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白樺派と近代日本の住宅建築:『我孫子コロニー』の白樺派作家に見られる住居観の影響関係

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*1ⅮAT/株式会社 都市環境研究室・建築家・工学博士 *2株式会社 加藤建築設計事務所・建築家・早稲田大学理工学研究所招聘研究員 研究 NO.1918

白樺派と近代日本の住宅建築

―『我孫子コロニー』の白樺派作家に見られる住居観の影響関係 ―

主査 野口 修*1 委員 加藤 詞史*2 千葉県我孫子市の手賀沼地域では,大正時代の同時期,白樺派同人の志賀直哉,武者小路実篤,柳宗悦が居住し,独自 の創作活動をした。また,彼らと親交の深い芸術家が我孫子を訪ねたり,実際に移住した者もいたことから,この共同体 は『我孫子コロニー』と表された。本研究で試みたのは,1.手賀沼地域の3旧邸に関する図面や写真資料,言説を掘り起 こして整理・補完し,当時の住環境を復元すること,2.我孫子を起点に3者の住宅変遷を辿り,近代日本住宅史における 白樺派建築の位置付けについて考察すること,3.研究で得た知見を基に『我孫子コロニー』を再評価し,3旧邸跡の保全 や活用を目的とした新しい地域計画を実践することである。 キーワード:1)我孫子コロニー,2)志賀直哉,3)武者小路実篤,4)柳宗悦,5)白樺派, 6)大正期,7)近代日本住宅史,8)住居観,9)地域計画,10)史跡の保全や活用

SHIRAKABA-HA AND THE MODERN JAPANESE RESIDENTIAL ARCHITECTURE

How did influence Shirakabaha artists in Abikocolony each other in the view of residence -Ch. Osamu Noguchi

Mem. Kotofumi Kato

Naoya-Shiga, Saneatsu-Mushanokoji and Muneyoshi-Yanagi are known as core member of Shirakaba-ha. In Taisho-era, each of them lived in the area of Lake-Teganuma, around the same time. Some artists visited or moved to this area thus this community is represented “Abiko-colony”. In this study, I have three objectives. I will collect and organize the drawings and pictures of respective houses to complement living environment at that time and trace the change of architectural style to evaluate its importance in Japanese modern architecture. Furthermore, I will carry out the new project that aims to protect and utilize these houses as historic landmark.

1. 研究の経緯 1.1 『我孫子コロニー』の背景と現況 我孫子市は,千葉県の北西部,都心から1時間圏内に 位置するベッドタウンである。地形としては,南北を手 賀沼と利根川に挟まれた馬の背状の台地が東西方向に広 がる。海抜約20mのなだらかな台地から水辺に下る崖 線(=ハケ)部分には緑豊かな斜面林を残し,都心に一番近 い天然の湖沼である手賀沼を擁する地域の景観は,大正 時代から昭和初期にかけて「北の鎌倉」と称された。 また,この当時,手賀沼の水辺景観に魅了された文化人 は多く,特に志賀直哉,武者小路実篤,柳宗悦が湖畔に 居を構えたことから白樺派同人や彼らと親交のある文化 人たちの拠点となり,『我孫子コロニー』と表された。 そして現在,白樺派の3旧邸跡のうち,旧志賀邸は, 我孫子市の指定文化財として一部「書斎」が復元された 状態で保存され,民間所有となった旧武者小路邸と旧柳 邸は何度か所有者が変わり,建物は建て替えられたが, 敷地は保存され,景観は往時の風情を留めている。 1.2 創作活動と住生活の[転換期]となった我孫子時代 我孫子時代の志賀直哉と武者小路実篤は,彼らを呼び 寄せた柳宗悦の邸宅(三樹荘)を毎日のように訪れ,柳邸 の庭に窯を築いたイギリス人陶芸家のバーナード・リー チを交えた4人で文学論や芸術談義に興じたとされる。 写真 1-1 我孫子・武者小路邸の庭で(大正 6 年 5 月) 後列左から二人目が武者小路実篤(32 歳),柳宗悦(28 歳), 志賀直哉(34 歳)と妻康子,前列左から柳兼子,武者小路房子 (『新潮日本文学アルバム 10 武者小路実篤』文 8)より引用 )

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また,この時期の我孫子の手賀沼地域には,彼らと交流 のある数多くの白樺派の文人や芸術家が訪れたり,居住 した記録も残っている。(図 1-1 参照) 結果,この『我孫子コロニー』での集住体験により, 彼らの創作活動は活発化し,我孫子時代の直哉は,代表 作の大半を書き上げ,実篤は,「新しき村」の構想を固め て入村者の募集を始める。一方,宗悦は,西洋美術を研 究するかたわら朝鮮半島の工芸品にも魅かれてゆく。 加えて,『我孫子コロニー』を原型とする芸術共同体は, その後の彼らの活動において,三者三様に再現された。 例えば,「高畑サロン」は,奈良転居後の直哉が主催した 文化人たちのコロニーだったし,「新しき村」は,実篤の 思潮に共感する人々との実験的なコロニー,京都時代の 宗悦が参加した「上賀茂民芸協団」は,彼の「民藝運動」 に影響を受けた工芸家たちのコロニーと解釈できる。 一方,我孫子時代の旧邸は,志賀直哉,武者小路実篤, 柳宗悦とも家族を持った後,初めて住生活を営んだ場所 でもあった。転居を繰返していた直哉は,初めて我孫子 で7年間を過ごして5人の子供を得たし,実篤は,妻が 設計した住宅を大変気に入っていた。また,宗悦も声楽 家の妻,兼子との新婚生活をこの地で送っている。 つまり,大正時代の手賀沼湖畔に形成された『我孫子 コロニー』とは,白樺派の思潮を共有する若い作家たち が同時期・同地域に集住し,互いの創作活動を切磋琢磨 した場所であると同時に,彼らの住居観をかたちづくっ た住生活の [転換期]だったとも考えられる。 1.3 本研究の意義 白樺派とは,「雑誌『白樺』に依拠して,キリスト教, トルストイ主義,メーテルランク,ホイットマン,ブレ イクなどの影響を受けつつ,人道主義,理想主義,自我・ 生命の肯定などを旗印に掲げた文学者,芸術家たち」注1) と定義される。また,1910(明治 43)年に創刊され,関東 大震災(1923 年)で幕を閉じた『白樺』は,足かけ 14 年, 全 160 冊というその刊行期間の長さ,同人の変動の少な さ,影響力の大きさなどからして,近代日本最大の文芸 同人誌と言える。また『白樺』には,ロダン,セザンヌ, ゴッホ,マチスなどを紹介した美術雑誌としての側面も あり,この点において,文学と美術がジャンルを超えて 響き合う,総合芸術雑誌でもあった。そして,こうした 白樺派の活動が近代日本の住宅建築に影響を及ぼしたと すれば,建築思潮の面で①柳宗悦が提唱した「民藝運動」, すなわち工芸を中心とした造形運動の中で行われた独自 の建築表現の流れや②武者小路実篤らの「新しき村」の ようなセルフビルドと集住実験の流れ,③白樺派同人の 多くが学習院出身であり,近代日本における上流階級の 子弟であったことから,後年,クライアントとして建築 家の活動を支えた流れなどが挙げられる。 一方,こうした建築思潮の流れを“縦軸”とすると, 白樺派同人間のつながりから生まれた住居観の影響関係 などは,“横軸”と捉えられ,住宅建築の近代化が学術的 な理論に基づいた思潮の展開や建築家の活動によって 淡々と進められたものでなく,人間関係も重なった複層 的な構造で醸成されたことを示す重要な指標と言える。 そして,こうした観点から『我孫子コロニー』を形成し た白樺派作家たちの住居観を並列的に洞察することは, 日本の住宅建築が近代化する過程の一端を明らかにする 2 3 1 4 5 6 7 8 910 1 2 3 1:旧武者小路実篤邸跡 2:旧柳宗悦邸跡( 三樹荘) 3:旧志賀直哉邸跡 大正期( 干拓前) 手賀沼だっ た部分 ※沼全体で1085haあっ た 4: 中勘助[ 小説家・ 詩人・ 随筆家] 仮寓跡 5: 嘉納治五郎[ 柔道家・ 教育者] 別荘跡 6: 杉村楚人冠 ◎[ 新聞記者・ 随筆家・ 俳人] 邸 7:里見弴 ★[ 小説家 ] 別荘用地跡 8:小林力弥 ◎[ 日本観光( 株) 取締役] 別荘 9:滝井孝作[ 小説家・ 俳人・ 編集者] 住居別荘跡 10:村川堅固 ◎[ 西洋史学者] 邸 ※1 ~3 は図 A ・ B 共、 武者小路邸・ 柳邸・ 志賀邸を 示す。 ※★は『 白樺』 同人、 ◎は『 手賀沼保勝会』 に属し たこ と を 示す。 ↑手賀沼の水辺   景観 図 A 図 B 現在の手賀沼・650ha ( 濃い部分) 大正期『 我孫子コ ロ ニー』 周辺の土地所有状況 『 我孫子コ ロ ニー』 ←利根川 手賀沼→ ※点線は我孫子市の市域境界線 ※地図は1930年大日本帝国陸地測量部発行 図 1-1 『我孫子コロニー』の位置および,同時期(1914〜 1923 年)の手賀沼湖畔に別荘・住居を所有した主な文化人 写真 1-2 3旧邸の現況写真/1-1,2 旧武者小路邸跡・ 2-1,2 旧柳邸(三樹荘)跡・3-1,2 旧志賀邸跡の現況 また,この時期の我孫子の手賀沼地域には,彼らと交流 のある数多くの白樺派の文人や芸術家が訪れたり,居住 した記録も残っている。(図 1-1 参照) 結果,この『我孫子コロニー』での集住体験により, 彼らの創作活動は活発化し,我孫子時代の直哉は,代表 作の大半を書き上げ,実篤は,「新しき村」の構想を固め て入村者の募集を始める。一方,宗悦は,西洋美術を研 究するかたわら朝鮮半島の工芸品にも魅かれてゆく。 加えて,『我孫子コロニー』を原型とする芸術共同体は, その後の彼らの活動において,三者三様に再現された。 例えば,「高畑サロン」は,奈良転居後の直哉が主催した 文化人たちのコロニーだったし,「新しき村」は,実篤の 思潮に共感する人々との実験的なコロニー,京都時代の 宗悦が参加した「上賀茂民芸協団」は,彼の「民藝運動」 に影響を受けた工芸家たちのコロニーと解釈できる。 一方,我孫子時代の旧邸は,志賀直哉,武者小路実篤, 柳宗悦とも家族を持った後,初めて住生活を営んだ場所 でもあった。転居を繰返していた直哉は,初めて我孫子 で7年間を過ごして5人の子供を得たし,実篤は,妻が 設計した住宅を大変気に入っていた。また,宗悦も声楽 家の妻,兼子との新婚生活をこの地で送っている。 つまり,大正時代の手賀沼湖畔に形成された『我孫子 コロニー』とは,白樺派の思潮を共有する若い作家たち が同時期・同地域に集住し,互いの創作活動を切磋琢磨 した場所であると同時に,彼らの住居観をかたちづくっ た住生活の [転換期]だったとも考えられる。 1.3 本研究の意義 白樺派とは,「雑誌『白樺』に依拠して,キリスト教, トルストイ主義,メーテルランク,ホイットマン,ブレ イクなどの影響を受けつつ,人道主義,理想主義,自我・ 生命の肯定などを旗印に掲げた文学者,芸術家たち」注1) と定義される。また,1910(明治 43)年に創刊され,関東 大震災(1923 年)で幕を閉じた『白樺』は,足かけ 14 年, 全 160 冊というその刊行期間の長さ,同人の変動の少な さ,影響力の大きさなどからして,近代日本最大の文芸 同人誌と言える。また『白樺』には,ロダン,セザンヌ, ゴッホ,マチスなどを紹介した美術雑誌としての側面も あり,この点において,文学と美術がジャンルを超えて 響き合う,総合芸術雑誌でもあった。そして,こうした 白樺派の活動が近代日本の住宅建築に影響を及ぼしたと すれば,建築思潮の面で①柳宗悦が提唱した「民藝運動」, すなわち工芸を中心とした造形運動の中で行われた独自 の建築表現の流れや②武者小路実篤らの「新しき村」の ようなセルフビルドと集住実験の流れ,③白樺派同人の 多くが学習院出身であり,近代日本における上流階級の 子弟であったことから,後年,クライアントとして建築 家の活動を支えた流れなどが挙げられる。 一方,こうした建築思潮の流れを“縦軸”とすると, 白樺派同人間のつながりから生まれた住居観の影響関係 などは,“横軸”と捉えられ,住宅建築の近代化が学術的 な理論に基づいた思潮の展開や建築家の活動によって 淡々と進められたものでなく,人間関係も重なった複層 的な構造で醸成されたことを示す重要な指標と言える。 そして,こうした観点から『我孫子コロニー』を形成し た白樺派作家たちの住居観を並列的に洞察することは, 日本の住宅建築が近代化する過程の一端を明らかにする 2 3 1 4 5 6 7 8 910 1 2 3 1:旧武者小路実篤邸跡 2:旧柳宗悦邸跡( 三樹荘) 3:旧志賀直哉邸跡 大正期( 干拓前) 手賀沼だっ た部分 ※沼全体で1085haあっ た 4: 中勘助[ 小説家・ 詩人・ 随筆家] 仮寓跡 5: 嘉納治五郎[ 柔道家・ 教育者] 別荘跡 6: 杉村楚人冠 ◎[ 新聞記者・ 随筆家・ 俳人] 邸 7:里見弴 ★[ 小説家 ] 別荘用地跡 8:小林力弥 ◎[ 日本観光( 株) 取締役] 別荘 9:滝井孝作[ 小説家・ 俳人・ 編集者] 住居別荘跡 10:村川堅固 ◎[ 西洋史学者] 邸 ※1 ~3 は図 A ・ B 共、 武者小路邸・ 柳邸・ 志賀邸を 示す。 ※★は『 白樺』 同人、 ◎は『 手賀沼保勝会』 に属し たこ と を 示す。 ↑手賀沼の水辺   景観 図 A 図 B 現在の手賀沼・650ha ( 濃い部分) 大正期『 我孫子コ ロ ニー』 周辺の土地所有状況 『 我孫子コ ロ ニー』 ←利根川 手賀沼→ ※点線は我孫子市の市域境界線 ※地図は1930年大日本帝国陸地測量部発行 図 1-1 『我孫子コロニー』の位置および,同時期(1914〜 1923 年)の手賀沼湖畔に別荘・住居を所有した主な文化人 写真 1-2 3旧邸の現況写真/1-1,2 旧武者小路邸跡・ 2-1,2 旧柳邸(三樹荘)跡・3-1,2 旧志賀邸跡の現況

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ことでもあり,意義のある研究と考える。 さらに筆者(主査:野口修)は本研究を通して,我孫子 市手賀沼地域に現存する白樺派の旧邸跡を建築単体でな く,一連の芸術共同体『我孫子コロニー』として再評価 し,景観・観光資源としての新しい価値と地域居住者を 中心とした認知度の拡大につなげたいと考えている。 1.4 本研究の目的 以下に本研究で設定した3つの目的を提示する。 Ⅰ.我孫子市手賀沼地域に現存する白樺派同人の志賀直 哉,武者小路実篤,柳宗悦の旧邸跡に関する図面資料 を整理,補完して記録保全の一助とする。 Ⅱ.我孫子の旧邸を原点とした上記3者の住宅変遷を辿 ることで,日本の近代住宅建築史における白樺派建築 の位置付けを考察する。 Ⅲ.白樺派の3旧邸跡を『我孫子コロニー』と読み替えて 再評価し,我孫子市における一連の景観・観光資源と しての価値を再認識すると同時に[保存]と自立を含 めた[活用]の機運を高める。 研究対象とする千葉県我孫子市の手賀沼地域に現存 する志賀直哉,武者小路実篤,柳宗悦の旧邸跡は現在, 旧志賀邸跡地が市指定文化財であるほかは,旧武者小路 邸跡を民間企業,旧柳邸跡を個人が所有している。 保存状態としてはまず,「母屋」,「茶室風書斎」,「書院 風書斎(二階家)」の3棟があった旧志賀邸の跡地では, 「母屋」の間取図を写したコンクリートの基壇と我孫子 市が復元した「茶室風書斎」が,野外展示されている。 また,高台の離れだった「書院風書斎」は,曳家された 近隣住宅の敷地に増改築を繰り返した状態で残っている。 旧武者小路邸は,千葉県の調査報告書文 14)に平面図が 掲載された建物と庭園,ハケの道に下る斜面林が残って いる。土地建物は 1944(昭和 19)年,杉田仙次郎氏に購入 され,昭和 28 年頃建て替えられたことが分かっている。 その後も何度か増改築されて,現在は所有者である三協 フロンテア(株)グループの迎賓館として使われている。 旧柳邸(三樹荘)は,建物こそ建て替えられたが,敷 地は当時のままに保存され,現在でも「三樹荘」の由来 とされる3本の椎の木やバーナード・リーチが窯を築い た築山等を見ることができる。一方で,所有者の高齢化 から現在,邸内の斜面林は市民ボランティアが保全して おり,保存に向けたアプローチが求められている。 こうした現況を踏まえ,筆者がまず大正期の3旧邸に 関する図面資料の整理と補完の必要性を論じる理由は, 近代日本の文学史や思想史に足跡を残した3人の作家が 家族を持った後,初めて住生活を営んだ彼らの住居観の 起点となる資料でありながら,建物が当時の状態で現存 しない上,保存に関しても不安定な状態であることに加 えて,3旧邸を一連の共同体と捉えるには,図面資料が 不揃いで十分な検証ができないと考えたことによる。 2. 我孫子時代を探る調査と図面の復元 2.1 図面・写真資料の整理および補完作業の概要 2.1.1 敷地図面の補完方法について 1946(昭和 21)年に始まり,1968(同 43)年に完了した 「手賀沼干拓」は,第二次世界大戦後の食糧増産という 大義名分のもと,「国営干拓事業」として遂行された。 そして,この結果,手賀沼の面積は『我孫子コロニー』 の舞台となった大正期の約6割(=1085→650ha)となり, 湖畔の景観を大きく変えてしまった。旧志賀邸や旧武者 小路邸の敷地に接するハケの道沿いに広がっていた手賀 沼の水辺は干拓により,現在,宅地や畑となっている。 一連の作業では,柏法務局に保管される①和紙公図と ②旧土地台帳,昭和 3 年に測量され,昭和 5 年,国土地 理院より発行された手賀沼地域の③古地図,我孫子市が 作成した④都市計画図および,⑤地番参考図を用いた。 具体的にはまず,①と②を照合して大正期当時の地型 を確定し,③,④,⑤を重ね合わせた図上に投影するこ とで,測量方法や精度が異なる①和紙公図の地型を現在 の公図の地型とすり合わせた。3旧邸跡地の 14 条地図 が無い状態では,実質この方法が大正期と現在の地型を 照合する最良の方法と考えた。また,③,④,⑤を重ね 合わせた図に関しては,戦後のベッドタウン化で細かく 宅地化された④の等高線を③当時の地形に書き直す作業 に加え,現在の「手賀沼ふれあいライン」が当時のどの 位置にあるかなど,手賀沼の干拓前と干拓後の地形変化 を視覚的に比較可能な図面とすることを目指した。 最後に,記載した敷地面積は,旧土地台帳に記載され た尺貫法の数字をメートル法に置き換えたものとした。 この理由としては,手賀沼地域の 14 条地図が無いこと に加え,ベッドタウン化で敷地が細かく分筆され,区画 整理や道路整備が行われた結果,境界が新設された部分 もあって,当時の正確な面積の算出が不可能と考えられ ること,そもそも本論では,3旧邸が建てられた当時の 住環境に関する概要を掴むことが目的であることから, 面積の精度を追求する必要はないとも考えた。 図 2-1 左①和紙公図(旧志賀邸)と,右③古地図(S5 年発行) ■研究部門(第1〜4章を参照) Ⅰ.我孫子市手賀沼地域に現存する志賀直哉,武者小 路実篤,柳宗悦の旧邸跡に関する図面資料を整理, 補完して記録保全の一助とする。 Ⅱ .我 孫 子 の 旧 邸 を 起 点 と し た 3 者 の 住 宅 変 遷 を 辿 り,近代日本住宅史における白樺派建築の位置付 けについて考察する。 ■実践部門(第5章を参照) Ⅲ.白樺派の3旧邸跡を『我孫子コロニー』と読み替え て再評価し,新たな地域計画を実践することで,3 旧邸跡の保全や活用の機運を盛り上げる。 また,この時期の我孫子の手賀沼地域には,彼らと交流 のある数多くの白樺派の文人や芸術家が訪れたり,居住 した記録も残っている。(図 1-1 参照) 結果,この『我孫子コロニー』での集住体験により, 彼らの創作活動は活発化し,我孫子時代の直哉は,代表 作の大半を書き上げ,実篤は,「新しき村」の構想を固め て入村者の募集を始める。一方,宗悦は,西洋美術を研 究するかたわら朝鮮半島の工芸品にも魅かれてゆく。 加えて,『我孫子コロニー』を原型とする芸術共同体は, その後の彼らの活動において,三者三様に再現された。 例えば,「高畑サロン」は,奈良転居後の直哉が主催した 文化人たちのコロニーだったし,「新しき村」は,実篤の 思潮に共感する人々との実験的なコロニー,京都時代の 宗悦が参加した「上賀茂民芸協団」は,彼の「民藝運動」 に影響を受けた工芸家たちのコロニーと解釈できる。 一方,我孫子時代の旧邸は,志賀直哉,武者小路実篤, 柳宗悦とも家族を持った後,初めて住生活を営んだ場所 でもあった。転居を繰返していた直哉は,初めて我孫子 で7年間を過ごして5人の子供を得たし,実篤は,妻が 設計した住宅を大変気に入っていた。また,宗悦も声楽 家の妻,兼子との新婚生活をこの地で送っている。 つまり,大正時代の手賀沼湖畔に形成された『我孫子 コロニー』とは,白樺派の思潮を共有する若い作家たち が同時期・同地域に集住し,互いの創作活動を切磋琢磨 した場所であると同時に,彼らの住居観をかたちづくっ た住生活の [転換期]だったとも考えられる。 1.3 本研究の意義 白樺派とは,「雑誌『白樺』に依拠して,キリスト教, トルストイ主義,メーテルランク,ホイットマン,ブレ イクなどの影響を受けつつ,人道主義,理想主義,自我・ 生命の肯定などを旗印に掲げた文学者,芸術家たち」注1) と定義される。また,1910(明治 43)年に創刊され,関東 大震災(1923 年)で幕を閉じた『白樺』は,足かけ 14 年, 全 160 冊というその刊行期間の長さ,同人の変動の少な さ,影響力の大きさなどからして,近代日本最大の文芸 同人誌と言える。また『白樺』には,ロダン,セザンヌ, ゴッホ,マチスなどを紹介した美術雑誌としての側面も あり,この点において,文学と美術がジャンルを超えて 響き合う,総合芸術雑誌でもあった。そして,こうした 白樺派の活動が近代日本の住宅建築に影響を及ぼしたと すれば,建築思潮の面で①柳宗悦が提唱した「民藝運動」, すなわち工芸を中心とした造形運動の中で行われた独自 の建築表現の流れや②武者小路実篤らの「新しき村」の ようなセルフビルドと集住実験の流れ,③白樺派同人の 多くが学習院出身であり,近代日本における上流階級の 子弟であったことから,後年,クライアントとして建築 家の活動を支えた流れなどが挙げられる。 一方,こうした建築思潮の流れを“縦軸”とすると, 白樺派同人間のつながりから生まれた住居観の影響関係 などは,“横軸”と捉えられ,住宅建築の近代化が学術的 な理論に基づいた思潮の展開や建築家の活動によって 淡々と進められたものでなく,人間関係も重なった複層 的な構造で醸成されたことを示す重要な指標と言える。 そして,こうした観点から『我孫子コロニー』を形成し た白樺派作家たちの住居観を並列的に洞察することは, 日本の住宅建築が近代化する過程の一端を明らかにする 2 3 1 4 5 6 7 8 910 1 2 3 1:旧武者小路実篤邸跡 2:旧柳宗悦邸跡( 三樹荘) 3:旧志賀直哉邸跡 大正期( 干拓前) 手賀沼だっ た部分 ※沼全体で1085haあっ た 4: 中勘助[ 小説家・ 詩人・ 随筆家] 仮寓跡 5: 嘉納治五郎[ 柔道家・ 教育者] 別荘跡 6: 杉村楚人冠 ◎[ 新聞記者・ 随筆家・ 俳人] 邸 7:里見弴 ★[ 小説家 ] 別荘用地跡 8:小林力弥 ◎[ 日本観光( 株) 取締役] 別荘 9:滝井孝作[ 小説家・ 俳人・ 編集者] 住居別荘跡 10:村川堅固 ◎[ 西洋史学者] 邸 ※1 ~3 は図 A ・ B 共、 武者小路邸・ 柳邸・ 志賀邸を 示す。 ※★は『 白樺』 同人、 ◎は『 手賀沼保勝会』 に属し たこ と を 示す。 ↑手賀沼の水辺   景観 図 A 図 B 現在の手賀沼・650ha ( 濃い部分) 大正期『 我孫子コ ロ ニー』 周辺の土地所有状況 『 我孫子コ ロ ニー』 ←利根川 手賀沼→ ※点線は我孫子市の市域境界線 ※地図は1930年大日本帝国陸地測量部発行 図 1-1 『我孫子コロニー』の位置および,同時期(1914〜 1923 年)の手賀沼湖畔に別荘・住居を所有した主な文化人 写真 1-2 3旧邸の現況写真/1-1,2 旧武者小路邸跡・ 2-1,2 旧柳邸(三樹荘)跡・3-1,2 旧志賀邸跡の現況 ことでもあり,意義のある研究と考える。 さらに筆者(主査:野口修)は本研究を通して,我孫子 市手賀沼地域に現存する白樺派の旧邸跡を建築単体でな く,一連の芸術共同体『我孫子コロニー』として再評価 し,景観・観光資源としての新しい価値と地域居住者を 中心とした認知度の拡大につなげたいと考えている。 1.4 本研究の目的 以下に本研究で設定した3つの目的を提示する。 Ⅰ.我孫子市手賀沼地域に現存する白樺派同人の志賀直 哉,武者小路実篤,柳宗悦の旧邸跡に関する図面資料 を整理,補完して記録保全の一助とする。 Ⅱ.我孫子の旧邸を原点とした上記3者の住宅変遷を辿 ることで,日本の近代住宅建築史における白樺派建築 の位置付けを考察する。 Ⅲ.白樺派の3旧邸跡を『我孫子コロニー』と読み替えて 再評価し,我孫子市における一連の景観・観光資源と しての価値を再認識すると同時に[保存]と自立を含 めた[活用]の機運を高める。 研究対象とする千葉県我孫子市の手賀沼地域に現存 する志賀直哉,武者小路実篤,柳宗悦の旧邸跡は現在, 旧志賀邸跡地が市指定文化財であるほかは,旧武者小路 邸跡を民間企業,旧柳邸跡を個人が所有している。 保存状態としてはまず,「母屋」,「茶室風書斎」,「書院 風書斎(二階家)」の3棟があった旧志賀邸の跡地では, 「母屋」の間取図を写したコンクリートの基壇と我孫子 市が復元した「茶室風書斎」が,野外展示されている。 また,高台の離れだった「書院風書斎」は,曳家された 近隣住宅の敷地に増改築を繰り返した状態で残っている。 旧武者小路邸は,千葉県の調査報告書文 14)に平面図が 掲載された建物と庭園,ハケの道に下る斜面林が残って いる。土地建物は 1944(昭和 19)年,杉田仙次郎氏に購入 され,昭和 28 年頃建て替えられたことが分かっている。 その後も何度か増改築されて,現在は所有者である三協 フロンテア(株)グループの迎賓館として使われている。 旧柳邸(三樹荘)は,建物こそ建て替えられたが,敷 地は当時のままに保存され,現在でも「三樹荘」の由来 とされる3本の椎の木やバーナード・リーチが窯を築い た築山等を見ることができる。一方で,所有者の高齢化 から現在,邸内の斜面林は市民ボランティアが保全して おり,保存に向けたアプローチが求められている。 こうした現況を踏まえ,筆者がまず大正期の3旧邸に 関する図面資料の整理と補完の必要性を論じる理由は, 近代日本の文学史や思想史に足跡を残した3人の作家が 家族を持った後,初めて住生活を営んだ彼らの住居観の 起点となる資料でありながら,建物が当時の状態で現存 しない上,保存に関しても不安定な状態であることに加 えて,3旧邸を一連の共同体と捉えるには,図面資料が 不揃いで十分な検証ができないと考えたことによる。 2. 我孫子時代を探る調査と図面の復元 2.1 図面・写真資料の整理および補完作業の概要 2.1.1 敷地図面の補完方法について 1946(昭和 21)年に始まり,1968(同 43)年に完了した 「手賀沼干拓」は,第二次世界大戦後の食糧増産という 大義名分のもと,「国営干拓事業」として遂行された。 そして,この結果,手賀沼の面積は『我孫子コロニー』 の舞台となった大正期の約6割(=1085→650ha)となり, 湖畔の景観を大きく変えてしまった。旧志賀邸や旧武者 小路邸の敷地に接するハケの道沿いに広がっていた手賀 沼の水辺は干拓により,現在,宅地や畑となっている。 一連の作業では,柏法務局に保管される①和紙公図と ②旧土地台帳,昭和 3 年に測量され,昭和 5 年,国土地 理院より発行された手賀沼地域の③古地図,我孫子市が 作成した④都市計画図および,⑤地番参考図を用いた。 具体的にはまず,①と②を照合して大正期当時の地型 を確定し,③,④,⑤を重ね合わせた図上に投影するこ とで,測量方法や精度が異なる①和紙公図の地型を現在 の公図の地型とすり合わせた。3旧邸跡地の 14 条地図 が無い状態では,実質この方法が大正期と現在の地型を 照合する最良の方法と考えた。また,③,④,⑤を重ね 合わせた図に関しては,戦後のベッドタウン化で細かく 宅地化された④の等高線を③当時の地形に書き直す作業 に加え,現在の「手賀沼ふれあいライン」が当時のどの 位置にあるかなど,手賀沼の干拓前と干拓後の地形変化 を視覚的に比較可能な図面とすることを目指した。 最後に,記載した敷地面積は,旧土地台帳に記載され た尺貫法の数字をメートル法に置き換えたものとした。 この理由としては,手賀沼地域の 14 条地図が無いこと に加え,ベッドタウン化で敷地が細かく分筆され,区画 整理や道路整備が行われた結果,境界が新設された部分 もあって,当時の正確な面積の算出が不可能と考えられ ること,そもそも本論では,3旧邸が建てられた当時の 住環境に関する概要を掴むことが目的であることから, 面積の精度を追求する必要はないとも考えた。 図 2-1 左①和紙公図(旧志賀邸)と,右③古地図(S5 年発行) ■研究部門(第1〜4章を参照) Ⅰ.我孫子市手賀沼地域に現存する志賀直哉,武者小 路実篤,柳宗悦の旧邸跡に関する図面資料を整理, 補完して記録保全の一助とする。 Ⅱ .我 孫 子 の 旧 邸 を 起 点 と し た 3 者 の 住 宅 変 遷 を 辿 り,近代日本住宅史における白樺派建築の位置付 けについて考察する。 ■実践部門(第5章を参照) Ⅲ.白樺派の3旧邸跡を『我孫子コロニー』と読み替え て再評価し,新たな地域計画を実践することで,3 旧邸跡の保全や活用の機運を盛り上げる。 ことでもあり,意義のある研究と考える。 さらに筆者(主査:野口修)は本研究を通して,我孫子 市手賀沼地域に現存する白樺派の旧邸跡を建築単体でな く,一連の芸術共同体『我孫子コロニー』として再評価 し,景観・観光資源としての新しい価値と地域居住者を 中心とした認知度の拡大につなげたいと考えている。 1.4 本研究の目的 以下に本研究で設定した3つの目的を提示する。 Ⅰ.我孫子市手賀沼地域に現存する白樺派同人の志賀直 哉,武者小路実篤,柳宗悦の旧邸跡に関する図面資料 を整理,補完して記録保全の一助とする。 Ⅱ.我孫子の旧邸を原点とした上記3者の住宅変遷を辿 ることで,日本の近代住宅建築史における白樺派建築 の位置付けを考察する。 Ⅲ.白樺派の3旧邸跡を『我孫子コロニー』と読み替えて 再評価し,我孫子市における一連の景観・観光資源と しての価値を再認識すると同時に[保存]と自立を含 めた[活用]の機運を高める。 研究対象とする千葉県我孫子市の手賀沼地域に現存 する志賀直哉,武者小路実篤,柳宗悦の旧邸跡は現在, 旧志賀邸跡地が市指定文化財であるほかは,旧武者小路 邸跡を民間企業,旧柳邸跡を個人が所有している。 保存状態としてはまず,「母屋」,「茶室風書斎」,「書院 風書斎(二階家)」の3棟があった旧志賀邸の跡地では, 「母屋」の間取図を写したコンクリートの基壇と我孫子 市が復元した「茶室風書斎」が,野外展示されている。 また,高台の離れだった「書院風書斎」は,曳家された 近隣住宅の敷地に増改築を繰り返した状態で残っている。 旧武者小路邸は,千葉県の調査報告書文 14)に平面図が 掲載された建物と庭園,ハケの道に下る斜面林が残って いる。土地建物は 1944(昭和 19)年,杉田仙次郎氏に購入 され,昭和 28 年頃建て替えられたことが分かっている。 その後も何度か増改築されて,現在は所有者である三協 フロンテア(株)グループの迎賓館として使われている。 旧柳邸(三樹荘)は,建物こそ建て替えられたが,敷 地は当時のままに保存され,現在でも「三樹荘」の由来 とされる3本の椎の木やバーナード・リーチが窯を築い た築山等を見ることができる。一方で,所有者の高齢化 から現在,邸内の斜面林は市民ボランティアが保全して おり,保存に向けたアプローチが求められている。 こうした現況を踏まえ,筆者がまず大正期の3旧邸に 関する図面資料の整理と補完の必要性を論じる理由は, 近代日本の文学史や思想史に足跡を残した3人の作家が 家族を持った後,初めて住生活を営んだ彼らの住居観の 起点となる資料でありながら,建物が当時の状態で現存 しない上,保存に関しても不安定な状態であることに加 えて,3旧邸を一連の共同体と捉えるには,図面資料が 不揃いで十分な検証ができないと考えたことによる。 2. 我孫子時代を探る調査と図面の復元 2.1 図面・写真資料の整理および補完作業の概要 2.1.1 敷地図面の補完方法について 1946(昭和 21)年に始まり,1968(同 43)年に完了した 「手賀沼干拓」は,第二次世界大戦後の食糧増産という 大義名分のもと,「国営干拓事業」として遂行された。 そして,この結果,手賀沼の面積は『我孫子コロニー』 の舞台となった大正期の約6割(=1085→650ha)となり, 湖畔の景観を大きく変えてしまった。旧志賀邸や旧武者 小路邸の敷地に接するハケの道沿いに広がっていた手賀 沼の水辺は干拓により,現在,宅地や畑となっている。 一連の作業では,柏法務局に保管される①和紙公図と ②旧土地台帳,昭和 3 年に測量され,昭和 5 年,国土地 理院より発行された手賀沼地域の③古地図,我孫子市が 作成した④都市計画図および,⑤地番参考図を用いた。 具体的にはまず,①と②を照合して大正期当時の地型 を確定し,③,④,⑤を重ね合わせた図上に投影するこ とで,測量方法や精度が異なる①和紙公図の地型を現在 の公図の地型とすり合わせた。3旧邸跡地の 14 条地図 が無い状態では,実質この方法が大正期と現在の地型を 照合する最良の方法と考えた。また,③,④,⑤を重ね 合わせた図に関しては,戦後のベッドタウン化で細かく 宅地化された④の等高線を③当時の地形に書き直す作業 に加え,現在の「手賀沼ふれあいライン」が当時のどの 位置にあるかなど,手賀沼の干拓前と干拓後の地形変化 を視覚的に比較可能な図面とすることを目指した。 最後に,記載した敷地面積は,旧土地台帳に記載され た尺貫法の数字をメートル法に置き換えたものとした。 この理由としては,手賀沼地域の 14 条地図が無いこと に加え,ベッドタウン化で敷地が細かく分筆され,区画 整理や道路整備が行われた結果,境界が新設された部分 もあって,当時の正確な面積の算出が不可能と考えられ ること,そもそも本論では,3旧邸が建てられた当時の 住環境に関する概要を掴むことが目的であることから, 面積の精度を追求する必要はないとも考えた。 図 2-1 左①和紙公図(旧志賀邸)と,右③古地図(S5 年発行) ■研究部門(第1〜4章を参照) Ⅰ.我孫子市手賀沼地域に現存する志賀直哉,武者小 路実篤,柳宗悦の旧邸跡に関する図面資料を整理, 補完して記録保全の一助とする。 Ⅱ .我 孫 子 の 旧 邸 を 起 点 と し た 3 者 の 住 宅 変 遷 を 辿 り,近代日本住宅史における白樺派建築の位置付 けについて考察する。 ■実践部門(第5章を参照) Ⅲ.白樺派の3旧邸跡を『我孫子コロニー』と読み替え て再評価し,新たな地域計画を実践することで,3 旧邸跡の保全や活用の機運を盛り上げる。

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手  賀  沼 N 沼  田( 湿田) 3.0 20 10 沼  田 20 3.0 10 手  賀  沼 沼  田( 湿田) 荒  地 ( 葦原・ 湿地) 20 3.0 10 N 水  田・ 畑 5880.10㎡ 荒  地   ( 葦原・ 湿地) ①+②=5594.57㎡ ①1970.26㎡ ②3624.31㎡ a b c 0 50 100m 水  田 松林( 崖線) 台  地 宅  地 ①+②=3150.42㎡ 畑 現・ 手賀沼ふれあいラ イ ン         の位置 ハケの道 松林 ( 崖線) 台地 水田 現・ 手賀沼ふれあい   ラ イ ン の位置 ハケの道 手  賀  沼 N 沼田( 湿田) 沼  田 現・ 手賀沼ふれあい   ラ イ ン の位置 ハケの道 天神坂 台  地 a b c 0 50 100m 0 50 100m 地番→ 2290 ② ※点線で 区切っ た①が現在の三樹荘の敷地。 ※地番2290は明治45年~昭和18年ま で 谷口直枝子の所有。 N 沼田 宅  地 松林( 崖線) 台地 a b c ハケの道 ←手賀沼 沼田( 湿田) 0 10 20m 図 2-2 ②旧土地台帳を用いた敷地の所有確認 図 2-3 ②旧土地台帳に基づく所有敷地の面積算定 図 2-4 旧志賀直哉邸・大正期の配置図 (野口修作成) ※図中 a:母屋・ b:茶室風書斎・c:書院風書斎(二階家) 図 2-5 旧武者小路実篤邸・大正期の 配置図(野口修作成) 図 2-6 旧柳宗悦邸・大正期の配置図 (野口修作成) ※図中 a:母屋・ b:書斎「竹林軒」・c:リーチ工房と窯 図 2-7 現在の旧志賀邸敷地:干拓後の 航空写真,図 2-4 と同位置・同スケール 図 2-8 旧志賀直哉邸・大正期のパース(野口修作成) ※図中 a:母屋・b:茶室風書斎 ・c:書院風書斎(二階家) ※景観の構成要素は④古地図と参考文献 2)より推察した 手  賀  沼 N 沼  田( 湿田) 3.0 20 10 沼  田 20 3.0 10 手  賀  沼 沼  田( 湿田) 荒  地 ( 葦原・ 湿地) 20 3.0 10 N 水  田・ 畑 5880.10㎡ 荒  地   ( 葦原・ 湿地) ①+②=5594.57㎡ ①1970.26㎡ ②3624.31㎡ a b c 0 50 100m 水  田 松林( 崖線) 台  地 宅  地 ①+②=3150.42㎡ 畑 現・ 手賀沼ふれあいラ イ ン         の位置 ハケの道 松林 ( 崖線) 台地 水田 現・ 手賀沼ふれあい   ラ イ ン の位置 ハケの道 手  賀  沼 N 沼田( 湿田) 沼  田 現・ 手賀沼ふれあい   ラ イ ン の位置 ハケの道 天神坂 台  地 a b c 0 50 100m 0 50 100m 地番→ 2290 ② ※点線で 区切っ た①が現在の三樹荘の敷地。 ※地番2290は明治45年~昭和18年ま で 谷口直枝子の所有。 N 沼田 宅  地 松林( 崖線) 台地 a b c ハケの道 ←手賀沼 沼田( 湿田) 0 10 20m 図 2-2 ②旧土地台帳を用いた敷地の所有確認 図 2-3 ②旧土地台帳に基づく所有敷地の面積算定 図 2-4 旧志賀直哉邸・大正期の配置図 (野口修作成) ※図中 a:母屋・ b:茶室風書斎・c:書院風書斎(二階家) 図 2-5 旧武者小路実篤邸・大正期の 配置図(野口修作成) 図 2-6 旧柳宗悦邸・大正期の配置図 (野口修作成) ※図中 a:母屋・ b:書斎「竹林軒」・c:リーチ工房と窯 図 2-7 現在の旧志賀邸敷地:干拓後の 航空写真,図 2-4 と同位置・同スケール 図 2-8 旧志賀直哉邸・大正期のパース(野口修作成) ※図中 a:母屋・b:茶室風書斎 ・c:書院風書斎(二階家) ※景観の構成要素は④古地図と参考文献 2)より推察した

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2.1.3 住宅(旧邸)図面の補完作業について 上記作業においてはまず,志賀直哉,武者小路実篤, 柳宗悦と白樺派に関する出版物を整理し,我孫子時代 の建築に関する間取図,立面や外観形状が分かる写真, 生活状況を描いた文章等を収集した。作業の中で,特に 雑誌の単発的な特集に掲載された写真の見出しや記事 には誤りが多いことがわかった。また,白樺派の我孫子 時代に関しては情報が少なく,元の資料がほぼ固定化 していることも推察された。そこで,図面の作成に際し ては,白樺派に関する出版記事をそのまま用いるので なく,情報源を辿って元になった資料を確認すること にした。この成果は,表 2-1 にまとめてある。 次に,我孫子市教育委員会や同市が運営する白樺文 学館の学芸員にヒアリングし,例えば現在,旧志賀直哉 邸跡に展示されている間取図の情報源や信頼性などに ついても確認した。またこの際,教育委員会が保管する 資料や情報の提供も受けた。(図 2-11 参照) 以下,作成した住宅平面および,外観パースについて 筆者の概観を述べる。 【住宅平面図の補完作業】資料収集の過程で実際の3 旧邸に住んだ人や訪ねたことのある人へのヒアリング を最も広範かつ緻密に行ったのは,我孫子市教育委員 会が刊行した『我孫子市史研究』だと分かった。しかし, 聞き取る相手が高齢だったり,聞き手が建築の専門家 でないこともあって,誌上の図面資料は単線の間取図 やスケッチのレベルだった。一方で,3旧邸とも,地元 大工が建てたこと,窓位置を示した間取図もあったこ とから,柱割りや窓の開口位置を推定することで,研究 の基礎資料となるレベルの図面を作成できると考えた。 2.2〜2.4 の住宅平面図は,残された間取図や写真, 本人や当時を知る人が語った言説等を参照して筆者が 作図している。作業過程で疑義が生じた部分や見解の 異なる資料が存在するものに関しては複数のパターン を提示し,筆者の見解を述べている。また,志賀邸およ び,柳邸の書斎3棟は共に“鷹大工”と呼ばれた地元の 宮大工,佐藤鷹蔵の手によることに加え,志賀邸の2棟 は,復元された現物や実測図面も残っており,これらと 間取図が参照できたことで,柳邸の書斎(「竹林軒」)に 関しても確実性の高い図面ができたと考えている。 【外観パースの補完作業】建物が現存しない故に写真 史料からの作図となったが,今回収集した史料では3 旧邸とも,母屋の立面はもちろん外観形状に関しても 不明な点を残した。特に旧柳邸は母屋の写真が圧倒的 に不足しており,平面図から想定した作図となった。 0 10 20m 沼田 水田 松林( 崖線) 台地 ハケの道 手賀沼→ N 沼田( 湿田) 0 10 20m N 沼田 水田・ 畑 松林( 崖線) 台地 ハケの道 ↓手賀沼 沼田( 湿田) a b c 天神坂 図 2-9 旧武者小路実篤邸・大正期のパース(野口修作成) 図 2-10 旧柳宗悦邸(三樹荘)・大正期のパース (野口修作成) ※図中 a:母屋・b:書斎「竹林軒」・ c:バーナード・リーチ工房と窯 表 2-1 3旧邸の図面作成において参照した資料 手  賀  沼 N 沼  田( 湿田) 3.0 20 10 沼  田 20 3.0 10 手  賀  沼 沼  田( 湿田) 荒  地 ( 葦原・ 湿地) 20 3.0 10 N 水  田・ 畑 5880.10㎡ 荒  地   ( 葦原・ 湿地) ①+②=5594.57㎡ ①1970.26㎡ ②3624.31㎡ a b c 0 50 100m 水  田 松林( 崖線) 台  地 宅  地 ①+②=3150.42㎡ 畑 現・ 手賀沼ふれあいラ イ ン         の位置 ハケの道 松林 ( 崖線) 台地 水田 現・ 手賀沼ふれあい   ラ イ ン の位置 ハケの道 手  賀  沼 N 沼田( 湿田) 沼  田 現・ 手賀沼ふれあい   ラ イ ン の位置 ハケの道 天神坂 台  地 a b c 0 50 100m 0 50 100m 地番→ 2290 ② ※点線で 区切っ た①が現在の三樹荘の敷地。 ※地番2290は明治45年~昭和18年ま で 谷口直枝子の所有。 N 沼田 宅  地 松林( 崖線) 台地 a b c ハケの道 ←手賀沼 沼田( 湿田) 0 10 20m 図 2-2 ②旧土地台帳を用いた敷地の所有確認 図 2-3 ②旧土地台帳に基づく所有敷地の面積算定 図 2-4 旧志賀直哉邸・大正期の配置図 (野口修作成) ※図中 a:母屋・ b:茶室風書斎・c:書院風書斎(二階家) 図 2-5 旧武者小路実篤邸・大正期の 配置図(野口修作成) 図 2-6 旧柳宗悦邸・大正期の配置図 (野口修作成) ※図中 a:母屋・ b:書斎「竹林軒」・c:リーチ工房と窯 図 2-7 現在の旧志賀邸敷地:干拓後の 航空写真,図 2-4 と同位置・同スケール 図 2-8 旧志賀直哉邸・大正期のパース(野口修作成) ※図中 a:母屋・b:茶室風書斎 ・c:書院風書斎(二階家) ※景観の構成要素は④古地図と参考文献 2)より推察した

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2.2 旧志賀直哉邸・住宅図面について 2.1.3 の方法で大正期の我孫子町我孫子字雁明に建設 された旧志賀直哉邸の a:母屋,b:茶室風書斎,c:書院 風書斎(二階家)の平面図を作成し,図 2-12 にまとめた。 作業では表 2-1 の図面や写真を参照したが,柳宗悦の書 簡で「茅葺の家」と記された既存建物に三部屋を増築し たとされる a:母屋について①〜③の疑問が残った。 疑問①は,「茅葺の家」の間取図[S-3](表 2-1 の図面 N 松林( 崖線) ↑台地 a: 母屋 b: 茶室風書斎 c: 書院風書斎 ハケの道・ 手賀沼↓ 茅葺屋根 杉皮葺※復元後の現在は銅板葺 茅葺屋根 ※表2-1の写真史料S-6, 14,15で 確認でき る 疑問②の土間 ※本図は屋外案 疑問①の玄関 0 10 20m 図 2-11 志賀直哉直筆「我孫子雁明旧居図」 (我孫子市教育委員会所蔵) 図 2-12 旧志賀直哉邸の平面図(野口修作成) 図 2-13 旧志賀直哉邸の外観パース(野口修作成) 2.2 旧志賀直哉邸・住宅図面について 2.1.3 の方法で大正期の我孫子町我孫子字雁明に建設 された旧志賀直哉邸の a:母屋,b:茶室風書斎,c:書院 風書斎(二階家)の平面図を作成し,図 2-12 にまとめた。 作業では表 2-1 の図面や写真を参照したが,柳宗悦の書 簡で「茅葺の家」と記された既存建物に三部屋を増築し たとされる a:母屋について①〜③の疑問が残った。 疑問①は,「茅葺の家」の間取図[S-3](表 2-1 の図面 N 松林( 崖線) a: 母屋 b: 茶室風書斎 c: 書院風書斎 ハケの道・ 手賀沼↓ 茅葺屋根 杉皮葺※復元後の現在は銅板葺 茅葺屋根 ※表2-1の写真史料S-6,   14,15で 確認でき る 疑問②の土間 ※本図は屋外案 疑問①の玄関 0 10 20m 図 2-11 志賀直哉直筆「我孫子雁明旧居図」 (我孫子市教育委員会所蔵) 図 2-12 旧志賀直哉邸の平面図(野口修作成) 図 2-13 旧志賀直哉邸の外観パース(野口修作成) 2.2 旧志賀直哉邸・住宅図面について 2.1.3 の方法で大正期の我孫子町我孫子字雁明に建設 された旧志賀直哉邸の a:母屋,b:茶室風書斎,c:書院 風書斎(二階家)の平面図を作成し,図 2-12 にまとめた。 作業では表 2-1 の図面や写真を参照したが,柳宗悦の書 簡で「茅葺の家」と記された既存建物に三部屋を増築し たとされる a:母屋について①〜③の疑問が残った。 疑問①は,「茅葺の家」の間取図[S-3](表 2-1 の図面 N 松林( 崖線) a: 母屋 b: 茶室風書斎 c: 書院風書斎 ハケの道・ 手賀沼↓ 茅葺屋根 杉皮葺※復元後の現在は銅板葺 茅葺屋根 ※表2-1の写真史料S-6,   14,15で 確認でき る 疑問②の土間 ※本図は屋外案 疑問①の玄関 0 10 20m 図 2-11 志賀直哉直筆「我孫子雁明旧居図」 (我孫子市教育委員会所蔵) 図 2-12 旧志賀直哉邸の平面図(野口修作成) 図 2-13 旧志賀直哉邸の外観パース(野口修作成)

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番号)と直哉直筆の間取図[S-1]とで,玄関の位置が1間 程ずれている点。疑問②は,[S-1]で台所の前面に記さ れた“土間”が木下氏の間取図[S-2]に無く,氏の記憶 によると玄関だけが前面に突出していることから,この “土間”が屋内なのか,屋外なのか判断がつかない点。 さらに疑問③として,母屋の屋根形に関する資料が白樺 文学館に展示された想像模型しかない点がある。表 2-1 にまとめた写真史料でも縁側周辺のカットはあるものの, 屋根を収めた写真は発見できなかった。図 2-8 と 2-13 の 母屋は,模型と柱割から推測して作図したものであるが, 全ての疑問は母屋の全景写真が発見されれば一度に解決 するので引き続き調査したい。一方,現存する書斎の内, 復元された茶室風書斎の内部(図 2-14)を観察すると, 壁を漆喰で仕上げ,船底天井には杉皮を網代張りし,手 斧跡を残した杉材の柱や青桐の皮がついた床柱,落とし 掛けには湾曲した百日紅を用いるなど,[写実の名手]と 評された小説家の視線を反映したような材料や造作への こだわりを見ることができる。また,材料が一部取替え られているが,移築された書院風書斎からも建物の外観 や造作に前者と共通した感性を認めることができた。 つまり,筆者は我孫子時代の直哉の住宅に対する視点 を,後述する実篤の“鳥の目”とは対照的な“虫の目” のような,設計者に近い感覚で捉えていたのではないか と考えており,このことから母屋も書斎2棟と共通した 印象の外観ではなかったかと推察している。 2.3 旧武者小路実篤邸・住宅図面について 図 2-15 には,大正期の富勢村根戸字船戸に建設され た旧武者小路実篤邸の平面図をまとめた。作図作業では 主に表 2-1 の中から「武者小路房子が語る我孫子の家」 の間取図[M-1]と旧武者小路実篤邸と題して『千葉県の 和風建築』に掲載された平図面[M-3]を参照した。資料 はこの他,旧杉田家住宅(昭和 28 年頃建設)の間取図 [M-2]とこれを増改築した現在の間取図[M-4]がある。 まず,大正期の平面図を復元する本研究の目的を考慮し, ここでは[M-4]より古い[M-3]の図面を優先した。 また,[M-2]の旧杉田家住宅は,[M-1]を“建て替えた” [M-3]の原型とされる建物だが,当時を知る小説家の滝 井孝作と我孫子市史研究センター会長を務めた小熊勝夫 の対談文 16)には,「(旧武者小路邸について)滝井:学校 みたいな感じだったな。ガラス戸があって…その建物は, しかし,もうないでしょう…?小熊:わたし,知ってい ますけど,壊して建て替えました。滝井:ちょっと普通 のガラス戸でなしに,学校みたいなガラス戸の家だと思 ったな。そういう記憶があるんです。小熊:あそこは当 時のままになっているんです。」とある。これは建物の外 観を似せたことか?建物の一部を残したことか?資材を 再利用したことか?定かでないが,建て替え時にオリジ ナルを参考にしたとされる所以とも考えられる。 以上より,図 2-14 下段の平面図は,間取図[M-1]と [M-3]を下敷きに作成した。[M-2]より[M-3]を優先 したのは,[M-2]を減築した建物が[M-1]に近い状態で あることと,建築の専門家が調査し,作図した平面図で あることによる。また,この平面図は図中A,B,Cの 3箇所を筆者の見解で加筆している。以下にこの根拠を まとめるが,主旨としては『我孫子市史研究 第 13 号』 で[M-1]の聞き取り調査をした当時の房子が既に 97 歳 で受け答えや記憶に曖昧な部分もあったと記されている 図 2-15 旧武者小路実篤邸の平面図(野口修作成) 図 2-14 復元された茶室風書斎の内観写真 2.2 旧志賀直哉邸・住宅図面について 2.1.3 の方法で大正期の我孫子町我孫子字雁明に建設 された旧志賀直哉邸の a:母屋,b:茶室風書斎,c:書院 風書斎(二階家)の平面図を作成し,図 2-12 にまとめた。 作業では表 2-1 の図面や写真を参照したが,柳宗悦の書 簡で「茅葺の家」と記された既存建物に三部屋を増築し たとされる a:母屋について①〜③の疑問が残った。 疑問①は,「茅葺の家」の間取図[S-3](表 2-1 の図面 N 松林( 崖線) ↑台地 a: 母屋 b: 茶室風書斎 c: 書院風書斎 ハケの道・ 手賀沼↓ 茅葺屋根 杉皮葺※復元後の現在は銅板葺 茅葺屋根 ※表2-1の写真史料S-6, 14,15で 確認でき る 疑問②の土間 ※本図は屋外案 疑問①の玄関 0 10 20m 図 2-11 志賀直哉直筆「我孫子雁明旧居図」 (我孫子市教育委員会所蔵) 図 2-12 旧志賀直哉邸の平面図(野口修作成) 図 2-13 旧志賀直哉邸の外観パース(野口修作成) 番号)と直哉直筆の間取図[S-1]とで,玄関の位置が1間 程ずれている点。疑問②は,[S-1]で台所の前面に記さ れた“土間”が木下氏の間取図[S-2]に無く,氏の記憶 によると玄関だけが前面に突出していることから,この “土間”が屋内なのか,屋外なのか判断がつかない点。 さらに疑問③として,母屋の屋根形に関する資料が白樺 文学館に展示された想像模型しかない点がある。表 2-1 にまとめた写真史料でも縁側周辺のカットはあるものの, 屋根を収めた写真は発見できなかった。図 2-8 と 2-13 の 母屋は,模型と柱割から推測して作図したものであるが, 全ての疑問は母屋の全景写真が発見されれば一度に解決 するので引き続き調査したい。一方,現存する書斎の内, 復元された茶室風書斎の内部(図 2-14)を観察すると, 壁を漆喰で仕上げ,船底天井には杉皮を網代張りし,手 斧跡を残した杉材の柱や青桐の皮がついた床柱,落とし 掛けには湾曲した百日紅を用いるなど,[写実の名手]と 評された小説家の視線を反映したような材料や造作への こだわりを見ることができる。また,材料が一部取替え られているが,移築された書院風書斎からも建物の外観 や造作に前者と共通した感性を認めることができた。 つまり,筆者は我孫子時代の直哉の住宅に対する視点 を,後述する実篤の“鳥の目”とは対照的な“虫の目” のような,設計者に近い感覚で捉えていたのではないか と考えており,このことから母屋も書斎2棟と共通した 印象の外観ではなかったかと推察している。 2.3 旧武者小路実篤邸・住宅図面について 図 2-15 には,大正期の富勢村根戸字船戸に建設され た旧武者小路実篤邸の平面図をまとめた。作図作業では 主に表 2-1 の中から「武者小路房子が語る我孫子の家」 の間取図[M-1]と旧武者小路実篤邸と題して『千葉県の 和風建築』に掲載された平図面[M-3]を参照した。資料 はこの他,旧杉田家住宅(昭和 28 年頃建設)の間取図 [M-2]とこれを増改築した現在の間取図[M-4]がある。 まず,大正期の平面図を復元する本研究の目的を考慮し, ここでは[M-4]より古い[M-3]の図面を優先した。 また,[M-2]の旧杉田家住宅は,[M-1]を“建て替えた” [M-3]の原型とされる建物だが,当時を知る小説家の滝 井孝作と我孫子市史研究センター会長を務めた小熊勝夫 の対談文 16)には,「(旧武者小路邸について)滝井:学校 みたいな感じだったな。ガラス戸があって…その建物は, しかし,もうないでしょう…?小熊:わたし,知ってい ますけど,壊して建て替えました。滝井:ちょっと普通 のガラス戸でなしに,学校みたいなガラス戸の家だと思 ったな。そういう記憶があるんです。小熊:あそこは当 時のままになっているんです。」とある。これは建物の外 観を似せたことか?建物の一部を残したことか?資材を 再利用したことか?定かでないが,建て替え時にオリジ ナルを参考にしたとされる所以とも考えられる。 以上より,図 2-14 下段の平面図は,間取図[M-1]と [M-3]を下敷きに作成した。[M-2]より[M-3]を優先 したのは,[M-2]を減築した建物が[M-1]に近い状態で あることと,建築の専門家が調査し,作図した平面図で あることによる。また,この平面図は図中A,B,Cの 3箇所を筆者の見解で加筆している。以下にこの根拠を まとめるが,主旨としては『我孫子市史研究 第 13 号』 で[M-1]の聞き取り調査をした当時の房子が既に 97 歳 で受け答えや記憶に曖昧な部分もあったと記されている 図 2-15 旧武者小路実篤邸の平面図(野口修作成) 図 2-14 復元された茶室風書斎の内観写真 番号)と直哉直筆の間取図[S-1]とで,玄関の位置が1間 程ずれている点。疑問②は,[S-1]で台所の前面に記さ れた“土間”が木下氏の間取図[S-2]に無く,氏の記憶 によると玄関だけが前面に突出していることから,この “土間”が屋内なのか,屋外なのか判断がつかない点。 さらに疑問③として,母屋の屋根形に関する資料が白樺 文学館に展示された想像模型しかない点がある。表 2-1 にまとめた写真史料でも縁側周辺のカットはあるものの, 屋根を収めた写真は発見できなかった。図 2-8 と 2-13 の 母屋は,模型と柱割から推測して作図したものであるが, 全ての疑問は母屋の全景写真が発見されれば一度に解決 するので引き続き調査したい。一方,現存する書斎の内, 復元された茶室風書斎の内部(図 2-14)を観察すると, 壁を漆喰で仕上げ,船底天井には杉皮を網代張りし,手 斧跡を残した杉材の柱や青桐の皮がついた床柱,落とし 掛けには湾曲した百日紅を用いるなど,[写実の名手]と 評された小説家の視線を反映したような材料や造作への こだわりを見ることができる。また,材料が一部取替え られているが,移築された書院風書斎からも建物の外観 や造作に前者と共通した感性を認めることができた。 つまり,筆者は我孫子時代の直哉の住宅に対する視点 を,後述する実篤の“鳥の目”とは対照的な“虫の目” のような,設計者に近い感覚で捉えていたのではないか と考えており,このことから母屋も書斎2棟と共通した 印象の外観ではなかったかと推察している。 2.3 旧武者小路実篤邸・住宅図面について 図 2-15 には,大正期の富勢村根戸字船戸に建設され た旧武者小路実篤邸の平面図をまとめた。作図作業では 主に表 2-1 の中から「武者小路房子が語る我孫子の家」 の間取図[M-1]と旧武者小路実篤邸と題して『千葉県の 和風建築』に掲載された平図面[M-3]を参照した。資料 はこの他,旧杉田家住宅(昭和 28 年頃建設)の間取図 [M-2]とこれを増改築した現在の間取図[M-4]がある。 まず,大正期の平面図を復元する本研究の目的を考慮し, ここでは[M-4]より古い[M-3]の図面を優先した。 また,[M-2]の旧杉田家住宅は,[M-1]を“建て替えた” [M-3]の原型とされる建物だが,当時を知る小説家の滝 井孝作と我孫子市史研究センター会長を務めた小熊勝夫 の対談文 16)には,「(旧武者小路邸について)滝井:学校 みたいな感じだったな。ガラス戸があって…その建物は, しかし,もうないでしょう…?小熊:わたし,知ってい ますけど,壊して建て替えました。滝井:ちょっと普通 のガラス戸でなしに,学校みたいなガラス戸の家だと思 ったな。そういう記憶があるんです。小熊:あそこは当 時のままになっているんです。」とある。これは建物の外 観を似せたことか?建物の一部を残したことか?資材を 再利用したことか?定かでないが,建て替え時にオリジ ナルを参考にしたとされる所以とも考えられる。 以上より,図 2-14 下段の平面図は,間取図[M-1]と [M-3]を下敷きに作成した。[M-2]より[M-3]を優先 したのは,[M-2]を減築した建物が[M-1]に近い状態で あることと,建築の専門家が調査し,作図した平面図で あることによる。また,この平面図は図中A,B,Cの 3箇所を筆者の見解で加筆している。以下にこの根拠を まとめるが,主旨としては『我孫子市史研究 第 13 号』 で[M-1]の聞き取り調査をした当時の房子が既に 97 歳 で受け答えや記憶に曖昧な部分もあったと記されている 図 2-15 旧武者小路実篤邸の平面図(野口修作成) 図 2-14 復元された茶室風書斎の内観写真

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