「視聴能力」とは何か : 放送教育研究についての二・三の疑問
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(2) . 「視 聴 能 力 と は 何 か 」 ~放送教育研究についての二・三の疑問~. 若. 原. 直. 樹. は じ め に. 日本放送協会がテレ ビ学校放送を開始してから30年が立ち,それに伴い放送教育に関する多くの. 研究がこれまで公表されている, しかし, それら放送教育研究の諸論文にはある種の難解さがある, そしてその難解な論調は, 放送教育の研究大会等に参加し実際の授業を観察しても, 実践的にはさ. ほど有益な効果を果た していないように感じられる. 特に, 放送教育の目的としていつ も 「視聴能力の形成」 という概念が挙 げら れるのだが, その説 明や研究が,詳しければ詳 しいほどきわめてわかりずらい, 私は, 子 どもに放送という手段で知識を 与えることが放送教育の役割だと,単純に考えていたのだが, この考えかたは 「放送利用教育」 と名 づけられて, 放送を 「ナマ・まる ごと・継続利用」 して 「視聴能力形成」 を目的とする 「放送教育」 理論からは亜流であると見られている. さて, それでは 「視聴能力」 という概念はいったい何を意味するのか, その概念の解明から着手 して放送教育研究の理論を吟味し, 筆者の素朴な意見を述べてみたい.. 1, 放送 教 育 の 目 的 まず私には, 放送教育の目的は子供の視聴能力を形成することである, という主張が論理的に見 て理解できない, ある文献では,「我々 の日常生活の中で映像が占める位置がどんどん広くなってきている. それに もかかわらず教育現場ではその映像表現を理解したり, 映像で自己表現する能力育成に真剣に取り 1 ( )と述べられるが テレ ビ画面を理解することが文章を理解することな どとくら 組んではいない,」 , べて, 相違はあるにしてもことさら難しいこととは思われず, また 「映像表現を理解したり, 映像 で自己表現する」 能力を特別に訓練する必要があるとは考えにくいのである, 学童時代に放送教育 を受けなかった人には 「視聴能力」 がそなわっていないものだろうか. 読書をする目的は広 い 教養を得るためのはずであっ て, 「読書能力を高める」ために読書をするわ けではない. スポーツの練習をするのは 「練習能力」 を増すためだというのは妙であろう. それと 同じことで, 放送教育の目的を 「視聴能力の形成 (放送を視聴する能力を形成すること)」 とするの. は循環的o閉鎖的な論のたてかたである. メガネをかける目的はメガネをかけてものを見ることに. 慣れるためである, というようなものである, では, 放送教育研究のたてるべき目的は何か, それを私は単純に,「すぐれた映像と音響による知 「情報」・「イメージ」 といっ てもよい) を提供することによ って 子 どもの豊かな世界観・人生 識( , 35.
(3) . 若 原 直 樹. 観の形成に資すること」 だと考える.. 2, 「視 聴 能力」・「情 報 処 理 能力」 は 放 送視 聴 に 固 有 の 能力 ではな い, 「視聴能力」 と同じ意味として放送教育研究で頻繁に用いられる用語に 「情報処理能力」 があるの だが, 私にはこの用語についても, 「視聴能力」と同様それを用いる必要性がよくわからない. そう. した頭の はたらきは, 何も放送教育の場合だけに限らず, 人間が大古の昔からものを考えるときに はいつでも行っ てきた知的活動である. 「あのシカ をつかまえるためには, まず仲間を呼んできて ……」 と考えるのと同じことだ, テレ ビ・ラ ジオにかかわりなく人間は誰でも日常生活のなかでそ うや っ て問題を解決しながら生きている. もちろん, それらのはたらきは 「五官から得られた情報 を処理する能力」 だといえばいえる, しかし, 放送教育研究ではそれがあたかも放送教育に特有な 能力であるとしてこの語を用いるのである, 私には,「情報処理能力」とは通常言うところの, 推理・ 分析・総合・機能・演輝・判断……という知的機能と何も変わらないようにみえる, つ まりこれら の機能は対象がテレ ビのときだけではなく, 対象が書物であっ ても話しこと ばであっ ても, におい や味であっ てもはたらくものだ. たとえば, 、他のクルマや通行人・交通標識・信号等を認めながら (つまり情報を処理しな がら) 上手にク ルマを運転する能力のことを, 自動車学校の指導員が 「情 報処理能力」 と呼んでもかまわない. どんな授業の場合であっ ても, 子 どもたちの 「情報処理能力」 が発動することには変わりないの. である. たとえテレビを用いない教科書中心の授業であっ ても, 教科書に印刷されている文字・教 師の発する音声・掲示されるグラフな どの 「情報」 を子 どもが 「処理」 するから授業がすすむ, 授 業ばかりでなく, われわれの日常生活そのものでわれわれは膨大な 「情報を処理」 して生きている. だから, テレ ビを用いなければ 「情報処理能力」 が訓練されない, ということにはならない, おそらく, これら 「視聴能力」 や 「情報処理能力」 という用語が用いられるのは, 放送教育研究 が個々 の 番組内容を研究するのではなく, どんな番組の視聴であれ, そこに共通にある (はずの) 視聴する能力を研究 しようと問題を設定するから, そう した用語が必要とさ れるのだろう. しかし 私は, 次の見方を支持したい, 「ラジオやテレ ビから意味をとり, あるいは鑑賞できる力には, その 内容に関係した知識・体験をどのくらいもっ ているか, 考える力や広義の知識の程度はどうかとい. うことが影響を与えている. そう したものを引き去り, ラジオやテレ ビという表現形式から内容を 2 ( } 理解し鑑賞する力を純粋にとり出すということは, なかなかむずかしい. (傍線は筆者)」. 3. 「受容の力」 と 「統合 の力」 3 }しているので そ 現在 『放送教育』 誌で松本勝信氏が 「視聴能力」 についての詳細な論文を連載( , 「 「 れをもとに, 知識伝達」 (私の主張) と 視聴能力形成」 (松本氏の主張) との関連を吟味し, そし て私は 「視聴能力」 な どというコ トバを用いるのは研究の進展にとっ て必ずしも有効ではないこと を 述 べ る,. さて, 松本氏によれば, 「視聴能力とは何かと言えば, 放送番組で示される情報を読み取る力(番 組情報処理能力) と言えます.」 そしてこの 「読み取る力は次の二つからなる,」 と 「二段階の層」 に分ける 〈『放送教育』 12月号〉 . 36.
(4) . 「視聴能力」 とは何か. 1 ) 番組の内容をあるがままに受け止めるという力 (受容の力) (. ( 2 ) そのあるがままに受けとめたものと自分の経験とを関係づけて, 自分なりに, ひとつの意 味あるまとまりをつくりだす力 (統合の力). この二段階が私には理解できない, いったい, 映像を 「あるがままに受け止める」 とはどういう状態のことだろう, テレ ビに映っ て いるひとりの人物の表情や姿を理解するとき, いつでもわれわれは自分の直接経験・間接経験で得. た知識によっ て, その人物は怒っているとか, 貧しそうだとか, もう老人と言ってもいい年令だと か, 背後の家はあの老人のものだろうかと考えるのであって, つ まり映像を見た瞬間に松本氏の言 う( 2 )の段階がただちに行われるのであっ て, そういう見方ではない 「あるがまま」 の受けとめかた な ど でき な い の で は な い か.. もしかすると 「あるがままの受けとりかた」 とは, 「その物体はヒトであり, 性別は男性, 身長は 1 6 0セ ンチほど, 年令は60歳 ぐらい, 背後の空は曇天で……」 などと読みとる見方のことかもしれ ないが, その読み方自体に, テレ ビとは別のところで得た, 性別や長さの単位や年齢・天気を分類 する知識がすでにもう入りこんでいる, それに決して, 先にそういう物理的な見方をしたあと,「そ. して彼は怒っ ていて, 道行く人に社会の冷酷なことを告発し……」 という, 意味を読み取る段階に 入っ ていくなどという順序を踏むわけではない, 見た瞬間すぐにその意味を読みとっているのであ る.. 2 )の段階 だから, テレ ビの見方の未熟な人は( 1 )の段階にあり, 「視聴能力」が発達してくると次の( 「 1 2 )と( )は同 一のことを述べて に到達するという 段階」 としての見方には同意しかねるのである,( いるのであっ て, 分けることは不可能である. しかし, 松本氏が主張する次の分類 〈12月号〉 については, 理解できる,. ( 1 ) 番組内容を詳しく正確に受けとる見方 (主と従の視聴能力) ( 2 ) その番組内容と自分の経験との比較から生まれるズレに疑問を持ち不思議だ, おかしい, やっ てみたい, 確かめたいと感想をもつ見方 (主と主の視聴能力). 私も松本氏の言うように, 「番組情報に対して, それらを否定したり, 批判したり, 肯定 したり補 完したりする自分の意見や考えをもち,自ら考えを行動する枠を自ら設定できるようになることが」 のぞましいと考える (私のこの小論も松本氏の論文をある がままに受けとめなかったから書いてい 2 )に近 づく 見方をするであろう. ここは松本氏の意見に賛成す る) . 確かに, 発達した人間ほどこの( る, ただし後述するように, 「正確に受けとる見方」もたいせつであり, 決して低次なものとしての み見 る こ と は で き な い が.. 37. . ● . ● ● 、 ● ● ● ● . ● ● ● ● ● ・ ● ● ● ● ● ● ● ・ ● ′ 、 ‐. ● ● ● ● ● ● ● ● ●.
(5) . 若 原 直 樹. 4. 「視 聴 能力」 と は既 有知 識の別 称 であ る. さて, 私が松本氏の議論にもっ とも強く疑問を感じるのは, 前記( 1 )と{ )の「視聴能力」が何によっ 2 て発達するのかという問題についてである.. 松本氏はそれを, 放送の継続利用, なかんずく視聴中・後の教師の指導によっ て発達すると言う のである. 言うまでもなくその指導が放送教育の 実践である. 「継続視聴(経験の累積)が『主と従』 の視聴能力を 『主と主』 の視聴能力に高めた事例をお持ちの先生が全国にたくさんおられるはずで す」〈 12月号〉と, このように松本氏は, そして放送教育研究をすすめる多くの人が, 放送視聴能力 を育成することは, 継続的に放送を視聴することによっ て実現できると考えている. 私はそのこと を認めないわけではないが,それは他の多くの方法と並ぶ一つの方法であるにす ぎな いと言いたい . 結論的に言うと, 番組を受動的に見るか批評的に見るかは, 見る人の教養にかかっ ているのであ. る,. 原子力発電について何の知識を持ちあわせていない人は, いく ら子 ども時代から テレ ビ好 き で あっ たとしても, その番組内容を批評的に見ることはできな いだろう. 反対に, エネルギー問題・ 核問題に博識な人は, たとえ今まで数度しかテレビというものを見たことがなかったとしても, そ の番組を批評的に見ることができるはずだ. おとなでも子どもでも, 番組内容と自分の既有知識と. の関連において受動的になったり批評的になっ たりするのである. 松本氏は子 どもたちが俗悪番組 を模倣するのは 「視聴能力」 が育っ ていないからだという 〈12月号〉 が, そう ではなく (模倣する 「 のも 「視聴能力」 なのではないのだろうか?) , 子 ども自身がそれを ああ, 俗悪だ/」 と思っ ては いないからだ, 子 ども自身がそういう番組を俗悪だと判断できる多くの知識内容を持ったとき, そ の番組を見なくなる, 松本氏はおそらく, そういう状態のことを 「視聴能力が形成さ れた」 という のであろう. 私の言いたいことはここである, 「視聴能力」なるものは, 実は知識 のことにほかなら な い の であ る.. そしてテレビは, 子 どもに知識を与える確かに効果的な手段である. したがっ て, テレ ビから知 識を 「正確にあるがままに受けとる」 ことを決して低次元なものとして軽視することはできない . このことが土台にあっ てはじめて, それについての感想を持てるようになるのだから 番組を正確 . に受けとっ ていないのに感想を持つこ とは危険でさえある, 「トンボの一生」というテレビを見た子 ども た ち は, 「ト ン ボ の 目 は 複 眼 だ.」「ト ン ボ は 空 を 飛 べ て い い な あ 」「家 の 近 く でも あ ん な の 見 た . な.」「ヤ ゴ は どう し て 水 の 中 で も 生 き ら れ る の だ ろ う 一「ト ン ボ が 春 に い な い 理 由 が わ か っ た 」「ト , .. ンボの羽はきれいだなあ.」 「トンボをつかまえるのはかわいそうだ.」 「ずいぶん種類が多いのだな あ,」 「つ か ま え て 調 べ て み た い.」 「赤 ト ン ボ は か わ い い 一な どい ろ い ろ な 感 想 を 持 つ だ ろ う こ れ , .. らの感想はどれも, テレ ビの中から知った事実に基づいてもたれたものである, 事実認識は感想の 生まれる母体 である, なるほど放送が同一の番組を与えた のに, そこから得る感想が子 ども によっ て違うことがある, そこでそれを子 どもの 「視聴能力」 の多寡に結びつけて解釈したくなる しか . しそれは子 ども各人の既有知識がちがうために, 子 どもによっ て番組のうち印象に強く残るところ が 異 な る か ら 生 じた こ と で ある. 中 に は, 「よ し, ぼく も ト ン ボ を つ か ま え て … … して み よう 」 と .. 考える子もいるだろう. その子は自分の家の近くに トンボの飛 びかっ ている池があるのを知っ てい て, しかも先日新 しい捕虫網を買っ てもらったのを思い出したから, そう考えたのである. そう思 わなかった子 どもは 「視聴能力」 がなかっ たからそこまで思い至らなかっ たわけではなく, 生き物. や遊 びに関する経験や知識が乏しいために思いつかなかったのである. だから私には, 「視聴能力」な どという用語を使う必要は特別見あたらない あるのは ①放送の . , 38.
(6) . 「視聴能力」 とは何か. 与えようとする知識と②それを解釈しようとする知識, この二つである. 映像をどれぐらい深く読みとるかは, その番組の描く主題に関する知識を, 子どもがどれほどた. くさん持っ ているかにかかっ ているのである. たとえば, こう して意見を述べている私のこの主張 がマトを得ているか否かは, この小論を読んでいる読者の人並み以上の 「読書能力」 に依存してい るわけではなく, 読者の, 放送教育についての知識量にかかっている, したがって, もし放送を用いて子どもに好ましい反応が起こったとき, その時,何がその原因だっ たかと問う場合, 放送の用い方, すなわち 「視聴ノート」 を書かせるタイ ミングとか発問のしかた とかテレ ビを見る姿勢を研究することに限定することよりも, その番組が子供に与えた情報内容の. 何が, 子供のどんな既有知識と, なぜ, どのように結合したかを考察することの方が本質的である, テレ ビのできることは, あくまでも映像と音響によ って或る種の知識を与えることだ. たまたま. 或るテレ ビ番組によっ て得た知識 (=先行経験) が後に同類の内容の番組を見たときに発動して, その結果感想や行動が生まれることがある. それを人は 「(以前からテレビを見ているために)視聴 能力が発揮された」 いうのだろう,. 5. 「視聴 能力」 と いう 用 語は 研 究に 不適 であ る, だが 「視聴能力」 が既有知識の別称であるならば, どちらの呼び名を用 いても良いのであっ て, 「視聴能力」というモノがないわけではない という反論を招くかもしれない しかし私は 「視聴 , , . 能力」 という用語を用いない方が良いと考える, 「視聴能力」 という 「能力」 の問題としてではなく, 知識内容の問題として論じるべきだと考える, というのは, 「視聴能力」という視点の理論化では研 究の深化・実践の進展を導きにくいと思われるからである. A ( ). ( B ). あの刑事には捜査能力がある, あの運転手には安全運転能力がある,. 難事件をいくつも解決した. 何年も事故を起さず運転している. 何人もの生徒を望ましく変化させた,. あの先生には指導能力がある, あの子供には視聴能力がある,. 番組についての深い解釈を発表した.. )と鰹)は同じ事態の別様な表現である.「いや, そう ではない.安全運転能力があるからく=原因〉 @ , 無事故 〈=結果〉 なのだ,一 と言う人もあるかもしれない. では私は, 「無事故という事態を先につ くっ たからこそ, あの人には安全運転能力があると知れるのではないか,一と言おう, いずれにしる この議論は, 脳の中に 「安全運転能力」 なる特別な神経組織があるか否かという生理学的研究によ るのではなく, コトバ に関する記号論的考察によっ て決着するだろう. とにかく@ )の能力をつけることは,( B )の事態を実現することと同義である. 第 一,( B )の事態に関 わらずして◎の能力を直接つけることは不可能である, すなわち, 旧)を操作・指導・援助すること. ならできるが, @ )に直接手を触れることはできない.( B )は可視的であるが, @)は目に見えない. 放 「 送教育研究の目的を 視聴能力の形成」 とするよりは, 良質の知識を提供することだとした方がわ かりよいと私が主張するのはそのためである. だから, 松本氏の次のような, 「知識」 と 「視聴能力」 の区別 〈9月号〉 には承服できない. 要約 すると松本氏は,. 39.
(7) . 若 原 直 樹. 子 どもの成長にとっ て 「能力・態度目標と, 知識目標とに大別される. …‐ ‐これらは車の両輪 のようなもの」 とのべて, 「能力 (視聴能力)」 と知識とを別物だとする, ② 「問題解決の力の育成が, その結果として知識の獲得に発展すると言えます, その逆に, 知識を ①. いく ら与えても, その結果として能力・態度の育成に発展するとは言えな いでしょう.」と述べて, 知識よりも能力の方が先行すべきことを説く.. このうち特に, 「知識をいくら与えても, その結果として能力・態度の育成に発展するとは言えな い」 として, 視聴能力の方が知識より先行すべきだとする論が私には理解できない, むしろ反対の 方がわかりやすい, 先に知識があっ て, それが言わばイメージとして活動するから rよし, では僕 は … … を 使 っ て や っ て み よ う.」 と か 「い つ で も そ う な の だ ろ う か, … … の 場 合 は そ う な ら な い よ う. に見えるなあ.」 という発想が生まれてくるはずだ, (松本氏は, 「知識をいくらつ めこんでも, 能力・態度の形成にはなりません,一 と言っている 〈9 月号〉 ので, 松本氏の言う 「知識」 とは, 「詰めこむ」 ということばに見られるような, いわゆる暗 記しただけの, 無味乾燥なコトバを指しているのかもしれない. そして確かに最近では 「知識」 と いうコトバがそう誤解されやすくなってきている.だが私は小論ではもちろんその程度の理解を「知 識」 とは呼んでいない, 松本氏の言う 「興味・能力・態度と結びついた」 理解が私の言う 「知識」 である.). 視聴能力が知識の別称であるとすると, 視聴能力 を育成するとは, 豊かな教養を持たせることと 同義である. 視聴能力のある人, それは教養ある人である. そして, 教養を得る方法は, 残念なが ら放送ひとつに限られるわけではない(もちろん放送はその重要なひとつであるが) ,こうして私は, 「 「 放送のもつ役割は 視聴能力を育てることにある」 と表現するよりも 豊かな教養を伝えることに ある」と表現する方が, 同じ事態の表現であるにしても, はるかにわかりやすいと考えるのである. 4 〉では 「視聴能 たとえば 「映像による視聴能力の評価」 と題して視聴能力を正面から論じた研究{ ,. 力の要素」 として次の五点を挙 げ, それぞれについてのテストをおこなっ ている. ( 1 ) 映像の再認……ある映像が今日のテレ ビに出てきたか どうか判別できる能力,. 2 ( ) 映像の順序再生……それらをもとの順序 どおりに再生できる能力. ( 3 ) 映像の内容把握……映像の意味や映像同志の つな がりを正しく把握する能力.. ( 4 ) 番組の主題把握……番組の主題を把握する能力. ( 5 ) 番組からの発展……番組で示さ れた実験をヒントに児 童 ・生徒なりに実験方法や材料に創意を 加えて実験ができる能力. これらのことができることがのぞましいと私も考えるが, これらは人間の持つ, 分祈・総合・類 推・記憶・機能・演揮・判断……という知的能力やその番組内容に関わる知識がやっ てのけること で, 特別にそれらの能力を新しく 「視聴能力」 と二重に呼ぶ必要はないように思われる. 現に( 1 ) ( 2 )の再生のテス トについて, 「まとめと考察」 で, 「これは記憶の実験的研究において古く からよく知られている現象である」 と述べられていて, 記憶力とこの 「視聴能力の要素」 との違い を摘出することには成功していない. さらに, 「この5つの能力がたがいに どのような関連性を持っ ているのか」 については, 「全体的 にみて, テス ト間の相関は低く, おのおののテストが独立した能力因子を測定していることが推察 40.
(8) . 「視聴能力」 とは何か. される,一 「したがって, 視聴能力をさまざまな処理能力の複合体をみなす立場を支持することがで きる」 となっ て, 結局 「視聴能力」 なるものの実体は何であるのか不明のままである. また, 「映像の再生率を高くするには, 印象的な映像を用いることが効果的であるといえる,」 と 4 )の主 いう平凡な指摘は, かえってことがらを単純に見ることの必要を解いている ように見える.( 「 題把握に関する, 内容把握よりも, さらに精微な処理を必要とするため, 単に番組を視聴させるだ 5 )に関する, 「番組の中の実験 けでは期待すべき効果 があがらないのであろう,」 とい考察も, また( を発展させ, 創意工夫する能力を育てることはきわめてむずかしいと考えられる. これは視聴番組 だけでなく, 過去に学んだ知識をも総動員し, 創造的思考による解決が求められるか らである.」と いう考察も, 私の意見 (番組内容に関する既有知識の多寡が決定的に影響するという) と同様の結 論だとみなすことができる, だから, 学力の高い子どもほど 「順序再生」 「内容把握」 「主題把握」 「番組からの発展」 のテスト結果 が良いという相関が見られるという指摘も, きわめて当然のこと であ る,. 5 )においても 「第一に 学年別では 全般に中学生の方が 5年 視聴能力に関する別な調査研究{ , , , , , 生よりも映像の内容をより的確に把握している,」「第二に, 学力別では, 全般 にA段階(優秀グルー プのこと--若原) になるほど映像の内容把握がより的確である.」 「第四に, ……知的理解をより 強く必要とする……は5年生と中学生の間では差があり, また学力のA段階とC段階の間でも差が. あるといえる,」 とやはり当然の結論に達している. これらの研究を見るにつけ, 人間の持つ知的諸能力の ことをわざわざ 「視聴能力」 な どと難解な. コトバ で新しく呼んだために, 今度はあたかもその実体が別個にあるかのように錯覚してその模索 にかかるという倒錯を起こしているように感じられてならない. こう して, 松本氏自身が言うとお り,「形としての言葉だけが先行していることが,放送教育を混乱に陥れている最大の理由と言える」 〈 12月号〉 のである.. 6. 放送 教育研 究の陥 る 「方 法 地獄」 さて, 松本氏は, 放送教育の実践がいたずらに手を変え品を変える 「方法地獄」 に陥っ ているこ とを指摘している 〈1月号〉 . 実は私もこの観察を強く支持 したい. 6 )の 第36回放送教育研究会全国大会 (青森) における 『大会のめざすもの』 というテーマ解説文{ 中には,「視聴観察世界の可能性の躍動」「呼応・内発躍動原理学習」「ひとりひとりの自己審理」「知 的生活の意志や活力場面を育てる」 「を, で, に型の日常源」……などの, まるで判じ物のような表 現が随所にみられる (しかし筆者の観察した実際の研究授業は, それらのコトバと は無関係に, ご 「 r く普通の授業であった) . その他一般に放送教育には o分 (ゼロふん) スタート」 空 (くう) 発 「 「 問」 なぞり」 生 (ナマ) 利用, 新鮮利用」 などの独特の授業用語があって, 様々 な技法が考案さ れ て い る.. その理由を松本氏は, 「(教師には) 放送は何か特別なものという意識があっ て, そのために特別 な何かをしなければならないという気持ちを持 っているから」 と見ているが, それについても私は. 同感である. だからこそわからないのだが, 私の目から見ると松本氏自身もまた 「方法地獄」 に陥っ ているよ うに見える, というのは, 松本氏は 「視聴能力育成の鍵は,.視聴後の第一発問とそれに対する子 ど もの反応の受け止め方にある」 として, 視聴能力を形成するための特別の授業方法を考案しようと 41.
(9) . 若 原 直 樹. するからである〈 1月号〉 . 私にはそう した工夫はあまり本質的なことではないように思われる. 松 本氏によれば,. 「き ょうの番組はどんな話だっ た」 「どんなものが出た」 「どんなことをして いた などの 番 」 , 組内容を確認するような発問では「主と主の視聴能力」は育たず,「き ょうの番組を見てどう思っ た」 「どうだっ た」 「今のテレビを見て思ったり, 感じたり, 考えたことは」 などの, 感想を求 める発問をすればその視聴能力を育てる.. そして板書についても同様な配慮をすべきだというのだが, これはずいぶん枝葉のことのように 見える. 第 一, いくら 「感想を言いなさい」 と求めても, 子 どもの頭の中に感想が生ま れていなけ れば発言の しょうがない, そして, この感想というものは, 自分の既有知識とテレビの伝える情報 との衝突のなかから生れるものであっ て, 「感想を言いなさい」と教師から指導さ れることによっ て. 生れるものではない, もちろん感想をもつように促すことは子 どもを番組に集中させる上で有効な 場合もあろうが, しかし 「感想をもとう, もとう」 と意識することがかえっ て邪魔になることのマ イ ナス面--バ ッターが「ヒ ッ トを打とう, 打とう」と力むことが良い結果を生まな いような--の 方を考えねばならない.. それは感想文を書かせる読書指導とよく似ている. 読書するた びに感想を問われると, 子どもは それがわずらわ しくて読む気をなくしてまう, そんなことを考えずにひとまずはその本にすっ かり 没頭して読むことこそのぞましい. いつでも感想文を要求していると, 子 どもはついに,「何か感想 文の書きやすい本はないかな,一などと考えるようになる, これもさか立ち した話であって, 感想が 出るか出ないかはあくまで結果の話である. 放送の場合も, 子 どもが 「あとから感想を発表しなく ては……」 と意識 して放送を見ることは不自然である. 何もかも忘れて (授業中であることも忘れ. て) 食い入るようにテレ ビを見つめることの方がのぞましい. 視聴後の発問のしかたを工夫することによっ て 「視聴能力」 を育てようとする松本氏は, だから 私の目から見れば, やはり 「方法地獄」 に陥りそうに見える. そういうまごま ごした問題に教師の 主力を注ぐべきではないと考える. 教師の頭の中に, 「視聴能力」 や 「読書能力」 が子 どもの身についたと表現できる事態の到来する のを期待する気持ちがあっ て放送を見せ, 本を読ませることがあるのは理解できる. しかし,「視聴 能力」 や 「読書能力」 を直接鍛える何か特別な工夫をしだしたらそれは本質を逃がす, ふたた び,. 野球にたとえるなら,ヒッ トを打つためにはふだんから基礎体力をつけ十分な練習を重ねておいて, し か しバ ッ タ 」 ボ ッ ク ス に 入 っ た あ と は 無 心 に な っ て ボ ー ル に 向 か っ て い く こ と し か な い だろ う .. 授業中に教師から 「視聴能力」 や 「読書能力」 を指導される子 どもは, 打席で投手に向かっている 最中に監督からあれこれ指示を受けるバ ッターの姿に似ている, 7 }では 「映像視聴能力形成のための指導内容」 として たとえば 「番組を映像段 また前掲の研究{ , , 階に分けることができる」 「象徴的なシーンをいく つか取り出すことができる」 「興味をもったり, おもしろかったところを絵にかける」 「番組の内容とバックに流れる音楽の変化に気づく」などのス. キルを指導するのだそう だが, 同じ理由でこう した指導には疑問がある, もし, こう した視点で子 どもに番組視聴させるとすると, 子 どもはその番組に専心没頭することが妨 げられる. クモが多角 形模様の巣を巧 みにつく っ ている画面を見ながら, 「あれは接写レンズを使っ て撮影 しているのだ 42.
(10) . 「視聴能力」 とは何か. な一 とか 「よく音楽が合っている」 な どと考えるのは, すくなくとも最初の視聴 (ナマ放送の視聴) としてはふさわしくない. 番組が放送されるまでを次のように 、大きく分けてみる.. 制作者 (放送局) によるテーマの設定. その具体化, 制作過程. すなわち, シナリオ・配役・カメラワーク・ナレーショ ン・効果音楽・ ロケ……等の技術の実行,. ④. ⑩. ◎ 完成品 (番組) の放映.. われわれ視聴者は, 直接的には, ④を視聴して, ふ つうは④を自覚的にか無自覚的にか解釈する, もちろん⑩の詳細を推測することも可能ではあるが, それは自主教材を作ろうとする教師や放送・ 映画関係 への就職を考えている青年やそれらを専門的に鑑賞する芸術評論家のもつ興味であって, 一般視聴者の考慮すべきことがらではない, そういう映像制作技術に明るいことが 「視聴能力」 だ というのなら, 話はまったく異なってくる, ③を考えることと◎を考えることとは, 別な思考をさ せ る こ と で あ る.. 放送番組によっ て授業をつくろうとする教師には, 主にただ次の点に留意すべきである. 1. 先生自身が感じながら, 真剣に熱心に楽しく視聴する 〈2月号〉 , 2. 学級の雰囲気をくつろいだものにする 〈9月号〉 ,. 松本氏の言うこの二点に教師は留意し, あとは, 番組内容が子 どもの知的興味をかき起こすこと を祈るのみである, そして多くの子 どもの心をとらえない番組を淘汰して いけ ば良 い (言うまでも ないことだが, 学校放送のために子 どもがあるのではなく, 子 どものために学校放送がある) . した. がって,私の考えからすれば, 教師の指導技術に大きな責任はない. 放送教育はもともと放送が教育 する主体であっ て教師が主体ではないのだから (教師が主体となっ て, 或る知識を教えるために放 送を手段に使う教育は 「放送利用教育」 と呼ばれて区別されることがある) . 視聴後の発展学習の成否は, 松本氏の言うとおり視聴中に 「感じる交流」 が生まれるかどうか に. かかっているが, それが生まれるか否かは教育主体である放送内容の責任である. 問題を子 どもの 側にではなく, 放送 (教育主体) に求めるべきである, 放送教育が方法地獄に陥るのは, 誰もみな 知らず知らず教師主体の, いわゆる放送利用教育(=視聴覚教育)の発想に立っているからである. 「放送利用教育」 と 「放送教育」 との どちらを選択すべきかについてはこの小論では述べない も ( . しも 「放送教育」 を推進しようとするなら, という議論である.) 結論を言うと, 「読書能力」 が育つ のは良い本をたくさん読むことによっ て, 同じく 「視聴能力」 が育つのは良い番組をたくさん視聴することによっ て, である, 良い番組を見た時, われわれは「視. 聴能力が形成された」 などとは決して思わない, 放送のおかげで, 自然や社会や人間についての見 方を深めたりあらためたりできた感概を持つのである. 教育において問題にすべきことは, いつで も最終的には, 知識内容の問題である, 「態度」 や 「能力」 や 「人格」 がどんなにた いせつだ として 8 ) も, それは良質の知識の授受によってしか形成されない( . 私が放送教育に望むことは, ①放送によっ て送られる情報がすぐれていること, ②それを受けと. 43.
(11) . 若 原 直 樹. る主体の教養が豊かであること, の二点である. この二つの条件がそろっ ていれ ば, いわゆる 「視 聴能力」 はおのずと発揮される.. ( 1 ) 押野市男 「視聴能力形成のためのカリキュラムづくり」 {水越敏行編著 『視聴能力の形成と評価』 日本放送教育協 会. P. 218). ) { 2 ) 多田俊文 「放送教育の理論と実践」 (日本放送教育協会 P ,233 『放送教育』日本放送教育協会19 8 ( 3 ) 松本勝信「若い教師のために……放送教育入門セミナー」 ( 5年8月号~198 7年 3月号) { 4 ) 大谷淳他 「映像による視聴能力の評価」 (水越敏行編著 『視聴能力の形成と評価』 日本放送教育協会 PP , 115~162 ). 『子どもの情報生活における放送教育の役割と ( 5 ) 島田啓二 「環境理解におけるテレビ学校放送の役割と視聴能力」 { 評価』 東北地区大学放送教育研究協議会 P ) .80 ( 6 ) 第36回放送教育研究会総合事務局「青森大会のめざすもの」 {同事務局「第36回放送教育研究会全国大会要綱」 ) { ) 前掲 押野市男 「視聴能力形成のためのカリキュラムづくり」 PP 24 7 .221~2 ( 8 ) 宇佐美寛 「思考指導の論理」 明治図書 *この研究は昭和60年度大学教育方法改善経費によるプロジェクト「教育養成大学における情報処理教育の充実」の 一環として行ったものである, (本 学助 教授. 44. 旭川 分 校).
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