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Microsoft Word - O-Rom ~75-GH-「召された」使徒から「召された」聖徒たちへの手紙

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「召された」使徒から「召された」聖徒たちへの手紙 旧版・ローマ書の福音 1

「召された」使徒から

「召された」聖徒たちへの手紙

1:1-7 「聖書の中の聖書」とも言われ、「パウロの福音書」とも呼ばれるこのロ ーマ書1を、自分で本当に読んで深く学んでみようと決心する時、人は誰しも、 畏れと戦きに似た何かを内に覚えます。これは、或いは今の私にとってはあ まりに深すぎ、また神聖に過ぎるのではあるまいか……そういう懸念に、つ い、尻ごみしないでもありません。 かつて 16 世紀のドイツにマルチン・ルターを奮い立たせ、「信仰による義」 を語らせたのは、実にこのローマ書でした。アウグスチヌスを回心させてそ の深い神学を生んだのもローマ書です。聖書原典からの最初の英訳を作った 人として有名なウイリアム・ティンダルは、1534 年版の新約聖書の序文に、 「この書簡は新約聖書中第一に位する最もすぐれた部分であり、最も純粋な 意味での福音である」と書きましたし、ローマ書は、「聖書全体に至る入口 であり、これを照らす光である」と言っているのです。 その上、このローマ書を理解することは、キリスト信仰の背景になってい る旧約聖書の内容と趣旨を正しく理解することともつながります。上に引用 したティンダルの序文の結びの所では、「パウロの意図は、明かにこの書簡 の中で、キリストの福音の全知識をコンデンスしてまとめると同時に、旧約 聖書全体へ導入する道を備えることにあった」と言っている位です。今から 私たちが始めようとする「ローマ書の福音」の学びは、私たちの何人かに「福 音への開眼」を経験させて、聖書の深く広い新世界、宇宙大の神の救いの世 界の中に引き入れる結果となるかも知れないのです。

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私たちの聖書の目次にも表題にある通り、これはローマ人への「手紙」な のです。手紙というものは本来、相手の人に何か伝えてわかってもらうため に書いた文章です。これは私たちの予想に反して、神学論文として書かれた ものでも、講演の草稿として書かれたものでもありません。これは、実に A.D.57 年2の時点でローマに住み、或いは店を構えて商売を営み、或いは人 の奴隷として仕えながら、主日には集まってパンを裂いていた普通の信者た ちの群に宛てて書かれた「手紙」なのです。それは、私たちにもわかるはず のものなのです。 けれども、ここにただひとつだけ、ローマ書がわかるための条件がありま す。これは、初めからその心を持ってひもとく場合もあれば、読み進むうち に自然に与えられる場合もあります。しかし、これがないとローマ書はわか らない、という重大なことなのです。それは何かと申しますと、罪を知る霊 的センス―わかりやすく言うなら、神の前に自分の姿を正直に、有りのま まに見て問題に気づく心です。自分の情なさや醜さ、恐ろしさ……これを何 とかしなければならない! 「主よ、どうか助けてください!」この感覚と正 直さがローマ書の扉を開く鍵です。 私の手もとには、コリントやテサロニケやアテネから来た手紙が何通かあ ります。ここにあるのは、本当にコリント郵便局の消印が押してありまして ……ローマ書と発信地が同じです。この手紙の書き出しは、「アガピテ・フ ィレ・キリエ・オダ」 3となっています。訳しま すと、「愛する友、ミスター・オダ」です。これはどうも英語のDear Mr. Oda, などの影響で現代風にこうなっているのですが、元々は、昔のギリシャ語の 手紙の書き始めの部分は、だいぶ違っていたものです。では、どんな書き方 をしたか……。

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「召された」使徒から「召された」聖徒たちへの手紙 古代の手紙は、普通はまず発信人の名前から始めて、「A が B に、ごきげ んよう!」と書きました。例えば、 これは、 「アリストテレスがプラトンに、ごきげんよう」という書き出しです。つま り、発信人の名を冒頭に主格で、次に受信人の名を与格で、最後に「喜べ」 という意味から来た普通のあいさつの語を置いたものでした。でも、新約聖 書の中の手紙で全くこの通りの書き方をしているのはヤコブ書だけで、あと はみな最後の「ごきげんよう」の部分を、「恵みと平安があなたたちにある ように」とか、「憐れみと平安と愛があなたがたに増し加わるように」とか、 福音信仰に基いた、それに相応しい挨拶に置き換えられています。その上こ のローマ書ではさらに、発信人の任務と使命、受信人の信仰的立場、それに 手紙の主題である「福音」の内容説明が加わって、それが 1 節から 7 節まで のスペースを占めているのが特徴です。 1.この書を送るのは4パウロ、キリスト・イエスのしもベ5、召されて使徒 とされ、神の福音6のために選び分かたれた者。 2.福音とは、神がかねて御 自分の7預言者たちにより、聖書8の中に約束しておられたもので、 3.その7 御子に関わる内容9であります。この方は、肉10という点から見るならダビデ の血統11から生まれた方だが、 4.聖なる霊的本質12から見るなら、死者の13 復活ということによって、力強い14神の子であることが明白に示された15方、 私たちの主イエス・キリストであります。 5.他ならぬこの方の手から16私た ちは恵みと使徒たる使命を受けたのですが、これは彼の御名17のためにあら ゆる民族18(異邦人)が信仰で19神に服するようにと、そのための使命です。 6.その諸民族(異邦人)の中であなたがたも、召されてイエス・キリストの ものとなりました。 7.このパウロが4ローマに住む皆さんへ、神の大事な召 された聖徒20たち全部へペンを執っています。私たちの父なる神と主イエ ス・キリストとからの21恵みと平安が、あなたがたにありますよう!22

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さて、「だれだれが」という冒頭の部分は、「パウロ、奴隷」という言葉 で始まります。この という語は元来「奴隷」をさす語です。訳文と しては「奴隷」がいきなり説明なしで出ると、日本語では人格として認めら れなかった奴隷の身分等、いろんな連想が先に立って、正確に受け取って頂 けないかも知れないと思い、平凡ですが、「しもべ」としました。本当はこ れでは弱いのです。「奴僕(ヌボク)」という表現が私にはピッタリだと思 えるのですが、現代語としては、どうでしょうか? しかし、下男でも使用人 でもなく、「奴隷」という誰もあまり使いたがらないような言葉をわざわざ 使ったパウロは、どんなつもりだったのでしょうか?23 彼はこの言葉で、彼 が自分のためでなく、主人のため、主イエス・キリストのために生きること、 自分がもはや自分のものでなく、イエス・キリストの所有であること、イエ ス・キリストに喜んで頂くため、キリストの意志に服し、生死一切を捧げて 隷属することを告白しているのです。 人は大抵、キリストの奴隷になるよりは、自分の理想や主義に合わせてキ リストを偶像にしようとします。偶像というのは結局、自分の意のままにな る奴隷、自分のイメージの通りになって満足させてくれる道具です。「イエ スは私の主、私はイエスのしもべ」と、立前だけはそう言いますが、本当は 自分が主人でイエスが奴隷、自分の理想のキリスト教をイエスの口から腹話 術の人形のように語らせようとする人がいかに多いことでしょう。 しかし、パウロと同じように「自分は主キリストの奴隷です」と告白する 人は、聖書の謙遜な学びの中で、何よりもまず彼の意志を一生かけて聞き取 り、それに自分を合わせようと努めます。そして万一、自分の考えていたキ リスト教が福音と違っていることに気づいたら、それをいさぎよく全面的に 放棄してでも、イエス・キリストの意志に服して行きたいと思うのです。パ ウロの使った「奴隷」という言葉は、私たちにこのことを深く考えさせます。

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「召された」使徒から「召された」聖徒たちへの手紙 ところでパウロは、自分は「奴隷」であると言っただけでなく、同時に「使 徒」であると言いました。これはまた最も権威と確信に満ちた告白です。「ア ポストロス」 24という語に、「使徒」の二字を最初に当てたのは漢 訳聖書でした。使徒とは使命を帯びて派遣された者の意であります。パウロ にとって、その使命は「福音」でした。彼はその福音のために自分は召され た使徒であると断言します。「召された」とは、自分以外の或るお方の意志 に発し、その方のお声がかかってそれ(ここでは使徒)にされてしまった、 ということです。つまり、パウロはその「使徒」になろうと自分で願い、大 決心をして成ったのではない。資格を与えられ公認されて就任したのでもな い。上よりの声に召されてこの職に就けられてしまった―そういう種類の 使徒だと言うのです。 使徒という職は待別な職務です。厳密には主イエスがお選びになった十二 人とパウロとの一代限り25で消滅したものです。けれども「召される」とい うことは今も続いています。次に紹介するのは、友人増田英介君の大阪聖書 学院卒業に際して贈った「召されることの厳粛さ」という私の文章の一部です。 “……この運動26の先達たちから、私たちは多くの事を学んだ。神の前に 「聖職者」と「平信徒」の区別は無いこと。聖晩餐も浸しも、講壇さえも特 定の階級の独占物ではないこと。羊を飼う務めも、いわゆる牧師職の専売で はなく、群の中から恵みによって成長させられた大人の「配慮者」(エピス コポス)たち、「年長者」(プレスヴィテロス)たちに委ねられること、「牧 者」とはその人たちをさすこと……などです。けれども、この徹底した非祭 司化運動を単なる責任のなすり合いと、霊的内容の水増し的拡散から守って いるものは何か? 慣れ合い的怠惰と「総員レベル引き下げから救っているも のは何か? それは「召された人」の存在である。そして生ける神は確かに、 そのような人を群の中から一人、また一人と起こされるのである。 この「召し」は決してその人に階級も特権も与えない。「先生」という称

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ている」ことは、「特に召されていない」こととは次元的に異なるのである。 ……「召されている」人を「持に召されていない」人と区別するものは、そ の人の内奥の神聖な所に位置を占める。それはかつて預言者たちに与えられ た「重荷」のように、一生涯彼を捕えて放さないのである。”(1972 年 3 月記)。 3.召された使徒から召された聖徒たちへ パウロは受信人を示す「だれだれに」という与格の句に「神に召された聖 徒たちへ」と書きました。これは、召されて使徒となった人から、召されて 聖徒となった人たちへの手紙なのです。使徒として、或いは伝道者として召 されることとは、恐らく意味もニュアンスも違いましょうが、クリスチャン になる経験もまた、「召される」経験27であります。人は自分の意志や自分 の大決心などでクリスチャンになるのではありません。「よーし、ひとつ、 クリスチャンになってやるか!」と発心して、ザブンと勢いよく水に浸され て、勇ましい信仰生活の出発が……できないことはありませんけれども、「召 され」ないで勝手に人間が「成った」クリスチャンは間もなくシラけて、キ リスト教OB の名簿を飾るだけになります。 「召される」ということは、自分以外の或る方の意志に触れて、その方の呼 びかけを聞いて、止むに止まれず動かされることです。人は召されて初めて、 聖徒(神の所有、神専用に捧げられた人間)になります。自分では、とても神 のもの(聖)になる資格も力もないのですが、ただそのお方が「来い」と言っ てくださるそのお言葉が、どうしてもこの自分のためだ! そうとしか考えら れない! と正味心に感じること……それが「召される」経験の始まりです。 イエスが十字架上で死なれたことが、全人類のためとか、罪ある人たちの ためとか言うのでなく、この私のため―私の罪を負うて、私の罪をきよめ て下さったのだ……という一対一のことに気づくとき、人は「召される」の

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「召された」使徒から「召された」聖徒たちへの手紙 です。イエスが復活なさったということが、単に宗教の教義のこととか、純 粋な愛は永遠に生き続けるという文学的修辞なのではなくて、現に本当に罪 に死んでいるこの私を生かすために、私ひとりのためにでも復活して命を与 えようとして、実際復活なさった……そういう一対一のことに目が開かれる 時に、神はその人を確かに「召した」のです。それはこちら側からの発心や 飛躍ではなく、向う側からの恵みの御手に捕えられる経験です。 召された使徒パウロは、ローマにいる召された聖徒の皆さんへという宛名 でこのことを表現しました。『諸君この召されたという点では、私たちは共 通ではないか! 今も、情ないブザマな自分の姿に泣きながら、それでもキリ ストを仰いで慰められ、力を受け、神の子として聖徒としての勇気に満ちる 私たちは、「召して」頂いたのだ。君も私もあの人も皆、「召されて」こう なったのだ。それを再確認しよう。そしてそのことを大切にしよう!』そう パウロは呼びかけ、「恵みと平安」の祝福を送るのです。 (1972~75) 《研究者のための注》 1. 「ローマ人への手紙」を略記して、以下、「ローマ書」とする。ギリシャ語の表題は (ローマ人たちへ)。「ローマ人への手紙」を略記して、以下、「ロ ーマ書」とする。 2. Bruce による。第三回伝道旅行の時に、パウロは三度目のコリント訪問をしたと思わ れる。使徒言行録 20:2.恐らくこの時にコリントのガイオの家で、A.D.57 年の春頃 この手紙を認めたものと思われる。 3. 現代ギリシャ語では の音価は英語this の th に変っているため d 音を表わすには を使う。 という綴りはそのため。 4. 「この書を送るのは」は原文にない。「パウロが 」が主格で、「しもべ」「使 徒」等が同格でこれを説明し、「ローマにいる皆さん全部に 」が与格。なお「このパウロが」と「ペンを執っています」も日本語の文を整 えるために補ったもの。

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であろう。「奴僕(ヌボク)」とするもよい。 6. うれしい知らせ。何か条件を充たして引き換えに救われる「律法の救い」ではなくて、 キリストを信頼して神の義を頂く道であるため福音という。 7. 「ご自分の」「その」は 「彼の」(神の)。 8. 「聖なる諸書(複)に」は旧約聖書をさす。 9. 「内容」は原文にない。「御子に関わるものです。」パウロの趣旨は単にイエスの物 語だということでなく、それがすべてイエスという人格にかかわり、イエスを中心と することである。 10. 人間としてだけ見れば。つまり、暦史的誕生の由来なら。 11. 参照マタイ 1:1,マルコ 10:47,マタイ 12:35-37. は直訳す れば、「ダビデの種(後裔)から」。 12. 「聖の霊」は珍しい表現だが、ヘブライ語的な形容の属格と考えれば「聖なる霊」と 同じで、LXX はイザヤ 63:10,11 でこの表現を、 「聖霊」と訳した。 その用例に従って「聖霊により」であれば、「生ける神の生命力の発動により」(神 御自身の命の御業により)か……。しかし、別の意味を表現するためにパウロがこの フレーズを選んだとすれば、「聖なる霊的本質について言うなら」か……。 13. 第 2 講「キリストのキリストたるゆえん」を参照。 14. を を修飾する形容詞句と解した。しかし、 を修飾 する副詞句と取るなら、協会訳や新改訳のように「力をもって定められた」と訳すこ とができる。 15. は(境界線を引いて)「区別明示された」意。第 2 講の1aを参照。 16. 「その方を通して」。 と関係代名詞に前置詞 が付くことにより、キリス トは源ではなく、キリストを媒介として、窮極的には神から「恵み(恩恵として与え られた救い)と使徒職(使徒の権威と使命)」を受けたことを表わす。 17. 「名」はヘブライ思想では単なる名称ではなく、権威、本質等を意味する。「御名の ため」を は、異邦人が信仰で神に服する結果「彼の名の栄光が輝く」意 味に取り、「御名の栄光を表わす形で」と訳している。 18. は「異邦人」をさす語。元々「民族」をさす語の複数形で、ユダヤ人は

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「召された」使徒から「召された」聖徒たちへの手紙 「イスラエル以外の(イスラエルの祝福とは縁のない)諸民族」の意味で使った。こ の箇所や 1:5,6 ではなお「諸民族」の意味が前面に出るが、パウロは「異邦人」とい うユダヤ的含蓄をこめてこの語を使っていると見てよい。ここでは、文脈から考えて 「諸民族」と訳し、(異邦人)をカッコに入れたが、2 章、3 章を通してパウロはユダヤ 人と異邦人の問題に入り、9 章、10 章、11 章では全く「異邦人」のニュアンスで使う。 19. は直訳すれば、「信仰の服従」、「信仰の従順」。「信仰の」はこ こでは目的語的属格ではなく、むしろ本質規定の属格ないし同格の属格と思われる。 「信仰という服従」つまり、「服従の内容が、またその服し方が“信仰”であるよう な服従」である。意訳して「信仰で服する」としたのはそのため。第 2 講の 2bを参照。 20. は、「神に愛されている」という聖徒の側の体験や客観的事実を言 うよりは、「神にとって大事な」とか「神が心から大事に思っていらっしゃる」とい う神の側の価値判断をおもに表現する。 は「召された聖なる者たち」。 「聖」はその人自体がきよくりっぱと言うのでなく、神専用、神御自身の所有にされ ている意味での「聖」。ここの二個の 型動形容詞の並列を考えれば、「神が、 召して、聖徒にして、大事に思っていらっしゃる者たち」。 21. 恵みと平安の源泉を「神と主イエス・キリストとから」と並記して、キリストの権威 を示す。なお、「恵み 」は、「喜べ 」と同語幹に発する語。「恵み」 がこのギリシャ的挨拶につながるのに対し、「平安 」はユダヤ的挨拶。ヘブ ライ語の「シャローム

~Alv'

」の訳語。パウロは、神とキリストから来る救いの本質 を、この「一方的恩恵」(ハリス)と「神との平和(イリーニ)―むしろ、原型の完 全な修復、無欠の整備」の二語にこめた。 22. 本書に掲げた私訳の訳文は、永井直治訳などよりもむしろ、1979 年版「共同訳」等の 方に近いものである。ギリシャ語原文の一語もおろそかにせずに直訳するという永井 訳の方向は、ある程度原文にも親しめる研究者用としては貴重てあり、その(無責任 とも思える位に)無色透明な構文と訳語で、聖書和訳の歴史に永く記憶されると共に、 この方向の限界をも明示する作品である。本書の訳文はバラフレーズや説明に踏み出 すことを避けながら、いわばその一歩手前のものである。訳文を目で見、耳で聞いて、 日本語として抵抗なく趣旨が通じることを第一眼目とし、ギリシャ語原文は一度著者 の味読と解釈を通過した。その意味で、本書の訳文は註解の一部をなす。

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れ、人格を認められなかったという意味を読み取るべきではない。 24. は (派遣する)の名詞形で「派遣された者」、「任務を帯び た使者」。 25. ユダの空席を補充したマッテヤは使徒とは呼ばれていないが、十一使徒と「一緒に数 えられた 」(使徒 1:26)。この時マッテヤに要求された資格につ いては使徒言行録 1:22 を見よ。 26. 「この運動」は“Restoration Movement”。19 世紀の米国に起こった、素朴な新約 聖書のキリスト教に帰ることにより組織や伝統から解放されたキリスト者個人の間に unity(一つである現実)を見出そうとする運動。参照織田昭著「キリストの教会につ いて」。 27. 前段末引用文の趣旨、特に「伝道者として召されていることは、特に召されていない こととは次元的に異なるのである」と矛盾するように見えるかも知れないが、前段で は福音を伝える使命に聖別されることの特殊性を強調し、ここでは聖徒として救いに 召されることも神のイニシャティヴによる共通性に注目する。

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