著者 中司 由起子
出版者 法政大学国文学会
雑誌名 日本文学誌要
巻 79
ページ 102‑110
発行年 2009‑03
URL http://doi.org/10.15002/00010176
〈鶏龍田〉は現在では正式な上演曲として扱われていないが、室町期には成立していた作品である。曲の構成とあらすじは次のようになる。
一段[次第・名ノリ・上ゲ歌・着キゼリフ・シャベリ・問答]河内国の平岡某(ワキッレ)が従者(アイ)を伴い龍田明神へ参詣し、社前で美しい鶏を見つけ子供のお土産にするために持ち帰ろうとする。二段[問答・掛ケ合・上ゲ歌]鶏を捕える一行の前に女(前シテ)が現れ、鶏は四境祭で放される公の鳥であるから捕ってはいけないと答める。三段[誘イゼリフ・クリ・サシ・クセ] はじめに
〈鶏龍田〉考
さらに女は龍田明神と鶏の神聖さを語り、鶏を返さないのであれば後悔することになるであろうと言い残し、紅葉の木陰に消え失せる。四段[問答・シャベリ]平岡一行が女の警告を無視して鶏を家に持ち帰ると、女房のあこれの前に鶏の霊が取り畷いてしまう。五段[問答・問答]平岡は龍田の神のたたりであると気付き、従者を信貴山の阿闇梨(ワキ)のもとへ遣わし、阿闇梨は平岡の元に向か』っ。六段[ノット]阿闇梨が祈祷を始める。七段[(クリ)。(掛ケ合)・論・掛ケ合]龍田明神のみさきである鶏の霊(後シテ)が現れて平岡の行為を責めるが、阿闇梨は法力で霊を退散させようとする。
中司由起子
く鶏龍田〉考
確実に本曲と思われる上演記録は、「親元日記』文明十五年(一四八一一一)三月十一一日条の足利義政が長谷御所で催した演能(注1)に際してのものが最初である。以後の記録では長亭元年(一四八七)閏十一月三日禁裏公卿手猿楽(「実隆公記』)、天文十二年(一五四三)一一月一一十一日石山本願寺観世太夫演能(「證如上人日記』)、天文十五年十一一月二十一一日佐々木弾正少弼定頼方に将軍御成での観世演能(「光源院殿御元服記乞があり、〈鶏龍田〉の現存する最古の謡本では、観世長俊の本を写したとする天文二十三年の年記のある観世元頼本がある。さらに永正期の内容を伝えるとされる「舞芸六輪次第』や大永四年(一五二四)の書写奥書の「自家伝抄」に〈鶏龍田〉が挙げられていることからも、本曲の成立を室町後期に推定することが可能である。 本論では、愚物と調伏という二つの視点から〈鶏龍田〉を分析し、その特色を明らかにしていくことにする。 八段[掛ヶ合]鶏の霊は御幣を取って神の威力を示して、阿闇梨と対決する。九段[中ノリ地]阿闇梨の祈りによって不動明王が現れ、霊を責め立て、ついに霊は調伏ざれ龍田山へと帰っていく。
〈鶏龍田〉の上演 これら室町末期の上演以降では『能之留帳』に見える慶長八年(’六○三)の下問少進による四回の上演があり、また『少進能伝書」と『金春安照装束付』にも〈鶏龍田〉が所収され、金春で伝えられていたことがわかる。そして少進演能以降の〈鶏龍田〉の上演は、宝永三年(一七○六)から正徳三年二七一三)の鳥取藩と仙台藩の番組記録に見出すことができる。仙台藩では能楽が隆盛で、伊達政宗は小姓桜井小次郎を金春大夫安照に入門させ、また政宗の北七大夫晶屑を引き継いだ二代藩主忠宗は喜多流を取り入れた。四代綱村は金春別家の大蔵庄左衛門経喜を重用し、続く五代吉村も大蔵大夫家を取り立て、自身〈注2)も金春流の能を嗜んでいる。彼は金春大夫家とは別に金春大蔵家の上演曲目の増加を行い〈鶏龍田〉を含む三十六番を追加さ(注3)せている。さらに圭口村自筆と思われる『今春大蔵家能装束附追加」にも本曲の記事がある。ほかにも延岡藩内藤家旧蔵能面の江戸初期の作と伝えられる「霊女」の面の裏には「にハとり」(注4)とあり、これはく鶏龍田〉の専用面と思われ、延岡藩でも上演された可能性が考えられる。また幕府に提出された書上を見てみると、「寛文書上」では春藤・大鼓大蔵源右衛門・太鼓観世・太鼓金春が取り上げ、「寛政十年書上」で宝生・春藤・高安(急には勤めることの出来ない曲目)、「天保書上」で宝生・春藤・ワキ宝生・福王、「明治十五年書上」で宝生のみ記載しているという状況である。以上のように宝生流以外のシテ方は江戸時代に渡って現行曲として扱ってはいないが、江戸中期以降の成立と思われる法政大学能楽研究所蔵「喜多流仕舞付」に型付があり、数種の版本の謡本
稀曲として扱われていたく鶏龍田〉であるが、謡本は版本も含め比較的多く現存しており、本曲の最古本である東京大学史料編纂所蔵観世元頼節付本のほか、松井文庫蔵妙庵玄又手沢五番綴本や、法政大学鴻山文庫蔵吉川家旧蔵車屋本、版本では明 も現存していることから、宝生流以外のシテ方でも本曲の伝承が途絶えたわけではないことがわかる。そして宝生流では、寛政の書上と対応するように寛政版謡本で外組に本曲を所収している。その後明治三十六年(一九○三)に宝生九郎が謡本の改訂と上演曲の見直しを行い現行曲の内の三十曲を廃曲としたが、(注5)その中に〈鶏龍田〉も含まれている。室町後期に成立したく鶏龍田〉は、下問少進の演能や安照の伝書に記載されていることから金春流に伝承され、その流れは仙台藩の金春流大蔵家に伝わっていると考えられる。しかし貞享三年霜月外組本(六徳本)に組み入れられるが、江戸時代初期以降は金春流でも上演記録と書上には見られず、その上演は昭和三十六年(一九六二十一一月五日の能楽稀曲研究会の第一(注6)回公演(、ンテ本田秀男)の復活上演まで待たなくてはいけない。そして稀曲の演能が、盛んに行われた将軍綱吉・家宣時代に仙台藩をはじめとする諸藩において上演記録が集中する点と、型付等の資料が現存するとはいえ、書上で宝生流以外で現行曲としていない点を考慮に入れると、江戸初期以降は頻繁に上演される曲ではなく遠い曲として認識されていたことがわかる。
二鶏の能 暦三年初夏外組本・宝生流寛政版謡本・貞享三年霜月外組本などがあげられる。これらの諸本間における詞章の異同は小異であり、その詞章の違いは上掛り系と下掛り系にほぼ二分されて現れている。しかし例外として宝生流寛政版謡本の詞章はほぼ下掛り系によっており、宝生流の書上と対応する謡本が下掛り系の謡本に属することは注意してもよい事項であろう。このような異同の傾向を有する〈鶏龍田〉には、曲名に見える鶏に関する詩句が多く散りばめられている。それについて堂本正樹氏は「作としてはいかにも古様で面白いが、文章には無理があり、古歌や古詩に鶏の出て来る部分を動員しているが、その意味などおかまいなしで、現代語訳は不可能である。」とく注8)批判している。確かに意味のとりにくい部分もあるが、鶏に関連する詩句の引用は決して本曲の筋から逸脱するものではない。二段での女と平岡某の[掛ヶ合]後半と[上ゲ歌]の詞章を拳(注9)げる。
[掛ケ合]わき/神の白木綿かけし故に、夕付鳥とは異名の鳥して/又其外にも名をかへてわき/或はくだかけ/又はかけ鳥/数々に名を/夕付の[上ゲ歌]とりどりに、かはる其名の立田山、かはる其名の立田山、夜半にあらねど今とても、人にとられて行道は、別れの鳥ぞかし、あらうらめしの鶏や、さりとては人々よ、其鳥かへし給ひなば、神も守らせ給ふくし、神も守らせ給ふくし。
く鶏龍田〉考
これら二段と一一一段の場面には『古今和歌集」雑歌下と『伊勢物語」二十三段の「風ふけば沖つ白波たった山夜半にや君がひ(注、)とり趣ゆらむ」が引かれている。「俊頼髄脳」や「袖中抄』ではこの和歌の注として白浪は盗人を指すとし、この理解は「冷泉家流伊勢物語抄」や「毘沙門堂本古今集注」等にも見え、中世注釈書における一般的理解であった。はじめの二段[上ゲ歌]には「白波」の語はなく、女は平岡の行為は盗人にあたると警告にとどめているようであるが、その後に[サシ]と[クセ]の前半で鶏の神聖さを語り教えたにもかかわらず、それでも鶏を持ち帰ろうとする平岡をより強く非難している。後場の七段で、信貴山の阿闇梨の前に現れた鶏の霊は、次のように述べる。 右の部分は「夕付鳥・くだかけ.かけ烏」と様々に変わる名を持つ鶏が龍田明神の社前から捕られていく今、鶏は「別れの鳥」と呼ばれるのであると、鶏を捕り持ち帰ろうとする平岡一行を女が答める場面である。また、この後の中入りにあたる二段の[クセ]の後半は以下のようになる。
[クセ]~同さなきだに立田山、興津白波名のたつに、主なき鳥とて鶏を、とらせてゆかせ給ひなば、同じかざしの名をおひて、夜越えずとも立田路の、盗人といはれて、後にくやませ給ふな。
[(クリご上同/夕付の、かけのたれ尾の乱れ髪、心もと 後シテ登場直後の[(クリ)]や[(掛ケ合)]中の「羽音もさえて打はぶく」からは、忠告に従わなかった者に対する鶏の霊の強い怒りと、祈祷を行う阿闇梨への威嚇の気色をうかがうことができよう。「鶏既に鴫て忠臣あしたを待つ」は『和漢朗詠集」「鴬」の歌からの引用であるが、鳳凰が鳥の王位にあたるとすれば鶏はその臣下にあたり、鶏が早朝に鳴くのは忠臣が参代するために夜明けを待つようなものであるとする歌の意味からは離れ、鶏が「君を守りの御代のみさき」としていかに神に忠実であるかを表現することに転用されている。「鶏寒ふして木に登る鴨寒ふして水に入る」は禅僧の伝記「伝燈録」に見え、事は同じでもそれぞれのありように従った対応の仕方があるということで、本曲においては、同じ鶏でも人間の出方に従い、おとなしくも、または害を与えることにもなろうという鶏の霊の決意とも受け取れる。これらのような鶏関連の詩句の引用は、龍田山で人間が禁忌を犯して鶏を盗み去り、その結果としてみさき神が怒りの様を けい、けしきかな・[(掛ケ合ごして/鶏既に嶋て忠臣あしたを待つ、君を守りの御代のみさき、疑ふ人は愚かやな、あらうらめしの心やなおとこ/われながら、うかれ心はよりましの、言の葉草の霜夜も明けてして/月はさながら白雪のおとこ/空に散り行朝嵐して/羽音もさえて打はぶくおと一」/其ねぐらにはとまらずしてして/鶏寒ふして木に登る同/鴨寒ふして水に入る。
四角祭は内裏内外の四隅、四境祭は都のある山城国と境をなす和邇(龍華)・逢坂・大枝・山崎(関戸)の各地点で行われ、疫病の原因とされていた邪気が都に侵入するのを道路上で防ぐ(注皿)ことを目的とする祭祀である。この祭祀と鶏の関連は、鎌倉時代の辞書「名語記』の「ゆふつけ鳥」の項に、国土に災いが起きた時に、都の四方の関で祭を行い鶏に木綿を付けて放した、そのため鶏を木綿付鳥とするという記事などで確認できる。また「俊頼髄脳」や「袖中抄」等の歌論集でも「ゆふつけ鳥」の由来に、四境祭で鶏に神の寄り愚くとされる木綿を付けて放したからとする説を挙げる。龍田と四境祭の鶏の関わりでは、『日本書紀」に龍田山に関が設けられた記事や、「古今和歌集』雑下「誰がみそぎ木綿つけ鳥か唐衣たったの山におりはえてな 見せ、阿闇梨と激しく対決するという筋から大きく外れるものではない。出典の内容を直接的に引用するのではく、中世の理解をふまえ筋に沿って登場人物の立場によった引用をしているといえる。そして〈鶏龍田〉の重要な背景となっているのが、通常四角四境祭と連称される祭りであり、二段の[問答]と一一一段の[サシ]に描かれている。
[サシ]さしこえ/然れば霊験あらたにて、末世の衆生の機を転じ、同/思ひしるべのさばへなす、神の為とて四境の一つに、此神を選び奉り、差ぞ立田の山陰に、みそぎの鳥を、はなち給ふ。 (注皿)く」の歌・を、「袖中抄』では「平城京にては龍田山は摂津国へかよふ道なれば、西の関にてゆふつけ鳥よまんに便あぃソ。」と注釈することなどからうかがえる。〈鶏龍田〉の出典に当たるような、鶏を盗むという禁忌を犯し、鶏に懸かれたという説話の類は現在のところ不明であるが、盗人が河内国平岡某と名乗る男である点や、祈祷をする山伏が信貴山の阿闇梨である点は注目できることであろう。河内国の平岡(枚岡)は生駒山を挟んで龍田に隣接する地で、河内の一ノ宮として勢力を有した平岡神社があり、中世の平岡庄には在地領として主水走氏が屋敷を構え、枚岡神社の社務職などに就(注畑)いていたことが知られる。また信貴山は河内と大和の国境に位置し、朝護孫子寺が山頂にあり修験道の拠点として栄えた。平岡も信貴山も龍田に近く、〈鶏龍田〉の物語の展開に無理のない位置関係にある。〈鶏龍田〉の前場は、鶏に象徴される土地である龍田が、平岡という外部よりの侵入者によって脅かされ、それを明神の巫女または鶏の化身と思われる女が防ごうとする展開である。逆に後場になると舞台が龍田から平岡に移り、今度は、境を越え押し入ってくるのは鶏の霊であり、これを阿闇梨が退散することになる。このように本曲は、侵入者と防御者の対立という四境祭の構造と重なる趣向を持ち、後半では龍田から平岡と境が移ることで、侵入と防御の対立が入れ代わっている。
く鶏龍田〉考
平岡某が禁忌を犯した結果、平岡家に仕える女房あこれの前に鶏が愚くという異変が引き起こされた。あこれの前という名(注Ⅱ)前は、〈太刀堀〉という作品に登場する雷巫に懸かれる女と同じ名である。〈太刀堀〉は、越中国の蓮沼某(ワキ)が霊夢を見て礪波山を開墾していた時に、太刀を一振り掘り起こしそれを持ち帰ると、あこれの前(シテ)に木曽義仲身内の葵御前の霊が取り愚き、倶利伽羅落の戦いの有様を語るという内容である。〈巴〉のような女体修羅能ともいえるが、シテがただの亡霊ではなく死霊が取り愚いた女である点が、修羅能の一つとして見た場合にも異色である。〈鶏龍田〉と同じく〈太刀堀〉も「舞芸六輪次第』に所収されており、〈太刀堀〉の演能記録は「言継卿記』の天文十四年(’五四五)三月二十一日条に見えるが、演能記録や資料から〈鶏龍田〉と〈太刀堀〉の成立の前後関係を断定することはできない。そして〈鶏龍田〉と〈太刀堀〉の大きな違いは、〈太刀堀〉では霊に懸かれた女がシテとして舞台に登場し、〈鶏龍田〉は霊に懸かれた女が舞台上に登場せず、他の登場人物の詞によって狂気したことが伝えられる点にある。〈葵上〉は、光源氏の正妻葵上に物怪が取り綴いており、その正体を探るために臣下(ワキッレ)が梓巫女ラレ)を召し出し、梓にかけると、六条御息所の生霊(前シテ)が現れ葵上を責めるので、祈祷のために横川小聖(ワキ)が呼ばれ、鬼の姿をした六条御息所(後シテ)と対決し調伏するという内容で 三蔵物と調伏
①は型付の始まりの箇所にあたり、梓巫女が最初に登場しワキ座に着座する〈葵上〉の現在の演出と同じであるが、〈鶏龍田〉の前場の舞台は龍田山であるので、最初からあこれの前が既に登場しているのは整合がとれない。舞台に登場していても、場面には関わっていないという演出なのであろう。②は六段の[ノット]の直前にあたる場面で、「病者ハ何処に渡り候ぞ」という詞章は、〈葵上〉の祈祷に訪れた小聖の詞と同じである。③は七段の鶏の霊が登場する場面である。霊があこれの前の方へ向く型であるが、本来は平岡を向く方がふさわしい。このよう ある。取り懸かれる葵上は舞台正先に置かれた小袖で表現され、舞台に葵上自体が登場して物怪に懸かれる様を演じるわけではなく、この点は〈鶏龍田〉のあこれの前の扱いと同じ演出である。一方で、あこれの前を登場させる〈鶏龍田〉の型付も残っている。法政大学能楽研究所蔵「喜多流仕舞付』は、ツレが連面に唐織着流女出立を示す装束付が前書きされている。このツレの演技に二口及している型付の部分を抜き出すと次の通りになる。
①大小出ルト、女連壱人出、ワキ座二下二居ル。②わき、平岡トセリファリテ、「病者ハ何処に渡り候ぞ」ト云、平岡「それに候」トつれヲ見ル。わきハ少出カカリ、つれ女ヲ見ル。③(後シテは)「鶏既に嶋て」ト謡、「うたがふ人ハ」トつれへ向、「あらうらめし」トシホル。
となっている。シテが鶏の霊であるので、定型の不動明王に加えて、地と天からも責める神霊が現れている。また傍線部の具体的な描写は、〈車僧・是界・大会〉のような天狗物の能で、 な「喜多流仕舞付』の演出は、前述した金春系の装束付型付や謡本などには見られず、原形の演出とは考えられない。〈葵上〉の演出にならったものであるといえる。〈鶏龍田〉は〈卒都婆小町〉のように霊に懸かれた様子を見せる趣向ではなく、想物(注肥)が物壷叩を展開させる現象としてのみ扱われているのである。〈葵上〉と〈鶏龍田〉の共通点は、懸かれる側であるあこれの前と葵上の表現方法のほかに、災いをなす者とそれを退散させようとする者の対決が見せ場となっている点にも現れている。〈鶏龍田〉の阿闇梨による祈祷調伏の詞章は、不動明王を中心に据えた五大明王を勧請し祈り伏せる〈葵上〉のそれとほぼ同様である。もっともこの不動明王の祈祷の文句は、退治されるべき鬼や霊の登場する〈黒塚・道成寺・船弁慶〉といった能に共通するもので、調伏を描いた能に定型化して用いられている。〈鶏龍田〉の終曲の[中ノリ地]の最後は 祈られて、忽ちに翼は落て、有つる御幣は返しつつ、今より後には来るまじと、夕付鳥か唐衣、夕付鳥か唐衣、龍田の山にそ帰りける。 して/扱中央は同/大聖不動、明王のけばくにかかれば、明王のけばくにかかれば、地神は地より責め、天よりは梵王下って、行者は下より飛ぶ鳥をも、落ちよ落ちよと 天狗が退治される場面と似通う。傍線部の型は「少進能伝書」(注而)に、と記され、「シバシタマルヤウニシテ」のようによくわからない型もあるが、下に伏す型、もしくは安座を示すのであろう「コロプ」型のように詞章に即した型が想定できる。しかし天狗物の調伏の場面は[ノリ地]で描かれるのに対し、[中ノリ地]である〈鶏龍田〉は鬼女の〈葵上・黒塚・道成寺〉と同じである。以上の点からも〈鶏龍田〉は調伏能としての特色を有するといえるが、後シテの面からもそのことは指摘できる。「舞芸六輪次第』に面の指示は書き留められていないものの、「金春安照装束付」では前シテ・後シテともに増、「少進能伝書』は前シテが曲見または深井・後シテが生成、「喜多流仕舞付』は前シテが曲見・後シテが泥眼または生成であると指定されている。前述した内藤記念館蔵の〈鶏龍田〉の専用面である霊女は、「頬の肉がすっかり衰え突き出た頬骨が目立つ。眉頭をつり上げた眉の下は朱で染め、眼頭をつり上げ肌を下げた眼には金具を填入して厳しい。小鼻から口端にかけての鮫に囲まれた口には金泥の上歯列がみえる。厳しいながらどことなく淋しさも感じら(注旧)れる。」と解説されている。これらの神霊や怨露》や鬼女の面に、 「おちよ,ノートいのられて」ト脇ノ方へ幣ヲサシ、シバシタマルヤウニシテ、「たちまち二つバさハおちて」ト、たぢノート跡へシサリ、コロブ。
く鶏龍田〉考
〈鶏龍田〉は、鶏の霊に懸かれたシテの演技を見せる趣向ではない。人体や演技としての愚物への興味は作品中に現れておらず、物語の展開をうながすために懸物という題材が用いられているにすぎない。調伏能の趣向は、前半でシテの恐ろしさ怪しきだけではなく、鶏の神聖さと龍田の神威が否定拒絶される場面を描き、それが後シテの憤怒や対決の激しさの伏線となっているところに見て取れる。そして四境祭における侵入と防御の対立構造が、〈鶏龍田〉の前場の平岡某とシテとの対立にも重なる。この対立構造が、後場で舞台が移動することにより、侵入者の霊と防御者の阿闇梨の対立へと反転した構造として再構築される点に〈鶏龍田〉の特色があると指摘できるのである。 鶏を天冠に戴いた異様な出立は、調伏されるシテに相応しいと思われる。
(注1)「親元日記」寛正六年(一四六五)三月九日条には、将軍院参における観世の上演曲目中に〈鶏〉があり、曲名下に三鵺〉か」の注記が記されているが、本曲の可能性も否定できない。(注2)「岩波講座能・狂言」I能楽の歴史(岩波書店)(注3)「仙台藩能楽史」(三原良吉・仙台能楽協会)によると、上演曲目の追加は忠宗と四代綱村の時代にも行われた。(注4)現在、宮崎県延岡市教育委員会内藤記念館所蔵。本面は平 おわりに 成十年(一九九八)十月二十二日国立能楽堂企画公演「復曲・再演の夕べ」において金春流本田光洋師による〈鶏立田〉で使用された。(注5)大正三年(一九一四)の「能楽』(十月号)には、前田青雪の「金風神韻l廃曲の復活を切望す」と題した文章が掲載されており、その内容は宝生流に限って上演をしていたく干引・常陸帯・空蝉・鶏龍田〉等の三十曲のレパートリーを廃曲にしてしまっていることを嘆き、特に〈鶏龍田〉は弱吟の祈りをはじめ、形式の変わっているところもあり、上演曲から取り去ってしまうのは心残りであるというものである。しかし宝生九郎による三十曲の廃曲決定以降も、大正六年から七年にかけて発行された謡本「宝生流旅之友」には廃曲三十曲が含まれている。(注6)この上演については、堂本正樹氏の「番外曲水脈(十三)愚き物の能I『鶏龍田ES能楽タイムズ」昭和五十五年六月・能楽書林)と、注4に記した公演のパンフレットである『国立能楽堂」(第一八二号)掲載の同氏の「鶏立田」の思い出l昭和三十年後半期の復曲・新作ブームー」と題した文章に詳しい。(注7)注4の金春流の復曲上演では、貞享三年霜月外組本に比較的近い詞章が用いられている。(注8)「番外曲水脈(十三)愚き物の能I『鶏龍田」」(『能楽タイムズ」昭和五十五年六月・能楽書林)(注9)詞章底本には法政大学鴻山文庫吉川家旧蔵車屋本を用い、読みやすさを考慮して一部底本本文を補った。役が変わる
(注咀)『延岡内藤家旧蔵の能面』(国立能楽堂特別展示図録・日本芸術文化振興会) (注Ⅳ) グー、〆 ̄へグー、/ ̄、グーへ
往往注往往 1615141312
、.=、_〆、.=、-〆、-〆
〆戸、〆 ̄、
注注1110
、-〆、=-
書店) 『枚岡市史』第一巻本編別名、〈葵〉〈太刀堀葵〉一部底本本文を補った。「能・狂言必携」(別冊曰の項目には特色を「懸崎『少進能伝書」s下問小 社会史』第二巻境界領域と交通・岩》『袖中抄」(日本歌学大系・風間書房) 際に、節の部分は/、詞の部分は「の記号を用いて示した。『古今和歌集」(新日本古典文学大系・岩波書店)高橋昌明「境界の祭祀l酒呑童子説話の成立l」(「日本の社会史」第二巻境界領域と交通・岩波書店)
(別冊国文学・学燈社)所収の〈鶏龍田〉|を「懸物風の霊験能」と記述している。(『下問少進集」Ⅱ能楽資料集成3・わんや
(なかっかゆきこ。通信教育部講師) (大阪府枚岡市役所)〈倶利伽羅藩〉とも。