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近江商人外村宇兵衛家の雇用形態

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近江商人外村宇兵衛家の雇用形態

は し が き       ︵1︶       ︵2︶  近江商人の雇用形態については、これまで蒲生郡日野の中井源左衛門家や愛知郡小田刈の小林吟右衛門家の事例が詳細       ︵3︶ に分析されており、我々も近江商人の経営を分析する中で、雇用形態について言及してぎた。その結果、近江商人の雇用        ︵4︶ 形態の特色として、第一に店員の供給源が近江地方にあったこと、第二に在所登り制度が存在したことがあげられた。本 稿は、このような特質をもつ近江商人の雇用形態について、神崎郡五個荘町金堂の外村宇兵衛家をとりあげ、豊富に残さ れた店員名簿を分析することによって、さらに詳細な雇用の実態を明らかにしょうとするものである。       ︵5︶  外村宇兵衛家については、すでに宮本又次氏の研究によって店則が紹介され、﹃近江神崎郡志稿﹄などにも外村宇兵衛       ︵6︶ 家の概略が明らかにされている。最近では、外村与左衛門家・外村宇兵衛家・外村市郎兵衛家の家訓・店則類を集めた史      ︵7︶ 料集が刊行され、外村宇兵衛家の研究基盤も整備されるようになった。  これらの研究によって、ここで外村宇兵衛家の歴史について簡単に振り返っておこう。初代外村宇兵衛嘉久は、第六代 外村与左衛門浄秋の末子として、安永六年︵一七七七︶に誕生し、幼名を与市といった。寛政四年︵一七九二︶に元服して 宇兵衛と称し、兄の第八代外村与左衛門得候の事業を助けた。享和二年︵一八〇二︶嘉久二六歳の時、位田村の松居久右      近江商人外村宇兵衛家の雇用形態      九一

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     近江商人外村宇兵衛家の雇用形態      九二 衛門の娘なみと結婚し、新居を構えた。同年には本家の与左衛門家から元手金として七六〇貫目を預かり、これと本家の 資金五〇〇貫目とを合わせた五六〇貫目を商売元手として本家において一緒に商売を行なった。儲けの三分の一が宇兵衛 分として与えられ、文化十年︵一入一三︶までに宇兵衛の元手金は三六五貫目余にまで増大した。同年には、与左衛門家 の商売向支配を退役し、これを元手金として自分商売を行なうようになり、本家外村与左衛門家の経営から独立した。独 立後は、京都・大坂・堺・紀州・上州・武州・野州等を回り商売を行ない、文政三年︵一八二〇︶嘉久が四四歳で病死し た時には元手金は九三九貫目余にまで達した。  嘉久には、文化七年に他界したなみの後妻にその妹を迎え一男二女をもうけたが、男子は三歳の時死亡したため、上州 桐生町長沢新助の二男宇蔵を養子に貰い受けたが嘉久没後に病気となり離縁した。そこで、文政十年嘉久の長女みほに長 浜町宇野五郎左衛門の二男を配し、宇兵衛家を継がせた。第二代宇兵衛元成は、文化五年に生まれ、明治二十三年夏亡く なるまで八三歳の長寿を全うした。元成は、文政十一年に上州桐生町に糸・質店を開き、関東諸々に絹布等を販売した。 天保十二年︵一八四一︶には江戸堀留町に店を設け、同十四年には桐生店を廃止し、弘化二年目﹁九三五︶には橘町に支店 を置き、二店舗とした。嘉永二年︵一八四九︶には堀留町の本店を伊勢町に移し、安政三年︵一八五六︶両全を合併し、新 たに新大坂町に店を開いた。この店は明治期に至るまで東国での拠点となった。慶応二年︵一八六六︶には、京都堺町通 大坂材木町に店を開き、明治六年には横浜弁天通に本家と合同して外村土平名義の生糸売込を行なう店を設けた。元成に は、実子がおらず、外村与左衛門家の分家である宗兵衛家の四男与一郎を養子に貰い受けた。  与一郎は、天保十四年の生まれで、安政六年に元服して孝兵衛と称し、明治七年には宇兵衛家を継いで、第三代宇兵衛 元明となった。明治六年に本家と合同して始めた横浜店は、同八年には本家の手を離れ、宇兵衛家が単独で営業していた が、同十六年には小野光景氏へ譲り渡した。また、明治三十八年には福井にも支店を設け、営業を拡大した。元明には、

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四男一女がおり、明治三十八年には同八年生まれの嫡男元亨に家督を譲り退隠し、翌三十九年に六四歳で没した。        ︵8︶ 宇兵衛元亨は、名古屋にセル地製織会社を創設し、家業の発展に努めたようである。 第四代 ︵1︶ 原田敏丸﹁徳川時代近江商人の店員組織−日野の豪商中井源左衛門家の場合1﹂︵堀江保蔵編﹃近世日本の経済と社会﹄有斐閣、一九五八   年︶。 ︵2︶ 末永国紀﹁近江商人の店員組織一小林吟右工門家の場合一﹂︵京都産業大学﹃経済経営論叢﹄第一二巻第四号、一九七八年三月︶。 ︵3︶ 拙稿﹁近江商入口川伝右衛門家の松前経営﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館﹃研究紀要﹄第一八号、一九八五年一月︶。同﹁近江商人岡田弥三右   衛門家の経営﹂︵同﹃研究紀要﹄第一九号、一九八六年三月︶。同﹁近江商人市田清兵衛家の経営﹂︵一︶︵二︶︵同﹃研究紀要﹄第一=号・第二二   号、一九八八年三月・九月︶。 ︵4︶ 近江商人の雇用形態と他の近世に系譜を持つ商家との比較を試みた朝雲として﹁近江商人の雇用形態﹂を予定している。 ︵5︶宮本又次﹁近江商人の上等について1外村宇兵衛家の場合1﹂︵﹃経済史研究﹄第二二巻第二号、一九三九年八月︶。 ︵6︶ 大橋金造編﹃近江神崎郡志稿﹄下巻︵滋賀県神崎郡教育会、一九二八年︶四六〇∼四六二頁。江南良三﹁外村家の一族﹂︵﹃湖国と文化﹄第四四   号、滋賀県文化体育振興事業団、一九八八年七月︶九二∼九四頁。外村与左衛門家については﹃創業二八○周年記念誌﹄︵外与株式会社、﹁九八   ○年︶、外村市郎兵衛家については﹃創業百十年史﹄︵長田株式会社、一九七三年︶の社史がそれぞれ刊行されている。 ︵7︶ 五個荘町史編集委員会編﹃五個荘町史資料集II近江商人外村家の家訓・店則集成1﹄︵五個荘町、一九八九年︶。なお、外村宇兵衛家につ   いては、拙稿﹁近世における近江商人外村宇兵衛家の経営﹂︵滋賀大学﹃彦根論叢﹄第二六二・二六三号、一九八九年十二月刊行予定︶等も併せ   て参照されたい。 ︵8︶ 同右書、二三四∼二三六頁。 一 史料について  外村宇兵衛家には、同家に雇用された店員に関して各店員の動向を記載した店員名簿が、第1表のように八点存在する。       ︵1︶       ︵2︶       ︵3︶ すなわち、①安政三年目一八五六︶正月﹁人別改記﹂、②明治十一年五月﹁人別帳﹂、③明治十四年四月置出店人別記﹂、④       ︵4︶      ︵5︶       ︵6︶ 明治十七年四月﹁支店人別記﹂、⑤明治二十八年十月﹁支店人別記﹂、⑥明治三十八年一月﹁支店人別記﹂、⑦明治四十一        ︵7︶      ︵8︶ 年﹁福井支店勤務者人名録﹂、⑧明治四十二年﹁京都本支店勤務者人名録﹂の一連の史料である。 ①は、﹁安政三丙辰正月合店﹂﹁其前略之﹂と史料の内扉に記されているように、安政三年に江戸の橘町の支店と伊勢町 近江商人外村宇兵衛家の雇用形態 九三

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近江商人外村宇兵衛家の雇用形態 容 第1表外村宇兵衛家の店員名簿 番号t冊子番号1 内 江戸・東京店 東京・京都店 東京・京都・横浜店 東京・京都店 東京・京都店 東京・京都店 福井店 京都店 安政3年目明治40年 明治11年5月∼14年3月 明治14年4月∼17年3月 明治17年4月∼19年12月 明治28年10月∼33年4月 明治38年1月∼43年4月 明治41年 明治42年 第2号 第3号 第4号 第7号 第9号

①②③④⑤⑥⑦⑧

(註)安政3年正月「人別改記」・明治11年5月「人別帳」・同14年4月   「出店人別記」・同17年4月「支店人別記」・同28年10月「支店人別記」   ・同38年1月「支店人別記」・同41年目福井支店勤務者人名録」・同42   年「京都本支店勤務者人名録」(外村宇兵衛家文書)より作成。 については、その間の動向が継続して明らかになるが、﹁第五号﹂ 十八年九月と明治三十三年五月∼同三十七年十二月の店員名簿が欠けているため、明治二十八年十月∼同三十三年四月と 明治三十八年一月∼同四十三年四月に在籍した店員しかわからず、明治二十年以降の店員の動向を継続して把握すること

       九四

の本店とを合併し、新たに新大坂町に店を開いた時に整理して、同店におい て同年から明治四十年までの間に在籍した店員について書き留めた史料であ る。これにより、東京店の店員の動向が長期的に把握できる。②は、東京店 と京都店において明治十一年五月から同十四年三月までの間に在籍した店員 について書き留めた史料であり、﹁第二号﹂と記されている。③は、東京店 と京都店の他に明治十六年に廃止となる横浜店の合わせて三店において、明 治十四年四月から同十七年三月までの間に在籍した店員について書き留めた 史料であり、﹁第三号﹂と記されている。④は、東京店と京都店において明 治十七年四月から同十九年十二月までの間に在籍した店員について書き留め た史料であり、﹁第四号﹂と記されている。⑤は、東京店と京都店において 明治二十八年十月から同三十三年四月までの間に在籍した店員について書き 留めた史料であり、﹁第七号﹂と記されている。⑥は、東京店と京都店にお いて明治三十八年一月から同四十三年四月までの問に在籍した店員について 書き留めた史料であり、﹁第九号﹂と記されている。したがって、東京店と 京都店において明治十一年五月から同十九年十二月までの間に在籍した店員         ﹁第六号﹂﹁第八号﹂に該当する明治二十年一月∼同心

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はできない。  ⑦と⑧は、①∼⑥の史料のようにその店における店員の入優遊を年々書き加えて記録していった名簿とは異なり、ある 年度における店の在籍店員を示した史料である。ただし、在籍店員については出身・経歴等も①∼⑥の史料と同様に記録 されている。⑦は、明治四十一年の福井店の勤務者名簿であり、⑧は、明治四十二年の京都店の勤務者名簿である。  したがって、これらの史料を用いることによって、外村宇兵衛家に雇用された店員について、①を中心に②∼⑥を加え て縦断的に江戸・東京店の長期的な動向を、③⑥⑦⑧を中心に横断的に東京店・京都店・横浜店・福井店の特色を明らか にすることができる。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ 安政三年正月﹁人別改記﹂︵外村宇兵衛家文書︶。 明治十一年五月﹁人別帳﹂︵同右︶。 明治十四年四月﹁出店人別記﹂︵同右︶。 明治十七年四月﹁支店人別記﹂︵同右︶。 明治二十入年十月﹁支店人別記﹂︵同右︶。 明治三十八年一月﹁支店人別記﹂︵同右︶。 明治四十一年﹁福井支店勤務者人名録﹂︵同右︶。 明治四十二年﹁京都本支店勤務者人名録﹂︵同右︶。 二 ﹁人別帳﹂の分析  ここでは、安政三年正月﹁人別改記﹂を用いて、安政三年から明治四十年までの間に江戸・東京店に在籍した店員の動 向を安政三年以前・安政四年∼慶応三年・明治元年∼十年・同十一年∼二十年・同二十一年∼三十年・三十一年∼四十年 のほぼ十年ごとに分けて、その変化と特色を見てみることにする。 近江商人外村宇兵衛家の雇用形態 九五

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近江商人外村宇兵衛家の雇用形態 第2表 江戸・東京店の店員数 年

代 1人数

25人 26 24 25 22 26 24 26 36 41 72 安政3年(1856) 文久2年(1862) 明治元年(1868) 明治6年(1873) 明治11年(1878) 明治16年(1883) 明治21年 (1888) 明治26年(1893) 明治31年(1898) 明治36年(1903) 明治40年(1908) のかを示したのが第3表である。この表によれば、 毎年ほとんどが五人以内であることがわかる。 ・同三十八年一四人・同三十九年二一人であり、 行なっている。また、浮竿員数も、毎年ほとんどが五人以下であり、 の退店員を出したのは明治三十七年だけであるが、 時期それだけ多くの店員が入店してきたためであって、 増加につながったのであった。すなわち、外村宇兵衛家の江戸・東京店は、 がら常に二五人前後の店員が存在していたが、 うになり、それにともない退店員も五人を越えるようになった。  次に、これらの店員はどこから供給されたのか、店員の出身地について見てみよう。 九六

 D   1店員と出仕

日成

糠購

碁鍔讐軽鯵鋼一調淑蜜二蓮畔陰山

﹁書 月白 同三十六年置は四一人、同四十年には七二人と明治三〇年代以降店員が 正家 騨嫡 急増している様子がうかがえる。特に明治三〇年代末の伸びは著しい。

蜘摘

D 篠雛鯵麟覧聯繋雛難饗

︵    になる。そこで、実際にどれだけの入店員と退店員が毎年繰り返された    明治十二年を除いて新たな店員を採用しない年は存在せず、入店員も   入店員数が一〇人を越える年は、明治二十九年一〇人・同三十二年一六人    いずれも二十九年以降に集中しており、特に三十九年には大幅な増員を        退店員が見られない年も数年存在する。一〇人以上    明治三十︸年以降は常に五人以上の退店員が存在する。これは、この      むしろ入店員が急増したため歩止まりが高くなり、差引店員数の       毎年一∼五人の入店員・退店員を繰り返しな   明治二十九年以降になると一〇人を越える店員を採用する年も見られるよ 出身地については、時期的な変化

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はあまり見られなかったので、第4表のように集計して示した。二六〇人のうち近江出身者は二三九人︵九二%︶を占め、 圧倒的に近江出身者の雇用が優先された。近江の中でも、郡別では神崎郡六八人・愛知郡四六人・坂田郡三四人・犬上郡 三二人・甲賀郡二七人が大きな比重を占め、湖東・湖北の地域が中心である。村別では坂田郡長浜二五人・神崎郡金堂一 第3表江戸・東京店の入店員数・退店員数 年 代 i入店員数1退店員数1年 代1入店員数1退店員数 2人

752434312232224576978

10

R72

2人 5 5 2 3

643431634

10

Q5聡967951421

5 明治正5 16 P7 P8 P9 Q0 Q1 Q2 Q3 Q4 Q5 Q6 Q7 Q8 Q9 R0 R1 R2 R3 R4 R5 R6 R7 R8 R9 S0 2人

4272113054332115440650043

2人 5

343222222222426321264045

安政3   4   5   6 万延元 文久元   2   3 元治元 慶前主   2   3 明治元

234567891011121314

(註) 第2表に同じ。 近江商人外村宇兵衛家の雇用形態 八人・神崎郡川並=二人・甲 賀郡石部=一人・犬上郡彦根 一一人が、比較的多くの店員 を輩出している。特に、金堂 は外村宇兵衛家の本家が所在 する村であり、川並は金堂に 隣接する村であった。長浜も 養子に入った二代目宇兵衛の 実家先であったため、多くの 店員が採用されたのであろう。 近江以外では、江戸五人が多 く、外村宇兵衛家の商圏であ る関東地方を中心とした地域 や京都四人・大阪二人の他に 越後一人も見られたが、いず  九七

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第4表 江戸・東京店の店員出身地 地  病

人劃

内 訳 近江

神崎郡

愛知郡

坂田郡

犬上郡

甲賀郡

蒲生郡

郡郡郡津

太灘焼

栗東野大

江戸・東京 関   東

越京大

後都阪

68人 46 34 32 27 14  8  6

 3

 1 (239) ﹁DQ︶

142

金堂18・川並13・八日市5・能登川5・山上5・橋爪 3・位田3・竜田3・塚本2・町屋2・葉枝見2・奥 1・山本1・石馬寺1・佐野1・栗見1・今1・北之 庄1 愛知川9・目加田6・八木庄5・西出4・沓掛2・安 孫子2・稲2・日枝2・土橋1・三津1・横溝1・彦 留1・花沢1・豊満1・東円堂1・肥田1・夏野1・ 稲枝1・角井1・東出1・北牧野1・上二野1 長浜25・神照2・顔弓1・十里1・柏原:1・馬場1・ 息長1・郷里1・法性寺1 彦根11・東甲良4・開出今3・川瀬3・豊郷3・高宮 2・三屋2・西出1・干手1・西甲良1・多賀1 石部12・三雲5・寺庄3・菩提寺2・水口2・土山1 ・大原1・佐山1 安土3・八幡2・日野2・木村1・上野田1・市原1 ・浅小井1・木津1・金田1・金屋1 草津:2・辻2・小坂1・手原1・高野1・金勝1 速水3・大畠1・虎姫1・朝日1 北里2・守山1 観音寺1 深川1・神田1・銭座1・元飯田1・竹町1 常陸土浦1・武蔵高麗1・相模大磯1・武蔵足立1・ 武蔵所沢1・上総見出1・群馬富岡1・茨城東茨城1 ・埼玉児玉1 柏崎1 三条2・五条橋1・愛宕宮谷1 上福島1・中之島1 計 260 1 近江商人外村宇兵衛家の雇用形態 九八 (註)第2表に同じ。 れも近江地方に比 べれば、わずかな ものであった。す なわち、外村宇兵 衛家の江戸店の店 員は、圧倒的に近 江を中心として採 用されており、近 江の中でもとりわ け神崎・愛知・坂 田・犬上・甲賀郡 の外村宇兵衛家と 縁の深い地域から 多く雇用されたこ とがわかる。毎年 少数の信頼のおけ る人物を雇用する には、このような

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第5表店員の続柄

続柄一鍬・翻∼認証明治・1一・・1明治・・一・・陣31一・・計 59人 65 33 18  7  3  1  3 13  6  1 51 22人 26 18 12  2 8    1  8 12人 12  1  1  2 3 Qリ    ハ0 19人  6  1 1 1 1  9臼    ρ0 2人 9 4 1

11  11

1人 10 4 3  1  1 1 9 3人 2 ﹁D  2  1    1  2 11 男

長男男男男男男子 子主明

・      弟

子二三四五六七末 三戸不

潔 i 260 97 計 27 30 29 37 40 (註)第2表に同じ。   年代は,ほぼ10年間隔とし,その期間の入店者を示している。 近江商人外村宇兵衛家の雇用形態 採用方法が最も適合的な方法だったのであろう。  このように採用された店員は、どのような階層の人々であった のか、店員の出自・続柄について見てみよう。先の時期区分にし たがって、家族の内でどのような続柄の人々が店員として供給さ れたのか示したのが、第5表である。この表によれば、二男が六 五人で最も多く、長男五九人・三男三三人・四男一八人・弟コニ 人と続くが、長男・嫡子・養子・戸主もかなり見られ、外村宇兵 衛家の場合には必ずしも次三男が奉公に出されていたわけではか った。むしろ、続柄に関係なく、男子は積極的に店員に供給され たようである。しかし、時期別に注意深く検討すると、明治十年 以前は不明の比率が高く長男の可能性もあるのであるが、明治十 年までは長男が比較的少ないのに対し、明治十一年以降は逆に長 男がかなりの比重を占めるようになっており、注目されるところ である。これは、旧来の長男は農家の跡継ぎ、次三男は商家へ奉 公にというパターンが崩れ、むしろ生計の手段が農業経営からし だいに商家の店員等へと移行している流動的な様子がうかがえる。 これらの店員は、前述した出身からも想定されるように、ほとん どが近江地方の農村の子弟であったが、なかには外村同族や商家       九九

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近江商人外村宇兵衛家の雇用形態 第6表 店員の出仕年齢 出仕年齢一安政・魏1∼明翫一1・明削一・・明治21一・・蹄31一・・計 1人  8 45 27 55 60 23

8112121211

2111216

42744132

1 1  1 −     りQ 人

61510411

1 1 1 人

3710

4  り0 ∠4     1  1  1     1 1 1 人

3113212

1 1      1 9臼 2 1人  3 22  2 1 1 人 2  9  5  1  1  1 2 6 10歳 11 P2 P3 P4 P5 P6 P7 P8 P9 Q0 Q1 Q2 Q4 Q8 R1 R2 R3 R4 R5 S1  明 42  不 260 97 37 40 29 30 27 計 (註) 第5表に同じ。    年齢は,数え年である。   一〇〇 の子弟・取引先の子弟、親子二 代にわたる勤務なども見られた。  それでは、店員は何歳ぐらい から雇用されたのであろうか。 出仕年齢について、第6表によ って見てみよう。最年少は一〇 歳で、最高齢は四二歳である。 最も多いのは一五歳の六〇人で、 一四歳五五人・=一歳四五人・ 一三歳二七人・一六歳二三人と 続き、=一∼一六歳が中心とな っている。外村家の店内で経験 的な教育を行なおうとすれぽ、 この程度の若年者から雇用しな ければならなかったのであろう。 一方、単に一〇三代の店員を採 用しただけでなく、二〇∼三〇 三代の中途採用者も存在したこ

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第7表店員の入店月

瑚1一安政・魏1∼蹄元一1・i明治・1一・・明治21一・・i明治31一・・1計 2人 19 25 39 35 24 15

922292379

1人 10

U22174431168

2 3 人

524172146521

1人

85333138 11

3225542 42

6263 2227

124422 23124

正2

3 4  5  ρ0 7  8 Q︶ 10 11 12 不明 計 27 30 29 37 40 97 1 260 (註)第5表に同じ。    安政3∼慶応3の閏3月と閏5月に入店の各1人は,それぞれ3月と5月に含めた。 近江商人外村宇兵衛家の雇用形態 とは注意する必要があろう。時期別に見ると、明治十年以前 には=⋮歳が中心となるのに対し、明治十⋮∼二十年には﹁ 三∼一四歳が、明治二十一∼三十年には一四∼一五歳が、明 治三十一∼四十年には一五歳が、それぞれ中心となるという ように、出仕年齢がしだいに上昇しているのがわかる。これ は、学校教育がしだいに普及し、小学校やさらには高等小学 校を卒業した者が入店するようになってきたことによるもの と考えられる。  次に、これらの店員の入店月を第7表によって見てみよう。 この表では江戸・東京店への入店月を示しているが、本家あ るいは京都店で一定の試用期間が過ぎてから江戸・東京店に 配置されるため、実際に外村家へ出仕するのはそれより数日 から数か月前のこととなる。そのことは別としてこの表を見 てみると、最も多いのは四月の三九人で、五月三五人・十月 二九人・三月二五人・六月二四人・十一月二三人・九月二二 人と続くが、四月と十月を中心とする春と秋の入店がやや多 いが、特に五月と決めることなく、毎月必要に応じて不定期 的に採用している様子がわかる。しかし、これも時期別に検       一〇一

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     近江商人外村宇兵衛家の雇用形態      一〇二 討すると、明治三十年以前においてはほぼ毎月二∼五人程度の入店員があったのに対し、明治三十一年以降になると毎月 の採用は見られるものの、四月・五月にかなり集中して採用するようになってくる。これは、前述したように学校教育の 普及により、しだいに小学校・高等小学校の卒業者を多く採用することになってきた結果であろう。  これらの店員の雇用に際しては、さまざまな人々を通じて雇用された。そして、近江出身者の雇用に示されるように、 信頼のおける人物を雇用しようとすれば、最も信頼のおける同族や店員による紹介、長年の取引関係にある人からの紹介、 地元の信用のある人からの紹介によるのが一般的であった。外村宇兵衛家においても、史料的に明確でないが、重要な地 位にある店員の紹介によって雇用された場合が多かったようである。

    2 勤続と退職

 以上のようにして入店した店員は、その後どのような経過を辿っていったのであろうか。外村宇兵衛家では、近江商人 において見られた雇用慣行である出店と本家の所在する近江とを数年ごとに往復を繰り返して昇進あるいは解雇していく        ︵1︶ という在所登り制度が存在した。明治十六年の﹁帰国定﹂によれば、初登りは一九歳、二度登りは二三歳、三度登りは二 七歳、四度登りは三一歳と四年ごとに登りが繰り返される仕組になっていた。また、﹁右四度トモ発足ノ日ヨリ帰店ノ日 マテ日数五十日間ヲ限トス﹂とあり、休暇は五〇日間であった。このような登り制度を通過して、明治三十四年の﹁規則 ︵2︶ 書﹂に﹁別家ハ三十一歳トス﹂とあるように、四度登りをした年に別家が許されることになっていた。そして、同年の   ︵3︶ ﹁細則書﹂には﹁勤務者家政ノ都合上二十八歳ヨリ妻帯ヲ許ス﹂﹁皇別轟轟帰国二至ル迄妻戸本宅出入ヲ許サズ﹂とあり、 別家期以前の二八歳になれぽ妻帯が許されたが、四度登りまでは妻の本家への出入りは許可されなかった。さらに、﹁別 家ハ出生地二於テ住居スベシ、移転ノ時は本宅ノ許可ヲ乞フベシ﹂﹁別家ノ定期帰国ハ年三度日数二十日宛トス﹂﹁帰国者       ︵4︶ ハ発着トモ本宅ヲ経由スベシ﹂﹁退身後同所ニテ同業営ムベカラズ﹂とあり、別家に際しても別家は近江に居住し、勝手

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に移転してはならないこと、帰国は年三度で二〇日ずっとし、その際本家に挨拶しなけれぽならないこと、自分商を行な う場合には本家と同じ商圏で同種の事業をしてはいけないことなど本家からさまざまな制約が加えられたのである。いく ら店員に長期勤続後の別家という道が存在しても、このような厳しい淘汰制度や店員生活の重圧によって、別家という最 後のゴールまで到達できた店員は極めて稀であった。そこで、以下店員の最後まで勤め上げる過程・途中で脱落して退職 していく状況について見ていくことにしよう。         一  まず、第8表によって店員の勤続年数を見てみよう。不明が九五人でかなり多いが、この中には勤続年数の追求が困難 な他支店への転勤者も一八人含まれており、これらを除くと、一年が二四人で最も多く、四年一八人・六年一六人・﹂年 未満一五人・三年一三人・二年一二人と続く。これを五年ごとに見てみると、一七九人の内五年未満八七人︵四九%︶、五 ∼九年四七人︵二六%︶、一〇∼一四年二六人︵一五%︶、一五∼一九年九人︵五劣︶、二〇∼二四年四人︵二%︶、二五∼二九 第8表 店員の勤続年数 勤続年数i人 数il勤続年数1人 数 砥−

31301112

1195

17 P8 P9 Q0 Q1 Q4 Q6 28 36 42 不明 260 計

臥盤捻捻

7  ρ0  ﹁0  8 10

R30

1年未満  1年

 2

3  4  ﹁D  ρ0  7  8  Q︶ 10 P1 P2 P3 P4 (註) 第2表に同じ。   他支店への転勤は不明に含めた。 近江商人外村宇兵衛家の雇用形態 年五人︵三%︶、三〇年以上︵二%︶となり、四分の三が一 〇年未満、半分が五年未満に中途退職しているのである。 しかも、二〇年以上同店に勤続した者はわずか七%に過ぎ ず、一方一年未満に辞める老が一五人︵八%︶もおり、入 店したものの二〇年以上の長期に渡って勤続することがい かに困難であったかを示している。重た、時期的な変化を 見ると、慶応三年以前は一五年以上勤続の者が一二人いた が、明治元年以降は一五年以上勤務の者はわずか三人しか 存在しない。史料が明治四十年で終わっているため明治二        一〇三

(14)

近江商人外村宇兵衛家の雇用形態 第9表 店員の退職年齢

騰年隙人xlト退職年副人数

3人 1 3 2

131211111

−㎜ 28歳 30 32 33 36 37 38 39 42 44 49 55 58 71 不明 260 睡

臥−・書M・

20 P3

U159710531

11歳 12 13 14 15 P6 P7 P8 P9 Q0 Q1 Q2 Q3 Q4 Q5 Q6 Q7 (註) 第2表に同じ。   年齢は,数え年である。他支店へ   の転勤および明治40年に在勤中の者   は,不明に含めた。 二四歳四七人︵二九弩︶、二五∼二九歳一二人︵八%︶、三〇∼三四歳六人︵四%︶、 二人、四五∼五〇歳一人、五一歳以上三人となり、四分の三が一〇豊代の後半から二〇歳代の前半に集中的に退職してい るのがわかる。すなわち、外村宇兵衛家に一二∼一六歳で入店した店員の大多数は、五∼一〇年も勤めないで、二〇歳前 後には退職してしまったのである。  このようにかなり短期間に退職していった店員が多く見られたのであるが、彼らが退職していった理由は何であったの か、勤続年数をも踏まえて考えてみよう。そこで、店員の勤続年数と退職理由の関係を示したのが、第10表である。最も 多いのは永暇の九七人︵五二%︶であり、他支店への転勤一八人︵一〇%︶・解雇一二人︵六%︶・病気一〇人︵五%︶・不將 一〇人︵五%︶・病死九人︵五弩︶・家出八人︵四%︶などと続く。  それぞれの退職理由について見てみると、自分商は安兵衛と嘉蔵の二人のみで、いずれも安政三年︵一八五六︶以前に          一〇四 十年以降の入店者は最長でも勤続二〇年しかなら ないのであるが、そうだとしてもしだいに勤続年 数が短縮してぎている様子がわかるであろう。  次に、勤続年数と深い結びつきのある退職年齢 を第9表によって見てみよう。最も多いのは一八 歳の二〇人で、 一五歳一五人・二一歳一五人・一 六歳一四人・一九歳一三人・二四歳一〇入と続く。 これを五年ごとに見てみると、=∼一四歳一一 人︵七%︶、一五∼一九歳七一人︵四四%︶、二〇∼     三五∼三九歳七人︵四%︶、四〇∼四四歳

(15)

近江商人外村宇兵衛家の雇用形態 〇五 第10表 店員の勤続年数と退職理由

勤続轍嘗脚錫支雛華徴兵死去病死病気退身擁細不吻出計

未年      明

年12345678910111213141516171819202124252628303642不

1 1 1 人 1 2人

1123

1 1

11

111

11

11

人}人

119臼9臼

1

21

1 1 1人 1 1

21

1 1 1 1人 り臼− 2

111

1 1人 1 1

11

3人 4

111

1 1 8人 16 9 11

2483434631

1 1 2 2 人

11り0

1 1 1

11

1人

111

11

1 1

計・li・826691・1512971・i・1186

(註)第2表に同じ。

(16)

     近江商人外村宇兵衛家の雇用形態       一〇六 入店した者である。安兵衛は、常州土浦本町の出身で、弘化三年置一八四六︶に江戸新大坂店の前身である橘町店へ二八 歳で勤め、安政四年四月には別宅通勤が許され、その年の冬に養家の名前に改め自分商を行なった一一年勤続の店員であ った。嘉蔵ば、本家の所在する近江の金堂村出身で、天保十一年︵一八四〇︶に桐生店へ一一歳で勤めたが、同十四年に は同店が廃止されるにともない江戸店へ勤務し、その後登りを繰り返し、慶応四年︵一八六八︶﹁退身自業ヲ始ム﹂として、 自分商を行なった二八年勤続の店員であった。自分商は、それ以後見られず、特に明治以降の自分商の困難さがうかが、直 る。養子は、治郎吉の一人だけであるが、彼は近江国蒲生郡木村の出身で、元治元年︵一八六四︶に一二歳で勤め、明治 二年に元服を行ない、その年に初登りをして、そのまま養子に行ったのであり、勤続年数は四年であった。  他支店への転勤は、五年未満勤続の者がやや多いものの、彼らだけに頼ることなく一〇∼三〇年勤続の長期勤続者の幹 部も偏りなく行なわれている様子がうかがえる。他支店への転勤は、青石︵京都店︶と浜店︵横浜店︶への転勤であり、五 〇年余りの期間で江戸・東京支店からの転勤が一八人とはかなり少ない転勤移動であった。一度支店に配属されるとほと んどの店員がその支店で勤め上げるのが一般的なようである。学業修業は外村格次郎と外村専五郎の二人で、いずれも入 店して間もない一∼二年の頃に行なわれた。外村格次郎は、三代目外村宇兵衛元明の二男で、明治二十八年に一六歳で勤 め、同三十年に初帰国をし、翌三十一年に﹁学業修行二藍一先御退身﹂した。外村専五郎も、同じく三代目外村宇兵衛元 明の四男で、明治三十六年に一六歳で勤め、同三十八年に初帰国をし、﹁初帰国中、学業修行のため退身﹂した。これら 学業修業の事例は、いずれも外村宇兵衛家の家族という特殊な場合であって、一般には認めがたい理由であった。また、 この当時近江商人の当主の家族であっても、一般の店員と同じような処遇を受けたのであったが、登り期間や学業修業に        ︵5︶ よる退職など他店員に比べ優遇されたことは言うまでもない。例えば明治十六年の﹁規則書﹂によれぽ、﹁長男拾五歳ヨ リ勤務ノ事、総テ外勤務人同様タルヘシ、但シ十七歳初帰国ノコト、修身后ハ主人ノ資格ニテ取扱ヘシ﹂﹁次男右二全シ、

(17)

       ︵6︶ 但シ十七歳初帰国ノコト、修身后ト錐モ勤務中入勤仕人同様タルヘシ﹂とあり、明治三十四年の﹁細則書﹂でも﹁本宅家 族長次男子出勤ノ節ハ勤務者同様タルベシ、但シ罹病ノ時ハ本宅家族ノ扱ニスベシ﹂とある。  徴兵・召集は、適性年齢があるため二〇歳代の勤続四∼七年に集中しており、明治二十九年以降見られるようになり、 特に明治三十七年置日露戦争にともなう召集が目立った。この場合は、徴兵年限が過ぎると、また支店に再建することが できた。死去は、勤続三∼七年にやや多いが、一九・二八年勤続の者もそれぞれ見られる。死因については、明確に記さ れておらず、﹁病死﹂と書かれている者については別に示した。病死・病気は、勤続一〇年以内の者がほとんどであり、 食生活・衛生・勤務の状況が若年店員にとってはかなり厳しいものであったことを示している。ただし、このような状況       ︵7︶    ︵8︶ は近江商人においてのみ見られたのではなく、同様な現象は近世の商家である三井家・鴻池家においても存在したのであ        ︵9︶ る。また、このような状況に対応して、病気療養・病死に関する規定等も設けている。例えば、明治十六年の﹁規則書﹂ によれば、﹁勤務中罹病永引トキハ療養ノ為メ帰国致スヘシ、実家身分二傍テ半ケ年間ノ薬代遣スベシ、勤務中病死亦帰 国療養中死去スレハ盛儀一封遣シ、而シテ相当ノ手当弔料トシテ遣スヘシ、当店ニテ死去ノ赤児礼証書受取ヘシ﹂とか、 ﹁二十歳已上罹病帰国療養ノ節ハ身分ニヨリーケ年間薬代遣スヘシ、一ケ年経過全快ナケレハ勤仕年数土層シ手当相当遣 シ永暇ニシ其節引取礼証受取ヘシ﹂とあり、商家経営においては注意を要する事柄であった。  退身は、勤続一年未満も一人見られるが、一九・二六二二六・四二年という長期勤続の店員が多く、依願や円満な退身 であったようである。解雇は、ほとんど勤続五年未満であり、しかも一年以内の解雇が七人もおり、不都合による解雇で あると思われる。永暇は、退職理由としては最も多いのであるが、その内容は明らかではなく、依願による場合等も含ま れるが、不都合による場合がかなりの割合を占めていたように思われる。これは、ほとんどが勤続一三年以内であるが、 特に五年以内は六〇人で、三分の二程度を占めている。不婚は、一〇人と比較的多く、勤続四∼一七年に分布しており、      近江商人外村宇兵衛家の雇用形態       一〇七

(18)

     近江商人外村宇兵衛家の雇用形態      一〇八 永暇や解雇の中には不平による永暇や解雇が多く含まれているようである。家出は八人あり、勤続一年未満から一二年ま で幅広く存在しており、勤務の厳しさと外的誘惑の多さがうかがわれよう。このように退職理由を見てみると、他支店へ の転勤等を除けば、長期勤続による円満退身や自分商等は極めて少なく、病気・病死や不言・家出などによる退職の多さ が注目される。それは、食生活・衛生状況の不備や支店勤務の厳しさを暗に示しているものと思われるのである。   ︵1︶ 明治十六年﹁規則書﹂︵外村宇兵衛家文書︶。   ︵2︶ 明治三十四年﹁規則書﹂︵同右︶。   ︵3︶ 明治三十四年﹁細則書﹂︵同右︶。   ︵4︶ 前掲明治三十四年﹁規則書﹂。   ︵5︶ 前掲明治十六年﹁規則書﹂。   ︵6︶前掲明治三十四年﹁細則書﹂。   ︵7︶ 中井信彦﹁三井家の経営−使用人制度とその運営1﹂︵﹃社会経済史学﹄第三一巻第六号、一九六六年三月︶九六∼九七頁。安岡重明﹁三井     両替店における奉公人の勤続事情﹂︵同志社大学人文科学研究所﹃社会科学﹄第四二号、一九八九年三月︶一〇∼一二頁。   ︵8︶ 安岡重明﹁享保期における商家奉公人の性格−鴻池家の場合1﹂︵宮本又次編﹃大阪の研究﹄第三巻、清文堂、一九六九年四月︶二七︸頁。    廣山謙介﹁近世後期における鴻池家の奉公人﹂︵﹃大阪大学経済学﹄第三二巻第一・二号、一九八二年一二月︶三八七∼三八八頁。   ︵9︶ 前掲明治十六年﹁規則書﹂。

三支店の状況

      ︵1︶  ここでは、外村宇兵衛家が設けた東京店・京都店・横浜店・福井店について、各支店の状況をなるべく横断的に把握し、 各支店の状況を比較できるようにするため、東京店・京都店においては明治四十二年、横浜店においては同店廃止時の明 治十六年、福井店においては明治四十一年の時点における各支店の店員構成を見てみることにした。これらの時点を選ん だのは各支店の史料が揃いできるだけ支店間の比較が容易となるためである。     1 東  京  店  東京店は、明治四十二年一月現在で、七四名の店員が存在し、前述したようにこの年は同店の最高の店員数を記録する

(19)

第11表 東京店の店員出身地(明治42年) 近江商人外村宇兵衛家の雇用形態 地 域  人数 内 訳 近江

愛知郡

神崎郡

甲賀郡

犬上郡

坂田郡

栗太郡

蒲生郡

東浅井郡

野洲郡

大  津 横浜市神奈川 京都府愛宕郡 19人 14 13  9  7  3  2  2  2  1 (72)

11

秦川6・愛知川4・八木庄3・日枝2・稲2・角井1 ・東押立1 南五個荘6(金堂3・川並3)・山上4・能登川2・北 五個荘1・八日市1 石部8・三雲3・水口1・佐山1 東甲良3・豊郷2・河瀬2・高宮1・大滝1 長浜4・法性寺1・郷里1・神照1 葉山1・高野1・金勝1 安土1・八幡1 速水1・虎姫1 守山1・玉津1 観音寺1 十 二ニロ 74 1 〇九 艦 作

謝 文 家 衛 兵 宇 附 ψ 調 別 人 店 伎

溜 明 謁 ︵ ことになった時である。この時点での東京店の店員構成 を以下見てみることにしよう。まず、第11表によって、 店員の出身地を見てみると、近江出身者が七二人で圧倒 的に多く、近江以外では横浜市神奈川一人・京都府愛宕 郡一人だけである。郡別では愛知郡一九人・神崎郡一四 人・甲賀郡=二人・犬上郡九人・坂田郡七人・栗太郡三 人・蒲生郡二人・東浅井郡二人・野洲郡二人・大津一人 であり、愛知郡・神崎郡・甲賀郡が多い。町村では、石 部町八人・秦川村六人・南五個荘村六人︵うち金堂三・ 川並三︶・愛知川村四人・山上村四人・長浜町四人が、 多くの店員を供給していた。  続柄は、第12表によれぽ、長男一六人・二男二五人・ 三男=一人・四男六人・戸主四人・弟六人・養子一人・ 不明四人であり、二男が多いが、長男や戸主もかなりの 比重を占めている。出仕年齢は、第13表によれば、一二 歳二人・一三歳七人・一四歳二二人・一五歳三一人・一 六歳九人・一七歳一人・二六歳一人・二八歳一人であり、 一四・一五歳が最も多い。二〇歳以上の入店者は、二六

(20)

・二八歳のわずか二人しか存在せず、ほとんどが一四・一五歳前後の人々によって占められていた。これらの店員の明治 四十二年一月時点での勤続年数を見てみると、第14表のように一年未満八人・一年八人・二年一五人・三年九人.四年四 人・五年六人・六年六人・七年三人・八年一人・九年四人・二年一人・一五年二人・一六年二人・一七年一人・一八年 一人・二〇年一人・二七年一人・三〇年一人であり、勤続五年未満の店員が四四人︵五九%︶を占め、一〇年未満になると 六四人︵八六%︶となる。勤続一〇∼二〇年未満は七人で、二〇年以上の者は三人である。明治四十二年時点での勤続年 第12表 各支店員の続柄 続  柄 長男・嗣子 四 弟

男男男

子説明

軍戸不

東京店 (明治42) 16人 25 12 6 6 1 4 4 京都店 (明治42) 7人 5 5 1 1 −∩δ 横浜店 (明治16) 6人 1 2 8 福井店 (明治41) 4人 5 2 2 計 74 23 16 13 (註)明治38年1月「支店人別記」・同42年「京都本店勤務者人   名録」・同14年4月「出店人別記」・同41年「福井支店勤   務者人名録」(外村宇兵衛家文書)より作成。 第13表 各支店員の出仕年齢 年  齢  12歳  13  14  15  16  17  18  19 20n−24 25一一29 30N34 35−v39 40N44 45n−49 不 明 東京店 (明治42) 2人 7 22 31 9 1 2 京都店 (明治42)

44rOワ自−

∩0112

人 横浜店 (明治16) 1人 1 2 1

1114

110D

   店41 井治 福明  ︵ 1人 3 3 1 2 2 1 計 74 23 17 13 (註) 第12表に同じ。   年齢は,数え年である。 近江商人外村宇兵衛家の雇用形態

o

(21)

近江商人外村宇兵衛家の雇用形態 第14表 各支店員の勤続年数 勤続年数 1年未満  1年  2  3  4  5  6  7  8  9 10一一14 15ns−19 20一一24 25一一29 30”v34 東京店 (明治42) 人

885946631416111

  1

京都店 (明治42) 2人 4 5 2 2

11

1001

1 横浜店 (明治16) 4人 5 1 2 1 2 1 1 福井店 (明治41) 1人

24^111

11

1 計 74 23 17 13 (註)第13表に同じ。 第15表 各支店員の年齢構成

年 齢

10∼14歳 15n−19 20一一24 25Av29 30’s−34 35n−39 40一一44 45−u49 50−N−54

不明

東京店 (明治42) 人

1047

42

11

京都店 (明治42)

84341Qり

人 横浜店 (明治16) 1人 3 2 1 2 1 2 1 1 3 福井店 (明治41) 1人 5 3 1 1 1 1 十 二=口 74 23 17 13 (註)第13表に同じ。 数であるが、長期勤続者はわずか数名であり、ほとんどが五年未満の店員であった。これは、前述したようにそれだけ勤 務条件・店員生活などが厳しく、多くの店員が昇進の過程で淘汰されていったことを示している。  次に、第15表によって明治四十二年一月時点での年齢構成を見ると、一五歳四人・一六歳三人・一七歳一六人・一八歳 九人・︸九歳九人・二〇歳二人・二︸歳七人・二二歳五人・二三歳二人・二四歳四人・二六歳一人・二七歳二人・二八歳 一人・三一歳一人・三二歳二人・三三歳三人・三四歳一人・四一歳一人・四八歳一人である。これを五年ごとに見ると二

(22)

     近江商人外村宇兵衛家の雇用形態      一一二 〇歳未満四一人︵五五%︶・二〇∼二四歳二〇人︵二七%︶二一五∼二九歳四人︵五%︶・三〇∼三四歳七人︵九%︶・三五歳以 上二人︵三%︶となり、若年層が最も多く、年齢が高くなるほど構成員数が少なくなるピラミッド形をなしている様子が わかる。     2 京  都  店  京都店は、明治四十二年には二三名の店員が存在した。ただし、このうち鶴林七兵衛と田中与惣平は、それぞれ明治四 十二年二月二十日と同年六月二十八日に﹁病気﹂と﹁都合二付﹂という理由で退身したが、ここでは彼らも含めた。店員 数では、東京店の七四名の三分の一弱の規模であった。店員の出身地は、近江出身者が二二人で圧倒的に多く、近江以外 では福井市出身者が一人見られただけである。近江出身者の内訳は、犬上郡六人︵豊郷村四・東甲良影響︶・神崎郡五人︵南 五個荘村金堂三・北五個荘村丁山上村一︶・愛知郡四人︵葉二見量見・八木荘村一Y甲賀郡石部町三人・蒲生郡日野野一人・ 栗太郡葉山村一人・坂田郡長浜町一人・東浅井郡竹生村一人であり、犬上・神崎・愛知・甲賀郡が多く、東京店と同様で あった。  続柄は、前掲第12表によれぽ、長男七人・二男五人・三男五人・四男一人・弟一人・戸主一人・不明三人であり、長男 が七人で最も多く、必ずしも次三男が店員供給の対象となっているわけではなく、東京店よりは長男の比重は高い。これ は、東京に比べ京都の方が近江に近接しており、里方との連絡が密となり、長男の勤務を容易にしたのかも知れない。出 仕年齢は、前掲第13表によると、一三歳四人・一四歳四人・一五歳五人・一六歳二人・一七歳一人・二二歳一人・二三歳 一人・二四歳一人・二八歳一人・三〇歳一人・三七歳一人・三八歳一人であり、二二∼一五歳が中心となるが、東京店に 比べ三〇歳以上の中途採用老が三人もおり注目される。明治四十二年時点での勤続年数は、前掲第14表のように一年未満 二人・一年四人・二年五人・三年二人・四年二人・六年一人・七年一人・九年一人・一〇年一人・一二年一人・一三年一

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人二六年一人・二七年一人である。勤続五年未満の者は一五人︵六五%︶で、一〇年未満では一八人︵七八%︶となり、 勤続二〇年以上者は一人だけであり、東京店と同じくはとんどの店員は勤続五年未満であった。  明治四十二年の時点での年齢構成を前掲第15表によって見てみると、一五歳二人・一六歳三人・一七歳二人・一九歳一 人・二〇歳一人・二一歳二人・二四歳一人・二六歳一人・二七歳一人・二八歳一人・三〇歳二人・三三歳一人・三四歳一 人二二八歳一人・四〇歳一人・四一歳一人・四二歳一人である。これを五年ごとに見ると、一五∼一九歳八人︵三五劣︶・ 二〇∼二四歳四人︵一七%︶・二五∼二九歳三人︵=二%︶・三〇∼三四歳四人・三五∼三九歳一人・四〇∼四四歳三人とな り、一五∼一九歳が多いものの、四四歳までほぼ三∼四人ずつ配置されている。ただし、三五∼三九歳が少なく、東京店 と同じ様相を呈している。     3 横  浜  店  横浜店は、明治十六年に廃止されたため、他支店と比較可能な明治四十二年頃の店員名簿が存在せず、ここでは支店廃 止時の明治十六年の店員構成を見てみることにしよう。当時の店員数は一七名で、年代が異なるが店員数からは、京都店 の二三名よりもやや少なかった。ただし、前掲第2表によれぽ、明治十六年の東京店の店員数は二六名であるので、当時 としては東京店の三分の二程度の規模と考えられる。  店員の出身地は、近江が一四人で、近江以外が上野国伊勢崎町一人・武蔵国熊谷一人・大阪西成郡曾根崎村一人である。 近江出身者の内訳は、神崎郡六人︵金堂二・北町屋二・八目市二︶・坂田郡長浜三人・甲賀郡三人︵石部二・辻一︶・犬上郡前 出今日人・蒲生郡豊浦一人であり、神崎・坂田・甲賀郡がやや多く、東京店・京都店と同じ構成になっている。  続柄は、前掲第12表によれぽ、長男・嗣子六人・二男一人・弟二人・不明八人で、不明がやや多いものの、長男の多さ が著しい。出仕年齢は、前掲第13表のように=一歳一人・一三歳一人二四歳二人・一五歳一人目一九歳一人・一一四歳一      近江商人外村宇兵衛家の雇用形態      一一三

(24)

近江商人外村宇兵衛家の雇用形態 第16表 横浜店廃止に     よる退身者

勤続年数臨 齢

45歳 41 50 44 20 17 26 30

不明

33

不明

11年  7 4  3  5  2  1  1  1  0  0 (註)明治14年4月「出店   人別記」(外村宇兵衛   家文書)より作成。    勤続年数0は,1年   未満を示す。 第17表 横浜店廃止による他支店への転勤者 名

前働続年数1年齢1転勤先

東京店 東京店 東京高 東出店 東京店 回都店 15歳 20 14 16 37 Q1 3年 1 1 0 5 0 外村三吉 田中酒造之介 奥田作二郎 真居辰吉 宇野五郎治 阪東久三郎 (註)第16表に同じ。 一年五人・二年一人・三年二人・四年一人・五年二人・七年一人・ ほとんどが勤続五年未満であり、 く、東京店・京都店と比較して勤続年数の短さが特徴的である。 補うために、三〇歳以上の中途採用者を他店に比べ多く採用したのであった。 て、明治十六年の時点での年齢構成は、前掲第15表のように一四歳一人・ 一六歳︷人・一七歳一人・二〇歳二人・二六歳一人・三〇歳一人・三三歳一人・三七歳 一人・四一歳一人・四四歳一人・四五歳一人・五〇歳一人・不明三人であり、三〇歳以 上の店員が七人もおり、東京店や京都店に比べて年齢構成がかなり高くなっている。  横浜店は、明治十六年に廃止されたが、その際一七名の店員はどうなったのか。彼ら の動向を次に見ておこう。一七人のうち一一人が退身し、六人が他支店へ転勤したので

       二四

人・二八歳一人・三一歳一人・三二歳一人・三三歳一人・三 四歳一人・四一歳一人・四六歳一人・不明三人前ある。一〇 臨界前半も見られるが、三〇歳以上が六人と多く、東京店や 京都店と異なり、三〇歳以上になってから外村家へ勤務した 者が、不明を除くと四割以上を占めている。明治十六年時点 での店員の勤続年数は、前掲第14表によれぽ一年未満四人・       =年一人目あった。   そのうえ一年未満が四人もおり、勤続一一年が最も長        この勤続年数の短さを        したがっ        一五歳一人・ あるが、両者の間には第16表・第17表のように、勤続年数および年齢において差異が見られる。すなわち、退身者の方が 勤続年数もやや長く、年齢も高いのに対し、転勤者は勤続年数も五年以下で、年齢も二〇歳以下の比較的経験の少ない若

(25)

       ︵2︶ 年層が中心であった。転勤者六名のその後を追跡すると、外村兎吉は東京店へ転勤後、明治二十∼二十七年に退牙したよ うである。田中酒造之介は、東京店へ転勤後、明治十九年三月には京都店へ転勤となり、同三十年四月に三四歳・勤続一 四年で準別家を申し渡され、同三十三年に三七歳・勤続一八年で﹁扁螺ノ手物糸取扱タル事アリ儲君ス﹂とある。奥田作 二郎は、東京店へ転勤後、明治二十六年七月に二四歳・勤続一〇年で病死している。真下辰吉は、東京店へ転勤後、明治 三十一年に﹁相番単二任ズ、終身方申渡ス﹂とあり、同三十五年十一月に三五歳・勤続二〇年で病気のため退身している。 宇野五郎治は、明治十年七月に東京奥詰となり、明治十五年七月に横浜店へ転勤してきたのだが、同十六年五月に東京店 へ転勤した後の動向は把握できない。阪東久三郎は、他の五人とは異なり京都店へ転勤後、明治三十二年五月に四七歳・ 勤続一七年で﹁家事都合に依り退身﹂とあった。これらの六名は、その後も比較的長期間外村家に勤務しており、中には 準別家を申し渡される者も存在し、外村家にとって将来有望とされた者が横浜店廃止に際して他支店への転勤者として選 ばれたように思われる。     4 福  井  店  福井店は、明治四十一年には一三名の店員が存在した。店員数では、京都店の二三名の二分置一望の規模であり、明治 十六年の横浜店よりも少なく、外村家の支店の中では最小の規模であった。店員の出身地は、すべて近江であり、愛知郡 四人︵葉枝見村二.東押立村︸.愛知川村一︶.蒲生郡日野町三人・甲賀郡三人︵石部町二・三雲村一︶・犬上郡二人制河瀬村一. 久徳村一︶・坂田牛神照村一人である。愛知・蒲生・甲賀・犬上・坂田郡の出身者によって占められており、店員数が少な いためか、他支店と比べ近江以外の出身者が見られないのが注目される。  続柄は、前掲第12表によれぽ、長男・養嗣子四人目二男五人・三男二人・不明二人であり、京都店ほど長男は多くない が、長男を含めた各層からの供給が認められる。出仕年齢は、前掲第13表のように一二歳一人・=二歳三人・一四歳三人      近江商人外村宇兵衛家の雇用形態      一一五

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     近江商人外村宇兵衛家の雇用形態      一一六 ・一五歳一人二六歳二人・一=歳一人・二四歳一人・三七歳一人である。三〇歳以上の者も一人いるが、一二∼=三歳 が中心となり、東京店とほぼ同様である。明治四十一年の時点での勤続年数は、前掲第14表によれば一年未満一人・一年 二人・二年四人・三年一人.四年一人.五年一人.一〇年一人・一八年一人・二六年︼人である。勤続五年未満の者は九 人︵六九%︶であり、勤続二〇年以上の者は一人だけであり、ほとんどの店員が他支店と同じく勤続五年未満であった。  明治四十一年の時点での年齢構成は、前掲第15表では一四歳一人・=ハ歳二人二七歳三人二二歳一人・二二歳一人 ・二四歳一人・二五歳一人・三一歳一人・三八歳一人・五一歳一人であり、一六∼二四歳が中心となっている。五一歳の 店員は、甲賀郡石部町出身の藤谷治輔である。彼は、安政五年︵一八五八︶八月生まれで、明治十四年に二四歳で外村家 へ出仕した。明治二十二年には修身方を申し渡され、同二十三年には相番役に任じられ、同二十四年には支配に任じられ た。明治三十八年七月には福井支店支配を兼務させられ、即日に福井支店出張を命じられ、同四十一年には京都支店支配 を解かれたことから明らかなように、彼は福井支店の創設以来の最高責任者であった。  このように外村家は、明治以降東京店・京都店・横浜店・福井店の四支店を設けており、これらの支店は、明治四十二 年頃には店員規模では、東京店が七四名で最も大きく、京都店二三名・横浜店一七名︵明治+六年時点︶.福井店二二名の 規模であった。京都店でやや長男が多いのと、横浜店で出仕年齢がやや高く、そのため勤続年数が短く、年齢構成が高い のを除けば、出身地を見てもほぼ近江出身者で占められており、支店間の大きな違いはなかった。ただ、京都店は、 ﹁京          ︵3︶ 二本支店勤務者人名録﹂とか、例えば平田繁太郎のように明治四十三年三月三十一日﹁本宅参勤、即日京都本店出勤﹂し、        ︵4︶ 四月十六日﹁東京支店勤仕﹂とあるように、本店としての機能も備えていたようである。   ︵1︶ 東京店の所在地については、 ﹁東京日本橋隔意大坂町五番地北側支店﹂︵前掲明治十四年四月﹁出店人別帳﹂︶とあり、京都については、﹁西京    府下上京十九区堺町通三条上ル大阪材木町第七百番地東側支店﹂︵同︶とある。横浜店も、﹁神奈川善管轄横浜区弁天通壱町目十番地支店﹂︵同︶    とあり、福井支店の所在地については﹁不動産明細簿﹂︵外村宇兵衛家文書︶によれば、福井市佐住枝中町となっている。

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︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ 前掲明治十四年四月﹁出店人別記﹂、同十七年四月﹁支店人別記﹂、同二十八年十月﹁支店人別記﹂。 前掲明治四十二年﹁京都本支店勤務者人名録﹂。 前掲明治三十八年一月﹁支店別記﹂。京都店が本支店とされるのは、明治四十年代になってからのようである。 む  す  び  以上外村宇兵衛家の安政三年∼明治四十二年の店員名簿を中心に東京店・京都店・横浜店・福井店の店員の雇用形態に ついて見てきたのであるが、要するに次のようなことが明らかになった。  まず、安政三年∼明治四十二年の江戸・東京店の動向からは、次の点が明らかになった。第一に、店員数は、明治二十 六年までは二五人前後の店員であったが、明治三十一年には三六人、同三十六年には四一人、同四十年には七二人と明治 三十年代以降店員が急増し、特に明治三十年代層の伸びは著しかった。同店では毎年一∼五人の入店員・退店員を生じな がら常に二五人前後の店員が存在していたが、明治二十九年以降になると一〇人を越える店員を採用する年も見られるよ うになり、それにともない退店員も五人を越えるようになった。  第二に、外村宇兵衛家の江戸・東京店の店員は、圧倒的に近江を中心として採用されており、近江の中でもとりわけ神 崎・愛知・坂田・犬上・甲賀郡の外村宇兵衛家と縁の深い地域から多く雇用された。毎年少人数の信頼のおける人物を雇 用するには、このような採用方法が最も適合的な方法となったのである。店員の中には長男・嫡子・養子・戸主もかなり 見られ、外村宇兵衛家の場合には必ずしも次三男が奉公に出されていたわけではなかった。むしろ、続柄に関係なく、男 子は積極的に店員に供給されたようであり、明治十年までは長男が比較的少ないのに対し、明治十一年以降は逆に長男が かなりの比重を占めるようになった。  第三に、出仕年齢は、明治十年以前には一二歳が中心となるのに対し、明治十一年以降になると中心が一四∼一五歳へ      近江商人外村宇兵衛家の雇用形態      一一七

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     近江商人外村宇兵衛家の雇用形態      一一八 移り、学校教育の普及にともない出仕年齢がしだいに上昇した。勤続年数は非常に短く、入店者の四分の三が一〇年未満、 半分が五年未満に中途退職している。しかも、二〇年以上同店に勤続した者はわずか七%に過ぎず、一方一年未満に辞め る者が八%もおり、入店したものの二〇年以上の長期にわたって勤続することがいかに困難であったかを示している。し たがって、退職年齢は、四分の三が一〇歳霜の後半から二〇歳代の前半に集中していた。すなわち、外村宇兵衛家に一二 ∼一六歳で入店した店員の大多数は、五∼一〇年も勤めないで、二〇歳前後には退職してしまったのである。退職理由は、 長期勤続による円満退身や自分商等は極めて少なく、食生活・衛生状況の不備や支店勤務の厳しさなどに基づくであろう 病気・病死や不堵・家出などによる退職の多さが目立った。  明治以降の東京店・京都店・横浜店・福井店の四支店の状況からは、次の点が明らかになった。第一に、明治四十二年 頃には店員数では、東京店が七四名で最も大きく、京都店二三名・横浜店一七名︵明治十六年時点︶・福井店コ品名の規模 であった。第二に、各支店でほぼ共通して見られたのは、店員の出身は圧倒的に近江が多く、続柄は次三男に限ることな く長男を含めた各層から供給されており、出仕年齢は一三∼一五歳が中心となっていたこと。勤続年数は、半数以上が五 年未満であり、一〇年を越える者もわずかであったこと。年齢構成も四〇歳以上の者はわずかで、二〇歳未満の若年層を 中心とするものであったことであった。第三に、各支店で少し異なったのは、支店規模はもちろんであるが、京都店では 続柄においてやや長男が多かったこと。横浜店では出仕年齢がやや高く、そのため勤続年数が短く、年齢構成が高かった こと。京都店は、支店だけでなく、本店としての機能を付加されていたらしく、本宅で採用された者は京都店を経てから 各支店へ配属される場合が存在したことなどであった。 ︹付記︺本稿は、滋賀県神崎郡五個荘町史編さんの過程で収集された外村宇兵衛家文書をもとに作成した。ここに、同文書の所蔵者で   ある外村宇兵衛家ならびに史料収集に尽力された五個荘町史編さん室・編集委員の方々に感謝するしだいである。

参照

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