下洗、為後日之請状傍而如件 天保十己亥二月 日 親 西川屋宗十郎㊥ 請人 立木屋太兵衛㊥ 奉公人虎吉㊥ 松前屋弥惣治 この請状には、 ﹁御家法相背不奉公仕候ハ・﹂とか、 ﹁貴殿商売場江罷越同商売致妨等仕間組候﹂とあり、いかにも商家 ︵13︶奉公人らしい請状の文言がみられる。さらにこの史料を含め、岡田家に現存する一〇通の江戸期の奉公人請状を整理して
みると次のようになる。年代は、六通の請状の後半部分が切断されており四通しか明らかにできないが、天保十年︵一八
三九︶∼万延二年︵一八六一︶の幕末期のものである。出身は、蒲生郡南津田村一・池田村一・武佐村一・尻無村一、野洲 近江商人岡田弥三右衛門家の経営 五一近江商人岡田弥三右衛門家の経営 五二
郡幸津川村二・江頭村一、神崎郡大久保村一・稲葉村一、愛知郡薩摩村一であり、岡田家の本家がある八幡に近接する蒲
生郡・野洲郡・神崎郡・愛知郡の湖東諸郡より奉公人が集められたようである。宗旨についてみると、浄土真宗六、浄土
宗一、禅宗一であり、岡田家の宗旨である浄土真宗が多い。岡田家への雇い入れ年齢は、五例であるが、十一歳・十五歳
︵14︶ ・二十七歳・二十九歳・四十三歳各一人であり、かなり高齢の中途雇用者もみられた。 3 廻 船ここでは、場所請負によく付随する江戸湾における岡田家の廻船についてみてみることにする。岡田家が江戸期に廻船
︵15︶ を所有していたと見られる史料は、現在明らかにできないのであるが、ただ次のような関連史料が存在する。 ︵16︶ 覚 一金三千六百六拾七両壱分二朱卜 叶丸船代金 弐〆九拾九文 惣勘定如此 右ハ去ル天保七年丙申年四月御預ヶ被仰付場、薮6安政五年迄惣指引正味貸出相成候、尤此年限中二両度新規合船候 右之内 金三百五十両 下船代引 ︵安政六年︶ 但昨未年新規合船二付下船売払代金也 差引金三千三百拾四両一分二朱 銭弐〆九拾九文 一金千五百八拾四両弐分弐朱ト 壱〆弐百四拾七文 但昨未年春大坂昌おみて新規合船惣入用轟御座候 合金四千八百九拾九両ト 三〆三百四拾六文 右ハ昨未年迄叶丸勘定惣差引正味貸高如此御座候、以上 岡田半兵衛代 万延元申年七月 金兵衛︵17︶ すなわち、これは岡田家が松前藩より御手船の叶丸を天保七年︵一八三六︶四月以降預り、安政六年︵一八五九︶までに要