はじめに
昨年(2019)のラグビーワールドカップ日本大会で、日本代表チームが多くの人々を熱狂の 渦に巻き込んだことは記憶に新しい。それまでの戦績や技術力や体格差、さらには競技の歴史 を含めた下馬評でいえば、日本代表が強豪揃いの予選リーグを勝ち抜くのは至難の技と思われ た。しかし、下馬評を大きく覆し、決勝トーナメントに進出し、ベスト8(エイト)に残った のである。予想外の大健闘に少なからぬ日本人が快哉を叫び、熱狂した。そして、その熱狂の ボルテージを少なからず押し上げたのは、日本代表のモットーとなったキャッチフレーズ「ワ ンチーム(ONE TEAM)」であったように思える。人々の心を一つにするような心地よい響き のキャッチフレーズは、ラグビー以外のさまざまな場面でも用いられ、同年の流行語となった。 野球をはじめ、多くの団体スポーツではもともと「チームプレイ」が求められるが、特にラ グビーでは身体を張った犠牲的プレイの連続が重要とされ、「one for all」つまり「個(一人) は皆のために」の精神が重んじられるという。「ワンチーム(ONE TEAM)」というフレーズ が実際にどのような経緯で生まれたかは別としても(注1)、根底にはおそらく「one for all」があり、それが日本的な文化風土に馴染みやすい形としてさらに練られ、より簡潔なキャッチフ レーズとして完成されたように思われる。 ラグビーの「ワンチーム(ONE TEAM)」を唐突に持ち出したのは、直接の関係はないもの の、学校教育の現場においても「チームプレイ」の必要性がうたわれつつあるからだ。すなわ ち「チームとしての学校」という課題である。もしかすると、現代の複雑な社会状況を突破す
「教職入門」試論Ⅲ
―
「チームとしての学校」をめぐって―
中
田 睦
美*
A Study of“Introduction to Teaching Profession”(Ⅲ)
:
About School as a Team
(NAKATA Mutsumi)
*近畿大学教職教育教授 〔キーワード〕チームとしての学校、教育現場、マネジメント、
るためのアイテムないしトレンドは、抜きん出た個の力や上意下達の組織力ではなく、主体的 な協同作業を相互に繋げてゆく総合的な「チーム」力なのかもしれない。そうしたトレンドを 示唆するのかどうか、ラグビーワールドカップ日本大会開催より5年前程から、教育現場にお いても「チームとしての学校」という課題が浮上していたのである。その経緯と内容はおよそ 次のようなものであった。 まず、平成26(2014)年7月29日、文部科学大臣から「これからの学校運営を担う教職員や チームとしての学校の在り方」を諮問された中教審は、同年11月より論点整理を始め、その後 「柔軟かつ効果的な教育システムの構築」(平26・12・22、中教審答申)や「学校と地域の連携・ 協働」(平27・12・21、中教審答申)をめぐる議論とともに、平成27年(2015)12月21日付中 教審答申として「チームとしての学校の在り方と今後の改善策」を提言した(注2)。一方で、こ の中教審(文科省)が主導する「提言」に対し、従来より「自生的な現場の文化」として教育 現場には「チーム文化」がすでにあり、今回の「提言」をかえって「弊害」と捉える見解もあ る(注3)。なお、提言をうけた文部科学省は、答申の理解と周知をはかるため「チームとしての 学校の在り方と今後の改善方策について」と題する平明な「(答申)概要」を示した(注4)。その 冒頭には「チームとしての学校」を実現するための「改善方策」に関する基本的な〈趣旨〉が 次のように記されている。 学校において子供が成長していく上で、教員に加えて、多様な価値観や経験を持った大人 と接したり、議論したりすることで、より厚みのある経験を積むことができ、本当の意味 での「生きる力」を定着させることにつながる。そのために、「チームとしての学校」が 求められている。 上記の趣旨をより簡略にいえば、学校における子供の成長過程に「厚みのある経験」を積ませ ることで「本当の意味での『生きる力』を定着させる」ために「『チームとしての学校』が求 められている」となる。この趣旨自体は、現代および将来を見据えた学校運営の積極的な取り 組みとして相応に評価できるし、特に大きな問題があるわけではない。ただし、そうした課題 を提言する側でなく、提言を受ける学校現場側から見た場合、その実施に際して懸念されるい くつかの問題点もある。以下、上記の「概要」が示す説明の順に従って、その問題点や留意点 を指摘し、今後、教育現場に立つ若者たちの参考材料となすべく私見を述べてみたい。
1.
『チームとしての学校』が求められる背景(その一)
「(答申)概要」は、趣旨の説明に続いて、「『チームとしての学校』が求められる背景」を述 べている(注5)。その「背景」から求められた三項目の「体制整備」として、「新しい時代に求 められる資質・能力を育む教育課程を実現するための体制整備」と「複雑化・多様化した課 題を解決するための体制整備」および「子供と向き合う時間の確保等のための体制整備」が 挙げられている。以下、の順に従って、その内容を検討してみよう。 は「新しい時代に求められる資質・能力を育む教育課程を実現するための体制整備」であ るが、その目的達成のための必要事項が次のように列挙されている。 〇新しい時代に求められる資質・能力を子供たちに育むためには、「社会に開かれた教育 課程」を実現することが必要。 〇そのためには、「アクティブ・ラーニング」の視点を踏まえた指導方法の不断の見直し による授業改善や「カリキュラム・マネジメント」を通した組織運営の改善のための組 織体制の整備が必要。 第一項のポイントは「社会に開かれた教育課程」であるが、大まかにいってここには二重の 意味があると思われる。ひとつは、それまでの閉鎖的な学校運営を外部との交流が可能な形に 開放すること、もう一つは、社会生活に直結する実学的な価値観との連動性のある授業内容の 重視である。 前者の意味は、かつて〈学校=教育現場〉が一種の〈聖域〉であり、同時に〈教師=教職〉 が〈聖職〉だったという歴史性から生じた排他性によって〈外部〉からの助力を〈介入〉とみ なし、容易には受け付けない空気があったことに係わる。つまり、その硬直した組織をもっと フレキシブルに開放しようという意味であろう。学校もまた社会を構成する一組織である以上、 多様化した現代社会においていつまでも外部を閉ざす〈王国〉ではいられない。その意味で 〈外部〉の力も援用してより良い教育現場への努力を重ねるのは当然だといえる。ただし、重 要なのは、そうした〈外部〉の助力があくまでも学校現場側の主体的な企画・立案・要請が基 盤となることで、学校現場の意向と無縁の〈外部〉からの押し付けであってはならない。した がって、〈外部〉からの助力が、助力に名を借りた〈介入〉である可能性をチェックするため にも、学校内にも日頃からそうした問題を考える常設的な検討委員会の設置が必要である。学 校=教育という〈パンドラの匣〉の蓋は、いったん〈外部〉の力で開けられる(介入を受容す る)と、二度と閉じられないことを肝に銘じておきたい。後者の意味は、「社会で生きてゆく力」を養成する教育課程であるが、それは半ば実社会で 有用な実学的なカリキュラムへの要請でもある。換言すれば、大学では今やすっかり定着した 〈産学協同〉へと連結してゆく現実路線といえる。問題は、その「社会で生きてゆく力」が「背 景」のにある「新しい時代に求められる資質・能力」の言い換えにすぎず、その「求め」て いる「新しい時代」の内実とは、ほかならぬ一握りの大企業がリードする経済界の別名である ことだ。日本の GDP(国民総生産)において、従業員千人以上の大企業すなわち〈経済界〉 が占める比率はわずか7%未満に過ぎないのに、これを「社会」全体の未来像つまり「新しい 時代」と言い換え、それが「求め」る形をそのまま「社会に開かれた教育」の理念として教育 現場に下ろすのはいささか危うい。教育を受ける生徒たちの90%以上がいわゆる「新しい時代」 のメインストリームでない社会を生きてゆく事実(現実)と、そして、教育本来の意義とを今 一度熟考すべきである。教育は、一部の大企業に有益な会社人間の養成機関ではない。より長 いタイム・スパンのもと、潜在する人間の多様な可能性の発見や涵養にあることを思うべきだ ろう。実学的なカリキュラムを全面的に否定するわけではないが、それへの一方的な傾斜は慎 重に考えられるべきだと思われる。「社会で生きてゆく力」とは単に競争に勝つための、すな わち勝ち組になるためだけの力のことではない。経済的優位を誇る勝ち組ではなくとも、個々 それぞれの豊かな人生をデザインし、それに向かって歩み続ける力こそ真の社会で「生きてゆ く力」であろう。 第二項のポイントは、「アクティブ・ラーニング」と「カリキュラム・マネジメント」で、 前者は授業の実施方法に対する提言であり、後者は授業内容の構成やより効率的な運営方法へ の改善を求めるものである。 前者の「アクティブ・ラーニング」は、新学習指導要領(注6)が柱のひとつとして打ち出した 「主体的・対話的で深い学びの充実」をめざす提言で、すでに多くの教育現場が採り上げ、全 国の学校でさまざまな試みが実践され、その報告も枚挙にいとまがない。かつて筆者もその一 例として高校国語の定番教材・夏目漱石の「こゝろ」を用いて試案を提示したことがある(注7)。 実際のところ、このアクティブ・ラーニングは、その準備段階が重要かつ大変で、取りまとめ 役の教員の能力にも大きく左右される。それでも成功すれば、生徒たちの主体性や対話能力が 磨かれ、そこから深い学びの喜びも得られよう。ただし、教師にその準備に費やす充分な時間 や余裕があるのか、そして、その評価をどのように採点するのかなど、種々の問題もある(注8)。 私見では、成功のもう一つの鍵は、アクティブ・ラーニングの場合、生徒同士または生徒と教
員が向き合う配当時間が〈たっぷりとある〉かどうかである。さらにいえば、アクティブ・ラー ニングには〈アクティブ〉を全面的な善とする〈啓発〉の名を借りた〈強制〉も感じられる。 それは結果的にあたかも〈アクティブ〉でなければ人間的価値が劣るかのような印象を与える が、むろんそんなことはない。逆に控え目で沈着冷静な個性にも時に応じて大きな存在意義が ある。にもかかわらず、「主体的・対話的な活動」指標のもと、〈アクティブ〉な対話を行う者 の方が高評価を得るとなれば、好むと好まざるとにかかわらず、生徒たちは、常に心の中のど こかで〈アクティブ〉に活動する姿を示さなければならないという心理的負荷を負うようにな るだろう。本来の教育の意義や価値は、性急な特定の型(タイプ)の押しつけにあるのではな く、彼らの多様で多彩な未来を〈待つ〉ことのうちにもあるはずだ。 後者の「カリキュラム・マネジメント」については、「平成29、30年改訂 学習指導要領、 解説等」(注9)が次のように簡潔にまとめている。 (教育成果を上げるために)学校全体として、教育内容や時間の適切な配分、必要な人的・ 物的体制の確保、実施状況に基づく改善などを通して、教育課程に基づく教育活動の質を 向上させ、学習の効果の最大化を図るカリキュラム・マネジメントを確立」(することが 肝要) 簡にして要を得た解説で、この提言にも特に問題はない。だが、少し懸念されるのは「学習 の効果の最大化を図る」とある点で、そのための校長を筆頭とする現場の管理強化が少なから ず〈効率優先主義〉の感を拭えないことである。むろん「教育活動の質」の「向上」は重要で はあるが、一方で、教育の質や価値が〈効率〉のメジャーだけで計れるのかどうか、いささか 疑問も残る。人間の隠れた豊かな才能が就学期間という短い時間の中ですべてを見通せるもの とは思えない。実際、〈効率〉の枠組みから大きくこぼれ落ちた黒柳徹子著『窓際のトットちゃ ん』の例(注10)もあるのだから。
2.
『チームとしての学校』が求められる背景(その二)
は「複雑化・多様化した課題を解決するための体制整備」であるが、今日の学校を取り巻 く社会状況の複雑化や多様化が及ぼす影響が、もはや従来の学校組織〈単独〉では手に負えな い問題となってきたことを示している。その項目は次のようなものである。 〇いじめ・不登校など生徒指導上の課題や特別支援教育への対応など、学校の抱える課題 が複雑化・多様化。〇貧困問題への対応など、学校に求められる役割が拡大。 〇課題の複雑化・多様化に伴い、心理や福祉等の専門性が求められている。 第一項の「いじめ・不登校」は単に「生徒指導上」だけの課題だろうか。たとえば前者の 「いじめ」は、社会の格差やひずみによるストレスが弱者への八つ当たりとして負の連鎖を生 んだ結果であり、学校内の「いじめ」も社会の縮図そのものだと思われる。先日の兵庫県神戸 市における教師間同士の「いじめ」(カレーライス事件)(注11)にも見られるように、今や「いじ め」は生徒間だけに限らず、さまざまに形を変えて(例えば会社におけるパワハラやセクハラ など)社会のあちこちに蔓延している。従って、問題は決して容易に解決できるわけではない が、学校内の「いじめ」の場合、たとえば次のような考え方はどうだろうか。つまり、〈いじ める側〉の生徒もそういう形でしかストレスを発散できない環境下にある〈被害者〉の一人と みなし、彼(彼女)とともにそのストレスの正体が掴めるまでジックリと耳を傾けてみること ―これは「生徒指導」というよりは、教員の教員たる極めて基本的な姿勢としてまっすぐ生 徒に正面から向き合う不可欠な資質と態度である。むろん、教員だけでなくスクールソーシャ ルワーカー(注12)らと協働作業で取り組むのも手立てのひとつであるが、肝要なのは〈いじめる 側〉の内なる声にも粘り強く耳を傾けることである。つまり、〈いじめる側〉の生徒自身、大 抵は自分が何故いじめるのか、その理由や動機が明確化されないまま〈いじめ〉るという行為 に及んでいるように思われる。従って、その理由や動機が明確に意識されるようになれば次の フェーズに進むわけで、それでもなお〈いじめ〉を続ける(続けてしまう)という可能性は減 じられてゆくのではないだろうか。 「不登校」の場合は「いじめ」よりもさらに複雑な問題といえよう。なぜなら、学校内の「い じめ」が発端で不登校になる場合もあれば、家庭内のさまざまな問題が引き金となることもあ り、さらには精神的・身体的な病が原因で不登校になるケースもある。つまり、「不登校」の 原因はさまざまなレベルの多岐にわたる理由を原因としており、これを一教員が「生活指導」 という名の役割だけで解決するのはきわめて困難である。これこそ心理カウンセラー(SC)や ソーシャルワーカー(SSW)といった専門家たちの助力を得て取り組むべき課題といえる。さ まざまな障害をもつ生徒たちの「特別支援教育」も同様で、専門的知識やスキルをもった人々 の指導を得て、現場に立つ教員は徐々にキャリア(生徒を支援する資質と能力)を積み上げて ゆくしなかい。 第二項の「貧困問題への対応」だが、これは「学校に求められる役割」を「拡大」させて済
む問題ではない。むしろ「貧困への対応」は、教育行政の問題であって、文部科学省などを中 心とした財政措置の領域であろう。ただし、生徒たちの「貧困」を含めた生活環境に直に接す るのは学校現場(教員)であり、そうした情報の〈窓口〉として上部組織や福祉関係に伝達す べく努めるのは学校(教員)の枠割であり責務であろう。いうなれば、生徒の生活環境への目 配りや気配りが「学校に求められる役割」の第一歩である。 第三項の「心理や福祉等の専門性」については、すでに「いじめ」や「不登校」や「貧困問 題」などでも折りに触れ、言及してきた。「心理や福祉等の専門性」が求められる背景となっ た「課題の複雑化・多様化」は、現代社会と同様、〈学校内〉にも急速に浸透しつつある。そ の多くは一教員や学校単独の手には余る問題となっており、しかも一様ではないので、発生す る問題の特性にしたがってそれぞれの専門家たちと教員(学校)との連携がいっそう喫緊の課 題となってきている。
3.
『チームとしての学校』が求められる背景(その三)
続くは「子供と向き合う時間の確保等のための体制整備」であるが、以下のような項目が 挙げらている。 〇我が国の教員は、学習指導、生徒指導、部活動等、幅広い業務を行い、子供たちの状況 を総合的に把握して指導している。 〇我が国の学校は、欧米諸国と比較して、教員以外の専門スタッフの配置が少ない。 〇我が国の教員は、国際的に見て、勤務時間が長い。 上記の三項目は、率直にいえばの掲げる「体制整備」に反する言質でしかない。これは単 に現状の問題点の列挙にすぎず、そこには現状の〈改善〉を図るためにどのような「体制整備」 の方策が必要か、といった具体的な提言が皆無である。 たとえば第一項の「幅広い業務」による「総合的」な「指導」は、そのため過剰な業務を強 いられ、「我が国の教員」がいかに疲弊しているかの現状の説明にすぎない。問題は、「学習指 導・生徒指導・部活動等」の業務が、負担が大きいとはいえ、以前よりあった教員の通常業務 で、それが相応に消化されてきたという事実である。しかし、近年、それがとみに負担が大き いとされ始めたわけで、その原因が何かが真の問題である。一例だが、実は現場教員は実際の 業務(直に生徒と接する時間)そのものよりも、それに付随する報告書をはじめ、管理事務上 のさまざまなデスクワークに時間と労力を奪われ、疲弊しているのではないだろうか。こうした管理事務上の負担が教員の疲弊をもたらしているのだとすれば、それを軽減するために、管 理職として〈教員を守る〉という責務を持つ校長・教頭を中心とする検討会を講じて簡素化や 工夫が可能なはずで、改善の余地があると思われる。また、業務の分掌はあるにしても、上記 のような検討会を通じて、さまざまな課題を学校全体すなわち「チームとしての学校」で共有 することで各教員の負担軽減にも繋がるのではあるまいか。現代の教育現場における課題の複 雑化・多様化に加え、管理事務に伴う煩瑣な手続きや報告義務などは、教員本来の業務である 「子供と向き合う時間」の「確保」をますます困難なものにしている。 第二項や第三項も、第一項に述べたのと同様のことがいえる。項目そのものは過剰な業務を 課される「我が国の教員」の疲弊の現状を語っているだけで、それをいかに軽減すべきかにつ いての提言がない。第二項の「教員以外の専門スタッフ」にしても、いかにすれば増員できる のか、そうした〈議論〉や〈課題〉をどのような組織で、どのようなメンバーで行うのか、「答 申」(「概要」の説明)はそうした提言ないしモデルを具体的に示す必要があると思われる。第 三項の教員の「勤務時間」の軽減についても、問題の本質は同じで、まず教員の「勤務時間」 がなぜ長くなったのかの原因を具体的に分析し、その原因を取り除くにはどうしたらよいのか、 また、「勤務時間」減の措置を講ずることによって教員数が不足するのだとしたら、その財政 措置を含めた人員確保をどのようになすべきか、といったふうに提言をなすべきだと思われる。 いずれにしても、現場教員の声に耳を傾け、現状の本質を正確に把握し、あくまで「子供(児 童・生徒)たち」の未来と「現場」の「教員」たちのための具体的な改善策を考える必要があ る。
4.
「
『チームとしての学校』の在り方」
(その一)
以上のように「『チームとしての学校』が求められる背景」を述べた「(答申)概要」は、続 いて「『チームとしての学校』の在り方」を以下のような三項目に整理し、次のように述べて いる。 は「『チームとしての学校』を実現するための3つの視点」であるが、そのために必要な 目標として次のような説明が行われている。 「専門性に基づくチーム体制の構築」、「学校のマネジメント機能の強化」、「教員一人一人 が力を発揮できる環境の整備」の3つの視点に沿って検討を行い、学校のマネジメントモ デルの転換を図っていくことが必要である。まず第一項の「専門性に基づくチーム体制の構築」は、今や学校が抱える複雑・多岐な問題 や課題がすでに教科教育を担う教員の範疇を超えていることを端的に物語っている。 たとえば、「専門性に基づくチーム体制の構築」は、学校内に相談窓口を常設し、心理カウ ンセラー(SC)やソーシャルワーカー(SSW)らの専門家を配置し、問題の本質を正確に把 握したうえで教員と連携して、子供たちの相談窓口となることが望ましいし、既に、そうした 対応に踏み出している学校も増えてきている。ただし、注意すべきは、彼ら専門家が相談時に のみ生徒と面談するのでは子供たちの「相談」する行為自体が特別視され、ハードル(敷居) も高くなる。そのため相談のハードル(敷居)を低くするには、生徒と専門家の間の壁をなく す日常的な接触も必要となろう。したがって、通常の授業以外で特別授業の科目を設け、その 専門性を活かした特殊講義(心理カウンセラーなら「心理学」的な授業)を設置し、普段より 生徒全般との日常的な交流を図るのも一策だと思われる。 次に第二項の「学校のマネジメント機能の強化」は、今後は学校も社会的組織の一つとして 競争原理の渦中にあることを当然視する観点に立ったうえで、学校運営のクオリティーを高め る努力をすべきであるという指針だろう。ただし、問題は学校運営の〈クオリティー〉向上の 成果を何をもって評価するかである。たとえば、校長を中心とする管理業務の強化によって、 教育委員会や文科省の指針に忠実なモデルとしてのマネジメントの上申・報告が評価されると か、高校の場合は優秀な大学への進学実績(中学ならば優秀な高校への進学実績)をクオリティー の指標だと仮に考えてみる。前者の場合は、管理者である校長にとって扱いやすい〈従順な〉 現場に傾きかねないし、後者の場合、その実績は高校の入学試験段階ですでに半ば定まってい るだろう。逆に見て、評価の指標がそうした管理業務の成果や教育成果としての進学実績など ではないとしたら、いったい何をもって学校運営の「マネジメント機能の強化」における成果 とするのだろうか。残念なことに「(答申)概要」は、ここでもまた「マネジメント機能の強 化」をという題目を掲げながら、その成果の指標となる具体的な説明に欠けている。重要なの は、題目の提唱ではなく、実践のための具体的提言なのである。 第三項の「教員一人一人が力を発揮できる環境の整備」は、学校という教員組織が多様な個 性の集まりである以上、足並みを揃えるのは容易なことではない。たとえば管理職である校長 の指示によって教員全員に一定の方向性を向かわせようとしても無理であるが、かといって学 校が統一的な共通目標をもたず、個々人がバラバラであるというのも問題だろう。つまり、組 織としての〈弾力性〉が重要なのであり、原理・原則はあったとしても、それはあくまでも
〈核としての原則〉にとどめ、それを基盤とする個々の教員の多様性を認める寛容性の有無が 大切となる。とはいえ、こうした言及もあくまで抽象的言及であって、現実の組織体を構成す る各人の個性がいかに充分に発揮されるかはなかなか難しい。身も蓋もない現実論をいえば、 「一人一人」の力の発揮が、教員としての個性の発揮でもあるとするなら、教員としての個性 の発揮と「環境の整備」は、ひとえにその組織の長(管理職)の度量の大小と舵取りの巧拙に かかっているといわざるを得ない。
5.
「
『チームとしての学校』の在り方」
(その二)および(その三)
は「『チームとしての学校』と家庭、地域、関係機関との関係」であるが、そのために必 要な施策として次のような説明がなされている。 学校と家庭、地域との連携・協働によって、共に子供の成長を支えていく体制を作ること で、学校や教員が教育活動に重点を置いて取り組むことができるようにすることが重要で ある。また、学校と警察や児童相談所等との連携・協働により、生徒指導や子供の健康・ 安全等に組織的に取り組んでいく必要がある。 ここでの第一課題は「学校と家庭、地域の連携・協働」による体制作りである。まず「学校 と家庭」の問題では、近年とみに増えてきた保護者による子弟の実質的な教育放棄であろう。 「日本国憲法」第二十六条の下、「教育基本法」第十条や第十三条に定められた保護者の子弟に 対する教育の義務であるが、近年は無責任な親が子供の教育を放棄したり無関心であったり、 子を持つ存在である自己の責任を果たさないケースが頻出している。その理由は経済的困窮で あったり、保護者の抱える鬱積を発散する DV であったり、また夫婦間の不和による家庭崩壊 であったりする。場合によってはモンスター・ペアレントとなって学校や教員に対する攻撃性 を発したりする。そうした環境下にある子供たちの中には、不登校やいじめ行為などへと転じ てゆくことも多い。こうした問題においても担任教師がまず生徒に寄り添うことが重要だが、 その問題の本質は、もはや学校の問題というより社会問題であり、担任や生活指導の一教員が 解決し得る課題ではない。少なくとも学校が全体(チーム)としてこうした家庭との関係性に 向きあい、当該児童・生徒にとってのよりベターな方策を検討する必要がある。そして、今や 社会における学校への眼差しは、かつてのような〈聖域〉ではなく、従って敬意もなく、いわ ば〈サービス業〉の一種と捉える空気が色濃く漂う。これについてはすでに、諏訪哲二が『オ レ様化する子どもたち』(注13)において現代の教育現場に蔓延する光景を予見するような見解が示されていた。 私たちは、生活のすみからすみまでお金が入り込んでいる生活を、初めて経験している。 朝から夜まで「情報メディア」から情報が入ってくる生活も初めてである。お金がお金を 生みだす経済の運動のなかに完全に巻き込まれている。子どもたちが早くから「自立」(一 人前)の感覚を身につけるのも、そういう経済のサイクルのなかに入り込み「消費主体」 としての確信を持つからであろう。子どもたちは今や経済システムから直接メッセージを 受け取っている(教育されている)。学校が「近代」を教えようとして「生活主体」や「労 働主体」としての自立の意味を説くまえに、すでに子どもたちは立派な「消費主体」とし ての自己を確立している。すでに経済的な主体であるのに、学校へ入って教育の「客体」 にされることは、子どもたちにまったく不本意なことであろう。 本書で分析された子どもたちとは、家内での「生活する主体」としての自分を知覚する機会 も、家内のお手伝いなど社会的活動への参加による「労働する主体」として自己を承認する機 会も奪われ、いきなり「消費する主体」として自己の基盤が社会化されていった存在といえよ う。本書が出版されたのは、およそ15年前の平成17(2005)年3月である。ということは、当 時からすでに「消費主体」としての自己の確立から出発した子どもたちが既に成人しているこ ととなる。 また、内田樹は『下流志向』(注14)の中で、教育現場で生じている危機を以下のように分析す る。 さらに、危機的なのは、子供の目から見て、学校が提供する「教育サービス」のうち、そ の意味や有用性が理解できる商品がほとんどないということです。学校教育の場で子ども たちに示されるもののかなりの部分は、子どもたちにはその意味や有用性がまだよくわか らないものです。当たり前ですけれど、それらのものが何の役に立つのかをまだ知らず、 自分の手持ちの度量衡では、それらがどんな価値を持つのか計量できないという事実こそ、 彼らが学校に行かなければならない当の理由だからです。 この『下流志向』もまた平成19(2007)年2月の出版である。消費主体として〈オレ様化〉 成長を果たしてきたかつての子どもたちは、今や成人した消費主体なのである。その〈オレ様 化〉成長を果たした彼ら大人には、本当に「教育の有用性が(成人したあかつきに)理解でき」 たのであろうか。 内田氏はさらに次のように続けている。
教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育 がある程度進行するまで、場合によっては教育課程が終了するまで、言うことができない ということにあります。/しかし、消費主体として学校に登場する子どもたちは、そもそ もそのような逆説が学校を成り立たせていることを知りません。(中略)消費主体として 出発した子どもたちは、目の前に差し出されたものをつねに「商品」として見ます。そし て、それを「値切ろう」とする。最小の貨幣で最大の商品を手に入れようとする。 諏訪氏や内田氏の述べるような「消費者」マインドで学校教育に対峙する子どもたち、そし て同種の成人化した親たちに、我々教員はどのような対応が可能なのだろうか。また、教育は サービス業であると学校サイドが追認する必要があるのだろうか。 学校は料金(授業料:必要経費)を徴収し子供(児童・生徒)の面倒をみる〈サービス業〉 だから、お客(消費者)である家庭(保護者)よりも学校側にすべての責任があるとの考え方 の背景には、諏訪氏や内田氏がいうところの〈オレ様化〉したかつての子ども達が親になった 姿があるといえよう。そして、こうした無理解な保護者(家庭)への対応は、きわめて厄介で ある。私見をいえば、学校という場所で行われる職業とは、人が人にサービスを施す業ではな く、人が人を教え育てる〈教育業〉であることを強く付言しておきたい。 ところで、一つの提案だが、「学校と家庭」に関する問題が隘路に入った場合、これにコミッ トする複数の専門家で構成された調整機関を(児童福祉相談所や家庭裁判所など以外に)設け、 そこへの上申によって多角的な検討を重ねて解決の道を探るというのはどうだろうか。多岐に わたる学校と家庭の問題は、そうした独立行政法人的な調整機関の設置を考えるべき状況に なっているように思われる。ただし、そうなると法整備などに時間を費やされ、設置がなされ た時には、当の子どもたちは、とうの昔に成人を迎えてしまったということにならぬよう、迅 速な「連携・協働」の「環境の整備」が必要になる。 第二の課題は「学校と地域の連携・協働」である。この課題については、早くからより詳細 な議論もなされている(注15)。 地域の人々とともに子供を育てていくという視点に立ち、地域と学校の連携・協働の下、 幅広い地域住民等(多様な専門人材、高齢者、若者、PTA、青少年団体、企業・NPO 等) が参画し、地域全体で学び合い未来を担う子供たちの成長を支え合う地域をつくる活動 (地域学校協働活動)を進めながら、学校内外を通じた子供の生活の充実と活性化を図る ことが大切であり(以下略)。
事実、数年前、京都府南部の中学校が荒れた際、地域の老人たち(敬老会)が学校の参観に 協力し、生徒たちとも交流するうちに荒廃が自然に鎮静化した事例があった。これは学校が地 域に窓を開き、世代を超えた新たな空気の導入で逼塞した空気を開放した成果だろう。たとえ ば、学校を舞台として地域特産のモノ造りや伝統行事の紹介や参加によって地域住民と生徒が 交流を深め、学校と「地域」との「連携・協働」を深め、学校が地域文化の発信基地になるこ とも可能だろう。あるいは、学区や町内会による運動会など種々のスポーツ・イベントにこれ まで以上に学校施設(運動場や体育館など)を開放・提供し、その場が地域住民だけで使用さ れるものではなく、生徒や教員も参加する機会を設けることで、「学校と地域の連携・協働」 も可能だろう。要するに、学校がその地域の共同体的な核(コア)となるべき場(施設や人員 も含め)を創出し、地域住民に提言してゆく積極性や開放性が重要になってくるのである。そ うなれば、地域住民の学校に対する親近感も増大し、生徒たちへの温かい眼差しも醸成され、 互いに名前も顔も知る地域住民からの働き掛けに子供たちは耳を傾けてゆくに違いない。 第三の課題は「学校と警察や児童相談所との連携・協働」である。これは教員や学校内のレ ベルでは対応しがたい事案(暴力事件や犯罪など)が発生した場合、それに蓋をするのではな く、すぐに関係機関と「連携・協働」していち早く問題解決に当たるべきだということであろ う。とすれば、事案を察知した時に、変なプライドから隠蔽したり、見て見ぬふりをしたりし た結果、事案への対処が遅れ、事態をこじらせることのないよう、日頃から関係機関と意思の 疎通がはかれる体制を整えておくべきであろう。 最後は「『チームとしての学校』の在り方」の「国公立学校や私立学校における『チーム としての学校』であるが、その内容は次のように述べられている。 国立学校や私立学校については、その位置付けや校種の違いなどを配慮して、各学校の取 組に対する必要な支援を行うことが重要である。 一般的な公立学校と違って「国立学校、私立学校」は、「その位置付けや校種の違い」など の〈特性〉があるので、その学校の独自性や個性に応じて「必要な支援」を行うべきだとの指 摘は当然だろうし、理解もできる。ただし、そうした国立学校や私立学校の〈特性〉に応じた 「支援」が、他の一般的な公立学校との比較で教育環境の格差や落差が生じないようにするこ とも大切である。そのためには「取組」の内容やそれに必要な具体的費用など、「支援」の内 実に関する情報開示が重要となる。今や校種の多様化も避けられない時勢だが、一方で学校全 体を包むマクロな教育観による公平性が不可欠で、そうした観点を欠くことはできない。今さ
らながらであるが、何よりも教育の機会均等は基本的人権なのだから。
6.
「チームとしての学校」を実現するための具体的な改善方策
上記の「具体的な改善方策」は、「専門性に基づくチーム体制の構築」「学校のマネジメ ント機能の強化」「教員一人一人が力を発揮できる環境の整備」の三点を掲げている。 の改善策は、さらに具体的な「①教職員の指導体制の充実」「②教員以外の専門スタッフ の参画」「③地域との連携体制の整備」の三項目に整理されている。これらのうち、①で言及 されているアクティブ・ラーニングや子供の貧困等への対応はすでに1章や2章で述べてきて おり、③の地域との連携についても5章後半で述べてきた。したがって、ここでは②を中心に 取り上げて述べることにする。 ②の「教員以外の専門スタッフの参画」の具体的内容は次のように説明される。 〇心理や福祉に関する専門スタッフの学校における位置付けを明確にし、配置充分につな げるため、スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカーを法令に位置付け。 〇学校図書館の利活用の促進のため、学校司書の配置を充実。 〇教員に加え、部活動の指導、顧問、単独での引率等を行うことができる職員として、部 活動指導員(仮称)を法令に位置付け。 〇医療的ケアが必要な児童生徒の増加に対応するため、医療的ケアを行う看護師等の配置 を促進。 要するに、今日の学校内において生起しつつある問題に関して「教員」の過重な負担を軽減 すべく「専門スタッフ」との連携をはかるということであろう。具体的には、上から順に、ス クールカウンセラー(SC)やスクールソーシャルワーカー(SSW)の採用、学校司書の充実、 部活動指導員の設置、医療的ケアに対応できる看護師の配置などを促進しようとの提言である。 いずれも今日の複雑・多様な社会状況下の学校における喫緊の課題に答えようとする具体的な 改善策で、一見したところ、何ら問題のない望ましい提言であるように思える。しかし、SC や SSW 、部活動指導員、看護師といった「専門スタッフ」などの具体名の指名は、逆に学校 と〈外部〉とのそれ以外の連携を閉ざすものともなりかねない。事実、これらの「専門スタッ フ」はいずれも〈教科〉指導以外の問題に関する対症療法的な措置ともいえ、それは〈学校〉 や〈教育〉の本質に関わる発展や活性化を促す動因とは考えにくい。たとえば、さまざまな問 題が生起する理由の何%かは、教科(授業)に対する子供の関心の低下に関わっているように思われる。子供たちが授業そのものに多大な興味を抱き、その知的好奇心が満たされれば、問 題の何%かは減じるのではなかろうか。多彩な問題に対処する SC や SSW などの「専門スタッ フ」の充実はむろん重要で不可欠だが、一方で〈教科=授業〉そのものを活性化させる〈外部 スタッフ〉の導入にもフレキシブルに門戸を開く機会があってもよいのではないだろうか。 冒頭(「はじめに」)で引いた〈趣旨〉説明の「多様な価値観や経験を持った大人たち」とい う表現のニュアンスからいえば、教科と直接・間接に関連する専門家や研究者などもその「大 人たち」に含めてよいように思われる。また〈高大連携〉の趣旨からも教科に関わる「専門ス タッフ」の将来は、ややもすればマンネリ化しかねない授業を活性化させ、今までと異なる新 風の導入は生徒たちの眼を開く契機にもなるだろう。ただし、〈外部〉からのゲストは、いう なればイレギュラーな来客であって、その存在自体が物珍しく新鮮であるため生徒の耳目を集 めやすい。さらにいえば、ゲストと生徒たちとの出会いが一回性あるいは単発的・断続的であ るため、インパクトが強く残りがちである。つまり、鮮明な印象を残すゲストに比べ、生徒た ちと日常的に接するレギュラーの教員は鮮度に欠けるため、相対的にその存在の陳腐さが増幅 され、能力も低いかのような誤解を招く恐れもある。もしそうであれば、〈外部ゲスト〉の導 入は、レギュラー教員にとっても、その後の授業運営にとっても、必ずしも望ましい結果をも たらすものではない。ひとつ間違えば、学校現場の継続的な運営に混乱をきたす要因となる可 能性も皆無ではない。 一方、すべての科目には学期を通じたトータルな到達目標があり、ゲストを導入する当該科 目も同様である。この目標について責任を負うのは当然ながらレギュラーの教員であり、評価 についても同様であるが、ゲストは大抵そこに関知しない。それゆえ高い専門的スキルをもつ ゲストであっても自身の参加する当該科目の到達目標を十分に理解しているとは限らない。そ の理解が不十分であれば、ゲストはただ自分の得意な専門領域を単発的に披露しただけで、結 果的には授業の全体的な流れを切断したことになる。そして、レギュラーの教員は再び元(本 来)の流れに戻すべく(つまり後始末のために)余分なエネルギーを使うことになる。した がって、外部ゲストにも参加当該科目に対する相応の当事者意識が求められ、レギュラーの教 員に対する配慮も必要となってくる。 上記に述べた懸念を避けるためには、後にも触れるように外部ゲストの導入を現場教員の側 がなるべく主体的に企画・提案し、その意図をゲスト当人にも理解してもらうようコミュニケー ションを図ることが重要である。できれば、担当教員とゲストが事前に面談し、ゲストも教科
の狙いや担当教員の実情をふまえて教室に立つことが望ましい。相互のコミュニケーションを 通じて有形・無形の信頼関係を築くことが外部ゲストの導入効果を倍増させると思われる。た だし、そうした準備作業のために現場教員に新たな負担が増えないように配慮するよう注意し たい。こうした留意点に配慮した上で、多彩な外部ゲストに門戸を開くことがむしろ学校の活 性化と新しい「チームとしての学校」の創出に寄与することになるのではあるまいか。 前述の通り、「具体的な改善方策」は、続いて「学校マネジメント機能の強化」と「教 員一人一人が力を発揮できる環境の整備」を提示している。 の「マネジメント強化」は、その具体的な項目として「①管理職の適材確保」「②主幹教 諭制度の充実」「③事務体制の強化」の三点を掲げる。①では管理職教員の計画的な養成のた めの教職大学院への派遣や研修等が述べられ、②では主幹教諭による管理職補佐の拡充が望ま れ、③では事務職員の学校運営における職務規定(学校教育法)の見直しや事務機能強化の推 進が示されている。だが、こうした具体的指針を見ると、この「マネジメント強化」とは、端 的にいえば文部科学省の主導による一元的な〈管理強化〉化にほかならないのではないか。つ まり教員の多くが権限の強化された管理職・校長の顔色を伺い、管理規約に行動や発言がいつ しか制限され、目に見えない相互監視システムのような空気も浸潤してゆく可能性が高いので はないか。だが、教育現場の活力とは、むしろ〈管理〉とは逆の、自由な創造性を基盤とする 主体的・積極的な取り組みから生じるのであって、真の〈学校=教育の充実〉は教室で子ども たちと向き合う教員個々の真剣な創意工夫や学びの内にこそ発するものである。もちろん、学 校現場において、この「マネジメント機能の強化」を図らねばならない問題行動を起こす教員 が存在することも確かであろう。ただ、そうした問題教員とされる教員の場合、その多くが 「マネジメント機能の強化」というレベルの問題ではなく、多くが児童・生徒に対する倫理的 な態度(常識)を逸脱した処分対象者を指すと思われる。それが世間の耳目を集める場合も多 く、結果的に教員全体への管理、つまり、「マネジメント機能の強化」の指針へと繋がっていっ た可能性もある。しかし、世間の耳目を集める問題行動を起こす教員という存在は、教育現場 において極く一部の教員であって、それ以外の多くは、子どもたちが生きてゆく未来のために、 子どもたちの資質を伸ばそうと日々の校務に努めている。問題は、「マネジメント機能の強化」 に名を借りた教員の問題行動を未然に防ぐための〈管理強化〉であって、それは決して〈学校 =教育の充実〉を期待する思考とは全く逆の発想から考案された施策として、自由闊達な意見 の交換も阻む委縮した教員を生みだしてゆくことにならないだろうか。
最後にの「教員一人一人が力を発揮できる環境の整備」を見ておこう。その具体的な施策 として「①人材育成の推進」「②業務環境の改善」「③教育委員会等による学校への支援の充実」 が示されている。①では人事評価の結果が任用や給与等への反映や文部科学省による表彰制度 が述べられ、②では業務改善のためのガイドラインによる研修や教職員のストレスチェックや メンタルヘルスの実施が進言され、③では教育委員会の指導主事による改善指導および助言や 不当な要望等を解決する委員会担当の弁護士に対する支援などが示されている。この「教員 一人一人が力を発揮できる環境」も、実はの〈管理〉の問題と通底している。教員個々が 「力を発揮できる環境」とは何よりも彼らの個性を「発揮」できる〈自由〉な環境が出発点と なるが、「人事評価」が「任用・給与」の「処遇」に反映する(かつて議論を呼んだ「勤務評 価」そのものだ)となれば、「評価」を判定する管理職(校長)の権限に左右され、その意向 を汲む傾向が強まり〈管理強化〉となって、「教員一人一人が力を発揮できる環境」とは程遠 くなる。②の業務改善のためのガイドラインによる研修にしても原理的には同じだといえる。 ストレスチェック制度やメンタルヘルス制度の実施も、もちろん教育現場の諸問題による負担 軽減を図るためのものであろうが、その幾分かは〈管理強化〉による閉塞感によって発するも のとも考えられる。③の教育委員会による改善指導や助言もさら威圧的な〈管理〉になるとも いえよう。たしかに、残念ながら問題行動を起こす教員がいることは事実であるが、こうした 教員への処分は、これまでも校長や教育委員会が改善指導などを行ってきている。となると、 今回の表彰制度やメンタルヘルス制度や弁護士による支援などの実施は、多くの教員の内面に、 表彰制度にあやかろうとする心性や、指針からはみ出すことを恐れる心性などを逆に醸成する のではないか。 〈学校=教育の充実〉を第一義とするなら、〈管理〉はなるべく要諦のみの原理・原則にとど め、その早道は急がば回れのごとく、教員や教育現場そのものの自主的な努力を信頼すること にある。そうした〈信頼〉がなければ、そもそも教育という人間形成の場は成立しないだろう。 何よりも重要なのは、〈教育(現場)をどうするか〉ではなく、〈教育とは何か〉を熟考するこ とではあるまいか。教育(学校)問題は、つねにこの原点に立ち戻る姿勢の中にしか存在しな い。
まとめ
「チームとしての学校」という課題は、「チーム」という冠自体が連想させるように、学校組織やその機能面でより〈協働性〉が求められてきたことを意味する。平たく言えば、それは チーム一丸となってコトに当たってほしいとの要望であり、裏を返せば、それだけ学校を取り 巻く教育環境が危機的だということである。端的にいえば、学校とその周辺の問題が今や学校 単独や教員だけの力では解決できない困難な事象になりつつあることの証左でもある。学校も 社会の中の一組織である以上、社会の影響を受け、変容の波を被ることも避けられない。しか し、教育の〈核心=コア〉は、変貌し続ける社会の時流とは異なり、時流に翻弄されない普遍 的な基盤の上に立つもの と考えられる。たとえば〈あるべき姿〉としての「子どもの最善の利 益(The best interests of the child)(注16)に常に立脚するといった問題意識を教員個々が追究
し、その強度を高めるさまざまなアップ・デートに努めることが重要だと思われる。 かつて〈象牙の塔〉として社会から超然としていた大学もそうでなくなったように、かつて 〈聖域〉だった学校もまた特別な存在ではなくなった。学校も社会もともに歩み、社会変革の 洗礼を受け、社会に向けて開かれた組織となりつつある。それだけに学校をめぐる諸問題は、 複雑・多岐な社会情勢を映し出す縮図であり、学校(教育現場)は特にその矛盾が集中する坩 堝でもある。教員(教師)は、そうした中で生徒や保護者と向き合うのである。 たとえば、近年では、お金を多く稼いだ者が立派な勝者で、そうでない者を敗者と決めつけ る風潮が蔓延している。貧者つまり負け組をバカにする金権至上主義的な考え方(それは優勝 劣敗を盲信する一方的な眼差しにもなる)に対し、教員(教師)はどうやってそうした価値観 だけがすべてではないと説けるのか。あるいは、過去の歴史でいえば、戦時下の教育現場に持 ち込まれた軍国主義の圧力とどのように対峙するのか。そうしたさまざまな世間の〈風圧〉に 抗するのはいずれも簡単ではない。とはいえ、教育の本質的な〈核心=コア〉は、そうした社 会の時流に流されない普遍的な人間性の問題を問うのである。それゆえ、今後、教育現場に立 つ人間は、時流の変化に右往左往するのでなく、自分なりの確固とした価値観や指針や戦略を 磨き上げるための〈学び〉が必要となる。しかも、近年の教育現場における諸問題は学校単独 や教師個人の手に負えない事例が多発しており、答申(概要)に掲げられた「チームとしての 学校」はその対応策であると、同時に、学校における教員(教師)の困難さに対する〈セーフ ティ・ネット〉の意味合いも持っている。とすれば、これからは「チーム」としての〈協働性〉 に参画する方法やその立ち位置についても、それこそ主体的かつ積極的に考えておく必要があ る。 「チームとしての学校」は、見てきたようにきわめて今日的な課題である。これまで述べて
きた私見による留意点や問題点は、その解答でも処方箋でもない。いうなれば課題を考えるた めの材料の一つにすぎない。そもそも「チームとしての学校」という課題自体、個別の問題ご とにしかるべき対処方法を模索し、常に刷新される現在進行形の流動態である。それゆえ「チー ムとしての学校」は固定したモデルに依拠するのではなく、学校組織も教員も常にフレキシブ ルで弾力的な〈知恵〉を働かせねばならない。それゆえ今後の教員(養成も含め)は、教科の 指導力に加え、関連施策に精通するとともに、社会の本質を冷静に見極める眼や柔軟な感性が 求められよう。そして、何よりも重要なことは、「チームとしての学校」という課題が第一に 子ども(児童・生徒)たちのための施策だということである。 注 1)実際のキャッチフレーズ誕生の過程については、藤井雄一郎『ONE TEAM はなぜ生まれ たのか』(PHP 新書、2020/令2・7)を参照されたい。 2)『「チーム学校」によるこれからの学校経営』(ぎょうせい、2016/平28・6)等にその具 体的な解説が見られる。 3)赤田圭亮「教員の労働は本当に『特殊』なのか?」(「現代思想 迷走する教育」青土社、 2020・4)。赤田氏は、「教員という仕事が、共同体における子どもたちの養育という面をあ わせもつことから、縦割りの明確な分担にとどまらない、互いのすき間を埋めるようになさ れる傾向をもっていたことは確かだ。(中略)それは近代公教育というシステムではとらえ きれない自生的な現場の文化であったと思う」とした上で「教育を取り巻く状況を無視した 『チーム文化』の礼讃は、教育行政の理念や哲学の浅さを露呈しているだけでなく、現実に ある多くの問題を隠蔽する弊害以外の何物でもない」と述べている。 4)「チームとしての学校の在り方と今後の改善方策について(答申)」(中教審第185号)(文 部科学省中央教育審議会2015/平27・12・21)4~61頁および概要 https://www.mext. go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1365657.htm 5)石村卓也・伊藤朋子『チーム学校に求められる教師の役割・職務とは何か』(晃洋書房、 2017/平29・10)は、その書名通り、「チーム学校」が求める役割や職務に関する全体的な 概略を示している。 6)中教審答申(平28・12・21)をうけて順次改訂された学習指導要領(幼稚園・小学校・中 学校、平29・3・31。高等学校、2018/平30・3・30)など。
7)「『こゝろ』のゆくえ―文学的教材の問題提起的なアクティブ・ラーニングの試み」(「近畿 大学教育論叢(第29巻第3号)」2018/平30・3) 8)岡崎勝「先生、学校はどこへ行くんでしょうか?スティーブン・キングに聞いてください!」 (「現代思想 迷走する教育」青土社、2020/令2・4)は、「幼稚園、小学校、中学校、高 等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について」(「答申」補足 資料)に記された「主体的」学び・「対話的」学び・「深い学び」の説明を引用し、それらが 「理念的(お題目、念仏的)教育フレーズが先行し、それを具体化する現場の教員の状況・思 想・思考は一顧だにされない」とし、例えば「主体的」学びについて「本来『主体的』とい うときには、既存の学習内容や学習環境、制度、教師―生徒の関係、学校知を疑うことから、 つまり、批判的とまでは言わずとも、対象と自己への問い直しが不可欠になる」はずなのに、 実際には「『競争社会の中で、成果をあげるために、先生の作った学習範囲の中で、言われ なくても自分からすすんで、あきらめずに努力すること』という暗黙の指示」がなされ、 「『従属性=主体性』としか読めない」と批判する。 9)「3.各学校におけるカリキュラム・マネジメントの確立」第2項(文部科学省、2020/ 令2・7・27) 10)『窓ぎわのトットちゃん』(講談社、1981/昭56・3) 11)2019年秋の神戸市立東須磨小学校における事件(「神戸新聞」2019/平31・10・4)ほか。 12)大塚美和子ほか編著『「チーム学校」を実現するスクールソーシャルワーカー』(明石書店、 2020/令2・8)参照。 13)諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』32頁(中公新書クラレ、2005/平17・3) 14)内田樹『下流志向―学ばない子供たち、働かない若者たち』46頁(講談社、2007/平19・ 2) 15)「地域とともにある学校の在り方に関する作業部会」や「学校地域協働部会」等の一連の 議論をふまえた「総則・評価特別部会、小学校部会、中学校部会、高等学校部会における議 論のとりまとめ(案)」(文部科学省、平28・7・29)による。 16)「子どもの権利条約」(平元/1989年成立、日本は平6/1994年に批准)第三条中の文言、 その後、「最善の利益」の適応範囲は「子どもにかかわるすべての活動」に拡大され、「第一 義的な考慮事項(a primary consideration)」となった。