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ヴィゴツキーを超えて? : ウエルチ『心の声:心的行為への社会-文化的アプローチ』を読む

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(1)

ブ ィゴツキー を超 えて

?

ウエルチ『ッ

いの声

:心

的行為への社会一文化的アプローチ

(1も

を読む

教育心理学教室

1

はじめに

高 取

一 郎

わたしはこれ まで しば しば

,世

界 のヴィゴツキー研究者のなかの二人の有力 な心理学者であると ころの

,オ

ラングのファン・ デル・ ヴェール とアメ リカのウエルチの仕事 に注 目して きた。先 日, ウエルチか らその最新 の著書 『′いの声 :心 的行為への社会 一文化的アプローチ』の原稿がわた しの 手元 に送 られて きたので

,

これを機会 に彼 とわた しのあいだに横 たわ る一つの共通 の問題 について 検討 を加 えてみることにす る。 その問題 とは

,ヴ

ィゴツキー理論 によって社会 における個人 の問題 はどこまで解 けるか

,換

言すれば

,ヴ

ィゴツキー理論 はそのパースペ クテ ィブのなかに

,彼

の学派 が冠せ られているとお りに

,人

間の行動 と心理 の文化 ―歴史的 (社会的 も含む

)解

明 を可能 にす る 分析枠組 みを備 えているかいなか とい うことである。 わたしは

,近

著,『ヨー ロッパ′い理学 との対話十一 ブタペス トで考 えた こと』(京都・法政出版1990 年

)の

なかで

,以

上 のような論点 におけるヴィゴツキーの不十分性 について触れ

,そ

れを乗 り超 え る一つの視点 として

,ハ

ンガ リー科学 アカデ ミー心理学研究所 のパ タキお よびエル シュの歴史心理 学

,さ

らにフランス・ス トラスブール大学のプラデルの歴史民俗学的心理学研究 を提 出 しておいた。 一方

,ウ

エルチ は

,わ

た しと同様 の試 みのなかで

,す

なわちヴ ィゴツキーを乗 り超 えるとい う試み のなかで

,か

ねて よ り

,ブ

ィゴツキーの同時代人バ フチ ンの理論 に依拠すべ きことを主張 している。 ウェルチがはじめて このような論点 を打ち出 したのは

,1984年

の論文「行為理論 における分析 の 多層性・ ちにおいてである。そのなかで彼 は

,ま

だ素描的な段階であるとことわ りなが らも

,次

のよ うな議論を展開する。 まず

,行

為 を分析する際の分析水準を三段階に設定する。すなわち

,①

個人 的水準

,②

微社会学的水準

,③

巨社会学的水準

,で

ある。従来の心理学研究においては

,①

の水準 の分析 はピアジェに典型的に見 られるのだが

,人

間 とものとの相互作用の分析を特徴 としている。 ②の水準の研究 は

,ボ

ール ドウィンや ミー ドを継承 したコールバーグやセルマンに見 られ

,そ

こで は人間 とものとの相互作用ばか りではな く

,人

間 と人間 との相互作用の分析に重心を置いている。 ③の水準 は

,た

とえば人間疎外の問題 というような社会的規模の大問題 を含むのだが

,こ

のような 問題には心理学者 は関与 してこなかった。これらの問題 は,マルクスやルカーチらにより弁証法的・ 史的唯物論の立場か ら分析 されてきた。ただ

,心

理学者のなかでは

,ヴ

ィゴツキーのみが人間心理 の発達を究極的に支配 しているのはこれ らの原理であることに言及 しているのみであつた。そして ウエルチは

,上

の二つの水準を統合的にとらえることを可能 にする単位 は

,言

語的コミュニケーシ

(2)

高取憲一郎:ブィゴツキーを超 えて ? ョンであ り

,バ

フチ ンのコ ミュニケー ション理論 に依拠 してヴィゴツキー理論 を発展 させることに よってのみ

,ヴ

ィゴツキーのい うところの心の文化 ―歴史的理論 は完成 され ると考 える。 さらに彼 は

,そ

の後

,1985年

の論文「精神生活 の記号論的媒介:ヴィゴツキー とバ フチン°ものな かでバ フチンヘの検討 を本格的に開始す る。 しかし

,そ

こで はまだ

,以

下のような ことが指摘 され ているのが 目につ く程度で

,満

足 のい く論及 というには不満 を療す。すなわち,まず

,ウ

エルチは, 一般 によ く言われているように

,ヴ

ィゴツキー とバ フチンの共通点 (対話 の重視

,内

言 をめ ぐる見 解の一致

,意

識への社会記号論的アプローチ

,ス

ター リンによる抑圧 な ど

)を

確認 した うえで

,両

者の差異 を次の点 に求 める。 ヴィゴツキーの研究 は

,心

理学的メカニズムの水準 に重点 を置いた も のであ り

,バ

フチンの研究 は社会 一文化的水準 に重点 を置いた ものである

,

と。 そ して

,ヴ

ィゴツ キーの理論 は

,バ

フチ ンの内言の理論お よびイデォ ロギー論 により補強 されることによって

,発

展 させ られねばな らない

,

と。 さて

,本

稿 は

,以

上述べて きたような議論のレベルか ら出発す る。 ウエルチは

,バ

フチン理論 を いかに用いてヴィゴツキー理論 を補強 し

,発

展 させ ようとしているか。そ して

,バ

フチン理論 に依 拠 して

,

どのようにブィゴツキーを乗 り超 えようとしているか。

2

ウ エ ル チ 『′いの 声

:心

的 行 為 へ の 社 会 一文 化 的 ア プ ロー チ 』 の 検 討 まず

,ウ

ェルチ は序章で

,こ

れ までの心理学が現実の問題

,あ

るいは社会的な大問題ヘアプロー チで きなかった理由 は

,人

間の心的機能があたか も文化的

,社

会制度的 (institutional),歴史的な 空虚

(vacum)の

なかで営 まれているとみなしているか らである

,

とす る。すなわち

,

まず初 めに 個人 の分析があ り

,そ

の後で

,せ

いぜい付 け足 し程度 に上の三つの要因 (文化的

,社

会制度的

,歴

史的

)が

二次的な もの として考 えられているにすぎない。個人 を

,社

会 一文化的状況 より前 に分析 するので はな くて

,ま

ず もって個人 を超 えて個人 の外側へ出な くて はな らない。 このようなアプロ ーチ は

,従

来の心理学 のなかでは

,唯

,ヴ

ィゴツキー・ レオ ンチェフ・ ル リヤ学派のみが とって きた。 以上のウエルチの問題意識 は

,次

のようなヴィゴツキーお よびル リヤの見解 を言い換 えた ものに 他な らない。すなわち

,ブ

ィゴツキーによれば,「高次心理機能 の源 は

,魂

の深部 とか神経組織 の隠 された特性のなかに見 いだされ るべ きで はない。そうではな くて

,個

人 とい う有機体 の外部 に

,個

人 とは独立 に客観的に存在す る社会的歴史 のなかに見いだされ るべ きであるω」。これに付け加 えて, ヴイゴツキーの有名 な命題,「プbを発見す るには

,心

を棚上 げしなければな らない0」 もあわせ紹介 してお こう。 またル リヤはその神経心理学的研究 をぶ まえて次のように言 う。外的補助物 (外的刺 激)を用いての大脳皮質外組織化 による機能系の形成 とい う原理 に依拠することによって,「,い理学 は初期 の偏狭 な自然主義的限界 を超 えて

,自

然現象の社会的形成 の科学へ となった0」 ,「社会的 実践 の基本形式な らびに社会の史的発達の基本段階 に緊密 に依存 している心理過程 の構造について の科学 となる17j」 のである。 これ までの ところで明 らかなように

,ウ

エルチ は

,大

枠 においてはヴィゴツキーの立場 を

,当

然 ではあるが肯定的に評価す る。 しか し

,ヴ

ィゴツキーにはい まひ とつなにかが足 りない と言 う。つ まり

,ブ

ィゴツキーがお こなったのは大人 と子供 の間 に取 りお こなわれ るような

,個

人 と個人 の間 の関係 の記号論的分析 であった。 ヴィゴツキーの場合 は

,個

人 の心理機能の基底 にある社会的過程 の分析が不十分 なゆえに

,階

級闘争 とか疎外

,商

品崇拝 な どのような大規模 な歴史的

,社

会制度的,

(3)

鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 41巻 第

2号

(1990) 51

文化的プロセスヘの言及が まった く見 られない。すなわち

,ヴ

ィゴツキー は

,真

の意味での

,心

に 対する社会 一文化的アプローチを提 出す ることには成功 しなかった。 したがって

,ヴ

ィゴツキーが お こなったように

,研

究 の視野 を単 に心理間機能 の次元 にとどめないで

,よ

り広範囲の歴史的

,経

済的水準 にまで広げることが必要である。そのためには

,バ

フチンの発話 (utterance),声 (VOiCe),

社会的言語 (SOCial language),対 話 (dia10gue)と い う概念 を用いて

,ブ

ィゴツキー理論 を発展 さ せ ることが求め られている。(以上 のウエルチの議論 は

, 1章 , 2章 , 3章

よ りまとめた。) ここで

,ウ

エルチ も言及 しているヴィゴツキーの心理間機能か ら心理内機能への内面化 とい う思 想

,お

よび

,他

の箇所でウエルチが きわめて重視 している媒介 とい う概念 に

,ひ

とまず ウエルチを 離れて触れてお こう。 この両者 は

,ヴ

ィゴツキーにおいては

,個

人 と社会 を結びつ ける重要な鍵概 念 になっているか らである。 まず

,心

理間機能か ら心理内機能への内面化 について

,ヴ

ィゴツキーの指示身振 りの発達 につい ての説明

,ル

リヤの随意的注意の発達 に関す る説明

,お

よびヴィゴツキーの最近接発達領域 に関す る説明 を例 に検討 してみよう。 ヴィゴツキー は『精神発達 の理論』のなかで

,指

示身振 りを例 にしなが ら高次精神機能の社会的 発生 について論 じている0。 彼 によれ ば

,指

示身振 りの発達 には三段階ある。第一段階 は

,子

供 はな にかを把握 しようとして手 を空中に差 し出すが失敗す る。第二段階 は

,第

一段階の状況へ母親が介 入 して くる水準である。つ ま り

,子

供 の差 し出 された手 の意味 は母親 により解釈 され

,母

親 の援助 によって子供 は把握 しようとしていた ものを自分 の手 に握 らされる。すなわち

,母

親 は子供 の手の 運動 をなん らかの対象物 に対 する指示 として意味づ けたのであ り

,こ

こにおいて

,母

親 とい う他人 により初 めて意味が もち こまれたのである。第二段階 は

,そ

れ まで は意味 を付与す る母親 と

,自

分 の指示身振 りに母親 により意味 を付与 され る子供 とい うかたちで

,二

人 の人間の間 に分かち もたれ ていた指示身振 りという機能 (心理間機能 としての指示身振 り

)が

,あ

たか もひ とりの子供 のなか に母親 と子供が同居 しているかの ごとくに内面化 され る(心理内機能 としての指示身振 り)。 すなわ ち

,子

供 は自分 の身振 りの意味 を理解 し

,子

供 自身が 自分 の身振 りを指示 として取 り扱い始 める段 階である。 次に

,ル

リヤの記述 をみ よう。ル リヤは『ル リヤ現代 の心理学 (下)』 のなかで随意的注意 の発達 を以下 のように論 じている0。 第一段階 は

,母

親が子供 に「 これ茶碗 よ」と言いなが ら茶碗 を指差 し, 子供が茶碗 を見て茶碗 のほうへ手 をのばす。 この段階の注意 はまだ母親 か ら促 された ものであ り, 子供 はそれに従 っているだけである。つ まり

,こ

の段階では

,注

意 は命令す る母親 と命令 に従 う子 供 という二人 の人間の間に分かち もたれた機能

,す

なわち心理間機能 として存在 している。要す る に

,ま

だ自分の意志で は統御で きない不随意的注意である。第二段階 は

,子

供が,「これ茶碗 だよ」 と自分 自身で言いなが ら

,茶

碗 に手 を伸 ばしつかむ段階である。すなわち

,自

分で 自分 の注意 を統 御で きるようにな り

,随

意的注意が成立 したわけである。 この段階で は

,子

供 の内側 に

,こ

とばで 指示す る母親 とそれに応 えて行動す る子供 の両方が同居 しているかのような

,新

しい形 の内的な構 造

,す

なわち心理内機能 としての注意 の構造がで きあがったのである。さらに

,ル

リヤは第二段階, 第四段階 を付 け加 えているが

,そ

こで は子供 の言語的

,知

的構造が高度化

,複

雑化す るにつれて注 意の機能 もあたか も不随意的 にお こなわれ るかのごとくに

,き

わめて高度化 され ることを指摘 して いる。 ところで

,以

上見て きた二つの例 は

,ヴ

ィゴツキーの最近接発達領域 とい う概念 ともまった く同 一の構造 をもっている。ブィゴツキーによれば

,最

近接発達領域 とは「子供が独力でお こな う問題

(4)

高取憲一郎 :ヴ ィゴツキーを超 えて? 解決の水準 (現実的発達水準

)と

,大

人 の援助や助言の もとで

,あ

るい は自分 よ り能力 のある友達 の協力 の もとでお こなわれ る問題解決 の水準 (可能性 としての発達水準

)の

間の隔た りこの」である。 そして

,ウ

エルチ は

,こ

の現実的発達水準 と可能性 としての発達水準の間 に四つの段階 を区分 して いる。第一段階 は

,子

供 は大人 の助言や指導が よ く理解で きないで

,両

者 の言い分がかみあわない 段階。第二段階 は

,大

人 の助言や指導 に完全 にはまだ子供が乗 りきれない段階。第二段階 は

,基

本 的にはまだ大人 の指導下 にあ りなが らも

,子

供 は自分 の力で思考で きはじめる段階。第四段階 は, 子供 は完全 に自分 の力のみで思考 し

,問

題解決がで きるようになった段階である(1う。 この最近接発 達領域 の問題で は

,初

めは外部 にあった大人 の助言 とか指導 とかが

,子

供 の内部へ ととりこまれ, 心理内機能へ と転化 していった とい うことが重要である。 またそれ は

,別

の見方 をすれば

,大

人 の もっている科学的概念が

,大

人 と子供 の相互交渉 の結果 として子供 の内部へ ととりこまれ

,子

供が それ までにもっていた生活的概念 に変形 を力日え高めていった過程 とも考 えられる。 以上の三例 を通 じての共通点 は

,最

初 は外部 に存在 し

,し

か も大人か ら与 えられた ものである意 味 とか概念 とか ことば(要す るにブィゴツキーのいうところの記号

)が

子供 の内部へ ととりこまれ, 子供 の行動や心理過程 を統御す るようになった とい う点である。 ヴィゴツキーの表現 を用いれば, 「記号 は

,つ

ねに最初 は社会的結合 の手段 であ り

,他

人への働 きかけの手段 であって

,そ

の後での み自分 自身への働 きかけの手段 となる(12も とぃ ぅゎけである。だか ら

,ヴ

ィゴツキーの言 う心理間 機能か ら心理内機能への内面化 により子供 の内部へ ととりこまれるものは

,記

号 にほかな らない。 これが

,社

会 と個人 の問題 を考 える際のヴィゴツキーの中核 となる思想である。 ところで

,こ

の場合の記号 は

,ヴ

ィゴツキーが外的補助刺激 とか外的補助物 とか と呼んでいるも の と同 じものを指 しているのだが,言語 お よび道具 の ことだ といって もまず間違 いない と思われ る。 そうすると,それ は行動の媒介性 とい うヴィゴツキーの見解 とオーバーラップす る。周知 の ように, ヴィゴツキー は

,人

間 と環境 (物理的お よび人的環境 の両方 を含む

)の

間 に道具 と言語 を媒介 させ ることが

,人

間の行動の文化的で高次の形態 を保証す るとしたわけであるが

,人

間 はこの外部 の記 号である道具 と言語 をとりこむ ことによって

,自

分 自身 を形成す る。もちろんその場合 に

,大

人(ヴ ァルシナーの ことばを借 りると社会的他者(19)の援助 を介 してで はあるけれ ども。 したがって

,ウ

エルチ も指摘するように

,媒

介 とい う概念 は

,心

への社会的一文化的アプローチの もっとも基本的 な構成要因であ り

,媒

介 とは

,道

具 と言語が人間の行為のなかに編 み込 まれ

,そ

して道具 と言語が 人間の行為 を形成するプロセスである。 ここで注意 を喚起 してお きたいのは

,ヴ

ィゴツキーのイメージのなかにある社会 とい うのは

,道

具 と言語 を含 む記号お よび社会的他者か ら構成 され るものである。 この ことは

,ウ

エルチがすでに 指摘 しているヴィゴツキー理論 の不十分性 の問題へ とつながってい く。 さて

,再

びウエルチの議論 にもどろう。 ウエルチ は第二章で

,ブ

ィゴツキー を乗 り超 えるために 必要 となるバ フチンの主要な鍵概念 を検討 している。 それ らは

,発

話(utterance),声 (VOiCe),対

話性原理(dia10gicality),社会的言語(SOCiaHanguage)あるいは言語行為のジャンル(SpeeCh genres)

である。 まず

,発

,声,対

話性原理 の二つ は不可分の一体 となった関係 にあるので

,ま

とめて検討す る ことにしよう。 発話 は

,行

為 としての言語 コミュニケー ション(speeCh communication)の 単位 であ り

,そ

れ は, 言語 (language)の単位 としての文 (sentence)と は明 らかに区別 され るものである。なぜバ フチ ンが発話 を重視 したか とい うと

,発

話 とい うのは

,誰

,誰

に向かって話 してい るのか とい うこと

(5)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 41巻 第

2号

(1990) 53

が重要なので

,そ

こには話 し手である主体が存在 しな くてはな らない。つ まり

,バ

フチンの立場 は, 主体 の存在 しない言語の分析で はな く

,主

体 の存在す る言語行為 あるいは言語活動の分析 をしな く てはな らない とい う立場 である。 したがって

,分

析 の単位 は言語の分析単位である語 (WOrdS)や 文 ではな く

,言

語行為 の分析単位 である発話 になるのである。 次に

,声

であるが

,声

とは

,話

し手 あるいは話す人格 (Speeking personality),ま たは話す意識 (Speeking consciousness)と 定義 されている。そ して

,発

話 は声 によって

,す

なわち話す主体 によ って産出 されるとされる。 その うえに注 目すべ き点 は

,発

話 はそれ を産 出す る声

,す

なわち話す主 体 を反映 しているばか りで はな く,発話がそれに向って発せ られるところのい くつかの声(VOiCeS), すなわち自分以外 の他の主体

,あ

るいは聴 き手 をも反映 してい るとい う点である。 この意味で

,バ

フチンが

,誰

,誰

に向って話 しているのかが重要であ り

,発

話 は言語 コ ミュニケーションの一環 であ り

,お

互いに反映 しあってお り

,一

つの発話 だけで 自己完結 しているので はない と指摘 してい るのである

,

とウエルチ は述べている。 以上の ところで は

,発

話 とい うのが少な くとも二つの声 (自己 と他者

)を

反映 しているとい うこ とをみて きたわ けだが

,時

間的な側面か らみて も発話 は過去お よび未来 をともに反映 している。す なわち

,発

話 は言語 コ ミュニケーションの一つの環であることはすでに触れたが,それ は必然的 に, ある発話 はその前 の発話 に反応 し

,続

いて起 こる次の発話 を予知 していることを意味 している。 さ らに

,そ

のような反応 と予知 は

,現

に今 日に入 る範囲の自己 と他者 との関係 とか

,一

つの発話 の直 前

,直

後 の発話 とか とい うレベル を超 えて,さ らに広範囲の空間的

,時

間的な声

,す

なわち文化的。 歴史的な声 に反応 し

,そ

れ らを予知 している。 したが って

,対

話性原理 というのは

,こ

のような大 きなスケールにおいて捉 えられねばな らない

,

とい うことになる。 次 に

,社

会的言語

,あ

るいは言語行為 のジャンル とい うものを検討 してみよう。社会的言語 とい うのは

,あ

る時代 におけるある社会 システム内において

,あ

る特定 の社会階層(たとえば職業集団, 年令集団

)に

特有 の談話 の ことであ り

,社

会的言語行為 のタイプ (SOCial speech types)あ るい は 言語行為 のジャンル とほぼ同 じものを指 していると思われ る。バ フチンはこのような社会的言語 の 例 として

,方

言 とか専門用語

,世

代語

,年

令語

,党

や国家 に特有の言語 な どをあげているようであ るが

,わ

れわれ は無意識 の うちにある特定の社会的言語 に則 って

,そ

の社会的言語の枠組 みのなか で話 しているのである。む しろ

,な

ん らかの社会的言語 を使用 しないで発話 を生産するのが難 しい ぐらいであ り

,あ

る社会的言語 の枠内で話す ことによって

,わ

れわれの発話 は安定 した構造 をもつ といえるのである。 ウエルチは

,こ

の社会的言語 あるいは言語行為 のジャンル とい う概念 は

,心

へ の社会 一文化的アプローチに とって非常 に重要だ と言 っているわけだが

,た

しかにヴィゴツキーの 段階で は所属が不明であった人間が

,社

会的言語 とい う概念 を持 ち込む ことを通 じて

,あ

る特定 の 階層 あるいは集団に属す ることにより

,社

会的下部構造 との関係が はっ きりさせ られた と考 えるこ ともで きる。 次 は

,腹

話性 とい う問題である。腹話性 とい うのは,Ventriloquismの わたしな りの訳語であるが, 一つの声のなかに他者が住 んでいるとか

,あ

るい は

,あ

る声 は他 の声 を介 して話す とか と説明 され ているものである。要す るに

,あ

る一人 の人 の発話 は他 の人 の発話 を含 んでいる

,あ

るいは自分 の 属す る集団の社会的言語

,言

語行為のジャンルを含 む とい うかたちで他者 の声 を含 んでいるとい う ことである。その意味で

,あ

らゆる発話 は多声的 (mult OiCedness)で あ り

,対

話的であ り

,ポ

リ フォニーである。 この腹話性 とい うのは

,ヴ

ィゴツキーの心理間機能 の心理内機能への内面化 とい う見解 を社会的言語 の平面上で展開 した ものであるのをみて とるのは容易であろう。

(6)

高取憲一郎 :ヴ ィゴツキーを超 えて? 最後 に

,権

威主義的談話 と内的説得的 ことば とい う問題 を とりあげよう。 周知のように

,ブ

ィゴツキー は

,従

来 の心理学 に伝統的であった ところの

,刺

激 ―反応図式 を批 判 して

,彼

独 自の二重刺激法図式 を提唱 している。 そ こで問題 になっている基本的な考 え方 は

,人

間 は外部か ら人間に与 えられ る刺激 にただ受動的

,一

方向的に反応す るだけの存在ではない。 そう で はな くて

,人

間 は外部か ら入 って くる刺激 に対 して働 きかけ

,加

工 して

,新

しい刺激 (刺激 ―手 段

)を

造 り出 し

,次

には

,そ

の刺激 ―手段 を用いて

,最

初 の刺激 (刺激 ―対象

)を

新たな刺激 ―対 象へ と変化 させ

,そ

のように変化 させ られた全体的状況 のなかで自らの行動 を制御す る。 このヴィ ゴツキーの図式 は

,自

然 に対 して働 きか ける人間 とい う

,人

間の活動理論的モデルを刺激 一反応図 式へ と適用 し

,修

正 した もの といえよう。 さて

,以

上 のヴィゴツキーの刺激 ―反応図式 と二重刺激法図式の対立 は

,バ

フチンの権威主義的 談話 と内的説得的 ことばの対立 に照応す る。バ フチ ンによれば

,権

威主義的談話 は

,他

の声 との相 互活性化 を許 さず

,聴

き手 に対 して無条件の忠誠 を要求 し

,聴

き手が 自主的・ 創造的に考 えること を禁ず る。それ は

,い

わば静的で死 んでいるかのような意味構造 をもつ。バ フチンによれば

,そ

の ような権威主義的テキス トの例 としては

,宗

教的テキス ト

,政

治的テキス ト

,道

徳的テキス ト

,父

親 とか大人 とか教師の ことばな どがあるとい う。一方

,内

的説得的な ことば

,あ

るいは内的説得的 な談話 は

,話

し手 のメ ッセージを受容する過程で

,聴

き手 はそのメッセージに働 きかけ

,分

析・ 総 合 し再構成す る。すなわち

,内

的説得的なことばは

,話

し手 と聴 き手 の対話 の産物であ り

,そ

の半 分 は話 し手 の もの

,残

りの半分 は聴 き手 のものである。 そ こで は

,権

威主義的談話 と異 なって

,他

の声 との間の相互活性化が可能 とな り

,自

主的 。創造的な新 たな ことばの覚醒が生 じ

,外

に向って 開かれた,しか も他者 との連帯 のなかにある力動的で無限 に発展す る意味構造が出現す る。そして, このような内的説得的な ことばは

,異

思考混清 あるい は認識 の多元主義 を保証するものである。 ところで

,上

に述べた権威主義的談話 と内的説得的な ことばの対立す るイメージのなかに

,崩

壊 しつつあるソビエ ト型・ スター リン型社会主義お よび共産党一党独裁型国家 とそれに対抗す る民主 フォーラム

,あ

るいは市民 フォーラムのイメージを重ねあわせて読む ことは容易であろう。 以上 のように

,ブ

ィゴツキー を乗 り超 えるためにウエルチが用意 したい くつかのバ フチンによる 概念装置 を検討 して きた。 そ こで次に

,ウ

エルチが それ らを用いて

,現

実の社会問題 を分析 してい る例 をみてみ よう。 ウエルチ は

,現

在 のアメ リカ大統領 ジョージ・ ブ ッシュの1988年のアメ リカ共和党の大統領候補 者指名受諾演説 を分析 している。 ウエルチが分析 の対象 としたのは

,そ

の中の次の一節である。 「われわれ は

,過

去5年間 に

,1700万

もの新 たな働 き口を造 り出 した。 それ は

,ヨ

ーロッパ と日本 を合わせた数の三倍以上 もの膨大な数の働 き日である。 しか も

,そ

れ らの働 き口はいずれ も満足 の い く仕事 ばか りだ。過去

6年

の間に造 り出された働 き日の大部分 の ものの平均年収 は

, 2万 2千

ド ル以上である。誰か,『マイケルにメッセージ』を伝 えてやったほうがいい。彼 に

,わ

れわれ は

,良

い賃金の もらえる良い仕事 を造 り出 したんだ と言 ってやったほうがいい。実際の ところ

,彼

らはお しゃべ りだ。だが

,わ

れわれ はやったんだ。彼 らは約束す る

,だ

,わ

れわれ は実行す るんだ」(ニ ュー ヨーク・ タイムズ

,1988年

9月19日付) この一節 を

,ウ

エルチ はバ フチンに依拠 しなが ら

,以

下のように分析 してい く。 まず

,誰

が この演説 をしているのか。 もちろん

,単

純 な表面的な答 えはジョージ・ ブッシュであ る。 しか し

,少

し考 えてみれ ば

,こ

れ らの発話 のなかには他者 の声が含 まれていることがわか る。 まず第一 に

,こ

の演説 には政治的言語行為のジャンルに特有 の構造が含 まれている。た とえば,「実

(7)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 41巻 第

2号

(1990) 55

際の ところ

,彼

らはお しゃべ りだ。だが

,わ

れわれ はやったんだ。彼 らは約束す る

,だ

,わ

れわ れ は実行す るんだ」な どが

,そ

れ に当たるであろう。第二 に

,現

在の大統領選挙 キャンペーンの演 説用原稿 は

,候

補者お よび― ない し二名 のス ピーチ・ ライターの合作である。 そ して

,複

数 のライ ターによって書かれた第一次原稿 は

,次

に別 のライターお よび候補者 自身 によってさらに推敲 され てようや く聴衆 の前 にだされ るのである。すなわち

,聴

衆 はその演説のなか に

,声

のポ リフォニー を聴 くことがで きるのである。 さらに

,こ

のブッシュの演説 のなかには対話性原理 も含 まれている。 まず第一 に

,ユ

ニークな声 と声 との間の対話的な出会いである。すなわち

,ブ

ッシュ と民主党大統領候補 のマイケル・ デュカ キスの声である。そして

,そ

の対話的出会 いは

,パ

ロディーになっている。 た とえば

,ブ

ッシュの 演説のなかの一節「彼 に

,わ

れわれ は

,良

い賃金 の もらえる良い仕事 を造 り出 したんだ と言 ってや ったほうがいい」 は

,そ

の例 である。 とい うのは

,1988年

のキャンペー ンで

,マ

イケル・ デュカキ スは,「良い賃金 の良い仕事」を造 り出す必要性 を常 に主張 していた。 このデュカキスの主張 は

,民

主党の次のような見解 に支 え られていた。すなわち

,た

しかにレーガン大統領時代 に新 しい仕事が 造 り出されたが

,そ

れ らの多 くは臨時的で

,低

賃金で

,付

加給付 を欠いた ものであった。 このよう なデュカキスの批半Jに対 するブ ッシュ と彼 のス ピーチ・ ライターたちの反撃 のための戦略 は

,デ

ュ カキスの ことばに公然 と反対 す るので はな くて

,デ

ュカキスの ことばを借用す ることであつた。す なわち

,彼

らは

,ブ

ッシュの声 とデュカキスの声が同時 に存在す るとい うこと (腹話性

)か

ら生ず るパロデ ィー効果 をね らったのである。 第二 の対話性原理 は

,聴

衆がプ ッシュの演説 を理解するプロセス は

,ブ

ッシュの発話 と彼の演説 を聴いている聴衆 の側 の発話 (明示的であれ暗示的であれ

)と

の間の対話的出会いを含む とい うこ とである。当時の

,共

和党大会会場 には

,約

3000人 の聴衆がいたが

,そ

の3000の声がブッシュの発 話 との間にそれぞれ相互交渉 をお こなうことにより

,ブ

ッシュの発話 は3000通 りもの異 なる解釈 を されていたのである。 第三の対話性原理 は,「誰か,『マイケルにメッセージ』 を伝 えてやつたほうがいい」 というフレ ーズに関わっての ものである。 この『マイケルにメ ッセージ』とい う部分 は

,1966年

にディオ ンヌ・ ウォーイ ックが歌 ったポ ップ・ ミュージック・ ソング『マイケルにメ ッセージを』か ら直接 とられ たものである。ブッシュはこのフレーズを

,副

大統領候補 に若 きダンフォース・ クエールを選 んだ こととあわせて

,青

年層 にア ピールす るために借用 したのだ。 そこには

,次

のような対話性原理が み られ る。 まず第一 に

,1960年

代 のポ ップ・ ミュージックとい う言語行為 のジャンルの ことば と, ある一人 のポ ップ歌手 の歌 を借用す ることによって

,ブ

ッシュはそのなかで複数の声が話 している 一つの発話 を造 り出 した。第二 に

,ブ

ッシュの発話 と出会 う聴衆 の側 に も

,ポ

ップ・ ミュージック とい う言語行為 のジャンルによって形づ くられた腹話性が生ず る。 しか し

,こ

の対話的な出会 いは 聴衆の世代 によって

,す

なわち聴衆 の もつ社会的言語のレパー トリーによってさまざまに異 なる。 古い世代 は

,民

主党の候補者 に対す る攻撃のみを聴 いたか もしれない し

,若

い世代 はそれ とは別 の もの,すなわち自分 たちに対す るブ ッシュか らの連帯 のアピール をそのなか に聴 いたか もしれない。 以上の ように

,記

号論的現象 に対す るバ フチ ン的アプローチは

,発

話 と発話 の意味 は社会 一文化 的文脈 のなかに本来的に位置づいていることを強調 している。 そして

,あ

る発話 を産 出す るという ことは

,少

な くとも一つの社会的言語 を借用 しているがゆえに

,そ

して また

,そ

の社会的言語 は社 会一文化的に位置づ けられているがゆえに

,意

味 は歴史的

,文

化的

,社

会制度的状況 と複雑 に結び ついているのである, とウエルチ は述べている。

(8)

高取憲一慎呂:ヴィゴツキーを超 えて?

さて

,ウ

エルチ は

,最

終章 (第

6章

)に

おいて

,心

への社会 一文化的アプローチにおける「媒介 された行為」

(mediated action)と

「媒介的手段 とともに行為 す る人 間」(perSOns_acting―with‐

mediational‐

meaК

)とぃう二つの鍵概念 の重要性 を強調 している。ここでのポイン トは

,人

間 は常 に媒介的手段 とともに

,す

なわち道具お よび言語 とともに行為す るとい うことであろう。人間の行 為 は

,道

具や言語 と切 り離 されたかたちで は決 して考 えることがで きない。つ まり,「媒介 された行 為」は

,そ

れ以上分解で きない単位 であるし,「媒介的手段 とともに行為す る人間」は

,そ

れ以上分 解で きない行為者 (agent)で ある。 そ してウエルチは

,こ

の点 において

,媒

介的手段か ら切 り離 さ れた行為 のみに依拠す るレオ ンチェフは

,ヴ

ィゴツキーやバ フチンの立場 に反 しているし

,ヴ

ィゴ ツキーの強調 した記号論的媒介 とい う視点 を見失 っている

,と

言 うのである。 さらに

,こ

れ まで

,西

欧の科学や民族理論 は

,原

子論的人間観 と自由な

,束

縛 の無い 自己 とい う イメージに囚われす ぎているあ まりに

,狐

立 して行為す る個人であるとか

,あ

るい は

,個

人が行為 する際 に用いる媒介的手段 を二次的で補助的な もの とみな しがちであった

,

と指摘 している。 以上

,ウ

エルチの『′いの声 :心的行為への社会 一文化的アプローチ』 をわた しな りの視点で読ん で きた。 ここで

,ウ

エルチの見解 を

,わ

た しが理解 した範囲で簡単 にまとめてみる と

,次

のように なるので はなか ろうか。 ウエルチによれば

,人

間 は道具お よび言語 とともに

,あ

るいは道具 および言語 に媒介 されて行為 するものである。当然

,こ

こには

,人

間 と自然 との関係 (道具 に媒介 された行為

,す

なわち労働) および人間 と人間 との関係 (言語 に媒介 された行為

,す

なわちコ ミュニケー ション

)の

二つが想定 されていると考 えることがで きる。 そして

,道

具および言語 と不可分一体 の もの として人間 をとら えることにより

,人

間を社会 と文化 のなかで とらえることがで きる。 とい うのは

,社

会 と文化 を構 成 しているのは

,道

具であ り言語であるか らである。 ウエルチの言 う「媒介 された」 ということの 真意 は

,人

間 と道具お よび言語 は切 り離す ことがで きない とい うことと同義である。 さらに

,こ

の 切 り離す ことので きない とい うことは

,道

具 と言語が人間の内部へ と取 り込 まれ

,内

面化 されてい るということを含 んでいるもの と思われる。道具 と言語 を取 り込む ことによって

,社

会 と文化 を取 り込む。すなわち

,道

具 と言語 に媒介 されることによって

,人

間 と社会が

,個

人 と社会が連結 され る。 しか し

,こ

のような見解であれば

,そ

れ はすでにブィゴツキーが述べているわ けで

,こ

とさらバ フチンを持 ちだす まで もないであろう。バ フチン理論 を援用 してヴィゴツキーを発展 させ るとす る 一番の眼 目は

,わ

たしの解釈で は

,社

会的言語 あるい は言語行為 のジャンル とい う枠組 みを持 ち込 んだ ところにあるので はなか ろうか。すべての個人 は

,そ

れぞれの属す る社会的言語 あるい は言語 行為のジャンルの中で行為す ることによって

,そ

の属する集団の一員 として社会化 され る。 そのた めに

,階

級 とか階層 とか を刻印 された個人 を問題 にす ることがで きるようになるのである。 ウエル チが

,バ

フチン理論の中か ら

,心

への社会一文化的アプロー秀をお こなうための鍵概念 として析出 した「発話」,「声」,「対話」な どとい うものは

,す

べてこの社会的言語 あるいは言語行為 のジャン ルの枠組 みの中で営 まれているものである。 ウエルチが

,ブ

ッシュの大統領候補者指名受諾演説 を 分析 している例 をみて も明 らかなように

,あ

の一節の演説の中にもさまざまな社会的利害 を反映 し たさまざまな声が

,互

いに対話 を試 みているのである。 ところで

,ウ

エルチは,「媒介 された行為」 をそれ以上分解で きない単位 とし,「媒介的手段 とと もに行為す る人間」 をそれ以上分解で きない行為者 とみなしていることはすでに述べた とう りであ る。 その とき

,媒

介的手段 として は道具 と言語 の二つがあることもみた とう りである。 しか し

,わ

(9)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 41巻 第 2号

(1990) 57

たしがウエルチの著書 を読 んだか ぎりで は

,言

語 に媒介 されて

,言

語 とともに行為する人間 は見い だす ことがで きて も

,道

具 に媒介 されて

,道

具 とともに行為する人間のイメージは見いだす ことが で きない。 この点で

,や

はり

,ウ

エルチの立場 は

,あ

るいはバ フチ ンの立場 と言い換 えて もいいか もしれないが

,尾

関周二がかつて指摘 したように

,社

会生活 の全体的理解のためにはあま りに労働 を軽視 していると言われて もしかたがないであろう(14ち その ことか ら来 る制約であろうか

,ウ

エル チのブッシュ演説 の分析 にはある面での興味深 さは感 じなが らも

,こ

の段階の分析 に とどまってい るか ぎりで は

,ウ

エルチの意図 している疎外 な どとい う社会的問題 を分析するには

,い

まひ とつの 不十分 さを感 じるのである。 ここで

,少

し視点 をかえて

,別

の論点 を提出 してみよう。本論文 の前半で

,ブ

ィゴツキーの言 う 心理間機能か ら心理 内機能への内面化および媒介 とい うことを検討 したなかで

,言

語 と道具 を とも に記号 と考 えて もか まわない とも受 け取れ るような表現 をなにげな く挿入 しておいた。 これ は

,最

近 ヴィゴツキーの書 いた ものを読 んでいるなかで気が付いたのであるが,ヴィゴツキーに とっては, 行為 を媒介するもの とい う次元で考 えた ときには

,そ

れが言語 だろうが道具だろうが同 じことであ り

,と

にか く行為 を媒介す るものは記号なのだ。 このように

,道

具 と言語 をともに記号 とい う枠組 みで くくって しまうと,「記号 によって媒介 された行為」が最小 の分析単位 にな り

,晴

己号 とともに 行為す る人間」が最小 の分析単位 としての行為者 になるのである。 もっ とも

,そ

うなるとます ます 労働 の意義 を軽視 し無視 しているとい う批半Jにさらされるようになるけれ ども。 しか し

,

もともと か らして

,ヴ

ィゴツキー理論 にはそのような目が含 まれていることは事実である。 また

,バ

フチン の場合 は

,ヴ

ィゴツキー以上 にそうい う可能性 を大 きく持 っていることも明 らかであろう。 しか し

,わ

た しが最近抱 いた

,ヴ

ィゴツキー は道具 も記号 とみな しているので はないか とい う観 点

,す

なわち道具

=記

号 という観点 は

,別

の文脈 で はあるけれ ども他 の論者 も指摘 してい る。尾関 周二の紹介 している ところによれば(1°

,チ

ャン・ デュク・ タオ は

,対

象へ向った道具 の働 きそれ 自 身が対象指示の記号的機能 をはた していると考 えていたようであるし(10,小原秀雄 も道具 も意味 を 持ち うるし

,そ

の点で道具 と記号 は共通の部分 をかな り持 っていると述べている°つということであ る。

.

とにか く

,い

ずれ に して も

,ウ

エル チ は記号 とい う観 点か ら人 間 と社会 とい う問題 を解 こう とし てい る ことは

,こ

れ までわ た したちが見 て きた こ とか ら明 白で あ る。

3

心 的 行 為 へ の 歴 史 的

,民

俗 学 的 ア プ ロー チ さて

,わ

た しは

,ブ

ダペス ト滞在中に

,以

上見 て きたようなプィゴツキー 。バ フチ ン的なアプロ ーチ とは別 の視点か ら個人 と社会 の問題 を捉 えているもの として

,ハ

ンガ リー科学アカデ ミー心理 学研究所 のパタキ とエルシュの社会的アイデンテ ィティー研究

,お

よびフランス・ ス トラスブール のマ リー 。ロレーヌ・ プラデルの女性 アイデンテ ィテ ィー研究 を発見 した。それ らの詳 しい紹介 は 既述 の拙著 においてお こなっているので

,こ

こで は彼 らの研究が持つ意味

,す

なわち

,わ

た したち が本論文で言及 して きた文脈上 に彼 らの研究 を位置付 けてみた ときに

,ど

うい うことがいえるのか とい う点 に重点 を置 いて論 じてみたい。

(1)パ

タキ とエル シュの研究 パ タキはハ ンガ リー科学アカデ ミー心理学研究所 の所長であ り

,か

つ社会心理学部門の部長 で も

(10)

高取憲一郎 :ブ ィゴツキーを超 えて? あるが

,彼

の研究 のなかか らは

,ハ

ンガ リー系ユグヤ人であるバ ラージュ・ ベーラが

,ハ

ンガ リー 人 とユダヤ人 との間の葛藤 を乗 り超 えて

,い

かに して安定 したアイデンティティー を確立 していっ たか とヤゝう研究 をとりあげよう(10。 欧米社会 において

,ユ

ダヤ人であることがその個人 の思想形成 に対 して

,わ

れわれの想像 を絶す るような影響 を与 えることは

,た

とえばマル クスの場合 を見て も明白である。巣山靖司が述べてい るところによれば

,マ

ル クス は自分の出自であるユダヤの特質である とされ る金銭欲 とか金儲 けの うまさ というような

,マ

ルクスにとっておぞ ましい状態 を資本主義社会のなかに見いだした。 そし て

,自

己 自身の内部 にあるユグヤ的特質か ら絶縁 したいがために

,資

本主義社会解体 の理論

,す

な わち『資本論』 の研究 をお こなわざるをえなかった。 これほどまでに

,マ

ル クスの思想形成 に とっ て

,ユ

ダヤ人であることは大 きな意味 をもったのである(19ち さて

,パ

タキはバ ラージュの日記 を分析す ることによって

,バ

ラージュは結局の ところ

,ハ

ンガ リー人 にもユダヤ人 に もな りきれなかった こと

,そ

して

,最

終的にはプロンタ リア国際主義 の立場 に立つ ことによって

,矛

盾 を解決 した ことを述べている。 その間には

,第

一次世界大戦 に参戦 した 経験 とか

,1918年

に成立 したハ ンガ リー・ ソビエ ト共和国へ貢献 した こととか とい うことも含 まれ ている。 この

,パ

タキの研究方法 とで もい うものを取 り出す とすれば

,ア

イデンティティーの確立 とい う 心的行為 を

,実

在 した人物 の 日記 を分析す るとい うことを通 じて

,歴

史的事件 とかかわ らせなが ら 引 らかにした とい うことであろう。つ まり

,パ

タキに とっては

,心

と社会

,心

と歴史が

,ま

さにス トレー トに結 びついているのである。 これ は

,ブ

ィゴツキーの場合の歴史的 というのが

,主

として 発生的 ということを意味 していて

,パ

タキの歴史的 とい う意味での歴史 は

,ヴ

ィゴツキーで は副次 的な位置 しか占めていない ことを考 えるとき

,両

者 の大 きな違いになっている。 パタキ と同じ研究所の人格心理学部門の部長 をしているキルシュの

,現

代 のハ ンガ リー系ユダヤ 人のアイデンティティーに関する研究(2の

,パ

タキの研究 と同一線上 にある。 エル シュは

,現

代心理学が社会科学的視点 を欠いていることを嘆 き

,心

理学が

,歴

史学や社会学, 哲学 との接点 をまった く希薄 にしていることを

,致

命的であると断言す る。1ち そのエル シュが

,ホ

ロコース ト後 に生 まれたハ ンガ リー系ユダヤ人のアイデンティティーの形成 を研究する方法 は

,彼

自らが言 うように

,ま

さに社会学的である。 エル シュは

,ハ

ンガ リー系ユダヤ人 の青年 を対象 にして

,イ

ンタビューをお こなった。イ ンタ ビ ューの内容 は大 きく二つ に分かれている。家族 の歴史

,主

体 の生活史

,現

在 の意識である。 その結 果

,次

のような ことが明 らか になった。第一 に

,ハ

ンガ リー系ユダヤ人 の家族 においては

,自

分 た ちの過去の歴史や伝統 な どが

,親

か ら子へ と伝 えられていない こと

,そ

して

,そ

のために

,子

ども はひ とたび事実 を知 ると

,極

度 の葛藤 とアイデンティティーの危機 に陥 ることがわか った。第二 に, ハ ンガ リー系ユダヤ人青年がアイデンティティーを形成するときには

,肯

定的なタイプ と否定的な タイプの二種類 あるが

,い

ずれにして も

,歴

史的 に迫害 されて きた集団に自分が属す る とい う感情 の基礎 の うえに

,自

らのアイデンテ ィティーを形成 しているのである。 エル シュの場合 は

,ハ

ンガ リー現代史およびハ ンガ リー現代社会 とのかかわ りで心的行為 を とら えてお り

,パ

タキの場合 と方法論的に同一線上 にある と考 えられ る。

12)マ

リー・ ロレーヌ・ プラデルの研究 フランス・ ス トラスブールのルイ・ パス トゥール大学の臨床心理学研究者

,プ

ラデルの女性 アイ

(11)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 41巻 第

2号

(1990) 59

デンティティーの継承 と確立 に関する研究・ 分は

,詳

し くは拙著 に触れているけれ ども

,従

来の心理 学研究 には見 られないユニークな視点 を含 んでいる。 彼女の研究のフイール ドは

,フ

ランス とドイツ との国境 の町

,バ

ッサ ン・ ウイエ 。ロレーヌであ る。バ ッサ ン・ ウイエ 。ロレーヌ は

,古

くか らの鉱山の町であ り

,ヨ

ーロッパ各国や

,近

年で はア フ リカか らの移民の多い町である。そ こに生活す るある一家の三代 の女性

,祖

母・ 母 。娘が

,い

か にして自らのアイデンテ ィテ ィーを祖母 や母か ら受 け継 ぎ

,確

立 していったのかが研究テーマであ る。プラデルの丹念な聞 き取 り調査 によれば

,伝

達 。継承 のルー トは二つある。一つ は

,祖

母か ら 娘へのルー トで

,そ

れ はシンボル を通 じてお こなわれ る。すなわち

,祖

母 は孫娘 に対 して

,し

ばし ぼ過去の一家にまつわ る出来事 を話 して聴かせ る。 もう一つ は

,母

か ら娘 に伝 えられるもので

,イ

メージを通 してお こなわれ る。娘 は

,母

が一家の日常生活のさまざまの場面で どのようにふ るまう かを常に見ている。以上 の ように

,祖

母 および母か ら娘への

,そ

の家独 自の文化 的 。伝統的な生活 様式が

,日

と耳 を通 して世代か ら世代へ と伝 えられてい くのである。言語 と肉体 を媒介 として

,行

動 の仕方

,話

し方な どが

,深

層心理 も含 めて伝達 されてい くのである。 その結果 として

,女

性 たち は男性 とは異なる意味的世界

,意

味的宇宙構造 を形成 しうるのである。 このプラデルの研究 は

,わ

た したちが今 まで見て きた議論 の文脈上で考 えてみて も

,興

味深い論 点 を提供 して くれ る。 まず

,シ

ンボル を通 じてのアイデンティテ ィーの継承・ 確立 の問題 は

,ヴ

ィ ゴツキーの言 う言語 に媒介 された心的行為 の形成 とい う問題 と同 じことをいっている。プラデルの 場合 は

,そ

れに加 えて

,イ

メージを通 じてのアイデンティテ ィーの継承 。確立 を提起 している。お そ らく

,シ

ンボル と対比 させ るかたちでイメージを持 ち出 して きたの は

,言

語 には支配 されない非 言語的側面のルー トを取 り出 したかったため と思われ る。 このイメージに媒介 された心的行為 の形 成 という考 えは

,ヴ

ィゴツキーには存在 しないので はなか ろうか。 ヴィゴツキーの視野 には入 って こなかった男性 と女′性とい うような性 にかかわ る問題 を

,プ

ラデルが扱 いえたの も

,こ

のようなシ ンボル とイメージ とい う分析視角 を持 ちえたためであろう。

4

おわ りに わたしたちは

,本

稿で

,ヴ

ィゴツキー

,バ

フチン

,ウ

エルチのいわばブイゴツキー・ バ フチン学 派の心への社会・文化的アプローチ と

,パ

タキ

,エ

ルシュ

,プ

ラデルの心への歴史的

,民

俗学的ア プローチを

,対

比的に見 て きた。 冒頭 にものべたように

,も

ともと本稿 の目的 は

,ウ

エルチの著書 を読みなが ら

,ウ

エルチの意図す るところの

,ヴ

ィゴツキーを超 えることが可能か どうか を検討す るところにあった。 今 まで述べて きた ところか ら明 らかなように

,ウ

エルチ も含 めてのブィゴツキー 。バ フチン学派 とパタキ 。エルシュ・ プラデル らとの一番 の違 いは

,心

あるいは心的行為 とい う場合のレベルの違 い と

,心

と社会 との結びつ けかたの違いで はないか と思われ る。つ ま り,ウエルチたちにとっては, 心 というのは言語学的水準 の問題である。 そして

,そ

のような個人 の心 と社会 とが

,道

具 と言語 を 媒介 としなが らいかに結 びつけられてい くのかが解明すべ き問題であった。 これに対 して

,パ

タキ たちの場合 はアイデンテ ィティーの確立 とい う

,言

語学的水準 よりも一段階上の心的 レベルを問題 にしてい るのである。 さらに

,パ

タキ とエルシュの場合 は

,言

語 とか道具 とかの媒介無 しに

,個

人 の心 と社会 とが直接結びつけられ る。ただ

,プ

ラデルの場合 は

,シ

ンボル とイメージに媒介 されて, 個人の心 と社会 とが結びつけられている点で

,ヴ

ィゴツキーに近 い。

(12)

高取憲―郎 :ブ ィゴツキーを超 えて? このように考 えて くると

,ブ

ィゴツキー とバ フチ ンは言語 を中心 とした言己号 (すでに触れたよう に

,記

号のなかに道具 も含 めて考 えて もべつにか まわないようにも思 う

)を

手がか りにしなが ら, 心 とか

,心

と社会 との関連 とか を緻密 に探求 して きた といえるであろう。その際

,記

(道具 も含 む

)に

よる媒介 とい う思想 こそが

,ウ

エルチ も言 うように

,ヴ

ィゴツキーにおける最大の

,心

理学 に対す る貢献 とい うことにな るので はなか ろうか。 この媒介 とい う概念 を欠 くな らば

,個

人 の心 と 社会の関係 を説明す るメカニズムが

,ど

うして も出て こないか らである。パタキ以下 の研究 は

,遺

憾 なが ら

,こ

の点 にお ける十分 な認識 を欠いている。 さて

,そ

ろそろ

,こ

のあた りで

,本

稿 の結論 に入 ろう。 ウエルチは

,バ

フチンを介在 させ ることによって

,ブ

ィゴツキー を超 えることがで きたか。否で ある。 というよ りもむ しろ

,ウ

エルチの意図するところの思想 は

,す

でにヴィゴツキーの中に胚胎 されていた。ただ

,バ

フチンの社会的言語 あるいは言語行為 のジャンル とい う概念 を取 り入れるこ とによって

,個

人 と集団の関係

,つ

まり

,個

人 と個人 の属す る言語的共同体 との関係 を明 らかにし, 個人 を集団の中に位置付 けることがで きた。 ここまで述べて きて

,わ

た しは

,い

まさらなが ら

,ヴ

ィゴツキー理論 のパースペ クティブの遠大 さに改めて感嘆の念 を抱かざるをえない。 しか し

,最

後 に付 け加 えておけば

,わ

た しが このような考 えに到達 したの も

,ウ

エルチの著書 を 読む という行為 を通 じてであ り

,ウ

エルチの推進 している

,思

想的営みを通 してである。 また

,現

在 の世界 の心理学界 を見 た とき

,ブ

ィゴツキー理論 をもっ とも精力的 に展開 させているのは

,誰

が 見て も

,や

は リウエルチであろう。 その意味で

,本

稿でわた しが述べた一つの試論 は

,ウ

エルチの 批半Jをす るとか

,ケ

チをつけるとか とい うことで はな くて

,あ

くまで もともにヴィゴツキー理論 を 発展 させてい きたい とい う共通 の気持 ちか ら出発 しているものである。

(1) Wertsch,」 V Voices Of the mind:a sociocuitural.approach to mental action(in press)

(2)WertSch,JV&Lee,B.The muitiple leveis of analysis in a theory of actiOn Human Development,1984,

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(3)Wertsch,J,V. La mediation semiotique de la vie mentale : L.S Vygotski et M.M.Bakhtine, in B Schneu、vly et」 P Bronckart,VygOtski auiOurd'hui,Paris,Delachaux&Niestle,1985

(4) Luria,A.R L S Vygotsky and the problem of locaHzation of functions. Neuropsychologia, 1965, 3,

387‐392 (5)ルリヤ 『人間の脳 と心理過程』 松野豊(訳)金子書房,1976,67頁 笛)化)の389頁 (7)ルリヤ 『認識の史的発達』 森岡修―(訳)明治図書,1976,241頁 偲

)ブ

ィゴツキー 『精神発達の理論』 柴田義松(訳)明治図書,1970,210-212頁 (9)ルリヤ 『ル リヤ現代の心理学(下)』 天野清(訳)文―総合出版,1980,43-45頁

10 Vygotsky,L.S.Mind in society,Harvard University Press,1978,p.86.

llll Wertsch,J.V.Fronl social interaction to higher psychological processes:a clarification and applcation

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1か 偲)の206頁

l131 Valsiner,J 1luman development and culture i the social nature of personality and its study,Lexington Books,1989

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(14)

参照

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