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狂歌陸奥百歌撰

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Academic year: 2021

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(1)

狂歌陸奥百歌撰

著者

高橋 章則

雑誌名

東北文化資料叢書 ; 第5集. 近世文学史料

発行年

2010-03-31

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東北文化資料叢書第五集

近世文学資料

狂歌陸奥百歌撰

東北大学大学院文学研究科東北文化研究室

二〇一〇年三月

東北文化資料叢書第五集 狂歌陸奥百歌撰 二〇一〇年三月

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東北文化資料叢書第五集

近世文学資料

狂歌陸奥百歌撰

東北大学大学院文学研究科東北文化研究室

二〇一〇年三月

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東北文化資料叢書   第五集   近世文学資料

﹃狂歌陸奥百歌撰﹄

目  次   凡  例 2   解  説 3    一、 ﹃狂歌陸奥百歌撰﹄について    二、冨田本の意義    三、版元   芳潤館池田屋源蔵    四、編者   千柳亭唐丸    五、狂歌と地域文化    六、仙台圏の狂歌享受層︵一︶    七、仙台圏の狂歌享受層︵二︶    八、本書の活用   翻  刻 17   影  印 31   改訂増補作者姓名居所分類︵索引︶ 87

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凡  例 一 、 ﹃東北文化資料叢書﹄は、東北大学大学院文学研究科東北文 化研究室が、東北地方の文化と歴史の研究に資するための資 料を逐次刊行するものであり、本書は同叢書の第五集に当た る。 二 、本書は、福島県伊達市伏黒の冨田家に伝存する板本﹃狂歌 陸奥百歌撰﹄ を翻刻したものである。 その書誌は以下である。   狂歌陸奥百家撰   半紙本一冊   ○底本   個人蔵。   ○表紙   無地藍色。縦二二 ・ 一糎、横一五 ・ 五糎。   ○題簽   原題簽、子持ち枠に﹁狂/歌   陸奥百歌撰   全﹂   ○構成   見返しに、編者、内題、書肆の序。序一丁。画像を 含む本文五〇丁。作者姓名居所分類︵編輯者名、画 工名を含む︶二丁半。刊記半丁。合計五四丁。   ○内題   ﹁狂歌/画像   みちのく百歌撰﹂ 。   ○序文   六樹園︵宿屋飯盛︶自筆版下。   ○編者   千柳亭唐丸。   ○丁付   本文ノドに﹁一∼五三大尾﹂ 。   ○柱刻   ﹁陸奥百歌撰   串︵柳連の印︶ ﹂。   ○匡郭   四周単辺。縦一七 ・ 六糎、横一二 ・ 九糎︵平均︶ 。   ○挿絵   東澤︵中川一清︶   ○蔵書印   五三丁裏郭内左下﹁冨田蔵書﹂ 。   ○刊記   五三丁裏に﹁文政二季己卯十月發行/国分町十九軒      /仙臺書肆   芳潤館   池田屋源蔵   梓﹂ 。 三 、翻刻にあたっては、原態を再現することにつとめたが、読 解に便利なように適宜、読点を補い、丁付を算用数字で記し た。 四 、漢字の旧字体については、原則としてこれを避け、今日通 用の字体に改めたが、 名前の場合にはそのままとした。 また、 仮名の変体についても今日通用の字体に改めた。 五、本資料叢書の解説の執筆と翻刻は、高橋章則が担当した。

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解  説   一、 ﹃狂歌陸奥百歌撰﹄について   ﹃狂歌陸奥百歌撰﹄は、文政二 1819年十月に仙台の芳潤館から 刊行された狂歌の撰集であり、 撰者は仙台の ﹁千柳亭唐丸﹂ が、 画工はやはり仙台の﹁東澤﹂がつとめた。   狂歌は天明年間に江戸を中心に流行し、以後全国にその享受 層を拡大してゆく文芸の一ジャンルで 、﹁ 連 ﹂ と呼ばれる同好 者集団を形成するとともに作品集はもちろんのこと浮世絵師が 描く挿絵、作品募集の﹁公告﹂ 、成績優秀者をまとめた﹁番付﹂ などの諸種出版媒体を活用しつつ享受層を拡大していった。有 名・無名の狂歌人が全国津々浦々に存在したことは、狂歌撰集 や番付の作者名の上に記された居住地名を見るならば一目瞭然 である。   和漢の古典に対する知識を駆使して作成した作品の出来をき そう競技的な性格を有する狂歌の世界においては、習練のため に活用する教養書とともに先人や同時代人が作成した狂歌集を 参考にすることが高評価を得るためには不可欠であった。その ため、ほとんどの狂歌人は傍らに有題・無題の狂歌本を携え、 再読・熟読していたのであった。   そうした狂歌本の中には、 本書のごとき ﹁百﹂ ないしは ﹁五十﹂ ﹁ 三十六 ﹂ などの数字を冠する作品集が少なくない 。﹃ 文化新 撰狂歌百人一首﹄ ﹃狂歌五十人一首﹄ ﹃狂歌三十六歌仙﹄のよう な成績優秀者の肖像をともなう狂歌本が、江戸の著名﹁判者﹂ ︵選評資格保持者︶が主宰する全国規模の﹁連﹂はもとより、 地方の﹁連﹂などが主体となって作成されたのである。地方に ﹁判者﹂が割拠するに至る文化年間からはじまる流行と言って もよい。   ﹃狂歌陸奥百歌撰﹄は、そうした流行に棹さした狂歌撰集の 一つであるが、同種の撰集と比べると残存の点数が明らかに少 ない。その理由は様々考えられるが、所収作者を﹁陸奥﹂に限 定したことと、出版者が仙台の書肆だったことが主たる要因で あろう。類似する撰集のほとんどは地方で編まれた場合にも江 戸が出版地であるのに対し、本書は刊記から明らかなように仙 台の地方出版にかかるものである。そして、収められた狂歌人 のほとんども出版の時点では﹁陸奥﹂限定の有力作者たちだっ た。   しかしながら、出版時期が文政二 1819年と、同種の撰集として は比較的早く、編者千柳亭もこの時はまだ駆け出し判者の立場 にあったのであり、 それらのことを勘案すると、 本書は ﹁陸奥﹂ 狂歌界の出発ないしは独立を宣言する記念碑的な作品集と評す べき魅力的な狂歌本なのである。   さて、 ﹃補訂版国書総目録﹄によると、 ﹃狂歌陸奥百歌撰﹄の

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板本の所蔵先は東北大学附属図書館狩野文庫に限られる。ただ し、仙台市博物館阿部次郎コレクションには板本が、また仙台 市図書館には岡台輔旧蔵の写本がある。そして、本書が底本と する冨田良章家所蔵の板本を確認することができ、全くの孤本 と言うわけではない。   上記伝存本のうち、狩野文庫本は﹁狂歌陸奥百家 撰﹂という 書き題簽を有し 、 松紋を施した美麗な表紙を有するものであ る。その狩野本は、対校の結果、題簽を含む表紙が改装された ものであること、さらには序文と冒頭の歌人二人の肖像・作品 を含む二丁半と巻末の作者の名簿 、 刊記の三丁を欠くもので あった。また、阿部次郎旧蔵本は題簽を欠き﹁陸奥百歌仙﹂と いう別書名を持つもの、岡家本は文政二年刊本の幕末・明治期 作成の写本であり、欠丁があるものである。   それらに対して、冨田本はページをめくる際に付けた使用痕 とみられる汚れは著しいものの題簽を含む諸要素の揃った最良 の伝本である。のみならず、最初の所蔵者は本書に画像の掲載 される狂歌作者 ﹁ 洋 々亭 ﹂︵ 35頁 ︶ であり 、 以 後 、 代々の当主 が引き継いできた伝来の筋のはっきりしたものである。   洋々亭同様に本書が掲載する狂歌作者のもとには本書が配架 されていたと考えられ、今後、彼らの子孫のもとから本書が発 見される可能性はある。しかし、刊行後の二百年近い年月や近 代における狂歌をめぐる環境の変化や認知度の低さを考える と、伝存の可能性はさして高くないであろう。ということで、 冨田本が有力な伝本であるという位置づけに変化は起きないと 考えてよかろう。   二、冨田本の意義   叙上の通り、冨田本の旧蔵者は﹁畠竹広、別号洋々亭﹂とい う狂歌号・狂歌名を有する実作者で、 ﹁伊達伏黒﹂ ︵現在の福島 県伊達市伏黒︶に住んだ本姓名﹁冨田七五郎﹂である。   天明元 1781年に生まれた冨田七五郎は、諱を以孝、字を叔諧と いった。彼は近隣の保原に住んだ豪農にして儒学者である熊阪 台州に師事し漢詩・漢学を身につけ、地域の初等教育に当たる 一方で、狂歌に関心を示し、江戸の鹿津部真顔から﹁判者﹂資 格 を 得 て い る。そ の 狂 歌 号 が﹁洋 々 亭﹂で あ る。没 す る 安 政 三 1856年までの時期、東北の狂歌界の中心地と言っても過言でな い﹁桑折﹂の狂歌人とともに、彼はその名を全国に轟かせたの である。   狂歌実作者﹁洋々亭﹂の元にあったのが本書であり、本書巻 末に附せられた﹁作者姓名居所分類﹂にはまさに彼の実名と居 住地とが記されている。そして、 同じ伏黒に住んだ ﹁本場種彦﹂ こと﹁小野左右輔﹂ 、﹁弘大寺無辺法師﹂こと﹁光台寺住隆禅﹂

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の名や、桑折最大の狂歌人﹁上水亭下見﹂の本姓名﹁久保理右 衛門﹂もそこには見える。   そうした狂歌実作者の居住地と実名とを記した作者名簿が巻 末に完備することが本書の最大の意義であり、魅力である。   というのも、十九世紀に入り全国にその享受層を拡大した狂 歌であるが、狂歌本内の作品に附された作者名はおおむね﹁○ ○堂△△﹂といった狂歌号・狂歌名であり、実名が判明するこ とは稀である。十九世紀のムーブメントとしての狂歌の流行は 明らかであるものの、それを実在の人物によって裏付けること が困難なのである。   完本である冨田本巻末の﹁作者姓名居所分類﹂は、狂歌の流 行を地域 ・ 人物に即して可視化することを可能にするのであ り、その意味からして本書の歴史資料としての価値は高い。と りわけ、従来ほとんど手付かずの状況だった現在の宮城県域に 居住した著名狂歌人の実名が集中的に現れることは、この地域 の江戸期の文化状況についての研究に資するところ大である。 もちろん、研究の進んでいる福島県域の狂歌人をめぐる情報も 豊富である。本書は、地域の伝統文化についての従来の理解に 補正や修正を迫る可能性を秘めているのである。   一方、文政二 1819年に池田屋源蔵が上梓したとする刊記の存在 と池田屋による﹃狂歌陸奥百歌撰﹄をめぐる案内文を有する内 題が完備していることも重要である。   江戸時代の仙台の出版は、三都や名古屋に次ぐものとされ、 書籍の二次的な翻刻︵いわゆる海賊版を含む︶などに特色があ り、江戸の流行に追随する傾向が顕著である。また、啓蒙的な 書籍を多く板行していたことでも知られ、仙台藩版の流布など に関わっていたことも明らかになっている。そうした初学向け 出版に特色のある仙台の書肆のなかに、狂歌の普及のために狂 歌本を板行する書肆が現れたのである。   狂歌本の制作とその前提となる定例の狂歌の会合 ︵﹁ 月次 会 ﹂︶ の維持に書肆との協同 ・ 協力が不可欠であったことは 、 狂歌本の刊記や月次会の広告などから明らかになっている。江 戸や名古屋の書肆の店主には狂歌作者であった者も多い。   そうしたなかで、仙台の芳潤館池田屋源蔵も狂歌の世界に接 近したのである。彼は﹁陸奥﹂の著名狂歌作者の一覧が﹁初学 の人﹂の益になり、作者名簿の附記が他国からの作者訪問を容 易にするという明確な意図を持ちつつ本書の作成を千柳亭に依 頼したのである。本書冒頭の案内文は、仙台の狂歌の普及に書 肆芳潤館が一役買おうとしていたことを雄弁に語るのである。   ﹃狂歌陸奥百歌撰﹄刊行後の文政・天保年間から幕末にかけ て仙台藩領内には狂歌人口の著しい拡大が起こっている。その ことが本書の刊行とが直接に結びつくものではないにしても、

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地域の文化の形成に果たした書肆の役割を検証する素材の一つ として本書を意義付けることができるのである。   三、版元   芳潤館池田屋源蔵   本書を板行した芳潤館池田屋源蔵について附言する。矢島玄 亮﹃徳川時代出版者出版物集覧﹄によれば、芳潤館の刊行物に は、    小野篁歌字尽 ︵ 天 明 8 年 ︶、 か がみ山旧錦絵下 、 御成敗式 目︵文化 9 ︶、塩竃詣文章、小学六冊︵寛政 8 ︶、商売往来 ︵寛政 9 ︶、初学文林宝鑑、書状早指南︵天保 3 ︶、通俗古 状揃宝蔵 ︵文化 8 ︶、 手紙の案文 ︵文化 8 ︶、 二十四孝集 ︵安 永 5 ︶、松島往来︵文化 4 ︶、みちのく百歌撰︵文政 2 ︶ の十三種があったという。また、小井川百合子﹁仙台の書肆雑 纂﹂ ︵﹁仙台市博物館年報﹂第七号︶は、他書肆との合刻を含め 芳潤館には他に    御家正流手紙之文言︵文政 13年︶ 、女 今 川、女 小 学、子 供 早学問 ︵文政 2 ︶、 実語教童子教 ︵文政 2 ︶、 真草千字文 ︵享 和 3 ︶、仙府神社仏閣案内記︵文政 1 ︶、大栄商売往来︵寛 政 9 ︶、大増補塵劫記、大増補男女一代八卦︵文政 6 ︶、近 道子宝童子知恵袋︵文政 1 ︶、通俗古状揃宝箱︵文化 8 ︶、 童訓商売往来 ︵文化 10︶ 童蒙須知 ( 文化 6 ︶、 百人一首 ︵文 化 14︶、文化新刻永徳塵劫記大成︵文化 2 ︶ など十六種の刊行物があったことを明らかにしている。安永年 間の﹁二十四孝集﹂を皮切りに出版を手がけ、初学者向けの読 み書きの手本類の出版を得意としたのが芳潤館である。   芳潤館は上記の書籍の他に、西村明観の﹃農家手習状﹄とい う往来物の蔵板元となっており、同本には﹁地本類卸﹂と自ら 表記している。池田屋源蔵は、浮世絵や草双子などの幼童向け の冊子を江戸から仕入れ、自らも板行し販売する書商であった と見られるのである。   そうした地本問屋の芳潤館池田屋源蔵が、新たなジャンルで ある絵入り狂歌本の編輯を文政年間に至り千柳亭に依頼したわ けである。 ただし、 狂歌本のほとんどは書肆名を記さないから、 芳潤館がそれ以後、狂歌本の作成に携わったか否かは不明であ るといわざるを得ない。   四、編者 千柳亭唐丸   編輯者﹁千柳亭唐丸﹂は、仙台藩の医官錦織即休︵寛政五 1793 ∼元治元 1864年︶の早い時期の狂歌号・狂歌名である。彼につい ては﹃仙台人名大辞書﹄が次のようにまとめている。    侍医。仙台藩医員にして名は弘景、字は子徳、狂歌を善く し、 千柳亭綾彦と号す、 遠祖念西公以来の名家にして、 世々

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著座に班し、 三百石を食む、 即休の遠祖某曽て大明に入り、 禁方秘冊等を得て帰り、其名一時に鳴る、即休また名手と 称せられ、医員の上班にあり、紅裏服を許さる。時人皆曰 ふ、死なば即休と、蓋し即休の一診を得れば、死するも恨 みなしとの謂いなり、其世に推尊せらるゝこと此の如し、 其母千錦堂百綾狂歌を善くす、即休従ひて学び、後ち一大 家をなし、海内目して狂歌の大宗匠と為す、千柳亭綾彦の 名海内に震ひ、凡そ其門に入るもの前後四千人の多きに及 ぶ、而して其歌は狂体と曰ふと雖も、調格優逸にして本歌 と異なることなし 、 亀の歌に曰く 、﹃ 限りある亀の齢をう らやむは、君が代しらぬ心なりけり﹄其句調の隠雅なるこ と概ね此類なり、元治元年五月五日歿す、享年七十、仙台 新寺小路林松院に葬る。 ︵仙台史伝︶   名医として知られた錦織即休は、 一方では狂歌の著名 ﹁宗匠﹂ であった。宗匠とは全国組織である﹁連﹂ ︵﹁側﹂とも言う︶の 統括者の意味である 。 千柳亭は仙台に根ざした地域の狂歌グ ループ ︵﹁千柳側﹂ ・﹁柳連﹂ ないしは ﹁仙台千秋連﹂ と呼ばれる︶ の主宰者であるばかりではなく﹁千秋側﹂という全国に拡がる 狂歌組織の中心人物であった。   天保八 1837年の菅原長根の序を有する狂歌判者の名録である ﹃新狂歌 䣫 初編﹄は﹁千秋側﹂の判者として﹁千柳亭一葉﹂を 掲げ 、﹃ 新狂歌 䣫 二編 ﹄ は千柳亭が率いる ﹁ 千柳側 ﹂ の判者と して ﹁ 千菊園   陸奥仙台伊藤千條 ﹂﹁ 千巻堂   仙台田尻荒町   壺中天楽﹂ ﹁柳園   陸奥仙台   千葉石門﹂の三人を掲げている。   そうした著名な狂歌作者・判者・宗匠である千柳亭をめぐる エピソードは﹃狂歌現在奇人譚﹄のような逸話集などに納めら れるとともに、多くの狂歌本に経歴や肖像画が掲載され、その 数は枚挙に暇がない。誤解を恐れず表現するなら、文政期後半 からの狂歌本で﹁千柳亭﹂の現れないものを探す方が難しいほ どである。   それらのうちから、ここでは千柳亭が狂歌の世界へ踏み出し た初期の記述となる ﹃ 狂歌画像作者部類 ﹄︵ 文化八 1811年︶と、 彼の経歴と歌風を記した ﹃本朝風俗水滸画像集﹄ ︵嘉永七 1854年︶ 、 狂歌界の代表人物を掲載する ﹃ 狂歌人物誌 ﹄︵ 明治年間 ︶ の 記 述を紹介する。   まず最初の ﹃ 狂歌画像作者部類 ﹄︵ 狩野文庫蔵 ︶ に は 、 次 の ようにある。    糸唐麻呂   唐麻呂、字即休、別号柳眠亭、錦織氏、奥州仙 台ノ医官   ﹁ 糸唐麻呂 ﹂ と称した千柳亭の最初の狂歌号は ﹁ 柳眠亭 ﹂。 右の記述は彼が十八歳の時のものであり、その時すでに狂歌号 を有していたことから、相応のキャリアを有する早熟の狂歌人

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であったことがわかる 。︵ この時 、 ま だ ﹁ 一 葉 ﹂ を名乗ってい ないことに注意。 ︶   その彼の狂歌歴に大きな影響を与えたのは母﹁千錦堂百綾﹂ である。同じ ﹃狂歌画像作者部類﹄ には彼女の肖像が収められ、 ﹁錦百綾   百綾、別号千錦堂、奥州仙台ノ人、糸唐麻呂ノ母﹂ と紹介されている 。﹃ 狂歌陸奥百歌撰 ﹄ に序文を寄せた六樹園 宿屋飯盛の撰にかかる﹃狂歌画像作者部類﹄は、当時の狂歌界 を二分する﹁五側﹂と呼ばれる六樹園系統の代表歌人を掲載し たもので 、 そ こに画像が納められることから千錦堂の実力が 並々ならぬものであったことが知られる。 上 ﹁千錦堂百綾﹂ ︵狂歌画像作者部類︶ ・下 ﹁千柳亭綾彦﹂ ︵本朝風俗水滸画像集︶   中国の﹃水滸伝﹄のヒーローに託して著名狂歌人を紹介する 龍の門梅明撰 ﹃ 本朝風俗水滸画像集 ﹄︵ 狩野文庫蔵 ︶ に は 、 千 柳亭の狂歌の系統と歌風とを明示する記述が二箇所にわたって 掲載されている。その記述を併載する。なお、同書の画工は一 猛斎芳虎である。    ○千秋庵三陀羅翁晩年の門人なり。初名唐丸。後、文泉舎 余繁に譲る。後、六樹園翁并水魚の人々勧むるによりて師 翁の初名をうけ継て一葉と更む。 又後、 千菊園千條に譲る。 天保の初、千種正三位有功卿より﹁言の葉の高樹たてゝお りいたせ磯も錦もおのかまに

﹂といふ御歌に添て綾彦 と名を給ふ、千柳亭の額は蜀山翁の書する所、又清の江雲 閣道光八年に書して送る処也、 ︵上巻四十二丁表︶    ○荷田の春満に習ふとにはあらて漫に恋の歌をよます、出 題にも恋の題を出す事なし、されと東都月並の報条に恋の 題のをりはやむをえすよみ出す、 ︵同五十四丁表︶   千柳亭は初名﹁唐丸﹂から﹁一葉﹂へ、そして﹁綾彦﹂へと 狂歌名を改めた 。﹁ 一葉 ﹂ は師千秋庵三陀羅の狂歌名を襲った ものであり、後にそれは仙台在住の弟子である前掲﹁千菊園千 條﹂に譲渡された︵以後、彼は﹁千菊園一葉﹂を名乗ることに なる︶ 。   最後の﹁綾彦﹂という狂歌名は京都堂上歌人を代表する千種

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有功から贈られた名である。なお、 千柳亭の書斎には ﹁千柳亭﹂ という額が掲げられていたが、それは狂歌界の巨人大田蜀山人 の筆だったという。   ﹃本朝風俗水滸画像集﹄が指摘する注目点は、千柳亭の歌風 である。彼は﹁恋﹂の歌を好まなかったといい、 ﹁出題﹂ ︵歌題 の提示︶でも﹁恋﹂の歌を出さなかったというのである。ちな みに 、 狂歌の歌題は基本的に ﹃ 古今和歌集 ﹄ 流 の ﹁ 四 季・恋・ 雑﹂ からなるが、 千柳亭の編んだ狂歌集には ﹃狂歌四民集﹄ ﹃狂 歌二十四剛 ﹄﹃ 剛臆狂歌合 ﹄ のごとく人物を主題としたものが 多く、古今流に言えば﹁雑﹂の部類に属する歌題を求める傾向 が強いのであるが、それは﹁恋﹂の歌を好まない彼の性向から くるものと解釈すると分かりやすい。興味深い指摘である。   さて 、 第三の資料である四世絵馬屋額輔 ﹃ 狂歌人物誌 ﹄︵ 国 立国会図書館蔵写本、 ﹃江戸狂歌本選集﹄ 第十五巻所収︶ の ﹁ 千 柳亭唐丸﹂の記述は、以下のごとくである。    唐丸は奥州仙台侯の医官なり、 源姓にして名弘景、 字子徳、 通称を即休といふ。其先は清和天皇の裔孫近江国の住人錦 織判官義弘より出て、世々錦織をもて氏とす。六勿園、千 柳亭といひ、又一休か髑髏の戯れより出て悟容人といふ戯 号あり。又乳の下に相対して大なる黒子あるをもて双星子 とも号せり。猶朝、三亭、茅山人等の号あり。文治年中よ り連綿として医を業とす。性狂歌を好み、三陀羅法師の門 に入り、後に文泉舎余繁と云者に唐丸の名を譲りて師翁が 初名を継ぎ一葉と改めしか。又後に千菊園千条といふ者に 譲れり。天保の初年正三位千種有功卿より      ことの葉の高機たてゝ織いたせ綾も錦もおのがま に

   といふ歌にそへて綾彦といふ名を賜はりしといふ。庵中に かゝげし千柳亭の額は蜀山人の筆なりとそ。或時軒に釣せ し風鈴の内に附置し古銭を盗み去りし者ありけれは      なか

にかしましからて風鈴の銭なき庵そ住よか りける    とよみしといふ。其他世に聞へし秀吟少からす。元治元甲 子年五月五日、享年七十二歳にて没す。仙台八ツ塚︵今新 寺小路といふ︶曹洞宗昌峰山林松院に葬る。法号﹁無何有 院柳翁離塵居士﹂   前半部分には、錦織氏の遠祖が近江国の住人であったことや 彼の身体的な特徴などが記される。その上で、千柳亭の諸種の 号が紹介される。彼は漢詩を作り、俳人・歌人たちとも交流を 持った。また、絵を描くこともあったようであるから、それら の号は狂歌号に限定されないと考えるべきである。   ﹃狂歌人物誌﹄の中間部分の記述は、ほぼ前掲﹃本朝風俗水

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滸画像集﹄の記述に拠ったもので、後半部にある風鈴の逸話は ﹃狂歌現在奇人譚﹄に見えるものである。   ところで、 千柳亭の伝記を見て誰しもが戸惑う ﹁藩医﹂ と ﹁ 狂 歌作者﹂との二面の関係について、狂歌の文化史的な意義を補 足すべく、以下に贅言しておく。   医者は職業上 、 儒書を含む漢学的な素養を不可欠とするか ら、漢詩作りが得意であっても誰も疑いの眼差しを向けない。 ところが、狂歌が得意だとなると、彼らの基礎教養や医学の素 質と背反し矛盾すると考える向きが強い。医者であるにもかか わらず狂歌を作っていた、と紹介されるのである。狂歌がふざ けた余興の戯れ事であるとの一般的な解釈から、そうした認識 が生まれる。   しかし、先にも触れたように、狂歌とくに十九世紀の狂歌は 和漢の教養に裏付けられた機知を作品に表現する傾向が強く、 教養人の﹁知﹂の競い合いの側面が色濃い。そのために、 ﹁文﹂ の技量によって世を渡ろうとする下級武士や町役人、村役人、 上層商人などに狂歌の享受層が多い。同じく僧侶や神職、そし て医師も狂歌を好んだ社会階層であった。   したがって、千柳亭のみならず各藩の医師たちのうちに有名 な狂歌作者・狂歌判者を指摘することはたやすい。文学的・芸 術的な素質というよりは﹁知﹂の運用や応用の側面が優ったが ゆえに、江戸期には医者に代表される教養人はこぞって狂歌を 作ったのである。   千柳亭は ﹃ 画賛振五本柳 ﹄︵ 文化十二 1815年 、 狩野文庫蔵 ︶ と いう撰集で自らを﹁五変化判者﹂と評している。いろいろな立 場に立って作品を作り評価ができるという意味である。彼はま さ に﹁知﹂ を駆使する時代を象徴する多面的な教養人なので あった。   五、狂歌と地域文化   千柳亭の伝記のうちで 、﹃ 仙台人名大辞典 ﹄ が 掲げた入門者 が﹁四千人﹂に上ったという記述は避けて通れない。というの は、その数値の解釈いかんによって江戸時代後半期の仙台なら びにその周辺地域の文化状況の理解に差違が生ずるからである。   狂歌の世界には複数の全国﹁連﹂が存在し、地域にはそれら の下部﹁連﹂が併存し、共存した。狂歌界の巨人千柳亭の系統 とはいえ、四千人もの弟子が仙台近辺に存在したとすると、他 系統の﹁連﹂も同地には存在したのであるから、それらの構成 員を含めこの地域が全国でも稀な狂歌人集中地と見なさざるを えなくなるのである。それは、狂歌の地域への浸透度をめぐる 従来のイメージを一変させるものである。   ただし、残念ながら、興味深い﹁四千﹂という数字の出所は

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不明である。したがって、その人数の全てを仙台ないしは近隣 地域における千柳亭への直接の入門者と結論し、狂歌研究の常 識を覆すことは留保せざるをえない。狂歌と地域文化の相関へ と拡大する﹁四千﹂をめぐる問いには直接には回答することが できないのである。   しかし 、 だからといって 、﹁ 四千 ﹂ という数値を千柳亭を顕 彰するあまりの伝記的な誇張と片付けるべきではない。   先に触れたように 、 狂歌界において は﹁連﹂ ︵﹁側﹂ ︶と 呼 ば れる全国組織が階層をなして存在し、中心の﹁連﹂のもとに下 部の﹁連﹂が帰属する構造ができあがっている。千柳亭は師千 秋庵三陀羅の築いた﹁千秋側﹂という巨大な全国﹁連﹂を仙台 にあって統括していたのであるから 、﹁ 四千 ﹂ という数字も 、 そうした階層化し全国に散らばる門弟、しかも長期間にわたっ て活躍した千柳亭の門弟の総数と考えれば、むしろ少ないと言 えるのである。   なお附言するならば、諸種の狂歌集は千柳亭が江戸に滞在し 作品を制作したことや江戸で判者を務めたことを物語ってい る。そうした江戸滞在が藩医としての任務から派生する副次的 なものなのか、千秋側の宗匠としての立場からくる第一義的な ものなのかは不明である。ただし、江戸であれ仙台であれ千柳 亭が宗匠として全国へ指示を発したのは事実であるから、彼へ の入門者は相当数に上ったと考えた上で 、﹁ 四千 ﹂ という数字 の妥当性を議論すべきであろう。   六、仙台圏の狂歌享受層︵一︶   では、そうした千柳亭への入門者数を仙台とその周辺地域に 限った場合、 どの程度のものと推定することが可能であろうか。   年次限定的な地域別名簿などは未だ発見するに至っていない から、ここでは﹁千秋側判者披露大角觝﹂という案内広告と、 千柳亭一周忌の追悼狂歌合と三回忌の追悼狂歌合をめぐる﹁番 付﹂を活用して概数を考えてみたい。   さて、千柳亭配下の﹁千秋連﹂に属したのが仙台領田尻に本 拠を置く﹁霞城連﹂である。そのグループを率いたのは、前掲 ﹃新狂歌 䣫 ﹄ が ﹁千柳側﹂ として掲げた ﹁千巻堂天楽﹂ であり、 千巻堂が﹁判者﹂として独立する際に開いた狂歌合が﹁千秋側 判者披露大角觝 ﹂ である 。﹁ 大角 觝﹂は﹁大 相 撲﹂ のことで 、 狂歌界には相撲同様に東西や左右に分かれて作品の勝負を決す る狂歌合というものがあり、 それを相撲と表現する。 ここでは、 ﹁判者﹂となったことを披露すべく作品評価会のいわば行司役 を千巻堂が務めたというのである。   その催しの ﹁ 広 告 ﹂︵ 仙 台市 、 個人蔵 ︶ に は 、 現在の宮城県 域に今回の狂歌合の開催を協賛した十七の地域﹁連﹂の名とと

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もに 、 開催経費を負担したり進行役や書記役などをつとめた ﹁霞城連﹂のメンバー二十二名の狂歌号・狂歌名が記されてい る。    ︹雑費持︺ 松下窟安女・閑静菴花道・霞光楼春嶺・霞源洞 桃成・霞桐亭御代住・霞杏園天成・霞色亭千代 住・双柳堂糸風・花王館雲之・連城館玉石・森 竜亭歌成・霞鈴菴瑞籬・霞松菴琴音    ︹題搨持︺霞藤店繁成・仁熊堂長文・霞汀園亀楽    ︹書   記︺荷奔坊樽成・霞間亭不二成    ︹執   事︺ 霞秀亭天丸・霞星林華之・霞南林梅之・霞仙窟 天年   ﹁連﹂内には彼らの他に、号を持つに至らない入門者や初心 者もいたであろうから、それらの予備軍を含めれば、少なくと も三十人ほどの員数が﹁霞城連﹂に属したと考えられる。   千柳亭のもとに入る前には江戸の﹁浅草側﹂から指導を受け ていたとみられる﹁霞城連﹂のあった田尻は、域内でも有数の 狂歌の伝統を有する地であるから、他の﹁連﹂を凌駕する規模 を誇った。最大規模の地域﹁連﹂と考えるべきであろう。もと より、これをもって地域﹁連﹂構成員数の平均値とすることは できないが、ともかくも約三十人から構成される地域の﹁連﹂ の存在をこうして確認できるのである。   では、その他の一般的な﹁連﹂の構成員数はどれほどとする ことができようか。   次に用いるのは、千柳亭が師千秋庵の十三回忌を追悼すべく 文政九 1826年に開催した狂歌合である﹁千秋庵三陀羅翁十三回忌 追福古銭鑑狂歌合﹂ の ﹁広告﹂ ︵丸山一彦 ﹁文政期の狂歌合資料﹂ ︵﹃国語国文学論文集   川瀬博士古稀記念﹄ ︶所収︶である。   この狂歌合は千柳亭が継承者であることを誇示する意味合い から開いたものであるゆえに﹁選者﹂は千柳亭とその母千錦堂 がつとめ、仙台の狂歌人達も動員され、応分の役割を担った。 ﹁執事﹂として腕を振るったのは﹁柳絃亭唐琴・柳 䏿 林千条﹂ の二人。 ﹁千条﹂ は後に千柳亭から ﹁一葉﹂ 号を譲られる弟子 ﹁千 菊園千条﹂である。   ﹁補助、題摺持、番付・集冊・雑費持﹂と分担責任を負った 協賛者の顔ぶれ中には、千柳亭由来の﹁柳﹂と千錦堂の門弟で あることを示す﹁錦﹂の狂歌号を有する人物が多く、そうした 仙台の関係者総数はざっと見廻しただけでも三十人以上にのぼ る。その他にも千柳亭周辺にあって別格扱いを受ける﹁杜客   麻中園保世﹂といった狂歌人の参加もあった。   以上の、仙台の関係者以外で注目されるのが﹁岩ヶ崎連﹂で ある。同連からは実に九名が諸種経費負担者に名を連ねている からである。

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  こうした臨時の狂歌合の場合、 主催する ﹁連﹂ 関係者はこぞっ て名を連ね、それ以外の﹁連﹂からは代表者の一人もしくは二 人が名を連ねるのが一般的なありかたである。他を圧倒すべく 多人数が名を連ねたとすると、そこには何らかの理由があった とすべきである。准主催 ﹁連﹂ となることを目指すなどである。 この時の﹁岩ヶ崎連﹂がまさにそれである。   経費負担に突出した員数を動員した﹁岩ヶ崎連﹂からは﹁柳 湖 堂 唐 崎・柳 青 堂 玉 光・柳 蓑 亭 白 兼・柳 交 亭 山 盛・柳 古 亭 唐 峯・柳照庵松影・柳秋庵稲房・武士八十氏・下手染人﹂の九人 が﹁広告﹂に名を連ねた。そのうちの七人は狂歌号に﹁柳﹂字 を冠するから、千柳亭に由来する狂歌人である。残りの﹁武士 八十氏︵もののふのやそうじ︶ ・下手染人︵へたのそめうど︶ ﹂ と読むであろう二人は、職業に関連づけた一般名称的な狂歌名 を有するが系列を可視化するような狂歌号は持たない 。 し た がって、後者二人は入門から間もない狂歌人なのであろう。   本書﹃狂歌陸奥百歌撰﹄は六年前の﹁岩ヶ崎連﹂の詳しい所 在地を ﹁ 二ノ迫 ﹂ と明示し 、 六人の実名を記している 。﹁ 柳古 亭唐峯﹂こと﹁農夫圓蔵﹂がその構成員を代表する狂歌人だっ たようであるが 、﹁ 連 ﹂ には新陳代謝もあり若干のメンバー交 代をへて、ここに至ったのであろう。   そうした事情はともあれ、この﹁岩ヶ崎連﹂が狂歌号保持者 七人と、それに初心者二名を加えた最低九人から構成されてい たことが明らかになった 。 こ の約十人というのが 、 一般的な ﹁連﹂の構成員数と考えてよさそうである。そして、その中に は 、﹁ 判 者 ﹂ 格もしくは判者予備軍である ﹁ 都 講 ﹂ 格の狂歌人 がおり、その下に一般的な狂歌作者・初心者が属していたので ある。   以上から 、﹁ 仙台千秋 連﹂や﹁ 田尻霞城連 ﹂ のような大きな ﹁連﹂では三十人ほどが、その他の小規模な﹁連﹂では十人ほ どが構成員数の下限であるとの推察がなった 。 そうした大小 様々な﹁連﹂が現宮城県域内には概数で二十ほどあったのであ る。ほとんどの﹁連﹂の構成員を﹁岩ヶ崎連﹂程度であったと 考えた場合でも、その総人数は二百人を下らないのである。 ︵左図はそのうちの宮城県域に所在する﹁連﹂を地図におとし たものである。 ︵﹃文学﹄隔月刊第 8 巻 第 3 号より転載︶ 図1 仙台領主要「連」所在地図

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  七、仙台圏の狂歌享受層︵二 ︶   さて、千柳亭の門弟数を考える第二の素材は、名古屋市蓬左 文庫が所蔵する千柳亭の歿後一年目に開かれた追悼狂歌合の ﹁ 番 付 ﹂︵ 成績表 ︶ であり 、 それに類似するのが翌年に開かれ た千柳亭と師千秋庵、母千錦堂の追悼狂歌合をめぐる﹁番付﹂ である。   千柳亭一周忌を記念した狂歌の催し﹁千柳亭錦織綾彦/無何 有院柳翁離塵居士追福狂歌合﹂は、元治二 1865年五月五日に千柳 亭の妻﹁獨揺柳福子﹂が﹁催主﹂ ︵主催者︶となって持たれた。 ﹁ 兼 題 ﹂︵ 予告された歌 題︶は﹁ 雲間郭公 ﹂、 ﹁ 撰 者﹂は﹁千 楓 庵染好﹂がつとめた。この催しに参加した﹁詠人﹂の数は﹁番 付﹂が記すところによると﹁八百五十人﹂であり、 ﹁歌員﹂ ︵応 募作品数︶は総計﹁五千余首﹂であった。   この﹁番付﹂には居住地名を記さない歌人すなわち仙台在住 の狂歌人が九十人あまり見える。また、宮城県域内に居住し、 千柳亭の﹁千﹂や﹁柳﹂の文字を狂歌号・狂歌名に有する狂歌 人が三十人ほど存在する 。 したがって 、 主要な狂歌人でも 百二十人以上が千柳亭の直接の門弟と見なすことができそうで ある。   一般に 、﹁ 番付 ﹂ にあっては評点が低い者は狂歌号を持って いてもそれは表記されない。そうした省略表記者が門弟か否か の判断は難しい。ただし、狂歌名に﹁綾﹂の文字を含む門弟も 相当数存在し、仙台在住を示唆すべく地名表記が省略された作 者を何人かピックアップできる。関係者と見なしうる彼らを加 えると、上記﹁番付﹂からは百数十人が千柳亭配下の狂歌人と して算出されるのである。   ところで、翌慶応二 1866年五月五日には、千柳亭の三回忌の追 悼会が、 師千秋庵と母千錦堂の追悼会を兼ねて開催された。 ﹁千 秋庵三陀羅法師/千錦堂百綾大姉/千柳亭綾彦居士追福狂歌一 会﹂ である。 ﹁催主﹂ には一周忌同様に ﹁獨揺柳福子﹂ が就いた。 その際の﹁兼題﹂は﹁懐旧非一﹂ 、﹁撰者﹂は﹁千里臺天有﹂が つとめた 。﹁ 詠 人﹂は﹁ 七百余人 ﹂、 ﹁ 歌 員﹂は﹁ 二千百余首 ﹂ であった。前年の追福会に比べ規模がだいぶ縮小したが、師の 存命時からの時間の流れや幕末という時勢を考えると致し方な いところであろう。   その参加者中の六十八人ほどが仙台の狂歌人であった。そし て、前の﹁番付﹂と同様にして狂歌号から推察される宮城県域 における千柳亭の門下の狂歌人は仙台が七十人ほど、周辺地が 四十人ほどである。やはり百人を優に上回る関係者を数え上げ ることができるのである。   千柳亭が師千秋庵を追慕する狂歌合を開いた文政九年から文 政末年にかけて、現宮城県域内には少なくとも二百人以上が千

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柳亭のもとに属していた。それから千柳亭の歿する元治初年ま では約四十年にわたる。その間、絶えず二百人前後の門弟がい たとすると、 系列内の門弟数の総数は、 伝記に指摘された ﹁四千 人﹂に近づくと言ってもよさそうである。   現在の宮城県域の狂歌界は思いの外に隆盛だった。そして、 その隆盛は千柳亭を抜きにして考えることができないのである。   八、本書の活用   本書﹃狂歌陸奥百歌撰﹄が掲載する狂歌人百人のうち、仙台 の狂歌人は二十六人であり、なかには浅龍菴﹁奥細道﹂のごと く千柳亭の先輩格の人物も含まれる。一方、仙台を除く宮城県 域に居住する人物は二十六人おり 、 彼らの地域的な分布は金 成・中新田・二ノ迫・石ノ巻・米岡・松山・小鶴の七地域にわ たる。   その中には浅龍菴同様に千柳亭と並び立ち、独自に﹁連﹂を 構えた狂歌人も含まれるであろうから、単純な比較はできない が、本書作成から十一年後の文政十三 1830年に至ると、地域内の ﹁連﹂の数は倍以上になっている。また、田尻﹁霞城連﹂のよ うに千柳亭のもとに再編成された地域の﹁連﹂も少なくなかっ たであろう。   そうした﹁連﹂の世代交代などの諸事情を抱えつつも、本書 が作成された文政三 1819年以後、仙台領の狂歌人は着実に拡大し ﹁連﹂の数も拡大していった。   本書は、千柳亭が﹁陸奥﹂の狂歌界を編成する出発時の主要 な狂歌人しかも実名の判明する狂歌人たちの撰集である。彼ら のうちの幾人かについては、諸史料の応援を得て彼らの人とな りを明らかにできるが、多くはその実在も子孫の有無も未確認 である。   本書所載の﹁作者姓名居所分類﹂が明記する実名とその居住 地名を参考にしつつ彼ら狂歌人の足跡を辿るならば、福島県か ら岩手県南部にわたる地域の狂歌文化の実態への検証が大幅に 進展する。千柳亭が選んだ彼らの代表作の鑑賞ととも、そうし た伝記情報の活用がなされるならば幸いである。   参考文献    高 橋章則﹁ ﹃狂歌﹄が語る地域の歴史 −江戸時代の﹃大崎﹄ 文化 −﹂︵東北文化研究室紀要通巻第 48集︶    高 橋章則 ﹁十九世紀日本の ﹃狂歌﹄ −﹃連﹄ が編成する ﹃知﹄ と地域 −﹂ 文学隔月刊第 8 巻第 3 号 ︶    高 橋章則 ﹁﹃ 当座 ﹄ という歴史空間 −﹃ 狂 歌 ﹄ を歴史資源 化する −﹂︵江戸文学第 39号︶    高 橋章則﹁狂歌名﹃麻中園保世﹄こと国分町の紙商人﹃加

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藤直助﹄ ﹂︵仙台市史のしおり 26︶    高 橋章則﹁ ﹃俳諧歌︵狂歌︶ ﹄に見る近世一関の文化基盤﹂ ︵一関ふるさと学習院文化講座集録、第二編︶    高橋章則﹃江戸の転勤族 −代官所手代の世界 −﹄︵平凡社︶

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  翻  刻 ﹃狂歌陸奥百歌撰    全﹄ ︵題簽︶ 千柳亭主人編輯 狂歌画像みちのく百歌撰 此書はこの陸奥の狂歌に名ある百家の人の秀逸なり、各家の集 よりえり出せるなれは初学の人の見あはせにもなるべく、はた 四季や恋雑とさしまじりて人ごとに姿をさへ絵がきそへたれ ば、女子などの打見んにもよきもてあそび物なり、終りに人々 の俗称住所をさへしるしつけたるは、他国より折にふれて訪も し給はんためにもとてなり 仙臺書肆   芳  潤  館  ︵見返し︶ 五十四郡の人々をあつめて三十一字のされことをよます、その かす百にみちぬるは千柳亭のおもき功とそしられし、そも

かのわたりはこかね花さく山ありとこそきゝつたへしか、いか てかゝる詞の花はしもさきいてたりけん 、 いてやこの詞の花 よ、さかりことなる梅かゝをさくらの花ににほはせたりともい ふへかめるを、家の名にしもよひつけたる柳の枝にさかせたり しは、けにもこよなきみものにこそ、あはれいつこはあれと塩 かまのから丸ぬしのえらひなれは、なにかはいはてしのふへき と、たゝみやきのゝ露はかり、かゝる朽木のはしつくりして、 まかきのしまの嶌屋たよりにおくりつかはすことになん 六  樹  園    ︵序 1 ︶    奥細道   別号浅龍菴 不老門長生殿は何をしてくらしやすらんおそきはるの日 ︵1 ︶    狂歌菴鹿住 ひるほゆる犬ころ柳散てはまたすさましき冬の夜の月 ︵1 ︶

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   身廼立子 堀川の水せきいれし苗代に蛙や百首うたをよむらん ︵2 ︶    本場種彦   別号樅林亭 雲あしのはしるたに猶おそしとや風にのりくる夕たちの雨 ︵2 ︶    畠竹廣   別号洋々亭 ほとときす親のまねして卯の花の雪の中より告る一声 ︵3 ︶    四方白壁倉光 その け し き な み

ならすこ す も の ゝ なきは や よ ひ の 末 の ま つ 山 ︵3 ︶    広大寺無遍法師 此 身 を は 捨 て こ の み は なけれとも こ の み ひ ろ ふ は こ の みなり け り ︵4 ︶    六和園笑門 飛ほたる山の外にもみちのくのあふくま川にこかね花さく ︵4 ︶    越辺葉佐丸   別号錦著亭 梅は散さくらはまたきその中をつなく花田の青柳のいと ︵5 ︶    瓦石女 あはてのみなかき月日をすきはしのさき分られし君と我中 ︵5 ︶    虹橋長   別号霽々堂 盗人といひてとめはや隣なる梅か香そつと吹おくるかせ ︵6 ︶    酒恒道   別号壺清楼 夏かけて咲をしみれは桜花まことをく有みよしのゝ山 ︵6 ︶

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   水野往成   別号便里館 つくろはぬあしもまろやか稲妻はふみはたかりては入夕暮 ︵7 ︶    算盤玉丸   別号便時堂 沖の舟はしるめあてにならねとも一聲たかき山郭公 ︵7 ︶    霞春彦   別号曙菴 四 方 山を雪 の かくせ は かく すほと ふ ゆ の けしき の あら は れ に け り ︵8 ︶    六歌園多寄文数   初名奥細道又称吾披楼一名翠羽山人 扇にはなりはへれともゆふかほの花をもたせる朝の棚竹 ︵8 ︶    千錦堂百綾 蚤のくふ夜半の枕の草紙にはにくきものとそかきにけるかな ︵9 ︶    雄島磯道   別号壺舟楼 鶯の何を笑ふと下かけを見れは残りしゆきのみゝつく ︵9 ︶    道の早来   別号壺吟楼 ちはやふる神の御国の種なれや仏つくらぬ花のしらゆき ︵ 10︶    調唐琴   別号柳絃亭 強さ うに ふ ら ぬ さ き か ら み ゆ る なり 山を ゆり た す ゆ ふ た ち の く も ︵ 10︶    侭成改   緑千條   別号柳 䏿 林 汐をふくくしらに沖をけふらせて炭やき鯛のすむいせの海 ︵ 11︶    蓬直輔改   天齢保世   別号麻中園 五百丈月の桂の植処よく見立たりむさしのはら ︵ 11︶

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   桜愛雄   別号千嶺菴 ふた つ な き 山 とし い へ とし ら 雲 の う へ に もひと つ 冨 士 を え るか な ︵ 12︶    文山路   別号千歌林 から人にせめてそ夢にみせはやなうなはらにある松島の松 ︵ 12︶    袖飛車子   別号寵花楼 歌人にことはの花やひらかせん風の柳の雨降かこと ︵ 13︶    遠山住   別号壺南堂 けふといへは信濃のものも望月のこまにひかれて大内参 ︵ 13︶    水清住   別号錦堤堂 はるくれはいせかいたうも賑はしくのほる雲雀にくたる乙鳥 ︵ 14︶    梅香袖   別号錦蕾堂 恋の海ふかき思をはかりしれ書やる文の千尋もゝひろ ︵ 14︶    薗竹盛   別号六逸園 我はかり早起をすと朝顔の花に似合ぬ口のおほきさ ︵ 15︶    花案園   橘其葉   別号蒼生屋 狩人の帰るゆふへの秋風にふす猪のとこをかこふ穂薄 ︵ 15︶    秋風関盛   別号五字園 から衣月にうつよの邪魔なるはおのか袂とむら雲の袖 ︵ 16︶    筆道守 露のことまろめしうたのたんさくを花にもむすふ宮城のゝ萩 ︵ 16︶

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   花下菴   二本法師 たまされておきれは 䯰 き小夜中の月も水鶏やたゝきこみけむ ︵ 17︶    東流亭清人 布子から夏の衣のきそめとて帯のはしさへあそふ朔日 ︵ 17︶    東柳亭千枝女 なくこゑもけんこて春は子そたての観音草のめくむ野の雉子 ︵ 18︶    柳元子 世の中をかしましとおもふ心にはすみよかるらん耳なしの山 ︵ 18︶    御代住改東白面   別号暁菴 豊年を祝うて咲や秋のゝのかめの尾花に鶴のはきか枝 ︵ 19︶    山柴住   別号柳煙亭 秋の山いくら價をあたへけんさしにつないてかへる茸かり ︵ 19︶    望月丸   別号桂花園 花 の 下 駄 出 茶 やかみせ はさ も あ らはあ れ 霞 の ひま の な きよし の 山 ︵ 20︶    葉名色芳 そたちたるのへにもなれてゑのこ草しり尾をふれるやうなあき かせ ︵ 20︶    蜘舟守   別号柳葉堂 あし引の山とりの尾のなかきひを独かもねむはるさめのやと ︵ 21︶    酒屋益成 天かした治る御代のなかゝたなさして用無ものとこそなれ ︵ 21︶

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   金花園州廣 ゆきくれて火ともすかたを尋ぬれははるの隣の梅守か宿 ︵ 22︶    安積菴景住 すみた川花みし船はそのまゝに夏へ渡してはるやゆくらむ ︵ 22︶    夜語永喜   別号松濤館 穂薄の波にゆらるゝ夕月は金毘羅橋のかゝみなるらん ︵ 23︶    花魁亭魁 手不足ななつの山家は蚊遣火をそはからあふく門の桐のは ︵ 23︶    下紐関文 塩かまのしほしてつとにもてゆかん是そ姉はの松の魚とて ︵ 24︶    錦袖子 年礼の家の袖まてつきそうてとめるやうなる庭の梅か香 ︵ 24︶    磐手関主 仙人の虫干すらむいろ

のてはこへかけな木の葉衣を ︵ 25︶    前川月満   別号明道園 根岸へもねには帰らしさくらはな日暮みるもけふあすか山 ︵ 25︶    初夢鷹見   別号瑶光園 谷見ゝぬくらまの山の朝霞晴てきこゆる鶯の声 ︵ 26︶    秋楓亭真艶 吉原へかよへるそでの梅柳にほん堤の春の夕栄 ︵ 26︶

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   奥海潮道   別号竜門亭 高砂の舞にあはせて幾千とせいきをこめつゝふける横笛 ︵ 27︶    上水下見   別号上水亭 みよしのゝ山の紅葉はから綾にまさるやまとのにしきなりけり ︵ 27︶    国字金文   別号三冬堂 うすく ら き か ら の か ゝ み の 山 み れ は こ こ ろ と き め く 雪 の ゆ ふ く れ ︵ 28︶    篁真武   別号寅賓館 春風のふくみて匂ふ梅かゝは万金丹もなに及へき ︵ 28︶    千字唐文   別号対几堂 雨の後水のまされは鈴鹿川石もころ

なりてなかるゝ ︵ 29︶    天津御空   別号長閑房 千 と せふるこ ゝ ち こそ す れ 山の 端のま つ に か ゝ り て 落 ぬ日のか け ︵ 29︶    鬘唐輪   別号柳髪亭 こま下駄はとめて花みよあせみさく山桜が岡の女生酔 ︵ 30︶    盥星影   別号文笹林 伊勢同者二見かうらにこりとれは霞の衣もおく笠のうへ ︵ 30︶    海草苅安   別号藍臼舎 かすかのゝ若紫の春かすみかさは長閑に業平朝臣 ︵ 31︶    千丹二羽   別号清雲楼 涼しさのこのうへ越はなかりけり雲のみねよりはこふ山風 ︵ 31︶

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   千慮亭一得 くもの波に雪解の水やかよひけむ影もにこれる春の夜の月 ︵ 32︶    木百條   一号五地羅坊 珊瑚珠の玉か高野の毒水に欠懸りたる十六夜の月 ︵ 32︶    端午百草   別号錦露亭 名所の瀬田にくまなきこよひとて月にもなかき橋の人かけ ︵ 33︶    爰元久澄   別号田月亭   又称柴田屋 丈夫なる霧の筺や詰こんて柱につかふ野路のむら松 ︵ 33︶    鴫百羽   別号錦津堂 鶯の法華経を読功徳にやつみもたまらぬ春の沫ゆき ︵ 34︶    嶋臺亀成   別号浅蓬庵 実方の塚を尋る暑き日にすゝめと吹る笹の下風 ︵ 34︶    東雲朝雄喜   別号錦鶏亭 さみたれにまさるみかせは岩かとのたかきにうつる鶯の瀧 ︵ 35︶    十種音信   別号山寿亭 鶯の星月夜てふ鎌倉にゆきの下なる若葉をそ摘 ︵ 35︶    躬百成   別号錦葉亭 ともしせしあなたの峯を夕月の弓を背おうて下りる鴈金 ︵ 36︶    笠菅雄   別号春雨菴 心なく花をちきらはかくのこと柴戸にしはれあさかほのつる ︵ 36︶

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   鏡望丸   別雁音楼 初春のちそうは篭のうくいすにくはせてきかむ哥袋蜘 ︵ 37︶    秋菜亭近道 恋衣したてる時の仕付そはうはか口より引はしめけむ ︵ 37︶    隈川網代木   別号波枕園 影つなく雲のけもなくまはゆきは象の目に似しかたわれのつき ︵ 38︶    真柴舎澄   別号山月亭 鳴声はいつこと老も角なりに腰をそらしてきく遠のしか ︵ 38︶    老松福風   別号柳橙菴 南山とおなし命や石亀のことほく甲もかてぬ萬代 ︵ 39︶    藤唐峯   別号柳古亭 月と日をめくりて見れは暦より大小のある国の数々 ︵ 39︶    足元与呂人   別号柳眼堂 白妙は目に毒なからをさな子か粒真珠ほとつまむはつ雪 ︵ 40︶    宿元女   別号葎亭 射おとさん手つるもさらにきれにけり命をまとにかけて恋とも ︵ 40︶    鼎唐金   別号柳茅堂 旅萑とはかゝる身を云ならんとまりてはたち

︵ 41︶    初狩唐衣   別号柳翠菴 寝てきけは更行かねの八つ七つゆりおこさるゝ鈴虫のこゑ ︵ 41︶

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   片原縫女 みちのくの惣金入の山もやう紅葉衣に重ねてそみる ︵ 42︶    九折輔   別号錦屏堂 吹風に幟の鯉のはらめるは人間ならぬかみさいくかな ︵ 42︶    宝唐玉   別号柳沢 こゝのへの庭へと小松ひかるより都草てふ名やおひぬらん ︵ 43︶    友垣中澄   別号見月亭 こよみなき山家と春は卑下されす彼岸桜に種まきさくら ︵ 43︶    田子浦澄   別号南月亭 秋萩の枝より鹿のえたつのに緑むすひするせゝ鵞にのいと ︵ 44︶    浦菅丸   別号十府亭 ふとみれは筑山こしに又一つ遠やま色の垣の朝かほ ︵ 44︶    百薬亭長成 夕立の谷間へわたる支度にやさわくしらくも橋つくりして ︵ 45︶    小鶴池澄   別号壺靍楼 建かえし月宮殿か十三夜また造作の仕あからぬのき ︵ 45︶    蛙鳴亭畔住改豊御代住   別号直の屋 おのつから往来の人をとめ几帳出茶やの縁をかこふ梅かゝ ︵ 46︶    宝真寿靍 名物ののほりをたてゝ此夜比軒にならへるあやめ団子や ︵ 46︶

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   波風治   別号正木屋 浦風にむら雲の袖ほころひてかくせし月の落る海原 ︵ 47︶    花元住   別号自楽亭 埋木も浪の花さくみちのくのあふくま川の五月雨のころ ︵ 47︶    千代澄義   別号椿の屋 千代経へき松にたくへる柏木に霰は玉をかさりてそふる ︵ 48︶    六都花義   別号白鷺亭 炭をやく烟の外に又一ツくろ木を負るゆきの山かつ ︵ 48︶    峯松友   別号千緑亭 野遊はあたまつかへる人もなしかすみの棚の下てさわけと ︵ 49︶    桂一枝   別号鷦鷯居又称五城老一称呉山人 ほとゝきす籠の内にやかわれけん月宮殿の軒にしは鳴 ︵ 49︶    春風情   別号千路堂 恋病と星をさゝれて落しよりいよ

積も石となりけり ︵ 50︶    絲唐麿   別号千柳亭 神つ代のむかしもかくやすめるもの天へとのほる妹か羽このこ ︵ 50︶   作者姓名居所分類         おほむね里数の遠きをさきとし次第によらす         さて同しすみ所のは本集のすんにすへならへつ 春彦 白川 江戸屋茂右エ門 竹盛 同 橋本氏 其葉 同 斎藤啓輔 関盛 同 奥村栄吉

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白面 同 金子吉右エ門 御代住 同 太田屋佐七 元女 同 ■■■■■︵墨格、以下同じ︶ 長成 同 ■■■■■ 真寿靍 同 ■■■■■ 治 同 ■■■■■ 元住 白川 白木忠藏 花義 同 久下田屋伊兵衛 澄義 同 熊田儀右エ門 鷹見 会津若松 塚原忠藏 月満 同 前川栄吉 益成 郡山 柏屋清兵衛 州廣 同 太木屋武右エ門 景住 同 青木屋七太郎 笑門 二本松 ■■■■■ 縫女 同 後藤氏母 ︵ 51︶ 星影 八丁目 塩屋團七 亀成 同 穀屋与三郎 二本法師 川股 小林氏 清人 同 橋本清八 千枝女 同 ■■■■■ 苅安 シノブ 熊坂氏 鹿住 福嶋 ■■■■■ 立子 同 ■■■■■ 文数 同 横塚章司 網代木 同 京屋和吉 倉光 伊達 ■■■■■ 種彦 伊達伏黒 小野左右輔 竹廣 同 冨田七五郎 無辺法師 同 光臺寺住隆禅 永喜 同泉田 黒田太郎左エ門 魁 同 佐藤喜傳治 関文 同国見山梺 國分佐兵衛 関主 同停輿松 神主菊地筑後正 下見 桑折 久保理右エ門 金文 同 村松栄藏 唐文 同 完 戸徳太郎 ︵ 51︶ 真武 同 佐藤新右エ門 御空 桑折在坂町 観音寺住 往成 相馬 渡辺屋嘉兵衛 玉丸 同 近江屋治兵衛 清住 気仙盛 水野屋慶二

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一得 一ノ関 千葉新助 二羽 同 黒澤利右エ門 舟守 金成 熊谷壽安 朝雄喜 中新田 星屋弥市 音信 同 栄屋寓兵衛 百成 同 中嶋屋常藏 菅雄 同 笠原屋貞三郎 福風 二ノ迫 藤間随意軒 与呂人 同 堂崎郷右エ門 唐峯 同 農夫圓藏 唐金 同 農夫吉左エ門 唐衣 同 小木勇藏 唐玉 同 佐藤進 山路 石ノ巻 小野寺氏 飛車子 同 山路妻 百條 木戸氏 百羽 同 高橋小兵衛 松友 同 本田氏 ︵ 52︶ 百草 米岡 志村氏 葉佐丸 松山 阿部屋清藏 橋長 同 川田春安 色芳 同 久澄 小霍 農家久次郎 舎澄 同 柴田多源治 中澄 同 郷家竹藏 菅丸 同 同  官治 浦澄 同 高沢徳治 池澄 同 山口庸輔 細道 芳賀雄曽 石女 菊地屋某母 恒道 福原屋五郎治 百綾 唐丸母 磯道 紅屋久兵衛 早来 畠屋長兵衛 唐琴 伊藤直助 千條 同 常吉 保世 加藤直助 愛雄 高橋屋時雨吉 山住 七里氏 香袖 松屋利藏 ︵ 52︶ 道守 石田源三郎 元子 唐丸妻

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柴住 山田屋長吉 月丸 万屋太七 袖子 土屋某妻 真艶 松屋弥助 潮道 林玄友 唐輪 石川屋直吉 望丸 鴈金屋又兵衛 近道 熊田屋十兵衛 折輔 安倍屋庄藏 一枝 菊田休齋 風情 池田屋忠七 唐麿丸 錦織氏   仙臺   千柳亭主人編輯   同   東澤寫意   東澤    ︵ 53︶ 文政二年己卯十月發行          国分町十九軒   仙臺書肆   芳潤舘   池田屋源藏   梓 ︵ 53︶

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表紙

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序ウ

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1ウ

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2ウ

(38)

3ウ

(39)

4ウ

(40)

5ウ

(41)

6ウ

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7ウ

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8ウ

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9ウ

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10ウ

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11ウ

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12ウ

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13ウ

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14ウ

(50)

15ウ

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16ウ

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17ウ

(53)

18ウ

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19ウ

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20ウ

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21ウ

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22ウ

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23ウ

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24ウ

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27ウ

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29ウ

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32ウ

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42オ

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43ウ

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45ウ

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46ウ

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47ウ

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48ウ

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49ウ

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50ウ

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53ウ

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裏表紙

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︻改訂増補   作者姓名居所分類︼   検索の利便を考え、 ﹁作者姓名居所分類﹂を次のように改め再掲する。   ○狂歌名の上に狂歌号を冠する。別号がある場合は、先に掲げる。   ○地名表記の省略をしない。    ○掲載丁を括弧内に記す。 ︵曙庵・霞︶春彦 白川 江戸屋茂右エ門 ︵ 8オ︶ ︵六逸園・薗︶竹盛 白川 橋本氏 ︵ 15オ︶ ︵蒼生屋・橘︶其葉 白川 斎藤啓輔 ︵ 15ウ︶ ︵五字園・秋風︶関盛 白川 奥村栄吉 ︵ 16オ︶ ︵暁菴・東︶白面 白川 金子吉右エ門 ︵ 19オ︶ ︵直の屋・豊︶御代住 白川 太田屋佐七 ︵ 46オ︶ ︵葎亭・宿︶元女 白川 ︵ 40ウ︶ ︵百薬亭︶長成 白川 ︵ 45オ︶ ︵宝︶真寿靍 白川 ︵ 46ウ︶ ︵正木屋・波風︶治 白川 ︵ 47オ︶ ︵自楽亭・花︶元住 白川 白木忠藏 ︵ 47ウ︶ ︵白鷺亭・六都︶花義 白川 久下田屋伊兵衛 ︵ 48ウ︶ ︵椿の屋・千代︶澄義 白川 熊田儀右エ門 ︵ 48オ︶ ︵瑤光園・初夢︶鷹見 会津若松 塚原忠藏 ︵ 26オ︶ ︵明道園・前川︶月満 会津若松 前川栄吉 ︵ 25ウ︶ ︵酒屋︶益成 郡山 柏屋清兵衛 ︵ 21ウ︶ ︵金花園︶州廣 郡山 太木屋武右エ門 ︵ 22オ︶ ︵安積菴︶景住 郡山 青木屋七太郎 ︵ 22ウ︶ ︵六和園︶笑門 二本松 ︵4 ウ ︶ ︵片原︶縫女 二本松 後藤氏母 ︵ 42オ︶ ︵文笹林・盥︶星影 八丁目 塩屋團七 ︵ 30ウ︶ ︵浅蓬菴・嶋臺︶亀成 八丁目 穀屋与三郎 ︵ 34ウ︶ ︵花下菴︶二本法師 川股 小林氏 ︵ 17オ︶ ︵東流亭︶清人 川股 橋本清八 ︵ 17ウ︶ ︵東柳亭︶千枝女 川股 ︵ 18オ︶ ︵藍臼舎・海草︶苅安 シノブ 熊坂氏 ︵ 31オ︶ ︵狂歌菴︶鹿住 福嶋 ︵1 ウ ︶ ︵身︶立子 福嶋 ︵2 オ ︶ ︵六歌園・多寄︶文数 福嶋 横塚章司 ︵8 ウ ︶ ︵波枕園・隈川︶網代木 福嶋 京屋和吉 ︵ 38オ︶ ︵四方白壁︶倉光 伊達 ︵3 ウ ︶ ︵樅林亭・本場︶種彦 伊達伏黒 小野左右輔 ︵2 ウ ︶ ︵洋々亭・畠︶竹廣 伊達伏黒 冨田七五郎 ︵3 オ ︶ ︵広大寺︶無辺法師 伊達伏黒 光臺寺住隆禅 ︵4 オ ︶ ︵松濤館・夜語︶永喜 伊達泉田 黒田太郎左エ門 ︵ 23オ︶ ︵花魁亭︶魁 伊達泉田 佐藤喜傳治 ︵ 23ウ︶ ︵下紐︶関文 伊達国見山梺 國分佐兵衛 ︵ 24オ︶

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︵磐手︶関主 伊達国見停輿松 神主菊地筑後正 ︵ 25オ︶ ︵上水亭・上水︶下見 桑折 久保理右エ門 ︵ 27ウ︶ ︵三冬堂・国字︶金文 桑折 村松栄藏 ︵ 28オ︶ ︵対几堂・千字︶唐文 桑折 完戸徳太郎 ︵ 29オ︶ ︵寅賓館・篁︶真武 桑折 佐藤新右エ門 ︵ 28ウ︶ ︵長閑房・天津︶御空 桑折在坂町 観音寺住 ︵ 29ウ︶ ︵便里館・水野︶往成 相馬 渡辺屋嘉兵衛 ︵ 7オ︶ ︵便時堂・算盤︶玉丸 相馬 近江屋治兵衛 ︵ 7ウ︶ ︵錦堤堂・水︶清住 気仙盛 水野屋慶二 ︵ 14オ︶ ︵千慮︶一得 一ノ関 千葉新助 ︵ 32オ︶ ︵青雲楼・千丹︶二羽 一ノ関 黒澤利右エ門 ︵ 31ウ︶ ︵柳葉堂・蜘︶舟守 金成 熊谷壽安 ︵ 21オ︶ ︵錦鶏亭・東雲︶朝雄喜   中新田 星屋弥市 ︵ 35オ︶ ︵山寿亭・十種︶音信 中新田 栄屋寓兵衛 ︵ 35ウ︶ ︵錦葉亭・躬︶百成 中新田 中嶋屋常藏 ︵ 36オ︶ ︵春雨菴・笠︶菅雄 中新田 笠原屋貞三郎 ︵ 36ウ︶ ︵柳橙菴・老松︶福風 二ノ迫 藤間随意軒 ︵ 39オ︶ ︵柳眼堂・足元︶与呂人   二ノ迫 堂崎郷右エ門 ︵ 40オ︶ ︵柳古亭・藤︶唐峯 二ノ迫 農夫圓藏 ︵ 39ウ︶ ︵柳茅堂・鼎︶唐金 二ノ迫 農夫吉左エ門 ︵ 41オ︶ ︵柳翠菴・初狩︶唐衣 二ノ迫 小木勇藏 ︵ 41ウ︶ ︵柳沢・宝︶唐玉 二ノ迫 佐藤進 ︵ 43オ︶ ︵千歌林・文︶山路 石ノ巻 小野寺氏 ︵ 12ウ︶ ︵寵花楼・袖︶飛車子 石ノ巻 山路妻 ︵ 13オ︶ ︵五地羅坊・木︶百條 石ノ巻 木戸氏 ︵ 32ウ︶ ︵錦津堂・鴫︶百羽 石ノ巻 高橋小兵衛 ︵ 34オ︶ ︵千緑亭・峯︶松友 石ノ巻 本田氏 ︵ 49オ︶ ︵錦露亭・端午︶百草 米岡 志村氏 ︵ 33オ︶ ︵錦著亭・腰辺︶葉佐丸   松山 阿部屋清藏 ︵ 5オ︶ ︵霽々堂・虹︶橋長 松山 川田春安 ︵ 6オ︶ ︵葉名︶色芳 松山 ︵ 20ウ︶ ︵田月亭・爰元︶久澄 小霍 農家久次郎︵柴田屋︶ ︵ 33ウ︶ ︵山月亭・真柴︶舎澄 小霍 柴田多源治 ︵ 38ウ︶ ︵見月亭・友垣︶中澄 小霍 郷家竹藏 ︵ 43ウ︶ ︵十府亭・浦︶菅丸 小霍 同  官治 ︵ 44ウ︶ ︵南月亭・田子︶浦澄 小霍 高沢徳治 ︵ 44オ︶ ︵壺靍楼・小鶴︶池澄 小霍 山口庸輔 ︵ 45ウ︶ ︵浅龍菴・奥︶細道 仙台 芳賀雄曽 ︵ 1オ︶ ︵瓦︶石女 仙台 菊地屋某母 ︵ 5ウ︶ ︵壺清楼・酒︶恒道 仙台 福原屋五郎治 ︵ 6ウ︶ ︵千錦堂︶百綾 仙台 唐丸母 ︵ 9オ︶ ︵壺舟楼・雄島︶磯道 仙台 紅屋久兵衛 ︵ 9ウ︶

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︵壺吟楼・道の︶早来 仙台 畠屋長兵衛 ︵ 10オ︶ ︵柳玄亭・調︶唐琴 仙台 伊藤直助 ︵ 10ウ︶ ︵柳 䏿 林・緑︶千條 仙台 同  常吉 ︵ 11オ︶ ︵麻中園・天齢︶保世 仙台 加藤直助 ︵ 11ウ︶ ︵千嶺菴・桜︶愛雄 仙台 高橋屋時雨吉 ︵ 12オ︶ ︵壺南堂・遠︶山住 仙台 七里氏 ︵ 13ウ︶ ︵錦蕾堂・梅︶香袖 仙台 松屋利藏 ︵ 14ウ︶ ︵筆︶道守 仙台 石田源三郎 ︵ 16ウ︶ ︵柳︶元子 仙台 唐丸妻 ︵ 18ウ︶ ︵柳煙亭・山︶柴住 仙台 山田屋長吉 ︵ 19ウ︶ ︵桂花園・望︶月丸 仙台 万屋太七 ︵ 20オ︶ ︵錦︶袖子 仙台 土屋某妻 ︵ 24ウ︶ ︵秋楓亭︶真艶 仙台 松屋弥助 ︵ 26ウ︶ ︵竜門亭・奥海︶潮道 仙台 林玄友 ︵ 27オ︶ ︵鬘・柳髪亭︶唐輪 仙台 石川屋直吉 ︵ 30オ︶ ︵雁音楼・鏡︶望丸 仙台 鴈金屋又兵衛 ︵ 37オ︶ ︵秋菜亭︶近道 仙台 熊田屋十兵衛 ︵ 37ウ︶ ︵錦屏堂・九︶折輔 仙台 安倍屋庄藏 ︵ 42ウ︶ ︵鷦鷯居・五城楼・呉山人・桂︶一枝   仙台   菊田休齋 ︵ 49ウ︶ ︵千路堂・春︶風情 仙台 池田屋忠七 ︵ 50オ︶ ︵千柳亭・絲︶唐麿丸 仙台 錦織氏 ︵ 50ウ︶

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   既刊﹃東北文化資料叢書﹄の紹介 第一集   ﹃守山御日記﹄   近世武家資料   陸奥国守山藩 二〇〇六年 第二集   ﹃川渡温泉史料﹄近世地方史料   陸奥国玉造郡 二〇〇七年 第三集   ﹃船形山の民俗   吉田潤之介採訪資料﹄ 民俗資料   宮城県黒川郡大和町 二〇〇八年 第四集   ﹃石巻市梨木畑貝塚出土資料﹄   縄文土器基準資料 二〇〇九年   以上の既刊四集について、残部のあるものは希望者におわけしますので左記 にはがきにてお申し込み下さい。なお送料は着払いでご負担をお願いします。   ︿申込先﹀〒九八〇 −八五七六   仙台市青葉区川内二七 −一 東北大学大学院文学研究科東北文化研究室    東北大学機関リポジトリにおける公開 本叢書第一集∼第五集は、本学の学術研究成果を公開している東北大学機関リ ポジトリ︽ TOUR ︾で提供していますので、ご利用ください。 URL: http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/     東北文化資料叢書   第五集   近世文学資料       狂歌陸奥百歌撰       二〇一〇年三月三一日   発行 発   行  東北大学大学院文学研究科         東北文化研究室       代表者   花登   正宏       〒九八〇 −八五七六          仙台市青葉区川内二七 −一 編   集  高橋   章則 印 刷 所  ︵株︶東北プリント       〒九八〇 −〇八二二        仙台市青葉区立町二四 −二四

参照

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