新 潟 県 中 越 地 震
体 験 記
平成 16 年 10 月 23(土)午後 5 時 56 分ころに川口町を震源とするマグニチュード 6.8 の新潟県中越地震が 起こりました。川口町の震度は 7、長岡市内の震度は 6 弱と発表され、長岡高専付近は 6 強と推定されています。 本震後1時間以内に6弱の地震が 2 回、5弱以上が 6 回も起こりました。その後も、長い余震が数ヶ月続き、 震源の魚沼丘陵から連なる東山丘陵にある本校の土地、建物も大きなダメージを受けました。 1カ月以上の休学のあと、平成 16 年 12 月 6 日に専攻科生と5年生は長岡技大で、平成 17 年 1 月4日に1 年から 4 年生は使える教室で授業再開、土曜日も返上し 3 月末ぎりぎりに卒業式も済ませることができました。 その後、災害復旧が精力的に行われ、平成 18 年 5 月には建物関係が、10 月には全ての復旧工事が終了しました。 地震から 2 年弱の間、多くの苦労がありました。 地震後、授業が再開され、私は環境都市工学科の本科 1 年から 5 年まで各学年に授業があり、専攻科の授業 は他科の学生も受けていました。授業内容とは関係なく、再開後の授業で今回の地震について、体験したことを 書いてもらうことにしました。場所、時間、環境が違う所で、どんなことが起こっていたのだろう、そして私自 身の経験したことと同じなのか、違うのかと興味もありました。学生諸君にも改めて地震について考えてほしい と思いました。軽い気持ちでレポートしてもらいましたが、いざ、多くのレポートを見せてもらい、貴重なすば らしい記録の内容を、私だけが持っているのはもったいない気持ちが昂じてきました。「現在を正確に記録する のは今生きている人の責任であり、義務である」ということを思い出し、ひとつにまとめて他の方にも見てもら おうと思い立ち、校長先生始め、教職員の一部の方にも声をかけ、貴重な文を寄稿していただくことができました。 以下のような内容になっています。 教職員 1:高田校長、地震当時の学生主事の近藤先生、寮務主事の緒方先生、図書館の久保田さん、高橋さんか らの寄稿。そして地震で脱線したあの新幹線に乗車されていた国語の今野先生、そして本校卒で長岡 技大の高橋先生から、生々しい体験を書いていただきました。 教職員 2:当時、教務主事で苦労された塩野先生はじめ、特に被害が大きく建物が壊れた 3 号館の環境都市工 学科の教職員の皆様からの寄稿です。 学 生 1:地震当時は中学生で、本校に入学し、地震から 1 年後の平成 17 年 11 月にテーマ「新潟県中越地震」 で提出してもらいました。 学 生 2:地震当時、本科 1 年で、授業再開後の平成 17 年 1 月にテーマ「新潟県中越地震について」で提出し てもらいました。 学 生 3:地震当時、本科 3 年で、授業再開後の平成 17 年 1 月にテーマ「新潟県中越地震について」提出して もらいました。 学 生 4:地震当時、本科 4 年で、授業再開後の平成 17 年 1 月にテーマ「新潟県中越地震について」提出して もらいました。 学 生 5:地震当時、専攻科 1 ∼ 2 年で、授業再開後の平成 17 年 1 月に提出してもらいました。 長岡工業高等専門学校 環境都市工学科
佐 藤 和 秀
はじめに
はじめに
教職員1 ……… 3
教職員2 ……… 18
学生 1 ……… 35
学生 2 ……… 55
学生 3 ……… 77
学生 4 ……… 98
学生 5 ………118
おわりに
目 次
教職員
その
瞬間
と
き
新潟県中越地震体験記 3 1.はじめに 佐藤和秀先生から「中越地震の被災体験文集を纏 めるので原稿を」との依頼を受けたのは随分前のこ とです。原稿提出が大幅に遅れて、先生には大変な ご迷惑をかけてしまいました。お詫び申し上げます。 文集の完成を心待ちにしていた卒業生や在校生も多 いと思いますが、皆さんにも心からお詫びいたします。 本校では被災から復旧完了まで丸 2 年を要したわ けですが、いまも私の心に強く残っていることは、 学生諸君が長期にわたった極めて困難な学園生活を 見事に耐え抜いたという事実です。去る 5 月に、本 校の被災記録として「震災を乗り越えてー教育研究 の正常化・復興への歩みー」が刊行されております ので、詳細はそちらに譲るとして、本稿では、この ような高専生を誇りに思う気持ちと、非常時に一致 結束して事に当たった教職員諸氏に対する感謝の気 持ちを含めて、今一度、復旧までの道のりを振り返っ てみたいと思います。 人間の記憶の風化は意外と速いものです。しかし、 これを放置し備えを怠ることは次の災害時には人災 に繋がるとも言え、その対策の一つとして、さまざ まな切り口で体験を記録に残すことが大切と云われ ております。このような意味で、この文集も貴重な 記録として意義深いものになると思います。 2.新潟県中越地震の特徴と本校施設の被害 平成 16 年 10 月 23 日(土)午後 5 時 56 分頃に発 生した新潟県中越地震は本振で最大震度 7(長岡市 役所での計測値は震度 6 弱)を記録し、その後も強 い余震が何度も繰り返して襲ってきました。専門家 はこの地震の特徴として、一つに、長期間にわたっ て強い余震が続いたこと(12 月 28 日までに震度 5 弱以上が 18 回)、もう一つは、阪神淡路大震災に見 られた都市型災害と異なり、山地被害と自然の地形 に人工の手を加えた場所や地盤の境界部分で被害が 多く見られたことを挙げています。長岡高専は震源 となった断層に連なる丘陵地に立地しており、この 特徴が如実に現れました。すなわち、本校の敷地は 丘の頂部を削りその土砂で周囲を埋め立てて造成さ れており、周囲はのり面ないしは擁壁で囲まれてい る上に盛り土部分が地面の 40%強を占めています。 このため、のり面や擁壁と、盛り土部分に建てられ た施設に特に大きな損傷を受けたのです(写真 1)。 3.不幸中の幸い 地震発生が土曜日の夕刻であったことは我々に とって誠に不幸中の幸いでした。当時、校内には寮 生を中心に 200 名ほどが居ましたが、駆けつけた教 職員により程なく全員の安否が確認されました。人 的被害は、負傷した学生 2 名(軽傷)、教員 1 名(3 ヶ 月の負傷)であり人命にかかわる負傷はなかったの です。 高専は学生寮、教室ともに収容人員の密度が比較 的高いことから、もし、就寝中や授業中の地震であっ たならどのような事態になったか、寮の居室や校舎 内部の被害状況を見て戦慄を覚えざるを得ませんで した(写真 2、写真 3)。 また、地震後の数日間、天候が良かったことも幸 いの一つでした。このため、体育館に避難していた 学生の健康に大きな問題が生じることなく、帰宅も 比較的順調に進み、10 月 25 日(月)には全員の帰 宅が完了しました。初めての地震体験に動転してい た留学生 12 名についても同日中に、余震が無い新 潟大学国際交流会館(新潟市)に収容していただく
新潟県中越地震を振り返って
― 長 岡 高 専 の 体 験
―
高 田 孝 次
教 職 員
1
4 新潟県中越地震体験記 ことが出来ました。 この年の冬、人々の願いも空しく中越地方は 20 年ぶりといわれる豪雪に見舞われ、復旧事業や避難 生活に大きな困難を強いられたわけですが、本震そ のものが降雪期でなかったことも不幸中の幸いでし た。国土の広い範囲が豪雪地に指定されている日本 で、降雪期の地震に対する防災・減災についての研 究の必要性が改めて指摘され、現在、幾つかの機関 で研究が行われていると聞きます。 4.全学生の安否確認 被災後、直ちに臨時休校の処置を取り、その周知 と全学生の安否確認に入ったのですが、作業は困難 を極めました。特に、家族と共に避難所など自宅か ら離れて移動している学生の把握に時間を要しまし たが、高専機構本部からの応援を得て、10 月 29 日 にこれも完了しました。結果は、前記の寮生 2 名以 外に負傷者は無く、教職員一同、安堵の胸をなでお ろしたのです。 ここで、高専のクラス担任制度が良く機能したこ とは特筆すべきことと思います。学生および保護者 とクラス担任の信頼関係に助けられて、混乱の中に あっても電話等による連絡がスムーズに運び、「同 級の誰々君も大丈夫です」などという情報も多く得 られました。この後もクラスという一種のコミュニ ティが様々な場面で力を発揮することになりまし た。安否確認の主要な手段は携帯電話でしたが、学 校のホームページや地元 FM 放送なども大きな力と なりました。また、情報処理センターと豊橋技術科 学大学の連携により、いち早く本校のミラーサーバ が立ち上げられことにより、本校停電期間中にも外 部関係者に一定の情報を流すことが出来ました。 写真 4 は寮の整理に力を合わせる学生諸君の様子 です。寮生はこの後も寮の復旧工事に伴って多くの 困難に遭遇することになるのですが、寮友会役員を 中心に見事に乗り切ってくれました。寮務委員会の 先生方のご苦労にも感謝しなければなりません。 これ等の初期対応の最中にも、校舎の応急危険度 調査が余震によりゼロからやり直しになったり、本 校を含む地域に避難勧告が発せられて、事務部門全 写真 1 地面、建物の損壊
新潟県中越地震体験記 5 部を長岡技術科学大学に移転するなど、予期せぬ事 態が続発しました。 5.応急復旧と授業再開 学生の安否確認、構内の安全確保など、被災の初 期対応が一段落した後、校舎の応急復旧と授業再開 の検討に入りました。卒業・修了を控えた学科 5 年 生と専攻科 2 年生への対応が先ず急務であり、次い で、残る学年の年度内修了を可能とするにはどのよ うな方策が有りうるのか、高専機構本部の施設担当 者との綿密な協議と平行して臨時学年暦の検討が始 まりました。全学生の 3 割強が寮生である本校では、 学生寮の確保が授業再開の大前提でしたが、全ての 寮施設が損傷を受けており、特に 120 名収容の高志 寮 3 号館が全く使用不可の状態にありました。 結局、施設・設備については学生寮も含めて応急 復旧と恒久復旧の 2 段階方式を採れば全ての学年の 授業を年度内に終了し、かつ、新年度の学生受け入 れも可能との見通しが立ち、これにより臨時学年暦 を編成し、入学試験も予定通り実施することになり ました。これらが可能となったのは、上記の 2 段階 復旧方式が認められたことに併せて、長岡技術科学 大学が応急復旧期間中の授業・実験施設の使用を快 諾してくれたこと、および、新潟大学が長岡市内に 所有する学生寮「和光寮」の使用の便宜を図ってく れたことによります。 11 月 12 日には長岡技術科学大学において専攻科 の授業と特別研究を一部再開し(写真 5)、程なく、 新潟大学国際交流会館にお世話になっていた留学生 も長岡市内の「和光寮」に戻りました。新年 1 月 4 日には応急復旧が成った本校校舎の一部、および学 生寮の一部と「和光寮」を使用して全学年の授業を 再開することができました。 写真 2 学生寮の室内(ドアーはこじ開けた) 写真 4 学生寮の整理に力を合わせる寮生達 写真 5 長岡技術科学大学での専攻科授業再開 写真 3 転倒し廊下を塞いだロッカー
6 新潟県中越地震体験記 学科の学生にとっては 74 日目の学校再開でした。 この後、土曜日も繰り入れたタイトなスケジュール で授業が行われましたが、学生・教職員ともに頑張 り、まさに年度末ぎりぎりの 3 月 29 日に無事、卒 業・修了式を迎えることが出来ました。この間、学 生諸君の元気で頼もしい姿にむしろ教職員が勇気付 けられました。 6.学生および保護者への対応 上述したように長期にわたる休校を余儀なくされ ましたが、この期間中、学生ならびに保護者の皆様 に対しては以下のような対応が行われました。 (1)ホームページによる情報提供 (2)学科またはクラスごとに登校日を決め、生 活上ならびに学習上の指導 (3)自宅学習用の課題提示とレポート提出 (4)長岡技術科学大学体育保健センターの支援 を得て生活・健康等の相談 (5)クラス担任からのメール等による学生の個 別ケア (6)保護者面談会を実施するとともに寮生保護 者には別途懇談会 (7)後援会臨時支部懇談会を全支部において実施 また、学校再開後は、厚生補導委員会と学生相談 室の連携のもと、学生のメンタルヘルスケアを目的 とする相談室が設けられ、学生相談員(教員)と学 校カウンセラーが対応に当りました。時にお茶やお 菓子も出るくつろいだ雰囲気が好評で、被災学生に 対する授業料減免制度などについての相談も含めて 訪れる学生も多く、成功であったと思っています。 これなどは、阪神淡路大震災の教訓が具体的に活か された 1 例と言えるでしょう。 7.恒久復旧工事の中での授業 全面再開後の教職員はタイトな授業実施に加え て、恒久復旧に向けた作業に忙殺されることになり ましたが、このような中で、文科省ならびに高専機 構本部の尽力により平成 16 年度の災害復旧補正予 算において本校復旧関係が手厚く処置されたことは 大きな励みとなりました。 雪解けを待って開始される大規模な復旧工事とそ の中で実施する教育研究を両立させるための最適解 を求める作業は難しいことこの上ないものでした。 殊に、高専では実験・実習を疎かにすることは許さ れません。教務委員会を中心に懸命の努力が続けら れました。大型の装置を使用する実験・研究は不可 能であったため、先生方は卒業研究や特別研究の課 題設定に苦心し、通常の学生実験についても一部内 容を変更するとともに工事計画との兼合いで実施時 期を組み替える必要がありました。実験・研究室と してはプレハブ 6 棟(写真 6、延べ床面積約 2500㎡) を構内に建設して対応することになりました。 また、体育科目についても、グラウンドやテニス コートなどの屋外運動施設は全て損壊して使用不能 となっている上、2 棟ある体育館も修復工事のため 使用期間を大幅に限定せざるを得ませんでした。 数々の制約条件のもとで、何とか通常の学年暦の 写真 6 プレハブ実験室(同様の実験室を 6 棟、 延べ床面積約 2500㎡を設置。使用後撤去) 写真 7 聳え立つ新 3 号館
新潟県中越地震体験記 7 中で実施可能な年間授業計画を策定し、平成 17 年 4 月に新入生を迎えることが出来たのは、まさに教 職員の一致団結の賜物でした。以後、工事現場の中 での教育研究という状態が 1 年半にわたって続いた わけですが、この間、無事に 17 年度卒業・修了生 を送り出し、18 年度の新入生を迎えることも出来 ました。 18 年 5 月には建物関係の復旧が完了し(写真 7)、 グラウンドや外構の整備についても同年 10 月に全 て出来上がり、2 年にわたった復旧工事が終了しま した。そして 11 月には 5 年ぶりに「高志祭」が開 催され、訪れた多くの市民の皆さんで賑わいました (写真 8)。遠くから団体で見に来てくれた後援会支 部の方々もおられました。 8.高専、大学等からの支援 本校の被災に際して、全国の高専、大学をはじめ として実に多くの機関・団体や個人から支援ならび に励ましを頂きました。長岡技術科学大学、新潟大 学からの支援についてはその一部をすでに述べまし た。被災当初は、上越教育大学ほかの近隣大学から 届けられた救援物資によって学生・教職員家族の避 難生活が支えられました。会計事務が集中した時期 には関東信越地区高専から多数の事務職員の応援が あり、図書館の蔵書類整理や業務再開では大学・高 専の図書係員の支援を得ました。 また、長岡市、新潟県等の公設機関には実験研究 施設の使用に特別の便宜をはかっていただきまし た。さらに、本校同窓会や技術協力会から寄せられ た義援金は学生の課外活動や運動施設の借用、実験 研究の維持等に活用させていただきました。 このほか、紙面には書ききれない物心両面にわた る多くの支援のお陰があって丸 2 年にわたる復旧事 業を乗り切ることが出来たのです。ここに改めて、 ご支援とお励ましを頂いた全ての皆様に、心からの 御礼を申し上げます。 9.むすび 平 成 16 年、2004 年 は 新 潟 地 震(1964 年 6 月、 M7.5)から 40 年目にあたり、6 月以降、新潟県を はじめとする関係機関や団体等によって震災の経験 を改めて検証し、防災の意識を喚起する諸行事が開 催されました。私も招かれて幾つかに参加しました が、そこでは阪神淡路大震災の教訓とその後の復興 活動についても貴重な報告がありました。また、新 潟県中越地方は地震の空白地帯で、今後 30 年以内 に大きな地震が発生する確率は 2%程度であるとの 話もありました。しかし、かねてから東海地震の発 生確率は 30 年間で 30%といわれている中で 2%と いう数値はむしろ安心感を与え、よもや数ヶ月を待 たずに、最大震度 7 の大地震に襲われるなどとは誰 もが予想しなかったでしょう。これが地震災害の怖 さです。そして、本稿を書きながら自戒とともに恐 ろしいと感ずるもう一点は、被災後 3 年を経過しよ うとしている現在、はやくも震災の記憶が薄れかか り、ともすれば安全・防災対応が後回しになる傾向 が見えることです。 設備類の転倒防止や廊下等の整理・整頓はかなり 進みましたが、将来に向けた防災・減災の具体策に ついては、残念ながら未だ充分には手が回っており ません。予算の問題もありますが、いっぽう、多額 の経費をかけずとも少しの注意と配慮で可能な安全 対策が数々あることに気付いたことも事実で、今後、 一つひとつ、着実に実行してゆかなければならない と思っております。 さて、長岡高専は 2011 年に創設 50 周年を迎え ますが、図らずも一足先に校舎の全面改装が成りま した。或る意味で、長岡高専の次の半世紀に向けた 発展の礎が築かれたとも云えます。「人類の未来を きりひらく、感性ゆたかで実践力のある創造的技術 者の育成」を掲げてたゆまぬ前進を続けてまいりま しょう。 写真 8 復旧したキャンパスで 5 年ぶりの高志祭
8 新潟県中越地震体験記 発案 平成 17 年 1 月、高田孝次 学校長から呼び出し を受けた。内容は 学生全員参加型で、震災復旧の 記念になる何か作れないか ?(それを厚生補導委員 会で、まず音頭を取ってほしい) との要請であっ た。当時、学生主事であった私(近藤)は、校舎の ほとんどが使用できない状態で(4 号館と 6 号館の み使用可能)、プレハブで学生実験、卒業研究をやり、 しかもクラブ活動がほとんど出来ない状態で、学生 が主体的にしかも全員が参加した形で出来るであろ うか ? ということだった。 経緯 平成 17 年 2 月 12 日(金)の厚生補導委員会で、 「震災復旧記念製作(仮称)」として提案し、委員会 の了解を得た。当時、主事補で学生会担当であった 山岸真幸先生が中心になって担当してもらうことに お願いしたのは、1 ヶ月遅れの 3 月だった。そして、 3 月の校長連絡会、企画会議に提案した。また、施 設係の片桐正幸係長に震災復旧記念製作についての 趣旨を説明し、3 号館入り口か食堂で 2m 2m 程度 の壁があるかどうか相談したところ、それぞれ 1 ∼ 2 箇所あるとのことだった(この時点では、まだ 3 号館、食堂に設置することは決まっていないが)。 また、壁に工事をする必要があるため、その最終期 限は来年 2 月中であれば間に合うとのことだった。 平成 17 年 4 月上旬、当時の学生会長だった物質 工学科 5 年の青木翔吾君、副会長の電子制御工学科 4 年の佐藤翔君、副会長の環境都市工学科 5 年の田 邊麻由子さんにその趣旨を正式に説明した(山岸主 事補、猪平主事補が、すでに 2 月頃学生会に話を持 ちかけていたが)。4 月下旬、学生会の役員会で議 題として取り上げられ、計画案が決まった。その概 略は ・学生会役員会で案を検討し、夏休みまでに原画 を募集する。 ・原画の募集は、全学生に呼びかけて行う。 ・採用作品には、表彰状と記念品を贈呈する。 ・希望者を募って製作活動を行う。 などの内容であった。 その後 6 月、「震災復旧記念製作委員会」が学生 会に設置され、前記の佐藤翔君が委員長となって企 画・推進して行くこととなった。メンバーは学生会 の役員である。6 月中旬、実行委員会から全学生向 けに震災復旧記念製作のアンケートを実施した。内 容は、製作の参加希望について、設置場所について、 作品の内容について、などであった。アンケートの 結果を受け、6 月下旬、学生会の震災復旧記念製作 委員会が開催され、4 月の内容の再確認と修正を含 め、以下の内容が決まった。 ・設置場所は、新福利棟あるいは新 3 号館とする。 ・サイズは 300㎝ 275㎝ ・原画の募集を行い、締め切りは 9 月 5 日とする。 ・注文する会社は、玉川窯業株式会社(岐阜県土 岐郡笠原町 4377 番地)。 などの内容であった。この時点でタイルアートの話 題が出たが決定はしなかった。上記会社名はタイル アートに決まった場合である。学生会の調査による と、この大きさのタイルの製作費は約 29 万円のこ とであった。この内容を、7 月 4 日の学生会で提案 し、7 月 5 日に全学生に公表した。 その頃、高田学校長の取り計らいで、 長岡造形 大学からアドバイスをお願いしたらどうか ? という ことで、7 月 8 日、私(近藤)と佐藤君の二人で造 形大学の鎌田学長を訪ね、震災復旧記念製作の趣旨 説明と協力をお願いした(当時の鎌田学長、赤沼教 授、境野助教授が同席)。造形大学で出来ることは 是非協力したいとの返事をいただいた。ありがたい 話ではあったが、その後学生会で協議した結果、製 作内容はタイルアートに正式決定し、独力で完成さ
震災復旧記念製作について
― 完 成 ま で の 経 緯
―
機械工学科近 藤 俊 美
新潟県中越地震体験記 9 せることとなった。 原画の締め切りは 9 月上旬であったが、応募数が 少なかったため、10 日位延長した。最終的に応募 数は 5 点であった。10 月下旬から 5 点の作品を展示 し、学園祭で投票した。その結果、採用原画として 電子制御工学科 4 年の赤坂絢子さんの作品に決まっ た。その後、専攻科を含めた全学生の署名を各クラ スごとにお願いすることとし、そのステンレスの エッチングとしてタイルアートの両脇に取り付ける 案が出されたのは、12 月上旬だった。全体の枠の 製作と設置および各クラス学生の署名のエッチング は、燕市の「株式会社 新興」にお願いした。この 会社との連絡調整は当時の加藤敏明学生課長があ たった。業者との最終的な打ち合わせは、1 月中旬、 プレハブの F 棟の 2 階で行い、ここに記念製作の全 容が決定した。大きさは、縦 2000㎜ 横 2300㎜で あり、その両脇にクラスごとの署名、下部に震災復 旧記念製作と学生会・同窓会の文字および原画の題 目(原画の作者により prosperity (繁栄)と決まっ た)と原画製作者の氏名を記入することとした。全 製作費の合計は、タイルの製作を含め 208 万円程度 である。高田学校長の判断で、震災の義援金を当て ることになった。義援金を寄せられた同窓会および 一般の方々に厚くお礼申し上げる。 最終的に作品が完成し、食堂に設置されたのは、 平成 18 年 3 月 25 日であった。また、新学期が始まっ てまもなく、新緑の候 5 月 17 日、高田学校長、原 画製作者の赤坂さん、学生会役員、教職員の参加の 下、除幕式がタイルアートの設置場所である学生食 堂で行われ、一連の作業はここに完全に終了した。 お世話になった関係者各位に重ねて御礼申し上げた い。 以下に、原画と完成したタイルアートを添付して おく。 赤坂絢子さんの原画 食堂に設置されたタイルアート
10 新潟県中越地震体験記 平成 16 年 10 月 23 日(土)に発生した中越地震 発生直後の学生寮の状況・対応の推移について簡単 に述べてみたいと思う。 10 月 23 日(土) 17:00 当日の寮生 354 名中残寮生は 164 名。宿 直体制は補導宿直(教員)1 名・管理宿 直(事務職員)1 名。大会・行事等が続 き大半の寮生が帰省していた。補導宿直 はたまたま寮務主事補であった。 17:56 震度 6 弱の地震発生、直ちに学生寮正面 前に集合させ点呼、残寮生の確認をする。 随時、携帯電話で家族に連絡するよう指 示(ほとんど通じなかった) 18:03 震度 5 弱余震 18:11 震度 5 弱余震 度重なる余震の為寮内確 認作業を中止し、全員を学生寮に隣接す るテニスコートに移動 呼終了し負傷者 1 名を確認、病院に移送 する 寮食堂業者に夕食を「炊き出し」に変更 するよう依頼 寮務主事自身も自宅で被災した が補導直の主事補、外出先の寮 長と連絡が取れ、道路寸断のた め動きが取れないことを伝え、 状況の確認と寮生の安全確保を 依頼 随時外出から帰寮する学生あり。 避難者名簿の作成 18:34 震度 5 強余震 校長が到着し直 ちに対策本部が設置される 19:00 ∼ 環境都市工学科教授により学生 寮の危険状況が確認される 炊き出し配食 10 月 23 日分の残寮生点呼表と 避難者名簿(寮生分)を照合 長岡市に食料・水・毛布の支援要請(な かなか繋がらない) 寮事務室に教員が常駐し寮生の安否確認 と外部との対応を行う 地震情報の収集並びに近隣の状況確認 寮長外出先より帰寮できない為、副寮長 を中心とする学生統率体制の確立 負傷者 1 名応急処置、その後病院に移送 21:30 構内状況確認後、全員をより安全な第 2 体育館に移動(第 1 体育館は照明器具落 下飛散し危険の為) 22:00 ∼ 第 2 体育館・避難宿泊者確認 196 名(内 訳 ; 当日の残寮生 152 名 + 留学生 12 名 + 近隣のアパート入居学生 + 他宿舎入居教 職員及び家族) 構内の危険状況を確認の上、各所の入構 及び利用制限を全員に通達 22:30 ∼ 寝具の確保、貴重品持ち出しの為、入室 館ごとに時間を限って学寮への入館を許 可
長岡工業高等専門学校学生寮における
中越地震発生以降の対応と推移
前寮務主事緒 方 和 男
1号館屋上 棟屋 柱のコンクリートが崩れている新潟県中越地震体験記 11 長岡市より毛布 100 枚配給される 10 月 24 日 (日) 8:30 ∼ ミーティング(メンバー:校長、学生主 事、事務部長、庶務 ・ 会計 ・ 学生課長、 宿泊した教職員、学校の状況確認に来た 教職員) ・学寮への入構制限 ・校舎内への入構制限 ・保護者が迎えに来られる学生は随時引 き取らせる。同じ方面に自宅があり、 保護者との連絡が取れた学生について も、なるべく同乗させていただけるよ う依頼 ・朝食、昼食は学寮食堂に保管されてい たパン、牛乳を配る 9:00 寮務主事、迂回路を探しながらようやく 学校到着 12:00 対策本部を 4 号館 1 階の教育実践室に移 設 避難宿泊者確認・学生 33 名(通学生 4 名、留学生 12 名を含む)、教職員 22:30 長岡市より夕食配給 23:00 学生 1 名保護者引き取り帰宅 10 月 25 日(月) ∼ 8:00 8 名帰宅(保護者引き取り、同乗、自転 車など) 8:00 残校学生数確認 25 名 第 2 体育館での 待機を指示 10:00 ∼ 残校学生の保護者への連絡と帰宅・引き 取り 留学生受け入れ先を新潟大学に依頼、国 際交流会館に 3 月末まで受け入れてもら う 15:00 留学生以外の学生の帰宅・引き取り完了 15:30 留学生全員を車 3 台で迂回路を探しなが ら新潟大学国際交流会館に移送 10 月 29 日(金) 本校に避難勧告発令・30 日事務局を長 岡技術科学大学に移転 その後、学校全体の被害状況の確認と授業再開に 向けての対応をする中で、360 余名の寮生の宿舎を 確保するため当初は、野球場にプレハブ寮の建設、 他大学・高専寮の借用、公共宿泊施設(赤城青年の 家・妙高少年自然の家等)の利用等さまざまな方向 から検討されたが、最終的には食堂と 3 号館を建て 替え、その他は改修、補強をして年明け部分入居を 目途とすることとなった。収容可能数の減に対して は自宅通学への変更、共有スペースや空き部屋の活 用で対応することとした。 11 月 14 日に学校長以下 15 名の教員を 5 班に編成 し、9 支部において、現時点における災害普及状況 及び授業再開に向けた取り組み等の状況説明会(特 に寮の状況、今後の対応)を行った。特に被害が甚 大な為開催が困難な小千谷支部と説明会に参加でき なかった保護者には説明資料を送付した。 寮内居室への一時立ち入り、荷物の搬出に先立 ち、教職員が余震の続くなか 「安全確保」 を最優先 にしつつ、まず進入路、退出路を確保し、倒れたロッ カー・本棚等を起こし、危険物を取り除く作業を 行った。その後プログラムを作成し、各グループに 複数の教職員が付き安全確保のため時間を制限する などして 11 月 18 日∼ 19 日に全寮生の一時立ち入 りを開始し、11 月 21 日∼ 23 日に 5 年生・専攻科 生の全荷物を搬出し、11 月 27 日∼ 12 月 5 日には 1 ∼ 4 年生の全荷物の搬出が終了した。 5 年生・専攻科生は長岡技術科学大学で 12 月 6 日 (月)から授業再開されることになり、宿舎は新潟 大学教育人間科学部教育実習宿泊施設「和光寮」を 借用し、とりあえず 63 名の 5 年生・専攻科生の寮 生活が 12 月 3 日にスタートした。 1 ∼ 4 年生の 1 月 4 日(火)からの自校での授業 再開に向けては、12 月 6 日に寮の総点検を実施し、 寮生の保護者には 12 月 12、13 日に説明会を行った。 以上寮の状況を簡単に述べたが、今振り返ってみ ると、大した怪我人(寮生 1 名頭部裂傷の軽症)も 出ず度重なる余震の中でも冷静さを失わず心を一つ にして未曾有の災害を乗り切り、平常の寮生活に戻 れたのは、教職員、寮生(特に寮友会役員の献身的 な手伝い)、保護者、地域住民の協力、関係大学、 長岡市他のバックアップのおかげと感謝している。
12 新潟県中越地震体験記 文集に掲載していただける機会をいただき、図書 館復興までの記録を残させていただきます。けが人 がでなかったこと、そして図書館の再開に際し、学 生をはじめ県内大学図書館、高専職員の皆さんの大 きな支援の力に感謝あるのみです。 【2004.10.23 17 時 56 分】 新潟県中越地震発生/図書館休館 ・17 時に閉館したため、利用者及び職員にけが 人なし。 ・建物:小破。修理すれば使用可能。 ・書架:書庫内のスチール製・単柱複式・天つ なぎ・床固定のものは倒壊、新たに設置する ことに。 ・書架:閲覧室内の木製・背合わせで設置・固定 なしのものは転倒、修理して使用。背合わせ・ 頭つなぎのものは転倒せず。 ・集密書架:基礎部分被害なし。移動棚部分がず れ、図書をいったん全部だし修理する。 *修理期間中、図書は一部を残し貸倉庫に預ける。 ・図書:裂けたもの、歪んだもの、水浸しになっ たもの、避難所で紛失、倒壊した家の中にある 等の連絡を受けたものがあった。 ・この間、一時事務部が長岡技科大へ仮移転。5 年生・専攻科生の授業も長岡技科大で再開。 ・県内大学図書館関連(新潟県大学図書館協議会) 長岡技科大図書館:本校利用者データを登録、 貸出可能。他の大学図書館においても、「災害 時における図書館協力マニュアル」により利用 者の受け入れ協力。 センター館の新潟大学が中越地区の被害状況を 調査し、状況を加盟館に知らせると共に、必要 な支援のとりまとめを行う。 【2005.1.4】図書館開館(仮) ・4 年生以下高専で授業再開。 一部図書、雑誌等を配架し、学習図書館的機能 で開館。校内に学生の利用施設が少ないため、 不十分な機能でも利用者多数あり。 【2005.2.14】図書館休館 ・閲覧室復旧工事のため。 【2005.4.4】図書館復旧工事終了/開館準備 ・貸倉庫から図書戻し入れ。 ・スチール書架組み立て。 ・修理済み木製書架搬入、耐震施工。 ・図書配架作業 県内大学図書館職員支援(2 日間延べ 33 人) 学生ボランティア(延べ 200 人) 本校職員・作業員(業者) 【2005.4.20】図書館開館 ・図書館 2 階閲覧室部分開館。 【2005.8】 ・図書館 1 階部分及び 2 階玄関ホール復旧工事開始。 【2005.12.22】 ・上記工事終了 【2006.1】図書館全館オープン ・図書館 1 階部分使用開始。 ブラウジングコーナー 図書館情報検索室 グループ学習室(3 部屋) 学習コーナー 第 4 保存書庫 校史編纂資料室 蛇足ですが地震当日、私は東京に遊びに行ってい ました。いざ帰ろうとして新幹線に乗り込んだので すが、地震のため発車できないとアナウンス、お弁 当でも食べながら待っていようとお弁当を買い込み また乗車。しばらくすると運行できないので降りて くださいと追い立てられました。新潟で地震が発生 したのはわかったのですが、詳しい情報はありませ
長岡高専図書館の地震発生から復興まで+α
学生課図書グループ久保田 昌 代
新潟県中越地震体験記 13 ん。長岡の家族に連絡をとろう としても繋がらない。群馬に娘 がいるためそちらに連絡が入っ ているかもしれないと電話をか けるが繋がらない。やっと娘と 連絡がとれたが、長岡とは連絡 がとれないとのこと。「テレビ でもつければニュースでやって いるかも」と言うと、「どの局 も地震のことだけ、でも同じこ としか言ってない」との返事。 え!そんなに大変なの…… 普通電車を乗り継ぎ、夜の 12 時前にどうにか群馬の家に到着。 翌朝早く娘と車で新潟へ。で も詳しい情報もないため、旧国 道 17 号で堀之内まで行き、通 行止め。山古志方面がひどい被 害とは知らず、どこか山越えで長岡に入ろうとしま した。途中駐在所に立ち寄ったりしましたが、何も 情報はなし(留守番の人しかいません)。結局、只 見を抜け、磐越自動車道経由で新潟にたどり着きま した。時間は午後 2 時半ごろ。 我が家は長岡東バイパスと国道 352 号(栖吉方面 へ行く道)が交差する付近、電柱は傾き、トランス は落ちそう。家そのものは大きな被害はなし、玄関 のガラスが割れている、壁紙には亀裂あり、本箱は 倒れている、食器は散乱。でも家族は(犬も含め) 市外にいたり、戸外にいたりしてあまり怖い思いを しないですみました。 これくらいの被害ですんだことに、またまた感謝 です。 同じ長岡市内でも被害の大きさには違いがありま したが、被害の大きかった長岡高専周辺にくらべ私 の自宅付近は比較的被害はなかったほうだと思いま す。 地震発生時は自宅の 1 階にいて、カタカタとゆれ る感じが少しあったと思うと押し寄せてくるような 感じがあり、ドーンと大きく揺れが来たような気が する。 我が家では 1 階のテレビが床へ落ち、台所の食器 棚から一部食器がわれた。揺れの方向が家具が倒れ る方向でなかったのか、幸いに大きく倒れた棚など はなかった。 揺れ始めたときに父が「新潟地震だ!」と言って、 かなり大きな揺れが来たという状況だったと思うの ですが、父から新潟地震の時に長岡も揺れたという 話を聞いていたので、「新潟地震」という言葉と、 自宅の被害が少なかったことから地震直後は震源が 中越ではないと思ってしまっていた。
中 越 地 震
図書館高 橋 愛 美
4号館3階東側の教員室(本棚が全て倒れ、本、資料が散乱している。 スチール製本棚も歪み、机の上のモニターも下に落ちている。)14 新潟県中越地震体験記 大揺れの後に自宅付近は停電したため、テレビな どの情報が入らず停電もすぐに回復すると楽観視し ていた。その後なかなか回復しない停電のため、ラ ジオを聞いて、震源が中越と知る。震度もかなり大 きかったことや頻繁に来る余震から、一時間を過ぎ たあたりから停電の回復がいつになるかわからない と思うようになる。 ガスも止まり、しばらくして水道もとまる。水道 が止まるまでに少し時間があったため飲用等のため 少し水をためて置くことができた。夕食前の地震、 その後に停電だったが、カセットコンロがあったた め準備のできていたものをあたためて食べることが できた。 懐中電灯もあったが停電の回復がいつになるかわ からないため、仏壇用のろうそくを灯りに使用。こ れでもなかなかあかるい。 家の前に人が集まっているようだったので(話し 声がきこえる)、外へ出て様子を見る。近所の人が 集まっていた。家の下が車庫である高床の住宅は けっこう揺れたようだ。家の外へでて、車にいる人 もいる。高床住宅ではなく、家具が大きく倒れるこ とのなかった我が家では地震後も家の中ですごして いた。そうしている間も絶えず余震が来ていた。 それほどの寒さはなかった。晴れていたので夜 10 時ごろ外にでてみると星が良く見えた。周囲の 明かりが消えていたせいだろう。 翌日、近くのスーパーをのぞいてみる。店内は停 電のため、店の外で販売できるものが並んで売られ ていた。パン・電池など。生ものはなかったと思う。 少し離れた店に行くと、停電はなかったようで電 気もついていて通常のように販売が行われていた。 カセットコンロが大量に目立つところにおかれ、電 池、携帯電話の充電グッズが売れていた。懐中電灯 用に単一電池を購入したかったが、売り切れていた。 市の広報車なのか「給水所」についての案内が聞 こえた。水道も止まり回復がいつになるかわからな いため、近くの公園とのことで行って見ることに。 給水車が来ているのかと思って行ったのだが、以前 には気がつかなかったが給水施設(井戸水を汲みあ げているようだった)があったようだ。大勢の人が いるのでは思っていたが予想に反し 8 人ほどの人。 声をかけられ、自宅より持参の容器に水を入れても らう。 水をもって帰ったものの、水道はそれから割りと すぐに回復。電気は3日目くらいに回復、ガスは電 気がつく少し前に回復。 水がないというのは本当に困ることで、電気がな いと大変不便(ガスはカセットコンロが使えたので さほど不便を感じず)と感じました。日頃何気なく していることが、少しの間とはいえ出来ないことが とても大変だったことは、通常の生活に戻ったとは いえこの地震発生から 3 日間ほどのことは、地震の 揺れとともに忘れないだろうと思います。 あまり思い出したくもないのだが…、その日は日 帰りの東京出張だった。用務を済ませ、東京駅で上 越新幹線下り「とき 325 号」に飛び乗った。よせば いいのに駆け込み乗車である。車内は乗車率 100%
あまり思い出したくもないのだが
今 野 哲
3号館と第2体育館の間に南側にできた地割れ新潟県中越地震体験記 15 ほどの込み具合だった。が、運のいい乗客たちは高 崎あたりでぞろぞろ降りてゆき、その時には座席の 3 割ほども埋まっていただろうか。長岡が近づいて、 読みかけの本を鞄にしまった時である。列車が最後 のトンネルを抜けようとしていた時である。 まず、車両が跳ねた。熊か何かを轢いたような感 じ。次の瞬間には、脱線していることがわかった。 車輪は明らかにレールではないものの上を走行して いる。それでも、まだ半信半疑なのだ。新幹線の脱 線事故は聞いたことがなかったから。だが、照明が 消え、揺れがますますひどくなり、車輪はレールで ないものの上を豪快な音たてて…、これは 100%脱 線である。時速 200 キロで脱線 ! って、それはちょっ と困ります。私の脳裏には 10 年ほど前のドイツの 鉄道事故のテレビ映像が浮かんでいた。すべての連 結部がぐしゃぐしゃに折れ曲がって、車両があっち こっちに…。あんなふうになったら、痛いだろうなあ。 いやな感じに傾いたまま、列車は止まった。傾い てはいたが、どうやら転覆せずに止まった。しばら く経って、「どうも地震らしい」という声が暗い車 内を伝わってくる。しかし、地震で新幹線が脱線し たりするものだろうか。半信半疑である。が、一難 去ってまた一難、すぐに余震だか本震だか分からな い大揺れが…、これは 100%地震である。地震で脱 線したのである。それにしても、高架の上というの が、いかにも気持ち悪い。がしゃがしゃ揺られなが ら、私の脳裏に浮かんでたのは、阪神淡路大震災の 名神高速のテレビ映像である。橋脚が次々に折れ、 横倒しに崩れた高速道路…。あんなふうになったら、 さぞかし痛いことだろうなあ。 高架橋は倒壊することなく、どうやら揺れは収 まった。子どもたちの泣き声、それを慰め元気付け る大人たちの声。「もうだいじょうぶだよ」と、言っ てる矢先にまたまた余震だか本震だか分からない大 揺れが、私の脳裏には阪神淡路大震災の名神高速が …。 * * * さて、地震であることがはっきりすると、気になっ てくるのは家族の動向である。走行中の新幹線が脱 線するような地震である。長岡は壊滅しているので は ? 長岡高専もぶっ壊れて長い長い秋休みになっ たりして。(そうなった !)。おもむろに携帯電話を 取り出して、かける。つながるわけがない。ただい ま大変つながりにくい状態になっております。15 分に 1 回くらいの割合で、車内のどこかで着信音が 鳴る。着メロはトッカータとフーガだ。車内爆笑。 何度もかけてようやく呼び出し音が鳴る。出ない。 しばらく経って、またかける。出ない。みんな死ん だか ? しかたがないので、仙台の親にかける。出 る。とりあえず、避難場所の中学校への連絡を頼む。 あの、このケータイ、充電がかなり怪しくなってい るので、近況報告してる余裕はないから、すまんす まん、はいはい自分は無事です生きてます、よろし く頼みます、ではでは皆さんごきげんよう。 脱線車内に監禁中である旨を災害緊急サイトに登 録し、さてニュースサイトにつなぐと「新潟県で大 きな地震」って、知っとるわい、その程度のことは、 知りたいのはその先じゃ、この際長岡高専はどうで もよか、わしのウチはどうなっとるんじゃい ! と いうあたりで、ついにチャージ切れ。ケータイは死 んだ。 チャージ切れになりそうなことは、朝から気づい ていたのである。が、マァいっか、てな調子で出掛 けてしまったのである。災害に出くわしそうなとき は、しっかり充電しておきましょう。 * * * 乗務員や車内販売員は終始冷静である。乗客の質 問にも落ち着いて応じている。さすがプロである。 もっとも、事の詳細については、彼らもわかってい ない。乗客も文句を言わない。さすが我慢強さを持 ち前とする越後人である。越後人ではない乗客もい ると思うが、事情が事情なので文句を言わない。車 内、だんだん暑くなるが、誰も文句を言わない。だ が、軽薄軽躁を持ち前とする仙台人は、さすがに退 屈してくる。真っ暗なので本も読めない。携帯電話 は仮死状態である。窓の外を見ると、おや川西地域 とおぼしきあたりは電気が点いてますねえ、右側の 窓に目を転じると、村松町と思われるあたり、こち らは真っ暗ですねえ、あ、緊急車両が走っています。 それにしても、暑いなあ。 車内巡回中の乗務員いわく、「あれれ、この車両 は暑いですねえ。」「えっ、ほかの車両は涼しいんで すかい。」というわけで隣の車両へぞろぞろ移動。あ、 涼しい。
16 新潟県中越地震体験記 車内放送が逐一はいる。長岡駅から救援隊が向 かっています。脱出経路の安全確認を行っていま す。1 号車に取り残されていたお客様が救出されま した。おー、よかったよかった。どうやら乗客乗員 全員、大きな怪我もなく無事だったらしい。 * * * 脱線からほぼ 4 時間後、車外へ出た。長岡駅まで 約 6km、新幹線高架の上を歩く。高架の犬走り、 英語で言うならキャットウォーク、いずれにしても 犬猫が歩くのにちょうどよい幅の通路である。長い 長い一列縦隊で歩く。コンクリートの壁にさえぎら れて何も見えない。何となくきな臭い匂いが漂って くるような…。街の様子が気になる。ところどころ にある壁のスリットから覗いて見たいのだが、なに せ一列縦隊である。歩を止めるわけにはいかないの である。月明かりに照らされた自分の影を眺めなが らひたすら歩く。 いつだったかテレビで見た難民の映像が脳裏をよ ぎる。あれはコソボだったか、ボスニアだったか …、なんという不謹慎な想念 ! 電車が動かなくなっ たので歩いて帰っているだけだろう、オレは。べつ に生命の危険があるわけじゃなし、空爆されるわけ じゃなし、空を飛んでいるのは、あれは爆撃機では ありません。空を飛んでいるのは…、あれはヘリば かり。うわっ、たくさん飛んでますねえ、ヘリコプ ター。バリバリバリと轟音響かせ、勇ましいこと。 ときどきライトで一列縦隊を照らしたりして、空撮 でもしているのでしょうか。ヘリコプターうるさい ぞ、ばかやろう撮るんじゃねえ、墜ちやがれ。 被災しなかった人は、今ごろ空撮された映像をテ レビで見ているのかもしれない。テレビの映像を見 て、事態をわかったつもりでいるのかもしれない。 けれども、わかったつもりでいるだけで、本当は何 もわかってやしないのさ。実際の状況などテレビで わかるわけがない。で、一方、被災者である私はと いうと、コンクリの壁に沿って黙々と歩き続けるだ け、こっちはこっちで、もう何がなんだか、事態は まるでわからない。 その日は、親戚の結婚式の帰り、家族そろってあ の とき 325 号 に乗車していた。小千谷のトンネ ルを抜けると間もなく長岡駅に着く。家内と下車に 手間取りそうな当時 1 歳と 4 歳の子供 2 人は、既に デッキで準備をしていた。私も長女とともに下車の 準備をと、座席を立ち上がった瞬間、ガツンという 音と同時に、ものすごい横揺れに襲われた。その瞬 間、室内の照明は非常灯に変わり、荷台の小型スー ツケースは、手裏剣のように床に飛んでいった。そ の後、ゴーという音が響く中、ガッツンガッツンと いう音ともに小さい震動が断続的に続いた。脱線し たと直感した。 新幹線が停車した後、直ちに「何かに当たったか、 跳ねたようです。」というアナウンスが流れたが、 脱線という言葉はなかった。幸い、デッキに居た家 族も無事で、乗車していた 5 号車も進行方向右側に やや傾きた状態ではあったが、水平状態に近かった ので、しばらく待てば、長岡駅に帰れるとその時は、 楽観していた。 座席にもどり、状況が進展するのを待っている と、急に新幹線自体が、今にも高架から転落するの ではと感じるほど大きく揺れだした(後に、最初の 余震による揺れとわかった)。この時はじめて、恐 怖を感じた。周りの乗客は、みな床に座りこんでい た。この時点では、揺れの原因が地震であることは 想像すら出来なかった。揺れがおさまった後、状況 を確認するため、他の人同様、携帯電話をかけた り、Web へアクセスを試みたりしたが接続状況は 思わしくなかった。停車後しばらく経ってからだっ た Web 経由で、地震が発生したことを知った。
155 分の6
― もう宝くじは当たらないなぁ
―
高 橋 一 義・正 子
新潟県中越地震体験記 17 救出されるまでの間、余震による車両の強い横揺 れが何度も何度も断続的に続いた。高架であるため か、後から知った余震の強さよりも車両の揺れは大 きく感じた(地上で感じる揺れにくらべて)。 脱出までの車内(おもに 5 号車)の状況は次の通 りであった ・停車後、しばらくは非常灯により室内は照明され ていた(おそらく非常用電源)。 ・客車を結ぶ通路は、今まで見たことない遮蔽扉に より塞がれていた。いつも目にする扉の他に、非 常扉が新幹線に備わっていることに感心した。た だし、この遮蔽扉を開けることは容易ではなかっ た。 ・空調が機能しないため、室内はだんだん暑くな り、外気を取り入れるため、車掌の指示により乗 降口を開けた。 ・新幹線のトイレは水洗トイレであったので、停車 後、用足しに困った。 ・デッキで平然と煙草を吸っている乗客がいた(注 意した)。 ・途中何回か、車掌からアナウンスで状況がある程 度わかった。 ・最後尾の 1 号車に乗客がいること、1 号車が大き く傾いていること ・脱線した地点が震源地の直ぐ近くであること ・脱線地点周辺までのバス等は手配できず、長岡駅 までは徒歩でしか移動できないこと ・救援隊は、長岡駅から徒歩で来ること また、脱出に向けて以下のような指示があった。 ・新幹線からの脱出に備え、1 ∼ 4 号車の乗客は、 5 ∼ 9 号車に移動する ・脱出は、9 号車の乗客から順次行う わたしの家族の脱出は、当日、脱出組の最後尾で あった。しかし、9 号車には、駅まで徒歩で向かう ことが難しい、主にご高齢の方が残った。脱出の 際、9 号車の前方扉から簡易バシゴのようなものを 使って高架におりた(この時の時刻は、およそ午後 10 時近くと記憶している)。3 人の子供のうち、一 番大きい小学校 2 年生の長女は自力、二番目の保育 園児の息子は、さっきまで車中ペラペラしゃべって いた筈なのに、下車寸前にウトウトしてしまい私が 背負ことになった。三番目の娘は妻が抱いて移動し た。子供を背負ったり、抱いたりすると両手が塞がっ てしまうため、手荷物の一部を車両内に残した。ま た、どうしても手放すことができない手荷物につい ては、一緒に移動する乗客の方が親切にも持って頂 いた(ありがとうございました)。 長岡駅への移動は、高架上の線路わきの通路状の スペースを歩き始めた。幸いなことに、天気はよく 月明かりが照らす中、歩き始めたが、市街地方面を みると、異様に真っ暗だったのは、記憶に残っている。 道中、金属の焼けるような匂いがところどころ 漂っていたり、小さい余震があったものの、大きな 問題もなく順調に移動できた。しかし、あれほどお しゃべりしていた背中の息子は、途中から熟睡して しまい、自分で私の背中につかまらなくなったため、 息子を落下させないよう、腰をまげて姿勢を低く移 動しなければならなくなったのは、大変つらかった。 このような体制での移動のためか、停電のため周 囲の景色が何も見えず道のりの目安がないせいか、 長岡駅までの道のりは、非常に長く感じた。 移動を開始してから 2 時間ほど後、長岡駅の東京 方面プラットホームに着いた(移動の際、高架の右 側を歩いていたため)。しかし、速やかに駅建物か ら出るよう指示された(地震により駅の建物自体が 危険な状態であるため)。駅構内を移動中、ところ どころであるが水が滴り落ちている個所があり被害 の一端を伺うことができた。 駅の大手口に出ると、報道陣に囲まれている乗客 の一団を目にした。我々は、その一団を回避し、駅 構内駐車場に駐車していた自動車に乗り込み家路に ついた(この時、丁度、日付がかわった)。駅駐車 場を出発してからしばらくは、別段、街の様子に地 震の被害を感じることはなかった。しかし、信濃川 を渡った直後から、街灯が点灯せず、信号機が機能 していない状況に出くわした。また、移動途中、道 路に大きな段差が発生している箇所にも遭遇し、地 震の被害が広範囲かつ被災状況が継続していること を感じた。 自宅に到着以降は、他の被災者同様、自動車内で 朝を迎えることになった。
18 新潟県中越地震体験記 平成 16 年の後半は、災害にあけくれた年といっ て良い。よく『災害は忘れた頃にやってくる』と言 われているが、集中豪雨水害といい、中越地震とい い、災害をまのあたりにし、しかも被災者となった のは、勿論初めてのことである。私が災害のことを 忘れた頃に、もう一回経験すれば、この諺は正しい ことになる。たが、正直いってもう経験したくはない。 集中豪雨の惨状を見て、これは大変な事態になっ たと思った。刈谷田川の水位を決定する主要な雨量 観測所は栃尾観測所であるが、平成 15 年までの過 去 80 年間の年最大日雨量の記録を見ると、1961 年 の 342㎜ / 日となっている。そしてこの頃、刈谷田 川の計画降雨量 360㎜ / 日が定められ、これは 150 年に一度起こる程度の豪雨であるとされた。しかし それから約 40 年後の昨年、421㎜ / 日の豪雨が起っ てしまったのである。確率を考える場合の母集団が 小さ過ぎるという問題があるにしても、今回のよう な異常気象による降雨の予測は、確率的なものでは 説明できないものがあると考えられ、それが異常気 象というものなのかもしれない。 中越地震以前に、私が教官室にいるとき、デツン と突き上げるような地震(?)が何回かあり、3 号 館の下の地盤が異常な状態になっているのではない かと感じたことがあった。近々、大変なことが起こ るのではないかという思いがあった。 10 月 23 日の地震が発生する頃は、教官室でコン ピューターに向かって仕事をしていた。この時、最 初の揺れでどぎもを抜かれた。余りの揺れの強さで、 ただならぬことと直感し、とっさに机の下にもぐり、 机の脚をしっかりと握っていた。揺れはますます強 くなり、3 段積みの最上段の書棚が次々と降ってき て、ものすごい衝撃とガラスの破れる音が、背中を 横切った。このままだと天井が落ちてきて、したじ きになるのではないかという恐怖にかられた。強い 揺れはなかなかおさまらず、その間じぃーっと祈る ような気持ちで、机の脚を握りしめていた。揺れが おさまるまもなく、次の地震が起こってきたので、 机の下でじっとしているほかはなかった。 だんだんに地震の間隔があらくなったので、廊下 に逃げ出そうと思った。しかし、あたりは真っ暗で、 机の周りは書棚でふさがれてしまったようだった。 また、ガラスを破って噴出した本も机の周りを埋め るように山になり、机の下にもなだれ込んできたよ うだった。自分の前にある本を掴んでは、股の下を 通して後ろに追いやり、これを根気よく繰り返して、 少しずつ前へ進もうとした。本にはガラスの破片が 刺さっていて、暗すまで、それを摑かんだので、手 にはかなりの傷を負い血がふき出していた。 やっと廊下へ逃げ出したものの、さてこれから一 体何をしたらよいのだろう。家族の安否が気になっ た。あっそうだ、確かガスストーブをつけていたは ずだ。このままでは火災になってしまう。ガススト ーブには本がかぶり、その上に重いスチールの書棚 がかぶさっているらしいことが、容易に想像できた からである。本と本の隙間から赤々と反射した炎が 見えた。しかし点火スイッチには手はまったく届か ない。じゃあガスの元栓を止めるしかない。元栓の 上には瀬戸物の洗面台が捻じ曲がってかぶさり、そ の下に本が山になって詰まっており、隙間から手を 伸ばしても、もう少しのところでとどかないらしい。 洗面台の給水管は破れて水がしゅうしゅうと噴き出 しているようだ。元栓の周りの本を少しずつ引っ張 りだして、体が入り込めるような場所をせっせとつ くった。ようやく元栓に手が届いた。
あの日、あの時…
吉 田 茂
教 職 員
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新潟県中越地震体験記 19 再び廊下へ出ると、向かいの部屋から卒研生が出 てきた。一刻も早く、ガス、水道や電気を止めない と大変なことになると思い、守衛室へ卒研生から携 帯で電話をしてもらったが、守衛室は誰も出なかっ た。何回電話しても出なかった。こんなことでは建 物の管理はできないのではないかと疑問を感じた。 次に家のほうに電話を入れてもらった。しかし、こ れは通信不能のようだった。ここまでひどい地震に なると、電話も役に立たないとわかった。 家へ帰ることにしたが、道路は多分、陥没してい て、自動車で帰るのは無理ではないかと思った。悠 久山の成田屋まで歩いていった。長倉方面から自動 車がきたので、通行できるのかとたずねた。車は通 れるとのことだった。そこで再び学校へ戻り、自動 車で家へ向った。暗闇の中で、我が家は一応立って いたようだが、家族は誰もいないようだった。被害 の程度を確認する心のゆとりはまったくなかった。 近くの公園には大勢、人が非難していた。まだ大き な余震がたびたびあり、あたりの建物がきしんだ。 避難民の中から、家族を探した。 やっと家内と娘が無事であることがわかりとりあ えずほっとした。その夜は自分の車に寝ることにし た。しかし、足を伸ばすことができず、また興奮し ていることもあって睡眠をとることができなかっ た。翌日は、我が家のライフラインを点検したが、 電気・電話・水道・ガス・下水道すべてのライフラ インが不通になっていたため、市内の中学校で避難 生活をすることにした。ただし、飼い猫のジュピタ ー(=^・^=)君は、避難生活に適応できないため 留守番をさせた。 平成 17 年 3 月 20 日 その日は、土木工学科 2 期生の同級会が蓬平温泉 蓬莱館であった。総勢 17 人、宴会まで 30 分ほど間 があるのでみんなで風呂に入っていて、私は 5、6 人と露天風呂で歓談していた。そこへガーンと来た のです。ものすごい衝撃音がしたので、瞬間、直ぐ そばに飛行機でも墜落したかと思った。湯に浸かっ ていたため、揺れはほとんど感じなかった。とにか く、裸で逃げるわけにもゆかないので脱衣場へ走り、 パンツを探した。脱衣場は、非常灯がついていたが、 蛍光灯の傘が落ちていたり、服が散乱したりでかな り混乱していた。「皆さん大丈夫ですか !」と旅館の 仲居が駆けつけて来たが、スッポンポンのわれわれ を見て「どうも失礼しました」と、あわてて戻って 行った。 その後は部屋に戻ることが許されず、宿泊客全員 1 階のロビーで浴衣、丹前で過ごした。第 1 回目の 情報は、夜 8 時頃「震源は津南町」という。私の家 は小千谷、だいぶ離れているので、少し安心したの もつかの間、第 2 報は「震源は小千谷、壊滅状態。 この温泉近くの橋が落ちたので長岡へは通行不能」 ギョッとしたが「明日は、山古志をまわって帰れば いい」などとのんきなことを言っていたら、ヘリが 何機もやってきた。さすがにまずいことになったと 思ったが、とにかく正確な情報が入らない。東京か ら来た一人が自宅に携帯がつながり、ようやくテレ ビ報道を聞くことができた。自宅に携帯がつながっ たのは翌朝だった。 炊き出しの朝食をいただき、旅館から追い出され たわれわれは、徒歩で帰ることにした。全員現役の 土木技術者で、選ばれた 2 人が 2 キロほど先まで偵 察した結論だった。途中、がけ崩れの上を越えたり、 火災で全焼した家、ほとんど崩れた石垣、大きく傾 いた家、強烈な匂いの酒屋、新幹線が横倒しになっ ている下も通った。見たこともない光景ばかりだっ た。村松で皆さんと別れた私は、幸運にも越路橋の 手前で車に拾っていただくことができた。東京をは じめ遠くから来ていた人たちは、帰宅するまで大変 な苦労をしたことを後で聞いた。
蓬平温泉の露天風呂に浸かっていました
佐 藤 國 雄
20 新潟県中越地震体験記 10 月 23 日土曜は、新発田市勤労福祉会館に集ま った中学生達とそのご父兄達と共に、ペットボトル を使った砂の液状化実験を行って夕方学校に帰って きた。この実験のテーマが「ワッ ! 地震だ !」であ ったことは、偶然であった。学校帰着後、自分の研 究室で論文査読を始めて暫くして、突然の地鳴りと それに続く経験したことのない激しい揺れに、もし や校舎が潰れるかと、咄嗟に机の下に潜り込みまし た。 その直後机上のものは全て飛び、壁にネジ止めし てある書棚が倒れ書類等に埋もれましたが、ストー ブの周りに山となった書類を見て、 ガスを止めら れるのが先か、書類が燃え上がるのが先か と、咄 嗟に書類の上を滑りながらもストーブまで這って辿 り着き、ストーブを止めた直後に 2 回目の地震。再 び這って机の下に逃げました。それが収まって、「逃 げねば…」と閃き、履物も見付けている時間は無い ので靴下で書類の上を何とか渡り、廊下に出まし た。防火扉が閉まっていましたが、押したら開いた ので一階に降りたら水道管から水が噴出し、水浸し のタタキを走って玄関の扉を開けて校舎の外に出ま した。玄関のガラスは割れていました。 図書館と二号館を結ぶ渡り廊下の下に居たら 3 度 目の地震が起こり、 ここも危ない ! と、校舎間(一 号館・二号館・中央棟に囲まれた)の駐車場に逃げ たら、渡り廊下のサッシ窓が落ちて来ました。次い で、一号館前に飛び出してきた教職員達と雑談する 中で、経験も想像もしたことの無い激しい揺れだっ たので、「震度 6 プラスだろう」とやや適当なこと を申しましたが、後になってやはり高専は震度 6 強 だったことが分かり、 自分のセンスはまあまあか なッ ? 等と感じました。多分最初で最後の大地震 の経験でしょう。 官舎に帰ったら、犬のラビは落ち着かず、余震の たびにクルクル回るばかりでした。家財道具が大音 響と共に全て崩れていましたので、揺れのみならず、 その音の凄まじさに、犬ながらやや心身症になって しまったようでした。その後、テニスコートに集ま った寮生 200 名を食堂、次に体育館に避難させ、 土曜・日曜は体育館で夜を明かしました。月曜に寮 生達を帰省させ当分臨時休校とし、教職員で校内被 害調査を行ったところ、全ての研究室・実験室は書 棚・PC など倒壊率 50 ∼ 80%、実験装置・計測器・ データの損壊・消失甚大でした。 建物診断を外注しましたが、耐震診断結果がでる までに時間が掛かり、それまでは校舎(旧 3 号館)) が二つに千切れて 1m 弱水平変位した土木棟には立 入り禁止となってしまい、研究室、実験室の片付け すら出来ません。26 日からはなす術が無いので教 職員は交代出勤となりましたが、小生は安全な校舎 で寝泊りし、常時キャンパス暮らしを始めました。 27 日は、営業の噂を聞いて地震後初めて 15 キロほ ど離れたスーパー銭湯に行って垢を落としたのです が、上がって服を着ている最中に物凄い余震が発生 し、衣装ボックスに頭を突っ込みました。