ケアとしての対話
†
―哲学カフェの実践から考える―
加藤ジオランデル
*・青柳 宏
**宇都宮大学大学院教育学研究科
*宇都宮大学教育学部
**Georandel Kato*, Hiroshi Aoyagi**: Dialogue as the Caring.
K e y w o r d s : P h i l o s o p h y C a f e , D i a l o g u e , Empathy, Caring, Counseling
* Graduate School of Education, Utsunomiya University
** Faculty of Education, Utsunomiya University (連絡先:[email protected] 著者2) 概要 哲学カフェにおけるケアのかたちは二つみられた。第一に、個人がカウンセリング的関わりを展開し ていくこと。第二に、参加者同士が自分を打ち出していくことで、相手の言葉を聴き、相手に自分の言葉を 聴かれる体験をすることによって自分をみつめ、他者をみつめていくような関係性をつくっていくこと。 ケアとしての対話は、無償の共感を基盤としながら互いの苦しみや問いを考え合う関係性を育むことであ る。哲学カフェにおける進行役は、自分と他者の無償の共感性を信じて従う存在としてその場にいることで、 ケアとしての対話の芽生えを助けることが可能になる。 キーワード:哲学カフェ、対話、共感、ケア、カウンセリング 1.はじめに 哲学カフェは、フランス・パリで偶然に生まれた。 ある日、哲学者のマルク・ソーテ(Marc Sautet, 1947-1998)が仲間たちと話し合うためにカフェに 集まったところ、「ここで哲学討論会があるらしい」 という誤った情報を聞きつけた人たちが大勢そこに 詰めかけてしまった。そこでソーテが進行役を演じ て討論が行われたのが、哲学カフェの始まりである。 その後、哲学カフェは世界中に広まっている。 日本においては、特に大阪大学大学院文学研究科 臨床哲学研究室のメンバーを中心に2005年に結成し た団体「カフェフィロ」が活発に哲学カフェなど対 話活動に取り組んでいる。課題図書を読んで対話を 進める哲学カフェ、絵画鑑賞をしながら対話する哲 学カフェ、自然観察した後に対話する哲学カフェな ど、様々な形式の哲学カフェがあるが、共通してい るのは進行役がいて、テーマについて参加者が話し て聞いて考えるという点である。講演会のように知 識が提供される場ではなく、ワークショップのよう に手順があって目標を達成する場でもない。純粋に テーマについてそれぞれの参加者が自分の体験や考 えを言葉にしていく場であり、相手の言葉を聴いて 再び自分で考える場である。(鷲田清一, 2014:xii-xiii) 私(加藤ジオランデル)は、2014年4月から7月ま でに11回、2015年に入ってから1回の計12回の実践 を行った。SNSなどで参加者を募り、一回の平均参 加者数は5 ∼ 10人である。開催の頻度は基本的に週 1回2時間で、場所は宇都宮大学内のラーニング・コ モンズや空き教室、大学近くのカフェで行った。参 加者は学部生が多く、進行役は私が務めた。哲学カ フェの対話の形式を大切にしながら、私自作の対話 型の物語や本からの引用を教材にしたり、思考実験 などを通してテーマについて考えてきた。これまで に扱ったテーマは、個人的利益・責任・選択・声が 届くこと・教育・民主主義である。始めた当初は一 回に1テーマだったが、教育と民主主義に関しては 複数回にわたって取り上げ、できるだけ同じ参加者 で対話し続ける方法に変更した。その理由は、参加 者からもう一度このテーマで考えたいという要望が あったことと、テーマに関する思考が深まっていく ためには時間をかける必要があると考えたからだ。 また、自分の言葉と相手の言葉にこだわって考え続 ける機会になると考えたからである。 ところで、哲学的対話の基盤にケアとしての対話 宇都宮大学教育学部教育実践紀要 第1号 2015年8月1日
の存在があるのではないだろうか。ケアとしての対 話の前提としてケアしケアされる関係性が必要不可 欠ではないだろうか。そのような対話を実現するた めに進行役は、何を意識して臨めばよいのだろうか。 本論文は、哲学カフェにみられる二つの対話から以 上の問いについて考察する。 2.哲学カフェにおける二つの対話 2.1.哲学的対話 哲学カフェにみられる主な対話は、話される内容 に関する自分の主張を相手に正確に伝え、理解して もらうために自分の体験をある程度抽象化する。語 り手は話し方と話す内容の簡潔さ、論理性に配慮し ながら話す。その際は、その場で話されている内容 と他者の主張を踏まえながら思考し、聴き手に伝わ るように工夫する。聴き手は、話されている内容か ら話し手の論理を読み取り、それを受けて自分の体 験から思考し、言葉にする。したがって、哲学的対 話とは、テーマに関する論理を積み上げ、自分たち が何をわかっていて、何がわからないのかを明確に していくことである。そして、テーマのより深い部 分に踏み込むための道を拓き、テーマに対する自分 の考え方の拠り所となるものを相手と言葉を交えな がら明らかにしていくことといえるだろう。例とし て以下のような対話が挙げられる。「選択」に関す る対話型の物語を読んだ後に、二人の登場人物(サ キちゃん・カイくん)の考え方の違いを比較してい る場面である。 E:周囲の環境と運と自分の意志の比重が違うんだ よね。二人は。 F:大事にしてるものが違う。 進行役(以下、「進」と略記):僕たちはなにを大事 にしてるの?「カイ君」は、環境が僕たちを左右し ている。「サキちゃん」は、自分の意志が重要なん だと。 G:場による。先輩がたくさんいる状況だったらしゃ べらないし・・・。環境と自分でどっちが大きいか 比べてるんじゃないかな。 F:でも、言いやすい環境を作ろうとする努力はで きるし・・・。私は自分の意志を大事にしているけど、 環境が私に影響していることも自覚している。アプ ローチの仕方? E:選択に対するアプローチ? F:「こうしたい」っていうのは選択? H:意志。 F:意志を形にすると選択? H:こうしたい、だからこれをしようが選択。 進:意志ってなに? H:願望なのかな。したいだから。したいが願望、 しようが意志、するが選択? E:しようが意志? F:しようってなったときのやり方が選択? H:しようとした時点で選択?例えば、アイスが食 べたい!アイスを食べるためにコンビニ行こう!が 意志。選択はどこだ? F:何をたべよう?なんのアイスを食べよう? 進:食べたい!がアイスよりも先なんじゃない? H:本質的な欲求ってかんじ。 E:欲求から周りの様子を考えて意志があるのかな。 F: 欲 求 の 後 に 無 意 識 的 に 理 由 づ け が さ れ て、 wantになるってこと? E:最初の時点でwantになっている。 H:しようのところから選択が始まってるのかな。 G:選択ってすごい小さいんじゃないのかなと思っ て。ここにもあるし、そこにもあるし。 H:ちょこちょこ選択がいっぱい。 G:大きい選択、これが判断なのかな。 全員:あー H:大きい選択が判断・・・ E:今、納得した。 H:選択はちょこちょこいろんなところにあって、 いろんな選択をしたうえの大きな選択が判断。 E:選択と判断。選択を考えるうえで判断はすごい 重要になってくる。 F:もう一回。もう一回。もう一回言って。 E:選択がなにかを考えるときに判断がかなり重要 になる。 F:最終的にあるのが判断で、ちょこちょこあるの が選択? E:判断のなかに選択がある?それか段階?判断と いう最後の選択のまえに選択がある? H:一つの判断という選択をするためにいろんな 小っちゃい選択・選択・選択を終えて、一つの判断 がくだされるってことなんじゃないかな。 E:さっきさ、環境と意志の比重って言ったけど、 何のときの環境と意志の比重なんだろうって考え ちゃったんだけど、判断をするときの要素として環
境と意志の比重があるのかなと 全:あー E:判断するときに環境と意志の比重を考える。「カ イくん」と「サキちゃん」は、判断するときの比重 の違いが違う。 進:食べたいという欲求があって、アイスを食べよ うという意志?までにミニ選択があって。アイスと いう答えに至るまでに暑いから冷たいもの、冷たい もののなかでもアイス、アイスのなかでもスーパー カップみたいなミニ選択があります。そして? F:やっぱり、手に入れようですよね? E:行動? G:食べたいから食べるまでにいっぱいある。 E:一番上に来るのは判断になるのかな?階層と したら一番下に欲求がでてきて小さな選択があっ て・・・ F:欲求、選択、判断。大きく分けると。意志と選 択はセット? E:意志と何かで考えてたけど、意志と選択が・・・ F:意志×選択?選択したいと思うから選択するし、 選択するためには意志がいるし・・・ H:意志があるから選択がある?意志×選択って表 現がいいかも。 進:意志×選択=判断でいいの? E:判断こそ自分が一番最後に選んでる選択だと思う。 進:ミニマムの逆はマックス?マックス選択? G:アイス食べたい、でも雨が降ってるから、コン ビニに行かない。とか。あれ、選択ってなに?今の 例はおかしかったかも。 F:雨が降っているという環境から行きたくないと いう意志が出て、行かないという選択がうまれて、 結果判断としてアイスは食べないという判断にな る?今の式に当てはめると。 G:判断は環境と意志を基準とするの? F:判断の前に環境と意志の比重が基準となってて、 意志と環境の量りを自分の中でしてるから、意志と 環境もセット? E:切り離せない。 F:雨だけど食べたい、やっぱり食べたいとか、∼ だから・∼だけどは環境、するorしないは意志。無 意識的にやっぱ環境には影響されてる。そこに立ち 向かうか立ち向かわないかは意志。 G:雨だけど食べるか、雨だから食べないとか。 E:中盤らへんにFが判断と直感と選択みたいなこ と言ってたけど、その時点で結構出てたってことだ よね。そこに行くまでにいろいろ話して、やっと判 断が・・・。選択は、判断なんだ。 ここでの対話は、選択の背景とそれに至るまでの 過程を細分化して考え、環境・欲求・意志・判断・ 行動などの要素について仮説を立てながら吟味して いる。吟味した後でそれらを階層化し、納得できる 形に再構成している。選択という言葉の意味にこだ わり、話されている内容の論理に合わせるように自 分の体験を抽象化して語っている。「選択」のイメー ジの違いについて論理性を軸にすり合わせながら議 論を深め、全員が納得できる一つの道筋を獲得する 対話である。こうした哲学的対話の基盤には、ケア としての対話が必要ではないかと考える。ケアとし ての対話とは以下のようなものである。 2.2.誰かの「告白」から始まる対話 第7 ∼ 11回までの哲学カフェでは、民主主義を テーマに対話をした。ここでとりあげるのは第9回 の対話の一部である。この部分は、自分のための生 き方とみんなのための生き方という人間の二重性に ついて「思いやり」の観点から対話を進めている。 思いやりがめぐっていく仕組みをつくる意見と、一 人ひとりに思いやりがあれば自然に良くなる意見の 二つがあり、「現代は、仕組みがあってもうまく思 いやりが回っていない状態なのではないか」という 問いが出てきた。仕組みに心が追い付いていないと いう意見に対して以下の対話がなされた。 A:思いやられてないのかな?みんな。 B:そんなことないよ。 進行役(以下、「進」と略記):そんなことないよね? D:思いやりに気が付けない状態にあるとか。いっ ぱいいっぱいで。 B:あたりまえに生きちゃうよね。いっぱいいっぱ いだと。誰かから思いやられていても自分の力で生 きてるっておもっちゃう。私もよくある。 A:いっぱいいっぱいになっちゃうのはなんでなん だろう? B:なんでなんだろう。私いつもいっぱいいっぱいだ。 進:思いやりもってるよ。 B:私、思いやりもちすぎちゃったかも。自分でい うのもあれだけど。
進:あるね。思いやりでからまわりしてるよ。 B:私、自分を大切にしてから相手を大切にすると いう感覚がもてないんだよね。なんか。未だにちゃ んと。 A:人を優先しちゃうってこと? B:人が幸せな状況だって認識して、そこに自分が いることに幸せに感じてしまう。だからいっぱい いっぱいになっちゃうのかな。それは、本当の思い やりじゃないかもしれないけど。その転換ができな いの。自分からって。自分を大切にしてから相手を 大切にしようっていう感覚にいつももっていけなく なっちゃう。 A:もっていきたいの? B:わからない。難しい。そうすることが。 A:そうなりたいなら意識したらいいし、今でもい いのかなって思ったらそれでもいいかもしれないし。 B:なんかでも、いろんな人に言われる。「自分が幸 せじゃないとみんなを幸せにできないよ」って。た ぶん、その人が言っている意図は「自分を大切にで きない人は、相手を大切にできない」って意図で言っ ているってなんとなくわかるんだよね。自分をちゃ んと敬えないと相手のことも敬えないよって。自分 がすごいって、自分のことってすごい否定的にみが ち。日本人は。自分の長所をのべなさいっていうこ とに対しても言える人は少ないかなって思うから。 A:卑下するってやつだよ。 B:だからこそ、その人が言っているのは「自分の いいところをちゃんと自分でいいって思えないと、 相手のいいところをいいって思えない」っていうふ うに言ってるんだと思う。日々。でも、なんかね。 A:ひっかかる? B:納得はしてるんだけど、できないんだよね。そ れが。それ大事だなって思うけど、結局相手からみ ちゃう。すごく。なんだろうね。それは思いやりじゃ ないのかもしれないけど。それこそ、空回りしてる 気がする。なんかしなきゃ、なんかしたいって思っ ちゃって。結局「自分は?自分は大丈夫?」って最 後はなる。 進:思いやりの弊害ですな? A:まだわからないよ。まだ結論はでてないよ。そ うなんだね。どういうところからそういう気持ちが 来るんだろう。 進:それは、義務感なの? B:義務じゃない。義務感ではやっていない。義務 感だと嫌になっちゃう。 進:自然にやっちゃうの? B:なんか、私すごい小さいときから変な子だった からさ。保育園のときから、人生の中で保育園が一 番嫌いだったんだけど・・・ 進:なんで? B:保育園のときにすごい責任感っていうものを押 し付けられたんだよ。すごく。それで、責任感って いうものを間接的にすごく押し付けられたの。親か らも保育園の先生からも。親から「自分が言った言 葉に責任を持ちなさい」って保育園のときからずっ と言われてたの。だから、習い事とかも「自分でや りたいと言ったものを一個やめるなら全部やめなさ いよ」みたいなくらいの親だったのね。保育園の先 生もなんかわからないけどすごく威圧的で、「何が できなきゃダメ」「これができなきゃダメ」とかで、 なんかわからないけどそれで勝手に責任感をもっ ちゃって。みんながやりたくないことを自分から やっちゃう子になっちゃったんだよ。そのときに。 嫌々だけどそのときは。例えば、醜いアヒルの子の 劇をやったときに、醜いアヒルの子の役なんて絶対 したくなかったのに、誰も手を挙げないから手を挙 げて、毎日保育園行くのが嫌だったという思い出も あるし。 A:ケアされてないね。 B:だからね、それがあるんだと思う。背景に。 A:義務感だね。それって。 進:間接的な責任を背負わされたっていうか。自分 で内側から出てきた責任でやってるわけではないよ ね。それが染みついちゃってるのかな? A:わからないよ。本人じゃないと。 B:染みついてるなと感じてた。高校まではそれは 自分の価値観だったからそれが正しいと思ってたけ ど、大学からなんか周りが違いすぎて、自分と。だ から、自由すぎたんだよ。周りがすごく。イライラ しかしなくて私。 A:「なんで自分がこうしてるのに」とかね。 B:「なんでもっと気をつかえないんだろう」とか。 なんで自由に生きることが周りを、こうなんかね、 犠牲じゃないけど自由に生きるってことはさ、誰か がそれを支えてるから自由になるのに、なんでそれ に気が付かないんだろう、っていうのをすごい考え てたときに「ああ、私、保育園のときダメだったん だ」みたいな。ダメだったという、それのときの価
値観だなって。気づいた。それが染みついて、今の そういうね。相手から思っちゃうっていうのがある 気がする。 すいません。こんなに話が長くなっちゃって。 A:そうなんだ。自分の実感としてはそことなんと なくつながる感じ? B:うん。すごいつながる。 A:うーん。 B:最初、すごい親をめっちゃ嫌になった。「親、 なんで」みたいな。って思ったけど、でもなんか、 わからないけど、それを乗り越えたらすごい親が好 きになった。なんか、そう思えるようにしてくれた んだって。逆に相手を。って思うとなんかすごい好 きになったけど。 A:逆にじゃ、「なにかをしない自分」を許せない のかもしれないし。 B:そう、それ。だよね? A:自分を許せてないのかもしれないね。 B:許せてないと思う。それが私の課題。 A:課題ってするほどじゃなくていいと思う。なる ほどね。 進:内側から湧いてきた他者への責任っていうのは ありだよね。自分からその他者に対して責任をもつ。 そういうのが思いやりなのかもしれないね。 B:そうだね。私、それに変わったから感謝できた のかもしれない。親に。なんか、外部からだとさ嫌 じゃん。こうしなきゃいけないっていうのを思って その人に何かをするって苦痛でしかないんだよね。 でも、自分の内側から本当にしたいと思ってしたら なんか自分も嬉しくなるから。なんか素直にできる 感じ。そう、その違いだ。うん。 ここで注目したいのは、Bの語りである。Bの語 りの内容は、現在の自分のルーツをたどるように過 去の体験を振り返っている。体験を抽象化すること なく可能な限り具体的に話すことで、いまの自分を 客観的視点からとらえなおそうとする強い意志が垣 間見える。個人的に秘密にしていたことや心の中で 思っていたことをありのまま打ち明けるような語り である。なぜBはこのような「告白」をしたのだろ うか。どのようにして「告白」に至ったのだろうか。 以下から、Bが参加した第7 ∼ 9回の民主主義に関 する対話の概要を説明しながらこの問いについて考 えていく。 第7回と8回までの民主主義に関する議論におい て、民主主義の基盤は、自分という存在を尊重し自 分としての意志や主張をもつ「自律した個人」であ ることが導き出された。ここで取り上げている第9 回では「自律した個人に求められることとは何か」 という問いから始まった。民主主義における自律し た個人に求められる条件として以下の3つが挙げら れた。①他者の存在を認識する、②「自分は完璧で はない」という謙虚さ、③自分の主張、である。③ と関連して政治に「興味関心がない」場合について は、「自分で生活を、社会を創っていこう」という 自覚の欠如が関係している。しかし、これは自分勝 手に振る舞うことではない。そのような自覚に加え て「みんなのために」という向社会的思考や行動が 求められる。向社会的思考や行動を実現する方法と して挙げられたのは、①思いやりがもてる仕組みを 創る、②個々人が自然に思いやりをもつ、の二つで ある。①は仕組みを創ることで思いやりを人工的に 作りだそうとしている。②は自然発生的な思いやり を育もうとしている。Bの「告白」は②に関する 「思いやられるからこそ思いやりがもてる。自ら思 いやりをもてないのは他者からの思いやりに気がつ けない状態にあるからだ」という意見をきっかけに 始まった。そして、第9回での最終的な問いは、「自 然と思いやりをもてるにはどうすればよいか」であ り、今回導き出されたのは①対話する、②アタッチ メント(愛着)の充足である。 第9回におけるBの「告白」の内容を整理してみ ると、Bは保育園での体験と親との関わりのなかで 自分の事だけでなく他者や場に対しても「自分が責 任を負わなければならない」と感じるようになった という。自分を大切にするよりも相手を大切にする ことを優先しがちになり、「相手のために何かして いなければならない」と自分を追い込み、「相手に 何かをしない自分」を許せなくなってしまった。そ れゆえ「自分はこんなにしているのに」と周囲の人 たちの他者に対する配慮の無さ、自由気ままな振る 舞いに苛立つようになった。 けれども、Bは自分のような義務的に責任を負う ことを思いやりとは考えていない。 なんか、外部からだとさ嫌じゃん。こうしなきゃ いけないっていうのを思ってその人に何かをす るって苦痛でしかないんだよね。でも、自分の
内側から本当にしたいと思ってしたらなんか自 分も嬉しくなるから。なんか素直にできる感じ。 そう、その違いだ。うん。 Bのこの発言から、Bは思いやりを内発的に他者へ の責任を負うことだと考えていたのである。Bは思 いやりをこのように心の底では感じていたがそれを 素直に出すことができないでいた。「そのように在り たい。でも、できない」という 藤がBの中に既にあっ たのである。「告白」を通して埋もれていた思いやり に対する直感や考えを思い起こしたといえる。Bは この気づきに至るためには「告白」が必須だったの ではないだろうか。そして、義務的に責任を負う自 分と他者に苛立つ自分に追い込まれて余裕を無くし 苦しんでいたのではないだろうか。そうした苦しみ を対話のなかで訴えたのではないだろうか。 「告白」とは、ただ他者に向けて自分の体験を話 すことではない。それも一種の告白だがここでとり あげる「告白」は、自分を対象化していまの自分の 起源を るような語りである。相手との合意形成を 目指すわけでも、自分の意見の正しさを証明するわ けでもない。それは具体的体験に降りていくだけで ある。Bが幼少期の体験からいまの自分を構成して いる要素を一つひとつ検討するように、懐かしさや 後悔、好奇心、 藤などの感情を含みこみながら体 験はリアリティをもって語られる。告白者自身が過 去の自分といまの自分の間を行き来しながらいまの 自分の現状を見つめ、その中で新たな発見をしてい く。すなわち「告白」は、過去の体験を振り返るな かでいまの自分の同一性を再確認しつつ、同時にそ の同一性から抜け出し、新しい「私」に出会う過程 である。 Bの各回の感想シートを振り返ってみると新しい 「私」に出会っていく過程が分かる。第7回での感想 は、「話し合いによって、自分の意見を出し、相手 の意見を聞き入れることを繰り返していくことで自 分の意見がだんだん整理されていった。もう少し、 意見を言う回数が平等になるように参加者同士が相 手を思いやることも大切だと思う。議論に知識は不 可欠だと思う。議論の前に知識を蓄えたい」であ る。議論それ自体に関する感想と議論の在り方への 提案、議論に対する反省が述べられている。 第8回での感想は、「民主主義のために必要なこと を掘り下げていくと『対話の関係』であることに気 づいた。対話を通してお互いの意見を自由に出しそ れを尊重するために必要なことは『妥協』ではなく 『納得』するということ。そう考えるだけで少し楽 になった気がした。自分の価値観は他者によってつ くられる。そのことに感謝して生きることができる ようになりたい」である。Bは自分の意見を抑えて 妥協することで他者の意見を通したり、その場を丸 く収める経験をしてきたのだろう。そして、自分が 妥協することは「他者の意見を尊重していること」 と考えるようになったのではないだろうか。第8回 の対話のなかで「納得」という視点を獲得して、妥 協するのではなく他者とわかるまで対話することの 可能性を見出し安心したことから、そう考えること ができる。 第9回での「告白」後の感想は、「大きな理想(自 分が思っている100%の理想)を達成するためには、 とことん『根本』を追求したくなるものだと思う。 今日の話で言う『民主主義』のための『思いやり』 のように。ただ、その理想を達成するためになんと かしたいと強く思うほど、『思いやり』というもの が構造的なものになってしまうのかなとも思った。 今日の対話の中で出た答えは、民主主義に必要なこ とは①自律すること。②自分の内から素直に他者を 思いやること。③自分を認めること。だということ です」Bが導き出した「自分を認めること」という 答えから、過去の自分を振り返るなかで現状を明確 に認識することができ、いまの自分から新たな自分 の可能性を切り拓いていこうとする意志がみえる。 「告白」をより詳しくみていくと、話されている 内容から脱線してでも漏れてしまう言葉の集まりが 「告白」である。それらの言葉は、告白者が抱えて いる生きづらさを内包している。「こうなるしかな かった自分」、「どうすることもできなかった自分」 というふうに過去の自分の在り方がいまの自分を形 づくっている事実から逃れられずにいることに苦し んでいるのである。自分で自分の首を絞めているこ とに自覚的であるからこそ他者に相談することがで きない。この苦しみから解放されたいと願っている。 告白者は「告白」のなかに苦しみの訴えを隠すよう に織り交ぜ、対話の場で吐露する。「告白」は、苦 しみの訴えとしての側面ももっているのである。 告白者は、「告白」する内容を事前に決めておいて、 「告白」するつもりで哲学カフェには参加していな い。「告白」を誰かに聴いてほしいから哲学カフェ
に参加したわけではない。「告白」はなにかを達成 しようとしたり、相手を納得させようとする意志に よってなされるものではない。明確な目的や目標が ない状態で「告白」はなされるのである。思わず「告 白」をしてしまうのは、なぜなのだろうか。それは、 Bの「告白」から始まる対話における聴き手の存在 と応答が深く関係していると考えられる。 2.3.カウンセリング的応答の可能性 Bの「告白」を促していたのは周囲の応答、特に Aの応答である。Aは、Bの気持ちと考えを引き出 すような問いを重ねていく。Bのより深い部分を探 るように問い、Bがおかれている状況やBの感情・ 考えなどをB自身が気づいていくようにAは問いを 進めている。Aがそのような方針のもとに応答して いたかは定かではないが、結果としてBは自身の現 状を客観的にみることにつながっている。 Aの発言からは自身の感情と考えは見られない。 あくまで断定や規定する枠をつくらない範囲でBの 言葉を補ったり、言い換えたりしてBの悩みの根本 を探る問いをすることに徹している。また、Aは「今 の状態がいいのか」、「もっと違う状態を手に入れた いのか」の選択をBにしっかり委ねている。これら のことから、AはBと一定の距離間を保ちながらB を理解していくことだけに集中することで、Bの言 葉を大切にすることができていることがわかる。そ して、「告白」のなかからB自身を苦しめている「な にかをしない自分」、「自身を許せない自分」を見出 し、Bに提示している。Bも「そう、それ」と自分 のなかにあった苦しみの根本を見つけだすことがで きている。すなわちAは、Bが自分の過去と向き合っ ていくことを援助し、Bが自分の力で過去の体験か らいまの自分とは異なる新しい「私」に出会えるよ うに導いたといえる。 Aの応答は鏡のようである。AはBの鏡となって Bが発した言葉をそのまま引き継いでその後に続く 言葉を付け足したり(ひっかかる?)、Bと同じよ うに悩み(どういうところからそういう気持ちが来 るんだろう)、Bの気持ちを代弁している(「なんで 自分がこうしてるのに」とかね)。AはBの言葉に 自分の体験や価値観を投影して批判したり、知識や 常識を根拠に反論を述べたりしない。Bが発したあ りのままの言葉を歪めないように配慮をしている。 BはAを介しつつ自問自答している体験をしている だろう。Aの鏡のような応答は、Bの内面における 自己内対話を促していると考えられる。 このようなAの応答は、カウンセリング的といえ る。河合(2009)によれば、カウンセリングのねら いはクライアントにとって最善のことを追求するこ とである。何が最善なのかを知る手掛かりはクライ アントの中にあるのでそこからしか導き出せない。 したがって、カウンセリングの基本姿勢はクライア ントの語りを聴くことである。クライアントが自分 の過去と現状について語りながら今までの視点とは 異なる視点を発見したり、偏見によって見ないよう にしていた側面と向き合ったり、埋もれていた自分 の本音を表現する。そして、クライアントが悩みの なかに新しい可能性を見出していく。つまり、カウ ンセラーの聴く態度によってクライアントが自分の 過去と現状のなかから意味を見出し、これからへの 可能性を主体的に切り拓いていく視野を獲得するこ とができるのである。そして、クライアントが可能 性に懸けて実際に行動していくことで悩みの解決に 至るのである。 Aの鏡のような応答は、河合(2009)のカウンセ リングのねらいと同じような効果を発揮していると いえる。Aがカウンセリングのつもりで応答してい たかはわからない。けれども、重要なことはカウン セリングの専門家でもないAとの対話を通してBの 内省が促され、救われている点である。AのBに対 する態度とカウンセラーのクライアントに対する態 度の共通点は、「聴く」態度である。 Bが思わず「告白」したのは、Aが聴き手として 目の前にいること、つまり自分の語りが誰かに聴か れる可能性が開かれているからだと考えられる。B は悩みを抱えていたのでAの聴く態度が呼び水と なって「告白」がなされたと考えられる。カウンセ リングの場でも、カウンセラーが聴き手として存在 している場であるからこそクライアントは「語って いいのだな」という語り手としての自分をそこに意 味づけることができるのである。 聴くという行為は外見からみると受動的だが、聴 く当事者からみると限りなく能動的なのである。聴 き手は、語り手の言葉一つひとつと語り手の表情・ 身体・姿勢の変化とを関連させ、そこに含まれた意 味を み取る。言葉と言葉、変化と変化の「間(ま)」 に意味を見出す。すなわち、語り手の言葉の感触を 確かめながら語り手が抱えている「問題」が分かっ
てくるということが聴くということであろう。カウ ンセラーはここからさらに踏み込んで専門的知見か らクライアントに関わっていく。けれども、Aはカ ウンセリングの専門的知見をもっていないし、カウ ンセラーとクライアントのような契約関係がBとの 間にはないのにカウンセリング的応答ができた。そ して、Bに対して聴く態度をもって真剣に向き合う ことができたのはなぜだろうか。 Aは意図せずに他者に対してカウンセリング的関 わり方になっていると思われる。例えば、第8回の 哲学カフェにおけるAの発言を一部取り上げてみて みよう。 「民主的ってなに?」 「どうしたら自律したり、民主的になれたりするの かな?」 「自然と民主的になれると思う?」 「何かに自分を同一化して、それを〈自分〉だと思っ ているようなところがないかな?」 「自分の価値観を自分で検討することをしてるか な?」 このように、Aは相手に対してカウンセリング的 に応答することが多い。他のテーマを取り扱った回 でも、Aは自分の体験や感情を語ることが少なかっ た。Aのカウンセリング的応答によって周りの参加 者はケアされているが、果たしてA自身はケアされ ているだろうか。Aはケアされていないだろう。そ の場合、私が実践した哲学カフェにおいて、ケアと しての対話の関係が築けていなかったと考えられる。 私が考えるケアとは、無償の共感である。つまり、 自分と他者がどのような関係性であっても、相手が どのような背景をもっていても、相手の苦しみや問 いを聴いてしまう、共感してしまうことである。私 たちは、無償の共感をする存在ではないだろうか。 そうした無償の共感を基盤としながら相手と対話を 通して関わり続けるなかで互いが自分の弱さを発見 したり、抑え込んでいた感情を表現したり、自分の 在り方を見つめ直したりする。したがって、ケアと しての対話とは、私たち自身が無償の共感をする存 在であることを信じて従い「あなたの苦しみや問い を私が一緒に考え、私の苦しみや問いをあなたが一 緒に考えてくれる」関係性を基盤とした対話だと考 える。 Aのカウンセリング的応答によってBがケアされ ているのは間違いない。しかし、はたしてAはBを ケアすることで自分がケアされている体験をしてい るだろうか。BはAにケアされることでAをケアして いる体験をしているだろうか。私は、Aもケアした いと考える。そのためには、進行役としてどのよう な姿勢で臨み、哲学カフェの場でどのような関わり 方をしていけばいいのだろうか。また、ケアしケア される対話の関係はいかにつくっていけるだろうか。 加えて、ケアとしての対話は哲学的対話の基盤で あるといえる。哲学的対話ではテーマについて話さ れている内容が深くなればなるほど、テーマの核心 に迫れば迫るほどに自分と相手との感情や体験の仕 方、志向の違いがはっきりと表れてくる。互いの間 にある「わかりあえなさ」の存在を実感する。わか りあえないじれったさに耐え、わかりあえないかも しれないと絶望しながらもその場に踏みとどまるに は、相手の言葉を聴き、それに自分の思考と感情を 絡ませた言葉で応答し、相手の全身全霊の言葉を受 け止める覚悟がなければならない。その過程で相手 を傷つけるかもしれないし、相手から傷つけられる かもしれない。相手を傷つけ、相手から傷つけられ ることを厭わない覚悟は、相手との関わりのなかで 自分が壊されて変わっていくイメージをもっている ことで生まれるのではないだろうか。そして、そう いうイメージは、「人間は無償の共感をする存在で ある」ことを信頼することからしか生まれてこない だろう。したがって哲学的対話の基盤にはケアとし ての対話があり、ケアとしての対話は無償の共感か ら立ち上がってくるケアしケアされる関係性のなか で成立する対話のかたちである。 私には、哲学カフェのような自由な対話の場にも かかわらずAは自分の殻の中に閉じこもったままで いるようにみえる。このような関わりをするのには、 Aなりの理由があるだろう。しかし、それではAと 他の参加者の間にケアとしての対話ができあがって くることはない。また、AとBのカウンセリング的 関係では、Aがケアされていない点で不十分なケア であるし、ここから哲学的対話に発展していくこと も難しいだろう。 3.ケアとしての対話 以上みてきたように、哲学カフェの実践において みられたケアのかたちは、カウンセリング的関係の なかで「告白」に対してカウンセリング的応答をす るというものだった。BがAのカウンセリング的応
答によってケアされたとき、AはBの言葉や気持ち を鏡のように返してあげることで、Bが自分を見つ めていきながら新しい「私」を発見することができ た。しかし、カウンセリング的関係におけるケアは 一方向的なケアしか生まないのではないだろうか。 この場合はBだけが一方向的にケアされ、もう片方 のAはケアするだけでケアはされていない。 カウンセリング的関係においては、ケア者はケア 者としての自分、被ケア者は被ケア者としての自分 しか見出すことができないといえる。そのようなカ ウンセリング的関係ではケアとしての対話は成立し にくく、それを基盤とする哲学的対話もまた成立す ることが困難である。また、カウンセリング的関係 では解消しきれていないBの問題も残っている。 AとBのカウンセリング的関係をより深く考察す るために、本章では実際のカウンセリングにおけ るカウンセラーとクライアントの関係性と、哲学カ フェにおける参加者と参加者・参加者と進行役の関 係性の違いを比較する。比較のなかで哲学カフェの ケアの可能性と限界がみえてくる。 3.1.カウンセリング関係の可能性と限界 一般的なカウンセリングにおけるカウンセラーと クライアントは、クライアントがカウンセラーのも とを訪れて契約を結ぶことから関係が始まる。これ をカウンセリング関係とよぶことにする。カウンセ リング関係では、出会う場所と会える時間はあらか じめ決められており、原則としてそれ以外の場所で 会うことやカウンセリング時間を延長することは難 しい。契約関係であるから、契約外の事柄はその都 度話し合いをして互いの合意が得られなければ実現 することはない。さらに、クライアントはカウンセ リング料金を負担するので、自ずとカウンセリング 料金とカウンセラーの能力、カウンセリングの成果 を比較しながらこれからの関係性について合意する かどうかを判断することになる。言わば、カウンセ リングにおける関係性はクライアントに委ねられて いる部分が多く、カウンセラーがクライアントと契 約関係以上の関係をつくるにはカウンセリング自体 から抜け出さざるをえないだろう。したがって、一 般的なカウンセリングにおける関係性はクライアン トからの一方向的なものである。そして、即興的に 契約を超える関係をつくることはできない。その都 度、関係性を機械的に契約し直さなければならない。 加えて、カウンセリングにおける契約関係は、カウ ンセリング料金とカウンセラーの専門的知識と経験 が交換可能であることが合意の前提となっている。 契約後は、カウンセラーがクライアントに対して責 任を負うことが義務となること、カウンセラーはク ライアントの抱える問題や苦しみ、悲しみなどを聴 く存在であり、クライアントはカウンセラーにそれ らを語る存在である、というふうに役割が固定して いることも合意の前提となっている。これらは、カ ウンセラーもクライアントも共通して暗黙に了解し ている。だからこそ、合意の可能性が保障され話し 合いが成立する。しかし、どんなにカウンセラーと クライアントがカウンセリング関係を厳密に維持し ようと努めても、それが人間関係である限り不確実 性からは逃れられない。こうしたカウンセリングに おける人間関係がもたらす問題について河合(2009) は、転移と逆転移を挙げている。 河合(2009)によれば、転移とは、クライアント が過去の体験をもとにしたいろいろな感情をカウン セラーに向けてくることである。例えば、幼いころ から父親に虐待された子どもは、男性カウンセラー を含む父親以外の男性に対しても恐怖を感じて話せ なくなってしまう。逆転移とは、カウンセラーがク ライアントの問題を自分の問題だと認識するように なり、クライアントの怒りや苦しみに深く共感して しまうことで両者が立ち上がれなくなったり、契約 関係を超えた深い関係になったりすることである。 例えば、子どものクライアントに逆転移を起こした 男性カウンセラーは子どもの「父親」として自分を 位置づけ、「父親」として振る舞うようになってし まう。 このように、カウンセリング関係においても人間 関係が土台にあるので転移や逆転移のような問題が 起こってくる。転移や逆転移が深くなり過ぎてしまっ て事件につながってしまうこともある。そうした深 い転移に対しては、カウンセリング関係で対応せざ るをえない。専門的な知識と経験によって鍛えられ たカウンセラーがクライアントと一対一になって時 間をかけて乗り越えていく過程が求められる。また、 契約関係だからこそカウンセラーはクライアントが 立ち直れるまで責任を負うことができる面もあるだ ろう。カウンセラーは、クライアントの状態を随時 気にかけながら専門家の視点からクライアントに とって最善なことを考え続け、実行する。クライア
ントは、問題が解消されるまでカウンセラーに身を 委ねていられる。カウンセラーがクライアントに与 え続け、クライアントがカウンセラーから受け取り 続けるような関係がカウンセリング関係では保障さ れているのである。つまり、カウンセラーが与益者 として一方的に相手の苦悩や 藤を中心とした気持 ちを徹底的に受容し、時間をかけ、労働としてその 問題の解決を探る為の方法を模索する。クライアン トは、受益者として一方的に自分の苦悩や問題を訴 え続け、相手の時間と労働を消費し続けながら問題 を解決する。いわば、カウンセリング関係とは、ク ライアントの問題の解決だけを目的としながらカウ ンセラーとクライアントが言葉を交わす関係である。 転移と逆転移をより肯定的に捉え直すと、転移は 「告白」であり、逆転移は共感といえるだろう。「告白」 とは、自分を対象化していまの自分の起源を るよ うな語りであり、そこには告白者の生きづらさが込 められている。転移と同じように、過去の体験とい まの苦しみが「告白」に内包されていて、それを誰 かに向かって打ち出すことである。カウンセリング における転移にはクライアントの「告白」が隠され ており、様々な仕方で打ち出されているのである。 Bのように言葉で打ち出される場合もあるし、行動 で打ち出される場合もある。 逆転移とは、「告白」を聴いた誰か、「告白」に触 れた誰かの深い共感といえる。目の前にいる生身の 人間が、「告白」に秘められた怒りや悲しみを引き 受けて生きている世界に聴き手が出会うことで飛び 込んでいってしまうようなものである。深い共感と は、巻き込まれ、吸い込まれ、引き込まれるような 抗いようのない引力が働く感覚である。聴き手が実 際に体験したわけでもないのに、告白者の体験と同 じように傷ついてしまうことである。 河合(2009)は、逆転移について「二人の関係の なかに生じてくる可能性の世界のなかへカウンセ ラーも共に自分の体を投げ込み、傷つくことによっ て癒されるということがある」と述べている。(河 合,2009:248)さらに、深い転移ついて、「何か共通 の可能性の世界がカウンセラーにも、クライアント にも作用してきて、それを二人で必至になって生き ぬくことによって、それを自分のものにすることが できたということです。クライアントだけでなく、 カウンセラーの方も可能性の世界を発展させること ができた」と述べている。(河合,2009:248) すなわち、転移・逆転移によってカウンセラーと クライアントの契約関係を脱して一対一の関係性 が成立する。これまで別々の世界を生きていた両者 であったが、対等な関係性が互いの存在を含みこん だ世界としてそれぞれの世界を再構成するように働 く。カウンセラーが自分の体験を語ってみせたり、 クライアントがカウンセラーを批判したりすること を通して相手に拒絶されたり、受容されたり、諦め られたり、期待されたりする。そうした寄り添い合 い、傷つけ合いのなかから自分の世界に新たな可能 性を見出していく。両者が問題を共有しあう。さら に、それぞれが新たな可能性と共通の問題に向き合 い続けていくことで、さらなる可能性と新たな問題 に出会っていく。 このように、河合は転移・逆転移という状態を肯 定的に捉えようとしている。ここで留意したいのは、 ある要素が癒しとして働いたのではなく、この過程 自体を経ることによって両者が癒されているのであ る。そして、カウンセラーとクライアントの間に共 感(聴くこと・聴かれること)が行き交う状態であ るからこそ可能性が開かれていくことにも注目した い。その基盤には、カウンセラーのクライアントに 対する絶対的な共感がある。 転移や逆転移のような反応は人間にとって普遍的 な反応である。だからこそ、河合(2009)のように 肯定的に捉えていく視点も重要である。しかし、深 い転移を哲学カフェで扱うことはできるだろうか。 哲学カフェならでは関係性と状況を踏まえつつ、ケ アの在り方を探る。 3.2.哲学カフェの可能性と限界 前節より、AとBのカウンセリング的関係が一方 向的なケアしか生まないのは、実際のカウンセリン グも同様であることがわかった。しかし、カウンセ リングと違って哲学カフェの場で生まれるカウンセ リング的関係におけるケアは不完全なものといえる だろう。なぜならば、Bには以下のような課題がま だ残されているからだ。 染みついてるなと感じてた。高校まではそれは 自分の価値観だったからそれが正しいと思って たけど、大学からなんか周りが違いすぎて、自 分と。だから、自由すぎたんだよ。周りがすご く。イライラしかしなくて私。
なんでもっと気をつかえないんだろう」とか。 なんで自由に生きることが周りを、こうなんか ね、犠牲じゃないけど自由に生きるってことは さ、誰かがそれを支えてるから自由になるのに、 なんでそれに気が付かないんだろう、っていう のをすごい考えてたときに「ああ、私、保育園 のときダメだったんだ」みたいな。ダメだった という、それのときの価値観だなって。気づい た。それが染みついて、今のそういうね。相手 から思っちゃうっていうのがある気がする。 Bは、自分の価値観から外れた人たちに対して苛 立っている。「自分のような人たちが他者を思いやっ て苦労しているおかげで、あなたたちは自由気まま に楽しめている。だから、あなたたちももっと気を つかって」という批判をしている。Bは、ありのま まの自分を受け入れられないでいるがゆえに、他者 に自分を認めてもらいたいと思っている。けれども、 なかなか認めてもらえないので他者に責任を求めて しまっていると思われる。Bは、Aとの対話のなか で自身の他者批判について考えることができただろ うか。その後の対話では、Bのなかに既にあった思 いやりの在るべき姿は浮かび上がってきたが、他者 批判をしている自分自身を見つめられたわけではな い。したがって、Bが自分の他者批判について「こ の気持ちにどのような意味があるのか」「自分は何 を望んでいるのか」「心の負担になっているのは何 だろうか」と見つめ直す課題が残されている。故に、 哲学カフェにおけるカウンセリング的関係では、カ ウンセリングのように個人の苦悩や問題が解消され るまで徹底的に寄り添うことができず、不完全なケ アに止まっているといえる。 それでは、河合(2009)の深い転移との関わり方 のような、相手との傷つけ合いのなかから互いの 世界に新たな可能性を見出していく関係性を哲学カ フェの場でつくっていけるだろうか。 カウンセリングにおける当事者間の関係性と状況 を哲学カフェと比較すると、哲学カフェには複数の 参加者がいる。そして、参加者同士の関係性は対等 であるし、互いが共通の体験をしているわけでもな い。だから、カウンセリングのように誰かに対して みんなが寄り添い続けるような関わりをすることは 難しい。その時、その場に居合わせただけの参加者 同士によるケアのかたちとはなにか。 一つは、Aのように個人がカウンセリング的関わ りを展開していくこと。しかし、これは一方向的で あり不完全なケアであることが分かった。もう一つ は、参加者同士が自分をそこに打ちだしていくこと によって起こる共感であろう。例えば、ある人が「私 は親のことが大好きだ。なぜなら、安心できるから だ」という主張があった。それに対して親を好きに なれない人が「私は、親からの期待に振り回されて きたから嫌いだ」と応じた。すると、前者の中に後 者の想いが入ってきてしまう。後者を鏡にして自分 をみつめるということが起きてくる。そして、後者 もまた前者を鏡にしてこれまでの自分をみつめなお す。互いが自分を見せてくるなかで自分の弱さ、相 手の弱さが浮き彫りになっていく。自分の弱さと相 手の弱さに出会い、相手を鏡にしながら自分を変え ていく、相手の弱さを受け止めていく関係性が哲学 カフェのなかでつくられているのだろう。そこで働 いている力というのは、無償の共感であろう。参加 者と参加者の間に無償の共感が基盤となり、聴くこ と・聴かれることが行き交う状態であるからこそケ アしケアされる関係性がつくられていく。したがっ て、哲学カフェでは参加者同士が自分を打ち出して いくことで、いろんな語りを聴く。相手の言葉を聴 き、相手に自分の言葉を聴かれる体験をすることに よって自分をみつめ、他者をみつめていくような関 係性がつくられていくことが哲学カフェのケアのか たちであり、可能性と言えるだろう。 しかし、哲学カフェのような「それぞれが自分の 意見を言ってよい場」では、カウンセリングのように 誰かの問題を解消するまで徹底的に相手に寄り添う ことは難しい。不特定多数の人たちが集まって、共 通の体験をしているわけでも、生活をともにしてい る間柄でもない人たちが対話することは、相手の言 葉に傷つけられて自分を閉ざしてしまう可能性をは らんでいる。哲学カフェにおけるケアの限界である。 4.おわりにかえて: 進行役に何ができるのか 私がAと関わっていくなかで感じたことは、Aは 自分をケアしたいと望んでいるということだ。その こととAの他者に対するカウンセリング的関わりは 決して無関係ではないだろう。 Aは無意識に人の輪の外側に立って、客観的に全 体をみようとする。Aは自分の内にある固有のも のを大切に思い、それがありのままの姿で在ること
にこだわっている。自分の内にある固有なものが形 を変えて言葉として口から出てしまうこと、他者に 勝手に解釈されることが許せない。自分の内にある 固有なものに寄り添って生きていこうとしているの だろう。だからこそ、Aは自分の在り方が否定され たり、受け入れて欲しい誰かに拒絶されることを恐 れている。他者に対しても同じように感じ、相手の 内にある固有のものに自分が影響を与えないように 気遣ってしまう。それは、内にある固有なものが否 定される痛みが深く分かるということでもある。他 者に理解を向けようとするAの優しさの源泉でもあ る。だから、他者が自分の境界線を越えてくること を避け、自分が他者の気持ちに踏み込むことを遠慮 してしまう。このような背景がAの他者に対するカ ウンセリング的関わりにあるのではないだろうか。 けれども、Aは心のどこかで淋しさを感じている。 外側に立っている自分に気が付いてほしい、自分の 深い部分まで踏み込んでほしいと誰かに訴えている ように私は感じるのだ。Aは、誰かとわかりあいた いと深く望んでいる。内にある固有なものを誰かと 見せ合って、深い信頼関係を築いていきたいのであ る。だが、自分の内にある固有なものを表現しきれ ないことがもどかしくて、言葉になりきらなくて、 誰かとわかりあうことを諦めてしまっているのでは ないだろうか。 私は、Aにどのように関わっていけばよいのかわ からずにいた。「わかる」までAを観察することに したが、実感の伴わない憶測だけでAをわかった 気になるだけであった。実際にAと関わってわかる ことと私の憶測のずれに苛立ち、わからなくて不安 になった。いつのまにかAに対する不信感がつのっ ていった。Aに理解を向けようとすることから遠ざ かっていき、嫉妬や怒りのようなものをAに感じる ようになっていった。それに加えて、Aと関わって いると私自身が安心感を感じて、素直に自分を出し ている私がいることに気が付いた。私はAと直接関 わることの大切さに気付き、Aに自分の弱さを見せ たり、Aの見方を批判したりすることを通してAの ことを感じた。 哲学カフェの進行役は、その場から一歩下がって 客観視して参加者を「わかって」から関わろうとす るのではなく、参加者と同じ立場に立って関わりな がら「わかってくる」ことに自分の心と思考が敏感 に動いている、そのざわめきに寄り添うことが求め られていると言えるのではないか。参加者の苦しみ や問いに開ききっている自分の心と思考の存在、参 加者の声に共感してざわめいている事実に忠実にな ること。これは、進行役が自分の言いたいことを好 きなだけ言うという意味ではない。私たちは、無償 の共感をする存在であるから、思わず相手をケアす るように言葉を選んだり、他者に触れている。そし て、相手の無償の共感から生まれる言葉や関わりに 自分がケアされてしまうのである。進行役が自分と 他者の無償の共感性を信じて従う存在として哲学カ フェの場に立っていることが、ケアとしての対話の 芽生えを助けるのだと思う。そのなかで相手を傷つ けたり、相手から傷つけられたりするだろう。ケア しきれない場面もあるだろう。このことは、哲学カ フェの限界として認めていかなければならない。 自分の生活圏の外にいる人間が目の前に立ち現れ る場である哲学カフェ。生活を共有していない人間 同士が語り合うことの限界を意識しつつ、私たちに 備わっている無償の共感を拠り所として互いの存在 を感じ合うことはできるはずだ。私たちの根底に流れ ている共有できるものを一つひとつ確認し合う場とし て、対話を通してゆるやかな絆を育む場としての哲 学カフェの可能性をこれからも追求していきたい。 文献 鷲田清一 監修(2014)『シリーズ臨床哲学第2巻 哲学カフェのつくりかた』、大阪大学出版会 河合隼雄(2009)『〈心理療法〉コレクションⅡ カ ウンセリングの実際』、岩波書店 (平成27年 3月24日 受理)