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江州系企業者と準拠集団(ニ) : 杉浦重剛のマージナリティ

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江州系企業者と準拠集団︵二︶

     1杉浦重剛のマージナリティー

は じ め に  前稿では杉浦重剛の渡英︵明治九年︶前後からの伊庭貞剛を中心とする準拠集団の動きをとりあげたが、本稿では先ず 杉浦の渡英そのものと、杉浦とともに渡英した人々と杉浦との関係や、かれらと江州系企業者や、住友や三井の財閥経営         、 、 V  、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 者の準拠集団︵﹁十四会﹂を核とも原点ともする準拠集団︶との関係を分析する。       ︵1︶  ここでは、杉浦をはじめとする留学生たちが、出自その他の要因により、元々﹁マージナル・タイプ﹂であったことに       へ  も  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 注目しておこう。そしてかれらのマージナリティは留学生活によってより一層大きく培養されたのである。その結果、か        ︵2Y れらの帰国後の意識と行動は、あたかも﹁ホゼリッツ仮設﹂を実証するような態様を示すにいたるのである。         いずれにしても、杉浦重剛のライフ・ヒストリーは、伊庭貞剛と同じく、明治十年前後から急転回してゆく。   ︵1︶ 勺・﹃罪鴨﹃・しロ﹄⑦薦臼き山銅国。一ぎ。ひ↓ぎ§ミ§旨ミ庭男一§譜§画慧ぎ識§匙Oo§執ミ恥鳶聲 零ω.高山真知子他訳﹃故郷喪失者たち﹄     ︵新曜社、昭和五十二年︶一四ニー一四三頁。、   ︵2︶ 拙著﹃企業者史学序説﹂︵昭和五十五年︶第四章を参照。   ︵3︶ 杉浦の生活史については、前稿同様、もっぱら次の文献に依拠した。明治教育史研究会編﹃杉浦重剛全集﹄全六巻︵思文運出版制作、杉浦重剛     全集刊行会発行、昭和五十八年︶。以下ではこれを、﹁全集﹄︵一︶∼︵六︶、と略記して引用する。なお、本稿は、本紙前号︵﹃研究紀要﹄第二十一      江州系企業者と準拠集団︵二︶       一、

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  江州系企業者と.準拠集団︵二︶      二 号︶に掲載された拙稿﹁江州系企業者と準拠集団︵一︶一住友財閥と杉浦重剛一﹂の読響として作成された。  ところで本稿では、財閥経営者の準拠集団行動を分析するために、以下の拙稿を多く引用したが、便宜上、①﹁報徳会︵一と、②﹁報徳会 ︵二︶﹂、③﹁報徳会︵三︶﹂、④﹁報徳会︵四︶﹂、と夫々略記した。  ①拙稿﹁報徳会と財閥経営者一企業者史的アプローチの試み一﹂︵﹃京都学園大学論集﹄第九巻第︸号、昭和五十五年九月︶、②同﹁報徳会 と財閥経営者一﹃斯民﹄第二編の企業者史的分析1︵同右、第一〇巻第二号、昭和五十七年二月︶、③同﹁報徳会と財閥経営者i﹃斯民﹄ 第三編の企業者史的分析t﹂︵塁壁、第十一巻第二号、”昭和五十七年十月︶、④同﹁報徳会と財閥経営者−﹃斯民﹄第四編の企業者史的分析 ︵1︶一﹂.︵同右、第十一巻第三十号、昭和五十八年三月︶。        へ  ︵付記︶前面﹁江州系企業者と準拠集団︵一︶﹂︵﹃研究紀要﹄第二十一号、昭和六十三年三月︶では、杉浦の恩師である高橋作也を高橋担堂と 表記した。これは﹃全集﹄︵六︶八=1八二九頁の﹁杉浦重剛年譜﹂︵八=一頁︶に依拠したものである。本稿ではζれを不適当と認め、すべて、   へ 高橋坦堂と表記した。 ニ マージナル・マンたち        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  杉浦重剛のマージナリティは、前稿において予告しておいたように、明治九年から十三年にかけての第二回文部留学生 としてのヨーロッパ生活により大きく培養された。  杉浦とともにこの時イギリスへ留学したのは、①穂積陳重、岡村輝彦、向坂党、桜井錠二、関谷清景、増田礼作、谷口        ︵1︶ 直貞の卿名であった。なお、山口半六と沖野忠雄はフランスへ留学した。親友の小村寿太郎や長谷川芳之助は第一回文部 留学生として既にアメリカへ留学していた。  ①第二回文部留学生としてイギリスに留学した穂積陳重は、宇和島爆弾畢生として大学南校に入った。のちに﹁近代法     へ2︶ 学の先駆者﹂となる。その経験的・実証主義的学風は﹁十四会﹂を核とも原点ともする準拠集団のメンバーにも多大の思        ︵3︶         −      ︵4︶ 想的影響を与えた。なお、弟穂積八束の﹁君権絶対主義学説﹂も注目される。さらに陳重の子重遠は陳重とともに東京大        ︵5︶ 学と住友との間のパイプラインの如き役割を果したことで知られる。なお、穂積一族は渋沢財閥や浅.野財閥と緊密な姻戚 関係を形成したことも留意されねばれらない。また、﹁十四会﹂の有力メンバーであった阪谷芳郎は、穂積陳重と同じく、

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       渋沢栄一の女婿である。  ②杉浦重剛や穂積陳重らとともにイギリスに留学を命じられた岡村輝彦は、鶴舞藩貢幡生で、のちに英吉利法律学校 ︵後の中央大学︶の創設にコミットし、中央大学長をもつとめた。なお、英吉利法律学校の創設︵明治十八年九月︶には、穂        ︵7︶ 積陳重とともに、高橋健三もコミットしていることに注目したい。高橋は、前稿第四章でとりあげたように、杉浦の盟友       り  であった。杉浦は、後述するように、この年︵明治十八年︶七月、千頭清臣、宮崎道正、平賀義美、増島六一郎﹂谷田部梅 吉、松下大吉らと、東京英語学校︵後の日本中学校︶を設立する。  ③向坂党という人物について、は佐野藩二進生ということ以外は知られていない。         、 、 、   、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、.      ︵9︶  ④桜井錠二は﹁十四会﹂を核とも原点ともする準拠集団との関係において重要な入物である。、金沢藩士桜井二太郎を父       い  とする。化学者としての功績は甚大であり、渋沢栄一らと理化学研究所を設立したことでも知られる。なお、桜井は化学       け  者でありながら、穂積陳重のいわゆる﹁法律進化論﹂をよく理解していた。北条時敬をはじめとする﹁十四会﹂を核とも 原点ともする準拠集団のメンバーたちは、この桜井を通じて穂積の人と思想を知ったとも考えられる。たとえば北条の日 記によると、北条は明治二十二年元旦に﹁拝趨ノ向々﹂として、山川健次郎、浜尾新、藤沢利喜三郎、菊池大麓らととも       ヒ に桜井の名もあげている。桜井は北条にとって準拠人的な存在であったろう。        ︵13︶  ⑤関谷清景は大垣藩貢千生であった。地震学の権威となる。なお後述するように、杉浦は明治十九年一月より﹃読売新       ︵14︶ 聞﹄にコミットするにいたるが、これは﹁友人の関谷清景氏の関係﹂によるものらし、い。       ほね  ⑥増田礼作は府内藩貢進言。のちに鉄道の分野で活躍する。    卜       あ   ⑦谷口直貞は杉浦の盟友として、前年においても登場したが、元々郡山藩の貢進生である。明治十四年に帰国すると、        り  東京転工学校に勤務した。他の六名同様、﹁経済における近代化の第一段階﹂において活躍する。      江州系企業者と準拠集団︵二︶      三

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江州系企業者と準拠集団︵二︶ .四  以上、杉浦とともに明治九年に渡英した単名の留学生を簡単に紹介した。注目すべきはこれらの若きマージナル・マン        ヘ  へ  ら たちが、異国イギリスにおいて一つの小社会を形成し、大きな社会︵イギリス人社会︶からの無効化の圧力に対抗するたあ       ︵18︶ の連帯性を高めたこと、そしてその連帯性が帰国後も保持されたことである。この点については後述する。いずれにして       ︵19︶ も、かれらは﹁最初に近代経済にとって本質的内在的な認知的・規範的テーマを内面化した人びと﹂であった。 ︵1︶ ﹃全集﹄︵六︶三−四頁。なお、明治八年に出発した.第一回文部留学生は次の=名である。三浦和夫、小村寿太郎、菊池武夫、斎藤修一郎、   松井直吉、長谷川芳之助、南部球吾、原口要、平井晴二郎、古市造次︵公威︶、安東清人。唐澤富太郎﹃貢進生一幕末維新期のエリート﹄︵ぎょう   せい、昭和四十九年︶=九1=一〇頁。 ︵2︶ 唐澤富太郎、前掲書、二一五頁。 ︵3︶ たとえば、明治十七年に東京大学法学部に入った平沼二一郎の場合。同書、二二〇頁。 ︵4︶ 住友財閥の経営者鈴木馬左也の実兄秋月左都夫は穂積八束を高く評価した。黒木勇吉﹃秋月左都夫﹄三三六一三三七頁。 ︵5︶ 穂積重遠は鈴木馬左也の時代の住友の担当者であった。西村幸二郎﹁至徳招利﹂六四九頁︵﹃鈴木馬左也﹄六四五−六五〇頁︶。のちに小倉正恒   の下で大きな役割を果した川田順は、穂積陳重の紹介で住友に入社したと記している。﹃住友回想記﹄三.頁、一七二買。なお、栂井義雄は、川田   が穂積重遠の紹介で住友入りしたと述べている。栂井﹃小倉正恒伝・古田俊之流伝﹄=一頁。穂積一族は﹁十四会﹂を核とも原点ともする準拠   集団のメンバーたちを媒体として、住友の経営者たちと緊密な関係を形成するにいたったものと考えられる。とくに、平沼験一郎、河村善益、阪   谷.芳郎らが重要である。    唱 ︵6︶ なお、穂積八束は浅野総一郎の女婿。阪谷芳郎は、﹃鈴木馬左也﹄では無視されているが、まちがいなく﹁十四会﹂のメンバーである。たとえ   ば、﹃廓堂片影﹄五七九頁を参照。 ︵7︶ 唐澤富太郎、前掲書、二六〇一二六一頁。 ︵8︶ 増島六一郎を﹃杉浦重剛全集﹄第二巻の解説者は、﹁英吉利法律学校、現中央大学創始者﹂と記している。﹃全集﹄︵二︶一〇五一頁。 ︵9︶ ﹁十四会﹂を核とも原点ともする準拠集団のメンバーには、石川県出身者、とくに金沢出身の者が多い。北条時敬、早川千吉郎、織田心覚、井  .上友一、土岐債、河村善益、小倉正恒などがそうである。拙稿﹁早川千吉郎の理念と行動一その準拠集団行動i﹂=一五一=一七頁︵同大人   文研編﹃財閥の比較史的研究﹄昭和六十年、一二四−一四七頁︶。 ︵10︶ 財団法人理化学研究所をめぐる桜井錠二、渋沢栄一、菊池大麓、古市公威らの動きについては、﹃渋沢栄一伝記資料﹄第五十八巻︵昭和四十年︶   二五九1二六一頁を参照。なお、﹃石川最大百科事典﹄︵北国出版社、昭和五十年︶によると、桜井錠二は、七尾語学所で学んだのち、乱費により   東京開成学校に入学、明治四年に大学南校に入った。池田菊苗の恩師でもある。 ︵11︶ 唐沢富太郎、前掲書、二二三頁。 ︵12︶ ﹃廓堂片影﹄三四三頁。なお、菊池大麓は早くから、北条の盟友平沼駿一郎と緊密な関係を形成していた。前掲拙稿﹁財閥経営者の準拠集団﹂   三六i三七頁。

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︵13︶ 関谷銘二郎︵陸軍歩兵少佐︶の兄でもある関谷清景は、帰国後めちに三井入となる団琢磨ともに大学の助教授をつ憾めたこともある。唐澤、前  掲書、一五八−一五九頁。ただし団の.留学先はアメリカであった。 ︵14︶ ﹃全集﹄︵二︶一〇五一頁。大町桂月・猪狩央山﹃杉浦重剛先生﹄二二二頁。 ︵15︶ 唐澤、前掲書、一九八i一九九頁。 ︵16︶ 前掲拙稿﹁江州系企業者と準拠集団︵︸︶﹂第四章、第四節。 ︵17︶ 唐澤、前掲書、一八一i一八二頁。その後、東京大学に転出した。 ︵18︶ バーガーとルックマンによれば、﹁大きな社会臥中心からの無効化の圧力に対抗するため.に、周縁に位置する人々の一部ないし全部が連帯して  下位社会を形成する﹂にいたる。帽●い・切Φ茜。弓p巳6﹃o巳曰い⊆oげヨ琶炉臼譜曽鼠ミO§し・ぐ§肺馬§ミ淘ミ口紅i卜↓鳶ミ曹、§導“象§ご讐ミ  肉ミミミ昇り客Φ下口。蒔噛一㊤①①.山口節郎訳﹃日常世界の構成tアイデンティティと社会の弁証法ーー﹄︵新羽社、一九七七年︶二一二一二一四  頁。なお﹁無効化﹂については、同邦訳書、一九〇一︻九六頁、二六四一二七二頁。        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ ︵19︶ バーガー他、前掲邦訳﹃故郷喪失者たち﹄一四二頁。ここで筆者は、マージナルなマイノリティ・グループの革新的企業者の供給源としての機  能に言及している。

三 ﹃航英日記﹄

     ︵1︶ 渡英前の準拠集団行動       ︵1︶  第二回文部留学生として渡英した穂積陳重には﹃渡英盲記﹄なるものがある。そして杉浦には、既述のように、﹃航英 日記﹄があるの        ︵2︶       ︵3︶  この杉浦の日記については、川崎源による﹁解説﹂があ.る。唐澤富太郎もこれに言及している。そしてこの日記は、両       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  リ  へ 者も暗に指摘しているように、当時の杉浦たちのマージナリティを浮き彫りにしている。以下では、この日記にもとつい        ヘ  ヤ  へ  も  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ       カ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ て、かれらのマージナル・シチュエイションを分析する。もちろん、そ.れはコスモポライトネスの拡大のプロセ.スでもあ るコ  明治九年五月十六日、開成学校において校長浜尾新、監.華車五等教授井上良一の﹁立会﹂により、杉浦重剛をはじめと する一〇名に海外留学生派遣の.令が出た。そこで杉浦は先ず帰省した。注目すべきは、この洋行直前の帰省の途上、大阪       江州系企業者と準拠集団︵二︶       五

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     江州系企業者と準拠集団︵二︶      六 においてわざわざ永元 蔵を訪ねて一泊していることである。のちに住友入として伊庭貞剛の下で働くことになる永元  蔵は、前稿においてとりあげておいたように、膳所藩出身のジャーナリストであった。杉浦重剛とは竹馬の友であり、杉        ︵4︶ 浦の父重休の家塾の出身者であり、杉浦兄弟と同じく岩垣月旦門下でもあった。  杉浦はこの﹁竹馬の友﹂をよほど信頼していた。帰省中、阪本の父や弟たちと﹁面語﹂し、二泊したあとすぐに大阪に        ︵5︶ 行き、ここで五月の下旬の約一週間を費している。  杉浦が渡英のために東京に戻ったのは六月に入ってからである。  六月十八日、湯島の旗亭において開成学校の友人たちが、洋行する杉浦重剛、入江陳重、谷口直貞のためにパーティを 開いた。出席老は、河上謹一をはじめ、宮崎道正、石松定︵のち平賀義美︶、福富孝季、谷田部梅吉、磯野徳三郎、千頭清 臣ら二十三名であった。そのなかには、彦根出身の増島六一郎、水口出身の城多董の養子城多虎雄、金沢出身の加藤順吉、       ︵6︶       、、、、、、、、、 杉岡政人らがいた。パーティの内容は不明である。しかし、出席者の出身地だけからでも、杉浦らのコスモポライトネス        ︵7V の高さを知ることができよう。このとき杉浦は﹁実に生来末筆有の愉快を極めたり﹂と記している。  六月十九日、杉浦は文部省に出頭、辻新次より﹁辞令書﹂を受けとった。松本藩出身の辻は数年前に大学南下の校長を していた。この当時、文部権大丞であった。  六月二十一日、杉浦らは友人を両国中村楼のパーティに招いた。﹁主客合せて百人亦盛人と云ふべし﹂とある。岩国出        ハき  身の河上謹一をはじめとして、水口出身の岩谷立太郎、足利出身の西村貞らが祝辞を述べた。  岩谷については既に招介したが、西村もまたきわめて重要な人物である。大学南校寄宿舎では、杉浦とは真向い室を占 め、宮崎道正、十時虎雄らとも緊密な関係を形成した。明治七年に﹁化学専攻の組﹂ができたとき、西村は、杉浦、長谷        ︵9︶ 川芳之助、桜井錠二、宮崎道正らと同級であった。明治九年、前章でとりあげているように、杉浦や桜井はイギリスへ留

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       ︵m︶ 賀したが、西村は日本に留まり、大阪師範学校の校長をつとめた。なお、杉浦も西村も、かつて大学南校の校長をつとめ た辻新次や九鬼隆一から信頼されていた。明治二十六年に辻が大日本教育会を創立したとき、ともにこれにコミットして いる。金港堂や乾坤社をめぐる杉浦、河上らと西村らとの連帯性については後述する。本稿のパースペクティブからして 注目すべきは、この杉浦や河上の盟友であった西村貞が野村彦四郎という人物ときわめて緊密な関係を形成したことであ  ︵11︶ ろう。       ︵12︶  野村彦四郎は伊庭貞剛の後継者鈴木馬左也の恩師として知られる。鈴木は、ちょうど杉浦らが渡英した明治九年六月に、 宮崎から金沢に移り、県立啓明学校に入学した。それは野村彦四郎が同校の校長をつとめていたからである。本稿のパー スペクティブからして、もっとも注目すべきことは、この啓明学校において鈴木が、非金沢人であるにもかかわらず、北 条時敬や土岐横を中心とする金沢人グル;プ︵のちの鈴木の準拠集団の校とも原点ともいいうるもの︶ときわめて緊密な関係を       ヘ ヘ ヘ   ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 結ぶにいたったことである。これは鈴木が三井の早川千吉郎らとともに、のちに﹁十四会﹂を核とも原点ともする準拠集 へ 団の成員のなかでも最も有力な実業人として成り上るための大きな契機となった。     ︵2︶ 井上馨・佐々木長淳など  河上、岩谷、西村らの祝辞を受けた日の翌々日︵六月二十三日︶、杉浦らは昌平学校において、九鬼隆一や辻新次ら主催       ︵14︶ の送別会に出た。九鬼はのちに、住友家や、鈴木馬左也の盟友花田仲之助の報徳会や﹁十四会﹂を核とも原点ともする準         ︵15︶      ︵16︶ 拠集団にコミットする。くりかえしになるが、辻と同じく、杉浦や西村貞にたいする信頼が厚かった。  六月二十四日、杉浦一行は横浜に肖った。このとき﹁同乗して横浜迄送りし人々﹂は、河上謹一、磯野徳三郎、石松定        り  ︵のち平賀義美︶、増島六一郎、西松二郎ら九名である。また、﹁象車にて横浜まで来遊せし人々﹂は、宮崎道正、千頭清臣、 城多虎雄、福富孝季、中村弥六ら二十二名である。くりかえしになるが、その多くは杉浦や河上の盟友としてのちのちま      江州系企業者と準拠集団︵二︶       七

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     江州系企業者と準拠集団︵二︶      八        ︵18︶ で活動する。そめ高い連帯性は杉浦の数年におよび留学後もまつだく変っていない。なおごの日、アラスカ号に乗りこん       ト  だ杉浦は関谷清景と﹁同舎﹂しだ。       一       .       、−  出.帆は翌二十五日であった。しかし船酔いのため、.三白間はかなり、の﹁困却﹂が続いた。杉浦らが﹁皇国同船人﹂を初       ︵20︶ めて認めたのは、ようやく二十七日になってからであった。日本太船客二〇.名の中には、井上馨、日下義雄らがいた。  杉浦重剛と井上馨との関係はそれほど重視する必要はない。杉浦はこのアラスカ号の船上においで初めて井上を知り、 ある種の関係を結.んだが湘後述するように、杉浦のライフ・ヒストリ4にとってけっして決定的なものではなかった。事       カ  実、杉浦は井上を高く評価していなかった。それは杉浦の盟友伊庭貞剛についても妥当する。かれらは井上に対してある 種の不信感をもっていたようでもある。  六月二十八日、杉浦は喫煙室に行き馬井上や日下と囲碁をした。なお、その翌日も翌々日も喫煙室ですごした。 ﹂七月二日は、井戸らと﹁宗旨の談﹂を七た。この﹁談﹂には、入江︵穂積︶陳重と関谷清景も加ねった。  体調が悪かった杉浦は、それまで、﹁内外一覧﹂噛﹁国史要覧﹂﹁東国雑誌﹂﹁問答新聞﹂などを読んでいたが、七日四目か       ︵22︶ ら﹁農政本論﹂や﹁斯氏農書﹂などを読みはじめた。また、河上謹一の漢詩で気をまぎらわせたりした。  七月六日は、段記を﹁専心﹂したり、﹁近世事情﹂を読んだりしている。なおこの日、﹁洋人を乱して云、夷弓卑劣なる 実に驚くに堪たり。婦人の如き或は食堂に排列し置きたる食物を摘食し、子供輩は菓子を盗み去るものあるに至る。﹂と         記している。その他にも、﹁西洋人﹂のライフ・スタイルにたいする批判が多く記されている。・五日前の日記は杉浦は、        ︵24︶ ﹁此時我初て日本入の卑劣ならざるを知る﹂とも記している。  杉浦は、後述するように、明治十三年三月に帰国するが︵﹁自分の洋行して.得た所﹂として、︵一﹀理学宗、︵二︶﹁洋行       ︵25︶ して飽まで日本主義を執って変らなかった事﹂、以上二点をあげた。伊藤博文や井.上馨の﹁欧化主義﹂にたいする反発は、

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すでにこのアラスカ号の船上において始まっていた。とくにこれよりおよそ十年後に、杉浦や河上が、岩谷立太郎、宮崎 道正、谷田部梅吉、長谷川芳之助、小村寿太郎、千頭清臣、福富孝季、高橋健三らと﹁乾坤社﹂という結社をつくり、井        ︵26︶ 上外相の条約改正交渉が日本にとっていかに屈辱的なものであるかを、世間に訴えはじめるのは、杉浦自身がいうように、 かれらがその洋行体験にもかかわらず、﹁日本主義﹂を執って変らなかったからである。  本稿、第六章において.詳述するように、杉浦は、洋行中︵絶えず雲井龍雄の詩を吟じた。それが彼を欧化の波から守った。        ︵27︶  七月八日、杉浦は佐々木君の﹁養蚕の説を聞く、大に利益を得たり﹂同君の蚕事に於ける実に驚くべし﹂と記している。 江州人佐々木長淳︵当時、勧業寮六等出仕︶の﹁養蚕の説﹂に大きな関心をいだいたのは、おそらくそれが、杉浦の知的好 奇心のみならず、杉浦に固有の国益志向性をも喚起七たからであろう。もちろんマージナル・マン佐々木が江州系技術者    ヘ  ヘ  へ として江州庁以来の養蚕技術に習熟していたことに、江州人杉浦が感銘をうけたということも考えちれる。江州では、長      ︵28︶ 浜の成田思斎をはじめとして、幕末より養蚕の分野に多くの革新者が輩出した。佐々木もまた、江州系財閥経営者の広瀬        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 宰平と同様、伝統的な職人技術と先進国の新しい技術のマージナリティを追求していたのであろう。  なお、住友の広瀬宰平が明治期の生糸貿易の重要性に着目して、明治十三年に製糸業に進出し、滋賀県阪田郡醒ケ井に 工場を建設するにいたるのは、明治二十年のことである。これは、作道洋太郎によると、広瀬の国益思想のあらわれのひ         とつである。        ︵30︶  そして杉浦は明治二十年一月二十七日の﹁読売新聞﹂に﹁外国貿易の事﹂なる論説を発表した。そこで杉浦は、輸出を       ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ       ママ 増やすには﹁江州商人の如き精神あるものにして容易に船舶の便を得、直接に外国人の嗜好を習熟し、之に投ずべき物品        へ  あ を製し、以て之を売捌きに出掛たらんには、頗る巨利を得るごとなしとも云ふべからず﹂と言明し、﹁生糸及び三等を以       へ て木綿金巾と匹敵せしめ、茶と砂糖とを匹敵せしむる等も亦頗る妙ならん﹂と述べている。その背後には、﹁此侭にて進      江州系企業者と準拠集屈︵二︶       九

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     江州系企業者と準拠集団︵二︶      一〇 行したらんには、我邦の財政上に於て前途頗る患ふ可きの結果を生ぜん﹂という危惧があった。  江州系企業者広瀬宰平は、製糸業に加えて、樟脳製造業や再製茶製作業にものり出す。明治二十一年度ら二十二年にか        ︵31︶ けてのことである。杉浦や広瀬の国益志向性については、のちにより詳しく分析する。     ︵3︶ アメリカの日本人たち  七月八日の佐々木長淳の﹁養蚕の説﹂には大きな関心を示した杉浦ではあるが、元老院議員井上馨の話にはほとんど 関心らしい関心を示していない。七月十六日の日記にも、﹁午餐前に井上君の話を聞けり﹂とあるが、ただそれだけであ る。        ︵32︶  アラスカ号は七月十八日にサンフランシスコに投錨した。アメリカ大陸横断に十日を要した。そして、ニューヨークには、         長谷川芳之助、松井直吉、南部球吾らが留学するコロンビア大学があった。  長谷川芳之助は、前稿においても登場したが、明治八年にアメリカに留学し、コロンビア大学で鉱山学を修めて十三年        ︵34︶       ︵35︶ に帰国し、三菱入りする人物である。乾坤社や対露同志会の活動を通じて、杉浦らとの緊密な関係を維持する。この長谷 川が、すくなくともある期間に財閥経営者としての企業者活動を展開していたことには、本稿のパースペクティブにおい てきわめて重要な意味がある。長谷川が杉浦や河上ときわめて緊密な関係を維持した人物であるからだ。  松井直吉は大垣藩貢進生として大学南校に入学した秀才である。明治十三年に帰国し、東京大学理学部教授、工科大学       ハ   教授などを経て、明治三十八年に東京帝国大学総長。化学研究のパイオニア的存在であった。  南部球吾も長谷川、松井とともにコロンビア大学で鉱山学を修めて帰国し、長谷川とともに三菱入りし、とくに高島炭 坑の近代化に貢献した。        ︵37︶  なお、杉浦は、大正元年.九月に﹁長谷川博士を憶ふ﹂という一文を﹃日本及日本人﹄五八九号に投稿している。そこで

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は、杉浦と長谷川、松井、南部らとの関係が詳しくとりあげられている。        ︵38︶  さて七月二十八日にニューヨークに着いた杉浦らを、先ず三浦︵鳩山︶和夫がたずねている。目賀田種太郎については、        ︵39︶ ﹁費府へ行かれ留守中の由、伝言来るを以て領事富田鉄之助黒黒はる﹂とある。  鳩山和夫と目賀田種太郎は、早くからアメリカにおいて﹁正規の法律学﹂を修得したという点で、代言人としての大き な差別的優位性を持っていたといわれる。かれらは、星亨や織田純一郎といったイギリス派の法律家たちとともに、きわ       ︵40︶ めて貴重な存在であった。  鳩山和夫は真島藩出身の貢進生。第一回文部留学生として明治八年にアメリカ行き、コロンビア大学とエール大学にお        ︵41︶ いて法学を修得し、明治十三年に帰国した。代言人として世に出た鳩山は、のちに法界や政界で活動する。なお、杉浦重        ︵42︶ 剛や増島六一郎とは、後述するように、﹁国会﹂︵明治二十三年︶の社友としても交流があった。  目賀田種太郎は、幕臣旗本目賀田幸助の長男。明治三年から七年にかけて米国留学、明治八年には留学生監督のため、        ︵43︶ 米国に派遣された。のち代言人、韓国統監府財政監査長官、枢密顧問官となる。  七月三十一日、杉浦はフィラデルフィアへ行き、初めて目賀田種太郎に会った。さらに田中不二麿、手島精一、小村寿         太郎、長谷川芳之働、斎藤修﹁郎、南部球吾、菊池武夫らとも無慈を祝した。  この時ちょうど、フィラデルフィアでは独立百年記念の万国博覧会が開かれていた。  田中不二麿は名古屋尾張藩出身。当時文部大輔として米国出張中であった。早くから福沢諭吉に師事した。のち枢密顧        ︵45︶ 問官を経て第一次松方内閣司法大臣となる。        ︵46︶  手島精一は前稿において、とりあげておいた。伊庭貞剛の下で河上謹一、鈴木馬左也とともに理事をつとめた田辺貞吉      江州系企業者と準拠集団︵二︶      二

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     江州系企業者と準拠集団︵二︶      一二 の実弟であり、手島自身も住友と緊密であった。なお手島は、明治八年八月に開成学校監事となり、杉浦重剛や桜井錠二       ︵47︶       ︵48︶ を指導していた。そして杉浦らは手島を崇敬していた。  フィラデルフィアの博覧会に田中不二麿代表の随行通訳として渡米した手島は、教育調査や教材資料の蒐集に東奔西走 したといわれる。手島は明治三年から七年置かけて、フィラデルフィアのイーストン大学に学んだ経験があり、この地域 のことは熟知していたと考えられる。  手島ほど渡米・渡欧経験の豊富な人物はめずらしい。しかし手島は土着的要素に固執した。のちに、杉浦重剛、河上謹 一、 ャ村寿太郎、長谷川芳之助らと乾坤社の創立に参画するのも、蓮沼門三の修養団運動にコミットするのも、そのあら     ︵49︶ われである。この点については後述する。  さて、七月三十一日に杉浦がフィラデルフィアで会った人物群のうち、以下では、①小村寿太郎、②斎藤修一郎、③菊 池武夫の三名についてふれておく。長谷川と南部については既述のとうりである。  ①小村寿太郎は日向飢肥藩出身。すでに第一.回の文部省留学生としてこの前年に渡米し、ハーバード大で法律を学んで いた。小村は、伊庭貞剛や河上謹一との関係や、鈴木馬左也の実兄秋月左都夫との関係からも、本稿のパースペクティブ       の  においてとくに重要な人物といえる。もちろん乾坤社のメンバーとなる。  杉浦の盟友で彦根出身の増島六一郎の﹁三傑伝﹂に、杉浦、長谷川とともに小村がとりあげられていることを、唐澤富 太郎は高く評価しているが、東亜同文会商の﹃対支回顧録﹄でも、小村が、杉浦、河上、長谷川、高橋健三らときわめて        カ  緊密な関係を結んでいたことが記されている。なお、のちに小村が外務省入りするのは杉浦と当時外務省通商局長であっ        ︵52︶ た浅田徳則との関係によるといわれる。浅田は、既述のように、杉浅重剛の兄正臣の親友であり、杉浦兄弟と同じ岩垣月 洲門.下であった。杉浦と小村の関係については後述する。

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 ②斎藤修一郎は福井武生藩出身。鳩山和夫、小村寿太郎らとともに、明治八年に第一回文部省留学生として渡米し、ハ     一   F       ‘   ︵53︶ ーバ弓ド・エールの各大学で学んだといわれ為。中上川彦次郎、藤田四郎、都筑馨六とともに、井上馨の四天王といわれ、        ︵54︶ 農商務省を中心に.活動した。  ③菊池武夫は岩手南部藩出身、       ︵55︶ 出淵勝次らはその.女婿である。 ボストン大学で法律を勉強した。のち司法省民事局長や中央大学長を歴任する。栗原正、 杉浦一行がニューヨークから大西洋を渡り、リバプールに到着したのは八月十七日置ことである。  ︵1︶ 唐澤﹁前掲書、﹂一二四1=一八頁。ただし、﹃書斎の窓﹄︵有斐閣、二三一二五号︶による。  ︵2> ﹃全集﹄︵六︶八三三一八三五頁σ  ︵3︶ 唐澤、前掲書、︸二八一=二二頁。  ︵4︶ 既述のように、永元は明治二十九年に住友入りする。拙稿﹁江州系企業者と準拠集団︵︸︶﹂第四章第四節。  ︵5︶ 詳細は知りえない。﹁其他帰省中の件は別冊に載するを以て此に贅せず﹂とある。﹃全集﹄︵六︶四頁。  ︵6︶ 敦賀、津山、東京、福岡、高知、長崎、熊本、秋田、前橋、岩国、福山、久留米、彦根、金沢、会津。  ︵7︶ ﹃全集﹄︵六︶五頁。  ︵8︶ 岩谷立太郎は第三章︵3︶の⑥でとりあげたように、西村貞とともに、杉浦や河上の盟友であり、乾坤社のメンバーでもある。  ︵9︶ ﹃全集﹄︵六︶七ニニー七二三頁。唐澤馬前掲書、−三二四頁。  ︵10︶ ただし、明治一一年に文部省の命.により、師範学校取調べのために渡英し、杉浦の帰朝にさいし、岡村輝彦とともに杉浦のために送別の宴を開    いている。﹃全集﹄︵六︶七二三.頁。唐澤、前掲書、三二五頁。  ︵11︶ たとえば、西村貞は、明治二十一年頃、野村彦四郎の第五高等学校長時代に、その教頭に招聰されている。﹃全集﹄︵六︶七二四頁。  ︵12︶ 野村彦四郎は鈴木馬左也の準拠人であった野村綱の実弟である。﹃鈴木馬左也﹄五〇1五二頁、査四一五五頁。三五七頁。  ︵13︶ 前掲拙稿﹁財閥経営者の準拠集団i鈴木馬左也の場合一﹂三五−三六頁。さらに、拙稿﹁報徳会︵一︶﹂一1二六頁。  ︵14︶ この会合では、九鬼隆一の祝辞にたいして、入江︵穂積︶陳重が代表して答辞を為した。﹃全集﹄︵六︶六頁。     −     −  ︵15︶ 拙稿﹁報徳会︵四︶﹂一四一一五頁。九鬼と住友との.関係は﹃住友春翠﹄二一七i一=八頁。  ︵16︶ 杉浦は﹁亡友追遠録﹂において西村貞をとりあげたさい、﹁君はもとから辻薪次、九鬼隆一の二君に大に信用せられたものであった﹂と記して    いる。﹃全集﹄︵六︶七二四頁。  ︵17︶ 他に、畠山重明、本山政久、村岡為馳、高橋茂の名があげられているu﹃全集﹄︵六ど七頁。       − 江州系企業者と準拠集団︵二︶ 一三

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江州系企業者と準拠集団︵二︶ 一四 ︵18︶ たとえば、明治十三年に帰朝した杉浦は翌日直ぐ西松二郎と千頭清臣を大学寄宿舎にたずねている。杉浦の箱根より帰京の後の住居を貞昭庵に   したのは、酉松のすすめによる。なお当時、西松は彦根出身の増島六一郎と共に、駿河台に家を持っていた。同表、七三〇頁。 ︵19︶杉浦一行﹁○名は、いちおう文部省派遣の付添監督正木退蔵の指揮下におかれていた。 ︵20︶ 日下義雄は福島出身。明治四年から七年にかけて米国留学の経験があり、元老院議官井上馨の随行として欧州に派遣された。のち、長崎県知   事、福島県知事、京釜鉄道株式会社常務取締役、衆議院議員などを歴任した。︵戦前期官僚制研究会編︶秦郁彦著﹃戦前期日本宮僚制の制度・組   織・人事﹄︵東京大学出版会、一九八一年︶九二頁。なお、杉浦はここで日下を井上と﹁同県人﹂としているが、誤りである。﹃全集﹄︵六︶八貰。 ︵21︶ たとえば、﹁徳大寺隆磨の住友家に入るに至った事情﹂、とくに井上の﹁画策﹂にたいする伊庭のコンフリクトや、.井上と西園寺公望︵徳大寺隆   麿の実兄︶との間の緊、張に満ちた関係を参照。﹃住友春翠﹄一七八一一八一頁、四七六一四七八頁。 ︵22︶ ﹁夜半末レ睡旅情頓生次二河上兄之韻一以遣・悶﹂とある。﹃全集﹄︵六︶一二一=二頁。 ︵23︶ 唐澤、前掲書、=一八−一三〇頁をも参照。 ︵24︶ 七月一日、杉浦は﹁西洋人の子供﹂をつぶさに観察して、この結論に達した。﹃全集﹄︵六︶一〇頁。 ︵25︶ ﹃全集﹄︵一︶四五八頁。 ︵26︶ ﹃上野理一伝﹄四一九−四二〇頁。 ︵27︶ ﹃全集﹄︵六︶一四頁。 ︵28︶ ﹃近江の先覚﹄︵昭和二十六年︶九五頁。 ︵29︶ 作道洋太郎編﹃住友財閥﹄一〇一一一〇二頁。 ︵30︶ ﹃全集﹄︵二︶七八一八○頁。 ︵31︶ ﹃半世物語﹄下巻、二二∼二四丁。 ︵32︶ 一行は七月二十八日七時頃、ニューヨーク駅に到着した。 ︵33︶ ただし、七月二十八日の日記に、﹁長谷川、松井、南部等の旅行中なることを聞く﹂とある。 ﹃全集﹄︵六︶三二頁。 ︵34︶ ﹁長谷川芳之助君﹂﹁一四三頁︵東亜同文平編﹃対支回顧録﹄下巻﹁列伝﹂、原書房、一九六八年、=四三−一一四四頁︶︵復刻原本11一九三   六年刊︶ ︵35︶ 前掲拙稿﹁伊庭貞剛の研究﹂二四−二五百今 ︵36︶ 唐澤、前掲書、一四八1一五〇頁。秦、前掲書、二︸四頁。松井はコロンビア大学鉱山学科に入り、化学を専攻した﹁理学部﹂組のひとりであ   る。 ︵37︶ ﹃全集﹄︵六︶七七四⋮七七七頁。 ︵38︶ 同書、三二頁。 ︵39︶ 富田鉄之助は仙台藩出身の外交官だが、のちに日銀総裁となる。秦、前掲書、一六二頁。 ︵40︶ ﹃上野理一伝﹄二九四頁。なお、織田純一郎については、前稿第三章︵注︶︵44︶を参照。 ︵41︶ 唐澤、前掲書、二二五−二三六頁。秦、前掲書、一八四頁。 ︵42︶ ﹃上野理一伝﹄三六一−三六二頁。

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︵43︶ 秦、前掲書、二三四頁。唐沢、.前掲書、一二〇頁。 ︵44︶ ﹃全集﹄︵六︶三二頁。 ︵45︶秦、前掲書、一四一頁。 ︵46︶拙稿﹁報徳会︵﹁︶﹂三−六頁、同﹁報徳会︵二︶﹂一〇五一︸〇六頁、同﹁報徳会︵三︶﹂七、二六、五四の各戸を参照。 ︵47︶ 安達竜作﹃工業教育の慈父手島精一伝﹄︵昭和三十七年︶四一一四二頁。 ︵48︶同書、四二頁の杉浦の証言を参照。 ︵49︶ 修養団運動については、拙稿﹁修養団と財閥経営者︵1︶﹂︵﹃京都学園大学論集﹄第十一巻第二号、昭和五十八年一月︶を参照。 ︵50︶ 黒木勇吉﹃秋月左都夫﹄︵昭和四十七年︶三六一四七頁、二=バー二二八頁っ ︵51︶ 前掲﹃対支回顧録﹄六九二i六九八頁。唐澤、前掲書、三四七頁。 ︵52︶藤本尚則﹃国師杉浦重剛先生﹄︵昭和三十年︶﹁○一一一〇二頁。︵なお同書を以下では﹃国師﹄と略記して用いる。︶ただし、秦、前掲書、︸   八頁及び一〇〇頁によると、浅田が通商局長になったの億明治十九年三月であり、小村が大審院詰から外務権少書記官に転進するのは明治十七年   六月である。なお、全集︵六︶の﹁年譜﹂では、明治十七年六月に小村を推挙、とある。また、杉浦と浅田は﹁同郷﹂とあるが、浅田は京都出身   である。 ︵53︶増便、前掲書、三五五頁。ただし、秦の前掲書によると、斎藤修一郎は明治八年七月にボストン大学法科に入り、同十一年六月にボストン大学   を卒業している。 ︵54︶ のちに三井の経営者となる中上川彦次郎はこの当時︵明治九年﹀ロンドンに滞在中で、周知の如く、杉浦とともにアメリカを経てイギリスに来   た井上馨とこのロンドンにおいて緊密な関係を形成した。三重出身の藤田四郎は外務省を経て、農商務省において働いた。都筑馨六は群馬高崎藩   出身。官僚として各界で働く。秦、前掲書、二〇〇頁、一五二頁。 ︵55︶ 栗原正と出淵勝次はともに外交官として働いた。同書、八七頁、九四頁、一五六−一五七頁。 四 留 学 生 活 ︵1︶ 純正化学の研究 前章では、本稿のパースペクティブにもとづいて、杉浦の﹁濫費日記﹂を分析した。この日記においてもっとも印象深 いのは、七月十一日のアラスカ船上で杉浦が﹁入船以来目撃する所の事々枚挙するに邊あらずと錐も第一に着早したる.洋        ︵1︶ 人の規則立ちたるに驚きたるなり﹂と記してい.ることである。       ヘ  ヘ  へ  杉浦はとくに西洋人に固有の時間概念に感銘をうけた。つまりホール︵国自≦鋤触傷]︾。鵠9躍︶らのいうM時聞︵ヨ。ぎ臼8巳。 江州系企業者と準拠集団︵二︶ 一五

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     江州系企業者と準拠集団︵二︶       一六    、 、 、︵2︶ 試BΦ︶の文化にインパクトを受けためである。        ︵3︶  杉浦が欧米人の﹁時間を単線的に把握し、時間厳守を尊重し、一時に一つのことだけを処理しようとする﹂生活態度に    ヘ  ヘ      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ       ヘ  ヘ  へ 大きく共鳴したのは、杉浦がこの渡英よりはるかに前からM時間の文化を進んで受容しうるような共鳴盤を形成するため、 の教育を受けてきたからにほかならない。たとえば﹁時間厳守﹂−と﹁規則正しい.生活﹂については、膳所藩校要義堂にお        る      ヘ ヘ ヘ ヘ へ いて徹底的に教育されている。もちろん上京してからのマージナルな先輩たちによる影響も大きい。たとえば井上良一。 杉浦は渡英直前の頃の教官について次のように述べている。  ﹁此の頃学生の気風を引き立てることに努力したのは、浜尾監事、山川監事︵健次郎氏︶今の東京帝国大学総長も与っ て力があるが、井上良一という法科の教授がその最たるものであった。此の人は子供の時から米国で教育を受け、日本人 にして始めて専門の講師となった入である。アメリカ育ちにも似ず、大の日本流で︵盛んに日本魂を説いて元気を鼓舞し    ハヨ  たものだ。﹂  おそらく杉浦は、この井上良一の如き人物を教育者のひとつの理念型として考えていたものと思われる。杉浦は、後述        ︵6︶       ︵7︶ するように、いわゆ、る﹁園部論者の頑迷にして事理に闇き﹂を嫌った。しかし、井上良一の如く、﹁日本主義﹂的にし、て        ま      ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヤ 世俗内禁欲主義的な人物は崇敬した。そしてM時間の文化を受容する態度も、こめような人物との相互作用により、・大き く培養されたものと考えられる。 さて・英国に渡・た杉浦は、先ずサイレンシス農学校に入り、無爵の研究に着手す範・と・うが明治九年+二月、 ヘ  ヘ  へ へ 純正化学の学習のために、マンチェスターのオーエンス・カレッドに転校した。それはイギリスの農業が牧蓄中心のもの であり、イギリスの農芸化学が日本の農業にさほど有効ではないと判断したからである。        ︵10︶  この農芸化学から純正化学への移行は杉浦の・その後のライフ・ヒストリーにとり決定的な意味を有した。ロスコーをは

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     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ じめとする重要な他者たちとの出会いがあったし、いわゆる﹁理学宗﹂の準拠枠が形成されるにいたったからである。        け   先ず、杉浦が純正化学の研究を決意したさいに、﹁まかり達へば帰国後小学校の教員になっても構はないといふ考﹂が あったということに注目しておきたい。周知の如く、貢進生のすべてが社会的階梯を登りつめたわけではなく、唐心も詳        ほ         ヘ ヤ ヘ      ヘ ヘ ヘ へ しく報告しているように、多くの逸脱者があった。その主体は退学者である。そしてこの逸脱者群には病気その他の理由 による退学者、学力不足のための脱走者、漏壷を犯したり、教場へ出ないための退学者、海外留学のための退学者、など       ︵13︶ が含まれているが、杉浦は以上にあげたカテゴリーのいずれにも属さない逸脱者である。       ヘ  ヘ  へ  杉浦は第二回文部留学生として、制度からなんら逸脱することなく、イギリスに留学したのである。この点では同調者 といえよう。ただし、英国留学後ではなくして、英国渡航直後に、純正化学を自分の意志で選んだということは、すぐれ  ヘ  ヘ  へ  る  ヘ  へ て逸脱的な行動といえよう。それは、杉浦自身が認めているように、﹁帰国後小学校の教員になる﹂という可能性を引き        む  受けることをも意味したからである。         ここでは、R・K・マートンの﹁個人的適応様式の類型論﹂が重要となる。杉浦は純正化学に転じたさい、﹁末は博士       へ  ぬ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ      ヘ ヘ ヘ へ も      ヘ へびヘ ヘ へ か大臣か﹂という、当時の貢進生の強い身分上昇意欲︵即ち、社会的成功というある種の文化的目標︶を切り捨てたのであっ ︵16︶ た。h切り捨て−た﹂というのが言い過ぎならば、社会的成功よりも研究そのものに高い価値を与えた、といってもよい。       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ もちろんこの傾向は、杉浦に固有の国益志向性により、大きく影響されていたのである。つまり、イギリスの農芸化学の 研究は日本の農業の発展にとりけっして有効ではない、という認識は、すぐれて国益志向的な態度から生まれたものであ る。        、 、 、 、 、 、 、 、 ㍉、 、 、  純正化学の選択は、後述する如く、重要な他者たちとの出会いを用意したが、結果的には、一時、杉浦をある種の挫折       ヘ  ヘ  ヘ  へ に導.いた。ヘンリー︵妻・国用Q︶め化学原理などの研究に必要な高等数学の修得のため.の過度の独学の結果、﹁強度の神      江州系企業者と準拠集団︵二︶      一七

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     江州系企業者と準拠集団︵二︶      一八        り  経衰弱﹂にかかり、−やむなく明治十三年に帰国せざるをえなくなる、と村田昇は記している。これは注目すべき指摘であ る。        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ  筆者は、この杉浦の高等数学修得にまつわるすぐれてマージナルな状況を、杉浦がこれと前後して創始しつつあった        、 、 、 、 、 、 、︵18︶ ﹁理学宗﹂なるものとの選択的親和関係のなかで、理解したい。杉浦が初めて遭遇したこの精神的挫折こそ、ロンドン時       ド  代の漱石の場合と同じように、ある種の﹁創造の逐い﹂を意味している。︵なお、漱石は今北洪川の高弟の釈宗演や釈話説との 関係においても、杉浦の愛弟子の菅虎雄との関係においても、後に詳しくとりあげられよう。︶  ここで詳しくとりあげる余裕はないが、﹁創造の病い﹂という概念は、﹁病い﹂と﹁創造性﹂︵本稿のパースペクティブに        ︵20︶       、、 、 、 、 、 、 、 、 、 おいてはこれを﹁革新性﹂とおきかえてもよい︶との関係を一元的に統合したものであり、革新者の伝記的研究においてきわめ       ハ  て大きな有効性を発揮するものと考えられる。なお本稿では、杉浦が留学中に創始した﹁理学宗﹂なるものが、すくなく とも杉浦自身のライフ・ヒストリーを内在的に分析しようとする立場からすれば、ある種の﹁創造性﹂ないし﹁革新性﹂ を付与するに価するものと考えられている。また、杉浦の本格的な﹁纏い﹂は明治三十五年から四十三年にかけてのもの   ︵22︶ である。それはそれで杉浦のライフ・ヒストリーにとっても、本稿のパースペクティブにおいても、大きな意味があるの で、別稿において詳しく分析されるであろう。

    ︵2︶ ﹁理学宗﹂

 英国留学について、のちに杉浦は次のように述べている。大正五年のことである。  ﹁留学は足かけ五年にすぎなかった。        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  で、自分の洋行して得た所はと聞かれると、別に何という程の事も無いが、今日も猶自分が唱へて居る理学宗という事       、 、 、 、       ︵23V を唱道した事と、今一つは、洋行しても飽まで日本主義を執って変らなかったという事であろうと自分は思う。﹂︵傍点、

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瀬岡︶  留学よりおよそ四十年後の述壊である。  杉浦にとり、﹁理学宗﹂と﹁日本主義﹂があたかもコインの表と裏の如きものであったことは明白であろう。       ︵24︶  この﹁理学宗﹂の内容については、多くの識者が説明しているので、ここではあえてとりあげない。村田昇は、理学を 重視した杉浦が物理の法則を人事にも応用し、そこから西欧のキリスト教にかわる日本の道徳主義ともいうべき﹁理学       ︵25︶ 宗﹂を提唱するに至った、と記している。       ヘ  ヘ      ヘ  へ  杉浦は洋学の真髄は﹁理学﹂にあると考えたが、その﹁理学﹂の基礎こそ数学そのものであった。杉浦にとり、数学に        ︵26︶ 基礎をおかないような﹁智識﹂はまったく無意味であった。  このような、当時の科学的基準からして、あまりにも厳格な方法意識は、杉浦がすでに一世紀も前に西洋の科学の本質        れ  をみごとに洞察していた﹁ことを如実に物語っている。        ヘ  ヘ  ヘ  へ  杉浦はイギリスでの純正化学の研究により、ある種の自己革新をとげた。のちに杉浦は、﹁化学をやり出してから、天    ヘ ヘ ヘ へ       二間にきたないものは一つも無いと思うようになった﹂︵傍点、原文︶と述べている。理学宗創始の背景にイギリスでの化 学研究があったことは明らかであろう。そしてこの時から始まった杉浦の﹁神経衰弱﹂は﹁自己革新﹂が産み出した副産       ゆ  物であった。なおこの﹁病い﹂について、頭山満は、﹁杉浦はからだが精神に負けた病気にかかっとる﹂と表現している。 それは、雲井龍雄の詩の放吟では脱出しえない﹁病い﹂﹁であった。  おそちくこの﹁誓い﹂は、杉浦がそのライフ・ヒストリーにおいて次々と﹁自己革新﹂ないしはh自己変革﹂をとげて       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ   も   へ ゆくための必須の条件であった。この﹁病い﹂がなければ、杉浦のマージナル・シチュエイションはけっして完成されな       ママ の  かったであろう。事実、杉浦自身がのちに向神経衰弱は専門で終始かかっとるんぢゃ﹂とさえ述べている。      江州系企業者と準拠集団︵二︶      一九

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     江州系企業者と準拠集団︵二︶      二〇       ヘ ヘ ヘ      ハ    この杉浦のことばは、あたかも﹁病気になる能力に欠ける人﹂を嘲笑しているかの如くである。杉浦の﹁神経衰弱﹂は、        ︵32︶      、 、 、 、 ﹁按摩の診察﹂によっても明確に認められるほどの身体的﹁兆候﹂を示していたといわれる。この点はいわゆるロゴファ 、 、       ︵33︶ ニーと照らし合わせて考えると興味深い。  杉浦が創始した﹁理学宗﹂には、明らかにある種の哲学的観念がみとめられる。それは杉浦が、﹁西洋文化を技術的な もの・慈用的なものに限定し、これをいわば直学的に摂取するのではなく、西洋学の本質を全内容的に全構造的に受容す        ︵34︶ ることによってのみ、正しい把握と継承と発展を可能ならしめる﹂と考えていたという村田昇の指摘からも十分に知るこ とができよう。なお、村田は以上の点に関連して、杉浦が応用面の効率性のみを短兵急に導入しようとするいわゆる実学        あ  的傾向を﹁濫費﹂であるとして、これを厳しく批判したことを高く評価する。したがって機会あるごとに杉浦が前面に押        ヘ  ヘ  ヘ     ヘ     ヘ  へ し出してくる﹁和魂﹂という形而上学的概念が、それなりの奥行きと幅と重みを有していたことは、みとめてよい。     ︵3︶ ﹁病  い﹂  エランベルジュの﹁創造の病い﹂説に言及した中井久夫は、エランベルジュが、この﹁創造の病い﹂を通過するために は﹁日常生活と仕事の継続﹂が重要であることと、さらにこの﹁異い﹂の状態を孤独で耐えとおすことは困難であること、       ︵36︶ を強調している。そこでクローズ・アップされねばならないのは、留学中の杉浦を支えた人々︵準拠集団︶、とくに河上謹 一や入江︵穂積︶陳重の存在であろう。本稿のパースペクティブでは、とくに河上が重要である。河上は日銀から住友に       、 、 、       ︵37︶ 転出し、江州系の財閥経営者伊庭貞剛の片腕として住友の近代化に大きく貢献するからである。  杉浦はイギリスで﹁神経衰弱﹂になり、ヘステイングスに転地療養した。この時、河上と入江が学校を休んで﹁付添看        ハ   護﹂にやってきた。  河上は杉浦を早くから知っていたが、杉浦の本質を知ったのはイギリス時代ではなかったか。のちに杉浦は、﹁イギリ

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スに居った頃河上が僕を評して..日げΦしUo冠Φ鴇田昌α良ヨ置①ωθoh国ニ三碧σ①言αq..と言った事があったが、僕の性質をよ          ︿表わしとる﹂と述べた。さらに、杉浦の教育志向をもっともよく見抜いていたのも河上であった。杉浦についてのちに、 ﹁本来数学者にならんとすれば、有数の数学大家になる資格を備へて居った。ケミカル・フィロソォフィの方面でも継        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヤ  ヘ  ヘ  カ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  う  ヘ  へ 着して研究すれば日本に於ける一二の大家たるを得たに相違はないが、素養が素養だから一片の科学専門家たるに甘んず  ヘ  ヘ  へ  ゐ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  へ  ゐ  へ  ぬ  う  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  ぬ  へ  あ へ る事が出来ないで、教育家になって全般に及ぼそうとした。若し彼が数学家、化学者となったら必らず大著述又は大発明        ︵40> を成したかも知れないが、教育家になった為、門下生は沢山出したけれども別に顕著なる事功は見へなかった﹂︵傍点、瀬       む  岡︶と述べた。イギリス留学中に杉浦が学者ないし研究者として理化学の領域において達成した業績は、けっして無視し うるほど小さいものではなかった。むしろ村田昇らは杉浦がヨーロッパにおいて達成した業績をきわめて高く評価してい ︵42︶ る。  ところが、杉浦は帰国すると研究を止めてしまう。これは要するに、河上が述べているように、杉浦に固有の﹁素養﹂ による。つまり、この﹁素養﹂が理化学という専門分野に安んじて、この領域内の研究にのみ知的関心︵ないし好奇心︶を 集中することで、その領域内での業績をコンスタントにあげてゆくという没意味的専門家がなさねばならない当然の作業 の進行を阻んだのであった。  それではこの﹁素養﹂とは何か。もちろんそれはそれまでの杉浦のライフ・ヒストリーそのものである。とくに、前        へ  ぬ  ヘ      ヘ  ヘ         へ 稿において詳述したように、高橋坦堂との出会いは杉浦の﹁素養﹂の基底ないし核を形成した。あるいはこれに、杉浦の        もね コ番古い記憶﹂︵母八重に背負はれて頼三樹三郎や梅田雲脚らが濫送されるのを目撃したこと︶が付け加えられようか。もちろん、        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 英国において入手した﹁神経衰弱﹂というもので代表されるマージナリティもけっして無関係ではなかろう。  心友河上謹一は以上のことをすべて洞察していたと考えられる。それほどかれらの連帯性は高いものであった。のちに      江州系企業者と準拠集団︵二︶       二一

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     江州系企業者と準拠集団︵二︶      二二       ︵44︶ 杉浦は、﹁独立独行などということが出来るものか、人はお互ひにたよりあって生活して行くのちゃ﹂と流言している。   、 、       ︵45︶        、 、 、 、 、  、 、 この言葉の背景には、おそらく、異国における河上や穂積との緊密な交流の記憶がある。かれらはマージナル・マンとし て肩を寄せ合って生きたのである。この記憶は、帰国後のかれらの生活にも大きな影響をおよぼしてゆく。       ︵46︶  岩国藩出身の河上謹一が法学修得を目的としてイギリスに渡ったのは明治十二年四月のことである。およそ三年も早く イギリスでの生活を始めた杉浦は、留学の先輩として、はじめのうちは河上の生活を指導する立場にあった。ところがま もなくその立場が逆転した。杉浦が﹁神経衰弱﹂となったからである。..↓げΦしdo嵐①曾きα6ぎ己Φωけoh団億BきしuΦ冒σq、、    ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ というラベリングはこのころのものであろう。  杉浦は、マージナル・マンの典型として、﹁距離と接近、無関与と関与とからかたちつくられる独特なもの﹂︵G・ジン ︵47︶ メル︶といいうる生活態度を示していた。あるいはそれを、R・ベンディックスのように、﹁引きこもりと参加との両面的        ︵48︶ 態度﹂または﹁コミットメントとディタッチメントの結合﹂といってもよかろう。河上は以上のことを、おそらく直感的 に洞察していた。そして杉浦の﹁神経衰弱﹂のある種の意味をみとめた。杉浦は自分たちの留学生を代表して﹁全い﹂に おちいっているのだ、という判断があったろう。       ︵49︶  いわゆる﹁神経衰弱﹂について革新的な意味を提起したのは、E・デュルケームであった。デュルケームは﹁神経衰弱 者﹂の社会的機能を詳述したあと、﹁個人にとって病的なものも、社会にとっては正常的であることができる。神経衰弱 は、個人生理学の見地からは、一つの病気である。しかし、神経衰弱者のいない社会とは、何であろうか。現にかれらは、       ︵50︶ ある社会的役割を演じているのである﹂と記している。         事実、杉浦や河上が生きていたこの状況は﹁神経衰弱者が最も大きい存在理由をもつ時﹂のものであったろう。  杉浦を中心とするマージナル・マンの集団は、ある種の知的革新と高い連帯性によって、デュルケームのいう﹁自殺﹂

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の状況から脱出した。この脱出は、かれらがいわゆる﹁利己主義﹂というものから遠く離れて生活していたこととけつし て無関係ではない。この点は後述する。     ︵4︶ 河上謹一・天田愚庵  河上謹一は明治十五年に英国留学より帰国し、農商務省に入る。その後、外交官となり上海やニューヨークの領事を経 て、外務省通商局長となった。日銀理事に就くのは明治三十年のことである。広瀬宰平と緊密な関係にあった川田小一郎  へ も       お  の引きによるといわれる。  のちに三菱財閥の経営者となる川田小一郎と住友の広瀬との関係は、明治元年に新政府が大阪の幕府銅座を封鎖すると ともに、薩摩藩に命じて住友の銅蔵を封鎖させ、川田が属する土佐藩に命じて別子銅山を接収させたとき以来のものであ        ︵53︶ る。広瀬は土佐兵のリーダー川田を徹夜で説得し、その結果肝胆相照らすにいたった、といわれる。詳細は別稿で論じた が、この一件により川田と広瀬の関係はきわめて緊密となり、川田が日銀総裁に就任したときには広瀬に日銀監事の要職 を引き受けさせたし、川田が三菱にコミットしたさいには広瀬を.三菱に引き入れようとさえしたといわれる。  広瀬と同じく江理系の財閥経営者でその後継者でもあった伊庭貞剛も、この川田を﹁誠意その労を辞せず﹂という点に       ︵54︶ おいてもっとも高く評価していた。       ヘ  へ  要するに河上謹一は、住友の広瀬や伊庭にもっとも信頼されていた川田小﹁郎の引きにより日銀に入ったのである。し        ︵55︶ かも河上の日銀入りを杉浦が支援した。江州人の広瀬・伊庭・杉浦の関係を考えると、のちの河上の住友入りはけっして 偶然ではなかろう。  なお、本稿のパースペクティブにおいて注目すべきは、河上が杉浦よりもかなり早くから、品川弥二郎を知っていたこ    ︵56︶ とである。杉浦は吉田松陰をカリスマ的に崇敬していたので、その弟子の品川を敬愛し、後述するように条約改正反対運      江州系企業者と準拠集国︵二︶      二三

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     江州系企業者と準拠集団︵二︶       二四       ︵57︶ 動その他で品川を良き相談相手としたし、家塾称好塾において﹁松下村塾の話﹂を品川にやらせたりした。        ヘ へ         この品川弥二郎は伊庭貞剛の三人の心友︵峨山.愚論.品川念仏庵︶のひとりでもある。要するに品川は、早くから杉浦、          ヘ  ミ 河上、伊庭の共通の心友であった。       お   峨山と伊庭の関係については夕蝉で詳述した。﹁十四会﹂の連中、とくに鈴木馬左也や河村善益︵小倉正恒の義父︶らの       ︵60︶       ︵61︶ 禅の師であった・天竜寺の滴水禅師の高弟峨山と愚庵とは、﹁法の兄弟にして川幅尤も温かなりき﹂といわれた。なお、川 田順は伊庭と愚母の関係について、﹁伊庭貞剛︵二代目の住友総理︶は天竜寺の峨山和尚に私淑したが、その関係から愚庵          ︵62︶ 和尚とも懇意であった。﹂と記し、愚庵が伊庭の息子六郎とも親密であったと述べている。        も  も  へ  も  も  杉浦重剛と愚庵との関係もおもしろい。杉浦はのちに﹁愚庵という和尚は、変った人物であった。あんな人物は今は一       ︵63︶       ︵64︶ 寸見当らないよ。﹂︵傍点、瀬岡︶と述べている。逸脱者愚庵の存在を杉浦が知ったのは、おそらく、陸錫南との関係によ       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ る。陸は﹃愚庵遺稿践﹄の中で﹁相銀︵愚庵︶は出家以前から交際も多く、社会に相当の勢力を有している者に手蔓があ       ︵65︶ つた。この手で峨山を助けたことは勘くあるまいと思う。﹂︵傍点、瀬岡︶と記している。  この﹁社会に相当の努力を有している者﹂のなかに、住友の広瀬や伊庭がいた。この江州系財閥経営者たちの天竜寺再        ︵66︶      ︵67︶ 建への協力は周知の事実である。堀浩良も、﹁この天竜寺の再建には天田旧庵が裏方として活躍したと思われる﹂と記し ている。       ︵68︶  伊庭貞剛の後継者鈴木馬左也に決定的な影響を与えた山岡鉄舟はこの愚庵天田五郎の青年期の準拠人として知られる。      、 、 、      ︵69︶       、 、 、 山岡はこの逸脱者を侠客山本長五郎︵清水次郎長︶に預けたことがある。晩年に杉浦は、﹁何といっても此の日本に義侠の 、 、       ︵70︶ 二字が無くなったら駄目ぢやね﹂と述べ、﹃里見八犬伝﹄を﹁侠客の教科書﹂として高く評価した。        ヘ  へ  杉浦は愚庵を詩僧釈鉄眼としてよりも次郎長の養子とみていたふしがある。杉浦は高島の﹁易﹂には深くコミットした

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