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はしがき 世 界 の 女 国 伝 説 女 国 伝 説 は 世 界 中 に 存 在 すると 言 っても 良 いほど 多 く 存 在 する そんな 中 から 代 表 的 な 女 国 を 二 三 紹 介 しよう アマゾネス まずはギリシャ 神 話 に 出 てくるアマゾネスである BC15 世 紀 頃 に

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女国伝説 Ver.02

目 次

はしがき 世界の女国伝説

・・2

第1章 女国伝説

中国少数民族の奇習 ・・5

第2章 シャンシュン女国

アレキサンダー大王が夢見た黄金卿 ・・11

第3章 東女国

女王谷の美女たち ・・16

あとがき

チベット人と日本人は従兄弟関係にある ・・25

参考文献 ・・26

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はしがき

世界の女国伝説

女国伝説は世界中に存在すると言っても良いほど多く存在する。そんな中から代表的な 女国を二三紹介しよう。 アマゾネス まずはギリシャ神話に出てくるアマゾネスである。BC15世紀

頃に遡る。

女だけの国 で、女性戦士が活躍する。黒海の周辺にあったと言われている。最近の調査では、アマゾ ネスは伝説ではなく実在したとの説もある。黒海の周辺からそれらしき遺跡も発見されて いると言う。紀元前12 世紀のトロイア戦争に実力を発揮した。黒海は当時アマゾン海と呼 ばれていた。 このアマゾネスたちが国を追われ、南アメリカに移住し女国を再建する。スペイン人が 16世紀ころ南アメリカに侵攻したとき女性戦士に出会う。そしてこの地方をアマゾンと 呼ぶようになった。その後、アマゾンの女性兵士たちはスペイン人を始め人前に二度と姿 を現さずに現在に至っている。

ジンガ女王

(1583~1663)の猟奇伝説 16世紀以降アフリカにとって受難の日々が続く。ポルトガルを始めヨーロッパ列強が 奴隷を求めてアフリカに侵攻したのである。アンゴラはポルトガルの拠点となり現在のル アンダを奴隷獲得の狩場とし始める。 アンゴラの部族王の一人ジンガ女王はポルトガルから自分の部族を守ることに力を注い だ。カトリック教を取り入れたり周辺部族と連携したりして平和的解決を目指す。そして 一時はポルトガルを追い出すことに成功する。 しかし、ポルトガルは軍事力にたより再度アンゴラに侵攻する。そしてジンガ女王は戦 のなかで死亡する。ポルトガルはアンゴラを征服する。以後 300 年間、アンゴラは奴隷供 給の植民地と化す。そして、ジンガ女王は民衆に今なお慕われているという。 しかし、表向きは良き女王にも私生活の面では残忍で猟奇な性格を顕にしている。その 詳細を述べる多くの紹介記事がある。その中からほんの一部をつまみ出してみよう。 男の身体から流れ出る血を見るのが大好きで・・・、各地から美形でたくましい男たち を捕らえて・・・・自分だけのハーレムをつくった。 目前で男同士を戦わせ、・・女王の眼はギラギラと怪し気な輝きを帯びて・・ひたすら男 の体をむさぼり・・・。

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以下、延々と続くその残忍さの記事が巷に流れている。どこまでが本当なのかを疑いた くなるのがこの種の猟奇伝説である。 東南アジアに目を向けると意外に女王が多い。ミヤンマー(旧ビルマ)の都市

バゴー

(Bago)は、伝承によると、西暦 573 年タトーンからやって来た二人の女王が創

設したという。

また、15 世紀頃ミヤンマーのモン王国の女王・シンソープ(1453 年?~1472 年)は良く 知られた存在である。ビルマ王国に人質となったり、父親が死亡後女王となり国を治め、 戦争を戦い抜いたり、歴史に名を残している。 ベトナムのチュンソクは夫を漢人に殺される。漢人に反乱を起こしその首領となる。そ して一時はベトナムの女王となるが、光武帝の軍隊に捕らわれ、斬首(ざんしゅ)された。 悲劇の女王である。 タイの北部のメーアーイ郡にはウィエンマリカー国のチャオメー・マリカー女王伝説が 知られている。 チャオメー・マリカーは生まれながらに口元に大きな傷があった。チャオメー・マリカ ーが成人すると国王のウドムシンはマリカーの気持ちを察し、彼女のために町を建てる。 ウィエンマリカー(マリカーの町)と名づける。マリカーは女だけで身辺を固め、女だけ の町を築き女王となる。マリカー亡き後はこの街は放棄され廃墟となった。現在のメーア ーイ郡である。

古い時代の堀と城壁の跡が残っており、チャオメー・マリカー女王の

治めた町として広く知られている。

羅刹女王国 羅刹国(らせつこく)は日本でも良く知られている。「今昔物語」に紹介されて日本の南 方に存在すると信じられていた。また玄奘の「大唐西域記」にはセイロン島(現在のスリ ランカ)の建国伝説として紹介されている。 僧伽羅(シンガラ)は 500 人の商人仲間と航行中難破し、とある島にたどり着く。そこ は 500 人の羅刹女(鬼女)のいる国であった。シンガラは一人の女を妻にする。その女は 羅刹女であった。やがてシンガラは全ての羅刹女を倒し、その国の王となる。そして国名 をシンガラ国と名づけた。 スリランカの原住民のシンハラ人たちの伝承によると、紀元前5世紀ころ北インドから セイロン島に移住して王国を築いたとしている。王都はアヌラーダプラ(Anuradhapura) であった。古都アヌラーダプラは1982 年世界文化遺産に登録されている。

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西海の女王国 中国の唐時代の正史によれば「西海にまた別の女王国があった」というその別の女王国 について紹介しよう。 西海とは現在の青海湖のことである。古くは鲜水、鲜海、卑禾羌海などとも呼んだ。青 海省の中央に位置し、中国最大の塩水湖である。4236.6 平方キロの面積。琵琶湖の面積が 670.33 平方キロであるから、約7倍の広さである。滋賀県の面積が 4017.36 平方キロであ るから滋賀県よりさらに広い。海抜3260 メートル、世界一高い位置の塩水湖である。古来 多くの伝説が伝えられている。西海の女王国伝説もその一つである。 ここには女性の仙人・女仙が住み、姓は楊、名は回という。また西王母とも、九霊太妙 亀山金母、太霊九光亀台金母、瑶池金母などとも呼ばれた。 原来は死に神であったが、祭れば罷業の死を免れるとされた。さらに不老不死の女神と された。さらに道教に組み入れられると、天界の仙女となり、艶やかな天界の美女の代名 詞となった。いわば伝説上、出世頭の女神であり、女王国である。 写真01 西王母の石室 ちなみに西王母が一時使った石室が青海省天峻県関角郷の関角山麓に現存している。高 さ20メートルほどの小山だが、西側に霊妙な洞窟があり、人間4人が座れる石の台座が あり、仙女の寝台だと言う。そして関角郷の役場(郷政府事務所)より西南12キロの位 置は西王母が住んでいた所とされている。ご興味のある方は是非ご自由にご訪問ください。 運が良ければ絶世の美女に回り逢えるでしょう。 この青海湖の女国は日本の竜宮城のようなもの。実在を知る痕跡がないのである。世界 を隈なく捜せばこのような女国伝説は多く存在するであろう。ところが日本の卑弥呼は伝 説ではなく実在した女王であり女国である。ヨーロッパでは現在イギリスが女国である。 以下で紹介する女国はチベットにかつて存在した、そしてその風習を色濃く残している 現在のチベット族に焦点をあてる。

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第1章 女国伝説

中国少数民族の奇習 チベット族の伝統的な婚姻形態 チベット族は独特の婚姻形態を持っている。一妻多夫と一夫多妻である。伝統的な一妻 多夫制では兄弟が一人の妻を共有する場合が多く、友人同志で、また父息子で一人の妻を 共有する形態もあるという。また姉妹があるいは母娘が一人の夫を共有することもあると いう。一夫多妻制である。世界中で現在も見られる形態、即ち力のある一人の夫が複数の 妻を持つ一夫多妻制とは趣旨・形態が異なる。中国ではチベット族以外に、ロバ族(

珞巴

)、メンパ族および一部のナシ族に見られる婚姻形態であるという。 1950年頃、人類学者の谭英华教授が調査した結果が報告されている。四川省甘孜地 区にある45戸の一妻多夫の家庭を調べた。兄弟が妻を共有する例が44戸あり、その中 で101名の夫が居た。兄弟でない二人の夫が一人の妻を共有する例が1戸あった。 また昌都の丁青村では120戸の一妻多夫家庭があった。その中で夫は257人であっ た。同じ昌都のツォベイ郷(妥坝乡)には9戸の一妻多夫家庭があり、一妻二夫が 7 户、 一妻三夫および一妻四夫の家庭が各一户であった。 これらの家庭では兄弟が女方の家庭に入ることは無いという。婚礼の習慣も一夫一妻の 場合と同じである。すなわち、婚礼の取り決め時に一妻多夫になることをはっきり説明す ることもあり、全く説明しない場合もある。また結婚式には長兄が代表して参加するが、 兄弟二人が参加することもある。 生まれた子供の父は長兄であり、家庭をし切るのは長兄である。家庭内では長兄が大き な権限を持っていることから父系家庭といえる。世界的に見ても極めて稀な婚姻形態であ るとされている。 一妻多夫の婚姻形態はなぜ生じたか? チベットでは先史時代から多くの民族と部族が群雄割拠の状態であった。社会は家庭単 位となり、経済活動も家庭単位となり、家族で安全を守り、経済収入の増加を目指す以外 に方法がない。したがって婚姻形態も近親婚姻を除いて、自由に選択するようになる。一 夫多妻、一妻多夫など旧来の婚姻形態を選択し家庭の安全と繁栄を重視するようになる。 そして、このような形態を持つ家族は一種の優越感を持っているという。 ほとんどの家族は農業と牧畜を主とする自給自足の自然経済状態であった。社会生産量 は発達せず、財産の累積も容易でなく、多くの場合労働力を必要とした。一夫多妻、一妻 多夫の婚姻形態だと少ない財産と土地家屋を分散せずに、人手を集積することが出来た。

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20世紀前半のチベットの社会についてウォーレン・スミスは著書、「China’s Tibet? Autonomy or Assimilation」「チベット人、中国人および外国人訪問者の証言」の中で書い ている。 「土地のほとんどは小規模な自作農が管理しており、彼らは国に直接納税していた。こ れが政府の主たる収入源で、そのほとんどは穀類、羊毛、バターなどの現物で支払われた。 税は労役や運搬といった労働力というかたちで支払われることもあった。」

写真

02 チベット族の家族

放牧に出る夫は夕方まで家を空けた。労役に出る夫は数ヶ月家を空けた。畑を耕す夫は 夕方まで家を空けた。そして妻は家事をし、もう一人の妻は老父母の面倒を見た。そして 一家の連帯が強まり、財産の集中と累積を高めたのだ。 一夫多妻、一妻多夫の婚姻形態は自給自足の自然経済の中で、家族郎党が大過なく過ご してゆく最良の方法なのである。 チベット族の俗語を紹介しよう。“一家分 ,乞丐一堆。” :一家が分散すると、乞食が开 一山(堆)生まれる。悲惨な現実を言い当てていると言えよう。 中国のある一時期(北京オリンピックの前年)、農村で職を無くした一家郎党が乞食とな って北京に流れ込んだ。そして流浪民となり、社会のセキュリティを騒がせた現象が起き た。流氓と呼ばれた彼らは公安の手で強制的に自らの故郷に送り返された。専用列車が何 台も編成されたと言う。食えない者が群れ集って、流民となるのはどの時代、どの社会で も共通した現象なのである。 現在、チベット自治区では“变通条例”を出して、一妻多夫や一夫多妻の婚姻関係を自主的 に解除するように規定したが、一方で是に反対する者には維持する例外を認めた。要する

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に、新しく婚姻を結ぶときは一夫一妻とせよ、と定めたのである。中国、あるいはチベッ ト族地域の役人に聞くと、現在一夫一妻以外は存在しない、・・とはっきりおっしゃいます。 世界の一妻多夫と一夫多妻 世界に一妻多夫制を取っているのは約1%だという。100組の夫婦に一組は一妻多夫 であるから、感覚的にはずいぶん多いように感じられる。具体的にはどのような人たちで あろうか? 次のような記事が散見される。 「アフリカのセネガル、スワジランドなども一妻多夫である。」 「アラブ諸国、アラブ連合共和国、サウジアラビア、カタールなど。」イスラム教の国は 一夫多妻が認められている。 「アメリカのモルモン教徒は一夫多妻や一部に一妻多夫も行われている。」 「タイ国も一妻多夫である。」 すでにチャオメー・マリカー

女王によるウィエンマリ

カー国の伝説を紹介している。

「アマゾン川流域の原住民には一妻多夫が多い。」 これはアマゾネスのギリシャ伝説に つながる。 「一妻多夫の婚姻形態はスリランカで一時見たが、現在では山間部に一部残るのみであ る。」 スリランカの羅刹女伝説をすでに紹介している。 さらにスリランカには奇妙な習慣があったと言う。「1人の女は7人までの夫と結婚して もいいけれども、8人目の夫と結婚するときは1人と離別をしなければいけない」という。 タイ、アマゾンとスリランカの例は女国伝説と一妻多夫の婚姻形態がセットになってい ることを示しているのだろうか? この疑問は今後のテーマとして残しておこう。 結婚にいたるプロセス 婚姻形態と共に結婚にいたるプロセスも国、民族で大きく異なる。また一つの民族の中 でも歴史と共に、結婚にいたるプロセスの種類も多い。風俗習慣であり、儀礼である。チ ベット族の場合次のようなプロセスがあるという。 略奪婚 男が女を強奪して婚姻する。複数の男が複数の女を強奪して婚姻する。古代に は世界中で通常行われていた。現在も少なくないであろう。ところがチベット族はこれを 習慣化して、儀礼化しているところもある。 売買婚 金で嫁をまたは婿を買い取る。婚談が成立するには相当の金額が必要なようだ。 現金収入の少ない家庭では兄弟が多いと一妻多夫婚を採らざるを得ないようだ。日本でも 結納金制度が残っている。 交換婚 二つの家族が嫁をまたは婿を相互に交換して婚姻させる。人手を減らさないた めの工夫である。 招養婚 女が婿をとる婚姻である。女の家庭に男が居ない場合にこの婚姻形態が多いと

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されている。日本でもよく見かける形態である。 童養婚(等郎婚とも) いまだ成人していない内に成婚を決める。 示腹婚 子供が母の腹の中に居るときに、父母が婚姻の相手を決める。 以上は尋常な方法であるが、古来有名な方法に比武争偶である。どちらが手に入れるか 武力で決めよう・・という方法である。男同士の戦いである。現在も世界中にあり、かつ て有った方法である。好戦的なチベット人の間では、頻繁に見られたに違いない。 もう一つが斗智决偶である。武力だけが男の価値ではない。頭と知能、すなわち斗智で 決めよう、という方法である。チベットには1500年前から有ったというから驚く。日 本にこのような粋な方法があったのだろうか? 良く知られた故事が文成公主の争奪合戦である。もちろん斗智决偶である。吐蕃の外務 大臣兼国防大臣であった噶尔・东赞域松(ガル・ドンサンフソン)が唐の宮廷に出向いて 求婚を申し出る。相対するのは名だたる7名の名将智将である。各智将に7回戦を挑んだ のだ。その詳細は別の機会に紹介するとして、ガル・ドンサンフソンはどの名将にも六勝 一敗であった。すなわちどの名将も実に奇妙なことに一度だけ勝ったのである。相手に一 勝を譲って花を持たせ、反発を和らげたのである。勝つことだけが知将のすることではな い、こうして巧く勝つことこそ知将たる所以である・・とガル・ドンサンフソンは言って いるのだ。こうして文成公主は吐蕃国王に嫁ぐことになった。この場合代理闘争のような ものである。この故事、ポタラ宮の壁に描かれている。 走婚:モソ族の奇習 少数民族の中では婚姻に至るいろいろなプロセスがある。上記以外に良く知られている のが走婚である。走は中国語で「歩いて行く」意味である。日本の通い婚に似ているとこ ろもある。 娘が年頃になると、実家の母屋の隣に一軒家を建て、その個室に娘一人で住む。道路に 面した壁に小窓を設け、着飾った娘は小窓から半身を出して物憂げに外を眺めている。窓 の下を年頃の青年が通ると声を掛け合う。そして約束する。夜の**時に・・と。その時 間は母屋の両親が寝静まった時刻。窓の下に来た青年は、母屋の様子を伺いながら、窓か ら忍び込む。もちろん窓には鍵は掛かっていない。そして、朝早く、青年はこっそり窓か ら忍び出て帰る。このとき人に見られてはいけないのである。また正面玄関から追い出さ れたら、次の機会はないのである。こうして何度か通うと青年は娘を勝ち取る。いや、逆 に娘が青年を勝ち取る。そして正式に婚姻を申し込む。 走婚制は主に雲南地方に多いと言われている。麗江の濾沽湖周辺に住む摩梭(モソ)人、 紅河流域に住む哈尼(ハニ)族の叶車人、香格里拉の鲜水河峡谷に住む扎坝(ザバ)人達 である。

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写真03 小窓から半身を出すモソ族の娘 余談ですが、戯曲シラノ・ド・ベルジュラックを思い出される方が多いと思います。こ のエドモン・ロスタン作の戯曲の初演は1897 年である。ロスタンはチベット地方や雲南地 方の走婚習慣を聞きつけて戯曲の場面設定に利用したに違いない。お陰で雲南地方へ来る 世界の観光客はフランスに留まらず世界中から押し寄せている。 さらに余談ですが、複数の青年が娘の個室で鉢合わせすることは無いのだろうか? 生 まれた子供は誰が育てるのか? こんな疑問を解消したい御仁は是非当地にお出ましにな り、小窓から忍び込んでください。鍵はかかっておりません。自ずと答を得ることが出来 ます。 さらに余談ですが、・・この風習は観光資源として活躍しており、多くの男性客が小窓へ 挑戦しているようです。・・が、個室へ入っても内部を見学するところまで、・・・そう、 後は素直にお帰り頂くようです。 閙婚礼 婚姻が成立すると、種種の儀礼がしとやかに執り行われ、やがて結婚披露宴になる。そ の披露宴も実に色とりどりである。チベット族の間では、モンフンリ(閙婚礼)というの がある。読んで字のごとく賑(にぎ)やかな婚礼披露宴のことである。賑やかに結婚を祝 うことは良いことである。ところがモンフンリ(閙婚礼)とは婚礼披露宴で馬鹿騒ぎをす ることである。何もチベット族に限ったことではない。西欧諸国にもある。・・が、モンフ ンリは見る人にとっては行き過ぎた騒ぎと映るであろう。詳しい内容は皆さんの想像にお 任せします。 人類の婚姻形態の変遷 人類が近親婚をタブーとして以来いろいろな婚姻形態があった。初期に行われたのは群

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婚である。例えばA部落とB部落の複数の男女が自由に婚姻する。生まれた子供は女性が 所有する。父親が誰であるかは知る必要が無いのである。 尼汝藏族の婚姻習慣は初期には群婚であったと言われている。現在は

一夫多妻制また

は一妻多夫制である。

人類は群婚から対偶婚に進んだ。特定の男女が婚姻するのだが、自由に解消できるもの である。上で述べた走婚はその一例である。 そして最後にたどり着いたのが一夫一婦制である。単婚または専偶制ともいわれる。現 在地球上で一番多い婚姻形態である。 すなわち結婚の形態は、群婚→対偶婚→単婚(一夫一婦制)と変化してきた。したが ってチベット族に色濃く残っている

一妻多夫制や

走婚はずいぶん古い形態である。この形 態が残っている理由についてはすでに述べた。 しかし、振り返って現在の日本の事情を見ると、本人の意思に基づいて婚姻し、そして 離婚できる。しかもいとも簡単に出来るのであるから、対偶婚社会の状況ではないか。さ らに世界の状況をよくみると、日本よりさらに自由な状況にある国々も多くある。もちろ ん、先進国と言われる国々も含まれる。一方、子宮外妊娠等の科学技術の進歩には目を見 張るものがある。こんな状況を見ると、単婚(一夫一婦制)は人類の婚姻習慣の到達点な のだろうか?

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第2章 シャンシュン女国

アレキサンダー大王が夢見た黄金卿 チベット族の居住地 チベット自治区以外にも多くの地域に居住しており、中国国内で 230 万平方キロに達す る。インド、ネパール、ブータンその他の地方を含んでいない。また、日本の総面積が37.8 万平方キロであるから、約 6 倍の面積に相当する。チベット族の人口は上記の地域に 540 万人とされている(2000 年統計)から日本の約 20 分の 1 に相当する。さらに、現在では 諸種の事情から、チベット族は上記の地域以外に世界各国に分散している。

地図

01 チベット族の分布

これらの地域には旧石器時代からの遺跡が分布しており、人類がこの地域に生活を始め たのは十数万年~数万年前からと言われている。人類の起源はアフリカとされているが、

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この地方に旧石器時代の遺跡が多いことから、このチベット高原地域こそ人類の発揚の地 の一つであると決め付けている中国の考古学者もいる。 チベット族の起源 チベットの歴史を概観すると、東部は漢民族の中原に近く、したがって中国の影響を大 きく受けている。一方西部はイランやインドの影響が大きく、特に古代においては東部と 西部は独立した動きをしている。 東部のチベット系民族として羌(チャン)族が代表的である。羌(チャン)族はチベッ ト高原東部の先住民であった。BC5000 年~BC4000 年頃から住んでいた。東部の古代遺跡 には昌都(チャムド)のカロ(卡若)遺跡と青海省と甘粛省にまたがる馬家窯文化の遺跡が良 く知られている。これらの遺跡の主役の末裔たちが古羌族とされている。 羌族のルーツは遊牧民族であった。中原の西部に勢力を広げた南羌族と現在の青海省に いる羌族を西羌族(胡人)と呼んでいる。どちらも中国の歴史の中に組み込まれて行く。 羌族の羌字は羊と人を組み合わせた文字であり、羊を主とする遊牧民の意味である。農耕 を主とする漢民族から見ると一時代遅れた民族に見えるのであろう、羌族の表現は蔑称と 言える。 チベット高原の西部に住むチベット族の起源伝説によると、サルと羅刹女(鬼女)との 婚姻で6人の子供が生まれた。チベット人はこの6人の子供の子孫であると言う。チベッ ト民族の起源となった六つの子供の名はセ、ム、ドン、トン、ドゥ、ダであり、それぞれ 氏族、部族として発展する。 この六つの氏族が離合集散を繰り返し、歴史を形成して行く。2世紀頃には12の部族 の名が上がり、4世紀頃には20の部族があった。 吐蕃王国の基となるピャ部族、もしくはトン部族、ム部族、さらに後に彼らと通婚した ダン氏族の女国などが含まれていた。 やがて6世紀に入るとシャンシュン、スピ、ヤルルンの三国が並立していた。多くの部 族が三つに束ねられたのである。それぞれは氏族の連合国家を形成し、通婚とさまざまな 利害関係を基に軽い連帯を結んでいた。 シャンシュン女国(象雄王国) 紀元前1000 年頃から王国が存在したという説もあるが、ハッキリしていない。カイラス 山一帯に繁栄した女国で、宮殿を建設している。キュンルン・ングルカル(カルーダ谷の 白銀城)と呼ばれ、女王はここに住んだ。独特のシャンシュン語を使用し、ボン教を崇拝

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していた。戸数約1万ともいわれ、586 年に隋に使者を送ったとされ、隋書の記載の発端と なった。 隋書の

列伝第四十八西域の中に

女国伝がある。また北史卷九十七 列传第八十五 西域 にも女国の記載があるが、内容も字数もほぼ同じであるので、随書を以下に抄訳しよう。 「・・女王の夫は政治をとらなかった。国内の男たちは、ただ戦のみを仕事とした。山 上に城を築き、五六里四方で人家は万戸有った。女王は9 層の楼に住み、侍女は数百人、5 日に1 回朝政をきいた。また小女王があってともに国政をみた。その風俗は貴婦人であり、 男を軽んじ、嫉妬心は希薄であった。男女は顔面を彩色し、1 日に数度改めた。人は皆働き、 皮で靴を作り、課税は常では無かった。気候は大変寒く、猪を射て生業とした。鉱石、朱 砂、麝香、ヤク、馬、ロバを産し、塩をインドと交易して膨大な利益を得た。また、イン ドやタングート族とよく戦をした。 女王が死ぬと、国中から厚く金銭を集め、死者の一族中の賢女ふたりを選んで、一人を 女王とし、次を小女王とした。貴人が死ぬと、皮を剥いで、金の屑と骨肉を瓶の中に置い て埋めた。1 年経つと、その皮を鉄器に入れてまた埋めた。阿修羅神や樹神をあがめ、年初 には人を祭り、或いは猿を用いた。祭りが終わると、山に入り祝いをし、雌雉のような鳥 の腹を割いて中を見る。栗が出てくると豊年であり、砂や石が出てくると災いが有るとし た。これを鳥占いという。隋の開皇六年(586 年)、使者を派遣して隋に朝貢したが、その 後は途絶えた。」 女尊男卑の習慣があったことを示している。宗教としては阿修羅神や樹神をあがめたと あるが実態はどのようであったか不明である。 特産物の朱砂は辰砂、丹砂、赤丹、汞沙とも言い、硫化水銀で赤色の顔料や薬として珍 重された。また水銀の原料である。また古来から金の産出が豊富であったことが知られて いる。塩は現在のネパールのムスタン(首都ローマンタン)で多く採れた。シャンシュン 国の領域内であった。 インドやタングート族とよく戦をしたと言う。インドのマハーバーラタによれば、女国 ストリーラージュヤとインドの大王ラリタディトヤが戦う場面がある。またタングート族 (党頃族)は後に西夏王国を建てるのだが、以前から戦闘的な部族であったのであろう。 アレキサンダー大王 紀元前 323 年、アレキサンダー大王は大軍を率いてカシミールに迫る。東の黄金卿に魅 力を感じるが、部下の反対で引き上げる。そして、一武将にチベットに入り、黄金卿を探 させる。武将はチベット高原に入り、苦労の末、女王国に至る。女王に歓待される。武将 はアレキサンダーの偉業を話す。女王は伝承を約束する。

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この伝承がシャンシュン国には残っていたとされることから、シャンシュン国の起源を 紀元前4世紀とする説があるが、中には紀元前1000年と大幅な余裕のある読みをする 学者もいるらしい。また、この伝承がケサル王伝説の発端となったと言う説もある。 玄奘も聞いた女国の話 大唐西域記(第4巻(中印度)第11章)には女国の近くまで接近し、ブラフマプラ(婆 羅吸摩補羅国)に着いた玄奘は国境の北の大雪山にある女国の黄金伝説を記載している。 「スヴァルナゴートラ(蘇伐刺拏瞿呾羅)は黄金の国の意味であり、その国では多くの 黄金を産出したのでこの名が付けられた。東西に長く南北に狭い。東女国である。女が国 を治め、夫は王だが、政治をしない。男はただ戦をし、畑を耕すのみ。畑は良く肥えてお り麦を採り、多くの羊や馬を畜産した。気候は寒さが厳しく、人は躁暴である。東は吐蕃 に接し、北は和阗(和田)に接し、西は三波訶国(ザンスカール)に接している。」 《大唐西域记》唐贞观二十年(公元646 年),玄奘法师撰。 北の女国はインドではかなりよく知られた存在であったのだろう。ブラフマプラはイン ドの西北、ネパールの西方、ガンジス河の最源流地域である。気候さえよければカイラス 山が見えたかも。インドへ旅をしたのは629~645 年である。 シャンシュン女国の特色 男女の社会的役割が特異である。女は政治、子育ては部族全員で負担する。男は戦いと 狩猟および農耕を主とする。 この社会では男は政治に時には儀礼にも一切口を出さないのである。シャンシュン女国 では男女の関係が逆転していたようだ。女尊男卑である。女系社会であり、男は下座に座 った。女の言葉には素直に従うしかなかった。 以上の場合、母系社会とみなせる。しかし、チベット族は一般に父系家庭、シャンシ ュンの王家は母系家庭であったことになる。 チベット族は好戦的である・・とよく言われる。男は戦いと狩猟をもって生きがいとす る。死を厭わない、とする心情を受け継いでいる。 シャンシュン国の繁栄 紀元4~7世紀は女国シャンシュン国の最盛期である。首都の九龍に 9 層の高楼を建造 し、要塞と宮殿をかねていた。カイラス山の麓でボン教の聖地でもあった。ローマの軍隊 を歓迎し、西欧の情勢に詳しかった。漢の武帝より早く、詳しく知っていたであろう。

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写真04 シャンシュン遺跡 領域は雄大であった。東はナムツォ(ラサの北部)、西はプルシャ(現在のギルギット)、 南はムスタン、北はリユル(現在のホータン)に達していた。チベット高原の西半分を領 有していたことになる。国体は多くの部族の連合体であった。その部族は均質な部族であ る必要は無い。雑多な氏族の集団であっただろう。女国の女王はダン氏族であったとされ ているが、純粋のチベット人では無かったかもしれない。ボン教をうまく操れることが条 件であったろう。

シャンシュン王国の最後の女王リミギャ(リク・ミリャとも)は吐蕃とも姻戚関

係を結んでいたが、その最後は呆気なかった。吐蕃の王ソンツェンガンポに暗殺さ

れる。643 年であった。住民たちは吐蕃に吸収されていった。

シャンシュンの残したもの

シャンシュンの時代は長い。紀元前から7世紀まで、中原では漢から5胡16国、

南北朝、隋の時代に相当する。シャンシュンはこの間チベット西部の文化の中心地

であった。吐蕃に先立ち、チベット文化の基礎を形創ったと言える。

ボン教の確立と普及はチベット文化の大黒柱となった。そして現在、チベット仏

教にも大きな影響を与え続けている。また、シャンシュン文字の解読が進めば、さ

らに大きな歴史的意義が解明されるであろう。

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第3章 東女国

女王谷の美女たち 東女国を築いたのはチベット族のうちのギャロン族であるとされている。次に彼らのル ーツとロマンに満ちた故事を紹介しよう。 ギャロン族の東遷 第3章で紹介したシャンシュン国は西暦 200 年頃にはラダック、チベット北部まで勢力 地を延ばしその繁栄を享受していた。繁栄すると周囲の国から侵攻を受けるのは歴史の必 然であろう。シャンシュン国の繁栄を妬んでインド、ウイグル、そしてケサル国などとの 争いが後を絶たなかった。(このケサル国は叙事詩ケサル王伝の名を取った当時の氏族国家 である。)これらの侵攻を受けた以外に、人口の増加や食糧難、特産物の金の産出減少など が加わり新天地を求める空気が増えていた。 おりしも、女王は神の神託を受けた。そして、氏族の一部を東方に移動させることを取 り決める。この移動に賛意を上げた氏族の中にギャロン族がいた。 この移動には一族郎党のほとんどが参加する。すなわち一族の老若男女、軍隊、家畜類、 家財全てを引き連れての大移動である。しかも、行き先が決まらない中での東への移動で あった。参加する全員には悲壮感もあったが、新天地を探す夢も大きかった。もちろんギ ャロン族以外にも複数の氏族が参加した。 移動のルートは人口の少ないチベット高原北部沿いに東進し、まず長江源流に達した。 このあたりから東は山脈地帯であり、さらに東は漢族の住む領域である。更なる大部隊の 移動は困難であったろう。そして冬の到来である。ここで一時駐屯したに違いない。 やがてギャロン族の斥候部隊が南方への道を探し当てる。それは南北に連なる山脈地帯 であり、金沙江と瀾滄江、怒江が並行して南下を始める地域であった。ギャロン族は再び 移動を開始し南下を始める。そして、金川流域にたどり着くと膨大な量の金脈を発見する。 新天地は新しい黄金卿だったのである。金川ではほとんど露天掘りの状態であった。ギャ ロン族はここで移動を止め、新しい国造りを始める。東女国の創建である。 ギャロン族は石造りの王宮を建て、女王を立て、ボン教を広めた。そしてこの地をギャ ルモロン「rGyalmorong=女王の谷」と名づけた。移動を始めたチベット高原西部からの 移動距離は約2700 キロであった。掛かった時間は12ヶ月を越えていたであろう。幾人か は落伍し、死亡し、そして生誕した子供もいたであろう。多くの家財や家畜類も失った。 しかし、新しい黄金卿の建国には大きな夢が膨らんだに違いない。では女王が住んだと言 うその9層の高楼を紹介しよう。宮殿の場所は丹巴郷梭坡村である。

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写真05 女王谷:9層の高楼 ギャロン族の東遷はエジプトを脱出したモーゼのエクソダスと

アンデスの奥地に存在

する黄金卿・

エルドラドを合わせ持つ実話として、興味深い。 ギャロン族の女国 旧唐書(卷一百九十七 列传第一百四十七)にはギャロン族が建設した女国に付いて記 載している。まずその抄訳を紹介しよう。東女国の概要を知ることが出来る。 「東女と称する。女を王とした。東は茂州・党項(現四川茂县、汶川一带)と接し、東 南は雅州(四川雅安)と接し、羅女蛮(四川西昌一带)及び白狼夷(四川理塘一带)と境 界を隔てていた。その境界は東西に9 日、南北に 20 日徒歩でかかり、大小 80 あまりの城 があった。その王の居所を康延川といい、弱水川が南に流れ、牛皮を用いて船を造り渡河 した。」 この記載から中国の著名なチベット学者である任乃強博士は現在の昌 都一帯を東女国 の中心としている。 「4 万戸あまりの人口と兵一万あまりが山谷に散在していた。女王を「賓就」と号し、女 官を「高霸」と号し、国事を議論した。外に官僚がおり男夫をこれに当てた。女王には侍 女が数百人おり、五日に一度政を聞いた。」

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男たちは女王に傅いていたのである。権力の継承に付いて次のように述べている 。 「女王がもし死ぬと、国中から金銭を集め、その人数は数万に達する。さらに王族に女 二人を立たせる。大の者を王とし次のものを小王とする。大王が死ぬと小王があとを継ぐ。 姑が死ぬと嫁が継ぐ。奪い取るようなことはしない。」 さらに王宮があった。独特の意匠に身を包んでいた。そして独自の文化を築いていた。 「その住居は高層とし、王は 9 層、国民は 6 層まで。女王の服は青い毛の綾織のスカー ト、下にシャツを、上に青いパオを羽織り、その袖は委地である。冬は羊の毛皮に模様を 飾る。頭を結い金でかざる。イヤリングを下げ足に飾った靴を履く。 婦人を重んじ男を軽んじる。文字はインドの文字に似ている。11月を正とし、毎10 月は巫女を伴って山に入り、麦を空に撒いて鳥を呼ぶ。巫女の懐に鳥が飛び込みと、鳥の 腹を割いて中を見る。穀物があれば吉、霜があれば凶とした。鳥占いという。 喪に服すには服飾を改めず。父母のためには三年風呂に入らない。貴人が死ぬとその皮 を剥いで骨と金屑とともに瓶に入れ埋める。国王の葬儀にはその大臣親族の数十人が殉死 する。」 政治的には隋、唐および吐蕃と同格に振舞っている。 「隋の大業年間、蜀王楊秀(

隋文帝第四子

)が使者を派遣して招聘しようとしたが受け なかった。唐の武徳年間、女王の湯滂氏が使者を唐に派遣して朝貢した。 その後東女国は吐蕃と唐に囲まれ、両方に通じる作戦に出る。唐の玄宗が曲江に宴を催 す。これに参じて東女国王の子を参加させると、玄宗は女王(趙曳夫)を帰昌王に封じ、 左金吾衛大将軍に任じた。後に女国は男子を王とするようになった。」 8世紀末には吐蕃と唐に攻められ、苦境に陥る。しかし、したたかな外交手腕を持って いたようだ。 「貞元9年、793 年、女国の9部族がそろって唐の剣南西川府に帰順した。その後も唐に ご機嫌伺いを申し立て、和平を模索する。と同時に吐蕃とも通じたため、両面羌と誹られ た。」 やがて時が経ち、7世紀も半ばになると母国シャンシュンは吐蕃の手に落ちる。唐の時 代が過ぎると東女国は歴史の檜舞台からは姿を消すが、女王谷は生き残り、かつての栄光

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は人々の語り草となって行く。そして18世紀清朝乾隆帝が兵を送り込み、金川戦役が起 きると、女国の歴史上の命脈は尽きてしまう。 しかし、女国のギャロン族は土着化する。現在、かつての「女王谷」の名を誇りにし、 ギャロン族の風俗習慣と多くの伝承を今に伝えている。理県、茂県を中心とする地域の人 たちはその末裔である。 写真06 女王谷伝説の地:高碉(望楼・物見塔) 女王谷の美女たち ことの発端は2000 年 1 月早々、天府早報という四川省の新聞のニュースである。丹巴で は古代から美女を輩出していた・・と他社に先駆けて報道した。以来、世論の注目を集め、 この丹巴の地に「美人谷」と艶やかな名が冠せられることになった。 元を正せば、丹巴(タンパ)の政府(役場)が村を観光化して大もうけしようと企み、 他の女王谷に先駆けて「美人谷」宣言をしたのだ。現在もネット上で大宣伝している。 「古来、人々はモルド神山の周辺地域をギャルモロン、チベット語で“rGyalmorong”と 呼んだ。ギャルは女王の意味であり、モロンは谷の意味である。すなわちギャルモロ ンとは女王谷である。伝承では、そこは山に寄り添い、河川に沿い、数条の河が交わ るところ。女王は9層の高楼に住んだという。現在の丹巴地方と状況がぴったり合致 する」・・と村の役場(村政府)は自画自賛している。 黙っていられないのは物知り博士たち。中国全土から我こそ一番と大変な数の人たちが 押し寄せたのである。現地の人たちはその騒動に驚いているが、当地の知事は「してやっ たり」と笑顔が消えない。中国の民族学者や当地の自称、他薦の民俗学者は当惑顔。丹巴

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に美女が多いのは以前から良く知られた事実だったからである。 先ずはその丹巴の美人たちを紹介しよう。 写真07 丹巴の三大美人 左右の二人の美人は肩に羽織を着ている。これが正装だという。用い方が日本の和服に 似ているのが面白い。 自称、他薦の民俗学者たちによると、この近隣には多数の女王谷が存在していると言う のだ。もちろん美人たちの里である。チベット族の末裔であり、西夏王国の末裔が流れ込 んで混血を広げた地域であるとし、丹巴以外にも多数存在している。石渠(セルシュ)、白 玉(ペユル)、新龍(ニャロン)、郷城(シアンツォン)、得栄(デロン)などである。地図 02 を参考されたい。 地図02 美女たちの郷

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これらは古都であり、長い歴史と伝統を持っている。薀蓄(うんちく)はこのくらいに して、筆者が各古都で見つけた美女たちを紹介しよう。 写真08 古都の美女たち 「写真では分かりにくい。」あるいは、「これが美女か?」・・とおっしゃる御仁もおられ ると思います。そんな御仁は是非女王谷に出向いて、よく観察してください。そしてあな た専属の女王を見つけ出せたら、あなたは幸せな御仁である・・と自慢できますよ。 女王谷と西夏王国 丹巴はかつての東女国の古都であった。民俗学者によると、丹巴が美女を輩出し始めた のは、13世紀の頃だと言う。

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西夏王朝が元朝により滅ぼされた後(13 世紀)、西夏王朝の人たちは地方に逃げ伸びた。 おもに寧夏から南下したことは知られている。その他、東に逃げた者たちが張家口の南の 保定に住み着いたことも知られている。 甘孜州の雅砻江支流である鲜水河沿いは細長い河谷地带を形成し、特徴のある民族習慣 と言語をもったチベット族が住んでいる。ザバ(扎坝)人である。 彼らが主に住んでいるのは雅江、道孚等の地方であり、人口は約 13000 人。特有の気性 を持っている。ザバ人は豪快、直爽,天性純朴、善良、楽観、などであらわされる心情を 持っている。彼らの言葉であるザバ語で格言がある。 “扎多木给,扎穆莫者” 「ザバ人の 石頭は焼いても割れない、ザバ人は嘘を言わない。」 部落に入ると濃厚な地方文化が漂い、独特の方言が聞かれる。そしてロマンチックな走 婚の建物が目に入る。(20 ページ、地図 02 を参照下さい。)木雅文化と呼ばれている。 東チベットに住み着いたギャロン・チベット族は落ち延びてきた西夏王国の人たちと融 合する。同種の民族と言えども、二つの氏族が混血すると美男美女が生まれやすいという。 世界中に見られる人類学上の現象の素地が出来上がる。このころから美人谷の噂が広がり 始めた。 現在、ギャロン・チベット族(嘉绒藏族)は金川、小金、马尔康、理县、黑水と汶川部 分地区,ならびに甘孜州、雅安地区、凉山州等に住んでいる。ギャロン(嘉绒)方言を話 す。そして農業を主としている。この地区のチベット人をロンバ(绒巴:農民)と呼んで いる。小金のロンバ夫人たちとその子供たちの日常の姿を紹介しよう。日本人になんと良 く似ていることか! 写真09 小金の人々:2000 年 6 月頃

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モルド神山の伝説 最後に女王谷の名峰・モルド神山にまつわる伝説を紹介しよう。モルド(墨尔多)神山 は丹巴村の東北に位置し、ガルロン(格尔隆)山とも言う。主峰海抜5000 メートル。風光 明媚で知られている。 土地の伝説によると山の麓に強靭で勇猛でしかも義勇と正義感に満ちた一人のチベット 青年がいた。名をモルドと呼んだ。彼は吐蕃王朝の招きで兵を集め遠征にでる。吐蕃の強 敵・パルブ(巴尔布)を打ち負かし、凱旋する。人々は彼の武勇を称え、ガルロン山をモ ルド(墨尔多)山と改名し山麓に廟を建て彼の塑像を祭った。 これ以後モルド山はボン教の神山となり,モルド将軍はギャロン地区の守り神となる。 毎年農暦7月10日をモルド将軍神の誕生日とし、多くの参拝者が集まる。7 月10日~1 5日は自然とギャロン地区の一年に一度のモルド将軍神会の祭日となった。 これに近い何らかの事件があったと考えられ、東女国と吐蕃との長い年月をかけた交流 があったことになる。興味深い伝説である。 写真10 モルド神山 ところが、モルド将軍が打ち負かしたパルブと称するのは国なのか、民族なのか、人名 なのか? 全く判らないのである。・・・そりゃあそうでしょう、伝説、伝承ですから。判 らないまま語り継げばいいのです。

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最新の発見 もう一つ最後に、最新情報を紹介しよう。2011 年 7 月 1 日、蔵人文化網は素晴らしいニ ュースを発信した。同年 6 月上旬に元代初期の仏教壁画を持つ方形古碉の二層楼経堂を発 見した。場所は丹巴県中路合罕额依村である。発見したのは仏教遺跡の発掘で有名な温玉 成教授である。 教授の鑑定によると、元時代の最初期の壁画で西暦1280 年ころと推定できる。この時代 の元代様式の壁画は他に現存していない。また 建築様式が特異である。石碉と木造建筑が 結合した様式の経堂であり、チベット地区では希少で中国の建築史上重大な発見であると 言う。 一階は石レンガ造り、底面は方形で一辺7メートル、高さ約10メートル、丹巴伝統の 古碉形式である。二階部分は木造建築で外周回廊になっており、各四面 5 間であり、信者 は右回りに回って転経とした。木造の柱には龍身の彫り物、龍頭の柱はいきいきしている。 経堂内には壁画が残っており、紅教(ニンマ派)の造りで保存状態は良くない。 経堂の正壁(西壁)の画は元代の仏 教寺院によく見られる三世佛、東側に 薬師仏、中側に降魔手印の释迦牟尼佛、 西側に無量壽佛である。東壁には菩萨 坐像四体、帝師八思巴坐像、十一面千 手千眼観音像である。北壁は崩れが激 しいが菩薩坐像七体が識別できる。入 り口の両側の南壁には護法神王、四体 の騎兽神王や麻曷 刺(マハカラ・大噶 黑天)神などが並ぶ。 教授の推定では、他の例と比較して、 国家級文物保護单位に登録される。特 に帝師八思巴(パスパ)の画像は抜き ん出て貴重である・・と言う。 写真11 東壁パスパ坐像 女王谷はボン教を信仰していた。そこへチベット仏教を取り入れたモンゴル族が押し寄 せ、武力をもってチベット仏教を強要する。女王谷ではチベット仏教を取り入れることに より、この地での生存権を手に入れた。苦渋の選択であったかも知れない。そんな経緯が 読み取れる発見である。さらに今後の分析や新しい発見が期待できる。

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あとがき チベット人と日本人は従兄弟関係にある。 なぜ従兄弟関係と言えるのか? チベット人は日本人と人類学上従兄弟関係にあるとよく言われる。では、なぜなのかを 調べてみよう。 最近の人類学は人類の持つDNAや染色体を分子レベルで比較できる技術を駆使してい る。これにより比較人類学は飛躍的に進展した。 Y染色体は男性にのみあり、遺伝する。遺伝するとき若干の突然変異をするのだが、そ の割合はたいへん少ない。したがってY染色体を分子レベルで比較すると、その男性を含 む家族、部族の系統を調べることが出来る。 Y染色体がD 系統はアジア人種よりも地中海沿岸や中東、アフリカに広く分布する E 系 統の仲間であり、Y 染色体の中でも非常に古い系統である・・とされている。このD系統の Y染色体をもつ者は縄文人に多いとされ、また日本人とチベット人以外には極めて少ない と言う。これが従兄弟関係にあると言う理由である。 チベット高原(ラサ)と日本(東京)とは直線で約4500 キロ離れている。地球の円周4 万キロメートルの11%にあたる。その道のりには深い谷、急峻な山、さらに海が横たわ っている。歴史を見てもずいぶん違った歴史を歩んで来た。どうしてこれだけ異なった民 族が血縁関係の近い従兄弟同士であり得るのか? これに答えるには、日本人とチベット 人のルーツを探る必要がある。 日本人とチベット人のルーツ 現生人類はアフリカで誕生し、世界に拡散した。その一部は5~6万年前には東南アジ アに到着した。アジア人の原初のルーツである。陸続きであった東南アジア一帯(スンダ ランド)に居住し、人口を増やした。D系統のY染色体を持っていた。 やがて移動を開始する。一部はアジア大陸を北上し、別の一部はオーストリアに渡りア ポリジニの先住民となる。 アジア大陸を北上した人類はチベット高原、中国の中原に広がり、さらに北アジア(シ ベリア)、北東アジア、日本列島、南西諸島(九州南から台湾北部の諸島)などに拡散した。 そして、チベット高原と日本にも同じD系統の人類が住み付いたのである。 シベリアに向かった集団は、2 万年前頃には、バイカル湖に到達した。しかしその地方の 自然環境は強烈であった。緑のきわめて少なく、気温は氷点下をはるかに下がった。時間 をかけて適応する。そして北方アジア人として生存権を得ると共に、Y染色体はO系統へ と変異していた。北方モンゴロイドの発現である。彼らは陸続きであったベーリング海橋 を越え、南北両アメリカ大陸へと拡散する。 やがて1万年前ころ、気候の温暖化でベーリング海橋は通過できなくなり、日本も海に

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囲まれる。また人口の増加に伴い、北方モンゴロイドは移動を始めるが、南方に移動する 以外に道は無かった。2万年前に来た道を逆進する形である。約3000 年前までには中国東 北部、朝鮮半島、黄河流域、江南地域などに分布する。さらに南下を進め、東南アジア一 帯にも拡散する。そして、これら一帯の先住部族は北方モンゴロイドに同化して行き、従 来のD系統を失って行く。 しかし、深い谷、急峻な山に囲まれたチベット高原と海に隔てられた日本には入ってこ なかった。あるいは入ってきてもD系統の体質を失うまでには到ら無かった。こうしてD 系統を持ったチベット人(古羌族あるいは西羌族)と日本人は古い同じ体質を持ちながら、 東西に大きく隔たったまま現在に至った。 以上が、チベット人と日本人が従兄弟関係にある経緯である。しかし、疑問が残るので ある。日本人とチベット人はD系統であり、D系統の仲間である地中海沿岸や中東、アフ リカの人々のE系統と極めて近い関係だと言う。チベット人と日本人はギリシャ人、ロー マ人、イラン人そしてアフリカ人などとどんな関係を持っているのだろうか? DNAや Y染色体と言った分子レベルでは見えない部分が多く隠れている。 参考文献 チベット・ボン教の神がみ 長野泰彦 著 国立民族学博物館 編 古代チベット史研究 上・下 佐藤長 著 1958・1959 年 東洋史研究會 吐蕃王国成立史研究 山口瑞鳳 著 1983 年 2 月 25 日 岩波書店 広島市立図書館 西蔵地方古代史 次旦札西:主編 西蔵人民出版社 2004 年 4 月 大唐西域記 玄奘 著 水谷真成 訳注 東洋文庫 その他、多くのweb site を参照していますが、詳細を記載しないことにしました。多く のweb master に感謝します。

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