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ドイツ語における時制意味分析試論(I)--話者の志向的な"modus"に基づくモデルの構築---香川大学学術情報リポジトリ

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ドイツ語における時制意味分析試論(Ⅰ)

一語者の志向的な”mOdus“に基づくモデルの構築−

湯 浅 英 男 目 次 0序 1時制研究の現状一主観主義と客観主義−− 2時制の意味・−WasからWieへ− 21時間諭を手懸りにして 2.2日本語の陳述諭を手感りにして 2.3modusとdictumの・モデル 23.1 言語の普遍的を意味論的契機として

2h32dictumの定義

文における時間給示機能について 完了時制の解釈 3 も び 3 3 2 2 nJ 0.序 時制(Tempus)は印欧諸譜においてはとりわけ重要な文法範疇の一つであ り,ドイツ語の授業においても決して避けることのできない項目である。しか し,時制の形態はともかく,その意味になると必ずしも説明は容易ではない。 未来表現における未来形と現在形の差異あるいは過去表現における過去形と現 在完了形の差異は一・体どこにあるのか,なぜ物語に過去形は使用されるのか, 歴史的現在はいかに解釈すべきなのか等々,時制をめぐる疑問は尽きない。 ところで,こうした時制のもつ様々な問題は決してわれわれ日本人だけを悩

ませているわけではない。たとえばMarkusは1914年のLorckの言葉−すな

わち,「時制の概念規定(Begri鮎bestimmung)のために用いられたあらゆる 明敏な頭脳(Scharfsinn)にもかかわらず,今日までなおも一・般に満足できる 解決には到らなかった。それどころか,この分野の暗闇(dasDunkel)に光を あてる可能性は,すさまじい(eindringlicher)研究においてもますます遠方

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湯 浅 英 男 48 へ押しやられるように思われた.−・が,なお現在も有効であることを述べてい る(Markus,S.1f一)。Markus白身は時制およびアスペクトの不満足な研究状 況の主要な原因を,「精神科学(Geisteswissenschaften)においてもここ数十 年来進みつつある方法論上の専門化(Spezialisierung).とみなし,学際的 (interdisziplin去r)な,とりわけ文芸学(Literaturwissenschaft)と言語学 (Linguistik)の欠くべからぎる協力の必要性を説いているが(Markus,S・2), こうしたいらだちともとれる現状認識から,いっそうわれわれは時制の問題の むずかしさを知ることができる。 拙論はこうした専門化されつつある時制の研究状況について詳しく解説する ことを目的とするものではない。むしろ現在の研究については,筆者が考える 時制解釈に対して指針を得る程度にととめ,主に時間論。日本語の陳述論を手 懸りとして,各時制(ただし今回は平叙文・直説法に限定する)の差異や連関 を統一・約に把捉するための意味モデルを試論として提出してみたい。そして, こうした時制のためのモデルを構築する中で,日独両語の時制の対照研究に有 効な意味論的枠組みを得ることができれば,というのが筆者の淡い期待でもあ る。 1.時制研究の現状一主観主義と客観主義− ドイツにおける時制研究の現状は,大きく主観主義的傾向と客観主義的傾向 に分けられる(たとえばHauserpSuida/Hoppe−Beugel,S.16ff.を参照)。主 観主義的傾向に属すると考えられる研究者は,同一・時階に複数の時制が用いら れるという事実から,時制の選択にあたっては客観的な時間以外に話者の主観 的心理的態度が作用していると考える。そして,むしろそうした側面を時制の 担う本質的な意味として規定する。その代表はWeinrichであると言ってよい。 彼は,現在形・現在完了形・未来形・未来完了形を「論評する時制(bespre− chende Tempora).」,他方,過去形・過去完了形・接続法を「物語る時制 (erz去hlende Tempora))とし,この2つの時制グループが,各々「緊張(Ge− spanntheit).と「弛緩(Entspanntheit).という「発話態度(Sprechhaltung)」 を話者(一・般には情報の送り手)から聞き手(一・般には情報の受け手)に伝達

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することによって,「論評の世界(bespr・OCheneWelt).あるいは「物語の世界 (erz益hlteWelt)」を表示していると考える。こうした彼の解釈の背景には,た とえば未来の出来事を扱う未来小説や,本来時間を超越して(zeitlos)物語ら れる世界であるはずの昔話になぜ過去形が用いられるのか,というような文芸 学的な視点が存在している(Weinrich,S。18H.)。それに対して客観主義的傾 向にある研究者は,あくまで時制は客観的時間を指示していると考え,各時制 間の弁別的な意味特徴を追求する。たとえば,そうした最近の傾向の先駆的存 在でもあるGelhau$は,ドイツ語の6つの時制(すなわち現在形・未来形・未 来完了形・過去形・現在完了形・過去完了形)が1つの閉鎖された体系を形成 するという仮定から出発し,【r終結(AbschluL3).と「開始(Beginn).という メルクマ1−ルをたてて時制を弁別していく。だが結局,過去形は発話時におい て「終結.し,かつ「開始.もしている,現在形は「終結.はしていないが 「開始.に関しては何の情報も与えない,また未来形は「開始.も「終結.も していないという3時制の体系づけにとどまっている(Gelhaus1966,S.227)1)。 こうした主観主義的見解と客観主義的見解の対立は,さらに現代ドイツ語の オ・−ソドックスな文法書にもみられる。たとえば,母国語であるドイツ語に対 して鋭い直観的な洞察力をもつBrinkmannは時制に対して次のように述べる。 「元来ドイツ語は,”時階(Zeitstufen)“に対して,かかる意味としての(alssol・・ Che)時階に向けられているような時制はもっていない。過去形,現在形そし て未来形はもとは時間の様々な区別(過去・現在・未来)を目指したものでは なく,様々な態度(Haltungen)の区別,すなわち回想(Erinnerung)(過去 形),包括的な現在意識(umfassenden Daseinsbewuβtseins)(現在形),そし て期待(Erwartung)(未来形)を目指したものなのである。このような様々 な態度から初めて時間への関係が生まれる。時間への現実的な幽係は,本来文 法的な手段ではなく,語彙的な手段によって与えられている(方向づけする規

定語(orientierendeAngabe)).(Brinkmann,S.338)2)。これに対して客観

立場をとるAdmoniは時制を次のように規定する。− ̄時間の動詞におけるカテ ゴリ・−(ver・baleKategorie)は,ドイツ語の言語構造の巌も蒐要な伝達・文法

的(kommunikativ−grammatischen)カテゴリーの一つである。そのカテゴ

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湯 浅 英 男 50 リ1−は,もし発話行為(Redeakt)が起こるならば(発話嘩),動詞で表現され る出来事のその瞬間に対する時間的関係を確認するこ.とによって,動詞を,さ らに動詞によって文を発話行為と結びつけるのである.(Admoni,S..181)。 Admoniがここで言う伝達・文法的カテゴリーは,論理・文法的(logischq grammatisch)カテゴリーと対をなすもので,前者には文法範疇としての人 称・時制・法などが属し,後者には格や数が属する。Admoniのこの2つの文

法範疇は,A.M.Peschkowskiの主観・客観的(subiektiv−Ob.iektiv)カテゴ

リーおよび客観的(ob.ラektiv)カテゴリーを言語のもつ社会的なコミ.ユニケー ションの側面に引き寄せて解釈したものであり,したがって,たとえ発話内容 に対する話者の態度や発話行為の諸条件であっても,それは「ある必然的かつ 典型的な,社会的に根拠づけられた現象形態(Erscheinungsformen))である とされる(Admoni,S.5f…)。こうした文脈で考えれば,時制は発話時と出来事 との時間的関係を表示するというAdmoniの解釈には明らかに唯物論の影響 が感じられ,その意味では構造主義的なGelhausの時制分析とは背景的に確か

に異なる。しかし,AdmoniがBrinkmannの「態度(H鐘Itungen)」の概念を

「その本質においては完全に時間的に色づけられたものである(duI・Cbaus

temporalgef益rbt).(Admoni,S.183)と批判し,他方で Brinkmann が

Gelhausに対して「彼の考察は時制の評価(Beurteilung)において,”発話時“ を出発点とする厳格に時間的な判断に立ち返っている.とし,「時制(Tempora) の根底には本来人間の態度(Einstellungen)が存在するということが,そ・こで は正しく認められていない.(Brinkmann,S.322,Anm.)と批判するのをみれ ば,主観的傾向と客観的傾向との解釈上の対立を,全体として Weinrich・ Brinkmannversus Gelhaus・Admoniの構図で概観することも決して的はずれ にはならないであろう。 だが,われわれが基本的にどちらの立場をとって時制の解釈をすすめるかに ついては,もう少しあとで述べることにしたい8)。

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2.時制の意味−WasからWieヘー 2.1.時間論を手懸りにして 現在形・過去形・未来形が現在・過去・未来と1対1にほ対応せず,それぞ れ複数の時階にまたがって−用いられることは,ドイツ語を学ぶ者にとっては自 明の事実である。しかし,時制が時間を意味していること自体に対して疑問を もつ文法家は少ない。そこでわれわれは,時制が何を意味するのかを吟味する ためにも,まず,時制が担うと広く考えられている時間とは一・体何かという, 従来の時制の意味記述においてはあまり顧みられることのなかった問題を取り 扱ってみたい。ただ,今なお哲学的・物理学的解明が続けられている時間の問 題について語ることは,筆者にとって決して容易なことではない0 したがって ここでは,日常誰もが感じることができ,しかも時制の分析に役立つと思われ る範囲で考察を行なうことにする。 われわれは時間といえば,すぐ時計を思い浮かべる。たとえば,新幹線が東 京・大阪間を3時間10分で遅行するという場合の3時間10分は,時計によって 計測可純な客観的な時間である。だが見方をかえれば,その3時間10分をある 人は−・瞬に感じることもできるし,また他の人にとっては,退屈な長い時間と して感じることもできる。その意味では,時間は個人の経験や意識に即して長 くも短かくもなりうる主観的なものであるとも言える。 このような時間に対する見方は,トーマス・マンが自ら”Zeitroman“(この ”Zeit“は「時代.と「時間]という二重の意味に解釈できる)と名づけた『■魔 の山。の中に散見できる。たとえば,主人公ハンス・カストルプは「時間は長 く感じられたら長いんだし,短かく感じられたら短いんだし,ほんとうはどの くらい長いか短かいかは,だれにもわからないことだよ.(関・望月訳(一う, S.130)と述べる。そして,時計によって測定可能な客観的時間を主張するヨー アヒムに対し反駁する。これは時間を長さという目盛りを使って計ることへの 反駁でもある。彼(ひいてはトーマス・マン)は反対理由に,「つまり僕たちは 時間を空間によって計るんだね,しかし,これは空間を時間で測ろうとするの と同じだよ,−そして,これはよほど非科学的な人間でなければやらないこと

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湯 浅 英 男 52 だよ.(上掲督,Sり131)と,まず時間を空間的概念で把握することの欺瞞性を 指摘する。そして,仮に時間を計測可能と認めた場合でも,「暗が計れるもの であるためには,時は均等に経過しなくちゃなるまい。しかし,均等に経過す るってことが,どこに番いてあるんだね?僕たちの気持ちにとっては噂は均等 には経過しないよ,整理上そういうことを仮定しているだけであって,僕たち の時間の単位などは,単なる約束ごとなんだよ,失礼だがね…」(上掲番, S.131f.)と,個人の意識における不均等な時間の経過を説く。こうしたトー・ マス・マンの計測不可能な「時間」はわれわれも等しく日常生活で経験すると ころのものである。 同じような議論は,シ、エイクスピアのいお気に召すまま。の中にも見られる0 「時というものは,それぞれの人間によって,それぞれの速さで走るものだよ」 とまず述べ,たとえば若い娘にとっての婚約と結婚式の期間について,「−その 間が,七日だったとしても,時の歩みは,とても行きなやむものだから,七年 の永さがあるようにおもえるよ.というように,オーランドウに向かって,時 がどんな人にとってどんな速度で走り,あるいは停止するかを説明するロザリ ンド(阿部訳,S.98)は,明らかにハンス・カストルプと共通の時間認識の上 に立っている。 このような計測可能な物理的客観的な時間に対して個人の意識に相即的な主 観的時間を主張する考え方は,さらにその系譜をアウグステイヌスにまで遡る ことが可能である。訂告白。の中で展開される彼の有名な時間論は,時間をも 神が創造したのだという告白から,「ではいったい,時間とは何でしょうか」 という間へと移っていく(山田訳,S.414)。そこではまず,「■もはやない.は ずの過去や「まだない.未来がなぜあるのか,という腰間が出される。彼はそ

の間に対して,もし未来や過去があると考えるなら,「およそあるものはすべ

て,ただ現在としてのみあるのです.と答える。その理由は,たとえば少年時 代を「想起し物語るときには,現在の時においてながめています。それは私の 記憶のう■ちにまだあるからです.。また「まだない.未来の出来事を予言する 場合も,その原因や徴候は「見る人々にとって未来ではなくすでに現在であり, 彼らはその現在のものから精神のうちに未来をとらえて予言するのです」(上

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掲畜,S.419f.)。そして結論的にアウダスティヌスは,過去・現在・未来とい う3つの時間を「過去についての現在.・「現在についての現在.・「未来につい ての現在.と定義し,ひきつづき次のように述べる。「じっさい,この三つは 何か魂のうちにあるものです。魂以外のどこにも見いだすことはできません。 過去についての現在とはが記憶,。であり,現在についての現在とはっ直観。で あり,未来についての現在とは『期待。です。.(上掲蕃,S.421)このように アウダスティヌスは,時間を現在における個人の主観的な意識の様態として, 把握している。 こうした見方はマンやシェイクスピアの時間解釈同様,決して唐突なもので はない。その根拠に,現代における時間論理学においてさえ触視できないもの となっている。たとえば,アウダスティススの「時間.は.マクタガ・−トのA系 列の時間として復活する。ここで言う A系列とは,個人の主観的な現在首区 分の基礎とした「過去.・「現在.・「未来.という時系列であり,恒常的な B 系列,すなわち「以前.・「同時.・「以後.という関係と区別されているもので ある(マクタガートについて−は滝浦,S83ff.参照)。 われわれはこのあたりで時間についての議論を時制と関連させてまとめてみ たい。まず時制の意味分析においては,アウダスティヌス的な意味での現在の 忠言故の様態としての主観的時間と,マクタガートのB系列にみられるような 「以前.・「同時.・「以後.という客観的な時間関係という2つの時間を想定す ることが必要である。したがって,今,誰かが現実性動こおいてある事柄につ いて語ると仮定するならば,まず話者の意識の様態としての主観的時間と,語 られる事柄と発話時との間の客観的時間関係という2つの時間が,時制という 言語手段を通して発話行為の中に組み込まれている可能性を認めなくてはなら ない。そして前章で概観した時制研究の2つの潮流においては,Weinrich や Brinkmann の主観的な時制観が意識の様態としての主観的時間を,Gelhaus やAdmoniの客観的時制観が客観的な時間閑係を,それぞれ時制が本来意味す るものとして仮定していたと,基本的にはみてよさそうである。また「時制が 時間を表わす.というテーゼ自体も,「時間.の意味をこのように両義的に解 釈する限りにおいては,どちらの立場にとっても正しいことになる。

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湯 浅 英 男 54 ここで文法範疇としての時制が表わす時間について,われわれの基本的立場 を明らかにしておきたい。今,仮に客観的な時制観に立って考え.るならば,た とえばAchtmalzweiistsechzehn(8掛ける2は16)というような命題が発話 の対象となる場合,発話内容と発話時との時間関係は生じないといってよい。 なぜならその命題自体は,現実世界に生起する「出来事.ではないからである。

あるいはImJahre1832stirbtGoetheinWeimar(1832年にゲ1−テはワイマー

ルに死す)などの歴史的現在の場合,出来事の生起する時点は明らかに発話時 よりも以前であり,現在形の他の用法と客観的な時間関係に関しては同定す−る ことばできない。したがって,こうした言語的事実の解釈として,これらの現 在形を単に文体的な,一・般的な規則から逸脱した変則的な用法であるとみなし たり(たとえばGelhaus1966,S.228),あるいは構造主義的に現在形は本来時 間に関して「醸標識(unmarkiert).であると定義する考えが出てくるのもあ る意味で当然かもしれない。しかし,われわれは前者の議論に対しては,そう した変則的な用法をも現在形の本質から過不足なく説明する必要があると考え るし,後者に対しては,たとえば現在形がすべての文脈で過去の出来事を表現 できるか問題である以上,「無標識.というメルクマ・−ルだけでは現在形を明 確に意味づけているとは思えない。こうした理由からわれわれは,基本的に時 制が主観的な時間,すなわち話者の意識の様態を表わすと仮定することが時制 解釈において最も有効ではないかと考える。ただ,これは二者択一・の議論では なく,どちらが時制の構成する意味内容の「土台(GTundlage).となりえるか という問題である。したがって発話時との客観的時間関係は,時制の意味から 完全に排除されてしまったわけではない。この問題については,意味解釈のモ デルを構築する中で検討することになる(たとえば2.3日3.のmodus におけ る時間指示機能,2.3.4.の完了不定詞がもつ「前時性.を参照)。 ところでこうした観点から時制の意味を解釈していくためには,まず発話の 主体である話者と客体である発話対象との関係を悪辣のレベルでもう少し丹念 にみておく必要がある。なぜなら,まず言語は,ある言語共同体において普遍 的な安当性をもつ主客の認識論的構造の反映として考えることが可能であるし, またそうした言語の意味論的な枠組みの中で,一・般的には主観的時間はより主

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休に,客観的時間はより客体に即して把捉できると考えるからである。次節に おいては日本語の陳述諭,とりわけ時枝誠記博士の詞辞論にそうした問題につ いての手懸りを得たいと考える。 2.2 日本語の陳述論を手懸りにして 日本語の陳述論は山田孝雄博士の「昧述.という用語をきっかけに,時枝誠 記博士・金田一・春彦氏・渡辺実氏・芳賀按民らによって次々と展開されて−きた が(服部他編,S.141ff.S.619ff.などを参照),本質的には,それは文を構成 す−る個々の単語の意味論的な分類に関する議論である。そしてそれが単なる品 詞論に終わらず,単語の構文論的(あるいは統語論的と言ってもよいであろ う)な機能と結びついているところに日本語の膠着語としての特殊性がうかが える。しかし一・方で,それらの議論はドイツ語の時制に光を・あてる側面ももっ ているように思われる。ここで特に時枝博士の詞群論(時枝,S.229任..)を取 り上げるのも,それがドイツ語の時制の意味を認識論的に分析する場合に有益 だからである。 そこで実際に時枝博士の詞辞論について考えてみよう。まず博士は,単語を 「概念過程を含む形式.である「詞.と「概念過程を含まぬ形式.の「辞.」に 分ける。詞は表現の素材を客体化・概念化した表現で,単に客観的世界の事物 に限らず,「嬉し.「怒る.のような主観的な情意が概念化された単語もそこに 分類される。それに対して辞は,観念内容の概念化・客体化がなされていない 主体的なものの直接的表現であり,いわば推鼠・疑問など話者の主観的意識に 属する判断・情緒・欲求の表現である。たとえば「雨だ.とある人が発話した 場合,「雨.が話者によって表現された客観的な発話素材の側面すなわち詞で あり,「だ.が話者による主観的な態度の側面すなわち辞である。 ところで時制の意味分析にとってとりわけ重安に思われるのは,この詞と辞 の間の意味的蓮瀾である。すでに述べた説明から,詞ば「主体に対立する客体 界を表現し,辞は主体それ自身の直接的塞現である.ことば理解されるが,さ らに博士はこの2つの関係を認識論に即して説明する(時枝,S.236且)。たと えば,「花よ.という詞辞の連結の場合,「この時感動を表す「よ」は,客体界

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56 湯 浅 英 男 を表す「花.に対して,志向作用と志向対象との関係に於いて結ばれていると 見ることが出来る.という。そして,言語主体をとり囲む客体界と,それに対 する主体的感情が融合した主体の「 ̄直観的世界.を,分析・表現したものが この場合は「花よ_一 という言語表現なのである。したがって詞辞の意味的連関 は,客体界を主体が包んでいる,すなわち,「■詞が包まれるものであり,群が 包むものであるといえるのである.。 ここでの博士■の意味分析には,「志向作用.と「志向対象.という用語から 推測されるように,明らかにフノサーリレの現象学の影響をみることができる。 しかし,ここで詞群論と現象学の影替関係について立ち入って考えることば, 時枝文法がすでに独自の体系をもっている以_上,それほど意味のあることだと は思えない。ただ時枝博士のいう詞と辞が,意味の上で,主体の意識の中で構 成される対象であるノエマ的側面とその対象を構成する主観的心理作用である ノエシス的側面を,それぞれ指向していることば確かなようである。またその ことが,詞辞論を時制の意味分析に有効であるとみなす理由でもある4)。 ところで,時枝博士において詞と辞が包まれるものと包むものの関係によっ て把握されることをみたが,これを博士は「風呂敷型統一・形式」と呼ぶ(将校, Sり240)。たとえば「明日は雨が降るだろう.を例にとれば,

−− 、・一二 ̄  ̄

、、_ _け_.一_一..一 一】 と分析され,言語主体の推蒐の表現「だろう .が「明日は雨が降る.という 「客観的事実を包み且つ統一・しているのである.。そして,この詞辞の結合を軸 にした「風呂倣塑統一一う診式.は,さらに「人手型構造形式.(将校,S.317)と して,日本語の文の重層的な構造の解明に用いられることになる。 だがここで,詞辞諭のような考え方をドイツ語に応用する際に注意すべき点 をいくつか指摘しておきたい。それはまず,この節の初めにもふれた日本語の 膠着語としての特殊性である。すなわち,詞と群が「包まれるものと包むも の」の錮係にあるという時,それは本来意味論的な関係として捉えられるべき ものであるが,それが人子型構造形式に導入された時には,そのまま「総括さ

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れるものと総括するもの一」という形で構文論的関係としても把超される結果に なっている。つまり「包まれるものと包むもの.の関係は,日本語においては 意味論的関係のみならず構文諭的関係でもあると言ってよい。他方ドイツ語の 場合,そうした包摂関係ほ主客の認識論的関係の言語への反映である意味論的 関係にとどまり,それが構文諭のレベルにまでもちこまれることば決してあり えない。 さらに注意する必要があるのは,時枝悼士が「が.や「の.のような格助詞 にも辞的機能を認めている点である。たとえば「雨が...という連語において, − ̄辞(が)は詞(雨)を包む関係に立っている.(将校,S..242)と説明する時, 格助詞の「が.は,意味論杓および構文論的関係において「雨.という詞を包 んでいる。したがって,この場合には明らかに辞的機能が格助詞のような関係 表示にも認められている。しかし,「格.のような関係表示は,発話内容に対 して各言語がもつ構文上の制約から必然的・自動的に生ずるもので,客観的事 態に対する話者の主観的な態度とは異なるレベルにあると考えられる。この点 については,渡辺実氏も詞辞論を発展的に解釈する際,「時枝博士に従って 「辞.をあくまで主体的ないとなみを表わす語彙,詞とあくまでも相対立する 語彙を指す術語として使うとすれば,格助詞の類を辞と呼ぶことば避けたいと 思う.と述べている(服部他編,Sい265)。実際渡辺氏は,「思想や事柄の内容を 描き上げようとする話者のいとなみ.を・「叙述.と呼ぶ一・方,終助詞を中心と した「言語者をめあての主体的なはたらきかけ.を「陳述.と呼んで区別し, 「が.のような格助詞も詞的な「叙述.の中に位置づけている。したがってわ れわれも,時枝博士の「辞.的機能を渡辺氏の「陳述.的機能と同様,終助詞 や助動詞には認めても,格関係の表示を行なう格助詞には認めないことにする。 2.3.modusと:dictumのモデル 2.3.1.言語の菅遅的な意味論的契機として ここで,ドイツ語の時制分析のためのモデルの構築に移ろう。前節の論議は 日本語を対象としていながら,言語の本質に関する,より詳しぐ言うなら言語を 生成する普遍的な意味論的契機に関するモデルを呈示レうる内容をもっている。

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58 湯 浅 英 男 そこで,意味論のレベルにおける詞約素材性と辞杓陳述性,つまり客観的な志 向対象と主観的な志向作用を,日本語を離れて広く用いられるであろうdictum とmodusと言いなおし,それらが「包まれるものと包むもの.の関係におい て言語の意味内容を構成すると考えたい。さらにまた,dictumとmodusをこ うした意味論的関係において把握するならば,それらは, (1)〔(modus)〔(dictum)〕〕 という形で表示で菖るし ,同時に(2)のように図示することも可能であろう。 (2) modus

/一〈−−\、

dictum

一′_一へ

ところで,こうした窓味論のレベルにおける構造が言表に外化される場合, 様々な言語的手段をとることが考えられる。rnOdus に限っても,Syntaktisch

な文法範疇である法(Modus)をほじめ,WOhlやwahrscheinlich のような法

副詞(Modaladverbien)や話法の助動詞(Modalverben),あるいは疑問文など にみられる構文論的手段,さらにはイントネーション, アクセントのような SupraSegmentalな要素とその手段は多様であるが,われわれはこれらに加え て時制も主観的なmodusの表現とみなすのである。そして,これらmodusを 表わす言語的手段を意味論的に精赦に分析していくことが,いわばドイツ語に おける陳述論となると考える5)。またこうした言語のもつ意味の普遍的構造の 中で,基本的に時制を客観的な志向対象の側面(すなわちdictum)の表現で はなく,客観的な意髄内容を統括する主観的な志向性の側面(すなわちmodus) の表現とみなすことによって,時制の様々な用法を統一小的に把捉する迫が開か れてくる。換言すれば,それは時制の意味を言語表現における客観的なWas (何を)の側面から話者の意識の様態である Wie(どのように)の側面へと捉 えなおすことでもある。

ところで,時制はmodu5すなわち事柄的な揖ctumに向かう意識の様態を

表現するが,時枝博士に従えば,正確にはそれは「包むもの.というより,む しろ「包むこと.の表現である(時枝,S‖器9)。したがって「包む」心的行為

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の主体が必然的に意味をもってくる。しかし,それが言語主体としての話し手 であり書き手であることば論をまたないであろう。だが,将来行なう予定の上 記のモデルを用いた各時制の意味分析を有効なものにするためには,ここでそ の話し手あるいは書き手がIch−Hier−JetztuOIigo として位置づけられるとい うことを確認して−おきたい。すなわち,話し手あるいは書き手は,客観的な 時間に関してはJetztL−Origo として,また意識の志向的様態に関してはIchv OIigoとして表現の起点となっているのであり,とりわけそのことば,文の中 での時間指示機能について考える際に重要になってくる。 2.3.2.dictumの定義

そこで以下,実際にmodusとdictumという意味論的概念を用いて時制を

分析する際に注意すべき点をいくつか考えてみたい。 まずはじめは,dictumをいかに概念規定し記述していくかという問題である。 すでに述べたように dictum は主観的な意識の作用である modus によって’ 「包まれるもの.であるから,当然話法的(modal)な性格をdictumからは排 除しなければならない。そして,上記のモデルの中で時制を基本的に話者め modusの表現として意味分析するわれわれの立場からすれば,時制の担う話 法的な意味がdictumに含まれないことがとりわけ重要である。たとえばラテ

ン語においてbonus est(彼ば善良である)という現在形の文を,Credo eum

essebonum(私は彼が善良であることを信じる)のeum esse bonumという

イく定法句と比較した場合,前者が現在形という時制の意味を含むのに対し,後

者は時制の意味をもたないdictum的な表現であるといえる。もっと端的に言 うなら,dictumはまさに発話のq1の「事(こと).的成分であり,その意味で

は名詞的な概念である。したがって一・般的には,時制を含む文を名詞化

(Nominalisierung)した場合の意味がdictumであると言ってよい。たとえば

過去形の文DerLehrerbesuchteden kranken Schtiler(その教師は病気の生

徒を訪問した)の場合,名詞化することによって時制の意味を除いた deI・

Besuch des Lehrersbeidem kranken Schtiler が過去形のmodusによって

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60 湯 浅 英 男 とは変形が複鰍こなるので,むしろラテン語の不定法句(ただし不定法現在 形)にならった形で示してみたい。今,未来形のモデルを日本語と対照させて 扱ってみると, (3)Morgenwirdesregnen (4)明日は雨が降るだろう という両語の発話において,dictumの内容は (5)〔esregnYmOrgen〕 と記述する。言うまでもないことだが,(5)は現実の発話を生む意味のレベ ルにおけるメタ言語(この場合は〔〕でそのことを示した)であり,ドイツ 語による記述も便宜的なものである。また(5)は,(3)(4)どちらの発話 を生むためにも必要な共通の志向対象である。次にモデル構築のためには modusを規定しなければならないが,ドイツ語の未来形の場合,個々の用例に よって様々な話者のmodusが仮定される。しかし(3)の文では未来形の意 味を「推遍(Vermutung).と把握してよいであろう。そこで時制の表わす modusの意味をとくに大文字(これもメタ言語である)で書き,(3)の文全 体の意味構造を示すと,

(6)〔ICH−VERMUTE−〔esregn−mOrgen〕〕

modus dictum のようになる。また図示すると(7)となる。ここで示されるICH は前節で (7) modus

//〈\\

ICH−VERMUTE dictum

///\\\\

[esregn−mOrgen]

述べたId−Hier−Jetzト0Iigo としての話し手あるいは書き手であり,

VERMUT仙(推流する)という志向的様態つまりmodusの主体であると同時

に,dictumにおける場面内指示的副詞morgenの時間的な起点(つまりJetzt)

(15)

も指示することになる。他方(4)の日本語も(6)(7)の意味構造をもつと考 えてよいが,mOdusの意味を(3)のドイツ語では時制という統語論のレベル で未来形が担っているのに対し,日本語では助動詞「だろう.が担っている。 さらにドイツ語の未来形は,意味構造の観点において,たとえばHeT・ⅠMtiue工・ wir・djetztinseinemBiiro aIbeiten(ミュ.ラ・−さんは今,彼の事務所で働いて いるだろう)という現在の出来事に対する推盈としてのweI・denの用法と異な

るところはないし,また modus のICH−VERMUTEの意味は,WOhl,

vermutlich,Wahrscheinlichなどの法副詞によっても表現できる。 2.3.3.文における時間指示機能について 次に,時間的な指示機能(Deixis)の問題を文全体の中で考えてみたい。

まず,mOrgen,geSternのような時の副詞,あるいはn註chsteWoche,um15

UhI,am15”Januar1981などの時間規定譜はそれ自体一・定の時間的長さを内 包しているものが多いが,すべて発話峰をJetztい・Orig0 として計測可能な客 徹的時間の表現であり,dictumにおける時間指示機儲庵牒たしていると言っ てよい(時刻や磨ほ十・般に言語学的な意味ではdeiktischな表現とは認められ ていないようだが,発話という状況を想定した場合には,やはりこれらも広い 意味で時間指示機能をもつとみなしてよいのではないだろうか)。さらに,in eineI・Woche,eineWochesp益terなども同様に,発話時と行為時との時間的距 離を客観的に規定しうる時間指示的表現である。 しかしここで注目してみたいのは,主観的なmodus の側面においても時間 指示機能が担われていないかという点である。たとえば,未来形も含めて一・般

にWerdenによって表現されるmodusの中で,今,「推嵐(Vermutung))に

ついて一考えた場合,発話時以前■の出来事,以後の出来事,さらには同時に進行 している出来事に対し話者が「推是.することは可能である。したがって時間 指示機能については,この場合はmodus 白身はもちえザ,dictumにおける時 間規定譜に依存することになる。さらに動詞がもつ時間的屈性としての動作態 様(AktionsarIt),すなわちpunktue11な動詞(たとえばtreHen,kommen,fallen など)かdurativな動詞(たとえばstehen,SChlafen,Wissenなど)かが,たと

(16)

湯 浅 英 男 62 えそれ自体が時間的な指示機能であるかどうか問題として残るとしても,何ら かの時間的方向性を「叫推鼠.というmodusに付与していることは確かである。 ところで,今度はwerdenのもちうるmodusの中でも「推恩)以外のもの,

たとえば山・^称を主語にして多く用いられるIchwerdezuHausebleibenund

lesen(私は家にとどまって読書をするつもりです)のような「意図(Absicht).

あるいは二人称を主語として用いられる Du wirst deine Schulaufgaben

machen(宿題をしなさい)のような「要請(Aufforderung))(または「命令 (Befehl).)などのmodusを考えた場合,明らかにそれは動詞で表現される行 為が発話時以後に実現(Realisierung)されることを指示している。このこと ば,その内容によってはmodusが時間的な指示機能をもちうる場合があるこ とを示している。 そこでわれわれほ心理的な modus の側耐で働く時間指示機能として, Weinrichの「発話パ・−スペクティブ(Spr・eChperspektive).という概念をこ

こで提出してみたい(Weinrich,S.56且)。 これは本来時制が「行為時

(Aktzeit).と「テクスト時(Textzeit).の時間的関係を指示することによって, 受け辛が情報を「回顧(Ruckschau).するのかあるいは「先見(Vorausschau). するのか,さもなければ全く時間的なずれに鰊関心魔のか(この場合の時制は ”NulトSte11e“にある)という,時間的経過の申での情報の方向規定の概念であ る。そこでわれわれは,Weinrich が用いた Ruck(−SChau)・Nul1(−Stelle)・ Voraus(一SChau)という発話パ1−スペクティブの概念を,時制が担う心理的な modusにおける時間的な指示機能として把握しなおし,それがdictumにおけ る時間副詞と共に発話時をJetzt−Origo とする時間表示に関与していると仮定

する。たとえば,IhrwerdetdieHeftemorgenzurdckbringen(明日ノートを

返却しなさい)という文を意味論的なモデルで示すと(8)図のようになるが, (8)

modus //〈\\

ICH−FORDERE・AUF dictum

(17)

時間指示に関しては,未来形のmodusのICHNFORDERE・AUF(私は要語す

る)から派生する「先見(Vorausschau).」という態度,また客観的な dictum におけるmorgenという副詞,さらにつけ加えるなら同じdictumを構成する zur仏ckbringenがもつPunktuellな時間的属性という3つが互いに重層的な構 造をもって干渉しながら ,発話される文の時間的な意味を形成しているのであ る。 2.3.4.完了時制の解釈 放後に完了時制,すなわち現在完了形・未来完了形・過去完了形をいかにモ デル化するかの問題について−述べてみたい。というのも,今までに提示した最 も基本的なmodus/dictumのモデルでは,これらの完了時制の意味記述には 決して十分なものではないからである。ところで,上記の完了時制の中では未 来完了形が最も扱いやすい。なぜなら,形態のみならず意味の上から言っても, 未来完了形から”過去分詞十haben/sein“という完了不定詞(InfinitivII)を 切り離して考えることが比較的容易だからである。そこでまず,この完了不定 詞の意味から考えることにしたい。 すでに完了不定詞という名称から理解されるように,それは本来名詞的 (nominal)な性格をもち,その意味では明らかにdictumである。そこでどの ような意味特性を設定するかが問題であるが,われわれは完了不定詞の意味を 次のように仮定してみる。つまり,完了■不定詞は,「以前に事態が遂行したこ が,(ある時点において)事実として(alsFaktum)存在していること」を意味 するとみなすのである(”alsFaktum“はErben,S。86を参照)。ただ,ある時 点において以前の出来事の遂行の事実が残っていることば具体的な結果が残存 することを必ずしも意味していない。さらに,「終結(AbschluB).ではなく 「遂行(Vollzug))という言薬を用いたのは,たとえばdurativな動詞wissen の現在完了形,ErhatesgewuL3t(彼はそのことを知っていた)は,Wissenと いう事態が「終≠隊」して,「今は知っていない.ということを決して意味して はいないからである。動詞の完丁化(Perfektivierung)は,一・般には動詞に よって表現される事態の開始あるいは終結に話者が注月することを意味するが,

(18)

湯 浅 英 男 64 duI・ativな動詞の場合,終結暗がいつも問題になっているとは限らないのであ る。 そこで先に述べた完了不定詞の意味を表わすメルクマールとして,モデルで

は”VOLLZOGEN(vo11ziehenの過去分詞)+KOPULA(無時間的な繋辞)“を

用いることを提案したい。なぜなら,punktuellな動詞vollziehenの過去分詞 は出来事の「前時性(Vorzeitigkeit).と「遂行性(Vollzogenheit)」を表わし, 繋辞は「事実性(Tats去chlichkeit).を意味すると考えるからである。本来形容 詞的な過去分詞に時間的関係を意味特性として設定することば多少無理なよう に思えるが,たとえ.ばDieTuristge6ffnet(そのドアは開けられている)とい う時,ge甜netという過去分詞は,そこに含意される甜nenという動作が繋 辞istによって指示される時間よりも以前に行なわれたことを表わしていると 言・つてよいであろう。またここでは,繋群が動作の「前時性.の起点を表わし ていることも重要である。 そこで未来完了形を用いてモデルをつくってみたい。ただしこの場合の未来 完了形は,形態的に等しいweI・del−の過去の出来事に対する推盈の用法をも含 むと考える。今,未来と過去の出来事に関する次の2つの文を同時に考えてみ よう。

(9)ErwirddieAr・beitmorgenbeendethaben.

(彼はその仕事を明日終えてしまうだろう)

(10)ErwirddieArbeitgesternbeendethaben.

(彼はその仕事を昨日終えてしまっただろう) この(9)(10)の意味構造はまとめて(11)のように形式化できる(ただし, (11)におけるdictumとdictum′の関係はmodusによって「包まれるもの」 内部の関係であり,この2つば志向的な包摂関係にはない)。

(11)〔ICH,VERMUTE−[VOLLZOGEN+KOPULA:〔morgen/gestern〕

moqus dictum p〔erbeend−dieArbeit〕〕〕 dictum′

(19)

また図式化すると(12)のようになる。 (12) m。dus ICH−VERMUTE

VOLLZOGEN+KOPULA:【morgen/gestern】

dictum′ ///「\\・「=ゝ、

[erbeend−dieArbeit] (11)および(12)においては大文字で書かれている部分が未来完了形によっ て担われている意味である。したがって,ここまで時制の意味は基本的には dictumを「包む.話者のmodusであると主張してきたが,この未来完了形で は(後に述べる他の完了時制においても)modusに「包まれる」dictumの一・ 部(すなわち(11)(12)ではdictum全体からdictum′を除いたもの)まで意 味として含まれることになる。その意味で,未来完了形は玉樹的でありながら,

同時に客観的性格,たとえば「前時性.という客観的時間関係なども内包して

いる。

さらにこのモデルの時間関係についてコメントしておくなら,まず意味特性

の”VOLLZOGEN“はr湖畔性.を含意するが,その起点となるのは時間的な

規定語morgen/gester・nである。したがって,この場合には規定語によって示

される時間は時点(Zeitpunkt)ではなく,時間的な幅をもった時間空間

(Zeitraum)であり,これが本来無暗問的な”KOPULA“に意味として付与さ

れることになる。また,未来完了形において未来時を表わす規定語がない場合 には,ふつう過去の出来事に対する推蒐の怒味で用いられるが,その際の「前 時性.の起点は発話時のJetztとなる。

故後に,現在完了形と過去完了形についても簡j削こふれておくことにする◇

両時制は未来完了形と異なり,形態両で純粋な完了不定詞が存在していない0

しかし,意味論的にみれば,やはり両時制の意味構造も,基本的には”VOLL−

ZOGEN+KOPULAりのdictumを何らかのmodusが包むという形で理解し てよいのではないだろうか。

(20)

湯 浅 英 男 66 そこで,まず現在完了形から考えてみよう。現在完了形がもつmOdus的な 性質については,拙論(1980)において,『魔の山の例文とともに多少具体 的に論じたことがあるが,そこで筆者は現在完了形の本質を「話者が現在の立 場に立脚し,過去の出来事の遂行に対して断定とか確認とかいう主観的態度を とることにある.」(拙論1980,S.28)と考えた。よって−,ここではひとまず現在 完了形のmodusを「確認(Feststellung).として把握し,(13)の文を例にそ の意味構造を考えてみたい。

(13)ErhatdieArbeitgesternbeendet.

(彼はその仕事を昨日終えてしまった) この文の意味構造を示すと(14)のようになる。

(14)〔ICH,STELLE・FESTN〔VOLLZOGEN:〔gestern〕+KOPULA:

modus dictum JETZT−〔:erbeend−dieArbeit〕〕〕 dictum′ さらに図式化すると(15)のようになる。 (15)

modus /一/、−−→→\\\

dictum

ICH−STELLE・FEST

−、‥‥ dictuml こ二・・ 一叔に完了時制の場合,時間に関する規定語がある場合には,それが「前時 性.の起点になり,規定語がない場合にはJetztがなるのが原則であるが,こ の(14)(15)からもわかるように,現在完了形では,時間規定語がある場合で もdictumにおける「前時性」の起点は発話時のJetztとなる。そしてその場 合の規定語は,出来事の遂行される,つまり”VOLLZOGEN“の時間を指示す ると解釈するのが撮も安当であるように思われる。ただ,時に現在完了形が

(21)

mo曙enのような副詞とともに未来の出来事を表瀾する場合があるが,その時 には原則通り時間副詞は(14)(15)の”JETZT“の位置にくると考えてよい であろう。また,「確認.というmodus自体がもつ発話パ・−・スペクティブにつ いて述べるならば,それは「零(Null).とみなすことができる。これは逆に言 えば,すべての時間的な方向に対して話者が「確認.できるということでもあ る。 過去完了形に関しては,この時剃が過去形と共同で話し手あるいは書き手の 存在するJetztの時空とはかけ離れた時間的脈絡を形成することを考えれば, 過去形と同じmodusをもつと解釈してもよさそうである。Brinkmann も過去 形を「回想の時制(TempusderErinnerung).として把握するばかりでなく, 過去完了形についても,現在完了形が現在に対して−果たすような機能を「回想 の時間空間(ZeitIaumder Erinnerung).に対してもって1\ることを述べてい

る(Brinkmann,S.335,343)。これらのことから,過去完了形のmodusにっ

いては第−・義的には「回想(Erinnerung).であると理解しておきたい。そし てこの「回想.」というmodusには「回顧(Rtickschau).という発話パースペ クティブを認めることが可能である。 そこで過去完了形の典型的な用例として(16)を考えてみよう。

(16)AIserankam,hattensiedieArbeitschonbeendet.

(彼が到着した時,彼らはその仕事をすでに終えてしまっていた) この文の意味構造を檀按図式化すれば(17)のようになる。 (17) modus dictum ICH.ERINNERE・MIC王i

VOLLZOGEN

+KOPULA:[alser・ankomm・]

dictum

[siebeend・SChon dieAr・beit〕 (17)図でわかるように(16)の文においては,”VOLLZOGEN“の「■前時性.

(22)

湯 浅 英 男 68 の起点は”AIserankam“という副文によって表示される時点である。しかし, Gelhaus(1966,S.226)やErben(S.98)によって引用されている(18)のよ うな文,つまり,

(18)DerPolizeischlugdenEinbrecher,undgleichdaraufhatteerihn

gepaCkt

(その警官は侵入者を殴打した,そしてそのあとすぐ引締えた) においては,”KOPUIノA“によって示される「前略性」の起点は,物語(これ は−・般に「物語られるもの」として広義に解釈する)の流れ,出来事の連続的 な経過の中に解消されてしまい,”VOLLZOGEN“の「前時性.の意味自体は 薄れる結果になる。しかし,そのために逆にここでは過去完了形のもつ「遂行 性.」が強調されている。 3.結 び 以上,現在筆者が考えているドイツ語の時制解釈の−・端を紹介してみた。実 際には意味モデルの全体的な枠組みを提示す−ることが主な目的であったために, 用例の意味分析カiかなりむずかしい現在形や過去形などの時制を例として用い ることばしなかったが,一\応それらの時制の解釈も射程におきながらモデルを 考えたっもりである。これらの時制の実際の解釈は次の機会に考えてみたい。 ところで時制という文法範疇は,ドイツ語に限ってみても用法に富む,その 意味では非常に創造的な言語の一・面を体現している。そのことば,ゲルマン譜 の時代において現在形と過去形というわずかこ時制であったものが,現代ドイ ツ語では少なくとも六時制(当然直説法に限ってではあるが)もの多くが存在 しているという歴史的変遷や,今なお地域によってその使用に差異が存在して いるという方言上の多様性(たとえば南ドイツ地方における過去形の衰退とそ れに伴なう現在完了形の多用)によっても推測される。こうした事実をふまえ るならば,時制を単に普遍的抽象的な弁別的な体系として把握するよりも,む しろ文体的な側面をも含めた言語主体による創造的な表現行為として把握する 方が,あるいはもっと端的に言えば,言語のもつラングの側面からではなく,

(23)

バローリレの側面から把握する方が,より生産的な時制解釈がなされるのではな いかと考える。そして拙論もこうした観点から時制を柔軟かつ創造的に悪辣づ けようとしたものである。また,現在盛んに研究されている発話行為諭と結び つけてドイツ語の時制を解釈することも,もはやそれほど困難ではない位掛こ 釆ていると筆者は思っている。 注 本文中の()内は著者名とペ・−ジ数を指す。ただし復数の著作が引用され ている者に関しては,発行年も添えた。讃=名あるいは論文名は文献欄を参照。 また本文中にはHelbig/BuschaやEichler/Biintingなどから採用した例文も 多いが,ごく日常的に使用される文であるため出典は特に明記しなかった。さ らに時枝博士の引用文については歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに改めてある。 1)Gelhausはその後,未来形の意味分析(Gelhaus1975)もおこなっている が,そこでは発話時における「終結.と「開始.の有鰊の下位区分に,「様 態性(Modalitat).としての「推鼠(Vermutung)J・「予告(Voraussage)」・ 「意図(Absicht).・「命令(Befehl).の有無が付け加わっている。しかし, 時間的なメルクマ・−ルが弁別の基礎にある点では,時制に対する根本的な見 方はかわっていない(たとえばGelhaus1975,Sい125の図32を参照)。 2)Br・inkmannのこの見解は,英語の時制に対する細江逸記博士の解釈と相 通じる。博士は,同一・時階の出来事に異なる時制が用いられることの理由を, 「当該事件に対する富者の心的態度ないし心的状態の相違を,作者がその身 に代わって表わすのに起因する.(細江,S…76)と述べるとともに,現在形を 「直観直叙」,現在完了形を「確認確述_り 過去形を「回想叙述.,未来形を 「想像(推測)叙述」の各語形とみなす。 3)ここで述べたことについては拙論(1980,S.21f.)を参照。また,そこでは GelhausとWeinrichに対する簡単な批判も注(拙論1980,S.32f一.)におい ておこなっている。拙論(1980)は現在完了形のもつ話者の主観的態度の側 面に光をあてようと試みたものであるが,時制の2つの意味を統山的に解釈

(24)

弦を 浅 英 男 70 する一般的なモデルを提示するまでには到っていない。また最近では,客観 的な時制分析として.「行為時(Aktzeit).・「発話時(Sprechzeit).・「観察 時(Betrachtzeit).の時間的前後関係を個々の用法に関して記述する方法や (たとえばHelbig/Buscha,S…122軋,Eichler/Btinting,S.102ff.など),現在 完了形と過去形の差異を探るために,ある種の動詞,時の副詞さらには人称 との共起の頻度を統計的に調査する方法がとられてほいるが(たとえば Hauser−−Suide/Hoppe−Beugel,S…128且,Latzel,S…82ff”など),現象面の相 対的な記述だけでは時制の本質に到達できないと,筆者は考えている。 4)・7ッサー・ルと前節の時間論でふれたアウダスティヌスとの思想的つながり は,たとえば,フッサー・ルの『デカルト的省察。がアウダスティヌスの「外 にゆこうとしないで,汝自身のうちに帰れ。真理は人の心のうちに宿ってい る」(船橋沢,S.353)という言薬で結ばれていること,あるいは炉内的時間 意識の現象学。の序論の初め(立松訳,S.9)に,アウグステイヌスの時間 論を高く評価していることをみただけでも明らかである。また,アウダス ティヌスは主観的な時間を生み出す現在の意識の作用に対し,intentio(山 田訳では「精神のほたら卓.,S..432)という言葉を用いているが,フッサー ルも,主観的な意識の作用である「志向性(Intentionalit左t).の観点から時 間を分析している。このことなども,時間を言語の辞的な陳述性の側面から 把握する上で,着日してよいことであろう。 5)今,話法の助動詞を考えた場合,すべての用法をmodus の表現とみてよ いか疑問である。たとえば,Du kannst recht haben(君が正しいかもしれ ない)というような主観的な推蛍の用法は明らかにmodus の表現であるが, Er・kann schwimmen(彼は泳ぐことができる)のような能力を表現する客 観的な用法はむしろdictumの表現とみなすべきであろう。また法副詞につ いても,日本語の助動詞同様,より客観的な性格のものからより主槻的性格 のものへと,そのmodus 的意味に段階が存在する可儲性がある(井口1980 参照)。したがって,個々の単語のそれぞれの用法について厳密に論証して いくことが必要である。

(25)

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(26)

湯 浅 英 男

72

湯浅英男:現在完了■形におけるモドゥス的側面について−−トーマス・マンの C魔のl.tJ。 の例文を用いて−,in:DERKEIM,第4号,1980,S“20¶34

参照

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