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『二十八品并九品詩謌』についての諸問題

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定家は仁治二年八月二十日に榜下じているから、 その十三回忌は建長五年だったことになる。 亡父追善のため、 子為家がその年諸人に一品経歌を勧進したことは、 この詞担によって明らかで、 その折忠定は、 むかし歌の道で 競いあった定家の子孫が栄えているさまと我が身を較べ、 嘆いた懐旧一首をものしたのであ^ーた。

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一回忌の一品経歌がどんな内容のものだったかも、 また、 建長五年にそのような催しがあったという事実さえ も、 世に知られてはいないようである。 しかし、 池田家文庫「二十八品井九品詩語」が建長五年中の作品だとい 議忠定 定家卿十三年に、 前大納言為家、 唆しているのではあるまいか。 だが、 定家 前参

『二十八品井九品詩語』を発表したのは、 昭和旧十三年一月の『言語と文 芸』五十六号であった。 その当時、 本掛については、 研究はおろか、 殆どその存在すら知られない状況であった。 何ら研究の手掛りを持たぬ筆者は、 本歯を正確に翻刻するとともに、 それが為家・為氏父子を中心とする御子左家 閲係の歌人を集めた私的な法文和歌であることと、 作者の官位記戟によって、 多分建長五年の制作であろうという ことを明らかにするに止まった 0 ところが、 鉦者の発表の直後、 佐藤恒雄氏から次のような注目すべき見解が明ら かにされた。 この作品中の和歌は、 後の撰集に一首も入っていないから、 そちらから解明することもできないのであるが、 しかし『統古今梨』巻十六「哀船」部に収められている、 次のような詞書を伴った一 は、 本香の成立耶情を示 一品経歌とて人々にすAめ侍りけるつい に、 秋俄旧といふことを むかしわがつらねしそではくちはてAなみだにのこる秋のよの月(ご阻一}阻) 私が岡山大学池田家文廊本によって、

『二十八品井九品詩謡』匹ついての諸問題

赤 羽 学 2 5

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-のらしい。 故人追善の一品経歌にあっては、 うことと、 建長五年定家十三回忌に為家が一品経歌を勧進したというこ と、 この二つをならぺてみる時、 両者が (和歌史研究会会報=―十四号、 昭和四十四年八月) 右の推定は、 全く成立の瑣情を解朋し得なかった築 者に一筋の光明を与えてくれた。 殆ど盲目的 発表した翻刻で だけに、 それがこのような形で、 鎌倉時代の和歌史に一頁を加えるに至ったことは、 筆者の大きな喜びであ った 佐藤氏はまた、 当時の法文和歌の詠みようについて、 次のよ うなしきたりのあることを副えられた。 即ち、 「厳王品 は勧進者たる子が詠むのが普通 で、 子に支熙ある時は孫が詠んだも というのである。 本書の「厳王品」は、 子の為家ではなく、 孫の為氏がよんでいるが、 為氏は、 紛れもない直系の 孫で るか れが御子左家関係の催しであったことは確実である。 以上佐藤氏の推定 に全面的な賛意を表する ものである。 ここで全く思いつきであるが、 為氏 が父為家に代わって「厳王品」を詠んだ経緯について考えてみる と、 この法文和歌は、 名目的には為家の主宰したことになっているけれども、 実際には、 御子左家.の嫡流を称し、 二条家の始祖となった為氏が主宰したものではなかったろうか。 この年為家は、 た。為家は、 歌壇に対しては一応棟梁としての位屈を占めていたが、 家庭的には、 側室阿仏尼と共にあり、 家を 離れていたのである0 仮りに、 『和歌文学大辞典』によって、 為家と阿仏尼が一緒になっ た時期を徴すると、 為家 五十 オの頃、 阿仏尼一―-+オ頃かとある。 これは正しく この法文和歌勧進の時期に当たる。 もし為家 が名実共に主 宰者として、 亡父十三回忌の追筈和 を勧進したならば、 必ずや阿仏尼の意見を容れ、 もっと別の形になっ こと も考えられる。 為氏は、 弟の為教とも不仲であったと言われ、 阿仏尼の子の為相は、 まだ生れていなかったとはい え、 オ色兼備の阿仏尼に対しては、 ひそかに歌道の家を奪われまいとする警戒心を強めていたことであろう。 結びつく可能性は極めて大きいといえよう •9•I 五十六オ、.為氏は三十ニオであっ

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-26-史研究会会報四十八号、 昭和四十七年十二月)において、 この法文和歌の巻頭の無登義経の詩をよんだ前中納言経 「巻頭の詩・歌を近術家ゆ 光が近衛家の家人であったことから、 同じく近衛家の出である家良が巻頭の歌を詠み、 別の立場から、 前記藤原基家 を擬する説もある。安井久善氏は、 「二十八品井九品詩認の成立について」 (和歌 ような時にかれは、 自ら定家の嫡孫として「厳王品」を詠むことによって、 家における、 歌壇に おける自分の位置 確保をはかったのではあるまいか。.この追菩法要は、 御子左の本家であ る為氏の邸宅 で行なわれたものと想像さ れ、 為家がやや脇役であ るということは、 為家は阿仏尼と共に別宅を構えていたことの傍証になるかも知れない。 この法文和歌についての考察で、 築者が結論を控えたのは、 冒頭 の「無祉義経」 の和歌をよんだ「前内大臣」 誰かということであった。華者は初めこの人の官位が敢も高く、 かつ冒頭歌をよんでいるので、 この法文和歌の主 宰者ではないかと推定したが、 佐藤氏の指摘で誤り あること が判明した。 法華経二十八品に対して、 無盈義経は 開経と呼ばれ、 法華経読誦に先立って読まれ る。 これ 対して普緊経は、 結経と呼ばれ、 最後に読まれる。 こうし てみると、 無量義経の和歌を詠んだ前内大臣は、 主宰者ではなく、 故人に対して最も関係が深く、 しかも一座の尊 崇の的であるべき人物であっ たと 推定される。 筆者 は、.この前内大臣を世に衣笠内府と称される源原宕良ではないか と想定 た。 その理由は、 この法文和歌に は、 親子 ・兄弟等近親者の参加が多いと いう ことであって、 もしこ の前内大臣を家良とすると、 かれの兄縁空(藤 原基良)と一組になる。家良は、 前大納言忠良の二男 で、 定家 の愛顧を受け、 めとして、 『続後撰集』に十五首、 『新勅撰集』に七首取られたのを始 『続古今集』に二十六首というように、 代々の集に取られ、 新古今風を継承し た。 『続古今集』には、 藤原基家と共 撰者に推されたが、 功を遂げず、 文永元年七十三オで没した。 この法文和歌を定家卿十●二回忌追菩のものとする立場か らは、 前内大臣を家良とするのが最もふさわしいが、 2 7

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-有力となった。 その伝本の問題について次に述べようと思う。 り人が独占することはなかろう」という理由で、 この「前内大臣」を前掲膝原甚家ではないかという説を樹てら れた。 基家は九条家の出で、 後京極摂政良経の男、 道家の弟に当たる。 良経の子であったが、 定家と合わず、 勅撰集』に一首も取られなかった(和歌文学大辞典)。 もし前内大臣が甚家であったとすれば、 この法文和歌は、 安井氏の言われ るよ うに、 定家卿十三回忌追善和歌であった可能性はまずないと言わねばならない。 安井氏は、 定家の代わりに道家を考えられた。 道家はこの前年建長四年に死んでいるから、 うこと にな れについて安井氏は次のように述べられた。 またこの巻頭歌は、 わしの山ひらけもやらすとしへにし とあり、 単純な法文歌として解釈できなくはないが、 った基家自身を花になぞらえたもので、 花にさきたつみねの白雲 「わしの山 3 ● ., 0• としへにし花」は、 遂に出家入道しなか 「さきたつみねの白累」は、 光朋峰寺入道摂政と翠号され、 と呼ばれた「道家」のことをさしてい るのでは かるうか。 この説は、 巻頭歌の「みねの白猿」レ_「峰殿」 の一致に着目した鋭い指摘である が、 王品」を全く関係のない為氏が詠んだことについて十分な説明が なされていない。 かつ「峰殿」 やや穿ち過ぎの惑があり、「厳 以上のように、 前内大臣を誰とすべきかで、 家良。基家両説に分れるのであるが、 伝本調査の過程で、 家良説が 最初に述べたように、 筆者が池田家文庫本によって、 『二十八品井九品詩抵�』を発表した当時は、 全く他に伝本 が知られていなかった。 その後岩波魯店の『国祖総目録』の「に」の巻が出て、 それに よって該書は、 島原文庫と 慶応大学にそれぞれ所蔵されている こと が判明した。 島原文庫のものは、 池田家文庫調査の当時、 既に目録化され 一周忌追善和歌とい 『新

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-の御教示によれば 「ん」と 「も」は「ムnu」 「モno」で、 本来同じ仮名 」を用いていたのではないか 「とん」が「とも」、 「かりと」が「か りも」と なる。 記品 「幽」が「出」となる。 これは、 「出」が正しい。 解品 ていた のであるから、 築者が池田家本のみをみて .. 天下の孤本と考えたのは早計であった。 島原本は、 クテニ十八糎、 二十八品杵九品詩訴亀山院御宇 「亀山院御宇」という書付けは正しくない。建 なっている。 本書を建長五年とする銀者の立場からすると 長五年は、 後深草天皇の御宇であり、 亀山天皇はそれより六年 後の正元元年に即位しておられる。従ってこの題荼 内題は「二十八品斧九品詩祈」とあり、 池田家本に一致する。 但し池田家本は、 これに建治二年の『現存三十六 人詩歌』 合綴されており、 島原本にはこれがない。 また池田家本には、その両者を合わせたも のの最後に 条家為定卿箪蹟写之」という醤付があり、 島原本にはそれがない。 従って池田家本と 島原本は伝写の系路を異にす るものの如くである。 ョコニ十糎の大本で、題,谷に 島原本は、 全部で十五丁、 前後一丁ずつ白紙があ 付十三丁である。内容は、 池田家本と殆ど等しいが 箕花含露菩堤樹 祠」の字を脱落 遂斯朽宅幽離像 たちわかれひなのくもゐはかはるとんをなしなをこそかりとなくらめ 批義経 少の相違はある 。それを池田家本を元 にして挙げておく は後 人が当て推並で書い たものと思われる。 「とん」は誤写であり、 「とも」が正しい。大坪教授

一,

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-29-良頼朝臣 下中 茂範朝臣 下ヽヽ 俊国 在逍朝臣 中下 光国 中 上 公上経中 良 光 卿 卿 上} 経範卿 下上 長成卿 見られないものであった。 島原本との相違は微妙な筆遣いの所のみである。 経過一日観條始 「他」が「始」となる。 「地」は誤写。 島原本には 1 字脱落があった外は、 おおむね池田家本の誤写を正している。 しかし池田家本も相当に善良であり、 ところで、 島原本の特色は、 内容にあるのではなく、 末尾に付せられた作者一覧にある。 これは池田家本に全く (7) 上品下生 「かつや」が「まっゃ」となる。 「まっゃ」がよいか。 賢経 つゆしもとともにひをまつおいのな``、つもれるつみはかつやきえなむ 「かとし」の所「ことし」となぞっている。 「ことし」がよいか。 門品 「護」が「倣」となる。 0安楽行品 過現当尊皆衛護 「戯」は誤りか。 といわれる。 八条坊門局築の『唯心房集』 (閲戸家蔵)にも、 見る人のさしてたのミをかくるかなあまねきかとしならひなけれは 「も」と読むべき「ん」がしきりに用いられている。 30

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-良誤朝臣 良頼朝臣 経光卿

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経範卿 中上 公良卿 下上 長成卿 ここに掲げられた人名と、 本文に見える官位人名並びに九品詩歌のどのランクを詠んでいるかを対比してみる。 上中 前中納言経光 式部大輔経範 中上 式部権大軸公良 下上 従三位長成 小宰相 隆祐朝臣 中下 入道具親朝臣 中下 入道信実朝臣 下上 入道知家卿 中上 為家卿 上4. 家良公 成茂宿弥 行家朝臣 下ヽ‘ 入道光俊朝臣 下中 入道行能卿 上下 為氏卿 入道碁良卿 上中 已上非成業 入道隆衡卿 上下 入道季房 已上偕者 雅具卵 -

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31-為氏卿 中上 入追知家卿 上下 . 入 道行能卿 下上 入造信実朝臣 下中 入道光俊朝臣 中下 入道具親朝臣 下 ·2 行 家朝臣 中下 隆祐朝臣 入道 上中 家良公 甚良公 上; 為家卿 右衛督為氏 行能 入 遵 一拿饂 奮 性 中 上 上下 入道三位寂能 信実朝臣 下上 寂西 光俊朝臣 下中 真観 入道具親朝臣 中 � 如舜 下} 行家朝臣 中下 隆祐朝臣 民部卿為家 上上 入道前大納言縁空 上中 前内大臣 入遊隆衡孵 中上 雅 具 卿 上下 入逍季房 降衡 入道大納言寂空 中 t 権中納官雅具 下 浄 空 上 在章朝臣 下中 茂範朝臣 中下 光国 下 ぅ 俊国 在章朝臣 下中 茂範朝臣 中下 光国 下} 俊国 -32- ' ,

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I

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非成業 を指すかということである。平凡社の『大辞典』に、 七十ー。八月十六日出家。法号静空 いることから、 『公卿補任』建長元年に見える、 浄空につ て筆者は、 小宰相 記載の中で、 島原本の「中上雅具卿」は「中�雅具卿」の、 それぞれ誤りである。 「非成業」とは、 まだ得業生に及第しない人 「中下入道具親朝臣」は「中}入道具親朝臣」の 右の記載によって朋らかになってきたこと は、浄 空が「入道季房」であったこと、 前内大臣が「家良公」であっ たことである。この記載を信ずる限りにおいて、安井氏の説は不適当だということになる。 『言語と文芸』誌'上 翻刻において

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読史備要』の法号索引に藤原光俊の法号となって 従二位同(藤)光俊 と同一人ではないかという推測を述べておいた。 しかしこれは全く違うようである。この浄空の入道季房は、 成業」の最後に位撻するから、それ程身分の高い人とは思われない。稲本不美男氏の御教示によれば、 は、 大学寮の学生のその業を成就したものの謂である得業生を指し、 試験に及第せざること。落第。本朝文粋・六・文屋如正の諸上殊蒙二天恩ー、 9 五准先例ク、兼ヤ任式 部大輛話淑「雖二井成業之巖有千被J皿任ニ之例4,-と見えるように、 この「非 業」の烙印は、 あまり名誉なものではなかったらしい。従って、浄空こと入道季房が いかなる出自の人物であるか、 いまだに明らかにし得ない。『公卿補任』は勿論のこと、 相当する人物は見出し得なかった。 しかし浄空ひとりの素性が不明であっても、 島原本のこの書付は はいえない。浄空は身分が低かったため、 小宰相 成茂宿弥 「儒者」と 『雄卑分脈』にもそれに 不正確だと たまたま『尊卑分脈』に洩れたのであろう。詩の作者を儒者と非成業と 「非 ー3

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3-現存三十六人 に分けて記賊する如きは、 確かな根拠に甚づくものと思われる。 それで、 この記載を根拠に、 前内大臣を家良とす る立場はまず認められる。 脱応大学の所蔵する『二十八品井九品詩話』は、 二十 品千九品詩歌合綴一冊ロロ

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現存�二十六人詩欲 証口 古疵古了口 という題茶が貼られている。口の部分は、 文字がかすれて判読不明である。 包み紙には、 廿八品和歌 正二位権大納言為定卿 古筆古了仲鑑定添 と墨苔されている。 その中には、

と表善された鑑定滋がついている。 二十品和硲 また 糎ョコ十八"�二糎の漆塗の箱に入れられ、 その表に、 その付属研究所斯道文庫に収められている。 これは、 クテニ十 四 • 9 99・ ー3

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4-違がある。 次にそれを斯道文庫本を元にして掲げる。 明治十二年一月調記 初冬上句 黄金弐枚 午 正徳 古築 二条家為定卿 真痕無疑者也 これが果して信用できるかどう か、 斯道文郎の諸先生の話では、 為定まで遡ることは無理であろうとの鑑定であっ た。 それはと かく、 了仲の鑑定以後は、 為定箪で通ってき らしい。 それには、 次のような紙片が添わっている。 二条為定卿左中将為通卿之男也官至正二位権大納酋延文五年二月二日乾行年六十八歳延文五年ョリ明治十二年マ テ五百廿年之古掛ナリ 古筆了仲勘兵衛了任義子名守直称勘兵衛元文元年八月晦日没年八十一歳 うめのやさとひら(苔判) は、 明治初年の本歯の所蔵者や、 古築了仲の関歴などが知られて有益である。 宙はクテ十六糎ョコ十五・五糎 ほぽ正方形の粘葉装の冊子である。 丁であを後に同じ分症くらいの『現存三十六人詩苓一』が添わる。 以上のように斯道文庫本は、 為定までは遡り得ないまでも、 了仲 『二十八品杵九品詩話』の部分のみは九 ゅうに室町時代を下らぬ古写本である。 池田家文庫 「二条家為 卿箪娯写之」と奥に掛き付けているのを見ると、 これは、 浙道文庫本を古筆了仲の鑑定以後写し たものと思われる。 両者は、 表記。行替・文字の形・丁数に至るまで全く一致する。 しかし、 部分的にわずかな相 35

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-斯道文庫本「いまそ」と記し、 「ま」と「そ」の間に「こ」と傍記する。 ⑨下品下生 の陀羅尼品 遂斯朽宅出離鍛 「出」を池田家文庫本は「幽」に誤る。②化城喩品 寂西信家朝臣 →ー 道文庫本初め「家」と粛き、 消し て「実」と傍記。 池田家文庫本は「実」と記す。 たちわかれ ひなのくもゐはかはるとも をなしなほこそかりとなくらめ 「ま」がよいか。 池田家文庫本は「と も」 を「とん」に誤 る。原本に「も」は 「ん」に近い摺体で書いてある。

⑭宝塔品 むかしきくたまのとひらのひかりにそさしいる月もかけ をならふる 斯道文庫本初め・「の」と魯いて、 消して「く」と傍記。 池田家文庫本は初めから「く」と記す。 4ノ たまゆへにいてぬと見えてわたつ0みのなみのみなみの月そさやけき 斯道文庫本「つ」と「み」の間に0を入れて「う」と傍記 0 池田家文庫本は初めより「わたつうみ」と記す。 ⑱属裸品 斯道文庫本「果」を消したままにしてある。 池田家文庫本は「果」を消し「累」と傍記する。 るにあふちきり はよものくさ木口て みの りのは なやむすひそ めけん 斯道文服本「木」と「て」の間の一字消えて見え ない0 池田家文皿本「ま」島原本「に」。 ⑱上品下生 経過一日観娃始 池田家文庫本「始」を「祐」に誤る。 いま そはよAのむかしの やみはれて ひかけひとしきはなも見えけれ 以上のように、 斯道文庫本は、 誤写の所を、、、セ消チによって訂正補入している。 池田家文庫本は、 それ を初めから 伺提婆品 ⑱人記品

0

信解品

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-36-七四べ表六段二四行 正しく写している。 池田家文雌本に誤写された二か所は、 .写態度は忠実である。 これに付せられた『現存三十六人詩歌』は、 群書類従に収めら れて世に知られているが、 この為定筆本は貴重で り、翻刻校訂の要があると思われる。 これについては他日を期し、 今は触れない。 『二十八井九品詩益』は、 斯道文庫・池田家文庫•島原文庫の三本を得て、 ほぽ完全な姿を回復することができ だ。 これは、 その内容とか作品の価値というよりも、 そこに集った作者の顔ぶれからみて、 鎌倉中期の歌壇の趨勢 をうかがう珍しい査料であるという点で意義を有する。策者はそこまで立ち入る余力を持たないので、 伝本調査の 結果を報告して築を拙く。 伝本調査の結果、 を記しておく。

0

べ下三行 七ニペ上一三行 七ニベ上一七行 七三ぺ上一 七 行 七三べ上ニニ行 七四ぺ下一四行 大却↓六却 心浄↓以降 不伝春↓不待春 一日月↓一円月 教王品↓厳王品 忽深↓忽除 注ーニ↓注 l 三 長茂↓長成わずかな築遣いの違いであり、 概して池田家文庫本の筆 『言語と文芸』誌上に翻刻した本文に誤読・誤植が発見された。 それ 本稿をなすについては、 島原 文庫並びに斯道文庫の諸先生にお世話になっ た。 記して感謝 意を捧げる。 橘本不 美男氏には、 前回の翻刻の発表に斡旋をたまわり、 今回も種々御教示にあずかっ た。 本演料の和歌史的意義をいち 3 7

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-とあり、出家名が「寂因」 一、六の記邦)。初出の日の記事は除目 (寂円)である点、今入道名「浄空」と同一人物であるとは、 母正

i--(か二)位泰経女〔高階〕 季房 はやく解明された佐藤恒雄氏•井上宗雄氏・安井久菩氏に 敬意を表するものである 〔追記〕浄空が何者であるかについて、安井久善氏に御教示を求めたところ、次のようなお答えをいただいた。華 者も推定したように、浄空は、五位以下の下級の公卿であったために、 欠を『明月記』に補って、 安房守正五下 その中の季房から推定 したものであって、今 所考え得る最も妥当な線である。 出家寂因(因脇本前本閣本作円) 一往考えられない。 この季房の生存年代の推定は困難であるが、兄極衡の母が「平消盛女」とある点から推せば、ほぼ鎌倉初中期頃 と考えてよい。明月記には「季房」 という人物 が登場する(正血工記屯 脆揖で、正五位 下のと ころに記されてある。また「安房守季房」と記したところもある。明月記にあらわ れる下限 、究音元年サ f 一月二十九日の記事で、この年十一月十六日藻壁門院菌午子入内にあたっての役俊一覧を記し、その 中にみえており、この年までの生 存はほぼ確実。仮にこの季房の正五位下叙任を二十歳代前半とすれば、寛喜元 には五十栽代の前半となり、 ことになる また建長五年には七ホユ歳前後ということになり、二丁ハ品詩歌の とき、生存可能という 分脈では、他にこの時代に該当し、 しか 作詩可能な人物は他にみられないので、季房(浄空)をこの安房 守季 房とすぺきか。ただし 、前記の とおり、 入道名の不一致が問題になる。しかし、 入道名を何かの事情で改める例も 〔季房〕剪卑分脈魚名流、三男美作守末茂孫の条に、 『公卿補任』に記載がない。安井氏はこの -

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38-繁に現れる。 (本学助教授) るということは、 本詩歌に親子兄弟(妹)が 尚母 父泰経について若干つけ加 (-―九七) 姥久八年九月六日非参議正 i二位で出 家してい えれば、 考えるぺきか。 右の論拠から、 他に該当人物が見 出されぬ 無いではないから、 かぎり、 入道した当初寂因(円)と名乗ったこの季房を浄空その人と (-―八

i-_

この人は高階泰重の男、 寿永二年十一月二十八日非参議従三位で解官、 る。 この季房が本詩歌に入遂大納言寂空として登湯する隆衡の弟であ 多く参加しているという傾向にそうものである。 隆衡は明月記には頻必ずしもこれが同一人物でないとする論拠にはならない。 -3.9—

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