得の罠」の観点から
著者 上田 曜子
雑誌名 同志社政策科学研究
巻 19
号 2
ページ 93‑102
発行年 2018‑03‑01
権利 同志社大学政策学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000255
93 Graduate School of Policy and Management, Doshisha University
概 要
本稿では、タイが「中所得の罠」に陥ってい る可能性を指摘し、その要因としてタイの教育 制度の問題点と人的資本形成の遅れを検討す る。タイ政府が目標とする中所得国から高所得 国への移行を達成するには、先進国から技術を 輸入して模倣する経済から、イノベーションが 成長を牽引する経済への転換が求められる。そ のためには高度なスキルを有する人材が必要 で、中等教育や高等教育に対する投資が不可欠 である。いくつかの先行研究によると、タイの 教育は量的に拡大してきたが、教育の質がそれ に伴って向上していないとされる。国際的学力 調査の結果からも近年、基礎的な能力が欠如し ている生徒の比率が上昇していることが確認で きる。さらにベトナムとの比較から、タイの教 育の質の改善が遅れていることが明らかになっ た。タイの場合、バンコクと地方の学力の格差 が大きいのが特徴である。タイ政府が目指して いる高付加価値産業への移行を達成するために も、農村部における学校教育の質の向上が今後 の課題である。
1. はじめに
タイは戦後、順調に経済成長を遂げてきた 国である。1952年から
2011
年に至る60
年間 の年平均経済成長率(実質)は、6.2%に達し(Jitsuchon 2012:13)、タイは 2011
年に、低位 中所得経済から高位中所得経済へと移行した(World Bank 2011)。
成 長 開 発 委 員 会(2009:26-27)は、戦後、持続的な高成長を達成した 13
カ国(経済)を選出しているが、タイはそ の一国である1。この持続的な高成長の成果は、
例えば貧困率の低下によって確認できる。国 内貧困線による貧困率(URL 1)は、2000年 の
42.3%
か ら2014
年 の10.5%
へ と 大 幅 に 低 下した2。UNDP(URL 2:Table 6)によると、
2005/2006
年におけるタイの多次元貧困率3は1.0%
と、フィリピン(6.3%、2013年)、イン
ドネシア(5.9%、2012年)、ベトナム(3.9%、2013/2014
年)と比較して低い水準にある。また人間開発指数
(HDI)
に関しても、2015年に おいてタイは0.74
で高位人間開発国に分類さ れているが、上記3
カ国は、約0.68 ~ 0.69
の 中位人間開発国である(URL 2:Table 1)。しかし、タイの成長率は
1997
年のアジア通 貨危機以降、低水準のまま推移している。1997 年以降の11
年間の年平均成長率は、およそ4%
に過ぎず、1963-1993年の期間の
7%を超える
成長率と対照的である(Jitsuchon 2012:13)。このような事情を背景に、タイが「中所得の罠」
(middle-income trap)に陥っている可能性につ
いて議論されるようになった。本稿では、タイがこの「中所得の罠」に陥っ ている可能性を指摘したうえで、その要因とし て教育の質の改善や人的資本形成の遅れについ て検討する。
タイにおける教育と人的資本形成の問題点
:「中所得の罠」の観点から 上 田 曜 子
1成長開発委員会(2009:1)は、「1950年以降、年平均7%以上で25年間以上にわたり成長した国」を持続的な高成長に成功した国と みなした。タイの場合、1960-1997年の期間がこの高成長期に相当する。
2 Jitsuchon(2012:13)よると、非都市部(non-municipal)における貧困率は1986年の52.6%から2010年の10.4%へ低下し、都市部(municipal)
でも、25.3%から2.6%と改善している。
3多次元貧困率(multidimensional poverty headcount)については、URL 2を参照のこと。
頻度が偏って高いことを明らかにした。
ところで実証分析において
「中所得の罠」
は、絶対的な所得水準と相対的な所得水準の両方か ら定義可能である(World Bank 2013:12;戸 堂 2015:93-95))。後者による定義については、
World Bank(2013:12)は、アメリカの所得水
準を基準として相対的に中所得経済を定義し、1960
年から2008
年の間に、アメリカの所得水 準との格差を縮めて、中所得経済から高所得経 済に移行できたのか否かを検証している。この分析によると、1960年に相対的に中所 得と定義された
101
の経済のうち、アメリカに キャッチアップして2008
年までに高所得へ移 行できたのは、わずか13
の経済のみである。タイは
1960
年以降、中所得にとどまり2008
年 までに高所得に移行できなかったため、「中所 得の罠」に陥っている国とされている(Jitsuchon 2012:14)。また戸堂(2015:94-95)による相
対的な定義によっても、タイが「中所得の罠」にはまっている可能性が指摘されている。
タイが中所得の罠に陥った時期については、
Jitsuchon(2012:14)は 1994-1995
年頃とする 研究を紹介している。Aiyar et al.(2013:TableA.2.1.)
は、1955-2009年の期間を5
年ごとに 区切ったうえで、138か国の経済成長の減速が どの時期に観察されたのかについて分析を行っ た。その結果、タイは1995-2000
年の時期に経 済成長が後退している。以上の研究から、タイ が罠にはまったのは1990
年代中頃と推測する ことができる。3. 「中所得の罠」回避のために労働力に 求められるスキル
2節での分析を踏まえると、低所得から中所 得に移行した国が、状況の変化に対応した適切 な政策や発展戦略への切り替えに失敗したとき に、「中所得の罠」に陥りやすくなると考えら れる。
Otsuka, Higuchi and Sonobe(2017
: 2)は、「中
所得の罠とは経済の減速そのものではなく、減 速の悪化である」と新しい定義を提示している。そのうえで、その減速の悪化は、第一に政府が、
そして第二に民間部門が、高成長から緩やかな 成長への移行に対して適切に対処しなかったこ 2. 「中所得の罠」の定義:タイは罠に陥っ
ているのか?
東アジアの新興国に関して、「中所得の罠」
に関する研究の先駆けとなったのは
Gill and Kharas(2007:17)
で あ る。そ の 後、Kharasand Kohli(2011 : 281-282)は「中所得の罠」が、
「貧困の罠を回避して中所得の水準に到達した
が、その後、先進国の水準に達することができ ずに停滞している国」でみられるとし、この罠 に陥っている国は「製造業の輸出では低所得・低賃金の経済と競争することができず、また高 度な技術が必要とされるイノベーションでは先 進経済と競争することができない」としている。
換言すると、この罠に陥っている国は「低コス トの労働と資本に依存した資源主導型の成長か ら、生産性主導型の成長へ適切に移行できない」
状態にある。
World Bank(2013:12)は「戦後、多くの国 が急速に発展して中所得となったが、その中で 高所得の地位にまで到達したのはわずかの国に とどまっている」と述べ、その他の国は「中所 得の罠」に陥っているとした。低所得国の高成 長を促進する要因(低コストの労働力と、海外 で開発された技術の適用が容易であること)は、
中所得あるいは高位中所得の水準に到達すると 消滅する。
経済が中所得の水準に達すると、農村部の不 完全雇用労働者が減少して賃金が上昇し、技術 がキャッチアップする余地もなくなり、労働集 約的な輸出品は国際競争力を失ってしまう。海 外技術への依存から脱出して、イノベーション を通じた生産性の上昇を実現できなければ、こ れらの国は「中所得の罠」に陥ってしまうと分 析する。
このように通常「中所得の罠」は、高成長の 期間を経て中所得国の仲間入りを果たしたのち に、中長期にわたる経済の停滞あるいは後退に 陥ることを指している。これに関する実証研究 としては、
Eichengreen, Park and Shin(2013)が、
経済減速の発生に関して、一人当たり所得
(2005
年、購買力平価)10,000-11,000
ドルと15,000-
16,000
ドルという2
つのモードが存在することを明らかにした。Aiyar et al.(2013)は、低所 得国、中所得国、高所得国それぞれの経済成長 が減速する頻度を分析し、中所得国グループの
タイにおける教育と人的資本形成の問題点
95
ようなものであろうか。Jimenez, Nguyen, and
Patrinos(2012:5-10)
は、中所得国は付加価 値が低い労働集約的な製造業や組み立て作業か ら、より生産性が高く高付加価値の産業へ移行 する必要があるため、基礎教育だけでは不十分 で、より高度な教育課程に進んだ若い労働力が 求められるとしている。彼らに要求されるスキ ルとは、後期中等教育および高等教育レベルの 技術的スキルである。そこで重要となってく るのが、科学、技術、工学そして数学というSTEM
教育であり、STEMに関連した職業が、経済成長とイノベーションを促進する原動力に なると論じている。
Otsuka, Higuchi and Sonobe(2017:12)は、一 人当たり
GDP
が低いときは、技術は容易に模 倣可能であるが、先進国との技術格差が縮小す るにつれて、技術を経済成長のために有効活用 するには、より高度な教育を受けた人的資本が 必要となってくると述べている。中所得国に とっては、技術の模倣による成長からイノベー ションによる成長へと転換することが重要であ る。従って、中等教育と高等教育に対する投資と
R&D
能力に対する投資が十分でなければ、「中所得の罠」に陥る可能性があると示唆して
いる。ADB(2008:67, 69-70)は、スキルの不足が アジアの新興国で広く観察されるとし、その一 例としてタイについても言及している。タイは 低賃金国からの追い上げによって、産業技術の 高度化と近代的サービス業への移行を余儀なく されているため、スキル不足がより深刻な問題 になっていると論じている。またタイの教育制 度の問題は、量的な問題ではなく、教育の質の 低さにあるという。高等教育修了者の比率は、
同水準の所得レベルの国と比べると、若干高い にもかかわらず、タイでは管理職や技術職の労 働者が不足している。このようにタイの高等教 育は、産業界で必要とされているスキルを習得 した人材育成に失敗していると指摘する。
ところで、人的資本に関する先駆的な研究で ある
Schultz (1961 : 1)
は、「有益なスキルや知識」
を習得することは人的な能力に対する投資であ ると認識している。そして、このような投資の 結果、生産が拡大し所得が上昇するとして、人 的資本が経済成長において果たす役割を明確に した。Romer(1990a, 1990b)は、人的資本あ とに起因すると指摘する。
また
Jitsuchon(2012:15)は、国民経済モデ
ルや政策を環境の変化に適応させることに失敗 した国は罠に陥りやすいと述べ、タイはこれに 該当するとしている。タイにおいては貧困から 脱出する際に有効であったモデル(低賃金労働 に依存し、技術を輸入する低イノベーション経 済)はすでにその有効性を失っているという。Aiyar et al.(2013:Figure 7)は、中所得国に おいて経済成長の減速を引き起こす要因とし て、制度(政府の経済への関与、法の支配、規 制の緩やかさ)、人口(従属人口指数)、インフ ラストラクチャー(電話回線、道路網)、マク ロ経済的要因(グロスの資本流入、資本流入と 貿易の開放度の変化、GDPに対する投資の比 率の変化)、貿易構造(地域統合、GDP加重の 距離)の
5
つの要因に着目し、タイを含むアジ アの中所得国7
カ国の強みと弱みを分析してい る。この研究によれば、タイは他国と比較する と、制度とインフラストラクチャーに改善の余 地があり、これらを整備することによって、さ らなる経済成長減速のリスクを低減することが 可能であるという結果が示されている。つまり、タイの場合は制度とインフラストラクチャー が、経済の構造的な変化に追いついていないと いう要因を指摘している。
Jimenez, Nguyen and Patrinos(2012:2) は、
教育が労働生産性を高めるような正しいスキル を提供することが、「中所得の罠」を回避する ための重要な鍵となりうると述べている。つま り、教育が中所得から高所得に移行するために 必要なスキルを国民に習得させることに失敗す ると、その国は罠に陥りやすくなるのである。
ところで、Acemoglu and Autor(2010:1)は スキルを仕事(task)と区別したうえで、スキ ルを「労働者が備え持つ、様々な仕事をこなす ための能力」と定義し、
「労働者は賃金と交換に、
そのスキルを仕事に適用する。そしてそのスキ ルが生産物を生産する」と述べている。ADB
(2008 : 62)では、
スキルを「一定の能力水準で、生産的な仕事を遂行する能力」と定義し、スキ ルは生産的な仕事を遂行するために必要な知識 と経験のストックと類似した概念であるとして いる。
それでは、中所得国から高所得国に移行す るために労働者に求められるスキルとはどの
の減速が「中所得の罠」4に起因しているのか どうかを判断するときに、その経済における教 育の量と質の水準が明快な基準となると述べて いる。ある中所得経済の所得が他の中所得経済 よりも低い水準に収束しつつあり5
、かつ当該
経済の教育水準が他の中所得経済と比べてかな り低いならば、その経済は「中所得の罠」
に陥っ ていると判断される。また同研究は、東アジア諸国(タイを含む
12
カ国)に関する回帰分析を行い、就学年数 の増加、つまり教育の量的拡大が同諸国の経済 成長促進において重要な役割を果たしてきた ことを明らかにした。特に分析対象期間(1960- 2010
年)の後半(1985-2010年)においては、教育の量的拡大、なかでも中等教育と高等教育 における就学年数の拡大がより重要な意味を 持ってくる。これは、前述したように、先進国 との技術格差が縮小するにつれて、技術革新の 能力が求められるようになり、そのためにより 高度な教育を受けた人材の重要性が高まるため である。
次に、教育の質について検討する。Hanushek
and Woessmann(2008:608-609)は、国際的学
力調査の結果のパネルデータを用いて、教育の 質が経済成長に与える影響を明らかにした。特 筆すべきは、途上国で鍵となるのが認知スキル(cognitive skills)であるとした点である。認知
スキルを国際的なテスト(数学、科学そして読 解力)の結果を用いて測定し、教育の量的拡大(就学年数)よりも認知スキルの方が、個人の
収入、所得分配、そして経済成長とより密接に 関係していることを示している。この研究によると、質の高い学校教育が認知 スキルを改善し、また認知スキルの形成は、正 規の学校教育以外にも家族、友人、文化などを 通じて行われる。そして、認知スキルの向上に 失敗した学校教育が経済発展に与える影響は限 定的であるとしている。
ところでタイの学校教育の量
(平均就学年数)
は、表
1
が示すように拡大してきた。そこで次 に、タイにおける学校教育の量的拡大が、国民 るいは教育が経済成長の過程で果たす重要性について分析を行い、人的資本の水準が経済成長 に影響を与えることを明らかにした。
4.タイの教育と「中所得の罠」
教育や人的資本形成の遅れと「中所得の罠」
の関係については、多くの研究が指摘するとこ ろである。以下では、この点に焦点を絞って論 じていきたい。
まず教育が経済成長を促進する経路につい て、
Hanushek and Woessmann (2008 : 627-628)
は、経済理論の観点から
3
つのメカニズムを指摘す る。第一に、教育は労働力の人的資本を増大さ せ、その結果、労働生産性が上昇し、経済はよ り大きな産出量の均衡点へと移行する。第二に、教育はその経済の革新的能力を増大させて、新 しい技術・生産物・プロセスに関する新知識が 成長を促進する。そして第三に、教育は知識を 普及させ伝達することを通じて経済成長を促進 する。ここで必要とされている知識とは、新し い情報を理解し処理する知識と新技術を使いこ なす知識である。
なお、教育と経済成長の関係を考慮する際に は、教育の量的拡大と質の向上の
2
点を分けて 考える必要がある。まず教育の量的拡大と「中 所得の罠」の関係については、中所得国の実証 研究を行ったEichengreen, Park and Shin(2013)
が参考になる。中等教育及び高等教育の就学年 数の上昇という教育の量的拡大が、成長減速の 回避に影響を与えることを明らかにした。つま り、中等教育と大学レベル以上の卒業生が増加 して、より質の高い人的資本の形成が進むと、
その国の経済停滞は抑制される。これは、中所 得国が経済成長の減速を回避するには、より高 度な技術を必要とする財やサービスの生産へ移 行することが鍵となるが、そのためにはより進 んだ教育を受けた人材の量的拡大が欠かせない からである。
Otsuka, Higuchi and Sonobe(2017)は、成長
4ここでの「中所得の罠」は、前述の通り、経済成長の減速そのものではなく、その減速の悪化という定義に従っている。
5 Otsuka, Higuchi and Sonobe(2017:3)は、先進経済・途上経済にかかわらず、すべての経済において、その一人当たり所得が一定の水
準に収束しつつあると考えるならば、同じ所得水準からスタートした途上経済の中でも、他よりも低い水準の所得に収束する途上経済 が存在する可能性を指摘した。同論文では、このような途上経済をpremature slowdownの状態にあるとした。
タイにおける教育と人的資本形成の問題点
97
フィリピン(表
1)と比較してみると、9
年間 の学校教育を修了しかつ基本的な認知スキルを習得した
15−19
歳人口比率はタイがフィリピンを大きく上回っている。この研究からは、タ イは少なくともフィリピンより質の高い教育を 提供していると推測できる。
続いてタイの教育の質について、さらに踏み 込んで検討を行いたい。World Bank
(2012)
は、以下
3
点に示すようにタイの教育の質が低下し ていること、さらにそれがタイの教育制度の効 率性の低下に起因すると分析している。第一に2006
年と2009
年のPISA
の結果から、タイの 生徒(15歳)の43 ~ 45%が推論するために必
要な情報や、ある条件を満たすために必要な情 報を見つけ出す基礎的な読解(reading)力を有 していないと述べている。PISAは、若者が知 識とスキルを実際の生活の中で適用する能力を 評価することに重点を置いている。読解力は、PISA
では基本的な機能的識字力とみなされ、国民が労働市場に参加するために最低限必要な 能力とされる。ここで言及している基礎的な読 解力とは、そのレベルに到達して初めて、その 生徒が、その後の人生で自身の読解力から利益 を得られるようになるレベルと見做されている
(World Bank 2012:19, 32)。2006
年 か ら2009
の認知スキルの形成を伴っているのかについて検討したい。
Hanushek and Woessmann(2008
: 652-657)は、
教育の量と質に関するデータ、つまり
15−19
歳人口の就学年数と国際的学力テストの結果を 組み合わせて、途上国においては学校教育をあ る程度受けていても、基本的な認知スキルであ る機能的識字能力を有さない若者が大きな比率 を占めることを明らかにしている。タイの場合、2000
年代初頭において615−19
歳人口のうち、71%
が9
年間の学校教育を修了しているが、その中で基本的な読み書き・計算能力・科学的 リテラシーという認知スキルを習得した比率は およそ
6
割にとどまっている。残りの4
割は9
年間の学校教育を修了したにもかかわらず、国 の経済発展に必要とされる基本的認知スキルを 習得していない(図1)。
2000年において平均就学年数がほぼ同じ
1950
年1970
年1990
年2000
年2010
年タイ
3.47 4.02 7.26 8.35 10.48
フィリピン
3.04 5.82 7.99 8.53 9.10
表 1 タイとフィリピンの平均就学年数(15 歳 -24 歳)出所 URL3
6タイに関して使用したデータは、就学年数が2002年、国際的学力テストはPISA2003年の結果である。なおPISA(Programme for
International Student Assessment)は、OECDが15歳児を対象に実施している国際的な学習到達度(読解力、数学的リテラシー、科学的
リテラシー)に関する調査である。
図1 タイとフィリピンにおける教育欠如(15 歳 -19 歳)の類型
注 データは、2000年代初頭に実施された国際的学力調査の結果に基づいている。
出所 Hanushek and Woessmann(2008:Figure 14).
続いて、タイの低成長を教育の質の低さに帰 している
Jimenez, Nguyen, and Patrinos(2012:
5-10)による分析を紹介する。まずタイにおけ
る中等教育と高等教育の量的拡大が、期待され る水準よりも低いと述べたうえで8、教育の質
に つ い て、PISA(2000年、2003年、2006年、2009
年)とTIMSS(1995
年、1999
年、2003
年、2007
年)の結果を用いて検討している。タイ の生徒の数学のスコアはインドネシアやフィリ ピンを上回っているものの、香港、日本、韓国、シンガポール等と比べるとかなり劣っているこ と、そして
1999
年から2007
年にかけて、数学 の平均スコアが低下していることを指摘する。また、この
PISA
とTIMSS
の結果に加えて、世界経済フォーラム(World Economic Forum)
の調査結果9を用いて、教育の質を検証してい る。この調査は雇用者の主観に基づいていると いう制約はあるものの、タイの数学と科学の教 育の質が、アジアの他経済(シンガポール、香 港、韓国、マレーシア)と比べると低い水準に あるという結果が示されている。
続いて、教育による便益の大きさを示す教育 投資収益率を用いて、タイの教育の質について 検討したい。Psacharopoulos and Patrinos(2004)
は、98か国の収益率を推計して、以下の点を 明らかにした。追加的な
1
年間の学校教育の平 均収益率は10%であること、低所得国と中所
得国で収益率が高く高所得国では低いこと、そ して地域別にみると、ラテンアメリカ・カリブ 地域とサブサハラ地域の収益率が最も高く、ア ジア(非 OECD
諸国)の値はほぼ平均値(10%)
であることなどである。
つまりこの研究によると、一人当たり所得水 準が上昇するにつれ、教育投資収益率は低下す る。これは、低所得経済では質の高い労働力が 不足しているため、教育投資収益率が高くなる からである。従って、この収益率はその国に おいて熟練労働力がどの程度不足しているの かを示す指標となりうる(Jimenez, Nguyen, and 年にかけて、タイではこの比率がわずかに減少
したとはいえ、これは将来のタイ労働市場が著 しく機能的識字力が欠如した状態に陥ることの 兆候であるとしている(World Bank 2012:2)。
第二に、TIMSS7の数学リテラシーに関する スコアが、1999年、2004年、2007年と連続し て低下していることを指摘する。そして数学リ テラシーに関して、「基本的な数学の知識を単 純な状況に適用できる」能力を、現代の知識経 済に参加するには必須の能力としたうえで、こ の水準に達している生徒(第
8
学年)の比率 を示している。2007年において、この比率は34%であり、これは 1999
年の45%から大幅に
低下した。そして
1999
年から2007
年の期間に おいて、第8
学年の生徒の絶対数は増加してい るにもかかわらず、この能力を有する第8
学年 の生徒の絶対数は17%減少した。これはタイ
における人的資本の成長率の低下を示唆してい るという。表1が示すように、同期間において タイの教育の量的拡大(平均就学年数)は進ん でいる。従って、タイにおける人的資本の成長 率の低下は、専ら教育の質の低下に起因すると 結論付けている(World Bank 2012:20-21)。ところで、PISAでは、生徒のジェンダーや 社会経済的背景(家庭にある本の冊数、家計 の富、母親の教育水準、家庭で使用する言語)
についても調査を行っている。そこで第三に
World Bank(2012:21-24)
は、2006年におけ るPISA
の読解力のスコアが2000
年と比べて 下がった要因を、生徒の社会経済的背景によっ て説明できる部分と、教育制度の効率性の変化 に起因する部分とに分けて分析を行っている。
その結果、タイの教育の質の低下は、生徒の特 徴の変化によるものではなく、教育制度がより 非効率的になったためであると明らかにした。そして、タイの人的資本の成長を促すためには、
就学率の上昇を通じて教育の量を拡大するより も、教育の質の改善に政策立案者が力を入れる べきであるとしている。
7 TIMSS(Trends in International Mathematics and Science Study)は、生徒の算数・数学及び理科の到達度に関する国際的調査で4年に一度 実施されている。TIMSSが学校で生徒が学ぶカリキュラムの内容に重点を置いているのに対し、PISAは、15歳の生徒が実生活の中で 知識とスキルを応用する能力の測定に重きを置いている(World Bank 2012:31)。PISAについては注6を参照のこと。
8 2009年における中等教育の総就学率は、高位中所得経済の平均が83%、高所得経済の平均が101%であったのに対し、タイは76%であっ
た。また高等教育の総就学率は、タイは45%とOECD諸国の平均(72%)及び韓国(100%)を大きく下回っていた(Jimenez, Nguyen, and Patrinos 2012:6)。
9世界経済フォーラムのデータは、雇用主(business leaders)に対して質問票を用いて実施した調査の結果である。雇用主に対して、そ の国の教育の質(小学校と教育制度の質、従業員研修の程度)を尋ねている。詳細は、World Economic Forum(2017)を参照のこと。
タイにおける教育と人的資本形成の問題点
99
ルであるのに対し、ベトナムは
204
ドルとタイの
60%弱の水準にある(URL7)。
表
3
によると、タイの一人当たり所得水準は ベトナムを大きく上回っているにもかかわら ず、25歳以上人口の平均就学年数はほぼ同じ 値である。就学年齢の子供が将来にわたり受け ると予測される教育年数にも、さほど大きな違 いは見られない。表1
では、タイの教育の量的 拡大がフィリピンより順調に進展してきたと述 べたが、ベトナムと比較するならば、タイは一 人当たり所得の上昇に見合った教育の量的拡大 を達成していないといえる。3節で述べたように、中所得国が経済成長を 持続するには、イノベーションを促進する能力 が要求され、そのために教育の量的拡大と質の 改善が不可欠である。表
3
は、タイが目標とし ている産業の高度化に、教育の量的拡大が追い 付いていないことを示唆している。これが、タ イが「中所得の罠」におちいったとされる第一 の要因であろう。国民の就学年数を引き上げる には、長い時間を要する。従って、プラユット 政権が「中所得の罠」回避のために掲げる「タ イランド4.0」
11ビジョンを実現するには、従Patrinos 2012:10)。
教育投資収益率は、個人の教育投資収益率で ある私的収益率と、教育の外部性も含めた社会 的収益率に分類される。タイの私的収益率の
1985
年以降の動向(表2)をみると、全体とし
て低下傾向にはない。よってタイの場合は、就 学する生徒数や卒業生の数が増加したにもかか わらず、私的収益率は低下していないことにな る。つまり、人的資本のストックが拡大したに もかかわらず、必要とされる技能を習得した熟 練労働力の不足問題は解消されていないと推測 できる。これに対して、韓国の収益率は、1980 年代初めから中頃の15%を超える値から、そ
の後は順調に低下して7%となった(Jimenez, Nguyen, and Patrinos 2012:11)。
続いて、ベトナムとの比較を行う。タイをベ トナムと比較するのは、タイ政府が産業の高度 化を急ぐ理由の一つとして、ベトナムからの追 い上げを危惧しているという点を指摘できるか らである10
。タイの賃金が上昇した結果、低賃
金労働に依存する労働集約的産業の競争力をタ イは失った。2016年10
月時点における製造業(作業員)の基本給(月給)は、タイが 346
ド年 私的収益率 データの出所
1985
年、1995年、1998年10-11% Hawley(2004:Table 3)
2002
年15% Jimenez, Nguyen, and Patrinos(2012:11)
2009
年13.5% 2002
年と同表 2 タイにおける教育の私的収益率
10 タイが参加していないTPP(環太平洋パートナーシップ)にベトナムが参加していたため、タイ政府はベトナムが米国市場への輸出
拡大を通じて急速に経済成長し、タイを脅かす存在になることを危惧していた。ところが、2017年1月に米国のトランプ大統領が米 国のTPP離脱を正式に表明したことにより、タイ政府は安堵しているという。2017年3月15日、BOI(タイ投資委員会)のSenior Executive Advisorからの聞き取り調査による。
11「タイランド4.0」は「中所得の罠」回避のためのタイ政府のビジョンである。産業の高度化と高付加価値産業への移行を目標として、
10の重点産業(次世代自動車、スマートエレクトロニクスなど)への投資を拡大することを通じて、持続可能な経済成長を目指している。
そこでは、物的資本主導型の成長から、イノベーション主導型の成長への移行が目標として明示されている(ジェトロ2017)。
一人当たり
GNI
(2015年)
25
歳以上の国民が受けた教育の平均年数 就学年齢の子供がその後の生涯で 受けると予測される教育年数
2010
年2015
年2010
年2015
年タイ
5,690 US
ドル7.3 7.9 13.3 13.6
ベトナム
1,990 US
ドル7.5 8.0 12.0 12.6
表 3 タイとベトナムの比較
出所 URL2、URL5.
歳であることから、特に中等教育の質を改善す ることが急務であると考えられる。タイの中等 教育の純就学率は
82.6%(2015
年)と、高位
中所得経済の平均79.1%
を上回る水準に達し ている(URL5)ので、今後の課題は質の改善 である。World Bank(2012:26)は、PISAや
TIMSS
の結果から、生徒の能力に関してバンコクと地 方の生徒の格差が大きいという点を指摘する。バンコクの生徒は、米国のような高所得経済と ほぼ同じ成績分布を示しているので、学力は高 いと判断できる。従って、タイにおける課題は、
農村部の学校教育の質の向上をいかに図るかと いう点に集約できる。
タイの全国教育水準・質評価局(ONESQA:
Office for National Education Standards and Quality Assessment)は、2008
年に学校の質を評価する ために全国規模の調査を行った。その結果、調 査対象となった15,515
校のうち、約20%に相
当する
3,243
校が最低限の質の基準を満たしていなかった。そして、このような学校の過半 数が農村部の学校であった(Lounkaew 2013:
213)。
来のように外国企業の力を借りることによっ て、タイ国内の人的資本のストックの不足を補 うことが必要となる12
。人的資本の不足から、
これまでのような外資(とりわけ日本資本)に 依存する形で経済発展を進めるという戦略から 卒業することは難しいのである。高位中所得経 済から高所得へ移行するには、イノベーション の能力が求められるが、これについてもある程 度外資に依存せざるを得ないというのが現状と いえよう。
表
4
では、2012年からPISA
に参加を開始し たベトナムとの比較を行い、タイの教育の質に ついて検討する。その結果から、科学、読解力、数学のいずれにおいても、基礎的能力が欠如し た生徒(15歳)のタイの比率がベトナムをは るかに上回っていることがわかる。またタイは、
いずれの分野においても、2012年から
2015
年 にかけて基礎的能力に到達していない生徒の比 率が上昇している。タイの一人当たり
GNI
がベトナムよりもか なり高いことを考慮すると、タイに必要なのは、生徒の基礎的能力を高めるような教育の質の向 上であることがわかる。PISAの調査対象が
15
12この点に関して、ソムキット副首相は「タイは改革を急がなければならない。タイがここまで発展したのは日本のおかげであり、こ の改革も日本の官民の協力がなければ成功しない。現在の変革期にも日本からの投資をお願いしたい」と述べている(ソムキット 2017)。
出所 URL6.
科学的リテラシー:基礎的科学能力に到達していない生徒の比率
PISA2012
年PISA2015
年PISA2015
年マイナスPISA2012
年の値タイ
33.6% 46.7% 13.1
ベトナム
6.7% 5.9% -0.8
表 4 15 歳の生徒の習熟度
読解力:基礎的読解力に到達していない生徒の比率
PISA2012
年PISA2015
年PISA2015
年マイナスPISA2012
年の値タイ
33.0% 50.0% 17.0
ベトナム
9.4% 13.8% 4.4
数学的リテラシー:基礎的数学能力に到達していない生徒の比率
PISA2012
年PISA2015
年PISA2015
年マイナスPISA2012
年の値タイ
49.7% 53.8% 4.4
ベトナム
14.2% 19.1% 4.9
タイにおける教育と人的資本形成の問題点
101
参考文献
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Lounkaew(2017)によると、タイの学校教 師の異動は、勤務している学校でいかに業績を 上げたかによって決定されるという。農村部の 学校で成果を出せない教師は、他校への異動が 難しく、その結果、農村には質の低い教師が留 まることになるという。
5.結語
「中所得の罠」に陥った可能性を指摘される
タイでは、プラユット政権の下で、それを回避 するための戦略「タイランド4.0」が動き出し
ている。本稿では、これまでの研究成果の検討 を通して、タイにおける「中所得の罠」の要因 として、特に教育の質の改善が遅れているとい う問題を指摘した。この点に関しては、特に農 村部の学校で深刻である。本稿ではタイの人的資本の形成が、一人当た り所得の上昇に追いついていないという現状に ついて分析した。筆者はこれまで、日本の直接 投資がタイの自動車産業の発展や地場の企業家 層の形成において果たした役割を考察してき た。そこで明らかになったのは、現在のタイを 代表する自動車産業が日本企業と日本の技術に 大きく依存する形で成長してきたということで ある。タイ資本の部品メーカーの中で、日本の メーカーと競合する実力を有する地場企業にお いても、技術に関しては雇用した日本人技術者 や、合弁相手の日本企業に依存していた(Ueda
2009)。
このような状況から判断して、高付加価値産 業へ移行するための戦略「タイランド
4.0」に
おいても、外国企業の力を借りずに目標を達成 するのは困難である。プラユット首相は、2016 年、2036年までにタイが先進国の仲間入りを 果たすと公言した。タイが低所得国から高位中 所得国へ成長した際に有効であった外資依存型 の経済発展モデルは、高所得国へ移行するとい う目的に対してはその有効性を失うであろう。今後タイ経済が活路を見出すためにも、教育の 質の改善が急務である。
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URL
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images/_Reports/01/6f26fd5b57ac7b26/20160103.pdf)。
その他
ジェトロ(2017)シンポジウム配布資料「タイ投資シンポジウム: アジアの次世代ハブを目指して」(ジェトロ主催、2017年6月7 日、東京)。
ソムキット・チャトゥシーピタック(2017)「タイ投資シンポジ ウム:アジアの次世代ハブを目指して」(ジェトロ主催、2017 年6月7日、東京)における基調講演「タイランド4.0により 拡大するオポチュニチィ」。
Lounkaew, Kiatanantha (2017) Urban-Rural Differences in Educational Achievement in Thailand (presentation, 13th International Conference on Thai Studies, Chiang Mai, Thailand, July 16, 2017).