「大学改革」におけるPDCAサイクルの批判的考察(3)(完) : 偶然性を生かすマネジメントサイクルの構築に向けて
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(2) 北海道教育大学紀要(教育科学編)第69巻 第2号 Journal of Hokkaido University of Education(Education)Vol. 69, No.2. 平 成 31 年 2 月 February, 2019. 「大学改革」におけるPDCAサイクルの批判的考察⑶(完) ― 偶然性を生かすマネジメントサイクルの構築に向けて ―. 古 川 雄 嗣 北海道教育大学旭川校教育学教室. Critical Analysis of the PDCA Cycle in the ‘University Reform’ ⑶ ― Toward Construction of the Management Cycle that Maximizes Contingency ―. FURUKAWA Yuji Department of Education, Asahikawa Campus, Hokkaido University of Education. 概 要 いわゆる「大学改革」において,大学の研究・教育・経営の諸側面にその「導入」が「義務 づけ」られているPDCAサイクルの本質的問題は,これが様々な意味での偶然性を徹底的に排 除することにより,研究・教育・経営の実践から具体性と多様性とを奪うことにある。前稿で 明らかになったこの知見に基づき,本稿では,偶然性を排除するのではなく,むしろそれを積 極的に生かすマネジメントサイクルのあり方が考察された。 詳細な論理的分析を施すと,一口に「偶然を生かす」と言っても,その「生かし方」は,実 際には,3つ(より細かくは5つ)の類型に分類され得る。そのそれぞれの論理構造と意義と が分析されたうえで,大学の研究と教育の質的向上に資するマネジメントサイクルは,そのい ずれの形式をも採用し得る柔軟性を備えたものでなければならないことが明らかにされた。. 1 はじめに. の品質管理や,企業の経営管理の方法として開発 されたものであった。ところが,これが90年代の. ここまでの考察(古川 2017a; 2017b)によって. 行政改革において,行政の合理化,すなわち経費. 明らかになったことを簡単に振り返っておこう。. の縮小・削減のために有効な政策評価システムと. 1990年代以降,文部科学省が主導してきた一連. して導入され,さらにそれが,文部科学省の文教. の「大学改革」において,その中心的な方法論と. 政策にも波及した。以降,年を追うごとに,大学. なっているのが, 「PDCAサイクル」というマネ. の 研 究, 教 育, 経 営 の あ ら ゆ る 側 面 を, こ の. ジメント方法である。これは元々,工場での製品. PDCAサイクルによって管理せよという方針が強. 73.
(3) 古 川 雄 嗣. 化され, 今やそれが,完全に義務付けられるに至っ. り組まなければならない,大きな課題であろう。. ている。例えば,2015年2月以降,2018年9月現. そこで本稿では,上記3つの論点のうち,さしあ. 在も中央教育審議会会長を務めている三井住友銀. たり⑴に焦点を絞ったうえで,偶然を排除するの. 行の北山禎介が,「大学改革の成否は,改革サイ. ではなく,むしろ生かす形式の,新たなマネジメ. クル(PDCA)をいかに有効に機能させることが. ントのあり方を考察し,その確立のための見通し. できるかにかかっています」(北山 2014,10頁). を提示することを試みてみたい。. とまで断言しているほど,今日PDCAサイクルは, いわば「大学改革」を推進するための「切り札」 としての位置を占めている(以上,古川 2017a)。. 2 PDCAサイクルの有効性と問題点. このような現状に対して,古川(2017b)は,. PDCAサイクルとは,何らかの実践を,Plan-. このPDCAサイクルという管理手法は,研究と教. Do-Check-Action(Act)の4段階に整理し,こ. 育のマネジメントには適さないことを明らかにし. れをサイクル状に回転させ続けるマネジメントの. た。そして,その理由として,この管理手法が,. 方法である。この4段階は,日本語では通常, 「目. 偶然性という問題をあまりにも無視している,と. 標・計画-実行-点検・評価-改善」と表記される。. いう問題点を挙げた。. なお,ここでPのなかに「目標」と「計画」との. この場合の偶然性という概念には,次の3つの. 両方が含まれていることがもっている重要な意味. 意味が含まれる。. については,古川(2017b)が注意を促す通りで あるが,この点は本稿でも改めて問題となる(5. ⑴ 教育と研究における「思いがけない結果」 や「ずれ」 (目的に対する結果の偶然性)。 ⑵ 教育の対象である学生・生徒の個別性(一 般に対する個別の偶然性)。 ⑶ 組織全体の目標に対する,各部門や各個人. 節参照)。 さて,では研究・教育をこの方法で管理・評価 する場合,より具体的には,どのようなサイクル となるであろうか。言うまでもなく,それは以下 の通りである。. の自律的な目標設定(全体に対する部分の偶 然性) 。. P:どのような目標を立て,それを達成するた めの手段として,どのような計画を立てた. これら様々な意味での偶然性を,PDCAサイク. か。. ル は 徹 底 的 に 排 除 す る。 こ の こ と に よ っ て,. D:その計画の通りに実行したか。. PDCAサイクルは,むしろ大学の研究と教育を限. C:目標はどの程度達成でき,どの程度達成で. りなく痩せ細らせるという結果を導く。このこと. きなかったか。達成できなかった原因は何. は,論理的に確実であると言ってよい。従って,. か。. もし,本当に大学の教育と研究を質的に向上させ ることを意図するのであれば,これらの偶然性を. A:達成できなかった原因を克服するために, 今後,どのような改善が必要か。. 削ぎ落とすのではなく,むしろそれらを含み込 み,積極的に生かすようなマネジメントの方法が. ともすれば,「大学改革」に批判的な研究者・. 考えられなければならない。これが,これまでの. 教育者は,このような形式で研究・教育の実践を. 研究によって導き出された知見であった。. 管理する(させられる)こと自体に対して,無意. とはいえ,そのすべてを包括的に考察すること. 味だ,面倒だ,といった不服を言い立てる。しか. は,到底筆者一人のなし得るところではなく,む. し,それこそ,本研究の冒頭(古川 2017a)で参. しろ教育学ならびに経済・経営学が全体として取. 照した神藤貴昭が言うように,「大学や学校が目. 74.
(4) 「大学改革」におけるPDCAサイクルの批判的考察⑶(完). 的を持った組織である限り」,それは結局,「『き. サイクルの導入や義務付けそのものに対して,全. つい』 『しんどい』と異議を申し立てるような,. 面的に反対であるわけではない。それはある程度. 身 体 性 の レ ベ ル で の 反 論 」 で し か な い( 神 藤. は有効であり,必要であるとさえ考えている。つ. 2011,86頁)と,筆者も考える。. いでに言えば,現に筆者自身も,自身の授業実践. 確かに,自身の研究と教育の実践を,いちいち. について,数年間,このPDCAサイクルを回し続. 上記のような形式に整理し,それを報告書等とし. けたことによって,かなりの改善を得ることがで. て提出することを,毎年度ないし毎学期,求めら. きたと考えている。. れ続けることは,極めて煩わしく,面倒ではある. つまり,問題は,PDCAサイクルを研究・教育. し,そんな時間があったらもっと研究をやらせて. のマネジメント方法として利用すること,それ自. くれという言い分も,もっともではある。しかし. 体にあるのではない。そうではなく,問題は,サ. ながら,これもまたしばしば指摘されるように, 上記のようなサイクルの形式によって自らの実践. イクルの回し方である。つまり,PDCAサイクル ・・ を,この形式でしか 回すことを許されないとい. を反省・管理することは,「この理論〔PDCAサ. う,そのことこそが,問題の本質なのである。. イクル理論〕がなくても実際には無意識にでも実. 一口にPDCAサイクルと言っても,より具体的. 践されていること」(土屋 1989,18頁)であり,. かつ厳密に考えれば,多様なサイクルの回し方が. それは研究・教育においても同様であろう。だと. 考えられる。その多様性こそが極めて重要な意味. すれば,確かに土屋が続けて「それをこの理論に. をもつと考えられるのである。にもかかわらず,. よって意識すれば,ことさらにより良いマネジメ. あくまでも上記の形式でしかサイクルを回すこと. ントができるようになるという効果はほとんどな. を許されないということが,研究と教育から柔軟. いであろう」 (同上,18頁)と述べるのはもっと. 性と多様性を奪い,ひいてはその具体的な内実を. もではあるが,逆に言えば,「ことさらにより良 い」マネジメントとは言わずとも, 「標準的」な. 奪って,それ自体を痩せ細らせていくことにな ・・・・ る。これが,現行のいわゆるPDCAサイクルの問. マネジメントの方法としては,十分に期待できる. 題点にほかならない。. ということでもある。. では,より具体的には,どのようなサイクルの. 要するに,有り体に言ってしまえば,ろくに研. 回し方があり得るであろうか。. 究もせず,教育の向上を図ろうともしない,怠惰. 問題の焦点は,特に,C(Check)の捉え方に. な研究者や教育者の尻を叩き,強制的に研究と教. ある。ここで,何を,どのように, 「評価・点検」. 育の反省と改善へと向かわせるための方法として. するのかによって,PDCAサイクルは,ほとんど. は,PDCAサイクルは,ある程度の有効性が期待. まったく異なった意味を帯びることになる。. できるということである。真面目な研究者・教育. 現行のPDCAサイクルにおいては,何度も既述. 者なら「実際には無意識にでも実践」しているこ. の通り,Cの段階において,「目標がどれだけ達. とであるならば,それを意識化することに,さほ. 成できたか」を評価する。そして,達成できなかっ. どの苦労は伴わないはずであるし(要するに単に. た部分について,なぜ達成できなかったのかを点. 「面倒」なだけであり,年にせいぜい数時間程度. 検し,それを次のサイクルの改善(A)に繋げる. の時間を取られるにすぎない) ,このマネジメン. のである。. ト方法そのものに対する異論もないはずである。. 従って,ここでは,その「達成できなかった部. しかも,無意識に実践していることを意識化する. 分」は,単なる「失敗」や「不十分さ」という,. ことにも,ある程度の効果を見込むこともできな. 消極的な意味よりほかもたない。また従って,. くはないであろう。. PDCAサイクルを回し続ける目的は,最終的に,. 従って,筆者は必ずしも,上記のようなPDCA. この「失敗」や「不十分さ」を消滅させることに. 75.
(5) 古 川 雄 嗣. ある。例えば,我々にとってもはや極めて馴染み. 1982年,夫馬は学術交流団の一員として,南京. 深い例を挙げれば,到達目標が100であるとして,. 図書館を調査し,その後,上海博物館へと向かっ. 1年目は70までしか達成できなかった。そこで残. た。ここでまず,彼はこう書いている。「南京で ・・・・・・ 思った通りの資料を手に入れ,帰国途中の蘇州で. りの30を達成するために,計画を改善し,2年目 は90まで達成できた。そこでさらに残りの10を達 成するために,さらに計画に改善を施し,3年目. も,これからやろうと思っていたテーマに密接に ・・・・・ 関係する資料を全く思いがけず収集しえた私は,. にほかならない。. 二週間の旅行に大満足であり,帰国を翌日にひか ・・・・・ え,あとは上海博物館の一級の文物を楽しめばよ ・ いだけだった」(夫馬 2003,65頁,傍点引用者)。. PDCAサイクルが, 「思いがけない結果」や「ず. ここには,まず第一に,「思った通り」目標を. れ」を削ぎ落とす,というのは,このことを指し. 達成したという必然性の経験と,当初の目標から. ている。繰り返して言えば,目標と結果との間の. は「ずれ」てはいたものの,それはそれで大きな. 「ずれ」は,PDCAサイクルにおいては,単なる. 意味をもつ重要な成果を,まったく「思いがけず」. 消極的な「失敗」でしかない。従って,それを可. 獲得したという偶然性の経験とが,両方,語られ. 能な限り削減し,ついには消滅させることこそが,. ている。そして第二に,上海博物館の訪問は,研. サイクルを回す目的となるのである。. 究の目的(目標)をほとんど達成した後で,単に. しかしながら,現実を見れば,言うまでもなく,. 「楽しめばよい」だけのもの,つまりはほとんど. 本来,その「思いがけない結果」や「ずれ」にこ. 「無目的」な,いわば「遊び」に属する行為,そ. そ,まさに「思いがけない発見」や「新たな可能. ういう意味での偶然的な行為であったということ. 性」 といった積極的な意味が豊富に含まれている。. もわかる。. このことは,それこそ真面目に研究と教育に携わ. さて,夫馬の体験談はこう続く。上海博物館に. る者であれば,誰もが経験的によくわかっている. て,一通りの見学と座談会が終わった後,彼は1. はずのことであろう。実際,こういった偶然に. つだけ質問をしてみた。「徴信録という名の史料. よってこそ,研究や教育が大きな発展を得たとい. は,御存知ありませんか」。それに対して,館の. う積極的な経験は,多くの研究者や教育者が,声. 案内者は,「事もなげに」こう答えた。「徴信録。. を大にして語るところでもあり,また従って,そ. と考えられる。. ……ああ徴信録ならどう処理していいのか困るほ ・ ・・ どこの博物館にありますよ」。夫馬は言う。「驚い ・ て息を飲む,という言葉があるが,私はあまりの ・・・・・・ 思いがけなさに,まさしく生ツバをゴクリと飲み. そこで次節では,1つの具体的な事例をもとに,. 込んだ」(同上,66頁,傍点引用者)。. この種の経験がもつ論理的構造とその意義を,改. どういうことかと言うと,夫馬によれば,その. めて整理して考えてみることにしよう。. 史料は,今日で言う公共福祉事業の会計報告書の. にはついに目標の100を達成できた……,という のが,現行のPDCAサイクルが理想とするところ. れこそが,多くの研究者や教育者が,PDCAサイ クルの強制に反発する,その最たる理由でもある. ようなもので,中国の都市史や社会福祉史の研究. 3 偶然性の消極的側面と積極的側面. にとっては極めて重要な史料であるものの,その 種の史料は貴重書として補完されるものではない. 今,たまたま筆者の手元に,1つのおもしろい. から,なかなか残りにくく,収集が極めて困難で. エッセイがある。東洋史研究の泰斗,夫馬進が,. ある。夫馬も当時,それが重要な史料であること. 「資料収集の醍醐味」と題して記したエッセイで,. には早くから目を付けていたものの,いかんせ. 彼の研究経験の一端がエキサイティングに綴られ. ん,どうやって収集すればよいのかと,いささか. ている。. 途方に暮れていたらしい。それが,さしたる期待. 76.
(6) 「大学改革」におけるPDCAサイクルの批判的考察⑶(完). もなく,たまたま訪れた場所で,「どう処理して. 上,70-71頁,傍点引用者). いいのか困るほど」あると,事もなげに言われた のだから,彼は大変に「驚いた」わけである。. 特に傍点を付した箇所に注意してほしい。ここ. ここで重要なことは,彼は,決して当該史料の. には,まさに,研究という実践における必然性と. 収集を目的(目標)として,上海博物館を訪れた. 偶然性との絡み合い,そしてその双方の重要性が,. わけではなかったということである。つまり,彼. 慎重に語られていることがわかる。. はここで, 目標を達成するために必要(necessary). 重要なことは,これが決して単なる偶然性礼賛. な手段を実践することによって, 必然的 (necessary). に留まらず,その必然性との絡み合いをこそ重視. に目標を達成したのではない。そうではなく,目. している点であるが,それについては後に触れる. 標から「ずれ」たところで,それとはまったく無. こととして,ここではまず,偶然性の積極的意味. 関係な行為によって,偶然,目標が達成されたの. に注目してみることとしよう。. である。だからそれは,彼自身にとっても,まっ. 改めて振り返ってみると,夫馬は,決して目標. たく「思いがけない」ことであり,だから,それ. を達成するための必然的な手段として,上海博物. に対して「驚いた」のである。. 館を訪れたわけではなかった。すでに見たように,. 彼の偶然と驚きの体験はまだ続くが,それはこ. これはほとんど「遊び」に属すると言ってよい,. こでは割愛し,その体験を反省して述べられた,. 無目的な偶然の行為であった。. このエッセイの結語の部分を見てみよう。長い引. 当然,今日のいわゆるPDCAサイクルに則った. 用になるが,これは我々の問題にとって極めて深. 研究活動においては,これは決して認められない. い示唆を与えるものである。. 行為である。資料調査なら資料調査で,我々は, どの資料を調査するという目的(目標)と,なぜ. 私にとって資料収集とは,歴史研究という楽 ・・・ しみの中のそのまた楽しみである。意外なと ・・・ ころで意外な 資料,すなわち「証拠」「手が ・・・・ かり」 に遭遇するのは大いなる醍醐味である。. その資料調査のためにその場所を訪れることが必. 今までにない新しい「問題」を自らたて,推. めに研究費を使用することも認められない)。つ. 理小説がそうであるように読者を納得ずくで. まり,もし今日であれば,夫馬は,まず,上海博. 驚かせ,楽しませ, 「答え」に導く。この研. 物館に徴信録が存在するという確実な事実を予め. 究そのものが面白いものであるにはちがいな. 把握しており,そのうえで,それゆえにその調査. いが,推理小説と違って歴史の「探偵」が新. のためにそこを訪れるのであるという,必然的な. しい「問題」を自ら立てたときには, 「答え」 ・・・・・・・ はすでにおおよそ予測されているといってよ. 理由があって,はじめてそこを訪れることが可能. いであろう。歴史研究において自らの立てた. であるか,または極めて困難である。たまたま上. 「問題」に対して,結果としての「答え」が ・・・・・・・・ ・・ 予期もしなかった,これは大きな驚きである,. 海博物館を訪れるという偶然性を抜きにして,何. というのでは,決して誉められたものではな ・・ い。ところが資料収集においては,この意外 ・ 性 が 大 き い ほ ど 豊 か な 成 果 を も た ら す。. う新たな知識を発見するということは,原理的に. 〔……〕全く違った方面の資料を探していて, 別に立てた「問題」を解決に導くための,全 ・・・・ (同 く予期せぬ 証拠が出てくることもある。. 要な手段であるのかという,必然性の説明を求め られる。その必然性を説明できない活動は, 「研 究活動」としては認められない(従って,そのた. であったということになる。当然,それは不可能. らか他の方法で,そこにその資料が存在するとい は不可能ではないが,事実的にはほとんど不可能 であり,少なくとも途方もなく膨大な時間と労力 とを要したであろう。 彼が,資料収集においては「意外性が大きいほ ど豊かな成果をもたらす」と言うのは,このこと. 77.
(7) 古 川 雄 嗣. を指している。彼が,ほとんど無目的に,たまた. 偶然がもたらす「豊かさ」とはこういうことで. ま,上海博物館を訪れたという偶然性は,それが. あり,形式的な必然性のみを追求し,偶然性を単. なければまず不可能か,可能であっても測り知れ. なる消極的のものとして排除することが,結局は. ないほど膨大な時間と労力を要したであろう研究. 研究と教育の実践を痩せ細らせていくことにな. 活動を,いわば一瞬にして成し遂げたのである。. る,といったのも,こういうことである。この点. さらに注目すべきは,彼が先の引用箇所の末尾. に注目すれば,「思いがけない結果」や「ずれ」. に, 「全く違った方面の資料を探していて,別に. といった偶然性を,単に排除すべき消極的のもの. 立てた『問題』を解決に導くための,全く予期せ. としてしか見ないという,現行のPDCAサイクル. ぬ証拠が出てくることもある」とも記しているこ. の問題点は,研究と教育にとって,ほとんど致命. とである。これは,上海博物館の事例とは,また. 的であるとさえ言わなければならない。従って,. 質的に異なった偶然性である。上海博物館の事例. いかにしてマネジメントのサイクルを,この種の. は,無目的な行為が,偶然,目標達成のために役. 偶然性を組み込み,それを生かし得る形式のもの. 立った,という場合である。それに対して,ここ. へと修正し得るかという問題こそが,考えられな. で述べられているのは,何らかの目的(目標)を. ければならないのである。. 達成することを意図した行為,すなわち目的的な 行為が,偶然,別の目的(目標)の達成に役立っ た,という場合である。前者は,偶然的な行為の. 4 偶然を生かす3つのモデル. 結果であるのに対して,後者は,必然的な行為の. 実際,すでに古川(2017b)でも指摘されたこ. 結果である。そして,後者の場合,予め立てた目. とであるが,そもそも,本来の意味でのPDCAサ. 的(目標)は達成されていない。言い換えれば,. イクルは,今日のいわゆるPDCAサイクルのよう. 予め立てた目的(目標)と,実現した結果との間. に,一切の偶然性を排除しようとするものではな. に, 「ずれ」がある。従って,その見地から見れ. い。というのは,PDCAサイクルの提唱者とされ. ば,これは紛れもない「失敗」である。しかしな. ている経営学者のW・E・デミングは,マネジメ. がら,その消極的な失敗が,同時に,他の目的. ントのサイクルはPDCAではなくPDSA(Plan-. (目標)を達成するための手段として,むしろ積. Do-Study-Act)でなければならないと言ってい. 極的な意味をもった,というわけである。. る(デミング 1996) 。CheckではなくStudyでなけ. これもまた,現行のPDCAサイクルでは,決し. ればならないと言うのである。これはまさに, 「思. て生じ得ないことである。または,生じたとして. いがけない結果」や「ずれ」を,単なる消極的な. も, 「研究活動」としては認められないことであ. 「失敗」や「不十分さ」として排除してしまうの. る。なぜなら,すでに見た通り,現行のPDCAサ. ではなく,むしろそれを積極的に生かし,そこか. イクルにおいては,この種の偶然はあくまでも単. ら新しく何かを学び,あるいは生み出すことを重. なる「失敗」としての消極的な意味よりほか認め. 視する思想である。. られず,従ってそれをいかに排除するかという方. では,具体的に,何を,どのように,生かし,. 向でしか,その後の「改善」を考えることは許さ. 学び,生み出すのか。本節では,その点について. れないからである。あくまでも,「当初の目標が. のさらなる考察を試みてみよう。. どれだけ達成できたか」という観点のみから,そ. この問題に関連する従来の研究として,まず大. の成果を測定するのが,現行のPDCAサイクルで. きくは,いわゆる「失敗学」と「セレンディピティ」. ある以上,それが思いがけず他の目的(目標)の. を挙げることができる。そして,後者はさらに,. 達成に役立った,などということは,まったく意. その論理構造に注目すると,「擬セレンディピ. 味をなさないことになる。. ティ」と「(真の)セレンディピティ」と呼ばれ. 78.
(8) 「大学改革」におけるPDCAサイクルの批判的考察⑶(完). る2つの種類に分析することができる。さらに,. を見る限り,まさに前節に示した我々の課題その. より厳密に分析するならば,この各々を,目的的. ものに対する,1つの解答を畑村は提示している. の場合と無目的の場合との2つの種類に分けるこ. ようにも思われる。. ともできる。かくして,偶然を積極的に生かすマ. しかしながら,確かに畑村は,言辞としては,. ネジメントの方法として,⑴失敗学,⑵擬セレン. 「失敗のプラス面」として「失敗から新技術や新. ディピティ,⑶(真の)セレンディピティ,とい. たなアイデアを生み出し,社会を大きく発展させ. う3つ(ないしは,さらに細かく分類すれば,5. てきた歴史」(同上,18頁)もあるとか,「失敗を. つ)のモデルを提示することができる(図1,参. 新たな創造というプラス方向に転じさせて活用し. 照) 。. よう」 (同上,28頁)とかと言ってはいるものの, その主張の具体的内容を見れば,実際には,彼の 言う失敗学の目的は,ほとんど専ら「不必要な失 敗を繰り返さない」(同上,28頁)こと,「失敗を 防ぐ手だてを発見」(同上,75頁)することに置 かれていることがわかる。つまり,実はこの点に おいて,畑村のいわゆる失敗学は,現行のPDCA サイクルと,基本的な理念を同じくするものであ る,ということが言える。失敗を肯定して活用す 図1 偶然を生かす3つのモデル. る,とは言うものの,ではそれを,何のために, どのように,活用するのかと問えば,それは,そ. これらは,いずれも,偶然を単に消極的のもの. の失敗を可能な限り縮小し,ついには消去するた. と見なして排除しようとするのではなく,むしろ. めにほかならない。失敗の原因を究明し,同じ失. それを積極的に生かすという点では共通してお. 敗を繰り返さないための糧とする,ということ. り,一見したところ,極めて類似してはいるが,. は,失敗を,当初の到達目標をより十全に達成す. 厳密に分析すると,実はかなり異なった論理構造. るための,手段・方法の改善に役立てる,という. をもっている。つまり,一口に「偶然を生かす」. ことである。従って,これはまさにPDCAサイク. と言っても,その生かし方が,大きく異なるので. ルの意図するところと同じであると言わなければ. ある。そこで,まずはこれら各々の論理構造を,. ならないのである。. 順に見ていくことにしよう。 ⑵ セレンディピティ ⑴ 失敗学. それに対して,では他の2つ,すなわちいわゆ. まず1つ目の,いわゆる「失敗学」は,2011年. る「セレンディピティ」の場合はどうであろうか。. の福島第一原子力発電所事故に関する事故調査・. まず,そもそも「セレンディピティ」という概. 検証委員会委員長も務めた工学者の畑村洋太郎が. 念は,中世イタリアの寓話『セレンディップの3. 提唱しているものとして,一般にもよく知られて. 人の王子』をもとにした造語である。この寓話は,. いる。まさに文字通り, 「失敗の研究(Study)」. 3人の王子が旅をするなかで,偶然に,探してい. である。. たものとは違う,思いがけない発見を重ねていく. 畑村は, 「失敗は成功の母」のことわざの通り,. 物語である。そこから,「ある探しものをしてい. 「失敗を否定的にとらえるのではなく,むしろプ. るうちに,もっと大切なほかのものが見つかる」. ラス面に着目してこれを有効利用しよう」 (畑村. ことが,「セレンディピティ」と呼ばれるように. 2005,28頁)と言っている。なるほど,この言辞. なった。多少の意味内容の揺らぎはあるものの,. 79.
(9) 古 川 雄 嗣. 概ね今日一般的となっている定義を示せば,例え. ⑶ 擬セレンディピティと真のセレンディピティ. ば「偶然に幸運な予想外の発見をすること,また. しかしながら,これも論理的に仔細に分析して. はその才能」 (cf. ロバーツ 1993,vii頁ほか)と. みると,同じ「偶然の発見」と言っても,2種類. 1. なる 。. の異なったものがあることがわかる。これを,ア. 言うまでもなく,前節で見た,東洋史学者,夫. メリカの化学者R・M・ロバーツは,「真のセレ. 馬のまったく思いがけなかった史料発見の体験. ンディピティ」と「擬セレンディピティ」とに分. は,まさに極めて典型的なセレンディピティにほ. 類している。曰く, 「真のセレンディピティ」とは,. かならない。また,歴史上の研究および開発にお. 「思ってもみなかった物事を偶然に発見する」こ. ける画期的な発見は,非常にしばしば,このセレ. と,「擬セレンディピティ」とは,「追い求めてい. ンディピティによるものであることは,一般的に. た目的への道を偶然に発見する」ことである(同. もよく知られているところである。例を挙げ出せ. 上,ix頁)。確かに,この両者には重大な相違が. ば枚挙に暇がないが,有名な例を2つ,挙げてお. ある。. こう。. 実は,先に挙げた2つのセレンディピティの例. ⅰフレミングによるペニシリンの発見。フレミ. は,各々,ⅰが擬セレンディピティの,ⅱが真の. ングは, 黄色ブドウ球菌の培養実験中,たまたま,. セレンディピティの,事例となっている。. 誤って,ペトリ皿にカビを混入させてしまった。. まず,ⅰについて言えば,フレミングは,予め,. ところが,そのカビの周囲にだけ黄色ブドウ球菌. 抗菌薬の発見・開発を目的としていたのであるか. が生育していないことに気付いた。そこで,ひょっ. ら,ペニシリンの発見は,その目的を達成するた. としたらカビから抗菌物質が出ているのではない. めの手段・方法を,偶然に発見した,ということ. かと考え,新たな実験を行なった結果,ペニシリ. を意味する。従って,これはロバーツの言う「擬. ンを発見した。. セレンディピティ」である。他方,ⅱの場合,マ. ⅱマジックテープの発明。あるスイス人技師. ジックテープの発明は,予めそれを目的としてい. が,山に入るたびにズボンにくっついてくるオナ. たわけではない。むしろ,無目的な偶然が出発点. モミの実を,なぜこんなに服にくっつくのかと不. となって,そこから,簡単にくっつく布地を開発. 思議に思い,顕微鏡で観察してみた。すると,そ. するという目的そのものが,新たに立てられたの. の殻が小さな鉤状になっており,それが布地に. である。従って,これがロバーツの言う「真のセ. 引っかかるようになっていることを発見した。そ. レンディピティ」である。なお,ここでの真/擬. こで,この仕組みを利用すれば,簡単にくっつく. という概念に,価値論的な意味は含まれないこと. 布地が作れるのではないか,と思い付いて開発し. は言うまでもない。. たのが,マジックテープであった。. ここで我々にとって重要なことは,擬セレン ・・ ディピティでは,目的を達成するための手段のほ. その他の有名な例としては,ノーベルによるダ 白川英樹らによる導電性高分子の発見,不良品の. うが,偶然,新たに発見されるのに対して,真の ・・ セレンディピティでは,むしろ目的そのもののほ. 接着剤から着想を得たポストイットの開発,等々. うが,偶然,新たに発見されるという点である。. が挙げられるであろう。. ここで,もう一度,前節で見た夫馬の事例を考. イナマイトの発明,レントゲンによるX線の発見,. 1 澤泉重一は,これは単なる偶然ではなく,偶然の出 「偶察」という訳語が適当であると提唱している(澤. た。つまり彼は,研究の目的(目標)達成のため ・・ の手段を,偶然,発見したのである。また,彼が. 泉 2002,69頁)。. 「全く違った方面の資料を探していて,別に立て. 来事に重要な意味を発見する洞察力のことであるから,. 80. えてみよう。彼は,ほとんど無目的に訪れた上海 ・・・・・・・・ 博物館で,偶然,かねて探していた史料を発見し.
(10) 「大学改革」におけるPDCAサイクルの批判的考察⑶(完). た『問題』を解決に導くための,全く予期せぬ証. 実,それはあくまでも手段の発見における偶然性. 拠が出てくることもある」と述べる体験も,同様. についてであって,研究の目的(目標)にまで偶. である。ここでもまた,元々「問題」が立てられ. 然性が介在することについては,実は彼は極めて. ている。つまり,達成すべき研究の目的(目標). 慎重である。その点では,彼はむしろ,研究活動. が,予め立てられていて,それを「解決に導くた. の必然性をこそ重視している。つまり,彼がその. めの」手段が,偶然に発見されることがしばしば. 重要性を説いているのは,いわば,必然性の中の. ある,と夫馬は述べているのである。夫馬が強調. 偶然性であり,偶然性を内実とすることによって. しているのは, このような「擬セレンディピティ」. こそ達成される必然性であると言うことができる. の重要性,すなわち,研究の目的(目標)達成の. であろう。. ための手段は,非常にしばしば,思いがけなく,. とはいえ,この点については,異論もあり得る. 偶然に,発見されるものであるということ,従っ. ように思われる。例えば,科学哲学者の村上陽一. て,研究という実践は,その偶然性に対して,敏. 郎は,こう言っている。. 感に開かれたものでなければならない,というこ とにほかならない。. 「研究の目標はこれこれで,その通りに達成. 他方,それに対して,夫馬が必ずしも「真のセ. できました」というのは,本当は研究とは言. レンディピティ」については積極的ではないこと. えません。 〔……〕目標を立てて研究するうち,. も,注意を要する点であろう。彼の言明をもう一. 実は予想と違っていた,別の方向におもしろ. 度見てみよう。 「推理小説と違って歴史の『探偵』. い可能性がありそうだからそっちに行こう,. が新しい『問題』を自ら立てたときには,『答え』. 思いがけない結果が導き出された,などが. はすでにおおよそ予測されているといってよいで. あってはじめて,研究をやった意味があるの. あろう。歴史研究において自らの立てた『問題』. です。目標を立ててそれがわかればいい,と. に対して,結果としての『答え』が予期もしな. いうのはほとんどトートロジー(同義語反. かった,これは大きな驚きである,というのでは,. 復)ではありませんか。結果がわかっている. 決して誉められたものではない」 。つまり彼は,. なら研究する必要がなかったことになります. 研究とは,あくまでも,予め立てた目的(目標). から。(村上 2010,169頁). から,演繹的に導かれる手段の実践によってこそ 達成される,極めて必然的な活動であり,決して,. ここで村上が強調しているのは,明らかに「真. いわば行き当たりばったりに,その都度の偶然性. のセレンディピティ」の論理である。つまり,. に左右されてよいものではない,と言っているこ. 「やってみたら予想と違っていた」という偶然性. とになる。 「やってみたら予想と違っていました」. (ずれ,失敗)を,むしろ積極的に生かし,それ. というのは,要するにその予想(予測,予期)の. を契機として,研究の目的(目標)そのものを修. 仕方,つまり予め立てた目的(目標)としての仮. 正・変更することの重要性である。そうであって. 説の立て方が,不十分であったということでしか. こそ,はじめて「新たな」発見と言えるのだ,と. ない。だから, 「やってみたら予想していた答え. いうのが村上の主張である。. と違っていたので,研究の目標そのものを修正し. 確かに,これはまったく正しい。なぜなら,そ. ます」などということは,単に研究者の準備と洞. もそも「発見」とは, 「予期(予想,予測)しなかっ. 察力とが欠如していたことの表明でしかなく,. たもの」との遭遇にほかならないからである。予. 「決して誉められたものではない」ということに. 期していたものを目撃したところで,我々はそれ. なるのであろう。一見,研究活動における偶然性. を「発見」したとは言わない。予期していなかっ. の重要性を力説しているようでありながら,その. たもの,または予期できなかったものを,偶然,. 81.
(11) 古 川 雄 嗣. 目撃したときに,我々はそれを,新たに「発見」. あろう。. したと言うのである。従って,実は「発見」と「偶. 実際,さらにもう一歩踏み込んで考えてみると,. 然」とは,ほとんど同義であるとさえ言っても過. 目的(目標)そのものが新たに発見される「真の. 言ではない。偶然のないところに新たな発見はな. セレンディピティ」にも,その発見に至った行為. く,従って,知識や技術の進歩や進化や発展はあ. が目的的であったか無目的であったかという点. 2. り得ないのである 。. で,実は大きく異なる2つの種類のものがあるこ. とはいえ,夫馬の言うこともまた,正しい。研. とがわかる。そうして,先には明示的には述べな. 究はあくまでも目的的行為であり,そうである以. かったが,同じ論理に従って,実は擬セレンディ. 上,必然性の追求こそがその本義であることは言. ピティにも,厳密に言えば,目的的の場合と無目. うまでもない。そして,実は村上といえども,そ. 的の場合との2つの種類がある。最後に,その点. の点までをも否定しているわけではない。という. についても考察を差し向けてみることにしよう。. のは,彼もまた,「目標を立てて研究するうち」 と言っている。研究そのものが無目的であってよ. ⑷ 目的的の場合と無目的の場合. いとか,ましてやそうであるべきであるなどと. まずは2つの擬セレンディピティについて,簡. 言っているのではなく,研究とは,まず目標を立. 単に確認しておこう。といっても,我々はすでに. て,その実現に向けて行為する,必然的活動であ. 第3節において,夫馬が挙げている偶然の体験を,. ることは,やはり前提となっているのである。し. まさにこの2つに分析できるということを確認済. かしながら,その必然性そのものを,偶然性を契. みである。つまり,1つは,ほとんど「遊び」で. 機として更新することの意義を,村上は説いてい. 上海博物館を訪れたところ,たまたま,かねて探. る。その点において,村上の論理における必然性. していた史料(徴信録)を発見した,という体験,. は,夫馬のそれに比べて,より一層,偶然性との. もう1つは,彼が「全く違った方面の資料を探し. 緊密な関係にある。夫馬の場合,必然性(研究の. ていて,別に立てた『問題』を解決に導くための,. 目標)そのものは不変であるが,村上の場合,必. 全く予期せぬ証拠が出てくることもある」と述べ. 然性そのものが,偶然性を契機として,不断に更. る体験である。いずれも,研究の目的(目標)を. 新される。その意味で,偶然性と必然性とが,ま. 達成するための手段のほうが,偶然発見される,. さにサイクル状に,不断に往還し続ける論理形式. という擬セレンディピティの体験であるが,前者. を構成することになるであろう。また,その点に. の場合,そのもとになった行為自体が無目的で偶. お い て, 実 は 村 上 の 主 張 は, 意 外 に も 本 来 の. 然的であったのに対して,後者の場合,それ自体. PDCA(ないしPDSA)サイクルそのものを指し. は他の目的を達成するために必要な手段として選. 示すものであるとも言える。なぜなら,本来の. 択された目的的で必然的な行為であったという違. PDCA(PDSA)サイクルとは,既述の通り,C. いがある。. (S)を契機として,当初の目標(P)そのものを,. さて,では,真のセレンディピティについては. 不断に修正・変更していくことを意図するもので. どうか。先に付言しておけば,これはかなり重要. あるからである。. な問題であるように私には思われる。. さて,しかしながら,まったくの無目的という. 真のセレンディピティにおいて,それが目的的. 意味での偶然を契機とする研究というものも,あ. で必然的な行為に基づく場合と,無目的で偶然的. り得るのではないか。そういう考えもあり得るで. な行為に基づく場合とでは,それらは各々,次の ような論理構造をもつことになる。. 2 特にこの点に焦点を置いて論じたものとして,古川 (2018)を参照。. 82. 前者の場合,予め何らかの目的が立てられてお り,その目的の実現を意図して行為したところ,.
(12) 「大学改革」におけるPDCAサイクルの批判的考察⑶(完). その目的は実現しなかったものの,思いがけない. 身も思いがけなかった,マジックテープの開発と. 新たな発見があり,それを契機として,当初の目 ・・ ・・ 的を修正・変更する,という論理的展開になる。. いう目的を,新たに立てた。つまり,予めあった. 他方,後者の場合,元々何らの目的もなく,無目. たところに,新たに目的を設立したわけである。. 的に(何となく,「気まぐれ」に,「遊び」で)行. 言うまでもなく,より偶然性の性格が強いのは,. 為したところ,思いがけない新たな発見があり, ・・ ・・ それを契機として,何らかの目的を新設・創造す. 後者である。述べたように,「無目的」とは,「遊. る,という論理的展開になる。このように,もと. 何らか他の目的を実現するための手段として実践. の行為が目的的であったのか,それとも無目的で. される行為ではなく,それ自体,ないしはそれに. あったかの違いは,偶然を契機とした目的の修. よって楽しむこと自体が目的であるような行為で. 正・変更なのか,それとも目的の新設・創造なの. ある。だからそれは「無目的」または「自己目的」. かの違いに帰結することになる。言うまでもなく,. な行為であるのである。「何のためにそれをやる. 村上が説いていたのは,このうちの前者のほうで. のか」と問われても,答えはなく,単に「楽しい. ある。. から」「おもしろいから」「好きだから」としか答. その前者の具体例として,筆者自身の些細な研. えられないような類の行為・活動がそれである。. 究経験を引き合いに出してみよう。ある日,九鬼. むろん,研究とはあくまでも目的的行為である. 周造と西田幾多郎の比較研究を目的とし,そのた. という考え方からすれば,このような無目的な遊. めの手段として,西田について論じている三木清. びは,研究活動としては到底認められない。まし. の文献を読んでいたところ,思いがけず,三木が. てや,そこに国民の税金から支出された研究費を. 九鬼と類似した主張を提示していることを発見し. 投入するなど,論外であろう。. た。その偶然の発見を契機として,むしろ西田と. しかしながら,歴史上,このような無目的な「遊. 九鬼の比較よりも,三木と九鬼の比較のほうがお. び」や「気まぐれ」からこそ,極めて画期的な知. もしろいのではないか,という新たな着想を得て,. 的発見や技術革新が生まれてきたこともまた,事. 研究の目的そのものを,当初の九鬼と西田の比較. 実である。「研究の発展のためには,研究者が自. 研究から,九鬼と三木の比較研究へと,修正・変. 由に使える研究費が,一定額必要だ」などという,. 3. 更しようとした,というような場合である 。. 目的を修正したのではなく,何らの目的もなかっ. び」や「気まぐれ」を意味する。「遊び」とは,. 一見いかにも虫の良い主張4も,実はここにこそ,. 他方, 後者の例としては,⑶のⅱに示したマジッ クテープの発明が,まさにそれに当たる。スイス 人技師は,予め何らかの目的があり,そのための 手段として,オナモミを顕微鏡で観察してみたわ けではなかった。そうではなく,おそらくは単に. 4 しばしば報道されているように,白川英樹,梶田隆章, 益川敏英,本庶佑ら,ノーベル賞を受賞した日本人科 学者たちもまた,自身の画期的な発見がまったくの偶 然によるものであったことに基づいて,異口同音にこ. 純粋な知的好奇心から,つまりまったくの無目的. のことを力説し,目的的な(「役に立つ」)研究のみし. または自己目的的な, 「遊び」に類する行為として,. か認めようとしない今日の「大学改革」の状況に対して,. オナモミを観察したのである。そして,その行為 の結果として得られた発見を契機として,自分自. 極めて深刻な憂慮を示していることを,ここで改めて 付言しておくべきであろう。例えば,以下を参照。「〈論 点〉ノーベル賞と基礎研究」 『デジタル毎日』2016年12 月9日付(https://mainichi.jp/articles/20161209/ org/00m/070/004000c,2019年2月6日閲覧) , 「 【ノー. 3 ただし,現実には,科研費の研究テーマとして,九. ベル賞】本庶さん基金創設 背景に基礎研究への危機. 鬼と西田の比較が採択されていたから,その「研究目標」. 感」 『産経デジタル』2018年10月10日付(https://www.. そのものを修正することはできなかった。この問題に. sankei.com/life/news/181010/lif1810100024-n1.html,. ついては,5節を参照。. 2019年2月6日閲覧) 」. 83.
(13) 古 川 雄 嗣. 論理的な根拠をもっている。何らかの目的を達成. との問題を明らかにし,次いで,偶然を単に消極. するための手段としてではなく,単にそれ自体を. 的のものとして排除するのではなく,むしろ積極. 目的とする,単なる遊びや知的好奇心に基づく研. 的に生かすマネジメントサイクルの形式を求め. 究から,まさに思いがけない知的発見や技術革新. て,それが生かされる場合の論理的構造を分析し. が生まれる可能性を保障すること。そのように, ・・・・・・・・・・ ・・・・ ・・・・ 偶然が生起する余地を,意図的に,設計すること。. てきた。その結果,一口に偶然を生かすと言って. 実は,PDCAサイクルが,新たな知識や技術の発. た生かし方があり得るということが明らかとなっ. 見,進歩,発展に,最も寄与し得るものとなり得. た。それを図式化したのが,4節に示した図1で. るとすれば,その鍵はここにある。. ある。なお,この図についてさらに一言すれば,. やや極端な言い方をすれば,これはある意味. 図の上部のものほど必然性の性格が強く,従って. で, 「無駄」を許容するということである。気ま. 現行のPDCAサイクルの枠組みに近いものである. ぐれで無目的な研究活動など,ほとんどまったく. のに対して,下部のものほど偶然性の性格が強く,. 無駄であることは言うまでもない。しかしなが. 従って現行のPDCAサイクルの枠組みをはみ出す. ら,まさに自然進化のメカニズムがそうであるよ. ものである,という構造になっている。. うに,無数の無駄のなかから,たまたま,1つの. とはいえ,言うまでもなく,この図に示された. 有益な成果が誕生したとき,それはそれまでのす. 3つないし4つの類型のうち,いずれが最も正し. べての無駄を相殺して余りあるほどの,莫大な利. いとか,最も優れているとかということが,問題. 5. も,厳密には,3つないし4つの,かなり異なっ. 潤を生む 。その意味で,実は,あえて不合理な. であるのではない。それどころか,いわばこの図. 無駄を許容し,不合理な偶然が生起する余地を残. の見えない最上部に位置する現行のPDCAサイク. すことが,かえって,合理的である以上にはるか. ルでさえ,ある意味では有効であり,必要である. に合理的であるのである。. と考えられることも,本稿において断っておいた. 重要なことは,このような意味での,不合理な. 通りである。. ものの合理性,偶然的なものの必然性をこそ,論. 必要なことは,まさにそれぞれの個別的な偶然. 理的に理解し,その論理に基づいたマネジメント. 性,すなわちそれぞれの場合の具体的な事象に応. 方法をこそ構築していくことである。それが,結. じて,いずれの方法で偶然性を生かす(または生. 局は,より高次の合理性と必然性を追求すること. かさず排除する)のが最もよいのかを,その都度. にほかならないのである。. 判断しながら,自らの実践を評価し,次のサイク ルへと繋げていくことにほかならない。従って,. 5 むすびに代えて. 本当に大学の研究と教育の質的な向上に資するで あろうマネジメントサイクルは,これらいずれの. 以上,本稿では,まず,現行のPDCAサイクル. 形式をも選択可能であるという柔軟性を備えたも. が,研究と教育の実践から「思いがけない結果」. のでなければならない。繰り返すが,PDCAのC. や「ずれ」といった偶然性を徹底的に排除するこ. (または,PDSAのS)の段階において,単に「失 敗」や「ずれ」や「思いがけない結果」を可能な. 5 例えば,動物行動学者のK・ローレンツは,従って,. 限り排除するための「点検・評価」よりしか選択. 自然進化のメカニズムは,生物の自己再生システムが. できないのではなく,それを目的(目標)そのも. 「不断に小さな《誤ち》を犯すことができるほどには. のの改善や新設の契機として生かすことをも,マ. 不安定」であることに基づいていると言っている(ロー レンツ 1983,77頁)。これはすなわち,必然性の中に. 84. ネジメントサイクルは許容しなければならない。. 偶然性が介入するよう,意図的に設計されている,と. 研究と教育の「豊かさ」は,それによってこそ,. いうことを意味する。古川(2018)も参照。. はじめて保障されるのである。このことを,本研.
(14) 「大学改革」におけるPDCAサイクルの批判的考察⑶(完). 究のひとまずの結論として,提示しておきたいと. らかな欺瞞に支配された状況にあっては,上記の. 思う。. ようなサイクル過程の多様化や柔軟化など,望む. なお,それは一見複雑であるかもしれないが,. べくもないのであろうか。この――それゆえに. 実はさほど難しいことではないはずではないかと. 「PDCAファシズム」とも呼ばれており,またそ. も思われる。例えば,本研究の論理に基づけば,. う呼ばれるべき――問題に,いかに対処すべきで. 誰もがすぐに思い付くであろう方法として,研究. あるのかについては,私にはわからない。. や教育の「評価項目」のなかに,単に「当初の目. また,本稿は,ほとんど専ら研究活動のマネジ. 標がどの程度達成されたか」だけではなく,「ど. メントのあり方についての考察に留まり,教育活. のような思いがけない結果が得られたか」 「何か. 動についてのそれ,さらには組織(大学・学校). 思いがけない発見があったか」といった項目を追. の運営についてのそれについての考察には及ばな. 加するだけで,それはある程度可能になるはずで. かった。それは今後の課題であるとも言えるが,. ある。それによって,その思いがけない結果や発. 本稿は,それらを考える際にも基礎となり得る論. 見を基礎として,次のサイクルの目標ないし計画. 理的な枠組みを提示したものである。従って,こ. を修正・変更あるいは新設することを,柔軟に許. の論理的枠組みに則って,それらもまた,比較的. 容すれば,それだけでも,評価システムはより内. 容易に考察することが可能であると思われる。. 実のある有意義なものになるのではないだろうか。. そして最後に,本稿における分析は,ほとんど. ただし,そうであるがゆえにこそ,現実的に極. 専ら,九鬼周造の偶然性概念をめぐる哲学的分析. めて大きな問題として,改めて指摘しなければな. に基づいていることを付言しておきたい。あえて. らないのは,前稿(古川 2017b)において明らか. それ自体については,煩瑣を避けるため,本稿で. にしたように, 現行のPDCAサイクルにおいては,. は言及を避けたが,具体的に言えば,特に九鬼の. 実のところ, 「目標」の自主的・主体的な修正・. 「目的的偶然」についての極めて詳細な論理的分. 変更が一切許されない,という問題である。これ. 析が,本稿の基礎となっている。例えば,偶然が. は明らかに欺瞞である。前稿で述べたように,も ・・ ・・ しPDCAサイクルが,本当に「目標・計画を立て. 単に消極的な「失敗」としての意味よりほかもた. (Plan) , 実 行 し(Do) , 結 果 を 点 検・ 評 価 し. り,それがむしろ何らかの意味で積極的な意味を. (Check) ,改善・見直しを行う(Action)」(大. もつのは,九鬼の言う「目的的積極的偶然」であ. 学基準協会 2009,3頁,傍点引用者)というサ. る。そして,その際,当初の目的ではなかったも. イクルであるのであれば,実行と点検・評価に基. のの,新たに目的として立てられ得るものとして. づいて,目標そのものをこそ,適切に修正するの. 発見されるものは,彼一流の概念で,「目的なき. が,本来のあり方である。つまり,本稿でその意. 目的」と呼ばれる。そのうえで,彼の偶然論は,. 義を明らかにしたような,目標そのものの修正・. この「目的なき目的」を媒介として,「偶然を必. 変更あるいは新設に向かうサイクルこそが,本来. 然化」する実践の論理をも指し示している。それ. のPDCAサイクルなのである。. はまさに,必然性からこぼれ落ちた偶然性を捉. しかしながら,実のところ,現行のPDCAサイ. え,それを契機として新たな必然性を創造すべく. クルのPには, 「目標」が含まれていない。この. 行為し,さらにそこからこぼれ落ちた偶然性を捉. 点が明らかな欺瞞なのである。「目標」は,文部. え……というサイクル状の実践である。それを研. 科学省からトップダウンで与えられるものであ. 究という具体的活動の場面に落として考察したの. り, 大学・学校は,その目標を達成するための「計. が本稿である。その背景にある論理構造そのもの. 画」だけを立て,それを不断に改善し続けること. についての詳細は,古川(2015)の特に第3章か. を義務付けられているのである。このように,明. ら第5章で明らかにしているため,それを併せて. ないのは,九鬼の言う「目的的消極的偶然」であ. 85.
(15) 古 川 雄 嗣. 参照してほしい。(完). 村上陽一郎(2010) 『人間にとって科学とは何か』 新潮社。 ロバーツ,R・M(1993) 『セレンディピティ――思いが けない発見・発明のドラマ』安藤喬志訳,化学同人(原. 付 記. 著,1989年) 。 ローレンツ,K(1983)『自然界と人間の運命I 進化論と. 1 本稿は,2017年12月8日に開催された,甲南大学教. 行動学をめぐって』谷口茂訳, 思索社(原著,1978年)。. 員組合(主催) ・甲南学園職員労働組合(後援)シンポ ジウム「文部科学省の大学改革の方針について」にお ける口頭発表をもとにしたものです。貴重な発表の機 会と議論の場を提供してくださった,川口茂雄氏をは じめとする組合の皆様に感謝致します。 2 本稿は,JSPS科研費17K13972の助成を受けたもので す。. 参考文献 北山禎介(2014)「 『まったなし』の大学改革――PDCA サイクルを回すために」 『文部科学教育通信』第331号, ジアース教育新社。 澤泉重一(2002) 『偶然からモノを見つけだす能力――「セ レンディピティ」の活かし方』角川書店。 神藤貴昭(2011)「FDの臨床論――FD担当者の臨床的感 覚に注目して」『京都大学高等教育研究』第17号,京都 大学高等教育研究開発推進センター。 大学基準協会(2009)『新大学評価システム ガイドブッ ク ―平成23年度以降の大学評価システムの概要』 http://www.juaa.or.jp/images/accreditation/pdf/ explanation/university/2009_10/documents_01.pdf (2019年2月6日閲覧)。 土屋守章(1989)「経営理論の課題と展望」,土屋守章・ 二村敏子編『現代経営学説の系譜――変転する理論の 科学性と実践性』有斐閣。 デミング,W・E(1996)『デミング博士の新経営システ ム論』NTTデータ通信品質管理研究会訳,NTT出版 (原著,1994年)。 畑村洋太郎(2005)『失敗学のすすめ』講談社(初版, 2000年)。 夫馬進(2003) 「資料収集の醍醐味」,京都大学文学部編 『知のたのしみ 学のよろこび』岩波書店。 古川雄嗣(2015)『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』ナ カニシヤ出版。 古川雄嗣(2017a)「『大学改革』におけるPDCAサイクル の批判的考察⑴――導入過程の整理・検討」『北海道教 育大学紀要(教育科学編)』第67巻第2号。 古川雄嗣(2017b)「 『大学改革』におけるPDCAサイクル の批判的考察⑵(続)――三つの批判類型とその本質」 『北海道教育大学紀要(教育科学編)』第68巻第1号。 古川雄嗣(2018) 「PDCAサイクルと偶然性の問題」 『IDE 現代の高等教育』第603号。. 86. . (旭川校准教授).
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