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1950年代日中伝統演劇交流に関する考察 : 梅欄芳を中心として

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 中国で「芸術大師」と慕われ、中国演劇の象徴である世界的京劇名優梅蘭芳は、生涯三 回に渡って訪日公演を行った。具体的には大正八年(1919 年)、大正十三年(1924 年) および昭和三十一年(1956 年)の三回である。大正年代の二回はともに大倉財閥の創始者、 帝国劇場の二代目会長である大倉喜八郎の招聘により実現し、梅蘭芳は日本において一躍 有名になったばかりではなく、梅蘭芳ブーム、京劇ブームを巻き起こした。特に一回目の 訪日公演は、中国の伝統演劇を初めて世界の舞台に紹介し、その成功は日中近代演劇文化 交流の道を切り開き、日中演劇文化交流史上の重要な出来事となっている。  本稿では、日中国交正常化以前の 1950 年代の日中伝統演劇交流の状況、つまり、 1955 年の市川猿之助を中心とする歌舞伎訪中公演、および梅蘭芳が中国京劇団を率いて 1956 年に第三回目の訪日公演を行った背景とその実体、日中伝統演劇交流事業の意義に ついて考察する。 一、1950 年代日中伝統演劇交流の時代背景  第二次世界大戦終了後、米ソ冷戦、二極対立の国際構造の下、1949 年中華人民共和国 が誕生した。新生中国は「対ソ一辺倒」の外交戦略を実施し、ソ連と同盟を締結していた。 一方、アメリカは中国封じ込めの戦略を推進し、日本はその戦略に組み込まれた。日本政 府はアメリカの「反中(国)親台(湾)」政策に追随し、1952 年に日本政府は台湾当局と「日 華平和条約」を締結し、いわゆる「外交関係」を樹立した。言わば、1972 年までは日中 両国の関係は正常な関係にはなかったのである。  しかし、中国としては、アメリカと対立している状況の中で、アメリカの直接影響下に ある隣国の日本を対米依存から切り離すこと、つまり日本の対米依存度を弱体化する方策 を講じるために、日本との関係改善が極めて重要であった。 キーワード: 日中文化交流、伝統演劇、京劇、歌舞伎、梅蘭芳、市川猿之助、周恩来

1950 年代日中伝統演劇交流に関する考察

―梅蘭芳を中心として

袁 英 明

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1952 年から日中民間貿易と民間交流は開始された。1950 年代に、日中の間に四つの貿 易協定が締結され、民間貿易が展開していた。同時に民間文化交流も行われた。1950 年 代の日中関係には様々な変化が生じ始めたのである。  1950 年代中国側の動きをみると、中国対日政策の重要な方針は「民間外交」の推進、 つまり日本の経済、文化、平和の民間団体などとの交流を推進し、日中民間友好を促進す ることであった。1952 年周恩来総理の直接指導の下、「対日工作弁公室」が設立された。  当時、日中戦争に対する両国民にとっての感情的な問題も存在した。すなわち、戦勝国 か敗戦国かという歴史的認識と侵略・被侵略の立場の相違であった。国民感情として、日 本には二度の原子爆弾投下によりアメリカには負けたが、中国大陸で中国に負けたわけで はない、と解釈する日本人が多く、侵略されたり支配されたりすることの苦痛を理解でき る日本人は少なかったと言っても過言ではないだろう。他方、中国人にとっては、甚大な 戦死者という人的被害、砲火による厖大な量の物的被害を受けているので、勝利とはいっ ても、それは「惨苦の勝利」「惨勝」であった。したがって、日中両国の指導層にとっては、 其々の国民感情を無視するわけにはいかなかったのである。  中国政府は国民の感情問題を考慮し、周恩来など中国の指導者が『二分論』を打ち出し た。つまり①日本軍国主義者と日本人民を区別すること、②大きな罪悪と一般的誤りを区 別することという対日方針である。  1954 年のジュネーブ会議と 1955 年のバンドン会議は、中国の対外姿勢の変化を国際 的に明らかにした。この頃から日本に対するアプローチも変わり始めた。1954 年末「対 米自主」を掲げた鳩山一郎内閣が成立すると、「中国は日本との正常な関係樹立を願う」 と明言した。1955 年バンドン会議に出席した周恩来は「平和共存五原則」の下での対日 国交正常化に強い意欲を表明した。同時に、高崎達之助(経済企画庁長官)と会談し、「日 中友好関係を打ち立てることができる」と述べた。毛沢東も日中国交正常化に意欲的であっ た。1955 年 9 月に初訪中の日本国会議員代表団と会見した際、毛沢東は「人民の利益か ら言ってできるだけ早く正常な外交関係を作るべきである」と語っていた。中国指導者の こうした考えに基づき、1955 年から 1956 年にかけて、中国は三回にわたって日中国交 正常化に向け積極的にアプローチをした。  前述したように、1950 年代の日中関係はあくまでも民間経済文化交流を中心とする枠 から脱することができなかった。これらのことから、文化交流は、対立し閉塞した日中関 係を打開するための重要な外交政策の手段であった。  日本側の動きをみると、1950 年 9 月、内山完造を初代理事長とする日中友好協会が設 立された。1954 年には中国紅十字代表団を日本へ迎えたが、多くの日本国民はこれを新 しい日中時代の兆しとして受け止めた。1956 年 3 月には中島健蔵、千田是也、井上靖、 團伊玖磨の 4 人が中心となって、中島健蔵を理事長とする日中文化交流協会が発足された。 このことは、日中文化交流を推進するには象徴的なできごとであった。日中間の友好運動 は民間レベルで進められていた。

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 そのような流れのなかで、日中戦争のため中断していた日中演劇交流は、新中国成立以 降、民間ルートを通して交流再開の道を模索し始めた。中国人民対外文化協会と日中友好 協会は、両国の文化交流を促進すべく協議を重ね、まず日本から歌舞伎団が訪中公演を行 ない、続いて中国から京劇団が訪日公演を実現させるとの合意に達し、日中両国の文化交 流の新しい一歩を歩み出した。   1955 年 10 月市川猿之助の歌舞伎訪中公演は、戦後閉ざされていた日中演劇交流の道 を切り開いた。市川猿之助の訪中公演の以降、日中民間文化交流は更に進展した。その後、 市川猿之助歌舞伎訪中公演の答訪として、1956 年 5 月に梅蘭芳を団長とする中国京劇団 の訪日公演が実現したのである。これは、当時の国際環境と国内政治状況から見ると、異 例の大事業であった。  1950 年代の中国の対日「民間外交」の展開は、「漸進方式」で推進された。周恩来総理は、 民間貿易と文化交流を日中関係の改善と発展のための両輪として進めた。1956 年の中国 京劇団の訪日公演は、このような周総理の対日外交方針の現われであった。  東西冷戦の厳しい国際環境の中、日中間にあった政治的・思想的・感情的な壁や渡航手 続き等の物理的な壁を越えて、梅蘭芳京劇団の訪日は実現した。当時の経過を見ると、基 本的には、中国政府が対日政策に基づいて市川猿之助らの訪中を設定し、この訪中歌舞伎 公演は大成功を収めた。これを受けて、梅蘭芳を中心とする京劇の第三回訪日が可能になっ たのである。このことは、猿之助訪中公演のプロモーター役であった松尾国三(大阪土地 興業社長)の北京での声明に端的に示されている。松尾は、「歌舞伎の中共訪問と交換に 明春中国の梅蘭芳の一座が来日する」1と述べた。なお、当時、日本では、「中国」と呼ぶか、「中 共」と呼ぶかは大きな政治問題であり、マスコミも神経を使っていた。このことが松尾の 短いことばにも反映されている。  1955 年市川猿之助歌舞伎訪中公演と 1956 年梅蘭芳を団長とする中国京劇団の訪日公 演は現代日中文化交流史上において新たな一頁を開くこととなった。 二、市川猿之助の歌舞伎訪中公演 1、訪中公演  1955 年 10 月、松尾国三を団長、市川猿之助を座長、楢崎富男代議士を副団長とする 歌舞伎団 57 名は、前後 1 ヶ月間にわたって北京、上海、広州の三大都市において計 14 回の公演を行なった。演目は「勧進帳」、「ども又」、「二人道成寺」の三つであり、観客数 は約 3 万 2 千人に達した。  梅蘭芳は訪中歌舞伎団を迎える中国側芸術家代表として、猿之助一行を大いに歓迎した。 北京に到着した 9 月 30 日に中国人民対外文化協会は中国側の主催者として歓迎晩餐会を 開き、梅蘭芳、劇作家の田漢および老舎が歓迎の乾杯をした。  歌舞伎団一行は、新中国 6 回目の国慶節に参加した。当日は、ビルマ、アルバニア、ポー

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ランド、日本、ソ連などの各国芸術使節団が公演したが、最後に梅蘭芳主演の京劇が演じ られた。歌舞伎は伝統的演出による「口上」と「だんまり」の一幕を上演し、猿之助は、 「高うはござりますれど、これより口上を以て申上げ奉りまする。さて此度中国にとつて 一番意義のある、目出度い国慶節に私どもが招かれましたる事は誠に嬉しく存じ上げます。 さて本日私一座に與へられましたる時間は幾らもござりませぬ故、お目見得だんまりを一 幕ご覧にいれまする」2と、口上を述べて見得を切って見せた。「だんまり」が終わると、 拍手は鳴り止まず、アンコールは数回に及んだと記録されている。  参加国は、日本とビルマを除き、何れも社会主義国家である。50 年代の「反共」、「東 西冷戦」という国際環境のなか、戦後初の演劇訪中団・猿之助一行の歌舞伎団の中国訪問、 さらに新中国国慶節記念行事への参加は、芸術がイデオロギーを超越したものとして受け 止められたと言える。  訪中歌舞伎団は、中国到着時に、日本議員団の団長としてソ連からの帰国途上に立ち寄っ た参議院議員の北村徳太郎代議士に会った。3 また、公演初日の 10 月 5 日には梅蘭芳、 郭沫若、欧陽予倩、謝氷心、曹禹等、文芸関係者が中心に招待されたが、ソ連を視察して きた劇作家木下順二、北京に潜行していた前進座の歌舞伎俳優中村翫右衛門、日中文化交 流に熱心な松山バレエ団の松山樹子らも観客席にいた。4   梅蘭芳は歌舞伎を鑑賞して、その印象と「勧進帳」の主役である猿之助への賞賛を次の ように詳しく述べている。5  私はかつて二度日本に行った際、二度ともこの演目を見ている。歌舞伎十八番のひ とつで、無数の名優の創意が積み重ねられて、所作、台詞、表情、歌、曲は精錬の極 に達している。このような劇は演技が拙いと、とかく伝統的な外面の型にとらわれ、 内心の表現をおろそかにしがちなものだが、猿之助の演技は、伝統的な外面演技を正 確に表現しているばかりでなく、役柄の内在的感情も十分に体現している。幕が上が る前にまず笛と太鼓で関所の情景を描き出す。弁慶が登場する際の、そのいかめしい 動作は、よく知勇兼備の英雄の形象を描き出している。富樫がうるさく尋問する時の 二人の問答は極めて緊迫していて、日本語のわからぬ私も思わず「ハーオ」(好)と 声を掛けるところだった。猿之助の演技は機智に富んだ英雄が切羽詰ったところで落 着いて対処して行く気概を十分に描き出している。  弁慶が勧進帳を読み上げる際、富樫がその気魄にぎくっとするが、同時に弁慶の方 も冷っとする。その双方の心情が実にいきいきと表現されている。弁慶の細かい動作、 例えば、両手で帳を開いたり巻いたりして腕の数珠をつま繰るところなど、ほかの大 動作や、台詞、表情などと関連している。このような小動作はすべて現実生活の中か ら洗練され、芸術的加工を経たもので、劇全体に流れる内包的リズムと完全に適合し ている。  番卒の一人が「強力が義経に似ている」と進言し、富樫が刀を構えて一行を呼び止

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めるところで劇は最高潮に達する。弁慶は金剛杖をふり上げてわざと義経を打つ。こ こがまた複雑な表情と動作の見せどころで、弁慶は義経を打ったが、それだけでは事 は片づかない。といって本当に打つこともできない。どうしたらよいかと迷うあたりの 表情、さらに富樫から急に関所を通ってよいといわれたときの半信半疑の驚き喜ぶ内 心の動きなど、実に巧みな表現だ。別れにあたって富樫と酒を飲むところもすばらしい。  梅蘭芳は、歌舞伎が中国の古典劇に似ている点も次のように触れている。6  弁慶が酒を飲み終わって延年の舞を踊るときの両手の動きは、わが国の昆曲「山門」 で魯智深が酔っぱらってコブシを使う身振りと同一の型だ。彼のどっしりした威厳は わが往年の名優何桂山、銭金福に似ている。弁慶退場のところは昆曲の「三档」(さ んとう)で秦瓊(しんけい)が潼関(どうかん)を出る時、笑ったあと泣くところと 全く同じ手法である。  また演出上でも、中国の劇と似た点が多く、例えば、弁慶と富樫が互ににらみ合い、 弁慶が金剛杖を持ち、富樫が刀を持ち、二人がドラ、太鼓につれて位置をかえるとこ ろは京劇の「祥梅寺」で黄巣が廟に入る時の身振りと同じだ。弁慶の杖の持ち方もわ れわれと寸分変わりがない。彼が杖を肩へ回し右手から左手へ渡す時、見物の俳優は 1 人残らずに心に笑みをもらしたことと思う。  弁慶の一行が花道から退場する場面は極めて印象的だ。この方法は日本と中国にだ けあるもので、京劇の「跳霊官」では舞台の霊官が踊り終わったあと全部舞台を下り て楽屋をぐるりと、ひと回りする。  また公演の盛況とその意義については、梅蘭芳はこのように記述している。7  ・・・日本人民がこよなく愛する演目「勧進帳」は中国人民にも熱烈歓迎される。 主人公弁慶が「花道」から退場、「大見得」と「飛び六法」を表現するときに、劇場 内の拍手は湯が煮えたぎっているかのようである。最後のアンコールの拍手は、「ご 遠慮下さい」という放送の繰り返しがなければ、なかなか止まないであろう。これは まさに両国人民の芸術鑑賞における共通点であると言える。この度の訪中公演を通じ て、きっと両国人民の間に、一層の相互理解、思想と感情のさらなる接近、両国人民 の文化交流の新たな開始となると、私は固く信じている。今後、中日人民の友好と団 結は、益々堅固になり、アジア・太平洋と世界の平和に大いに寄与する。  この交流を通して、歌舞伎の二代目市川猿之助と京劇の梅蘭芳とは初対面にもかかわら ず互いを尊敬しあい、芸術交流を深め、互いに相手国の伝統演劇に興味を持ち、演技を学 び合う友人関係を築いた。

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2、訪中公演が受け入れられた要因  歌舞伎がなぜ中国で歓迎されたか、その要因を探る。  第一に、歌舞伎は京劇とは相似点があり、中国の観客に親しみやすく好評を得たと思わ れる。歌舞伎と京劇の持つ歴史が異なるにもかかわらず、双方とも伝統演劇として歴史的 に形成してきた形式美の追求、誇張的・舞踊的な動作、高度な発声法を演技の基礎とする 点が共通している。また、弦楽と打楽器を中心とする音楽劇の性格を持ち、様式性が強い 演劇である点も似ている。その上、感情や演技が最高潮に達した時、誇張した表現・瞬間 停止・ポーズを取る歌舞伎の「見得」は、京劇の「亮相」という表現手法とほぼ一致して いる。なお、「役柄」にも共通性がある。歌舞伎には立役、敵役、女形、荒事、道化方な どの役柄があるが、これに対して、京劇においては男役の「生」、女役の「旦」、豪傑役の 「浄」、道化役の「丑」という役柄を分けている。また、人物の性格や善悪の表現、様式化 の構成要素である歌舞伎の「隈取り」と、京劇の「臉譜」も共通点をもつ。こういった背 景から、京劇に親しんできた中国の観客は、日本の歌舞伎を鑑賞しても違和感がなく、親 近感を持って受容している。  第二に、新中国成立以降、初めて日本の歌舞伎を観た中国人は、日本文化に対する関心、 日本文化を理解する意欲を持っていたと考えられる。随行者の記述によると、観客は「積 極的に歌舞伎を理解しようとしている様子で、どの人もみんな張り切っている感じだった」 8という。戸板康二は「どの劇場へ行つても、観客は実にまじめで、笑ふ所では笑ふが、 すぐ静粛に返る」と述べている。9 また、猿之助は初日の終演後に、大道具、小道具の 責任者として同行した藤浪与兵衛に、「観客の緊張しきった感じが舞台にはねかえってき て嬉しく、精いっぱい舞台をつとめることが出来た。歌舞伎の本当の姿が十分にわかって もらえたことと思う」10と語っている。このように中国人の観客は弓の弦をぴんと張った ような緊張感の中で感情移入することができ、懸命に異文化を理解しようとした。舞台上 の演技者には、テレビや映画の場合と異なって、観客の反応が直に伝わるものである。  第三に、上述のように優れた演劇空間と時間を通して、自然にそして当然のこととして、 肉声と身体の全動作を媒介手段とする演劇文化の普遍性と特殊性という機能が日中両文化 において健全に融合していたとも言える。つまり、観客層(専門家、評論家、一般大衆) によって微妙に差異があるにもかかわらず、言葉は通じなくても、歌舞伎の写実性、ドラ マ性とストーリー、演技などにより観客は感動した。それは文化・演劇文化の持つ普遍性 が共感を呼んだためである。すなわち、その感動は、舞台で表している日本の独特な雰囲気、 特に江戸時代の情緒という特殊性を越えたものである。またこれは演劇の普遍性でもある。 動作と表情の比重が大きい古典演劇が、言語を介することなく、その劇の面白さ、主題を 観客の心に伝えることができる。歌舞伎はこうして中国の観客の心を強く打った。  第四に、来賓に対する礼儀として国の指示も推測できる。1、2 度の観劇だけで、歌舞 伎のもつ芸術性をすべての人が完全に理解し堪能できたわけはなく、その熱狂的な拍手は、 本当にすべてを理解した上で感動したという意味であるとは言い切れない。通常、中国で

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は、重要な国賓を迎えた時、参加者は、生徒であれば教師から、労働者であれば上司や地 域の共産党幹部からというように、上層部から熱烈な歓迎の気持ちを表すように指示を受 けるのが通例である。歌舞伎訪中公演は、三都市とも同じように熱狂的な 2 拍子のリズ ムの拍手や歓声を受けた。このことは、真の感動と同時に、儀礼的、遠来の貴賓に尊敬を 表すように指示された通り、観客は国のために真面目に役割を果たすよう努めたとも考え られる。  第五に、メディアの宣伝は国策を示していたと分析できる。歌舞伎のために、各都市で は一流紙である『人民日報』、『解放日報』、『南方日報』が、見開きの片面に著名な芸術家、 文学者、評論家の劇評を載せ、片面全面に写真やスケッチを掲載した特集を増やし、その すべてが歌舞伎を絶賛した。これらの新聞はすべて政府が掌握し、最も権威のあるもので ある。このことはメディアを使って国民に日本に対する親近感を浸透させようという意図 が見られる。  第六に、猿之助一行は「国賓」として盛大な歓迎を受けたと言える。具体的には、中国 政府は一行を広東から北京へ迎えるために専用飛行機を 5 機用意し、団員を分乗させて 北京まで運んだ。空港からの列車は訪中歌舞伎団のために、6 輛編成の列車を特別ダイヤ で仕立て専用列車として運行した。その上、一行が十分休憩できるように、北京 - 上海間、 上海 - 広東間の列車は食堂車付きとし、かつ大道具小道具用の貨車を特別に連結し、歌舞 伎団以外の人は乗れない、まさに「歌舞伎号」の列車であった。また、各地では到着時に 有名な芸術家・関係者、子供たちが歓迎の列を作り、全員に花束が贈られた。劇場では万 雷の拍手やアンコールを受け、多い時はアンコールが7度に及び、同行した戸板は、「... 上海などでは、2 階の席の者が一斎に立って『ハオハオ』といひながら拍手を送る姿も見 られた」、「このアンコールといひ、花を運ぶ少女たちといひ、更に拍手が 2 拍子のリズ ムにもり上がつてゆくことまで含めて、やはりこれは古いシナではない、中華人民共和国 の新礼儀ではなかつたかと考へてゐる」11と感想を記している。北京、上海、広州の 3 大 都市では一流のホテルが用意され、食事、交通、日常生活(煙草、散髪)が一切無料であ り、随時要望に答えられるように、一行の接待事務局が特設され、通訳、医師、会計など を含めて 40 名ほどの担当者が同じホテルに宿泊した。  特に、この歌舞伎の中国公演は毛沢東、周恩来、劉少奇等の中国最高指導者が観劇し、 役者と会見した。  以上の状況から次のようなことが考えられる。 まずは、歌舞伎団への対応から、中国側の観客・報道・交通・歓迎に関与した国民と関係 者は、政治的な指示または役割を持たされていた。すなわち、細部まで政府に統制されて いたということである。次に、これは中国の対日国交再開政策の一環として、文化交流つ まり演劇交流を媒体にして日本と接近することを意図していたと言えよう。この点で言え ば、猿之助一行の歌舞伎団は大きな成果をもたらした。さらに、この時期の演劇交流は日 中の対応の差があるにもかかわらず、日中とも政治的な色彩が強く、中国京劇団、中国芸

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術団が訪日の際にも、政府・政党の指導者であった石橋湛山、鈴木茂三郎、野坂参三など が観劇し、劇団の団員と会見したように、そこには両国の政治的な意図が反映されている と共に、政治的期待がきわめて強かったともいえよう。 3、日中の相互学習   歌舞伎訪中公演は、日中両国の役者の相互学習の良い機会となった。中国京劇院の俳優 の閻世善は「二人道成寺」の一節を学び、白家鱗は「勧進帳」の鎧に沿いしのところを学 んだ。二人は歌舞伎団に半月同行した。市川猿之助は、「京劇の若い俳優たちが、私らの 歌舞伎を熱心に勉強していたが、いかにも謙虚なのにも感心した」12と記している。  歌舞伎訪中団一行は、中国京劇院、中央戯劇学院、北京舞踊学校、上海人民芸術劇院な どを見学し、深い感銘を受けた。特に梅蘭芳を院長とする中国京劇院の役者養成システム と、京劇改革は、歌舞伎団一行に大きなインパクトを与えた。  中国京劇院は後継者の育成以外に、伝統文化遺産の整理と継承発展、古い伝統と新しい 演出の融合の研究に努めている。当時京劇関係者の 466 名が京劇院で研鑽しながら、三 つの劇団を組織し公演も行なう。古典劇、つまり京劇の改革については、55 年当時は、 思想的、芸術的、両面から以下のように着実に検討されていた。  即ち、原則として毛沢東主席の「その封建制の糟粕を去り、民族性の精華を取る」とい う指示に基づき、思想面では復古主義と反歴史主義を禁じた。また、人民に有益・有意義 なものを残すことを目的として、旧社会の思想や残滓を一掃するための広範な思想改造運 動・人間改造運動の一環として演劇を考え、人民の為のものか支配階級のためのものか、 歴史的なものか反歴史的なものかを判断した。  芸術面に関しては、俳優に依存するばかりでなく、俳優と同等に舞台関係者とのパート ナーシップを押し進めた。京劇の大きな特徴である唱の歌い方は、記号や文字の記録が不 完全であり、それぞれ俳優自身・名優は自分独自のものを持っている。それゆえ京劇改革 の主体は俳優にあるとした。また役者の健康を阻害するもの(例えば、

―足を圧迫す る特殊な靴)を廃止した。政府は俳優や京劇関係者の生活を保証し、俳優の学歴、教養を 高めるために、学習の機会と場所を提供し、彼らの社会的地位を向上させた。  歌舞伎団のメンバーは、上記の状況を直に見て、中国京劇のように歌舞伎の改革、つま り脚本の見直し、京劇学校のように歌舞伎の後継者を養成する学校の設立が「焦眉の急」 と感じた。このことを歌舞伎と新中国の演劇をテーマとした座談会で、木下順二は、「非 常に感じたことですが・・・江戸時代の中で育てられたものですが、やはり閉じ込められ た江戸封建性という狭さが歌舞伎にありますし、筋が通らない説明のつかないものの上に たって俳優が表現力を豊かにして来たのですから、ある意味では困るわけです。そういう ことから歌舞伎の改革ということが前からいわれているけれども、もう一遍もとに帰って 脚本の問題をもっと検討しながらやらなければならないと思います」と語り、随行した劇 評家・濱村米蔵は、「・・・向うの京劇の学校を見てもつくづく思うことは歌舞伎を勉強

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するといっても、舞台を見て目から耳から、それを体得するほかに勉強の仕方がないわけ です。それを向うの京劇の学校などでは科学的に秩序を立てて基礎的なものからだんだん やる、学修課程を作ってやっているわけです。・・・やはり何か国の力で歌舞伎の学校が できて、そうして歌舞伎の伝統の継承と、それからそれを発展させるような機関が一日も 早くできないといけないのではないかと思います・・・」13とその座談会で感想を述べ、 また「演劇を勉強する人々に取って、中国は正に天国である。学費はいらないし、芝居も 無料で一定の回数は見られる。家庭の事情困難の学生は、特別の給与を求める制度もある」 14と述べている。戸板康二は、「国が莫大な費用を投じて芸術の育成に努力してゐる事情 を見て来ると、日本へ帰ってから、反省させられることが、いかにも多すぎる・・・京劇 の立ちまわりには、アクロバットの要素がかなり多く、短い年月の修行では、技を身につ けることができない。国営の学校が、きわめて科学的に、特殊技術を仕込むシステムは、 かつての徒弟制度の俳優学校とは別な形で、京劇の芸統を今後に傳へる役割を果たすであ らう。文楽の三味線、能の囃子、そして歌舞伎の花四天や老巧なわき役といった不可缺の 存在が、後からこの道に入って来ようとする者のないままに、影が薄く行ってゐることを 思へば、一刻も早く日本でも、教程を体系的に制定した専門技術の道場を作り、芸の流れ の途絶を防止するやうにしなければならないと痛感した」15と感想を述べている。  歌舞伎一行は、「蓋叫天の舞台芸術」の京劇映画を鑑賞し、梅蘭芳の「梅蘭芳の舞台芸 術」の撮影現場を見学した。これらの映画は貴重な芸術を後世に残すために、政府が製作 させた記録映画である。このことについて戸板は、日本でも歌舞伎の記録映画を作ってい るが、俳優が時間を十分に使って撮影に没頭できることはなく、興行の合間に公演を撮影 する。それと比べてこれらの記録映画の京劇俳優は「一番先に、幸せだと思はずにはゐら れなかった」16と感想を記している。  日本歌舞伎団の同行者は、梅蘭芳が芸術家でありながら、社会的地位が認められ、国の 代表として国賓を終始歓迎すること、つまり中国が非常に芸術を尊重する国であると知っ て感銘を受けた。例えば木下順二は、「梅蘭芳なんか、国際的ないろいろの国賓的なお客 さんが行った場合に、向こうの代表的な文化人の 1 人として出て来るといつたようなこ とは、ちょっと日本なんかでは考えられないことですね」17と書いている。 三、梅蘭芳の第三回京劇訪日公演 1、周恩来の指示と梅蘭芳の決意  上記 1950 年代日中伝統演劇交流の時代背景の中で京劇の訪日公演が実現し、戦前あっ た過去 2 回の梅蘭芳訪日公演を上回るほどの成功を収めた。この成功について、招聘し た朝日新聞社の論説主幹である白石凡は、今回の成功が、「梅氏が万難を排して日本に渡 ることを決意されたことがその第一」18の要因であり、その決意があったからこそ、「中 国においても一堂には見ることができない名優をそろえる」19ことができたと述べている。

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梅蘭芳が「決意」した背景には、以下のような経緯があった。すなわち、京劇団訪日の 事業は梅蘭芳の意志に反して企画された国家事業であり、周総理が細かな指示を与え、梅 蘭芳が悩んだ末に「決意」したのである。 周総理は、上述した対日外交方針の一環として、訪日公演の企画内容を馬少波(訪日京 劇代表団の副団長兼秘書長)達に、「梅先生(筆者注:梅蘭芳のこと)は過去二回日本を 訪問して、友人が多く、日本での影響力が大きい。今回の訪日には息子の梅葆玖と娘の梅 葆玥や古くからの同僚と一緒に行くべきである。欧陽予倩は、かつて日本の早稲田大学で の留学経験があり、中国話劇(筆者注:新劇のこと)の創始者であり、京劇の芸術革新の 先駆者でもあるので、ぜひ彼の名作『人面桃花』を持って行くべきである。これで欧陽派 の芸術と風格を見せよ」20と特別に指示した。  ところが、梅蘭芳は訪日について積極的ではなかった。なぜなら、日本の中国侵略を目 の当たりにしたこと。8 年間、口髭を蓄えて出演を拒否し、芸術家としての生涯にもたら した損失は計り知れない、ということが忘れられなかったからである。21  周総理は梅蘭芳のそのような気持ちを見破って、次のように説得した。22  あなたの心にはシコリがあるようだが、当然のことながら、あなたは愛国的芸術家 であるので、今回日本へ演劇を持って行くことは、納得できないであろう。しかし、 中国を侵略したのは一部分のファシストの反動軍閥であり、これらの人々はすでに懲 罰されたことを知るべきである。今度の訪日公演は、日本国民に見せることであり、 彼らも中国国民と同様に、戦争の被害者であるから、我々は日本国民に同情しなけれ ばならない。日本国民もきっと我らを歓迎するであろう。心を開いて、快く代表団を 率いて行きなさい、成果を上げての凱旋帰国を期待している。  梅蘭芳は周恩来総理の説得を受け入れ、国の外交方針を理解し個人的なこだわりを捨て、 国のため中国京劇団を率いて三回目の訪日公演を「決意」したのである。  元々、梅蘭芳は抗日的な芸術家ではなかった。大正時代から梅蘭芳の周囲に中国文化に 敬意を抱く熱狂な日本人のファンが多くおり、梅蘭芳の芸術成功に貢献した「ブレ-ン」 23の多くは日本留学経験者である。彼らは梅蘭芳に明治維新以降の日本や、日本を通して 欧米の近代的な思想、進歩的な知識、考え方、教育システムなどを伝達し影響を与えた。 このことによって、梅蘭芳は間接的に日本に対して関心と興味および好感を持つようにな り、大正時代の二回に渡る訪日公演に繋がった。訪日公演の成功、特に第一回目の訪日凱 旋公演は、梅蘭芳の日本と日本人に対する評価をさらに高め、一層友好的になった。その 象徴的な表れは 1923 年関東大震災直後、中国の京劇界をリードして義捐公演を行い、公 演の収入および自分のポケットマネーをともに日本に寄付したことである。24一方、日中 戦争中の梅蘭芳は日本の中国侵略に抗議して、口髭を蓄え、三度転居し、俳優として脂が 乗り、最も活躍できる 40 代の貴重な時期であったにも関わらず、舞台を約 8 年間も離れ、

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中国国民として、役者生命をかけて日本が撤退するまで日本と対抗し、愛国的行動を取っ たのである。25そのような経緯を振り返ると、戦後 1956 年の第三回目の訪日公演は梅蘭 芳にとって大きな「決意」であったであろう。  周総理は訪日団が出発する前に、紫光閣で全員に、「今回の訪日公演は政治上大事なこ とであり、同時に芸術交流の重大な出来事でもある。訪日代表団の責任は中日両国人民の 友好の門を叩くことである。文化と経済はふたつの翼である。現在まず文化を先陣として 道を開き、今回は必ず勝ち戦をしなければならない、続いて経済団体も赴く」26と指示し、 中国政府の考え方として、台湾については国際社会に「2つの中国」もしくは「1 中 1 台」 の陰謀活動を許さずこれと断固として闘争うことが重要で、一方日本については、日本国 民と日本軍国主義や日本の反動政府と区別すべきことであると訪日京劇団の全員に指示し た。27  また、周恩来総理は訪日京劇団全員に、「あなた達は文化使節であり、中日友好の先陣 である。今回の訪日は我が国民の最大の利益のためだけではなく、日本国民の最大利益の ためでもある。このことこそ、両国民の利益と平和に最も合致する芸術活動である。日本 人民は戦争を呪い、平和を希求する国民であるので、必ず歓迎される」28とさらに念を押 して励ました。  なお、周総理は、全部の演目を審査し、具体的意見を提案して承認した。同時に、中国 側の中日友好協会、中国対外文化委員会、文化部29の指導の下で、日本側の朝日新聞社 と日中友好協会の招聘を受けて、梅蘭芳を団長、欧陽予倩を第一副団長兼総演出、馬少波 を副団長兼秘書長、劉佳、孫平化を副団長、欧陽山尊を副秘書長とする中国訪日京劇代表 団を結成した。顔ぶれを一見すると分かるように、それ以降の日中関係において中心的役 割を演じた大物ばかりであり、中国政府は梅蘭芳訪日を国家政策の最重要な戦略の一端と して位置づけていたことがわかる。    2、訪日公演   梅蘭芳を団長とする中国京劇団一行 86 名は香港を経由し、1956 年 5 月 26 日に羽田空 港に到着すると、日本人および華僑の盛大な歓迎をうけ、「歓迎陣にもみくちゃにされ」た。 30日中文化交流協会会長、前首相の片山哲は、「中国人民が日本国民に友好の手を差し伸 べたことを感謝する」と歓迎の辞を述べた。31  代表団は 5 月 30 日から 7 月 10 日までの約1か月半、日本各地で公演した。東京歌舞 伎座を皮切りに、その後福岡大博劇場、八幡製鉄体育館、名古屋市公会堂、京都南座、大 阪歌舞伎座で公演し、再び東京歌舞伎座でお別れ公演を行った。後述する 7 月 12 日に追 加した特別興行を含め、公演数は、昼夜2本立て興業を各1回と数えて計 32 回32に及び、 出しものは 26 に達した。昼夜 2 本立て興業は、日本でも昭和初年までは行われていなかっ たが、すでに第三回訪日団の来日した頃には 2 本立てが普通になっていた。他方、その当時、 中国では 2 本立ては行われていなかった。それにもかかわらず、京劇訪日団は日本側の

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要請に応じて 2 本立てを受け入れた。公演はどこでも大人気の状態であり、観客数は延 べ 7 万人33に達した。  どの公演も大入り満員で補助席を出すほどであった。梅蘭芳一行は広島で原爆被爆者か ら花束を贈られた後に、自主的に招待者にチャリティ公演を申し出た34。その結果、7月 12 日、京劇代表団と朝日新聞社の共催で、広島原爆受難者と戦災孤児を救済するための 義捐公演が東京・浅草の国際劇場で行われた。入場料は、最高が東京の歌舞伎座で 1,800 円、国際劇場では 700 円であったが、ここでのプレミアムの最高は 15,000 円に達し、席 が足りず、2,000 人余りの人が立ち見をした。35売り上げ金 215 万 770 円は、広島と長 崎に等分して贈呈された36  昭和天皇の弟である三笠宮殿下夫妻は観劇後、京劇の美を賛美し、「新中国の京劇は古 典芸術であるばかりではなく、現代的な芸術でもある」と祝賀した。6 月 2 日、三笠宮殿 下夫妻は、終演後に梅蘭芳と楽屋で挨拶を交わした。儀礼的な挨拶の中で、三笠宮が、自 分の兄の天皇が宮中でテレビを見て、立派な演技に感服していた、ということを明らかに した37  この三笠宮の皇室内の日常に関する発言は、以下の意味を投げかけている。  まずは、政権中枢の反共政策と、これに同調する当時の反共的な風潮の中で、リベラル な学者肌の三笠宮が観劇したことである。三笠宮はその後も、日本国家の起源をめぐって、 学者として鋭い論陣を張り、支配層を悩ませた。したがって、三笠宮の観劇は、ベールに 包まれていた皇室や極右派に、困惑の波紋を投げかけた。38  次に、テレビ放送の発達である。天皇の好き嫌いや趣味・嗜好に関する私事は、原則と して報道されないのが、当時はもちろん今日に至るまでのマスコミの申し合わせである。 しかし反対の方向、すなわち一般大衆から上流社会への情報の流れは急速に勢いを増して いた。テレビが普及したからである。39  これについては、梅蘭芳が通信社から聞いた説を伝えている。  「このところ、東京でテレビのあるホテルや食堂、その他公共の場所は小歌舞伎座になっ てしまった。統計によると、6 月 1 日の夜だけでも、テレビで京劇を見た人数は 300 万 (ふだんテレビを見る人の 3 倍)を下らない。浴場、食堂など、これまでお客の大勢集ま るところでも、京劇が始まると、急に静かになるという有様だった」40  視聴者の一人が天皇であり、そのことが公にされた。これは、単に皇室の窓が開かれた という次元に止まらない。嘗て日本では、古典的・伝統的・エリート的なハイ・カルチャー は、大衆文化(マス・カルチャー)と鋭く対立していたが、その頃はすでに、前者が後者 に吸い寄せられ、飲みこまれつつあった。41その転機の一つがこの天皇テレビ視聴報道に 示されており、これに続いたのが 1964 年の東京オリンピックの報道であった。 国会議員の多くも競って京劇公演を鑑賞した。『三岔口』を観劇していた社会党委員長 の鈴木茂三郎は、国会に呼ばれたので 3 度立ちあがったが、その度すぐに座って結局最 後まで観てしまい、「今度公演する時は自分が主役を演じる」と国会で報告したというエ

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ピソードも残されている。42  訪日団については、過去二回の訪日公演を通して、また名優梅蘭芳の名前がきわめて広 く行きわたっている実績があるので、前評判も、演劇関係者・素人の観客の批評・感想 もすべて上々であった。どの公演も札止めであった。特に専門家の解説の大部分が、前 2 回の来日公演の時と比べて、ずっと質的に高くなり、より適切な劇評を残した。言うまで もなく、テレビによって大衆的な人気も上昇した。  こうした状況をもたらしたひとつの契機は、今回の来日を迎える直前(5 月 18 日)の 朝日新聞に載った千田是也(俳優・演出家)の解説にあった。やや長いが、千田の解説を 整理して紹介する。 1.昨年中国に招かれて、20 近くの京劇を見た。大変に面白いものだと感心し、こ の面白さがどこから来ているのかを考えてみた。 2.まず京劇は、演技、舞踊、音楽、美術、文学など、あらゆる分野の要素を融け合 わせた総合芸術である。つまり、最近ではジャン・ルイ・バローなどの夢みた交 響楽的舞台芸術を、200 年近くも前からやっているわけである。 3.聴覚的・視覚的・時間的・空間的芸術-音と色と線と光と動きと拡がりと厚みを もった芸術といったのでは抽象的すぎるし、下手をすると、退屈な自然主義の泥 沼に落ち込みかねない。 4.前述のあらゆる〈術〉を総合し、それぞれの特色や力量を発揮させながら、しか も一つの渾然たる美的全体を生もうとするところに現実の反映を本領としながら も、こうした操作を大変重く見るところに民族の生きた歴史の生んだ大衆芸術と しての特質がある。 5.この総合の中心が、京劇の場合、俳優の芸術である。この国の歴史が生んだあら ゆる身体的表現の芸術(歌、踊り、せりふ、黙劇術、かるわざ)がそこに集めら れ、それらをきわだたせるために、舞台美術や舞台音楽は、むしろひかえ目にさ れている。 その代りに、俳優の身体を媒体としての表現が、その全機能をあげて、環境を描 写したり暗示したり、あるいは時の歩みを引き伸ばしたり押しちぢめたり飛び越 えたりしながら、新しい演劇的空間や時間をみごとに創り出す。 6.また扉を開くとか布を縫うとかいう動作を道具なしで現す、いわゆる無対象行動 も、京劇ではしばしば用いられている。例えば、『秋江』という芝居に、ある尼 僧が恋人を追って河を渡る場面があるが、この場合も舟は出さずに、カイを操る 船頭と尼の動きで、舟の揺れを表現する。 この方が、置きっぱなしのお能の舟や、車で引っぱる歌舞伎の舟よりも、舟に乗っ て揺れている時の身体感覚がよく見物人に伝わるし、また恋人のためにこんな冒

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険をする尼への共感も深められる。 7.京劇はきわめて多方面の才能と熟練を俳優に要求し、俳優たちもまた、子供の時 からのきびしい毎日の鍛錬によって、見事にこの要求に応えている。この全面的 演技術、その的確さ、安定性、流動性、リズムは私なども心から敬服し、ヨーロッ パの批評家たちが「死と紙一重の演技」とか「1000 分の 1 秒の時間と 100 分の 1 ミリの空間を単位として計算された動作」とかいう言葉で、口を揃えてほめて いる。 8.全面的俳優術の中で特に歌唱が重視されている。その点でまさに京劇は歌劇であ る。もちろんいくら声がよく歌がうまくとも、言葉が 1 つ 1 つ明確で、性格や 感情を現していなければ駄目である。だが、いくら言葉が明確で感情がこもって いようと、音楽的な美しさを感じさせることができなければ、一人前ではない。 京劇の曲調は、中国のあらゆる地方劇の長所を採り入れ、これに長年の工夫と創 作を加えたものであって、非常に変化に富み、役により発声法も調子も違ってい る。 9.今まで取り上げてきた形式を通して、私どもの心を楽しませるのは、なんともい えぬ京劇の明るさ、ゆたかさ、健康さだ。「中国の演劇の中では生活がほほえん でいる」とヨーロッパの批評家が書いているが、まことにその通りだ。これは、 中国の演劇的伝統の中に滔々と続いている大衆性と現実主義から来ているものら しい。さらに新中国では、京劇のその面がいよいよ強調され、輝きを増してきて いる。 10.根性の小さい「リアリスト」たちは、京劇のふんだんにもっている「象徴」に とまどい、通人たちは京劇のリアリズムなどというと、フフンと鼻を鳴らすであ ろうが、現実の正しい反映ということと、のびのびした造型の喜びとが楽しく無 邪気にむつみ合っているところに京劇の面白さがある。  上述の千田の論旨は中国誌43にも紹介されている。また、千田は、観劇後のアンケー トという形を借りて、上述の解説と同趣旨のことを述べ、さらに、日本の演劇界に与えた 京劇の影響が大きいことを論じている。44  そこでは、まず、旧守的な芸能人に対しては、京劇は、「ゆがめられた日本の古典芸術 の現状に対する反省の機縁となったばかりでなく、その改進への目標のようなものさえ与 えてくれた」と述べている。新劇に対しては、「新劇にとっては特別プラスになるような ものを残して行かなかった」という人々に、反論している。すなわち、千田は、上述 5. の論旨に沿って、身体的表現の限りない可能性を単なる職人仕事・形式主義として斥ける 人々を、ヨーロッパ的な戯曲的演劇に閉じこもるか、リアリズムを狭く囲みこむ偏見の持 ち主であると指摘して、「無論、単なる身体的熟練や姿形の美が演技ではない」と駄目を 押している。

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 この点と関連させながら、解放後の新しい京劇は、上述 10.が取り上げたように、現 実の正しい反映、思想の深い表現を追求しているが、「その点まだかなり素朴なところも あるが・・・」と条件を付けると同時に、「ゆったりと着実に本道を歩んでいるという感 じで、見ていて実に心丈夫である。これこそが常に気短に右往左往する日本の新劇にとっ ては最大の教訓であった」と日本の新劇に苦言を呈している。  河竹繁俊・早稲田大学演劇博物館館長は「京劇の夢うつつの世界に引きつけられた」45 と激賞し、劇作家の木下順二は、「言葉の分からない外国人に深い感銘を与える演劇は、 世界中に京劇以外にない」46、演劇評論家の戸板康二は「今の中国の古典劇の最高水準」「久 しく空想してきた中国伝説の美人といふものを、現実に見たといふ気持で、それから十日 経った今なほ、その昂奮は消えない」、「近頃文字通り堪能させられた公演」47と手放しで 褒めている。新派の名女形・花柳章太郎は、病み上がりの身で 3 日も続けて観劇した48  これらの発言の大部分が前述の千田による解説のどこかに結びつくが、直接に結びつか ない言及もあった。例えば、解放後の京劇改革によって女優が増えたことである。また俳 優の処遇や劇団経営が国費によって基本的に保証されている点である。特に後者について、 中国の状況を具体的に知ることができた猿之助一座と前進座一座の訪中関係者は、歌舞伎 役者の置かれた労働賃金や労働時間の劣悪さにおどろいた。49 その点では新劇俳優の状 況ははるかにひどいため、中国との交流を頻繁に行ってきた新劇俳優は、京劇について、 かねてから羨ましく思っていた。  新劇の女優・山本安英は、歌舞伎座で隣席の歴史学者・松島栄一にしみじみと、「京劇 の方々は、京劇のことだけに全力をうちこんでおられて羨ましい。私たちは、恥かしいこ とだけれど、生活の問題を考えなければならない」50と言った。  3、友好交流および梅蘭芳の思い  交流活動として訪日団一行は公演以外に、各種の友好活動と文化交流活動へ積極的に参 加した。東京、京都の多くの大学での講座、学術界・伝統演劇界・新劇界・舞踊界・作家・ 劇評論家・舞台美術家・演劇学校・女性団体との座談会を行なった。  さらに、能・狂言・歌舞伎・西崎舞・京舞・花柳派日本舞踊・雅楽を学び、教えた教師 達は、中国京劇団のメンバーの日本伝統芸術への情熱と真摯な学習態度に感動した。帰国 の直前に、2 回にわたって東京で芸術交流会を挙行した。1 回目の交流会では、日本側が 主体で能・狂言・歌舞伎の基本動作・各種の日本の民族舞踊を紹介した。中国側は、李少 春が京劇の基本動作を行ない、梅蘭芳が説明を加えた。2 回目の交流会では、欧陽予倩が 京劇芸術の特徴と戯曲構成上のいくつかの問題点について報告した。その後、俳優が細か く系統的に役柄である生・旦・浄・末・丑の基本動作を演じ、各種曲調の歌唱法、トンボ の切り方、武器の使い方と掛け合いを実演した。さらに楽団は演奏方法の紹介と各種の楽 曲演奏を行なった。このように、京劇芸術の秘伝まで包み隠さず公開したので日本芸術界 の好印象と賞賛は絶大のものであった。51

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 梅蘭芳は 7 月 16 日の送別パーティにおいて、「心の交流」と題して、次のように発言 した。52  ・・・我々は日本各界の盛大な招待を受け、私達のような外国の公演団体が、日本 国国会から特別に招かれ、行く先々で、大衆に歓迎された。このことは何を表してい るのか、これこそ日本と中国両国の国民の友好の具体的な表現である。且つこの種の 友好は今日どの方面から見ても、すでに大きな進展があり、もはや表面的なものでは なく、誠実で深遠なものであり、両国国民の共通願望に符合するものである。私は何 度も日本の友人から、中日両国国民の心はすでに交流していると聞いており、これこ そ有力な証明である。・・・我々は日本が美しく愛すべき国であり、悠久で優良な文 化伝統を持ち、日本国民が勤勉・勇敢・智恵と芸術的才能に富み、友好を重んじ、崇 高な愛国精神を持つことを深く感じた。我々は日本人から多くのことを学ぶべきであ り、お互いに学習し合うことができる。・・・我々中日両国は地理的にも近く、国民 の心は決して遠くないことを知るべきである・・・  梅蘭芳のこの発言は個人の心情を示すだけではなく、当時の日中両国の社会の風潮をも 反映していると言える。  訪日団が無事に帰国した後、周総理は副団長兼秘書長の馬少波に対して、「今回の訪日 公演は巨大な成功を収めた。芸術が日本国民の心の扉を開き、中日両国人民の友好に新し い橋をかけた」53と高く評価したように、彼らは文化使節として見事な外交活動を成し遂 げたのである。すなわち、梅蘭芳は周総理の期待に応え、周恩来指示の「勝ち戦」を期待 に背かないで果たし、その後の日中国交回復のための地均しに大きな役割を収めた。 結び  上述したように、日中戦争により両国関係が悪化し国交が断絶していた中、1950 年代 日中両国の伝統演劇交流が、両国間の友好関係を築きたいという切望により実現し大成功 を収めた。表面上は民間主導の事業ではあったが、実質的には政府による文化交流事業で あった。その成功の裏には政治的な判断、とりわけ中国の周恩来国務院総理の対日関係を 修復しなくてはならないという外交政策が働いたこと、日本社会のなかに芽生えていた対 中関係緩和を探る姿勢、があった。結果的に市川猿之助を代表とする訪中歌舞伎公演と梅 蘭芳を団長とする三回目の訪日京劇公演は、両国民から熱狂的に受け入れられ、日中友好 の先駆けとして、後の国交回復を促進したことに多大な役割を果たした。この歴史的事実 は国際関係において芸術文化交流はイデオロギー、政治を超える役割を担う大きな力を 持っていることを示している。  戦後間もない 1950 年代半ばの、日中芸術文化交流に携わる者がさまざまな困難を乗り

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越えて、広い視野で友好関係を築こうとする直向な姿は、今日も尚存在する国際関係、特 に日中関係の課題の解決にも大きな示唆を与えているのではないだろうか。 注 1 『朝日新聞』、1955 年 10 月 22 日。 2 竹柴蟹助「中国旅日記-猿之助と行をともにして-」(『演劇界』、第 13 巻第 13 号、演劇出版社、 1955 年 12 月)、83 頁。 3 濱村米蔵『歌舞伎』、みすず書房、1956 年、246 頁。 4 同上書、252 頁参照。 5 梅蘭芳「看日本歌舞伎劇団的演出」(『人民日報』1955 年 10 月 10 日)。その日本語訳は白石 記者より「梅蘭芳の「歌舞伎」評 巧みな感情表現 京劇に似た手法に感銘」という題名で、 1955 年 10 月 21 日の朝日新聞朝刊に転載されている。 6 同上。 7 梅蘭芳「日本人珍貴的芸術結晶―歌舞伎」(『世界知識』、第 20 期、北京・世界知識社、   1955 年 10 月)、27 頁。   8 濱村米蔵、前掲書、252 頁。 9 戸板康二『演劇・北京―東京』、村山書店、1956 年、10 頁。 10 濱村米蔵、前掲書、253 頁。 11 同上書、46,47 頁。 12 市川猿之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書』第 8 集、日本経済新聞社、1959 年)、 42 頁。 13 「座談会歌舞伎と新中国の演劇」(『演劇界』、演劇出版社、第 14 巻・第1号、1956 年 1 月)、 118,119 頁。 14 濱村米蔵、前掲書、284 頁。 15 戸板康二、前掲書、23,24 頁。 16 同上書、35 頁。 17 「座談会歌舞伎と新中国の演劇」、(前掲書)116 頁。 18 梅蘭芳著、岡崎俊夫訳『東遊記』、朝日新聞社、1959 年、193 頁。 19 同上書、195 頁。 20 馬少波(当時の副団長兼秘書長)「泛舟滄海 立馬昆侖―憶周恩来総理親自運籌的中国京劇代表 団訪日之行」(『旅游』、総 98 期、1 月、旅遊雑誌社、1992 年)、9 頁。 21 梅蘭芳の家族によると、梅蘭芳は日中戦争中、公演をしなかったため、経済的に困窮した。彼は、 自筆の絵画、書道の作品や財産を売ることによって生活を確保したという。 22 福芝芳(梅蘭芳夫人)述、許姫傳記(梅夫人の福芝芳が口述、許姫伝が記述)「憶蘭芳」(許姫傳、 許源來『憶芸術大師梅蘭芳』、中国戯劇出版社、1986 年)、4,5 頁。 23 梅蘭芳の書斎「綴玉軒」を芸術サロン化し、各界の名人がここに集まり、長年にわたって梅蘭芳 を支えるブレーンとなり、梅蘭芳の芸術革新や演目の創出と改良に貢献した。中には日本留学経 験者は少なくなかった。 24 1923 年 9 月関東大震災の直後、梅蘭芳は直ちに “全国芸界国際助賑大会” を開催し、日本の震 災を救援する義捐金を集めようと呼びかけた。北京の京劇名優達がこれに呼応して、10 月 2 日 と 3 日に義捐公演を行なった。その公演の純益の7千 95 元 3 角という義捐金を中国外交部に託 したという。梅蘭芳はこの義捐公演以外に、日本公使館の芳沢公使宛に個人として書簡を添えて 500 元の寄付金を届け、“日本被災児童救援舞踊会” において『紅線盗盒』を演じ、各界の要人 など参加者1千 3 百余名、義捐金1万余元を集めたとのことである。吉田登志子「梅蘭芳と関

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東大震災」(『中国芸能通信』、第 38・39 合併号、中国芸能研究会、1999 年)による。 25 梅蘭芳は日中戦争中様々な理由で日本軍の前で公演することを拒否した。特に徹底した例とし て有名な出来事は、1942 年に梅蘭芳が上海に戻った後、日本と妥協した汪精衛政権は「大東亜 戦争勝利」一周年記念のため、梅蘭芳一座に対して、南京・長春・東京への祝賀公演を強制す る命令を出した。しかし、梅蘭芳はコレラの予防注射を 3 本打ったため、連日 42 度の高熱を出 し、昏迷状態になり、公演不能となったことである。梅紹武『我が父梅蘭芳』(百花文芸出版社、 1984 年)による。 26 福芝芳(梅蘭芳夫人)、前掲書、5 頁。 27 馬少波、前掲稿、9 頁。 28 同上。 29 日本の文部省に相当する。 30 『朝日新聞』、1956 年 5 月 27 日。 31 同上。 32 『朝日新聞』、1956 年 7 月 13 日。 33 同上。 34 梅蘭芳著、岡崎俊夫訳、前掲書、47 - 50 頁。 35 同上書、参照。 36 『朝日新聞』、1956 年 12 月 22 日。 37 梅蘭芳著、岡崎俊夫訳、 前掲書、20 頁。 38 文化人類学者鈴木二郎へのインタビューによる。 39 文化人類学者鈴木二郎へのインタビューによる。 40 梅蘭芳著、岡崎俊夫訳、前掲書、64 頁。 41 文化人類学者鈴木二郎へのインタビューによる。 42 梅蘭芳著、岡崎俊夫訳、前掲書、参照。 43 欧陽山尊「中国訪日京劇代表団在日本」(『戯劇報』、総第 33 号、芸術出版社、1956 年 9 月)、19 頁。 44 千田是也『千田是也演劇論集』第 3 巻、未来社、1985 年、51 頁。 45 欧陽山尊、前掲稿、17 頁。 46 同上稿、17 頁。 47 戸板康二、前掲書、96,97,98 頁。 48 伊藤寿二「梅蘭芳一行の京劇の魅力」(『幕間』、134 号、和敬書店、1956 年 7 月)、46 頁。 49 瀬川菊之丞「演劇人の養成」(宮川雅春編『前進座中国紀行』、演劇出版社、1960 年)、    258 - 265 頁。 50 松島栄一「京劇の印象・その 2」(『演劇界』第 14 巻・第 7 号、演劇出版社、1956 年)、100 頁。 51 欧陽山尊、前掲稿、19 頁。 52 梅蘭芳「話別酒会上的両心交流」(『東遊記』、中国戯劇出版社、1957 年)、88,89 頁。 53 馬少波、前掲稿、10 頁。

参照

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