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妖怪学関係論文等 利用統計を見る

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妖怪学関係論文等

著者名(日)

井上 円了

雑誌名

井上円了選集

21

ページ

369-423

発行年

2001-05-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00004689/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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妖怪研究

妖怪学関係論文等  妖怪研究は余が数年来従事せるところなるが、近ごろ応用心理学を講述するに当たり、あわせて妖怪の解釈を 下し、ときどき実験をも施しけるに、事実の参考を要するものあれば、︹哲学館︺館外員諸君よりも事実の御報道       そうろう にあずかりたく、左に妖怪の性質と種類とを掲記いたし候。    洋の東西を論ぜず、世の古今を問わず、宇宙物心の諸象中、普通の道理をもって解釈すべからざるものあ   り。これを妖怪といい、あるいは不思議と称す。その妖怪、不思議とするものにまた、あまたの種類あり   し。現今、俗間に存するもの幾種あるを知らずといえども、しばらくこれを大別して二大種となす。すなわ   ち、その第 種は内界より生ずるもの、第二種は外界に現ずるもの、これなり。しかしてまた、内界より生   ずるものに二種ありて、他人の媒介を経てことさらに行うものと、自己の身心の上に自然に発するものの別   あり。ゆえに、余は妖怪の種類を分かちて、左の三種となさんとす。    第一種、すなわち外界に現ずるもの         こ り      てんぐ      幽霊、狐狸、犬神、天狗、鬼火、妖星、その他諸外界の妖怪    第二種、すなわち他人の媒介によりて行うもの      ふげき       すみいろ  ぼくぜい        きとう      巫蜆、神おろし、人相見、墨色、ト笠、予言、祈濤、察心、催眠、その他諸幻術    第三種、すなわち自己の身心の上に発するもの 369

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       てんきよう     夢、夜行、神知、偶合、再生、俗説、癩狂、その他諸精神病    このうち第一種の狐狸、犬神等は、第三種にも属すべし。  以上の種類に関する事実御報道にあずかりたく、追ってその解釈は﹁講義録﹂ に︹哲学館︺館外員講義相設け、講述いたすべく候。 中に掲載するか、あるいは特別 370 出典 ﹃哲学館講義録﹄第一期第三年級第五号、明治二一二︵一八九〇︶年二月一八日、一頁。

妖怪報告

 本館にて、心理講究のかたわら妖怪事実を捜索研究し、その結果を館員に報告し、また、その事実を館員より 通信せしむるについては、従来の通信中、妖怪、不思議にして解釈を付し難きものを掲載し、一は館員中事実報 告の参考となし、一は館員よりこれに対する意見を報知せしめ、妖怪研究の一助となさんとす。よって今後は、 ときどき妖怪事実を本誌に記載すべし。        とおとうみ  左の一事実は、明治十九年、余が手に入りたるものにして、静岡県遠州︹遠江の国︺某氏の報知なり︵本誌掲 載のことは本人に照会せざりしをもって、その姓名を挙げず︶。夢想の研究については、参考すべき必要の事実 なり。

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妖怪学関係論文等    ○霊魂は幽明の間に通ずるものか  予は祖先相つぎ、世々農をもって業とするものなり。父母存在し、一姉あり、さきに他に嫁し、一弟あ   よわい       かんが り、齢七歳にして没す。妻あり一男を産む、成長す。当時家族五人、予や明治十二年以降、某官衙に微官 を奉ず。しかして、明治十九年二月二十日、公務を担い、奉職の官衙を去る十里ほど、某官衙に至る。該地         ヤ れとき       こつち       ちようちん に滞留すること八日維時、その月二十八日夜、寝に就く。忽地にして妻、手に提灯を携え、某川のそばに ほうこう 彷復し、予に告げて曰く、﹁父、水没す﹂と。ともに驚然として覚む。とき夜半、なお再び寝眠するに、さ       じしんぎ らに水没の地名を呼ぶ。夢況また故のごとし。しかして夢破すれば、時辰儀まさに七時になんなんとす。起   かんそう      じやつき きて盟敵し終わり、うたた昨夢の現象を思う。しかれども、予や元来、夢想に感じ、空想を惹起するがご       ぼうちよう とき情感なく、ことに夢境は某川暴瀕せりと覚ゆれども、あたかも天晴朗、降雨の兆しもなし。かつ、は じめ家を去るとき、父平素にたがわず健康なれば、これを煙消霧散に付し、意思のかけらにもかけず。  その日も前日のごとく、某官衙に出務せり。とき三月一日なり。日課を終え、午後六時ごろ旅亭に帰り浴      ばんさん       か ひ 湯し、まさに晩餐を喫せんとす。旅亭の下脾、左側の障子を開き、手に電報を持ち、予に告げて曰く、﹁た       しゆつたい だ今、君へ電報到着せり﹂と。予、なにごとの出来せしやと疑いながらただちに披封すれば、なんぞはか       がくぜん     ゆうく らん、﹁父大病につき、ただちに帰宅せよ﹂と、親戚某より寄するところの電報なり。愕然、大いに憂催す。       きかく しかれども、公事を帯び罵客の身となる。ほしいままに帰省なしがたきをもって、某官衙に生が病気届けを     くつきよう       と 上呈し、堀強の車夫を呼び腕車に乗じ、ただちに旅亭を辞し、時刻を移さずして帰省し、父の病を訪わん        71      こうえん       さくがく      どう        3 とすれば、溢焉としてすでに逝き、また浮き世の人にあらず。もってひとたびは錯愕、もってひとたびは働

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こく 芙、情緒乱れて、またなすところを知らず。しかれども、事すでにここに至る、いかんともするあたわず。       72 よって、その卒去の情況を子細に尋問すれば、二月二十八日早朝、父、故人某のもとに訪問せんと、平素の 3       けつとう ごとく家を出発せしが、途次、某川のそばを通行し、あやまちて願倒し、堤脇壇上の杭頭に触れ、いたく前 額を打撲しきずつき、なお半身頭部の方を水面に没して絶倒したりと。       たそがれ  また、これよりさき父出発の際、家族に語りて曰く、﹁即日帰家すべし﹂と。しかして、黄昏帰家せざる をもって家僕を迎わせんとせしに、あいにく不在なるにより、妻、一脾をもって出迎えせしは、すでに夜七   ちようちん 時。提灯を携え東奔西馳し、父に会同せんことを企図すれども、途次さらに人影だもあることなし。よっ て、むなしく帰家し母に告ぐれば、父の故人某の近傍には二、三の親戚あれば、いずれにか宿泊せしならん と、ともに語れり。しかして、その遺骸を発見せしは、三月一日午後一時ごろなり。しかれども、この難に かかりしは、二十八日の帰路なりしか、はた三月一日の朝なりしか、その際いまだ判然せざりし。これをも って、父のさきに訪問せし某の家に人を走らせ、つまびらかにその情況を探知し、かつその途次、逐一審査 すれば、全く出発の即日帰路の変事にして、近傍途次にて現に父と面語せしものありと。よって、はじめて その事実を知了するを得たり。       のうじつ  ここにおいてか、予はさらに思う。嚢日の感夢、おおむね事実と適中するもののごとしと。これ、そもそ も予が疑団いよいよ凝結して、氷釈するあたわざるゆえんなり。それ、およそ夢は、つねに五官の交感、あ るいは往事追懐の起念等、種々の原因より結合して成るものなりといえども、かくのごとく詳細の事実に至 るまで、多分は符合すること、はなはだ怪しむにたえたり。しかりといえども、古来東洋の人、夢によりて

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妖怪学関係論文等        おつと      にんよう   禍福を知り、夢に神託を受け、婦妻の遠征の良人を追慕し、夢の情感によりて妊孕せし等、おおむね架空の   談柄たるに過ぎず。これ、自ら欺き人を欺き、夢を利用し、自らためにするところのものあり。それ、かく   のごときは、文明の世に生まれて、いやしくも学者たるものの、はなはだ取らざるところたるのみならず、   士君子の最もいさぎよしとせざるところなり。        ぼく    ゆえに予は、すべて夢をもって人事をトするに足るものなりと信ずるものにあらずといえども、ひそかに   信ず、霊魂は幽明の間に通ずるものなりと。しかれども、いかんせん心体のなにものたるを理会するにあら   ざれば、論理上考証となすべきものなきを。よって、事実を記しておおかたにただす。こいねがわくは、教   示をたまうことを得ば幸甚。       ○  前回に奇夢の事実を掲載せしが、今また奇夢の一事実を妖怪報知書類中に得たれば、ここに掲載すべし。この 報知の余が手もとに達したるは明治二十年十二月のことにして、北海道日高国、某氏の実際に経験せる事実な り。書中に記するところを見るに、同年十一月十九日夜、夢中に現見せる奇事なれば、ここに記載して読者の参 考となす。        じよう  ろうちゆう        てんてい    拝啓、小生は小鳥類を餌養し、籠中に運動し、余念なく時節につれて噂蹄するを見聞し、無上の快事と        そうろう        ぶいく       おうじゆん   いたしおり候。当時も四、五羽相集め、暇さいあればこれを撫育いたしおり候に、小鳥もまた押馴し、        ついば     きようがくいく      かご   食物を掌上に載せ出だせば、来たりてこれを啄み、少しも驚愕畏罹の風これなし。人慣れ、籠慣れとも申       73       3   すべきか。しかるに、今御報知及ぶべき次第は、右小鳥より生ぜし小生が奇夢に御座候。こは、かねて新聞

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広告にて、昨今御病気中、右ら妖怪御取り調べ相成る趣、承知いたし候につき、まことにつまらぬ一場の夢    そうら 記には候えども、万一御研究の御材料にも相成り候わば大幸と存じ、大略左に申し述べ候。元来、不文の 小生に候えば、しばしば文の支離錯雑の段は、御判読を願いたく候。    三更、人定まり、四隣寂として声なし。小鳥、小生の枕辺に来たり、小生に訴えて申すよう、﹁限界      そうくう       さえず      ついば   もなき蒼空を住家となし、自在に飛揚し、自在に鱒り、食を求めて啄み、時を得て鳴き、いまだ人間         ろうり  ちつきよ   の捕らえて、籠裏に蟄居せしむるがごときことあるを知らざりき。不幸ひとたび先生の網羅にかかり、   この籠裏に入りしより、食を得、飲を求むるにおいては労することなしといえども、かの空中自在の飛   揚に比すれば、その苦と歓とは果たしていかんそや。余や、この籠を居となす、すでに一年。その間、   先生により、つつがなきを得たり、多謝深謝。さりながら、事と物とはままならぬことのみ多き浮き世       かす   の悲しさ、今や余が一身は一魔物のために掠め去られ、ふたたび先生を見ることを得ず、先生また、余   を愛することあたわざらんとす。請う、先生よ、余を愛したる念情はこれを他鳥に移せ。しかれども、        し よく   余にもまた翅翼あり、なお飛揚の術を忘れず。魔物来たりて余を掠めんとせば、余は全力を飛逃に尽く       そうが   し、その爪牙を逃るることをつとむべし。万一この計のごとくなるを得ば、再び来たりて先生の愛鳥の       しようぜん      し        いん   列に加わらん﹂と言い終わりて、憎然として去る。しばらくありて、右の小鳥は噛辺および咽部に爪   牙の跡を得、血を垂れ、来たりて小生に向かい哀を請うがごとし。       なんじ      しつた    小生、大いに驚き、家内を呼び寄せ、﹁汝らの不注意より、事のここに至りしそ﹂と叱咤すれば、こ        そりつら   れぞ、この夜︵十一月十九日︶一場の夢にて候いし。かえって傍人にその寝語などを笑われ、再びそ 374

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妖怪学関係論文等   のまま寝に就き、翌朝、例により小鳥の食物など相与え、昨夜の夢など思い出し、笑いながらも食後他   出し、談話のついで前夜の夢を語り、一場の笑いを博し、午後三時ごろ帰宅すれば、なんぞ図らん、小        かご   生が最愛の、方言﹁のじこ﹂と称する小鳥は、すでに飛逃してあらず。籠もまた破れて、羽毛のその辺        そうろう   りに紛々たるを認め候。このとき、小生は前夜の夢想を考え合わせ、さても不思議なることもあるも   のかなとは思い候えども、多分猫などの所為なるべしと存じ、なお家族にもよく、小生不在中なりとも   注意すべき旨を申し聞けおき候。    ここにその翌日すなわち二十一日の朝も、例により小鳥の食物を与えおり候ところへ、さきに飛び去   りし小鳥は小生の面前に来たり、なんとなくしおしおいたしおり候につき、これはと思い、ただちに捕       くちばし     のど       きず   らえてこれを検すれば、 噛および咽辺などに爪牙にかけられし創を受け得て、その景状はすべて夢中          こう   にありし事柄と毫も異なることこれなし。誠に不思議千万の次第にこれあり候いしも、もとよりつまら       ばくげき   ぬ夢想のことゆえ、そのままにいたしおき候も、他人より右ようのことを話されなば、人さきに駁撃す   る小生ゆえ、なまじいに右ようのことを話し出し、かえって笑わるることと存じたるゆえに候。  右は夢想と事実と偶合せし事実にして、小生はもちろん友人などにも、奥深き学問上のことなど承知いた しおるものこれなし。ただ奇とか妙とか申しはなすに過ぎざることに御座候。幸い御研究の御材料にも相成       てんまつ るべきかと存じ、その顛末、前顕のごとく御報知及び候。なお右顛末につき御不審のかどもこれあり候わ ば、その点につきさらに御報知及ぶべく候間、御申し越しくだされたく、右までかくのごとく候。頓首。    明治二十年十二月二日      某 氏 報 知 375

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      0       76  夢は、前に経験せる種々の事柄が、いろいろに結合して想中に現ずるものなり。美濃国、山田某が明治二十年 3 十月二十九日郵送せる事実およびその説明は、この一例を示すものなれば、左に掲記して読者の参考となす。        せんせん    予、かつて夢む。盗︹人︺あり、戸を破りて入りきたり、秋水閃々、大いに目をいからし、予に向かいて曰   く、 ﹁金を渡せ、金を渡せ﹂と。予、たちどころに柳生流の秘密を施し、苦もなく盗︹人︺を一撃の下にくだ   し、ついにこれを殺したるが、ややありて盗︹人︺はさかさまに歩行し、股間に頭を生じ、予と懇親を結びた   り。覚めて後、深くこれを考うるに、その秋水の閃々たるは、前々日、古物商の買い出しに来たるあり。戸       きゆうそく   を破りたるは、前日ある家に遊びしに、その家の馬逸して、廠側の朽ち板を破りたるあり。﹁金を渡せ﹂と   は、過日、浮連節の座に木戸銭を受け取るあり、その浮連節に柳生流を演じたるより、ついにここに連想を   きたし、さかさまに歩行したるは、その日、ある所にて、越後なる倒竹の話をなしたるよりし、殺したるの   連想は、かつて死刑人を巨板に載せ、首をその股前に置きたるを、解剖室において見たるに結び、懇親をな   したるは、解剖の悪臭にたえず、帰りて友人と一杯を酌みたるを、かくは転じきたりたるなり。すべて夢   は、かくのごとく疑似、差異、係属等よりして、最下等なる想像世界をいわゆる夢中に浮かぶるものなれ   ば、夢によりて吉凶をきたすがごとき妄説は、あえて取るに足らずといえども、またよくこれを判断して、        ぼく   その人の心内に思うところを推し、もって将来をトすることを得べしというも、やや理なきにあらざるがご   とし。ここに諸家の説を請う。       ○

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妖怪学関係論文等  先回、奇夢の事実を掲記せるが、今ここに、感覚より生ずる夢の事実を報告せんとす。西洋の心理書に引用す る二、三の例を挙ぐるに、   ○ある貴人が一夕、兵隊となりたる夢を見、たまたま砲声の発するを聞きて驚きさむれば、そのとき隣室中    に、不意に発声せるものありて夢を引き起こし、かつ眠りを驚かせしなり。これ、耳感にありて夢を生ぜ    し一例なり。   ○ある人睡眠中に、その弟来たりて談話したることあり。しかるにその人、睡眠中にありながら、その談話    と寸分もたがわざる夢を結びたりという。これまた耳感の夢なり。        か   ○ある人睡眠中、ガスの気を嗅ぎて、化学実験室に入りたる夢を結びしという。これ、鼻感の夢なり。       てつびん   ○触感の夢には、その例はなはだ多し。例えば、湯を入れたる鉄瓶に足の触るるありて、火上を渡りし夢を    結び、冷水を入れたる鉄瓶に足の触るるありて、氷雪を踏みし夢を結ぶ等なり。       かくかく   ○また、視感によりて夢を結ぶことあり。ある人、夢に極楽に遊び、四面光明赫々たるを見、驚きさむれ       しよく         たきぎ    ば、炉中に薪の突然火を発するを見たり。また、ある人、夢に盗賊の室中に入りて、手に燭を取り物品    を探るを見、翌朝これをその母に語る。母曰く、﹁これ、わが前夜ろうそくを取りて室中に入り、物品を    探りしことの、夢に現ぜしならん﹂       つめ   ○また、ある人、ことさらに試験を施せしことあり。一夕、熟眠せる人の手足を爪にてひねりたるに、その    人は医者の手術を受けたる夢を見たり。また一夕、熟眠せる人の額に冷水の一滴を点じたるに、その人、    イタリア国にありて熱気のはなはだしきを感じ、ブドウ酒一杯を傾けたることを夢みたりという。 377

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  ○明治二十年、和歌山県、久保某氏より報知せる書中に、左の一事あり。久保氏自ら曰く、﹁一夕、夢中に    て余の傍らにある人、棒をふり回す。余、その棒の己が身体にあたるを恐れしに、やや久しくして、果た    して余の頭にあたれり。よって驚きさむれば、たまたま余の傍らに臥したる人が手を伸ばして、あやまり    て余の頭に触れたるなり﹂と。       ○  埼玉県、永井某氏より、夢の解釈につき報道せられたる一文は、参考の一助となるべきものなれば、その全文 をここに掲記す。        そりつろレつ    郵便をもって申し上げ候。しからば、﹃通信教授 心理学﹄第三号の付言に従い、はばかりながらちょ   っとのべんに、およそ人の睡眠するは、すなわち原語のスリープという。心理書によれば、その定義は、意        が   識を失うこと、すなわちわが我を失うなりと。また、ねむるという近き解釈は、神経にかかわることにて、   全身にはあらずといえり。しかして、ねむりし後、われわれの夢の起こる原因はなにものなりやというに、   夢は睡中のとき心が働くことにて、われわれにたびたびこの作用の起こることは、世人のすでに知るところ   なり。すなわち、彼のいまだかつて見聞せざる場所に遊び、その他奇人にあい、種々様々の夢の起こる原因       とうかん   は、余はことに不瞭解なれども、しかしこれを不瞭解なりと言いて等閑に付すは、日進の知識は決して得べ   からざるものと思われ申し候。それゆえ、ひとえに研究いたしたく志願の至りに御座候。よって、余のちょ   っと書物あるいは人に見聞したることを申さんに、夢の発作するありさまは、吾人もし硬き疎なるじ嘩上に 浸ね、もし−は麩撃・位置に臨したるときは、骨を傷つ・・もしくは鐘に遭うと夢み・消化せざる嘩 378

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妖怪学関係論文等  齢をなすときは、肥大なる黒熊来たり、わが唖.腺に当たりて、泰然として座したりと夢みたりと。また、       たん   ソクラテスの言わるるには、﹁人あり、その寝に就くに、数壕に熱湯を盛り脚冷を防ぎけるに、その夜、エ        はいかい   トナ山の噴火口辺りを俳徊したりと夢みし﹂と。そのエトナ山の観念を、足に熱を覚えたるによりて提起す   る原因は、これエトナ山の地も、寝ぬるとき足に感じたるごとき熱度にて、実際必ずその足に感ずべきとこ        せいかく   ろなるをもってなり。つぎに、わが睡中において不意に声音を聞き、われわれを醒覚する人あらば、われわ   れはその声を聞き、感覚の器一部のみ醒覚したるときは、おそらくは砲声となさん。よしや、そのとき砲声   なりと心に認識せざるも、必ずや現に発鳴せし音響より大なりと誤り知るなるべし。かくのごとくなるは、   余の考えにては、上の例にて音響の小なるを大砲のごとく大声なりと誤り聞こゆるは、あたかも水の高所よ   りひくき所に流るるを防ぎおき、その防ぎおきたる所を不意に押しきるときは、水の勢力は、防ぎおかざる   ときより一層強かるべし。しからば、さきに申せし音響の小さきを聴官に大きく聞こゆる音響も、やはり水   のごとく、はじめは勢力小さきも、これを重ぬるときは、大きくなりて聞こゆるなるべしと思わる。しか   し、この説は余の浅考にて、むろん理屈に当たらざるように見ゆるなり。しからば、貴堂の奇夢と申されし   は、上のごとき原因等より起こるならんか。もししからざれば、新聞にてちょっと承りしが、不思議研究会   にて御発言の節、御説明願いたく候なり。草々不備。          ○  左に、茨城県久慈郡下小川村、市毛雪氏より報知ありし奇夢事実ならびに解釈は、奇夢研究の参考となるべき ものなれば、その全文を掲ぐ。 379

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 客年十二月中のこととか、友人の家に雇い入れおきし男、夜中しきりにうなされ、いかにも困苦の様子な るにより、喚起しやらんずる途端に、﹁火事よ、火事よ﹂と呼ばわる声聞こえ大いに驚き、家内残らず起き 出でてその男をも起こししに、その男案外鷲.煕の様子にて、狸郷して起き出でたり。       てんよう  この者、元来同村の某家に雇われおりしを、近ごろ友人の家に転傭せしなりという。しかるに、その夜の       かわや 出火は、この男のもと雇われおりし家の厨より起これり。けだし、放火なりしとそ。幸いに、本屋へは延 焼せずに打ち消しぬ。ここに奇とすべきは、その男、その夜うなされおりしは、すなわち、もと雇われおり し家の厨に火が付きしを夢み、しきりに叫呼せしも声立たず、困難してもがきおりしといいしことなり。か くのごとき夢が、あやまたず事実に符合すとは奇の至りなりと。  小生、その由を解釈して曰く、﹁この男、元来某の家に雇われおりしならば、定めてその家のことにつき て種々心配しおりしならん。しかして、その夜おそらくは、﹁火事よ﹂の声のありしを、睡眠中かすかに聞 き得しならん。このとき、耳官はその用をなしおるも、他の諸機関はすべて熟睡のありさまにてあれば、こ こに心象は意志の管束もなければ、火事の声をかすかに聞くと同時に、この男が旧縁の家︵それは平生念頭 にかかりおりし︶と連合し、ついにかかる夢を結びしならん。その画より起こるを夢みしとは、おそらくは 夢中、確然と厨とは見えまじ、木小屋か物置きのようなる所より起こりしと見しならん。また時節柄、放火       け うが流行するとか、しめりなくして乾きおるとかにて、火の心配たえず心にかかりおれば、かかる夢は希有の ことにもあらざるべし。しからば、他の家に起こりし火事にても、この男がもし夢みたらんには、旧縁の家 と夢みるならん。不幸にその家と結び付きしは、おそらくは偶然のことならん。すなわち、某氏の家より火 380

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が起こりしことは、夢の的中というよりも、むしろ偶合として可ならん﹂と。 出典 ﹃哲学館講義録﹄第一期第三学年第七・八・九・一〇・一一・一六号、明治二三二八九〇︶年三 月八・一八・二八日、四月八・一八日、六月八日、巻末︹一ー四︺、︹一ー四︺、︹一ー二︺、一ー二、 一 二、一ー二頁。

妖怪学一斑

妖怪学関係論文等  私は七、八年前より妖怪のことを研究しておりまして、今日のところでは、いまだ十分に研究し尽くしたわけ ではありませんがその研究中であって、いろいろその事実を収集しております。果たしてこれが何年の後に成功 するか分かりませんが、どうぞしてこれだけの事実を集めた上で、一つの学科として研究したいという私の精神 であります。このことは、今日この教育社の記念会の席でお話しするのは、少し不適当かと思いましたが、しか し、学術上において研究する上には、教育に最も密接なる関係を有するものでありまするから、今日は、かく教 育に熱心なる諸君が御集会の席で、教育の点から、その一斑をお話しいたす考えでござります。︵謹聴︶  私がこれを研究し始めまして以来、諸方から続々、妖怪事実を御報道にあずかりまして、すでに今日まで集ま        捌 っておるのが五、六百ないし七、八百に達しておりまして、本箱の中は報道をもって充満しております。これは

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誠に私の望むところで、図らずもかくのごとく多くの事実が集まったのは、私にとっては誠に幸福と思っておる ことでござります。が、その報告を調べてみまするというと、私が考えておることと、ある部分においては実に よく一致しておりますが、また、ある部分においては、私の考えとどうも合っておらんと思うこともあります。 妖怪学のことについては、私が他日これを研究し尽くした後にお話しいたすつもりでありますから、今日までい ろいろ人から要求を受けたこともありましたけれども、いまだまとめて話したことはありません。よって、今日 も全体について話はいたしませぬけれども、これまでの報告と私の考えたこととが相違しておるところをお話し 申して、今後御報道にあずかるについて御注意を願います。  世間にては、妖怪と申すとその字から想像を下して、単におばけか幽霊のようなものに限るごとく考え、ある   ひき り いは狐狸の所為に関係した事実ばかりのように考えておりまする。それゆえに、これまで諸方から参るところの 御報道を調べてみまするというと、十中八九はこれらの事実のみで、いずれを見ても、みな似たり寄ったりのも       きようあい のであります。要するに、その区域が狭隆であるから同一の事実がたくさんありますが、その割合に実際これ を研究する材料に乏しいのは、遺憾の次第でござります。もとより、幽霊とかおばけとかいうものも妖怪の一部 分には相違ありませんが、今日世界の妖怪は、なかなかこのくらいなことにとどまりません。私は、これを総じ て研究いたしたいという考えであります。今日は妖怪学総体についてはお話しすることはできませんが、ただそ の一部分を取ってお話し申して、これらのことも妖怪であるから、もしこの事実について諸君が御記憶になった ならば、御報道を得たいと思います。それはなんであるかと申しますると、すなわち偶合論、また一つに偶中と も申します、偶然に暗合することであります。私は近来全国一周を企てまして、昨年十一月以来、各県下を旅行 382

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妖怪学関係論文等 いたしておりました。このごろちょっと帰京して参ったので、いずれ四、五日中には再びこの地を出立して、山 陰道諸県下を巡回いたすつもりでござります。それはほかに少し目的があるので、すなわち私の監督しておりま する哲学館拡張のために巡見することでござりますが、その傍らに妖怪に関する事実を集めたいと思っておりま す。もし、この席に山陰道のお方がおいでになれば、巡回の節、直接にその地の妖怪を御報道に及びたいと思い ます。  さて、この偶合論については、これを偶然と必然の二者に解釈をいたしておかねばなりません。偶然とはいか なることかと申すと、わけも道理も分からんが、かくかくのことがある、すなわち理由なくして起こるものを偶 然という、道理なくして起こるものを偶然という、原因なくして起こるものを偶然という。必然というのは、ぜ ひそうなければならんもので、すなわち立派な道理があって起こるもの、立派な原因があって起こるもの、立派 な理由があって起こるもの、これを必然という。すべて事の発生するには、必ず必然と偶然の二とおりありま す。すなわち立派な道理がない、よしあるとしても、われわれがこれを見いだし得ないときは、しばらくこれを 名づけて偶然という。必然は全くこれに反対したものである。私は偶然と必然の間になお一つの名目を設けてこ   がいぜん れを蓋然と申します。蓋然とは必然ほどではないが全く偶然でもなく、必然と偶然の間に存するもので、たとえ ば十分なる道理は見いだし得ざるも、その七、八分は分明になって、残りの二、三分の道理が分明ならざるとき は、これを名づけて蓋然というのであります。世間には蓋然に属する事実がたくさんあります。︵大喝采︶  まず、偶合なることを右の三者に分かちまするというと、必然と偶然とは果たして全く相異なるものであるか       83       3 というと、決してさようではありません。二者ともに関係を有しておるものである。今、いろいろな事実を集め

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てみまするというと、偶然に属すべきものであるか、はた必然に属すべきものであるか、判然しないものがあり ます。その場合において、一つの部を設けて、これを蓋然といわなければなりません。しかしながら、この三者 はその分界がいたって判然しておりません。そもそも原因あれば必ず結果あり、結果あれば原因ありということ は、哲学上および理学上における原則であって、この原則によって諸般のことを説明をなすのが、今日の学問で ある。ゆえに、もしここにこの原則に反するものがあるといたしたならば、これはそのままにしておいて、学術 外のものとして、今日の学術上より、必然の理を離れたものであるとしておかねばならん。すでに今日以前、す べて物は必然の理によって生ずるものであるとなしきたったものなれば、今後いろいろな新事実が現出するも、 これは必ず必然の理に基づいて生ずるものであるという想像を起こさねばなりません。今この妖怪のごときも、 全くしかるべき理由がなくして現れるもので、果たしてこれは偶然であるべきものか、あるいはその実必然であ るか、われわれがいまだその道理を見いだすことができないために、しばらくこれを偶然と名づけておくもので あるかというに、私はこれを必然であるとみなして、必然の道理をもって説明するつもりであります。果たして しからば、妖怪も一つの学科として研究しなければなるまいと思います。これ、今日私が妖怪学を研究する大体 の主意であります。  さて、この偶然に事物が相合するということについては、これを仮に偶合もしくは偶中と申します。今この偶 合を大別して、空間上の偶合と時間上の偶合の二種といたします。空間上の偶合というのは、ここにあった事柄 と遠くにあった事柄が相合することである。たとえば、私が遠国にある人のことを思うと、その思った念が先方 へ通ずることをいいます。すなわち、ここに一つの変化があって、同時に他の一つの変化がそれに合することを 384

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妖1茎学関係論文等 いうのである。自分の朋友がたしかに国元におるのに、突然目先にその姿が現出して、たちまち消えてしまっ た。不思議であると思ってたずねてみると、ちょうどその時刻に死亡したというごときは、その一例でありま す。時間上の偶合というのは、今言ったことが二、三日の後に至って合する、いわゆる予言者のごとき類であ        うんぬん る。何年の後に云云のことが起こるということを言うと、必ずそういうことがある、すなわち時間を経過して合 する、これを時間上の偶合という。この二つの事柄は、今日の学問上極めて困難なる問題であって、いまだなに びともこの二点に関して説明を与えた者がありません。また、果たしてこれが説明し得べきものであるかいなや ということも、疑点の存するところである。ゆえに、私はその理由を説明することはこれを後日に譲り、今日は ただその種類についてのみ申し上げようと思います。  今、まず偶然について、空間上の偶合と時間上の偶合を合して、その種類をお話し申します。前、申し述べま したとおり、今ここにあった事柄と、千里も二千里も遠くにあった事柄が合するということは、極めてめずらし きことであって、通常起こるのは、多く近い所にある。のみならず、ずいぶんこれらは説明ができることであり ます。まず、通常なにびとにも分かりやすいことから、お話をいたすつもりであります。︵謹聴︶  世間では、よく翌日の天気を今日予知するということを申します。実に不思議である、分かるわけがない、あ るいは分かるかも知れませんが、しかしわれわれの力では到底分かるわけに参りません。しかし、よく世の人が 天気を占うということを申しますが、これとても全くなんらの原因もなくして占うのでなく、多少の経験によっ        かさ てこれを知ることができるのでありましょう。たとえば、月が量をかぶれば雨であるとか、夕やけがすると天気       あんどん      なべずみ の前兆であるとか、あるいは行灯の灯心にちょうができれば天気の兆候であるとか、鍋墨に火が付けば晴天の兆 385

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しであるとかいうごとく、従来の経験上、多少基づくところがあって言うのである。また、﹃日用晴雨管窺﹄と       86 いう本の中に、晴雨を予知するところの歌が出ております。今、その二、三を挙げてみますると、      3       ひより     夢見るは雨と日和のふたつなり      かわらぬ時に見るはまれなり     鳥の声すみてかるきは日和なり      おもく濁るはあまけとそしれ  今度は少しきたないのですが、     小便のしげきは日和、飲水の      はらに保つを雨と知るへし     のみ  か     蚤や蚊の極めてしげく食ふならば      雨のあがりと雨気つくころ     香の火の何より早く立ちぬるは      雨のあがりと雨気つくころ     ね心の悪き夜ならば雨と知れ      さ      借ては盗人油断ばしすな  右の歌によって、天気の晴雨を知ることができる。また、俗に寒割ととなえて、寒中の三十日をもって一年に かたどり、それによって年内の天気を知ることができると申します。また、一年中の出来事を知る方法がありま

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妖怪学関係論文等       からす す。たとえば、雪は豊年の貢ぎととなえて、雪がたくさん降ればその年は豊年である、あるいは烏が木の梢に 巣を作るときは、その年は出水がある、また、木の根に巣を作るときは、その年は大風が起こる、すなわち烏が 風雨を知るという話があります。また、柳の繁殖する年は豊作である、蛍火のない年は秋の田の実りがいいとい うようなことを、通俗に申し伝えております。これらは、いわゆる前もって時間の上で予言をなすのであって、 その道理のごときも極めて見やすきものでありまするが、少しく高尚にわたって知れ難いのは、人間の吉凶禍福 を前知することであります。  これには第一、天文が関係を有しておる。天文と人事が関係を有することは、シナの歴史にたくさん見るとこ ろであって、これはいちいち申し上げるわけに参りませんが、﹃左伝﹄などを御覧になれば、お分かりになりま       かんじよ       おうもう しょう。私がここに書いて参りましたところを申しますると、﹃漢書﹄哀帝建平二年、王葬が漢室を奪ったとき  すいせい       とう に彗星が現出し、﹃後漢書﹄安帝永初二年正月、大白星昼現れたるは、郵氏盛んなりたる兆しなりといい、また       とうたく       しんようしゆう         しよかつりよう ﹃続漢書﹄に、彗星見えて董卓の乱ありといい、﹃晋陽秋﹄の書に、諸葛亮の卒時、赤き彗星ありという。わ        びだつ が朝においては、欽明天皇のとき、仏教が渡来して疫病が流行し、くだって敏達天皇の朝に至って、また疫病流 行し、嘉永年間、米国の軍艦が渡来して彗星が現れたということがあります。これは、ひとり和漢のみならず、 西洋においても多々ある話です。ローマのカエサルの死したとき、およびコンスタンティヌス大帝の死したると き、およびチャールズ五世の死したるときに彗星が現れ、またペルシアのゼルセスがギリシアを征服したると き、およびペロポネソスの戦争のとき、およびカエサルとポンペイウスの内乱のときにおいても、大いに疫病、       87       3 飢饅が流行し、英国にてクロムウェルの死したるとき、ならびにフランス大革命のときにおいても大嵐が起こ

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り、キリスト降誕のときは東方に当たって彗星が現れたというようなことは、たくさんあります。        ぼくぜい     88  つぎに今日、多く日本に行われておるものは、人の吉凶禍福を占うことであって、すなわちト笠、人相見の類 3 であります。また、九星と申して星を調べて占うものあり、あるいはまた、方角によってトするものがある。た とえば、なにがしはいかなる星であって、いかなる方角に当たるということを探りて、その人の未来のことを占 うものがある。その他、人相見のごときも、またよく人の未来を知るものである。また、あるいは骨相学と称し て、人の骨格を相してその運命いかんを知る方があり、あるいはまた、おみくじを引いて吉凶を知り、暦日を繰       がん って吉凶をトすることがあります。たとえば、何月何日は吉日に当たり、何月何日は凶日に当たるといい、願 じようじゆぴ 成就日、不成就日等のことを示したるごとき、あるいはその生まれたる年によって、その人の気風をトするこ        たつ       こうまい      とら       ね とがあります。たとえば、辰年に生まれたるものは剛遭の気性を有し、寅年に生まれたるものは腕力を有し、子 年に生まれたるものは臆病なりというごとき類は、世間にてよくいうことであります。  かくのごときことは、外国においても往々見るところであります。私がかつて英国の田舎におりましたとき に、ちょうど十二月のころであって、ある書店に暦を売却しおるを認め、一本をあがなってこれを見るに、その 中に翌年の天気および吉凶禍福を、子細に書き載せてありました。それから、かかる種類のものを集めてみる と、たくさんあります。田舎の暦はすべて、かかる事柄のみを記したるものである。しかして、その裏に前年の 適中した事実を挙げてあります。これはことごとく適中するわけには参りませんが、十中の七八までは、大抵あ たるということである。その中において私は、日本の磐梯山破裂の情況を書いてあるのを見いだしました。その 前年度の暦に、日本の方角に当たって大地震が起こるということを書き載せてあったところが、果たして磐梯山

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妖怪学関係論文等 が破裂をなしたということが、予言の適中した一証として、暦の裏に書いてありました。それから私が旅宿に帰 って、今日かくかくの奇妙なものを求めてきたということを告げますると、旅宿の主人が、﹁どうぞ、それを日        ぐまい 本国へ持ち帰ることはやめて下さい。かかる愚昧なことを書いたものが、わが英国にあったということが知れて は、わが国の恥辱であるから﹂といってしきりに止めますけれども、私は、﹁実は持ち帰る目的で買ったのであ る﹂といって断ったところが、大層迷惑そうな顔をしておりました。︵大笑︶  それから私はなお、これに類似したものを収集せんがため、その暦の発行所の番地を記し、その後ロンドンに 至りその家をたずねましたところが、極めて片隅の場所に小さな本屋がありまして、そこへ入って目録を見たと ころが、かかることに関係したことのみ、たくさんありました。それゆえに、図らずも多くの材料を得て、これ らの書類を買い入れて参りました。  今一つはマジナイの一種であります。これもずいぶんたくさん集めてありますが、今その一、二を挙げてみま すると、第一、血止めのマジナイ。これはなんの草でもよろしい、ある草を三品集めて、その草をもって天に向 かって合掌し、一首の歌を詠む。すなわち、﹁朝日が下の三葉草付けると止まる血が止まる﹂︵笑︶と言って、こ の草を取って出血する所に付け、都合三度この歌を詠むと、血が即座に止まると申します。また、他人の所へ行     ほ って犬に吠えつかれたときに、それを止めるマジナイがあります。すなわち、その犬に向かって唱え言をする        し  し と、犬が吠えるのをやめる。その唱え言に曰く、﹁われは虎、いかに鳴くとも犬は犬、獅子のはかみを恐れさら めや﹂︵笑︶       いぬ   い   ね   うし  とら  また、犬が吠えつくときに、犬伏せと申して、親指を犬と立て、これを伏して戌、亥、子、丑、寅と数えて、 389

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寅に当たる小指をもって戌︵すなわち親指︶を押すと、犬が吠えるのをやめると申します。また、歯の痛みを止       90 めるマジナイにはいろいろありますが、今その一つを挙げてみると、いかなるわけかよく分かりませんが、桃の 3        ようじ 枝の東方に向かっておるのを取って、これを楊子に削り、それをもって痛む歯に﹁南﹂という字を三度書いて歯        ぽんご に含まするときは、痛みが止まる。これにもまた唱え言がある。すなわち、梵語の言で﹁あびらうんけんそわ か﹂という語を唱えるのであります。また、目に物が入ったときは、おもしろいマジナイがあります。まず、目      な む あ み だぶつ を閉じて﹁南無阿弥陀仏﹂を三度唱えるのですが、全くこれを唱えきらずして﹁なむあみだぶ﹂までを唱えて、     後のつを口の中へのみ込んでしまう。そうするとなおると申します。︵大笑︶  しゃっくりをなおすマジナイは、舌の上に﹁水﹂という字を書いて、これをのませます。つぎに、ただ今では ありませんが、その昔よくあったことで、船待ちをしないマジナイというものがあります。それは、一首の歌を 詠み、﹁ゆらのとを渡る船人かちをたえ行方も知らぬ恋の道かな﹂といいて唱えます。        ふ ぐ       しようのう  つぎに、マジナイの一種で、食い合わせ法というものがあります。例えば、河豚にあたれば、樟脳の粉を湯        くしがき に溶解してこれをのみ、吐血をなせば、串柿を黒焼きにし、これを粉にしてのみ、あるいは、打咽には柿のへた       かに         しそう     すいか を紛にしてこれをのみ、耳に水が入れば、魚の目玉を黒焼きにしてのみ、蟹の毒にあたれば紫草を食し、西瓜に あたれば唐辛︹子︺を食し、火欄には渋を塗り、歯痛にはその歯に﹁南﹂という字を書くがごとき、その他﹁おこ       ぎやく り﹂といって、すなわち疸ととなえる病を療治する方法のごときも、いろいろありますが、従来日本の慣習と して、これを医師の手にゆだぬることをなさず、すべてマジナイのごとき法をもって、これを治することになっ ております。

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妖怪学関係論文等  これらは、ほぼその理由を推考することができまするが、少しく普通人の考えをもって解し難いと思うのは、        ぼく 人の吉凶禍福をトすることである。これは、一つには夢によってその運命いかんを知ると申します。しかしてこ の法は、ひとり人事に関する吉凶禍福のみならず、また、よくすべて未来に起こる事柄を、夢によってトし得る ということである。けだし、その理由に至りては一朝一夕に解し得べきことにてはありませんが、よく世間で、 夢に見たとおりのことが千里も二千里も隔たった遠方に起こったとか、あるいは、かつて夢みたことが今日現れ たるとかいうことを申し伝えております。私はこれらの事実も集めておりまするから、いずれ機会をまって後日 お話し申します。あるいはまた、夢でなく突然感ずることがあります。例えば、なにか気障りがしたと思うと、 それと同 の事実が起こったということも、しばしば聞くところであります。あるいは、突然目の前に人の姿が 見えたりすることがあって、よくそれを探索すると、ちょうどその時刻に当たって、なにかその人の身の上に事 が起こったということがあります。その一例を挙ぐれば、ここにいないところの兄弟が突然目に触れると、ちょ うどその時分に国元で、その兄弟が死亡したというようなことが、世上に間々あるところであります。  それで、私が諸君に対して妖怪の事実を御報道下さる際に、あわせて知らしていただきたいと思いまするの は、前申しましたごときマジナイ、食い合わせの類、例えば﹁おこり﹂のごとき、今日といえども日本の慣習と して、到底医師の力に及ばんものとして、これをいろいろマジナイをもって治しておりまするが、そういう事柄 について御記憶になっておることがあったならば、その方法等もあわせて御報道を願いたいのであります。その       く  さ 他、つまらんようなことですが、足にマメができたとか、あるいは頭に腫物ができたとかいうときには、俗に       訊 ﹁馬﹂という字を三つ書くとなおると申します。これらは、多少の理由があって起こったことであろうと思われ

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る。すなわち、足にマメができたときに﹁馬﹂の字を書くというのは、馬は豆を食するということに原因したも ので、また、頭に腫物のできたるときも、これと同理によって、馬は草を食うというところから起こったもので あろうと思われます。︵喝采︶  右のごとき事実を集めてこれを研究してみると、なるほどと悟るところがあります。しかし、いちいちこれを 説明するということは、一朝一夕にでき得べきことではありませんが、まずこれらは、まず偶然と必然の二者に 区別することができようと思います。すでにこれを区別し得るならば、偶然と必然なるものは、果たしてはじめ よりその区別が存するものであるか、あるいはその区別は元来存しておらないものであろうか、もし果たして区 別がないならば、すべてのことが偶然もしくは必然の一方に帰着しなければならん。しかるに、右のごとき事実 をあまた集めてみまするというと、その区別が判然と分かりません。中には、はじめは偶然であると思ったもの が、だんだん考えてみると必然であることを見いだすことがある。すなわち、偶然の必然たるゆえんは、あるた しかなる理由があり、ある立派なる原因があって起こったものであるということを発見することがあります。し からば、偶然なるものは全くなくして、単に必然のみであるかという疑点が、一つここに起こって参ります。も し、偶然と必然なるものが異なるものであるならば、その間に判然たる区画があるべきはずである。しかるに、 その区別が一定しない以上は、同一物の上に二個の区別の存すべき道理がない。必ず、いずれかその一方に帰着 しなければなりません。また、偶然といい偶中というものが、十が十ながらことごとく適中すれば実に奇態であ るが、よく調査を遂げてみると、その適中するものは極めてまれである。ことに偶中するものといえども、全く なんらの原因もなくしてあたるにはあらずして、多少基づくところがあってしかるわけである。たとい、いかに 392

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妖怪学関係論文等 巧妙なる予言者といえども、少しも事情の見るべきものなくして、よく予言するということはできません。ま た、人相を見るにしても、一応事情を質問し、もしくはその人の容貌を見て、はじめて分かるのであって、もし       ぼくぜい 他人に代理を命じて自己の身上を占わせようとなしたならば、いかにト牌巫に長ずる人といえども、これを知るこ とはできません。ゆえに、もしただちにある事柄が偶然に暗合し、想像ができるものであるならば、たとい事情 がなくとも知り得べきものであろうという疑いが起きてきます。  今、その事情の二、三を列挙してみますると、例えば、人の死する時刻をはかってみると、夜半以後に多いよ うである。また、天気の方から言ってみても、今日のごとき曇天もしくは雨天の日に多い。そのわけは、少しく 考えをめぐらしたならば、ただちに分かる話である。なぜ、人の死することが天気や時刻に関係を有しておるか と申すと、かかる天気や時刻というものは、病人にとってもっとも不適当なる時刻であり、かつもっとも不愉快 なる天気でありて、平素強健なる人といえども、自然気分が悪くなるくらいであるから、まして病み疲れたるも       からす のは、なおさら不快を増すに違いない。それで、多く人が死ぬのである。また、世間で烏や犬が人の死を前知 するということを申しますが、鳥や犬が人の死を知るべき理由はありません。しからば、なぜ烏や犬の鳴き声が 人の死に関係を有しておるかと申しますると、それはちょうど人の死するときに出あうのであって、彼らが鳴く のは、なにかほかにしかるべき理由があるのであります。例えば、鳥というものは天気の悪いとき、もしくは日 中でも曇天にて暗くなると鳴きます。人間もちょうどそういうときに、多く命を失うものである。また、今まで 晴朗であった天気が、にわかにかき曇ったというように、気候の上に変動をきたしたときには、多く病人は生命       把 を失うものである。ゆえに、烏は気候に鳴き、人はその気候に死するも、烏は人の死を知るものなりといって、

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ただちにこれを人に結ぶことはできない、なにかその間に一つの事情があることなるに、通俗の人はその事情を 見いだすことができないから、まず今日では、■が鳴くのと人間が死するのと出あうときには、これを称して偶 然であるといいます。  また、かのマジナイのごとき、食い合わせ法のごとき、いずれもそのもの自身が必ず人をなおす力があるので はなくして、そのものが人に信仰力を与えて、その信仰力によって平癒するのであります。また、かの人相見も しくは売卜者が、その人相を見てその吉凶禍福を予知するというごときものも、およそ人の思想と顔色とは関係 を有するものであるゆえに、なにか人の意想上に変化を生ずるときは、それがただちに顔色にあらわれる。もっ とも、人によって現れる度は違いましょうが、とにかく多少現れるには相違ありません。それゆえに、かの人相 見のごときものは、人の顔色を相して、その思想の変化を知るところの観察力に富んでおるものである。すなわ ち、素人のわれわれが見ては分かりませんけれども、彼らの目をもって見れば、その人の顔を見て、その心のい かんを知ることができるのであります。ゆえに、これらの人が予想すると、たいてい十中の八九は適中するので ある。また、世間ではよくめぐり合わせということを申します。すなわち、一つの不幸が重なると、しきりに不 幸が続き、また幸いがあると、むやみに幸福がつづきます。これにも多少理由があるのです。あまり不幸が続き ますと、ついには妄想を起こして、天罰のなすところにあらざるかと疑わしめ、幸福が打ち続くと、天帝の加護 に出ずるものにあらざるかと思わしめ、前者は不安の念を起こし、後者は安心の思いをなすに基づくものであ る。不安の思いをなして事を処するから、自分は十分に思考をめぐらしたつもりでも、ほかよりこれを見れば、 往々その考えが間違っております。ゆえに、いったん不幸をこうむったものは、失敗を重ぬることが多い。これ 394

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妖怪学関係論文等 に反して、幸福を受くるものは、心がたしかになる。心がたしかになるから、すべて事物を判断する上について も、その目的、方法をあやまることが少ない。ゆえに、たとい商業をなすにしても、一度利益を得ると引き続い       ひつきよう て仕合わせよくなるというのは、畢寛、安心をなして、心の判断がたしかになるからである。これに反して、 何度商業をなしても失敗に終わるというのは、畢寛、心に弱味があるからである。それゆえに、俗にいわゆるめ ぐり合わせには、かかる事情が加わっておるから、これを差し引きしなければなりません。︵喝采︶  その他、夢の中で見たことが事実起こったり、あるいは気障りがしたと思うとそれがある事実と暗合をなし、 あるいは夢中で未来に起こることを見たというごときことは、いまだ私が取り調べ中でござりまするから、いず れ調べ上げた後に、ゆっくり御報道いたしたいと思います。今日は時間がありませんから、それらの点は申し上 げません。ただ今申し上げましたごとく、時間上の偶合と空間上の偶合は、学問上研究しなければならんことで ありまして、これは果たして必然の理があって起こるもので、全く偶合ではないとしてこれを研究するのは、実 に学術の力である。しかし、今日は学術が進歩してきたとは申しながら、その範囲が極めて狭小にして、妖怪の ごときは多少心理学において研究しておったけれども、いまだ一科の学問とはなりません。畢寛、学者が多忙に して、実際、手を下すひまもなかったのであります。しかるに、私は心理学を研究する間に、このことを思い出 したのでありまして、心理学なるものは今日立派な一科の学問であるが、ひとり妖怪のことに至りては、一般に 世人が、ただこれは鬼神の所為である、偶然に出ずるものであるとなし、全くこれを道理の外において顧みるも のがないようであるが、果たしてこれは道理の外に存するものであるかどうかということに疑いを起こし、従来 95       3 道理の外に存しておったものが、漸次学術の進歩に従ってだんだんこれを研究し、今日はすでにこれを道理の中

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に加えて、 科の学問となりたるもの多々あるをもってこれを見れば、この妖怪のごときもまた、十分に研究を 尽くしたならば、必ず一つの学科となすことができるであろうと思います。︵喝采︶  ひつきよう  畢寛、今日その道理を発見することができんというのは、全くわれわれが十分これを研究しないからであり ましょう。それゆえに、まず自分よりこれを試みんと欲し、七、八年前よりその事実を集めておりましたが、そ ればかりを専門にいたしておるわけでもありませんから、今日までに思うように研究が進みません。また、実際 そのことに当たってみると、いろいろな差し障りができて、なにぶん急速にはできません。しかし、いつかは必 ずこのことを果たしたい存念でござります。かかる次第でありますから、どうか諸君方よりも、なるべく確実な る事実の御報道にあずかりたいと思います。私も地方を巡回するについては、実際その地方地方について研究い たす考えでござりますが、諸君方の御報道と、私が見聞したところと、双方相まって研究いたしたならば、大い に研究を助くることであろうと思います。それらのことについては、ずいぶん教育上に及ぼす影響も少なからざ ることでございまするから、後日再び諸君の御集会の席へまかり出て、お話し申そうと思います。︵大喝采︶ 396 出典 ﹃教育報知﹄第二七一号、明治二四︵一八九一︶年七月四日、二ー七頁、尾張捨吉郎速記。

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甲州郡内妖怪事件取り調べ報告

妖怪学関係論文等  一昨日、哲学館において井上円了氏の演ぜし妖怪取り調べ報告の大要を聞くに、左のごとし。  昨年十一月中旬より、山梨県北都留郡︵すなわち、いわゆる郡内︶大目村、杉本永山氏の宅に一大怪事現出 す。今、その怪事の概略を記さんに、その本体は形もなく影もなく、目もって見るべからず、手もって触るるべ からざるをもって、なにものの所為たるを知るべからざれども、空中に]種奇怪の声ありて、明らかにこれを聴       いん くことを得べし。しかして、その声はあたかも人の口笛のごとき響きにて、よく五音をいい分け、人と問答会話 するをもって、なんぴとにてもこの怪声に対し問いを発せば、いちいちその答えを得という。この声、最初の間 は夜分のみ聞こえしが、後には昼夜を分かたず聞こゆるに至りしかば、このこと、いつしか近村の 大評判とな       きびす り、人々みなこれを奇怪とし、実際にこれを聴かんと欲して、その家に争い集まる者、前後踵を接し、一時は 門の内外、人をもってうずむるほどなりき。かくて、この群衆のうちより、だれにても問いを発する者あるとき は、怪声のこれに応じて答うること、すこぶる明瞭にして、なんぴとにもみな聞こえ、ただにその声の発源と思 わるる所より四、五間の距離において、明らかに聴き取られしのみならず、隣家まで聞こゆるほどにて、その状 あたかも人が談話するに異ならず。ただ、その人の言語と相同じからざるは、その音調が口笛のごとく聞こゆる 点のみ。されば、これを聴ける群衆は、いかにもしてその声の発源を知らんと欲し、種々の方法をもって、その       97       3 位置、方向を指定せんと試みたれども、あるいは家の内にあるがごとく、また外にあるがごとく、あるいは上に

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聞こえ、また下に聞こえ、右に聞こゆるかと思えば、また左に聞こえ、人々おのおのその聴くところの位置を異       98 にし、ついにその目的を達することあたわざりき。かつ、この怪声はひとりその音調の奇怪なるのみならず、 3 種々の怪事これに伴って現出するあり。  今、仮にその怪事を、言語上に現ずるものと、行為の上に現ずるものとの二種に分かちてこれを略陳せんに、 まず言語の上においては、第一に、その口笛のごとき怪声が、よく人の年齢をいい当つることなり。例えば、な んぴとにてもその怪声に対し、わが年齢はいくばくそと問わんに、あやまたずその数を告ぐるがごとし。これ、 あに怪事にあらずや。第二に、その声が他所もしくは他家に起こりし出来事を察知して人に告ぐることあり。例 えば、某家に今かくかくのことありと告ぐるとき、その家に至りて問い合わすに、果たしてそのことありとい う。これ、あに奇怪にあらずや。第三に、その声、よく他人の心中を洞察し、これを言い当つるに、あやまちな しという。これまた、奇怪といわざるべからず。第四に、その声、よく他人の一身上もしくは一家の上に、まさ に来たらんとする吉凶禍福を予言すという。これまた、奇怪といわざるべからず。第五に、その声、よく他人の 疾病に特効ある奇薬を指示す。実に奇怪千万というべし。これを要するに、以上の事実によりて考うるに、その 怪物には予言、察心の力あること明らかなり。       はたいと  つぎに、行為の上において第一の怪事というべきは、あるときその家の一室に掛けたりし機糸が、いつの間に か、みごとに断ちきられたることこれなり。第二は、あるとき人の機を織りてありしに、なにこともなくしてそ        か の機糸が一時に断ちきられしことこれなり。第三は、あるとき機糸の枠に巻きてありしを、あたかも歯にて噛み 切りたるがごとくに、切りみだしたりしことあり。かく機糸を断たれしことは、一回のみにあらず数回ありしか

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妖怪学関係論文等       いきりよう ど、だれもかつてその形体を見しことなく、あたかも無形的死霊あるいは生霊のごときものありて、暗中にな すもののごとし。ただし、その怪声が予言もしくは察心をなすは、別に大いなる害とも見えざれど、その毎度機 糸を断たるるに至りては、たちまち多少の損失を受くるをもって、一家最もこの怪事に困却せりという。これ、 郡内におこりし妖怪事件の大略なるが、これを約言せば、この怪事は形体なき無形の怪物が、空中に口笛のごと き怪声を発し、かつ種々の怪事を営むものにほかならず。もし、このこと果たして真実ならば、実に奇々怪々、 不可思議千万といわざるべからず。  この一大怪事を研究せんには、まず第一に、その地方の者が、この怪事につきていかなる想像を有しおるかを 知るを要す。これをもって、予は諸人のいうところを集めしに、およそ左の諸説に過ぎず。すなわちある者は、       ヤ   り 従来久しくその家に養われおる女子︵年齢十八、九歳︶に、狐狸もしくは蛇の類が付して、かくのごとき怪事を なさしむるならんと想像せり。また、ある者はいえらく、かつてその女に通じおる男子ありて、その男子の平素         きつね      つ 信仰せるところの狐が、かかる所業をなすものならんと。また、あるいはその女子をもって、ただちに狐懸き       き とう 患者もしくは魔婦のごとくに考うる者もあり。しかのみならず、その地方において方術もしくは祈縞を専務とせ        たぬき る者さえ、またこれを狐葱き、狸葱き、もしくは蛇逓きの類ならんといえりとそ。これらの説、互いに多少の        ひようふ 相違あれども、帰するところは、その女子になにものかが葱付して、この怪事をなさしむるものというにほか ならず。されば、その戸・王杉本氏もやはり、しか信ぜしなり。しかるに、ある二、三の人は、これをもって狐狸 等の逓付にあらずとなし、全く女子自ら故意にこの怪事をなすものと信ぜり。しからばすなわち、この怪事に関 して該地方の人がいだける想像説には、逓付説と故意説との二種ありといいて可なり。また、局外者の評すると 399

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