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No 年9月3日 マタイ12章43〜45節「闇から光へ 〜聖霊のダイナミックな介入を求めて〜」

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Academic year: 2021

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2017 年9月3日(日)「闇から光へ

〜聖霊のダイナミックな介入を求めて〜

マタイ 12:43-45 43 汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つ かりません。 44 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいて いて、掃除してきちんとかたづいていました。 45 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほ かの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の 状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。 【序論】 12 章に入ってからずっと、パリサイ人・律法学者と主イエスの問答を学んできまし た。今日でこの一連の問答に一旦終止符が打たれるのですが、ここで主イエスによる一 つの評価が下されます。主は「邪悪な時代」(45 節)と評される。「時代」という言葉 が使われていますが、それはパリサイ人たちに代表される「時代」ということでしょう。 私たちも今という時を生きる者として、この時代を評価し、同時に何らかの責任を果 たさなければなりません。その生き方は、私たち自身が最終的に神によってどう評価さ れるかに繋がっているのです。 【本論】 本論1.二つの解釈 さて、今日の箇所は少々謎めいていると言いますか、前後の箇所との繋がりがやや分 かりにくく感じられます。38 節で「しるしを見せよ」と要求してきた人々に対し、主 イエスはニネベの町の人々と南の女王を引き合いに出して、ユダヤ人たちをこれらの異 邦人以下であると言われました(12:38-42)。そして、今日の箇所に続くのですが、急 に悪霊の話が出てくるのに読者は戸惑いを禁じ得ません。少なくとも私は読んでいてよ く分かりませんでした。ですが、よく学んでみますと、この譬(ある人から出て行った 悪霊が他の七つの霊を連れて帰ってくる話)は、一つの「時代」に起きることを言い表 しているようなのです。ですから、本来は 38 節から続いている内容であって、当初は この箇所だけを切り離すべきかどうか迷いました。しかし、43 節以下を丁寧に学ぶこ とは意味があると判断し、敢えて二回に分けたのです。

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この箇所の解釈は二つの方法でできると思われます。第一に、文脈に沿って、「時代」 に対する警告として読むこと。つまり、悪霊云々の話は一つの例話として語られている と見ることができるでしょう。第二に、この箇所を文脈から取り出し、実際に悪霊がこ こで語られるように個人に対して行動すると読む。本来はこのような読み方は望ましく ないかも知れませんが、私たちは霊的な世界で起きていることを知らなくてはなりませ んので、敢えてこの解釈も取り上げてみたいと思います。ですから、今日は二つの解釈 を関連づけて、時代と個人へのメッセージとして、主イエスの御言葉に耳を傾けてまい ります。順序としては、第二の解釈、実際に悪霊がどう行動するかを見ていくことが先 決でしょう。 本論2.一時的な悪霊離れ 汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つ かりません。(12:43) 「汚れた霊」(τὸ ἀκάθαρτον πνεῦμα)と訳されている言葉は、本質的に悪霊を指しま す。悪霊は人間を住処とし、その人の思いを神に対立するものとする。悪魔がやりたい ことは、人間を神から引き離すこと。その手下どもはそれを実行に移します。悪霊の働 きはあらゆる人間に及んでいますが、その現れ方には違いがあります。霊的な事柄とは 無縁に見える人もいますが、その人は盲目にされている可能性もあるでしょう。実は悪 魔は、人がその存在に気づかないでいること自体をも喜ぶのです。その反対に、霊的な 世界に興味を抱くあまり、悪霊と仲良しになってしまう人もいる。占い、オカルト、ポ ルノ、ホラー等への興味は危険であり、それらにのめり込んでいくと、いつしか常人離 れした能力を持つようになる場合もあります。そのことを一方で喜びながら、他方では 恐ろしい体験をしているのです。クリスチャンは悪霊と無縁かと問われる時、ある意味 では無縁であり、ある意味では無縁ではないとお答えします。クリスチャンは神の光の 中に捉え移された存在ですから、その人の中で闇は同居できないのです。その本質にお いて、クリスチャンは光の子にされている。しかし、悪霊は尚も外側から攻撃を仕掛け、 クリスチャンに罪を犯させようとしています。そして、罪を犯すと、その人の救いの確 信が揺らいでしまう。更に悪いことに、悪魔はクリスチャンの心を頑なにし、福音に生 きない状態にしていく。これが進んでいきますと、その人は危険な状態になっていくで しょう。ルターは仕事部屋で、自分にまとわりつく悪魔の存在に気づき、壁にインクの 壺を投げつけたと言います。私たちは確かに、悪しき者の存在にふと気づくことがある。 あるいは、何らかの脅かしに遭って恐怖に陥ることもあるでしょう。

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さて、43 節では、ある人に棲みついていた悪霊が、何かのことで出て行ったと言わ れています。これは注意深く読まなくてはなりません。通常、福音書を読んでいますと、 悪霊は主イエスの権威によって追い出されているのです。ところが、ここでは悪霊が自 らの意志で出て行ったように書かれています。これがどういう状態なのか、明確なこと は分かりませんが、「休み場を探す」と言われているように、悪霊にも彼らの仕事から の小休止が必要なことがあるのでしょう。想像するに、棲みついている人間がある程度 悪くなったところで、「しばらくは放っておいても大丈夫だろう」と考えて休憩するよ うなものかも知れません。 「水のない地」とは、荒野のことだと思われますが、彼らにとっての安住の地が人間 であるとするならば、他に棲みつくべき人間を探し求めている状態でありましょう。し かし、その悪霊はあちこち探し回ったが、どこも既に先客がいたのか、入り込むことが できなかったようです。 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除し てきちんとかたづいていました。(12:44) 仕方なく元の住処に戻ってきた悪霊は、変わり果てた様子に驚きます。「掃除して」「き ちんとかたづいていた」(直訳:「飾りをつける」「秩序を正す」)という表現があります が、これは一時的にその人が倫理的にましな状態になったことを意味するでしょう。 我が家にも時々「朝起会」という会の勧誘が来るのですが、どういう会なのか調べて みますと、宗教を謳ってはおらず、その理念自体は良いことを知りました。午前5時か ら「朝の誓」を唱和し、会長の著書を読む「御本読み」、会員が体験談を語る「演談」、 講師によるまとめがあります。「朝の誓」では、次のような誓が読み上げられる。 ・ 今日一日 三つの恩を忘れず 喜んで進んではたらきます ・ 今日一日 人の悪をいわず 己の善を語りません ・ 今日一日 気付いたことは 身がるに直ぐ行います ・ 今日一日 腹を立てず 不足の思いをいたしません ・ 今日一日 三つの無駄を排し 新しく大地に生き貫きます 実際、ここで言われていることは良いことばかりです。人間が元々持っている悪い性質 に打ち勝ち、正しく生きようとしている思いの表れと言えましょうか。しかし、そこに はどうしても限界があるのです。自分の決意や意志ではどうにもならない、根本的な罪 の問題を抱えたままでは、人は真に変わることができません。 今日の箇所の「一時的に倫理的にましな状態になった人」というのは、規律を正して 生きる努力を始めたことによって、ある程度秩序立った生き方ができるようになったこ とを言っているでしょう。悪霊の影響が少ない時にそうなったのかも知れません。

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本論3.空っぽの状態の危険性 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそ こに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。 (12:45a) 元々その人の内に棲んでいた悪霊は、部屋があまり綺麗になっているので、気に入らず、 仲間を呼びに行きます。「七つの霊」という言及がありますが、「七」という完全数が意 味することは、悪霊が完全にその人を掌握するということです。その人は単に元の状態 に戻ったのではなく、もっと多くの悪霊を宿し、もっと多くの種類の罪を犯すようにな ってしまった。 さて、主イエスはこれをあくまでも「譬」として語られたのですが、私はこのような ことは実際に人に起き得ることだと理解しています(必ずそうなるということではあり ません)。悪霊を追い出してもらった人が、再びもっと多くの悪霊に憑かれるというこ とがあるのです。私はどうしてこういうことが起きるのだろうかと、疑問に思ったこと がありました。その理由は、御言葉によってのみ分かることなのですが、その人が一種 の「空っぽ」の状態になり、それがかえってあらゆる攻撃の的になる可能性を作り出し てしまうからです。このことを二つの言い方で説明することができるでしょう。 第一に、その人の悔い改めが不完全であるということ。重大な罪を犯した人が、こう 言うのを聞いたことがあります。罪の告白をし、「本当にひどいことをしちゃいました」 「でも恵みがありますからね」と。本当に罪を悔いているならば、その場で「恵みがあ る」などと言うことはできないでしょう。罪を相変わらず軽く見ているのです。すると、 追い出された悪霊は帰ってきます。もっと多くの仲間を引き連れて。 第二に、その人は「空っぽ」の状態でいてはならず、聖霊に満たされなくてはならな いということです。今日の箇所をよく読んでみましょう。彼はダイナミックな神の介入 を受けていないのです。彼を本当の意味で悪の支配から解放するための新しい力が宿っ ていない。人が自らの力で聖くなろうと努め、ある種の霊的欠乏状態に陥った時、その 人は別の何かを求めるようになります。そこに、待ってましたとばかりに大勢の悪霊が 飛び込むのです。 一時は求道に励んでいた人が、手の平を返したように、悪い言葉を使い始めるという ことがあります。導く側は驚きを禁じ得ないのですが、恐らくその人の中では、今日の 箇所で主イエスが言っておられるようなことが起きているのでしょう。道徳的教訓や修 練によって良くなったかに見えた人が、反対に転がり出すこともあります。

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【展開】 以上が、個人的な意味における悪霊の影響でした。しかし、主はこのことをあくまで も「時代」を説明するために語って来られたのです。 邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。(12:45b) 主イエスが対話をしている相手はパリサイ人・律法学者でした。これらの人々の性質を もう一度思い起こしてみたい。彼らの生き方は、まさしく自らの力で正しく生きようと する道、自己義認の道であります。自分の身から汚れを排除する徹底した生き方は、行 き過ぎにより、隣人を排除する生き方へと進んでしまいました。そこに生じた差別は、 人を愛し給う神の御旨にかえってそぐわないものとなってしまったのです。彼らはユダ ヤ教を異教から区別し、国家権力からも守りました。偶像礼拝とヘレニズム文化から、 自らを遠のけました。しかし、その結果、彼らは救い主までも排除してしまった。彼ら が生み出したユダヤ宗教は一面「空っぽ」であり、形式主義や律法主義という新たな罠 がその背後に潜んでいたのです。主イエスがここまで語ってこられた「悪霊の譬」は、 あらゆるものを排斥してきたが、主イエスご自身を受け入れない彼らの末路を言い表し ています。追い払うだけでは不十分であり、聖霊に満たされなければならないのです。 【結論】 もう一度、私たち自身に目を向けてみましょう。私たちが信仰を告白した時、ダイナ ミックな神の介入を受けたか。その心を開いて、聖霊に満たされたか。中途半端に、罪 と手を繋ぎながら生きてはいないだろうか。私たちの主人はキリストであると心に誓い ましょう。人は二人の主人に仕えることができません。私たちの生き方を根底から造り 変えることのできる方、私たちを全き光の中に導き入れることのできるイエス・キリス トだけを仰いで、この人生を歩み抜きたいと思います。

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【祈り】 人を新たに造り変え給う、天の父なる神様。人間は正しくありたい、不安から解放さ れたいという願望により、道を探し求め、何らかの宗教に辿り着くことが多いです。し かし、その辿り着く先がふさわしくない場所であることもあります。自らの力で変わろ うとし、益々自分に失望することもあります。聖書は、聖霊のダイナミックな介入が不 可欠であると教えています。私たちは中途半端に神に結びついているということはない でしょうか。罪を軽く見てはいないでしょうか。どうか、真の悔い改めと、聖霊の満た しとを受けることができますように。今、ここに集う一人一人に働きかけ て下さい。 【祝祷】 仰ぎ願わくは、 天地創造のごとく、人を新たに造り変え給う、父なる神の愛。 悪しき者の入る隙を与えず、ご自身の霊によって我らを満たし給う、主イエス・キリス トの恵み。 人を闇から光へと完全に捉え移し、永遠と わに内在し給う、聖霊の親しき交わりが、 あなたがた一同の上に、限りなくあらんことを。

参照

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