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ラムリムチェンモ(止の章)の和訳(二)

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本稿は﹁仏教学セミナー﹄第四十七号︵一九八八年五月︶ に掲載されたヅルティム・ケサン氏による同名の和訳に続く ものである。氏の訳された序論に当たる箇所と、筆者がここ に和訳しようとする本論に相当する箇所の内容の目次を、著 者ツォンカパのシノブシスに従って以下に掲示しておくこと とする。 六 天 四 三 二 一

序論

止と観とを修習することの功徳 全ての三昧は止観に含まれる 止と観との本質 止と観との両方を修習しなければならない理由 修習の順序が決まっていることについて 個々の学習法

ラムリムチェンモー止の章︶の和訳︹︺

本論

第一章止の資糧に依る筆へきこと 第二章止の資糧に基づいて止を修習する仕方 第一節珈坐における身体の姿勢 第二節修習の順序 一、過失のない三昧を生じる方法 日心を所縁に固定する前に行うべきこと 。心を所縁に固定する時に行うべきこと ①明蜥な心を安住させる根拠としての所縁を決定 すること

凶所縁の概説

⑧所縁自体の説明 ⑥どういう人が如何なる事物を所縁とす。へき

⑥所縁の同義語

⑧その場合その場合の所縁を確認すること 、 −0J /

谷信千代

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第一章止の資糧に依るべきこと ︹上記の三つの内︺第一は、琉伽行者は先ず最初に、 容易に且つ速やかに止を成し遂げるようになるための因 である止の資糧に依拠しなければならないということで ある。それには︹以下のような︺六つ︹の資糧︺がある。 ①適した場所に住するということ。つまり、五つの利 点を備えた場所であること。即ち、食物や衣服弓西団︾ “︶などが大した苦労なく得られるという点での得易さと いうこと︵易於獲得︶と、猛獣などの生き物や敵対する ものなどが住んでいないという点で住所が善いというこ と︵処所賢善︶と、疾病を生じない土地であるが故に土 地が善いということ︵地土賢善︶と、戒と思想︵見︶と を同じくする友が備わっているという点で友が善いとい うこと︵伴友賢善︶と、昼は人が多くおらず夜は静かで 第一︹の止の学習法に関して︺は三つ︹の説明すべき 事柄︺がある。止の資糧に依るべきことと、それに基づ いて止を修習する仕方と、修習したことによって止が完 成する基準とである。

︹本論︺

あるという点で善いことを備えているということ︵具善 妙相︶とである。 ① ﹃荘厳経論﹄にも﹁賢者が行ずる場所は、善く得られ、 住所が善く、土地が善く、友が善く、琉伽が善いという 利点を備えている﹂と説かれている。 ②少欲。衣服など佳いものや多くのものを過度に執着 しないことである。 ③知足。衣服など粗末なものを得るだけで常に足るを 知ることである。 側多事を排すること。商売などの︹修行にとって︺善 くない行いや、在家者と出家者の過度な交わりや、医療 や占星︵属画縄ゞ四︶などを放棄することである。 ⑤清浄戒。別解脱律儀と菩薩律儀の両方において性罪 ︵その事自体が罪であるもの︶と遮罪︵罪を引き起こす 可能性があるために禁止されているもの︶とに関する学 処を破壊しないことである。もし放逸の故に︹学処を︺ 破る時には、速やかに悔いることによって法に順じて繊 悔する。 ⑥欲などの分別の放棄。欲に対して、殺害や繩縛など の現世でのS,浅巳災いを所縁とし、また悪趣に行く ことなどの来世での災いを所縁として修習したり、或は 21

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輪廻の事物は好ましいものも好ましくないものも全て減 する弓.農鍔騨︶性質があり、無常である。必ずそれら 全てと自分とは遠からずして離れていくのに、自分はど うしてそれに強く執着などしようかと︹考えて︺修習す る時、欲の分別は全て放棄されるのである。 ② 以上﹃修習次第Ⅱ﹄の意図に従って解説した。詳しく ③ は﹃声聞地﹄によって理解されたい。このような六種の 事柄は、優れた三味が新たに生じ、生じ終わって退する ことなく住し、そして益々増大するための因縁の要点と なるものをまとめたものである。特に清浄戒と、欲に対 して災いを所縁として観ずることと、適した場所に住す ることとが中心である。︹アテイーシャの第一の弟子で ある︺ゲシェトン・︿︵ゞ呼○日里op5息]盲︾竃ごロ邑智秒の] 己EIS屋︶は﹁我々は教え︵教誠、眉邑の曾︶︹の良くな かったこと︺だけが︹止を完成することができなかった ことの︺原因であると︹ともすれば︺考えるものである。 ︹優れた︺教えのみを求めて三昧を生じることを願わな い。そのような︹間違った考えは︺資糧に住しないこと が原因となっているのである﹂と述べている。資糧とは 前記の六つ︹の事柄︺などのことである。また︹六波羅 蜜の︺初めの四︹波羅蜜︺︵丙.患い巳は第五番目の静 盧︹波羅蜜︺の資糧となる。

④⑤

﹃修習次第I﹄には﹁財産などに対する欲望を顧みず 戒に善く住し、苦などを忍受する性質の者となり、精進 する時、止は速やかに完成する。故に﹃解深密経﹄など の中にも〃布施など︹の六種の波羅蜜︺は次々に後のも のの因となる″と説かれている﹂と述べられている。 ⑥ ﹃菩提道灯論﹄には﹁止のための支分が破壊されておれ ば、如何に精進して数千年を経ようとも、弓.蹟吟閣︶三 昧は完成しないであろう﹂と説かれる。従って真に止観 の三昧を成し遂げよう︵画虜eと思う者は、止のための ⑦ 支分、或は資糧、つまり﹃声聞地﹄に説かれる十三︹の 資糧︺などに努めることが極めて重要である。 第二章止の資糧に基づいて止を修習する仕方 それ︵資糧︶に基づいて止を修習する仕方には、加行 ︵止を修習するための準備︶と正行︵止の実践︶との二 つがある。 前者においては、前記の加行の六法︹を修習しなけれ ばならないが︺、特に菩提心を長く修習しなければなら ないし、その︵菩提心の︶ための支分として下品と中品の ⑧ 有情に共通の所縁となる物事を修習しなければならない。 22

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第一節珈坐における身体の姿勢 ⑨ 前者に関しては﹃修習次第Ⅱ、Ⅲ﹄に説かれているよ うに、極めて滑らかで安楽な座に、身体の姿勢が八法を 備えるようにする。その際、足は毘盧遮那仏の肋坐のよ うに全珈坐であっても或は半伽坐︵属出謁﹄四︶であって もよい。眼は極端に開けたり閉じたりしないで鼻端に向 ける。身体は反らし過ぎず屈み過ぎず真っすぐに保って 念を内に定めて座るべきである。肩は真っすぐに平衡に 保つ。頭は挙げ過ぎず下げ過ぎず一方に傾かないように 保ち、鼻から腰に至るまで真っすぐになるようにする。 歯と唇は自然な状態にする。舌は上歯に近づける。息は 出入に際して、弓も農ご音がしたり、激しかったり、 乱れたりすることなく、出入りが知覚されないほどゆっ くりと且つ何も努力しないで行われなければならない。 ⑩ ︲﹃声聞地﹄には、仏が認められた肱や座や草の敷物の 上に珈坐を組んで座することには五つの理由があること が説かれている。つまり⑩[珈坐を組むことによっ‘て︺ 後者に関しては、身体をどのような姿勢に保って行ず るかということ︹の説明︺と、修習の順序そのものの説 明との二つ︹の説明が必要︺である。

第二節修習の順序

修習の順序の説明に関しては、殆どの道次第︹の典 ⑪ 籍︺においては、﹃中辺分別論﹄に説かれる五種の罪を 断ずるための八つの行︵八断行︶によって止を達成する ことが説かれている。ゲシェ・ラクソルパ。e鴨9房の ある。 理由を考慮して珈坐を組んで坐することが説かれるので 認められ依るべきものとされている。このような五つの 念を生じる。⑥この姿勢は仏と仏の弟子たちによって の姿勢で坐しているのを他の人が見ると、極めて信頼の 姿勢は外道や別の思想家と共通のものではない。側こ その身体は甚だしく疲れるということがない。③この とによって長時間を過ごすことができ、この姿勢の故に ば︺速やかに軽安が生ずる。②︹伽坐を組んで︺坐るこ 安が生ずることに順ずるものであるから︹それを行え 身体がほどよく緊張し、この姿勢︵威儀︶は︵国溢ご軽 身体を真っすぐに保つということは、惜沈や睡眠を生 じないようにするために説かれているのである。このよ うに先ず最初に身体の八種の姿勢、取り分け呼吸の調整 ︵属.賠興gを指示通りに行わなければならない。 23

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層mmo時鷺︶から伝承された教え︵教誠︶によれば、こ ⑫ の上に更に﹃声聞地﹄に説かれる六種の力と四種の作意 と九種の心によって︹止を︺達成しなければならないこ とが説かれる。 更に賢者ヨンテンタク白。p冨冨唱侭m︶は﹁九種類の 心を安住させるための方便が四種の作意に含まれること や、︵詞鵠、︺餌︶六種の罪やその対治である八つの行が全 ての三昧の方便であるということに関しては、多くの経 典や﹃荘厳経論﹄や﹃中辺分別論﹄や聖者無着の﹃琉伽 論﹄や中観の三つの﹃修習次第﹄など靜慮の方便を説く 全てのものに同じように説かれている。最初に三昧の資 糧に依って住して、これらの方便を以て行ずるならば、 必ず三昧を体得するであろう。しかし今日では、静盧に 関する甚だ深遠なる教えとして世間でよく知られている もの︹例えばニンマ派の典籍のようなもの︺においてさ えも、これらの方便は名前さえ見掛けなくなっている。 三昧のための資糧宙.浅巴を備えず、これらの方便なし には、いかに長く努力しようとも、三昧が達成されるとは ︹古師たちは︺言われていない﹂というように自己の道次 第を述需へている。これは多くの偉大な典籍における三昧 の達成の仕方をよく了解した人の言葉であると思われる。 三乗の道次第のための一般的な指導法を、聖者無着は ﹃琉伽論﹄の中に詳しく述べているが、実践に関して説 く典籍としてはそれが極めて詳しいものである。また ︵園.患躁騨︶一つの典籍で詳しく説明した場合には、他 の典籍では詳細に述べないものである。そして止と観と ⑬ の二つは﹃摂決択分﹄中に﹁﹃声聞地﹄によって理解す べきである﹂と説かれているから、﹃声聞地﹄が非常に 詳しいのである。 尊者弥勒も﹃荘厳経論﹄や﹃中辺分別論﹄において、 心住のための九種の方便と八種の断行を述べている。そ してそれらに従って軌範師ハリバドラ︵国目目且3︾評︶ やカマラシーラ︵周四目巴煙倒置︾幹︶やシャーンテイ。︿︵同④︲ 目牌閏鼠目武.旨。︶などのインドの学者たちも三昧を達成 する弓画訊.ごための多くの道次第︹の典籍︺を著し

⑭⑮⑯⑰

ている。仏像や明点や文字などを所縁とする場合の所縁 が異なることを除けば、三味の一般的な構造は、それら の過去の偉大な典籍に説かれていることとタントラに説 かれることは極めてよく一致する。特に三昧の五種の罪 などの過失とそれらの除去の仕方に関して言えば、顕教 ⑱‘:︲; の方が詳し︹く述べている︺と思われる。しかし偉大な る典籍に基づいて実践することのできる人は、昼間の星 24

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座のように︹全く目にとまらない程稀にしか︺現れない。 故に自分の智慧の過ちという垢を、それらの典籍のせい にして、それらは外面的な見識を開いて見せるだけであ って、中心の意味を説く教え︵教誠︶は別にあると妄執 して、それらの中に説かれる三味を達成する次第を実践 する時には一体どのようになるのであろうかという疑念 :・・:⑱ すら抱かないように思われる。︵國島eしかしこの︹道 次第の︺教えというものは、全ての実践法を終始大典籍 に説かれていることにのみ基づいて構築すべきものであ るから、本書においても三昧の達成法を大典籍から︵属. 賠吟g取って説明しよう。 このことに関しては、過失のない三昧を生じる仕方と、 それに依って心の安住が生じる次第との二つが︹説明す べき事柄として︺ある。 一、過失のない三昧を生じる方法 前者︵過失のない三昧を生じる方法︶に関しては三つ ︹の説明すべき事柄が︺ある。つまり㈲心を所縁に 固定する前にはどうするかということと、口所縁に固 定するときにどうするかということと、㈲所縁に固定 した後にどうするかということとである。 ㈲心を所縁に固定する前に行う尋へきこと 第一のことに関しては、三昧の修習を喜ばず、それと あい反することを喜ぶような僻怠を除去することができ なければ、初めから三昧に入ることは許されない。︹僻 や、a 怠のある人は︺一度は︹三昧を︺得ても持続すること力 できないので、すぐに退失するであろう。甫適急︾四︶そ れ故、初めに僻怠を除去することが極めて重要なのであ る。その場合、身心の喜楽によって広大な軽安︵冒沙胃曾︲ 図冨.身心の軽やかさ︶を得るならば、昼夜全てに亙っ て善を行うことに関して疲労が生じないから、榔怠は退 く。それ︵軽安︶を生じるためには、軽安を生じる原因 である三昧への精進を継続して行うことができなければ ならない。しかるにそれ︵三味への精進︶を生じるため には、三昧に必要な強靱な願望が持続しなければならな いCそのためには、三昧の功徳を観ずることによって心 が引きつけられた強固な信︵陣P目目︶が必要である。故 に最初に三昧の功徳を思う信を繰り返し修習しなければ ならない。これらの次第をよく実践し観察するならば、 ︹以上のことは︺極めて明瞭に確認されるから、︹この ことの︺重要な要点であることが把握されるであろう。 ⑲ ﹃中辺分別論﹄に﹁所依︵鼠国息︶であり、それに依る 25

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もの︵隙風薗の菌の富︶であり、因︵昌冒詳冨︶であり、果 ︵冨騨旨︶である﹂と説かれている。この場合、所依とは 願望︵・冒且鱒︶であり、努力の所依である。それに依る ものとは努力もしくは精進である。願望の因とは功徳を 信ずる信である。宙.患e努力︵園.器切﹂塵︶の果とは軽 安である。 ここで修習さる、へき三昧の功徳とは、止が達成される 時、心には喜が身には楽が増大するので、現世において、 楽に住し身心の軽安を得るが故に、心を思い通りの所縁 に固定することができることである。また、不自由なま まに間違った対象に動揺することが消滅するので、多く の罪行が生じなくなり、どんな善を行おうともその力が 大きくなり、止によって神通︵§且罰︶や神変容目冒︶な どの功徳を達成することができることである。弓.鴎P gまた別してはそれに依って物事の有りのまま︵如所 有性︶を悟る観の証得が生じて、輪廻の根本︵無明︶を 速やかに断ずることができることである。︹このような こと︺を初めとする功徳のことを思惟するなら、三昧の 修習に対する気力を増大せしめるような物事を理解す、へ く修習するのである。これが生ずれば、三味の修習を持 続せしめるから、三昧は得易く、︹三昧を︺得てしまつ ②明蜥な心を安住させる根拠としての所縁を決定する ︸﹂、シ﹂

㈹所縁の概説

③所縁自体の説明。第一︹の所縁自体の説明︺に 関しては、世尊は琉伽行者の四種の所縁を説いている。 即ち、全てを包摂する所縁︵遍満所縁︶と︵属も召ゞ巳 Q心を所縁に固定する時に行うべきこと 第二︹に心を所縁に固定するときにはどうするかとい うこと︺に関しては二つ︹説明すべき事柄︺がある。の 明蜥な心を安住させる根拠としての所縁を決定すること と、⑨それに心を固定する方法とである。前者には更 に二つ︹の事柄︺がある。㈲所縁一般を説明すること と、⑧その場合その場合の所縁を確認することとであ る。前者には更に三つ︹の事柄︺がある。③所縁自体 の説明と、⑥どういう人が如何なる物事を所縁とすべ きかを説明することと、⑥所縁の同義語︵異門︶を説 明することとである。 失しなくなる。 ても繰り返し三昧に悟入するから︹三昧から︺容易に退妬

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行の浄化のための所縁︵浄行所縁︶と通暁のための所縁 ︵善巧所縁︶と煩悩を浄化するための所縁︵浄惑所縁︶ ⑳ とである。 ︹遍所満縁、ぐ鼠己風盲目盲目巴この中、全てを包摂 する所縁︵遍満所縁︶には四つある。分別を有する影像 ︵有分別影像、閏ぐ時巴冨買騨旨昌冒︶と分別しない場合 の影像︵無分別影像、昌員ぐ房巴息。︶と︵国らら事物の 究極︵事辺際、ぐ儲目冨昌自菌︶と意図の完成︵所作成弁、 園qg目自答騨昌︶とである。 この場合、能縁の︹心︺という点から立てられたもの が、二種の影像である。前者︵有分別影像︶は観の所縁 であり、後者︵無分別影像︶は止の所縁である。弓.誤式 騨︶影像とは、或るものを所縁とする場合、その︹所縁 ⑳ の︺目相︵いく巴巴搦gP︶を持った所縁そのものではなく、 心︵冒目gの中に現れたその︹所縁の︺行相︵己胸骨餌︶ のことである。それを所縁として観察する時には、観察 の分別があるので、分別を有する影像︵有分別影像︶︹と 言うの︺である。他方、それを所縁とはしても、観察す ることなく心を安住させる時には、観察の分別がないの で、分別しない場合の影像︵無分別影像︶と言うのであ る。それらの影像はどういう所縁の影像なのかと言えば、 五種の行の浄化のための所縁︵浄行所縁︶と、五種の善 巧所縁と、二種の煩悩を浄化するための所縁︵浄惑所縁︶ の影像もしくは行相である。 所縁とされる対象という点から立てられたものが、事 物の究極︵事辺際︶である。それだけに尽き、それ以外 にはないという法の有る限り︵尽所有性、冨号目ぐ房騨菌︶ に関する事物の究極と、このようにのみ存在するのであ って、別の仕方では存在しないという法の有るがまま ︵如所有性、制昏習騨号鼠ぐ房煙繭︶に関する事物の究極と の二種である。この中、法の有る限り︵尽所有性︶とは、 五穂に全ての有為が収められ、十八界と十二処に一切法 が収められ、四諦に一切の所知事が収められており、そ れ以外には︵園.磐少P︶存在しないことである。法の有 るがまま︵如所有性︶とは、それらの所縁の真実であり、 真如であり、道理によってもたらされる意味である。 結果という点から立てられたものが、意図の完成︵所 作成弁︶である。それらの所縁の影像を止観が対象とす る時、その作意が︹その影像に︺常に近づけられ修習さ れ繰り返し修習される力によって、それぞれの鹿重を離 れて転依するに至る。 ︹浄行所縁、8国言召誌且毒酋冒御言冒冨邑騨︺竜.麗刃9 ,ワ “ 0

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行の浄化のための所縁︵浄行所縁︶とは、負欲などに対 してよく活動することを浄化するa・乞巴所縁であり、 ⑳ 不浄と慈と縁起と界差別と出入息の五つである。この中、 不浄を所縁とするという場合、頭髪や毛などの三十六種 のものが内的な不浄である。青振などは外の不浄である。 ⑳ 心に現れた汚職の不浄の行相に心を保つのである。親し い者と敵対する者と中立の者との三者を所縁として、定 地に属する利益と安楽とを達成しようとする思いが慈で ある。その慈の把握する力によって心をそれらの所縁の 上に把握することを、慈を所縁とすると言う。対象とそ ⑳ れを対象とするもの︵心︶との両方を慈と呼ぶのである。 縁起を所縁とするという場合、︹過去現在未来の︺三時 に生ずる縁起の法に過ぎないものに依って、法に過ぎな い果が生じるだけで、それら以外に業を成す者も果を享 受するものも存在しないということに関して、そのよう ⑮ に所縁とし、︹そのことに︺心を保持することである。 界差別を所縁とするとは、地︲水・火・風・空・識の六 界の部分︵〆忠器ゞgを個々に区別して、それらを所縁 ⑳ として心を保持することである。出入息を所縁とすると は、︹呼吸による︺風が外や内に動くことを数えたり観 察したりすることによって、心が他に動かないように ⑳ ︹出入息を︺所縁とするのである。 ︹善巧所縁、丙色息昌鼠盲目富国巴通暁のための所縁 ︵善巧所縁︶には五種ある。誼と界と処と縁起と処と非 ⑳ 処とに通暁することである。この場合、誼とは色蔬弓. 凹誘﹄鱒︶などの五︹穂︺であり、それに通暁するとは、 誼以外の主体︵我︶やその所有物︵我所︶は存在しない ⑳ と知ることである。界とは眼︹根︺などの十八界であり、 それに通暁するとは、それらの界はそれぞれの種子から ⑳ 生じたのであると、因縁を知ることである。︵国全望処 とは眼︹根︺などの十二処であり、それに通暁するとは、 内の六処は六識の増上縁であり、外の六処は所縁縁であ り、直前に減した意︹根︺が等無間縁であると知ること ⑪ である。縁起とは︹縁起の︺十二支のことであり、それ に通暁するとは、それらを無常であり、苦であり、無我 ⑫ であると知ることである。処と非処とは、善から好まし い異熟が生じることが処であり、不善から好ましい異熟 が生じるということが非処である。それに通暁するとは、 ⑬ そのことを知ることである。これは縁起に通暁すること の一種である。違いはこれがそれぞれの事物の固有の因 を知るという点である。これらを止の所縁とする時には、 それら調などを或る︹心の︺状態において確認し、その 28

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⑭ 確認したのと同じ状態のままに心を保つのである。 ︹浄惑所縁、匡③蟹ご詠呂彦騨冒堅四国ご四国秒︺煩悩の浄化 とは、煩悩の種子を単に弱めたり又は︵園.暗勇騨︶種子 を根絶したりすることである。前者の場合の所縁は、欲 界の地から無所有処の地に至るまでの、下地の麓大さと ⑮ 上地の繊細さである。後者の場合の所縁は、四諦におけ ⑳ る無常などの十六︹行相︺である。これらを止の所縁と する時には観察せずに弓出麗︾sそれらの対象の︹心 の中に︺現れた行相において、それをどんな︹心の︺状 態においてであれ心に確認し、︹それを確認した︺状態 のままに心を保つのである。 ⑰ ﹃修習次第I﹄には三種の所縁が説かれる。即ち十二 部教は全て真如に趣向し、帰入し、流入する、というよ うに︹十二部教︺全てを︹真如に︺収めてそれに心を安 住させる。或は有る限りの法を収める瀧などを所縁とす る。或は見聞きした仏身に心を安住させる。 ︹この場合に︺穂などに︹心を︺安住させる仕方は、 全ての有為宙.亀らが五誼に包摂されることを知り、そ の後にそれら︹五穂︺の中に次第に包摂し尽くし、そし てそれ︵五語︶を所縁として心を保つのである。害えば 個々に観察することを習熟した時には観察智が生ずるよ うに、包摂することを修熟した時には、他の対象に︹心 が︺移らないように所縁に心を集める三味が生じる。こ れが論︹蔵︺の教えである。同様に一切法を、界と処と に包摂する仕方を知り、それに包摂して、︹それに︺心 を保つのである。 この場合に、行を浄化する所縁︵浄行所縁︶は、後に 述べるように、負欲などを特によく起こした人々の負欲 などを容易に退けるものであり、それに依れば三味が得 ︵属出君、巳易いという点で、優れた所縁なのである。通 暁のための所縁︵善巧所縁︶は、それらの法以外の人我 含目唱冒︲創昌§︶を否定するので、無我を証得する観が 生ずることに通ずるという点で極めて優れた止の所縁な のである。煩悩の浄化のための所縁︵浄惑所縁︶とは、 煩悩全体の対治となるという点で大きな意味がある。 弓も$、“︶全てを包摂する所縁︵遍満所縁︶は、如上の これらの所縁以外に別にあるわけではない。それ故、特 定の目的を持った止の所縁に依って、三昧を達成しなけ ればならないのであるから、小石や木切れなどを所縁と して三昧を達成するということは、三昧の所縁に関する 説明を知らないものであることは明らかである。 或る人が、所縁の対象を立ててそれに心を保つ時には 29

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︹その所縁を︺相として捉えることになる︹つまり究極 的に在存するものとして捉えることになる︺と考えて、 そのような所縁の対象に依らずに、所依なしに︹心が︺ 安住することこそ空性の修習であると主張するならば、 空性の修習の仕方を全く理解していないことを暴露する ものである。というのは、その際に認識がないのであれ ば、空性を修習する三昧もなくなる。けれども認識があ るということであれば、何らかのものを知るのであるか ら、知ることを成り立たしめる︵国ら巳知らるぺきもの ︵所知︶を認めなければならない。知らるべきものがあ る時には、それがその認識の所縁である。対象︵行境、 冒目︾唱。閏P︶と所縁官目甥.筥騨Bgp。︶と知らる寺へきも の︵所知、呂。のご色﹄ぐ言の怠︶とは同義であるからであ る。そうなればその︹’一ンマ派が主張するような空性の 修習としての︺三昧も相を把握するものと認めなければ ならないであろう。故にそのような︹所縁を立てずに修 ⑱ 習するという︺考え方は正しくないのである。また空性 ⑲ の修習に叶っているか否かは、空性を証得する思想に基 づいて修習しているか否かによって決まるのであって、 対象を全く︵屍西麗︾轡︶考察︵分別、再品忌ゞ国鳥四︶し ⑳ ないか否かということで決まる訳ではない。詳細は後に 述べる。 所縁の対象なしに︹心が︺安住することを主張するそ の人も、〃この自分の心を決して如何なる物にも散乱し ないように保持しよう″とまず先に決めてから心を保持 しなければならない。それ故、唯心の所縁︵g昌鴨9 m①目ぃ勝四目呂侭︶弓庖畠巳を所縁として、行相が何処 へも散乱しないように︹心を︺保持することを決意しな ければならないのであるから、所縁のないことを主張す る人は自らの経験と齪齢をきたすことになる。故に三昧 の達成の︹方法を解説する︺偉大な典籍においては多く の所縁が説かれているのである。それら︵所縁︶が必要 であることは既に述べた通りであるから、心を安住せし める所縁によく通暁しなければならないのである。 ⑪ ﹁修習次第﹄には﹁止の所縁は決まっていない﹂と説 ⑫ かれている。﹃菩提道灯論﹄には﹁どういう所縁であれ﹂ と説かれている。それはどれか特定の所縁に決める必要 がないという意味であって、どういうものでも所縁にな ると言っているわけではない。 ⑥どういう人が如何なる事物を所縁とすべきか。 どういう人が如何なる物事を所縁とすべきかを説明すれ 30

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ぱ︹以下の如くである︺。即ち、負欲の強い人から、及 び分別の強い人に至るまでに関しては、﹃声聞地﹄に引 用されるレーバタ所問︹経︺において﹁レーバタよ、も し彼の琉伽行者なる行者比丘が負欲をよく起こした者で あるならば、不浄の所縁に心を固定するのである。宙. 亀s瞑志をよく起こした者であれば慈に、愚凝をよく起 こした者であれば〃これを縁として″という縁起︵縁性 縁起︶に、我慢をよく起こした人であれば界の種類︵界 ⑬ 差別︶に心を固定するのである﹂と説かれている。また ﹁よく尋思︵厨も窟﹄gを起こした者であれば持息念に 心を固定する。このようにしてふさわしい所縁︵相称所 ⑭ 縁、騨昌日号の巴煙目9口の︶に心を固定するのである﹂と説 かれている。更に﹁声聞地﹄には弓.弓戸騨︶﹁その際、 負欲であれ瞑志であれ愚瘻であれ我慢であれ尋思であれ ︹それらを︺よく起こした人々は、何よりも先ず、行を 浄化する所縁︵浄行所縁︶において行を浄化すべきであ る。その後に心の安住は証得されるであろう。それらの 所縁はそれぞれ定まっているのである。故にそれらの人 ⑮ 々は必ずその所縁によって努力す尋へきである﹂と説かれ ている。それ故、必ずそれらの所縁において努力しなけ ればならない。 ︹心を寅欲などのどれか一つに特に︺偏ることなく活 動させた人︵等分行、、P目:園唱8邑冨︶と煩悩の少ない 人︵薄塵行、目幽昌§且騨畏。︶の場合には、上記のそれら の所縁のどれか好みのものに心を保てばよいのであり、 決定する必要はない。﹃声聞地﹄には﹁︹心を︺偏ること なく活動させたその人は、ただ心が安住することだけの ために好みのそれ︵所縁︶において努力するのであって、 行を浄化するためではない。煩悩の少ない人も︹心を︺ ⑯ 偏ることなく活動させた人と同様に理解す尋へきである﹂ と説かれている。 この場合に、貧欲などの五つが強い人は、前生におい て負欲などの五つに絶えず親しみ、馴染み、繰り返し行 っているので、貧欲などの五つの対象がたとえ微小なも のであっても、負欲などの五つが、強力に長きに亙って ⑰ 生じるのである。︹心を︺偏ることなく活動させた人は、 前生において負欲など︵国お己に絶えず親しむというこ とはなく、馴染まず、繰り返し行ってはいないけれども、 それら︵五つ︶を過失あるものとは︵属も忠・P︶考えず、 厭わなかったことによって、それらの対象に対して強力 で長時間に亙る負欲などは生じないけれども、負欲など ⑬ の五つが︹全く︺生じない訳ではない。煩悩の少ない人 q l J 上

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は、︵詞喝Pご他生において貢欲などに絶えず親しむと いうことなどは行っておらず、︹負欲などの五つを︺過 失あるものと考えるということなどは行っているので、 大きく多く強い負欲などの対象に対しては負欲などが緩 慢に生ずるが、中ほどや小さな対象に対しては決して生 ⑲ じない。また實欲などの五つが強い人は長時間を経て、 ︹心を︺偏ることなく活動させた人はそれほど長時間を 経ず、煩悩の少ない人は極速やかに心の安住を証得する 鋤 のである。 通暁のための所縁︵善巧所縁︶に対してはどういう人 が努力するかということに関しては︹﹁声聞地﹄の︺レ ーバタ所問︹経︺の中で﹁レーやハタよ、もし彼の琉伽行 者である行者比丘が一切の行の自相に無知であったり、 或は我や有情や命者や生者や養育者やプドガラというも のに無知であるならば、穂に通暁すること︵蔬善巧︶に 心を固定するのである。因に無知であるならば界に通暁 すること︵界善巧︶に、縁に無知であるならば処に通暁 すること︵処善巧︶に、無常と苦と無我に無知であるな らば縁起に通暁すること︵縁起善巧︶と、処と非処︹に ⑪ 通暁すること︵処非処善巧︶︺に心を固定するのである﹂ と説かれている如くである。この︹穂善巧などの︺五つ の所縁は主として愚瘻を退けるものである。 煩悩を浄化するための所縁︵浄惑所縁︶の上にはどう いう人が心を︵属画宕︺g結びつけるのかということに 関しては、同じく︹レーバタ所間経の︺中に﹁欲界の貧 欲を離れたいと思うならば、欲︹界︺の︵国宅巴粗野さ と色︹界︺の寂静さに︹心を固定する︺。色︹界︺より 弓西国・沙︶離寅したいと思うならば、色︹界︺の粗野さ と無色︹界︺の寂静さに心を固定するのである。一切の 有身見を厭離し解脱したいと思うならば、苦諦と集諦と ⑫ 滅諦と道諦とに心を固定するのである﹂と説かれている。 これらの所縁は、観によって観察の修習︵思択修習、 Q葛且猪。日︶を行う場合と、止によって安住の修習︵安 住修習、・一品猪。日︶を行う場合の両方の所縁となるから、 止のみの所縁ではない。しかし、或るものは止を新たに 達成するための所縁となり、或るものは止を達成してし まって更に優れたものとするための所縁となるから、止 の所縁︹を説明する︺箇所で説かれるのである。 ⑥所縁の同義語。所縁の同義語を述べる︹と以下 の如くである。即ち、所縁とは︺その上に心を保持する 根拠であり、三昧の所縁であり、前記の所縁の影像もし 32

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⑧その場合その場合の所縁を確認すること その場合その場合の所縁を確認することに関しては ︹以下のように説明される。即ち︺弓也ご﹄g上述のよ うな多くの所縁の中で、この場合には如何なる所縁に依 って止を達成するのかと言うならば、先に引用した︵国 おe経︹に言う︺様に、一つには決まっていない。人の 違いに応じてそれぞれの所縁を観察すべきである。特に ② 最下級の止を決定して達成する場合には、負欲の強い人 などであれば、所縁は特定のものでなければならない。 もしそうでなければ、止に準ずる三昧を得ることはでき ても、止そのものは得られないからである。行を浄化す ⑬ くは心に現れた行相である。その同義語は﹃声聞地﹄に ﹁その︹有分別影像と無分別影像との︺影像は影像とも 呼ばれ、三昧中の相とも呼ばれ、三昧中の行境としての 対象とも呼ばれ、三昧のための方便とも呼ばれ、三昧へ の門とも呼ばれ、作意のための所依とも呼ばれ、内の分 別の体とも呼ばれ、光影とも呼ばれる。それらは理解さ るべき事物︵所知事、茸①葛ぐ四の甘︶に対応する︵周&g︺ 。︶その影像の同義語であると理解すべきである﹂と説か れている如くである。 るための所縁︵浄行所縁︶に習熟したとしても、極めて 長く︹習熟すること︺なくしては、止は達成されないと 説かれているから、ましてや行を浄化する所縁を放棄し た人が︹止を︺達成できないことは言うまでもないから である。殊に尋伺︵ご§民冨︶の強い人は必ず持息念を修 習しなければならない。 ︹心を負欲などのどれか一つに特に︺偏ることなく行 使した人︵等分行︶や或は煩悩の少ない人であれば、前 述の様に、上記の所縁の中の好みのものを所縁とすれば よい。 ⑮ ﹃修習次第Ⅱ、Ⅲ﹄には、﹁般舟三昧経﹄と﹃三味王 経﹄とに従って、如来の身を所縁として三昧を達成する ことが説かれている。 ⑳ 師ポーデイ寺ハドラ宙○号ご冒骨餌ゞ覚賢︶も﹁この場合、 止には二種ある。・内に見たものによって得られる︹止︺ と、外に見たものを所縁とするものとである。その中で、 内に見たもの︹によって得られる止︺には二種ある。身 体を所縁とするものと、身体に依るものを︵属恥8.9所 縁とするものとである。その中で身体を所縁とするもの には更に三種ある。身体そのものを弓も園︾沙︶主尊の姿 ︵目胃秒︶として所縁とするものと、骨鎖などの不浄なる q q 写 u

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ものとして所縁とするものと、天杖︵唇閣薗昌鳴︶など の特殊な標識として所縁とするものとである。身体に依 るもの︹を所縁とする止︺にも更に五種ある。呼吸を所 縁とするものと、微細な相を所縁とするものと、空点 ︵冒唱の︶を所縁とするものと、光線の部分を所縁とする ものと、喜楽を所縁とするものとである。外に見たもの を所縁とする︹止︺にも、特殊なものと普通のものとの 二種がある。︵mgeその中で、特殊なものには二種あ る。仏身を所縁とするものと、︹仏の︺言葉を所縁とす

⑰⑱

るものとである﹂と詳しく述べている。﹃菩提道灯論釈﹄ にもそれは引用されている。 この中で、仏身に心を保持することは仏を念ずること であるから、無量の福徳を生ずるものである。またその 仏身は、姿︵鳥胃凹︶が明瞭でしっかりとしたものである ⑲,⋮︲. 時には、礼拝と供養と誓願などの資糧を積聚する田と、 餓悔によって罪を防ぐなど罪を浄化する田としての所縁 ⋮・・⑲ となるから、極めて優れた︹所縁な︺のである。 また︹仏身に心を保持することは︺先に引用した﹃三 ⑳ 昧王経﹄︹に説かれる︺様に、臨終の時に仏を念ずるこ とから退失しないなどの功徳︹が生じること︺や、密教 道を修習する場合の主尊琉伽︵:ぐ呉昌。唱︶にとって極め て有益なものであることなど、︹仏身を所縁として立て ることに関して︺多くの目的︹の存すること︺が伺われ る。そういう功徳や仏を作意する仕方の詳細は﹃般舟三

⑪⑫

昧経﹄に非常に明瞭に示されているから、﹃修習次第Ⅲ﹄ に説かれているように、必ずそれを参照す雷へきである。 ここでは説明が繁雑になることを恐れて合い忌.ご記さ ない。この様に三昧をも︵属函冒︾四︶達成し、且つ他の 殊勝な目的をも兼ねて得させるような所縁を求める者が、 方便に通暁せる者である。 どのような如来の身体を所縁とするのかと言えば、 ⑬ ﹃修習次第Ⅲ﹄に﹁その場合に行者は、先ず初めに、嘗 て見たり聞いたりした通りの如来の身体に心を安住させ てから、止を達成すべきである。その如来の身体は、純 金色の如き黄色であり、︹三十二︺相・︹八十︺種好によ って荘厳されており、衆会にとり囲まれ、種々の方便を 以て衆生を利益し給うものであると常に作意することに よって、その功徳に対する願いを生じ、沈み込みと昂ぶ りなどを静めて、それ︵如来の身体︶が眼前に存在する かの如くに︵国g]︶はっきりと見えるようになるまで、 、 静盧を行うべきである﹂と説かれている。﹃三昧王経﹄ にも﹁金色の如く︹に輝く︺身体の故に、世間の守護者 34

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は全く麗しい。その所縁に心が向かっている時、その菩 薩は静盧せる者と言われる﹂と述需へられて︹いる。これ ら二つの経に語られて︺いるような︹如来の身体︺を所 縁としなければならない。 それ︵如来の身体︶にも、新たに心によって生じたも のと、本来存在しているものが更に︹行者の心に︺現し ⑮ 出されたものとの二種がある。後者は信を生じる上で極 めて有益であり、顕教の場合にも適しているから、本来 完成しているものが更に現し出されたものを行相とす曇へ きである。 缶 先に心を保持するための拠り所にすべき所縁を求める 場合は、画像や︵も出国.四︶銅像などの極めて優れた教 主︵世尊︶の像を求め、繰り返し見て、︵周出自.妙︶そ の相を把握し、心の対象として現れるように修習に努め る。或は師が︹如来の身体に関して︺巧みに説明された ことを聞き︹それ︺を思惟し、︹それが︺心にありあり と現れてきたものを所縁として求めるゞへきである。そし て更に所縁は、画像や銅像などの姿︹に過ぎないもの︺ が︹所縁と︺さるべきではなく、他ならぬ仏そのものの 姿を持ったものとして︹心に︺顕現したものを︹所縁と して︺て学ぶ今へきである。 或る人々は、前に置かれた仏像を目で見つつ修習する が、︹それが︺師イェーシェーデー︵5号①めい:︶によっ て退けられたことは実にしかるべきことである。何故な ら、三昧は感官による認識︵根識、号騨凋冒︾厨言の恩︶ において達成されるものではなく、心による認識︵意識、 智。ご厨胃切冨︶において達成されるものであるから、 三昧の直接の所縁は所による認識の直接の対象であり、 従ってそれに心を保たなければならないからである。ま た先に述兼へた様に、所縁の対象そのものの︹心の中に映 ⑰ じた︺形象a。p名冨︶もしくは︹心の中に︺現れた影像 を所縁としなければならないと説かれているからである。 ︹如来の︺身体には微細なものと鹿大なものとの二種 ある。初めに鹿大なものを所縁とし、それに対して堅実 になってから、後に微細なものを所縁としなければなら ないことは別の箇所で述べた。︹それを心に︺体験する に際しても鹿大なものは実に︵国g巴容易に現れるから、 ︹如来の︺身体の鹿大なものから順次所縁とすべきであ ↓︵︾O 殊に重要なことは、今述、へているような目的の三昧を 達成しない内に多くの多種の所縁に移り変わって三昧を 行うことは、決してよくないということである。多くの 35

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異なった所縁に移り変わりつつ三味を修習するならば、 三昧を達成することにとって︵勺団畠ゞg大きな障害と なるからである。 故に三味の達成に関して権威ある典籍、即ち﹃琉伽論﹄ や三部の﹃修習次第﹄などでは、初めて三味を達成する 時には、ただ一つの所縁R&sゞp︶に関して達成する ように説かれ、多くの所縁を移り変わるようには説かれ ていない。アールヤシューラ︵も冨唱印?§四︾gゞシq四︲ 閻国︶も明瞭に述識へている。即ち.っの所縁において意 思を確固たるものたらしめよ。多くの所縁に転ずるなら ⑬ ぱ、心は煩悩に乱されるであろう﹂と静盧を達成するこ ⑲ とに関して述雫へている。﹃菩提道灯論﹄にも﹁一種類の 何らかの所縁において、心を善に安住させる識へきであ る﹂と〃一種類″という限定する語でもって語っている。 そういう訳で、最初は一つの所縁を所縁として止を獲得 し、後に多くのものをも所縁とするのである。﹃修習次 ⑳ 第1﹄には﹁作意をよく制御できるようになった時に、 初めて穂や界などを種々に広く所縁とするのである。 ⑪ ﹃解深密経﹄などにも、行者は十八空性を所縁とするな ど種々の多くの所縁を求めることが説かれている﹂︹と 述べられている︺。 このように最初に心をその上に保つ、へき所縁を獲得す るための基準︹が如何なるものであるかを説明すれば以 下の如くである︺。即ち、頭と両腕と身体の他の部分と 両足とを順番に何度も想起し、その︵国g望最後に身体 全体に注意を傾ける︵作意する︶弓.画且︼P︶時に、心に 麓大な部分が半分だけでも現れる力が生ずれば、輝かし い明瞭さは生じなくても、それだけで満足してそれに心 を保たなければならない。その理由は次の如くである。 即ち、それだけで満足して︵丙出目﹄ず︶︹それに︺心を保 持せずにそれよりももっと明瞭なものを求めて、より明 瞭に想起しようとすれば、所縁は少し明瞭になるが、心 の安住の側面である三味が得られないばかりでなく、 ︹三昧を︺得ることを妨げることとなってしまう。他方、 所縁がたいして明瞭でなくても、半分だけのその所縁に 心を保持するならば、三昧が速やかに得られて、その後 ⑫ に明瞭さに有効な作用を及ぼすから、明瞭さの側面は容 易に達成されるからである。このことは師イェーシェー デーの教えのなかに述べられており、重要︹な教え︺で あると思われる。 ⑬ 所縁の現れ方に関しては二種の四句分別が立てられる ようであるが、人︵プドガラ︶の種姓の故に、行相の現 36

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れに困難なものと容易なものとがあり、現れたとしても 明瞭なものと不明瞭なものがあり、そのどちらの場合に も堅実なものと堅実でないものとがある、というように 種々のことがあるから、決定することはできない。 密教の主尊琉伽含①ぐ鼻葛。悪︶を成就する場合であれば、 主尊の明瞭な姿を必ず達成しなければならないから、そ れが現れるまでは、多くの手段の中からそれを生ずる方 策を講じなければならない。しかし今の場合は、主尊の 姿が極めて現れにくい時には、先に示したどれか一つを 所縁として心を保てばよいのである。止の三昧だけを達 成することが主たる目的だからである。この場合にも、 主尊の身体を所縁として達成しようとする時に、その姿 弓也浬ゞgが現れないのに心を保持する時には、所期の 目的は達成されないから、現れた姿の上に心を保持しな ければならない。且つまた、それが生じている限りは身 体全体に︹心を︺保持し、その身体のどれか一部が極め て明瞭に現れる時にはそれに︹心を︺保持する。それが 不明瞭になればまた︹身体︺全体に︹心を︺保持するの である。 その際に、︹如来の身体に︺黄色を修習しようとした 人に赤色が現れる宙.gらというように色が確定しない ことや、負&g︾四︶坐像を修習しようとした人に立像が 現れるというように形が確定しないことや、一つを修習 しようとした人に二つが現れるというように数が確定し ないことや、大きなものを修習しようとした人に非常に 小さなものが現れるというように大小が確定しないこと が生ずるならば、それら︵所期のものと異なって生じた もの︶に従うことは断じてよくないので、どういうもの ⑭ であれ本来の所縁のみを所縁とすべきである。 ︵未完︶ ︵略号︶ ︹テクストー︺ 厨孟タシルンポ版閂篇CO蔦。ミミミ雷︵湧き﹄画ミ薑︶ ミミ恥閂“§︲謀s︲曾国。︲冨冒︲電侭吻︲、亀.ぐ○].g 卜 z①言己巴巨︶忌司 勺息北京版悶烏.8.Z。.g日 切入チャキュン版青海民族出版社、一九八五年︵本訳 ではこれを底本とする︶ ︹その他の諸文献︺ シ、勺H己ぽいQ局H四邑丘凹口①e︶堅守琴鳶琴含ミミ韻mg今冒。︲ ・ミ邑呉烏§題︵留具目冨国ロ﹄岳g︶ロの月 目呂zo,きちゞ大正z○.晟呂. シ、国巨z鼻宮口己目算首①p﹀崔冨蔑言ミミ争旨量・ミミ篁邑︲ 9回迄曇蒼︵団騨国四︾ご認︶︺ロの掛目○ぽz○. 色靭︾大正z○.畠9. Qワ J 4

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切国声 田彦禺︿岬[ 、面目肉門[ 法尊 田弓勺 国営門ハ月目閂 冒疹ぐ国冒 冨衿ぐ 野沢 旨のン ご国忌昌ごく○唱丘四尉四のg﹄国員言的貝ご邑冨曽員 ︵Ho辱○︾らご︶・ロ①月弓呂.z○.ち雪.大正 z○.旨切﹃P の旨、①己も①目巨OB①号︾︵︽月面①、⑳画の〆吋詳餌己9 月庁①げゆロ庁①桝蕨呉汁ロ①卸H稗国丘鯏くいロ動丙吋四︲ 目色︺︺:写裏富ミ団震包包萱凰閂恥薑吻︾も幽昇胃昏目 ︵丙﹃○s︼忌詞︶・ロの晶目○言z○.憩扇. 、、 嗣匂○菌冒⑦○m目四8・︾閂言弓さ恥曽惑弓やミミ 目育牌8惠包切琴笥喧sご国電p茎昌︵の揖四﹀]④me・ ワ①晶目○ぽ.zo・忠屋. ①旨的①bも①門口Caのp︶亀︽目冨H○国ぽ倒く包口劉屍閉色︲ 目②︾︾︺﹄患菖o費画胃国雪急目、曽吻︺己騨罵昌胃︾ の閏討○国①口許巴の閃○ョ凹〆旧目閂︵罰○曽秒﹄ 屋己︶・ロ①品目○言z○.窓弓. 蜀員雪、s琴亀、昌亀巷急︼ロ①昼弓OFzo.$ミ・ ]ハぱ牌 法尊﹃菩提道次第廣論﹂︵重慶、中華民国二 五年︶ ﹄昏蕊琴堂割寓言鼠罫画叱阜︲言蚤冨.ロ⑦月月○ずz○. 吟C四房。 ⑦P&首冨.z②血色○⑦g︾︾亀圏包琴建冒亭営昌9国距邑︲ ︾言廻倉角○斤望○︾ら震︶ロ①月日○丘.zo・邑目. 、 の望辱画口Fのご︺①Q︾﹄畠邑蜀詞廷曹ミーの詞ミミ邑蒼計画黄色 ︵勺ゅ昼の﹄ぢつご︾己の長月OFzo・崖ついP 野沢静證﹃大乗仏教験伽行の研究﹄︵京都、 一九五七︶ ︵訳注︶ ①旨⑳シや盟壺lPx目目当︾ロ胃員戸司1房﹄⑳.]・野 沢や急.参照。 ②国冨肉目君.閏︺畠l圏も︾ロ閏浅︾豆画I怠︾少逸の 取意的引用。芳村も&篭.参照。芳村訳には多少の誤訳が ある。弔い路﹄P親切すぎる者←過度の交わり。同頁最 終行“永く障りなく疑いなしに離れたならば←必ずそれら 勺勺口同異ロ脚庶PHP職ロ陣︾、冒菖や、ヨミミミ爵︲霞、軍号曽︸ 己の月日○彦.﹄・己. の国営属胃口冒①晋四m匿口匡煙&.︾伽畠昌言冨亀雪一旦、 竪菖害沁急︵勺四言四︾ご畠︶︾ワ①け目○戸zo・邑誤・ 大正z○.闇忌. 、z、同.炉触目鼻扇①g﹀吻雪惠興言鼠どきミミミ吻画ご亀 ︵勺胃厨︶ご閨︶︾ロ①月日○戸zo.]g︾大正zo. ⑦﹃②。 の園勺.F・ぐ昌・ぐゅ&.﹀・習営圏包琴ミミ畠員曽﹄国口早 回国牌のppm胃詳目①〆蔚︶z○.唖︵己抄号豈ppm四. ら臼︶︾ロの月日目.zo﹂喝︶大正Z。.$P ゆめ弓.5.ぐ騨昼目色①g︺伽静め詞旨ミミ屑亀建阜﹀国巨早、 Q冒稗⑳四.骨吋詳目の閥威︾z○.巨︵ロp号蔵pご函四﹀ 忌日︶ゞ大正Z。.g患. 星ぐ酉ぐ昌自︺シ]①加門ぐく色ご日凹ロ︾○員量署侭夢、﹄患ゞ︾ミミミ ロ身。ミミ令侭善、罰、ミヘz①笥叫○烏・忌詞︶. 、 急畠目凹口&.§・︺﹄冨邑雪農具目言曾目急ぎ導曽員冒邑︲ 惠忌.②、墓も卦︵○m匿能○吋.︺紗﹄やつ]︶. 38

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pゆくpHロ拝いぼ. 若能不著利等諸欲善住P羅性忍衆苦勤発精進 速能引発正著摩他故解深密経等亦説施等為後後因 ︵巻皿、や閉︾右︶ ⑥嗣吋詞罵④︾豆﹃l陰P色息. ⑦四鼻.旨伴︶ロ閏⑲﹄丘﹄︲吟大正や$⑤ゞロ?届には浬 藥法の縁として、以下のように勝れた縁一つと劣った縁十 二との合計十三種を挙げる。 勝縁如正法増上他音。及内如理作意︵鞭且目胃日目冨︲ も胃2号恩H胃○答8農︶﹃○口扉○日四口儲5割息8︶劣 縁叩自円満︵弾日凹閻昌冨s、他円満︵圃国の月5臂︶、 善法欲︵冒曾さ号胃目色8冒且島︶、正出家︵胃ゆく国︲ 全てと自分とは遠からずして離れていくのに。 、 ③⑳国豈や患︾巨寓﹂ロ自国台産鹿︾大正やら蝉。﹄己陣 に世間出世間の二道の資糧として詳細に説かれている。 ④国ご門胃や臼卸巨l馬、ロ日ぢちミー臼、四﹄蝉芳村や 。。、 。。。。 ⑤国ず圃昌園目色3を雪昌目色ロは苔の号胃①の薗蔚昆 口β昌国威○口と不可解な訳をしている言窓﹄総︶。法尊は 利等諸欲と訳す︵巻型、固引﹄右︶。以下の﹃修習次第I﹄ の引用箇所に関する芳村訳は間違いであろう。参考までに 原文と法尊の訳を掲げておく。 い秒同ごゆ井彦○岸倒ウロ脚・宮丙倒厨ロP汁凶口時ゆ己の澪めいのぐい、曾門己ぐゆ汽己H騨︲、 pF。D、 しト ぐH庁汁凹巨の汁彦詳四mご餌・ロ固炭ぽぃQぐゆ凸彦]ぐいい四目四勘﹄ゆめぐゆ⑳H④︲ t 4 k ケQppご胃くいのぐゆ閏輌面HゆげのH四門口のpH目。四・ぐP計①.四斤四①くい︲ くl DpF。、 Hぐゆの“﹁国畠彦冒胃黒冒○○沙邑勵旦い邑口倒口閏。ゆぐ色巨芹庁凹呂○斤庁四H色蒔く①︲ ご巴、戒律儀︵菖儲目夏目秒︶、根律儀︵言身与国2日︲ ぐ肖色︶、於食知量e9着ロ①冒弾国言P団︶、初夜後夜 常勤修習覚悟琉伽君胃ご胃呉昌富国国耳目こゅ彊凰目︲ 冒昌○鴇︶、正知而住︵困昌冒旦曽昌昌冨風国︶、楽遠離 宕倒昌ぐのごP︶、清浄諸蓋︵巳ぐ胃騨己四く豚屋且g、依三 摩地︵闇冒目匡の四目ロ豚昌ぐ巴。 L強 、 また、国冒喝.認︼巨l笥︾鰐口閂勗を産l宴大正勺 きい秒﹄旨1局には以下のような十四種の止の資糧が挙げ られている。望昌匡四本では根律儀︵宮島毎閉胃冒触国︶が 脱落している。 自円満、他円満、善法欲、戒律儀、根律儀、食知量、 覚悟、正知住、善友︵冨々目四日芹国威︶、間︵閏邑冒︲ 尉昌儲国ぐ眉包︶、思︵。旨冨目︶、無障︵p口騨ご冨働園︶、 、 捨︵ご凋紗︶、荘厳お国日凹息宮昌圃国︶・ 芦国吋冒ゅロゞ。ミミ言い℃や曽l湧号・︾建言急ご吻房﹄やg︶己や 急lPを参照。 ③F秒目H冒呂①口目○︵切本︶や引当観 ⑨団彦属目や閏.ご除︾。①H怠﹂ロ切陣ゞ芳村や路・ 囚官民[目やい駒︺己①H割﹄色︾]焦芳村やら酌 、 ⑩印国丘層函臼・己l患い陣ロ関屋]︾煙忘1頁鐸大正や 急P四﹄蹟lpS.言昌目四国﹄跨口騨与巴の軍]尻. ⑪昌缶ぐ国弓や臼ゞ扇︾搦国冒口冨巨四︲の四目、圃尉目. 、 ⑫六種の力駒国彦固誤口届l誤ロ]・ロ日]鴎︾ロ干興 大正ロ陰臼︾四︾91侭. 聴聞力︵胃匡冨︲9両︶、思惟力︵o冒薗。︶、億念力︵の目.︲ 昼。︶、正知力︵m自弓屈茜昌騨。︶、精進力言H制。︶、 39

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串習力ePp8旨。︶。 、 *め画彦には忠日胃どゅ昌P。が脱落している。 、 四種作意駒国口や践争﹄旨l届﹄己閏直路ゞ丘切﹄大正や 埠切岸す︾画l吟 力励運転作意︵冒置乱冒口四︲甘いppm圃国︶、有間欲運転 作意︵3の呂匙国乱冒口四。︶、無間絃運転作意︵口群。亘︲ 号秒乱冨昌四。︶、無功用運転作意︵ゅ目go阻乱冒口四︶。 、 九種心住励国ロ喝.函騎︼弓l麗怪︺]、。⑦H昌総﹄戸甲吟 大正や急PC︾畠19. 内住︵の目§畠⑨陣﹄﹄一侭冨崎耳&層︶、等住︵$Bm︲ 昏骨畠P武々冒侭Q凋冨H﹄でぬ恩Hg&恩︶、安住 ︵ゆく餌、昏号畠四陣︾肝目の訂︺一侭冒Hg&も四︶、近住 ︵ロ層、昏骨p冒武︾画浦gH・]侭EHg8g︶、調順 ︵8目畠国威向巳gHg8恩︶、寂静︵$目当凹陸、園冨 gHご呂冨︶、最極寂静︵ぐ冒忌のP目④冨鰊﹄目のgH 、 国匡gH身&息︶、專注一趣︵鳥○は菌Ho陣︾H喝且 唱侭目ご且冨︶、等持︵闇白目冒倖の︾陣員侭の / ︾・画肖ロロロヴ剣①Qも四︶ L ⑬覇畠骨ミ展ミ員昌言ミ角呂.Z。.g路︶間巨虐旨︾国産︾ 大正ぐ巳.g︾や3口。.届1国. 資糧道者有十三種如声聞地已説。 ⑭国秒凰g且国︶津這倉︲告§§s§富、ミ曽曾§ミミミミ︲ 智之息萱②§︾ミミミミご野国費員3国へ目○面.z○.雪巴︶・ く く 〆 園自己P旨曾盲︾田﹃昌己ミミ零倉さ冒婦目︾ロ[︵目○胃zoの. 印哩﹄、l﹃︶。 切旦ご脚ぽい禺鼠働巳丘﹀、竜窪雪詞も笥曽ご鳶ざ、畢烏旨︵日○Fz○. 4ト ト ﹄つ司一︶。 ⑮冒閣、百︽急昌目四口は昏の9号昌烏辱宕.巳巴、 法尊は仏像と訳す︵巻皿、や鼠右︶。 ⑯昏侭奇︾言葛日伊ロは苔の骨名言目屋︶s,]B︶、法 尊は空点と訳す︵巻型、や忠︾右︶。 ⑰買需“法尊は種子形と訳す︵巻皿、や認︼右︶。 ⑬この一文は意味が掴みにくい。因に法尊は次のように訳 している︵巻皿、や患﹄右︶。 然るに能く彼の大論に依りて修する者の幾たるや昼の星 に同じ。将に自らの心垢を責めて論の過と為し、彼はた だ能く外解を開關すと謂う。心要の義理を開示するに別 の教授有ることを妄執し、彼の所説の修定次第に於いて 正しく修定する時、党に何に似たるに為るかに全く疑惑 無し。 言昌日包口の訳も不明確e・ぢい崗牌9時・︶。 *彼の所説は彼の大論︵唱冒侭呂①富ゞ偉大なる典籍︶ を指すと考えられる。従ってこの一文は、例えばニンマ派 の行者などが自己の実践法にのみ固執する余り、﹃声聞地﹄ などの偉大なる典籍を顧みず、その典籍に説かれている修 習次第を正しく実践して行けば、その暁にはどのような境 地が開かれることになるかということを考えてみようとも しない、ということを意味しているのであろう。 ⑲巨衿ぐ国昏や臼︾ら漕ぐ面﹄:︺ロ員忌﹄戸騨 ⑳⑳国巨層.こい閏l思いあ、胃尉目﹄四函占︾大正や億﹃︶ 色﹄画平画空タ面留日色目⑦e︾や誤︾宇野P、や“PSl旨︾ ロ自己唾﹂四︾?式大正や易・・﹄ご凸Pシの切豈や罷﹄ 40

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“陣︾ロ①Hごゞずふ陣﹄大正や置躁○︾扇倖 ﹁解深密経﹂命zmや寵・弓l鴎︶では四種の所縁は有 分別影像と無分別影像と事辺際と所作成弁とのみが説かれ、 遍満所縁などの四種は説かれない。しかし覚通田富侭 呂目aNp・嘗尉巳︶の註釈留且冨昌目ご○opp儲日3ぐ乱辱︲ 冨口抄︵日呂.z○.鹿認︶では遍満所縁などの四種の所縁と 関連づけて説明されている︵野沢や届﹄.参照︶。 ④鵯巨甥盲目④ロ昌唱侭医目肖嘱も畏昌昌蛎噌旧順 目切Epg号合唱の目旨gH︽施線箇所の意味が難解。 法尊は言影像者謂非実所縁自相と訳す︵巻M、や弓︾右︶。 これでは︲く層︵1くを持つ︶の意味が取れていないのでは ないか。弓④鼎目色ロは目①H①胃鼻&冒唇侭①腸g目opP︲ H四○庁①HHp管冒巨の命ロ①○○口○H⑦庁①目①mmC開計ぽ①H己①g詳四はぐ①○壱一①○庁 e、99と訳す。目嗜めを昏①○○口目①蔚口①ののと訳した ものと思われるが、目唱のは目唱切目の略で﹁当のそ のもの﹂の意である。 ⑳⑳国丘やgいいムロ①H弓.P﹀やい大正己崖麗︾。、畠l届. ⑳⑳国庁やいgふFp①Hご︾④逸騨﹄大正や吟罷﹄・﹄こ陣 、 ②の国彦やg戸﹃陣.己①門酋.四産廟・︾大正や吟忠﹄・函陣 ⑳のロロや閏P甲巨.己閂曽︾ロ﹃l圏︾p︾蝉大正や鹿P j刀ヨヨ pgcl伝惇。 、 ⑳の国け弓由巨息l函昂﹄底.ロ関雷︼國忠l寵︾戸輿大正 も.﹄妙P①︾]画IC︺興鼻ご塑割ロ]煙ロ①g︾己.“式哩HgもゆH, 、 ⑰晒国丘喝出ら程津ロ①H麓︾魚.画騏・︾大正や溌戸・ふい︺ ぐくゆご月巨四国①。.︾もや.““lや房 、 ⑳⑱国匿や鴎式?史。①H筐﹄色恥l吟大正や崖輿・・]と↑ 星ごゆ園H己曾ロ①巳︾も.、二四H○℃pH. 、 ⑳m国彦弓由雪出l筐要旨︺ロ閂筐﹄。Ll富、四、少大正 弓.院興・︾いI茂鍔ゆゞ鰐 、 ⑳⑱国旨弓.瞳岸届l筐卸巨︾ロ閏程︶四・甲式大正や鹿吟 い︾仁l]]・ @mm彦電.膣回届l筐詞輿己日総︾四首とふ﹄大正やら鍔 四・﹄胃1画い 、 、の国旨弓団ミ︾巳l腱津蝉poH旨︾戸切l闇︶秒︾輿大正 己.﹄幽吟P︾いいIワ﹀動 険 、 @の国彦や唾乞恥当.ロ日器︾騨固︲詞大正己ら環戸?届. ②言騨旨ごP巨訳言.]員gl圏︶は魑拐旨・⋮:牌○口の ・侭唱品○口儲という関係詞を考慮していない。 ⑮⑳国ロ層因ら︾届l寧日︾己ゞご閏罵︶戸]l農︶“﹄輿大 正やら鰐口EIC・P 、 ⑳⑳国置弓.誤]︺巨l囲い旨︶ロ①鄙置﹄四通l農ゞP出︾大 正喝.盆躁・とl臨興ロ圏. ⑰国昌ハ目や望.g︾ロ閏畠.ロ醇芳村や路騨 ⑬言明“雪皇目幽昌は切目。巳旦昏。侭冒と訳す念.SP g。法尊は彼説︵巻皿、や認﹄左︶。 ⑳牌○侭隠昌己院嵐冨咽日目﹄唱○目︺唱○酌弓葛回国ロ は劃冨昏①HoH]目鼻昏閏①詰む閉め樹①甘さ苫①。p旨くP陸Op gぐ○目︺①閉と訳す念.]8.?己。法尊は亦是否修空と 訳す︵巻哩、や認︾左︶。 ⑳急昌日四口は冨唱自己昌冨唱冒喝涜ゞ言函冨の︾ぢぬ層 を勵四陣○口と訳しているがs・]Sゞごそれはむしろ彼 の訳の中の烏鷺目、○口に当たる語と理解すべきである。 41

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@国嵐因目や、弓ら.ロ自曽.ロロ芳村畠︶&雪.芳村訳は 色昌簡冨目を止を止として決定することと解して、この一 文がそれが所縁の方にはなく心の方にあることを述べるも のであると誤解したものと考えられる。 @国固屯︾腱PP︸]・具.言当日四口勺届・くの厨のち. 、 @mmばや]畠.届1頁。①H弓﹄曾産ふ︾大正むふ路︾色々 ]ol]⑳。 、 @m国ぽ弓]房﹄弓19・ロ①局司︾P︾?式大正ロ信鈩煙﹄ ﹄②1房﹃. 、 ⑮叩国ずっ困吟?己.ロ日昌隠︺四・や岸大正弓.産口。︾ 鵲l直画幽も.急亀日四国や産即ロ.自. 、 ⑳⑩国医も恥筐﹄弓I扇.ロ日﹄圏︺①︾吟大正層に軌ゞ画︺や由. 昇署ゆく口胃騨ロロ.﹄﹄卸ロ.心酔 、 ⑰⑳国嵌弓.弓P弓l弓]︶g︾ロのH亀、ゥふl露﹄騨固︾大 正や怠会丘や臆.の取意的引用であろう。そこでは負増 上、瞑増上、療増上、慢増上、尋思増上の四種のプドヵラ のことが説明されている。 、 ⑬切明ぽ弓畠。﹀巴l弓酔式己国罵﹄騨﹃甲ずも﹀大正ロ烏吟 戸隠︲圏.の取意的引用であろう。 、 ⑲の切声や弓蝉中屋︺ロ自尉﹄戸甲鐸大正p怠鍔戸圏︲。﹄ 甑の取意的引用であろう。 、 ⑳m画面も&筐.己I畠︸口角]膳﹄餌.や●の取意的引用で ある﹄﹃ノ。 、 @の切琶喝唱麗︾国l冒塞ゞ].ロ。H弓﹄。当古函︺大正や 億酌抄︶息i圏.の江目Q稗は目旨訳・漢訳とかなり異なっ ており文意が不明確である。望鳥目①凶は以下の如くであ つ○○ m曾○鼻印夢蜀①ぐゆ庁妙ざ巨丙⑱巳戸m貰冒、屍胃働口曽口のぐ畠四斤! ■凸 mPp①の④員貝唇ロ。画ゆけ︺屍芦ご汁昌戸騨巨砂煙昌吋①O芹庁四・段ロロも画昌澤口ゆl Qpp幽陸.ロの庁目印餌口]︺昌口・彦○包曰倒宮骨肉い宮の巴罰①︾もH四庁買い冒凹︲ 、四K昌民ロロロ弓四脚割色詐四口四戸四口の騨胃閨①、 漢訳の﹁愚有情命者生者能養育者補特伽羅事。応於瀧善 巧安住其心。⋮⋮若愚無常苦空無我。応於縁起処非処善巧 安住其心・﹂に当たる語が欠けている。 、 ②叩国営や]g︺甲式ロ⑦尉司﹄ロ雫餉・大正己念鈩秒︾鴎︲ 西武昇昌四割目︺①ロも.﹄一切国.、P ②の国ロロ己、︾g1尾︾ロ①H認.四.甲函.大正ロ信買口 瞳︲届.、屏目の博は目旨訳・漢訳とかなり相違し文章が 欠落していると思われる。の再目①弾は以下の如くである・ 芹四○○四℃H凹武ヴ凶口︺ず包口曽己儲伊感ず茸巨ずゆpご詳討口○割凹合の.]茸 B︲F 臂己動国営庁四の罰四、]口の目Pぐぬ、、詐巨、四ウゴ劉輌ゆめ罰騨もHいはず昏曰目ずP、目色 も胃割劉昌脚昌ぐ①臼g自動・日︵弓①弾では己騨H罰幽割倒国幽ロシ・ 塁 摂決択分中思所成菩地には﹁三摩地所行の影像等の色を 意所取の色と名づく﹂と言う︵弓呂Z。.g鵠﹄圏息冨・沙︾ 司’ず︺]︶O ③圃旨唱凹”目色目昏P︶昌揖侭のの冨尉言唱目]国弛弓葛︲ 目ぃロは○国①急げ○ず勝己g唱昌の甘昏①屋目芹go畠日旨い 目鼻H①四目①印8N冨冒ごと誤訳しているe,巨騨弓l昂︶ 法尊は尤其上品負行者等修著摩他時と意訳している︵巻蛎、 己白﹄右︶。 ⑬国民目や笛.]と︾己の禺ミ︾戸や画︾芳村軍器や. 国国内目[や鼻届lE.ロ関買い恥l躁芳村やらP 42

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⑮ポーディバドラはアティーシャの師に当たる。アティー シャは彼の著作﹃般若灯論釈﹄︵目呂.z○.$院︾嗣匡﹄匿い ロgの中で⋮⋮匡凹目四目貫昂昌邑①耳の自己号巴嗣苫眉 呂目冨触凋冒:。⋮というようにポーディバドラが自分の 重要な師の一人であることを述べている。 ⑰留日目ごm閏弓目国冨はぐ自国角呂.z○.$瞳︶・園︾g︾ 四︾いlpg.睦旨滅呈ご色旨ごゅロ︾閂言町謹包包ミ急胃&ミ宝湧﹄.門錆萱 ○富冒aoI弓きい曽富固めミミ冒爵言﹀や巨騨 ⑬アティーシャの自著﹁菩提道灯論﹄に対する自註﹁菩提 道灯諭釈﹄角目.z○.患院︶属嵐︾自画⑳︾7戸吟からの 引用。 ⑨言畠日四目の訳は胃ご且曽旨白目の盲︵極めて優れ た︶﹂という語が、仏身が極めて優れた所縁であることを 示す形容詞であることに気づかないことに由来する誤訳 令.巨鈎屋︲屍︶。法尊はこの箇所を故此所縁最為殊勝と、 此の所縁つまり仏身が最も殊勝であると正しく訳している ︵巻晦、や]・左︶。 ⑳、閃回国︾79ゞ弓︺民ロ関園・豆卸弓禺.z○.己切 目ぽ罠]印P]. ⑥屯,巨.西閨房○口ゞ閂言閂常営ご弓ミミ善嚥、§ご︲ミ曹︲ 畠鳶白さミョ包琴sIの国営冒謹野琴画e争急ミ言lい§鳶口包冒1m詞ご亀︵目○斉罰○︼ ]や﹁巴四F︾具℃Qo・︺︽︽画巨gQ彦勤己口曾己崗は冒汁ロ①甸禺包含竜口詐も四! ロロ④lごロ・・医①1m四﹃口計ロロ屏弓働くゆめ侍声詳PIの“員︺脚・間苧の口許叶騏︾︾一○蓉受富倉、 旦冒島倉弓、ミ。唾§ご画忌詞︶己農・櫻部建﹃般舟三 昧経記﹂︵京都、一九七五年︶、己割.梶山雄一﹃空の思想﹂ ︵京都、一九八三年︶勺9. @国昌肉目目や画﹄や己、己①片司﹄ロー芳村もLら. @画毒嗣胃貝や吟届l畠︾ロ閂雪︾い︾甲輿芳村や筐P ⑧注③参照。ツォンカ。︿の引用は三昧王経の貝ご訳︵勺鳥. ロ①H︶とはかなり相違している。それは彼が経そのものか らではなく、国豈属目︵口①H合﹄丘らの通りに引用した ことに因るものと考えられる。 ⑬法尊はこの二種を由覚新起と於原有令重光顕と訳してい る︵巻妬、ロ]︺左︶。乏葛目色ロは鳴口①国威侭目。弓与 昇ご群]︼Q勝o己。︺旨色武○口︶四国空舎豈①ぐ︺ご﹄阜韓の。○屋①○丘○口︵○[庁屋① g身︶号ぐ①巨侭冒呉巨恩]々と訳すe,巨吟届l屋︶。 ⑳ぃ侭○口昔︾弓葛目ゅ口は前者︵騨の8房①ざ同日①H1新た に心によって生じたもの︶と解しているe,巨吟扇︶。法 尊は先と訳す︵巻巧、勺﹄左︶。 ⑰日日鴇冒冒目唱印穴己合口⑳冨詩法尊は縁実境之総義 と訳すが意味不明︵巻晦、固い右︶。弓昌冒騨邑は秒冒①︲ 邑詳pはく①○ず万○詐営口庁戸①色凰出口函○︻感冒のH①唇①○ず①色臂ppm① と訳す念.]庭︾最後三行︶。急畠自習]の訳が比較的原意 に近いか。要するに三味の対象が現実の物ではなく心のな かに生じたイメージであることを意味しているのである。 ⑬弓畠目色己念塔急︾ロ.g︶に依ると︽も閏四目33冒静ゆ ず民PH詞四召Hゅ︾︺.①旦炉.句①同四国︺旨﹄富富ご忌偏ミミ角.凄い鳶豊︶ ぐg・滋︵匿怠︶︶ご︺︲ぐ①厨①届.︵筆者未確認︶ ⑲国弔詞膣・・印虐.&.言葛自営︺勺崗ゞぐの厨のち. ⑩国ぽ嵐胃勺望豆甲刃。①儲望︺秒閻1口芳村で路・芳村 は言冨目色ごp骨胃○︵﹃匙冨ず’く&己凹戸嵩匡鳴も胃口浦口 冒を﹁意作が歪んだ﹂と誤訳している。法尊は已能摂其 43

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