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アジ研ワールド・トレンド No.226(2014. 8)
●蚊ほどの亭主でいいから
二○○二年にトルコで出版され
たハティジェ・メリアムのベスト
セラー
﹃蚊ほどの亭主でいいか
ら﹄は、語り手が﹁もし私が○○
の女房だったら﹂と、
﹁家具職人﹂
や﹁酔っ払い﹂などさまざまな職
業や年齢、性格の男たちの妻の気
持ちに想像をめぐらせ、亭主がい
てこその女、という庶民の結婚観
をユーモラスに語って人気を博し
た。タイトルは﹁蚊ほどの亭主で
いいから、いてくれないと﹂とい
う慣用句による。トルコでは国民
の大半がムスリムだが、結婚は世
俗的な民法によって成立し、一夫
一婦制である。二○一二年の結婚
統計によれば平均初婚年齢は男性
が二六・七歳、女性が二三・五歳
である。メリアムが軽い皮肉をこ
めて描いたように、トルコでは結
婚はするものと考えられており
、
離婚の増加が警戒されることは
あっても、非婚や晩婚が社会問題
化する気配は今のところない。失
業や低賃金労働の問題は、たとえ
ば本特集でも取り上げられたエジ
プトにおけるような若者の結婚難
よりむしろ、結婚後の夫婦の不和
や離婚の原因をつくりだしている
ようにみえる。
そんな結婚大好きのトルコ社会
では、世話焼きおばさんが活躍す
る見合結婚や親族結婚が幅をきか
せる。二〇〇六年の家族構造調査
によると、現在結婚しているカッ
プルのうち、親族結婚は二一
%
を
占める。一方、結婚における愛情
はますます重視されるようになっ
ている。現在結婚していない男女
の九○
%
が、結婚相手に求める条
件として、相手に対する恋愛感情
を挙げている。ちなみに最も重視
する条件は、女性は仕事について
いること
︵九五
%
︶、男性は恋愛
感情、次いで初婚であること︵八
六
%
︶であった。トルコでは女性
の処女性や貞操が家族の名誉にか
かわるため、男女の交際は制限さ
れがちである
。だが見合結婚で
あっても、相手への恋愛感情が重
視され、性的な自由化が進む大都
市の大学生のあいだでは、異性と
性的な関係を含む恋愛を経て結婚
することは普通のことになってい
る。
●母が娘に望むこと
イスタンブル市の端に位置する
S
区は保守的な地方出身者が多い
ことで知られる
。その
S
区でも
、
結婚における互いの理解や愛情が
大切だという考え方は広がりをみ
せている。かつては傷物にならな
いうちに、あるいは夫の家のしき
たりに早くなじめるよう、一〇代
のうちに結婚させようとしたが
、
夫や義母たちから虐げられないた
めにはある程度の年齢に達して分
別がついてから結婚するほうがよ
いという考え方も生まれている。
とりわけ母親たちは、親にいわ
れるままに結婚したこと、あるい
は親の拘束から逃れるために相手
をよく知らないまま駆け落ちした
ことを悔い、娘には自分がした失
敗や苦労はしないでほしいと望
む
。彼女たちの結婚の背景には
、
親との関係が反映されている。現
在三○代から四○代の女性の多く
は
、両親との関係はより厳格で
、
父親はもちろん母親にも甘えたり
何かを相談したりすることはでき
なかったという。だから自分の娘
とは友達のように何でも話す、好
きな相手ができれば相談してほし
い、という。母親たちが娘たちに
望むのはあくまでも
﹁理性の恋﹂
であり、性的な関係は禁じるのに
たいし、娘たちはロマンチックな
恋愛に憧れるといった温度差があ
るとしても、結婚の風景は確実に
変化しているように思われる。
そんな﹁自由化の波﹂が押し寄
せる
S
区では、意外なことに駆け
落ちの話がよく聞かれた。トルコ
では昔から農村を中心に駆け落ち
途上国
の
出会い
と
結婚
特 集
村
上
薫
イ
ス
タ
ン
ブ
ル
の駆け落ち事情
イスタンブルの駆け落ち事情
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アジ研ワールド・トレンド No.226(2014. 8)
が行われてきた。経済力、家族同
士の関係、宗派の違いなどが理由
で、娘の親から結婚の承認を得ら
れないときに、娘の合意のもとに
︵合意のない場合もある︶
、娘を連
れ去るのである。娘はいったん駆
け落ちすれば処女を失ったとみな
され、親の面子をつぶしたとして
家族や親族からは絶縁されてしま
う。双方の家族が和解できればす
べてがまるく収まる一方、保守的
な地域では娘殺しに発展しかねな
い。
●アイシェの駆け落ち
アイシェは夫のメフメットと
、
一八歳のとき、彼がイスタンブル
から村に帰省したときに知り合っ
た。正確には、アイシェの母親が
かねてから有望な結婚相手候補と
して目をつけていたメフメットと
引き合わせた。メフメットは八歳
上の真面目な好青年で、イスタン
ブルに移住した男たちの多くが建
設現場の日雇い労働者なのとは
違って、フォーマルセクターの工
場労働者で社会保険にも加入して
いた︵つまりいずれは年金がもら
える︶
。二人はすぐに互いを気に
入り、メフメットがイスタンブル
に戻ったあとも、毎晩のように電
話で話し
、交際を深めていった
。
やがてメフメットがアイシェの両
親のもとに求婚に訪れると、両親
はこれを受け入れ、二人は晴れて
婚約式を挙げた。両親はメフメッ
トに、結婚の条件として新婚夫婦
が住むための家を用意するよう求
めた。
メフメットは狭い平屋に兄一家
と同居しながら、兄たちと共同で
二階を建て増し、そこを新居にあ
てる予定だった。彼らは四人兄弟
で資金を出し合い共同で家を建て
ていたが、三男坊のメフメットに
ようやく順番が回ってきたのであ
る。だが地券登録のない不法住宅
であったため、区からなかなか増
築の許可が下りず、また建築資金
も不足していた。メフメットはア
イシェの両親に事情を話し、新居
の完成を待たずに結婚させてほし
いと頼んだが、彼らは許そうとし
なかった。業を煮やしたメフメッ
トはアイシェと示し合わせ、ある
日、彼女を村から
S
区の兄の家に
連れ帰ったのである。
二人は宗教婚はせず︵少数派の
アレヴィーで宗教婚は重視してい
ない︶
、区役所に結婚届けを出し、
兄一家と同居しながらの新婚生活
が始まった。披露宴は両親が許し
てくれたらするつもりだったが
、
二年たっても許しは得られなかっ
た。
●駆け落ちの新しいかたち?
その後、兄弟は力を合わせて二
階を完成させ、夫妻は新居に移っ
た。アイシェは初めての子を出産
し、メフメットは週末も返上して
働き、洗濯機やテレビ、応接セッ
トなどをそろえた。
駆け落ちした嫁は、チェイズと
呼ばれる花嫁道具︵リネン類、調
理器具や食器のセット
、冷蔵庫
、
絨毯など︶を持たず、和解するま
では実家の後ろ盾もないから、夫
の家族にたいして立場が弱くいじ
められやすい。アイシェも、同居
の夫の兄の妻や近くに住む夫の姉
から嫌みをいわれ、よく涙ぐんで
いた。また実家と縁が切れること
は、いざ夫から暴力を受けたり夫
が家にお金を入れないといった問
題が起きたときに、頼る場所がな
いということでもある。
幸いアイシェは夫婦仲が良く
、
夫も安定した仕事についている
。
﹁お茶を淹れるのも薪を集め火を
おこすところから始めなければな
らない﹂村と比べて
、生活も楽
だ。唯一不満があるとすれば、記
念日にはキャンドルを灯して祝っ
たり、贈り物をもらうような都会
的でロマンチックな結婚生活に憧
れていたのに、夫がさっぱりのっ
てこないことだという。スカーフ
をはずすことも化粧も許してもら
えないと口をとがらしながら、
﹁そ
れでも﹂とアイシェはいう
。﹁
心
も体も頭もぴったりな相手と巡り
会えたことだけで十分なのよ﹂
。
日本語の駆け落ちは、ずいぶん
と古くさい響きがする。トルコで
もミドルクラス以上の人々は似た
感覚を抱くはずである。大卒の若
者が親の意向に逆らって結婚する
ことは、
駆け落ちとは呼ばれない。
駆け落ちが成立する背景には、処
女を失えば後戻りできないという
厳格な性規範の世界があるからで
ある。アイシェの事例はその点で
まぎれもない駆け落ちであった
。
だが同時にまた、ロマンチックな
恋愛結婚への憧れや結婚相手選び
における本人の意向の尊重といっ
た現代的な考え方に後押しされて
いた点で、駆け落ちの新しいかた
ちといえるのかもしれない。
︵むらかみ
かおる/アジア経済研
究所
中東研究グループ︶