﹁琉球貿易図屏風﹂の成立について
1下貼文書の検討からt
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奈緒子
はじめに 一九九九年度、経済学部附属史料館では、館の所蔵する﹁琉球貿易図屏風﹂︵口絵︶の修復を行った。修復は、多数の国 宝・重要文化財の修復を手がけてきた、㈲文化財保存に依頼した。修復作業では、屏風全体を全面的に解体し、本紙絵図 部分のクリーニング、欠失部分への補紙・補彩、下地・塗鞘の新調、飾り金具の復元等が行われた︵詳細は、上掲﹁保存 修理報告書﹂を参照のこと︶。 ﹁琉球貿易図屏風﹂は、中国から帰国した進貢船が那覇に入港しにぎわう様子と、首里城を中心とする城下町を描いた 屏風である。戦災などで歴史史料が少ないなかにあって、江戸時代の琉球の風俗を知ることのできる貴重な絵画史料であ る。現在同じ構図のよく似た屏風は、他に、浦添市美術館蔵﹁琉球交易港図﹂と沖縄県立博物館蔵﹁首里那覇港図﹂の二 点が確認されているが、その成立については、いずれについても明かではない。 ︵1︶ 今回の修復の過程で、本紙絵図の紙質が中国で生産された可能性の高い竹紙であること、下貼文書が江戸時代の古文書 ﹁琉球貿易図屏風﹂の成立について 一滋賀大丹8、経済学部附属史料館研究紀.要 第...十四ロゲ 」 であることが明かとなった。そこで、成立の経緯を知る一助となるのではないかという期待のもとに、 の分析を行った。本稿はその検討結果についてのノートである。 下貼文書について 一、 コ貼文書の内容分析 .警碧 、罫 //1i・ 」.F嚇司 ・﹄﹁噌 だ!・「レ 1 .凵D 1=言1 . r 咳 鱒
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同じ綴じ穴ごとで文書を集めてみると、 冊子を復元し全体像を把握することは不可能である。 まりとみなし、下貼文書全体として検討を進めることとする。 用する史料は前後が欠落している。 下貼りとは、ド地骨を補強するとともに、ド地と本紙の伸縮の差を緩和したり、 ︷2︸ ド地材から出る灰汁を吸収するために、ド地骨に貼られた何層もの紙のことで、多 くの場合反故とされた古文書が用いられている。今回の修復でも、屏風の内側から ︵3> 全四〇九点の下貼文書が出てきた。近代以降の文書二点を除いていずれも同質の紙 で、目が粗いのが特徴である。近世に福岡の八女で漉かれたものとよく似た性質の ︵4> 和紙であるという︵写真︶。これらの一紙の大きさは、切断されたり破損したりま ちまちであるが、中央に折り目があり、これにそって紙を折ると両端に.つの綴じ 穴を確認でき、もともと竪帳であったことがわかる。綴じ穴の位置は少なくとも六 種類を確認できるので、下貼文書は異なる複数の冊子を構成していたと推定される。 グルーピングできるのは、五九点で全体の四割に満たず、現段階で個々の そこで、以下の検討では、近代文書二点を除く四〇七点をひとまと ︵5︶ なお、文書の配列の復元も不可能であったため、以下で引﹁琉球貿易図屏風﹂の成立について 表 下貼文書記載の幕府諸職者一覧 老中 青山下野守旧裕(6一 17) 松平周防守康任(6−17) 若年寄 永井肥前守尚佐(6−53) 増山河内守正寧(6−53) 江戸町奉行 榊原主計頭忠之(6−56) 筒井伊賀守政憲(6−56) 勘定奉行 曽我豊後守助弼(2−42) 土方出雲守勝政(3−11) 長崎奉行 本多佐渡守正収(6一・58) 留守居 石川左近将監忠房(6−42) 松平内匠佐乗譲(6−54) 曲渕甲斐守旧露(6−58) 大目付 石谷備後守三豊(6−42) 佐野肥後守庸貞(6−42) 享和3・正・23∼天保6・5・6 文字9・11・23∼天保6・9・29 (西丸)文政10・12・20∼天保10・4・18 文政5・9・5∼天保13・6・27 (北)文政2・閏4・1∼天保7・9・20 (南)文政4・1・29∼天保12・4・28 文政6・11・8∼天保6・12・9 文政11・9・10∼天保7・8・10 文政9・6・17∼文政13・5・10 文政11・8・28∼天保7・1・18 文政12・11・20∼天保13・11・17 文政6・12・1∼天保6・4・18 文化14・1・11∼天保3・6・24 文政12・5・3∼天保6・4・24 ①文中には、﹁若殿様﹂︵2173、下貼文書の整理番号、以下 同じ︶・﹁御三殿様﹂︵2116︶・﹁小姓﹂︵5161︶といった語 句が見え、武家の文書であったことがわかる。他にも種々の幕 府や藩の役職名を確認できるが、﹁屋久嶋奉行江御役替三二付﹂ ︵4125︶という記事があり、この﹁屋久島奉行﹂は、鹿児島 ︵6V 藩が元禄期に屋久島・口永良部品支配のために設置した役職で あったことから、下貼文書は、鹿児島藩の文書であると確定で きる。 ②詳細は後述するが、下貼文書の内容を分類すると、すべて の文書を手当・贈答・購入といった内容に分類することができ る。このうち、贈答に関わっては、その相手として、幕府役人 の名を多数確認できる。役職と人名が併記されている人物につ いて、各人がその職にあった期間を整理したところ、いずれも 文政から天保期に集中している︵表︶。 左の史料は、なんらかの職について、太田摂津守が転役し、 松平丹波守への交替があった事実を記している。 御免二付当六月迄/太田黒津守様御方へ/可被差出、去ルい八 月/大御目付衆6御触達/[]之候処二、右摂津守様/御転 三
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十四号 四 ︵刀力﹀ 役二会、当年者/松平丹波守様御方へ/可差出旨子五月/十五日新納四郎右衛門/取次老樹証文被仰渡候付︵213︶ ※史料中の[ ]は破損による文字の欠落を、/は改行を意味する。 この時期の太田摂津守資始から松平丹後守光年への交替とは、文政十一年︵一八二八︶十一月に太田が離任し、十二月 に松平が着任した寺社奉行職の交替に限定される。文政十一年は子等であり、この史料によれば、年末の寺社奉行の交替 がすでに同年の五月段階で公表されていたことになるが、こうした事態は江戸時代の慣例としてまず考えにくい。下貼文 書の他の史料と比較すると、﹁子五月﹂の﹁子﹂が﹁刀︵寅︶﹂の可能性もあるが、いずれの干支で読んでも、前後の脈絡 が不明なため、文意を合理的に解釈することは困難である。ここでは、右の史料が文政十一年の寺社奉行の交替前後のも のであることを確認するにとどめたい。そして、下貼文書中全体を通して現れる干支は、亥∼辰のいずれかであり、なか でも子・丑・寅が多い。以上から、下貼文書の作成時期は文政末年頃にほぼ限定することができる。 これを、鹿児島藩に即してみてみよう。鹿児島藩主島津家に関わる語句としては、﹁太守様﹂︵2132他︶・﹁両御隠居 様﹂︵2163︶・﹁順姫様﹂︵4135︶といった語句を確認できるが、この時期の藩主は島津斉興で、文政期には、先々代藩 主の重圧と先代藩主斉宣の二人が存命であった。鹿児島藩では、﹁太守﹂は藩主の呼称であり、したがって、﹁太守﹂が斉 興、﹁両御隠居﹂が重豪・斉宣ということになる。また、﹁順姫﹂は平年の娘で、膳所藩主本多隠岐守康融の室に入った人 ︵7︶ 物である。 ︵ママ︶ さらに、文書中には、﹁此節就御下国買付御通路筋諸所江御使者御講物騒御進口付﹂︵2167他︶とか、﹁御着城之御礼下 話差出候付﹂︵312他︶とか、﹁先達痛感6御家中之面々依願中山道筋通行御免被仰付﹂︵3−54︶とかといった、藩主の 江戸から国元への帰還に関わる記事が見られる。これらの記事の干支はいずれも寅であるが、これは、斉興が下国した文 ︵8︶ 政十三年︵霜雪︶に一致する。このように、鹿児島藩に即してみても、下貼文書の成立時期を文政末年頃と比定すること
︵9︶ に矛盾はない。 ︵10︶ ③文政期には隠居の重豪・斉宣の二人は江戸に在住していたが、下貼文書には﹁御隠居様御家替二言﹂︵2173︶という、 在府中の口宣の家替の記事が見られる。また、文中には、﹁江戸物奉行﹂︵6127︶、﹁高輪御広敷御用人﹂︵1125︶、﹁高輪 御附食道﹂︵5125︶といった江戸藩邸の役職が現れる他、複数の目付や同心の名前をあげ、﹁右当分江戸江相古身﹂︵31 48・3−56︶といった記事も見える。さらに、幕府役人への贈答の記事が多数含まれていること、鹿児島藩と関わりの深 い芝の大円寺の物品の購入に関わる記事︵1157︶があることなどから、下貼文書は、鹿児島藩の江戸藩邸で作成された 可能性が高い。 ④各文書の内容を分類すると、手当・贈答・購入といった項目に分類することが可能である。内容を検討した結果、下 貼文書は、種々の費用の支払いに関わる帳面を解体したものであると考えられるが、それぞれの分類について、比較的形 の整ったものを紹介しながら下貼文書の内容を紹介しておこう。 手 当 上下三人/○市来源兵衛/右者交代思議付/来ル十九日御当地/被差立候付、地合米/帳手形ヲ以不相渡金付/可相渡旨、物 奉行衆/刀二月十六日之/任手形二相払︵5165︶ 右に掲げたのは、市来仁兵衛という人物が、なんらかの役職の交替を命じられ江戸を出発するにあたって、﹁地誌米﹂ を、﹁物奉行衆﹂の手形により支給するという内容である。﹁地二心﹂という語句は全部で四八点の文書に見えるが、その いずれでも、右の史料のように、赴任のための経費の支給といったような意味合いで用いられている。鹿児島藩には、﹁賄 ︵11︶ 料﹂と呼ばれる公務旅行の手当があったが、﹁地賄米﹂はこれに類するものであろう。﹁物奉行﹂とは、所帯方諸品差引、 ︵12︶ 諸扶持方、職人賃飯米手形を出す事などを職掌とする勝手方の役人である。五人置定員で一人は江戸に詰めた。
﹁琉球貿易図屏風﹂の成立について五
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十四号 六 下貼文書中には他に、﹁年中苦労﹂︵1−25他︶・﹁髪結分﹂︵1134他︶・﹁飯米﹂︵4158︶・﹁支度料﹂︵5−40︶・﹁御 仕着代﹂︵611他︶など、それぞれの役割に応じた手当支給の記事が見える。 贈 答 若殿様6/[]木受弐ツ/才領前田林右衛門/尋者今般御隠居/御家替二付還御祝儀/右手通被進候付、御使番/差紙見届 候付/可相払旨、物奉行衆/子五月六日之任手形/相払︵2−73︶ 右の史料は、﹁若殿様﹂が斉宣の家替の祝儀を送ることについて﹁使番﹂の差紙が出たので、物奉行衆の手形にまかせ てその費用を支払うという内容である。﹁若殿様﹂は、藩主斉興の世子斉彬、﹁使番﹂は六人が定員の、使者・進物をつか ︵13︶ さどる役職で、国元と江戸に置かれた。﹁才領﹂は、進物品の運送に付けられた監督の役である。 右に掲げたのは、いわば鹿児島藩主身内での贈答であるが、その他の進物としては、幕府役人に対して、役替の祝儀︵2 16︶、寒中見舞︵2i36他︶、歳暮︵2141他︶、端午の祝儀︵2174他︶、時候見舞︵3i44他︶などを贈った記事があ る。 購 入 代弐拾五匁/指物屋惣左衛門/掛り六村万/右者若殿様御小納戸方/御用として御買入二/相射撃義理銀/炉心導者、刀十一 月/十一日新納四郎右衛門/取次御証文を以被仰渡候付︵5 37︶ 右の史料は、末尾が不明だが、斉彬の﹁小納戸方御用﹂としてなんらかの品を購入したので、その代銀を支払うように ︵14︶ という内容である。﹁小納戸﹂は藩主・子弟の膳番に加役する役職であり、食器など食事に関わる物品の購入があったの であろう。 この他の購入物品としては、衣類︵515︶、進物品を載せる台など贈答の道具︵5130︶、厩の道具︵6 44︶などが
見える。 以上①∼④の検討から、﹁琉球貿易図屏風﹂の下貼文書は、 払いに関わる帳面を解体したものと結論できる。 文政末年頃に鹿児島藩江戸藩邸で作成された、諸費用の支 二、下貼文書と本紙との関係 冒頭にも述べたように、屏風の成立についての史料は残されていない。第一章の検討から、成立に関わる情報を得るこ とはできなかったが、下貼文書が文政末年に作成された鹿児島藩の帳面であったことは判明した。ここから、鹿児島藩が 屏風製作に関与したものと類推することも可能となるが、後掲の﹁保存修理報告書﹂ にあるように、屏風は二∼三回の修復をほどこした跡があり、下地が成立当初のもの と異なる可能性を無視することはできない。屏風成立の事情を考える上で、下貼文書 図 念 と本紙との関係は重要な要素であり、以下、この問題について検討する。 概 体 本屏風の過去の修理は、屏風外側の塗縁を外し、本紙と下貼を分離する屏風の解体 解 風 を伴ったものと︵図1︶、本紙表から旧情を当てたり、補筆・・補回したりといった︵﹁保 屏 存修理報告書﹂四︵二︶②③⑥︶、解体を必要としない場合との二つに分けられる。 1 図 下地の交換の可能性は、前者の解体された修復に限定できる。 解体の跡を示す特徴としては、①各扇の左右両端が折り込まれ、画面寸法が縮小さ れていること︵﹁保存修理報告書﹂四︵二︶⑦︶、②下貼文書に近代の史料二点が含ま ﹁琉球貿易図屏風﹂の成立について 塗 縁 裏貼紙(唐紙) 本 紙 下地 七
11,3’”’15 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十四号 i16−1,7 Il,6 1,7 八 14一一 L5 16一一L7 16−1.7 1.4’s−1,5
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図2 六扇の下地材寸法(単位 cm) れていることの二点が重要である。 ①の屏風本紙の大きさが製作段階よりも縮小されているという事実は、 下地の大きさが成立当初のものとは異なることを示唆している。そこで、 下地材の寸法を図ってみると、カマチの部分が格子の部分より細く薄くな っている︵図2︶。下地材はカマチの方が格子部分より太いのが一般的で ︵15︶ あり、現存する下地材の形態は不自然なものといえる。修復前の下地材に ついては、カマチ部分を削った カマチ れの特徴についても、下地が成立当初のものではなく、 替えられた可能性も否定しきれないが、修復の状況を見る限り、 下地をそのまま生かしたと見る方が自然であろう。 また、今回の修復の際、屏風の裏に貼られた地波蘭模様の唐紙 可能性、すなわち、各扇の両端 の痛みが進み、それを折り込む ために元々からの下地材を削っ た可能性が考えられる。②の近 代文書については、二点とも下 地の表面にふせを当てた応急処 置的なものである。①②のいず いずれかの年代に取り やはり既存の ︵図3︶の内︵16︶ 側から、別の唐紙が出てきた。近世後期に流行した雀型の模様である︵図 4︶。既存の唐紙の上に新たな唐紙を貼り付けるのは時折見られる方法で ︵17︶ あり、この二枚重ねの唐紙も、やはり成立当初のものに簡便な修復を加え たことを示唆するものといえる。 以上の検討から、これまで﹁琉球貿易図屏風﹂に施された修復は、解体 は行っても、既存のものに簡便な修復を加えるにとどまるものであったと いえる。下貼文書が屏風成立時のものであることを確証することはできな いが、その可能性はきわめて高いと結論しておきたい。 おわりに ﹁琉球貿易図屏風﹂の成立について、本稿での検討を踏まえて、私見をまとめておきたい。 まず、本紙絵図はどこで描かれたのであろうか。下貼文書からは情報をえられなかったが、現在屏風装になっている浦 添市美術館蔵﹁琉球交易港図﹂は、明治二〇年︵一八八七︶頃までに絵図のみが琉球から持ち出されたものであることが ︵18︶ わかっている。冒頭で触れた﹁琉球貿易図屏風﹂と類似する屏風二点のうち、浦添のものは、絵図の構図から細部の描き ﹁琉球貿易図屏風﹂の成立について 九
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十四号 一〇 ︵19︶ 方にいたるまで酷似しており、絵図の紙質も竹紙である。両者は同じ工房で描かれた可能性が高い。推定の域をでないが、 本紙絵図についても、琉球で描かれたものと考えておきたい。また、屏風第六扇上部に描かれた樋の数が二つあることか ︵20︶ ら、絵図の成立は、樋が二基に増設された文化五年︵一入○入︶以降であると考えられる。 次に、屏風はどこで仕立てられたのであろうか。下貼文書から得られる情報は無かったが、㈲文化財保存によれば、仕 立ての方法は日本近世のそれと別段異なるところはなかったということである。また、本稿で明らかになったように、下 貼文書は、鹿児島藩の江戸藩邸で作成された諸費用の支払いに関わる帳面を解体したものである。下地には大量の反故紙 が必要であり、それをわざわざ琉球まで運んだとも考えにくい。したがって、琉球で描かれた絵図を日本に持ち帰り、鹿 児島か江戸のいずれかで屏風に仕立てられたものであろう。さらに、藩の文書が外部に流出することは考えにくいので、 屏風の製作には藩がなんらかの関わりをもっていたと考えるのが妥当だろう。 最後に、屏風はいつできたのであろうか。本稿で明らかになったように、下貼文書は文政末年頃の帳面と考えられる。 そして、ド地の状況から、下地は屏風成立当初からのものである可能性が高い。下貼文書中には、訂正印が押されている ものもあり︵4162他︶、公式の帳面であったと考えられるので、一定の保管期間を経て反故にされたと考えるのが自然 だろう。鹿児島藩の文書管理システムについて明らかではないため確かなことはいえないが、どんなに短かくとも五年程 度は保管されたのではないだろうか。とするなら、屏風の成立は一八三〇年代後半以降ということになろう。下限につい ては、近世後期に流行したという雀型文の唐紙が発見されたことから、明治期には下らないものと考えておきたい。 ︵1︶修復時に行われた高知県立紙産業技術センターの検査結果による。なお、竹紙が中国で生産された可能性が高いことについては、㈲文化財保存 の田畔徳.氏のこ教.小を得た。 ︵2︶㈲文化財保存﹁﹃琉球貿易図屏風﹄六曲一隻 保存修理報告書﹂参考資料﹁下貼りと下地について﹂︵二〇〇〇年︶。
︵3︶下貼文書は、破れていたり切断されていたりして、完全な形のものはなかった。そのため、それなりの大きさとある程度の情報を備えたものを ﹁点として数えた。本分析に際して、︸扇つつに一から6までの番号を与え、各々の扇に貼られていた文書︸点ごとに整理番号を与えた。その上 で、書かれている文章を一点つつ翻刻し、それぞれの内容に従って分類した目録を作成した。なお、目録には四〇九点以外に、有用な情報を含む 断簡二六点も含まれている。本目録は館内にて閲覧できる。 ︵4︶田圃徳一氏のご教示による。 ︹5︶参考までに、同じ綴じ穴ごとに集めた六つのグループそれぞれの特徴をまとめた表を下にかかげてお こう。いずれについても内容的には、本文で述べることから逸脱するものはないが、C・D・Fのグ ループについては年次比定の手がかりとなる記事がみられない。 ︵6︶﹃鹿児島県史﹄第二巻︵一九七四年復刊版、初版は一九四〇年︶一六八頁。 ︵7︶重豪と斉宣は、下貼文書では、﹁大御隠居﹂︵4i22︶・﹁御隠居﹂︵2173︶として区別されている。 徴 ・た、文中には﹁御台様﹂︵一・他︶・・藷・型・漢・れは重豪・娘・蟹徳・舞・室に入嚇 ・た広大院︵茂姫・で零・た、文中巨斉興最笠・・れ天保・・藩政改革・当た・た調馬 古 所笑左衛門︵広郷︶﹂︵4−44︶の名も見える。﹃鹿児島県史﹄第二巻︵二五五頁︶では、調所が笑左衛 た め 門に改名したのは、文化十年二八二二︶である。 集 に
︵8︶鹿児島県維新史料編纂所編﹃旧記雑録追録﹄第七巻≡二四六号文書。と
こ ︵9︶鹿児島藩の考察に関わっては、鹿児島県歴史資料センター黎明館の尾口義男氏のご教示を得た。穴 じ ︵10︶﹃鹿児島県史﹄第二巻︵二五三頁︶に、重豪.斉宣の二人が在国を願い出たものの、幕府の許可が得ら 綴 れなかったことが記されている。 表 ﹁琉球貿易図屏風﹂の成立について 一一 点数 形式・筆跡 分類 年号 キーワードA
88 同 手当・贈答・購入 子寅 留守居石川左近将監 蝟レ付石谷備後守B
28 同 手当 寅 寺社奉行太田摂津守 替・大御隠居様C
16 同 購入 寅 高輪御休息所・若殿様D
13 同 手当 寅 鹿児島之兼吉E
8 同 贈答 寅 御三殿様・勘定奉行 ]我豊後守F
6 同 手当 寅 地回米滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十四号 一二 ︵11︶﹃鹿児島県史﹄第二巻九六頁。下貼文書には、﹁地賄米﹂に類するものとして、﹁四人組米﹂︵4149︶・﹁三人賄米﹂︵6129︶ る。﹃鹿児島県史﹄第二巻によれば、﹁賄料﹂は﹁何人賄料﹂と表記され、人数は従者の数を表したとある。 ︵12︶﹃鹿児島県史﹄第二巻一一七頁。 ︵13︶﹃鹿児島県史﹄第二巻一一三頁。 ︵14︶﹃鹿児島県史﹄第二巻︸一九頁。 ︵15︶㈲文化財保存の堀田圭吾氏のご教示による。 ︵16×17︶田畔徳[氏のご教示による。 ︵18︶謝敷真紀子﹁琉球交易港図考﹂①②︵﹃きよらさ﹄一八・一九号、]九九八年、浦添市美術館︶。 ︵19︶関地久治・庄野正彦﹁紙本著色﹃琉球交易港図﹄修復報告﹂︵﹃浦添市美術館紀要﹄七号、一九九八年︶。 ︵20︶前掲︵18︶。 といった語句が見え 付記 本屏風の修復ならびにノートの作成にあたっては、㈲文化財保存・湯山賢一氏・桑山浩然氏・尾口義男氏をは じめ、多数の方にひとかたならぬお世話になった。記して感謝申し上げる。また、内輪の話になるが、今回の屏 風の修復が、学内関係者の尽力の賜物であることも記しておきたい。