明治期の農民家庭における子弟教育 : 「よき家人」の形成を中心として
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(2) . 第 21 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和45年7月. 明治期の農民家庭における子弟教育 F一 「よき家人」 の形成を中心として --. 小. 林. 輝. 行. 北海道教育大学函館分校教育学研究室. l dren ・n ion of Chi Teruyuki KOBAYAS日工: The Educa t ’ l E d h i i ra the Farmers House o s in the Me j. 次. 目. はじめに 一, 上層農家における子弟教育 1 ( ) 「よき家人」 教育の理念 傷) 上層農家の子弟教育 二, 中下層農家における子弟教育 1 ( ) 中下層農家の生活と 「よ き家人」 像. 磨 ) 中下層農家の子弟教育 三, 農家における子弟の進路 1 ( ) 上層農家の子弟の進路 裟) 中下層農家の子弟の進路 結 語. は じめ に. 本稿は, 明治期の農民家庭における子弟教育を 「ょき家人」 の形成という観点 から把え, その 実態を主とし て自叙伝資料によっ て明らかにせんとしたもので ある, これまで, 農村社会学をはじめ, 法社会学, 政治学などの関連諸科 学の領域におい て, 日本の 近代化の過程において農村家族の果した役割に注目した多くの労作が生み出されているが, しか し, こうした問題に対する教育の領域からの研究はほとんどなく, 依然とし て未開拓の分野とし て残されているのが現状 であ る, このことは, 主としてこれまでの教育史研究における学校教育 史研究への偏重, さらには農家, とりわけ中下層農家の家庭における子弟教育の不在という通俗 的観念に基因していたものと考えられるが, 同時にまた, こうした問題に対する研究方法の困難 さという点も看過し えない。 しかしながら, わが国の近代化と教育とのかかわりを究明せんとす るわれわれにとっ ては, こうした問題を素通りし てその課題を明らかにすることは不可能だとい っ てよく, いずれは着手されね ばならぬ重要な問題なのである, 本稿は, かかる問題へ接近する 一つの試みであり, 今後の研究の展望的素描にすぎないが, 明治期の農家において 「ょ き家人」 という理想的人間像をめざして, いかなる教育が実際になされたかを階層別に考察したものであ る,. なお, 本稿では論文として冗漫になるにもかかわ らず, 多くの自叙伝資料を生の形で掲げたが それは当時の実態をより具体的に語るためばかりではなく, むしろ伝記資料の使用に関する批判 - 29 -.
(3) . vo l ,21 NO .・. ion I C) d。 Un iver i lof Hok 1 i Journa t ty of Bducat on (Sec s く ai. l Ju y ,1970. 検討の資となりうればと考えたからにほかならない, 一, 上層農家における 子弟教育 「よき家人」 教育の理念 地主, 富農などの上 層農家にあっ ては,「家」 の永続, 発展という 「家」 制度の原理の一つとし ての 「家」 継続の理念が強く支配し, 家長以下す べての家成員が, その役割身分に応じて 「家」 1 ) (. の存続繁栄のために尽力することが要請されていた, 従っ て, そこではかかる 「家」 の目標価値 を体得し, 家門の名誉, 家産の維持, 発展をはかることが 「ょき家人」 であっ たといわなければ ならない, 豪農などの家庭にみられる家訓, 家憲といわれる 「家」 の自立規範は, こうした 「よ き家人」 育成の確固たるより所として重要な機能を果していたものと推察されるが, そこには家 成員の身分的規制や行動規制に関する規定をはじ め,. 「家」 継続の理念から生み 出された様々な. 規定が示されている. 明治19年 頃制定されたといわれる長野県小県郡東塩田村の曲尾家の 家憲に 「一, 家長は毎年一月前年度の歳出入決算と経済の模様を家族に示し併せて本年度の収支予算表を製し経済の 方針を知らしむ可し 一, 家長は家族の勤惰を査察し賞罰する事あるべし -, 家長は家族を統轄する為第三章の賞罰例を設く ) 一, 家長は家族の年令により金銭物品を奥ふ」 ー. と規定され, 家権力発現の中心的存在とし て家成員を統率し, 「家」 の秩序を保持し, その生活 規範の維持に努める家長のある べき姿が示されているが, かかる家長の権力は, 中野卓が指摘し おおやけ. ているように, 「家」 永続という家長個人を越えた 「家」 の 「公」 の立場から, その役割地位に ) 従っ てそこ では家長は, 家産の維持とその発展が強く要求され 2 よっ て行使されたにすぎない. ると同時に, 「家」 の永続発展に不可欠な子弟の教育という重要な仕事が課せられていた のであ る, 先ず家庭にあっ ては, 家成員のす べてに要求する生活行動規範として, 神仏および祖先崇敬 の念, 質素倹約, 長幼の序, 家長への服従などが指摘される, 例えば, 東北の豪農, 本間家の家 憲には, 「一, 神を敬ひ仏を崇ぶは誠意誠心を喚起する所以なり一日も信仰の念を忽せにすべからず 一, 勤倹の二字は祖先以来の厳訓たり宜く服暦して其功徳を発揮せよ -, 祖先を尊ぶは我国風の美なる所以なり一家に方 やるも亦然り故に一家の大事は必ず先 づ祖先に奉告し而して 後決行せよ 3 ) -, 家庭の清粛は長幼の序を厳にするにあり決して繁るることある べからず」. と掲げられており, また, 曲尾家の家憲にも, 「一, 家族は家長の命令に従ふの義務を有す 4 ) 一, 約束は家長の承諾を得て而して後にすべし」 と示 さ れ て い る.. こうした家庭 における教育と同時に, そこでは時勢に対応し且つ家名家産の保持昂揚を目的と して学校教育に対しても極めて積極的な姿勢が示されている, 新潟県の市島家の家憲には, ) 5 「一, 同族一門新進の学を修め時勢に遅れざることを期せよ」. とあり, また, 農業のほか製茶, 醤油事業など多角経営をし ていた埼玉県の繁田家の家庭訓 にも 「一, 男女子弟学校教育事業に対する用途には財を客む勿れ 一, 学校教育は子弟男女第一の務とす小学校より中学校を卒へ各学校へ入学するを最善時とす後年有力の学士 -3 0-.
(4) . 第 21 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第 部C). 昭和45年7月. を出すも幼時より家庭教育学校教育の原理周密なるより俊才を輩出するものなり父兄たるもの怠らず注目すべ ) 6 きなり」. と掲げられ, こうした上層家庭における学校教育に対する積極的態度が直裁に示されている, このように豪農な どの家庭にあっ ては 「家」 継続の理念から厳格な 「家」 の規範によっ て 「ょ き家人」 の教育が意図されていたことが窺えるが, こうした教育 がと りわけ後嗣に対し強く求め 家 憲 な どに は, 「世態人情を究め必身を修養するは一家を治むるに於て必要なる事に属す, 宗家の嗣子たる者必ず全国を漫遊. られ て い た の で あ り, ) 7 す べし」. といっ た ごとく, 後嗣の教育に対し特別な規定を設けているも のも少くない, このよ うに上層農家における教育は, す べて 「家」 継続 の理念によっ て統一され, そこ では家 成員間の身分秩序をはじめ, 礼儀作法, 金銭 の使い方, 使用人に対する度態, 家の祭妃, 近隣や 同族との交際, 家の年中行事な ど, いわゆる家風とよばれる伝統的 「家」 の生活様式を体得させ ることによっ て, その子弟を 「よき家人」 に育成せんとする教育意識が窺われると同時に, 他 方, 急速な資本主義経済の 浸透に伴う生産様式の機械化, 社 会の官僚制化といっ た 「家」 をとり まく激動する社 会環境に対処するために, 極めて積極的にそ の子弟を学校教育機関に送り込まん とし て い た こ と が 知 ら れ る の で あ る,. 2 ) 上層農家の子弟教育 ( 上層農家におけるこうした 「ょき家人」 教育の理念は, 現実においていかなる形をとっ ていた のであろうか. ここでは地主層を中心とした地方上層農家に生まれた人々の自叙伝を通して, そ の実態がいかなるものであっ たかをみることとする. 明治20年, 岡山県の藤戸町で代々庄 屋をし ていた旧家星島家に生まれた星島二郎は, 「私の家は十三人くらいの大家族だった, ……家風はひどく旧式で, 食事のときは祖父と祖母は桑の木でつく った脚つきの四角い, 大きなお膳で食べる, 父母から序列にしたがって, だんだんお膳は小さくなる. 当然ご 8 ) ちそうもそれに比例した, 普通のときでそうだからお正月などはたいへんな差ができた. 」. と, その幼少期の家庭生活の一端を伝えている が, こうした回想に象徴的に示されているよ うに そこでは 「家」 の伝統的な生活秩序が厳然と存し, それによっ て家成員 の生活・行動は厳しく規 制されていたのである, こうした上層農家における子弟教育を先ずその方法上からみると, 中下 層農家の場合と著し く異なる方法をとっていたことが 知られる, それは子弟を近隣 の一般家庭の 子弟から隔離して行うという隔離主義的教育方法がとられたことである, かかる教育方法が上層 農家においてとられた理由は, 第一に, 上層農家における家格観念に根ざした身分階層的優越意 識の存在であり, 第二には, そこにおける 「家」 の永続・維持に不可欠な 「家」 的生活秩序の弛 緩という危機意識の存在であっ たと考えられる. 当時, こうした上層家庭は 「村では名主として ) ていた のであり, 家族の呼称にしても, 中流自 9 立てられ, 村人からは オ ヤ さ ま と呼ばれ」 作 農 で は ト ト, カ カと い い,. 下 層 小 作 農 で は ツ ァ マ, チ ャ チ ャ と 呼 ぶ の に 対し, こ れ ら上 層 農 家. ではオトト, オカカと呼ぶといっ たように, 地域によりその呼称は相違してはいたが, 中下層農 ) 従っ て, そこでは中下層農 l o 家と明確に異なる言語をもっ ている所が少くなかっ たといわれる. 家の子弟と交わらせることは彼等の身分意識が許さなかっ たばかり でなく, 同時に 「家」 の生活 秩序が乱される危険性が多分に存したからである, 明治3年, 大阪府の門真村の地主の家に生まれた幣原坦は, 「その頃私の村にはまだ小学校が設けられておらず, 近所は農家の子供ばかりで行儀もわろく, 言葉づかひも ) 下卑てゐたので, 私の家ではこれらと遊ぶことを嫌って多くは門内にとどめられていた.」 1 1. - 31 -.
(5) . vol ,21 NQ I. l 。f Ho i l d id。 Uni i ion (Sect Journa ty of Educat 【a ver s on IC). l Ju y ,1970. . 明治1 と,.こうした隔離主義的教育が行なわれたことを語っている, また, 3年に岡山県の旧郷宿 と御城米 の蔵元をかねていた旧家に生まれた山川均も, 「独りで出歩けるようになってからも, 悪いことを見まねするといふ心配から, なるべく家庭の中で遊ぶよう に仕向けられた. 姉たちにしても, 風儀が悪くなるというので, 遊び友達の範囲は, なかなかやかましかっ 2) た.」1. と, そ の幼少期 の家庭生活を回想し ている, ところで, 外に対するこうし た態度は, 内に対し ては, 当然, 家成員間の明確な身分的区別の 強調という形をとっ てあらわれる. 殊に, 家督相続者たる長男と他の子弟と の区別は著し く, 後 嗣たろ長男は, 生活のあらゆる面において優遇され, その特権的地位を与え られていた. 明治29 年, 兵庫県の半田村の地主, 永富家の四男に生まれた鹿島守之助は, 「私の母は, 嫁いで来た永富家を愛し尊敬し, その行動のすべては長男を中心として家を維持することであっ た. ……兄だけが特別扱いで私たち弟はその補充と して育てて行くに過ぎなかった. おさかなでも兄は食べほ うだいで, 私が兄のように食べようとするといつも止められた. お前は分家になる身分だからあまりぜいたく ) i 3 の癖をつけてはならないというのである.」. と, こうし た 「家」 継承の理念に支えられた長男と次三男との日常生活における明確な区別 が存 し たことを語っ ている, また, 明治31年, 神奈川県の豊川村の地主, 河野家の長男に生まれた河 野一郎も, 「河野家では, 家長の資格をもつ長男の権威は絶大なもので, そもそも彼らと私と ではその扱いがちがってい た. また, ちがうように育てられてきた,」 「当時, 親戚のものでも, たとえていえば, 母は叔父, 叔母にす ら, 私を呼ぶ場合, 『一郎さん』 とさん付けで呼ばせ, 決して 『一郎』 といわせなかった. 一方, 弟はいつ 4 ) 1 も 『謙三』 と呼びすてにされていた, このくらい, 長男の私はたてられて育ったのである.」. とそうした長男中心の幼少期の家庭生活を伝えている。 次に, こうした上層農家における特質とともに, その内容面をみると, そこにおける教育が極 めて士族の家庭における教育と類似し ていたことが窺われる。 先ず, そこでは先祖の功労の物語 や, 家系に関する話● を通じての祖先崇敬, 家名尊重といっ た 「家」 意識酒養の教育が行 っれ て い た, 明治7年, 岐阜県のかっ て庄屋をし ていた家に生まれた松尾国松は, 「祖母が語ってくれた昔語をボクもま今でも忘れない, 五代前の助右術門が, 水害と干害のために困窮して年貢 を納めることのできない部落の人々を救うため, 代官の陣屋へ陳情し, さらに江戸の将軍に直訴しようとして 捕え られ, 牢獄の中で殺されたという話は, とくに強くボクの小さい魂に刻みつけられた. また祖父の時代 には貢税の取立てがきびしいので, 田畑一反歩に酒一升を添えて無償で頼み奉って譲 ったこと が あ っ たと い う. このような祖先の辛苦を忘れず, 学問にはげみ……立派な人間にならねばならんと祖母はボクを 訓 育 し 15 ) た,一. 7年, 青森県の豊田村の地主の家に生まれた柳田泉も, と語っ ているし, また, 明治2 「私共の母の家は……伊香氏といって弘前の大きな町人であった, この伊香家が宇田源氏で (近江源氏ともい う) 佐々木の血統をひいておるということは, 私共の母や母の父などが, 時代相当, 内心で誇りとしていたと 1 6 ) ころであったらしく, 私どもが子供のと きからたびたび聞かされたものであった.」 と 回 想し て い る,. こうした 「家」 意識面養の教育とともに, そこでは家成員相互における上下, 尊卑といっ た五 倫五常的倫理が重視され, 礼儀作法などに関する膜が厳し く行われていた, 明治5年, 長野県の 旧本陣, 庄屋をしていた家に生まれた島崎春樹は, その幼少時の生活を, 「父が私たちに話して聞かせることは人倫五常の道でした. 私は子供心にも父を敬ひ, 畏れました, しかし父 ) 1 7 りに居ることは窮屈でたまりませんでした.」 の憤. - 32 -.
(6) . (第一部C) , 北海道教育大学紀要. 第 21 巻 第 1 号. 昭和45年7月. と伝えているし, 明治2 7年, 北海道の地主の家に生まれた佐藤藤佐も, 「父は地主で若い頃から村長など村の世話役もつとめ村民にしたわれるやさしい人だったが, 子供の行儀に対 してはひじ ょうに厳格で, 冬の北海道の寒風のなかで, 遊んですっかり冷えて帰った私などに対しても, いき 1 8 ) なりイロリの火に手をかざすことを許さず, まずきちんとすわって挨拶をさせるのが常だった,」. と, そうした幼時の厳格な父の膜を語っている, また, 明治7年, 新潟県の諏訪村で代々庄屋をし ていた家に生まれた芳沢謙吉も, 「私の父は, 私に対してきわめて厳格であった. たとえば, 私は七歳のとき, 暗夜に広い屋敷の回りをめぐら 1 ) 9 されたり, 一里ばかり離れた母の実家のもとに, 菓子箱を背負って一人で使いにやらされたりした,」. と幼少時の親の訓育が同じく厳し かっ たことを伝えている, こうした厳格な礼儀作法などの膜や訓育がなされる一方, そこでは通常子弟に対し 幼少時から Lられて いた 島崎春樹は 漢学の基礎的教養が授け , , 「私は父の書いた千文字や三字紙を習ひ, 村の学校に通ふやぅに成ってからは, 孝経や論語の素読を父から受 0 2 ) けました. あの後藤点の栗色の表紙 の本を抱いて, おずおず父の前に出たものです,」. と述 べているし, 芳沢謙吉も, 「私は数え年六歳の十二月に村の小学校に入った. 父から学校の放課後, 四書など漢学の素読をやらされた. これには私も実に閉口したがなにしろ父の命令なので, やむをえず 『身体髪膚これを父母に受く, あえて殺傷 1 ) 2 せざるはこれ孝の始めなり』 と意味のわからないに かかわらず音読した.」. とその幼少時に父から受けた漢学の教育を語っ ている, ) 2 このように上層家庭における教育内容は. 士族の家庭におけるそれと極めて類似し ているが.2 こうした教育内容の特 質とともに看過しえないのは, これ ら上層農家の子弟と中下層農家の子弟 との生活構造の相違である. 柳田泉の, 「私の家は, ともかく百姓で, 忙しい時は女連中も畑位には出たが, 平生子どもまでが田畑の仕事をするとい うことはなかった, 父の晩年あたりから, 家が衰えたとはいうが, 然し百姓の仕事の規模は別に変わったこと 2 3 ) はなく, 子供等は皆好む方に従って, 遊んでいられた.」. といっ た回想に示されているように, そこでは, 子弟が直接労働生活に参加する必要がな かっ た ばかりか, そこから意識的に遠ざけられており, 彼等の多くは邸内で自由に遊び, 「少年世界」 , お伽話, 講談本といっ た文字文化の世界です ごしていた, 例えば, 「そのころの田舎のことだし, 子どもの読むものといっても大したものはなく, まず 『少年世界』 の極々古い もの (兄達の中誰か読んだものであろう) ,それから巌谷連山人のお伽話 (日本の部と世界の部とあったが, ど 『 た 五色の石 』 というものが大に面白かった記憶がある) ,それから大和田 っちも何冊かずつはあっ , この中で 建樹の 『日本歴史調』 で, その中の 『菅公』 だの 『九郎判官』 , 『関ヶ原』 などというものをもっていたが, こ れも自分で買ったものではなく, 誰かに貰ったか, 兄の物を譲られたのであったろう. そのほかは, 母や姉達 4 ) 2 の読む講談や新版の小説などものぞいたがこの方はよくわからない.」 とい っ た柳 田 の回 想 か ら も,. こ の こ と は 窺 え る で あ ろ う,. 以上, 上層農家における子弟教育の実態を自叙伝を通して具体的にみてきたが, そこでは 「父 は実母に早く死別し た四人の男の子を憐れんで, わたくし たちを甘やかし放題に育てた. この親 5 2 ) といっ た放任的子弟教育の事例も少くは 馬鹿ぶりは, 村人の目に余るものがあっ た様である. 」 なかっ たと思われるが, しかし, 自叙伝にみるかぎり, 総 じて家憲などに示されたような 「ょき 家人」 教育の理念に極めて近い教育がなされていたとい ってよいであろう.. 二, 中下層農家における子弟教育 1 { ) 中下層農家の生活と 「よき家人」 像. 一 33 -.
(7) . vol .・ ,21 No. ion (sec i ido Uni i t l。f Hokka t journa on IC) s ver y 。f Educat. l Ju y ,1970. 中下層農家におけ る 「ょき家人」 の教育は, 扶養共同体の維持, 家計の維持という 点から生起 し たものとみることができる, 農村の相続調査報告によれば, 観念的な 「家」 の意識は, ある程 度 (約一町歩) 以上の家産を所有している農家に限られ, それ以下では家計を維持し, 扶養共同 ) たし かにそこ 6 体を支えていくといっ た 経済的な意識が存在するにす ぎないといわれているが.2 には 「家」 の永続発展を希求する中上 層農家と, 扶養共同体および家計の維持という両側面の統 一体として把 握される中下層農家とが存在し, 各階層にふさわしいそれぞれ固有の家規範をも っ てい たことが知られる. それは相続形態におけるいわゆる 「地主的家」 と 「農民的家」 という形 1 )上層 (豪農 でとらえられたものに対応するものであるが, 前者の範噂に属するものとしては,( 2 1中層 (没落した旧家・富裕な中農) があり, 後者には, 中下層 (自作農・ ・中小地主・旧家)( 目小作農・小作農) がある, 従って, 同 じ中層農家といえども, 出目や系譜に誇りをもつ没落し た旧家と一般農家とでは, かなりその内容を異にしていたといわなけれ ばならない. かっては庄屋などをした没落旧家にあっては, 例えば, 明治25年に広島県向島東村の中農の家 に生まれた小田原大造の, 「『ご先祖さまはみんな偉かったんやで, お前も負けんようりっぱにならにゃ』 と, ことあるごとに母は, 物心 ) 2 7 もつかない私のしりをたたいたものだ」. とい った回想にみられる ごとく, 先祖の業績を子弟に語り伝え, 先祖 の偉大さに依拠した子弟の 立身出世教育が図られるとともに, 「家」 の発展が期待されていたのである, そこには, 士族の 家庭にみ られる ごとき戯烈さはなかっ たが, 中小地主の家に勝るとも劣らぬ開拓的性格をもっ た ) これら没落農家を中心とする中流上層 8 「家」 意識の存在していたことが推察されるのであり.2 の農家における教育は, 上層農家における教育と同一の範時に属するものとして把握されるので ある. ただ, ,これ らの農家にあっては, 上層農家と異り, 経済的基盤 が脆弱であっ たために, 子 弟は幼少時から生産労働に従事した場合が多く, そうし た生産労働を通じての生活教育がなされ たという点では, 中下層農家の場合と共通し た一面をも有していたのである. 一方, ここで取りあげる多くの中下層農家にあっては, 家計を支え扶養共同体を維持するとい うことが生活の中心課題であり, そこでは, 「明治三十五年四月, 私は尋常料一年に入学した, 生家は貧しい農家であったか ら, 学校から帰ると, すぐ草 刈にでかけなけれを ならなかった, 三年生の頃から, そのように働くようになった. 刈った草は田に運び, そ のまま踏みこんで施肥とする, 秋になると, 冬仕度のために山へ薪をとりに行く, いたずらざかりの小学 生な のに, 遊ぶひまなどまったくなかった. 六年生のころになると, 夜くらい土間で縄をなったり, また炉辺に坐 っておそくまでワラジをつくったりした. 幼かろうとも, 労働力として役立てなければ生計が維持できないの 9 ) で ある.」2. とい っ た 回 想 に み る ご と く,. そ の 生 産 生の低さから子どもといえども幼少時 から直接生産労働に. 従事させられていたのであり, かかる家成 員全体の農業生産への参加によっ て, はじめてその生 活の維持が可能であっ た. 作 他方, かかる労働力を必要としない零細な下層農家にあっ ては, 「小作人全体及び小さき目′ 3 0 ) といわれたように, 年季的・季 人の若い者にし て, 作男となりて外に出でざるは殆んどなし」 節的労働者として他の農家に雇われたり, 賃労働者として商工業に従事し たりして, 家計の補助 1 ) 3 を行い生活を維持し ていたのである. こうし た中下層農家における生活がい かに貧しいもので あっ たかは, 次のような食生活に関す る古老の回想からも窺えるであろう. 明治33年, 新潟県三条市の農家に 生まれた坂井叉七は, 「実は農家であったが, 客があるとか, 盆, 正月, とくに改まった日 (もん日という) でもないと白米のメ シ 4- ー3.
(8) . 第 21 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和45年7月. は食べなかった. 大ていカテゴメであった, カテ ゴメというのは大根, 人参, 馬鈴薯などを細かく切り, コメ とまぜてたいた御飯のこと である. そして, これは, 周囲の家がみなそうであった. 十三才の春から二年間, 他家に農業手伝に行ったが, そこでは, 実家よりよいものを食べていたが, 毎日の食事はやはりカテ ゴメであ 3 2 ) っ た,一. とその在りし 日の生活を語っ ているし, また, 明治2 6年に群馬県に 生まれた山崎種二も, 「田舎では, 私が東京に奉公に .出て, さぞ苦労していることと思っていたらしいが, 実は全く反対であった, 田舎では盆, 正月, 秋祭りのときでなければ, 米のメシも魚も食べられない. ……ところが店へきた翌日か ら, 朝はみそ汁にち ょっと したおそうざいで, 米のメシが腹いっぱい食べられる, 昼は煮魚が一切れつく. 夜 はそうざいと煮魚を出してくれる. ほかの小僧は, なんとかかんとかいっていたが, 私にとっては, 盆と正月 ) が一度にきたような御馳走であった,」 3 3. と同様にそうした貧し い農家の生活を回想している. こうした中下層農家にあっ ては, 先ず第一に, よく働くということが人間評価の際の絶対の価 値基準であり, よく働きよく家計の助けとなることが, そこではとりもなおさず 「ょき家人」 に ほかならなかっ た, かか る労働即最善といった価値規範は, 当然上層農家にみられたような長男 と次三男子女との間の不当に拡大された身分差を否定し, 次三男といえどもよく働く場合には家 成員の中において重要な働き手として 高く評価されるといっ た一種の能力主義がそこには支配し 5年, 兵庫県の一寒村で兼業農家の三男として生まれた井上貞治郎は, て いた. 明治1 「戸主の位置におかれた長兄は村役場につとめていたが, これを田舎における至上最高の仕事のように考えて たから, 万事鷹揚で, 自然鋤鍬の百姓仕事をいとうて, 家業的には勢力は全くなかった. ……次兄は私より三 つ年上で家一番の働き者であった. 両親もこの次兄には一目をおいていたから, 自然に家長の権限は次兄の掌 中ににぎられていた, だから母は私に, いつもこういいたした. 『家でじ っと本なんか読ん でいる暇があんの ノ』 ……百姓の家庭にあっては, 労働即最善が風習 やったら, 次兄に見習うて, 草のいっぱいでも刈っといで, である. 読書や習字が好きで無口な私は, いつもこと ごとに父母や兄弟たちから頭をおさえ られ,nヒ言をきく 4 ) 3 いっぽうだった,」. と幼少期の生活を語っ ているが, ここにはそうした労働即最善といっ た価値規範にもとづく能力 主義的志向が端的 に示されているとともに, 中下層農家における 「よき家人」 像がい かなるもの であっ たかが看取される, ところで, こうした中下層農家にあっ ても, 「次男の冷飯喰い」 という言葉や 「売物・あとと り・用心棒」 という言い方に示されるように, 長男 と他の子弟との間の生活上の差異が みられな かっ たわけではない, 明治4年に徳島県の立江村の農 家の次男に生まれた喜田貞吉は, その自叙 伝の中で, 「嫁入向の訓練を受けた姉と, 養子を予定の自分とは, 殆ど日雇人と同様の待遇を受けて, 所謂 『次男の冷飯 3 5 ) 喰ひ』 をつくづく体験したものだった,」. と述べており, そこには長子以外の子弟の生活が 長男のそれと著しく異って いたことが窺える, こうした子弟間における生活上の差異については, 「家」 の至上命令が, それを継承する長男を 3 6 ) しかし, かかる見解 次三男より重くみ, 長男を高い位置においたという見解が出されている, はこうした農家に それほど強い 「家」 の至上命令が存したか否かという点で多分に疑問があり, むしろこうした生活上の差異を生み 出したのは 親の次三男子女の将来に対する配慮と自己の属す る共同体内に おいて親が笑われないための対社 会的意識とであっ たとみるべきであろう, 先の喜 田貞吉は, 別の個所で, 「田舎の小農の末子として生まれた……自分は……いずれは同じ農家へ養子に行くべき者として,. どんなつら. - 35 -.
(9) . vo l ,. ,21 No. i ion (Sec i i do Uni t t t lof Hokka on 1c) ver Journa s y of Educa. ヱul y ,19ぬ. い辛抱にでも堪 へ得ることを目標として教育された. 所謂次男の冷飯喰ひとして, 粗衣粗食をご甘んずべく習慣 3 ) 7 づけられた. 学校から帰れば日課として必ず年相応の労働を課せられた.」(傍点, 省略は筆者). とも述 べているが, 彼の場合, 粗衣粗食の習慣も厳しい労働生活も, すべて 「農家へ養子に行く 他家へ嫁 す べき者としての準備教育にほ か べき者」 としての準備教育で あり, 彼の姉の場合も,. 3 ) 8 こうした準備教育がなされない場合, 子弟は養子先, 婚嫁先の生活に な らなかっ たのである, ト 十分適応できず, 離縁という結果をもた らし かねなかっ たのであり, それは親にとっ て極めてタ 間の悪いことであり, 世間体の悪いことであっ た, このように中下層農家における長男と他の子 弟との生活上の差 異は, 上層農家の場合と本質的に異っ ていたといわ なければならない. 次に, こうした 「よく働く」 ということとな らんで, 「よき家人」 像の主要な内容を構成して いるものとして, 共同体的秩序の体得ということが指摘される, そ れは自 己が属する村落共同体 内部において妥当視され, 規範化された生活, 行動様式のよき理解者, 実践者として, その子弟 3 9 ) こうした共同体的秩序の体得 が 「人並み」 の行動, 生活のし うる人間になることを意味する, が, 中下層農家にあっ て殊更に重視されたのは, 農家が村落共同体を離れて農業の再生産体と し て独立した存在で ありえなかっ たことに主として起因している, そこにおける山と水との共同利 用を前提とした水田耕作や労働力の相互提供によって成り立つ農業経営は, 必然的に個々の農家 の村落共同体へ の従属を促し, 共同体から独立した存在 となることを不可能とする. 農家のこう した農業生産の場における共同体への従属は, 当然, 共同体内部のお きてやしきたりの 遵守とい う家成員に対する要請となっ て現われる, そこでは家成員個々人の行動の評価が, 彼の親, 彼の 4 0 ) 従っ て, 中・下層農家における 「よ 属する家に対する評価という形で行なわれた からである. き家人」 とは, こうし た共 同体的秩序を体得し, 親の体面, 家の体面を損わない ということが, 「よく働く」 ということとな らんで須要な条件であっ たといわねばならない. 団 「よき家人」 の教育 中下層農家における教育の特色は, 子弟の直接生産労働への参加 を通じての生活教育にあっ た とい えよう. そこでは, 共同体的秩 序を身につけ, 労働即最善という至上 の日標価値を体得した 「よき家人」 育成のための教育 が, 彼等の属する共 同体と極めて密接なかかわりを持ちな がら, かなり積極的に行なわれていたことが知られる. もちろん, かかる中下層農家において 士族や上 層農家にみ られたような自覚的, 意図的教育が どれほど行なわれた かは多分に疑問であるが, し かし, 自伝などにみる かぎり, 中下層農家にあっては, 親子の共同生産労働の過程でたくまざる 教育がなされてい たことが窺われるので あり, その形態上の相違をもっ てかかる教育の存在を無 視 す る こ と は で き な い よ う に 思 わ れ る.. 多く の中下層農家に あっては, 子弟は一家に必要な労働力であっ たために, 幼少時から年相応 の仕事が課せ られていた. 例えを, 山口県の白木村 では, 7 ・8歳になると, 田植の苗運び, 田 の草取り, 稲運び, 稲扱きの藁運び, 麦蒔きの畝起 しの時の株切り, ク レ打ち, 薪取りなどの仕 0歳 頃になると, 米渇き, 麦渇き, 草履つく り, 草刈 りなどがその仕事とな 事が課せられ, 9・1 り, さ ら に15・ 6 歳 に な る と,. 一ノ\前とし て 下 肥 桶 か つ ぎ を は じ め, 畝 立 て, 溝 あ げ, 畦 ぬ り,. 40 こうした子どもの仕事の階梯は, 安易に一般化する 施肥などの仕事が課せられたといわれる. ことは避けねばならないが, しかし, 当時の中下層農家に生まれた人々の自伝には, 共通して, そうした幼少期の生活が記されているのであり, それはかなりの普遍性をもっていたことが窺え る, そこでは, こうした労働生活の中で仕事の態度や方法, 技術が教えられるとともに, 共同体 的秩序や人生智, 生活智といわれるものが授け られたので ある. 先の山口県の白木村に生まれた 6- -3.
(10) . 第 21 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和45年7月. 宮本常一は, 幼少期にうけたこうした教育を次のように語っ ている, 「私の場合には百姓仕事が父によ って教え られた, 山へ行くことや草ひきの技は祖父や母によって次第になら されて来, 根気よくすることが教え込まれたが, 父によっ て, 先ず教えられたことは仕事のショシャであっ た, 所作とでも書くべきであろう, 姿勢とか態度とかいうようなことを意味するのである. ショシャのよくな いことはショウネ (性根) がその仕事に入っていない証拠である. 『ショウネのすわっていない者くらいショ 4 2 ) シャの悪いものはない』 と父はよく言っていた,」. こうした仕事に対する態度とともに, 仕事の方法, 技術に関する教育も労働生活の過程において なされている, 例えば, 株切りやク レ打ちの仕事においては, 「株切にもク レ打ちにも手にマメができてヒリヒリする. 手がいたくて手ばかりながめていると 『鳥のオ ドシ (案山子) ではないぞ』 といってよく父から叱られた, 疲れて仕事がいやになって姿勢が崩れてくると, 腰が 曲りすぎているとか, 柄の持ち方が根元すぎるとかいって叱られる, 物にはかならず持つべき所があり, 腰の 曲げ方にも基準があった. ……鍬についている土を手でと っているのをみつけられるとかな らず 叱 られ た, 『手が荒れるに……分らんのか』 という, …… 『土の性を知らぬようでは百姓が勤まらん』とも 『百姓が土を恐 4 3 ) れんようでは一人前とは言えぬ』 とも言った,」. といっ たごとくに, 柄の持ち方, 鍬の使い方をはじめとした種々の技術が, そこでは教えられて い た の で あ る.. 一方, 母からは仕事の合い間や, 仕事の途上において, 自己の家や村に関する知識を授けられ て い る, 「私など, 逐一といってもいいほどに村の一軒一軒について, その家がどういう家であるかを母から語りきか された, どの家にはどのような祖先がいた, それがどんな人であった, 兄弟が何人あったというようなことか ら, どの家は履き物のある家だといわれるとか, どの家は血が悪いとかいうようなこと, もっと進んではその 家は今衰えているが院居士号の家であるとか, 居士号の家であるとか, その家の格式のようなことまで教えら 4 ) 4 れた,」. こうした村の他家に対する知識と同時に, そ こでは自己の家に対する村人の知識や評価も合わ せ 教 え られ て い る. 「私の家から赤痢が発生して村に迷惑をかけたことなども, この母から教えられた, 祖父の兄にあたる人が放 蕩者で一向におちつかず, 田畑を次々に売った. 最後に祖父の分け前 の畑まで売ろうとしていろいろにいやが らせをしたが, 祖父は少しも怒らず, とうとう畑を売ることができなかった, そのかわりには大きな借金を押 4 5 ) しつけたという, ……その外いろいろとそういうことについて母から言い聞かされた.」. こうした自己の家及び他家に関する知識は, いうまでもなく村落共同体における自己の家の位 置を認識させるために教えられたものといってよく, それは村落内の共同生活において極めて重 要なものであっ た. こうした教育がなされない場合には, 「眼糞が鼻糞を笑う」 とか, 「身のほ ども知らぬ」 とかいった非難にさらされる危険性が, そこには常に存したからであり, 子弟はか かる教育によっ て, 共同体内に存在する身分階層的秩序を理解し, 「人の前で言う べ き言葉, 言 っ てはならぬ言葉」 の判断力が培われたのである。 このように, 中下層農家にあっては, 親子の生産労働への共同参加という形態の中で, 独特な 生活教育がなされていたのである, 次に, かかる農家における教育において看過しえないのは, そこにおける伝統的な運命観, 宿 命観に基 づく教育で ある, 周知のごとく, 徳川封建社会にあっては, 「上 を見な, 下を見よ」 と 4 6 ) 著りを除き倹約を守って居れ 言われ, 「土町人の風俗を止めて, 他念なく農作を大切に勤め」 ば, 必ず 「おあてがい」 が来るのであり, 万一, 「おあてがい」 が来ず不幸から抜け出せない時 は, 運命と甘受して諦念せよと説かれたのであるが, こうした運命観, 宿命観は明治期において - 37 -.
(11) . vo l .・ ,21 No. i d。 Uni i l i i l 。f Hok t t on (sec on IC) Journa ( ▽er s a y of Educat. l Ju y ,1970. も, この層の農家には依然として存在し, 子弟教育にもそれが如実に現われている. 明治初年に 徳島に生まれた害田貞吉は, 「父は人間には, それぞれ 『天 のおあてがひ』 がある, それを知らずしてより以上の事を望んではならぬ. 併 し瀬けて居ては折角興へられた 『おあてがひ』 を取り外ずす, 須らく努力によ って其の 『おあてがひ』 を十分 発揮せねばならぬ, 叉其の 『おあてがひ』 は屡々予告なしにやって来る. 従って何人も常に努力して, 其の 『おあてがひ』 がきた時に, 之を受け得るだけの準備をして居らねを ならぬ, それでうまく行かねばそれは 『おあてがひ』 のないものと諦める. 『上見れば, 有る甲斐もなき身なれども, 我を羨む亦人もあり』 須らく自 7 ) 4 己の境遇に満足し, 感謝を忘れてはならぬといふのであった.」. 5年, 山口県の玖珂村に生まれた末川博も, と述 べており, 明治2 「父は, 天命を信じるいわば宿命論者で, 人間それぞれの寿命にしても生きる道にしても, 生まれた瞬間に決 定されているのだから, 持って生まれたものはどうすることもできるものではないという考えに徴していたと 4 ) 8 ころがある,」. と述 べ, こうした運命観に基づく教育を語っ ている. かかる教育が人生智として一面の真理をそ こに包摂していることは事実であるが, しかし, 他面, 自らの不幸や貧困な生活を運命, 宿命と 観念することによっ て, それが生み出された根源に対する問い かけを喪失させ, 本来そこに内在 した批判的ェネルギーを社 会変革のエネルギーに転化することを阻止したことも確かである, 3年, こうした教育が, 祖先, 神仏の崇拝や勤倹節約 の倫 理 を伴っ たことは当然である. 明治2 京都府 の吉祥院村の自作農の家に生まれた石原広一郎は, 「父の日常 生活をみているとむだがなく, 信仰心が強くて朝夕必ず神仏を礼拝していた. 一粒のもみを土に落 /』 と どなられたものだ, 『ぼる切れや古くぎ一本といえ ども捨てずに としても 『もったいない. 罰あたりめ. 4 9 ) 」 しまっておけ, 何かの役に立つ. 食膳に出たものは, はしをつけたら全部食べろ, ……』. ー ー博も, と語り, 末ノ 「勤倹貯蓄. 朝ははやくから晩はおそくまで働きぬいて, どんな物でも大切にして無駄にせぬように, そして 5 ) 0 少しでもたくわえをふやす. こういうことが……家の生活態度における基本原則であった.」. と幼少期の家庭生活を述 べている, こうした祖先, 神仏崇拝, 勤倹節約の倫理の教育は, 一面で は上からの国民統治策の一環 として打ち出された当時の農村指導の理念に支えられ, またその伝 統的生活習慣ない しは生活自体からの必然的要請として行われたことは認 めるにしても, 他面, それらが, 農家における伝統的な運命論的人間観に基づく教育に支えられ, 存続しつづけたこと も看過しえない. 三, 農家における子弟の進路 1 ( ) 上層農家の子弟の進路 上層農家における学校教育観をみると, そこには二つの顕著な学校教育観の並存していたこと が知られる. 一つは家名や家産の維持を目的とした 「家」 の守成的立場から把えられた学校教育 観であり, 他の一つは家名の昂揚や家産の飛躍的発展を目的とした 「家」 の創造的発展的立場か らの学校教育観である, 前者は, 階層的には主として豪農層の家庭においてみられ, 子弟間では 主として後嗣としての長男の場合に多くとられた学校教育観といえよう, それに対し後者は, 主 として中小地主など地方上層家庭ならびに次三男の場合に多くみられた学校教育観であり, それ は立身出世の階梯としての学校教育の効用 が社会に浸透する明治中期以降になると, 顕著にみら れ た も の で あ る.. 東北の豪農, 本間家では, 「其愛次孫を師範学校に入学せしめ」 , 卒業後酒田小学校に奉職させ - 38 -.
(12) . 第 21 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和45年7月. 「直接間接に同家子弟の教育に従はしめ, 尚学校に於て特に教養の大任を委」 したと伝えられて 1 ) そこには 「家」 の守成的立場からの学校教育観の一端が看取 される また 明治5年 いるが.5 , , 大阪の地主の家に生まれた幣原喜重郎の伝記に は, 彼の父が残した言葉として次のような一節が 掲げられている. 「私は幣原家に養子に来たが, もともと何一つ能のない人間であるから, せめて子供だけは立派に育てて, 私 の代りに, 幣原家のためになってもらいたいと考えた. ……子供たちも段々年ごろになって来たので, 立派 な教育を授けてやらねばならぬ, それには財産を売り払っても学費に充てねばならぬと決心した, ……親戚は こぞって反対する. 百姓に学問はいらん, 大学に出すなんて生意気だ, 第一, 入婿の分際で, 養家の財産を 勝手に売り飛ばして減らすとは何事だといふわけで親戚会議を開いて大反対である. しかし私は子女教育のた めなら, 用地の半分位無くするのは当りまえだと思ってゐたので, 断固として親戚のいふことを聞か な か っ ) た,一52. ここには, 「家」 のためになる人間, つまり 「よき家人」 を育成するために, 家産の一部を犠 牲にしてその子弟を高等教育機関に入れようとした親の姿が示されており, 家名の昂揚, 家産の 飛躍的発展という 「家」 の創造的発展的立場からの学校教育観が端的に窺える, こうした傾向は 明治中期以降, 農村への立身出世主義の惨透に伴っ て次第に拡大していっ たのであり,このことは 「村の有力者といわれたものも……ホソの小地主にすぎず……何とかして子どもたちには勉強させねばな らぬ という気風が強かった, ……経済的に余裕のないうちでは学費のかからぬ軍人の学校や師範学校へ, 多少余裕 のあるうちでは専門学校や大学へ, ずいぶん無理をしてでも進学させる. また家の跡取りたる長男だろうが次 5 ) 3 三男だろうが, 能力がありさえすれば山や田畑を抵当に入れてでも進学させる.」. といっ た明治後期における山口県の玖珂村の状況からもその一端は知られよう. ところで, 当時の地主層の子弟の進路を, 自叙伝や人事興信録を手がかりとしてみると, 主と して次のような六つの型に要約できる, AI型. 小学校一旧制中学一旧制高校一帝大一官界・実業界・学界. 〃 口型. 小学校一旧制中学一私立大学・専門学校一実業界・マスコミ界. B I型. 小学校一旧制中学一家業経営兼地方の役職. 〃 口型. 小学校一旧制中学一私立大学・専門学校一家業経営兼地方役職. 〃m型. 小学校一旧制中学一旧制高校一帝大一家業経営兼地方役職. 〃I V型. 小学校一高等小学一師範学校一家業経営兼教師 \ / ー 日制中学一師範二部. A型は, 主として 「家」 の開拓的立場からの学校教育観に立ち, 「家」 の飛躍的発展を期す親 たちがその子弟を送り込んだルートであり, 殊にAI型はその目的達成の可能性の最も大きなル ートとして次三男層を中心とした有能な個人をそ こに進ませたエリ ートコ ースであっ た. 一方, B型は, 主として 「家」 の守成的立場からの学校教育観に立ち, 「家」 の維持・永続を目的とし 後嗣としての長男層を中心とした子弟たちが送り込まれたルートであり, そこでは子弟たちは, 「家」 継承の任にあたると同時に, 地方 のリーダーとして各方面で活躍したのである. 明治31年 神奈川県中津村に生まれた茅誠司は, 「この辺の農村で中学校に息子を入れる目的は, 卒業後師範学校の二部に入れて小学校の教師の資格をと り, 教えながら農業に従事させようというのが多かった. 私の兄は成績も優秀だったので上の学校に進む希望が強 かったが, 総領息子は東京の学校に入ると農村に帰ってくる気がなくなると い う の で 〔中学校を卒業すると --筆者注〕 そのまま家にとどまった. ……兄は父のなくなった後は, 新進気鋭の才をふるって農村経済振興 5 ) 策の一つとして, 数ヶ村にわたる協同組合を組織した.」 4 一 39 -.
(13) . Vol ,I ,21 No. i ion (Sec f Educa ido Univer lof Hokka i t ty o t on IC) s Journa. Jnl y ,1970. とその自叙伝において述 べ ているが, そこには明治末期の一農村におけるこうした親の教育観が 端的に示されている. 2 ) 中下層農家の子弟の進路 ( 中下層農家にあ つては, 中・高等教育機関に積極的に進出した上層農家と異なり, 多く の子 弟 は次 のよ う な ル ー トを 辿 っ てい る, A I型. 小学校中退・卒業 一家業継承. 〃1 1型. 小学校卒業一農業労働に従事一分家・養子. B 工型. 小学校中退・卒業一商家・職人の丁稚・徒弟奉公一独立. 〃 □型. 小学校中退・卒業一作男・子守 ・女中奉行一分家・結婚. C I型. 小学校中退・卒業一工場労働者一自立. 〃 □型. D I型. 小学校中退・卒業一工場労働者一帰郷一結婚 小学校卒業一高等小学一師範学校一教師. 1型 〃1. 小学校卒業一高等小学一専門学校一実業界等. I型は明治後期の比較的経済的余裕のある一部の農家に主 これらの諸通路 のうち, D I型, DI としてみられるもので あり, 多く の農家の子弟は, A型, B 型, C型の三つの型のいずれかの通 路を歩んだのである. 例えば, 新潟県の自 小作農に生まれた寺島文夫は, 「私は高等科に進んだ. 高等科というのは……その頃義務教育ではなかったから, 半数位の小作農家の子供た ちは, ほとんどこの高等科にもすすまないで, 店員や見習工や子守や女工員になるために村を出ていった. そ ういう友人たちにくらべれば, 高等科に行けた私たちはまだめぐまれた条件にあったわけである, 五十人ばか りいた私の級か ら, 進学したのは女子で二人あっただけで, 男子は中以下の家の子供ばかりそろっていたため 5 5 ) に一人もなかった,」. と述 べ ており, 当時の中下層農家の子弟のこうしたルートへの歩みを示している, また, 明治34 年, 愛知県の鍋田村の教師の家に生まれた田島ひ でも, 「この村では小学校の三, 四年になると女の子はほとんど学校にかよわない, 農繁期にはクラスで女は私ひと りになった. 小学校六年を卒業したときにはそれでも私をふくめて三人いた. 女の子は家で子守りや家事の手 伝いをさ せられるか, 機屋に年季で売られていった, いわゆる女工となって村を出てゆくのである, ……私は 6 ) 小学校をおえると高等科に進学したが, 男女をふくめて南部小学校からは私だけであった.」5. と, そうした農村における状況を伝えている, る当時の工場労働者に関 一方, こう した事実は, 多く の農家の次三男子女を吸収したといわれ, する調査か らも窺える. 横山源之助の引用した大阪市立教育会が明治30年頃実施した大阪府下の 職工50人以上を有 する22工場の職工に関する調査によれ ば, 被調査者全体のわず か一割が尋常小 学校を卒業しているにすぎず, 義務教育中 途退 学者が五割, 他の四割が義務教育を全く受けてい 5 ) これ らの調査結果からも, 当時のこうした農家の子弟が辿っ たルートの一端を窺うこと 7 ない. ができよ う. ところで, こうした農家の子 弟の学校教育機関, 殊に中・高等教育機関への進 学が極めて稀で あっ たという事実は, 先ず第一にその経済力に基因してい たことは言うまでもない, 先に述 べた ように, 義務教育すら満足に受けさせることができない多くの中下層 農家にあっては, 高額な学 資を要する中・高等教育機関の道は, 経済的に全く閉ざされ, わずかに師範学校などの官費の学 校に門戸 が開かれていたにすぎなかっ たのである. こうした経済的要因とともに, 第二には, そこにおける学問観, 学校教育観が指摘される. 明 治31年, 大阪府下の農家に生まれた坂信弥は, - 40 -.
(14) . 第 21 巻 第 1 号. ・. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和45年7月. 「その頃, 百姓の子供が上の学校に行くなんてことはまずなかった, 『百姓の子供を中学に入れてなにになる, まして高等学校, 大学の教育を受けさせるなどとんでもない』 と言われた時代である.」 5 8 ). とその当時の農村社会の風潮を伝えているが, そこには伝統的な農家における学問無用観の存在 をみることができよう. こうした学問無用観は, 明治35年に生まれた直良信夫の, 「まずしい農家で八人兄弟の次男坊に生まれ毎日妹のおもりばかりさせられる, …… 『百姓の子に学問はいら ぬ』 と言われ, 相かわらず子守や田畑の手つだいに追いつかわれ, 夜, 家族がねしずまってから講義録を読む 5 9 ) のがせいぜいだった.」. といっ た回想に端的に示されているように, そこには, かなり根強く存在していたことが知られ る, 勿論, こうした学問観は, 学校教育の普及や立身出世主義的風潮の惨透によっ て, 相対的に は後退の方向を辿っ ていたことを認めなければならないが, しかし, 明治期における農家は, 未 だ経験的技術に依存する慣行的農業経営が支配的であり, その限りではかかる 学問無用論は正当 性をもちえたといわなければならず, こうした慣行的農業が改められないかぎり, それは子弟の 上級学校進学阻止要因として依然大きな力をもっ ていたといえるであろう. こうした学問無用観とならんで, いま一つ看過しえないのは, いわゆる 「世間体」 といわれる 共同体からの外的規制の存在である. そこ ではかりに経済的余裕があっ たとしても, 子弟の進学 は従来の共同体 における家格 に象徴される身分階層性を 崩壊させる危険性を多分にもつものであ っ たが故に, 周囲の眼はきびしく, それを恐れて進学を断念するということも決して稀 ではなか っ た. 明治10年, 長野県の和田村の自作農の次男に生まれた窪田空穂は, 6 0 「父は自分の家の子は, 中学を全部やらせるのは, やや分に過ぎると言っていた,」 ). と述 べており, また, 明治43年に新潟県に生まれた寺島丈夫も, 「高校二年を卒業する前に, 師範学校の給費生の制度の方に受験してみたらどうかと, この時も受持の先 生受 すすめてくれたが, 父は承知しなかった, 『そんでもまるっきりただでやっておけるわけでもねえ し, 第一お らたりの子がそんな上の学校に行くなんて世間がゆるさねェ』 というのが父の反対理由であった 」 1 ) .6. と, こうし た農村における強い外的規制の存在を語っ ている, このように, これら中下層農家にあっ ては, 子弟の上級学校進学を 阻む様々な要因が存在し, 多くの子弟は前述のごとき各コースに進んでいっ たのである, そして主としてB I 型 の ル ー トを 辿っ た子弟の中で, 能力や好運に恵まれたわずかな者たちが, 実業的世界において成功したにす ぎず, その多くは社会の下積み生活を余儀なくされていたのである, 結. 語. 以上, 明治期の農民家庭における子弟教育を, 「よき家人」 の形成という観点から階層別に考 察してきたが, これを要するに, 地主などの上層農家にあっ ては, 家産の維持・発展, 家名の保 持・昂揚といっ た 「家」 継続の理念を中核とした教育が行われ, そこでは 「家」 意識の涌養と学 校教育の重視という点が, とりわけ特徴的であっ た, それに対し, 自作農・小作農など多くの中 下層農家にあっては, 扶養共同体の維持, 家計の維持といっ た当面の現実的生活課 題に支えられ それに則した教育がなされており, そこでは子弟の直接生産 労働への参加と, 村落共同体的秩序 の教育とが, 地主層の教育に比し著しい特色をなしていた, このように明治期の農民家庭におけ る子弟教育は, 上層農家と中下層農家とでは大きな隔たりが みられ, そこではそれぞれ固有の価 値規範に基 づく相異なる 「よき家人」 教育がなされていたのである, 一方, この期における農家の子弟の進路をみると, 上層農家にあっ ては, 子弟の中・高等教育 機関への積極的進出がみられ, 中下層農家にあっ ては, 徒弟生活, 名子的生活にかわる近代産業 - 41 -.
(15) . Vo l ,21 No ,I. i i ion (Sec i i lof Hokka do Un t t on IC) Journa ver s y of Bducat. l ju y ,1970. 社会への進出, 師範学校への進学などが, 明治後期には顕著になり, そこには農家における学校 観, 学問観の大きな変容が窺われると同時に, 農家子弟の生活構造の著しい変化を認めることが で き る.. こうした変化は, 資本主義経済の浸透, 学校教育の発達により明治末期から大正, 昭和にかけ て激しくなり, それに随伴して伝統的な生活様式や共同 体的秩序の弛緩・崩壊という問題が一層 顕在化していくが, こうした動きに対し当時の為政者たちは, これを農村支配の危機, 国家の基 礎の動揺として把え, これに対処するために, 地方改良運動などの地方自治振興策の名のもとに ) 学校教育や婦人団体を 通じての家庭 2 地主層を頂点とした共同体的秩序の再編に着手する一方.6 教育振興策が積極的に打ち出されていくので ある. なお, こうした上からの家庭教育振興策ならびに大正・昭和期の農家の子弟教育に関しては, 農家における学校教育観と 子弟の進路に関する統計資料 に基づく実証的研究と あわせて, 稿を改 めて 論 じ た い,. 註 2頁. 1 ) 岩崎狙堂 『日本現代富豪名門の家憲』 明治41年, 盛林堂, 409~41 4頁参照, 2) 中野卓 『家と同族団の理論』 昭和43年, 未来社, 11 3) 岩崎狙堂, 前掲書, 2~3頁. 4) 同上書, 409~41 0頁, 36頁, 5) 同上書, 1 6) 同上書, 336頁. 7) 「本間家の家憲」 同上書, 3頁. 2頁. 8) 星島二郎, 『私の履歴書』 第7巻, 日本経済新聞社, 201~20 2頁. 9 ) 大川博, 『私の履歴書』 第9巻, 5 40頁, 大牟羅良 『ものいわぬ農民』 岩波版, 77~78頁な 1 0) 柳田国男編 『日本人』 昭和29年, 毎日新聞社, 1 ど参照. 0頁. 0年, 幣原平和財団, 1 11 ) 廟琴原喜重郎』 昭和3 2) 山川均 『山川均自伝』 昭和3 6年, 岩波書店, 84~85頁, 1 8頁, 3) 鹿島守之助, 『私の履歴書』 第22巻, 21 1 4頁. 3~1 1 4) 河野一郎 『河野一郎自伝』 昭和40年, 徳間書店, 1 1 5 ) 松尾国松 『八十年の回顧』 昭和32年, 中部日本新聞社, 6~7頁. 6頁. 1 6 ) 柳田泉 『明治の書物・明治の人』 昭和38年, 桃源社, 225~22 1 7) 島崎藤村 『生ひ立ちの記』 岩波版, 38頁. 1 8) 佐藤藤佐 『私の少年時代』 昭和28年, 牧書店, 89頁. 1 9) 芳沢謙吉, 『私の履歴書』 第5巻, 319頁, 7頁, 20 ) 島崎藤村, 前掲書, 3 21 ) 芳沢謙吉, 前掲書, 319頁, 22) 拙稿 「近代日本の家庭教育に関する一考察--士族の『家』意識, とくに立身興家思想との関連を中心と して--」 横浜国立大学教育紀要, 第8輯. 4~295頁. 23) 柳田 泉, 前掲書, 29 0頁. 24) 同上書, 279~28 25) 高橋佐太郎 (明治18年, 岩手県の地主の家に出 生)『私の歩んだ五十年』7~8頁, 6巻9号参照. 26) 唄孝一他 「農村の相続形態」「法律時報」 昭和29年, 第2 0頁, 6巻, 8 27) 小田原大造, 『私の履歴書』 第1 4頁参照, 3~5 1頁, 大川博 『私の履歴書』 第9巻, 5 28 ) 例えば, 遠山元一 『私の履歴書』 第2巻, 25 6頁. 29 ) 大橋義一 『家を出てから五十年』 昭和34年, 誠信書房, 15~1 3頁. 30) 横山源之肋 『日本の下層社会』 岩波版, 27 0 0頁以下参照, 31) 玉城肇 「家計補助労働の分析」『近代日本における家族構造』3 32) 黒崎八州次良 『留寿都村史』 昭和44年, 401頁. 4頁. 63~26 3 3) 山崎種二, 『私の履歴書』 第1巻, 2 0巻, 4頁, このほか, 三島徳七『私の履歴書』第2 4年, 六月社, 1 3~1 34) 井上貞次郎 『生涯の一本杉』 昭和3 21 3頁など参照. 2- -4.
(16) . 第 21 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和45年7月. 35) 喜田貞吉 『六十年の回顧』 昭和8年, 1 5頁. 3 6) 福武直 『日本農村社会論』 昭和39年, 東大出版会, 51頁. 37 ) 喜田貞吉, 前掲書, 37頁. 38 ) 柳田国男 「親のしつけ」『定本柳田国男全集』 第29巻, 43頁にも, こうした見解がみられ る, 39 ) 宮本常一は 「人並みのことをするということは 村で生活すること の第一条件であった. そして人並みで あれば村人はすべて自分たちの同じ仲間であった,」(『家郷の訓』 宮本常一著作集( 6 )昭和42年, 未来社, 73 頁) と, その自伝において述べている. 40) 渡辺洋三他 『日本の農村』 昭和3 2年, 岩波書店,23 4頁参照, 41) 宮本常一, 前掲書, 8 2~9 0頁. 42) 2頁. 1~8 , 43) 同上書, 8 4 4) 1頁. , 45) 同上書, 70~7 46) 寂照軒笑月 「農人用心之事」『四民用心嘆き 』(『日本精神文献叢書』 第1 6巻, 51 9頁) , 4 7) 喜田貞吉, 前掲書, 7頁. 48) 末川博 『彼の歩んだ道』 岩波版, 98頁, 49) 石原広一郎, 『私の履歴書』 第22巻, 1 0~11頁, 5 0) 末川博, 前掲書, 2 2頁. その他, 荒垣秀雄 「母を思う」『続・おふくろの味』18~19頁など参照. 51 ) 岩崎狙堂, 前掲書, 15~1 6頁. 2) 幣原平和財団編, 前掲書, 9頁, 5 3) 末iH博, 前掲書, 3 4~35頁. 5 4 5 21~1 2 2頁. ) 茅誠司, 『私の履歴書』 第9巻, 1 5 5) 寺島女夫 『人生はわが学校』18~19頁. 56 ) 田島ひで 『ひとすじの道』 昭和43年, 青木書店, 1 8頁. 57) 横山源之助, 前掲書, 1 8 0~1 81頁参照, 58 8巻, 12 ) 坂信弥, 『私の履歴書』 第1 9頁. 9 5 27頁, ) 直良信夫 『私の少年時代』 昭和28年, 牧書店, 1 60 85頁. ) 窪田空穂, 『私の履歴書』 第27巻, 1 1 6 2頁. このほか大牟羅良, 前掲書, 1 ) 寺島文夫, 前掲書, 2 63頁など参照. 6 2) 石田雄 「家と共同体的秩序」『家族制度の研究』(上)21 2頁以下参照,. - 43 -.
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