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韓国メディア企業における資本調達および構造の一考察

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1.はじめに

 本稿は,大韓民国(以下,韓国)の『ハンギョレ(1)』が創刊時に採用した「国民株 方式」について,その構造と特徴を論じたものである。本稿の目的は以下の2点 である。  第一に,国民株方式の採用過程を踏まえた上で,そのメディア史的な意味を明 らかにする。第二に,「報道の自由」と政治権力・資本の影響力の関係性という 観点を基軸におき,メディア企業における「国民株」という資本構成の特異性が, 組織や運営および編集方針にどのような影響を及ぼしたかを考察する。  韓国の総合日刊紙である『ハンギョレ』は,現在,『朝鮮日報』『東亜日報』『中 央日報』『京郷新聞』などと並んで韓国を代表する日刊の全国紙である。2010 年 に韓国 ABC 協会が発表した資料によると,2009 年7月~12 月の発行部数は 281,814 部であり,日刊紙 34 紙(2)中第9位である(3)。『朝鮮日報』『東亜日報』『中央日 報』が保守論調で知られる一方,『ハンギョレ』は進歩(4)論調で知られる新聞である。  『ハンギョレ』は,1970~80 年代に既存のマスメディア(5)から解雇された記者ら が中心となり,創刊資金 50 億ウォンを出した 27,233 名(6)の「国民株主」の力を持 って,1988 年5月 15 日に創刊された。当時の韓国言論(7)界において,既存メディ アにはできなかった進歩的な紙面展開をした(8)。その報道姿勢は,「独立した立場

韓国メディア企業における資本調達

および構造の一考察®

  『ハンギョレ』の「国民株方式」を事例に

森   類 臣

(立命館大学)

 

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すなわち国民大衆の立場からこれからの政治・経済・文化・社会問題などを報道 し論評する」という創刊の辞に端的に表れている(9)。また,分断状況にある朝鮮半 島において,『ハンギョレ』は「南北間の関係改善のために,特に同族の軍事対 立を止揚して統一を成し遂げることにおいて,この国の民主化は絶対的な条件に なる(10)」という信念のもと,反共主義的な報道を排し,南北統一を志向する姿勢を 明確にした。これらの姿勢は,既存のマスメディアとは一線を画す姿勢だった。  『ハンギョレ』の特筆すべき点の一つは,他に類例をほとんど見ない(11)「国民株 方式」によって設立された新聞社であるということである。国民株方式とは,韓 国国民が募金に近い形で『ハンギョレ』創刊・維持のための株を買うという制度 であり,『ハンギョレ』はこの方式で集められた資金を基礎に創刊された。国民 株方式は,特定の大株主が存在しえないシステムをとっていたため,既存マスメ ディアでは常態化していたオーナーや大株主による編集局への圧力を避けること ができたという評価がある。  例えば,『ハンギョレ』創刊メンバーの一人である李仁哲(12)は,『朝鮮日報』『中 央日報』『東亜日報』の三大紙と『ハンギョレ』の報道の違いについて,三大紙 は社主や経営陣の影響力が非常に強いが『ハンギョレ』には社主がいないので圧 力を受けることがほとんどないことだと指摘した(13)。  国民株方式は,メディア企業の所有構造と編集体制に大きな影響を与えるシス テムであるが,これまで詳細な分析を行った先行研究は,韓東燮(1998)(2000) や高昇羽(2002)(2004)など限られていたと指摘できる。日本においても,本多 勝一や伊藤千尋といったジャーナリストが,オルタナティブメディア論の観点か ら国民株方式に関心を示した(14)ものの,学術研究は進んでいなかった。国民株方式 の構造については,より詳細に検討される必要があるだろう。  なお,本稿は研究方法を次のように設定した。第一に,当時国民株方式の進捗 状況を知らせていた『新たな新聞便り』『ハンギョレ新聞便り』(謄写版,活版印刷 版)などの比較的入手困難な資料を収集し,それら資料をもとに当時の社会的背 景に肉薄しつつ,国民株方式の採用過程を検討する。また,当事者のインタビュ ー調査を通して当時における国民株方式の必要性と目的を明らかにする。第二に, 政治権力や資本の影響力からマスメディアがどのように独立し報道の自由を維持 するべきかという観点を基軸に置き,政治経済学的なメディア研究の手法を援用 して,国民株方式の構造とそのシステムが『ハンギョレ』の組織や運営,編集方 針に与える波及効果について検討する。

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2.「国民株方式」誕生の背景

 国民株方式が成立する背景には,1970 年代から本格化される韓国言論界の民 主化運動がある。1970~1980 年代の韓国は,朴正煕政権および全斗煥政権によ って長期の軍事独裁政権が続いており,いわゆる権威主義体制であった。元『東 亜日報』記者で,『ハンギョレ』創刊に深くかかわっていく成裕普(15)は,1975 年ま で『東亜日報』記者であったが,この時代のことを「息をするのも大変な時代」 と表現した(16)。当時の韓国では政権による民主化勢力への徹底的な弾圧があったも のの,学生運動や労働運動を中心とした民主化運動は継続しており,言論界でも 政治的権利としての「報道の自由」を勝ち取る運動,言論界の自浄作用を促す民 主化運動などが行われていた(17)。これらを「言論民主化運動(18)」と呼ぶ。  韓国国内に民主化運動そのものを支える社会的土壌が醸成されていたことは, 国民株方式の創出とその結果を考える上で非常に重要なことである。70 年代か ら 80 年代にかけて言論民主化運動が拡大・成長すると同時に,既存のマスメデ ィアの内部改革だけでは不足であり新たなマスメディアを創出することが重要で あるという考えや,創出にかかる莫大な資金を国民の支援に依拠するという考え が出てきたことは,ある意味必然的な流れであったと言えるかもしれない。この 転換点を成裕普は「70 年代の言論民主化運動は,既存メディアの改革および不 当に解雇された記者の復職・名誉回復を目指していたが,80 年代には,より大 きな運動を志向しようとする動きが出てきた。民主言論運動協議会の結成と機関 誌『マル(19)』の発刊は,その延長線上だった」と述べた(20)。  『ハンギョレ』の国民株方式の源流は,1979 年 11 月に,東亜自由言論守護闘 委委員会(以下,東亜闘委(21))委員長だった安鍾柲が語った新聞創刊構想に求めら れる(22)。安鍾柲は「新時代が来たら国民たちがもれなく出資して彼らが主人となる 新聞社をつくることが一番望ましい。どんな人間も新聞社を思うままにすること はできないし,編集権の独立も成し遂げられるだろう。そうなったら,ある〔特 定の〕人の新聞ではなく,われわれの新聞という考えから制作にも積極的に協力 してくれるのではないだろうか」と言及していた。国民株方式につながる構想を すでに 1979 年に提示していたのである。  安鍾柲の新聞創刊構想は『東亜闘委便り』を通して東亜闘委ら解職記者らの間 で共有されていたものの,言論基本法は新しいマスメディアの創出および市場参

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入を実質的に禁止していたため,1987 年6月の民主化宣言およびその成果とし ての言論基本法廃止まで,新しいマスメディアを創出すること自体が現実的に難 しかった。全斗煥政権下においては,民主的なマスメディアを作り上げる構想は あっても,実現可能性はほとんどなく,それは 70~80 年代に言論民主化運動を 担ってきた解職記者も認識していた。  しかし,1984 年に,朝鮮自由言論守護闘争委員会・東亜闘委・80 年解職言論 人協議会(23)・言論民主化運動を推進してきた一部の出版関係者らが結集し,民主言 論運動協議会(以下,民言協)が結成されてから,少しずつ流れが変わり始めた。 民言協は,機関誌『マル』を創刊し,積極的に反軍事独裁政権の論陣を張り,権 力監視報道を展開した。『マル』は正式に認可を得た雑誌ではなく,非合法の地 下メディアだったため政権による弾圧の対象となったが,その中でも「報道指針」 暴露報道など,既存マスメディアでは報道できない報道を実践した。  一方で,民言協のメンバーたちは,『マル』の意義を認めつつもそのまま雑誌 にとどまるつもりはなく,より影響力のある総合日刊紙創刊の可能性を模索し続 けた。安鍾柲の新聞創刊構想がより発展した形で文章化されたのは,『マル』創 刊号に掲載された「新しい言論機関の創設を提案する」という記事である。この 記事は「新しい報道機関は,既存報道機関が個人または少数の言論によって独占 的に所有されているのとは違い,真実の民主言論を渇望するすべての民衆が出資 し,自らの力で自身の表現機関を創設する。民衆が共同で所有し運営する,民衆 の表現機関になるのだ」と宣言している(24)。「民衆が出資」「民衆が共同で所有し運 営する」という文言には,『ハンギョレ』の創刊基盤となる国民株方式の構想が 伺える。  このような流れに見られるように,1980 年代中盤までは国民株方式が具体化 されはしなかったものの,言論民主化運動の重要な目標のひとつに,新たな報道 機関創設の動きがあったことは確実である。新聞が,少数の大株主ではなく多数 の市民に依拠したものでなければならないという考えは,言論民主化運動を担う 人間たちの共通認識となっていた。この共通認識が,鄭泰基を中心とした新聞社 創業の実務を担った少数メンバーの中で具体的計画として構築されたのは,1987 年になってからであった(25)。その契機は,盧泰愚による 1987 年6月 29 日の民主化 宣言であった。ようやく合法的に新たな新聞を創刊できる可能性が開け,新聞創 刊の現実味が出てきたのである。盧泰愚は民主化宣言において8項目の重要な内 容を展開したが,第5項で言論基本法の大幅な改善もしくは廃止に言及しており,

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この宣言をきっかけに,新聞創刊へ道が開け,具体的な動きが始まったのである。 後にハンギョレ新聞社創立の実務面での中心を担う鄭泰基は,朝鮮日報社を解雇 された後,コンピューター会社経営・出版社経営など様々な業種を経験しながら 新聞創刊構想を温め続けていたが,1987 年7月に李泳禧,李炳注,任在慶ら数 人の仲間に会い会議を重ねた。その席で李炳注が,国民から広く創刊資金を募集 するキャンペーンを展開したらどうかと提案した(26)。このようなプロセスを経て, 国民株方式は,その大まかな形態がメンバーによって共有され整理されていった が,この時点ではまだアイディアの段階であった。  具体的な議論を煮詰めたのは,鄭泰基・李炳注・金泰弘が中心となって 1987 年7月に結成された「新言論創設研究委員会」であろう。研究の末,同月末に新 言論創設研究委員会が「民衆新聞創刊のための試案」を提出し,そこで国民株方 式の基本枠組みが整った。実務段階に移ったと判断した9月1日に,「新言論創 設研究委員会」が発展解消する形で「新たな新聞創刊発議準備委員会」が構成さ れた。委員会は,ソウル市鍾路区安国洞安国ビル 601 号室および 602 号室に「新 たな新聞創刊準備事務局」を構えた。「新たな新聞創刊発議準備委員会」は,9 月23日に「新たな新聞創刊発議者総会」で創刊発議文を発表し,9月24日に「新 たな新聞創刊発起推進委員会」に改編された。この時点で,国民株方式による創 刊資金づくりがほぼ既定路線となった(27)。国民株という名前は株の社会的性格を表 した呼称であり,法的には他企業の通常の株と変わりがなく,会社を立ち上げた 後に会社から発行された有価証券である。創刊準備委員会は会社を立ち上げるた めに広く国民に資金援助を訴えたが,名称が法律に抵触するのを避けるため,会 社登記前は国民株という呼称は使わず,実際は「国民募金」という名称を主に使 って資金を集めた。創刊準備委員会の考えは,まず募金によって広く国民から資 金を集め,その資金をプールして会社を立ち上げ,その後,募金額に応じて株を 発行するというものだった(28)。法的な対処は,当時顧問弁護士を務めていた朴元淳 が担当した(29)。

3.国民株方式の進捗プロセス

3−1 準備期間と進捗状況  当時,韓国では総合日刊紙を製作・発行し,全国に流通させ,経営を軌道に乗 せるのに,単純計算で 200 億ウォン程度は必要であった(30)。しかし,鄭泰基は必要

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経費を大幅に節約し 100 億ウォンでつくる予定だと 1987 年 11 月に主張した。国 民株方式で 50 億ウォン(31)を準備し,残りの 50 億ウォンは銀行から融資を受ける計 画だと述べたのである(32)。鄭泰基は,概算に基づいた結論として,写真植字機・出 力装置・組版・輪転機など,新聞発行に必要なハード面(工務施設関連)にかかる 費用を最小限に抑えることができれば 100 億ウォンで創刊でき,当面は経営を安 定化させることができると主張した。その核心部分が,コンピューター組版体制

(Computer Typesetting System,以下 CTS)であった。

 準備金 100 億ウォンのうち 50 億ウォンは銀行からの融資を受ける予定だったが, 残り 50 億ウォンは創刊メンバーたちが自力で集めなければならない当時の状況 において,鄭泰基は「その時の韓国社会の状況を私がどのように把握していたか というと,民衆の既存マスメディアへの不満や不信が大きく,民衆の怒りは爆発 寸前の臨界点ギリギリだということでした。正確にマッチの火を擦れさえすれば, (燃え広がるように)すぐに 50 億ウォンくらいは集まるであろう,問題はないと見 ました。ただ,どうやってマッチの火を擦るかが問題でした。韓国は非常に多様 なスペクトラムが広い社会です。募金をするとき,それが非常に大きな力になり ます。人々が皆(募金に)呼応し同意してくれてこそ創刊できるという見通しで した」という状況分析をしており(33),国民株方式が十分に機能すると予想していた ようである。  このような中,1987 年9月 23 日に新たな新聞創刊準備事務局で,新たな新聞 創刊発議者総会が開かれ,二つの重要な原則つまり①資本金 50 億ウォン②出資 上限は資本金総額の1パーセント未満,が確認された(34)。  この席で発議者 196 名が資金を出し合い,計1億ウォンをまずプールした。こ の中には,解職記者たち 155 名がそれぞれ約 50 万ウォンずつ出し合った約 7750 万ウォンも含まれていた。この資金は,創刊準備における実務費に当てられるこ とになった。出し合った資金だけでは創刊には全く届かなかったため,国民株方 式を本格的に実行する必要性が発議者の中で確認された(35)。  この後,10 月 12 日に著名な 24 人が「新たな新聞は生まれなければなりません」 という創刊支持声明を発表した。この創刊支持声明を発表した知識人たちは,言 論界・宗教界・学界・法曹界・政界など幅広い人物から構成されており,当時民 主化運動を推進してきた中心人物でもあった(36)。  さらに,10 月 22 日に題字を「ハンギョレ新聞」に決定した(37)のを受けて,同月 30 日に創刊発起宣言大会を開かれた。ここでは「ハンギョレ新聞創刊発起宣言

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文」が採択された。この宣言文では「今日われわれは,新しいメディアの創刊を 通して,今の制度言論(38)がもつこのような構造的欠陥を克服しようとしています。 このための第一要件は,(ハンギョレが)既存メディアのように何人かの所有物に なり権力に隷属することのないようにしなければならないということです。その ためにわれわれが設定した創刊基金 50 億ウォンを,国の民主化を心から願って いるすべての人の参与で成し遂げ,字そのままに国民が主人になる新聞をつくろ うとしています(39)」という部分が強調されていた。創刊メンバーは,権力と資本か ら独立したマスメディアをつくるためには,それを実質的に担保する経営システ ムの構築が必要であって,それが国民株方式だと認識していたのである。大会で は,発起人 56 名によって「ハンギョレ新聞創刊委員会」(以下,創刊委員会)が発 足した。  この発起宣言大会後,全国民を対象にして本格的に,新聞社設立のための国民 株公募を開始した。「ハンギョレ新聞創刊発起宣言文」で公約された通り,一株 当たりの額面価格を 5000 ウォンとし,50 億ウォンを目標金額として国民株の公 募を始めた。  ほとんどのマスメディアは,『ハンギョレ』創刊運動を重要なニュースとして 報道せず黙殺したに近い状態(40)だったので,創刊委員会は,新聞広告などを使って 創刊運動を社会に周知する必要に迫られた。もちろん,宋建鎬ら創刊委員会の中 心メンバーが,ソウルをはじめ各地方の主要都市に直接入って,在野運動団体や 市民向けに『ハンギョレ』創刊協力要請のための講演会を開いたが,それだけで は限界があった。よって,創刊委員会は 11 月6日から『朝鮮日報』をはじめ, 他の日刊紙に「すべての国民がつくる新たな新聞,ハンギョレの主人になりまし ょう」という創刊基金のための国民株募集の広告を掲載し始めた(41)。広告の効果は 絶大で,掲載を始めた 11 月6日だけで 1100 万ウォンが集まった。  1987 年 11 月 14 日の時点で,設立会員を約 5100 名まで拡大させ,10 億 7000 万ウォンを集めた(42)。その内訳は,創刊を発議したメディア関係者(記者出身の人 間および現役記者)約 200 人が一人当たり最低 50 万ウォンを出して約1億 7000 ウ ォンを集め,それ以外の『ハンギョレ』創刊発起人 3100 名と一般株主 1700 名が 約9億ウォンを出した計算になる(43)。本格的に国民株方式を取り入れてから,16 日間という短期間で 10 億 7000 万ウォンを集めたわけだが,目標とする 50 億ウ ォンには届かなかった。そこで,創刊準備委員会は,ハンギョレ創刊発起人一同 の名義で,『ハンギョレ新聞便り』などに広告を出した。そこには「すべての国

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民が主人となる新しい新聞 ハンギョレ新聞は 39 億3千万ウォンが“さらに” 必要です 大統領選挙と同じくらい重要なこと―膝を屈しない真のメディアを創 立し,民主主義を守ることです」というキャッチコピーが用いられた(44)。  1987 年 11 月は,第 13 代大統領選挙が近づいており,韓国社会全体が選挙に 対して非常に関心が高かった時期でもあった。軍出身で,全斗煥政権を支えた盧 泰愚と,民主化勢力の金泳三・金大中らのどちらが選ばれるかによって,韓国社 会の将来が決まるからであった。創刊委員会は,高まる民主化要求が大統領選挙 という大きなイベントに向かって結集しつつあるという認識のもと,効果的な広 告を出す必要に迫られた。11 月末から『ハンギョレ新聞便り』などに掲載され たこの広告は,「大統領を選ぶことと同じくらい重要なこと‼―“ハンギョレ新 聞に出資してください。明日の民主主義に投資することなのです”」というキャ ッチフレーズであった(45)。  結局,12 月 16 日の大統領選挙では民正党候補の盧泰愚が当選し,民主化運動 勢力が支持する金大中・金泳三が敗北するという事態が起こった。候補を一本化 できなかったことが敗因だった。創刊委員会は,敗北感の漂う民主化勢力を刺激 しつつ創刊への協力を促すために「民主化は一度の勝負ではありません―虚脱と 挫折を振り切ってハンギョレ創刊に力を結集させましょう」というキャッチフレ ーズの創刊基金募集広告を『ハンギョレ新聞便り』(活版印刷版)第4号(1987 年 12 月 29 日)だけでなく,『東亜日報』『朝鮮日報』『中央日報』『韓国日報』などの 全国紙に掲載した(46)。 3−2 支持者の拡大  その後,1月 28 日からは「国民株募集キャンペーン」を集中的に行った(47)。結果, 総額と株主数を急激に伸ばした。以下のグラフを見ても,1988 年1月 20 日以降 に急激に伸び幅が大きくなっていることがわかる。  また,1987 年9月末から 1988 年月末にかけて,急激な伸びを記録した株総額 であるが,時系列にみる株主数と総額の関係は以下のようであった。  このようにして,1987 年 10 月 30 日から 108 日間続いた創刊基金のための国 民株公募は,1988 年2月 25 日に創刊基金 50 億ウォンを集め,目標を達成して 完了した。  この間,ソウル市だけではなく,地方都市でも『ハンギョレ』創刊に対する民 衆の支持が大きく,自発的な『ハンギョレ』創刊後援活動が始まっていた。釜山

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市・仁川市・光州市・大邱市・大田市・清州市・裡里市(現在は益山市)・順天 市・原州市などの規模の大きい地方都市が,その中心となった。11 月 22 日は仁 川市民たちが後援大会を開き,続く 28 日には釜山市民が大会を開き,後援会を 結成した(50)。  宗教界では,カトリックの動きが目立った。カトリックの組織である平信徒使 徒職協議会が「われわれの社会の民主化と正義のために,政治権力の民主化に劣 らないくらい重要なことは,ジャーナリズムの正道を歩む,新聞らしい新聞・放 送らしい放送をつくること」という声明文などを盛り込んだ,『ハンギョレ』創 刊支持のチラシ 10 万部を信徒に配布したということもあった(51)。  海外に居住している韓国人のうち,新たな創刊が準備されているというニュー 50 40 30 20 10 0 9/23 /198 7 11/1 0/19 87 11/1 4/19 87 11/2 1/19 87 12/1 0/19 87 12/2 8/19 87 1/20 /198 8 2/7/ 1988 2/25 /198 8 図1 株総額の変化(48) 表1 株総額と株主数の変化(49) 日付 総額(単位:億ウォン) 株主数(創刊基金納入者数) 1987/09/23 1 196 1987/11/10 6 3,000 1987/11/14 10.7 5,100 1987/11/21 12.3 5,800 1987/12/10 16 7,500 1987/12/28 19 9,500 1987/01/20 26.6 12,000 1988/02/07 35.8 17,000 1988/02/25 50 27,000

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スを聞き,国民株公募活動に協力した人たちも少なくなかったようである。『ハ ンギョレ新聞便り』(活版印刷版)第2号は,「マニラからきた手紙」と題して,マ ニラで活動しているカトリック神父の朴チョングン(52)からの,11 月8日付の手紙「自 由と尊厳をお守りください」を紙面上で伝えている(53)。朴は,「私たちの小さい誠 意ではありますが,皆様の志に賛同するため(お金を)お送りしますので,受け 取ってくださいますようお願いいたします」とし,創刊基金としていくらかを寄 付したことを明記している。また,当時日本に亡命中で東京に滞在していた池 明観(54)は「(『ハンギョレ』は)市民の募金で始まりました。それで(お金を)送った りしました。最初の人たち(筆者註:『ハンギョレ』の創刊メンバーたちのこと)はわ れわれ民主化闘争の友人たちですから」と答えて,国民株を通して海外から創刊 を支援したことを明らかにした(55)。

4.国民株方式の構造と効果の検討

 国民株方式は,上記のように発展した方式であったが,本節ではその目的およ び効果を考察する。そのためにまず,韓国における権威主義体制下の大手新聞社 をとりまく構造を説明したい。  当時韓国の新聞社の構造は,政治権力者の言論統制に対して非常に弱かった。 最も大きな原因は,軍事力を背景にした政治権力者の絶対的な権力に起因してい たことは言うまでもないが,既存の大手新聞社にオーナーや少数の大株主が存在 していたので,その意向が編集権の独立を侵害するケースが多かった点も同時に 指摘できる。  政治権力者は,広告主に圧力をかけてマスメディアに対する広告提供を止めさ せ資金難に陥らせることで,間接的にマスメディアを統制する方法(56)の他に,編集 局に「報道指針」を通達して記事内容を事前検閲し,従わない記者を連行・逮捕 して直接的な暴力を加える方法も多く用いた。さらに【図1】で示したように, 政治権力者はオーナーや大株主を通してメディアコントロールをはかった。  実際に,1975 年に朝鮮日報社と東亜日報社が記者を大量解雇した事件と, 1980 年に全斗煥政権によってメディアが統廃合され,記者が大量解雇された事 件は,政権の強権性はさることながら,政権の利益誘導と弾圧に屈服した経営陣 が強制的に記者を大量解雇した側面が強い。  『ハンギョレ』を創刊した中心人物たちは,当時このような構造の中で弾圧を

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受け不当解雇された記者たちであり,政治権力者および大株主による言論統制・ 弾圧に対して危機感を持っていた。この危機的状況をいかに克服するかの一つの 答えが,少額大多数の株主によるマスメディアの所有形態,すなわち国民株方式 であったのである。その効果は,以下のように整理できる。  第一に,政治権力や政治権力と癒着した少数の大株主による編集権への不当な 干渉を防ぎ,「報道の自由」を守ることができることが挙げられる。『ハンギョレ』 は他の新聞社と同じ株式会社である。他のマスメディアが,社主や大株主を通し た政治権力によるメディアコントロール,または社主や大株主そのものによる圧 力を受けやすかった反面,『ハンギョレ』はそのような干渉を受けにくい,もし くは受けたとしても排撃する能力があった。その理由は,小規模大多数の株主が 会社の資本金(株主資本)を支えている制度であるという点に帰結する。経営構造 の源泉は小規模大多数の「国民株主」であり,大株主が原理的に存在しないため, 政治権力者に生命線を握られるリスクは非常に少なかった。  また,政治権力者が小規模・大多数の株主に直接圧力をかけることも現実的に 不可能であった。もちろん,警察や情報部などが『ハンギョレ』の読者性向調査 図2 権威主義体制下における言論統制の例 政治権力者 利益誘導 圧力 統制・圧力 反抗勢力の 強制処分 オーナー 大株主 恭順 反抗のち服従 編集局 マスメディア 報道指針・事前 検閲 ※逮捕・ 連行もあり

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をするなど,政治権力が株主および読者一人一人を特定して圧力をかける兆候も なくはなかったが,『ハンギョレ』がこの事実を報道したこともあり(57),政治権力 者による国民株主への直接的な圧力はほとんどなされなかった。  『ハンギョレ』がこのような構造を持つ国民株方式を採用したのは,鄭泰基が 「その時は国民株方式という,募金という方法しかありませんでした(58)」と言った ように,資金を持たない解職記者たちが新聞を創刊するには,国民株方式に賭け るしかなかったという状況があったとしても,結果的に国民株方式は『ハンギョ レ』が志向したジャーナリズムの形態に非常に適合性があった方式だったのであ る。これについては次節で詳しく検討する。  第二に,株の購入制限による権限集中禁止の原則を挙げることができる。『ハ ンギョレ』は創立資本金 50 億ウォンを目標に募金を実施したが,巨大資本の浸 透を阻むという意味で,株主1名当りの出資額を資本金全体の1%以内に制限し, 法人による株購入も禁止した。これにより,特定の株主が影響力を伸ばして,ハ ンギョレ新聞社の経営権および編集権に不当な干渉を行うことを防止した。大株 主が生まれるのが不可能な構造をつくりだしたのである。したがって,理論的に は会社経営および編集局に特定の株主の影響力が大きく反映されえない構造とな っている。そのような意味で,多数の国民株主の意思決定として経営者が選抜さ れるので,当時の他メディアより民主的なプロセスを経て経営者が決定されると いう利点もあったと指摘できるであろう(59)。例えば,『ハンギョレ』の継続的な研 究を行っている韓東燮は「(ハンギョレ新聞社は)所有権を実に約6万名の少額株 主たち(60)に完璧に分散させることで,メディア資本の所有権を通じた統制と国家介 入による統制から自由でいられるという,新しい公共所有形態を創案した。実際 に,このような所有構造はメディア資本と国家の統制から自由であるメディアを つくるという点で効果的であった」と評価している(韓東燮 2000:102)。

5.国民株方式が理念と組織運営に与えた影響

 国民株方式は,『ハンギョレ』が標榜した「民衆(61)言論」という理念と共鳴して いる。『ハンギョレ』が志向した「民衆言論」とは,「労働,農民部門をはじめと した様々な分野で自分たちの声を知らせる自生的な言論(62)」であり,制度言論が伝 えない「民衆」の声を伝える言論であった。『ハンギョレ』の認識は,「今の民衆 言論は制度言論が民衆の声をほとんど無視して,一切の表現手段を奪われた民衆

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が,いまや自ずから自身を表現するしかない現実の中から不可避に要請された(63)」 のであり,「民衆言論はすなわち言論分野で繰り広げられている広範囲な民衆運 動の一つの表現である(64)」というものであった。『ハンギョレ』は,被抑圧者・奪 われた者・社会的弱者としての「民衆」の側に立つ言論を志向したのである。し かし,このような「民衆言論」を実践することは,支配層と対立状態に置かれる ことを意味した。当時,創刊メンバーが最も危惧していたのが,権力が資本を通 して言論統制をすることであり,「民衆言論」を実践するためにも国民株方式は 必須であった。  実際に,国民株を購入した人たちは被支配層すなわち「民衆」が中心であった(65)。 『ハンギョレ』は国民株方式を通してその存在基盤を「民衆」に依存し,「民衆」 は自分たちの代弁者としての機能を『ハンギョレ』が果たすことを信じたのであ る。『ハンギョレ』と「民衆」は国民株方式を通じて相互依存の関係になってい たのである。『ハンギョレ』は「民衆」に依拠している限り,創刊精神である「権 力と資本から完全に独立し,国民たちの側に立ち,事実と真実を報道・論評 する(66)」というジャーナリズムとしての正当性を保持された。  ハンギョレ新聞社は株式会社としての側面がある以上,株主総会を通して代表 取締役を選ばなければならない。国民株方式に参与した民衆のほとんどは,投資 目的で株を購入したわけではなく,『ハンギョレ新聞』創刊に寄与したいという 価値観から投資をした(67)。理論的には少額株主の意見を可能な限り汲み取ることが できる構造であったが,しかし一方で,現実的に内部構造において小規模大株主 の意見を収斂しきれないという問題もあった。この問題が表面化したのが,1993 年7月 22 日に一部株主たちがソウル地方裁判所に起こした株主決議無効の提訴 だった。1993 年6月 19 日に行われた株主総会において,金重培を代表取締役と する新・取締役会構成案が可決されたが,これに不満を抱いた一部の株主が,取 締役会選出の手続きを問題視して訴訟を起こしたのである(68)。国民株方式の構造上 の特性が起こしたこの問題は,この後,ハンギョレ新聞社内部の人事問題として 波及し,長らく尾を引くこととなった(69)。

6.おわりに―国民株方式の限界点

 「国民株方式」という構想は,『ハンギョレ』創刊メンバーらによる一過性の方 法ではなく,歴史的・社会的条件のもとで出てきた必然的な流れであった。それ

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は,安鍾柲の構想,『マル』における新たな新聞構想,鄭泰基ら『ハンギョレ』 創刊メンバーの構想など,時期を追って国民株構想がより具体化されていること からも分かる。この構想が実行に移されるきっかけは6・29 民主化宣言だった としても,構想の現実化そのものを支えたのは,幅広い民衆の支持であった。す なわち,国民株方式が成立する背景には,韓国における言論民主化運動の歴史が あり,運動に対する民衆(民主化運動勢力)の積極的な理解がそれを支えていたと いうことが指摘できる。この歴史的・社会的条件なくしては,国民株方式は成立 しえなかったのである。  また,第4節で検討したように,ハンギョレ新聞社の国民株方式の構造は,権 威主義体制下で典型的だった政治権力と大株主の癒着による言論統制モデルに対 しては対抗できるだけの強い構造を持っていた。しかし近年,政治権力ではなく 「経済権力」による広告提供を通した言論統制という新たな問題が浮上している。 経営にかかわる収益の多くを広告に依存する韓国の新聞社の構造的欠陥が浮き彫 りになったのである。これはハンギョレ新聞社も同じであり,累積赤字が増える にしたがって広告収入自体に依存する割合が増え,それが 2008 年のサムソン広 告問題(70)につながった。国民株方式は,経済権力の圧力に対しては直接的に効果の ある方策を持たないことが分かった。  また,ハンギョレ新聞社の基本構造を成す国民株方式は,大株主を通した政治 権力の編集権への干渉を根本的に排撃するシステムとして作用し,実際に効果が あったものの,政治権力が連行や逮捕などの物理的暴力によって直接行う干渉・ 介入に対しては,直接的な効果を発揮することはなかった。実際に,ハンギョレ 新聞社は創刊1年後の 1989 年上半期だけでも,4月に会社幹部が安全企画部員(71) に拘束され,8月に安全企画部と警察による大規模な捜査・押収を受けているの である(72)。この時,ハンギョレ新聞社は,物理的暴力に対して会社籠城などの対抗 策をとるしかなかった。以上のように,国民株方式の効果は,大株主およびオー ナーから「報道の自由」を守る場合に発揮されるという限定的なものであったこ とは重要な点として指摘できよう。  『ハンギョレ』は創刊 20 年が経過した現在,継続する経営難とあいまってその 構造が問われている。『ハンギョレ』の創刊発議人である白楽晴(73)は,2008 年5月 15 日にソウル市内で行われた『ハンギョレ』創刊 20 周年記念式のスピーチで「『ハ ンギョレ』は過去 20 年間において政治権力と闘い,打ち勝った。これからは経 済権力が問題だ」と述べた。政治権力および大株主が一体となって編集権に干渉

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するという 1960~80 年代の典型的な言論統制モデルを,国民株方式の力で有効 に排撃してきたハンギョレ新聞社は,現在は経済権力からの干渉をどのように排 撃するかという問題に直面しており,経済権力に対抗する方式を生み出す必要に 迫られているのである。 (1) 1996 年 10 月 14 日に題号を『ハンギョレ新聞』から『ハンギョレ』へ変更し現 在に至る。以下,本稿では基本的に『ハンギョレ』という題号で統一する。 (2) 経済紙,スポーツ紙,業界紙を含む。地方紙は除く。 (3) キムチュング「韓国 ABC 協会,全国日刊新聞の発行部数認定資料を公開」『広 告界の動向』〔김중극「한국 ABC 협회, 전국 일간신문 발행부수 인증자료 공개」 『광고계 동향』〕2010 年 12 月号 (4) 韓国において政治社会的な概念である「進歩(진보)」は,英語では「progres-sive」であり,日本語は通常「革新」と表現される。韓国でいう「進歩」と日本で いう「革新」は共通の意味合いを含む部分もあるが,違う部分も多い。本稿では「進 歩」という言葉をあえて使い,韓国的な意味合いを含めた。 (5) マスメディアの意味は多義的であるが,本稿ではジャーナリズム活動を行うメ ディア企業,つまり報道機関という意味で使う。 (6) ハンギョレ 20 年社史編纂委員会(2008)133 (7) 韓国語の「言論(언론)」という言葉は,韓国では主に次の3つのことを意味す る。  ①媒体を通して自分の考えや認識を言葉や文字などで表現する行為。  ②ジャーナリズム性を持った報道機関(韓国では「言論媒体(언론매체)」という)。  ③それら媒体による報道または論評活動(韓国では「言論報道(언론보도)」という)。   本稿では,韓国における「言論」という言葉が持つニュアンスを生かすために, 文脈によってはあえて「言論」という言葉を直訳のまま用いる場合がある。同様に, ジャーナリストなど報道・論評活動に関わる人間の属性を指す「言論人(언론인)」 という言葉も,韓国語の直訳のまま「言論人」とする場合もある。 (8) 象徴的なのが,『ハンギョレ』創刊号一面に掲載された「白頭山天地」の航空 写真であろう。白頭山は現在,朝鮮民主主義人民共和国および中華人民共和国の国 境線上に位置する。南北および海外にまたがる朝鮮民族発祥伝説(檀君神話)の地 である。1987 年6月 29 日に盧泰愚によって「民主化」が宣言されとはいえ国家保 安法の脅威が非常に大きかった当時,南北統一と朝鮮民主主義人民共和国を連想さ せる「白頭山」を1面トップに載せたことは,『ハンギョレ』の進歩性と独自性を 端的に表していた。 (9) 『ハンギョレ』〔『한겨레신문』〕1988 年5月 15 日,1面 (10) 『ハンギョレ』〔『한겨레신문』〕前掲記事 (11) ただし,国民株方式をモデルにして「道民株」(「道」は韓国の地方行政単位。 日本の県に当たる)方式を創出した例はある。済州道の日刊紙『済民日報』が代表

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例である。『済民日報』の道民株方式については,筆者が 2011 年 11 月に現代韓国 朝鮮学会第 12 回研究大会(神戸大学六甲台第二キャンパス)で「『済民日報』創刊 プロセスと言論民主化のダイナミズム」と言うテーマで発表した。 (12) 平壌北道出身。『東亜日報』経済部記者などを歴任後,『ハンギョレ』創刊に参 画。論説委員を務めた。 (13) 李仁哲への聞き取り調査は,2008 年8月 29 日にソウル市内で実施した。 (14) 本多勝一「ジャーナリスト党宣言―タブーなき第四権力,新しい日刊新聞のた めに」『朝日ジャーナル』1992 年5月 29 日など。 (15) 1975 年に東亜日報社から不当解雇されてからは,東亜自由言論守護闘争委員会 メンバー,民主言論運動協議会のメンバーとなり,『ハンギョレ』初代から第4代 編集委員長を務めた。 (16) 成裕普への聞き取り調査は,2012 年8月 16 日にソウル市内で実施した。 (17) 例えば,1974 年 10 月 24 日に東亜日報社記者らが行った「自由言論実践宣言」 などがある。 (18) 「言論民主化」には4つの課題があると宋建鎬(『東亜日報』記者などを経て, 民主言論運動協議会議長。ハンギョレ新聞社の初代から4代の代表取締役)は指摘 する。それは,① 1975 年と 1980 年の2回にかけて不当に解雇された約 900 人に達 する記者たちを無条件に復職させなければならないこと②言論の自由の最も基本的 な条件である企業の経済的・政治的独立③「言論基本法」の廃止④編集権の独立を 守ること,である。宋建鎬(1987)を参照。 (19) 「マル(말)」とは「言葉」という意味である。本稿では出版物の名前について は基本的に韓国語読みを採用することとする。 (20) 成裕普,前掲聞き取り調査。 (21) 1975 年に東亜日報社から不当解雇された記者らによって結成された運動団体。 原状回復と名誉回復を求めて現在も活動を継続中。 (22) 「安鍾柲委員長が遺した言葉」『東亜闘委便り』5周年特集〔「안종필위원장이 남긴 말」『동아투위 소식』다섯돐 특집〕,1980 年3月 17 日,5面 (23) 1980 年に不当解雇された記者らが集まり結成した団体。 (24) 『マル』〔『말』〕創刊号(1985 年6月) (25) ハンギョレ 20 年社史編纂委員会(2008)35-37 (26) ハンギョレ 20 年社史編纂委員会(2008)35-37 (27) ハンギョレ 20 年社史編纂委員会(2008)35-37 (28) ハンギョレ 20 年社史編纂委員会(2008)52-53 (29) 朴元淳がハンギョレ創刊運動に関わり始める時期だが,朴元淳は当時,弁護士 業務に従事しつつ大韓弁護士協会人権委員などを務めていたので,「新たな新聞創 刊準備事務局」の中心メンバーとして創刊準備のみに奔走していたとは考えにくい (創刊事務局のメンバーは,基本的に解職記者および有志ボランティアで構成され ていた)。よって,朴元淳は9月 23 日以降にハンギョレ創刊に,外部から“側面援 助”のような形で実質的に関わっていくと推認できる。もちろん,本人への確認が 必要であることは言うまでもなく,現在調査進行中である。

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(30) ハンギョレ創刊 20 年史編集委員会(2008)46-47 (31) 「反骨で売る新生朝刊紙『ハンギョレ』は韓国新聞界の“台風の目”」『週刊朝 日』1988 年6月 17 日号によると,当時の日本円で約8億 6000 万円となる。 (32) 「特別座談 新たな新聞を必ず出す」『泉深い水』〔「특별좌담 새 신문울 내고야 말겠다」『샘이깊은물』〕1987 年 10 月号 48-53 (33) 鄭泰基への聞き取り調査は,2009 年8月 25 日にソウル市内で実施した。 (34) ハンギョレ創刊 20 年史編集委員会(2008)46-47 (35) ハンギョレ創刊 20 年史編集委員会(2008)46-47 (36) 『新たな新聞便り』〔『새신문소식』〕1号,1987 年 10 月 10 日 (37) 『ハンギョレ新聞便り』謄写版〔『한겨레신문소식』등사판〕2号,1987 年 10 月 24 日 (38) 宋建鎬(1987)によると,国家の規制範囲内で支援と統制をうけるマスメディ アのことを指す。 (39) 「ハンギョレ新聞創刊発起宣言文」ハンギョレ創刊 20 年史編集委員会(2008) 360-361 (40) 例えば,『東亜日報』は 1987 年 10 月 23 日に「題号『ハンギョレ新聞』新たな 新聞発起委確定」というニュースを掲載したが,11 面下段に一段ベタ記事として取 り上げただけである。 (41) 『朝鮮日報』1987 年 11 月6日8面の広告が初。 (42) 『ハンギョレ新聞便り』活版印刷版〔『한겨레신문소식』활판인쇄판〕1号, 1987 年 11 月 18 日 (43) 『ハンギョレ新聞便り』活版印刷版〔『한겨레신문소식』활판인쇄판〕1号, 1987 年 11 月 18 日 (44) 『ハンギョレ新聞便り』活版印刷版〔『한겨레신문소식』활판인쇄판〕1号, 1987 年 11 月 18 日 (45) 『ハンギョレ新聞便り』活版印刷版〔『한겨레신문소식』활판인쇄판〕第2号, 1987 年 11 月 24 日および第3号,1987 年 12 月 12 日 (46) 例えば,『東亜日報』1987 年 12 月 24 日7面。半面を『ハンギョレ』の広告が 占めている。 (47) 『ハンギョレ新聞便り』活版印刷版〔『한겨레신문 소식』활판인쇄판〕,第6号 (1988 年2月9日)1面には,「特に,先日1月 28 日には募金キャンペーンが開始 されて以来,一日の入金額が(過去)最高の1億 6000 万ウォンとなるなど1億を超 えた」と記録されている。 (48) 『ハンギョレ新聞便り』活版印刷版第1号~7号を元に筆者が作成した。 (49) 『ハンギョレ新聞便り』活版印刷版第1号~7号を元に筆者が作成した。 (50) 『ハンギョレ新聞便り』活版印刷版〔『한겨레신문 소식』활판인쇄판〕第3号, 1988 年 12 月 12 日 (51) 『ハンギョレ新聞便り』活版印刷版〔『한겨레신문 소식』활판인쇄판〕第3号, 1988 年 12 月 12 日 (52) 紙面によると,朴はカトリックのメディア「ラジオベリタス」で勤務している

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神父であった。 (53) 『ハンギョレ新聞便り』活版印刷版〔『한겨레신문 소식』활판인쇄판〕第2号, 1988 年 11 月 24 日 (54) 政治学者。1972 年~1993 年に東京女子大学で教鞭をとる。1970 年代~80 年代に, 「T・K 生」の筆名で『世界』(岩波書店)誌上に「韓国からの通信」を連載し,軍事 独裁政権を批判,民主化運動を支援し続ける。 (55) 池明観へのインタビューは,2012 年3月3日に京畿道安養市で行った。 (56) 最も有名な事例が,朴正煕政権下で起こった東亜日報白紙広告事件であろう。 1974 年 12 月に朴正熙政権が東亜日報社を弾圧するため,新聞に広告を提供してい る広告主に圧力をかけて『東亜日報』に広告を掲載させないという方法をとった。 東亜日報社は広告欄白紙のまま新聞発行を続け,それに対して読者・市民が東亜日 報に「激励広告」を送った。しかし,長期にわたって有力広告主の広告掲載がない 状態の東亜日報社は,次第に経営難に陥り朴正熙政権に屈服した。 (57) 「安企部,本紙読者性向調査」『ハンギョレ』1989 年 10 月4日,2面 (58) 鄭泰基,前掲聞き取り調査。 (59) もちろん,一般的な企業であれば少数株主の意向を受けた経営陣が選出されて もさほど問題にはならないかもしれないが,報道機関は民主主義社会における必要 不可欠な重要要素として認識され,「社会的責任」を担う立場にあるので,一般的 な経営の論理とジャーナリズムを担う機関の論理は峻別されるべきであるという議 論がジャーナリズム研究では主流である。Bill Kovach, Tom Rosenstiel “The Ele-ments of Journalism: What Newspeople Should Know And the Public Should Ex-pect” (THREE RIVERS PRESS, 2001)などを参照。

(60) 1993 年5月 15 日付『ハンギョレ』によると,93 年4月末時点で株主は 61866 名であった。 (61) 1970 年代からは,「民衆」という概念は被支配層一般を指しつつ,支配層に対 する積極的および抵抗的な意味をもつ概念として使用された。1970 年代は,「民衆」 概念が知識人の中で本格的に議論され始めた時期でもあり,その中で「民衆」概念 は「民族」概念とも緊密な関係性を持ち始めた。詳しくは,黄秉周(2011)「1960 年 代の批判的知識人社会の民衆認識」『記憶と展望』21 号〔황병주(2011)「1960 년대 비판적 지식인 사회의 민중인식」『기억과 전망』21 호〕などを参照。 (62) 「新しい言論機関の創設を提案する」『マル』〔「새로운 언론가관의 창설을 제안 한다」『말』〕創刊号 4 (63) 『マル』,前掲記事 (64) 『マル』,前掲記事 (65) ハンギョレ創刊 20 年史編集委員会(2008)52-53 (66) 「商業主義排撃 大衆的正論紙志向」『ハンギョレ新聞便り』活版印刷版〔「상 업주의배격 대중적 정론지 지향」『한겨레신문소식』활판인쇄판〕9号,1988 年4 月 19 日,2面 (67) ハンギョレ創刊 20 年史編集委員会(2008)133-135 (68) ハンギョレ創刊 20 年史編集委員会(2008)141-145。なおこの問題は人事権と

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コーポレイト・ガバナンス(企業統治)の議論に発展するので,メディア研究の視 角だけではなく,他の理論的観点からの分析も必要である。今後の課題としたい。 (69) この問題の顚末については,パクヘジン編著(1994)『もう一度生まれ変わらな ければならない同胞の新聞 ハンギョ新聞社株主総会関連訴訟白書』①~③,ウル ド書籍〔박해전편저『다시 태어나야 할 겨레의 신문 한겨레신문사 주주총회 관련 소송백서』①~③울도서적〕に詳しい。 (70) 『ハンギョレ』が 2007 年 10 月 30 日から始めた「三星(サムソン)裏金口座」 という調査報道後,三星グループがハンギョレ新聞社にのみ広告提供を長期間行わ なかった問題。三星の広告を中断されたハンギョレ新聞社の収入は急激に減少した。 三星による特定のメディア攻撃という側面から大きくクローズアップされた反面, ハンギョレ新聞社のみならず,他メディアも広告収入の多くを三星グループに依存 していることを証明する事件ともなった。 (71) 安全企画部は,韓国情報部(KCIA)を全斗煥政権が改編して作った組織。国家 情報院の前身。 (72) ハンギョレ創刊 20 年史編集委員会(2008)96-99,101-107 (73) ソウル大学名誉教授。民主化運動・南北統一運動の牽引者としても知られている。 引用・参考文献 韓国言論学会(2008)『ハンギョレと韓国社会 20 年』  〔한국언론학회(2008)『한겨레와 한국사회 20 년』〕 高昇羽(2002)「ハンギョレ新聞の創刊過程における社会学的研究―言論民主化と運動の 観点から』高麗大学大学院社会学科博士学位論文〔고승우「한겨레신문의 창간과정 에 관한 사회학적 연구-민주 언론운동의 관점에서」고려대학교대학원 사회학과 박사 학위논문〕 高昇羽(2004)『ハンギョレ創刊と言論民主化』ナナム出版〔고승우(2004)『한겨레창간 과 언론민주화』나남출판〕 宋建鎬(1987)『民主言論 民族言論』ドゥレ(송건호(1987)『민주언론 민족언론』두레) 韓東燮(1998)「国民株ジャーナリズムにおける『経営者統制』:ハンギョレの事例を中 心に」『言論学報』17 集,漢陽大学言論文化研究所(한동섭(1998)「국민주언론에서 의 ‘경영자통제’ : 한겨레신문의 사례를 중심으로」『言論学報』제 17 집, 한영대학교 언론문화연구소,)   (2000)「ハンギョレとメディア政治経済学」コミュニケーションブックス  〔한동섭(2000)『한겨레 신문 과 미디어 정치 경제학』커뮤니케이션 북스)〕 ハンギョレ 20 年社史編纂委員会(2008)『希望へ向かう道―ハンギョレ 20 年の歴史』ハ ンギョレ社〔한겨레 20 년사사편찬위원회(2008)『희망으로 가는 길―한겨레 20 년의 연사』한겨레신문사〕 ハンギョレ新聞社(1998)『創刊 10 周年シンポジウム「ハンギョレ」10 年の成果と未来』  〔헌겨레신문사(1998)『창간 10 주년심포지엄「한겨레」10 년의 성과과 미레』〕 韓永學(2010)『韓国の言論法』日本評論社 文学振(1990)「萬里峙から駆け足を…」『新聞研究』1990 年夏号,寛勲クラブ,1990 年

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7月〔文學振(1990)「만리재에서 달음박질을…」『신문연구』1990 년 여름호,寬勳 클럽,1990 년7월〕

参照

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