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内田・小林論争とアダム・スミス研究

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(1)

内田・小林論争とアダム・スミス研究

著者

渡辺 恵一

雑誌名

経済学論究

67

2

ページ

53-73

発行年

2013-09-10

URL

http://hdl.handle.net/10236/11315

(2)

内田・小林論争とアダム・スミス研究

A Controversy between Prof. Uchida

and Prof. Kobayashi on Adam Smith

渡 辺 恵 一  

Yoshihiko Uchida(1913-1989) and Noboru Kobayashi(1916-2010) were eminent scholars in the fields of the history of economics and economic thought, especially in the study of Adam Smith. The so-called ‘Uchida-Kobayashi controversy’ arose from ‘Uchida-Kobayashi’s review of Uchida’s main work “Keizaigaku-no-Seitan”(1953). The crux of the controversy was Uchida’s interpretation of ‘a radical Smith’. Although this controversy is a meaningful one in order to promote the study of Adam Smith, it is a matter to be regretted that it has ended leaving unsettled.

In this paper, Uchida’s interpretation will be discussed. His interpretation does not claim that Smith was a defender of political radicalism, but that his economic doctrine was constructed on the same social bases from which both economic liberalism and political radicalism were generated.

Keiichi Watanabe

  JEL:B11, B12, B31

キーワード:内田義彦、小林昇、アダム・スミス、重商主義

Keywords:Yoshihiko Uchida, Noboru Kobayashi, Adam Smith, Mercantilism

はじめに

戦後わが国のアダム・スミス研究を牽引し、その水準を世界レベルにまで 引き上げた比類なき人物として、内田義彦、小林昇、水田洋の三名の名前をあ げることに、誰しも異論はないであろう。内田は、近く刊行が予定されていた 『小林昇経済学史著作集』(未来社)の「推薦のことば」のなかで、小林の方法 論を「政策→理論→政策」と指摘し、それに対する自らの思考方法を「思想→ 理論→思想」と評した。『国富論』刊行200年を記念するある雑誌の「特別鼎

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談」[1976]で、この内田の言葉を受けた小林は、「これはなかなか適切な表現 だと思った」と開陳している。また、この鼎談で、小林から、水田の研究方法 の特徴をあらためて問われた内田は、それを「思想A→思想X→思想A→思 想Y→思想A0」という「ロンド形式」であると指摘したが、小林もそれに同 意して、「ぼくもそういうふうに思った。水田君の場合は特に、一つの円環を なして問題を煮つめていくというやり方ではないという気がしたんだ」と述べ ている。 内田・小林・水田がそれぞれ「三者三様の方法論」を駆使して築き上げた、 わが国のスミス研究の実り豊かな成果は、多くの若き研究者を経済学史や社会 思想史の領野に誘った。スミスという「同じ対象を違った側面から追求してい る」のであるから、それぞれのカンバスに色合いの違ったスミス像が描き出さ れてくるのも当然といえるが、研究手法がこれほど異なれば、わが国の学界の 常として、相互の交わりを許さぬ微妙な閾といったものが生まれてくるもので ある。だが、『経済学の生誕』[1953]の出版を契機として、水田を名づけ親と する「内田・小林論争」が本格的にはじまる。この論争は、「アダム・スミス の理解」をめぐるきわめて重要な内容を含むものであったにもかかわらず、論 争の結末を含め、今日なお十分な総括がなされたとはいいがたい。いな、むし ろ「神々の闘いの跡」は、余人の立ち入るべからざる聖域となり、わが国のそ の後のスミス研究の負の遺産(星野[2001]:29頁)として重くのし掛かって いると思えてならない。 もとより、いわゆる内田・小林論争の全容を明らかにすることは、この一篇 の小論をもっては不可能であり、また私の能力の遠く及ばぬところでもある。 したがってこの小論では、この論争の争点でありながら、なお未決問題となっ ている「重商主義の解体とスミス経済学の地盤」という課題に限定して論じた いと思う。

I 論争の発端

いわゆる内田・小林論争の経緯については、小林『著作集 Ⅳ』[1977]の 「あとがき」が参考になる。そこには、「自著『解体期』〔『重商主義解体期の研

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究』〕における「重商主義の解体」〔タッカー論〕……を機縁として行われたい わゆる内田・小林論争の次第」が端的に整理されているだけではなく、「少な くともわたくしの側において、現在なおこの「論争」の意義が生きているよう に考えられる」(小林 Ⅳ:421-22頁)1)として、その「感想の一端」が記され ているからである。 小林は、当面の「論争」に直接に関係する文献として9点をあげているが、 ここでは、『経済学の生誕』出版以降の二組4点、すなわち『生誕』と同著に たいする小林の書評[1954]、そして卓抜なるタッカー研究である「重商主義 の解体」を含む、小林の『重商主義解体期の研究』[1955]と同著にたいする 内田の批評論文「タッカーとスミス 小林昇氏の近業『重商主義解体期の研 究』によせて」[1957]のみをとりあげたい。いわゆる論争の「機縁」として 小林自身が指摘するところをまずは重視すべきではあるが、しかし、論争が本 格化する背景には、内田の処女作『生誕』の刊行と、それに対する小林の書評 があるからである2) さて、「重商主義とスミス経済学」をめぐって展開されることになる内田・ 小林論争のそもそもの発端は、じつは『生誕』「序説」のなかにある。そのひ とつは、「ハイエクとケインズに集極するブルジョア的陣営のなかでの対立が 古典解釈の領域にもあらわれ、スミスに対するスチュアートの復位というかた ちでのスミス研究となって、その表現をみいだしている」(内田(1): 6-7頁)3) 1) 引用文中の〔 〕内挿入句は、引用者自身のもの、以下同じ。なお、『小林昇経済学史著作集』(全 11 巻)からの文中引用については、たとえば「小林 Ⅳ」と略記し、当該頁を記す。 2) 小林『著作集 Ⅳ』[1977]の「あとがき」を含めると、「当面の『論争』に直接に関連する」文献 リストは計 10 点となる。小林が「あとがき」で最初の文献としてあげているのは、内田 36 歳 のときの力作「イギリス重商主義の解体と古典派経済学の成立(上)」[1949]である。これは、 「スミス経済学の地盤 イギリス重商主義とその解体」と改題され、内田の「ラディカルなス ミス解釈」をその根底において支える歴史研究として、『生誕』前編の「付論」に置かれている。 文献の第 2 番目にあげられている小林の『重商主義の経済理論』[1952]と同著にたいする内 田の書評(『図書新聞』[1952]年 8 月 4 日)は、上述したように、この小論でとりあげる論争 とは直接的な関わりをもたない(また注 4 も参照せよ)。なお、内田は、『読書新聞』([1955] 年 6 月 6 日)に小林の『解体期の研究』の書評を掲載している。小林が 7 番目の文献にあげて いるこの書評は、内田『著作集』に収録されていないが、その理由は不明である。 3) 『内田義彦著作集』(全 10 巻+補巻)からの文中引用については、たとえば「内田 (1)」と略記 し、当該頁を記す。

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という、小林『重商主義の経済理論』[1952]への直接の言及である。これは、 現時点からみれば、まったくの誤解であろうが、当時の学界状況を勘案すると、 そうした誤解が生じたとしてもやむを得ない面もあったというべきであろう4) しかし、さらに注目しなければならないのは次の一文である。なぜなら、冒 頭で紹介した「鼎談」で語られている内田と小林の研究方法の違いを理解する うえで、きわめて重要な内容が含まれているからである。 「封建的諸機構 をうちやぶり市民社会をつくりあげるについてのブルジョアジーにとっての当 面の有効性ということと、社会体制=歴史認識の科学としての有効性というこ とは、しばしば、おなじく科学の実践性あるいは有効性という名で表現せられ ていても明らかに異なった概念であり、この区別をはっきり分かつことはきわ めて重要な点である。これを混同するものは、ドイツの産業資本の生誕につ いてフリードリッヒ・リストの体系のもっていた実践的意義のゆえに、そこに もまた、科学的認識としての同じ有効性をみとめなければならないであろう。 ……たとえば、さいきんのスミス・リスト・重商主義研究をみよ。これらの研 究では、それらの学説が産業資本の確立のためにもった歴史的・実践的意義を 強調するあまり、価値論=剰余価値論を基準とする科学的側面の検出と批判 が、等閑にふされている」5)(内田(1): 32-33頁) 『生誕』のこの箇所(「基礎過程と理論構造」)は、内田が「序説」で「日本の 古典経済学研究の二つの流れ」として剔出した「価値学説史の系譜」と「市民 社会=市民的思想形成史の系譜」のうち、とくに「第二の流れ(系譜)」につ いて踏み込んで議論をしているところである。本来「第二の流れ」として「序 説」冒頭でとりあげられているのは、大河内一男と高島善哉によって着手され た「あたらしいスミス研究」、すなわちスミスの思想史研究である。しかし、こ 4) 『重商主義の経済理論』[1952]には、内田以外に、大道安次郎・木村元一・平瀬巳之吉・水田洋 が書評を寄せている。同著に収録された「ケインズの重商主義論」の存在、くわえて「ジェイム ズ・ステュアートの経済学説 重商主義の理論体系」が「マルクスとケインズとに導かれつつ」 おこなわれたという、小林自身が危惧した「表現」が、当時の評者に「誤解」を生ぜしめたという 事情も指摘しておかなければならない(小林 Ⅳ: 416 頁)。なお、同著が「研究途上のとくに不 安定な経過点を示す仕事」であったという、小林自身の回顧(小林 Ⅲ: 433 頁)も参照のこと。 5) 引用文中のゴチック強調は引用者自身のもの、以下同じ。

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こでは、そうした社会思想史や経済思想史だけではなく、「歴史的・実践的意 義を強調する」狭い意味での学説史研究そのものが陥りやすい「歴史的相対主 義」の問題が指摘されている。内田が「鼎談」で、学説史研究における小林の 思考方法を「政策→理論→政策」と評したとき念頭にあった問題が、これであ る。実践的(=政策的)有効性を重視する学説史研究がときとして陥りがちな 「歴史的相対主義」の問題は、重商主義(原始蓄積期)の経済理論とスミス経済 学との関連を論じるばあいに、より具体的なかたちで現れてくる。「原蓄国家 のとった原始蓄積のための槓桿たる諸政策は、資本主義社会の生誕にとって一 つの歴史的必然性をもっており、その限り、それらの政策を理論的に基礎づけ たところの重商主義的経済理論は、当時の資本主義にとってりっぱに実践的意 義をになっていたということは否定しえないであろう。その意味においては、 原蓄段階での重商主義理論は、原蓄揚棄の段階に古典派経済学がもっていたと 全く同じ実践的有効性をもっていたといえる。だが、このことから、この二つ の、すなわち、重商主義の理論と古典派経済学の理論が、資本主義なる社会体 制=歴史分析の科学としての有効性において、まったく同じものをもっていた ということは決してできない」(内田(1): 31-32頁)。小林が一貫して精力的 に進めてきた原始蓄積期の経済理論(ステュアート)と資本制蓄積の経済理論 (スミス)との比較研究が、両者の理論的対立を一面的に強調する「歴史的相 対主義」におわるのは、内田によれば、資本主義経済をいかに育んだのかとい う、理論の政策的有効性のみに分析が限定されているからである6) 小林は、『生誕』が出版された二ヵ月後の『経済評論』([1954]年1月号)に、 6) さらに内田は次のようにも論じている。理論の実践的有効性を強調する学説史研究が陥りがち な、「こういう混同は、一見して明白であって起こりうべくもないはずであるのに、学説史家は 従来しばしばこの種の混同におちいってきた。しかも、この混同の危険は、経済学の発展を基礎 過程からきりはなしてとりあつかったり、この二つを機械的に結びつけたりする無意味さをさ け、基礎過程における問題を検出し、それに当該の体系がどう答えたかという見地から経済学の 生成=発展をとくという、そのかぎりでは明らかに正しい立場にたって、経済学の研究をすすめ るというまさにその場合に起こってくる」(内田 (1): 32 頁)。この指摘は、そのご「経済史へ の学史的〔および思想史的〕接近」(小林[1955b]: 245 頁)や「経済史研究における学史的 接近」(小林[1955a]: 342 頁)と表現される小林の方法論に対する懐疑の言葉として読むこ とができるだろう。

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同著の書評を掲載する。小林の筆致は、上に言及した「序説」と「前編・経済 学の生誕 旧帝国主義批判としての『国富論』」、それから「後編・『国富論』 体系分析」へと、『生誕』の全編に及んでいる。書評で「私見」として提起され た論点は三点である。第一点は、『生誕』前編で内田が「スミスをブルジョア・ ラディカリズムの地盤から描き出そうとしている」(小林 Ⅸ: 16頁)ことへの 疑問である。小林によれば、「「時論」としての『国富論』の有効性は、……政治 上のラディカリズムを経済的改革に置きかえて(生得の人権から消費者の利益 へ)ラディカリズムの直接の目標をそらせたという意味において、またイギリ スが締結を欲する諸通商条約のための武器として現実に用いられたという意味 において、……いっそう慎重な含みをもって理解されるべき」(同: 16-17頁) であった。つまりスミスは、ジョサイア・タッカーと同じく、ラディカリズム に対抗する「保守主義」のイデオローグであったのだから、小林は、スミスを 「ブルジョア=ラディカルズ……との関連」に引きつけすぎて解釈することには 問題がある7)、というのである。第二点は、重商主義理論(とくにステュアー ト)の提起した貨幣理論の評価がなされていないだけではなく、「スミスの経 済理論プロパーのさまざまな想原……が、ケネーのみならずイギリス重商主義 経済学の諸文献に即して、もっと慎重に探られるべき」(同: 17-18頁)という 指摘である。これは、『生誕』後編への問題提起である。そして、「『生誕』に おける社会思想史的接近〔前篇〕と経済学史的接近〔後編〕とのあいだの齟齬 の問題」(小林 Ⅳ: 425頁)という、やや難解な主張を含む第三点は、『生誕』 「序説」で指摘された、小林批判に(それとは明示することなく)、反論したも のと理解してよいだろう。 もっとも、「第一の論点をのぞいてはかならずしも内在的批判ではない」(同: 18頁)との言明にもあるとおり、そのご本格化する内田・小林論争は、小林 が指摘した第一の論点、すなわち、スミス経済学の地盤をめぐる「ラディカリ ズムvs. 保守主義」という対立構図のなかで展開されることになる。 7) この点は、のちに詳しく検証することになるが、内田の描くラディカルなスミス像とは、一部に 誤解があるように、スミスが政治的急進主義者だという意味ではない。小林の内田批判は、その ような断定を慎重に回避しつつなされていることに注意しなければならない。

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II 論争の展開

『重商主義解体期の研究』[1955a]は、齢40を目前にしてすでに円熟の域 に達したことを示す、小林の傑作である。序論「アダム・スミスと重商主義」・ 本論「重商主義の解体 ジョサイア・タッカーと産業革命」・補論「重商主義 における市場の形成 デフォウ『イギリスの経済事情』について」の三構成 の、わずか三論文からなる著作であって、もちろん本書の中心は、本論のタッ カー研究である。本論におかれた「重商主義の解体」は、もともと「ジョサイ ア・タッカー小論 アメリカ革命とイギリス産業資本」というタイトルで、 福島大学『商学論集』に4回に分けて掲載された論考に、さらに手を加えたも のである。これだけで同著の240頁以上を占める、文字どおりの「大論文」8) である。内田は、この小林のタッカー研究を評して、「タッカーに関する特殊研 究としても、クラーク、シャイラーの古典的な研究に伍し、むしろ経済史的・ 経済学史的解釈の面においてはそれをはるかにぬくもの」であり、「イギリス 資本主義と古典経済学の形成という、当面のテーマにとっても、示唆するとこ ろもっとも大きい」(内田(3): 45頁)と、称賛の言葉を惜しまなかった。そ れゆえ、『解体期の研究』にたいする内田の書評論文「タッカーとスミス」も、 この浩瀚な小林のタッカー研究を批評の中心に据えて書かれたものである。 小林は『解体期の研究』において、保護主義者として出発したタッカーが、 イギリス北部(バーミンガムを中心とする)ミッドランドで進行しつつある産 業革命(機械制生産と工場制度)の動向を、スミスに先行していち早く洞察し、 産業資本のための経済的自由主義の先覚者たりえたことを指摘するとともに、 彼が(スミスと同じく)名誉革命体制を擁護する政治的な保守主義者として、 ロッキアンを中心とする当時の急進主義思想を批判した次第を詳細に論じた。 つまり、重商主義的保護主義から自由貿易論へと脱皮を遂げたスミスの同時代 人タッカーをキーパースンとして、小林は、「経済的自由主義」と「政治的保守 8) 小林は、その成果にいささかの自負心をもって次のように語っている。「私のタッカー研究は、 本文中にあげた W・E・クラークと R・L・シャイラーとの研究を継いでなったものとして、現 在でもなお、タッカーにかんする最新の詳細なモノグラフィーであり、私自身がその水準の越え られるのを見ることをもっとも期待している研究である」(小林 Ⅳ: 409 頁)。

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主義」とが「結合の必然性」(小林 Ⅳ: 219頁)にあったことを明らかにし、そ れによって内田が描いたラディカルなスミス像を批判しようとしたのである。 しかし、それは同時に、『生誕』のスミス解釈をその根底において支える、前 篇「付論」の歴史研究そのものの修正を迫るものでなければならないだろう。 さて、内田の書評論文が提起した問題 小林はこれを内田の「反批判」9) とよぶ を、小林自身の整理(同: 425-27頁)にしたがって列挙するならば、 次の4点にまとめることができる。 (一)「タッカーにはまだ十分な国内市場論がなく、したがって再生産論がな く、価値の認識が示されるばあいにも、それは価値への下降のケースにすぎな い。だから、『国富論』第四編の重商主義批判はたとえ一面的に見えようとも、 またそのかぎりかえってタッカーとスミスとに近接がみられるとしても、『国 富論』全編のスミスはタッカーをはるかに越えている。」 (二)「スミスが重商主義の歴史的意義を知らなかったとするのは正しいが、 一面でスミスは近代的生産力の根源となった、『小生産者の解放・それを起点 とする国内市場形成』について、また『そのかぎり・・イギリス=重商主義の 歴史的意義・近代生産力の起点について、≪タッカーに比して≫より明確な認 識をもっていたといいうるであろう』。」 (三)「小生産者の解放、すなわち『あらたに上昇を開始しつつあるものとし ての独立小生産者、それとなお結びつきあう小資本家』、あるいは『問屋から 解放された小生産者』の生成は、重商主義期にあっては惨烈な『保護=強圧』 をともなう『原始蓄積過程とオーヴァ・ラップしてあらわれてくるとみるのが 正しいのではないか。』『それをおさえなければスミスの時代のラディカルズの もつ意味もおさえられない〔以下、筆者(渡辺)による省略〕10) ……。 (四)「したがって、モッブとラディカルズ=ロッキァンとを小生産者的反動 者として同一視することになった、『タッカーの早すぎた産業革命認識(労使 9) 小林は、論争が「「重商主義の解体」〔タッカー論〕……を機縁として行われた」と述べている が、しかし書評論文「タッカーとスミス」が内田からの「反批判」であるという認識は、小林の タッカー論文が内田『生誕』批判を内的動機として書かれたことを物語っている。 10) 省略部分については、Ⅲ節であらためて引用し検討する。

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峻別、機械の超絶的認識)のなかに、かえって、重商主義の反映がみいだされ るのであって、……タッカーの機械への関心とモッブきらいには、やはり古い ブリストル的立場が反映しているように思えるのだ。』小林はタッカーをバー ミンガムとの関係においてとらえよというが、『このバーミンガムが、リュー ナー・ソサイアティにおいて集中的な表現を見るように、正しくラディカル ズの巣であったということを、小林氏はどう理解されようというのであろう か』。……そして、『以上のように考えれば、タッカーをスミスの地盤よりおく れていたとする「単純な見解」は、スミスをあまりにラディカルズに引きつけ て考える「謬見」とともに、なお、かえりみられねばならぬものをもっている のではなかろうか。スミスの保守的側面は、スミスの進歩的側面を十分に考慮 に入れたうえで、始めて考えられるべき問題である』。」 周知のように、内田の書評論文は、「いずれにせよ問題はおたがいの積極的 成果のなかで、漸次解明せられるべきものと考えられる。ぼくも勉強する。君 もまた教えてくれたまえ」という言葉で結ばれている。しかしそのご内田から の新たな「成果」の提示はなく11)、彼の逝去をもって、論争は未決のままに終 わる。タッカー研究が再録された小林『著作集 Ⅳ』の刊行は1977年であるか ら、その「あとがき」で上記のような論点整理がなされたのは、内田の書評論 文が『古典経済学研究・上巻』[1957]に発表されてからちょうど20年後の ことであったが、小林は、その意図について、次のように述べている。「わた くしは、いまとなって論争をむしかえして新たに内田氏に応答を求めようと考 えている」のではない。ただ、「『生誕』への私の書評のなかに示された前記の 三つの『私見』は、『タッカーとスミス』における内田氏の四つの反批判にも かかわらずなお生きているとわたくしみずからが考えていることを、現代の研 究者の世代のために、この機会にしるしとどめておきたいのである」(同: 430 頁)。小林は、このように語ったが、内田はなお沈黙を守りつづけた。 すでに指摘したように、『生誕』への書評で小林が「私見」として提起した 第一の論点は、内田が前編で「スミスをブルジョア・ラディカリズムの地盤か 11) 正確にいえば、内田は『経済学史講義』[1961]と『増補・経済学の生誕』[1962]を出版して いるのだが、ここでは直接言及することはできない。

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ら描き出そうとしている」ことへの疑問であった。そして、この「第一の論点 をのぞいてはかならずしも〔『生誕』への〕内在的批判ではない」とされてい た。いわゆる内田・小林論争とは、そもそも小林自身が述べたように、『解体期 の研究』の本論である「「重商主義の解体」〔タッカー研究〕……を機縁として 行われた」ものである。それゆえ、同著の書評論文で内田が提起した「四つの 反批判」は、これもまた小林自身による論点整理から明らかなように、そのす べてが、「タッカーとスミス」をめぐる「第一の論点」に帰着するものである。 だがそうだとすれば、『生誕』への書評で示された「三つの『私見』は、…… 内田氏の四つの反批判にもかかわらずなお生きている」という(原文では全 文が傍点強調の)前掲の文言は、内田の批評論文への「感想」としてはやや適 格性を欠く勇み足のように思われる12)。もともと内田は、「四つの反批判」を 提起する直前に、「スミスの重商主義理解は、小林氏の言うような意味におい て誤っていたのか。スミスにおける独立小生産者的色彩の意味如何。そして、 タッカーは真実に、そのよって立つ基礎において、またその産業革命の洞察に おいて、スミスをぬきんでていたのか。」(内田(3): 61-2頁) 問題を、以 上の論点に限定していたことを、ここで想起しなければならない。しかも小林 による論点整理は、それを内田の「四つの反批判」の内容と比較してみると、 おおむね的確であるとはいえ、しかしその論点のすべてが、かならずしも内 田の主張に沿った整理でないことがわかる。この点はのちに言及するとして、 もうひとつ論争の理解にかかわる重大な問題をあらかじめ指摘しておきたい。 小林は、ラディカルなスミス解釈をめぐる論点(四)以外の内田の「反批判」 (一)∼(三)について、次のように論じているからである。 「その批、判に、 ついては、はじめから、内田氏の指摘が私自身の認識と大きく異なっていると は思わず、したがって批評が的を射たものだとは受けとりがたかった。という 12) 私は、『生誕』への書評で示された小林の「三つの『私見』」のうち、第二および第三の論点が、 小林のタッカー研究と無関係であると主張したいのではない。ただ、いわゆる内田・小林論争の 本丸は内田のラディカルなスミス像の是非にあるというのが当事者間の共通認識であるのだか ら、1977 年になって小林が論争の範囲を拡大することは良策とは思えないし、かえって『解体 期の研究』の本論(タッカー研究)を直接の「機縁として行われた」論争の焦点を曖昧にする惧 れがある、と私は指摘したいのである。

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のは、わたくしは『重商主義の解体』と前、後、す、る頃以来、自己の抱懐する問題、 の 、 内 、 発 、 的方向に従って、しかもやがては内田氏の右〔前掲〕の評言 という よりもむしろ『生誕』自体の立言 をも意識のなかに置きつつ、あらたに研 究を続行したのであったが、それの到達した諸成果は、そ、れ、ら、の、母、体、で、あ、り、一、 、 部 、 は 、 帰 、 結 、 で 、 も 、 あ 、 る 、 『 、 重 、 商 、 主 、 義 、 の 、 解 、 体 、 』 、 自 、 体 、 が、その大筋では、内田氏の批判= 氏の立言のうちの第一−第三の点とはむしろ一致することを示しているからで ある」13)(小林Ⅳ : 427頁)。 この文章がとくに注目に値するのは、タッカー研究と相前後して鋭意遂行さ れた「経済史研究における学史的接近」(小林[1955a]: 342頁)の諸成果が、 内田の歴史研究(『生誕』付論「スミス経済学の地盤 イギリス重商主義と その解体」)と「その大筋では……むしろ一致する」ことを、小林自身が率直 に認めているからである。また、その時期の小林の研究動機として、内田の書 評論文をさらに溯る「『生誕』自体の立言」14)に言及していることは、小林の 意識のなかにあった「論争の発端」を明らかにする重要な証言として、まこと に興味深いものがある。 だが、重商主義の解体→産業革命の開始という18世紀イギリスの歴史把握 について内田と小林のあいだに意見の齟齬がないとすれば、この小論の課題で ある「重商主義の解体とスミス経済学の地盤」をめぐる両者の争点を、われわれ はどのように理解したらよいのだろうか。節をあらため論じることにしたい。

III 論争の総括とスミス研究の課題

前節末で明らかにしたように、小林は、タッカー研究と相前後して出版され た諸成果から判断したとき、「『重商主義の解体』自体が、その大筋では、内田 氏の批判=氏の立言のうちの第一−第三の点とはむしろ一致することを示して いる」と述べ、重商主義の解体から産業革命の開始(=産業資本の確立)にい 13) 傍点強調は、小林自身のもの。 14) もちろん「『生誕』自体の立言」が具体的に何を意味するのか、この箇所だけでは判然としない。 私は、内田のラディカルなスミス解釈だけではなく、Ⅰ節(論争の発端)で指摘した、『生誕』 「序説」の(学説史の方法論を含む)小林批判が念頭におかれている、と推測する。

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たる18世紀イギリス史の理解については、内田とのあいだに大きな齟齬はな いと指摘した。とはいえ、小林が整理した論点(一)∼(三)を、内田自身の主 張と比較検討すれば、両者の重商主義(原始的蓄積過程)の歴史的評価には看 過できない違いがあることがわかる。小林は、「イギリス重商主義の本質」を 保護主義に求め、その保護政策体系が、やがて産業革命を引き起こす背景(諸 条件)を整備し、経済的自由を希求する産業資本とその古典学説を成立させた のだと主張する。ここでは、その典拠として『解体期の研究』序論「アダム・ スミスと重商主義」から次の一文を引いておきたい。「重商主義の歴史的意義 は、それが産業革命と経済的自由主義とを生み、またみずからの批判者として の経済理論体系とくに『国富論』を成立せしめた点に存する……」(小林 Ⅱ:402 頁)。それゆえ小林によれば、スミスは、重商主義政策を批判するのに急なあ まり、保護主義が自らの依って立つ経済学の地盤を育むに至ったという、イギ リス重商主義(=保護主義)の歴史的意義を正当に評価できなかったのである (小林 Ⅳ: 406頁)。 それに対して内田は、次のように主張する。「近代資本主義は、自由な小農 民の創出・独立小生産者の解放・そのうえでの原始的蓄積過程の強行、この二 つを歴史的基礎にもっている。だから、単なる保護主義は必ずしもイギリス重 商主義の本質を表しえない」(内田(3): 64頁)。内田がイギリス重商主義(原 始的蓄積過程)の特質と考えるのは、イングランド北部の農村工業地帯におい て推進された農民層および独立小生産者層の両極分解であり、この両極分解の 歴史過程こそが、なお問屋制支配のもとに毛織物生産が行われていたイングラ ンド南部とは異なる、イギリス資本主義(=産業資本)の自生的な発展の基礎 となるものであった。ここで内田が参照を求めるのは、大塚久雄の議論15) ある。だが内田は、「自由な小農民の創出・独立小生産者の解放」と「そのう えでの原始的蓄積過程の強行」とを資本主義形成の歴史的二段階として機械的 に分離すること反対し、さらに次のように論じている。「むしろ、歴史におい 15) 内田 (1), 152 頁以下。参照が求められている大塚の著作は、「問屋制度の近代的形態」(『大塚 久雄著作集』第三巻[1969]所収、岩波書店)と「綜劃運動と農村工業」(同第五巻[1969]所 収)である。

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てはこの二つの側面がからみあっている、すなわち、小生産者の解放は原始的 蓄積過程とオーヴァラップして現れてくると見るのが正しいのではないか。問 屋から解放された小生産者が、この時代を通じて、新たに独立の小生産者とし て発足し急速に大工業の段階にはいりこんでゆく。なかんずく、ふるい地帯か ら新興の・より自由な地帯(北部、ミッドランド!)へと移動を行いながら」 (同: 66頁)。 田中真晴は、この「タッカーとスミス」が収められた内田編『古典経済学研 究・上巻』の書評16)1957]を書いたが、そのなかで「いま、『生誕』前篇付論 を読みかえしてみると、内田氏のスミス時代の基礎過程把握はやはりすぐれた ものであるという感をふかくする。スミス時代におけるイングランド北部(= 独立生産者の両極分解の地帯)と南部(=問屋制が強固に残存する地帯)とを 対照し、スミスを北部と結びつける内田氏の着眼はするどい」(田中[2001]: 287-88頁)と指摘している。小林は、「わたくしはタッカーの経済思想の基礎 に小商品生産者の世界を認めており、……わたくしの『ヴァンダーリント』や 『初期利子論史』では、内田氏のいうところと異なり、上、昇、す、る小生産者にでは、 なく、原始蓄積体制のなかで 、 没 、 落 、 す 、 る小生産者に照明があてられている」(小 林 Ⅳ: 406頁)と述べているが、しかしこの内田への反論は、小林の「重商主 義の解体」が、もっぱら「 、 上 、 昇 、 す 、 る小生産者」に焦点をあてたタッカー研究で あることに変更を加えるものではない。 さてここで、小林が内田の「反批判」(三)として整理した論点の最後の引 用文を、私が省略した個所を含めて内田から全文引用しておきたい。それは、 前掲66頁に続く文章である。「むろん、スミスが本来の意味における小独立 生産者のイデオローグだと言うのではない。スミスはレッキとした資本家のイ デオローグである。しかし、これらのいわゆるリリパット的資本主義、(たん なる残存物ではなく)あらたに上昇を開始しつつあるものとしての独立小生産 者、それとなお結びつきあう小資本家、それをおさえなければスミスの時代の 16) 福島大学『商学論集』に掲載された田中真晴の書評について、小林は、当時の学界の誤解を免れ た「例外」とコメントしている(小林 Ⅳ: 414 頁)。この書評については、それを収録した田中 [2001]から引用する。私自身もまた、田中の書評に垣間見る鋭い着眼から多くを学んでいる。

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ラディカルズのもつ意味もおさえられないし、また、スミスのなかに、なにゆ え独立生産者的な思考がはいりこんでいるのか、その意味、そしてまた、スミ スが何故ラディカルズにうけつがれてくる面があるのか、は見失われるであろ う」(内田(3): 66頁)。この文意をありのままに読めば、内田が語っているの は、「スミス経済学の地盤」のことであって、スミス自身が政治的ラディカリ ズムの支持者であるなどといった議論でないことは明らかである。イギリス産 業革命は、重商主義的な「保護と統制」が残存するイングランド「南西部およ び東南部」では起こらずに、そういう伝統的な規制から自由であったミッドラ ンドを含むイングランド「北部」の農村工業として始まった17)。したがって 内田が論じているのは、農民層と独立小生産者の「両極分解」がいわば自生的 に進行しつつあるイングランド北部18)を地盤として、スミスの経済学(『国富 論』)とその経済的自由主義の思想は成立したということである。 いわゆる内田・小林論争とは、『生誕』前編で内田が「スミスをブルジョア・ ラディカリズムの地盤から描き出そうとしている」ことの是非をめぐる問題で あるが、それは一部に誤解があるように、内田が「スミスの政治的立場」をラ ディカリズムに求めたという問題ではなかった19)。したがって、「スミスをあ 17) イギリスの産業革命が、農民層と独立小生産者の「両極分解」の自生的な進行を基礎として起 こったということは、内田にとってそれが政府の関与とまったく無関係に進行したことを意味 するものではない。「80 年代までは、産業ブルジョアジーの中心はいまだ農村的性格をおびた 上昇する master weaver であり、この段階ではかれはまた小土地所有者でもある。しかるに weaver =小土地所有者は自らの中からファーマーと紡績資本家を生みだしながら急速に没落し てゆく。近代地主=ピットの強圧政策がこの過程を強力に保証する。かくして 1810 年代におい てはすでに大紡績資本が weaver を完全に支配している」(内田 (1): 146 頁の注 2)。なお、産 業革命への政府の役割(見える手)を重視する最近の研究として、Magnusson[2009]がある。 18) 内田は、ミッドランドを含むイングランド北部を一体のものと捉えているが、毛織物工業が盛ん なヨークシャー(ウエスト・ライディング)と綿工業のランカシャー、そしてバーミンガムを 中心とするミッドランドの金属工業や製鉄業など、かなりの地域差があることは明らかである (Hudson [1992]: pp.115-26, 153-66 頁)。なおハドソンの研究は、さらに産業革命期にお ける「機械工業と小経営の連関・連携」(重富[1994]: 123-25 頁)を強調しているがゆえに、 内田の「両極分解」解釈にとってきわめて重要な意味をもつ。 19) 酒井[1998]は、次のように指摘している。「スミスの政治的立場は、これまで、有名な内田= 小林論争に見られるように、『急進主義 対 保守主義』という対立図式のなかで問われていたが、 そうした問題設定の枠組み自体があらためて再検討されねばならないのではないか」(208 頁、

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まりにもラディカルズに近寄せて考えるのは誤りだという小林氏の主張は、た しかに正しい面をもっている」(田中[2001]: 299頁)けれども、「スミスの 思想とラディカルズとの関係」についての挙証責任が内田の側にあるかのよう に理解するのは正しくない20)。内田が、小林『著作集 Ⅳ』の出版以降も「沈 黙」を守りつづけた理由がこれである。スミスの経済学や思想が、内田の指摘 する意味において当時のラディカルズと関係していることは、小林も認める21) ところであって、むしろ、両者がまったく思想史的に無関係であることを証明 することの方が困難だと思われる。 小林が整理した内田の「反批判」(四)の最後に、「スミスの保守的側面は、 スミスの進歩的側面を十分に考慮に入れたうえで、初めて考えられるべき問題 である」(内田(3): 69頁)という一文がある。これは、内田の書評論文をし めくくる最終文節のなかにでてくるよく知られた記述であるが、もしかりに、 「スミスの進歩的側面」を純然たる政治的な意味でのラディカリズムのことと 解釈すると、内田の解釈では、名誉革命体制(=地主支配体制)を擁護すると いう意味での「保守主義」と、それをロッキアンの立場から攻撃する「ブル ジョア急進主義」という、同時代のまったく相対立する思潮がスミスのなかで 平然と同居していたことになる。内田の書評論文は、小林『著作集 Ⅳ』の刊 行から12年後の『著作集(3)』[1989]に、細かい字句修正を除けばまったく 手を加えずに再録された。もし、「スミスの進歩的側面」がブルジョア急進主 義と同義であるとすれば、内田は、最後まで、まったく矛盾したスミス像を自 ら提起したことに気づかぬまま逝去したことになるだろう22)。また、スミス 注 6)。私は、酒井の再検討の提案に同意したいが、しかし、内田・小林論争において「スミス の政治的立場」が「『急進主義 対 保守主義』という対立図式なかで問われていた」という理解 の仕方自体に問題があると思う。それは論争の当事者であった内田・小林の理解とは違うのでは なかろうか。 20) 坂本[2011]のきわめて周到な小林論は、この小論執筆において参考にした文献のひとつであ る。しかし、「内田の問題はここから始まる、……そこで内田は、状況証拠の積み重ねによって、 この隘路を抜け出そうとする」(31 頁)という、挙証責任を内田に求める解釈には同意できない。 21) たとえば小林(Ⅳ: 232 頁、Ⅸ: 17 頁)を参照。この点については、小林が参照を求めている 水田[1968]: 211 頁をみられたい。 22) 小林『著作集』において巻数と刊行の順番に入れ替わりがあったのは、第 2 巻と第 3 巻だけで

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研究者の誰一人として、その事実に気づかなかったことになるのだが、はたし てそうだろうか。私は、この小論で論じたように、「スミスの進歩的側面」と は、『国富論』が唱導する経済的自由主義の進歩的側面と解釈することが妥当 だと考えている。 小林は、「重商主義の解体」と題された浩瀚なタッカー研究を締めくくるに あたって、自らが論じた「タッカーとスミス」について、次のように総括して いる。 「もとより、タッカーにあってはその経済的自由主義がやがてその 政治的保守主義に援護されることになったのに反し、スミスにあってはその政 治上の保守主義から経済的自由主義が発展し、そのことがその全体系にラディ カルな基調を与えることになったという相違があり、それは根本的には、前者 における経済と政治との相互依存関係が後者に置いては経済による政治の包摂 にまで進んだという関係を示し、したがってタッカー→スミスという先後の段 階の存在と、スミスこそ経済的自由主義の真の建設者であるという事実とは、 これを見誤るべくもないところである」(小林 Ⅳ: 230頁)。 この一文は、小林が「タッカーをもってスミスに代置するといわんばかりの 論旨」(内田(3): 61頁)を展開しているという、内田のコメントが「行きす ぎ」であることを明らかにしている。じっさい内田は、「スミスが本来の意味 における独立小生産者のイデオローグだというのではない。スミスはレッキと した資本家のイデオローグである」と述べているのであるから、タッカーとス ミスが、ともに経済的自由主義と政治的保守主義の両面を合わせもつ同時代の 思想家であったことは、内田自身もまた認めるところであると思われる。それ ゆえ内田が書評論文の最後 小林による論点整理の(四) で要約したス ミスの「保守的側面」と「進歩的側面」との理解は、小林のタッカー研究の総 括とそれほど遠い距離にあるものではない。 あるが、内田『著作集』では、『生誕』を収めた第 1 巻が出版されたあと、経済学史関係の続刊 である第 2 巻と第 3 巻は、逝去後の出版となった。私は、その事情を詳らかにしないので、内 田の書評論文「タッカーとスミス」を収めた第 3 巻の出版が、最終第 10 巻の直前まで大幅に ずれ込んだという事実のみを、指摘するにとどめる。

(18)

むすびにかえて

内田・小林論争は、大塚史学の強い影響下にあった二人の卓越する思想史家 と学説史家の論争であった。小林の『解体期の研究』は大塚久雄に献じられて いるし、内田は小林と共同編者となって、1968年に大塚の「還暦論文集 Ⅲ」を 『資本主義の思想構造』(岩波書店)として刊行している。小林は、「経済史研 究における学史的接近」という自らの研究方法を披歴するにさいして、「経済 史学の領域における成果をまったく安定したものとするものではな〔い〕」(小 林[1955a]: 342頁)と言明しているが、大塚史学やその当時の歴史研究が小 林と内田双方の学史研究を時代的に大きく制約していることは明らかである。 一例をあげれば、小林も内田も、「イギリスにおける産業革命の本格的進展の 開始」を1760年に求めている。しかし、「工業化(industrialization)」という 用語の普及からもわかるように、近年のイギリス研究では、産業革命(工業化) の開始時期は80年代におかれ、経済成長に及ぼす工業生産の影響を過大視す る、いわゆる「激変説」を否定するのが一般的な傾向である(渡辺[2007])。 もっとも産業革命を牽引したとされる綿工業については、最近再評価に向けた 研究が進められているが、ただしそれは、「1780年から1830年にかけて綿工 業の急減な成長」があったことを認めるものである(田中[2009]: 93頁)。 それゆえ、「マニュファクチュア内の分業を描いたスミスの当時のイングラン ドには、すでに産業革命は深く潜行しており」(小林 Ⅸ: 16頁)、ヒュームを タッカーおよびスミスと分つものは、「この〔産業革命という〕分水界のいず れの側に彼らが位置したかという事実なのである」(小林 Ⅳ: 220頁)という、 論争当時の内田=小林の歴史解釈は根本的に再考の要があるとしなければなら ない。いまわが国のスミス研究に求められていることは、こうした歴史的制 約のもとで行われた内田・小林論争の到達点をしっかり見据えたうえで、近年 目まぐるしい展開を見せている「近代イギリス史」の最新の研究成果と『国富 論』の学史研究とのあいだで、小林のいう文字どおりの意味での「試行錯誤的 往反」(同)を試みることである。新しい歴史研究が提起する「史実」と、わ が国のスミス研究者が前提としている「歴史理解」との乖離が、これほどまで に大きくなってしまったことは、過去になかったと思うからである。

(19)

私は、こうしたモチーフから、2002年6月に神戸大学で開催された経済学 史学会関西部会第142回例会において、「内田・小林論争とスミス研究 重商 主義批判の社会的基盤をめぐって」というタイトルの学会報告をおこなった。 この小論は、このモチーフを引きつぎながら、内田・小林論争の内部に一歩踏 み込んで私見をまとめたものである。論争の当事者であった内田も小林も鬼籍 に入り、それぞれが戦後史を飾る学史研究の対象となっているが、論争の内部 に正面から踏みこんだモノグラフは、管見のかぎり存在しない23)。それゆえ、 いまだ試論の域をでない拙い研究ではあるが、ここで文章化して公表する意味 があると信ずる次第である。 なお、この小論では言及できなかった『国富論』研究の前提となる「近代イ ギリス史」の内外にわたる研究成果のサーヴェイとしては、Berg and Hudson [1992]、Hudson[1992]、Mokyr[ed.1999]、田中[1993, 2000]、中林[2002]、

湯沢[2002]、坂巻[2008]、重富[1994, 2013]、さらには地主ジェントリ論 やP. J.ケイン& A. G.ホプキンスの「ジェントルマン資本主義論」とスミス 経済学との関係を論じた渡辺[1998]を参照されたい。また、参考文献にあげ ている酒井の一連の論考[1997-2000]は挑戦的な研究であり、とくに「ある 織元の生涯と著作(1)∼(3)」[2005ab, 2006]は、タッカーと同じく保護主義 の立場の「織元」として出発した、非国教派(バプティスト)のウィリアム・ テンプルが、1760年代になるとタッカーとは逆にブルジョア急進主義者に転 じて活躍する次第を論じた力作である。産業革命を推進した主体には、ラディ カルズと密接に連携する非国教徒が多い点にも着目している。内田の立場を継 承し、発展させる意欲作として注目される。 23) 唯一の例外は星野[2001]であるが、対象となっているのは両者のスミス価値論解釈である。内 田については、すでに野沢[1995]、田中[1996]、鈴木[2010]、竹本[2009, 2010ab]など の周到な研究があり、小林についても、田中[1980]や、研究者としての内面にまで踏み込ん だ分析を行っている竹本[2008, 2011]や服部・竹本[2011]などの貴重な文献もあるが、い ずれも内田・小林論争そのものを主題としているわけではない。

(20)

参考文献 内田義彦(1913 年 2 月 25 日 - 1989 年 3 月 18 日) 内田義彦[1952]「(書評)小林昇『重商主義の経済理論』」(『内田義彦著作集 第 10 巻』岩波書店、1989 年) [1953]『経済学の生誕』〔増補版[1962]〕(『内田義彦著作集 第 1 巻』同、 1988 年)〔内田(1)〕 [1957]「タッカーとスミス 小林昇氏の近業『重商主義解体期の研究』 によせて」(同編『古典経済学研究・上巻』未来社、『内田義彦著 作集 第 3 巻』同、1989 年)〔内田(3)〕 [1961]『経済学史講義』(未来社『内田義彦著作集 第 2 巻』同、1989 年) [1975]「抜群の凝集力と迫力と 『小林昇経済学史著作集』」(『内田義 彦著作集第 6 巻』同、1988 年)    内田義彦・小林昇・水田洋[1976]「(特別鼎談)私たちのスミス研究」『週刊東洋 経済』臨時増刊号『近代経済学シリーズ』35 号「『国富論』200 年特集」〔内田(3)に収録されているが、ただし、「小見出し」 は省略されている。〕 小林 昇(1916 年 11 月 1 日 - 2010 年 6 月 8 日) 小林 昇[1952]『重商主義の経済理論』東洋経済新報社 [1954]「(書評)内田義彦『経済学の生誕』」〔小林Ⅸに所収〕 [1955a]『重商主義解体期の研究』未来社 [1955b](編著)『イギリス重商主義論』御茶の水書房 [1965]『原始蓄積期の経済諸理論』未来社 [1977]『小林昇経済学史著作集 Ⅳ イギリス重商主義研究(2)』未来 社〔小林 Ⅳ〕 [1979]『小林昇経済学史著作集 Ⅸ 経済学史評論』未来社〔小林Ⅸ〕 酒井 進[1997]「イギリス統治体制の動揺とアダム・スミス 法学から経済学 へ」(『専修経済学論集』第 32 巻第 2 号) [1998]「アダム・スミス 自由の弁証法」(同 第 32 巻第 3 号) [1999]「自由論の構図と経済学 ヒュームからスミスへ」(同 第 34 巻 第 2 号) [2000]「イギリス重商主義の経済=政治構造 スミスの経済学と政治 認識」(同 第 34 巻第 3 号) [2005a]「ある織元の生涯と著作 評伝ウィリアム・テンプル(1)」(同 第 39 巻第 3 号) [2005b]「ある織元の生涯と著作 評伝ウィリアム・テンプル(2)」(同 第 40 巻第 1 号)」

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[2006]「ある織元の生涯と著作 評伝ウィリアム・テンプル(3・完)」 (同 第 40 巻第 3 号) 坂巻 清[2008]「イギリス産業革命史研究の視点 その発端をめぐって」(『立 正史学』第 103 号) 坂本達哉[2011]「小林昇における学史と思想史の「試行錯誤的往反」の可能性を めぐって」(服部・竹本編『回想 小林 昇』) 重富公生[1994]「イギリス『産業革命』論の新たなリアリティ コールマン、ハ ドソン、ランデス」(神戸大学『国民経済雑誌』第 169 巻第 5 号) [2013]「イギリス『産業革命』論の新たなリアリティ(再訪) 技術 史をめぐる断章」(同 第 207 巻第 1 号) 水田 洋[1968]『アダム・スミス研究』未来社 鈴木信雄[2010]『内田義彦論 ひとつの戦後思想史』日本経済評論社 竹本 洋[2008]「小林昇の戦争体験と戦後非啓蒙のひとつの基点」(関西学院大 学『経済学論究』第 62 巻第 2 号) [2009]「「青年文化会議」の設立と内田義彦」(同 第 63 巻第 3 号) [2010a]「内田義彦におけるテクストの問題 : 方法としてのフィクショ ンとレトリック」(同 第 64 巻第 3 号) [2010b]「内田義彦と「青年文化会議」の啓蒙活動」(『大阪経大論集』第 61 巻第 1 号) [2011]「小林昇の経済学史研究 その果実と種子」(『立教経済学研究』 第 65 巻第 2 号) 田中章喜[1993]「産業革命はなかったのか イギリス経済の低成長と綿工業の 急成長」(國学院大学『政經論集』第 86 号) [2000]「再論イギリス産業革命 19 世紀イギリス綿工業の産業成長」 (『専修経済学論集』第 35 巻第 2 号) 田中敏弘[1980]「小林昇教授とイギリス重商主義研究 『小林昇経済学史著作 集』をめぐって」(関西学院大学『経済学論究』第 34 巻第 3 号、 同『イギリス経済思想史研究』御茶の水書房、1984 年所収) 田中秀夫[1996]「内田義彦とイギリス思想史研究」(『経済論叢』第 157 巻第 5・6 号) 田中真晴[1957]「(書評)内田義彦編『古典経済学研究』上巻」(福島大学『商学 論集』第 26 巻第 3 号、同『ウェーバー研究の諸論点 経済学 史との関連で』未来社、2001 年所収) 中林真幸[2002]「新しい産業革命像の可能性」(社会経済史学会編『社会経済史 学会の課題と展望』有斐閣) 野沢敏治[1995]「物質代謝の再建 内田義彦の遺産(1)(2)」(『千葉経済学研

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究』第 10 巻第 1 号、第 2 号) 服部正治・竹本洋編[2011]『回想 小林 昇』日本経済評論社 星野彰男[2001]「アダム・スミス研究の現状と将来」(『経済学史学会年報』第 39 号、同『アダム・スミスの経済思想 付加価値論と「見えざる 手」』関東学院大学出版会、2002 年所収) 湯沢 威[2002]「イギリス経済史の再構築に向けて」(『社会経済史学』第 58 巻 第 1 号) 渡辺恵一[1998]「ジェントルマン資本主義論とアダム・スミス」(『経済学史学会 年報』第 36 号) [2007]「産業革命」(日本イギリス哲学会編『イギリス哲学・思想辞典』 研究社)   

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