成立の背景として
著者 長尾 政憲
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 39
ページ 23‑43
発行年 1987‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011007
文久遣欧使節に随行して、久世・安藤幕閣が志向した幕政変革のための「探索」Ⅱ調査任務に従った西洋体験が、若き福沢諭吉の政治思想形成に大きく役だち、国際理解を基盤とし、「文明開国」「富国強兵」「人材教育」などを内容とする福沢思想の素地を培ったことは、前の機会に詳し(1)く述べた。しかし、帰国後の国内情勢は「棲夷の真盛り」の時期であり、せっかくの新知見を上司に具申し幕政改革に活用することはできず、洋学者にまで向けられてきた穰夷派浪士の鋒先を避けた福沢は、「慎めるだけ自分の身を慎」承、「専ら著書翻訳の事を始め」ろとともに、福沢塾の経営を
幕臣福沢諭吉の政治思想発展過程(長尾)
幕臣福沢諭吉の政治思想発展過程
はじめに 『西洋事情』成立の背景としてIとおして人材育成に力を尺したことは、『福翁自伝』でゑずから語っているところである。ところで、福沢は万延元年十一月、扶持方二十人扶持、御手当金十五両の「外国奉行支配翻訳御用御一属」に中津藩士の陪臣身分のまま任用されたが、四年後の元治元年十月六日、正式に「翻訳御用」に任用され、切米百俵、足高百五(2)十俵一同、手当金十五両の「幕臣」に取立てられた。この幕臣期において、福沢は、公務としての外交関係文書の翻訳活動のほかに、第二次渡米までの間につぎのような執筆活動をおこなっている。⑩慶応元年閏五月『唐人往来」執筆七月『海岸防禦論』翻訳
長尾政憲
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十月中津藩への建白②慶応二年一月このころ『或云随筆』執筆二月中津藩島津祐太郎あて書簡三’六月刊本『西洋事情』初編執筆七月長州再征に関する建白八月横浜英字新聞の翻訳がおわる九月『雷銃操法』巻一、翻訳成る(三年暮春刊)十月『西洋事情』初編、刊行この小論は、「幕臣」の身分的拘束のもとで、福沢が執筆した各種の時務に関する論説をとおして、かれの政治思想がどのように変化発展したか、その発展過程を探ろうとするものである。ただ、この点については先学の優れた業(3)績が少なくないので、生来情報に敏感で維新以後出版人・新聞人としても成功した福沢が、外交文書・横浜英字新聞の翻訳や福沢塾の塾生や知人関係からえる情報をどのように入手し活用したかに注意しながら、主題に迫りたいと思
う。 法政史学田第三十九号
八月『西洋事情」稿本執筆、横浜英字新聞の翻訳二脇屋事件の衝撃,01Iを始める福沢は幕臣取立を喜んだ直後、外国方の部局をゆるがす大事件に出合った。すなわち、元治元年十月十九日、神奈川奉行支配組頭脇屋卯三郎が「切腹被仰付」という事件で(4)ある。この卯三郎は、九州出生とも長州藩出身ともいわれるが、御徒の脇屋の聟養子となり、徒目付から下田・神奈川奉行の支配向に成り、文久元年現職に昇進した人物で、開港いらい生えぬぎの、外国方出先機関第一線の能吏であった。ところで、文久三年の八月十八日政変は、薩摩・会津両藩の武力を背景に、公武合体派の諸藩と公卿たちが断行したクーデターであり、長州藩は、高揚した尊壊運動の主導者としての地位を一挙に喪失した。藩主以下藩士の入京は禁じられ、雌伏を迫られたなかで、同藩は江戸留守居役遠藤太一郎をして、中央・地方、内・外の情報入手に奔走させた。その情報源として脇屋がねらわれたのである。面会により、のちには警戒を避けて書面により情報を脇屋は洩らしたらしく、とくに「京師並横浜表之事情、筑波山事件等」につき、御国内〈東西一一事起り、外事も内実切迫シ、何卒万民
ニー 四
がんらい情報収集癖と記録保存癖のつよい(そのためにあの堪大な『全集」が現存するにいたったのであるが)福沢は、この事件発生以前は、役所で翻訳した外国公館との往復外交文書は、その内容の大意を暗記して置いて、帰宅後「薄様の罫紙」に書き記して置いた。その写しを「親類の者(中津藩か)にやったり」、肥後細川藩の人に貸したことがあったので(補注)他人事ではない。自分も機密漏洩で牢にぶちこまれ首を切られてしまう可能性がある、と思って、自宅の外交記録を一切焼却した。しかし、それ以来、明治元年までは「時の政府に対してあたかも首の負債をしよいながら」「身を苦しめていた」と『自伝」で述懐している。「自伝』の元治元年幕臣任用以後の部分が、慶応三年の再度米国行が大きく取り上げられているほかは、「穰夷 ●●●●之父母たる明君出顕四海平穏一一いたし度と書いたことが露顕し、「大膳(毛利)父子逆謀一一内応致し」たわけではないが、「旗本之身分一一有之間敷不届之至り」と厳罰に処されたのである。逮捕は八月二十五日であり、七月十八日の禁門之変に敗れ、一一十三日の萩藩追討の朝命により「朝敵」と成った長州藩にたいし、外国方支配向の「幕臣」がおこなった機密漏洩の利敵行為として処罰されたわけである。
幕臣福沢諭吉の政治思想発展過程(長尾) 元治元年十月、幕臣身分の翻訳方と成ってから、慶応三年一月、再度渡米するまでの二年三カ月の期間に、福沢が公務として翻訳、または校正をした外交文書は、次のとお(5)りである。a福沢が単独で翻訳したもの(筆蹟による推定を含む)一○七点b福沢訳・他人校正三○点c他人訳・福沢校正一一三点d二人以上の共同翻訳六占州であり、それまでの手付翻訳方雇の時期とくらべ、仕事量も、単独翻訳も多くなっている。なお、右の表の「他人」とは、杉田玄端・箕作貞一郎・同秋坪・杉田廉卿・塩田三 の真盛り」の文久期の記事が詳しく生彩があったのとは対蹄的に、時事について触れるところが少ないのは、この脇屋事件の衝撃のはげしさを裏付けるものであろう。以下で述べる福沢の慶応期の論説が、「幕臣」としての忠誠心をことさらに強調しているのも、脇屋事件からの強迫観念のあらわれとふられうるかも知れないので、やや詳しく紹介したのである。
一一一外交文書翻訳と横浜英字新聞翻訳
一 一
五
郎・山内六三郎・村上英俊である。右の文書に現われた主要事件としてば、幕府とフランスとの接近に対する英・蘭などの牽制、外国奉行柴田剛中らの軍制調査・横須賀製鉄所建設のため仏英派遣、征長戦争下における外国軍艦の下関近傍往来の禁止布告、英米仏蘭四国と改税約書締結、英公使.〈-クスの鹿児島・宇和島訪問などが挙げられる。福沢は、脇屋事件発生にかんが糸、従前のようにひそかに文書の写しを作るという、冒険はおかさなくなったが、公務としての翻訳業務の中で、幕府の親仏動向と、それに対抗するイギリスの薩長接近という、幕末国際関係史の大きな潮流を把握することができたであろう。つぎに、横浜英字新聞の翻訳であるが、福沢が訳したのは、週刊》g目国の日]Qであって、一八六五年十月七日(慶応元年八月十八日)号から、一八六六年九月二十九日(同二年八月二十一日)までの満一ヵ年の訳稿が、第1表(6)のように残っている。この新聞は、一八六一年(文久元年)六月長崎で英国人ハンサードが創刊したz四淫の四画の亘弓冒胸口の〔四目シ号の三の①【(週一一回刊)が、一一十八号で廃刊されたあと、横浜に移転し、週刊紙として改題ざれ同年十一月二十 法政史学第三十九号
三日発刊されたもので、編集には、後に邦字日刊新聞「日新真事誌」(明治五年三月)を発行した]・閃・国]:丙二八二七’八○)が
あたった。その論調は鰍
幕府にきわめて好意的訳(7)閏であった。新福沢は、仙台藩江戸簿 留守居役の大童信大夫職 に慶応元年閨五月十一一一剛
日付で出した手紙にお福いて、前にお話しした表1横浜新聞の件「思召も第被為有候趣、何卒御施行奉祈侯」と述べ、このころは五と十の日が当番であるほかは公用も(8)少ないと述べている。これは仙台藩の資金で
数1冊 数 発行年月日 和年号(慶応)
写本綴 号
9 65.10.7~ 12.2 1.8.18~1.10.15 1.10.22~2.1.17 2.1.24~2.3.14 189~197
198~210* 12
8(9)
65.12.9~'66.3.3
二三四五
211~218**
欠
66.3.10~'66.4 28 ニーハ
欠
66.8.4~'66.9.29 2.8.21
232~240 9 2.6.24~
*203号は欠**211号に「ペルリ紀行抜葦」付。217号にDailyJapanHerald4月16日 号付。
備考
なお,197号,末尾の脱落文につき伊東弥之助「福沢の英字新聞訳稿の脱落文について」
(「福沢手帳」No.295-8頁)参照。
英字新聞を入手してもらい、主要記事を抜粋して翻訳し提供する提案を指している。福沢は元治元年六月、小幡篇次郎ほか六人の中津藩子弟を連れてかえり、福沢塾の発展を図ったが、それら子弟に訳稿を写させ、十冊の写本を仙台藩・熊本藩・佐賀藩などの留守居に買ってもらい、かれら(9)の学資にあてた、といわれている。ところで、横浜英字新聞の翻訳は、洋書調所Ⅱ開成所の教官が柳川春一一一を中心に、「日本貿易新聞」(文久一一一年一一一月l慶応元年四月)、「日本新聞」(慶応元年七月’二年七月)などを公務として訳し、老中・若年寄など幕府要路の(、)回覧に供していた。これは鎖国時代の主たる海外ニュース源であった和蘭風説書(開国とともにオラング本国およびバタピァ発行の新聞紙を献上し、洋書調所で訳して「官板バタピァ新聞」として刊行した)の幕末版ともみることができよう。老中らの回覧用には献本として浄書されたものが充てられたが、別に控本として浄書されたものがあるのを同人間に回覧するため会訳社ができ、有料(半年分が金二分)で「日本新聞」〕g目目旨①のと「日本新聞外編」(福沢が訳したのと同一の〕g自国の日亘)を貸出した。開成所教官の「日本新聞外編」は、]g自国の国亘一八八号(一八六
幕臣福沢諭告の政治思想発展過程(長尾) 福沢の翻訳・著述書には、いくつか共通の特色があるが、ジャーナリストの要件である、 五年九月三十日)を巻一としており、福沢の訳稿よりも一号早く始まっている。両者の相互間の関係は明確でないが、後発の福沢が一号遅れた形で訳稿配布につとめたのであろう。原本が同じでも抄出の記事に相違があり興味深い。」囚冨回国①日一旦の論調は、「幕臣」福沢の受けいれやすい親幕的な傾向のものであったが、とくに重要記事として、一八六五年十一月’十二月の英米仏蘭四国艦隊大坂湾集結と条約勅許、一八六六年八月十一日・九月一日の大名同盟論批判、九月二十九日の一橋慶喜論などが、福沢の時論に(、)及ぼした影響の有無は検討すべきであろう。福沢は、日々接触する福沢塾の塾生をとおしても、国内(皿)諸藩の動向についての情報を入手できたから、上記の外交文書や英字新聞から得られる情報と照応させ、時事を論じうる感覚や表現力を培っていったのである。後年の新聞人と成る素地がすでに幕末期に生じたことは注目すべきであろう。
四慶応元年の時務論
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一時代の要請に適合した題材をつかむ二読者の読解能力に適合した内容を盛る三平明でわかりやすい文体を用いるなどの点では、慶応元年の『唐人往来』は、まさに代表的適例であろう。友人、神田孝平の独居に雇った賄いの老婆が「諸色高直諸人難澁」をすべて「唐人の所為」とし外国人を憎むので、弁舌で説得することに失敗した神田に代わり筆力で「江戸中の爺姿を開国に口説き蕗」そうとした、と福沢は述べ、「文久年間」「壌夷論の最中」の「物凄き世の中」のころ執筆したと回想している。しかし、『全集』編集者が「乙丑閏五月稿成」と記した写本を発見したので、慶応元年の執筆と比定されている。(旧)⑪唐人往来(閏五月執筆未刊)論旨は明快で、幕府の開国政策の妥当性を弁護し、鎖港壌夷論を誤りとするもので、幕臣福沢の政治思想が端的に表明されている。福沢は、学問・軍備・交通機関その他、ヨーロッ。〈の先進性を挙げ、アジア、とくに中国の後進性と対比させ、とくにアヘン戦争やアロー号戦争が「己が国を上もなく貴き物の様に心得」「改革することを知らざる己惚の病」から起 法政史学第三十九号
ったとし、「神国」などと唱え外国人追放を図ろ日本の独善性を、世界各国が親しく附合っている様子からぶて「世の笑われもの」と批判している。本論の部分は、貿易弁護論と軍備強化論である。福沢は、貿易の本来の姿を「余計のものと不足のものと取替る」もので、双方の商人が「値段安く商売にして引合ふ物を互いに売買する」商取引であると説き、貿易のメリットとして医療薬品や飢饅のさいの米穀の輸入などを挙げる。また、諸色高直・諸人難澁というが、実は「金の位の下りたる」にて、日用品も武家の払米も同率で高くなり、「世間一般の潤」いや「よき垰ぎの道」も増した、と積極的側面を強調する。当時、幕府は物価引下に苦慮して貧民救済の施策を講じたのであり、|摸・打ちこわしの頻発を憂慮していたが、福沢の所論は楽観論で一貫しているのが目立っている。つぎに「海防策」では、まず「外国人の日本に来たる趣意」を平和的な国際的「附合い」に来たものでありとし、「世界普通の道理」「世界の道理」にしたがって信実を尺すことの必要性を強調する。福沢は、ポルトガルを「小国」の好例としてとりあげ、英・仏などの強国に伍してひけをとらず附合っているの
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は、「各国普通の道理」にしたがっているものと指摘し、日本国は地図上では「小国「|のように思えるが、人口や物産の豊かさでは「富有の国」にはいるのであり、西洋化政策を採用して、「蒸気船も沢山に栫えて大小砲を造立て」、富国強兵を図るべきことを説く。福沢は『唐人往来』にいろいろ加筆して他人に見せたので、いくつか異本があるが、穰夷的実力行動を非難した部分に、外人殺傷事件などにより「人気の騒立をよき折」として、.と山起し立身をもすべしと」謀をめぐらし、浪人などが加わって「様々の事を仕出し」、そのため壌夷が尊王と結んで世論化しつつあるとし、「色々な山師」という形で鎖壌派「志士」をとらえている。また、軍備論で、将軍独裁の強化を主張し、「常々師の人数を盛に備置」、将軍が汽船などで観閲に回り、国内に威光が行届き、「内乱杯企ろ者あらぱ直に之を取締め」、外国が無法に攻撃してきたときは「道理づくで之を打払」えるようにしたい、と論じている。啓蒙的小論であるが、後年の福沢思想の萌芽が随所に出ており、注目に値する。(u)②『海岸防禦論』(七月ごろ稿未刊)適塾在塾時代に。ヘルの『築城書』の翻訳(未刊)がある福沢が、仙台藩が横浜で買入れた一八六一年刊のアメリカ
幕臣福沢諭吉の政治思想発展過程(長尾) 「マジョルバルナルト」箸の『海岸防禦書」の一五インチ砲の部を訳し提出したもの。海陸軍の改正や軍事費の増大が海岸防備策には必至である、と述べており、『唐人往来』や、以下の「建白」にも連なる習作とゑてもよい。③中津藩への建白「御時務の儀に付申上侯書付」(同年(巧)十月付)正月以来、第一次征長戦争の幕府軍が撤兵し、萩藩の戦後処置が論議されている戦間期に、萩藩は薩摩藩と接近して軍事力補強に努めていた。そのざなかに、英米仏蘭四国艦隊が兵庫沖に集結する非常事態のもとで、十月五日、安政条約の勅許P但し兵庫開港不許可が決定された。そうした幕末外交史・政治史上の一画期に、福沢は出身藩にこの建白を書いた。現下の政情不安に対処し、譜代藩十万石の中津藩が西洋化政策による富国強兵を断行することを勧めたものである。前段は、福沢の時局認識と幕権回復を論じたものである。福沢は、文久三年から元治元年にかげて頻発した「大和一摸・野州騒動・長州暴発」などを、「諸藩士並に浪人の輩、平生其身に不足有之候者共」が鎖国壌夷・尊王穰夷などのスローガンにより政情不安を増長させるため起したも
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のであり、他方、京都の公卿や諸大名が「下情」に通じないため「下より上を凌」ぐ下剋上の事態を招いたものとふる。そして、日々、外交文書翻訳をとおして知悉している、条約の遵守履行を幕府に迫る外国の「正論」にたいし、外人殺傷事件などが次つぎと起こり、その結果として、軍事力の脅迫のもとに条約勅許となった。しかし兵庫開港が不許可と成ったことから、近いうちに事件が発生し、ひいて公武合体の瓦解を来たすだろうとふる。こうした現状認識に立って、幕府は、京都のことは心配せず、「関東は関東にて外国との御条約御取□、御国内を御制服被遊候御威光御張立相成、諸大名は銘々の心情にて向背を可定」と厳然とした姿勢をとり、世間の議論に動揺しないでいてほしい、と幕府の外交・内政上の主権回復を主唱している。後段は藩政改革論であって、譜代藩の中津藩としては「公儀え御忠節の外御他事無之」との趣意を確立し、「西洋流」の軍備充実を図らねばならない。そのさい、「士たる者は、専ら文学を勉、物理を窮め、事情に通い、人を御するの法を学び、力業の武人を指図」することが必要とする。これはエリート養成のための洋学採用論である。福沢 法政史学第三十九号
福沢は、慶応元年八月ごろから、英字新聞翻訳を始めたが、これと平行して、文久渡欧時の見聞を整理した『西洋事情』稿本の執筆にとりかかり、二年初頭には成稿したようである(後述)。同じころ書いた『或云随筆』は、中津藩の長老島津祐太郎に示した随想断片であるが、中に福沢の政治意識が一藩規模を超え全国規模に成長する過程を示すものがあり、注目に値する。(旧)③『或一室随筆』(慶応二年初未完)第一は、宗旨(宗教)の趣意は、「現在未来に拘はらず唯安心の地を求」めるにある。「文明の君子」は「見聞を博くし、世界万国の事情に通じ、世界の道理は入札にて定まるもの」と思い「万国公法宗」に入りたいものであると は、軍備「変改」による財政負担増大には、「公辺の御趣意に基き交易商売の利を以て」充てるがよいとし、とりあえず蒸気船一艘を買上げ藩営交易をおこなうことを勧める。ここでは、「幕臣」福沢が出身藩の西洋化政策を中央の幕権回復と一体的にとらえており、つづく「長州再征に関する建白」の前段階とゑてよい内容と成っている。
五慶応二年の時務論
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いう。前に、『唐人往来』では「世界の道理」と表現した国際関係の論理がここでは「万国公法」と規定され、「入札」Ⅱ多数決原理により国際関係が律せられると理解した(Ⅳ)のである。第二に、富国強兵を志向する西洋化政策を日本国という全国規模の「報国」意識に立って推進する考え方を述べている。「封建世禄の臣は国君一身の糸に忠を尺すを知て報国の意薄し。日本国人をして真に報国の意あらしめば、喋女と開
●●●●●鎖の利害を論ぜずして、自から富強の開国となるべし」といい、外国に「砲艦の利器」があればこれをわが国も造り、外国に「貿易富強」の法があればこれにならい「他に後れを取」らないのが報国である、と規定する。そのほか、日本人が海外旅行により視野を広げること(旧)や、発達段階に応じた国民教育論の提唱なども興味深い。(囚)⑤島津祐太郎あて書簡(二年一一月六日付)福沢は上記の『或云随筆』を添えて、島津に書簡を送り、中津藩には、「文学の教なし」、「世間普通の道理を知らず」といい、「見聞を博くし、人の人たる道理を知ら」せるための「西洋学」修業に有為の子弟をさし向けることが「報国の良策」と勧めている。
幕臣福沢諭吉の政治思想発展過程(長尾) ●●そして、一」の「西洋学」は、「砲術器械術航海術杯業一別の事」Ⅱ技術学を指すのでない、「学と術とは自から分別に有之」と区別している。刊本『西洋事情』の「技芸」の術と「経国」の学を分ける考え方と共通する$〉のである。福沢は、この手紙でも「憂国」「報国」意識の重要性を力説し、「西洋学」「執行」Ⅱ修業により国家意識が養えることを力説する。福沢思想の柱の一としてのナショナリズムは、両洋学立国論としてまず形成されたとゑてょかろシ〔,シo
⑥長州一円征に関する建白書(二年七月ころ執筆九月提(加)、甲山)これは『木村摂津守喜毅日記』の七月二十九日条に「朝福沢来、建白書一示」とあり、九月五日「午下壱岐殿御宅へ相越御逢相願候処、御取込一一付明日罷出候様被仰聞候」、翌六日「第九時半壱岐殿御旅宿へ相越御逢有之、福沢ノ見
●●(皿)込書等jも上ル」(傍点筆者)とあるv恥)のである。木村は前年十一月兵庫開港について老中小笠原壱岐守長行と意見が合わず、目付を罷免ざれ寄合に入っていたが、七月一一十六日軍艦奉行並に再任され、末期段階の長州再征の軍事に従(皿)うため上坂し、九月三日到着した。退役中の木村は、福沢から英字新聞訳稿の写本を毎号送
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られ知友へ回覧し、扶持方手形の判形を福沢に頼んで取ってもらうなど、親しい交際をしていた。この建白ないし見込書を福沢が老中へ提出した理由はよくわからないが、木村の再任、上坂にさいしてのはなむけとして托し、かたがた外国方翻訳方の一員としての翻訳著述家的(特に情報マン的)側面につぎ自己紹介をねらったものであろう。前文は、反幕勢力を制圧して、幕府権力、とくに外交主権の回復が、征長戦で実現されることを期待しているものである。「反賊」長州の征伐は「千古の一大事」であり「御家の御中興も日を期して可相待」「唯一挙動にて御征服相成、其御威勢の余を以他諸大名をも一時に御制圧」し「京師をも御取鎮に相成」「外国交際の事」など「全日本国中の者片言も口出し」しないように成りたい、と述べている。この論法は、小笠原老中や勘定奉行小栗忠順らと共通して(羽)いる。ついで本論に入り、二つの方策を提唱する。まず、「第一条長賊外交の路を絶其罪状を万国へ鳴候事」は、幕府による対外情報宣伝活動の提唱である。福沢は、二年前の馬関戦争後、長州藩が外国人に近づき、留学生(伊藤俊輔Ⅱ博文、志道聞多Ⅱ井上馨ら)の海外派遣、下関その他での密貿易、武器購入などをしており、さいぎんは「新聞 法政史学第三十九号
紙杯に大名同盟等申説を唱候徒党有之」、条約締結国の側にも「唯今の御条約を廃し、諸大名を同盟為致、日耳曼列国の振合にて新に同盟の諸侯と条約可取結と申趣意」であって、英公使パークスらもその説に心酔していると指摘する。大名同盟論批判はブラックが『ジャパン・ヘラルド』で(別)再三取りあげており、福沢も熟知していた。かつて渡欧の船中で、諸大名を集めてドイツ連邦のようにしてはどうか、と松木弘安・箕作秋坪らと幕府主導の連邦国家論を提(あ)案した福沢(『自伝』)が、尊王討幕運動を主導する長州藩の対英接近として登場した大名同盟論(松木弘安も薩摩藩イギリス留学生として現地で情報宣伝活動をしていた)に反対するのは歴史の皮肉といえよう。(妬)後述する岡田摂蔵の帰朝談も取り入れてであろうが、福沢は薩長等の海外留学生による遊説や新聞紙等による情報宣伝活動が功を奏し、大名同盟論がヨーロッ.〈で「人心を傾げ、各政府の評議」がこれに傾くことを懸念し、幕府が締約国へ公使派遣と新聞紙公告などをおこない、現地において大名同盟論を論破すること、併行して緊急に横浜の英字新聞への布告掲載を勧告する。これは、英字新聞翻訳の作業をとおして、現に新聞の情
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報伝達上の威力を認識した者としての発言であり、説得力をもつと信じたらしい、つぎは、内乱鎮圧のための外向軍事力導入の提案である。「第二条内乱御鎮圧に付外国の力を御用相成度事」において、長州藩が二年間にわたり洋式軍事力を増強したのにたいし、井伊(彦根)、榊原(高田)軍が六月十四日、敗(汀)走した実例からゑても、幕府軍の和流軍事力の劣弱による幕軍敗退が心配であるという(ちな承にこの敗戦訓から福沢は『雷銃操法』執筆にとりかかるのである。)福沢は、この点にかんし次の二点を考慮すべきことを説
く。(その一)「人心に指響」く心配については、戦争では勝つことが唯一の目的であり、「総て名義と申は兵力に由り如何様にも相成候事」とわりきり、朝敵とか勤王ということも「兵力の強弱に由り」どのようにも成る、まして「此度の御征罰は天人共に正」しいから、断然「外国の兵を以て防長御取潰し」を断行し、異論を申立てる大名も制圧し、|挙に「全日本封建の御制度を御一変」するほどの御威光を示さなくてはならない、と進言する。(その二)「外国の兵を御一厘ひ武器御買上」の財政負担は、「防長一一州の入高を年々百万俵と致し、金にして几二百
幕臣福沢諭吉の政治思想発展過程(長尾) 万両」と計算し、長州藩取潰しをすれば、外債二千万両を借款しても二十年で元利皆済できる、と述べ、英国の一八六二年度歳入七千万ポンド、国債八億九千万ポンドの例を(犯)挙げ、国債皆無の日本政府は「世界中にて最も富饒の御身代」とし、外債借入れを勧めている。ここでいう「外国」が、前段の対英警戒論からゑて、フランスを指すことは明白である。この建白について注、すべき点を挙げると、a建白先の老中小笠原長行は、文久三年五月、開国推進派外交官僚グループと砲・歩兵二千余人を率いて上洛し、一挙に京都を制圧し、鎖壊論の根本を抜く武力クーデ(羽)ターを企てた当人であり、対長州強硬診珈の代表である。b池田筑後守長発ら横浜鎖港談判使節(文久一一一l元治元年)が、いわゆる巴里廃約を結んで以来、フランスの兵力・金力を借りて薩長を討滅し、勢に乗じて諸大名を削平して郡県制をしぎ、幕府の中央集権による国家統一と近代化を図ろうとする親仏派の幕府有司が勘定奉行小栗忠順以下、力を持って来た。c池田の帰国報告に、公使の派遣駐在、新聞紙による情報宣伝活動の建言があり、現に鎖港交渉打切りと帰国に(釦)かんする公生口を現地で実施した先例がある。
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⑩「稿本西洋事情」の成立福沢は刊本の『西洋事情』の初編序文(二年七月)において、「本編の編訳は今絃三月より公務の暇、業を起し、六月下旬に至り初て稿を脱せり」と書いている(刊行は初冬Ⅱ十月)。しかし、それ以前に『稿本』が成立し写本形式で したがって、小笠原老中には福沢の建言は耳新しいことでなかったが、外国の事例や最近福沢が入手した情報などをとりまとめており、資料性の多い『西洋事情』稿本まで添えてあったのが注目をひいたであろう(ただし、当面の征長戦は小笠原じしん大敗北し戦線を離脱して逃げてきた状況にあったから、征長戦への方策としては役にたたなかったが)。これを福沢のがわからふると、この時期の福沢は、国内分裂の危機を外国の軍事力・外資導入により克服し、徳川絶対主義の国家統一を希求する論旨を、外交主権の確立を柱として展開しており、小笠原・小栗らの親仏派「幕臣」の抱懐する路線を肯定しているのである。それは、越前藩Ⅱ横井小楠の志向する「公共の政」や、(、)勝海舟らの路線とは対立するものであった。
六西洋事情 法政史学第三十九号
流布していたことは、福沢塾の塾頭であった岡田摂蔵が、柴田日向守剛中らが横須賀製鉄所設立のため、人員・機械・資材の入手のため仏・英に赴いたさい、柴田の従僕(小使)として随行し、帰国後、上司の命で執筆し差出し(、)た『航西小記』(二年二月序文)によって明らかである。それによると、「余が師福沢子園先生往年再度西洋諸国を遍歴し之を記し問ふて之を録し稿已に成って西洋事情と題言す」とあり、「西洋の事国体風俗政治武備の殼其情実基木已に其要領を尺」くしているから、自分は「先生の書中に泄漏せる節目些少の事件を」抄記したと述べ、仏英で耳にした「諸生の噺或は閣老の風説等」「兎角日本を悪しぎ様に申もの十に七八にて間には公辺へ奉対恐多ぎ事件も不(鋼)少」、そのため菫曰くのを遠慮していたが、それも書き出すよう再び下命されたので「付録」(同年三月)を「録上」したと述べている。福沢の上記「建白』の末尾に「尚又内外御照合の為め昨八月中より〔以下欠ピとあり、外国方関係筋の写本らしい尾佐竹猛旧蔵の写本には、「西洋事情」と題する一本を添付する旨が書いてあり、これは『稿本』を指すものと解(鋤)釈されている。岡田は「航西小記』の序文で「西洋事情』の名を挙げ
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て、その補完的役割を果たす執筆意図を示すだけでなく、本文中でも「商社」や議会の「議事」につぎ「西洋事情」に委しいから略すと記すなど、「西洋事情』が外国方上司 第2表写本西洋事情と刊本初編備考の比較
備考ゴチックは相違点を示す。 病院/唖院/育院/癒院/貧院/療児院博物館製造局蒸気車/伝信機/石炭瓦斯 軍制学校/書府 国政・文明の政治・政治に四様あり・英の国政(詳説)税制/国憤紙幣商社
幕臣福沢諭吉の政治思想発展過程(長尾) 写本西洋事情―刊本西洋事情
蒸気機関/蒸気船/蒸気車/伝信機/瓦斯燈 収税法国債紙幣商人会社外国交際兵制文学技術/学校/新聞紙/文庫病院/貧院/唖院/盲院/療児院博物館/博覧会 政治 に既知のものと前提した書き方をしている。これによって、「稿本西洋事情』が慶応二年二’三月には、写本の形で少なくとも、文久渡欧時に組頭であり、今は最古参の外国奉行である柴田剛中の目に触れていたことはまちがいなかろう。ところで、この「稿本』は『全集』第十九巻に『写本西洋事情』として、二種類の写本を彼此照合したものが収録されている。内容は、『刊本西洋事情』初編、巻之一、「備考」の稿本とゑてよいことは、第2表の比較表によってもわかる。英国の国政が前半の主体を成して詳説されているが、英国法律の寛裕が「欧羅巴諸邦に冠たり」としながら、その「余弊も亦少なからず」とし、宗門についての「流弊」や、「人口多ぎに過ぎ、富者は益友富糸貧者は益々貧なり」と指摘し、技術・学術が盛であるが、「学術多くは疎漏に失し、真味を知る者少し」などと述べており、かならずしも英政讃(胴)美ではない。後半の部分は、欧羅巴諸国比較論であり、英仏普露、とくに仏普の常備・戦時の軍制や、各国別の国債(『刊本西洋事情」と同じ文久二年壬戌夏の新聞紙に拠る)についての詳細な記述は、建白の関連資料として、福沢が幕閣首脳
五
に注目してほしかったものであろう。情報マン、調査マンとしての福沢の自信を示している。②『西洋事情』初編の成立(一一年三月起稿六月下旬脱稿(犯)初冬刊)福沢は『稿本』を成稿したのにつづいて、これを刊木『西洋事情』初編、巻之一の「備考」つまり総論に据えた上で、巻之二以下の各論にあたる各国誌に続ける、という構成を建てた。上述した建白活動や『或云随筆』執筆の中で成熟した万国公法への理解や洋学の果たすべき使命についての自覚は、序にあたる「小引」に次のような形で述べられている。洋書がわが国に舶来すること既に久しく、翻訳書も多
●●●●●い・窮理・地理・丘〈法・航海術等、わが文明の政治を助け、武備の欠を補うなど益は大きい。しかしそれらはただ「洋外の文学技芸を講究する」技術学にすぎない。その「各国の政治風俗如何を詳に」しなげれば、「経国の本」をつかふえない、それには歴史を読むのが第一である。こうした趣意に立って、福沢は各国誌を次の四項目によって体系化する。1史記時勢の沿革を顕わす2政治国体の得失を明にする 法政史学第三十九号
3海陸軍武備の強弱を知る4銭貨出納政府の貧富を示すこうして、「外国の形勢情実を了解し、果して彼の敵視す可きものか其友視ず可きものかを弁別し、友は則ち之に交はるに文明を以てし、敵は則ち之に接するに武経を以てし、文武の両用其所を錆」らないことを、執筆目的としたのである。財政を含む政治と軍備とを一体的にとらえる手法は、すでに弘化四年刊の箕作省吾『坤輿図識補』が「国威」と「兵勢」に焦点を置いて各国の治乱興亡の動態を叙述しているように、武士階級支配の封建制国家である幕藩制下の知識人には、きわめてわかりよいものであった。そして、文久渡欧時の探索項目も多岐にわたっていたが、国制・軍制・税制等が柱を成していた(この重要項目の調査にあたったのがほかならぬ福沢であった)。福沢の独創的な発想は、この政治と軍備とを歴史で包括することにより動的・発展的なあのと化し、そのことにより「経国」Ⅱ国家統治の根本をつかもうとしたところにである。福沢はさらに、友邦と敵国を区別し、これに接するのに「文明」と「武経」との使いわけができることを提唱して
一
六
第3表文久渡欧体験からえたもの いる。福沢が文明の政治を志向し、西洋文明の紹介を本書の基調としていることは、口絵一丁を挿入し、表に「蒸汽済人電気伝信」、裏に「四海一家五族兄弟」の文字とこれに対応する絵を上下に配していることからも、容易にわかるのであるが、たんに文明にかたよらず、文・武兼備の基本姿勢を強調していることは充分に注目すべき点であろう。
これは、文久渡欧時の体験、ならびにシンモンベリヘンテの講義やロニーの談話などから体得した国際政治の動的把握が土台になっており、『西洋事情』を静態的な国別政治概論としなかった要因であったのである。
A『英国探索」所収シソモンベリヘンテ聞書英国政治の大体弁英国仏国五に損益有之候事第一国民日用生活を営糸候上に於て諸事自由を行ひ(政事の寛裕なる儀に有之候)、勝手に相成候事。第一一全国中の人民、政府の制令を信用する事。第三国民を庇護して安堵せしむる事。第四政府にて百姓町人を軽侮せず、貧民を賎しむ事なく、厚く撫仙保護いたし候事。第五自分身上に取り候て罪科無之者は、政府に没収せらる
幕臣福沢諭吉の政治思想発展過程(長尾) D刊本西洋事情凡そ文明の政治と称するものには六ケ条の要訣ありと云へり。第一条目主任一局国法寛にして人を束縛せず、人々目から C写本西洋事情国政・欧羅巴にて文明の政治といへる者は左の六ケ条を兼備す第一条任意国民各々其所好を為すを得、法律に繋縛せられざるを云ふ。第二条的確国民法を頓て不意の患なきを云ふ。第三条信教宗門を信じて固ぎを云ふ。第四条教養人才を青すろを云ふ。第五条形体享福人民飢寒の恵なき左云ふ。第六条文学技術 ろ愛なぎ事。右の五ケ条、能行届不申候ては世界中にて文明諸回と相唱へ候事は出来不申候由。B福沢の『西航手帳』に書いたメモ文明ご①の。}]ゆくごm|自由「昌一〕①三一一法による安全の保障同①穴①【冨亘三信教、①一・・【四教育・冨・①&ごm五芸術と科学百口の(倖葛①(①目、冒己
七
八備考Vゴチック体活字は、狭義の政治に関する項目である。福沢の「文明の政治」への開眼はロンドンにおける亡命オランダ人医師シンモンベリヘンテの講義によることは、「西航手帳』の福沢メモと『英国探索』所収のベリヘンテ聞書とを比べて承るとよくわかる(第3表参照)。徒目付福田作太郎のまとめた『探索』(A)が「英国の政治の大体」という政治概念の五項として捉えたのにたいして、福沢(B)は「文明」の概念として捉え、『探索』の五項目を二項目に圧縮した上で、信教・教育・芸術科学の三項目を掲げている。これが『西洋事情』においては、「文明の政治」という概念のなかで、六項目とされ、政治は、写本(C)では、 其所好を為し……士農工商の間に少しも区別を立てず.…:上下貴賎各々其所を得て、毫も他人の自由を妨げずして天稟の才力を仲くしむるを趣意とす・・・…。第二条信教人女の帰依する宗旨を奉じて政府より其妨をなさざるを云ふ。第三条技術文学を励まして新発明の路を開くこと。第四条学校を建て人才を教育すること。第五条保任安穏政治一定して変革せず。…:人々国法を頼み安じて産業を営む左云ふ。.…:第六条人民飢寒の思なからしむること。即ち病院貧院等を設けて貧民を枚ふ左云ふ。 法政史学第三十九号
第一、一一、五条、刊本(D)では第一、五、六条と三項目 に整えられている。信教、文学技術、教育が三項目と成っ
ている点は『西洋手帳』いらい変わっていない。福沢は、このようにして、日本国家の基本方向として、西洋近代国家の「文明の政治」を掲げ、具体的政策として文明開化と富国強兵の諸政策採用を、幕・藩上層部に期待
して、この書「西洋事情」初編を書いたのである。しかし、福沢は「初編」執筆にあたり、上述して来たよ うな時務に関する政論となることを抑え、客観性の濃い資
料集、ないし啓蒙的な外国事情の紹介書、実用的百科全書、といった性格の記述を心がけた。それは、冒頭で述べた脇屋事件から受けた教訓を含む、「墓臣」福沢の身分的配慮、さらには福沢に固有の「人に逆わず、社会の利害から遠ざかり、身を慎し」む姿勢から、筆禍の危険に充分対応したものであろう。福沢はまた「敢て不朽を計るに非らず、畢寛唯一時新聞紙の代用に供するの承」といい、「浅日急成し疎漏杜撰の罪遁る上に所なし」と述べ、文体も「文章の体裁を飾らず勉めて俗語を用ひたるも只達意を以て主と」した、と述べている。この新聞人的な執筆態度は従来あまり指摘されていない八
以上「幕臣」登用以後の福沢の政治思想についてまとめてふると、⑩外国方翻訳方として得られる機密情報、ならびに副業として始めた「ジャパン・ヘーフルド」翻訳などから得た情報を活用し、内乱の形での戦時段階の中で、時務に即していくつかの論稿を書いた。この時事を論じ随時執筆した経験は、ジャーナリスト的感覚を磨くのに役だった。②鎖国穰夷、尊王穰夷、討幕の運動が英国を背景に長 が、福沢がゑずから「余が著訳中最も広く世に行はれ最も能く人の目に触れたる書」(「全集緒言』)と語るほどのベストセラーと成した要因であり、(この段階では著者というよりも)、翻訳家、そして情報に通じ、今日の言葉でいうジャーナリスト的な感覚と筆力をもつ文筆家として、外国方に福沢あり、との名を一躍高めたのであった。福沢は他方、販売面でも独特の敏腕ぶりを発揮し、さきに『稿本』段階ですでに幕閣上層に読者を得たのにひきつづき、『刊本』についても京都滞在中の海軍奉行並木村喜毅を通して在京の読者獲得にあたったり、仙台藩その他諸(鋼)藩上層部に積極的に働きかけた。
むすびに代えて
幕臣福沢諭吉の政治思想発展過程(長尾) 薩主導の大名同盟論に発展し、国の内・外で情報宣伝戦の様相を呈すると、これに対抗し、幕府主導の文明開化・富国強兵論を支持する論旨を展開した。③『西洋事情』初編は、文久渡欧の成果を生かし、時務論のまとめとして、幕府主導の「文明の政治」Ⅱ西洋化政策を待望したもので、慶応二年末’三年の「大君のモナルキー」による「文明開化」論、徳川慶喜の慶応改革讃美(羽)の文などは、裏付けの例証とゑてよい。⑨このような「佐幕」開国論が「脱幕」に転換する契機が三年の第一一次渡米であった。それは小野友五郎の「国益論」Ⅱ統制経済論に抵抗した自由通商論の立場から、「幕府はつぶさなくてはならない」という「壮語」に露呈された(『自伝』)が、この行による経済学への開眼(文久渡欧が政治学への開眼)から、『西洋事情』に、「チャンブル」の経済書を種本とする「外編」挿入という構想が生じたというところに、時代の転換を先どりして新しく主題とする福沢の特徴があらわれている。それはジャーナリスト的性格を保ちつつ、翻訳家から著述家に成長する優れたライターとしての福沢の柔軟な思考力を示すものであった。そして、福沢が「脇屋事件」の心理的圧迫から解放される明治維新が到来して、「後期」福沢の時代が始まる。慶応義塾
九
(㈹)
の創設と出版業「福沢屋」がその画期を一示すのである。
註
(1)拙稿「福沢諭吉の政治思想形成過程についての一考察
1文久渡欧との関連として」(『近世の洋学と海外交渉』’九七九年、巌南堂書店)(2)柵稿「福沢の幕府出仕について」s桐沢手帳』一九八六
年、五○・五一号)(3)遠山茂樹『福沢諭吉l思想と政治との関連』一九七○ 年、東京大学出版会ひろたまさき「福沢諭告研究』一九七
六年、東京大学出版会、ほか(4)維新史料綱要、大日本維新史料稿本元治元年十月十九
日条(5)前出(1)三四八頁「福沢諭吉翻訳外交文書数」参照 (6)『福沢諭告全集』(以下『全集』と略)第七巻、四九七
’六一八頁に「幕末英字新聞訳稿」として収録。J・R・ブラック箸、ねず主ざし・小池晴子訳「ヤング・ジャパン-~Ⅲ』(東洋文庫一五六)一九七○年、平凡社 (7)C・リッカピーの経営する「ジャパン・タイムズ」(一
八六五年九月創刊)が素破抜記事を掲載して幕府に反抗したのにたいし、ブラックの編集する「ジャパン・ヘラルド」は幕府に好意的であったので幕府は補助金を与えた。小野秀雄「文久元年創刊の外字新聞」s新旧時代』第一
法政史学第三十九号巻三号)参照。アーネスト・サトウ『英国策論』は幕仏接近に対抗するイ
ギリスの対日外交政策を示す小冊子であるが、はじめ『ジャ
。〈ソ・タイムズ』慶応二年(一八六六)一月一一一○日~四月一九日連載であったし、慶応三年、サトゥの書いた将軍辞職論 が同紙に掲載されると、神奈川奉行は英国領事を通じて抗議
し、ヨラルド』に取消文を掲載させた。国内情報戦のはしりとゑてよい。朝倉治彦「アーネスト・サトゥの『英国策論』」(「国立国会図書館月報』二七二号)、「幕末明治新聞全集』第
一巻「我国初期の外字新聞」(8)「全集』一七巻、書翰集一九頁二○」なお「一一」「一
一一」も関連した手紙。(9)石河幹明『福沢諭告伝』(以下「伝』と略)第一巻四四
○’一頁、三輪光五郎談(⑩)「幕末明治新聞全集』第一巻「日本貿易新聞・日本新聞 解題」七’二一頁(尾佐竹猛)、尾佐竹所蔵本「日本新聞外編」
には、水野和泉守・酒井飛騨守・田沼玄蕃頭らの回覧印があり、たぶんニラルド」の訳らしい「中外新聞紙」には小笠
原老中(外国総裁)らの向覧印があるという。(Ⅱ)「幕末英字新聞訳稿」一九一一一’四、一九七’八号。二三
二、二一一一六号、二四○号(皿)福沢が元治元年六月、小幡ら六人の中津藩子弟を引連れ て帰府したころの鉄砲洲の塾生は、中津藩のほか、熊木・松
四○山・仙台・松江藩ら約一一一一一十人(「伝」第一巻四三○頁)、その後、鹿児島・和歌山藩などから入塾した。(旧)『全集」第一巻「福沢全集緒一一一一口」一○’二一一一頁、後記六一○’一頁(u)「全集」第七巻四七五’四九三頁(E)『全集』第二十巻、雑纂三l||頁(肥)同上、二’一五頁(Ⅳ)福沢の議論には「数量」にもとづく「時勢の論理」が一の特色をなしており、「唐人往来」では世界十億にたいし日本人三千万人あるのを九七人と三人の百分率でとらえ、撰夷論の少数↓独善性を立証している。(旧)円月七日、幕府は学術修業・貿易のための海外渡航を許可した。福沢はその情報をうすうす知っていたかも知れない。もっとも薩長の留学生について岡田摂蔵「航西小記」は詳しく書いている。(⑲)「全集」第十七巻「二八」三六’一一一八頁(卯)『全集』第二十巻、雑纂六’二頁(皿)慶応義塾図書館編「木村摂津守喜毅日記」一九七七年、一一一三一一一頁、三四四頁(皿)伊東弥之助(、)の解説(鋼)「木戸素允文書』巻六、慶応二年七月条、小笠原壱岐守の飛脚状箱を田之浦で拾得して得た情報として「小笠原侯御噺に長征の事を止め候屯のも在之候へ共長州の如き不足論、
幕臣福沢諭吉の政治思想発展過程(長尾) 朝廷よりも被仰出候事在之候に付命に逆ひ侯もの者次来尽御訣征之思召に候」云々とある。文久クーデター計画以後の小栗らの行動や思想については、石井孝『増訂明治維新の国際的環境」一九○l|、四○一頁参照、「日太列藩を什して郡県となし、上は天子をなミし、西洋之国体同様一一致之企有之」(「改一訂肥後藩国事史料』巻六、’一一五三頁)とみられた。勝海舟(『開国起原下巳は小栗の談話を伝えている(五五九頁)。(型)「幕末英字新聞訳稿」前掲書五九四’七頁。ここでは「諸大名同盟して合衆政治を立て之と条約を結ぶべし」との説を、薩長の「日本全国の為め筋を思はずして、白己一家の私利を謀て朗から朧大ならんことを欲するの永」とし、。〈-クスの鹿児島行も「公用」でないとしている。九月一日号は日本開国の正道・非道を論じ、「叛逆の大名を同盟せしめて国を開」こうとする非道をはげしく攻撃している。(妬)前掲(1)拙稿一一一四九’三五○頁参照(妬)岡田摂蔵「航西小記」(『遣外使節日記纂輯」第三)五一一一一’二頁。薩一九、長八、士二合計二九名の在欧留学生につぎ記し、。〈リーで五代才助から薩藩の意図を聞き、またイギリスの親薩的態度や「欧羅巴の風聞には薩州は却て幕府より権ありて不遠日本国中は薩州の有となろへし」たどの説のあることを記している。(”)「ジャパン・ヘラルド」八月二十五日(寅七月十六日)号で、井伊・榊原の「敗走は甚だ貝苦しかりし様子なり」と
四
一
報じ、ライフル銃は十分に貯えたが、幕府軍で之を用ゆる者一万人に過ぎず、と記している。(躯)この統計は刊本『西洋事情」初編、巻之三『全集』第一巻二九四’五頁)に「文久壬戌の年、夏の新聞紙に出るものなり」として紹介したものと同一である。(別)前掲⑩川稿三六四’五頁石井孝「増訂明治維新の国際的環境』分冊一(別)「仏国巴里府より一と先帰府仕侯趣意柄申上侯書付」(『幕末維新外交史料集成』第六巻)(刈)前掲⑩拙稿一一一八二’一一一頁(躯)注(邪)に同じ。(銘)外国奉行柴田剛中じしんも滞仏中、モンプラン、ローーー、シーボルトらが接近し自薦するのに悩まされていること、薩長留学生ならびに英国の反幕的情宣活動に憤慨している記事を日記の諸所に記している。「仏英行(柴田剛中日載七・八より)」(『西洋見聞集』日本思想大系船、岩波書店)三七四’五、三七八’九頁ほか。万国公法の研究のため留学を願った福地源一郎が仏語をロ二に学ぶ経緯も書いている(三一一一頁)(弘)「全集』第二十巻、二頁。『全集』第十九巻、一七六’二○四頁(弱)昆野和七「自由民権運動に関する一考察円」(「史学』第二四巻二’一一一号) 法政史学第三十九号
「文明の政治と云へる者」の政治原則を英政讃美とゑて、英国議会制度を導入し郡県制確立を企図したものとしている。(妬)『全集』第一巻二七五’一一一八二頁「西洋事情」初編初編の種本は不詳であるが、「小引」において巻之一「備考」の部分は文久渡欧のさい「現に間見せし所のものを手録し、傍ら経済論等の諸書を引て編岻」したといい、巻之二の米蘭、巻之三の英国の種本に触れていない。第二次渡米から帰国後、「外編」を「次編」の前に置く構想を新たにたて、「チャンブル氏所撰の経済書」句・]屋、巴向8口・目『【。【己の①旨のnヶ。。]の》目9勺口ぐ日①旨の耳巨n画。ご》6画四ヨワ①【のロロ色、ロー回・ロP]6.日の①》乏昌旨白目Q幻・ずの『庁、冨日すの篇の軍門。且○回目Q向&弓日、戸』、「いをおもな種本とし「傍ら諸書を抄訳し」たという。この外編と原テキストを逐一照合した飯田鼎氏は、初編「備考」の「英国の政治は三様の政治を混同せる一種無類の制度なり」についても、「チャンプル」二四頁の□霞①【①ロ庁【日・の。【の。く①日日①具の一節の訳文としているが、『西航手帳」一三五葉に、英国の政治形態について同様の記事がベリヘンテ医師の講義で述べられているから、「チャンプル」を「初編」にまで遡らせるには及ぶまい。飯田鼎「西洋事情と福沢論告の政治経済思想」(「一一一田学会雑誌』七一’五、四六頁)富田正文・長尾政憲解読・解説『福沢諭吉・西航手帳」復刻、参照。松沢弘陽氏によれば、国王・上院・下院の三権の分立と均
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一 一
補注『改訂肥後藩国事史料」巻一一一「文久三癸亥年尊擢録探索書」には英国軍艦と幕府との書簡往復の大意を福沢が在府細川藩士に洩らした事例がみえる(七二七’八頁)。 衝は、プラヅクストンの『英法釈義』で定式化され、英国社会にうけ入れられていたという。それでベリヘンテも講義で触れたものであろう。(町)東大史料編纂所所蔵『福田作太郎筆記』英国探索「西洋見聞集』前掲(銘)所収)四九○頁(邪)「木村摂津守喜毅日記』慶応三年一月条(三七八’九、一一一八二頁)九日「大坂より奇捷便一一而相廻候箇一シ来、福沢著述西洋事情百部来候也」、十一日、御船便にて一部贈来、留守宅よりも別に一部来る、二十二日、平楽書林より事情五十部代皆納、為礼として酒瓶一献呈などとあり、幕府の船便を利用して送本し、木村が書林との仲次をしている。『全集」一七巻、一一一一一一頁、大童信太夫あて慶応二年十二月二十六日付に「西洋事罎情御落手相成候由大慶奉存候、外に壱部若殿様江献納可仕……五部御入用の由……金七円、書物代料として被追、慥に落手」とあるなど。(胡)『全集」’七巻三○’一頁、二年十一月七日付、福沢英之助あて書簡、同一一一五頁川路太郎・中村敬輔あて一一一年一月七(伽)柵稿「福沢屋諭吉の生成過程について」(「法政史学』二五号、一九七三年)
幕臣福沢諭吉の政治思想発展過程(長尾) 日付書簡
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