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『経世大典』にみる元朝の対日本外交論

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『経世大典』にみる元朝の対日本外交論

 

    目   次 はしがき 一   『経世大典』の対日本外交論の構成 二   『経世大典』の対日本外交論の論点   1   日本に派遣された使者たち   2   世祖の対日本外交姿勢   3   第二次遠征失敗の原因と責任 むすび 73

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元朝の日本への遠征についての研究は、とくに日本において多くの成果が蓄積されてきた。この問題に対する包括的 な取り組みとしては池内宏氏の『元寇の新研究 (1 ( 』が重要であることは言を俟たないが、ことが日本社会に与えた影響が 甚大であったから、日本史の課題として扱われてきたのは当然ともいえる。しかし日本遠征は東アジアにおけるモンゴ ル の 覇 権 確 立 以 来 の 数 あ る 対 外 遠 征 の 一 つ に 過 ぎ ず、 討 伐 行 動 を 企 図 し 実 施 し た 側 の モ ン ゴ ル (大 蒙 古 国 ( ・ 元 朝 の 視 点からする考究は必ずしも十分とは言えないようである。日本遠征が何を目的としたかの一点についても、さまざまな 角度からする説明があってそれぞれ納得できるものが多いが、なお疑問氷解とまでは言えないように思う。その最終的 な解答を導くのは容易ではないので、本稿では一つの中国史料の分析的整理を通じて今後の考究の手がかりを提示して おきたい。 元 朝 の 日 本 遠 征 に 関 す る 記 録 と し て、 『元 史』 巻 二 〇 八、 日 本 伝 は 基 本 的 な も の で あ る。 し か し そ の ほ か の 元 代 史 料 は断片的なものが多く、我々は日本史料や『高麗史』の記録なども含めて、それら史料を突き合せて全体像を構築して ゆ く ほ か は な い。 多 少 な り と 総 括 的、 回 顧 的 に 述 べ た あ る 程 度 の 長 さ の 文 献 史 料 が 望 ま れ る と こ ろ で あ る。 こ こ に 取 り 上 げ よ う と す る『経 世 大 典』 の 日 本 に つ い て の 記 述 は、 『元 史』 日 本 伝 と 重 な る も の が 多 い。 筆 者 は こ れ ま で 部 分 的 にこの史料を利用したが (2 ( 、全体的に読み直す価値があるのではないかと考えて、この史料を分析整理して若干の考察を 試みようとする。 74

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  ﹃経世大典﹄の対日本外交論の構成 『経 世 大 典』 八 九 四 巻 は 元 朝 の 典 故 や 制 度 に 関 す る 記 録 を 集 成 し た、 会 要 に 類 す る 官 撰 の 政 書 で あった (3 ( 。 天 暦 二 年 (一 三 二 九 ( 、 文 宗 に よ り『皇 朝 経 世 大 典』 の 編 纂 が 命 ぜ ら れ、 至 順 二 年 (一 三 三 一 ( に 稿 本 が 完 成、 翌 年 に 文 宗 に 進 献 された。編集の中心となったのは正副総裁の趙世延・虞集であり、馬祖常・蘇天爵・李好文ら多くの学者文人がこの事 業 に 参 画 し て い た。 皇 帝 に 関 わ る 君 事 四 篇 と 行 政 一 般 の 臣 事 六 篇 (治 典・ 賦 典・ 礼 典・ 政 典・ 憲 典・ 工 典 ( 、 計 十 篇 に 分 かち、膨大な公文書を材料とした一大編纂物であった。原本は散逸してしまったが、蘇天爵編『元文類』巻四〇~四二 「雑 著」 に 上 記 各 篇 及 び 各 分 目 の 序 録 が 残って い る の で、 全 体 の 構 成 を 知 る こ と が で き る。 『元 文 類』 は も と『国 朝 文 類』 と 称 せ ら れ、 元 朝 最 後 の 皇 帝 順 帝 の 元 統 二 年 (一 三 三 四 ( に 成 立 し た。 い ま 検 討 し よ う と す る の は、 『元 文 類』 (『四 部 叢 刊』 本『国 朝 文 類』 ( 巻 四 一 に 引 用 さ れ た『経 世 大 典』 政 典 冒 頭 の 征 伐 の 項 に「平 宋」 「高 麗」 に 続 く「日 本」 の 分 目 の 部 分 で あ る (4 ( 。「日 本」 の あ と に は「安 南」 「雲 (安 ( [南] 」「建 都 (( ( 」「緬」 「占 城」 「海 外 諸 蕃」 「爪 哇」 な ど が 続 い て い る。また明代の『永楽大典』に『経世大典』が分散して引用されているために、その遺文を集めた歴史文献──『元高 麗紀事』 『站 ジャムチ 赤』 『大元馬政記』 『大元海運記』 『大元倉庫記』等──が刊行されて元代史の研究に多大の便宜を与えてい る。 『元 史』 は 明 朝 成 立 翌 年 の 洪 武 二 年 (一 三 六 九 ( に 成 立 し た が、 そ の 外 国 伝 は 全 面 的 に『経 世 大 典』 に 依 拠 し て 書 か れ た の だ か ら、 『元 史』 日 本 伝 が『元 文 類』 に 引 用 さ れ る『経 世 大 典』 政 典、 征 伐、 日 本 の 記 録 に 近 い こ と は 当 然 で あ る。しかし両史料を仔細に比べてみると、ともに叙事を中心にした記事でありながら、細部には微妙な相違も存在する。 また『経世大典』には長文ではないが論評的な部分もあり、叙事の記録の取捨、排列、構成からその論評的な意図を推 『経世大典』にみる元朝の対日本外交論 7(

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察できる部分もありそうである。つまりその時点における元朝政府としての日本遠征や対日本外交についての総括的見 解が提示されていると考えたのである。 その日本についての記事は『元文類』によれば、通常の本文記述とその後に双行の一見すると注のような記述が並存 しており、高麗の場合も似たような体裁である。しかし安南・占城・緬になると本文記述の割合はずっと減じて、双行 記述が多くを占める。日本の場合は本文記述と双行記述がバランスよく対応しているものの、そのままでは年次を追っ た 事 実 の 羅 列 に 見 え て 読 み に く い。 そ こ で 本 文 記 述 ( 🄰~ 🄷( と 双 行 記 述 ( 1~⓴ ( を 年 次 と 内 容 に 応 じ て 切 り 分 け た 上 で 両 者 を 対 応 さ せ て 再 構 成 し た (文 末、 【史 料】 『経 世 大 典』 政 典・ 征 伐・ 日 本 序 録 ─ ─『元 史』 日 本 伝 対 照 ( 。 細 字 の 双行記述は通常の大きさとして段を下げて示し、なお対応する『元史』日本伝の記事をさらに段を下げて示している。 こ れ に よって『経 世 大 典』 の 日 本 の 構 成 が よ り 明 確 に 判 り、 『元 史』 日 本 伝 と の 微 妙 な 相 違 も 認 め や す く な る と 思 う。 『経 世 大 典』 に は も と 史 料 庫 と も い う べ き 記 録 の 一 大 集 積 が 存 在 し て い た。 そ れ を 節 略 し て 記 録 し た も の が 双 行 記 述 で あ り、 そ こ か ら さ ら に 意 を 以 て 整 理 し て 記 し た も の が 本 文 記 述 で あった。 こ れ が 序 録 な る も の の 成 立 過 程 で あ ろ う。 『元史』日本伝も同じ史料庫からあらためて記録を抜き出したものである。 このような切り分け、再構成の結果をその概要とともに示せばつぎのようである。 🄰日本遣使──至元三年 (一二六六 ( ~九年 (一二七二 ( 1第一次遣使、国書の形式 2第二次遣使、潘阜の日本派遣 3第三次遣使、塔二郎・弥二郎の拉致 4第四次遣使、大蒙古国中書省の書 76

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5第五次遣使、趙良弼の活動 6高麗の通事曹介 (叔 ( [升 (6 ( ]の提言 7高麗国王国書、弥四郎の入朝 🄱第一次遠征とその後──至元十年 (一二七三 ( ~十四年 (一二七七 ( 8忻ヒンドゥ 都・洪茶丘の日本遠征 9遠征軍の侵攻と撤退 ⓾第六次遣使、国書の形式 ⓫日本商人の金・銅銭交易 🄲第二次遠征とその挫折──至元十七年 (一二八〇 ( ・十八年 (一二八一 ( ⓬阿 ア ラ ガ ン 剌罕・范文虎・忻 ヒンドゥ 都・洪茶丘の日本遠征 ⓭遠征軍進発に際して世祖の懸念 ⓮将軍による遠征軍壊滅の報告 ⓯敗卒于閶の日本脱出報告 🄳第三次遠征計画と方針転換──至元二十年 (一二八三 ( ~二十三年 (一二八六 ( ⓰日本行省の再編、昂 ア ン ギ ル 吉児の遠征中止提言 ⓱第九次遣使、王積翁の日本派遣とその死 ⓲世祖の日本遠征中止の決断 🄴世祖の対日本外交姿勢 『経世大典』にみる元朝の対日本外交論 77

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🄵第二次遠征失敗の原因と責任 🄶成宗の対日本外交──大徳二年 (一二九八 ( ・三年 (一二九九 ( ⓳也 エ ス デ ル 速答児の日本遠征提言と成宗の応答 ⓴第十次遣使、寧一山の日本派遣 🄷結語 史料によって事実経過を要約して記述するだけではない。とくに 🄴と 🄵は世祖期における対日本外交と日本遠征を回 顧総括した評価的記述であることに注意したい。 🄶の成宗期の記事を加えて、対日本外交論は 🄷の総括的結語を以て収 束する。   ﹃経世大典﹄の対日本外交論の論点 1 日本に派遣された使者たち 本 文 冒 頭 の 書 き 出 し 部 分 🄰は 元 朝 (第 五 次 遣 使 ま で は 大 蒙 古 国 ( の 日 本 へ の 公 式 な 使 者 の 名 録 で あ り、 黒 迪 (黒 的 ( ・ 殷弘・趙良弼・杜世忠・何文著・王積翁・釋如智・寧一山が挙げられる。彼らは日本国王宛の国書を携行した、あるい は携行しようとしたものである。第一次遠征後に派遣され日本の鎌倉で斬刑に処せられた第六次遣使の杜世忠・何文著 もここに列せられている。また第二次遠征後に派遣された第八次・第九次遣使の王積翁と如智は日本に到達せずとも公 式の使者として名が挙げられている (7 ( 。成宗期の第十次遣使の寧一山 (一山一寧 ( の名があるのも当然である。 第二次遣使に際して、高麗人潘阜・李挺が大蒙古国の使者として日本に初めて国書をもたらした。また第四次遣使に 78

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も高麗人金有成・高柔が大蒙古国中書省からの国書をもたらした。高麗の潘阜と金有成が使者として重要な貢献を果た したと評価されているのも首肯できる。 し か し 元 朝 か ら の 遣 使 と 理 解 さ れ て い る、 至 元 十 六 年 (一 二 七 九 ( に 范 文 虎 か ら 派 遣 さ れ た 周 福・ 欒 らん 忠 の 名 が こ こ に 見 え な い。 元 朝 と し て は 国 使 と し て 数 え て い な かった 可 能 性 が あ る。 「元 朝 対 日 本 国 書・ 書 簡 表/高 麗 対 日 本 国 書・ 書 簡 表」 (補 訂 ( を 掲 げ て お く が、 こ れ を 元 朝 か ら の 使 者 派 遣 と し た の は、 范 文 虎 が「詔 を 齎 し」 と 言って い る こ と を 重 く見て「第七次遣使」と数えたのである。すなわち『元史』巻一〇、世祖紀至元十六年八月戊子 (十三日 ( 条にいう。 范文虎言、 「臣奉詔征討日本、比遣周福・欒忠与日本僧齎詔往諭其国、期以来年四月還報、待其従否、始宜進兵。 」 又請簡閲旧戦船以充用。皆従之。 范 文 虎 が 言った。 「臣 は 詔 を 奉 じ て 日 本 を 征 討 し よ う と し て い ま す が、 さ き に 周 福・ 欒 忠 を 遣 わ し 日 本 の 僧 と と も に詔を齎して往きその国に諭しているところであり、来年四月には使者が帰還報告するので、日本が従うか否かの 返 報 を 待って、 始 め て 兵 を 進 め る の が よ い で しょう」 。 さ ら に 旧 ふる い 戦 船 を 選 び 点 検 し た う え で 遠 征 の 船 団 に 充 当 す るのを請うた。どちらの件も裁可した。 日 本 の「鎌 倉 年 代 記 裏 書」 に は、 弘 安 二 年 (一 二 七 九 ( 六 月 二 十 五 日 の こ と と し て、 大 元 の 将 軍 夏 貴・ 范 文 虎 が 周 福・ 欒忠を遣わして渡宋僧の霊杲 こう や通事の陳光らと着岸して牒状をもたらし、博多で斬首されたとある (8 ( 。また『勘仲記』に よれば、同年七月に牒状は鎌倉、朝廷で検討され、もたらされた文書は日本では「宋朝牒状」と称され、亡宋の旧臣が 日本の帝王に直に書簡を送るのは分を過ぎたものと議論された (( ( 。そうした議論を経て周福・欒忠は博多 (大宰府守護所 ( において斬首されたとみられる。牒状の内容は伝わらないが、日本史料の表現から推して、夏貴・范文虎が旧南宋の将 軍であり、彼らが大元皇帝の詔を受けて現に日本攻略の態勢にあること、日本側の従順な応答を得れば悲劇的結末を回 『経世大典』にみる元朝の対日本外交論 7(

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 元朝対日本国書・書簡表(補訂) 第 1 次遣使 第 2 次遣使 第 3 次遣使 第 4 次遣使 第 ( 次遣使 第 1次遠征   至元 11   ( 1274 ( 第 6 次遣使 第 7 次遣使 第 2次遠征   至元 18   ( 1281 ( 第 8 次遣使 第 ( 次遣使 第10次遣使 至元 3(1266) 至元 4(1267) 至元 ((1268) 至元 6(126() 至元 7(1270) 至元 8(1271) 至元12(127() 至元16(127() 至元20(1283) 至元21(1284) 至元2((12(2) 大徳 3(12(() 黒的・殷弘・ 宋君斐・金賛 潘阜・李挺 黒的・殷弘・申思佺・陳子厚・潘阜 金有成・高柔 趙良弼・徐偁・張鐸 趙良弼 杜世忠・何文著・撒都魯丁・徐賛 周福・欒忠 如智・王君治 王積翁・如智 〔商舶〕 一山一寧・西澗子曇 不到達 至大宰府 至対馬 至大宰府 至大宰府 在大宰府 刑死於鎌倉 刑死於博多 不到達 至対馬近海 ? 至鎌倉 大蒙古国皇帝 同左 ? 大蒙古国中書省 ※詔 趙良弼書 ※詔 (宋朝牒状)范文虎書 ※詔 ※詔 (燕公楠牒状)燕公楠書 ※詔 東大寺文書 異国出契 ? 異国出契 東福寺文書鄰交徴書 善隣国宝記 ? 金沢文庫文書金沢蠧余残編 鎌倉遺文 鎌倉遺文 鎌倉遺文 元史世祖紀・ 日本伝 元史日本伝 元史成宗紀  高麗対日本国書・書簡表(補訂) 至元 4(1267) 至元 ((1268) 至元 6(126() 至元 ((1272) 至元 ((1272) 第 1次遠征   至元 11   ( 1274 ( 第 2次遠征   至元 18   ( 1281 ( 至元2((12(2) 潘阜・李挺 潘阜・李挺 金有成・高柔 ? 張鐸 金有成・郭麟 至大宰府 至大宰府 至大宰府 至大宰府 至大宰府 明年至鎌倉 高麗国王 潘阜・李挺書 慶尚道按察使 高麗国王 (高麗牒状) 高麗国王 東大寺文書 異国出契 東大寺文書異国出契 異国出契 金沢文庫文書金沢蠧余残編 鎌倉遺文 鎌倉遺文 鎌倉遺文 高麗史 高麗史 原載「第二次日本遠征後の元・麗・日関係外交文書について」(『東方学報』第(0冊、201()を補訂 80

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 元朝対日本国書・書簡表(補訂) 第 1 次遣使 第 2 次遣使 第 3 次遣使 第 4 次遣使 第 ( 次遣使 第 1次遠征   至元 11   ( 1274 ( 第 6 次遣使 第 7 次遣使 第 2次遠征   至元 18   ( 1281 ( 第 8 次遣使 第 ( 次遣使 第10次遣使 至元 3(1266) 至元 4(1267) 至元 ((1268) 至元 6(126() 至元 7(1270) 至元 8(1271) 至元12(127() 至元16(127() 至元20(1283) 至元21(1284) 至元2((12(2) 大徳 3(12(() 黒的・殷弘・ 宋君斐・金賛 潘阜・李挺 黒的・殷弘・申思佺・陳子厚・潘阜 金有成・高柔 趙良弼・徐偁・張鐸 趙良弼 杜世忠・何文著・撒都魯丁・徐賛 周福・欒忠 如智・王君治 王積翁・如智 〔商舶〕 一山一寧・西澗子曇 不到達 至大宰府 至対馬 至大宰府 至大宰府 在大宰府 刑死於鎌倉 刑死於博多 不到達 至対馬近海 ? 至鎌倉 大蒙古国皇帝 同左 ? 大蒙古国中書省 ※詔 趙良弼書 ※詔 (宋朝牒状)范文虎書 ※詔 ※詔 (燕公楠牒状)燕公楠書 ※詔 東大寺文書 異国出契 ? 異国出契 東福寺文書鄰交徴書 善隣国宝記 ? 金沢文庫文書金沢蠧余残編 鎌倉遺文 鎌倉遺文 鎌倉遺文 元史世祖紀・ 日本伝 元史日本伝 元史成宗紀  高麗対日本国書・書簡表(補訂) 至元 4(1267) 至元 ((1268) 至元 6(126() 至元 ((1272) 至元 ((1272) 第 1次遠征   至元 11   ( 1274 ( 第 2次遠征   至元 18   ( 1281 ( 至元2((12(2) 潘阜・李挺 潘阜・李挺 金有成・高柔 ? 張鐸 金有成・郭麟 至大宰府 至大宰府 至大宰府 至大宰府 至大宰府 明年至鎌倉 高麗国王 潘阜・李挺書 慶尚道按察使 高麗国王 (高麗牒状) 高麗国王 東大寺文書 異国出契 東大寺文書異国出契 異国出契 金沢文庫文書金沢蠧余残編 鎌倉遺文 鎌倉遺文 鎌倉遺文 高麗史 高麗史 原載「第二次日本遠征後の元・麗・日関係外交文書について」(『東方学報』第(0冊、201()を補訂 『経世大典』にみる元朝の対日本外交論 81

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避しうるなどのことが書かれていたであろう。とすれば、世祖の名において日本国王に詔諭する「国書」とは異なった 体裁の文書であった可能性がある。 元 朝 の 地 方 官 が 日 本 に 発 し た 書 簡 の 例 と し て は、 至 元 二 十 九 年 (一 二 九 二 ( の 江 浙 行 省 参 知 政 事 燕 公 楠 の 例 が あ る が、 日本商船の遭難後の措置であるのが明白であるので、これは地方官の責任によって発せられた書簡と理解し、使者の派 遣もないので、元朝からの公式の遣使には数えていない ((( ( 。 2 世祖の対日本外交姿勢 全体として論評的な記述となっている 🄴の文は四つの部分から成っており、つぎのようである。   国書には始めに「大蒙古皇帝、書を日本国王に奉ず」と書き、ついで「大元皇帝、書を日本国王に致す」と称し、 文末にはいずれも「不宣白」と云ったが、これは臣下とせず、対等との意である。その言辞は懇切かつ誠実であり、 抑制の効いた気持ちが書面に溢れており、かの前漢の文帝が南越の尉 い 佗 た に対した場合でもこれほどではなかった。 (第 二 次 遣 使 の 際 に ( 潘 阜 が 成 果 な く 帰 還 し た と き に は、 天 子 は 命 令 を 取 り 次 ぐ も の が 伝 達 し な かった と 考 え、 (第 三 次 遣 使 の 際 に ( 黒 迪 (黒 的 ( が 劫 か さ れ た と き に も、 天 子 は 国 境 警 備 に 当 た る も の が 職 務 上 固 く 防 禦 し た だ け で、これは下級の役人の過まちと考えられた。趙良弼が赴いたときに、またも日本から返報されなかったことにし て も、 高 麗 の (三 別 抄 の ( 林 衍 が 叛 し て ルート が 塞 がって い る と の 理 由 で あった か も し れ な い が、 そ れ で も 最 終 的 に は、 日 本 が 拒 否 し て 従 わ な かった と い う こ と に は し な かった。 (第 一 次 遠 征 の と き ( 忻 都 の 遠 征 軍 が 帰 還 し て か ら、 その国が商人に金を所持してやって来て銅銭と交易させようとしたときも、やはりこれを許可し、さらに詔を降し 商人を困苦させてはならないとした。遠いものを寛やかに懐ける方法は行き届いたものだった。 82

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四つの論点を要約すればつぎのようである。第一は、国書の形式上の問題であり、皇帝が日本に対して不適切な扱いを したことは一切なかった。第二は、第二次・第三次遣使に関して、使者に対する日本の処遇について世祖は日本の役人 の 不 手 際 で あ ろ う と 受 け 止 め た。 第 三 は、 趙 良 弼 の 遣 使 に 関 し て、 日 本 は 公 式 な 使 者 の 派 遣 を 以 て 応 答 し よ う と し な かったが、それでも元朝側としては日本が断固拒絶して不服従だと結論づけたわけではなかった。第四は、第一次遠征 後 の 至 元 十 四 年 (一 二 七 七 ( に、 日 本 が 商 人 を 送って き て 金・ 銅 銭 交 易 を 図 ろ う と し た が、 元 朝 は 寛 容 に も こ れ を 許 可 した。これらの論点につき関連する事実を補足解説し、事態を元朝側においていかに受け止めて理解していたかについ てみてゆこう。 第一は前稿でも論じたところであるが ((( ( 、要するに 1の最初の日本遣使で国書冒頭に「奉書」とし、⓾の第六次遣使以 後には「致書」としたが、国書末尾に「不宣」 (不宣白の意 ( で締めくくるのと併せて、決して相手を低く見る表現では なく、対等の関係における鄭重な扱いだという。 「奉書」は『周礼』夏官の用例が最も古く、つぎのようにいう。 虎賁氏、掌先後王而趨、以卒伍、軍旅会同亦如之。……若道路不通、有徴事、則奉書以使於四方。 虎 こ 賁 ほ ん 氏は王に先後して趨 はし り、卒伍を以てするを掌り、軍旅会同するも亦たかくの如くす。……若し道路通ぜず、徴 事あらば、則ち書を奉じて以て四方に使す。 虎賁氏は周王の周囲を守る護衛の統率者であり、戦乱や災害で道路が通じないときに、王に代って書を奉じて遠方の諸 侯 に 使 者 に 立った。 こ れ が の ち に は「致 書」 と 同 じ く 単 に 書 簡 を 送 達 す る 意 味 に も なった よ う で あ る。 『元 史』 に「奉 書」の用例を求めるとつぎのようである。 ・ (至 元 十 一 年 六 月 ( 庚 申、 問 罪 於 宋、 詔 諭 行 中 書 省 及 蒙 古・ 漢 軍 万 戸・ 千 戸 軍 士 曰、 「爰 自 太 祖 皇 帝 以 来、 与 宋 使 介 『経世大典』にみる元朝の対日本外交論 83

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交通。……朕即位之後、追憶是言、命郝経等奉書往聘、蓋為生霊計也、而乃執之、以致師出連年、死傷相藉、係累 相属、皆彼宋自禍其民也。……」 (『元史』巻八、世祖紀 ( ・ (至 元 十 二 年 五 月 庚 辰 ( 、 宋 嘉 定 按 撫 昝 万 寿 遣 部 将 李 立 奉 書 請 降、 言 累 負 罪 愆、 乞 加 赦 免。 詔 遣 使 招 諭 之。 (『元 史』 巻 八、世祖紀 ( ・ (至元十二年十二月庚子 ( 、宋主復遣尚書夏士林・右史陸秀夫奉書、称姪乞和。 (同前 ( ・ 知 南 康 郡 葉 閶 来 降、 殿 前 都 指 揮 使・ 知 安 慶 府 范 文 虎 亦 奉 書 納 款、 阿 朮 遂 率 舟 師 造 安 慶、 文 虎 出 降。 (『元 史』 巻 一 二 七、伯顔伝 ( ・ (陳 ( 日烜乃棄城遁去、仍令阮効鋭奉書謝罪、并献方物、且請班師。 (『元史』巻二〇九、安南伝 ( 最初の事例は世祖が南宋への総攻撃に先立って、諸将軍士に対して戦役の名分を明らかにした詔文である。かつて郝経 に命じて書を奉じて使者に立たせたという。これは南宋に対して鄭重に扱ったとの意を含むのであろう。ほかは南宋や 安南の事例であるが、力関係における弱者が強者に対するときに用いられている。君主間の書簡往復の例としては、つ ぎのような五代十国のものがある。 ・ (顕 徳 三 年 二 月 ( 甲 戌、 江 南 国 主 李 景 遣 泗 州 牙 将 王 知 朗 齎 書 一 函 至 滁 州、 本 州 以 聞、 書 称「唐 皇 帝 奉 書 於 大 周 皇 帝」 、 其略云、 「願陳兄事、永奉鄰歓、……」云。書奏不答。 (『旧五代史』巻一一六、周書、世宗紀 ( ・ (明 徳 四 年 ( 三 月、 晋 遣 使 告 即 位、 且 叙 姻 好。 其 書 曰、 「大 晋 皇 帝 奉 書 大 蜀 皇 帝、 伏 自 中 原 多 故、 大 憝 継 興、 朱 氏 不 道、而皇天不親、沙陀背義、而蒼天失望。……」帝復書用敵国礼。 (『十国春秋』巻四九、後蜀、後主本紀 ( こ の 二 例 は ほ ぼ 対 等 の 関 係 に お け る 文 書 の よ う で あ る。 な お 後 者 に 返 書 す る 時 に 敵 国 の 礼 を 用 い た と あ る が、 「敵 国」 とは国力が匹敵する、つまり対等の関係との意味である。またこれを「不臣之礼」ともいう ((( ( 。 84

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要するに、元朝としては日本国王宛の国書において、決して威圧的でなく穏健で恩恵的な姿勢に終始したとの主張で あ る。 こ れ が『経 世 大 典』 の 趣 旨 で あ る。 し か し 途 中 で「奉 書」 か ら「致 書」 に 変 更 し た の だ か ら、 「奉 書」 に は 何 ら か謙遜のニュアンスを伴い鄭重に過ぎると意識しての変更だったのではなかろうか。杜世忠・何文著らの第六次遣使に 際 し て 初 め て「致 書」 が 用 い ら れ た が、 す で に 第 一 次 遠 征 を 蒙って い る 日 本 側 に し て み れ ば、 受 け 取った 国 書 の 文 言 の 一々に 鋭 敏 に な ら ざ る を 得 ず、 「奉 書」 か ら「致 書」 へ の 変 更 が 意 図 あ る も の と 受 け 止 め ら れ た 可 能 性 は あ る。 「奉 書」 の 奉 は も と よ り「た て ま つ る」 と い う 和 語 と は 語 感 を 異 に す る で あ ろ う。 と は い え、 こ れ が 建 治 元 年 (至 元 十 二、 一 二 七 五 ( 九 月 二 日 の 杜 世 忠・ 何 文 著 を は じ め 随 行 の 中 央 ア ジ ア 人 や 通 訳 の 高 麗 人、 一 行 五 名 が 鎌 倉 で 処 刑 さ れ るという深刻な結末に導いたとするならば ((( ( 、小さくない問題である。使者処刑の理由としてはもたらされた国書の内容 が重要であるにちがいないが、その内容は今に伝わらない。 【杜世忠ら使者処刑情報の伝わり方】   元朝に杜世忠らの刑死の情報が伝わると、忻都・洪茶丘は憤慨して日本征討 を 主 張 し た が、 宮 廷 の 御 前 会 議 で は 即 応 し て の 東 征 に は 至 ら な かった。 至 元 十 七 年 (一 二 八 〇 ( 二 月 の こ と で あ り ((( ( 、 そ の 間、 実 に 四 年 余 り を 経 過 し て い た。 そ の 情 報 伝 達 の プ ロ セ ス を 伝 え る の は、 『高 麗 史』 巻 二 九、 忠 烈 王 世 家 の つぎの記事である。 (忠 烈 王 五 年 八 月 ( 、 梢 工 上 左・ 引 海 一 冲 等 四 人、 自 日 本 逃 還 言、 「至 元 十 二 年、 帝 遣 使 日 本、 我 令 舌 人 郎 将 徐 賛 及 梢水三十人、送至其国、使者及賛等皆見殺。 」王遣郎将池瑄押上左等、如元以奏。 (忠 烈 王 五 年(至 元 十 六、 一 二 七 九 ( 八 月 ( 、 梢 工 の 上 左・ 引 海 の 一 冲 ら 四 人 が 日 本 か ら 逃 げ 還って 言った。 「至 元 十二年に元朝皇帝が日本に遣使することになり、我らは舌人郎将の徐賛及び梢水三十人をその国に送り届けまし たが、使者及び賛らは皆殺されました」 。王は郎将の池瑄を遣わし上左らを押送し、元に赴いて奏上させた。 『経世大典』にみる元朝の対日本外交論 8(

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使者一行五名が鎌倉に赴くと、船乗り達は彼らが戻るのを大宰府で待っていたであろうが、処刑の情報は秘密にさ れて、その消息は直ちには伝わらなかったと考えられる。上左ら四名が日本から脱出して高麗にもどると、忠烈王 は池瑄に命じて上左らを証人として伴い行き、第六次遣使の悲劇を元朝に報告させた。元廷への到着は恐らく至元 十六年後半のことであろう。   ところで中国史上、使者の殺害は頻繁ではないが事例はあった。いま元代についてみればつぎのような四川の少 数民族の例がある。 『元史』巻一〇、世祖紀にいう。 (至元十五年十二月 ( 戊申、以叙州等処禿老蛮殺使臣撒里蛮、命発兵討之。 もしも杜世忠ら使者殺害の情報が時日を弄せず伝わっていたならば、第二次遠征にさらに明白な名分を与えたと思 われる。しかしながら『経世大典』ではなぜかこの一件を格別に言挙げして強調していない。 また当時の元朝と日本の関係を前漢の文帝が南越の尉佗に対した恩恵的態度に擬しているところはもとより修辞的な 文で、日本側が読むことを前提としないものである。しかし仮に日本側がこの文を目にしたとすればその真意を測りか ねたであろう。南越国は秦末漢初に両広地方に存在した独立政権である。もと秦の始皇帝が南方に遠征軍を派遣したが、 巡 幸 途 上 に 亡 く な り 国 内 が 戦 乱 状 態 に 陥 る と、 遠 征 軍 は 北 帰 も まゝな ら ず 番 禺 (広 州 ( を 中 心 に 現 地 の 越 族 の 協 力 を 得 て 自 立 し た。 真 定 の 人 趙 佗 は 南 海 郡 尉 の 任 囂 ごう か ら 後 事 を 託 さ れ た の で 尉 佗 と 称 さ れ、 領 域 を 維 持 し た。 漢 の 高 祖 (劉 邦 ( か ら 陸 賈 が 遣 わ さ れ る と、 尉 佗 は 漢 の 支 配 を 受 け 入 れ て 南 越 王 に 封 ぜ ら れ、 臣 と 称 し て 朝 貢 し た。 し か し 高 祖 が 没 して漢の政府が混乱すると、尉佗は帝号を称し独立傾向を強める。やがて文帝が即位すると再び陸賈が遣わされ、帝号 を僣称し使者を通じないのを責めたので、尉佗は恭順の態度で謝し、帝号をやめて朝貢するようになった。しかしそれ は表向きのことで、国内では帝号を去らなかったという。これが南越の武帝である。やがて漢の武帝の南方遠征にあっ 86

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て南越国は滅亡した。 と こ ろ で 日 本 へ の 遣 使 に つ い て 千 年 以 上 も 前 の 南 越 の 事 例 に 擬 す る の は、 『経 世 大 典』 に 限 ら な い よ う で あ る。 至 元二十九年の日本国王宛の高麗国国書に見える「抗衡為禍」の句が陸賈遣使の故事に由来するとは、筆者が前稿で推測 したところである ((( ( 。また胡祗 し 遹 いつ 『紫山大全集』巻六、 「宣撫輔之の日本に奉使するを送る」の詩の一節にいう。 海外尉佗雖倔強   漢庭陸賈更忠貞   片言要領来威表   一使勝於十万兵 海外の尉佗は倔強なりと雖も   漢庭の陸賈は更に忠貞   片言の要領もて来威の表あり   一使は十万の兵に勝る 陝 西 宣 撫 使 で あった 趙 良 弼 (字 は 輔 之 ( の 日 本 へ の 遣 使 を 陸 賈 の 南 越 へ の 遣 使 に 擬 し て い る。 南 越 対 漢 帝 国、 日 本 対 元 帝 国 の 関 係 を こ の 文 学 的 表 現 か ら 深 読 み す る の は 難 し い。 こ こ で は 時 代 を 隔 て た 二 国 関 係 が、 と も に 微 妙 な バ ラ ン ス の上に立って推移したことを着目するに止めておくが、興味ある対比である。さらに「海外」とは四海の外の意と思わ れるが、これを元代の現実に引き付けて考えれば、第四次遣使に際して中書省から発せられた大蒙古国国書のなかにつ ぎのようにいう ((( ( 。 我 国 家 以 神 武 定 天 下、 威 徳 所 及、 無 思 不 (能 ( [服] 。 逮 皇 帝 即 位、 以 四 海 為 家、 兼 愛 生 霊、 同 仁 一 視、 南 抵 六 詔・ (五 ( [安] 南、北至于海、西極崑崙、数万里之外、有国有土、莫不畏威懐徳、奉幣来朝。 こ こ に 世 祖 の 威 徳 の 及 ん だ 範 囲 と し て、 南 は 六 詔 (雲 南 地 方 ( ・ 安 南、 北 は 海 (北 海、 バ イ カ ル 湖 か ( 、 西 は 崑 崙 と し て い る。ここに東について言及がないのは当然、日本が念頭にあってのことであり、日本はその勢力圏に入ることを期待さ れていたわけである。その覇権構想は国書の起草者の発想ゆえか、伝統的な天下観を反映したものに見える。 論 点 の 第 二 は、 初 期 の 大 蒙 古 国 の 使 者 に 対 す る 日 本 側 の 処 遇 に つ い て で あ る が、 こ こ に は 2(第 二 次 遣 使 ( と 3 (第三次遣使 ( の文が踏まえられている。以下少しく史実を確認しつつ述べる。第一次遣使では、黒的と殷弘一行は巨済 『経世大典』にみる元朝の対日本外交論 87

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島 の 南 端 松 辺 浦 に 至 り 対 馬 を 遠 望 し な が ら、 風 濤 を 前 に 引 き 返 し た。 翌 至 元 四 年 (一 二 六 七 ( 正 月、 高 麗 国 王 は 宋 君 くん 斐 ひ ・ 金 賛 を 黒 的・ 殷 弘 と と も に モ ン ゴ ル に 派 遣 し、 二 月、 事 の 次 第 を 世 祖 に 報 告 し た。 六 月 に なって 高 麗 国 王 へ の 詔 が下されたが、その内容は高麗国王を叱責して、日本国との通好実現に責任をもたせたものであった ((( ( 。詔を受けた高麗 国王は、八月に潘阜に蒙古の国書と高麗の国書を携えて日本に派遣することを決定した。 2の第二次遣使を前にした高 麗 国 王 の 言 葉 に よ れ ば、 道 (海 道 ( の 危 険 で 遠 い こ と を 理 由 に「天 使 を 辱 はずか し む べ か ら ず」 と、 黒 的 が 日 本 へ 同 行 す る に は 及 ば な い と し た。 か く て 九 月 二 十 三 日、 潘 阜 は 日 本 に 向 け て 発 船 し た ((( ( 。 元 宗 九 年 (至 元 五、 文 永 五、 一 二 六 八 ( 正 月 一 日、潘阜ら一行は大宰府に到着して国書を手渡し、そのまま大宰府に逗留した。日本の朝廷と幕府は大きな衝撃を以て 蒙古と高麗の「牒状」を受け止め、いかに対処するか会議を重ねた。高麗の「牒状」に「至元」の年号が使用されてい る こ と に も 危 惧 を 深 め た。 日 本 か ら 返 答 を 得 よ う と 待 機 し て い た 潘 阜 は、 「返 牒」 が 得 ら れ な い の を 見 き わ め た と み え て、 七 月 丁 卯 (十 八 日 ( に 高 麗 に 帰 還 し た の で、 高 麗 国 王 は さっそ く 潘 阜 を 蒙 古 へ 派 遣 し て 経 過 を 報 告 さ せ た ((( ( 。 つ ま り 最初に国書を届けた潘阜が大宰府で六箇月待たされた末に成果なく帰国したのは、日本の役人が国書を上聞できなかっ たからで、日本国王の責任ではないと理解したようである。 3の第三次遣使では、至元五年九月、黒的・殷弘を国信使と副使に任じ、高麗国王を譴責する詔を携行させ、確実に 日 本 遣 使 を 実 現 す る よ う 迫 り、 高 麗 の 重 臣 を 日 本 に 派 遣 す る よ う 命 じ た ((( ( 。『高 麗 史』 に よ れ ば、 十 一 月、 黒 的 ら は 高 麗 王 廷 に 至って 詔 を 伝 え、 十 二 月 庚 辰 (四 日 ( 、 高 麗 は 申 子 し (全 ( [佺 せん ] (知 門 下 省 事 ( ・ 陳 子 厚 (礼 部 侍 郎 ( ・ 潘 阜 に 命 じ 黒 的・ 殷 弘 と と も に 日 本 に 向 け て 出 発 さ せ た。 使 者 の 船 団 四 艘 が 対 馬 北 端 の 豊 崎 に 現 れ た の は 翌 年 文 永 六 年 (至 元 六、 一 二 六 九 ( 二 月 十 六 日 で あった ((( ( 。『五 代 帝 王 物 語』 に は「去 年 の 返 牒 な き に 因 て 左 右 を き か ん 為 也」 と あ る か ら、 遣 使の趣旨は日本側に伝わったはずである。そこに武力衝突が起きて、使者は倭人塔二郎・弥二郎を拉致して引きあげた。 88

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🄴に「黒 迪 (黒 的 ( 被 劫」 と、 3に「交 闘」 と あ り、 第 四 次 遣 使 の 大 蒙 古 国 中 書 省 か ら の 国 書 に も「彼 の 疆 きょう 埸 えき の 吏、 敵 舟の中に赴き、俄かに我が信使を害す」とあるように、武力衝突が起こったのは明らかである。 3の「交闘」に続けて 「其の塔二郎・弥二郎二人を執えて還る」とあるので、筆者は文脈から判断して塔二郎・弥二郎は単なる島民ではなく、 ある程度の身分を有する、対馬の地方官庁の下級職員とするのが自然だと考えた ((( ( 。モンゴル国の使者は捕えた日本人二 名 を 日 本 遣 使 実 行 の 確 た る 証 拠 と し て 皇 帝 に 示 し た かった の で あ ろ う。 一 行 は 三 月 辛 酉 (十 六 日 ( に 高 麗 王 廷 に も ど る と、 翌 月 戊 寅 (三 日 ( に 申 子 佺 に 命 じ て 経 緯 の 報 告 の た め 黒 的 と と も に 倭 人 二 名 を 伴って モ ン ゴ ル に 出 発 し た。 つ ま り 使者に対する日本の処遇についても、世祖は現場の役人に罪はないと寛大に好意的に受け止めたという。なお大蒙古国 中 書 省 か ら の 国 書 中 に、 🄴の「以 為 将 命 者 不 達」 、「典 封 疆 者、 以 慎 守 固 禦 為 常」 、「此 将 吏 之 過」 の 文 が 見 え て い る ((( ( 。 『経世大典』には本来この国書全文が収録されていたはずである。 論点の第三は、趙良弼 ((( ( の遣使に関する記述である。対応するはずの 5には、まず彼が元廷を出発する前に日本国王と ど の よ う な 儀 礼 (上 下 の 分 ( に よって 会 見 す る か の 検 討 が 行 わ れ た こ と が 見 え る が、 遣 使 の 経 緯 は 一 切 省 略 さ れ て、 「良 弼 至 り、 其 の 太 宰 府 守 護 所 に 留 め ら る 者 こ れ を 久 し く す」 と だ け あ る。 こ の 表 現 は 4の 金 有 成 に つ い て 言って い る 『元 史』 日 本 伝 そ の ま ま で あ り、 本 来 趙 良 弼 に 関 わ る 文 で は な い は ず で あ る。 し か も 🄴の 該 当 部 分 は やゝ読 み に く い 文 である。そこでなぜこのような文章構成になったか考えてみよう。 趙 良 弼 は 至 元 七 年 (一 二 七 〇 ( 十 二 月 に 陝 西 宣 撫 使 か ら 秘 書 監 と なって 日 本 遣 使 の 命 を 受 け、 至 元 八 年 (一 二 七 一 ( 正 月、 高 麗 に 至った。 三 別 抄 軍 の 叛 乱 の さ な か、 趙 良 弼 一 行 は 文 永 八 年 (至 元 八 ( 八 月 に 筑 前 今 津 に 到 着 し、 「東 福 寺 文 書」 (『鎌 倉 遺 文』 古 文 書 編 一 四、 一 ○ 八 八 四 ( に み え る よ う に、 九 月 十 五 日 に 大 宰 府 に 到 着 し た。 そ の 中 に 弥 四 郎 ら 同 道の日本人がいた。趙良弼がもたらした国書は『元史』日本伝に載せられているが、その正本は日本国を代表する人物 『経世大典』にみる元朝の対日本外交論 8(

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に面会したうえで手渡すと主張したから、彼は大宰府守護所で返答を待ち続けるよりなかった。同年十二月には趙良弼 は 書 状 官 張 鐸 を 先 に 高 麗 に 行 か せ た。 日 本 の 使 者 を 高 麗 経 由 で 元 朝 に 送 る 準 備 の た め で あ ろ う。 至 元 九 年 (一 二 七 二 ( 正 月 十 三 日、 趙 良 弼 は 日 本 の 使 者 十 二 人 と 韓 半 島 南 端 の 合 浦 県 に 至 り、 丁 丑 (十 八 日 ( に 高 麗 王 廷 に 至った ((( ( 。 こ こ で 張 鐸をして日本人十二人とともに元朝に向かわせた ((( ( 。二月一日、張鐸と日本人は都に至り、正規の日本国の使者なら携行 す べ き 国 書 も な い ま ま に 世 祖 に 謁 見 を 求 め た。 し か し 世 祖 は、 日 本 国 主 の 使 者 が やって 来 て 大 宰 府 守 護 所 (の 使 い ( と 云 う の は 詐 いつわ り (ご ま か し ( で あ ろ う と 疑 い、 世 祖 と の 謁 見 は 回 避 さ れ て 弥 四 郎 を 含 む 日 本 の 使 者 は 帰 国 さ せ ら れ た ((( ( 。 日 本からの使者派遣が趙良弼の構想に出たとしても、果して使者派遣に大宰府守護所が関わっていたならば、守護所の意 図や思惑を考えてみる価値はありそうである。守護所はさきに塔二郎・弥二郎が世祖から受けた接遇を前例として想定 し期待するものの、日本国を代表して元朝に直接対峙するような形だけは必ず避けなければならなかったのであろう。 四 月 庚 寅 (三 日 ( 、 張 鐸 と 日 本 の 使 者 は 高 麗 に 還 り、 同 月 甲 寅 (七 日 ( 、 高 麗 は 康 之 邵 (御 史 ( に 日 本 の 使 者 を 送 還 さ せ た。 五 月 に 張 鐸 は 日 本 に 至った。 こ の 年 二 月 十 三 日 に 高 麗 国 王 が 日 本 国 王 宛 に 国 書 (二 度 目 の 国 書 ( を 送 り 元 朝 と 通 好 するよう説き ((( ( 、五月にも同じ趣旨の書簡が発せられたという ((( ( 。 高麗に留まっていた趙良弼は、至元九年の末に日本招諭のため再び日本に向かった ((( ( 。やはり大宰府守護所に至ったも の の、 日 本 の 国 都 に 入 る こ と は か な わ ず、 翌 至 元 十 年 (一 二 七 三 ( 三 月 癸 酉 (二 十 日 ( 、 高 麗 に 還 り、 同 月 乙 亥 (二 十 二 日 ( に は 高 麗 国 王 か ら 慰 労 さ れ 白 銀 と 苧 ちょ 布 ふ を 贈 ら れ た。 こ の 際、 元 朝 の 高 麗 達 ダ 魯 ル 花 ガ 赤 チ の 李 益 か ら も 贈 物 が あった が、 趙 良弼は「此れは汝が高麗を侵割して得たものだ」と受け取りを拒否した ((( ( 。趙良弼が元廷に帰還したのは六月二十七日で あった ((( ( 。彼が対日交渉のために元朝を離れていた期間は二年半に及んだ。大宰府守護所と難しい折衝を続け、一旦は高 麗に引きあげて張鐸と弥四郎ら日本の使者が元廷と往復するのを見きわめたり、高麗国王を通じて日本への働きかけも (0

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行った。 日 本 滞 在 中 に は 禅 僧 円 えん 爾 に (聖 一 国 師 ( や 南 なん 浦 ぽ 紹 じょう 明 みん (大 応 国 師 ( が 通 訳 に 従 事 し て 双 方 の 意 思 疎 通 に 努 め、 交 流 を深めた。さらに南宋寄りの日本の渡宋僧瓊 けい 林 りん と対決問答したことも知られている ((( ( 。日本に渡る前のことだが、元朝の 金州方面での屯田には対日本政策の上から反対し、帰国後、日本遠征が議に上ったときには、世祖の下問に応えて日本 を攻撃するには及ばずと進言した ((( ( 。 このように見てくれば、趙良弼こそ元朝の使者として日本と交渉らしい交渉を行おうとした人物であることは明らか であり、世祖も彼の功績を大いに認めていた ((( ( 。彼はべつに日本の大宰府守護所に拘束されていたのではなかった。彼の 官位の高さ ((( ( と、推測される一行の盛儀に加えて、なにより携えた国書が従前よりも日本の元朝への遣使を誘導推進すべ く 一 歩 踏 み 込 ん だ 内 容 で あった か ら、 日 本 (鎌 倉 幕 府 ( は 軽 く あ し ら う わ け に は ゆ か な かった。 そ う で な け れ ば 前 述 の ような行動の自在さは見られなかったはずである。 🄴の「高麗林衍叛」と「道梗」の句は、 5に付した『元史』日本伝 にみえる国書中の「高麗権臣林衍構乱」と「中路梗塞」の句に対応することがわかる。国書の後半部分を翻訳してみよ う。 ……ひ き 続 き (こ ち ら は 日 本 に ( 通 問 し よ う と し た が、 た ま た ま 高 麗 の 権 臣 の 林 衍 が 乱 を 構 え、 そ の た め に 果 た せ なかった。王もまたそのせいで取りやめて遣使しなかったのか、あるいは遣わしたが中途で先に進めなくなったの か、 ど う と も わ か ら な い。 そ う で な け れ ば (本 当 に 遣 使 の 行 動 を 起 こ す つ も り が な かった と す れ ば ( 、 日 本 は も と よ り 礼を知る国を標榜している以上、王の君臣がどうして漫然とそのような思慮のないことをするだろうか。近ごろす でに林衍を滅ぼし、王位を復旧し、その民を落ち着かせたので、特に少中大夫・秘書監の趙良弼に命じて国信使に 充て、国書を持参して往かせることとした。もしただちに使者を発してこれと一緒にやって来させるならば、仁者 に親しみ隣国に善くするのが国の美事というものである ((( ( 。もしもぐずぐずと引き延ばし、かくて兵を用いるような 『経世大典』にみる元朝の対日本外交論 (1

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ことにでもなれば、いったい誰がそんなことを願おうか。王はよくお考えあらんことを。 🄴の 文 章 は 彼 の 長 期 に わ た る 粘 り 強 い 努 力 の 跡 を 伝 え る も の で あ ろ う ((( ( 。『経 世 大 典』 に 彼 の 対 日 本 工 作 活 動 を 要 約 し て 記 録 す る に は あ ま り に 複 雑 で 多 端 で あった が 故 に、 そ の 大 宰 府 守 護 所 で の 長 く 困 難 な 交 渉 の 印 象 か ら、 「留 其 太 宰 府 守 護 所 者 久 之」 と、 4の 金 有 成 に つ い て の 表 現 を 借 り た も の と 理 解 し て お き た い。 趙 良 弼 の 遣 使 に 対 し、 結 局 日 本 は 公 式 な 使 者 の 派 遣 を 以 て 応 答 し な かった。 そ れ で も 元 朝 側 は 日 本 が 断 固 拒 絶 し て 不 服 従 (旅 拒 ( だ と 決 め つ け な かった と の 『経世大典』の評価である。 両 次 の モ ン ゴ ル 襲 来 を 経 験 し た あ と の 日 本 で は、 そ れ 以 前 の 両 国 間 の 折 衝 の 努 力 (と く に 趙 良 弼 の 活 動 ( は 意 味 の な いものとされた。かくて少数の日本人による大蒙古国・元朝の都 (中都・大都、今日の北京 ( への訪問の記録は軽んじら れて失われ、やがて人々の記憶からも消え失せてしまったのだろう。 論 点 の 第 四 は、 ⓫ に 付 す『元 史』 日 本 伝 に 対 応 し て い る。 そ こ に「日 本」 と 主 語 が 示 さ れ て い る か ら、 日 本 国 が 商 人 を派遣して金を持ち込んでこれを銅銭と交易しようとしたところ、元朝は寛容にもこれを許可したとの意味であろう。 し か も 🄴に 見 え る よ う に「詔 を 発 し て (日 本 の ( 商 人 を 苦 し め て は な ら ぬ」 と し た。 し か し こ の 詔 (皇 帝 聖 旨 ( の 発 布 を直接に跡付ける関連史料は見出せない。もしも日本国宛ならば、商人を使って利を求めるのではなく入朝して友誼を 通ぜよと諭したことが考えられるが、ここは日本に向けて発した詔ではあるまい。元朝の地方官庁に対するものであり、 第一次遠征後の不穏な両国関係にこだわらず日本商人の交易の希望をかなえて許可した詔と捉えるのが適当と考える。 こ の 記 事 の 至 元 十 四 年 (一 二 七 七 ( と い え ば、 前 年 正 月 に 南 宋 軍 は ほ ぼ 壊 滅 し て 趨 勢 は 決 し、 三 月 に は 元 軍 の 総 司 令 官 伯 バ ヤ ン 顔が都の臨安に入城したように、南宋が滅亡して間もない時期である。そんな折に日本が国家の活動として商人を貿 易のために派遣したなどとは到底考えられない。それを元朝としては民間の商人の自由な活動とは捉えずに、日本に対 (2

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して恩恵を与えるとの姿勢で有利な取引きに応じたものであろ (補注 ( う。 ここで想い起されるのは日本の海商の飽くなき銅銭への希求であり、同時に元朝は征服した旧南宋領から金銀を収取 するに努めていたことである。江南において銅銭の行用を禁止し鈔法を行き渡らせるのもその方針の一環であった ((( ( 。後 世姦臣と非難される宰相阿 ア フ マ ッ ト 合馬の専権の時期であったことにとくに注意する必要があろう。阿合馬の奸党と目された耿 こう 仁が宰相に準ずる参議中書省事から参知政事として宰相の末席に名を列ねたのはこの至元十四年の末であり、やがて彼 は左丞に昇進した。 『元史』巻九四、食貨志、歳課、市舶につぎのようにいう。 (至元 ( 十九年、又用耿左丞言、以鈔易銅銭、令市舶司以銭易海外金珠貨物、仍聴舶戸通販抽分。 (至 元 ( 十 九 年 (一 二 八 二 ( 、 ま た 耿 左 丞 の 言 を 採 用 し て、 鈔 を 銅 銭 に 易 え て、 市 舶 司 に 銅 銭 を 海 外 の 金 珠 な ど の 貨 物に交易させ、なお船舶の所有者にその販売と現物の一部を税として徴収するのを許可した。 耿仁の提言によって、国内で行用を禁止されていた銅銭を海外貿易に活用し、金や真珠などの物資に交易させる政策が と ら れ た。 こ こ に み た 至 元 十 四 年 の 記 事 は そ の 端 緒 を ひ ら い た も の と し て 注 目 さ れ る。 「柔 遠 之 道 至 矣」 の 一 句 は 論 点 の第四の結びであると同時に、 🄴全体の結びでもあり、遠い異域を和らげ懐ける世祖の外交方針を評した言でもあろう。 3 第二次遠征失敗の原因と責任 論評的な記述となっている 🄵の文も四つの部分から成っており、つぎのようである。   (第 二 次 遠 征 で ( 阿 ア ラ ガ ン 剌 罕 が 日 本 に 出 征 す る と き、 天 子 が 諸 将 に 宣 諭 し て こ う 言った。 「一 つ だ け 朕 が 心 配 す る の は、 諸 君 同 士 が 協 調 し な い の で は と い う こ と だ」 。 果 し て、 諸 将 は 尸 かばね を 輿 にな って 帰 る よ う な 大 敗 を 喫 し た ((( ( 。 そ れ で 彼 ら は こ の よ う に 上 言 し た。 「将 校 た ち が 統 制 に 従 わ ず 勝 手 に 逃 亡 し た の で、 兵 士 を 船 に 載 せ て 合 浦 に 至 り、 郷 里 に 還 ら 『経世大典』にみる元朝の対日本外交論 (3

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せ ま し た」 。 敗 卒 の 于 う 閶 しょう な る 者 が 逃 れ 帰 る と こ う 言った。 「省 臣 た ち が 先 に 逃 げ 去 り、 軍 を 五 龍 山 の 下 に 遺 棄 し、 日本に殲滅されました」と。諸将の罪がここで始めて露見した。   昂 ア ン ギ ル 吉児の言うには、 「語に『上下の欲を同じくする者は勝つ ((( ( 』また『兵は気を以て主と為す ((( ( 』といいます。近年、 民は貧しく賦は重く、しきりに水旱が起こっても瀕死のものを救うもままならず、そこに駆りたてて海外遠征を実 行するのでは悲しみ嘆かないものはなく、これでは『上下の欲を同じくする』とはいえません。大軍は東海で挫か れ敗れ、乱れ慌てて意気阻喪し、人々は闘う意欲をなくし、いわゆる気を以て主と為すどころではありません」 。 第一は日本への進発に際して世祖の懸念する言葉、第二は帰還した将軍の報告、第三は遅れて帰還した敗卒于閶の報告、 第四は昂吉児の日本遠征についての意見である。第二次日本遠征は確かに失敗したが、両軍大会戦した末の敗北とは言 い に く い。 知 ら れ る よ う に 成 功 と 失 敗 を 分 け た の は 暴 風 の 害 に よ る と こ ろ が 大 き い か ら で あ る。 昂 吉 児 は こ れ を「挫 ざ 衄 じく 」と表現している ((( ( 。それでも『経世大典』では失敗の原因を自然的条件に帰せず、もっぱら人の行動を論点として取 り上げる。 論点の第一は⓭の文を踏まえているが、まず 🄲の年次についてふれておく。 🄲は日本遠征を実施し失敗した事実を述 べているから「至元十八年」と訂正するのが適当である。しかしなぜ原文に「十七年」とあるかといえば、⓬の日本行 省 (征 日 本 行 省 ( の 設 置 と 人 事 が 十 七 年 だった た め で あ ろ う。 さ て ⓭ は 至 元 十 八 年 (一 二 八 一 ( 二 月 丙 戌 (十 九 日 ( の 遠 征 軍 出 発 ((( ( に 先 立って、 諸 将 を 前 に し て の 世 祖 の 言 葉 (勅 ( で あ る。 ⓭ に 対 応 す る『元 史』 日 本 伝 に よ れ ば、 ま ず 日 本 遠 征の名分が表明され ((( ( 、ついでよその国家を取り他人の土地を手に入れても、人々をすっかり殺してしまっては土地を手 に入れてもどうしようもないと、かねて聞いた漢人の言葉を引用する。ここには遠征先での無用の殺戮を戒める意図が 隠されているとみるべきであろう。最後に世祖が憂慮してやまない懸念が述べられている。⓭に引用されるのはその最 (4

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後の部分であり、遠征の将軍たちの間の不和の問題である。ただ「范文虎新降者也、汝等必軽之」の部分は『元史』日 本 伝 に 見 え ず、 『経 世 大 典』 だ け に 見 え る ス ト レート な 表 現 で あ る。 世 祖 に 早 く か ら 仕 え た 忻 都・ 洪 茶 丘 ら の 将 軍 た ち が新附の将軍たちを低く見ることはありがちであろう。そうであっても海洋を渡って日本に遠征するには旧南宋勢力に 頼らざるを得なかったのである。しかも⓭に対応する『元史』日本伝の末に見るように、世祖は遠征軍が日本と交渉す る 場 面 を 想 定 し、 「仮 に 彼 の 国 の 人 が やって 来 て 卿 ら と 話 し 合 う こ と が あった と き に は、 きっと 心 を 同 じ く し て 協 力 し て話し合い、あたかも一人の口から出るように応答せよ」と、諸将間の不和がその交渉に悪影響を与えないようにと心 配していた。 論点の第二は至元十八年八月の⓮の文に基いている。敵に会わないうちに全軍を失って帰還したのだが、范文虎ら諸 将の報告によれば、大宰府を目ざして進攻しようとしていたところ、暴風で船舶が大きな損壊を被って、将校たちが統 制 を 乱 し て 逃 げ 去った た め 兵 士 を 船 に 載 せ て 合 浦 に 至って 郷 里 に 還 ら せ た と い う。 将 校 と は、 ⓮ に は 厲 れい 徳 とく 彪 ひょう ・ 王 国 佐 の 名 が 見 え る が、 『元 史』 日 本 伝 に は 万 戸 厲 徳 彪・ 招 討 王 国 佐・ 水 手 総 管 陸 文 政 の 三 名 が 現 場 に お い て 責 任 の あった 者 と さ れ て い る。 つ ま り 本 格 的 に 戦 端 を ひ ら く 前 に 引 き あ げ た と の 言 い 方 で あ る ((( ( 。『元 史』 世 祖 紀 に は 遠 征 軍 主 力 の 帰 還 についてつぎのように伝えている。 (至 元 十 八 年 八 月 壬 辰 ( 、 詔 征 日 本 軍 回、 所 在 官 為 給 糧。 忻 都・ 洪 茶 丘・ 范 文 虎・ 李 庭・ 金 方 慶 諸 軍、 船 為 風 濤 所 激、 大失利、余軍回至高麗境、十存一二。 (至 元 十 八 年 八 月 壬 辰(二 十 九 日 (( 、 詔 し、 征 日 本 軍 が 回 かえ った の で、 所 在 の 官 が 糧 食 を 供 給 し て や る よ う に し た。 忻 都・洪茶丘・范文虎・李庭・金方慶の諸軍は、その船が風濤に激しくうたれて、大敗を喫し、残余の軍で高麗の国 境まで回り着いたものは全体の一、二割であった。 『経世大典』にみる元朝の対日本外交論 ((

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論点の第三は⓯の文に基き、遠征軍の本隊から置き去りにされた末にようやく脱出帰還を果した江南出身の敗残兵于 閶なる者の生々しい証言であり、従来よく知られた史料である。ここに取り上げている『経世大典』の記録が節略され た短文の引用が多いなかで、⓯は『元史』日本伝と重なって比較的長文の引用となっている。第二次遠征の失敗の真相 を伝えるものとして尊重されているからであろう。范文虎らの報告自体には大筋において誤りはなかったとはいえ、遅 れてもたらされた于閶の報告は衝撃的なものであった。十余万人が島に残され、食糧もなく統率者もない状態で三日が 経過し、ようやく衆議により張百戸なるものを首領として帰還を図ろうとしていたところ、日本人の襲撃に遇い、戦死 を免れたもの二、三万人が捕虜として博多に連行された。そこでは蒙古人・高麗人・漢人は殺害されたが、旧南宋の新 附軍は日本人によって「唐人」と見なされて奴とされた。于閶はそこから逃れて帰ってきたのだった。本隊が撤退して 孤立に陥った状況を伝える「無食無主者三日」の表現は『経世大典』だけに見える。文中「平壷島」は平戸、 「八角島」 は博多である。 🄵にも見える「五龍山」は鷹島であるという ((( ( 。于閶にやや遅れて莫青と呉万五の二人が帰着した。本隊 に 取 り 残 さ れ て 辛 酸 を な め て 帰 還 し た 三 人 で あった。 そ の あ ま り に 悲 惨 な 印 象 が「十 万 之 衆、 得 還 者 此 三 人 耳 (也 ( 」 の 表 現 を 生 ん だ の で あ ろ う ((( ( 。 范 文 虎 ら 省 臣 (征 日 本 行 省 臣 ( が 先 に 撤 退 し て 多 く の 兵 を 置 き 去 り に し た あ と の 状 況 に つ いて于閶の証言があって、将軍たちの罪がはじめて暴露 (暴著 ( されたとは『経世大典』の評言である。 また『元史』巻一六五、張禧伝も暴風に遇った遠征軍の混乱を伝えていう。 (至 元 ( 十 七 年、 加 鎮 国 上 将 軍・ 都 元 帥。 時 朝 廷 議 征 日 本、 禧 請 行、 即 日 拝 行 中 書 省 平 章 政 事、 与 右 丞 范 文 虎・ 左 丞李庭同率舟師、泛海東征。至日本、禧即捨舟、築塁平湖島、約束戦艦、各相去五十歩止泊、以避風濤触撃。八月、 颶 風 大 作、 文 虎・ 庭 戦 艦 悉 壊、 禧 所 部 独 完。 文 虎 等 議 還、 禧 曰、 「士 卒 溺 死 者 半、 其 脱 死 者、 皆 壮 士 也、 曷 若 乗 其 無 回 顧 心、 因 糧 於 敵 以 進 戦。 」 文 虎 等 不 従、 曰、 「還 朝 問 罪、 我 輩 当 之、 公 不 与 也。 」 禧 乃 分 船 与 之。 時 平 湖 島 屯 兵 (6

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四千、乏舟、禧曰、 「我安忍棄之。 」遂悉棄舟中所有馬七十匹、以済其還。至京師、文虎等皆獲罪、禧独免。 張 禧 は (至 元 ( 十 七 年 に、 鎮 国 上 将 軍・ 都 元 帥 を 加 え ら れ た。 そ の 当 時、 朝 廷 で は 日 本 を 征 伐 す る こ と が 議 せ ら れ、 禧は自分も行こうと請うて、即日に行中書省平章政事を拝命し、右丞范文虎・左丞李庭とともに舟師を率いて、海 に泛 うか び東征した。日本に至ると、禧はさっそく上陸し、砦を平戸に築き、戦艦を統制して、それぞれ五十歩の間隔 をあけて停泊し、風濤の衝撃を避けようとした。八月、暴風が大いに作 おこ り、文虎と庭の戦艦はみな損壊したが、禧 が 統 率 す る も の だ け は 無 事 で あった。 文 虎 ら が 帰 還 を 議 し た と き、 禧 が こ う 言った。 「士 卒 で 溺 死 し た 者 が 半 ば と はいえ、死を脱した者はすべて壮士なのだから、ここは兵に後ろを顧みる気がないのに乗じ、敵中に糧を求めて前 進して戦うのが一番だ」 。文虎らはそれに従わずこう言った。 「帰朝して罪に問われる時には自分が矢面に立つから、 公 は 関 与 せ ず と も よ い」 。 禧 は そ こ で 自 分 の 船 を 分 け 与 え た。 そ の 時、 平 戸 に は 兵 四 千 を 駐 屯 さ せ て い た が 舟 が 不 足していた。禧はどうして彼らを遺棄できようものかと言って、かくて舟中の馬七十匹をすべて棄てて兵の帰還を 成し遂げた。京師に至って、文虎らはみな罪を得たが、禧だけは罪を免ぜられた。 范文虎が戦闘を回避して日本を離れる時点ですでに失敗の責任を自覚していたことがわかる。李庭も同じく責任を免れ ないところであろう ((( ( 。行中書省平章政事であった張禧は諸将とは異なり罪を免れたという。しかし范文虎らが実際どの ような罪にあてられたかを伝える史料を見出せない。民国期の屠寄『蒙兀児史記』巻一一二、范文虎伝には『元史』張 禧伝を引きながらつぎのようにいう。 初議班師、張禧曰、 「士卒溺死過半、其脱死者、皆壮士也、易若乗其無返顧心、因糧於敵以進戦。 」文虎不従、曰、 「還朝問辜、我自当之。 」及帰、文虎以遇風之状奏、汗竟不之辜。 後世の解釈ではあるが、范文虎は大風に遇った状況を奏上し、敗戦の責任と処罰については「汗、竟 つい にこれを辜 つみ せず」 『経世大典』にみる元朝の対日本外交論 (7

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とあるように、降格はされたであろうが、刑罰が適用されるまでのことはなかったと推測される。范文虎はのちに江南 の諸叛乱討伐に従事するなどして武官としての生涯を終えている。 論 点 の 第 四 は ⓰ の 文 に 基 く と み ら れ る。 す な わ ち 至 元 二 十 年 (一 二 八 三 ( の 淮 西 宣 慰 使 昂 ア ン ギ ル 吉 児 の 意 見 で あ り、 字 数 で いえば 🄵の文の半ばを占める。しかもこの部分は例外的に『元史』日本伝には対応せず、つぎに掲げる同書巻一三二、 昂吉児伝と相互に補うところがある ((( ( 。 日 本 不 庭、 帝 命 阿 塔 海 等 領 卒 十 万 征 之、 昂 吉 児 上 疏、 其 略 曰、 「臣 聞 兵 以 気 為 主、 而 上 下 同 欲 者 勝。 比 者 連 事 外 夷、 三 軍 屡 衄、 不[可] 以 言 気、 海 内 騒 然、 一 遇 調 発、 上 下 愁 怨、 非 所 謂 同 欲 也、 請 罷 兵 息 民。 」 不 従。 〔既 而 師 果 無 功。 〕 日本が元朝にまつろわないので、帝は阿 ア タ ハ イ 塔海らに命じて兵卒十万を率いて征討させようとした。昂吉児が上疏した。 そ の 概 略 は 以 下 の よ う だった。 「臣 が 聞 く と こ ろ で は、 兵 は 気 を 以 て 主 と 為 し、 上 下 の 欲 を 同 じ く す る 者 は 勝 つ と いいます。このごろしきりに外夷征討を行って大軍は屡々敗北し、とても気どころではなく、国中が騒然たる状況 です。ここで一たび征討に伴う徴発に遇おうものなら上下のものが嘆き怨み、いわゆる欲を同じくするものではあ りません。どうか派兵を中止し民を休息させていただきたい」 。従わず。 〔かくて遠征軍は成功せずじまいだった〕 。 第三次日本遠征計画については、 『元史』巻一二、世祖紀にいう。 (至元二十年五月甲子 ( 、立征東行中書省、以高麗国王与阿塔海共事。給高麗国征日本軍衣甲。 高麗との連携を前提として計画されたから、この記事は当然『元史』高麗伝にも載せられている。征東行省は征日本行 省 (日 本 行 省 ( と も 称 さ れ た。 ⓰ に み る よ う に、 日 本 行 省 の 人 事 が 発 表 さ れ、 十 万 人 規 模 の 遠 征 軍 が 組 織 さ れ よ う と し た の に 危 機 感 を 覚 え て、 昂 吉 児 は 緊 急 提 言 し た。 彼 の 日 本 遠 征 中 止 提 言 は 民 の 過 重 な 負 担 (民 労 ( を 理 由 と し て い た。 (8

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し か し 彼 の 提 言 は そ の 時 に は 世 祖 に 受 け 入 れ ら れ な かった。 ま た『孫 子』 な ど を 引 用 し て 説 く と こ ろ は 戦 争 に お け る 上 下 不 一 致 や 闘 志 (士 気 ( の 問 題 で あ る。 『経 世 大 典』 の 編 者 は こ こ に 着 目 し て、 第 二 次 遠 征 の 不 幸 な 結 末 と 関 連 づ けて 🄵の末尾に挿入し、前段部分を承けての締めくくりとしたのであった。 なお『元史』昂吉児伝に上疏の記事に続けて「既而師果無功」とあるのには問題がある。これでは第二次遠征以前の 提 言 の 如 く に み え る が、 そ う で は な く、 六 字 は 削 除 す べ き と こ ろ で あ る。 『蒙 兀 児 史 記』 巻 九 六、 昂 吉 児 伝 に は 上 疏 の あ と に、 「行 省 尋 罷、 師 亦 不 出 (行 省 尋 つい で 罷 め ら れ、 師 も 亦 た 出 で ず ( 」 と 文 章 を 付 け 加 え た う え で、 「旧 伝 に『既 に し て 師果して功無し』と云うは、語意誤る」と注している。 『経 世 大 典』 日 本 の 記 事 に は 昂 吉 児 の 名 が 四 箇 所 も 見 え て い る。 🄳の 前 段 に は「 (至 元 ( 二 十 年、 阿 塔 海 復 以 十 万 人 往、 而昂吉児上言、民労、乞寢兵」とあり、後段にはつぎのようにある。 上亦謂、 「日本未嘗相侵、而交趾犯辺、宜置日本、専事交趾。 」 遂罷征、日本人竟不至。 世 祖 は や は り こ う 言った。 「日 本 は 未 だ 嘗 て 侵 攻 し て き た こ と は な い が、 交 趾 は 我 が 辺 境 を 犯 し て い る の だ か ら、 こ こ は 日 本 は さ し 置 き、 専 ら 交 趾 を 相 手 に す る の が よ い」 。 か く し て 日 本 遠 征 を 取 り 止 め た。 日 本 人 が やって 来 る ことはなかった。 つまり 🄳の前段と後段を関連づけて読まれかねない文章になっている。しかし後段は⓲に対応していて、至元二十三年 (一 二 八 六 ( で あ る の は 明 ら か で あ る。 従って 事 態 の 推 移 の 次 第 か ら す れ ば、 世 祖 が 日 本 遠 征 よ り も 交 趾 遠 征 を 優 先 し ようとしたのは昂吉児の提言に従ったわけではなかった。 『元史』巻一四、世祖紀にいう。 (至元二十三年正月 ( 甲戌、帝以日本孤遠島夷、重困民力、罷征日本、召阿八赤赴闕、仍散所顧民船。 (至 元 二 十 三 年 正 月 ( 甲 戌 (七 日 ( 、 帝 は、 日 本 は 遠 く 離 れ た 島 夷 で あ り、 (こ れ を 相 手 に し て い て は ( 民 力 を ひ ど く 苦 『経世大典』にみる元朝の対日本外交論 ((

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しめるので、日本を征討するのを罷め、阿 ア バ チ 八赤を召喚して闕に赴かせ、なお顧った民船を解散させた。 世祖が日本遠征中止を宣言したのは至元二十三年初頭であり、これは前年に劉宣の上奏があったのを承けての最終決定 であった。日本に対して軍事力を行使するのをやめたこと、その帰結として日本国からの使者派遣と通好が世祖期にお いてついに実現しなかったことを強く意識するが故に、 🄳の末尾に無くもがなの「日本人竟不至」の句が挿入されたの である。この句は ⓴の末尾にも見え、 『元史』日本伝全体の末尾の句でもあるから⓴が定位置というべきである。 昂吉児は西夏の将軍の家に生まれた。父は太祖チンギスに仕え、その後を継いだ彼も世祖の信任厚く、権臣阿合馬一 党の不正をも直言できた人物であった。世祖は時に直言してやまない昂吉児に憤りを覚えても、最後には彼の純粋さを 認めていた ((( ( 。第三次遠征計画の中止を求める意見は他にもあったにもかかわらず、彼の名が『経世大典』に残されたの はやはり世臣としての評価が高かったからであろう。      『経世大典』日本の記述はつぎのような 🄷の文で締めくくられる。   あゝ、世祖が文武により天下を経営し四海を略定したこと、人物を見きわめる明察ぶり、謙虚でありながらその 徳がおのずと輝く度量、成宗がよく満を持したこと、昂吉児の正しい言葉、日本遠征の諸将の罪責、そして日本は みずから天子が天下に君臨するのを拒絶したこと、これらはみな後世に伝えおくべきことだ。 全体として偉大な世祖皇帝の事績の顕彰に主眼がおかれた記述であった。日本は惜しいことに、そうした皇帝の聖徳光 被の機会をみずから捨て去ったとの結論になっている。 本 稿 で は ま ず は『経 世 大 典』 の 論 法 に 添 い つ つ 整 理 し て き た。 『経 世 大 典』 の 記 述 は 必 ず し も 緻 密 に 書 か れ て い な い 100

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箇所もあり、正確な意味で反省や論評とは言えない面もあった。大元帝国としての一方的な先入観や価値観に貫かれて いることもけだし当然であろう。対象とする日本の事情に立ち入って顧慮するところもあまりない。主として交通の困 難 に 起 因 す る 情 報 伝 達 の 不 備 や 遅 滞 な ど、 当 時 の 困 難 な 制 約 の も と で 両 国 間 の 認 識 の す れ 違 い (ミ ス コ ミュニ ケーショ ン miscommunication ( 、 あ る い は ミ ス コ ミュニ ケーション 以 前 と も い う べ き 諸 事 象 を 見 出 す。 元 朝・ 高 麗・ 日 本 の 間 に 生起した対立や衝突や戦役について考察しようとする場合、従来、時として正邪の決めつけを免れないこともあったか に見える。筆者の関心としては、努めてそうした予断を解きほぐし脱して、東アジアの歴史的環境のなかで諸国の人々 がいかに考え行動したかを明らかにしたいと考えている。 ( 1( 池内宏『元寇の新研究』一九三一、東洋文庫。 ( 2(「モ ン ゴ ル 国 国 書 の 周 辺」 (『史 窓』 第 六 四 号、 二 〇 〇 七 (、 「第 二 次 日 本 遠 征 後 の 元・ 麗・ 日 関 係 外 交 文 書 に つ い て」 (『東方学報』第九〇冊、二〇一五 (、参照。 ( 3(『元史』巻三二、文宗紀天暦二年九月戊辰条にいう。 勅翰林国史院官同奎章閣学士采輯本朝典故、準唐・宋会要、著為経世大典。 ( 4( 治 典・ 賦 典・ 礼 典・ 政 典・ 憲 典・ 工 典 は 六 部 の 吏・ 戸・ 礼・ 兵・ 刑・ 工 に 対 応 す る か ら、 こ の 日 本 に つ い て の 叙 述 は 当然ながら、兵事として扱われたものである。 『経世大典』にみる元朝の対日本外交論 101

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