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社会主義と市場に関する一考察-香川大学学術情報リポジトリ

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香 川 大 学 経 済 論 叢 第71巻 第4号 1999年3月 3-16

社会主義と市場に関する一考察

安 井 修

1 . 課 題 設 定 日本では,1989年から 1991年の政治的な激動があってからは,社会主義を論 ずること自体がきわめて少なくなっているような気がする。市場社会主義論は, 私を含めても論者の数は決して多くはないが,そうした状況のなかでは例外に 属する議論であろう。しかし,それほど悲観的になる必要はない。平等や連帯 を中心理念に掲げる思想が人間の歴史のなかから永久に消滅していくというこ とは,ほとんど考えられないからである。とすれば,問題は歴史のタイム・ス ノfーンをどのように考えるかだけである。 私は『市場社会主義論.~ (信山社 1998.1)を執筆したが,これはいくつか考 えられる社会主義論の一つでしかないと考えている。しかも,これが理想的な 形態にもっとも近いものだと必ずしも考えているわけでもない。旧ソ連型の社 会主義が崩壊した後,社会主義理念を論ずる時には,政治的には選挙を通した 民主主義的な政治体制の確立が大前提となっている。一党独裁はもはやありえ ず(もちろん,私自身はそのような体制を擁護したことは一度もないが),選挙

*

本稿は r経済と社会』第16号原稿として作成したものである。諸般の事情から,雑誌の 発行が中止されることとなり,拙稿も掲載されないこととなった。そこで,その原稿をこ こに掲載するものである。上記雑誌は専門家集団を対象としたものではないから,一般的 読者にもわかるような表現にしたつもりであるが,ここで掲載するにあたって,そうした 表現形態をあえて変更することはしなかった。なお,もともとの原稿では紙数制限があっ たので多少省略したところがあり,ここではそうした制限はないので,少し論述が増えた 形になっている。とはいえ,基本的な主張は変更していない。

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-4ー 香川大学経済論叢 1060 民の投票次第でいつも政権交代がありうる社会でなければならない。政治的な 体制がこのようなものであるのに対応して,経済的なシステムも同じように一 つのやり方しかないという考え方は放棄され,社会主義にはさまざまなヴアリ アントがあると考えるべきである。もちろん,そこには社会民主主義的な社会 主義も含めてであるが,マルクス的な立場に立つ論者にとっても一つしかない という考えはもはや放棄されるべきである。 たとえば,ここでは,高橋洋次著『市場システムを超えてA(中公新書 1996..

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)をみてみよう。題名は「市場システムを超えて」となっているが,その内容

は,基本的には市場システムを前提にして今後の方針をさぐるというものであ る。商品経済は,そのプラス面として,人間関係の豊富化をもたらすさまざま な交流の拡大・深化をもたらしてきたのであり,その意味では文明史的意義を もっている。と同時に,マイナス面もある。人々の親切や好意,思いやりといっ たものは人間の暮らしには必要不可欠なものだが,商品経済のもとでは入り込 まない。こうしたプラス・マイナス面を把握した上で,マイナス面を止揚して いけばよい。高橋氏が市場システムとその上に立つ資本制経済(その強さは競 争にある)のマイナス面を止揚するものとして具体的に提起するのは,大手スー ノfーが手掛けている製販同盟とか協同組合であり,もっと積極的にいえば,脱 エゴイズムとしての利他行動の可能性を拡大することである。 高橋氏は「市場システムは資本制経済以外の経済形態をも包含し得るという 点では,むしろ市場システムのほうが包括的な上位概念であるということにな るJ(54頁)としているから,市場の捉え方においては,われわれの市場社会主 義論と共通する側面をもっている。しかし,高橋氏の議論は市場の働きそれ自 身をどこかで制約するという発想があり,そこから人間の意識形態にまで言及 することとなる。それと比較すると,私の市場社会主義論は,市場をそれ故資 本の形式を全面的に導入し,労働力の市場や資本市場も全面的に展開されると する議論である(労働力の市場があるからといって,労働力が必ず商品化され るとする必要はないし,株式市場が展開されるからといって,資本主義のよう な分配関係が貫徹すると考える必要はない)。その意味では,資本主義の本質的

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1061 .社会主義と市場に関する一考察 -5ー な特徴を限りなく取り入れた上で,なおかつマルクス的な意味での社会主義が あるとすればどこまで可能かを問いつめようとした議論である。いまは右とか 左という区別に意味があるとは思えないが,あえて使用するとすれば,共同体 とか連帯についての言及はできる限り避け,資本主義的な合理性をとことん追 究しながら,なおかつ社会主義たらんとする議論であり,高橋氏の議論と比較 すると,もっとも右よりの議論となっているかもしれない。そうした幅広い社 会主義のヴ、アリアントのなかから,試行錯誤を経て,新しい社会の構築が模索 されるべきであろう。と同時に,試行錯誤のためには,今後考えられる社会主 義の理念は,一挙に全てのシステムを変更してしまうというようなドラス ティックなものであっては到底受け入れられないのであって,その意味では部 分的にも実現可能な案でなければならないだろう。もっとも,私の市場社会主 義論はそこまで詰めた議論を展開しているわけではないが。 本稿では,私の市場社会主義論を再度展開することはしない。むしろ,市場 を全面的に導入するという議論を展開している人間として,市場がもっマイナ スをどう総括しておくかを問うものである。問うとすれば,もう一度マルクス に立ち返ってみる以外にないだろう。但し,いままで行われてきた論争に言及 することはしない。社会主義社会に市場を導入するという議論に立って,マル クスの議論を総括してみるだけである。 II.マルクスの物神性論 ま ず 資 本 論 』 第

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巻第

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章第

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節「商品の物神的性格とその秘密」から確 認しておこう。マルクスは物神的性格を次のように与えている。商品関係の下 では,人間労働の社会的性格(社会的分業関係)が直接的にはあらわれないで, 労働生産物と労働生産物の関係として間接的に示される。即ち,労働生産物は ある値段で買われてはじめて,社会的な分業の一環であったことが証明される のである。それは,あくまでも事後的・間接的にである。ところが,人間には そうしたことがむしろ当然のように見えてくる。即ち,人聞には,労働生産物 はそうした社会的属性をもって生まれてくるのだというように見えてくるので

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- 6ー 香川大学経済論叢 1062 ある。それは,誰もが相手を認知するのは,市場に出ていって相手の労働生産 物に出会った時であるから,労働生産物を通した事後的・間接的なやり方が普 通のやり方だと思えてくるからである。以上が物神的性格と言われるものであ る。ここでマルクスが明らかにしていることは,商品関係は社会的分業を編成 する一つのやり方(事後的・間接的なやり方)であるが,にもかかわらず,そ のやり方がそれしかないというように当事者には見えてしまうという点であ る。 マルクスは,その後,商品世界が繰り広げる奇怪な出来事は,他の生産形態 に逃げ込めば,たちまち消えてしまうと書いて,孤島で一人暮らすロビンソン 物語,ヨーロツパ中世の農奴と領主のような封建的生産関係,農民家族の素朴 な家父長的な勤労形態と話を進めていく。しかしながら,ロビンソン物語では, そもそも労働が社会'性を持っていないし,封建的生産関係でも家父長的な勤労 形態でも,労働をめぐる人と人の関係が物と物の関係として変装されていなく て,直接的に社会的な形態を取っていることは事実だが,その形態が社会全体 を編成しているわけではない(封建的生産関係でも部分的には商品関係が存在 したわけである)ので,商品関係との比較としては必ずしも適当ではないかも しれない。これに対して,マルクスが最後に述べる「自由な人々の共同体」で は,一つの社会全体が考察対象になっており,社会的な分業の編成システムが (商品形態とは異なる)直接的に社会的な形態で行われることとなっている。 マルクスは[""自由な人々の共同体」のなかでの社会的な分業の編成では,各 生産者の手にはいる生活手段の分げ前が各自の労働時間によって規定されると 前提すれば,労働時聞は二重の役割を演ずるとする。即ち,労働時聞は,一方 では,需要に対応した生産を実現するための尺度となり,他方では,個人が社 会に提供した労働を(それ故分配される大きさを)測る尺度となる。このよう に,社会全体の分業を編成するシステムとして,事前的・直接的なやり方があ ることを提示することによって,物と物の関係としてはじめて実現すると当事 者には見えてしまうという点からは,もはや完全に自由になるだろう。 そうした上で,マルクスは「人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ

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1063 社会主義と市場に関する一考察 - 7ー 社会的関係は,ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純であ る」としている。いうまでもなく,-透明で単純である」という言い方のなかに は,商品形態でのやり方が「透明でなく,単純でもない」という批判(市場の マイナス面への指摘)がある。但し,旧社会主義の核となったものは「自由な 人々の共同体」ではなく,国家的所有という組織形態であった。その意味では, マルクスが考えた「自由な人々の共同体」は実現しなかった。しかしながら, 国家的所有の下で,社会的分業関係を編成するシステムとして考えられたもの は,マルクスがここで書いているような労働時聞を尺度とするものであった。 そして,マルクスは,事前的・直接的なやり方が「透明で単純である」と書い ているが,実際の歴史が証明したことは,透明ではなく単純でもなかったとい うことである。このことは,マルクスのように「自由な人々の共同体」を前提 とした時でも同じように考えなげればならない大きな問題である。 まず,単純という点を検討してみよう。一国経済全体を計画経済で編成する 作業は,膨大なものであった。そして,そうした膨大な作業を実行することは 非常に難しいものであっても,何らかの形で年度毎の計画案を作成しなければ ならない。したがって,計画とは名ばかりのものが旧社会主義では作成され, それに基づいて生産・分配・支出が進行していったのである。もちろん,資本 主義国で展開された情報・通信革命が本格的に採用されていたら,こうした膨 大な作業を短い時間で処理でき,計画の名に値するものが作成され,実行され たかもしれない。その意味では,単純に行われうるかどうかの最終的な結論は 出ていないのかもしれないが,少なくとも,マルクスが考えたようには単純に はいかなかったという結論は出してもよいであろう。 しかし,問題は,単純かどうかより,透明ではなかったという点の方にある。 旧社会主義のように中央計画当局が計画を作成する場合,その情報は<上から 下へ><下から上へ>と流れてくることとなり,それらの情報を集約して最終 的にはノルマとしての命令が上から下へと流れることとなる。その時,情報は マルクスが考えたように透明なものではなかった。むしろ不透明な,正しくい えば誤った情報が流れていくこととなった。しかも,誤った情報は計画経済の

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8- 香川大学経済論議ー 1064 作成という観点からは誤った情報であるが,情報の発信者としてはむしろ合理 的な情報であった。この点にこそ,最大の問題があったのである。国家的所有 の下での社会主義的企業は,ノルマを楽に達成したいと考え,そのためには生 産量は少なし生産のために必要な生産手段や労働量は多めにすることが必要 であり,そのように情報を操作することとなった。それこそがこのシステムで は,合理的な行動様式であった。この問題は,情報・通信革命がいかに展開し ようと解決する問題ではない。もっとも,マルクスが「自由な人々の結合体」 として考えているものは,中央計画当局が計画案を作成するようなものではな く,共同体相互の協議のなかで,労働時間を軸として生産も分配も決めていく というものであるかもしれない。しかし,もし協議のようなもので決めていく とすれば,これまた大きな時間と労力(コスト)がかかるものとなるであろう。 こうしたコストが小さくなるためには,人間の欲望を人聞が自ら制御できるよ うな体制に移行しなければならない。同じように,中央計画当局が計画を作成 する場合を考えると,間違った情報が流通しないためには,人間の欲望を制御 できるような体制に移行しなければならない。要するに,どちらにしても,人 間の意識変革が本格的に進行しない限り,見果てぬ夢に終わることとなる。 III.マルクスが『資本論』で想定した世界 以上のようなマルクスの捉え方の限界はどこから生まれたのであろうか。も ちろん,マルクスが現実の社会主義社会を経験しなかったからというのが最大 の理由であろう。しかし,問題はそれだけではない。われわれは,マルクスの 経済学体系それ自身にそうした捉え方をする理由があったのではないかと考え る。 マルクスが『資本論』体系で描こうとしたのは,基本的には平均的な世界で あり,競争世界は別に考えるというものであった。たとえば,われわれが人間 ドックに入ると,さまざまな写真を撮るが,平均的世界というのは,あの写真 と同じである。最近では,脳の断層写真まで撮れるから,体の異常なところが かなり正確に把握できる。しかし,あの写真は,その箇所の動きやそれぞれの

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1065 社会主義と市場に関する一考察 9-箇所相互の動きを撮るものではない。人間という有機体が活動するためには, そうした写真では把握できないものも理解しなくてはならない。それが,マル クスの競争世界である。経済の現実の動きを把握するために,個別資本の競争 過程や資本と労働者との競争・対立等を問題としなければならない。 大事な点、は,平均的な世界と競争世界は別のものであるが,同時に,相互に 関連があるということである。もし,マルクスが競争過程を全面的に対象とし ていたら,事前的・直接的なやり方(旧社会主義的な方法)と事後的・間接的 なやり方(商品形態的な方法)の長所・短所が明らかになっていたであろうし, そのためには,たとえばミクロ経済学が展開しているような分析装置が必要と なったであろう。そうしたら,たとえマルクスのように平均的な世界を叙述す るとしても,もはや「透明で単純である」とは断言することはしなかったであ ろう。 かくして,以上のようなマルクスの見方の限界を踏まえてみると,われわれ は他の生産形態に逃げ込んだ時の記述を次のように訂正すべきであろう。他の 生産形態に逃げ込めば,別のやり方があることがわかる。その意味で,われわ れは商品の物神的性格の呪縛から解放される。但し,別のやり方があることは わかったが,別のやり方と商品形態のやり方との優劣は簡単には決められない。 社会の規模という問題もあるし,生産力の発展段階という問題もあるし,最終 的には人間の意識状態の問題もある。したがって,われわれはここでさまざま な条件を冷静に判断した上で,どのやり方を採用するか考える必要があるとい うことになる。たとえば,旧社会主義の歴史を総括するなら,旧社会主義のよ うなやり方もあるが,いまの状況(生産力,人間の意識形態)では社会主義社 会での商品形態の利用という道も十分考察の対象に入ってよいのでないか,と。

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疎外論から物象化論への展開 われわれは,社会主義社会での商品形態の利用という観点から,マルクスの 「物神的性格とその秘密」を読み直してきた。読み直した結果として,商品形 態がもっプラスの側面を積極的に評価することとなっている。では,商品形態

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10 香川大学経済論叢 1066 がもっマイナスの側面をどのように評価したらよいのであろうか。 その問題を考えるために,マルクスの学説的な展開過程を振り返ってみるこ とから始めることとしよう。まずは経済学・哲学草稿』である。その第一手 稿に「疎外された労働」がある。第一手稿は,まず「労賃J i資本の利潤J i地 イ吃」という三つのパートがあって,そこでは,国民経済学が説く内容が紹介さ れている。マルクスはそれを踏まえて,国民経済学はこれを「理解(ベグライ フェン)しない」と批判する。その意味は,国民経済学は私的所有から資本主 義の現実を説明しようとするが,マルクスは,私的所有自体が疎外された労働 から説明されねばならないと批判する。では i疎外された労働」の中身はいか なるものであったのか。ここでは,後の『資本論』にいかに継承されていった かという観点から整理してみよう。 第一の疎外された労働は,次のような構成になっている。労働生産物は,人 間労働が一つの対象に固定化されたものであり,労働が対象化された物である。 ところが,労働者は,その労働生産物を喪失し,更に労働生産物の奴隷となる, と。まず,労働生産物を喪失するという点を考えてみよう。喪失といっても, 社会的分業を前提する限り,人聞は自分が作った物が自分の物とならないこと はむしろ当然である。したがって,喪失という言葉が意味をもつためには,社 会的分業の下で,商品交換が行われ,自分の商品は他人に,他人の商品が自分 のものとなるが,その交換の結果得るものが,自分が対象化したすべてではな いということが説明されなければならない。そのためには, (労働しない=対象 化しないところの)資本家による搾取が説明されねばならない。また,マルク スは,喪失だけでなく,その喪失関係がますますひどくなっていく(貧困になっ ていく)と説明しているから,その搾取関係が再生産される過程も説明されな ければならない。後の『資本論』のなかで継承され発展されていったものから 捉え直すなら,これらの内容は,商品論・搾取論・蓄積論によって解明されて いく内容であり,それが『経哲草稿』の段階では直感的に語られているという ことになる。そして,労働生産物の奴隷になるという観点も~.資本論』体系か ら読み直すなら,搾取の成立・貧困の蓄積を通して,資本の労働に対する絶対

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1067 社会主義と市場に関する一考察 -11ー 的な支配が確立し,その結果として,労働者の奴隷状態が成立するということ になるであろう。このような展開を振り返れば,私的所有を疎外された労働か ら説明するべきだというマルクスの主張も理解できることとなる。 第二の疎外された労働は,疎外が生産の行為のなかで現れるものであり,労 働の活動そのものが疎外され,苦行で強制労働となるとする。他方で,マルク スは,人間の意識的な生産活動をもって,人間の類的存在であると規定した上 で,生産活動が生存のための一手段にすぎなくなることを第三の疎外された労 働と規定するから,第二、の疎外された労働と第三の疎外された労働は,同じこ とを後者は人間の本質に遡って再規定したものであると考えることができる。 『資本論』レベルからこれを明確にするなら,これは「相対的剰余価値の生産」 の「分業に基づく協業」や「機械制大工業」のところに対応する。即ち,労働 が細分化され全体との関連を喪失していく局面や労働が単純化され労働の意味 を喪失していく局面こそが後に展開されていく内容となる。 第四の疎外された労働は i人間からの人間の疎外」である。人聞の労働生産 物が疎外され,それが自分に対して敵対的なものとなる(第一の疎外)が,そ うしたことが人間と人間の関係のなかでもあてはまることとなるとされてい る。叙述は少ないが,これは,後に物象化論という形で発展していく内容をもっ た議論である。 このように i疎外された労働」で展開された内容は資本論』ではより深 い内容をもってさまざまな箇所で継承されていったことがわかる。その意味で は,疎外論は物象化論だけに継承されていったわけではない。しかし,本稿で は,商品形態がもっマイナスの側面を分析することが中心課題であるから,第 四の疎外された労働がその後物象化論としてどのように継承されていったかを みてみることとしよう。 そこで,次に取り上げるべきは w経済学批判要綱』である。 r要綱』の「貨 幣に関する章」は,貨幣の導出が中心軸となっているから,貨幣の力(貨幣物 (1) 広松渉著『物象化論の構図』岩波書庖 1983..1168頁

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-12ー 香川大学経済論叢 1068 神)のような説明がまず出てくるが,本来その前に説明されるべき商品論,特 に価値論も事実上与えられており,そのなかでは,疎外論が物象化論として明 確に与えられている。即ち,そこで、は,生産の社会的性格が諸個人に対して疎 遠なもの,物象的なものとして現れ,それが諸個人から独立して存立し,諸個 人はそれに服属させられるとされているのである。その意味では~.要綱』は, マルクスの物象化論の出発点にあたる位置を占めるといってよい。そして,も う一つ忘れてならないことは~要綱』では,生産の社会性が表現される第ーか ら第三段階までの歴史的展開過程が与えられており,第二段階が全面的な物象 的依存関係にある段階であるのに対し,第三段階(未来社会)は,それを克服 する形態として与えられているということである。こうした歴史と論理の組み 合わせは要綱』独特の議論ではあるが,われわれは,こうした問題提起がそ の後どのように扱われていったかを分析することは非常に重要であると考え る。 『要綱』に続く『経済学批判』では,物神的性格という議論がはじめて登場し てくる。その登場の仕方は次の通りである。即ち,商品の

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要因を説明した後, 交換価値の実体が抽象的人間労働であると説明する。ところが,抽象的人間労 働がどこでも交換価値の実体となるわけではない。そうなるのは,労働の社会 性のあり方に規定されているとして,家父長制的農村工業等をあげ,そこでは 交換価値の実体にならないとする。そして,それらと比較する形で,人と人の 社会的関係が物と物の社会的関係としてあらわれる場合(それを明示的に示す なら,私的所有と社会的分業が支配する場合というべきであろうが)を提起し, この場合こそが抽象的人間労働が交換価値の実体となる社会性のあり方だとす る。そして,その後に物神的性格と『資本論』で呼ばれる議論が登場してくる こととなる。 『経済学批判』の展開を受けた『資本論』初版では,物象化論が商品論を総括 するような最後の位置に置かれ,しかも,まず商品の神秘的な性格の説明から (2) rマルクス 資本論草稿集①』大月番庖 1981.7138頁

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13-始めるという構成に変化する。そして資本論』第二版以降になると,新しく 第4節が設けられ,内容的に大きな変更はないが,展開の順序が変更される。 社会主義と市場に関する一考察 1069 ここでは繰り返さないこととする。 このようにみてくると,疎外論が物象化論・物神性論として受け継がれていっ た経緯はより明確になった。物象化論と物神性論の関係は次にみることとして, 詳しくは,本稿

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でみたので, ここでは, での歴史的展開過程の説明が, 取り上げることとしよう。即ち経済学批判』では価値論が最初から中心命題 として登場してきて,歴史的生産形態は,その論証のなかで,生産の社会性が 交換価値の実体になる場合とならない場合の比較の例(だから, もはや段階で と こ ろ が 資 本 論 』 で は,価値実体規定のところでは商品形態がもっ社会性への明確な言及がなくな り,とりあえず抽象的人間労働が生理学的な意味での人間労働力の支出とされ, 社会性への言及は第3・4節にまとめられることとなる。『資本論』のこうした 位置づげは,マルクスの価値論にとって画期的な意味をもつこととなるが, うした変化と対応して, (資本制以外の他の)歴史的生産形態は,先にみたよう そこに移れば物神性がたちまち解消する例として取り上げられることと なった。要するに要綱』には「第二段階は第三段階の諸条件をつくりだ、す」 という表現があったから,未来社会のあり方が発展段階的に捉えられていた。 ところが,最終的には『資本論.~のように,他の生産形態が物神性を解消させ

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-『要綱』にあった(生産の担会性が表現される)第ーから第三段階ま その意味を大きく変化させていったことだけを そ はなくなっている)として取り上げられることとなる。 その意味は根本的に異なったものとなら そうであるとすれば,未来社会は必然的に商品形態を シ ﹄ る な ヂ ﹂

よ る れ h ﹀ え o E ι 川問、 A μ 日 ν f t ' v て な し え と か } 例 る る ざ そして, 否定したものでなければならないというものではなくなるのであり,未来社会 (3 ) そうであるなら資本論』冒頭の「生理学的な意味での人間労働力の支出」という価 値実体規定は r暫定的」な規定でなければならないとしたのが広松の主張であった。 (4 ) なお,そうした『資本論』での扱いは初版ではまだそれほど明確ではない。われわれは, 本稿で『資本論』の「商品の物神的性格とその秘密」のところの他の生産形態に逃げ込ん だ時の記述は訂正すべきであると主張した。この訂正は,現行『資本論』を読む限り少し 無理な解釈のようにみえるが要綱』からのマルクスの学的変遷過程を振り返ればそれ ほど無理なことではないだろう。

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14- 香川大学経済論叢 1070 を考える自由度がより大きなものとなっているのではないだろうか。マルクス はそうしたところまで議論を展開していないが,われわれのように社会主義社 会に市場の導入を考える議論というのも,実は(マルクスが学的探求過程で無 意識に大きくした)未来社会を考える自由度を活用して,別の道を模索したも のだと言えなくもない。 V. 結 語 われわれは,マルクスの物象化論の形成過程を明らかにするなかから,再び, 社会主義への市場の導入を正当化する議論を展開することとなった。したがっ て,結局は,市場がもっマイナス面をまだきちんと評価することとなっていな し) 0 問題は,マルクスの叙述自体がそうなっているのであるが,物神性と物象化 とを同じように取り扱ってきたことにある。物象化論というのは,人間本来の ものがそうでないものに転化してしまう(何かに一具体的には価値法則に一操 られて,そうなってしまう)という議論であるから,疎外論に近い議論である といってよい。マルクスの学説を追う限りでは~.要綱』で疎外論を受ける形で 物象化論を提起しておきながら,それが『経済学批判』以降では,新しく物神 性論を展開し,その内側に物象化論が組み込まれるようになっていった。その ような展開過程に影響されて~.資本論』段階でも,まだ物神性論と物象化論と が明確に区別されないままになっているのである。そこで,以下では,これを 明確に区別することとしたい。われわれは,物象化とは,物と物の関係が織り なす関係(価値法則)に人聞が翻弄され,人間性が歪められていくという側面 であると限定的に考えたい。いうまでもなく,労働の社会的性格を物と物の関 係で示すことが物それ自身の属性であるかのように見えること(物神性)があっ てはじめて,物象化は定着し強化されるものであるが,だからといって,物象 化と物神性が同じものであると考える必要はない。われわれは,物神性の呪縛 (5 ) 拙 著rr資本論』の競争論的再編J(香川大学経済学会 1987.9)の「第1章第6節 物 象 イじ・物神化論J(物神性と物象化の違いは見回宗介の理解に依拠している)を参照されたい。

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1071 社会主義と市場に関する一考察 -15ー からは解放されたが,だからといって社会主義社会でも商品形態を否定しない。 むしろ利用する。社会主義社会で商品関係を利用するとすれば,物象化の問題 は依然として残された問題となる。 このように区別した上で,最後に,物象化の止揚についての私の考えを述べ ることとしよう。物象化という現象では,労働がもっている社会性=共同性が 疎外され見えなくなることが前提にあるから,結果として自己を絶対化してい くこととなる。つまり,所詮他人など頼りになるものか,頼れるのは自分だけ だ,というわけである。そして,自分が自分であることを確信できる場は,商 品と商品が織りなす関係のなかにしかないから,そこで貫徹する価値法則に従 属した生き方を自ら選び取ることとなる。これを止揚することはいかに可能と なるのか。否,そもそもすべてを止揚することは必要なのか。私は,頼れるの は自分だけだという意識は,個の確立という意味ではすべて否定される必要は ないと考える。しかし,価値法則で勝者になることが人間として生きているこ との唯一の証であるとすれば,それにはもっと別な生き様もあるのではないか と問題提起したいと考える。 ここで,もう一度高橋氏の主張に戻ることとしよう。高橋氏は,価値法則に 支配される生き方を止揚する時,人間そのものも「存在は関係である」という 観点から,人間相互の本来の関係を再構築したらよし、それこそが物象化の克 服であると考えているようである。製販同盟にしても協同組合にしても,更に, その著作で展開されているさまざまな主張にしても,そうした関係性=社会性 を再構築する試みであろう。それは,新しい社会を構築するための理念の一つ であることに変わりはない。しかし,私はいまそのような方向を提示するつも りはない。価値法則に支配されないで,自己の生き方を自らきちんと見つめ直 していく方向を選び取りたい。とりわけ,会社人間として,会社という疑似共 同体のなかで,疑似共同体全体として価値法則の勝者になろうとして戦ってき た戦後の多くの日本人を想うとき,私は,まず,そこでの勝者の意味を問い直 し,続いて,疑似共同体の解体=自己の確立こそを提起したい。

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年代になって,日本経済は戦後経験したことがないような長い不況過程

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-16- 香川大学経済論叢 1072 を経験している。この不況過程で,先日まで勝者だと思ってきた人聞がいつの まにか敗者に転化している。日本的経営を経済学者までが高く評価していたの は,まだこの間のことであったが,いまは悲観論ばかりが横行している。そう した上部構造は別として,下部構造としての資本の論理は冷徹である。この冷 徹さは,単に不良債権問題に集約される金融機関のあり方によってだけ作りだ されているのではない。「日本的システムの制度疲労」という言葉が使われ始め ており,それだけ大きな転換点にいま立たされているのである。その転換点こ そが,われわれ一人一人に冷徹なほどの変化を強制しようとしているのである。 そして,最終的にはシステム全体をオーバーホーJレするなり,ハイブリッド型 のシステムに作り替えたりする時代に突入するのだろう。しかし,われわれは それを黙って甘受する必要はないと考える。むしろ,われわれは,古い言葉に 戻るが

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固の確立」こそをいま提起すべきではないかと考える。

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年代を支 配した「市場万能主義」に対するアンチテーゼは,<市場の役割を否定できない 以上,市場の機能を相対化する>くそのために市場から距離を置いて生きてい く「個」を確立する>,いまのところ,これしかないのではないか。 もちろん,私は,高橋氏のような主張も否定しないが,少なくともそうした 関係性の構築はもっと先に考えたらよいと思っている。さもないと rまた転け る」というのが私の印象である。私が,本稿の最初で,私の立場はもっとも右 よりの議論かもしれないといった意味がここにある。いまは,ローマーの市場 社会主義論のように,社会主義的なるものは,クーポン券の売買禁止のような 制度的枠組みで規制できる範囲内でよいのだ,と。

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